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廿二史箚記巻十七 226.新書增舊書處 227.新書增舊書有關係處? 228.新書增舊書瑣言碎事? 229.新書立傳獨詳處? 230.新書刪舊書處? 前頁 『廿二史箚記』 次頁 巻十六 新舊唐書 廿二史箚記巻十七 巻十八 新舊唐書
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廿二史箚記巻十六 219.舊唐書源委? 220.新唐書☆ 221.唐實録國史凡兩次散失 222.舊唐書前半全用實録國史舊本? 223.新唐書本紀書法? 224.新書本紀書安史之亂? 225.新書改編各傳? 前頁 『廿二史箚記』 次頁 巻十五 魏齊周隋書并北史 廿二史箚記巻十六 巻十七 新舊唐書
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廿二史箚記巻十八 231.新書改舊書文義處? 232.新書盡刪駢體舊文? 233.新書好用韓柳文? 234.新書詳載章疏? 235.新舊書互異處? 236.新舊書各有紀傳互異處? 237.新舊書誤處? 238.新舊書刻本各有脱誤處 前頁 『廿二史箚記』 次頁 巻十七 新舊唐書 廿二史箚記巻十八 巻十九 新舊唐書
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廿二史箚記巻十九 239.貞觀中直諫者不止魏徴? 240.時政記? 241.天子不觀起居注 242.唐諸帝多餌丹藥? 243.玄宗五代一堂 244.唐有兩上元年號☆ 245.德宗好爲詩? 246.褒貶前代忠奸 247.諡兼美惡? 248.唐追贈太子之濫? 249.帝號標后諡? 250.皇后哀冊尊稱 251.祔葬變禮? 252.諡后於廟 253.兩太后並稱☆ 254.皇太后不祔葬 255.建成元吉之子被誅☆ 256.沒入掖廷? 257.唐女禍? 258.武后之忍? 259.武后納諫知人? 260.改惡人姓名 261.朝賀近臣先行禮 262.大臣搜檢 263.度牒 前頁 『廿二史箚記』 次頁 巻十八 新舊唐書 廿二史箚記巻十九 巻二十 新舊唐書
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廿二史箚記巻二十 264.唐代宦官之禍? 265.中官出使及監軍之弊? 266.唐宦官多閩廣人 267.唐節度使之禍? 268.方鎮兵出境即仰度支供餽? 269.方鎮驕兵? 270.盜殺宰相有二事? 271.六等定罪三日除服之論? 272.間架除陌宮市五坊小使之病民? 273.豪宴 274.名父之子多敗德 275.李勣子孫☆ 276.安祿山執送京師之事? 277.睢陽殉節尚有姚誾 278.唐初三禮漢書文選之學? 279.唐古文不始於韓柳? 280.唐前後米價貴賤之數? 281.長安地氣? 282.黄巣李自成? 前頁 『廿二史箚記』 次頁 巻十九 新舊唐書 廿二史箚記巻二十 巻二十一 五代史
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唐書巻六十 志第五十 芸文四 丁部集録、其類三:一曰楚辞類、二曰別集類、三曰総集類。凡著録八百一十八家、八百五十六部、一万一千九百二十三巻;不著録四百八家、五千八百二十五巻。 王逸注楚辞十六巻 郭璞注楚辞十巻 揚穆楚辞九悼一巻 劉杳離騷草木蟲魚疏二巻 孟奧楚辞音一巻 徐邈楚辞音一巻 僧道騫楚辞音一巻 右楚辞類七家、七部、三十二巻。 趙荀況集二巻 楚宋玉集二巻 漢武帝集二巻 淮南王安集二巻 賈誼集二巻 枚乗集二巻 司馬遷集二巻 東方朔集二巻 董仲舒集二巻 李陵集二巻 司馬相如集二巻 孔臧集二巻 魏相集二巻 張敞集二巻 韋玄成集二巻 劉向集五巻 王褒集五巻 谷永集五巻 杜鄴集五巻 師丹集五巻 息夫躬集五巻 劉歆集五巻 揚雄集五巻 崔篆集一巻 東平王蒼集二巻 桓譚集二巻 史岑集二巻 王文山集二巻 朱勃集二巻 梁鴻集二巻 黄香集二巻 馮衍集五巻 班彪集三巻 杜篤集五巻 傅毅集五巻 班固集十巻 崔駰集十巻 賈逵集二巻 劉騊駼集二巻 崔瑗集五巻 蘇順集二巻 竇章集二巻 胡広集二巻 高彪集二巻 王逸集二巻 桓驎集二巻 邊韶集二巻 皇甫規集五巻 張奐集二巻 朱穆集二巻 趙壹集二巻 張升集二巻 侯瑾集二巻 酈炎集二巻 盧植集二巻 劉珍集二巻 楊厚集二巻 張衡集十巻 葛龔集五巻 李固集十巻 馬融集五巻 崔琦集二巻 延篤集二巻 劉陶集二巻 荀爽集二巻 劉梁集二巻 鄭玄集二巻 蔡邕集二十巻 応劭集四巻 士孫瑞集二巻 張邵集五巻 禰衡集二巻 孔融集十巻 潘勗集二巻 阮瑀集五巻 陳琳集十巻 張紘集一巻 繁欽集十巻 楊修集二巻 王粲集十巻 魏武帝集三十巻 文帝集十巻 明帝集十巻 高貴郷公集二巻 陳思王集二十巻 又三十巻 華歆集三十巻 王朗集三十巻 邯鄲淳集二巻 袁渙集五巻 応瑒集二巻 徐幹集五巻 劉楨集二巻 路粋集二巻 丁儀集二巻 丁廙集二巻 劉廙集二巻 呉質集五巻 孟達集三巻 陳群集三巻 王修集三巻 管寧集二巻 劉邵集二巻 麋元集五巻 李康集二巻 孫該集二巻 卞蘭集二巻 傅巽集二巻 高堂隆集十巻 繆襲集五巻 殷褒集二巻 韋誕集三巻 曹羲集五巻 傅嘏集二巻 桓範集二巻 夏侯霸集二巻 鍾毓集五巻 江奉集二巻 夏侯恵集二巻 毋丘倹集二巻 王弼集五巻 呂安集二巻 王昶集五巻 王肅集五巻 何晏集十巻 応瑗集十巻 杜摯集二巻 夏侯玄集二巻 程曉集二巻 阮籍集五巻 嵇康集十五巻 鍾会集十巻 蜀許靖集二巻 諸葛亮集二十四巻 呉張温集五巻 士燮集五巻 虞翻集三巻 駱統集十巻 曁豔集二巻 謝承集四巻 姚信集十巻 陸凱集五巻 華覈集五巻 胡綜集二巻 薛瑩集二巻 薛綜集三巻 張儼集二巻 韋昭集二巻 紀集二巻 晋宣帝集五巻 文帝集二巻 明帝集五巻 簡文帝集五巻 斉王攸集二巻 会稽王道子集八巻 彭城王集八巻 譙王集三巻 王沈集五巻 鄭袤集二巻 応貞集五巻 嵇喜集二巻 傅玄集五十巻 成公綏集十巻 裴秀集三巻 何禎集五巻 袁準集二巻 山濤集五巻 向秀集二巻 阮沖集二巻 阮侃集五巻 羊祜集二巻 賈充集二巻 荀勗集二十巻 杜預集二十巻 王濬集二巻 皇甫謐集二巻 程咸集二巻 劉毅集二巻 庾峻集三巻 正集一巻 楊泉集二巻 陶濬集二巻 宣騁集三巻 曹志集二巻 鄒湛集四巻 孫毓集五巻 王渾集五巻 王深集四巻 江偉集五巻 閔鴻集二巻 裴楷集二巻 何劭集二巻 劉寔集二巻 裴頠集十巻 許孟集二巻 王祜集三巻 王済集二巻 華頌集三巻 劉嶠集二巻 庾鯈集三巻 謝衡集二巻 傅咸集三十巻 棗據集二巻 劉宝集三巻 孫楚集十巻 王讚集二巻 夏侯湛集十巻 夏侯淳集十巻 張敏集二巻 劉許集二巻 李重集二巻 楽広集二巻 阮渾集二巻 楊乂集三巻 張華集十巻 李虔集十巻 石崇集五巻 潘岳集十巻 潘尼集十巻 欧陽建集二巻 嵇紹集二巻 衛展集十四巻 盧播集二巻 欒肇集五巻 応亨集二巻 司馬彪集三巻 杜育集二巻 摯虞集十巻 繆徴集二巻 左思集五巻 夏侯靖集二巻 鄭豊集二巻 陳略集二巻 張翰集二巻 陸機集十五巻 陸雲集十巻 陸沖集二巻 孫極集二巻 張載集二巻 張協集二巻 束集五巻 華譚集二巻 曹攄集二巻 江統集十巻 