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「こっちです、香織さん。全死さんを見つけました」 荻浦嬢瑠璃の指差した先には、確かに全死の姿があった。 見紛うはずもない。あんな奇抜な服装を平気でできる三十路近くの女など、この世にはそういない。 視点をもっと上のレヴェルへ引き上げればそういう人間など佃煮にするほどいるだろうが、それは俺の知っている世界ではない。 俺にとっての『この世』とは極めて限定された範囲の中の話だ。 「やれやれ。虱潰しに大通りの店を覗いて回った努力がやっと実を結んだわけだ」 俺がため息混じりに呟くと、嬢瑠璃は心外そうに異を唱えてきた。 「絨毯爆撃と言ってください」 「どっちでもいいよ」 とりあえず、嬢瑠璃と肩を並べて全死がいるオープンテラスのカフェへと歩いていった。 「肩を並べて」というのは言葉の綾だ。嬢瑠璃の身長は百四十センチそこそこ、俺の肩より下に嬢瑠璃の頭がある。 だが俺は習慣を重んじる人間だ。「肩を並べて」という慣用句が存在するならそれに敬意を払わなければならない。 全死は呑気にもチキンカツサンドを頬張りながらビールを飲んでいた。 俺の目を引いたのは、そのテーブルに並べられた料理の山だ。 所狭しと敷き詰められた皿の数は、見てるだけで食欲を削がれる。過ぎたるは、という典型例だろう。 なんだこれは、と思いながら、全死に呼びかける。 「全死さん。こんなところにいたんですか。探しましたよ」 「よお、辺境人(マージナル)。それから嬢瑠璃ちゃんも。なんだい、ずいぶんと遅かったな」 「遅かったって……待ち合わせ場所から勝手に離れて気ままにウィンドウショッピングを楽しんで エウリアンを冷やかして無駄に時間をつぶして挙句の果てに昼間からビールかっ食らってる全死さんがそんなことを言うんですか」 「なんだ? ずいぶんと事細かにわたしの行動を把握してるじゃないか。ストーキングか? いい趣味してるな」 「足取りを追ったんですよ。全死さんを探して文字通りの右往左往です。 俺はローレシアの王子じゃないんです。こんな徒労は好みじゃありません。もちろん趣味でもありませんからね。 なにが悲しくて探偵業の職業訓練に励まなければならないんです。俺の進路にはそういう予定はありません。 そもそも将来の展望なんて持ってないんですから、俺の進路を決定させるような行動は慎んでください。 端的に言うなら勝手にちょろちょろ動き回らないでください」 ここまで一気呵成に述べ立てて一息つき、ふと、あることに気がつく。 テーブルの上の料理が減っていた。 考えてみれば当然の話だが、ここに並べられた料理は食べられるために存在してるのだ。 つまり、この牛の餌のごとき量を平らげてるやつがいるということである。 全死は関脇とでも同席してるのか? と思い、今まで全死と料理に取られていた気を取り戻して全死の対面に差し向ける。 ──軽く眩暈がした。「あ」とかなんとか、その類の声を上げたかもしれない。 つい先日に起こったイレギュラー中のイレギュラー、『仕事』を目撃されたその張本人たる目撃者であるところの女子高校生と職業不詳の男がそこにいた。 男は極めて無表情に俺を眺めていた。少女は俺の存在に気づいていないらしく、無心に数々の料理に食らいついている。 「どうしたんですか、香織さん。犯行現場を目撃された犯罪者のような顔をしていますよ」 嬢瑠璃がそう言って、固まってる俺の顔を覗き込んできた。 「……それ、君は分かってて言ってるのか?」 「なんのことでしょうか?」 「いや、そんなことより──全死さん、この人たちは誰ですか」 全死は「はあ?」というような顔をし、それから大儀そうに答える。 「桂木弥子ちゃんと脳噛ネウロ」 聞いてるのは名前ではない。そんな識別子は今現在必要とされている情報ではない。 「全死さんとの関係性を聞いてるんです」 「完璧に徹頭徹尾の全然まったく無関係だ。 それに、どっちかと言うとお前の知り合いじゃないのか? お前のメタテキストが弥子ちゃんに引っ掛かってたぞ、辺境人(マージナル)」 「話したでしょう。『仕事』を目撃されたって。この人たちですよ」 つまらなそうに耳をほじりながら応答していた全死が、ここで初めて興味を示した。 「あ、なになに? そうなの? そりゃ大変だ。よし、今すぐ口を塞げ。わたしが許す。 おい、どうするよ脳噛ネウロ。今からこの辺境人(マージナル)がお前を相手に白昼堂々公開殺人を敢行してくれるそうだぞ」 声が大きい、と思ったが今さら言っても遅いので黙っておく。 少女はまだ料理を食べることに夢中になっていた。餓鬼道にでも落ちているのだろうか。前世の業とは恐ろしいものである。 「ほう……我が輩を殺すのか? やってみるがいい。遠慮はいらない」 「貴方もこの人の言うことを真に受けないでくださいよ。──ああっと、脳噛ネウロさん」 「……漫談師みたいな名前ですね」 嬢瑠璃が俺の耳元でそんな感想をぼそっと漏らした。 この子は日に日に物言いが全死に似てきているような気がする。 ペットは飼い主に似る、というやつのヴァリエーションだろうか。 全死に毒された美少女女子中学生の末路がこれとは、彼女の親も草葉の陰で泣かずにはいられないだろう。 「そっちの小娘は何者だ? 貴様たちの同類か?」 と、脳噛ネウロは顎をしゃくって嬢瑠璃を示す。 嬢瑠璃とはともかく、全死と同類項で括られるのは甚だ不本意な話だった。俺は全死のような社会不適合者とは違う。 「荻浦嬢瑠璃です。全死さんの同類というよりは……その、妹分です」 嬢瑠璃は不審感を露わにしながらも、形だけは礼儀正しくお辞儀をしてみせた。 「自己紹介が恙無く済んだところでそろそろ話を本題に戻していいですかね。──全死さん、なにをやってるんですか?」 「なにって、食事さ」 「どういう経緯でこの人たちと食卓を囲んでるのか、伺ってもいいですかね」 「弥子ちゃんが可愛かったから今さっきナンパした。それでお近づきの印に食事を奢っているのさ。聞いて驚け、なんとBダブルプラスだぞ」 相変わらず言うこと全てが意味不明な女である。 「……Bって?」 「人間の格の話だよ。嬢瑠璃ちゃんといい勝負だよ、この子は。嫉妬しちゃうかい、嬢瑠璃ちゃん」 「いいえ、毛の先ほども。全死さんが誰をどのように評価しようとも、わたしと全死さんとの間にはなんの影響もありません」 「あらら、ちょっとくらいはジェラシー感じてくれてもいいんじゃないの?」 「そういう情緒的な反応をわたしに求められても困ります」 嬢瑠璃は硬質な声音でぴしゃりと言い放った。さすがというべきか、素面で全死の会話についていけるのは彼女くらいだろう。俺も見習いたいものだ。 嘘だが。 「……しかし、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と我が輩の下僕を始末しなくていいのか?」 脳噛ネウロはそんなことを言いながら、テーブルの中央に置かれたタバスコの壜を取り、いとも容易くその首をへし折る。 そして、あろうことか──その中に満ちる真っ赤な液体を、今なお旺盛な食欲で食べ続ける少女の目の前の皿にぶちまけた。 そして、あろうことか──少女はそれに気づく素振りも見せずに料理を口いっぱいにかき込み、 「…………」 ポクポクポクチーンという効果音が聞こえてきそうな沈黙が五秒、その後、 「ぶぼぉっ!!」 朱を入れたような顔色の少女が喉を押さえて悶絶し始めた。それはたっぷり三十秒ほど続いた。全死はげらげら笑っていた。 「な、なにすんのよネウロ!」 「注意力散漫だぞ、ヤコ。前を見ろ」 犬のように舌を出してひいひい言う少女の前で、ネウロは俺を指差す。 「はあ? なにがよ──って、あーっ!」 少女も口を丸くして俺を指差した。 開いた口が塞がらないとはこのことだった。 あの日の鮮烈な映像がわたしの脳裏に甦る。 映画館からの帰り道、あの路地裏の、死体と、石と、生まれなかった『謎』と、殺人者と──。 「さて、もう一度訊くぞ、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と、この食い意地の張った我が輩の下僕を始末しなくてもいいのか?」 なんで彼がここにいるのか前後関係がさっぱり分からないが、ただ一つ言えることは、大ピンチということだった。 わたしは目の前の青年が殺人を犯すところを目撃してしまった。 ネウロの個人的な理由により、警察にはその旨を届け出ていないが、そんな事情など相手にはお構いなしだろう。 『探偵』として数多くの犯罪者を目の辺りにしてきたわたしは知っていた。 『悪意』には防衛本能があるということを。 だから、悪意をもって誰かを殺すとき、行為の痕跡は隠蔽される。 その機構が『トリック』を生み、『謎』を生むのだ。 その原理原則に従うなら、「見られたからには生かしておけない」という考えが彼に沸き起こるのは当然の成り行きだろう。 事実、あの晩、わたしは殺されかけたのだ。 「さあ、どうした。我が輩を殺さなければ貴様の殺人行為が露見してしまうぞ」 「ちょ、ネウロ! なに挑発してんの!?」 そりゃネウロは魔人だし、べらぼうに強いからいいだろうが、わたしは普通の人間なのだ。 これまではなんとなくのノリのような雰囲気で何度かわたしを危険から守ってくれたネウロだが、今このときも守ってくれる保証などない。 日々の虐待の憂き目を思うに、やはり最後は自分で自分の身を守らなければならないのだ。 逃げる算段をしようかそれとも武器になるものを探そうかとパニックになりかけたわたしだったが、 「──全死さん」 彼は、わたしに食事をご馳走してくれた飛鳥井全死さんの名前を呼んだ。 どうやらこの二人は知り合いのようだった。そういえばそれっぽいことを全死さんが言っていたような気がする。 「なんだ? 今はわたしの出る幕じゃないぞ。ずっとお前のターンだ。戦闘レヴェルでならお前に勝てるやつはいないよ。自信を持て」 「それはまあ自覚してますが……俺がここでこの二人を殺した場合、『保障』してくれますか?」 「オーケイ。有象無象のメタテキストくらい、二十人でも三十人でもいじってやるよ。 お前がこの場でなにをしようとも、一切合切『なかったこと』にしてやる。良かったな、後顧の憂いなく殺しまくれるぞ。武運を祈る」 「そうですか。なら──」 と、青年は首を振り、 「帰りましょう」 「そうそう、お前のエレガントな殺しの芸術を──って帰るのかよ!?」 ……現実にノリツッコミをする人を見るのは、(自分以外では)初めてだった。 「なんだあ、この根性なし! 素人童貞! 鈍色鮪! 連続殺人鬼! お前はそれでも辺境人(マージナル)か!」 「全くだ。失望したぞ。この虫ケラめ、プラナリアにも劣る」 なぜかネウロも一緒になって彼を罵倒していた。なにをしたいんだアンタは。 二人の十字砲火を受けて、彼は憂鬱そうに深いため息をついた。 「はあ……どうしてみんなそう血の気が多いんですかね。温厚な俺が馬鹿みたいじゃないですか」 「だってお前馬鹿だろ」 「馬鹿で結構ですから、とにかく帰りますよ。……脳噛ネウロさん、俺の目は節穴じゃないんです。 どうしても俺の『不可触(アンタッチャブル)』のスペックを確かめたいようですけど、その手には乗りません。 俺は『敵意』を伴った攻撃を自動的に回避できます。それが『不可触(アンタッチャブル)』です。 でもそれは、戦わないための『能力』です。戦場の境界線上に、勝者と敗者の狭間に留まり続けるためのものです。 ご期待に沿えず誠に残念ですが、俺にはあなたと戦う理由が存在しません」 「我が輩が貴様の情報を警察機構に漏らす──と言ってもか?」 「ですが、今のところ司直の手が俺に伸びている様子はありませんよね。 何故かは知らないけど、貴方たちは俺の存在を公けにするつもりがないようです」 わたしは、はっとなってネウロを見た。 彼の言っていることは図星だった。 「……我が輩の気が変わったらどうするつもりだ?」 「物事には自走性があります。慣性と言い換えてもいいですけど、一度決めたことは、そう簡単には覆らないものです。──それに」 彼は全死さんの方に視線を送り、 「今、確認しました。全死さんの『保障』は有効のようです。つまり、遡って有栖川健人の件すらも『保証』の有効範囲だということです」 「はは、そこまでわたしを信頼してるのか。感動ものだな。愛してるよ、辺境人(マージナル)」 「茶々を入れないでください、全死さん。それに信頼じゃなくて信用です。……ま、とにかくそういう訳です」 そして、今度はわたしを見た。 「桂木弥子、だったっけ? 心配しなくても君に危害は加えない。目撃されたあの瞬間ならともかく、今となっては殺す意味があまりないからな」 はあ、そうですか、としか言いようが無かった。 「はあ、そうですか」 話の筋はよく分からないけれど、とにかくわたしの口を封じる意思はないらしい。 ──しかし、なにかが引っ掛かる。 わたしはネウロの操り人形として、様々な犯罪者、様々な『悪意』に出会ってきた。 そのいずれにも、彼は当てはまらないような気がした。彼のような犯罪者は初めてだった。 「ふん……まあ良かろう。この場は見逃してやる。しかし、貴様等には『謎』の気配が付いて回っている。 いずれそれを解い(くっ)てやるから覚悟しておくがいい」 ネウロはネウロで一人で勝手に納得していた。なにか満足できる結果は得たらしい。 「どういう種類の覚悟かは分かりませんけど、了解しました。ほら、全死さん、帰りますよ」 「やだ。もっと弥子ちゃんとお話しするんだ」 「子供ですか、もう……。なあ、君もなんとか言ってやってくれよ」 気が動転して今まで見えていなかったけれど、彼の背後に中学生くらいの女の子が立っていた。 青年の頼みに応じ、その女の子はまるで子供をあやすように語りかける。 「帰りましょう、全死さん。途中で唐揚げ弁当買って差し上げますから」 「じゃあ帰る。バイバイ、弥子ちゃん。近いうちにまた会おうぜ」 どうやら唐揚げに釣られたらしく、全死さんは拍子抜けするくらいにあっさりと立ち上がった。 ──なんか、そこだけは親近感が湧いた。 女の子はわたしにぺこりと頭を下げ、小走りに全死さんの後を追っていった。 「じゃあ、俺もこれで」 と、軽く会釈して立ち去りかけた青年の背中へ、 「あの」 わたしは思わずそれを追いかけ、呼び止めていた。 「……なに」 目の前の大通りの信号が赤になっていたのが幸いしたのか、彼は歩みを止めて振り返った。 呼び止めたはいいが、なにも思い浮かばなかった。 「えーと、その、名前、聞いてもいいですか」 何も考えずに口から出るに任せて、そんなことを言った。 「どうしてだ? はっきりさせておくけど、俺は君たちとは交渉を持ちたくない。 俺はレギュラーを重んじる性質なんだ。君たちのようなイレギュラーとこれ以上関わるのはご免だ」 「でも、あなた、わたしの名前を知ってます。それって不公平ですよね」 言ってる本人ですら無茶苦茶な理屈だったが、意外にも彼は少し考えてそれに頷いた。 「なるほどね。条件を同じにしておこうという訳か。そのディフェンス観念は理解できる」 彼は財布を取り出し、そこから一枚名刺を抜き取って、それを裏返しにしてわたしに渡した。 「え、あ、どうも」 わたしも慌てて『探偵』用の名刺を取り出し、彼に差し出す。 名刺交換なんて慣れないことだったので動きがぎこちなかったけれど、彼は特には気にしてないようだった。 「……ひとつ、訊いてもいいですか」 「答えられることならね」 「さっき、全死さん、あなたのことを『連続殺人鬼』って言ってましたけど、本当ですか」 「世間的にはそういうレッテルが貼られるな、鬱陶しいことに。まあその通りだと自分でも思うけど」 「……どうして人を殺すんですか。さっき言ってましたよね、勝者になるつもりが無いって。なら、人を殺す理由、ないと思いますけど」 言いながら、わたしはあの晩に抱いた感想を思い出していた。 彼には『悪意』が無かったのではないだろうか。だから、『悪意』を保護すべき『謎』が生まれなかった。 しかし、『悪意』が無いのなら、どうして彼は人を殺すのだろうか。 わたしは固唾を飲んで彼の答えを待った。それほど時間は掛からなかった。 彼はちょっと肩をすくめ、いとも簡単な口ぶりで言った。 「習慣だからな」 「……え?」 「俺には人を殺す習慣がある。その習慣に則って定期的に人を殺している。 人を殺すのが好きなわけじゃない。中毒でもない。 朝起きたら歯を磨くようなものさ。面倒くさいけど、習慣だからそれをやる。ただそれだけのことだ。 俺にだって道徳観はあるし、人の命が失われるのは残念に思うけど、優先順位の問題だ。俺はレギュラーを優先する。 ただまあ、もちろんこれは犯罪行為だから、あまりおおっぴらにやれることじゃない。 全死さんが持ってくる『仕事』のターゲットは安全だから、今は彼女の『仕事』を請け負うことでその習慣をこなしている」 「安全って……どうして『安全』なんですか?」 まるで訳が分からなかった。 『安全な標的』というのものが存在できるなら、この世に『謎』の存在する余地は無くなるのではないだろうか。 ネウロの主食である『謎』がこの世から消えてしまったら、ネウロはいったいどうするのだろうか。 「あの人はメタテキストをいじれるからな。……言っておくけど、『メタテキストってなに?』って質問は禁止だ。 俺にだって良く分からない。本人は『そいつの視座が見えるんだ』とかなんとか言ってるけど、俺にはメタテキストが見えない。だから分からない」 「全死さんとはどういう関係なんですか? なんか、傍から見ててすごく奇妙なんですけど」 「あの人とは……子供のころに家が近所だったんだ。幼馴染と言えばそうだろうけど、そんな牧歌的な表現は微妙に違和感があるな。 関係がレギュラー化したのは、俺が中二のとき、俺が同級生を殺したことをあの人がどこから嗅ぎ付けてきて、 面白がって密室殺人に仕立て上げたのが馴れ初めってやつさ。……そのお陰で俺は逮捕されかけて精神病院に送られそうになったけど」 信号が青になった。 「他に聞きたいことは?」 わたしが黙っていると、彼も黙って横断歩道を渡っていき、やがてわたしの視界から消えていった。 手に触れる紙の感触で、わたしは彼の名刺のことを思い出す。ひっくり返して表を読むと、そこにはこうあった。 『初めてでも安心 趣味の殺人者 香織甲介』 確信はないけれど、このロゴは全死さんが考えたのではないかと直感的に思う。彼女はこういう悪ふざけが好きそうだ。 悪意なく人を殺す青年と、『悪意』の塊のような女性と。 「なんなのよ、もう……」 動く人の波に揉まれながら、わたしは途方も無い脱力感に襲われてその場にへたり込んだ。 ──世界は謎に満ちている。今は、まだ。
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「まいったな。目撃されるのはイレギュラーだ」 ──まったく、ついてない。 その日の夜、俺は全死の持ってきた『仕事』──殺人の依頼に従って有栖川健人という高校生を殺害した。 殺害自体は遅滞も瑕疵も無く完了した。背後から襲って拳大の石で殴殺。まったく楽なものだった。その後が問題だった。 こともあろうに、その犯行現場をリアルタイムで目撃されていたのだ。 全死のもたらす『仕事』は、全死の示したプラン通りに遂行する限りに於いてはまず絶対に露見しない。その点に関しては全死を信用している。 だとしたら、これはいったい何の間違いだろうか。 全死だって人間だもの、時に間違いもするだろう──などといった牧歌的な解釈は即座に消えた。 俺としてもそうであって欲しいのはやまやまだが、飛鳥井全死は間違えない。 つまり『人間』の定義をそこに求めるなら、全死は人間ではないのだ。(まあ俺はそんな意味不明の指標で人間性を測ったりはしないが) ならば、いったい間違えたのは誰だろうか。 俺はややうんざりした気持ちで目の前の二人組を見た。 なんとも不釣合いな男女のカップルだった。 女のほうは一目で学校の制服と分かる衣装に身を包んだ十代後半で、すなわち女子高生だ。女というよりは少女としたほうが正確な表現だろう。 制服を着ているからといってそれが女子高生と必ずしもイコールではないことは承知しているが、それは措く。正直どうでもよかった。 男の方はといえば──今ひとつよく分からない。 まず会社人には見えない雰囲気を漂わせているが、かと言ってじゃあなんだと聞かれても俺にはさっぱり見当もつかない。 やはり「どうでもいい」というのが本音である。 現状の問題は、このイレギュラーにどう対処するか、ということに尽きる。 そして、俺の方針はすでに決定していた。 一度捨てた石を拾い、十歩の距離を五歩で駆けて少女へと近づく。 俺の意図を理解しかねているのか、俺という絶対的な脅威の接近にも関わらず、少女は身じろぎひとつしなかった。 その頭部めがけて石を無造作に振り下ろそうとしたとき、背筋のあたりに敵意を感じた。 ほとんどなにも考えずに屈んだその真上を、風を切る勢いで手刀が通り過ぎていった。 バランスを崩しかけるが足を踏ん張り、体勢を保つ。その反動で二、三歩たたらを踏み、少女の脇をすり抜けるようにして背後に回った。 顔を上げた瞬間、その視界に拳が飛び込んでくる。今しがたの手刀と同じく、カップルの男の方が俺に攻撃を仕掛けていた。 首を捻ってそれをかわし、内心でわずかに感心する。 ──へえ、自分の身よりも彼女を守るのか。 だったら、俺はなおさら少女を優先的に殺さなければならない。ここで男に攻撃目標を切り替えたら、少女に逃げられる可能性が大きいからだ。 逆に、俺が少女に狙いを定めている限りは、男は彼女を置いて逃げるような真似はしないだろう。 そう判断し、男と俺の間に少女を挟むような位置に移動する。 少女を盾にするとは我ながら卑怯な発想だと思うが、今のこの状況に騎士道精神を持ち込むほど俺は不真面目な人間ではない。 なにしろ、これは遊びでやってるわけではないのだから。 だが、そこで、俺の想像を超える事態が発生した。 男が再度拳を振り上げ、それに備えて身体の力を抜いた俺の目の前で、男は少女を──殴り飛ばした。 