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中島みゆき 空と君のあいだに 352様より あああ ぞけあ ぐちあ むびい まどる けけん あぶで んがけ やぶけ あちや だらは でゆに ざまぬ だそだ ふのべ ばえみ るあぎ じへせ はゆみ ゆとわ でだに こつね あゆん るこは ぼむぐ そばむ ちがあ あなお にぞお さぎく にやま まざつ ぼしひ ろまて とけだ やほお
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空と君のあいだに ◆EAUCq9p8Q. 「ごちそうさま!」 ぱたぱたという足音。 大人のものよりも軽い足取りが、フローリングの床を叩く音。 愉快な子どもの一日の始まりの音。 ドアが賑やかに開け放たれ、肩口まで伸びた栗色の髪を跳ねさせながら少女が飛び込む。 少女は机の上に置いてあったルビーレッドの宝石に、語りかける。 (おはよう、レイジングハート!) 少女――高町なのはの一日がいつも通りだったのは、そこまでだった。 レイジングハートと呼ばれた宝石は何も語らない。 ただ、当然宝石がそうあるように黙して机の上に転がっている。 (レイジングハート? 寝てるの?) いつもなら間を置かずに『おはようございます』と返すところなのに、いくら待っても返事が帰ってこない。 持ち上げて揺さぶってみたり、いつもより少し強く語りかけてみたりとしてみたが、反応はない。 何かあったのだろうかなのはが訝しんでいると、彼女とレイジングハートのホットラインに突然第三者が割り込んできた。 『やはり、思った通りか』 同時に部屋の中に突如一人の男が現れる。 男は、レイジングハートを眺めるなのはに(正確にはなのはの脳内に)こう続けた。 『平和ボケも大概にしておけよ』 突然の辛辣な言葉に戸惑うなのはに対して、男―――少女のサーヴァントであるキャスター・木原マサキはレイジングハートをもぎ取り、更に言葉を続ける。 『先にこいつの方に釘を刺しておいた。『無駄口を叩くな』とな。 そういう点に関しては、下手に理屈をこねる人間よりも、『こいつ』のほうが聞き分けもいい』 まくし立てるように棘のある言葉が並べられる。 なのはは少しだけ気分を害して言い返そうかとも思ったが、その後に続く言葉で文句を言おうとしていた出鼻をくじかれた。 『下らないお喋りで隙を作るような真似はやめろ。お前がどう思っていようが、戦争は止まらないぞ』 それは、言うまでもなく正論だった。 聖杯戦争の参加者として呼び出された以上、願いを叶えようと思う他の参加者はなのはを狙ってくる。 油断していると、不意打ちを受けて大怪我を負ってしまう可能性もある。 確かに言葉は悪い。だが、キャスターの口が悪いのは出会って言葉を交えた時もそうだった。 口は悪いが彼なりになのはのことを思っての忠告、なのかもしれない。 だが、なにか。 その正論の中に、言葉の棘以外になにか。 キャスターの言葉からは、言いようのない感情を覚える。 その感情につけるべき名前を、なのははまだ知らない。 『申し訳ありません、マスター』 そして、そこでようやくレイジングハートがいつものように機械的な音声を流した。 キャスターの忠告のほうを優先したことに対する謝罪なのか、なのはの言葉を無視したことに対する謝罪なのか。 レイジングハートらしくない曖昧な言葉。 だが、レイジングハートのが気を使っているというのもあり。 キャスターから感じるもやもやとした何かを、口には出さずぐっと飲み込んだまま、彼の進言を受け入れる、という形でなのはの方が折れた。 (……ごめんなさい。もうちょっと気をつけなきゃ、いけませんね) 「フン」 キャスターは肩透かしを受けたとでも言いたげに鼻を鳴らし、そのままベッドに腰掛けた。 そして、ベッドの側に置いてあったスマートフォンを投げて渡す。 いきなりのパスになのはは多少慌てるが、なんとか落とさずキャッチできた。 何事だろうと思うと、着信のランプが点滅している。なのはが朝食を食べている間にメールが届いたようだ。 届いていたメールを確認する。 どうやら、聖杯戦争の予選を通過したらしい。 通過しなくてもよかったのにな、などと思いながら添付ファイルを開いて、目を剥いた。 そこに記されていたのはある参加者の『捕獲』を命じる記述。 そして、その参加者の顔と名前。 なのははその参加者を知っている。 その輝くような金髪と、さみしげな顔を知っている。 今にも泣いてしまいそうな哀しい目を知っている。 「フェイトちゃん……?」 小さなつぶやきが、ただ物憂げな表情を映す液晶面に零れ落ちた。 そしてなのはは、スイッチが入ったようにすぐに出発の準備を整え始めた。 通学時間にはまだ早い。 だが、居ても立ってもいられない。 髪の毛をいつものツインテールで結び、制服に着替える。 あとは、あとは、と頭を回転させ、両親役のNPCに不審に思われないように通学用のかばんを持ち、用意が完了したことを再確認して部屋を出ようとする。 しかし、ドアノブに手をかけようとしたところで。 「何をする気だ」 顔をあげると、眉をしかめたキャスターが居た。 なのはの行く手を阻むように立ちふさがっている。 なのははもどかしさを感じながらも、キャスターに送られてきたフェイトの画像を見せて、手早く説明しようと試みる。 「この子、フェイトちゃんっていって……」 「それは知っている。昨日『そいつ』を弄った時に戦闘記録で確認した」 「だったら!」 「……会いに行くつもりか」 キャスターの一言に、黙って頷く。 それ以上の説明は必要ないと思ったから。 だが、キャスターはそれこそ馬鹿らしいと言わんばかりにもう一言付け加えた。 「行って何の意味がある」 「……」 キャスターのその一言で、勢いばかりで動いていた心が少し押し込められる。 そしてさっと潮が引いたように、焦るばかりだった頭が少しだけ冷静さを取り戻す。 行って何か意味があるのか。全く意味がないのではないか。 なのは自身、フェイトについて全く知らない。 誕生日も、好きな料理も、家族のことも、彼女の戦う理由も、願いも、何も知らない。 もしかしたら、彼女は望んでこの舞台に来たのかもしれないし、そうだったらなのはとフェイトはまた戦うことになる。 確かにキャスターの言うとおり、意味なんてないのかもしれない。 そこまで考えて、なのははこう答えた。 「何か意味があるから、じゃないよ」 確かに、ここに居るのはフェイトの意志かもしれない。 フェイトを探したところで、また戦うことになるかもしれない。 でも、それでも。 あの日なのはに宿った気持ちは。 『友達になりたい』と思った心は嘘じゃないから。 「きっと、『何も意味がなくても』なの」 『友達になりたい』。 だから、彼女と会う。 何があったのか話をする。 なのはに出来るのはちょっと前も、今も、たったのそれだけ。 『たったのそれだけ』が何の意味もなくても。 この聖杯戦争の舞台で、『たったのそれだけ』が出来るのはなのはだけだから。 通達を見て、『フェイト・テスタロッサ』を敵主従と捉えている他の参加者には居ない。 フェイトもきっと、誰かに歩み寄ろうとはしない。きっとまた、悲しげな顔で空を駆ける。 フェイトは、またひとりぼっちのままで、心を削り、泣きそうな瞳で、戦う。 そんな哀しいこと、絶対に嫌だ。 その行動に何か意味が居るというなら、この一言で十分だ。 「だって、それが友達でしょ?」 「だから、お願い、キャスター」 なのはのお願いにキャスターは露骨に嫌そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。 ただ、黙って道を譲った。 「……じゃあ、行ってくるね」 キャスターは答えない。 ただ、目元を手で覆って俯いただけだった。 ○ 通学路を走りながら、なのはは胸元のレイジングハートに語りかけた。 (悪いことしちゃったかな) 『いいえ』 キャスターの忠告通り、簡素な返答のみを返すレイジングハート。 キャスターはなのはが『狙われる側である』ということを(かなり遠回しに)教えてくれた。 