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自分語りのこと。 放送を面白くするために生まれた言葉なので、面白くない自分語りは自我として斬首されるが、面白ければ許される。 放送では自我をしまうという風潮がある為、無闇に自分語りをすると自我警察から「自我しまえ」と攻撃されるので注意が必要。 最近は自我を過度に抑制することこそ自我ではないかとの自我スパイラルに陥りがち。 なな湖曰く、「自我しまえってわざわざ言うことがつまらない自我になってる」とのこと。 特に都会における自我の在り方については検討、議論が重ねられている。
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自我(ego) S.フロイトによれば、自我とは現実適応のための心的装置であり、現実原則に基づき、イドの本能的衝動と、超自我の道徳的欲求を、外界の現実的制約にあわせて調整し、現実への適応を図るものである。 また、この調整を行う際に生じる葛藤を処理するために防衛機制?が用いられるが、イドや超自我が強すぎた場合、自我による調整困難が生じて、より高度な心理的状態からそれ以前の状態に戻る「退行」が起こり、不適切な防衛機制が用いられる場合がある。この状態が頻繁に生じると、それが問題行動や症状として顕在化する。 ●予備知識● ユング,C.Gの分析心理学における自我とは、 自分の存在についての認識と、記憶データからなる意識の複合体のことであり、 意識統合の中心として定義されている。 saya
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無意識に関してフロイトはエスと自我とを区別する。 前者は人間の精神の内にある非人格的な・生物学的な・深みを云い表わし、 後者はこのエスの表面にあって、外界からの刺戟に対する抵抗壁の役割を有つ。水道橋 デリ ヘル エスは無意識であってその一部分がかの抑圧された無意識であり、 自我はかかるエスの他の一部分を占めていてその限り無意識にぞくする。 自我は併し、それだけではなく同時に前意識をも亦包括している。
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超自我(Super-ego) S,フロイトによれば、超自我とは、いわゆる理論や良心、道徳にあたる心的装置である。幼児期に両親との同一視や躾を通して身に付けられた道徳律であり、イドの本能的衝動を禁止し、自我機能を道徳的な方向へ誘導する機能を持つ。また、自我から分化して形成されており、多くは無意識的なものであり、後悔や罪悪感として意識化される。 時として、イドと同様に、外界への適応に反する命令を下し、しばしば自我と葛藤を引き起こす。 saya
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概説 自我体験の発生ときっかけ 自我体験の構造独我論的体験 概説 自我体験(Ego experience / I-am-me experience)とは、幼少期、児童期、青年期に起こる自我の構造的変化の突然意識化であって、それまでの自己の自明性への疑問や違和感が生じたり、自我を突如その孤立性と局限性において体験したりする事である。「なぜ私は私なのか」「なぜ、今、ここにいるのか」「私は本当に私なのか」「私は他の誰でもない私である」「私のなかに本当の私がいる」が代表的な表現形式であり、何か理解しがたい事が生じている、またその体験が普通ではないという独特の感じを伴い言語化が困難なイメージで体験されることが多い事は先行研究でも示されてきている。また、果てのない空間と時間の中で私の存在を自覚するということは、「世界の謎」を問うことと切り離せないと考えられる(*1)。日本では、臨床心理学者の西村洲衛男が、「自分が自分であるという、内なる自己との出会い」「一種の啓示的体験」「急激な自我体験は客観的な態度を取り得る知性的な強い自我をもった人によって体験されるもの」であり、ときには自殺や離人体験にもなり得るような危険を伴う」などの性格づけを行っている(*2)。天谷祐子も自我体験について、哲学の分野において永井均が言う世界に対して開かれている唯一の原点としての〈私〉について「なぜ」という問いや感覚的違和感を持ち始める体験と定義している(*3)。なお、自我体験は文化を超え、一般的に生じる体験であることが確認されているという。 発達心理学者のシャーロッテ・ビューラーが青年期に於ける自我の発見の体験的に純粋かつ局限的な現れを指す語として心理学に導入し、ドイツ語の原語では、“Ich-Erlebins”(私の体験)と命名している。また、エドゥアルト・シュプランガーも自我の発見について「個性化の形而上学的根本経験」と言い、「主観をそれ自身一個の世界として見出すこと」と見ている。 