げふ、などという間抜けな息を吐き、少女は地面を転がって道路脇の電信柱に激突した。 「邪魔だ、ヤコ」 目を回している少女に向かって、男はひどくあっさりした口調で告げた。 この男が彼女を守っている、という見解は誤まりだったのかも知れない。 さすがに唖然とするが、新たに敵意が生じるのを感じ、軽くスウェーバックする。眼前一センチを男の指が掠める。 先程から男の動きには淀みが無い。その猛攻に、俺は手にした石を振り下ろす機会を見出せないでいる。 だが、俺は少しも焦ってはいなかった。どうやら男は俺を倒そうとしているらしい。ならば、俺はその攻撃をかわし続けるだけだ。 たとえ今は隙が無くとも、永遠に攻撃を回避していればいずれ隙が出てくるだろう。 俺にはそれが出来る。なぜなら、俺は──。 「……貴様は何者だ?」 ふと、男が攻撃の手を休め、そんなことを聞いてきた。 答える義理は無いが、おしゃべりに付き合うのも様子見くらいにはなるだろうと思い直す。 「個人的な身分を明かすほど微温的な関係じゃないと思いますけど、お互いに」 男はふむ、と軽く頷き、 「ならば質問を変えよう。貴様の戦闘技術……いや、違うな。そう、回避技術だ。 我が輩の攻撃をそこまで凌ぐ人間など、そうザラにいるものではない。それはどこで身に着けた?」 なんと答えたらいいか迷い、頭を掻くが、用意してある答は一つしかないのでそれをそのまま言う。 「物理的攻撃は俺には通用しませんよ。それが俺の『能力』です。 俺は『不可触(アンタッチャブル)』なんです。『敵意』に敏感な体質なんでね、自動的に回避してしまうんです」 そう──俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。 『能力』という表現を用いているが、それは他人に説明するときの便宜的なものであり、実際はこの世界の法則──摂理に根ざしている、いわば『現象』だ。 俺の意思やスペックとは無関係のところで、俺は敵の攻撃を完璧に回避できるのだ。 それはこの世界の根源によって設定された絶対的な法則であり、この世界がこの世界として存在する以上、俺は無敵なのだ。 「『不可触(アンタッチャブル)』か。実に、実に面白い……」 「そうですかね。俺はあまり面白くありませんが」 肩をすくめてみせようとするが、手にした石がどうにも邪魔だった。 「そんなことより、あなたの連れの女の子、目を覚ましそうですよ」 嘘である。俺の期待通り、男はそちらへ首を巡らせ、ほんのわずかではあるが俺に対して隙をさらけ出した。 それで充分だった。 俺はくるりと踵を返し、後も振り返らずにその場から立ち去った。 男と少女の口を封じることはとっくに諦めていた。 摂理は俺に『不可触(アンタッチャブル)』という真に無敵の能力を与えた。 無敵とはどういうことか。それは言葉通り、「敵を作らない」能力である。 戦闘に勝利するためではなく、そもそも戦場に上がらないための能力なのだ。 目撃者を二人も残していては不安といえば不安だが、 あのままだらだらと戦闘を続けていても、 時間の経過とともに人目を忍ぶことが難しくなり、危険は増大するだけである。 ならば、さっさと見切りをつけて逃走を図ったほうがまだ建設的な選択だろう。 俺は戦闘狂でもなければ殺人狂でもない。合理的な理由もなしに人を殺すほど攻撃的な人間ではないのだ。 走りながら時折振り返るが、追っ手がついている様子は無い。歩調を緩め、周囲を見回して現在地を確認する。JRの駅に続く通りに出ていた。 出来るだけ何気ない風を装って凶器の石を身体の陰に隠し、駅前のターミナルの正面の交番の裏手にそれを捨てた。 呼吸を整え、立ち番の警官の前を通り過ぎ、suicaで改札を抜ける。 ホームで電車の来るのを待ちながら考えることはと言えば──全死は俺の部屋にまだいるのだろうか、ということであった。 いなくなっていたらいいな、というのが俺の希望だ。 本日分の俺の許容値はもう限度いっぱいである。これ以上のイレギュラーは勘弁して欲しかった。 ──なにか、「今すぐ目を開けないときっと死ぬ」という猛烈な悪寒を感じ、はっと目を覚ますと、そこには小鳥がいた。 ただしその小鳥はハリネズミのように全身から鋭い針を無数に生やしており、今まさにわたしの顔に降り立とうとしていた。 「うおおおい!」 反射的に振り払い、手の甲に鋭い痛みとぐさぐさぐさっという嫌な感触が走る。 「痛ぁぁぁぁぃ!」 七転八倒しながらなんとか身体を起こすと、ネウロがつまらなさそうな顔をしていた。 「なんだ、起きたのかヤコ。せっかく我が輩が特製の目覚ましで貴様の意識を呼び戻してやろうと思ったのに。 その鳥は魔界の愛玩動物でな。口から楔型の針を吐き、ホチキスにもなる優れものだ」 剣山みたいな小鳥がコココココココと気味の悪い鳴き声をあげた。その嘴から飛び出すコの字型の針がコンクリートの塀に突き刺さる。 「…………」 なんかもうツッコむ気力も失せた。 「──あの人は?」 ネウロは答えなかった。 恐る恐る路地を覗くと、やはりそこには死体があった。 ぐちゃぐちゃの挽き肉みたいになってしまった顔の中央の二つの窪みが、恨めしそうに虚空を見上げている。 「笹塚さん……呼んだほうがいいよね」 わたしはポケットから携帯電話を取り出し、知り合いの刑事さんに連絡を取ろうとする。 「ヤコ」 「え?」 「『謎』の気配は確かにあったのだ。だが『謎』は生まれなかった」 「……それなんだけどさ」 と、わたしはちょっと言葉を切った。 その先を言うには、それは──あまりにも不可解すぎた。 だけど、『あの人』を……あの殺人者を見て、わたしが思ったのは、 「あの人……『悪意』が無かったんじゃないのかな。だから『謎』が生まれなかった」 やはり、ネウロは答えなかった。ただ、どこを見るでもなく空へ視線を移しただけである。 携帯からは「もしもし……あー、弥子ちゃんか?」というどこかだるそうな感じの声が聞こえていた。 「どうした、ヤコ。なにをそんなに浮かない顔をしている」 ネウロが目の前の『謎』を取り逃がした日から数日経ったある日の昼下がり、わたしとネウロは繁華街の喫茶店にいた。 ネウロは定期的に『謎』を解く(くう)ために、わたしを矢面に立たせたかたちで「桂木弥子探偵事務所」というなんとも剣呑な事業所を開設している。 そこに持ち込まれる雑多な事件の中からネウロのお気に召す『謎』を見繕っては、わたしをそこまで引きずり出すのだ。 「我が輩は魔人ゆえ人間界で目立つのを好まない」という傍迷惑な理由でもって、それらの『謎』はわたしが解決したことにされている。 今日も、その『謎』を一つ解決したばかりである。 主食であり好物である『謎』を解いた(くった)ばかりのネウロは上機嫌だった。 だが、わたしは少しも面白くなかった。 「うっさい」 言ってから失言に気付くが遅かった。 ネウロはにこにこ笑いながらわたしの飲みかけのコーヒーカップを手に取る。 と、すでにぬるくなっていたはずのコーヒーがネウロの手の中でごぼごぼと活発な沸騰を始めた。 「なにが不服なのだ?」 相変わらず満面の笑みを崩さず、その煮えたぎった漆黒の液体をわたしの口に注ぎ込もうとする。 「え、ちょ、唇、熱、熱いっていうか痛──ぎゃー!」 半狂乱でお冷を飲み干し、なんとか生きた心地を取り戻したわたしは、まだ喉に違和感を残しながらも唇を尖らせる。 「だって訳分かんないよ! なんで笹塚さんに連絡したらダメなの?」 あの日の夜、わたしとネウロは殺人現場に遭遇した。おまけに、(多分、口封じのために)殺されかけた。 わたしはなぜか気を失ってしまったので詳細は分からないが、ネウロはその殺人犯を取り逃がしてしまったらしい。 息を吹き返したわたしが警視庁捜査一課に所属する知り合いの刑事さんに電話しようとしたら、ネウロはいきなりそれを妨害したのだった。 「結局、他の誰かが警察に通報したみたいだけどさ……わたしたち、犯人の顔を見てるんだから笹塚さんに教えてあげた方がいいと思うんだけど」 「このペンペン草め」 ペンペン草。学名、知らない。和名、ナズナ。春の七草の一種であり、おかゆはもちろんお浸しにしても美味い。 意外と知られてないがレモン汁を垂らした醤油と和えると乙なものである。 「だ、誰がペンペン草だ!」 「我が輩が誰か忘れたのか? 『謎』を解く(くう)ことこそを至上とするこの我が輩が、 何ゆえにみすみす『謎』を刑事ごときの手に渡さなければならないのだ? それを、動物並の知能を持ち合わせていない貴様が愚かにもあの刑事に協力しようとしたから、やむなく制止したまでだ」 「口で言えよ口で! なんでわたしのケータイ逆折りにすんのよ、なんでそんな乱暴なわけ!?」 「失敬な。きちんと折り目を合わせて四つ折りにしたではないか。これほど礼儀正しい魔人も魔界にはそういないぞ」 「なおさら悪いわ! ケータイショップに持っていったらね、『こういう故意による破損は補償の対象外です』って言われたのよ!」 そんな抗議に耳を貸さず、ネウロは椅子の前足を浮かせてギシギシやっていた。お前は授業に退屈してる中学生か。 わたしがさらなるツッコミスキルを発動させようとしたとき、 「なあ、そこのお嬢ちゃん」 と、背後から肩を叩かれた。 「?」 振り向くと、それは見知らぬ女性だった。帽子からブーツまで黒づくめの異様な風体の、怖いくらいの美人だった。 いや、実際、物凄く怖い目をしていた。 「お嬢ちゃん、あんた辺境人(マージナル)の知り合い?」 「……マ?」 「いやさ、あの愚鈍のメタテキストがちらっと見えたもんだから」 「……メ?」 「メタテキストはメタテキストさ。そいつの視座っていうのかな。わたしにはそれが見えるんだ」 意味が分からず黙っていると、女性はこっちのことなどお構いなしでしゃべりだす。 「ん、いやま、あんなうすのろのことはどうでもいいわな。しかし──あんた、中々面白いメタテキストしてるね。 ランク付けするならBダブルプラスってとこかな。五段階評価ね。普通に生きてりゃ滅多に会えない逸材だよ。 なあ、お嬢ちゃん、わたしとお茶しない? あ、そっちの席に座ってもいい?」 ついにはナンパまがいのことを言い出した。 「名前教えて? わたしは飛鳥井全死」 「へ、あの?」 状況が飲み込めずに目を白黒させるわたしへ、飛鳥井全死と名乗る女性は軽く手を振った。 「言いたくないなら別にいいさ」 そして、何事かをぶつぶつつぶやき出した。 わたしは困惑してネウロに視線を向ける。 「……ネウロ、店出よう」 そう言って立ち上がりかけたわたしを、ネウロは鬼のような力で椅子に引き戻した。そして、千切れんばかりの勢いでわたしの耳を口元に引き寄せた。 「待て、ヤコ。……この女から件の『謎』と同じ匂いがする。我が輩が逃した『謎』の気配だ」 驚くわたしの横で、飛鳥井全死なる女性はなおも何事かを口の中でつぶやき続けている。 「仔牛のブイヨン(フォン・ド・ヴォー)……鳩の血(ピジョン・ブラッド)……紅海(エリュトゥラー・シー)……オーケー、把握した」 「なにを……ですか?」 「んん? だから名前だよ。桂木弥子ちゃん、か。いい名前じゃないか」 今度こそはっきりと意味不明だった。 「どうしたい、そんなリョコウバトが散弾銃喰らったような顔して。言ったろ? わたしはメタテキストが読めるんだ。 弥子ちゃんのメタテキストをちょっと読ませてもらったのさ。メタテキストが読めれば、名前を言い当てるんなんざわけはないよ。 名は体を現すって言うだろう。逆もまた然り。その相関関係を読み取る術さえあれば誰にでもできることさ」 返す言葉を無くしてわたしが途方に暮れていると、ネウロが横合いから朗らかな声で割り込んできた。 「おお! 先生のお名前をご存知ですか! テレビ・雑誌・新聞で売名行為にいそしんだ甲斐がありますね、先生!」 と、外面のよさを表に出して、にこやかに飛鳥井さんに語りかける。(それにしてはあんまりな言い様だけど) 彼女は急に不機嫌そうになってネウロを一瞥する。 「お前には話しかけてないよ。黙ってろ。それにな、わたしはマスコミだなんて屑の塊に興味はないよ。 わたしの言ったこと聞いてなかったか? 弥子ちゃんのメタテキストを読んだって言っただろうが」 そして、再び、何事かをつぶやく。 「絶対零度(アブソルート・ゼロ)……琥珀雷(エレクトロン)……恋の炎(ゲヘナ・フレイム)……紙片(ペイパーカット)……。 おっと、こっちはこれまた変な名前だな。漫談師でもやってるのか? なあ──脳噛ネウロ」 ──ネウロの顔から取って付けたような笑顔が消えた。 その代わりに、心底から嬉しそうな、そして邪悪さに満ちた……本物のネウロの笑みが浮かび上がる。 「ク……ククク……ヤコよ、これだから人間は面白い……先日の『不可触(アンタッチャブル)』とやらに続いて、今度はこの女だ」 「なんだよ、やっぱり辺境人(マージナル)を知ってるんじゃないか。そうならそうと、もったいぶってないで言えよ。 ……ん? 『不可触(アンタッチャブル)』まで知ってるってことは、それなりに深い仲なのか?」 深い仲というか、殺されかけた訳ですけど。 「クハハ……それこそ貴様の言う『メタテキスト』とやらを『読ん』だら良かろう。 その能力がいったいどういう類のものかは特定できぬが、おそらくは個人の本質に関わる情報を表面から解読出来るようだな……違うか?」 その言葉に、飛鳥井さんも──実に禍々しい笑顔で応える。 「当たらずとも遠からず、と言ったところかな」
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【死】─The Strangers─ 学校が終わると「桂木弥子魔界探偵事務所」に顔を出すのが、最近のわたしの日課になっている。 それが、『あの日』を境にして組みかえられた、わたしの日常だった。 ──わたしの『日常』は一度崩壊している。 わたしの父親は殺された。しかも、『密室殺人』という世にも奇妙な手段によって。 ミステリの世界にしか存在しなかったと思っていた『謎』という概念と、わたしは間近に接してしまったのだ。 それは、今まで信じて疑わなかった『日常』という一つの世界が崩れ去った瞬間だった。 その後、わたしは『謎』を解く(くう)という魔人ネウロと出会い、そいつが『トリック』を暴くことで事件は解決した。 かくして平穏な『日常』がわたしの元に戻ってきた。 だがそれは、決して以前の『日常』ではなかった。 わたしはこの世界の『悪意』を、「世界には『謎』が満ちている」ということを既に知ってしまった。 この世に永遠に変わらないものなんてない。『謎』と出会うことで、わたしの『日常』はまったく新しいかたちに変貌したのだ。 ──そしてわたしは今、『女子高生探偵』桂木弥子として、魔人脳噛ネウロの協力者(奴隷)として、日々『謎』に接している。 それが、一度崩れた世界の中からわたしが組み上げた、わたしの『日常』だった。 繁華街の一等地のビルの最上階に「桂木弥子魔界探偵事務所」は居を構えている。 それは、ネウロがその筋の金融会社の事務所だった部屋を乗っ取って設立したものだ。 この事務所を拠点として、わたしは「探偵役」をやらされ、ネウロは「助手役」という立場に隠れて『謎』を解い(くっ)ている。 「ただいまー、アカネちゃん」 応接用のソファーに鞄を投げ捨て、わたしは壁からぶら下がる黒髪のおさげに向かって挨拶をした。 傍から見るときっと間抜けな光景だろうが、わたしは冗談でやっているわけじゃなかった。 壁から垂れる一房の三つ編み──『彼女』はこの部屋の『先住者』であり、わたしたちがこの部屋に入居するはるか以前に何者かによって殺されている。 その死体はポーの黒猫よろしく壁に埋められていたのだが、ネウロの発する魔界の瘴気に当てられて髪の毛部分だけ蘇生してしまった。言わばリビングデッドだ。 以来、彼女は週五回のトリートメントを報酬として、事務所の秘書として内務を担当している。 「……あれ? ただいま、アカネちゃーん」 いつもはぶんぶんと髪の毛を振って応えてくれるアカネちゃんが、今日はなぜかぴくりとも動かなかった。 キューティクルの調子でも悪いのだろうか。それとも、なにか動くに動けない理由でもあるのだろうか。 「なにやってんだ、探偵」 驚き、背後を振り返ると、見るからにチンピラ丸出しの男が立っていた。 「あ……吾代さん。こんちわ。どうしたの?」 「あの助手に呼ばれたんだよ。つーか、誰だアカネって」 彼はネウロが魔人であることを知らない(普通の人間ではないことには気づいてるだろうが)。 だから当然、ネウロの影響で蘇ったアカネちゃんのことも知らない。 「わ、わたしの友達。……脳内の」 「お前……そんなに友達いないのか?」 なんか痛々しい目を向けられた。 物凄い誤解なのだが、アカネちゃんのことを説明するわけにもいかないので、黙ってその視線に耐えるしかなかった。 「そ、それでネウロに呼ばれたってなんのこと?」 「あ? 例によってテメーらのパシリだよ。ったくよ、あの化物、人使いが荒いったらねえ」 彼は元々はこの部屋の住人だった(アカネちゃんの後であるが)。 悪徳金融会社の社員として清く正しく真面目に働いていたのだが、 なんの運命のいたずらか社長を殺され、その『謎』を嗅ぎつけたネウロに事務所を奪われ、 挙句の果てに「桂木弥子魔界探偵事務所」の雑用(奴隷二号)としてネウロにこき使われているのだ。 今は民間の大手調査機関に副社長として出向しており、全国津々浦々に広がる情報網でネウロの主食である『謎』を集めている。 「おお、揃っているな」 なんかいろいろ入った紙袋を腕に抱え、ネウロが悠然とした足取りで事務所に現れた。 これで「桂木弥子魔界探偵事務所」のスタッフが勢揃いしたことになる。 もっとも、あくまでネウロを中心としたネウロのためだけの人材なわけであるが。 「おいコラ助手。人を呼びつけておいてテメーは気楽にお買い物かよ」 いかにも買い物帰り、といった感じのネウロを見咎め、吾代さんがネウロに文句をつけるが、 「まあそういきり立つな吾代よ。酒のつまみに特売品のドッグフードをくれてやろう」 「いらねーよ!」 「なぜだ? テレヴィのCMでは『犬まっしぐら』と謳っていたぞ。貴様もまっしぐらなのだろう?」 「テメェ……いつか殺す……」 「ほほう、貴様のような犬ころが我が輩を殺せるかな? 出来もしないことを言うものではない」 「上等だコラ……!」 このままだと血を見る結果になりそうだった。もちろん血を見るのはネウロで流すのが吾代さんだ。 いくら吾代さんが鬼のように喧嘩が強くても、所詮は魔人ならぬ身の上、 本当の意味で鬼のように強いネウロには敵わないのは火を見るより明らかだった。 青筋をぴくぴく言わせる吾代さんをとりなすように、わたしは二人の間に割り込む。 「ね、ねえネウロ。吾代さんになにを調べてもらったのよ」 「そうだったな。吾代よ、我が輩が命じた件はどうなっている? 餌を与えるのは言いつけられた仕事をこなしてからだ」 「だからドッグフードなんざいらねえっつーの! ……クソったれが、お望みどおり調べてやったよ。ほら、これ返すぜ」 そう言って、吾代さんは小さな紙片を投げて寄越した。 それは一枚の名刺で、そこに書かれている文字には見覚えがあった。 「ネ、ネウロ! これって……!」 「そうだ。その名刺は先日貴様があの『辺境人(マージナル)』とやらから受け取った物だ。貴様の財布から抜き取って吾代に調べさせた」 「ちょ、なんてことすんのよ! 人の財布を漁るな! アンタねえ、プライバシーって言葉知らないの!?」 「固いことを言うな。貴様の物は我が輩の物、我輩の物は我が輩の物だ。ジャイアニズムと言うそうだな。 なかなか洗練された思想ではないか。人間の中にもそれなりに進歩的な者がいるらしい。我が輩に相応しい概念だと思わぬか?」 「相応しいっちゃあ相応しいけどなんかダメだろそれ!」 「そんなことより吾代よ、さっさと結果を述べろ」 わたしとネウロの応酬に取り残されて手持ち無沙汰だった吾代さんが、意を得たように頷いて手元の書類に目を落とした。 「お、おう。……テメーの言う『香織甲介』『辺境人(マージナル)』って名前で殺し屋をやってるヤツは、その筋の業界にはいないぜ。 人相風体でもそれらしい人物に心当たりがあるやつは見つからなかった。 社長のコネで警察関係にも当たらせたけどよ、そういったヤツがマークされてるって情報はない。前科持ちでもないみてーだ。 住民登録とかで調べる手もあるが、名前だけじゃ身元を割り出すのに時間が掛かりすぎる」 「ふむ……」 吾代さんの報告を聞きながら、ネウロは顎に手を当てて何事かを考えているようだった。 「吾代よ、一つ確認しておく。『なにも見つからなかった』のだな?」 「ん? ああ、そうだよ。……言っとくけどな、手抜きなんてしてねーぞ。なんの情報も洗い出せなかったぜ。 テメーの気には食わないだろうけどな、ないもんはないんだ。なにかっつーとテメーはゴミだのクズだの言うけどよ──」 「フン、被害妄想も甚だしいぞ。いつ我が輩が貴様をゴミ呼ばわりした? それに、貴様は充分な働きをしている」 「なんだと? だって、なにも調べられなかったんだぞ?」 その点はわたしも意外だった。 てっきり、「この低能」だの「役立たず」だの「地球に優しくない二酸化炭素製造機」だの好き放題に言い散らすと思っていたのだが。 「いや、貴様は立派に我が輩にとって必要な情報を入手してきた。 浅薄で無知蒙昧で愚劣極まりなく知能の覚束ないゴミでクズの貴様には理解できないだろうが──」 (今言った! 『ゴミ』って言った!!) 「『なにも無い』──それも一つの真実だ。不在は存在と同等の価値を持つ。全ての存在認識は対なるものの不在を知ることから始まるのだ」 などと、分かるようで分からないことを言う。 わたしがクエスチョンマークを頭上に浮かべていると、 「例えば、だ──『アリバイトリック』はその認識に立脚したトリックだ。『そこにいない』ことを擬装することで、不可能犯を演出している。 また、ある種の科学実験や数学証明に於いては、ある命題を否定することで逆説的に別の命題を肯定する手法が取られることも多い。 