レイジングハートもレイジングハートなりに、なのはの身を案じ、今この瞬間も警戒してくれているのかもしれない。 (レイジングハート) 『はい』 (……帰る方法も、早く見つけないとね) レイジングハート自体あまりお喋りな方ではないが、こうも事務的な会話ばかりだと、なんだか調子が狂う。 きっと、聖杯戦争中、レイジングハートはずっとこの調子だろう。 こんな異常な状況がいつまでも続くのは、なのはにとってはどうも心地悪いものである。 だから、聖杯戦争なんてせずに早く『いつもの日常』に帰る。 キャスターは『次元連結システム』を用いれば聖杯戦争からも離脱は可能だと言っていた。 今はフェイトが優先だが、キャスターの聖杯戦争のシステム解明の鍵となる『何か』も探し出し。 機械的だけど、意外とお喋りなレイジングハートの待つ日常へ。 可能ならばフェイトも一緒に。 『申し訳ありません、マスター』 (いいよ。レイジングハートはなにも悪くないから) 短い謝罪。 なのはの心を慮ってか、いつも通りの気遣いを見せるレイジングハート。 『……申し訳ありません、マスター』 ただ。 一度だけ。 レイジングハートは、もう一度だけそう呟いた。 繰り返された言葉に、特に意味は無い。 少なくともなのはにとっては、特別な意味を持たない言葉を、もう一度だけ呟いた。 なのはは繰り返された言葉を少しだけ不思議に思ったが、特に気に留めることなく道を急ぐことにした。 「待っててね、フェイトちゃん」 「絶対に、追いつくから!」 声を出して気合を入れて、また少し離れてしまった未来の友達に向かって駆け出す。 聖杯戦争も何もなく。今はただ、隣へ――― 【C-3/高町家近くの道/一日目 早朝】 【高町なのは@魔法少女リリカルなのは】 [状態]決意 [令呪]残り三画 [装備]“天”のレイジングハート [道具]通学セット [所持金]不明 [思考・状況] 基本行動方針:元の世界に戻る。 1.フェイトを探し、話をする。 2.もし、フェイトが聖杯を望んでいたら……? 3.キャスターの聖杯戦争解明の手助け。 4.『死神様』事件の解決。小学校へ向かう。 [備考] ※天のレイジングハートの人工知能は大半が抹消されており、自発的になのはに働きかけることはほぼ不可能な状態です。 ただし、簡素な返答やモードの読み上げのような『最低限必要な会話機能』、不意打ちに対する魔力障壁を用いた自衛機能などは残されています。 ※天のレイジングハートに対するなのはの現在の違和感は(無 #65374;微)です。これが中 #65374;大になれば『冥王計画』以外のエンチャントに気づきます。 強い違和感を持たずに天のレイジングハートを使った場合、周囲一帯を壊滅させる危険があります。 ※木原マサキの思考をこれっぽっちも理解してません。 ※通達を確認しました。フェイトが巻き込まれていることも知りました。フェイト発見を急務と捉えています。 ○○○ 「滑稽だな、いいように踊らされているとも知らずに」 なのはの魔力反応が遠ざかってからしばらくして、キャスターはそう呟いた。 通達を一目見て即座に自分を見失うなのはの姿は、まさに道化そのものだった。 キャスターに言わせれば、あの通達は『お粗末』の一言で済む。 あの文面だけでは、『フェイト・テスタロッサ』が何かをやったという証明にはならない。 情報は一切提示せずにただ顔と名前をよこし、『捕まえれば令呪を渡す』『図書館に連れて来い』と書かれているだけ。 これを討伐令の類と受け取る奴・頭から信じる奴は、余程の馬鹿かお人好しくらいだ。 まず考えられるのはルーラーの聖杯戦争加速を目的とした行為。 もしくは、鬼札(ジョーカー)として紛れ込んだルーラーの内通者。 ひょっとすると、ランダムに抽出した主従の名前と顔を送っただけかもしれない。 いずれにせよ、ルーラー側に聖杯戦争に介入しようという意志があり、その対象として『フェイト』が選ばれたということだろう。 その程度のことを、まるで大事件のように取り立てて、下らぬ決断で行き急ぐなのはをどうして笑わずにいられようか。 「せいぜい愉快に踊ってみせろ。その間に俺は、準備を進めさせてもらう」 それでもあえて止めなかったのは、なのはが混乱したほうがキャスターにとってもそのほうが都合が良かったからに他ならない。 なのはの頭の中は今『フェイトちゃん』でいっぱいだ。 他人への思いやりなんていう下らない感情を優先させて、目が曇っている。 それこそ、幾つもの重要な要素を見落とす程に。 まず、彼女は自身の胸元で煌めく緋色の輝石『天のレイジングハート』の変化に気づいていない。 調整は上々。人工知能の大半を消し去り、暫くの間なのはが愉快に踊ってくれるようにとあえて簡素な応答機能だけは残してある。 といっても「はい」「いいえ」「ありがとう」「ごめんなさい」「私語は慎むように」などを返すだけのプログラムと呼ぶのもおこがましい出来の機能だが。 だが、『その程度』でなのはは違和感すら持たずに駆け出してしまった。 所詮人と物との絆ごっこなどそんなものだとキャスターは笑った。 さらに、キャスターそのものの行動への注意も欠けている。 なのははキャスターに対して一切の指示を出さずに、ただ駆けて行った。作業をしろというわけではなく、隠れていろというでもなくだ。 おそらく彼女の意識は既に『聖杯戦争』からかけ離れている。 レイジングハートの戦闘記録が正しいものとするなら、彼女にとっての現状は『聖杯戦争に呼び出される直前からの続き』だ。 他の組への警戒などはあるかもしれないが、根本がズレている。 二人一組の概念など消し飛んでいるだろうし、仮初めながらも運命共同体であるキャスターの動向への警戒など抱いてもいなかっただろう。 ならばその『失念』を最大限活用させてもらうまで。 キャスターは窓の外を見つめた。とうになのはの姿は見えなくなっている。 それをもう一度だけ確認すると、彼は霊体化を行い壁をすり抜け、家の外に出た。 ○○○ 高町家の裏の路地でキャスターは再び自分の状態を確認し、小さく息をついた。 「狂人たちがありがたがっている『魔術』とやらも……蓋を開けてみればこの程度か」 「再現できているのはこけおどしの見てくれと、ちょっとばかしの能力のみ。 この程度で『聖杯によって英霊が顕現』などとは、笑わせる」 『魔術』を鼻で笑いながら道を行く。 英霊としては格が低く出来ることも少ないキャスターだが、それでも課せられた制限は大きい。 キャスターの懐刀たる次元連結システムを、この聖杯戦争ではたったひとつのものにしか付与することができない。 更に、次元連結システムのコアを生前のように0から生成することも不可能。 次元連結システムのちょっとした応用で身辺警護用の重力場操作マシンを作ることも出来ない。 戦闘能力も皆無(これは生前からだが)、現時点ではゼオライマーすら呼び出せない。 言うまでもなく超絶劣化だ。 他のサーヴァントに、いや、なのはより多少劣るマスターにだろうと、襲われれば為す術なく打ち倒されるだろう。 キャスターが、よくもまあ、ここまで、好き放題にやってくれたものだと失笑すらこぼす程に。 「まあいい。俺が蘇れただけでも上々だ」 そんな圧倒的不利な状況で彼が家を出た理由は一つ。 やるべきことがある。 聖杯戦争参加者ではなく、キャスターではなく。 冥王計画を遂行する『木原マサキ』として、当然しておくべきことが一つ。 ◇ そも、冥王計画とはなんなのか。 冥王計画とは『木原マサキ』が次元連結システムと自身の八卦の龍たる『ゼオライマー』を操り、冥府と化した世界に王として君臨するための計画である。 しかし、この『木原マサキ』とはキャスターとして顕現した木原マサキとは微妙に意味合いが違う。 キャスターは生前から自分の命に固執していない。 木原マサキと呼ばれた『この個体が』ではなく『木原マサキ』という意志の宿ったものが冥府の王たる頂にたどり着く事こそが『冥王計画』。 この聖杯戦争でも器として生前通りの木原マサキの姿で顕現したが、その姿に拘りはない。 木原マサキの意志の宿るものこそが、冥府に君臨したその瞬間に木原マサキの意志を宿していたものが『木原マサキ』であり『冥王』なのだ。 