胡済集五巻 卞粋集二巻 閭丘沖集二巻 庾敳集二巻 阮瞻集二巻 阮修集二巻 裴邈集二巻 郭象集五巻 嵇含集十巻 孫恵集十巻 蔡洪集二巻 牽秀集五巻 蔡克集二巻 索靖集二巻 閻纂集二巻 張輔集二巻 殷巨集二巻 陶佐集五巻 仲長敖集二巻 虞浦集二巻 呉商集五巻 劉弘集三巻 山簡集二巻 宗岱集三巻 王曠集五巻 王峻集二巻 棗腆集二巻 棗嵩集二巻 劉琨集十巻 盧諶集十巻 傅暢集五巻 顧榮集五巻 荀組集二巻 周顗集二巻 周嵩集三巻 王導集十巻 荀邃集二巻 王敦集五巻 謝琨集二巻 張抗集二巻 賈霖集三巻 劉隗集三巻 応詹集五巻 陶侃集二巻 王洽集三巻 張闓集三巻 卞壼集二巻 劉超集二巻 楊方集二巻 傅純集二巻 郗鑑集十巻 温嶠集十巻 孔坦集五巻 王濤集五巻 王篾集五巻 甄述集五巻 王嶠集二巻 戴邈集五巻 賀循集二十巻 張悛集二巻 応碩集二巻 陸沈集二巻 曾集五巻 熊遠集五巻 郭璞集十巻 王鑑集五巻 庾亮集二十巻 虞預集十巻 顧和集五巻 范宣集十巻 張虞集五巻 庾冰集二十巻 庾翼集二十巻 何充集五巻 諸葛恢集五巻 祖台之集十五巻 李充集十四巻 蔡謨集十巻 謝艾集八巻 范汪集八巻 范甯集十五巻 阮放集五巻 王廙集十巻 王彪之集二十巻 謝安集五巻 謝万集十巻 王羲之集五巻 干宝集四巻 殷融集十巻 劉遐集五巻 殷浩集五巻 劉惔集二巻 王濛集五巻 謝尚集五巻 張憑集五巻 張望集三巻 韓康伯集五巻 王胡之集五巻 江霖集五巻 范宣集五巻 江惇集五巻 王述集五巻 郝默集五巻 黄整集十巻 王浹集二巻 王度集五巻 劉系之集五巻 劉恢集五巻 范起集五巻 殷康集五巻 孫嗣集三巻 王坦之集五巻 桓温集二十巻 郗超集十五巻 謝朗集五巻 謝玄集十巻 王珣集十巻 許詢集三巻 孫統集五巻 孫綽集十五巻 孔厳集五巻 江逌集五巻 車灌集五巻 丁纂集二巻 曹毗集十五巻 蔡系集二巻 李顒集十巻 顧夷集五巻 袁喬集五巻 謝沈集五巻 庾闡集十巻 王隠集十巻 殷允集十巻 徐邈集八巻 殷仲堪集十巻 殷叔獻集三巻 伏滔集五巻 桓嗣集五巻 習鑿歯集五巻 鈕滔集五巻 邵毅集五巻 孫盛集十巻 袁質集二巻 袁宏集二十巻 袁邵集三巻 羅含集三巻 孫放集十五巻 辛集四巻 庾統集二巻 郭愔集五巻 滕輔集五巻 庾龢集二巻 庾軌集二巻 庾蒨集二巻 庾肅之集十巻 王修集二巻 戴逵集十巻 桓玄集二十巻 殷仲文集七巻 卞湛集五巻 蘇彦集十巻 袁豹集十巻 王謐集十巻 周祗集十巻 梅陶集十巻 湛方生集十巻 劉瑾集八巻 羊徽集一巻 卞裕集十四巻 王愆期集十巻 孔璠之集二巻 王茂略集四巻 薄肅之集十巻 滕演集二巻 宋武帝集二十巻 文帝集十巻 長沙王義欣集十巻 臨川王義慶集八巻 衡陽王義季集十巻 江夏王義恭集十五巻 南平王鑠集五巻 建平王宏集十巻 又小集六巻 新渝侯義宗集十二巻 謝瞻集二巻 孔琳之集十巻 王叔之集十巻 徐広集十五巻 孔甯子集十五巻 蔡廓集十巻 傅亮集十巻 孫康集十巻 鄭鮮之集二十巻 陶潜集二十巻 又集五巻 范泰集二十巻 王弘集二十巻 謝恵連集五巻 謝霊運集十五巻 荀昶集十四巻 孔欣集十巻 卞伯玉集五巻 王曇首集二巻 謝弘微集二巻 王韶之集二十巻 沈林子集七巻 姚濤之集二十巻 賀道養集十巻 衛令元集八巻 褚詮之集八巻 荀欽明集六巻 殷淳集三巻 劉瑀集七巻 劉緄集五巻 雷次宗集三十巻 宗炳集十五巻 伍緝之集十一巻 荀雍集十巻 袁淑集十巻 顔延之集三十巻 王微集十巻 王僧達集十巻 張暢集十四巻 何偃集八巻 沈懐文集十三巻 江智淵集十巻 謝荘集十五巻 殷琰集八巻 顔竣集十三巻 何承天集二十巻 裴松之集三十巻 卞瑾集十巻 丘淵之集六巻 顔測集十一巻 湯恵休集三巻 沈勃集十五巻 徐爰集十巻 鮑照集十巻 庾蔚之集十一巻 虞通之集五巻 劉愔集十巻 孫緬集十巻 袁伯文集十巻 袁粲集十巻 斉竟陵王集三十巻 褚淵集十五巻 王倹集六十巻 周顒集二十巻 徐孝嗣集十二巻 王融集十巻 謝朓集十巻 孔稚珪集十巻 陸厥集十巻 虞羲集十一巻 宗躬集十二巻 江奐集十一巻 張融玉海集六十巻 梁文帝集十八巻 武帝集十巻 簡文帝集八十巻 元帝集五十巻 又小集十巻 昭明太子集二十巻 邵陵王綸集四巻 武陵王紀集八巻 范雲集十二巻 江淹前集十巻 後集十巻 任昉集三十四巻 宗夬集十巻 王暕集二十巻 魏道微集三巻 司馬褧集九巻 沈約集一百巻 又集略三十巻 傅昭集十巻 袁昂集二十巻 徐勉前集三十五巻 後集十六巻 陶弘景集三十巻 周捨集二十巻 何遜集八巻 謝琛集五巻 謝郁集五巻 王僧孺集三十巻 張率集三十巻 楊眺集十巻 鮑畿集八巻 周興嗣集十巻 蕭洽集二巻 裴子野集十四巻 庾曇隆集十巻 陸倕集二十巻 劉之遴前集十一巻 後集三十巻 虞集六巻 王冏集三巻 劉孝綽集十二巻 劉孝儀集二十巻 劉孝威前集十巻 後集十巻 丘遅集十巻 王錫集七巻 蕭子範集三巻 蕭子雲集二十巻 蕭子暉集十一巻 江革集十巻 呉均集二十巻 庾肩吾集十巻 王筠洗馬集十巻 又中庶子集十巻 左右集十巻 臨海集十巻 中書集十巻 尚書集十一巻 鮑泉集一巻 謝瑱集十巻 任孝恭集十巻 張纘集十巻 陸雲公集四巻 張綰集十巻 甄玄成集十巻 蕭欣集十巻 沈君攸集十二巻 後梁明帝集一巻 後魏文帝集四十巻 高允集二十巻 宗欽集二巻 李諧集十巻 韓宗集五巻 袁躍集九巻 薛孝通集六巻 温子昇集三十五巻 盧元明集六巻 陽固集三巻 魏孝景集一巻 北斉陽休之集三十巻 邢邵集三十巻 魏收集七十巻 劉逖集四十巻 後周明帝集五十巻 趙平王集十巻 滕簡王集十二巻 宗懍集十巻 王褒集二十巻 蕭撝集十巻 庾信集二十巻 王衡集三巻 陳後主集五十五巻 沈炯前集六巻 後集十三巻 周弘正集二十巻 周弘讓集十八巻 徐陵集三十巻 張正見集四巻 陸珍集五巻 陸瑜集十巻 沈不害集十巻 張式集十三巻 褚介集十巻 顧越集二巻 顧覧集五巻 姚察集二十巻 隋煬帝集三十巻 盧思道集二十巻 李元操集二十二巻 辛徳源集三十巻 李徳林集十巻 牛弘集十二巻 薛道衡集三十巻 何妥集十巻 柳顧言集十巻 江総集二十巻 殷英童集三十巻 蕭集九巻 魏澹集四巻 尹式集五巻 諸葛潁集十四巻 王冑集十巻 虞茂世集五巻 劉興宗集三巻 李播集三巻 道士江旻集三十巻 僧曇諦集六巻 恵遠集十五巻 支遁集十巻 恵琳集五巻 曇瑗集六巻 霊裕集二巻 亡名集十巻 曹大家集二巻 鍾夫人集二巻 劉臻妻陳氏集五巻 左九嬪集一巻 臨安公主集三巻 范靖妻沈滿願集三巻 徐悱妻劉氏集六巻 太宗集四十巻 高宗集八十六巻 中宗集四十巻 睿宗集十巻 武后垂拱集一百巻 又金輪集十巻 陳叔達集十五巻 竇威集十巻 褚亮集二十巻 虞世南集三十巻 蕭瑀集一巻 沈斉家集十巻 薛收集十巻 楊師道集十巻 庾抱集十巻 孔穎達集五巻 王績集五巻 郎楚之集三巻 魏徴集二十巻 許敬宗集八十巻 于志寧集四十巻 上官儀集三十巻 李義府集四十巻 顔師古集六十巻 岑文本集六十巻 劉子翼集二十巻 殷聞礼集一巻 陸士季集十巻 劉孝孫集三十巻 鄭世翼集八巻 崔君実集十巻 李百薬集三十巻 孔紹安集五十巻 高季輔集二十巻 温彦博集二十巻 李玄道集十巻 謝偃集十巻 沈叔安集二十巻 陸楷集十巻 曹憲集三十巻 蕭徳言集二十巻 潘求仁集三巻 殷芋集三巻 蕭鈞集三十巻 袁朗集十四巻 楊続集十巻 王約集一巻 任希古集十巻 凌敬集十四巻 王徳倹集十巻 徐孝徳集十巻 杜之松集十巻 宋令文集十巻 陳子良集十巻 顔顗集十巻 劉穎集十巻 司馬僉集十巻 鄭秀集十二巻 耿義褒集七巻 楊元亨集五巻 劉綱集三巻 王帰一集十巻 馬周集十巻 薛元超集三十巻 高智周集五巻 褚遂良集二十巻 劉禕之集七十巻 郝処俊集十巻 崔知悌集五巻 李安期集二十巻 唐覲集五巻 張大素集十五巻 鄧玄挺集十巻 劉允済集二十巻 駱賓王集十巻 盧照鄰集二十巻 又幽憂子三巻 楊炯盈川集三十巻 王勃集三十巻 狄仁傑集十巻 李懐遠集八巻 盧受采集二十巻 王適集二十巻 喬知之集二十巻 蘇味道集十五巻 薛耀集二十巻 郎余慶集十巻 盧光容集二十巻 崔融集六十巻 閻鏡機集十巻 李嶠集五十巻 喬備集六巻 陳子昂集十巻 元希声集十巻 李適集十巻 沈佺期集十巻 徐彦伯前集十巻 後集十巻 宋之問集十巻 杜審言集十巻 →巻六十 志第五十つづき