吾代が情報を持ち帰られなかったということは──吾代の目の届く範囲にヤツはいないということだ。今回の調査でそれが判明したのは大きな前進だ」 「おお、なるほどね」 わたしの頭上に豆電球が閃いた。思わずぽんと手を打つ。 「こんなことも即座に理解できないとは、やはり貴様たちはダンゴムシ並の頭脳の持ち主だな。 だが安心しろ、貴様らの知恵など当てにしていないからな。三人寄ってもまだ我が輩のレヴェルに達し得まい」 ……いつもいつも一言多いんだよアンタは。 「さて……ご苦労だった、吾代よ。望み通りに犬まっしぐらのドッグフードをくれてやろう。思うさま貪り喰らうが良い」 「そのネタをいつまでも引っ張ってんじゃねえ!」 「いいから帰れ」 「ぐごぉっ!」 ネウロの投げたドッグフードの缶が吾代さんの眉間に命中した。 なんか「めこっ」って感じの嫌な音がして、彼は仰向けにぶっ倒れてしまう。 「ご、吾代さん!?」 慌てて駆け寄って抱き起こすと、吾代さんはわたしの肩につかまってよろよろと起き上がりながら苦々しげにつぶやいた。 「……お前、よくあんな凶暴なやつと一緒に探偵やってられるよな。身体が幾つあっても足りねーぞ」 「うん。わたしもあと三つくらい自分の身体のストックが欲しいなって最近よく思うの」 吾代さんが帰り、わたしとネウロの二人きりになった(アカネちゃんもいるけど)事務所で、ネウロは椅子に深く腰掛けながら窓の外の夕日を眺めていた。 わたしはおやつのソフトせんべいをさくさく食べていたが、ふと、その手を止める。 「ねえ、ネウロ」 「なんだ」 「本当に……あの香織さんと全死さんを探すの?」 「無論だ」 「でも、見つけてどうするの? 『謎』は生まれなかったんでしょう?」 「『謎』の気配は確かにあった。奴等自身の手によるものではなくとも、遅かれ早かれ『謎』が奴等の身辺に発生するのは間違いない」 わたしに顔を背けて応えていたネウロが、ここではじめてこっちを見た。 窓を背にした逆光のせいで、その表情はよく読み取れなかった。 「ヤコよ。なにを怖れているのだ」 「べ、別になにも」 「そうか?」 ──それは、きっと嘘だった。 わたしは、怖かったのだと思う。 「……香織さんが人を殺す理由、ネウロに言ったよね」 「『習慣』、だそうだな」 「そうだよ。習慣だから人を殺すんだって。信じられる? わたしが家に帰ったらまず靴を脱ぐみたいに、ドアを開けたら閉めるように、そんな理由で人を殺してるんだよ? それに、全死さんは『メタテキストをいじれる』って言ってた。 その意味はよく分からないけど、そうすれば『安全な標的』……安全に人を殺せるんだって」 「なにが言いたいのだ、ヤコ」 「だから……ネウロ、大丈夫なの? 『謎』を生む『悪意』がなく人を殺せる人間がいて、『謎』の生まれる必要のない『安全な標的』を作れる人がいて、 今はあの二人だけなのかもしれない、でも、もし、そんな人たちが他にもいて、それでそんな人たちが増えたりしたら……。 いつか、この世界から、『謎』が消えて無くなっちゃうんじゃないの? そしたら、ネウロはどうする気?」 「なんだ……貴様は我が輩の食料危機の心配をしているのか?」 「だ、誰がアンタの心配なんか!」 さらに言い募ろうとするわたしを手で制して、ネウロはふわりと椅子から浮かび上がった。 そして宙で身を反転させ、そのまま天井に降り立つ。 「だが、貴様にしては珍しく良い着眼点だ。 そう──まさにその故に、我が輩は奴等を見定めなくてはならない。 奴等が我が輩にとっての『天敵』になりうるかどうか、是非とも確認しておく必要があるのだ。 もしも奴等が『謎』を否定するような存在であるならば、早めに排除せねばなるまい。 理論上は存在するであろう、我が輩の脳髄の飢えを満たす『究極の謎』に到達するためにも、な」 夕暮れの中で逆さに立ちながら、『謎』喰いの魔人はそう言って不敵に笑った。 今となってはどうでも良い話だが、俺は中学生の頃、同級生の少女を殺した。 彼女に対してなんらかの恨みや欲望があったわけではない。ただ、俺には人を殺す習慣があり、その習慣に従って殺した。 だが、殺人という行為のリスクに鑑みるなら、見知った人間を殺すべきではなかった。 案の定というかなんというか、その殺人は幼馴染の女に嗅ぎつけられる仕儀に陥った。 それだけならまだいい。その女は(多分、面白半分で)俺の行為を勝手に『密室殺人』に仕立てあげたのだ。 俺は『習慣』を、日常を、レギュラーを大切にして生きている。 それまで俺は、自分の殺人行為にそんなミステリ風の茶目っ気を導入したことなど一度も無かったのだ。 まったくの話、余計なお世話もいいところだった。そのお陰で、俺は危うく司直の手に落ちる寸前まで行ってしまった。 俺の習慣を破壊したその女が悪いのか、それとも同級生という身分の人間を殺した俺が悪いのか。 それは俺には分からない。 ──はっきりとしているのは、このエピソードは習慣の重要性を改めて俺に教示する寓話であり、 飛鳥井全死という傍若無人で無軌道な女が俺の『日常』に組み込まれることとなった、その切っ掛けであるということだった。 いつものように大学の授業を終えて部屋に帰ると、(不本意なことに)いつものように全死がそこにいた。 「お帰り、辺境人(マージナル)」 ビールの缶を掲げる全死はそう言って笑ったが、元の面構えが凶悪なので、とてもじゃないが俺の帰りを歓迎しているようには見えなかった。 また勝手に人の部屋に上がりこんで──という抗議は胸中だけに留めておいた。言うだけ無駄であり、口を動かすカロリー分だけ損をするからだ。 「また昼間からビールですか。いいご身分ですね」 テキストやらノートやらを入れている鞄を床に投げ捨てながら思ったままを告げると、全死は「ふん」と唇を歪ませた。 「わたしがいいご身分なのは当たり前さ。それに、ドイツ人は昼間でもビール飲んでるぞ」 「ここは日本です。そこまで言うならドイツに帰化したらどうです? その方が俺も肩の荷が降りるというものです」 「馬鹿言うなよ。愛するお前を置いてそんな遠くに行けるもんか」 「それはどうも。身に余る光栄ですね」 そんなことは微塵も思っていないのだが、とりあえず自動的にそんな言葉を吐く。 見ると、テーブルの上にはビールの空き缶が散乱しており、おまけにだらしない全死が辺り構わずビールをこぼしたせいでべたべたに汚れていた。 ちょっと眉をしかめそうになるが、敢えて無表情を装って全死の向かいに腰を下ろす。 「それで、今日はなんの御用ですか?」 「まあ、とりあえず飲めよ。まだまだあるぞ」 「それは俺の家の冷蔵庫に入っていたビールでしょう。全死さんに『飲めよ』と勧められる筋合いはありません。 むしろここは、俺が怒ってもいい場面ですよ。他人の家の冷蔵庫を開けるのは礼に反します」 「飲まないのか?」 「……飲みますよ。俺のビールですからね」 全死はつまみもなしにビールを七缶も空けていた。変なところで器用な女である。 冷蔵庫になにかつまみになりそうなものがあったはずだと腰を浮かしかけたとき、チャイムが鳴り響いた。 「どうぞー、開いてるよ」 「全死さんに来客の応対をする権利はありません」 そう言いつつ、冷蔵庫へと向かっていた足を玄関口へと軌道修正した。 ドアを開けても、そには誰もいない──と思ったら、視界の底辺に小柄な人影が辛うじて引っ掛かっていた。 目線を下げてそこに焦点を合わせると、それが誰であるかは即座に判明した。 「こんにちわ。全死さん、いらっしゃいますか」 荻浦嬢瑠璃だった。薄地のセーラー服を折り目正しく着込んで、首筋にうっすら汗をかいていた。 「……なんであの人がここにいると思うんだ? 言っておくけど、ここは全死さんの家じゃないぞ。 俺が賃借契約をしている部屋だ。俺が全死さんと同棲してるとか気色悪いことを考えてるんだったら即座に改めてくれ」 「それは把握しています。ですが、全死さんから連絡がありましたので。ここに来い、と」 「なるほどね。納得した」 全死が呼んだというなら否も応もない。仕方なく嬢瑠璃を招じ入れる。 嬢瑠璃は律儀に「お邪魔いたします」を礼をし、「差し入れです」とスーパーの袋を差し出した。中を覗くと鳥の唐揚げだった。 この年頃の少女にしては実に気の利いた態度だろう。 いい歳こいて無断で他人の部屋に上がりこむどこかの誰かに、彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたらいいと思う。 だが現実はいつだって悲しい。実際はその真逆で、この荻浦嬢瑠璃は全死の悪影響をモロに被る立場にあり、日々全死に毒されているのだ。 「やあ、嬢瑠璃ちゃん、早かったね。褒めてあげよう」 「お褒めいただかなくとも結構です。わたしは全死さんの奴隷ですから」 ──そう、全死と嬢瑠璃の間には、およそ現実離れした『主従関係』が成立しているのである。 以前はおおむね普通の女子中学生だった彼女は、不運にして不条理なことに全死に目を付けられた。 「あの子をわたしのものにする」という自己中心的な全死の意向により、彼女の人生計画は大きく狂ってしまった。 数ある全死の悪癖のなかでももっとも過激なのが、この「気に入った少女を支配下に置く」というやつだろう。 果たして全死の常軌を逸した過干渉を受け、挙句に上手いこと言いくるめられ、終には全死の目論見どおりに全死の奴隷になってしまった。 本人は「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストを改変したんだよ」と称しているが、その現場を傍観していた俺からすれば妙なロジックで言いくるめているようにしか見えなかった。 「香織さん、お皿を拝借します」 「ん? ああ、勝手に使えばいい」 嬢瑠璃は甲斐甲斐しくも全死のために鳥の唐揚げを皿に取り分けていた。 「──あ」 と、嬢瑠璃の手から箸がぽろっと落ちる。 咄嗟に伸ばした手がその小さな手と触れる。他人と手を触れ合わせる経験など大して持ち合わせていないが、 それでも嬢瑠璃の手には、はっきりと感覚できる違和感があった。 彼女の手には、薬指が無かった。 それは事故によるものではなければ自分で切り取ったものでもない。強いて言うなら、彼女の両手の薬指は全死にもぎ取られたのだ。 「強いて言うなら」という奇妙な表現なのには理由がある。実際には全死がその手で嬢瑠璃の指を切断したわけではない。 嬢瑠璃が全死の奴隷になった日──全死の言葉を借りれば「嬢瑠璃ちゃんのメタテキストが改変された」その瞬間、 嬢瑠璃の薬指がなんの前触れも無くパージされたのだ。 全死は「メタテキストをいじって他人を味方につけると稀にこうなるんだ」と説明したが、まるで意味不明だった。 メタテキストうんぬんを信じるにしても、それと嬢瑠璃の指が吹き飛ぶことの間に、どんな因果関係があるのか。 しかしまあ──結局はそんなことはどうでもいいことである。事実として嬢瑠璃の指は欠落してしまったのだ。 そうなっているのだから仕方が無い。世の中とはいつだってそういうものだ。 とりあえずの確定事項として、荻浦嬢瑠璃は全死に『飼われて』いる。 それだけしっかりと把握しておけば俺の生活にはなんの支障も無かった。薬指が無くて困るのは俺ではない。 彼女がエンゲージリングを填められない身体になっても、それは俺の知ったことではなかった。 「あの、離してくれませんか」 言われて我に返る。思考に気を取られて嬢瑠璃の手を握ったままだった。 顔を上げると、嬢瑠璃の平静で無感動な瞳が俺を捉えていた。 「おっと、悪い」 「いえ」 嬢瑠璃は顔色一つ変えずにそう述べた。まあここで頬を染められても俺が困るわけだが。 「おいおいおい、なにやってんだよ辺境人(マージナル)。わたしの嬢瑠璃ちゃんにセクハラなんて許さないぞ」 「人聞きの悪いことを言わないでください。ちょっと考え事をしていただけです」 「ふん、どうだか。──そういやお前、あの子どうするつもりだ?」 「あの子って?」 「桂木弥子ちゃんだよ」 さっぱり心当たりが無かった。さて、誰だっけ──と考え始めたところで、嬢瑠璃がそっと耳打ちする。 「『目撃者』ですよ」 「ああ、『探偵』の。言われてみればそんな名前でしたね」 「ん? なに、あの子、探偵なのか?」 「少なくとも受け取った名刺にはそう記されてましたはずです。ちょっと待ってください。 ええっと……あった。『桂木弥子魔界探偵事務所』──なんだか、ずいぶんとプログレッシヴな名前の探偵事務所ですね」 「そんな枝葉はどうでもいいんだ。お前はあの子をどうするつもりだって聞いてるんだよ」 正直に言って、全死の質問の意味が理解できなかった。 なんの必要があって、自分の殺人行為を目撃された少女と交渉を持たなければならないのか。 探偵だかなんだか知らないが、民間人である彼女は現行犯以外の逮捕権を持ち合わせていない。 つまり、彼女の証言によって俺の行為が明るみに出ても、それは別の証拠物件によって俺が逮捕されるのとなんら変わりが無い。 そして証拠隠滅とは行為の直後に行うものであり、「あ、消し忘れた」とのこのこ隠滅しに戻るものではないのだ。 下手に動けば動くだけ、自分の存在を外の世界に知らしめることになる。 こういう場合は何食わぬ顔をして日常を過ごすのが最上だろう。 「どうするって……どうもこうもありません。没交渉です」 「なんだよ、なにもしないのか? ──というか、お前鬼だな」 俺は鬼ではない。これでも自他共に認める人間である。 「俺は鬼じゃありません。れっきとしたホモ・サピエンスです」 「だってそうだろう? そんな鉄板もののフラグ立てておきながら、しれっとした顔してそいつをへし折るんだもの」 「……言ってる意味が分かりません」 「あん? この愚鈍が。孤高の殺人者とそれを目撃した少女なんてこれ以上ない純愛フラグじゃないか」 「全死さんはエロゲのやりすぎじゃないでしょうか。そもそも俺が孤高だってのはどこから発生した説ですか」 しかしというかやはりというか、全死は俺の意見など聞く耳持たずに好き勝手なことを並べ立てる。 「まあ、問題なのはお前が『辺境人(マージナル)』だってことだな。生粋のフラグブレイカーだよ、お前は。 こっち側とあっち側の境に立って、どっちにも引っ張られたくないっていう、どうしようもなく我侭な人種さ。 ──ふん、まあいいさ。お前にその気がないってのなら、わたしも遠慮がいらないからな。 いや、もちろんお前にその気があっても遠慮しないけど」 「はあ、そうですか」 なにか、とてつもなく嫌な予感がした。 それは俺の頭痛の種が増えるような予感であり、俺のレギュラーが乱される予感であり、その感覚には覚えがあった。 無意識的に傍らの嬢瑠璃を見る。彼女は呆れているような困っているような、なんとも言い難い微妙な目線を返してきた。 「決めたぞ、辺境人(マージナル)。わたしは弥子ちゃんを自分のものにする」 そう言い、全死は実に悪意に満ちた──気の弱いやつなら思わず目を逸らしてしまいそうな禍々しい笑みを顔いっぱいに浮かべた。 「自分のものにする」という言葉の定義は場合によって様々である。 嬢瑠璃のように名実ともに完全に支配下におくこともあれば、ただお茶をするだけのこともある。 だが──どの道、全死に狙われた少女に最悪の災難が訪れるのは免れないだろう。 全死のような無秩序で破滅的な人間と関わりをもつということは、即ちそういうことである。 俺としては、『女子高生探偵』桂木弥子に降りかかるであろう空前絶後の災害を胸のうちで悼むことしか出来ない。 ただまあ、その前に一言だけ全死に苦言を呈しても罰は当たらないだろう。 「──またそれですか。もう少し自重したどうです。嬢瑠璃の日常を目茶苦茶にした失敗からなにも学んでいないじゃないですか」 すると、全死は意外にも真面目そのもの、といった口調で返してきた。 「なにを言ってるんだ。嬢瑠璃ちゃんの件でわたしは失敗なんてしていないぞ。──いや、『失敗できなかった』というのが実相に近い。 いつも言ってるだろう。わたしは常に正しいんだ。完璧なんだ。完全無欠で無謬で絶対に間違えないんだ」 それに対し、俺は精一杯の溜息をついてこう答えるだけに留めた。 「はいはい。そうでしょうとも」 ある意味犯行予告とも取れる全死の宣言の後も、酒盛りはしばらく続いた。 気の抜けてぬるくなったビールを口に運びながら、全死がぽつりと漏らした。ついでにビールも口の端から垂らしていた。 「なあ、辺境人(マージナル)。お前、弥子ちゃんと脳噛ネウロに『仕事』の現場を見られたと言っていたよな?」 「はい。その通りですけど」 全死の依頼を受けて有栖川健人という高校生を殺害した夜、いったいなんの間違いか、俺はあの二人にその現場を目撃された。 実に遺憾なことに、すべての元凶はそこにある。 それさえなければ桂木弥子も全死に見初められることもなかっただろうに。 そのささやかな偶然のせいで、俺と彼女はどうしようもない厄介ごとを抱え込む破目になっている。世の中とはままならないものである。 「それなんだけどさ……お前、誰を殺したんだ?」 「はあ? ……有栖川健人という男子高校生ですよ。全死さんが持ってきた『依頼』じゃないですか」 「そいつ、生きてるぞ」 「はあ?」 知らず、声がわずかに大きくなっていた。 「だからさ、生きてるんだよ、そいつは。依頼主からクレームが来たぞ。『まだ殺してくれないのか』ってな」 ふと気がつくと、いつの間にか夜になっていた。 嬢瑠璃は床に横になってすうすう寝息を立てている。 神経質が服を着て歩いているような嬢瑠璃のこんな姿を見るのは、ネッシーを肉眼で確認する程度には希少なシチュエーションだった。 だが今はそれころではなかったので、そのレアケースに対してはなんの感想も抱かなかった。 「それは……つまり……どういうことですか?」 「まあ単純に考えるなら『人違い』だろうな。そりゃ目撃されるわな。だってわたしの保証外だもの」 ──なんということだ。 間違えていたのは、俺だった。 「でもおかしいですよ、それ。俺はちゃんと相手の家から尾行して殺したんですから。 それに、なら……俺が殺したのは誰だったんです?」 状況を整理するべく脳のフル回転を始めた俺の眼前に、全死の顔が近づいてきた。 窓から差し込む月光を照り返して、ノンフレームの眼鏡がきらりと光る。 「おいおい、まさかとは思うが、お前この『謎』を解こうとか考えてるんじゃないだろうな。 辺境人(マージナル)は考えない、変化しない、成長しない、謎を解かない、世界はあるがままでわが友──それがお前のモットーだろう?」 「勝手に俺に変なキャッチコピーを付けないでください」 「そんなことより……いちゃいちゃしないか?」 そう言って、あぐらをかいた俺の膝に全死が座り込んできた。そして、俺の耳たぶを軽く噛んでくる。 それへの答えは一つしかない。 「──嫌です」
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【常】─I was Born to Kill─ この世界は謎に満ちている、と思う。 ──だからこそ、こいつはこの世界にやってきたのだから。 『ペロ……これは青酸カリ!』 わたしの目の前に大迫力で展開された銀幕の向こう側の世界で、身体は子供頭脳は大人な名探偵が深刻そうな口調でそう告げていた。 「そんなもん舐めたら普通は死ぬんじゃない……?」 わたしは膝に抱えたLLサイズのポップコーンを頬張りながら、たった一つの真実を求め真っ赤な蝶ネクタイが映える不審人物に向けて小声でツッコミを入れた。 その次の瞬間、後頭部に常軌を逸した力が加えられた。 なす術も無く、わたしの頭部は膝の上のバケツ並みの紙容器に押し込められ、顔面が満遍なく醤油バター味で味付けされた。 「はぶっ!?」 「黙れ」 なおも万力のような怪力でわたしの頭を押さえつけながら、そいつはひどく涼しげに言った。 「貴様の下らぬさえずりのせいでせっかくの台詞を聞き逃したではないか」 言っている間にも、わたしの首から上とポップコーンの器の底との距離がどんどん縮まってゆく。 必然的にわたしの顔面と容器に詰め込まれたポップコーンは容赦なく押し潰されているわけだが、こいつはそんなことなどお構いなしのようだった。 「それに──青酸カリそれ自体は毒でもなんでもない。人間の胃酸と化学反応を起こすことによって、世にも恐ろしい猛毒となるのだ」 せっかくのトリビアなのだが、正直言って、わたしはそれどころではなかった。 ──だって、山盛りのポップコーンに顔を埋めて窒息死寸前だったのだから。 悲鳴を上げようとしても、口の中にまでポップコーンが詰まってしまって声にならない。 (人生の最後は食べ物に囲まれて死ぬのが夢だけど乾き物オンリーっていうのは嫌だ! せめて飲み物をー!) 「むぐ、むー!」 わたしは全身をばたばたさせて、今まさにわたしに引導を渡そうとしている相手に向かって窮状を訴えるが、 頭蓋骨をがっちりつかんだその手が緩む気配は無かった。 身体中の力を振り絞ってその縛めに抗おうとしても、常識外れの圧力がわたしの頭を直径二〇センチの円筒形に押し込めてびくともしない。 こいつに単純な力勝負を挑んでも勝ち目が無いのは、火を見るより明らかだった──なぜなら、『こいつ』は人間ではないのだから。 「ふむ? いきなり抵抗が失せたな。死んだのか? 憐れ、たかだか菓子ごときに生き埋めになるのが貴様の末路か。 まあ、貴様らしいと言えば貴様らしいな。安心しろ、墓には毎年ポップコーンとやらを供えてやる」 などと、なんの悪びれもの無い言葉が頭上から響いてくる。 「誰が死ぬか! しかも死因の凶器をお供えするってどんだけの嫌がらせだよ!?」 わたしは叫び、紙製の容器を引きちぎって一分三十秒ぶりに新鮮な空気を吸った。 「ほう、まさか自力で脱出するとはな。中身はどうした?」 「食べたさ! そりゃもう死にもの狂いでね!」 膝にぱらぱらと落ちた食べ残しのポップコーンのカスを払い、乱暴に言い返す。 「もう! いきなりなにすんのよ、わたしがなにしたっての?」 油でべたべたになった顔面をウェットティッシュで拭きながら恨めしさを込めて呟くと、 「おお、思い出した」 そいつはぽんと手を打ち、 「さっきから騒々しいぞ。