生前彼は、幽羅帝・秋津マサト両名に受精卵の段階から遺伝子操作を加え、彼の愛機たる天のゼオライマーに『木原マサキ』を込め、保険をかけていた。 木原マサキの死後も、二人とゼオライマー内に宿る『木原マサキ』が世界を滅ぼし、冥府の王として君臨できるようにという、まさに『木原マサキによる冥王計画』を遂行するための布石を。 それこそが『冥王計画』を遂行するための保険。キャスターが息絶えたとしても、続く『木原マサキ』がその後を継げるようにというお膳立て。 木原マサキが死のうとも、『木原マサキ』が冥王の座に着く。 それこそが冥王計画。 それこそが木原マサキと『木原マサキ』の夢の展開図。 ◇ この計画の全容を知れば、当然打つべき手も見えてくる。 この聖杯戦争においてキャスターがまずやるべきことは当然一つ。 仮に高町なのはが戦闘の末死亡してキャスターが消滅するとしても、『木原マサキ』は消えず冥王への道を歩み出せるように布石を打っておく。 もう一人か二人、高町なのはの死後、キャスターの消滅後、『次元連結システム』を手にして目覚める『木原マサキ』を用意しておく。 生前彼がそうしたように、自身の死を受け入れ、自身の死すらも舞台演出の一部とし、その死の先にある栄光を掴む道筋を作っておく。 全ては、『冥王計画』完遂のために。 しかし、この保険をかける上で一つ問題がある。 この舞台では新たなる『木原マサキ』を生み出すことはほぼ不可能に近い、ということだ。 生前の彼ならばこの程度のことで悩みはしなかった。 さすがにクローン受精卵の入手は不可能でも氷室美久のようにアンドロイドを一体作成し、そいつに初期設定として人格を投影して時を待たせるよう制御装置を施す。 ただそれだけで終わる、数週間もかからない作業。 だが、今回の状況ではあの『成長するガラクタ』では間に合わない。 聖杯戦争がどれだけの期間続くかは分からないが、少なくとも『この』聖杯戦争は数日の内に事態は急変する。 その引き金を引くのは『高町なのは』と『天のレイジングハート』。 『フェイト・テスタロッサ』を探す上で、彼女は必ず何者かと衝突し、周囲を廃墟に変えるほどの戦闘を行うだろう。 そうなってしまうと、あとは坂を転がり落ちるように戦争は進んでいく。そうなるより早く、数日で、出来るならば今日のうちにでも『木原マサキ』として行動のできる器を用意しなければならない。 ならば、実在する人間を用いるか、といえば話はそう簡単ではない。 相手の人格を末梢し、同時に木原マサキとしての人格をインプットすることではじめて『木原マサキ』足りえる。 これは遺伝子段階で操作を加えた幽羅帝や秋津マサトだから可能だったことで、既に確立した自我を持った人物にはかなりの困難を極めるだろう。 科学者は、現在から根源への干渉を行えない。科学者が操作できるのは現在と未来だけ。 生者の持つ『生』『愛』『感情』、あるいは『魂』と呼ばれるものに介入を行うためには、彼らの根源に最も近い場所で行う必要がある。 もし現在から根源への干渉を行えば、彼らの身体はズタズタになり、利用不可能になるだろう。 脳の機能を破壊しつくすか。あるいは『こころ』と呼ばれるものを消滅させるか。 結果は同じだ。生まれるのは『木原マサキ』の器ではなく屍が一つ。 NPCであれ、マスターであれ、サーヴァントであれ、その理を覆すことは不可能。 参加者である人間たちは利用できず、一からガラクタをつくり上げるには時間が足りない。 一見八方塞がりにも見える状況。 「だが、それでもまだ、不可能ではない」 確かに、既に自我を確立した『人間』に対しての操作は不可能だ。 マスターだろうとサーヴァントだろうとNPCだろうとその一点に変わりはない。 だが、仮に参加者中に『機械』がいれば。 『機械』じゃなくてもいい。『概念』だろうが『意識の集合体』だろうが。 生まれついてのものではなく、人工的に製造された『魂』を持つ参加者がいれば。 現在進行形で自身の『根源』と深く関わり続けている存在がいれば。 人格と存在の全ての機能を、魂よろしく文字通りコアとしてその身中に『魔力核』に持つ存在がいれば。 存在の根底が『魔力の宿った物質』や『宝具』であるモノがいれば。 彼らの存在の根底に対して、キャスターと彼の有する稀代の科学の粋たる次元連結システムの応用で干渉できるならば。 当然のように彼らの存在を書き換え、塗り替え、『木原マサキ』に置換することができる。 冥王計画の保険を、キャスター死後計画を引き継ぐ次なる『木原マサキ』を用意しておくことができる。 「さあて、どれほど居るかな、そんな愚かなガラクタどもが」 『愚かなガラクタ』が居る可能性がどれほどのものかはさしものキャスターでも計り知れない。 ひょっとしたらまったくのゼロかもしれない。 しかし、仮にゼロだったならばその時は別の手を打つまで。 なんなら、天のレイジングハートから削ってやった人工知能の代わりに『木原マサキ』を埋め込んでやってもいい。 戦闘記録に残っていた『フェイト・テスタロッサ』の死神の鎌が如き魔装『バルディッシュ』を使ってやるのも一興だ。 口角を釣り上げ、不敵に笑う。 高町なのはが家を出てきっかり10分後。 キャスターもまたひとり、舞台の上に躍り出た。 舗装道路をかかとを鳴らしながら歩く。 他の参加者に見つかるように、あえて実体化したまま。 危険はない。 スキル:自己保存がある限りキャスターは消滅しない。 なのはが生きている限り、『木原マサキ』は不滅だ。 だからこそ、自らが餌になるように姿を晒す。 サーヴァントの反応に食いついて出てきた愚かな奴らが夢に溺れて踊るさまを、高らかに笑ってやろうじゃないか。 木々と家々で覆われていた裏路地を抜ける。 そこには突き抜けるような青い空が広がり、遮るものもなくただ『天』だけがキャスターを見下ろしていた。 目の眩むような青空に目を細めながら、最後に、冥王計画の中核を担う存在について考える。 この下らない戦争に即座に終止符を打てる兵器。 何者にも到達すること叶わぬ『天』の名を関する八卦の龍。 彼を呼び出したその時こそが、冥王の再臨の時。 今はまだその時ではない。 状況が整っていない。 裁定者に干渉される可能性がある。彼らが強権に近い能力を有しているとすればそれらを無効化する力か、あるいは裁定者からの容認が必要となる。 高町なのはの存在も邪魔だ。あれは確実に冥王計画の障害となる。洗脳や精神崩壊による無力化か、他の理解あるマスターとの再契約が必要だろう。 そして、次元連結システムのコアたる物質(現在は天のレイジングハート)を用い、この地に機体を呼び出す必要もある。 そういったすべての問題を解決したその暁には。 己が器たる『天』を呼び戻し、破壊と蹂躙の限りを尽くし、聖杯に託されるはずだった幾つもの願いを踏みにじり、この地に冥府を築く。 キャスターは青空を一度だけ鼻で笑うと、再び街への道を歩みだした。 【C-3/高町家の近くの道路(なのはとは別方向)/一日目 早朝】 【キャスター(木原マサキ)@冥王計画ゼオライマー(OVA版)】 [状態]健康 [装備]なし [道具]なし [思考・状況] 基本行動方針:冥王計画の遂行。その過程で聖杯の奪取。 1.予備の『木原マサキ』を制作。そのためにも特殊な参加者の選別が必要。 2.特殊な参加者が居なかった・見つからないまま状況が動いた場合、天のレイジングハートを再エンチャント。『木原マサキ』の触媒とする。 3.ゼオライマー降臨のための準備を整える。 4.なのはの前では最低限取り繕う。 [備考] ※フェイト・テスタロッサの顔と名前、レイジングハート内の戦闘記録を確認しました。バルディッシュも「レイジングハートと同系統のデバイス」であると確認しています。 ※天のレイジングハートはまあまあ満足の行く出来です。呼べば次元連結システムのちょっとした応用で空間をワープして駆けつけます。 あとは削りカスの人工知能を削除し、ゼオライマーとの連結が確認できれば当面は問題なし、という程度まで来ています。 ※『魔力結晶体を存在の核とし、そこに対して次元連結システムの応用で介入が可能である存在』を探しています。 見つけた場合天のレイジングハートを呼び寄せ、次元連結システムのちょっとした応用で木原マサキの全人格を投影。 『今の』木原マサキの消滅を確認した際に、彼らが木原マサキとしての人格を取り戻し冥王計画を引き継ぐよう仕掛けます。 ※上記参加者が見つからなかった場合はレイジングハートに人工知能とは全く別種の『木原マサキ』を植え付け冥王計画の遂行を図ります。 ※ゼオライマーを呼び出すには現状以下の条件のクリアが必要と考えています。 裁定者からの干渉を阻害、もしくは裁定者による存在の容認(強制退場を行えない状況を作り出す) 高町なのはの無力化もしくは理解あるマスターとの再契約 次元連結システムのちょっとした応用による天のレイジングハートへのさらなるエンチャント(機体の召喚) BACK NEXT 010 開幕/きらりん☆レボリューション 投下順 012 燃えよ花 時系列順 BACK 登場キャラ NEXT 000 前夜祭 高町なのは 016 ホワイト&ローズ 000 前夜祭 キャスター(木原マサキ) 017 機械式呪言遊戯 -010 高町なのは&キャスター