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『廿二史箚記』wikiへようこそ このページは、趙翼『廿二史箚記』の日本語訳と校訂作業をおこなっているページです。 このページは、誰でも自由に編集することができます。 現在試行中です。 『廿二史箚記』翻訳・校訂作業中テキスト 廿二史箚記小引☆ 巻一 史記漢書 巻二 史記漢書 巻三 史記漢書 巻四 後漢書 巻五 後漢書 巻六 三國志 巻七 三國志晉書 巻八 晉書 巻九 宋齊梁陳書 巻十 宋齊梁陳書并南史 巻十一 宋齊梁陳書并南史 巻十二 宋齊梁陳書并南史 巻十三 魏齊周隋書并北史 巻十四 魏齊周隋書并北史 巻十五 魏齊周隋書并北史 巻十六 新舊唐書 巻十七 新舊唐書 巻十八 新舊唐書 巻十九 新舊唐書 巻二十 新舊唐書 巻二十一 五代史 巻二十二 五代史 巻二十三 宋遼金史 巻二十四 宋史 巻二十五 宋史 巻二十六 宋史 巻二十七 遼史金史 巻二十八 金史 巻二十九 元史 巻三十 元史 巻三十一 明史 巻三十二 明史 巻三十三 明史 巻三十四 明史 巻三十五 明史 巻三十六 明史 注意事項 『廿二史箚記』wiki内のコンテンツは、すべてGFDLに基づき配布されます。
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進唐書表 臣、曾公亮が申し上げます。ひそかに思うに唐に天下があったのは三百年になろうとし、その君臣の行事の始終、治乱興衰の痕跡、その法律制度の俊英、それは燦然として著われて簡冊となっています。しかし紀年法に決まりはなく、詳述・略述は的外れで、文采は明らかではなく、事実は抜け落ちており、思うにまた百五十年あまりたったなら、その後は泡が弾け飛ぶようになってしまいます。闕亡を補い、誤りを正しくし、よく一家の史に備えれば、万世の伝となるでしょう。これをつくるのは困難で、理を待つようなものです。 臣、曾公亮、誠惶誠恐、頓首頓首。伏しておもんみるに体天法道欽文聡武聖神孝徳皇帝陛下(北宋の仁宗)、虞・舜の智があって人に教えを請うのに勤められ、大禹の聖を身としてよく勤められたので、天下は平和となり、民物は安楽となっています。しかしなおも関心を積み重ねられ、治要を求め、日々博学の士とともに古きを学ばれて六経を講誦され、商・周以来の前代の故実を学ばれること、国のために長く久しくなされてきました。ただ漢と唐、そして不幸にも当朝は五代に接しています。世を衰えさせる士、気力は卑弱で、言は浅薄で意はいやしく、それだけでは文を起こすには物足りませんが、明君賢臣の偉大な功績、それと愚かで惨たらしい賊の叛乱、禍根の首謀者は、その善悪を暴いても人の耳目を動かすことはできず、本当に勧戒を垂れることができず、遠い過去を示すことは非常に嘆かわしいことなのです。そこで近臣の発言や、適宜皇帝の心にかなって勤めるところです。ここに刊修官翰林学士兼龍図閣学士・給事中・知制誥臣の欧陽修、端明殿学士兼翰林侍読学士・龍図閣学士・尚書吏部侍郎臣の宋祁、編修官礼部郎中・知制誥臣の范鎮、刑部郎中・知制誥臣の王疇、太常博士・集賢校理臣の宋敏求、秘書丞臣の呂夏卿、著作佐郎臣の劉羲叟らは、並んで儒学の選を受け、ことごとく秘府の蔵書をあばき、これを討論させ、共に刪定を加えることおよそ十七年あまり、二百二十五巻が完成しました。その事績は前のよりも増やし、その文章は旧よりも簡潔にしました。名篇・著目に到っては、改めているのには理由があり、立伝紀実は、あるものは増やし、あるものは減らし、文章事物の凡例は、すべて典拠があります。詳細な項目は、具さに別録に載せています。臣曾公亮はこの事業の主幹となり、いたずらに日月を費やし、本当に大典をなし得るには力不足ですが、英明なる詔を称揚し、慚愧にたえず、恐懼のあまり汗を流して恐れ恥ずかしい限りです。臣、曾公亮、誠惶誠懼、頓首頓首謹言。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十五下 列伝第一百五十下 『新唐書』進唐書表
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唐書巻六 本紀第六 肅宗 代宗 肅宗文明武徳大聖大宣孝皇帝は、諱を亨といい、玄宗の第三子である。母は元献皇后楊氏といった。初めの名を嗣昇といい、陜王に封ぜられた。 開元四年(716)、安西大都護となった。性は仁孝で、学問を好み、玄宗はかれを最も愛して、賀知章・潘肅・呂向・皇甫彬・邢璹らを側近として侍読させた。 十五年(727)、名を浚とあらため、忠王に徙封され、朔方節度大使・単于大都護となった。 十八年(730)、奚・契丹が辺境を寇すと、肅宗を河北道行軍元帥とし、御史大夫李朝隠ら八総管の兵十万を派遣してこれを討伐させた。前線にあること二年、李朝隠らが奚・契丹を范陽の北で破り、肅宗は統帥の功により司徒に遷された。二十三年(735)、また名を璵とあらためた。 二十五年(737)、皇太子李瑛が廃されて死ぬと、明年、立って皇太子となった。官吏が冊礼を行うと、その儀に中厳・外辦があり、その服は絳紗であった。太子は「これは天子の礼である」といった。そこで公卿に下して議論させた。太師の蕭嵩と左丞相の裴耀卿が「外辦」を改めて「外備」とし、絳紗の衣を朱明の服とするよう請願したので、これに従った。二十八年(740)、また名を紹とあらためた。天宝三載(744)、また名を亨とあらためた。 安禄山が来朝すると、太子はかれに反相があると知り、罪によりこれを処刑するよう請願したが、玄宗は聞き入れなかった。安禄山はそむいた。 十五載(756)、玄宗が賊を避け、行して馬嵬に至り、父老が道を遮り太子を留めて賊を討たせるよう請うと、玄宗はこれを許して、寿王李瑁および内侍の高力士を派遣して太子を諭すと、太子はそこで帰還した。六月丁酉、渭北の便橋に到達したが、橋は絶たれており、水浜の居民を募ると三千人あまりを得て、渡りきることができた。潼関の敗残兵に遭遇し、賊となっていたから戦ったが、負傷する者が多く、発覚するまでにその他の者を収容して渡り、後軍の多くは水没した。夕方に永寿県に行き、吏民はしばしば牛酒を献上しに来た。新平郡太守の薛羽・保定郡太守の徐は賊が到達しようとしているときいて、皆城を捨てて逃げた。己亥、太子は保定に行き、薛羽・徐を捕らえて斬った。辛丑、平涼郡に行き、牧馬牛羊を得て、兵は始めて勢いを取り戻した。