奴隷の分際で我が輩の芸術鑑賞を妨げるとは許しがたい」 強烈なボディーブローをわたしのみぞおちに叩き込んだ。 ぐぼごぼごほ、と変な呼吸をするその横で、そいつはもう何事も無かったかのように映画の世界に没頭している。 わたしは釈然としない気持ちで、その横顔を睨みつけた。 (てゆーか、アンタが騒ぎを大きくしてるんじゃん……) 『そうか……分かったぞ! おっちゃん、ゴメン!』 スクリーンの中ではすでにクライマックスシーンが始まっているようだった。 陸の孤島となった洋館で起こった連続殺人の犯人を暴くべく、主人公の男の子が傀儡の探偵に麻酔銃を撃ち込んでいる。 (……なんか、身につまされる話だな) 映画の内容にそんな感想を抱きながらふと横を見、思わず息を呑んだ。 隣の『そいつ』は、いつもの怜悧な無表情をわずかに緩ませ、うっとりとしたような面持ちで銀幕に見入っていた。 それだけならまだしも──そいつは口元から鋭い牙をのぞかせ、涎を垂らしていたのだ。 それはそう、まるで、わたしがテレビの美食番組を見ているときにそうするように。 (ミステリのアニメを観てそんな風になるのは、世界広しと言えどアンタくらいなモンだろーけどね) やれやれ、と首を振り、遅ればせながらわたしも大人しく映画の世界に浸ることを決意する。 そして、九十八個目のLLサイズのポップコーンを膝の上に置き、思い切り頬張った。 「おい、あの子まだ食べる気だぜ」「さっき売店のお姉さんが泣いてたぞ。『もう明日の分の在庫まで消えた』って」「くそう、気になって映画どころじゃねーよ」 などといった囁きが背後の席から聞こえてきたような気がしないでもないが、理性の力で無視する。 『そう……犯人はあなたです!』 ポップコーンの醤油バター味に舌鼓を打つわたしの目の前で、今、殺人事件の謎が解かれようとしている。 「見るがいい、ヤコ。虚構の産物と言えど、『謎』が解かれる瞬間を目の当たりにするのはやはり心が躍るものだな」 「興奮しすぎて正体を現さないでよ、ネウロ」 『そいつ』の名前は脳噛ネウロ。 人間ではない。人の世ならぬ魔界の住人であり、『謎』を主食とする極めて特異な存在である。 魔界の『謎』を解き(たべ)尽くしてしまったネウロは、『謎』を求めて人間の世界へとやって来た。 そして不運にもネウロとファーストコンタクトを果たしてしまったわたし、桂木弥子を傀儡の探偵と仕立て上げ、 自分はその助手に収まることで、数々の事件を解決に導いている。 事件の『謎』を解くことで解放される『悪意』がネウロのエネルギー源であり、それを得るためにネウロは『謎』を解く。 つまり、ネウロにとって『謎解き』とは『食事』と同義なのだ。 もしもネウロがこの世界の『謎』をも解き(くい)尽くしてしまったら、そのときこの世界は一体どうなってしまうのだろうか。 それは誰にも分からない。少なくとも、わたしには想像もつかない。 ただ一つ言えることは、 この世界は謎に満ちている──今は、まだ。 この世界は謎に満ちている、と思う。 だからなんだと訊かれても困る。それはただの感想であり、それ以上の意味はないからだ。 謎を解くのは俺の仕事ではない。(かと言って俺が謎を解かなくてもいい理由にはならないが。解くか解かないかは単に個々人の意志の問題だ) 初夏も半ばに差し掛かったある日の午後、退屈な大学の授業を終え帰宅したとき、ワンルームのドアノブが開錠されていることに気がついた。 俺は出かける前にはちゃんと鍵をかける習慣がある。かけ忘れ、ということは有り得ない。こと『習慣』という行為に関して、俺は常に徹底している。 つまり、俺以外の何者かが俺の意向を無視し、意図的に且つなんらかの手段で鍵を開けたということだ。 そして、その条件に該当する可能性と言えば──ここまで考えて、面倒になったので思考を打ち切った。 部屋に誰がいるか、そしてどんな意図と手段でもって不法侵入を果たしたのかは、中に入ればすぐに分かることだ。 泥棒の可能性も考えないでもなかったし、部屋の住人の登場で空き巣が居直り強盗に進化を果たすということも十分にありそうな話だが、 もし仮にそうだとしても俺にとってはなんら脅威ではない。 だから俺はなんの躊躇も無くドアを開いた。まず、隙間からひんやりとした空気がまず溢れ出してきた。 図々しくも侵入者は冷房を付けているようだ。もちろんこれは俺が出かける前に空調を消す、という習慣に基づいた仮定だ。 わずかに注意をみなぎらせてドアを全開にし、そして俺は大仰にため息を付いた。 よりにもよってこいつが侵入者だとは── ある程度予想の範囲内だが、まったくの話、泥棒のほうがまだしもましだった。警察でもなんでも呼んで追い返せるからだが。 「──全死さん。俺の部屋でなにをしているんですか」 たいして広くも無いワンルームの中心に、そいつは腰に両手を当てて仁王立ちしていた。 「よう、辺境人(マージナル)。調子はどうだい?」 「さっきまで絶好調でしたが今は絶不調ですよ。とりあえず土足で部屋に上がるのは止めてくれませんか」 ノンフレームの眼鏡の奥に光る凶悪な瞳に笑みを浮かべ、そいつ──飛鳥井全死は軽く肩をすくめた。 「なんだ、細かいことを気にするやつだな。そんなんじゃ出世できないぞ」 「俺は学生ですからね。出世とやらに興味はありません」 「ははあ、そうだろうよ。辺境人(マージナル)は考えない、謎を解かない、成長しない、変化しない、そして世界は総てあるがままで我が友──それがお前のモットーだもんな」 「勝手に俺に変なモットーを与えないでください。それから辺境人(マージナル)なんて珍妙な呼び方も」 「馬鹿言うんじゃないよ。わたしはただ、お前の生き様を言語化してるだけだ。 珍妙だと言うならお前の存在自体が珍妙なんだよ。なんならワシントン条約で保護してやってもいいぞ」 「なにを言ってるんですか、もう……」 ──まったく、泥棒のほうがまだしもましだった。 飛鳥井全死という女は魔女に似ている。 内面の話ではない。外見の話だ。 黒のノースリーブのキャミソールに、下は黒のフレアスカート、西部開拓時代のようなごついベルトを腰に巻いて、足には黒のバンプス、フェルトの鍔付き帽子も黒である。 魔女と称するにはややワイルドな服装だが、このままワルプルギスの夜に出張してもなんら違和感は無いだろう。 全死のことだから一度や二度くらいはサバトに顔を出してるのかもしれない。(もちろんそんなことは有り得ないことだが) で、内面はというと……魔女よりタチが悪いのは確実だろう。 「全死さん、頼みますから靴を脱いでくださいよ。日本家屋の常識を知らないんですか」 「知ってるに決まってるだろうが。そんなことも分からないのか、この愚鈍」 「なら脱いでくださいよ」 「嫌だね」 「駄々をこねないでください。なんの意味があるんですか」 「意味のあることが全てじゃないだろう、辺境人(マージナル)」 「じゃあなんの意味もなく、俺の部屋に不法侵入した挙句勝手に冷房入れてあまつさえ土足だと言うんですか? ……あ、そうだ思い出した。全死さん、どうやってドアの鍵開けたんですか」 「内側からだ」 「はあ?」 「はあ? じゃないよ馬鹿。隣の部屋からベランダ伝いに入って内側から開けたんだよ」 「なんてことするんですか。無茶苦茶ですよ。隣にはなんて言い訳したんですか?」 「ええと……世を忍ぶ仲の恋人だと言ったな、確か」 思わず天を仰ぐ。二重のリングをなす蛍光灯の一本が切れていた。 「どうしてそういう根も葉もないことを言うんですか」 「別にいいじゃないか。減るもんでもなし」 「俺の信用という隠しバロメータが減ってるんですよ。 全死さん、以前は管理人に妻だと言いましたよね。そして近所の人には俺の妹だとも詐称していたはずですよ」 「ああ……そんなこともあったっけか」 「まるで整合性が取れてないじゃないですか。どう話に折り合いをつけるんです。俺の近所付き合いを根絶させるつもりですか」 俺の切実な訴えも全死にとってはどこ吹く風のようで、 「そんな瑣末の文脈なんぞどうでもいいだろ」 「どうでも良くないから言ってるんですよ。俺の平穏な日常を破壊しないで下さい」 「あー、うるさいな。話に筋道通せばいいんだろ」 と全死は犬でも追い払うように手を振り、しばらくぶつぶつとうなった挙句に、 「オナニーだよ」 「は? なに脈絡の無いこと言ってるんですか」 どうでも良いが、いくら四捨五入すれば三十路とは言え、(一応)若い女がそういう単語を平然と吐くのはどうかと思う。 恥ずかしいのは俺ではなく全死なので、全死さえなんとも思わなければ別に構わないのだが。 「いやだからさ、あるだろ。語源だよ。えーと、思い出せないがなんか膣外射精がどうのこうのと」 この際全死の臆面の無さには目を瞑ることにして、言葉の意味だけを掬い上げることに専念する。 「……ああ、『オナンは地に流した』ってやつですか。兄の亡き後に兄嫁を娶った男が、子供を作ることを拒否したって話ですよね」 「そうそれ。兄貴が死んだら、弟は兄貴の嫁さんをもらい受けて兄貴のために子供を作らなきゃいけないんだろ?」 「いわゆるレビテート婚ですね。それで?」 「その逆パターンだよ。お前も相当に鈍いな」 しばしの時間を費やし、脳内の保存記憶に検索をかける。 「もしかして、ソロレート婚のことを言ってるんですか? 妻が死んだらその妹を娶るんでしたっけ?」 俺が愚鈍で馬鹿で相当に鈍いことは敢えて否定しないが(もちろん俺は愚鈍でも馬鹿でも相当に鈍くもない)、 それでも全死のロジックラインがおぼろげに見えてきた。 「あー、と、つまり……俺と全死さんはソロレート婚で結ばれた夫婦だと」 「やっと分かったか」 全死は満足そうに頷き、その凶眼を細めた。 他の人なら恐怖なり反感を抱きそうな目つきだが、俺としてはそんなことよりさっさとバンプスを脱いで欲しかった。 「……ですが、それで妻と妹はフォローできますが、世を忍ぶってのはどうするつもりです?」 「それこそどうとでもなるだろうが。『お姉様の陰でずっとお慕い申し上げておりました』とかでいいだろ」 「でも、それ、事実無根の嘘ですよね」 「人間、真実だけじゃ生きていけないものさ」 そう言って全死は薄く笑った。 全死がこういう埒もない話をするのは機嫌の良い証拠だ。 俺がその恩恵にまったく与れないというのは誠に遺憾であるが。機嫌が良いときくらい俺に迷惑をかけずにいてもらいたい。 全死の機嫌が悪いときにその被害を一身に受けるのは他ならぬ俺なのだから。 なにより俺は全死ほど暇ではない。昼間っからそこらへんうろつき回ってる全死とは違い、俺には生活がある。 酔狂もいい加減にして欲しいものだが、言っても無駄だろう。 「……で、そろそろご用向きの程を教えていただきたいものですね」 靴の件は諦めた。俺が全死に対して強制力を発揮できる状況など皆無だし、そもそも全死は人の言うことなどまったく聞かない。 「用? ああ、用ね。──なあ、いちゃいちゃしようぜ」 それに対する答えは決まりきってるので即答する。 「嫌ですよ」 その突き放したような態度(実際突き放しているわけだが)が気に入らないのか、全死はフローリングの床に唾を吐く。 他人の家でどうしてそんな非常識な真似が出来るのか、ぜひその秘訣を教えて欲しいと思う。素直に感心した。 「なんでだよ。今日はお前の好みに合わせてやる。ホテルでも屋外でもいいぜ?」 「今日だろうが明日だろうがビルの屋上だろうが世界の果てだろうがお断りします。俺は真面目な学生なんです。用件はそれだけですか?」 再度唾を吐き、全死は忌々しげに舌打ちした。 「ったく……この鈍色鮪が。その愚鈍さは一度死ななきゃ直らないか? まあいいや、残念なことにな、本題は別の所にあるんだよ」 「だったらそれをさっさと言ってください」 「嘆かわしいね。そんなに生き急いでも寿命は縮まないぞ。──辺境人(マージナル)、お前に仕事を頼みたいんだ」 「仕事、ですか。了解」 時々思う、なぜ俺は、全死のような破滅的な人間と交流を持っているのかと。 いや──答は分かりきっている。 それがレギュラーだからだ。 俺は習慣に忠実に生きている。レギュラーを好み、イレギュラーを遠ざけて日々を送っている。 全死と付き合っているのも、それが既成事実として成立している習慣だからだ。 全死の振る舞いや、全死が持ち込む難題はイレギュラーであるが、それを包括するレギュラーとして全死の存在がある。 全死の奇行に頭を痛める日々も、それが定常化されればそれは単なるルーチンワークのレヴェルにまで落とし込める事象となる。 そう──習慣に従って生きることで、俺は幸福に近づいていける。 それはちょうど、飛鳥井全死が自動的に不幸へと直進しているのと同じ確実さで。 映画館を出ると、月が空のてっぺんに昇っていた。 「あー、食べた食べた。あそこの映画館のポップコーンは知る人ぞ知る逸品なのよねー」 「ふむ……たまには他人が『謎』を解くところを観るのも気晴らしにはなるな」 わたしとネウロの会話は思いっきり噛み合ってなかったが、満腹でご機嫌のわたしにはあまり気にならなかった。 繁華街から一本離れた通りは人気がなく、どこかうら寂しい感じがする。 夏の夜の熱気もここでは少しだけ和らいでいて、たまに涼しい風が頬を掠めている。 「──む?」 ふと、ネウロが足を止めた。 「なによ、どうしたの?」 ネウロは答えず、ただじっとビルとビルの隙間の路地を凝視していた。 「ヤコよ、『謎』の気配がするぞ」 その表情が極めて極端な変化を見せていた。 口元は裂けて耳まで届こうとしており、奇妙にねじくれた角が後頭部から二本のぞいている。 普段は爽やかな好青年を装ってはいるが、実は人間以外の存在──魔人であるネウロが、その本性を剥き出しにしかけていた。 「ちょ、ちょっとネウロ! こんなところで!」 こんな怪物そのまんまなネウロが人の目に付いたなら、きっととんでもない大騒ぎになるだろう。 「ネウロってば! アンタいい加減で通報ぐへぇ」 小声で、だけど激しくネウロに詰め寄ったわたしのアゴに綺麗なクロスカウンターを決め、ネウロはぼそり呟いた。 「これは確かに上質な『謎』の気配だ……だが、しかしこれは……」 アスファルトに横たわってこの身の不運を嘆くわたしの視界に、『なにか』が映った。 ──それは、先ほどからネウロが注視している路地の中ほどにあった。 二つの人影だった。 「…………?」 もっとよく見ようと目を凝らしたわたしは、 「────っ!」 二つの人影、その片方が、拳大の石のようなもので、もう片方の人影を──力いっぱい殴打していた。 その直撃を受けた影は、頭部のシルエットが──月のように欠けていた。 頭蓋骨が凹むほどのダメージを受けているようにしか見えない。 そして、二発、三発。四発目が振り下ろされる前に、その無残な頭に成り果てた被害者は、糸の切れた人形のように地面に臥した。 「ひ──」 思わず悲鳴を上げかけたわたしの口を、ネウロの手が強引に塞ぐ。 「黙るのだヤコ。今度こそ息一つ漏らしたらその場で目と耳と鼻と口を魔界のボンドで溶接してやるぞ」 (溶接ってボンドの仕事じゃねえ!) 耳元で囁くネウロに内心でツッコみつつ、必死で息を殺す。 ──わたしの目の前で、殺人が実行されていた。それは完璧なまでにシンプルで無駄のない殺人だった。 『謎』の気配がする、とネウロは言った。 おそらく、この瞬間から『謎』が発生するのだろう。 人の『悪意』が自己防衛のために構築し、それに守られて高純度に圧縮される、『悪意』の揺籠である『謎』──。 (……あれ?) ここで、わたしはあることに気付く。 加害者が今の殺人を隠蔽するためにトリックを施したところで、その一部始終をネウロが観察していては、 それはネウロにとって『謎』たりえるのか、という疑問に。 口はネウロに塞がれているので(てゆーかネウロの指先がありえないくらいに尖っていて今にも頬を突き破りそうなのだが)、目顔でそのことを訊ねる。 ネウロはわたしに一瞬視線をよこし、独り言なのかわたしに言ってるのかよく分からない調子で言う。 「実に奇妙だ……『謎』の気配はあれど、我々の目の前で発生した殺人事件に対して『謎』が発生する様子がない……」 それはどういう意味なのだろうか。外界から『悪意』を保護する『謎』が発生しないということは、あの殺人者は自分の犯罪行為を隠すつもりがないのだろうか。 ──いや、それとも、あの人には、もしかして……。 きらきらと洩れ入るネオンの照り返しを受けて赤黒く光る石を投げ捨て、加害者は周囲を見回した。 その視線が、わたしの視線とかち合った。それは錯覚だったかもしれない。錯覚だと思いたかった。 「──ふぅ」 だが、殺人者はわたしに視点を合わせたままで、ため息をついた。まるで「見つかっちゃったか」とでも言いたげな調子で。 わたしとネウロの背後を一台の車が通り過ぎる。そのライトに照らされて、殺人者の姿が一瞬だけ明るみに浮かび上がった。 それはどうしようもないくらいに普通な感じの、どこにでもいそうな若い男性──おそらく大学生くらい──だった。 「まいったな。目撃されるのはイレギュラーだ」 ……これが、『辺境人(マージナル)』こと香織甲介との初めての出会いであり、 『域外者(アウトサイダー)』飛鳥井全死と出会う切っ掛けであり、 彼女を巡る奇妙な『謎』の始まりだった。
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【域】─Our Battlefield─ 時計を見ると、十四時を回ろうとしているところだった。 つまり、飛鳥井全死さんとの待ち合わせまであと一時間ということになる。 「はー、なんか気が重いなあ……」 飛鳥井全死という存在を知ってからまだ日は浅いが、それでも彼女からははっきりと異常なものを感じている。 それはきっと、今わたしの目の前にいる『こいつ』と似たような種類のものだろう。 「どうした、ヤコ。なにを見ている。我が輩の顔は食い物ではないぞ」 「知ってるよ」 「そうか? 食い意地の張った卑しい貴様のことだから、 そのうちこの事務所の建材も貴様の腹に消えるのではないかと、我が輩は心配のし通しなのだがな」 「食うか! ──いや、バターと醤油があればいけるかも知んないけど」 「フン。究極の雑食生物である貴様と違い、我が輩は食するのは『謎』のみだ。 我が輩の脳髄の『飢え』を満たすため、貴様には馬車馬三頭並みに働いてもらわねばなるまい」 「普通、そこは一頭で済ますだろ……三倍かよ」 「赤く塗るか?」 「やめて」 そう──ネウロと全死さんはどこかが『似ている』。 とんでもなくわがままで、相手の都合なんか知ったこっちゃないというドSの資質に恵まれた性格もそうだし、 それと──彼女の言動の端々からは、わたしや、他の人たちとは大きな隔たりのある『なにか』を感じさせる。 ネウロは基本、人間を『謎』の供給源としか見ていない。人間で言うところの『食材』の素──家畜扱いである。 わたしを含めた何人かに対してはまた微妙に違う評価を下しているようでもあるが──それだって結局、 人間の持つ『可能性』が良質の『謎』を生み出すのではという期待に基づいている。 魔人ゆえに決定的に異ならざるを得ない、その『人間』を捉える『視線』──そこが、わたしが感じたネウロと全死さんの類似点だった。 これは別に全死さんが人間を家畜のように見ているということではなく──彼女の視線は、わたしたちのそれと違うような気がするという意味だ。 わたしたちに見えない『なにか』を、彼女は見ている。確実に。 それを端的に示すのが、彼女が好んで使う『メタテキスト』という言い回しだろう。 彼女は『メタテキスト』を『読む』ことで、わたしやネウロの名前を言い当ててみせた。 わたしの名前それ自体を言うことは、さほどおかしいものじゃない。 表に立って『謎』を解く(くう)ことを望まないネウロのお陰で、 わたしは大変ありがたくないことに『名探偵』としての社会的地位を押し付けられているのだから。 だが、いや、だからこそ、ネウロの名前を言い当てたことは『普通』じゃありえないことなのだ。 『メタテキスト』とはいったいなんなのだろうか? そして──飛鳥井全死とは、いったい何者なのだろうか。 ネウロと全死さんは『似ている』。だが同時に、両者には決定的な違いがある。 ネウロは魔人──しかも魔界でも稀有な、『謎』を食う突然変種だが、全死さんは人間である、ということだ。 ネウロがこの世界で生きていけ、あまつさえわたしに暴虐の限りを尽くせるのは、人間を超絶した能力を持っているからだ。 変な話だが、もしネウロがその辺のチンピラ並みの力しかない状態で「我が輩は『謎』を解く(くう)のだフハハ」とか言っても、誰にも相手にされないだろう。 もちろんネウロの持つ悪魔的な頭脳も充分に危険だけれど、それよりも──超人的な身体能力、『魔界777ツ能力(どうぐ)』こそが、 こいつをこの地上で生かし続けている。あらゆる意味で『魔人』であるから、『魔人』としてこの世界で生きてゆける。 では、全死さんは? 彼女にはいったいどんな能力があって、あんなにも奇妙奇天烈なマイウェイ爆走モードを可能にしているのだろうか。 かの『怪物強盗』X(サイ)のように、人間を『突破』した能力を秘めているのだろうか? それとも、別の『なにか』が、『飛鳥井全死』を『飛鳥井全死』として生かしているのだろうか? 「──あ、クッキーなくなっちゃた」 うつらうつらと考え事をしていたわたしは、いきなり口がさみしくなったことで現実に引き戻された。 ソファーに預けていた背をよっこらしょと引き上げ、テーブルに山と積まれたクッキーの空き箱を片付ける。 買い置きしておいたクッキーは全部食べてしまったので──次はビスケットを食べよう。 そんな時だった。 コンコン、と事務所のドアがノックされる。 「はーい」 わたしが返事をすると、それにやや遅れ、向こう側からノブがひねられ、ドアが開かれた。 そこから顔を出したのは、ひょろりとした長身の、どこか眠そうな目をした男性だった。 それは、わたしの良く知っている人物だった。 「弥子ちゃん、元気かい?」 「笹塚さん」 それは、わたしの知り合いで、なにかと力になってくれる警視庁勤務の刑事さん──笹塚衛士さんだった。 