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その年は、ガリアという国にとって激動と混乱の年であった。 長らく病に臥せっていた王がついに崩御し、長兄のジョゼフが玉座を継いだ。 新たなる王が誕生したわけである。 しかしながら、それは平穏無事に運んだものではなかった。 何故ならば、戴冠のその前後には多くの血が流されたからだ。 その最大のものは、次男のシャルルの死。 まず間違いなく次の王となるだろうと考えられていた英才である。 王族の仲でも誉れ高い魔法の才能と、多くの人望を持つその英才は、毒矢によって命を奪われた。 暗殺であった。 誰がやったかは定かではない。 わかるのは、確実にジョゼフがそれに関わっているということだ。 証拠はないが、状況証拠というものはいくかあった。 何よりも、ジョゼフは母である王妃さえに暗愚と呼ばれる男だったこと。 長兄でありながら、玉座はもっとも遠い男だと嘯かれるほどの無能者だったからだ。 始祖ブリミルの流れを継ぐ王族に生まれながら、彼は魔法の才能がゼロだったからである。 ジョゼフの戴冠に際して、シャルル派への粛清が、血の雨となってガリア中に降り注いだ。 多くの者が排斥され、屍が重なっていく中で、暗愚の王子ジョゼフはガリアの王となった。 無能王の誕生である。 戴冠式が終わって間もなくことだった。 ジョゼフの娘、今や王女となったイザベラ・ド・ガリアは部屋の中でじっとしていた。 脱ぎ散らかした衣服がそこら中に散乱し、イザベラ自身も長く美しいはずの髪の毛がボサボサになり、まるで病人のようだった。 青い髪のプリンセスは、ベッドの上で膝を抱え、しきりに親指の爪を噛んでいる。 そして時折怪鳥のような悲鳴を上げるのだ。 死人のように血の気の失せた顔だった。 ガチガチと歯の鳴る音が部屋の中に響いていた。 抑え難い恐怖が、イザベラの心を蝕んでいた。 怖い。 どうしようもない恐怖だった。 何故、どうしてこんなことになっている。 王女という輝かしい立場にいるはずの自分が。 思えば、あの時に父に会ったせいだ。 イザベラは数日前の、戴冠式の日を思い出していた。 あの日、あの選択をしなければこんな恐怖を味あわなくて、すんだ。 少なくとも、知らずにすんだのだ。 何も知れずにいれば、そうすれば、これほど脅えることもなく、平穏に暮らせていたのだ。 でも、イザベラは知ってしまった。 戴冠式が始まる前、青いドレスに身を包んだイザベラはすっかりと準備を整えていた。 後は従者がお時間でございます、と知らせに来るのを待つばかりだった。 この時、イザベラは父の顔を思い出した。 ほとんど顔を合わすことのない親子だった。 こういった公式の場でしか、まず会うことがない。 もとから家族のコミュニケーションは希薄だったが、イザベラにとってそれはもう慣れっこになっていた。 母が死んでから、その傾向はさらに強くなっていた。 だが、それでもこの時のイザベラは王女といっても、十五にもならない少女にすぎなかった。 父の顔を見たいと思うのは、当然であった。 いくらかの逡巡をした後で、父に会っておこうと考えたのも、別に不思議ではない。 父も戴冠を前にして、色々思うこともあるのだろう。 二人だけで会って話すのも、たまには悪くはない。 もしかすれば、機嫌よく優しい言葉のひとつもかけてくれるかもしれないと思ったのだ。 だから、父のもとへと向かった。 しかし、すぐにイザベラはそれを後悔した。 とても痛烈に。 その時、彼女は触れてしまったのだ。 父の、ジョゼフという男に巣食った狂気を。 そして、理解してしまった。 父にとって、自分の存在は欠片ほどの価値もないのだということに。 あの淀んだ、闇の塊みたいな眼。 あれが本当に自分の父なのか? あの得体の知れないバケモノが!? この日から、イザベラの心から安寧というものは消え去ってしまった。 部屋に閉じこもり、ほとんど人を寄せ付けなくなった。 夜も満足に眠れなかった。 眠れば確実に恐ろしい夢を見た。 父の狂気を知ったあの時からだ。 イザベラの中で何かが砕けてしまったかのように。 解けることのないおぞましい呪いをうけたかのように。 見るのは父が死ぬ夢だ。 ジョゼフが死に、ガリアは再び鳴動する。 そして、あの呪わしい、イザベラの持とうとしても持てない、あらゆる善いものを生まれながらにして与えられた従妹が、女王となる。 イザベラはどうなったのか。 ある時は、断頭台で首を落とされた。 首が切断され、血が噴き出す感触で眼を覚ました。 ある時は魔法で八つ裂きにされた。 ある時は野に放り出され、野犬に食い殺された。 悪夢は、夢の中だけではなかった。 イザベラは起きている時も悪夢は襲ってきた。 窓の外を、いくつもの人間が泳いでいくのを見た。 血まみれになって、その瞳に憎悪をみなぎらせた人間が。 ある時は臓腑をしたたらせ、ある時は窓に張り付き、イザベラを威嚇した。 戴冠式の前までは、こんなものは一度だって見ることはなかったのに――!! 地獄だった。 生き地獄だった。 頼れるものは何ひとつなかった。 父は化け物だ。 母はとうの昔に死んでいる。 家臣にしても、いざとなればイザベラを裏切るに決まっている。 誰に助けを求めればいい? 懊悩でやつれ果てたイザベラは、その時天啓ともいうべき考えに至った。 「そうだ…。使い魔だ、使い魔を召喚すればいい……」 ふらふらと、イザベラはベッドから立ち上がった。 イザベラの思い立ったもの。 それは、自らの使い魔を召喚するということだった。 溺れる者は藁をもすがる、という。 この時のイザベラは、自分の魔法の才能というものを、ほとんど忘却していた。 いや、無理やりに忘れ去っていた。 そんなことを考えれば、瞬間に絶望のために杖を振るうことさえできなくなるかもしれない。 イザベラはすぐに杖をとり、呪文を詠唱した。 「五つの力を司るペンタゴン、我の運命に従いし〝使い魔〟を召喚せよ――」 必死の思いをこめて、呪文を唱え、杖を振り下ろす。 杖から放たれた魔力を迸りによって空間が歪み、何かがイザベラの前に出現した。 「やったの、か?」 イザベラは必死で眼を凝らす。 何か、黒い塊のようなものがイザベラの前にある。 それはぶるりと身震いをして、膨れ上がった。 不気味なスライム状の生き物が形を変えるみたいだった。 「ひぃ」 イザベラは声にもならない声をあげる。 それは、人間の男だった。 膨れ上がって見えたのは、うずくまっていたのを立ち上がっただけにすぎない。 見たこともない装束を身につけているが、マントをつけているところを見ると、メイジなのだろうか? 両手にはめた白手袋、その甲に刻まれた紋章がその推測を確信に近づける。 手袋には、五芒の星が不気味に黒く光って見えたからだ。 ペンタゴン。 それは魔法の象徴。 地火水風、そして失われた虚無を加えた五つの属性を表すものだ。 異形の男が、イザベラを見た。 不気味な男だった。 つんをとがった、長い顎をしている。 