朔方留後支度副使の杜鴻漸・六城水陸運使の魏少游・節度判官の崔漪・支度判官の崔簡金・関内塩池判官の李涵・河西行軍司馬の裴冕が朔方で太子を迎えて兵を治めた。庚戌、豊寧に行き、大河が険しいのを見て、ここで守ろうとしたが、たまたま大風が吹いたから、霊武に帰還した。 七月辛酉、霊武に到着した。壬戌、裴冕らが皇太子に皇帝の位につくよう請願した。甲子、霊武で皇帝の位につき、皇帝を尊んで上皇天帝といい、大赦し、至徳と改元した。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老に太守・県令を授けた。裴冕が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲戌、安禄山が扶風を寇し、太守の薛景仙がこれを破った。 八月辛卯、張巡が安禄山の将の李廷望と雍丘で戦い、これを破った。 十月辛巳朔、日食があった。癸未、彭原郡に行った。詔して御史・諫官が事を論じるにあたって先に大夫や宰相に報告することを禁じた。始めて売官し、僧尼を得度させた。房琯が招討西京・防禦蒲潼両関兵馬元帥となり、兵部尚書の王思礼がこれを補佐した。南軍を宜寿に入れ、中軍を武功に入れ、北軍を奉天に入れた。辛卯、河南節度副使の張巡が令狐潮と雍丘で戦い、これを破った。辛丑、房琯が中軍・北軍をもって安禄山の衆と陳濤斜で戦い、敗れた。癸卯、房琯がまた南軍をもって戦い、敗れた。この月、永王李璘を蜀郡に派遣して上皇天帝に朝させた。李璘がそむき、丹徒郡太守の閻敬之が李璘と伊婁埭で戦い、ここに死んだ。 十一月辛亥、河西で地震があった。戊午、崔渙が江南宣慰使となった。郭子儀が回紇を率いて安禄山と河上で戦い、これを破った。史思明が太原を寇した。 十二月、安禄山が魯・東平・済陰三郡を陥落させた。戊子、彭原郡を二年間免税とした。安禄山が潁川を陥落させ、太守の薛愿および長史の龐堅を捕らえた。 この年、吐蕃が巂州を陥落させ、嶺南溪の獠の梁崇牽が容州を陥落させた。 二載(757)正月、永王李璘が鄱陽郡を陥落させた。乙卯、安慶緒がその父の安禄山を弑した。丙寅、河西兵馬使の孟庭倫がその節度使の周佖を殺し、武威郡をもってそむいた。乙亥、安慶緒の将の尹子奇が睢陽郡を寇し、張巡がこれを破った。 二月戊子、鳳翔に行った。李光弼が安慶緒の衆と太原で戦い、これを破った。丁酉、関西節度兵馬使の郭英乂が安慶緒と武功で戦い、敗れた。安慶緒が馮翊郡を陥落させ、太守の蕭賁がここに死んだ。安慶緒の将の蔡希徳が太原を寇した。戊戌、庶人李璘が処刑された。庚子、郭子儀が安慶緒と潼関で戦い、これを破った。壬寅、河西判官の崔称が武威郡を落とし、孟庭倫が処刑された。甲辰、郭子儀が安慶緒と永豊倉で戦い、これを破り、大将の李韶光・王祚がここに死んだ。 三月辛酉、韋見素・裴冕が宰相を退いた。憲部尚書として致仕した苗晋卿が左相となった。 四月戊寅、郭子儀が関内・河東副元帥となった。壬午、戦死者を埋葬した。庚寅、郭子儀が安慶緒の将の李帰仁と劉運橋で戦い、これを破った。 五月癸丑、郭子儀が安慶緒の将の安守忠と清渠で戦い、敗れた。丁巳、房琯が宰相を退き、諫議大夫の張鎬が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 六月癸未、尹子奇が睢陽を寇した。丁酉、南充郡の民の何滔がその太守の楊斉曾を捕らえてそむいたので、剣南節度使の盧元裕がこれを破った。 七月己酉、太白が天を通過した。丁巳、安慶緒の将の安武臣が陜郡を陥落させた。 八月丁丑、長春宮が焼失した。甲申、崔渙が宰相を退いた。張鎬が河南節度使を兼ね、淮南の諸軍事を都統した。霊昌郡太守の許叔冀が彭城に逃れた。癸巳、大規模に閲兵した。 閏月甲寅、安慶緒が好畤を寇し、渭北節度使李光進がこれを破った。丁卯、広平郡王李俶が天下兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食の兵をもって安慶緒を討った。辛未、京畿採訪宣慰使の崔光遠が安慶緒と駱谷で戦い、これを破った。行軍司馬の王伯倫が苑北で戦い、ここに死んだ。 九月丁丑、安慶緒が上党郡を陥落させ、節度使の程千里を捕らえた。壬寅、広平郡王李俶が安慶緒と灃水で戦い、これを破った。癸卯、京師を奪回した。安慶緒が陜郡に逃れた。尚書左僕射の裴冕が太清宮・郊廟・社稷・五陵に告げ、百姓を宣慰した。 十月戊申、広平郡王李俶が安慶緒と新店で戦い、これを破り、陜郡を落とした。壬子、東京を奪回し、安慶緒は河北に逃れた。興平軍兵馬使の李奐が安慶緒の衆と武関で戦い、これを破り、上洛郡を落とした。吐蕃が西平郡を陥落させた。癸丑、安慶緒が睢陽を陥落させ、太守の許遠および張巡・鄆州刺史の姚誾・左金吾衛将軍の南霽雲はみなここに死んだ。癸亥、鳳翔を五年間免税とし、父老に官を授けた。太子太師の韋見素を派遣して上皇天帝を蜀郡に迎えた。丁卯、霊武から到着し、太廟で饗し、三日哭した。己巳、関内節度使王思礼が安慶緒と絳郡で戦い、これを破った。 十一月丙子、張鎬が、四鎮伊西北庭行営兵馬使の李嗣業・陜西節度使の来瑱・河南都知兵馬使の嗣呉王李祗を率いて河南の郡県を落とした。庚子、九廟の神主(位牌)をつくり、長楽殿に告享した。 十二月丙午、上皇天帝が蜀郡から到着した。甲寅、苗晋卿が中書侍郎・同中書門下平章事となった。戊午、大赦した。霊武で元より従っていた者、蜀郡で扈従した者で官三品以上は一子に官を授け、四品以下は一子に告身を出した。戦死者を祭り、その家は二年間免税とした。天下の租・庸を翌年は三分の一を免税とした。珠玉・宝鈿・平脫・金泥・刺繍を禁じた。諸州および官名を復した。蜀郡を南京とし、鳳翔郡を西京とし、西京を中京とした。潞州を五年間免税と、并州・鄧州・許州・滑州・宋州の五州、雍丘県・好畤県・奉先県は二年間免税とし、益州は三年間免税とした。文武官に階位・勲位・爵位を賜い、父老の八十以上に版授し、緋衣・銀魚を加え、民に五日宴会とした。広平郡王李俶が太尉となり、楚王に進封された。苗晋卿が侍中となり、崔円が中書令となり、李麟が同中書門下三品となった。子の南陽郡王李係を進封して趙王とし、新城郡王李僅を彭王とし、潁川郡王李僩を兗王とし、東陽郡王李侹を涇王とした。子の李僙を封じて襄王とし、李倕を王とし、李偲を召王とし、李を興王とし、李侗を定王とした。乙丑、史思明が降った。壬申、達奚珣らが処刑された。 乾元元年(758)正月戊寅、上皇天帝が宣政殿に御し、皇帝に伝国・受命の宝符を授け、冊号して光天文武大聖孝感皇帝といった。乙酉、宮女三千人を出した。庚寅、大規模に閲兵した。 二月癸卯、安慶緒の将の能元皓が淄州・青州をもって降り、能元皓を河北招討使とした。乙巳、上皇天帝に冊号をたてまつって聖皇天帝といった。丁未、大赦し、改元した。王朝に尽くして死んだ者および偽朝の命を拒んだ者に官位を追贈した。賊に陥された州は三年にわたって税を免除した。文武の官に階・爵を賜った。 三月甲戌、李俶を徙封して成王とした。戊寅、淑妃張氏を立てて皇后とした。 四月辛亥、神主を太廟に設置した。甲寅、太廟で朝享し、南郊を有事摂祭した。