自分の『正体』を隠すための外面の良さを発揮して、ネウロはにこやかに笹塚さんに話しかける。 「おお、刑事さん! よくこんなむさ苦しいところへお出でくださいました! いやまったく、私も先生には常に事務所の整頓をお願いしているのですが、 汚ギャル志望の先生ときたら『事務所を片付けるくらいなら人間やめたる』、と、まあそんな具合でして」 ──が、その一方でわたしの人格を貶めることも忘れない。なんというか、マメなやつである。 いつもの光景といえばいつもの光景だが、一応ツッコんでおこう。 「ねーよ!」 「あー……助手さんも相変わらずで。──あー、と、こないだ、弥子ちゃん電話くれただろ。あれ、何の用だった?」 「あ、それは……」 『実は殺人現場を目撃したんです』と答えそうになったわたしだったが、 どこからか沸いて出てきた見るからに魔界魔界しているグロテスクな蟲が「次でボケて」と、笹塚さんの死角からカンペで指示を出していた。 「……『今から手首切るところです』っていう構ってちゃんTELです……」 「あ、そ……マジで手首切ったらダメだぞ」 根っからのツッコミ体質であることは自覚しているので、どうしてもボケは苦手である。言おうと思って言えるものではない。 蟲がカンペをめくり、「リアルに寒い」との評価。 「うるせー! 昆虫ごときにダメ出しされる筋合い無いわ!」 ──ま、それはそれとして。 半開きのドアから身体だけ覗かせてそこから出てこない笹塚さんに、わたしはちょっとだけ違和感を覚える。 「……? 入らないんですか、笹塚さん。──あ、今ちょうど食べようとしてたビスケットがあるんです。一緒にどうですか?」 「いや……俺、粉っぽいの苦手だから」 そして、笹塚さんはちら、とドアの外に視線を走らせ、 「……実は、今日は用事は他にあってさ。……会ってもらいたい人がいるんだ」 それはちょっと意外な言葉だった。 いつもダルそうで、刑事さんとして優秀なのだろうけど極端にテンションの低い笹塚さんが、 そういう「誰かを紹介する」という積極的なアクションを取るのは珍しいことだ。 ──もしかして、彼女かなんか? だとしたら──是非、見てみたい。 「……いいかな?」 ちょっとわくわくしてきたわたしは、まだ全死さんとの待ち合わせには時間の余裕があることを確かめ、興味いっぱいに力強く頷く。 「はい!」 わたしの元気な返事に、笹塚さんはドアを全開にした。 ネウロも興味をわずかにそそられたらしく、わたしの隣に立って新たな訪問者を待ち受ける。 ドアの向こうに立つ人物は、わたしの期待通りに、笹塚さんとお似合いの年頃の綺麗な女性だった。 だが──。 メイドさんだった。 白のフリル付きシャツに黒のワンピースはまだいいとして、頭に乗っけられたヘッドドレスと紙一重の飾りつきカチューシャ、 豊麗な胸を強調するために引き絞られたウェスト、過剰なレースで装飾された目にも眩しい純白のエプロン、薄茶のお洒落な編み上げブーツ──。 頭の天辺から爪先まで、徹頭徹尾の完膚なきまでに、フリフリのメイドさんだった。 「……笹塚さんだけはそういう人じゃないと思ってたのに」 それがわたしの率直な感想だった。 「え、ちょっと……なにか勘違いしてないか」 「だって、こういうのはせめて石垣さんの守備範囲じゃないですか」 と、わたしは笹塚さんの後輩である新米刑事の名前を出す。それもそれで失礼な発言だが、なにしろ気が動転していた。 笹塚さんはちょっとめんどくさそうな顔をして、そのメイドな彼女の方を見、それから再びわたしを振り返った。 「いや……この人、これでも警察官なんだ。俺よりも階級が上の人だ」 「……またまた」 「冗談じゃねーんだ、これが」 と言われても……、信じろというほうが無理な話だろう、この場合。 どこの世界に、メイド服を着て街を歩く警察官がいるのだろうか。 「ほほう、警察機構もずいぶんと開放的になりましたね」 とは、人間社会に対して無責任なネウロの発言。 「あー……まー、こういう反応は予想してたけどさ……虚木警部補、後は自分で説明してください」 そのやる気なさそうな声に応じ、件の渦中にいるメイドさんが一歩前に進み出た。 なんというか……メイド服を差し引いて良く観察すると、見た目的に大人の魅力満載、って感じの人だった。 そんなわたしの所感を裏付けるように、彼女は本物のメイドもかくやという華麗な態度でお辞儀をした。 「はじめまして。虚木藍と申します。お目にかかれて光栄です。『名探偵』桂木弥子さん。 ああ、でも──お話に伺っていたより可愛いお方ですね。お世辞じゃありませんよ。実にお可愛くておいでです。 それでいて数々の難事件を解く頭脳をもお持ちでいらっしゃるのですから、本当、神様というのは不公平ですね。 わたくしは無神論者ではありますが、こういうときは神の不在について疑いを抱いてしまいます。 ──あら、年甲斐もなくついはしゃいでしまいまったようですね。失礼いたしました」 なんか思いっきり背筋がむず痒くなるような賛辞を並べたて、彼女──虚木藍さんは莞爾と微笑む。 その微細な動作にもかかわらず、彼女の大きな胸がたぷんと上下に揺れる。 いやいや、不公平だと思うのはこっちの方です──とは言えず、ただ黙って自分のマッチ棒のような手足と、 ネウロに『洗濯板』などと揶揄される薄い胸板をちょっとだけ恨めしく思った。 そんなわたしの微妙な傷に塩をなすり込む──ネウロのお世辞返し。 「いえいえ、私も貴女のようなお美しい方が警察にいらっしゃるとは驚きです! うちの先生は一部の希少マニアにしかストライクゾーンに判定されない、顔、身体、性格、ともに貧相な球種の持ち主でして! 先生の人生設計では、探偵業でがめつく金を荒稼ぎした後は改造人間すれすれの全身整形手術を受けることになっているんです」 そんなネウロの悪意たっぷりの中傷に、藍さんは「まあ」と目を丸くして口元に手を当てた。 その動作ひとつひとつが女性らしい色っぽさに満ち溢れていて、しかも少しも嫌味っぽくないのは驚嘆に値する。 「いけません。親御さんから頂いたせっかくの身体を根こそぎ作り変えてしまうなんて。 身体は大事にしてくださいね。せっかくお可愛く生まれてきたのですから」 「いや、そのネタはもういいですから。……ってゆーか、本当に刑事さんなんですか」 「正確には刑事ではありませんね。わたくしは警部補ですので。──警察手帳、お見せいたしましょうか?」 藍さんはそう言ってエプロンのポケットから上下開きの手帳を取り出してわたしの眼前に示す。 そこには警察のエンブレムと、彼女の身分を証明する書式が展開されていた。 ──まだ半信半疑ではあるが、どうやら彼女は本物の警察官であるらしい。 「さて、社交場の手続きを全て済ませたところで……次は事務的なレヴェルに移行させていただいてもよろしいでしょうか?」 ここでやっと、藍さんはわたしになにか用があってここに来たのだということに思い至る。 そりゃそうだ。じゃなければ、わざわざ笹塚さんを仲介してまでわたしに会いに来たりはしないだろう。 「ずばり、本題から申し上げましょう──桂木弥子さん、わたくしは、貴女に公式かつ恒常的に警察の捜査に協力していただきたいのです。 今すぐにお答えいただく必要はありませんが、まずは『お試し』ということで、ある事件の解決をお願いしたいと思っております」 藍さんとわたしのやり取りを黙って聞いていた笹塚さんが、またも珍しく話に割ってくる。 「おい、虚木さん、あんたまさか──」 「ええ、ご想像の通りです、笹塚さん。──わたくしは、先日発生した女子高生殺害事件の解決を、『桂木弥子魔界探偵事務所』に依頼いたします。 正規の報酬をお支払いすることは当然ですが、今回は『お試し』なのでもう一つ報酬を用意致しました」 そして、藍さんはにっこりと微笑み、話の展開についていけないわたしの脳味噌に極めつけの一発を打ち込んだ。 「その報酬とは……かの傍若無人な電気娘(テスラガール)、域外者(アウトサイダー)飛鳥井全死についての情報です」 「──え? え、え? なんでそのことを? というか、あの人のことを知ってるんですか?」 「その二つの質問に対する回答は簡潔に提示できます。すなわち──わたくしと彼女はいわゆる『同窓』であり、わたくしもまた、域外者(アウトサイダー)なのです」
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「──さて、ヤコ。昨日のおさらいだ。 吾代の情報によれば、『辺境人(マージナル)』こと香織甲介がいわゆるアンダーグラウンドの世界の住人である可能性は低い。 つまり、貴様の出番が回ってきたという訳だ」 「……え? わたし?」 「そうだ。『表の世界』は貴様のフォロー範囲内だ。 先日、奴等と遭遇した場所を覚えているな? 貴様が意地汚くも飛鳥井全死のオゴリで昼食を貪っている間、 香織甲介とその連れの小娘──荻浦嬢瑠璃といったな──は飛鳥井全死を探して周囲の店舗に聞き込みを行ったフシがある」 「え、そうなんだ」 「豚のごとく目の前の料理に食らいついていた貴様は知らぬだろうが、香織甲介自身がそのように言っているのだ。 貴様はそこにさらに調査を被せろ。香織甲介が飛鳥井全死の足取りを追ったその道を逆に辿り、奴等の活動半径を突き止め──なんだアカネ。 今、我が輩はこの無能で指示待ち人間でイエスマンの下僕に命令を──」 朝っぱらから元気溌剌と、香織さんと全死さんを探し出すための会議(実際はネウロの独演会も同然だったけど)を始めたネウロだったが、 アカネちゃんが自慢の黒髪でちょいちょいとネウロの肩を突き、議事進行を中断させた。 「どうしたの、アカネちゃん」 アカネちゃんはデスクの上のパソコンを指差し──じゃなくて髪差していた。 その動作には、なにか慌しい雰囲気がある。 「まったく、なんだと言うのだ」 わたしとネウロは同時にパソコンの画面を覗き込み──わたしの表情は凍りついた。逆に、ネウロは晴々とした笑顔を浮かべた。 アカネちゃんはメーリングソフトを立ち上げていたのだが、その受信フォルダがこの三十分の間に送られたメールでパンクしていた。 なにかの凶悪なスプリクトでも使っているのだろうか、こうしている間にもどんどんメールが送られてくる。 空恐ろしいことに、ざっとリストを見る限りでは、その件名は一つ一つ異なっている。 そして、だが、件名の最後に付けられた署名はどれも同じだった。 ──『飛鳥井全死』。 「な、なによ、これ……」 生理的な嫌悪感に思わず後ずさったわたしのポケットの中で、ケータイの着信を知らせるメロディが鳴る。 掛かってきたのは知らない番号からだった。 手の中でそれは不気味なまでの高音質でシューベルトの『魔王』を奏でている。多分これはネウロが勝手に設定をいじったのだろう。 猛烈に嫌な予感がするのだが、それをこらえて恐る恐る通話ボタンを押して耳に当てた。 「……も、もしもし?」 『あ、弥子ちゃん? わたしわたし』 「今さらオレオレ詐欺は流行遅れでしょう──ってツッコんでる場合じゃねえ! 全死さんですよね!? なんなんですか、あのメールの山!」 『あ、読んでくれた? 嬉しいな』 「いやいやいや、読んでませんよ!? あんな量を読める訳ないでしょ!?」 『そんなことよりどう、今から会わない?』 「そ、そんなことぉ!? そんな一言で片付けないでくださーい! 依頼のメールとか流れちゃってたらどうしてくれるんですか?」 『奢るよ。なんでも好きなもの食べさせてあげる』 「え、ホントですか? だったら最近噂のパスタ屋に──あぶねえぇー! 釣られるところだった!」 「フハハ、自ら餌に喰らいつく浅ましさはむしろ尊敬に値するな。さしもの我が輩もその方面では貴様に負ける」 わたしのケータイに変なコードを刺して通話を傍受するネウロがそんなことを言うが、とりあえず無視する。 「……と、とにかく、こんな変なことはもうしないでください! 怒りますよ!?」 『弥子ちゃんの怒った顔も見てみたいな。だったらもっと怒らせてみようかな?』 「あのですねえ!」 『冗談さ。それで、何時にどこで待ち合わせようか?』 (話……噛み合ってないや……) ピ。 なんかもうやるせない気持ちになったわたしは、黙って通話を切った。 電話中にそういうことをするのはとても失礼だと分かってはいるが、相手が相手だし場合が場合だ。 (……あ、でも、ネウロの目的を考えるなら今の誘いに乗ったほうが良かったんだよね……) わたしに食事を奢ることで向こうになんのメリットがあるのかはちょっと分からなかったが、 せっかくのチャンスをフイにしたことでネウロは怒るだろうか。 そう思って背後を振り返ると──ネウロはこの上なく上機嫌だった。 全死さんとのコネクションを断ち切ってしまって腹が立たないのか──そう言いかけたわたしだったが、すぐにその発想の愚かしさを悟る。 パソコンの画面では相変わらずのスピードでメールが舞い込んできていて、その前でアカネちゃんがおろおろしている。 そして再びケータイが『魔王』を鳴り響かせ、事務所の電話もけたたましくベルを鳴らし始めた。 彼女とのつながりは、これっぽちも断ち切れていない。飛鳥井全死との関係は現在進行形で発展中なのだ──。 実にうきうきとした口調で、それこそ歌うように朗々と述べるネウロの声がわたしの耳にこだました。 「ククク……フハハハハ! これは想像以上だ……実に面白いではないか! こともあろうに『桂木弥子魔界探偵事務所』の営業を妨害するとは!」 「嬉しそうだね……」 ちなみにわたしは少しも嬉しくない。 だがネウロにはそんなことは関係ないようで、びしっと鋭い指先をわたしに突きつけた。 「ヤコよ、分かっているな? この魚を消して逃がすなよ。わざわざ探す手間が省けたのは貴様にとっても幸運だと言わざるを得ない」 ……やっぱりこういう展開か。 「我が輩がこの女に世間の礼儀というものを教育してやる」 「ほんとにもう……全死さんは世間の礼儀というものを勉強したほうがいいと思いますよ」 「馬鹿。そんなもの、とっくに履修済みさ」 「とてもそうは見えませんけどね。スパムメールを送りつけるどの辺りが礼儀に適ってるんですか。それからイタ電も」 「なに、こんなのはただの威力偵察だ。これで相手の出方を見てから本格的に対策を練るんだよ」 「それならそれで、もう少し穏便にやったらいいんじゃないですか? これじゃ無駄に相手を警戒させるだけじゃないですか」 大学の教室で演劇史の授業のノートを取りながら、俺は全死の言葉に耳を傾けていた。 俺は真面目な学生なので、授業はきちんと受けている。全死の話はほぼ右から左である。 だから仮になにか意見を求められたら答えようがないのだが、全死は他人の意見を求めるような謙虚な人物ではないので、その心配は無用だった。 ついでに言うと全死はこの大学の学生ではない。ならなぜここにいるのか。その疑問に答えられる者はどこにもいない。 まあ、大学というものは全死みたいな不審人物すら許容できる懐の広さを持った機関であるということははっきりしている。 「全死さんはデリカシーという言葉を知ってますか」 「え? 知ってるよ? 珍味のことだろう?」 「それはデリカッセンです。──参考までにお聞きしますが、『役不足』の意味は把握していますか?」 「四飜縛りなのにタンピンドラ一でロンするような馬鹿のことだろ?」 「……はい、もう結構です」 演劇史の講義が終わると次の講義までは間があるので、在籍している思想インフラ研究会の部室で時間をつぶすことにした。 なんのつもりか、そこに全死ものこのこ付いて来た。俺としては一人で考え事に耽りたかったのだが、生憎俺には全死の行動を制限する能力がない。 しかしそれもある意味杞憂というか、無駄な思い煩いに終わった。 部室には嬢瑠璃が待ち構えていたからだ。 「どうした、ここは君みたいな中学生の来るところじゃないぞ」 「わたしはもう学校には通っていません」 「ああ……そうだったな。いつもセーラー服着てるから、たまにそのことを忘れるよ」 「これは全死さんの趣味です」 と、嬢瑠璃は胸元のタイをちょっと持ち上げてみせた。 趣味、ね。 無理やり学校を辞めさせたくせに未だに学生服を着せ続けているとは、まったくもってけしからんというかいい趣味をしていると思う。 「いい趣味してますね」 なにを勘違いしたのか、全死は得意そうに薄い胸を張った。 「だろう?」 「褒めてませんから。悪しからず。──で? 君はなんの用なんだ? 君も全死さんみたいに意味も無く人の生活エリアに土足で踏み込む遊びに目覚めたのか?」 俺が皮肉交じりにそう言ってやると、嬢瑠璃は不思議なものでも見るように首をわずかに傾けた。 「残念ですが、わたしもまだ全死さんのレヴェルには到達できていません。本日お伺いしたのは、貴方に情報をお持ちする為です」 「情報? もしかして、俺が殺した『人違い』の件か?」 「はい。ですが、もったいぶるほどの情報ではありません。一般的な社会人なら誰でも知りえるような内容です。 香織さんは新聞をお読みにならないんですか? すでに警察が被害者の名前を公表していますよ」 かすかに見下した色を瞳に宿らせ、嬢瑠璃は四つ折にした新聞を俺に差し出した。 「それはまあ読むけど、舐めるようには読まないから見落としだって当然あるさ。自分の殺人を新聞で確認する習慣はないしな」 弁解する必要はまるで感じないが、社交上の儀礼としてそんな言い訳を口に載せ、新聞を受け取る。 「結論から申し上げますと、貴方が殺したのはやはり有栖川健人ではありません。被害者は有栖川健人の双子の妹で、名は──」 「被害者の名前は有栖川恵。十七歳。近辺の私立校に通う高校生だ」 笹塚衛士は警視庁捜査一課に所属する刑事である。 彼はつい先日発生した通り魔事件の捜査についての会議に出席していた。彼もこの事件を担当する捜査員に任じられたのだ。 そして今、捜査員の認識を統一するために説明を行っているのが、彼の上司であり本件の捜査本部を指揮する笛吹直大警視である。 「死亡推定時刻は深夜の二十三時頃から前後一時間。今のところ目撃証言は無い──聞いてるのか笹塚! 寝るな!」 「……起きてますし聞いてます。すいませんね、どうも徹夜明けはテンションが低くて」 すらりと伸びた腕を力なく振って答えると、笛吹はまだ不服そうに笹塚を睨んでいたが、咳払いをひとつして説明に戻った。 それらの情報をしっかりと記憶に刻み込む一方で、笹塚の脳は別のことをも考えていた。 (死亡推定時刻は二十三時頃、か……) その一点が彼の意識に引っ掛かる。 それは、彼の知り合いであり、彼の良き協力者である『探偵』桂木弥子が不審な連絡を寄越した時刻と一致してた。 (まさかとは思うが……弥子ちゃん、事件現場に遭遇してるんじゃないだろーな……あの子、妙にトラブル体質だからな……) 可能性は低いだろうが、彼女のこれまでの行状を顧みるに、決して否定できない部分もある。 (ま、この会議がはけたら軽く電話してちょろっと探りを入れてみるか……) そんなことを考えながら隣を見ると、後輩の石垣筍がなにかのプラモデルを鋭意製作中だった。 「…………」 こいつは近いうちにしばく必要がある。 とりあえずそのプラモデルは床に投げ捨てて踏み潰した。 「ああっ! 宇宙戦闘機(コスモファイター)『マバロハーレイ』があああぁぁっ! 酷いですよ先輩! 俺がなにをしたって言うんですか!?」 「いや……今はなにかしないとマズいだろ。メモとか」 大の男がプラモデルごときで涙目というのも情けない話だが、その男泣きに免じてそれ以上の折檻は止めておくことにする。 そうこうしているうちに、捜査会議も締めの段階に入っていた。 会議室の前方の壇上に立つ笛吹が捜査員に向かって檄を飛ばしていた。 笹塚はそういう熱いノリは嫌いではないが、いかんせん身体が受け付けない。 煙草に火をつけてそれを聞き流す。 窓の外はいい天気だった。 「えー、さて……最後になってしまったが、諸君らに紹介しておきたい人物がいる」 (…………?) 五本目の煙草に火を付けようとしていた笹塚は、その手を止めて笛吹を注視する。 「特例ではあるが、今回は私の他に彼女が本件の指揮を取る」 (『彼女』ってことは女性か……) 「もちろん指揮権は私にある。捜査方針は全て私が決定する。だが、現場では彼女の指示に従ってもらいたい」 笛吹はそこで、少しばかり言葉を切った。まるでなにかを躊躇っているようだった。 そうした煮え切らなさは、切れ者で知られる彼には似つかわしくない態度だったので、笹塚は少しだけ訝しく感じる。 「ええい、くそ、なんで私が──紹介しよう、虚木藍警部補だ。……入りたまえ、虚木くん」 笛吹の声に応じて、会議室のドアが開け放たれた。 そこに現れた人物を見て、その場の捜査員のほぼ全員が「こいつはとんでもないやつがやってきた」という感想を抱く。 誰も一声も発しなかった。笹塚もぽかんと口を開け、くわえ煙草を落としそうになる。 その中で、空気の読めない石垣が、ありったけの、心からの歓声を上げた。 「うわー! すっげえー!!」 こつこつ、と靴音を響かせながら笛吹に近づく彼女へ、石垣は失礼にも興奮気味に指を差して叫ぶ。 「メイドさんだ!」 (お前、ストレートすぎるだろ!) 捜査員全員の内心での総ツッコミなど気にも留めず、石垣は「すげえすげえ」とはしゃいでいた。 しかし──その通りだった。 丈の短い黒のワンピースの下には過剰なレースで装飾された純白のシャツを着込み、 その上には見ていて恥ずかしいくらいフリフリのフリルエプロンを身にまとっている。 背中まで伸びるストレートヘアの天辺には、やはり過剰なフリルのカチューシャがちょこんと乗っかっていた。 どこからどう見てもメイドさんである。 「皆様、お初にお目にかかります。わたくし、虚木藍と申します」 そう名乗って、メイドさんは優雅にお辞儀をした。 さらに優雅な動作で身を起こした彼女は、見定めたように笹塚に視線を合わせた。 「あなたが笹塚さんですね? ご活躍はかねがね耳にしております」 いきなり名指しされて笹塚はちょっと驚くが、ご指名とあればシカトもできない。 だるさを訴える手足に活を入れてのっそりと立ち上がった。 「どーも、笹塚です。……あー、と……どこかの洋館に潜入捜査でもしてたんですかね?」 周囲の「服装にツッコめ!」という無言のプレッシャーに負け、笹塚は一応聞いてみた。 「いいえ。これは私服です」 「……そりゃ失礼」 さも当然のように堂々と答えられたので、笹塚にはそれ以上の追求が出来なかった。 「あ、そうそう。わたくし、貴方にお願いしたいことがあるのです」 虚木は胸の前でぽんと手を打ち合わせた。 タイトな服装に絞られて強調された彼女の胸が、その動きに合わせて大きく左右に揺れた。 「頼み……?」 笹塚はつい眉根を寄せる。 いくら階級が上で本件の指揮者で女性でおまけに美人でも、 初対面の相手になにかを頼まれて二つ返事で引き受けるほど、自分が男気に溢れた人間でないことは自覚していた。 「はい」 と、彼女は笹塚の耳元にまで口を寄せる。かすかに上品な香水の香りがした。 「あなたのお知り合いでいらっしゃる、可愛い探偵さんを是非ともご紹介いただきたいのです」 「なんだって……?」 問い返すと、虚木藍警部補はにこやかに微笑んだ。 「是非ともよしなに」
