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Q 三中老を全て選べ A 生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏 Q 千利休の弟子「利休七哲」を全て選べ A 細川忠興・古田重然・芝山宗綱・瀬田正忠・蒲生氏郷・高山右近・牧村利貞 Q 五奉行に含まれた戦国武将を全て選べ A 浅野長政・石田三成・前田玄以・長束正家・増田長盛 Q 森蘭丸の兄弟を全て選べ A 森可隆・森長可・森坊丸・森力丸・森忠政 Q 合戦で使用された「武田家八陣」と呼ばれる陣形にあるものを全て選べ A 横陣・魚鱗・鶴翼・偃月・鋒矢・方円・長蛇・雁行・車掛 Q 千利休が任えた戦国大名を全て選べ A 織田信長・豊臣秀吉 Q 「美濃三人衆」の一人に数えられる武将を全て選べ A 稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全 Q 「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる戦国時代の武将を全て選べ A 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元 Q 藤堂高虎が築城・改修を手掛けた城を全て選べ A 宇和島城・今治城・津城 Q 「三好三人衆」に数えられた戦国武将を全て選べ A 三好長逸・三好政康・岩成友通 Q 「聚楽第」の遠構とされるものを全て選べ A 西本願寺飛雲閣・大徳寺唐門・妙覚寺大門・妙心寺播桃院玄関 Q 「毛利両川」と呼ばれた体制を作るべく子を送り込んだ家を全て選べ A 小早川氏・吉川氏 Q 「織田信長の四天王」に数えられる戦国武将を全て選べ A 柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀
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#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
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#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
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#ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 浅井家 藤堂高虎 とうどう たかとら レベル 55 7体 職業 陰陽師 合戦陣配置 浅井家・左後詰主将 戦闘開始時台詞 構成 名前 職種 レベル 初期付与 使用技 藤堂高虎 懐剣陰 55 ▲ 狂風、迅雷、術法剣、全体麻痺、蘇生・壱、後光、武運長久 浅井精兵 一刀侍 50 一所懸命 国友上級鍛治 鉄砲鍛 50 三段撃ち、陽動 伊吹山山伏 懐剣薬 50 防御呪詛・参、全体治療・参、蘇生・壱 竹生島神官 宝剣神主 50 神風、神雷、嵐撃・参、詠唱の韻・極、気合の韻・参、攻撃の韻・参、神の加護・参 甲賀中忍 一刀忍 50 神力両断・改、瞬殺閃、手裏剣乱射、水遁の術・極、土遁の術・極 徳勝寺高僧 懐剣僧 50 後光、完全回復、全体完全回復、仁王立ち、因果応報、冥護結界・弐 特徴・詳細 撃破すると宮部継潤、赤尾清綱を弱体化 安養寺氏種、宮部継潤撃破で最大5体まで弱体化 部隊アイテム 城普請心得 ドロップアイテム 小谷城普請絵図 武将列伝 与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守 父・藤堂源助虎高 室・一色修理大夫女、越前守連久(高連)女 子・藤堂高次、高重 養子・藤堂(丹羽)高吉 藤堂氏は、近江源氏の支流という説と、藤原氏の支流という説があるが、高虎自身は土豪の出身であり、足利時代、藤堂氏の祖である三河守景盛が将軍家に仕えて、近江国数村の領主となり、藤堂という名はここから興っている。 弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた藤堂源助虎高の次男として、近江国犬上郡藤堂村に生まれる。幼少の頃から並外れて力が強く、大柄であったと言い、8〜9歳の頃には大人の風格があり「勇力豪強士気壮武」と評された。 元亀元年(1570)、13歳(一説には15歳)の時に父と同じく長政に仕官し、姉川合戦に出陣している。初陣にして大手柄であったので、長政から賞賛されたと伝えられている。元亀3年(1572)に阿閉貞征に仕えた後、浅井氏が滅亡したため浪人したとも、その前に同僚の山本という侍と喧嘩をして殺してしまったから浅井氏を飛び出したとも言われるが、浅井家の滅亡後は、高島郡を支配する磯野員昌、織田信長の甥にあたる津田信澄と各家を歴任。信澄の許では丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て、母衣を許された。が、80石からの恩賞による石高加増が無いことに腹を立てて出奔。 天正4年(1576)に秀吉の弟、豊臣秀長に300石で拾われ、中国攻め、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦い、九州征伐や四国征伐にも従軍し、着実に戦功を上げていった。