乙卯、大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜り、天下で租・庸ではないのに使役することを禁じ、貧窮の者に賑給し、寵臣に官爵を授け、京官九品以上、二王・三恪の一子に官を授けた。史思明が范陽節度副使の烏承恩を殺してそむいた。 五月戊子、張鎬が宰相を退いた。乙未、崔円・李麟が宰相を退いた。太常少卿の王璵が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、党項羌が辺境を寇した。 九月丙子、招討党項使の王仲昇が拓抜戎徳を殺した。庚寅、郭子儀が李光弼・李嗣業・王思礼・淮西節度使の魯炅・興平軍節度使の李奐・滑濮節度使の許叔冀・平盧兵馬使の董秦・鄭蔡節度使の季広琛を率いて安慶緒を討った。癸巳、大食・波斯が広州を寇した。 十月甲辰、成王李俶を立てて皇太子とした。大赦した。文武の官に階・爵を賜り、五品以上の子で、父の後継となる者に勲位を授けた。忠正孝友で東宮の官吏となりうる者を推挙した。 十一月壬申、王思礼が安慶緒と相州で戦い、これを破った。 十二月庚戌、戸部尚書の李峘が淮南・江東・江西節度使を都統した。丁卯、史思明が魏州を陥落させた。 二年(759)正月己巳、群臣が尊号をたてまつって乾元大聖光天文武孝感皇帝といった。郭子儀が安慶緒と愁思岡で戦い、これを破った。丁丑、九宮の貴神を祀った。戊寅、籍田を耕した。 二月壬戌、中書門下で囚人を再審した。 三月己巳、皇后が親蠶した。壬申、九節度使の軍が滏水で潰滅した。史思明が安慶緒を殺した。東京留守の崔円・河南尹の蘇震・汝州刺史の賈至が襄・鄧に逃れた。郭子儀が東京に駐屯した。丁亥、旱によって死罪を一等降し、流罪以下を再審した。流民で帰還した者を三年間免税とした。甲午、兵部侍郎の呂諲が同中書門下平章事となった。乙未、苗晋卿・王璵が宰相を退いた。京兆尹の李峴が吏部尚書となり、中書舎人の李揆が中書侍郎となり、戸部侍郎の第五琦と、ともに同中書門下平章事となった。丙申、郭子儀が東畿・山南東・河南等道諸節度防禦兵馬元帥となった。 四月庚子、王思礼が史思明と直千嶺で戦い、これを破った。壬寅、詔して常膳・服御を減じ、武徳中に作坊院で作成して蕃客に賜っていないもの、戎で祭祀の実施を待つものを停止させた。 五月辛巳、李峴を左遷して蜀州刺史とした。 七月辛巳、趙王李係が天下兵馬元帥となり、李光弼が副元帥となった。辛卯、呂諲が宰相を退いた。 八月乙巳、襄州防禦の将の康楚元・張嘉延がそむき、その刺史の王政を追放した。 九月甲子、張嘉延が荊州を陥落させた。丁亥、太子少保の崔光遠が荊襄招討・山南東道処置兵馬使となった。庚寅、史思明が東京および斉・汝・鄭・滑の四州を陥落させた。 十月乙巳、李光弼が史思明と河陽で戦い、これを破った。壬戌、呂諲が再び起用された。 十一月庚午、第五琦を左遷して忠州刺史とした。 十二月乙巳、康楚元が処刑された。史思明が陜州を寇し、神策軍将の衛伯玉がこれを破った。 上元元年(760)三月丙子、死罪を一等降し、流以下を釈放した。 四月戊申、山南東道の将の張維瑾がそむき、その節度使の史翽を殺した。丁巳、彗星が婁・胃に出現した。己未、来瑱が山南東道節度使となり、張維瑾を討った。 閏月辛酉、彗星が西方に出現した。甲戌、李係を徙封して越王とした。己卯、大赦し、改元し、文武の官に爵を賜った。太公望を追封して武成王とした。復死刑三覆奏。この月、大飢饉があった。張維瑾が降った。 五月丙午、太子太傅の苗晋卿が侍中となった。壬子、呂諲が宰相を退いた。 六月乙丑、鳳翔節度使の崔光遠が羌・渾・党項と涇・隴で戦い、これを破った。乙酉、またこれを普潤で破った。李光弼が史思明と懐州で戦い、これを破った。 七月丁未、聖皇天帝が西内に遷った。 十一月甲午、揚州長史の劉展がそむき、潤州を陥落させた。丙申、昇州を陥落させた。壬子、李峘と淮南節度使の鄧景山が劉展と淮上で戦い、敗れた。 この年、吐蕃が廓州を陥落させた。西原蛮が辺境を寇すると、桂州経略使の邢済がこれを破った。 二年(761)正月甲寅、降死罪、流以下原之。乙卯、劉展が処刑された。 二月己未、奴剌・党項羌が宝鶏を寇し、大散関を焚き、鳳州を寇し、刺史の蕭𢘽がここに死に、鳳翔尹の李鼎がこれを破った。戊寅、李光弼が史思明と北邙で戦い、敗れた。史思明が河陽を陥落させた。癸未、李揆を左遷して袁州長史とした。河中節度使の蕭華が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙酉、来瑱が史思明と魯山で戦い、これを破った。 三月甲午、史朝義が陜州を寇し、神策軍節度使の衛伯玉がこれを破った。戊戌、史朝義がその父の史思明を弑した。李光弼が副元帥を辞任した。 四月己未、吏部侍郎の裴遵慶が黄門侍郎・同中書門下平章事となった。乙亥、青密節度使の尚衡が史朝義と戦い、これを破った。丁丑、兗鄆節度使の能元皓がまたこれを破った。壬午、剣南東川節度兵馬使の段子璋がそむき、綿州を陥落させ、遂州刺史の嗣虢王李巨がここに死に、節度使の李奐(藩鎮)が成都に逃れた。 五月甲午、史朝義の将の令狐彰が滑州をもって降った。戊戌、平盧軍節度使の侯希逸が史朝義と幽州で戦い、これを破った。庚子、李光弼が河南道副元帥となった。剣南節度使の崔光遠が東川を落とし、段子璋が処刑された。 七月癸未朔、日食があった。 八月辛巳、殿中監の李国貞が朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭・河中節度使を都統した。 九月壬寅、大赦し、「乾元大聖光天文武孝感」の号を去り、「上元」の号を去り、元年を称し、十一月を歳首とし、月を斗をもって建辰とした。文武の官に階・勲・爵を賜り、侍老官に給付し、先に授けた者にも叙位した。四京の号を停めた。 元年建子月癸巳、曹州刺史の常休明が史朝義の将の薛㟧と戦い、これを破った。己亥、聖皇天帝を西内で朝享した。丙午、衛伯玉が史朝義と永寧で戦い、これを破った。己酉、太清宮で朝献した。庚戌、太廟および元献皇后廟で朝享した。 建丑月辛亥、南郊を有司摂祭した。己未、来瑱が史朝義と汝州で戦い、これを破った。乙亥、侯希逸が史朝義の将の李懐仙と范陽で戦い、これを破った。 宝応元年(762)建寅月甲申、靖徳太子李琮を追冊して皇帝とし、妃の竇氏を皇后とした。乙酉、王公妃主で殺害された者を葬った。丙戌、敬陵・恵陵が盗掘された。甲辰、李光弼が許州を落とした。吐蕃が和を請うた。戊申、史朝義が営州を陥落させた。 建卯月辛亥、大赦した。文武の官に階・爵を賜った。五品以上の清望と郎官・御史に、流人で行業あって憐愍を加えるべき者を推薦させた。鷹・鷂・狗・豹の貢納を停止させた。京兆府を上都とし、河南府を東都とし、鳳翔府を西都とし、江陵府を南都とし、太原府を北都とした。壬子、羌・渾・奴剌が梁州を寇した。癸丑、河東軍で乱が起こり、その節度使の鄧景山を殺して、都知兵馬使の辛雲京が節度使を自称した。乙丑、河中軍で乱が起こり、李国貞およびその節度使の荔非元礼を殺した。戊辰、淮西節度使の王仲昇が史朝義の将の謝欽讓と申州で戦い、敗れた。庚午、郭子儀が朔方・河中・北庭・潞州・儀州・沢州・沁州の節度行営を領知し、興平・定国軍兵馬副元帥となった。