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目が覚めると、もう昼だった。 そこは俺が借りているワンルームマンションのベッドではなく、そこから徒歩十五分ばかりの俺が通う大学── そのなかで俺が所属してる思想インフラ研究会の部室の長椅子の上だった。 隣で寝息を立ててるのは裸の真銅白樺ではもちろんなく、最悪なまでに人相の悪い女── 俺の幼馴染兼腐れ縁兼レギュラーである存在の飛鳥井全死だった。当然だが裸ではない。 「──やれやれ」 とりあえずの習慣で溜め息をついてから、変な体勢で眠っていたことで軋りを上げる手足の関節をほぐし、 それと平行して自分はどうしてここにいるのだろうという問題について思い返す。 深夜であるのも構わずに「いちゃいちゃしようぜ」と言う全死によって部室まで呼び付けられ、 俺としては乗り気では無かったが全死の機嫌を損なうと何をされるか分かったものじゃないので、 仕方なく部室に足を運んだまでは良かったが──。 「お目覚めですか」 そんな背後からの声に、俺の記憶の反芻は中断された。 振り返ると、そこには学生服を着た小柄な少女の姿がある。 「……君か。いつからそこにいた? と言うか、今何時?」 少女──荻浦嬢瑠璃は細い手首を引っ繰り返して腕時計に目を落とし、「二時半です」と短く告げる。 今日受講する予定だったはずの講義を三つばかり逃してしまったことを知り、わずかな不快感が胸に立ち昇る。 「いつから、という質問ですが……そうですね、かれこれ三時間ばかり全死さんと貴方の寝顔を眺めてました」 「起こしてくれれば良かったのに。そうすれば講義をサボタージュしなくて済んだ」 「頼まれもしないのに貴方を起こす理由がありますか?」 言っていることはこの上なく正しいが、だからと言ってこの世の正義が俺の利益に直結している訳ではない。 俺の都合に限定するなら、たとえ理由が無くても起こして欲しかった。 「なにか、ご不満でも?」 「いや、俺は辺境人(マージナル)だからな。他人に対して不満なんか抱いたりしないさ。 ただ、俺の周りには冷たいやつばかりだと再認識したけどな」 「同情します」 明らかにそんなことは思っていない冷淡な口調で、嬢瑠璃はしゃらっと言ってのける。 「それに──わたしには無理です」 「……なにが」 「全死さんと貴方が仲良く肩を寄せ合って寝ているところに割って入るほどの根性が無いという意味です」 「気味の悪い表現をするなよ。全死さんが勝手に俺にもたれかかってきただけだ。 そうなんでもかんでも俺と全死さんをくっつけるような発言はやめてくれ。 この人、俺を呼び出しておきながら眠りこけてたんだから。放っておいて帰ろうかと何度思ったことか」 「そうですか? わたしはてっきり事後かと思ってましたが」 本気で背筋が寒くなった。 嬢瑠璃の無感動な目を見つめ返し、少し本格的に抗弁する。 「勘違いしないでくれ。なにも無かったんだから。考えるだけでぞっとする」 すると嬢瑠璃は軽く肩をすくめ、 「貴方がツンデレキャラだったとは、ちょっと意外ですね」 「──なんの話だ?」 「『勘違いするな』とはツンデレの常套句ですよ」 彼女はそんな言葉をどこから仕入れてくるのだろうか。 まず間違いなく全死経由だろうが。本当にろくなことを吹き込まない女だと思う。 「──念の為に言っておきますが、冗談です」 「冗談なら、もっとそれらしく言ったらいいんじゃないのか。笑いながら言うとかさ」 「これは誰も笑わないための冗談ですので」 そして嬢瑠璃は再び腕時計に視線を落とし、 「そろそろ全死さんはデートの時間ですので、起こしますよ」 「わざわざ俺の承諾なんかいらないだろ」 「もっともです。ですが、形式として一応言ってみました」 言い終えると、まるで俺の存在など最初からここにいなかったかのように、嬢瑠璃はもはやこちらに一瞥もくれず全死に歩み寄る。 「全死さん、そろそろ桂木弥子さんとの待ち合わせの時間ですよ」 耳元で囁きながら肩を揺する嬢瑠璃の手を、全死はうるさそうに振り払っている。 それをぼんやりと眺めながら、また溜め息をつく。 「……ほんと、やれやれだ」 「域外者(アウトサイダー)……?」 わたしのいかにも「意味が分かりません」的なオウム返しに、メイド服の警察官、虚木藍さんはにっこり微笑んで頷いた。 「そう。わたくしや飛鳥井全死さんのような人種は、便宜上そう呼ばれています。 『人種』、と言いましたがこれも比喩的な表現です。わたしくも彼女も、もちろん純正のヒト科生物です」 藍さんはそこで笹塚さんに会釈をし、 「わたくしは桂木さんと少々込み入ったお話を致しますので、外で待っていただけますか?」 「──了解。えー、と……弥子ちゃん、悪いな。なんか知らないけど、彼女の話を聞いてやってくれ」 ダルそうに手を振り事務所から出て行く笹塚さんを笑顔で見送った藍さんは、いっそうの柔らかい微笑でくるっと振り返る。 「さて、お話の続きですが……わたくしたちはこの『世界』を外側から眺めることが出来ます──これも比喩表現です。世界に内も外もありません。 しかしながら『外側から見るように』俯瞰的にこの世界を理解することで、わたくしたちはある一つの共通認識を得ることが可能になるのです。 それは『メタテキスト』と呼ばれているものです。メタテキストとは……人間の思考や精神よりも高次(メタ)なレヴェルに位置づけられる、 いわばその人の『本質』──いえ、これも正確ではないですね。その人と世界の関係を示すもの、 言うななれば、その人がどういった記号(キャラクター)を用いてこの世界に記述されているかを示す概念です。 これも例え話になりますが、ある種の創作物──小説、漫画、戯曲などに於いて、被創造物である虚構存在であるところの登場人物が 『創作者の思惑を超えて』、『勝手に動き出す』という話を耳にしたことはありませんか? もちろんそれはつまらない錯誤です。 すべてはワールドデザイナーたるクリエイターの思惑の中にあり、作中の登場人物がその枠を飛び越えることなどありえません。 では、なぜそういった錯誤が生まれるのでしょうか? 結論から言ってしまうと、創作者もまた虚構の産物だからに他なりません。 ここで気をつけていただきたいのは、ここで言う『創作者』と、クリエイターとして社会活動を行う人物は、 構造的に違うレヴェルの存在であるという簡単な事実です。お分かりですか? 現実に存在したクリエイターの『夏目漱石』の下位に、『坊っちゃん』を書いた『夏目漱石』が位置し、 その同位に列するものとして、『こころ』を書いた『夏目漱石』や『吾輩は猫である』を書いた『夏目漱石』がいるというロジックです。 クリエイターと登場人物の間には、『不完全な神=創作者』たる中間構造物が予め設定されているのです。 いわゆる『楽屋オチ』や『作者登場』、または『あとがき座談会』などのメタ演出は、この構造を前提として成立するストーリーテリングですね。 クリエイターは被創造物である『創作者』をしばしば自己と同一視するため、『登場人物が勝手に動き出す』という錯覚が発生するのです。 登場人物を動かすのは、虚構レヴェルの最上位に位置するクリエイターの極めて現実的な判断の結果でありますが、 その認識が『創作者』のレヴェルにまで浸透しなかった場合に、『勝手に動いた』と錯誤する──いえ、錯誤したことにされる、というわけです」 壊れたラジオかなんかのように長々としゃべっていた藍さんだったが、ここでふと口をつぐむ。 あ、お話終わったんだ──と思いきや、 「あら。あらあら。少々脱線してしまったようですね。話を元に戻させていただきます」 ……どこからが本線なのか、そこを先に教えて欲しかったりする。 しかしわたしがそれを言う前に、アクセル全開の長話が再開されてしまった。 「『メタテキスト』とは、世界という『文脈』の中で位置づけられるその人の『記号パターン』を司る『関数』、 ある状況でその人はどう世界に対しアクションを起こすか、その入出力の関係を理解するものです。 この認識を敷衍すれば、おのずと『域外者(アウトサイダー)』についての実相も見えてくると思います。 そう──『メタテキスト』を読める『域外者(アウトサイダー)』とは、 世界を支配する摂理に一歩近づいた、現存在よりも一段上のレヴェルに位置する存在なのです。 さっきの例え話に準じるなら、わたくしたちは『自分が作品内のキャラクターだと知った』虚構内存在ということになります。 これは、わたくしたちが他より優れた存在だと言っているわけではありません。 単なる構造上の立ち位置の話であり、そこに品格や人間性はもちろんのこと、存在の優劣はまったくの無関係です。悪しからず」 よくもまあそこまで淀みなくしゃべれるよな、と話の内容とは関係ないところでその長広舌に感心するわたしだったが、 「──すみません。長々と電波を申し上げまして」 まるでその心を読んだかのように、藍さんは話を中断して頭を下げた。 ……メイド服の女性に頭を下げられるというのは、物凄い非現実的な光景だ。 ある意味、ネウロの超常的な言動よりも不安を掻き立てられる。 「ふむ……実に興味深いお話です、虚木警部補どの」 一方のネウロは澄ました顔で顎に手をあて、うんうんと頷いている。 アンタ本当に分かってんのか? 「しかし腑に落ちませんね──」 「まあ、どこがでしょうか? わたくしにお答えできることなら喜んで説明させていただきます」 小首を傾げる藍さんに、ネウロはぴっと立てた指を示し、左右に振る。 「つまり『域外者(アウトサイダー)』とは『メタテキスト』が読めるもののこと。……そうですね?」 「はい、仰るとおりです。これが『メタテキストをいじる』段階にまで到達すると『フォーミュラツイスタ』となります。 わたくしや全死さんはむしろこちらの部類にカテゴライズされますが、総称としての区分はやはり『域外者(アウトサイダー)』です」 「なるほど、しかし……なぜ貴女は我が『桂木弥子魔界探偵事務所』を訪れたのです? 『メタテキスト』というものが読めるのならば、事件の捜査に非常に有効に働くと思われますが」 「まずはご理解いただきたいのですが、わたくしがメタテキストを読んでも、それ自体にはなんの証拠能力もありません。 犯人を検挙し、公判を維持するためにはやはり警察機構による地道な捜査は必要なのです。 そして、はい、確かに、『犯人を知っている』というアドバンテージを利用すること、 あるいはなんらかの形でメタテキストに改竄を加えることで、捜査を進展させることも原理的には可能です。ですが──」 コンコン、といきなりドアがノックされ。藍さんの話は途切れた。 その場の全員の視線が事務所の入り口に集中する。 「……あのさ、なんか来てるけど。……お客」 ドアの隙間からひょいと顔を出して告げる笹塚さんの頭が、 「おい、ちょっと──」 いきなりその背後から伸びてきた手で鷲づかみにされた。 そのまま笹塚さんを押しのけるように、そしてドアが壊れるくらいの乱暴さで『誰か』が事務所に入ってくる。 「──あ」 その人を見て、反射的に時計を見る。 三時十五分。──待ち合わせは三時。 「おそーい! このわたしを待たせるとはいい度胸じゃないか!?」 頭から爪先まで黒尽くめの魔女みたいな女性──飛鳥井全死さんが、怒りも露わに仁王立ちしている。 ぎろり、とノンフレームの奥の瞳を光らせてわたしを睨む。 「これがエロゲなら確実に好感度下がってるぞ! ウブなネンネじゃあるまいし、なにに時間を──」 とかなんとか喚き散らしながらバンプスを踏み鳴らして近づく全死さんだったが、 「──っておい!」 藍さんの横を通り過ぎた瞬間、驚いたように彼女を見る。 「おいおいおい、なんでお前がここにいるんだよ、虚木藍(エルストウリー)?」 「お久しぶりです、飛鳥井全死(テスラガール)」 「その名前で呼ぶなつってんだろ!」 「あら、まあ。相変わらず理不尽なお方ですね。先にその呼び方をなさったのは全死さんのほうですよ?」 「わたしはいいけどお前は駄目に決まってるだろ! こんな自明なことがあるか!」 「そうですか、失礼致しました。とにかくお久しぶりですね。わたくしがここにいる理由ですね? それは──」 「ふん、そんなの言わないでいいよ。警察組織のデッドコピー・エピゴーネンの考えそうなことくらいお見通しだ。 あの子を宮下乖離の後釜に据えようってんだろ? 違うか? ああ、くそ、ほんとに胸糞悪いな。救いがたい馬鹿だ。そんなに自分の手を汚すのが嫌か?」 「──以前も申し上げましたが、わたくしでは駄目なのです。わたくしは警察官です。 あるシステムに属するものは、そのシステムに内包されない能力を行使することを避ける必要があります」 「うっさい巨乳メイド! だからお前は屑なんだ。下衆の極致だ。ここまでくるとむしろ賞賛に値するな」 汲めども尽きぬ泉のように、次から次へと悪罵や中傷や呪詛を撒き散らす全死を持て余したのか、 藍さんは小さな肩を落としてふうっと深く息を吐いた。 「わたくしはいずれ警察を離れ、師匠(マイスター)の元へ向かうつもりです。 その前にやれることをやっておこうというだけのことです。──まあ、この文脈で語ることでもありませんが」 最後に一礼して、それでケリをつけたのか藍さんは全死さんから視線を逸らす。 「今日のところはこれで失礼させていただきます。依頼を受けていただけるようでしたら、ぜひご一報を」 なおもぎゃーぎゃー騒ぐ全死さんを見ないように、藍さんはそそくさと去っていった。 事務所の入り口に背を預けてそんなやりとりを眺めていた笹塚さんが懐から手錠を取り出し、 (この女、しょっぴこうか?) アイコンタクトでわたしに問い掛ける。 あ、お願いしちゃおかなー、と揺らぎかけたわたしの心を射抜くように、 (断れ) というネウロの強烈なプレッシャーが背中越しにビシビシ突き刺さる。 (──この人は放って置いてください) とボディランゲージ込みで笹塚さんに伝える。 笹塚さんはそれでも心配そうに、事務所の床に唾を吐いたり悪逆非道の限りを尽くす全死さんとわたしを見比べていたが、 やがて諦めたように溜め息をついて事務所を後にした。 ひとしきり暴れてやっと落ち着いたのか、しかしそれでもなお不服そうに、全死さんは唇を噛んで事務所のドアに殺視線を送っている。 「……全死さん、藍さん嫌いなんですか?」 いらいらと床を何度も蹴る全死さんは、わたしの質問に腹立たしげに舌打ちする。 「ああ? 嫌いだよ。あんな巨乳メイドを好きになるやつなんかいないね。 だが、くそ、そういうことか──興が殺がれた。結局、なにもかも無駄にならなかった訳だ」 「──はい?」 「帰る」 言い放つと、彼女はさっさと背を向けてすたすたと入り口へ向かっていった。 ──もしかして、デートはお流れ? いや、元々気が進まなかったし、それはそれで歓迎すべきことなのだろうが……なんだろう、この脱力感。 丸一日に及ぶ長電話に耐え、藍さんの意味不明な電波話を拝聴し、そうした諸々の苦労が──。 「全部、無駄……?」 それは声になるかならないかの小さなぼやきだったのが、まさにドアから出て行こうとする全死さんはそれを耳聡く捉え、返してきた。 「無駄じゃないさ。こいつはな、全部必要な手続きだったんだよ。 弥子ちゃん、あんたは聡い子だから特別に教えてあげるよ。わたしはなにも間違えてなんかいない。 そうさ──わたしは決して間違えないんだ」 ──その言葉を最後に、飛鳥井全死は事務所から消えて行った。 ドアが閉まったのを確認すると、どっと疲れが襲ってきて床にへたり込む。 「ツッコみたいけどどこがツッコみどころやら……」 脱力するわたしの耳元で、ネウロが密やかに囁く。 「感じるぞ、ヤコ……『謎』の気配は近い。 そう遠くないうちに、これまで出会った人間どもが、我が輩を新たな『謎』に導くだろう。 もう間もなく、我が輩の脳髄の飢えを一時癒す至福のときが訪れるのだ」 ──そんなことより、疲れきったわたしの脳は糖分を求めていた。 なので、わたしは一言だけでそれに応える。 「──あっそ」
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虚木藍さんの来訪、彼女の超絶電波話、飛鳥井全死さんの襲来、という コンデンスミルクとカルピス原液を煮詰めたようなめっちゃ濃い時間が過ぎ去り、 やっと事務所に束の間に平和が訪れた、と思っていたのだったが──。 まだ、今日という特濃デーは終わりを告げてはいないようだった。 なぜなら、 「桂木弥子さん。済みませんが、しばらくわたしに付き合っていただけませんか」 事務所の入り口に小さな女の子が立っている。 「ご心配なく。全死さんはもう帰りました。これはわたし個人の要請であり、全死さんは関知していません」 どこか冷たさすら感じる理知的な面差し、線の細い体にまとうセーラー服。 その子には、以前一度会ったことがある。 名前は、確か──。 「荻浦嬢瑠璃です」 言葉にしないわたしの思考を汲み取ったかのように、彼女はそう言った。 そして十数分後、わたしは車の助手席に座っていた。 それは、事務所が入っているビルの前に路駐されているクーペで、この中で待ってるように言われたのだ。 「お待たせしました。ちょっと用意するものがありましたので」 運転席のドアを開け、嬢瑠璃ちゃんが待たせたことのお詫びを告げる。 「ううん、わたしも今事務所から降りてきたばかりだから」 「そのようですね。では行きましょうか」 と言うや、嬢瑠璃ちゃんはまるで当然のように運転席に乗り込む。 見た目は大人しそうで賢そうな女の子だけど、さすがは全死さんの関係者だ。さっそくツッコミどころを提供してくれる。 「ちょっと待てえええ!」 イグニッションキーを差し込もうとしていた彼女の手がぴたりと止まる。 「はい。なんでしょうか」 「じょ、嬢瑠璃ちゃんが運転するの? 免許は?」 「日本の法律では、わたしの年齢で運転免許を所持することは不可能です。当然の帰結として、無免許運転です」 (確信犯かよ!) 「ですが、ご憂慮には及びません。運転技術はマスターしてあります」 (そういう問題じゃねえ!) たとえ口にしなくてもわたしの内心は十分に伝わっているはずなのに、 「シートベルトをお願いします」 嬢瑠璃ちゃんはそれをあっさり無視して車を発進させた。 言うだけあって見事なくらいにスムーズな加速で、瞬く間にギアを三速まで切り替える。 しかしそれでも、わたしは気が気じゃなかった。 彼女の運転が不安だという訳ではなく、警察に見咎めらたらどうしようとかそういうのでもなく、 なんというか──嬢瑠璃ちゃんのような中学生が運転席に座ってステアリングを握っているという光景が、 日常と非日常の入り混じって混沌とした──とてつもない違和感を醸し出しているのだ。 それは、これまで出会った全死さんの関係者が共通して持っている感触だった。 「貴女は──いえ、貴女と脳噛氏は、虚木女史の依頼を受けるつもりですか?」 街中で堂々と車を走らせる嬢瑠璃ちゃんは、赤信号の合間にわたしへと向き直った。 「うん……多分ね。受けることになると思う」 「以前、虚木女史は『参宮』と呼ばれる特殊任務に従事していました。 この話の本筋ではないので詳細は省きますが、宮下乖離という民間人を協力者としたある種の捜査活動です。 この『参宮』で、虚木女史は数々の迷宮入り事件を解決に導いてきました。 ですが──その任務は宮下乖離の死亡を以って終焉を迎えました」 「──死んだ?」 信号が青になる。嬢瑠璃ちゃんは前方に視線を戻し、ギアを入れる。 「詳しく知りたいのでしたら、その件の当事者であった香織さんに聞くといいでしょう。 問題はそこではなく──貴女たちは、その『次』として虚木女史に選ばれたのです。 彼女は貴女たちを警察機構の外部機関として取り込むつもりです。それでも彼女に協力しますか?」 藍さんの言っていた「恒常的な捜査協力」とはそういう意味だったのか、と今さら納得する。 さっきはほとんど意味不明だった全死さんと藍さんの言い争いも、なんとなく輪郭が見えてきたような気がする。 「誰かに利用される」というのは、ネウロがもっとも嫌っていることの一つだ。 ネウロは思う存分他人を利用したいのであり、自分がそうされるのを良しとしない傲慢極まりない性格の持ち主だ。 ──ただ、それには例外がある。 「それでも……そこに『謎』があるなら」 「この事件に『謎』なんてあるのでしょうか。貴女たちは有栖川恵を殺害した『犯人』を知っています。香織さんです。彼が殺しました。 いえ、そもそも、なぜ貴女は自ら『謎』に関わろうとするのですか? 失礼ですが、貴女について多少調べさせていただきました。 わたしの見る限りですと、『謎』を解くのは脳噛氏のカヴァーする案件で、貴女がそこに立ち会う必要はないように思います」 ──やっぱり、全死さんの知り合いだけあって只者じゃない。 わたしがただの傀儡で、実際に『謎』を解く(くう)のはネウロだということを知っている人物は何人かいるけど、 それはそれぞれの人たちのそれぞれの『謎』を通して知られたことで、こんなにも初期の段階で看破されたことは初めてだった。 