中でも中国攻めの一つ・播磨三木城攻略で「中国一の大力」と呼ばれた賀古六郎右衛門を討ち取る功で3000石を加増されるなど頭角を現し、1587年の九州征伐の後、紀伊国内で2万石を得る。また、1591年に秀長が没すると、その養子・秀保の後見人となって小田原征伐でも功を立てて大名に加えられ、正五位下、佐渡守に任じられた。 朝鮮征伐(文禄の役)でも活躍は目覚しく、秀保の代理として、水軍の李舜臣らと戦ったが、文禄4年(1595)、秀保が大和十津川で若くして溺死すると、責任を感じた高虎は高野山に登り、剃髪する。これを秀吉が呼び戻し、宇和島城7万石を与えている。この頃より高虎の築城の手腕が発揮され、宇和島城やこの後の今治の築城も名を知られている。 秀吉に仕えて再度、朝鮮に渡った折(慶長の役)には、巨済島における海戦で、元均率いる朝鮮水軍を殲滅し、日本水軍としてはじめて勝利。秀吉より感状を得て、伊予板島に8万石を与えられた。この間の秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近した。 慶長3年(1598)8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。同年、秀吉に禁じられていた無断婚姻を家康が勝手に行ったので、石田三成らが彼を大坂城に呼んで訊問し、もし反抗的な態度を取ったら即座に討ち取ろうという計画を立てていたのだが、これを察知した高虎が家康に密告をしたのだ。他にも江戸に弟の正高を人質として送るなど、徳川家に対して献身的に尽くす。 慶長5年(1600)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。この一連の行動により「風見鶏」などと揶揄されてはいるが、その甲斐あって合戦後、伊予今治20万石という、それまでの倍の領地を得る。また、江戸城改築などにも功があり、最終的には津(伊賀・伊勢8郡)藩22万石に加増された。他にも二条城の修築などで力を発揮し、慶長13年(1608)には豊臣家への抑えとして伊勢・津22万石に転封される。津に移封された高虎は伊賀上野と津城の改修をし、豊臣軍に備えた。 それ以後、高虎は家康を生涯の主として徹底的に尽くす。ある時、家康の病気見舞いに訪れた高虎に、『宗派が違うのであの世では会えない』と言うと、すぐに家康の宗派の天台宗に改宗している。外様大名にありながら側近として遇されるほど、家康の信頼はとても厚かった。 慶長20年(1615)の大坂の陣においては徳川方として大坂城へと参陣するも、この大坂の陣では、高虎は受難続きだった。ある日、徳川軍の陣中に迷いこんだ豊臣軍の兵が捕らえられるということが起こった。その兵がなんと豊臣秀頼から高虎宛てになっている手紙を持っており、「両将軍を大坂まで呼びよせたのは手柄であった。約束した功を立てれば望みのものを与えよう」というものだった。これはもちろん豊臣家の策略で、これを見抜いた家康が、「やくたいもないこと」と信じず何事もなく終わっている。だが、その他にも冬の陣では真田丸の攻撃に参加し、真田幸村らに散々に打ち負かされ(真田丸の攻防)、夏の陣では長宗我部盛親軍を撃破するも大損害を与えられる(八尾の戦い)という目に遭っている。しかし、その苦労が実を結び、大坂城が落城したのちに32万石に加増され、従四位下・右少将に叙せられる。元和2年(1616)に家康が亡くなる際に先陣となるように命じられた。 なお、高虎は築城技術や算術、外交に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる(この他に、伏見、和歌山、大坂、淀、郡山、膳所 (ぜぜ)、名古屋など、築城のみならず都市計画にまで才能を発揮している)。高虎の築城は石垣を高く積み上げることに特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。晩年は眼病を患って失明し、寛永7年(1630)10月5日、名言『精粗の判断は上が決せられる」を残して、75歳の生涯を閉じた。 法名・寒松院殿道賢高山権大僧都、津市寿町の寒松院に葬られた。 [出世] 紀州遠征・四国征伐の功で天正13年(1585)には1万石に出世。この頃から故郷の甲良大工を指揮して屋敷造営や築城を担当するようになる。九州征伐で死闘の末に島津軍を破った戦功で家中筆頭の紀伊粉河2万石までになった。主君・秀長没後は、養子の秀俊(秀保)の後見人となる。文禄の役に秀俊名代として出陣し、船奉行を務めたが、文禄4年(1595)に秀俊が没して主家が無嗣断絶すると、剃髪して高野山に隠棲。ところが、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉が「首に縄を付けてでも連れて来い」と呼び付け、伊予板島7万石の大名として復活する。慶長の役では水軍として活躍。減封される大名が多い中、秀吉に「手柄の段無類」と1万石を加増される。ちなみに秀吉死去による日本軍撤退の際には徳川家康の指名で現地からの収容役に任じられてる(ただし島津義弘の活躍で結局中止)。 [転身] 秀吉没後の時代を先読みした高虎は、いち早く家康に接近。自ら諜報役として働き、情報分析に努め家康の危急を度々救った。慶長4年(1599)、弟・正高を人質として江戸に送る。また、福島正則らに手を貸して石田三成を失脚させた。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、伊予今治20万石に加増。