壬申、鄜州刺史の成公意が党項と戦い、これを破った。 建辰月壬午、大赦し、官吏で贈賄を受けた者で官庫に納めた者を許し、官を左遷された者、および流人で乱の鎮定に尽力した者を帰還させた。甲午、奴剌が梁州を寇した。戊申、蕭華が宰相を退いた。戸部侍郎の元載が同中書門下平章事となった。 建巳月庚戌、史朝義が沢州を寇し、刺史の李抱玉がこれを破った。壬子、楚州が国宝の玉十三を献定した。甲寅、聖皇天帝が崩じた。乙丑、皇太子が監国した。大赦し、元年を改めて宝応元年とし、正月を歳首にもどし、建巳月を四月とした。丙寅、閑厩使の李輔国と飛龍厩副使の程元振が皇后を別殿にうつし、越王李係・兗王李僩を殺した。この夜、皇帝は長生殿で崩じ、年は五十二であった。 代宗睿文孝武皇帝は、諱を豫といい、肅宗の長子である。母は章敬皇后呉氏といった。玄宗の諸孫は百人あまりいて、代宗が最も年長であり、嫡皇孫となった。聡明で寬厚、喜びや怒りを顔色に表さなかった。学問を好み記憶力がよく、易象に通じた。初めの名を俶といい、広平郡王に封ぜられた。 安禄山がそむき、玄宗が蜀に幸すると、肅宗は留って賊を討伐し、代宗は常に軍務に従った。 肅宗が即位すると、郭子儀らの兵が安慶緒を討ったが、勝利できなかった。肅宗は岐州にいた。至徳二載(757)九月、代宗は広平郡王として天下兵馬元帥となり、朔方・安西・回紇・南蛮・大食らの兵二十万を率いて進討し、百官を朝堂に送り、宮廷を過ぎて下り、歩いて木馬門を出て、その後再度騎乗した。安西・北庭行営節度使の李嗣業を前軍とし、朔方・河西・隴右節度使の郭子儀を中軍とし、関内行営節度使の王思礼を後軍とし、香積寺に駐屯した。賊将の安守忠を破り、斬首すること六万級におよんだ。賊将の張通儒は長安を守っていたが、安守忠が敗れたのを聞くと、城を棄てて逃れたので、代宗はそのまま京城を落とし、王思礼を留めて苑中に駐屯させ、代宗は大軍を率いて東に向かった。安慶緒はその将の厳荘を派遣して陜州ではばませたが、代宗と郭子儀・李嗣業は陜西で戦い、これを大いに破ったので、安慶緒は河北に逃れ、代宗はそのまま東都を落とした。肅宗は京師に帰還した。十二月、楚王に進封された。 乾元元年(758)三月、成王に徙封された。四月、立って皇太子となった。それより以前、太子が生まれた年、豫州が嘉禾を献上したから、そこで瑞祥によって、名を豫と改めた。元年の称をやめ、月は斗によって建辰を名とした。元年建巳月、肅宗が重病となり、詔して皇太子が監国した。楚州が献上した国宝十三を定めて、そこで、「楚州は、太子が封じられたところであり、今天より宝が楚州に降った。ただちに建元すべきである」とし、そこで元年を宝応元年とした。 肅宗と張皇后は李輔国を憎み、謀をしようとして、太子を召して聞いてみたが、太子は許さず、そこで越王李係と謀った。肅宗は病が進行した。四月丁卯、皇后と李係は太子を召喚して宮中に入らせようとしたが、飛龍副使の程元振は謀の情報を得て、李輔国に密告した。李輔国は太子を止めて入らせず、兵を率いて入り、李係と兗王李僩を殺し、皇后を別殿に幽閉した。夕方、肅宗が崩じ、そこで太子を迎えて群臣を九仙門に謁見させた。翌日、喪を発した。己巳、皇帝位を柩前で即位した。癸酉、始めて聴政した。甲戌、奉節郡王李适が天下兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥を辞任した。乙亥、李适を進封して魯王とした。 五月壬午、李輔国が司空となった。庚寅、母を追尊して皇太后とした。丙申、李光弼が史朝義と宋州で戦い、これを破った。丁酉、大赦した。刺史の一子に官を授け、文武の官に階・爵を賜り、子で父の後継となる者を勲一等を昇進させた。民で租から逃げた者の旧債を免除した。子の益昌郡王李邈を進封して鄭王とし、延慶郡王李迥を韓王とした。庶人王氏を追復して皇后とし、李瑛・李瑤・李琚はみなその封号を復した。 六月辛亥、廃皇后張氏・越王李係・兗王李僩をみな追って庶人とした。 七月乙酉、山南東道節度使の裴茙を殺した。癸巳、剣南西川兵馬使の徐知道がそむいた。 八月己未、徐知道が処刑された。辛未、台州の人の袁がそむいた。乙亥、李适を徙封して雍王とした。 九月戊子、鳳州刺史の呂日将が党項羌と三嗟谷で戦い、これを破った。丙申、回紇に援軍を要請した。壬寅、大閲を実績した。癸卯、袁鼂が信州を陥落させた。 十月乙卯、温・明の二州が陥落した。詔して浙江の水旱で、百姓で重度の困窮する者を、州県が税を科すことを禁じ、民で疫病で死んで葬送できない者を埋葬した。辛酉、雍王李适が史朝義を討った。壬戌、李輔国が強殺された。癸酉、雍王李适が懐州を落とした。甲戌、史朝義を横水で破り、河陽・東都を落とし、史朝義の将の張献誠が汴州をもって降った。 十一月丁亥、史朝義の将の薛嵩が相・衛・洺・邢の四州をもって降った。丁酉、史朝義の将の張忠志が趙・定・深・恆・易の五州をもって降った。己亥、朔方行営節度使の僕固懐恩が朔方・河北副元帥となった。 十二月己酉、太府の左蔵庫が焼失した。戊辰、京城内外の露出さた骨を埋葬した。甲戌、李光弼が袁鼂と衢州で戦い、これを破った。 この年、舒州人楊昭がそむき、その刺史の劉秋子を殺した。西原蛮が叛いた。吐蕃が秦・成・渭の三州を寇した。 広徳元年(763)正月癸未、京兆尹の劉晏が吏部尚書・同中書門下平章事となった。甲申、史朝義が自殺し、その将李懐仙が幽州をもって降り、田承嗣が魏州をもって降った。壬寅、山陵使・山南東道節度使の来瑱に罪があり、処刑された。 三月甲辰、山南東道兵馬使の梁崇義が南陽から襄州に入った。丁未、李光弼が袁鼂と戦い、これを破った。辛酉、至道大聖大明孝皇帝を泰陵に葬った。甲子、党項羌が同州を寇し、郭子儀が黄堆山でこれを破った。庚午、文明武徳大聖大宣孝皇帝を建陵に葬った。 六月、同華節度使の李懐譲が自殺した。 七月壬寅、群臣が尊号をたてまつって宝応元聖文武孝皇帝といった。壬子、大赦し、改元した。民で租から逃げた者の旧債を免除し、戸三丁に庸・調を一免除した。河北を三年間免税とした。回紇が行軍・駐屯した地をこの年免税とした。内外の官に階・勲・爵を賜った。功臣に鉄券を賜り、名を記録して太廟に納め、肖像を描いて凌煙閣に納めた。吐蕃が隴右の諸州を陥落させた。 八月、僕固懐恩がそむいた。 九月壬寅、裴遵慶が僕固懐恩を汾州で宣慰した。乙丑、涇州刺史の高暉が叛いて吐蕃についた。 十月庚午、吐蕃が邠州を陥落させた。辛未、奉天・武功を寇し、京師は戒厳をしいた。壬申、雍王李适が関内兵馬元帥となり、郭子儀が副元帥となった。癸酉、渭北行営兵馬使の呂日将が吐蕃と盩厔で戦い、これを破った。乙亥、また盩厔で戦い、敗れた。丙子、陜州にいった。丁丑、華陰に行った。豊王李珙に罪があり、処刑された。戊寅、吐蕃が京師を陥落させ、広武郡王李承宏を立てて皇帝とした。辛巳、陜州に行った。癸巳、吐蕃は潰え、郭子儀が京師を奪回した。南山五谷の人の高玉がそむいた。 十一月壬寅、広州市舶使の呂太一がそむき、その節度使の張休を追放した。 十二月辛未、劉晏に上都を宣慰させた。甲午、陜州から到着した。乙未、苗晋卿・裴遵慶が宰相を退いた。検校礼部尚書李峴を黄門侍郎・同中書門下平章事とした。丙申、李承宏を華州に放逐した。吐蕃が松州・維州の二州を陥落させた。