長身痩躯で、頬はこけ、落ち窪んだ眼窩の下には、灰色の眼が殺気を放っていた。 ぞっとするような、死の匂いを漂わせる男だった。 「――娘」 男が唇を開いた。 不思議な磁力を発する眼が、イザベラを見据える。 「俺をここへ呼び寄せたのは、貴様だな?」 圧倒されたイザベラは声を発することができない。 何度か小さくうなずくだけで精一杯だった。 「そうか」 男は薄い唇を吊り上げた。 それは笑みという言葉がまったく噛み合わぬ冷たいものだった。 人ではない。 地獄の魔物の表情だった。 「ここは、どこか?」 「あ、ああ……」 イザベラは必死でしゃべろうとするが、言葉が出ない。 「答えよ!」 男が低い声で返答を求める。 「が、ガリア…。リュティス……」 イザベラは辛うじてその二つの単語を口にする。 ただそれだけのことで、疲労がどっと噴き出した。 そのままへたりこんでしまいたくなるような、まったく未経験の疲労だった。 男は鋭い眼で部屋の中や窓の外を睨んだ。 やがて、微かに表情を変えて、 「ほう。面白い、俺が、異界に召喚をされるとはなぁ……。まるで地下世界にくだった甲賀三郎のようではないか」 言いながら、男はくっくっくと喉の奥を鳴らした。 獣がうなっているような笑い声だった。 「では、娘よ。何故俺を呼んだ? ただの遊びというわけではあるまい。何しろ、お前は――」 〝鬼〟を呼んだのだからな、と男は冷笑した。 オニ。 オーク鬼やトロル鬼の鬼と、同じような言葉だったが、そこに込められた意味はまるで違っているのがわかった。 吐き気を催すほどの、底暗い響きのある言葉だった。 「うああ…………」 イザベラは震えたが、この時男の背後――すなわち窓の外を見てさらに青くなった。 また、幻が見えた。 獅子頭のような人間の首が窓に張り付いている。 首は黄色い歯をむき出し、舌を突き出して部屋を覗き込んでいた。 「こんなものまでいるとはな……。ところは変わっても、人は同じか。異界でも同じとはまったくもって面白い」 男は口角を吊り上げて、窓に向かってゆっくりと手の甲をかざした。 五芒星をかざされ、幻の首は転がるように消え去った。 「娘――貴様、死人が見えるらしいな?」 男はすぐにイザベラを振り返った。 「し、にん? あれは、まぼろし……」 糸の切れた人形のように、イザベラは男を見た。 「そうではない。常人の眼には見えぬが厳然たる真実だ。貴様が見たのは死人よ」 「じゃ、じゃあ、幽霊!?」 「そうとも言えるか。なるほど、死人を見る女だから、俺を呼んだということか」 男は納得したように腕を組み、イザベラを睨みつけた。 「不幸だな、死人が見えるのは不幸なことだ」 なぶるような視線だった。 イザベラは邪眼ともいうべき瞳に睨みつけられながら、奇妙な安心感を抱いていた。 あの、父に感じた恐怖がどんどんと薄らいでいく。 目の前に、本当の化け物がいるからだ。 この男の底知れぬ妖気に比べれば、父ジョゼフの狂気など……!! 男の凄まじい妖気が、父からの呪いを打ち砕き、かき消していくような気分だった。 「あ、あなたは、メイジ?」 平常時の高慢な表情を全て捨て去り、イザベラはすがるように男に問うた。 「メイジ? 魔法……妖術を使うという意味では、そうだ」 男は微かにうなずいた。 「そうだな、陰陽師といってもおそらく貴様らにわかるまい。ここでは、その言葉が適当なのかもしれぬ」 「やっぱり。ペンタゴンをつけてるし……マントだって」 「ペンタゴン? 違うな。これは俺の国で生まれたものだ。俺たちはドーマンセーマンと呼ぶ」 男は首を振った。 「どーま、せいまん?」 不思議な響きの言葉だった。 「古代の、二人の偉大な陰陽師の名前を組み合わせたものだ。芦屋道満と安倍晴明のな」 男は唇を歪める。 (おんみょうじ……) この男の住んでいた土地では、メイジをそのように呼ぶのだろうか。 「話を戻そうか。ここはどこで、貴様は何者だ? 何故俺を呼んだのだ」 男に促され、イザベラはたどたどしくも事情を説明した。 自分の置かれている状況。 父のこと、この国のこと。 「ずいぶんと手前勝手な話だな?」 男は冷笑を強める。 「貴様、〝鬼〟を呼び寄せておいて、無事に事が運ぶと思っているのか?」 「ひ……」 男に威圧され、イザベラは身を硬直させる。 まるで邪視を受けた哀れな生贄のように。 「だが、それもいい。俺はいずれ俺の国に帰るが……貴様の言うとおりならばすぐというわけにいかぬようだ」 イザベラはうなだれる。 「貴様ら、呪われた王族と、この国にも多少の興味がわいた。おい、小娘、イザベラとか言ったな?」 男の灰色の眼がイザベラをのぞきこんだ。 「一つ教えてやろう。貴様の見る夢は予知夢だ。遠い未来を、夢を通して見聞きしているのだ」 「え!?」 「父親が死ぬのも、貴様が処刑されるのもな……」 「嘘だ……」 「嘘ではない。貴様の持つ霊感がそれを見させているのだ。言っただろう、不幸なことだとな」 男の呪いのような言葉に、イザベラは声を失った。 絶望だった。 「――貴様、生きていく覚悟はあるか?」 イザベラを見据え、男は言った。 「そんなものないよ……!」 イザベラは小さく、悲鳴のような声をあげた。 「母上は死んだ。父上は狂っている。私は、私には誰もいない。一人ぼっちだ……!!」 「それでいい。死人が見えるのもいい。これは――運命だと思え」 「うん…めい」 イザベラの声に、そうだ、と男はうなずいた。 イザベラの瞳には、手袋の五芒星が映っていた。 ☆ 気配を感じて、イザベラはゆっくりと眼を開いた。 とても、懐かしい夢を見た。 あの男と出会った時の夢を。 自分にとっては、師であり―― あるいは父とも呼べる男の夢を。 船は、どうやら到着したらしい。 部屋を出て甲板まで上がると、リュティスが見えた。 喧騒が街を包んでいる。 「ふん」 イザベラは唇を歪めて、街を見下ろした。 その表情は、彼女が昔から異界から召喚した男と同じものだった。 下船したイザベラは、崩壊したグラン・トロワを横目に風のような速さで歩いていく。 王宮の主が、現在の仮宿舎としている迎賓館を目指して。 「父上!」 部屋に入ると、王は古ぼけたチェストを、寝ぼけたような目で見つめていた。 「この騒ぎは一体何事ですか? ロマリアといきなり開戦したかと思えば、リュティスはまるでゴミダメ。おまけに国の半分が寝返ったという話ではありませんか」 「それがどうした?」 ジョゼフはうるさそうに娘を見やった。 そこには愛情など欠片も見えない。 道端に転がる石ころでも見るような視線だった。 しかし、娘はそれに罵声で返した。 「それがどうした? のんきですこと。エルフと手を組むわ、ハルケギニア中を敵に回すわ、一体何をお考えかしら!」 「誰と手を組もうが俺の勝手だろうが」 「へええ! ええ、そうですわね。この国は父上のものですからッ」 「気に入らぬというなら、どこへでも出て行け」 「父上」 イザベラがさらに言葉を口にしようとしたが、 「さっさと失せろ。お前を見ていると自分を見ているようで嫌になる」 イザベラは何も言わなかった。 言われるままに、黙って父王のもとを辞した。 父に背中を見せた後ろで、イザベラの口元にゾッとするような嘲笑が浮かんでいたことに、ジョゼフは気づきもしなかったが。 「自分を見ているようで、だと?」 扉を閉めた後、イザベラはカラカラと軽蔑を込めて笑った。 「笑わせるなよ」 吐き捨てた後、裾の長いドレスを着ているとは思えない速度で、イザベラは歩き出した。 混乱する王宮内を駆けて、プチ・トロワの自分の部屋と向かう。 そこでドレスを脱ぎ捨てると、軽装に着替えて上からマントを羽織った。 最後に両手に手袋をはめる。 甲に五芒星を刻み込んだ白い手袋だった。 「ドーマンセーマン」 あの男は、この紋章をそう呼んでいた。 おそらく、イザベラもそう呼び続けるだろう。 イザベラは蹴破るようにしてドアを開き、廊下を歩き出した。 プチ・トロワを出てすぐに、イザベラは足を止めた。 ふところに右手を差し入れ、 「誰か」 冷たい声で言った。 物陰から、複数の男たちが現れた。 いずれも手に杖を持っており、目つきが尋常ではなかった。 