自我体験の発生ときっかけ 日本の心理学者は自我体験を心理学的な観点から研究しており、自我体験をする人間の心理状態について、アンケートや聞き取り調査などを通じて統計的・科学的に調査・分析する、という形で研究を行っている。 高石恭子は、1989年に自我体験尺度の作成を試み、大規模な調査を行っており、渡辺恒夫も1992年に234人の大学生を対象に調査を試み、5人に1人の割合で自我体験に相当する報告を得ている。そして、高石は最初の自我体験は10歳頃に多く生じると言い、ビューラーが定義したものとは異なり漠然とした空想傾向であるものもあるが、幼少期や児童期に遡れる事例もある。また、天谷祐子による中学生対象の調査では65パーセントと高率なのが注目され、自我体験は児童期にかけて初発年齢のピークがあり、約半数が体験するものとも考えられるが、青年期に入るにつれ体験の記憶が薄れ、大学生では想起率が10~30パーセント程度に低下するとも考えられる。(*4) また、渡辺恒夫は自我体験のきっかけとして、漠然たる観想や観照、死の思い、生まれ違い願望、孤立やいじめなど人間関係の葛藤、母の流産の事実を知ったり双子だったりという特異な事実、受精や誕生について習う、「テレビで外国の情勢を見ていて」といった視野の拡大の7つを挙げている(*5)。また、体験のきっかけとなった出来事や考えについて渡辺恒夫と松田栄一は「人間関係の葛藤」「死について考えて」「宇宙のことを考えて」「自分を観察して」「他人や生き物を観察して」の4つのカテゴリーに分類しているが、カテゴリーの比に有意差は認められなかったという。(*6) 天谷祐子によれば体験場面は「一人の時」や「寝る前」といった報告が中学生、小学校高学年生ともに多くみられたという。(*7) 自我体験の構造 自我体験の例として、シャーロッテ・ビューラーとエドゥアルト・シュプランガーがその典型例として考察しているルドルフ・フォン・デリウスの事例があり、ルドルフ・フォン・デリウスの体験は以下の通りである。 私は起き上がり、ふり向いて膝をついたまま外の樹々の葉をじっと見た。この瞬間に私は自我を体験した。すべてが私から離れ、私は突然孤独になったような感じがした。妙な浮かんでいるような感じであった。そして同時に自分自身に対する不思議な問い、お前はルディ・デリウスか、お前はお前の友達がそう呼んでいるのと同じ人間か、学校で一定の名前をもち一定の評価を受けてるその同じ人間なのか、お前は同一人物か。私の中の第二の私が、ここまでまったく客観的に名称としてはたらくこの別の私に向かい合った。それは、今まで無意識的にそれと一体をなして生きてきた私の周囲の世界からほとんど肉体的な分離のごときものであった。私は突然自分を固体として、取り出されたものとして感じた。私はそのとき、何か永遠に意味深いことが私の内部に起こったのをぼんやり予感した。それゆえその部屋、ベッドにひざまずいたこと、ふり向いたこと、この瞬間がやはり鮮明に記憶に残った。何か精神的閃光が突然私の中に射し込んだようだった。(そして今なおたびたび繰り返されるこの体験からの結論は)血縁関係をもった古い自然――父という概念、兄弟という概念――が突然何の意味も持たなくなってしまった。そして強くしばりつける力をもった故郷も離れ落ちた。それは剥ぎ取られた皮膚のように下に横たわった。――自我は自由となり、解放され、漂い、自分自身の中に憩いそしてそれゆえ無責任で、独自で、価値があり、世界にとって到達しがたく、破壊しがたいものとなった。――自我体験は第二の誕生のごときものである。(*8) 渡辺恒夫と松田栄一は自我体験を構成する4つの側面として、「自己の根拠への問い」「自己の独一性の自覚」「主我と客我の分離」「独我論的懐疑」という特徴から自我体験を検討している。(*9) (自我体験の下位側面の特徴と相互連関 「自我体験 自己意識発達研究の新たなる地平」より) また、自我体験とは自分が世界の中にどのように位置づけられるかの認識であると言え、自分が周囲と隔絶している離人症タイプの自我体験、自然の中に自分を発見する自然の中の自我体験、人間関係や仕事の中での自我体験があると言える。(*10) 天谷祐子は、自我体験の下位側面として「存在への問い」「起源・場所への問い」「存在への感覚的違和感」を挙げており、「存在への問い」が他の2つの下位側面よりやや多くみられる事を報告している(*11)。高石恭子は、ビューラーや西村洲衛男の考察を踏まえ、孤独性(自我を外界から分離隔絶されたものとして感じること)、独自性(自我を単一・独自の有限な個体として認識すること)、自我意識(自我の対象的把握)、自律性(内的権威の発見とその重視)、変化の意識(過去との断絶感、及び未来への展望)、空想嗜好(内界への集中的関心及び一人で空想に耽ること)、自然体験(自己の気分の外界への投影として、自然を幸福と美として意識すること)を挙げている。また、天谷は自我体験を経ていてそれに囚われている人は、そうでない人に比べて、自分の肯定的感情を損なう状況に陥りやすい可能性を指摘しており、無力感が高く、意欲が減退しており、人間関係に関して消極的である傾向が見られたという(*12)。