「ちょっと調べただけ」で分かることではない、と思う。 「嬢瑠璃ちゃんにも──見えてるの? 『メタテキスト』ってやつ」 「さあ、どうでしょう。ご想像にお任せします。 ただ少なくとも、貴女が脳噛氏の隠れ蓑として使われていることを突き止めるのは、それほど困難なことではありません。 下部回路(インフラストラクチャ)のレヴェルでも到達可能な範囲です。 それに、わたしには見えようが見えまいが関係のないことです。わたしは全死さんの奴隷に過ぎませんから」 ……「奴隷」ときたか。 なんか、どうも身近に感じる言葉だ。 「今、『奴隷』という単語に反応しましたね? 脳噛氏に虐げられている身として、わたしに親近感を覚えましたか? それは表層上の類似点でしかなく、わたしと貴女は根本的に異なる存在です。 わたしの行動の全ては、全死さんの意志を逸脱することがありません。わたしは全死さんの執行機関であり、完璧な主従関係が成立しています。 ですが、貴女と脳噛氏を繋ぐ関係は違うのではないでしょうか。わたしが知りたいのはそこです。 貴女はなぜ、脳噛氏のそばで『謎』に接しているのですか?」 そう、最初はネウロの脅迫に負けていやいや謎解き(くい)に付き合っていた。 だけど、今は違う。 わたしは、わたしなりに思うところや考えるところがあり、ネウロと行動を共にしている。 そして、ネウロにはネウロにしか出来ないことがあるように、わたしにしか出来ないこともある。そう言い切れる。 わたしがネウロと共に『謎』に関わる理由、それは──。 めっちゃ真面目な顔で嬢瑠璃ちゃんを見据え口を開こうとしたそのとき、 キィッ、ごん。 嬢瑠璃ちゃんが急ブレーキを踏み、身体ごとすっぽ抜けたわたしは思いっきり頭を打ちつけた。 「……大丈夫ですか? だからシートベルトをお願いしたじゃないですか」 「ご、ごめん……」 額を押さえてうめくわたしを呆れたように見下ろしながら、嬢瑠璃ちゃんもシートベルトを外す。 「到着しました。降りてください」 ドアを開けてすたすたと歩き出す嬢瑠璃ちゃんを追って、わたしも慌てて車から降りる。 そこは駅前の繁華街だった。 夕暮れの雑踏を掻き分けながら、嬢瑠璃ちゃんはずんずん進んでゆく。 それはまるで目的地まで一直線、といった感じで、わたしははぐれないようするのがやっとだった。 やがてビル街の大通りを一本逸れた路地に足を踏み入れ、立ち並ぶ店舗の一つ、オープンカフェへと向かっていく。 そして、嬢瑠璃ちゃんはあるテーブルの前でふいに足を止める。 その席にはひとつの人影があった。 「──やあ、よく俺がここにいると分かったな」 「なんとなく、ここにくれば貴方に会えると思ってました。文脈的に」 「文脈的に、ね。なるほど。──全死さんのお使いか?」 「わたしがここに来たのは、わたしの独断によるものです。大局的な見地で言えば全死さんの判断とイコールですが。 ──貴方に会わせるために、ある人をお連れしました」 「ある人? 誰」 そう言って、彼は首を巡らせてわたしを見る。 その瞬間、彼は露骨に顔をしかめた。 「──おい、なんで彼女がここにいるんだよ。全死さんとデートじゃなかったのか」 多分、わたしも同じように顔をしかめていたと思う。 『不可触(アンタッチャブル)』の『辺境人(マージナル)』、習慣の殺人鬼──香織甲介さんだった。 場の空気はかなり気まずかった。 香織さんは物凄く嫌そうな顔をしていた。その気持ちは分かるような気がする。 彼は「わたしに会いたくない」と公言していたし、自分の犯罪行為の目撃者と好んで会いたがる人物など稀だろう。 ──その気持ちは分かる。分かるんだけど、わたしにはどうしようもないことだった。 こっちだって、どんな顔をすればいいのかよく分からない。 なので、この重苦しい雰囲気を紛らわすため──わたしはひたすら食べまくることにした。 とりあえず、メニューに書かれた料理を上から順に一回転注文する。そこから先は食べながらお腹と相談することにする。 幸いにも、今月のお小遣いを貰ったばかりなので懐には余裕がある。その後の財政が火の車になるのはミエミエだが、それも後で考えることにする。 ウェイトレスさんに注文を伝え終わったとき、 「──もしかして、君は海難事故から帰還したばかりなのか?」 と、ぼそっとつぶやく香織さんの声が心に突き刺さったけれど。 わたしは食べるのは大好きだ。 ご飯を食べている間だけは、嫌なことなんか綺麗さっぱり忘れられる。 手始めにトーストとシーザーサラダが運ばれてきた。 一口食べて感心する。どうやらこの店は、たっぷりバターを塗ってからパンを焼いているようだ。 噛み締めるたびに熱々のバターがじわっと滲み出てくる。 「──そう言えば、さっき都草りなこと会ったぞ。ケーキ奢ってやったよ」 「余計なことはしないでください。りなこには貴方に奢ってもらう理由がありません」 「理由ならあるさ。彼女は俺のものだからな──そんな怖い顔するなよ、冗談だ」 ベーコンサンドと和風海鮮サラダ、鳥の唐揚げを食べ終わる頃には、三種類のパスタが運ばれてくる。 カルボラーナが特に「当たり」だった。下手な店だとソースがダマになっているのだが、ここのはしっとりとまろやかに仕上がっている。 熱の加えかたにコツがあるのだが、ソースに卵の白身を使うか使わないかも重要な要素だった。 「貴方の存在はりなこにとって悪影響です」 「──ずいぶん直截に言うよな。いや、君のそういうところは好感持てるけど」 「もっとはっきり言いましょうか。わたしは、貴方ほど女性にだらしない人を他に知りません」 「なんでだよ。至って真面目なもんさ、俺は。とっかえひっかえとか手当たり次第とかは、俺の対極に位置する言葉だぞ」 「現象レヴェルで見ればそうでしょう。ですが──ああ、もう、こんなこと説明しなければ分かりませんか?」 「分からないね。ぜひ解説が欲しいところだ」 「こんな馬鹿げた話、口にもしたくありません。どうしても知りたいと言うなら、 今すぐ秋葉原にでも行って美少女ゲームを買い漁ってプレイしてください。そこに答があります」 「そこでエロゲと言わないところが歳相応で可愛いよな──だから冗談だって。睨むなよ」 次に現れたのは香ばしい匂いを漂わせるジンジャーポークだった。 ジンジャーポーク、またの名を豚の生姜焼き。 豚の美味さはなによりも脂の味で決まる。豚は脂が美味い。 ヘットよりもラードが料理によく使われることからも、それは明白だ。ラードはそのまま白飯に混ぜてもいける。 そして──この豚は決して高級なものではないが、それでも及第点以上の味わいだった。 醤油と生姜の黄金のような組み合わせが、肉の旨みを何倍にも増幅していて、なんというか、もう──最高だ。 いつも思うが、生きてて良かった。ありがとう豚肉。ありがとう生姜。 「それで、君はもう中学校には戻らないのか? りなこが心配してたぞ」 「いずれは一度戻るつもりです。ですが、それよりも優先すべきことがありますので。 ──言っておきますけれど、わたしはまだ貴方を諦めたわけじゃありませんから」 「その件なら丁重に断ったはずだけどな」 「一度や二度拒否された程度で断念するなら、最初から貴方を見初めたりはしませんでした」 「……意志が強いってのはけっこうなことだ」 そして運ばれてくるアジフライ。添えられたソースはタルタルソース。 タルタルとは韃靼人のことらしい。 ちなみにタルタルソースのベースとなるマヨネーズはマヤ人を指すとも言われてるが、こっちは俗説だったりする。 それはともかく、卵と酢という神がかった配合のこの調味料は、ありとあらゆる料理に合う。 というか、生で一本飲むことだって出来る。これを考えた人にノーベル料理賞を進呈したい。 サクサク食感とアジの微かに甘い脂がタルタルソースに優しく包まれ、 口に運ぶたびに脳内でドーパミンやらエンドルフィンやらがばんばん分泌されてるのが実感できる。 「しかし彼女……よく食うな。ここまで旺盛だと、胸が焼けるのを通り越して逆に空く思いだ」 「育ち盛りというやつではないでしょうか」 「君も見習ったらどうだ?」 「その発言はセクハラですよ」 「……そうなのか?」 「朴念仁の貴方には理解できないでしょうけど」 「はいはい、どうせ俺は愚鈍で無神経で鈍色鮪だよ」 さて、そろそろ注文したメニューの弾切れが近づいてきた。 テーブル上に所狭しと並べられたデザート群を眺め、えもいわれぬ恍惚の中にちょっとだけ寂しさを感じる。 まずはミルフィーユに手をつける。 ミルフィーユの正しい食べかたをご存知だろうか。 皿に載せられたミルフィーユを普通のケーキと同じように上からフォークで切り分けてしまったら、 超繊細な極薄多層構造であるミルフィーユは、フォークの圧力に耐え切れず押し潰されて無残にもぼろぼろになってしまう。 だから、ミルフィーユを綺麗に食べるためには、まずフォークで側面を押して横倒しにするのだ。 側面が上向きになった状態で層に垂直にフォークを入れると、遥かに無理なく切断できる。 そして、これをそっとすくい上げて口に入れる。 するとどうだろう。ミルフィーユは口の中でほろほろと優しく崩れて、なんとも言えない食感を与えてくれるのだ。 「──なあ、そろそろいいか?」 お腹いっぱい桃源郷、幸せのアッチの世界とコッチの世界の境目をうろうろしてたわたしを呼び戻したのは、香織さんだった。 「……ふえ?」 「こっちは君が食べ終わるのを待ってたんだ。俺になんの用があるんだ?」 甘い靄の掛かった思考の中で考える。 確か、わたしは嬢瑠璃ちゃんに連れられてここに来ただけで、わたし自身にはこれといって特に──、 「用は……ないでふ」 「おい──」 うんざりしたような香織さんの声。 わたしの意識も少しずつ晴れてゆく。もしもわたしに香織さんと会うべき理由があるのなら、 それは、わたしをここまで連れてきた嬢瑠璃ちゃんが知っていることじゃないのかと考えた。 隣の嬢瑠璃ちゃんを見ると、彼女は軽く頷いてわたしの目を見つめ返す。 「そうですね、桂木さんの食欲が満たされたようなので、話を先に進めましょう。 わたしが貴方がたを引き合わせたのは──間もなく開始される闘争への予備行動です」 「えっと……どういう意味?」 「貴方がたはすでに認識しているはずです。この世界のあらゆる場所が生存闘争のための戦場であることを。 その中で、我々はどういう戦略を講じるべきでしょうか? また、その戦略に於いてどういった戦術を選択するか、 我々は常に考え続けねばなりません。敵を知り、己を知れば百戦危うからず──今、貴方がたに求められるものは情報です。 『探偵』、そして『犯人』──非常に形式的で形骸化された構図ですが、この対立する両陣営に分かれているのが現状です。 闘争が本格化する前の情勢を鑑みるに、互いの情報を開示することは、大きな意義があります」 「──冗談言わないでくれ。俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。この子なんか敵じゃないし、敵になるつもりもない。 俺が望むのはレギュラーだ。それ以上でもそれ以下でもない。情報交換なんかより、没交渉に徹したほうが事は穏当に済む」 ただ耳に入れただけじゃなに言ってるかさっぱり分からない嬢瑠璃ちゃんの演説じみた言葉だったが、 香織さんは普通に返事していた。類友というか、やっぱりこの人たちは普段からこういうことばかり言い合っているのだろうか。 「ええ、貴方は『辺境人(マージナル)』です。勝者でも敗者でもなく、奪うものでも奪われるものでもなく、 今の中途半端な立場を頑なに固持している途方もない偏屈者です。この世に稀なる絶対に近い傍観者です。 ですが──それすらも限度があります。貴方も血と肉を具えた人間です。ハードウェアの制約から逃れることは不可能です。 それは、宮下乖離の件で不覚にも『当事者』となってしまった貴方こそがよくご存知のことではないでしょうか?」 「相変わらずの諧謔趣味だな、君は。……要するにどうしろと?」 おお、その言葉を待っていた。 本当はわたしが言いたかった言葉だけど、なんかそれを言うと「わたし馬鹿でーす」と宣言してしまうような気がして ちょっと抵抗があったので、香織さんが率先して言ってくれた事は素直に嬉しかった。 「分かりました。では端的に言います」 と、嬢瑠璃ちゃんは学生鞄からなにかの紙片を二枚、取り出した。 「これを差し上げます」 それは映画のチケットで、近頃各種メディアで話題になってる、恋愛小説を映画化した作品だった。 香織さんは首をひねりながらチケットを嬢瑠璃ちゃんから受け取る。 「……この映画を見れば、君の言う情報開示とやらが達成されるということか? 俺はこの映画のことは知らないが、そんな哲学的な内容なのか? ──まあ、別にいいけどな。どうせ学校以外の予定はないんだ。二回も映画で暇を潰せるならラッキーだ」 「寝言を言わないでください」 思いっきり軽蔑の色を滲ませた冷たい声が香織さんに飛ぶ。 「なぜ貴方が一人で二回も見るのです。一枚は桂木さんのに決まってるじゃないですか」 「誰がそんなことを決めたか知らないが、否定する理由はないな。富の分配というやつか」 この人って、けっこう天然なのか? というわたしの思いをよそに、香織さんは一枚をわたしに差し出す。 「ほら」 「はあっ」とわざとらしい溜め息をつき、嬢瑠璃ちゃんが香織さんを睨みつける。 「貴方という人は本当に……どうしようもない朴念仁の唐変木の頓馬で愚鈍極まりないですね」 「……なにがだ?」 「本当に分かっていないんですか? わたしをからかってるわけではないですよね?」 「俺はいつだって真面目だけど。人をからかうのは趣味じゃない」 「……桂木さん。貴女もそうなんですか? 一から十まで説明しないと理解できませんか?」 意図的に抑えた声音とともに、嬢瑠璃ちゃんがわたしを見る。 それは蔑むでも救いを求めるでもない、ただ確認しているような、静かな視線だった。 ──もちろん、わたしには嬢瑠璃ちゃんの意図は十分すぎるくらいに分かっていた。 ただ、それがあまりにも突飛でありえないことだったので、反応するのが遅れてしまっていただけで。 「えーと、つまり……これを観に行けってことだよね? わたしと……香織さんとで」
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「──はい、分かりました。それじゃ、明日の十五時、駅前で」 わたしはそう結んで、携帯の通話ボタンを押す。 液晶画面が回線の接続が切れたことを教え、そこでやっとわたしはこらえていた溜息を吐くことができた。 なんとも言えない脱力感と、重荷から開放された解放感との半々の気持ちで、 事務所で一番高価な家具、『トロイ』と呼ばれるデスクへと首を向ける。 「……ネウロー、全死さんと待ち合わせしたよ」 半分死んでるようなわたしの声に、椅子にふんぞり返ってうとうとしていた男──ネウロがぱっちりと目を覚ます。 気怠げに軽いあくびをしつつ、ネウロは窓の外に広がる暗闇を見、そしてわたしを見た。 「ふむ……ヤコよ、貴様は飛鳥井全死と何時間電話をしていたのだ?」 ちらり、と携帯の画面に記された通話時間の表示に目を落とす。 「……99,99でカウントストップしてる……朝の九時ごろから始めて今が夜中の三時くらい」 「ほう、そんなにも一体なにを話していたのだ?」 「……なにも。大したことない世間話か、そうじゃなかったら、なに言ってるかさっぱり分からない難しい話だけ。 アンタに言われた『会う約束』を取り付けるのは、電話を切る前の五秒で済んだ」 「人間の女は長電話が好きとは聞いていたが、これほどまでとはな。もっと他にすべきことはないのか? 魔界の電話は長電話を何よりも忌み嫌っていてな、通話時間が三秒を超えると爆発して半径十キロ内を焦土と化すのだぞ」 「あの人がおかしいだけだってば……飲まず食わずで十八時間とかさすがにないわ……」 普段なら、その魔界の電話とやらにツッコミを入れるところだが、精神的にも体力的にも消耗し尽くしていたので、素で答えるのが精一杯だった。 「うう……せっかくの日曜だったのに、丸一日潰した挙句に完徹って……わたしの休日はどこいっちゃったの?」 今日(というかもう昨日)に食べるはずだったあれやこれに思いを馳せ、どうしようもなく惨めな気持ちになってくる。 そして、そんなわたしの惨めな気持ちに拍車をかけるものがある。 「ねえ、ネウロ」 「なんだ」 「いいかげんに外してよ、これ」 と、わたしを椅子に縛り付けるチェーンとロープと南京錠を、辛うじて自由な右手で示す。 魔人の常識外れの力で椅子に緊縛され、その状態で十八時間も意味のない話や意味不明の話に付き合わされる── ドSなネウロによって様々な拷問を受けてきたわたしだったが、今日のこの仕打ちはトップ3に入るだろう。 なんでいつもいつもわたしだけがこんな目に遭わなきゃいけないのだろうか。 真面目に考えると辛いからあまり考えないようにしてるけれど、さすがに泣けてくるものがある。 「もー……勘弁してよ……」 疲労と空腹と睡眠不足で意識が朦朧としてくる。あとほんの数時間で朝が来て、学校が始まる。 せめて仮眠でも……と、(椅子に拘束されたままなのはこの際諦めることにして)目を閉じた瞬間、 「寝るなヤコ。寝ると死ぬぞ」 首がもげそうな強烈ビンタがわたしの頬を一秒で五往復した。 くわんくわん頭の中で響く衝撃が、わたしの意識を遠のかせるのが自分でも分かる。 乱れた平衡感覚がわたしの視界を一回転半させ、視界がぼやける。 このままだと──オチる。 いや、別に気絶したっていいのだが(ホントはよくないのだろうけど)、この場合「気絶」は「寝る」として見做されるのだろうか。 このままオチたら死ぬってゆーか、ネウロに殺されるのではないだろうか。 そんな思考がわたしの内部を駆け巡るが、それを上回る勢いで、わたしの意識はこの宇宙の遥か彼方へブッ飛んでいこうとしていた。 「しかし実際、貴様には悪いことをしたと思っているのだぞ」 「だった……ら、すんな……よ」 意識を保つためにツッコミを試みるも、ビックリするぐらいの掠れ声。 「本来なら、その右腕も縛りつけ、口にもボールギャグを噛ませなければ、とても緊縛と呼べる代物ではない。 飛鳥井全死との連絡を取らせるために、泣く泣く貴様の腕と口に自由を与えなければならなかった我が輩の心痛…… 貴様なら分かってくれるはずだな?」 (分かるか。つーか、拷問に手心を加えることが、ネウロにとっての『悪いこと』なのかよ) 今度は声にすらならなかった。 「踏んで縛って叩いて蹴って殴って吊るして──それが我が輩の愛だ」 「愛なら仕方ないな──って、ンなわけあるか! 虐めて愛情表現とか小学生か! しかもスケールデカすぎだろ!」 ──さて、このツッコミはきちんと声になっていたのだろうか? この直後に意識がぶっつり途絶えてしまったので、わたしにはそのあたりの事は定かじゃなかった。 誰かに呼ばれた気がして、目を覚ます。 時計を見ると夜中の三時だった。 「甲介くん、甲介くん」 いや──気のせいではなく、確かに誰かが俺を呼んでいた。 まだまどろみの中にある意識のままに、声の主を探して照明の消えているワンルームの部屋の至るところに視線を漂わせる。 やがて意識が徐々にはっきりとしてきた頃に、彷徨う視線がベッドの上──というか俺の隣で焦点を結ぶ。 そこには、全裸の女が座り込み、俺の肩を軽く揺さぶっていた。 だが、全裸の定義があくまでも「生まれたままの姿」というやつなら、そいつは決して全裸ではなかった。 顔にはアイマスク、細い首にはチョーカー風の首輪(首輪風のチョーカーではない)、 そして両手首と両足首にはベッドの支柱と鎖で連結された枷。 ちゃらちゃらと鎖が擦れるリズミカルな音で、俺は完全に覚醒した。 その女は真銅白樺だった。 「起こしてごめんね、甲介くん」 「……まだ帰ってなかったのか?」 俺がそう言うと、白樺は肩をすくめてみせたらしく、また鎖が鳴った。 「あのね……君がこの鎖を外してくれなかったら、わたしは帰りたくても帰れないんだけど?」 完全に覚醒したと言うのは俺の錯誤で、どうやらまだ俺は寝ぼけていたらしい。 思い出したからだ。 「──忘れてた。悪い」 思い出してみれば我ながら呆れるしかないが、俺は彼女の拘束を解くよりも先に眠ってしまったようだった。 「ううん、それはいいの。『すっかり忘れ去られた自分』っていうのを実感できて、新鮮だったから」 「そいつは俺には理解しがたい感覚だから、『良かったな』としか言いようがないよ。で、じゃあ、なんで起こしたんだ?」 そこで気が付いたが、白樺はさっきから膝をすり合わせてもじもじとしていた。 だがどうやら、それは羞恥心とかそういった類の感情によるものではないらしく──、 「トイレ」 生理的な欲求によるものだったらしい。 俺が身を起こして手足と首の戒めを解くと、彼女はベッドからするりと降りぱたぱたとトイレへ駆け込んでいった。 それを見るとはなしに見送ってから、俺は再びベッドに横たわる。 すっかり霧散した眠気をかき集めるために、できるだけどうでもいいことを考えようとした。 その材料として選んだのは白樺のことだ。 なぜ、彼女は緊縛された状態での性行為を望むのだろうかという点だ。 そしてまた、なぜその相手に俺を選んでいるのかということ。 俺自身について言えば、その点ははっきりしている。 それは白樺が望んでいることで、しかも断る理由が特に思い当たらないからであり、 そして──ここが一番大事な点であるが──それが習慣として、レギュラーとして定着しているからだ。 別に長く続けるつもりなど毛頭無かったのだが、かれこれ三年くらいになるのだろうか。 元々、彼女とは中学時代からの知り合いだったが、こういう関係になった、つまり白樺が俺のレギュラーとして組み込まれたのは、 まったくの偶然に当時の彼女のパートナーを殺害したことに起因している。 俺はその代役として、いわば穴埋めとして納まっているのであり、それは非常に恣意的な推移の結果だ。 