「イザベラ様、お部屋にお戻り願いますよう」 慇懃な口調とは裏腹に、まるで命令でもするように男たちは言った。 「何故だ?」 イザベラは唇の端を吊り上げて男たちを見返した。 「今は非常時にございます。お部屋でおとなしくしていただきたい」 「ほおお。で、それはいつまでだ?」 イザベラは道化のように眼を見開き、男たちを嘗め回すように見た。 男たちの顔に、不快の念が浮かぶ。 それにイザベラは嘲笑をぶつけた。 「私の首を手土産にシャルロットに願えるつもりか? 今さらあまり意味はないと思うけれどね」 「おとなしく部屋に戻れ」 男たちはせっぱつまった表情で杖を突き出し、イザベラを威嚇する。 「嫌だね」 イザベラは舌を出し、にたりと笑った。 瞬転、男たちの杖から風と炎が飛んだ。 イザベラはふところから出したものを投げつける。 それらが宙でぶつかり合った時、炎と風は一瞬で消えうせた。 イザベラの放ったものは、数枚の白い紙だった。 真ん中に、黒字で五芒星が描かれている。 「犬どもが!!」 イザベラは歯をむき出して笑った。 「よりにもよって、私のところにくるとはな。ならば望みどおり地獄へ送ってやる!」 嘲笑と共に、五芒星の描かれた紙が宙に舞い上がった。 それは歪みながら膨張し、不気味な獣へと姿を変えた。 獣はあっという間に男たちに襲いかかり、その急所に喰らいついていった。 「ぎゃああ!」 「なんだ、これは!?」 絶叫が響き渡り、赤黒い血が周辺を染めていく。 「騒ぐな。私の式神がお前たちを喰い殺すだけのことだ」 男たちが絶命するまで、イザベラは冷たい眼でその光景を見ていた。 地獄で亡者が炎に焼かれるのを見る、鬼の目だった。 男たちが死ぬのを見届けると、イザベラはマントを翻して、風のように王宮から去っていった。 異形の獣たちも従順に主の後を追う。 王宮を後にしながら、イザベラは思い出していた。 自分にことの術を教え込んだあの〝鬼〟のことを。 陰陽道。 真言。 卜占。 風水。 式神。 護法童子。 不老長生の秘術。 召喚されてから数年間の間、男は密かにイザベラをプチ・トロワから連れ出し、数々の異界の魔法を教え込んだ。 男のことも、イザベラの密かな修行も、誰にも知られることはなかった。 何故なら、イザベラはあらゆる意味で何者の眼中にもなかったからだ。 父ジョゼフは気づかなかったのは、ある意味で当然だった。 彼は【自分に似ていると思い込んでいる娘】をあえて、見ようとはしなかったから。 「どうして私にこれを教えてくれるの?」 度々イザベラはそうたずねた。 「貴様が鬼だからだ。つまり、俺の同類だからだ」 そう答える男の言葉を、イザベラはすぐには理解できなかった。 その男は、〝カトー〟という不思議な響きの名を持った男は、もうこの世界にいない。 自力で異界の扉を開く術を見つけ、去っていった。 だが今ならば理解できる。 ヤマトという国を永遠に呪い続けるあの男と同じく、イザベラはハルケギニアを―― ブリミルを始祖とするメイジたちの支配するこの大地を永久に呪うものとなった。 なぜならば―― ……………。 ☆ 多くの祝いの言葉が飛び交う中、ガリアは歓喜に溢れていた。 無能王ジョゼフが滅び、亡きシャルル・オルレアンの遺児、シャルロットが冠をかぶる日がやってきたのだ。 新たなる決意と怒りを胸にシャルロットは式にのぞむ。 けれど。 どれだけの人が知っているのだろう。 狂王と呼ばれた男は、結局のところ臆病で傷つきやすい、大人になることのできない哀れな少年でしかなかった。 あるいは、シャルルも同じであったかもしれない。 ましてや、 何とも厄介な、本物の〝鬼〟が一匹、ハルケギニアの大地を闊歩し出したことを、誰も知らなかった……。 「みんな、壊してやる」 〝鬼〟のつぶやきに、ハルケギニアの精霊たちはぞっと身を震わせていた。 戻る
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アーティスト:中島みゆき レベル:6 登場回数:3(パイロット版第4回、レギュラー版第10回、第13回) 挑戦結果 荒牧陽子:成功(パイロット版第4回)
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「成程、確かに最多の数を自称するだけの事はある───」 暖かな朝陽に照らされる島に、凍てつくような声が響く。 それは、一体の竜種から発せられていた。 メリュジーヌと名付けられたその竜は、冷徹に魔女を見下ろして。 「物量で言えば、人間どころか妖精でも勝てる者はそういないだろう。応用性もある」 冷たい声色とは裏腹に、次々と評価の声を述べる。 実際に、魔女の扱う影の魔術は大したものだった。 数時間前に交戦したシカマルと言う少年とは比べ物にならない。 準備を弄された上で術中に嵌まれば、シカマルの影の拘束と違い不覚を取る可能性がある。 面倒なな能力だと、およそ竜が人に向ける最大級の評価を、竜は魔女に与えていた。 「だけど、君の力はあくまで人を嬲り殺す為の物だ」 その上で今度は、魔女の力の致命的な弱点を指摘する。 確かに、人を殺すのには十分すぎるくらいの能力だ。 自分の斬撃を避けた事から身体能力も人間を超越し、妖精クラスの実力なのは伺える。 だがしかし、彼女の力はあくまで人間を嬲り殺す為の物である、と。 竜は魔女の能力の本質を見抜いていた。 「竜を墜とすには、破壊力が足りない」 人を嬲るには十分すぎる性能を有していても。 天を飛翔する竜を墜とせるものだろうか? その問いの答えが、今の竜(メリュジーヌ)と魔女の状況だった。 「私を……見下ろすな………!」 空から冷厳に見下ろしてくる竜(メリュジーヌ)を仰ぎ見て。 魔女──ルサルカ・シュヴェーゲリンは情念の籠った、唸るような声を漏らした。 彼女の胸の中に渦巻くのは、メリュジーヌに対する妬み、それから来る執着。 ルサルカには許せなかった。 偽りの記憶をしかと植え付けたはずなのに。 自分を愛しい者として見るように、過去の改変を行ったハズなのに。 それなのにメリュジーヌは──空から自分に冷たい視線を送って来る。 まるで、明日屠殺場に送られる家畜を見る様な瞳だった。 (許せない……許せるもんですか……私を空から見下すなんて……) ぎり、と歯を強く噛み合わせて、ルサルカは中空に浮かぶメリュジーヌを睨みつける。 挟みこまれた数百年間という時間の中で、あれだけ愛し合ったのに。 私を大地に永遠に横たわらせ、彼女は届かぬ高みを目指そうとしている。 私を殺して、置き去りにして、優勝と言う座に至ろうとしている。 オーロラなどと言う、醜悪な、他人の足を引っ張るしか能のない女の為に! 許せない。絶対に認めるものか。 私に屈服させて、足元に跪かせてやる。 どろどろの淫欲で蕩けさせて、オーロラの事など忘れさせやってもいい。 置き去りになどさせるものか、遥か彼方に飛び立つなど許せるものか。 「今、その足を掴んで、私と同じ大地に引きずり降ろしてあげる!!」 咆哮と共に。 ルサルカの立つ大地に伸びた影が、立体的な輪郭を得る。 食人影(ナハツェーラー)と名付けられた、人間をゼリーの様にかみ砕き咀嚼する、彼女の操る魔道だった。 同時に、その影を媒介に様々な拷問道具が現出する。 槍の穂先の様に尖った椅子、鉄の処女、表面が真紅に見えるほど熱された牡牛、その牡牛の放つ熱から逃げようと大挙する鼠の影、鎖、鎖、鎖。 数えきれない断末魔と血を啜って来たそれらの凶器が、空のメリュジーヌへと殺到する。しかし。 「言っただろう───」 津波の様に迫りくる拷問器具の群れに対するメリュジーヌの反応は、実に冷え切っていた。 黒円卓の一席を担い、紛れもなく魔人たるルサルカでも微かにしか見えぬ速度で、腕を振るう。 疾風(はやて)が、世界を駆け抜ける。 「それは僕を墜とすには弱すぎるし、遅すぎる」 メリュジーヌの行った迎撃は実に単純。 竜の炉心より生み出され、手甲より伸びる剣に纏わされた超高濃度の魔力。 それを音の速さを超える速度で振るった。 結果、放たれた魔力の鎌鼬は、空を刈り、それだけに留まらず。 「………っ!?」 ルサルカの放った拷問器具の群れを一蹴した。 