次いで、同10年(1605)に伊勢・津24万3000石に転封される。今治城はそのまま藤堂家の管轄に置かれたから、伊勢伊賀と伊予の離れた国主を任されたことになる。伊賀の忍者を召し抱え、家康の内意で有事の際の居城として伊賀上野城を大改修。当時最高の30mの高石垣を誇る堅城に仕立て上げて、大坂に備えている。この後起こる大坂夏の陣の直前に家康が「万一の時はそち(高虎)と上野で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根でもう一戦やらせよう」と言った逸話がある。 [準譜代へ] 大坂の陣には徳川軍として参戦。江戸・駿府の幕閣に次いで参謀に加えられた。敵の偵察も受け負う。冬の陣では大和口先鋒大将を務めた後に城南の谷町口と対峙するが、真田丸の攻防戦・谷町口の攻防戦に大敗する。しかし夏の陣でも井伊直孝(井伊直政の子息)とともに河内口先鋒を任され、八尾の戦いにて敵首788を挙げて長宗我部盛親を破る。天王寺・岡山の戦いでは秀忠麾下の前備となって敵首207を挙げた。戦後5万石を加増されるとともに従四位下・右少将に昇格する(家康は初め20万石を加増しようとしたが本多正信に止められた逸話がある)。家康からの信頼は高く「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」などの遺言は数多い。高虎も期待に応え、歴代将軍の良き相談相手となって幕藩体制の完成、朝廷との交渉など貢献した。元和3年(1617)3万石の加増で32万3千石となる。晩年眼病を煩い登城が困難になったが、家光は城内に真っすぐな廊下「藤堂廊下」を作ってやった。寛永7年(1630)死去。全身満身創痍で手の指も一部無くなっていた。日光東照宮には南光坊天海とともに高虎像が家康像の隣に並べられた。 [名築城家] また、高虎は近世城郭の名築城家としても著名である。自身の居城では、粉河・宇和島・大洲・今治・津・伊賀上野。普請奉行役では、赤木・和歌山・大和郡山・聚楽第・伏見(豊臣時代)・膳所 (ぜぜ)・伏見(徳川時代)・二条・丹波篠山・丹波亀山・江戸・駿府・名古屋・淀・大坂(徳川時代)など多数参加。城の縄張・城下町の設計を担当したことも多々あったという。ついでながら、家康廟として高名な日光東照宮の建立さえも高虎が携わっている。 [補足] 大坂の陣では負け運に取り付かれたのか、負けが多い。身長は約190cm、体重が110余kgあったとか(一応、現在の有名人では巨人の清原と同じくらいになる)。若い頃は短気で、同僚を斬って解雇された事があった。裏切者との評価が目立つが、「忠臣二君に仕えず」は、江戸時代に本格化した思想。戦国では勢いのある者に転身する方が絶対主流だった(厳密には一度も高虎は裏切りをしていないのだが・・・)。また、秀吉が惜しみ、家康が全幅の信頼を寄せる程の人物。世渡りだけの出世ではないだろう。意外な事は大正時代、高虎が赤十字の見本となった事である。なんでも、大坂の陣での敵味方の供養を目的に南禅寺に山門を寄進した行いからだそうで、従来のイメージとは遠いものがある様な気がする。敵を保護、助命した話も割とあったり名言集みたいなものを見ると、どうにも小物には思えないのである・・・。 情報募集中! 名前 コメント
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[部分編集] 艶 藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1010 防 1030 知 1110 LvMAX 攻 2020 防 2060 知 2220 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「ん、お餅あるけど食べる??」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「あなたとお餅はんぶんこして食べるのだ」 図鑑 ガチャ:艶 備考 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [武]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1120 防 1140 知 1230 LvMAX 攻 2230 防 2270 知 2450 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「高虎は気まぐれだから何処にでも行くのだ」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「高虎は気まぐれだけど……ついて来て欲しいのだ」 図鑑 ガチャ:艶 備考 2MAX 攻2634 防2682 知2894 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [断]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1230 防 1250 知 1350 LvMAX 攻 2926 防 2975 知 3212 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「堅牢な城を作ればそう簡単には負けないのだ!!」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「高虎のお城はあなたを守る為にあるのだ!!」 