発端はどうあれ、それがレギュラーとして定常化された出来事なら、白樺が俺から離れていくなり、 或いはお互いの環境が変化するなりして、やがてその関係性が消滅するときを迎えるまで、俺は淡々とそれを受け入れるだけである。 来るものは拒まず、去るものは追わず。それが習慣に従って生きていくということだ。 俺が定期的に人を殺すのも、その習慣に従うからこそだ。 始めて殺したのは六歳のときで、それ以来、殺人が俺の習慣になっている。 殺害人数が百人に達したら一度打ち切ってみようかとなんとなく考えるが、それはまだ少し先のことになる。 止めるという発想自体に大した意味はないし、先のことを真剣に考える習慣はない。 鬼に笑われたくはないからだ。 ──などと、思考が脱線して当初の目的通りにかなりどうでもいい結論らしきものに辿り着き、 睡魔がじわじわと俺の瞼に被さろうとしたとき──いきなり携帯電話の着信音が鳴り響いた。 闇とレム睡眠の海に満たされた部屋の静寂はその一撃で木っ端微塵に破壊される。 トイレのほうから「うひゃ」という白樺の小さな悲鳴が聞こえてきた。 念の為に横目で時計の針を捉え、現時刻を確認する。 やはり三時過ぎだった。 こんな時間に電話をかけてくる非常識な人間といえば、たった一人しか心当たりがない。 俺はげんなりした気持ちで携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押した。 「遅いんだよ、この馬鹿! 何時間待たせる気だ! 電話くらいさっさと取れよ! お前は催促嫌いの漫画家か!?」 「……待たせたのはほんの数秒だと思いますけど」 やはり全死だった。 「嘘こけ! たっぷり三時間は待ったぞ!」 「全死さんは、ダリの作った体内時計でも内蔵してるんですか?」 俺の突っ込みなどに耳を貸す素振りすら見せず、全死はひとしきり俺を罵倒した後に、 この草木も眠る絶好の呪いアワーな時間に近所迷惑を顧みず電話をかけてきたそもそもの本題を切り出した。 「明日、弥子ちゃんとデートするぞ」 「……おめでとうございます。電話、切ってもいいですか?」 トイレから戻ってきた白樺が、自前の拘束具をバッグにしまう。代わりに下着を取り出し、身に着けはじめた。 電話中の俺に遠慮しているのか、それとも今が深夜だということに配慮しているのか、その動作は極力音を潜めたものだった。 「なんで切るんだよ。話はこれからだ」 「その話、長くなるようでしたら今度にしてください。俺は学校があるんです」 「すぐ済むよ。むしろ、そんなお前に渡りに船な話だ──今すぐ、大学まで来い」 「俺は明朝に行きたいのであって、今行きたいわけじゃないですよ」 「関係ない。どの道、用事が済んだら朝になる。冬来たりなば春遠からじって言うだろう?」 下着に次いで衣服をも着終えた白樺は、最後に眼鏡をかけて身繕いを終了させた。 俺個人の希望としては行為の最中にも眼鏡をつけていて欲しいのだが、生憎、眼鏡とアイマスクは両立しない。 「その言い回しはおかしい気もしますし、すぐ済むのか朝までかかるのかはっきりさせて欲しいですが、 用件を聞いていないので断言はできませんね。で、俺に大学でなにをさせたいんですか? ──と言うか、全死さん、今どこにいるんです? もしかして学校ですか?」 「そうだよ。だからお前を呼んでんだよ──いちゃいちゃしようぜ」 その全死の要請と、桂木弥子とデートすることと、なんの関係があるのか俺には推し量ることは不可能だった。 全死の中ではその両者は明確で整然としたロジックで連なっているのだろうが、 全死のような異常な精神構造を持ち合わせていない俺には知るべくもないことである。 どの道──答えははっきりしていた。 「嫌ですよ。なに言ってるんですか。それに──全死さん、出来なかったじゃないですか」 実は、誠に不本意であり遺憾なことに、俺は全死と行為に及ぼうとしたことが一度だけあったのだが── 『痛い』『そんなん入るか』などと半狂乱になって泣き喚く全死に追い立てられたことで、幸いにも未遂に終わった。 「ありゃ、お前が無理矢理犯そうとしたからだろ」 「……全死さんのなかでは、そういうことになってるんですか。俺の認識だと、俺が全死さんの脅迫に負けてしぶしぶ、ということになってるんですけど」 「誰が太宰治の話をしているか」 「『藪の中』のことを言いたいんだったら、それは芥川龍之介ですよ」 「いいからさっさと来い。十分しか待たないからな。一秒でも過ぎたら死刑だ!」 その怒声を最後に、通話は切れた。 誰のためでもない中途半端な溜息をついて携帯電話を放り捨てると、暗闇の中で忍び笑う白樺の声が聞こえた。 「飛鳥井さんから呼び出し?」 「残念なことにね。まったく……せっかく眠れそうだったのに。あの人、いつもいつもいいタイミングで俺の邪魔をするよな。 もしかして、狙ってやってるんじゃないのか?」 「ふふ、ご愁傷様。じゃあ、わたしは帰るね。甲介くんはどうするの?」 俺は数秒ばかり頭を抱え、この迷惑千万な全死の命令をどう処理するか考えていたが──やはり、答は一つしかないようである。 全死の我儘に振り回されるのが俺の日常でありレギュラーである以上、俺は諦めて唯々諾々と従うしかない。 「行くさ。──死刑は嫌だからな」 ──同時刻。 『そいつ』は、己の足元に横たわる、人の形をした肉塊を、じっと眺めていた。 手にしていたコンクリートブロックをその上に落とす。 骨が潰れる音のほかには、なんの反応も無い。その肉塊に生命が通っていないのは確実だった。 「……後、二人」 『そいつ』はぼそりと呟く。 「後二人で……僕は自由になれる……」 熱に浮かされているかのようなぼうっとした表情で、『そいつ』はさらに熱く呟いた。 「僕は自由になる……!」 下弦の月の明かりの下、『そいつ』は身体を弓なりに仰け反らせて細く高い声を漏らす。 ──いつまでも。
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全死と嬢瑠璃が桂木弥子との『デート』へと向かったのを見送った後、 俺は遅ればせながら学生の本分を全うするべく教室に赴いて授業を受け、 図書館に移動して提出課題についての調べ物を行い、夕暮れ間近になるころ大学を出た。 習慣として定期的に人を殺して回っている俺だが、その行為は俺の日常に於いてさほど大きなウェイトを占めてはいない。 基本的に俺は真面目な学生なのだ。 朝起きては学校に通い、予定された通りの時間割をこなし、空いた時間はたいてい愚にもつかないことをぼけっと考えて過ごしている。 それが俺のライフスタイルであり、全死やその関係者に引っ掻き回されない限りは、そのルーチンワークを遵守している。 我ながら無味乾燥で平坦で退屈な人生だと思うが──その緩慢な時間の経過の中にこそ、俺にとっての幸福が存在する。 全死に振り回されたり、嬢瑠璃に冷たくあしらわれたり、白樺と寝たりするのも、それがレギュラーだからこそ受け入れいていることだ。 だから、駅前で都草りなことばったり出くわした時も、その素晴らしきレギュラーを尊重してコーヒーを奢ってやることにした。 「最近、先輩学校に来ないんだけど」 りなこは嬢瑠璃の一つ下の後輩で、つまり中学一年生である。 個人的な印象としては非常に子供っぽい子(これはトートロジーなのだろうか)で、ある意味で非常にアンバランスな少女だった。 この場合の『ある意味』とは一目瞭然だった。 「ねえ、聞いてるの?」 「聞いてるさ。嬢瑠璃が不登校だって話だろ?」 「ちょ、ちょっと! なんで先輩のこと呼び捨てにしてるのよ!」 「いちいち感嘆符をつけて話すなよ。彼女は俺よりも年下なんだ。呼び捨てにするのが礼儀ってものだろ」 「下の名前で呼ばなくてもいいじゃない!」 ばん、とテーブルを叩いて立ち上がるりなこのオーヴァリアクションに合わせて、彼女の歳に似合わぬ豊胸が大きく上下に揺れた。 「声が大きい。馬鹿」 「うるさい!」 「だから、うるさいのはそっちだろ……」 ちなみに全死は、りなこのような肉感的な体型の持ち主は嫌いだ。 全死の好みは嬢瑠璃のような線の細い子であり、ゆえにりなこは俺のものらしい。以前、全死が彼女を俺に譲ると言ってきた。 りなこは自由意思を持った人間であり物ではないので、そんなのを下賜されても俺が困るのだが。 ──しかしまあ、それも一つの意見であり、こうしてりなこと喫茶店で顔を付き合わせる理由としては十分だった。 「学校に来ないのことのなにが問題なんだ? 学校以外でも会おうと思えばいつでも会えるだろ? 彼女、君のことをけっこう気にかけてるみたいだぞ。君が不機嫌になるから、俺とあまり話したくないそうだ」 「──ほんと?」 「なんでこんな情けない嘘つかなきゃいけないんだ。別に俺は用もないのに嬢瑠璃と話したいわけじゃないけど、 面と向かってそう言われるとさすがに傷つくものがあるぞ。こう見えても俺は繊細なんだ」 「嘘つき」 その通り、嘘でないこと以外は嘘である。 これを言うと文章の係り受けがややこしくなるので、そっと胸の中にしまっておくが。 「……でも、先輩に学校に来て欲しいの。先輩は学校に必要な人だから。みんな先輩のこと待ってる」 「必要、ね──愛されてるよな」 「え? なに?」 「いや、誰かに必要とされるってのはいいことだよな、多分。心配しなくても、そのうち戻るんじゃないのか?」 「無責任なこと言わないでよ」 「無責任が俺の数少ない生活信条さ」 ぷっとむくれるりなこに肩をすくめてみせ、コーヒーついでにケーキでも奢ってやろうとメニューを手に取ったときだった。 「──あんた、香織甲介?」 顔を上げると、俺と同じくらいの年齢と思しき男が立っていた。 まず目に入ったのは、男の顔に乗っている眼鏡だった。 「……そうですけど、どちらさまですか?」 中学か高校の同級生かと記憶の底を突っついてみたが、どうも該当するものがない。 人の顔などあまり覚えない性質なので、その「覚えがない」という認識すらに自信がないのは残念なことである。 「ん、そーだな、俺も自己紹介したほうがいいかな」 男は眼鏡を額まで押し上げ、無造作に伸ばされた髪に埋もれさせる。 「地味なあの子は眼鏡を外すと美少女だった」とは漫画にありがちなシチュエーションだが、 この男はそのテンプレートに非常に近い形で沿っていた。 眼鏡を掛けているときはなんとなく陰気そうな雰囲気を漂わせていたが、その下に隠されていた裸眼は明るい光をたたえており、 童顔な面差しと併せて第一印象よりも二~三歳若く(幼く?)見える。 「俺は篚口結也。一応、警察官」 「なるほど。それで……警察の方が、俺になんの用ですか?」 「あれ、反応軽いなぁ。俺、『刑事に見えない』とか良く言われて、いつも信じてもらうのに一苦労してんだけど」 「人間、見た目じゃないですからね」 警察官に見えない警察官から俺にも心当たりがあるし、本人がそう自称する以上、俺にそれを否定する理由はない。 彼を警察官だと認めることで俺になにかしらの不利益が生じるわけでもなし、もし認識を改める必要に迫られたらそれはそのときに考えればいいことである。 それよりも問題なのは──警察が俺になんの用があるかということだ。 俺は習慣のために人を殺している。 言うまでもなく、これはれっきとした犯罪行為であり、刑事罰の対象である。 殺害人数がそろそろ三桁に届こうとしている現状、俺の行為のすべてが明るみに出たらまず間違いなく生涯を塀の中で過ごすことになるだろう。 その場合の俺の予測としては、余罪の追求やそれによって次々と開催される裁判によって事実上の終身刑となるか、 司直側の担当者がうんざりして「これくらいの件数なら死刑は確実だろう」というあたりで調査がストップされるか、のどちらかである。 最高に上手く切り抜けたとしても、精神病院あたりに送られて二度と実社会には戻ってこれなくなるだろう。 どの道あまり愉快そうな人生ではない。監獄で営まれる永遠のルーチンには多少なりとも心動かされるものがあるが。 「まー、いいや。信じてくれるなら話は早い。あんた、桂木弥子って知ってる? 探偵の」 知ってるもなにも、俺の殺人現場を目撃されている。 そして今頃、全死とデートをしているはずである。 相手の意図がつかめないので、いざというときのために横目で退路を探りながら、曖昧に答える。 「はあ、何度か会ったことは」 りなこは不審そうに俺と篚口の顔を見比べている。 篚口は小脇に抱えていたラップトップの蓋を開け、液晶画面を俺に示した。 「実はさ、彼女、ストーカー被害を受けてんだよね。で、俺が調べたところ、 彼女のケータイや事務所のパソコンに大量の迷惑メールを送ったり不正な侵入を繰り返す行為のデータのやりとりが、 全てあんたの名義で契約されている携帯電話を中継しているんだ。思い当たること、ある?」 ──目の前が真っ暗になった。 「……あの人、そんなことしてたのか」 俺が所持している携帯電話を全死がいじることは不可能だろうから、おそらく全死が勝手に俺の名義を使って契約したのだろう。 だが、なぜよりにもよって俺の名前でそんなことをしなければならないのか。 油断も隙もないというか、それ以前にまったく意味不明だった。 「俺、ネウロから依頼されて──おっと、ネウロは知ってるよな? あの助手な──いろいろ手を回してみたんだけど、 これちょっと酷くね? ケータイもパソコンもほとんど使い物にならなくなってるよ。この情報社会でそれば不便すぎだろ。 ──どうなの? 止める気ある? あんましつこいようだと俺もほら、いちおう公僕だからさ。逮捕とかしちゃうかもよ」 「──分かりました。俺は断じて関与していませんが、心当たりは必要十分にあります。 約束は出来ませんが、その人に忠告しておきます。もしストーカー行為が止まないようでしたら、その人を逮捕してください」 心因性の頭痛をこらえながらそう告げると、篚口は得心したようににぱっと笑った。 「そっか。ありがとな。お礼に、いいことを一つ教えてやるよ。──あんた、今日の未明二時から六時ごろ、どこにいた?」 「……は?」 おかしな話だった。 「教えてやる」と言っておいて質問を投げかけるとは、どう考えても辻褄が合っていない。 「そう変な顔するなよ。話はここからが本題だから。その時刻、有栖川祐希という女性が殺害された。 その容疑者として、『なぜか』あんたの名前が挙がっている」 「……は?」 それもまたおかしな話だった。 今度こそ本気で心当たりがなかった。 まずその時間は俺を人を殺していないし、そんな名も知らないどこかの誰かが殺された事件で、なぜ俺が捜査線上に浮かび上がっているのか。 「『なぜか』──ここ、重要だぞ。被害者とあんたの間に接点は無い──少なくとも、現段階では発見できていない。 あんたの人相体格に合致した不審人物の目撃証言や、あんたとの関連を示す物的証拠もまるで無い。 なのに、あんたが捜査対象としてマークされているんだ。連続殺人事件のマル重としてね」 「──『連続』?」 「ああ、そうだよ。なんだ、知らないの? ほら、こないだニュースになったじゃんよ。女子高生が通り魔に殺されたとかって」 「あ」 なんとかポーカーフェイスを保つことに努めてきたが、さすがに限界だった。 思い出した。 いや、忘れるほうもどうかしているが、俺は先日、全死の依頼に従って有栖川健人という男子高校生を殺害しようとしたが、 なんの作用によるものか、人を違えて別の人間を殺してしまっていた。 嬢瑠璃の寄越した新聞によると、その『人違い』が有栖川恵という名前の少女だったはずである。 当の現場を目撃された桂木弥子のことは覚えているのに、殺した相手のことを忘れていたとは間抜けにもほどがある。 「あ──ああ、そう言えばそんなニュース、あったような気がします。……それで、なんで俺が?」 気を取り直して「なにも知りません」という風を装ってみるが、これは九割九分本気だった。 有栖川恵の件で俺が疑われているならともかく、篚口の口ぶりでは、 つい半日前に殺害された有栖川祐希という女性を殺した容疑が俺に掛かっているようだった。 「そこが俺も分かんないだよね。現場の捜査員も誰も分かってないみたいだ。 だけどな、やっぱ警察って縦社会なんだよね。上の人間が『こいつについて調べなさい』って言えばそうするしかないっしょ」 その意見は理解もできれば共感もできる。 なにかの上位概念に唯々諾々と従うという行動様式は、俺の美意識とも合致している。 ──その結果、俺が濡れ衣を着せられるというのはいただけない話であるが。 「でも、そんなこと俺に話していいんですか? 捜査機密ってやつじゃないんですか」 「そこはほら、俺もいろいろ思うところあんのよ。現場の人間がみんな指揮官の命令に納得してるってわけじゃねーの。 笛吹さんもあいつの扱いに困ってるみたいだし──いや、見た目はなんかファンキーで好感持てるけど。 ま、それはそれでいいんだけど、実際のところはどうよ? 殺した?」 「俺は有栖川祐希という女性は知りませんし、もちろん殺していません」 これは嘘ではない。 ──有栖川恵のほうは俺が殺したが。付け加えると誤認による殺害なので、『知らない』という点は彼女にも当てはまる。 「アリバイある? あるなら手っ取り早いけど。二時から六時ごろね」 「二時から三時に掛けては寝てました。──ああっと」 ここで俺はあることに思い至り、話を中断してりなこに振り返る。 「君、ちょっと耳でも塞いでたほうがいいぞ」 「……なんで? 今さら聞かザルしても遅くない?」 言われてみれば、純真な中学生を前に殺人事件について語り合うのはやや常識を欠いた行為だと思う。 全死のような人間と付き合っているとその方面の気配りがおろそかになってしまうから困る。 まあ、この篚口という刑事もその意味では俺と同類だろう。 「そうか、じゃあ最後まで聞けばいい」 俺は優しい人間なので本人の意思を尊重し、(単に『耳を塞ぐ理由』について説明するのが面倒だという見解もあるが) それ以上言うのをやめて再度篚口に顔を向ける。 「寝てたというのは二重の意味です」 「二重? ──って言うと?」 「この時間帯なら証言してくれる人がいるという意味です。つまり──性交渉です」 りなこがテーブルを叩いて立ち上がった。本日二度目である。 「い、いいいきなりなに言ってんのあんた!?」 「声が大きい」 「でも、だって」 耳まで真っ赤にしながら口をぱくぱくさせるりなこはしばらく俺を睨んでいたが、 結局、言葉らしい言葉を吐くことなく、あーとかうーとかつぶやきながらのろのろ着席した。 「はは、確かに耳に栓しときゃ良かったかもな、お嬢ちゃん。──それで、三時以降は?」 それを思い出すのは容易だった。人間、嫌なことほど忘れがたいものだ。 全死の自己中心的な電話を受けた俺は、着るものも取り合えず表に出、マンションの前で白樺と別れて大学への道を駆け出したのだった。 「──さっき話したストーカー犯の人に呼び出されて大学まで出かけました」 「今度はそっちの人が証言してくれるってことな?」 俺の神経過敏だろうが、篚口の言い方が「今度は全死とやっていた」というニュアンスを含んでいるように聞こえた。 ために、意図せずして顔をしかめてしまう。 「いえ、その人は証言してくれないと思いますよ……寝てたから。こっちは普通の睡眠です」 二時から三時にかけては一緒にいた白樺が証言してくれるだろうが(そんな面倒なことは頼みたくもないのが本音だ)、 全死のほうはまるで当てにならない。あの晩、俺が思想インフラ研究会の部室の足に踏み入れたとき、すでに全死は眠りこけていた。 そしてつい数時間前に嬢瑠璃に起こされるまで寝通しだったはずである。 そもそもの問題として、全死が俺のために証言するということが有り得ないことのような気がする。 そんなことを期待するならダチョウが空を飛ぶのを期待したほうがまだしも現実的だ。 「ふーん……なるほどね。大体のことは分かった。いや、マジで助かったよ」 「まあ、やってもいないことで疑われるのは、こちらとしても不本意ですから」 「だよなー。なんの根拠もないのにあんたのこと容疑者のつもりで調べろって言われても、俺らもやりにくいよ、実際。 身内の愚痴になるけどさ、ほんと、あのメイドさんはなにを考えてるやら」 一瞬、篚口自身の家庭の話かと思いかけたが、警察官が『身内』といえば警察機構のことである。 そして、メイドという言葉が相応しい警察関係者といえば、俺には心当たりは一つしかなかった。 「……もしかして、虚木さんですか? あのメイド刑事」 「え? 知ってんの? うっそ」 「友人の知り合いでした」 「あ、そーなの? いやー、世間って狭いなー」 それどころか、一度は彼女の手によって手錠をかけられた仲であるが、そのことは言わないでおいた。 俺のことを調べている篚口がそれを知らないということは、その顛末に関しては全死があらゆる面からその公的記録を抹消しているということだろう。 なので俺は、適当に相槌を打つだけに留めておいた。 「そうですね。世界規模で人口爆発の御時勢ですからね」 それからしばらく篚口はりなこを相手にネット上の個人株取引や新作ゲームなどの他愛ない世間話に興じていたが、 他にもいろいろ抱えている仕事があるのだと言って席を辞した。 りなこもケーキを食べ終わると、「そろそろ帰る」と立ち上がる。 「送ろうか?」 社交辞令としてそう言うと、 「いい。一人で帰れる」 もし受諾されたら面倒だな、と内心思っていため、その返事は実に有難かった。 「──ねえ」 「なに」 「ケーキ、ありがと」 気にするな、君は俺のものらしいから──という言葉が浮かんだが、口にするのは止めておく。 口は災いの元だからだ。 「──あとさ」 「なに」 「本当に、殺してないよね。刑事さんの言ったこと、なんかの間違いだよね」 「当たり前だろ。あの篚口って人もそう言ってただろう」 「そ」 りなこはちょっとだけ微笑むと、自分と夕日を結ぶ直線上に位置する駅へと駆け出した。 途中、一度だけ振り返り、 「もし本当だったら、あんたを先輩に近づけたくないな、って思ってたとこ」 ──かつて俺が嬢瑠璃を殺しかけたことは、りなこには言わないほうがいいだろう。 そう判断した俺は、黙って腕を大きく左右に振った。