もし彼女の本来の形成であれば、ここまで一方的な結果にはならなかったかもしれない。 だが、現在のルサルカのエイヴィヒカイトには乃亜のハンデが加えられている。 霊的防御が剥ぎ取られ、物理的干渉が可能となっている。 その結果、ただでさえ内包した神秘の質で後れを取っていた彼女は、更にメリュジーヌの後塵を拝する結果となっていた。 「君の能力は影を起点にしてる。なら、影の軌道に意識を集中するだけだ。 下からしか攻撃が来ないと分かっていれば、対処は難しくない」 簡単に言ってくれる。ルサルカは臍を噛む思いだった。 確かに攻撃を行うのは影を起点としている。 故に、今のメリュジーヌにとっては、下からしか攻撃が飛んでくる心配はない。 何処まで行っても影は影、大地を這うしかないのだから。 いくら影を伸ばしてきた所で、叩き落すか切り落とせば問題にはならない。 ルサルカがブック・オブ・ジ・エンドで仕掛けた罠の地雷原も、地面に降りなければ踏みぬく恐れはない。 「問題は私と君の体力、先に根を上げるのは何方かだけど…それも結果が出つつあるね」 指摘されたルサルカの肩が、図星と言うかのようにびくりと震える。 事実、今の彼女の状態は今はまだ、僅かであるが。 息が上がり始めていた。 当然だ。メリュジーヌもホバリング状態で飛行し、少しずつ体力を使っているとは言え。 一度守勢に回ればそのまま空から襲い来るメリュジーヌを躱しきれない。 躱せたとしても、まず軽傷では済まないダメージを負う事になるだろう。 それを回避しようとすれば、彼女はメリュジーヌを撃墜するために攻め続けるしかない。 必然的に、食人影達を全力で稼働する羽目になる。 限られた方向からしか襲ってこない攻撃の迎撃に専念すればいいメリュジーヌとは違い、 精神的にも体力的にも消耗が早いのはルサルカの方だった。 (どうする…逃げる……?それとも、創造を…… でも、もし創造でも倒しきれなかったら……!?) ルサルカの脳裏に浮かび上がる、撤退か、切り札を切るかの選択肢。 逃げるのは現状難しいだろう。 先ず速度で此方が相当に劣っている以上、それなり以上の隙を作らなければならない。 背を向けて逃げるなど論外だ。 メリュジーヌの、形成位階に達したシュライバーとも張り合えそうな理外の速度を考えれば背を向けた次の瞬間貫かれている。 では、自分の切り札たる、『創造』のカードを切るか。 如何にメリュジーヌが大隊長に匹敵する猛者でも、創造なら確実に動きは止められる。 乃亜のハンデを考慮すれば…止められる筈だ。 創造──『拷問城の食人影(チェイテ・ハンガリア・ナハツェーラー)』であれば。 影に触れた者の動きを完全に停止させる。それが自分の創造の能力。 強制力は絶大であり、メリュジーヌにも通じる筈だ。 だが、動きを止めたとして、食人影でメリュジーヌを倒しきれるだろうか? 形成で攻撃を行ったから分かる。メリュジーヌの鎧や肉体は、鋼の様だった。 人間程度であれば余裕で喰らえる食人影でも、短時間のうちに倒せるかは非常に怪しい。 それに、メリュジーヌ自身の動きも妙だった。 メリュジーヌが地に落とす影と、自分の伸ばす影が接触しそうになった場合、彼女はその時だけ高速移動で移動している。 まるで、影で相手を縛る相手とついさっき戦ったかのようだ。 理由はさておき、ルサルカの影に警戒を向けているのは明らかだった。 こうなると、不意打ちでメリュジーヌを拘束する事は難しいだろう。 もし倒しきる前に創造が解除されてしまえば、窮地に立たされるのは自分の方だ。 それに倒せたとしても、その後に再び創造が使える時までにシュライバーと出会ったら… (くそ…!何でこんな……巡り合わせが悪すぎよ!!) そう叫びだしたくなる衝動を、必死に堪える。 ルサルカの本領は権謀術数を活かした策謀だ。 準備期間さえあれば、メリュジーヌだって撃破できる自負が彼女にはあった。 だが、それはあくまで相応の陥れる準備を行った場合の話。 こんな、突発的な遭遇戦は全くもって想定していない! (落ち着け……落ち着くのよ。メリュジーヌだって私の能力を警戒して近づけない。 ここは撤退のための陽動に力を割り振れば───) 破壊力が足りないだの、トロ臭いだの、好き放題言ってくれてはいるが。 しかし、メリュジーヌだって自分に近づけていない。 ブック・オブ・ジ・エンドで見た記憶でもそうだが、彼女の得意とする戦闘は白兵戦。 遠距離攻撃は門外漢であるはず。 ならば、此処は攻勢に割り振っていた魂のリソースの約三割を、陽動のための一手に回す。 選ぶ拷問器具は最も名の知れた鋼鉄の乙女(アイアン・メイデン)。 ただし、サイズは急場で作れる最大級に。簡単には出られぬよう、内部の作りは堅牢に。 いける。メリュジーヌであっても、三十秒は捕らえられる、形成の檻の出来上がりだ。 後はこれでメリュジーヌを捕えられれば。 そう考えた矢先の事だった。ルサルカの耳朶に「ジャキン」という金属音が響いたのは。 (あれは、不味───!?) 天空で未だルサルカを見下ろすメリュジーヌ。 その手には、漆黒の長筒が握られていて。 黒光りするその砲門を見た瞬間、ルサルカの背筋が凍り付いた。 拷問器具の群れを含めた、食人影の全てを防御に回す。 最早、陽動など考えている場合ではない。メリュジーヌは、勝負を決めに来ている。 然しまさか、彼女があんな武器を使うなんて───! 「意外かい?まぁそうだろうね、マレウス。騎士の決闘には相応しくない兵装ではある。でも僕個人の趣味としては中々好みなんだ」 マレウス、と。 冷え切った感情を示すように、その名を呼ぶ時だけ声のトーンを低くして。 彼女は言葉を続ける。 「それにもう、今の僕はオーロラのためだけの騎士で─── そして、君たちにとっての厄災だ。僕は僕の在り方を、そう定めた」 そして、何より。 「他人の大切な過去を、土足で踏み荒らす毒婦を誅すには、相応しいだろう?」 その言葉に、ルサルカの表情が更に強張った。 キウルから奪い取った支給品の解説の通りだ。 メリュジーヌに対するブック・オブ・ジ・エンドの精神干渉は既に解除されている。 冷淡でありながらドス黒い憎悪が籠められた視線が、その証明だ。 まるで、害虫の遠くから殺虫剤を向けるように。 トン単位で重量があるであろうその砲門を軽々振るい、狂いなくルサルカに狙いをつけた。 ブック・オブ・ジ・エンドによる罠の挟み込みはもうできない。 何もない空中に罠を仕掛けるなど、ルサルカであっても不可能だからだ。 不可能な過去は、挟み込むことができない。 「この、卑怯者───!!」 それでも騎士かとなじりたかったが、既に騎士である事は否定されている。 影を集め、敵意を露わにするルサルカを見るメリュジーヌの視線は、どこまでも冷たい。 このまま虫けらの様に押し潰れろ、そう語っている様だった。 腹立たしかった。百年以上妖精騎士として肩を並べ、愛し合ったはずのメリュジーヌに。 身下げ果てた視線を向けられることが。 そして───そんな彼女ですら、美しいと感じてしまう事実が。 ルサルカには、空に浮かぶメリュジーヌが朝に現れた星の様に煌めいて見えた。 同時に、お前は決して星(わたし)の様には成れないんだぞ、と。 そう突き付けられている様で、燃え盛るような嫉妬の炎が魂を焦がす。 「消え失せろ、マレウス」 能面のような、一切の感情が欠落した無表情で。 メリュジーヌはその手の兵器を。 かつて、狂気に堕ちた湖の騎士が使用し、魔力によって再現されたその機銃を。 M61機関砲の引き金を、容赦なく発射した。 瞬間、世界に暴風の様な轟音が響き渡る。 「───うっ、ぐっ、あぁぁああああああああ────!!!!」 鋼鉄の豪雨が、毎秒百発と言う密度でルサルカに襲い掛かる。 着弾した瞬間察する。 これは、近代兵器であるにも関わらず聖遺物に匹敵する魔道を帯びている。 人食影を盾にして防いでいるが、これが無ければ魔人たるルサルカの肉体でも当の昔に挽肉に変わっているだろう。 当然だ。現在進行形でルサルカを蜂の巣にするべく唸りを上げている機関砲こそ。 カルデアに招かれた、狂戦士として現界した湖の騎士の宝具なのだから。 正確には宝具に変化させられた兵装であり、通常の機関砲と違って魔力の続く限り射撃し続ける事ができる。 