図鑑 ガチャ:艶 備考 3MAX 攻2926 防2975 知32124MAX 攻2988 防3038 知3280 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [七度主君]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1360 防 1380 知 1490 LvMAX 攻 2710 防 2750 知 2970 スキル [七度主君【土】] Lv1/4 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「こう見えても人を見る目はあるのだ!!」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「あなたは高虎の主君なのだ……もう変わらないのだ」 バレンタイン台詞 「あなたとちょこお餅をはんぶんこして食べて しあわせなのだ」 図鑑 ガチャ 備考 4MAX:攻 3205 防 3254 知 3514 コメント 名前
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藤堂高虎-一君に仕えず- 基本情報 フレーバーテキスト 未進化 + ++ 最終 セリフ集 参加イベント 参加ログインストーリー エキストラコンテンツ 基本情報 藤堂高虎 藤堂高虎+ 藤堂高虎++ [転身]藤堂高虎 能力値 能力値 能力値 能力値 スキル 創痍の誇り 関連家臣 [忠誠] 徳川家康[意見が割れる] 加藤清正 フレーバーテキスト 未進化 没落した領主の子として生まれ、その身一つで立身出世を繰り返す。幾度となく仕えるべき主君を変え、武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬとまで言い放っている。主君を変える際も後腐れの無い処理を行うので恨みを買う事も少ない「尽すべき主君を見誤れば如何なる努力も水泡へと帰すだろう、正当な働きと正当な対価、それが私の望むべきものだ」 + 武士として旗揚げした直後の高虎は働きに見合わぬ冷遇を受けており、この経験が高虎の武士としての在り方を決定づけている。己を認める主君に誠心誠意を尽くすが、働きに見合わぬ処遇を申しつける主君には相応の行動を取る、これが高虎の中で揺るがない絶対的な判断基準となっている「家、と言う概念は私の中でそれ程に重視しておらんのでな、全てはこの身一つで決まる事だ」 ++ 恵まれた体格を活かした戦働きもさる事ながら、築城において優れた手腕を発揮している。その背後には技術を学ぶため積極的に築城に参加した他、地元の石工集団との人脈を深めていった下準備が存在している「天然の要害との言葉があるだろう、あれを城作りに取り入れただけの話だ」 最終 現在は徳川家康の元に身を寄せ、その手腕を振るう藤堂高虎。全ては自らが置かれた状況や天下の情勢を踏まえ、己が天下を取る事は不可能と判断した上での行動である。有能な主君の元で功を重ね世に名を残すため、常に優秀な家臣、二番手であり続けようとしている「家康様が異界の地へ赴かれる以上、ここで後を追わずして何とするか」 セリフ集 マイページ(未進化) この程度の兜は人間界であればさほど珍しくは無いぞ家康様の命により参上仕った藤堂高虎と申す者だ、よろしく頼む別に私はやましい事はしておらん、好きに言わせておけばいい早速だがこの城の造りについて質問がある、どこで尋ねればよい? マイページ(中途進化) 財政事情が芳しく無いながらも正当な報償を出せるとはな、素晴らしい天下の取り合いに参加する程の器量は無いのでな、私なりのやり方で進めさせてもらうさそれにしても見事な城だ、この意匠はぜひ参考にさせて頂きたいこの兜の脇立が本物の耳だと勘違いする輩が多いのだ、妖魔とは純朴な心を持っているな私から見ればお前の尾の方がよほど作り物じみているのだがな驚かせたようならすまないが、この傷はどれもが私にとって大切な物なのだ人間界での遺恨は持ち込まぬとは言え、腹の底で抱えている者は多いと思うぞ時に(プレイヤー)よ、お前は餅が好きか?家臣ともども振舞ってやりたい店があるのだが マイページ(最終進化) どこぞで見かけた顔かと思えばあの加藤清正か、これも腐れ縁だな既に徳川の者も先行して入りこんでいたか……なに?単なる偶然だと?家康様の考えは私如きに理解出来る物では無い、この地では忠節に励むのみだ兎妖の連中も決して悪い奴らではないのだが、騙しているようで気が引けている……私は一人の君主のみならず、複数の君主に認められるような存在になりたいのだ人間界での遺恨は持ち込まぬとは言え、腹の底で抱えている者は多いと思うぞ時に(プレイヤー)よ、お前は餅が好きか?家臣ともども振舞ってやりたい店があるのだが私から見ればお前の尾の方がよほど作り物じみているのだがな驚かせたようならすまないが、この傷はどれもが私にとって大切な物なのだ天下の取り合いに参加する程の器量は無いのでな、私なりのやり方で進めさせてもらうさ バトル開始 家康様のご恩に報いるは今この時ぞさあ行け、妖魔が相手だろうと臆するな手本を見せてやろう、これが私の忠義だ!手柄が欲しくば我に続け! 進軍時 他愛も無いなこの巨躯を止められると思ったか?この程度なら私一人で十分だ家康様への忠義を示す! 参加イベント イベント名 参加ログインストーリー [[]] エキストラコンテンツ +...