西原蛮が道州を陥落させた。 二年(764)正月丙午、詔して御史・諫官・刺史・県令となり得る者を推挙させた。乙卯、雍王适を立てて皇太子とした。癸亥、劉晏・李峴が宰相を退いた。右散騎常侍王縉を黄門侍郎、太常卿杜鴻漸を兵部侍郎・同中書門下平章事とした。郭子儀に河東副元帥を兼任させた。 二月辛未、僕固懐恩が朔方軍節度留後渾釈之を殺した。癸酉、太清宮で朝献した。甲戌、太廟で朝享した。乙亥、南郊で有司摂祭した。己丑、大赦した。内外の官に階・爵を賜った。武徳の功臣の子孫一人に官を賜った。成都・霊武で最小から従った三品以上の者に爵一級を、ほかは一階を加えた。宝応の功臣で三品以上の一子に官を賜い、爵一級を賜い、ほかは階・勲を二等加え、五品以上で父の後継となる者は勲を二等賜った。 三月辛丑、河南府を二年間免税とした。甲子、盛王李琦が薨去した。 四月甲午、螺鈿で珠や翠をつくることを禁じた。 五月、洛水が氾濫した。 六月丁卯、汾州に星が落ちた。 七月庚子、初めて青苗を税とした。己酉、李光弼が薨去した。 八月丙寅、王縉が侍中となり、河南・淮南・山南東道節度行営事を都統した。壬申、王縉が侍中を辞任した。癸巳、吐蕃が邠州を寇し、邠寧節度使の白孝徳が宜禄でこれを破った。 九月己未、剣南節度使の厳武が吐蕃と當狗城で戦い、これを破った。 この秋、蜮が出現した。 十月丙寅、吐蕃が邠州を寇した。丁卯、奉天を寇し、京師に戒厳をしいた。庚午、厳武が吐蕃の塩川城を落とした。辛未、朔方兵馬使の郭晞が吐蕃と邠西で戦い、これを破った。この月、突厥が豊州を寇し、守将の馬望がここに死んだ。 十一月乙未、吐蕃軍は潰え、京師は戒厳を解いた。河西節度使の楊志烈が僕固懐恩と霊州で戦い、敗れた。癸丑袁鼂が処刑された。越州のこの年の田租の半分を免除し、温・台・明の三州を一年間免税とした。 十二月乙丑、高玉が処刑された。丙寅、多くの星が落ちた。 この年、西原蛮が邵州を陥落させた。 永泰元年(765)正月癸巳、大赦し、改元した。この月、歙州の人がその刺史の龐濬を殺した。 二月戊寅、党項羌が富平を寇した。庚辰、儀王李璲が薨去した。 三月庚子、雨が木に氷をつけた。庚戌、吐蕃が和を請うた。辛亥、大風のため木が抜けた。 四月己巳、春より雨が降らなかったが、この日雨が降った。 この夏、盩厔で穭麦が生えた。 七月辛卯、平盧・淄青兵馬使の李懐玉がその節度使の侯希逸を追放した。 八月庚辰、王縉が河南副元帥となった。僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項羌・渾・奴剌とともに辺境を寇した。 九月庚寅、百官に命じて浮屠の象を光順門で見させた。辛卯、太白が天を通過した。甲辰、吐蕃が醴泉・奉天を寇し、党項羌が同州を寇し、渾・奴剌が盩厔を寇し、京師は戒厳をしいた。己酉、苑に駐屯し、郭子儀は涇陽に駐屯した。丁巳、同華節度使の周智光が吐蕃と澄城で戦い、これを破った。周智光は鄜州に入り、その刺史の張麟を殺し、そのまま坊州を焚いた。 十月、沙陀が楊志烈を殺した。己未、吐蕃が邠州にいたり、回紇とともに辺境を寇した。辛酉、奉天を寇した。癸亥、同州を寇した。乙丑、興平を寇した。丁卯、回紇・党項羌が降伏を請うた。癸酉、郭子儀が吐蕃と霊台で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。 閏月辛卯、朔方副将の李懐光が霊州を落とした。辛亥、剣南西山兵馬使崔旰がそむき、成都を寇し、節度使の郭英乂は霊池に逃れ、普州刺史の韓澄がこれを殺した。癸丑、民財を納めて浮屠の供とした。 大暦元年(766)二月、吐蕃が遣使して来朝した。壬子、杜鴻漸が山南西道・剣南東西川・邛南・西山等道副元帥となった。 三月癸未、剣南東川節度使の張献誠が崔旰と梓州で戦い、敗れた。 七月癸酉、洛水が氾濫した。 九月辛巳、吐蕃が原州を陥落させた。 十一月甲子、大赦し、改元し、流民で本業に戻る者を三年間免税とした。 十二月己亥、彗星が瓠瓜より出た。癸卯、周智光がそむき、虢州刺史の龐充を殺した。 この冬、雪がなかった。鄭王李邈が天下兵馬元帥となった。 二年(767)正月丁巳、郭子儀が周智光を討った。己未、同華の将の李漢恵が同州をもって降った。甲子、周智光が処刑された。淮西節度使の李忠臣が華州に入った。戊寅、同・華の二州を二年間免税とした。 八月壬寅、駙馬都尉の姜慶初を殺した。 九月甲寅、吐蕃が霊州を寇した。乙卯、邠州を寇した。郭子儀が涇陽に駐屯し、京師は戒厳をしいた。乙丑、昼に星が南方に流れた。 この秋、桂州の山獠がそむいた。 十月戊寅、朔方軍節度使の路嗣恭が吐蕃と霊州で戦い、これを破った。京師は戒厳を解いた。 十一月辛未、雨が木に氷をつけた。壬申、京師で地震があった。 三年(768)二月癸巳、商州兵馬使の劉洽がその刺史の殷仲卿を殺した。 三月乙巳朔、日食があった。 五月乙卯、斉王李倓を追号して皇帝とし、興信公主の女の張氏を皇后とした。癸亥、地震があった。 六月壬寅、幽州兵馬使の朱希彩がその節度使の李懐仙を殺して、留後を自称した。 閏月庚午、王縉が幽州盧龍軍節度使を兼ねた。 七月壬申、瀘州刺史楊子琳がそむき、成都を陷すと、剣南節度留後の崔寛がこれを破り、成都を落とした。楊子琳が夔州別駕の張忠を殺した。戊寅、吐蕃が遣使して来朝した。 八月己酉、吐蕃が霊州を寇した。丁卯、邠州を寇し、京師は戒厳をしいた。戊辰、邠寧節度使の馬璘が吐蕃と戦い、これを破った。庚午、王縉が河東節度使を兼ねた。 九月丁丑、済王李環が薨去した。壬午、吐蕃が霊州を寇し、朔方の将の白元光がこれを破った。壬辰、またこれを霊武を破った。戊戌、京師は戒厳を解いた。 十二月辛酉、涇原兵馬使の王童之が反乱を計画し、処刑された。 四年(769)正月甲戌、潁州刺史の李岵を殺した。 二月乙卯、杜鴻漸が副元帥を辞任した。丙辰、京師で地震があった。 三月、御史を派遣して商銭を税とした。甲戌、京兆のこの年の税を免税とした。 五月丙戌、京師で地震があった。 六月戊申、王縉が副元帥・都統を辞任した。 七月癸未、死罪を一等降して、流以下を釈放した。 十月丁巳、大霧。 十一月辛未、禁畿内弋獵。壬申、杜鴻漸が宰相を退いた。癸酉、元載を知門下省事とした。甲戌、吐蕃が霊州に寇し、朔方軍節度留後の常謙光がこれを破った。丙子、左僕射の裴冕が同中書門下平章事となった。癸巳、裴冕が河南・淮西・山南東道副元帥を兼ねた。 十二月戊戌、裴冕が薨去した。 この年、広州の人の馮崇道・桂州の人の朱済時がそむき、容管経略使の王翃がこれを破った。 五年(770)正月辛卯、鳳翔節度使の李抱玉が河西・隴右・山南西道副元帥となった。 三月癸酉、内侍監の魚朝恩に罪があり、自殺した。丙戌、昭陵の皇堂に光があり、このため京兆・関輔で赦した。 四月庚子、湖南兵馬使の臧玠がその団練使の崔灌を殺した。己未、彗星が五車に出現した。 五月己卯、彗星が北方に出現した。六月己未、彗星が消え去ったため、死罪は一等降し、流以下を釈放した。魏徴・王珪・李靖・李勣・房玄齡・杜如晦の後裔を録した。 この年、湖南の将の王国良がそむき、西原蛮とともに州県を寇した。 六年(771)二月壬寅、李抱玉が山南西道副元帥を辞任した。 