さらに、天谷は自身の自我体験を深刻に捉える人は自我体験特有の「思考パターン」とも言えるべきものが存在し、とらわれてしまって逃れられないような試行錯誤をたどりやすい、またはそのような思考パターンを持つ人は自身の自我体験をより深刻に捉えやすい可能性が考えられる事を指摘している。(*13) 独我論的体験 独我論的体験(solipsistic experience)は、自分という存在が、すべての他者、さらには世界全体と対置され、自己の孤立性や例外性が強く意識される体験である。「自分ひとりだけが」「自分以外のものはすべて」「他人も自分と同じように~なのだろうか」などの表現を含み、具体的には他人も自分と同じようにものを考えたり感じたりするのだろうかや、私だけが本当に生きていて他人は機械のようなものではないかといったように表現される体験も含む。他者との対称性、互換性をなす自己という自明な自己理解への疑問・違和を含む点に自我体験と共通項があり、渡辺恒夫は自我体験と合わせて、自我体験群と呼んでいる。(*14) また、渡辺恒夫は自我体験も独我論的体験も「発達性エポケー」に源泉があるという知見を提起し、「正常」な精神発達過程の途中で、とりわけ児童期に私たちは自己の自明性の破れ、自然発生的なエポケーを経験することがあるのである事を指摘している。(*15) 参考文献 シャルロッテ・ビューラー『青年の精神生活』原田茂 訳 共同出版 1969年 渡辺恒夫「自我の発見とは何か 自我体験の調査と考察」『東邦大学教育紀要』第24号 東邦大学 1992年 渡辺恒夫・小松栄一「自我体験 自己意識発達研究の新たなる地平」『発達心理学研究』第10号 1999年 渡辺恒夫「独我論的体験とは何か 自発的事例に基づく自我体験との統合的理解」『質的心理学研究』7巻1号 日本質的心理学会 2008年 渡辺恒夫「自我体験研究への現象学的アプローチ」『質的心理学研究』11巻1号 日本質的心理学会 2012年 渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』ナカニシヤ出版 2002年 渡辺恒夫・高石恭子『〈私〉という謎 自我体験の心理学』新曜社 2004年 天谷祐子「「私」への「なぜ」という問いについて 面接法による自我体験の報告から」『発達心理研究』13巻3号 日本発達心理学会 2002年 天谷祐子「自己意識と自我体験――「私」への「なぜ」という問い――の関連」第13巻第2号 日本パーソナリティ心理学会 2005年 天谷祐子「自我体験とパーソナリティ特性・孤独感との関連 「私はなぜ私なのか」と問う取り組み方による違い」『パーソナリティ研究』第18巻第1号 日本パーソナリティ心理学会 2009年 天谷祐子『私はなぜ私なのか 自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版 2011年 清水亜紀子「「自己の二重性の意識化」としての自我体験 体験者の語りを手がかりに」『パーソナリティ研究』第17巻第3号 日本パーソナリティ心理学会 2009年 千秋佳世「子どもが「世界の謎」と出会うとき―『ペンギン・ハイウェイ』および『わたしを離さないで』に見る世界の謎―」『京都文教大学臨床心理学部研究紀要 15』京都文教大学 2023年
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≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠ カード名 . ..: 自我領域 無 [極彩色]≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ レアリティ...: X≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ カードスキル : Mサークルのアルマがエゴである限り、このカード以外の[極彩色]リフレ・コグニは全て[神秘]を得る≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ ステータス. . : コスト:3 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ フレーバー .: ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠
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H 自我障害 小項目 離人(症),させられ〈作為〉体験 備考 離人(症) 転換,解離 102E51 25歳の男性。大学院に在籍し毎日研究に励んでいるが,ここ半年思うようにはかどらず焦っていた。最近,何をやっても実感がわかず,自分の体さえ自分のものであるという感覚がない。町並みも人々も妙によそよそしく現実感がないように感じられる。 症状はどれか。 a 錯覚 b 妄想 c 離人 d 両価性 e 感情鈍麻 × a × b ○ c × d × e 正解 c