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[部分編集] 艶 藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1010 防 1030 知 1110 LvMAX 攻 2020 防 2060 知 2220 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「ん、お餅あるけど食べる??」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「あなたとお餅はんぶんこして食べるのだ」 図鑑 ガチャ:艶 備考 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [武]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1120 防 1140 知 1230 LvMAX 攻 2230 防 2270 知 2450 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「高虎は気まぐれだから何処にでも行くのだ」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「高虎は気まぐれだけど……ついて来て欲しいのだ」 図鑑 ガチャ:艶 備考 2MAX 攻2634 防2682 知2894 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [断]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1230 防 1250 知 1350 LvMAX 攻 2926 防 2975 知 3212 スキル [一喝【土】Lv1/2] 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「堅牢な城を作ればそう簡単には負けないのだ!!」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「高虎のお城はあなたを守る為にあるのだ!!」 図鑑 ガチャ:艶 備考 3MAX 攻2926 防2975 知32124MAX 攻2988 防3038 知3280 ↓進化↓ [部分編集] 艶 [七度主君]藤堂高虎 レア #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (240x300)拡大画像 必要兵力 14 Lv1 攻 1360 防 1380 知 1490 LvMAX 攻 2710 防 2750 知 2970 スキル [七度主君【土】] Lv1/4 自分自身の攻防アップ 売却価格 両 コメント 「こう見えても人を見る目はあるのだ!!」幾度となく主君を変え、最終的に徳川十七将に名を連ねた築城の天才武将。 台詞 「あなたは高虎の主君なのだ……もう変わらないのだ」 バレンタイン台詞 「あなたとちょこお餅をはんぶんこして食べて しあわせなのだ」 図鑑 ガチャ 備考 4MAX:攻 3205 防 3254 知 3514 コメント バレンタイン台詞 「あなたとちょこお餅をはんぶんこして食べて しあわせなのだ」 -- 長宗 -- 長宗 -- 名前
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qma8vote top page @qma8voteことYRPのびた氏企画の"QMA8「このキャラといえば」"ログ置き場です。 ★twitterログ 2/2-2/9 (58) 2/13 (26) 2/14 (76) 2/15-3/2 (25) 3/28逃亡(アカウント削除) 善通寺 ★★ 注意 @qma8konochara氏とは別企画です。大変な失礼にあたるのでお間違えのないように。@qma8konochara氏の企画→(ttp //musasasa.sakura.ne.jp/qma8konochara/) @qma8vote及び@qma8konochara以外のユーザー名は伏せております。一通り確認しましたが漏れがありましたらテンプレ追加要望までご連絡下さい。 qma8voteに対するご意見は、発起人のYRPのびた氏内のコメント欄にてお願い致します。
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QMA用語集 Wikiで使われていたりプレイヤー間で使われたりしている用語をまとめたものです。情報の変更・間違い等があれば随時更新を。 容量制限の都合上、基礎編と応用編に分割されています。ただし、分類基準はややいい加減。 ほかによくわからない単語があれば2典Plusなどで聞く前に調べれば叩かれずに済みます。 用語集(基礎編) 用語集(応用編)