三月、王翃が梁崇牽を破り、容州を落とした。 四月戊寅、藍田の西原の地を陥落させた。大𦅘錦・竭鑿・六破錦および文紗・呉綾を龍・鳳凰・麒麟・天馬・辟邪とすることを禁止した。 五月戊申、殿中侍御史の陸珽・成都府司録参軍事の李少良・大理評事の韋頌を殺した。 七年(772)二月庚午、江州江が氾濫した。 五月乙酉、大雨雹、大風のため木が抜けた。乙未、旱害のために大赦し、膳を減らし、楽を止めた。 この秋、幽州盧龍の将の李懐瑗がその節度使の朱希彩を殺し、経略軍副使の朱泚が留後を自称した。 十月乙亥、淮南が旱のため、租・庸を三分の二免除した。 十一月庚辰、巴・蓬・渠・集・壁・充・通・開の八州を二年間租・庸を免除した。 十二月丙寅、土が天より降り、長星が参より出現した。 八年(773)正月甲辰、詔して京官三品以上および郎官・御史に毎年刺史・県令を一人推挙させた。 五月辛卯、鄭王李邈が薨去した。壬辰、京師で大赦した。癸卯、死罪を一等降し、流以下を釈放した。 八月己未、吐蕃が霊州を寇し、郭子儀が七級渠でこれを破った。甲子、華州の屯田を廃して貧民に給した。 九月壬午、循州刺史の哥舒晃がそむき、嶺南節度使の呂崇賁を殺した。戊子、詔して京官五品以上・両省供奉官・郎官・御史に言上させた。 十月庚申、吐蕃が涇・邠を寇した。丙寅、朔方兵馬使の渾瑊が吐蕃と宜禄で戦い、敗れた。涇原節度使の馬璘が吐蕃と潘原で戦い、これを破った。 九年(774)二月辛未、徐州の兵が乱を起こし、その刺史の梁乗を追放した。 四月壬辰、大赦した。 十月壬申、信王李瑝が薨去した。乙亥、涼王李璿が薨去した。壬辰、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。 十年(775)正月丁酉、昭義軍兵馬使の裴志清がその節度使の薛㟧を追放し、叛いて田承嗣についた。壬寅、寿王李瑁が薨去した。戊申、田承嗣がそむいた。癸丑、田承嗣が洺州を陥落させた。乙卯、剣南西川節度使の崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。 二月乙丑、田承嗣が衛州を陥落させ、刺史の薛雄がここに死んだ。辛未、子の李述を封じて睦王とし、李逾を郴王とし、李連を恩王とし、李遘を鄜王とし、李造を忻王とし、李暹を韶王とし、李運を嘉王とし、李遇を端王とし、李遹を循王とし、李通を恭王とし、李逵を原王とし、李逸を雅王とした。丙子、河陽軍で乱が起こり、三城使の常休明を追放した。 三月甲午、陜州軍で乱が起こり、その観察使の李国清を追放した。 四月癸未、河東節度使の薛兼訓らが田承嗣を討った。昭義の五州を二年間免税とした。甲申、大雨雹、大風のため木が抜けた。 五月乙未、魏博の将の霍栄国が礠州をもって降った。甲寅、大雨雹、大風のために木が抜け、闕門が震えた。 六月甲戌、成徳軍節度使の李宝臣が田承嗣と冀州で戦い、これを破った。 七月己未、杭州で津波があった。 八月己丑、田承嗣が礠州を寇した。 九月壬寅、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。壬子、吐蕃が臨涇を寇した。癸丑、隴州を寇した。丙辰、李抱玉が義寧でこれを破った。丁巳、馬璘がまた百里城でこれを破った。 十月辛酉朔、日食があった。甲子、昭義軍節度使の李承昭が田承嗣と清水で戦い、これを破った。丙寅、貴妃独孤氏が薨去した。丁卯、追冊して皇后とした。 十一月丁酉、魏博の将の呉希光が瀛州をもって降った。丁未、嶺南節度使の路嗣恭が広州を落とし、哥舒晃が処刑された。 十一年(776)正月庚寅、田承嗣が降った。辛亥、崔寧が吐蕃と戦い、これを破った。 五月、汴宋都虞候の李霊耀がそむき、濮州刺史の孟鑒を殺した。 七月庚寅、田承嗣が滑州を寇し、永平軍節度使の李勉が敗れた。 八月甲申、淮西節度使の李忠臣と河陽三城使の馬燧と李勉が李霊耀を討った。 閏月丁酉、太白(金星)が昼に見えた。 九月乙丑、李忠臣と馬燧が李霊耀と鄭州で戦い、敗れた。 十月乙酉、中牟で戦い、これを破った。壬辰、李忠臣はまた西梁固でこれを破った。壬寅、淮南節度使の陳少淤が李霊耀と汴州で戦い、これを破った。丙午、田承嗣が兵をもって李霊耀を救援し、李忠臣が匡城でこれを破った。甲寅、李霊耀が処刑された。 十二年(777)三月庚午、田承嗣を赦した。辛巳、元載に罪があって処刑された。王縉を左遷して括州刺史とした。 四月壬午、太常卿の楊綰が中書侍郎となり、礼部侍郎の常衮が門下侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。癸巳、詔して諫官が意見封事を献上するのに期限を廃止し、側門にて論事する者は状に従って面奏させ、六品以上の官で言事を投書する者は添え書の記録を廃止した。丁酉、吐蕃が黎・雅の二州を寇し、崔寧がこれを破った。この月、金州の人の卓英璘がそむいた。 六月乙巳、卓英璘が処刑された。金州を二年間免税とした。丁未、旱のため、京師の死罪を一等降し、流以下を釈放した。 七月己巳、楊綰が薨去した。丙子、詔して尚書・御史大夫・左右丞・侍郎に刺史に任命すべき者を推挙させた。 九月庚午、吐蕃が坊州を寇した。 この秋、黄河が氾濫した。 十一月壬子、山南西道節度使の張献恭が吐蕃と岷州で戦い、これを破った。 十二月丁亥、崔寧が吐蕃と西山で戦い、これを破った。 この年、恒・定・趙の三州で地震があった。冬、雪がなかった。 十三年(778)正月戊辰、回紇が并州を寇した。癸酉、河東節度留後の鮑防が回紇と陽曲で戦い、敗れた。 二月庚辰、代州刺史の張光晟が回紇と羊虎谷で戦い、これを破った。 四月甲辰、吐蕃が霊州を寇し、常謙光がこれを破った。 十月己丑、京畿で兵器を持って狩猟をおこなうのを禁じた。 この年、郴州の黄芩山が崩れた。 十四年(779)二月癸未、魏博節度使の田承嗣が亡くなり、その兄の子の田悦が留後を自称した。 三月丁未、汴宋の将の李希烈がその節度使の李忠臣を追放し、留後を自称した。 五月辛酉、不豫となり、詔により皇太子が監国した。この夕、皇帝は紫宸内殿で崩じ、年は五十三であった。 賛にいう、天宝の乱では、大賊が突如蜂起して、天子は出奔した。まさにその時、肅宗は皇太子として兵を統率して賊を討伐し、本当にその職を得たというべきである。しかし僖宗の時、唐の威徳は人にあり、綱紀はまだ崩れ去っていなかったが、天宝の時と比べてどうであろうか?しかし僖宗は蜀にあって、藩鎮らの兵を合力して、遂に黄巣を破って京師を回復した。上記のことから言うならば、肅宗は尊位に即位していなかったが、まあ賊を破ることができたのだ。思うに高祖より以来、三たび位を退いてその子に授けたが、一人睿宗のみ上は天戒を恐れて、誠心より発した。高祖・玄宗のようにどうしてその志があろうか。代宗の時、敵の勢力はまだあり、乱を平定して守成した。思うにまた中材の主であろう! 前巻 『新唐書』 次巻 巻五 本紀第五 『新唐書』巻六 本紀第六 巻七 本紀第七
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巻六十とは 2010年11月発行。 コミック70冊目。 前は巻五十九 次は巻六十一 扉絵 主な展開 謎 わかったこと