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自我同一性 自我は社会的発達の過程において、多くの他者や集団や社会の価値・規範・役割期待などを取得するが,その結果,それぞれの他者・集団・社会に対する複数の「・…としての自分」と,それぞれの他者・集団・社会と共通する観点・一般化された他者の観点を獲得する。 また個人はそれぞれの状況に応じて一定の社会的役割を果たすことによって自分の自我を確認し検証する。 例えば,長男(長女)としての自分, 友人としての自分, 男(女)としての自分, 会社の一員としての自分, 日本人としての自分 などである。 このようなそれぞれの「・・・としての自分」を選択しつつ行為するが,これら複数の「・・・としての自分」の同一性を統合し,秩序づけ組織化する普遍的統合的自我の連続性・斉一性・普遍性を自我同一性(ego-identity)と,エリクソンは呼んでいる。それは,個人独自の存在であることの証明である。 各々の同一性は,個人が役割取得の過程で次々に獲得したものである。 この同一性の獲得は,社会的経験を深めるごとに累積的に行なわれ,職業人としての自分,退職者としての自分,親としての自分,老人としての自分などの役割を取得するように, 生涯継続する。 例えば,子どもから大人への移行期である青年期は,自我がこれら多数の同一性の中から,成人した自分にふさわしいもの、自分のものとして肯定しうるものを,あらためて自覚し選択しなおす時期である。 すなわち,青年期の自我は,彼が生まれ育った環境,その時代・社会が提供する価値や規範,役割,行為,権威のなかから自分の自我同一性と適合するものを意識的に選択し,独自の体系化を行なう。 この自己選択と,幼児期以来,無意識的に獲得していた同一性をいかに統合するかが,彼の重要課題となり,これが青年期の自我の自覚であり個々に自我の危機が生じる。 そして,自分にふさわしい「・・・としての自分」(同一性)を選択する青年期は,自己の内部に沈潜するモラトリアムの時期である。 それはさまざまに自己選択と自己定義を模索し苦悩する修行期間であるから,社会の側が一人前の大人としての社会的責任や義務を一時的に猶予する時期として位置付けられる。 りえ
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じがほうしょく【登録タグ VOCALOID し プリュ 曲 鏡音リン】 作詞:プリュ 作曲:プリュ 編曲:プリュ 唄:鏡音リン 曲紹介 動画は、RaV²(122px)が担当 歌詞 (YouTube動画概要欄より参照) 心から宣布 人を愛しく 性善説を占うサイレント 私から合唱 それは誰でしょう 合致しない私はディストーション 心臓は劣等? 否を又説法 頼りない天に仰向いて 自我をいっそ否定 しかし尚肯定 人は一人にしかなれない だって科学と化学が神々しい下学を殺るハリボテで それを証明する真似を繰り返したのは百八番目の私だ 孤独へと落ちて堕ちて墜ちて誰もいない世界へ 救いなんて求めていない 元々無いはずだから それでも落ちて堕ちて墜ちて 愛すべきあなたに 向かう私はサーチライト 人を愛しましょう 自ら愛しましょう 心から宣布 交代はシック 自ら首を絞めてくる破滅 私なら合唱 つまり絶無よ 合致しない私のイルミネーション 卑劣を参照 概念が参上 目を閉じた死体の祭りは 自我をずっと否定 私への工程 どちらも最悪な私でしょうか ここで又落ちて堕ちて墜ちて ゼロからの世界へ 私を捨ててほしいが どちらを捨てるんだろう 命さえ落ちて堕ちて墜ちて 愛すべきあなたを 仰ぐ私はサーチライト 人を愛しましょう 自ら愛しましょう 落ちて堕ちて墜ちて 見つけたのは私の残像 そして誰もが泣いて哭いて啼いて それでも分かってしまうんだ どれだけ祈って祈って祈って 何が変われるんだろう 思考を止めずに生きてきたどれも自分だろう 神のいない地球を狙った 私の世界が 造り上げたのは 間違いなく私だ 間違いなくね ここで又落ちて堕ちて墜ちて だって変わらないのは 辿り着いた所には 一人の私がいること 絶望は落ちて堕ちて墜ちて 気付いたエゴの夢は 迷う私にサーチライト 人を愛しましょう 私を愛しましょう コメント 名前 コメント
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自我喪失 永久の絆 / ベースドブースター3 OPERATION O-23 黒 1-3-0 U (自動A):全てのキャラクターは「NT」を失う。 NTを失わせるオペレーション。 サイコミュを軸とするデッキなどには非常に効果的。 場にあるキャラクターのNTのみが消えるので、場に出る時点ではまだキャラクターはNTを持っている(Q A76)。よってマリオン・ウェルチ《DS3/EB1》とパトゥーリア《EB1》のシナジー対策などにはならない。