そんなガトリングガンを竜の炉心により無尽蔵の魔力生成量を誇るメリュジーヌが扱えば、容易に通常の機関砲の威力を遥かに超えた鋼鉄の豪雨を生み出すことができる。 そんな魔弾の波濤を防御できているだけ、ルサルカの形成も人の領域を遥かに超越していると言えた。 しかし、直接的なダメージこそ形成の効果で完全に防げている物の、凄まじい衝撃が、継続的にルサルカに襲い掛かる。 まるでサンドバッグにされている様だ。 (こ、の……っ!?いい加減───!!) 最早、温存がどうとか言っている場合ではない。 時間にして一分近く銃撃は続いている。恐らく、単純な弾切れはあの銃にはない。 このまま形成で防御し続けられればいいが、そこまで集中力を保てる自信は無かった。 それよりも先に、創造位階でカタをつける。 『───ものみな眠る小夜中に─── ────In der Nacht, wo alles schlaft───』 腹を括り、鈴の音の様な美しい声で、辿り着いた魔道の秘奥の調べを奏で始める。 弾幕から身を守れるだけの形成の能力を維持しつつ、創造を発動しようとしている事そのものが、ルサルカの能力の高さを証明している。 戦塵が噴きあがる中、紫電の魂を帯びる彼女の姿は、高名なオペラ歌手さながらだった。 そのまま次の一説を口ずさもうとした瞬間、違和感に気が付く。 (───銃撃が、止んだ?) 数秒前まで飛来してきた嫌になるほどの怒涛の掃射が、ピタリと止んだのだ。 (───弾切れ?それとも、私の創造を使う気配を感じ取って離脱したの?) 前者であれば僥倖だが、後者であれば不味い。 メリュジーヌの速度を考えれば、彼女が本気で退けば既にこの場を去っているだろう。 そうなれば創造を発動しても、ただの切り札の浪費に終わる。 浪費に終わるだけならばいいが、その直後にメリュジーヌがUターンしてきたり、 シュライバーが襲来すれば目も当てられない。 殆ど何の抵抗もできないまま殺される事となる。 どうする、と。ルサルカの詠唱が五秒にも満たない時間、中断される。 (…いや、待って。そもそも、今のあいつは、何処に───?) 撒きあがった粉塵によって、視界はすこぶる悪い。 そこで視界での捜索を早々に切り捨てて、エイヴィヒカイトによる索敵に切り替える。 あんな出鱈目な出力を誇る小娘だ。直ぐに見つからぬ訳もない。 「どこ、何処に────!?」 「此処だよ」 事実、直ぐに見つかった。 ルサルカの後方、約三十センチの距離に、メリュジーヌは佇んでいた。 その事実を認識すると、ルサルカは戦慄を禁じ得なかった。 慌てて影を殺到させようとするが、すでに遅い。 食人影がメリュジーヌに食らいつくよりも早く。 「────かっ!?」 メリュジーヌの手甲に包まれた鉄拳が、ルサルカを撃ち抜いていた。 ボクシングで言うアッパーカット。一撃で顎が砕け。脳が揺れる。 起死回生を狙った詠唱は完全に妨害され、顎が砕かれた以上仕切り治すこともできない。 更に当然、追撃の一撃が飛んでこない道理はない。 「わざと逃げ道を作れば、必ず乗って来ると思ったよ」 既にルサルカが過去を挟んだのは割れている。 挟まれた過去のルサルカの情報は誇張と虚偽に溢れた物だ、アテにはならないだろう。 だが、他人の過去を騙り、その方法も不意打ちと言う下種窮まる相手なのは確定している。 そう言った者は逃げ場を与えれば戦おうと考えない。 真っ先に考えるのは保身で、即ち逃げる事だ。ルサルカは想定通りの判断をした。 メリュジーヌは安堵した。切り捨てるに一片の躊躇も抱かずに済む。 「安心したよ、君が憐れみながら首を差し出してくる相手では無くて」 其方の方が、地獄だった。 超人の聴覚であるルサルカであっても聞き取れない小さな呟きと共に。 アッパーカットで浮き上がったルサルカの鳩尾に更にもう一発。 「ご……ッ!?!?ぐぉぇっ────!!!!!」 ぶちゅり。 臓腑が潰れる手ごたえと共に、女性が出してはいけない嗚咽がルサルカの口から零れ出る。 だが、構いはしない。 そのまま握りつぶす勢いでルサルカの柔らかな腹部を鷲掴みにして、全力で魔力を放出。 二人の少女の姿が、空へと打ちあがる。 メリュジーヌはルサルカの死刑執行を、竜の領域で行う事に決めた。 (ぐ───しまった。空中戦じゃ私が────!!) 空中で影を操る事は出来ない。 影が伸びるべき大地が、存在しないからだ。 遥か彼方となってしまった地平より、空中まで影を伸縮させることは可能だが。しかし、 「がはァッ!?」 それは竜(メリュジーヌ)の妨害を掻い潜ってと言う話になる。 ちらりと大地の食人影を確認するための一瞥すら許されない。 まず空中に放り投げられ、ルサルカの体躯が宙を舞う。 如何な魔人、黒円卓第八位とて、空を飛ぶことは叶わない。成すがままに空を踊る。 直後、上段二時の方向から衝撃が来た。 あろうことか、放り投げたルサルカを追い越し、メリュジーヌが殴りつけたのだ。 その勢いで、今度は下段八時の方角にルサルカが吹き飛ぶ。 「げほッ!!」 大地へ落下するルサルカにメリュジーヌが再び追いつき、今度は下段から蹴り上げた。 みしみしと蹴りがめり込み、サッカーボールの様にまた上へと蹴り上げられる。 とても影を操る余裕はなかった。人(ルサルカ)にとって空は、死の世界だった。 「ごぇ……ぎゃッ!ごふッ!げぇえ……あぁあ───ああああああああああ───」 手刀、突き、掌底、貫手、蹴り上げ、蹴り降ろし─── 混じり気のない暴力がルサルカの全身を蹂躙する。 まるで、ミツバチの群れに群がられる雀蜂の状態──蜂球の様だった。 それをたった一人で、残像すら残る速度でメリュジーヌは成し遂げていた。 全身の骨を砕き、宝具で以てトドメを刺す。 私を相手に過去を騙った、自身の醜悪さを呪いながら逝くがいい。 ドス黒い憎悪と殺意を胸に、メリュジーヌはルサルカの元へと突き進む。 「お、ねが……も、やめ────……」 腫れあがった顔で、ルサルカは懇願の声を上げるが。 そんな彼女に、メリュジーヌが抱いたのは、もう遅いという感情だった。 元より殺さない選択肢は存在しない。 凍り付いた眼差しはそのままに、トドメの刺すべく宝具の開帳に移行する。 照準はルサルカが今迄これだけはと、必死に守っていた日記だ。 あれを破壊すれば彼女にとって致命となる。 ならなくとも、そのまま胴体をぶち抜いて終わりだ。 それで死なない様であれば、首を落としても良い。 一片の慈悲も無く。 竜は魔女を殺す、死刑執行の断頭刃へと変貌する───! 「───敵、生命境界、捕捉」 手甲から、内包されていた刃が飛び出す。 ルサルカの食人影ですら枯れ木の様に切り裂く、硬度と鋭さを備えたメリュジーヌの槍。 それをルサルカの握る日記と、ルサルカに狙いをつけ、吶喊。 音の速度を一瞬で突破し、目の前の敵手を貫きにかかる。 「たすけ────」 その時、魔女(ルサルカ)が誰に助けを求めたのか。 竜(メリュジーヌ)には分からなかった。 メリュジーヌ自身か、愛しきものか、仲間か、それとも通りすがりの、都合の良い誰かか。 だが、竜にはそんなこと、どうでも良く、関係のない話だった。 放たれた弓矢の様に、二人の距離は縮まり、竜の穂先が魔女を貫こうとしたその時───、 ────黒・魔・導・爆・裂・破(ブラック・バーニング)!!! 爆炎が、メリュジーヌとルサルカを見舞った。 横合いからの奇襲に、さしものメリュジーヌも動きを止める。 ルサルカも巻き添えを食ったのか、服や体を焼け焦げさせながら吹き飛んでいく。 五体全ての骨を砕かれ、臓腑も幾つか潰した。 間違いなく致命傷で、あの女の生命力の高さを考慮しても直ぐに遠くへはいけない筈。 「……いい度胸だ」 ぐりんッ!と。 魔術の砲撃が飛んできた方向へ顔と首を動かす。 その方角には、桃色を基調とした煽情的な服装の魔術師がいた。 だが、その姿を認めて数秒、本当の目標ではないとメリュジーヌは看破した。 変わらぬ氷点下の殺意を全身に漲らせ、彼女は無言で高度を上げた。 最強の妖精騎士の次なる戦端が幕を開けた瞬間だった。 ■ ■ ■ メリュジーヌとルサルカが交戦を開始した同時刻。 古手梨花とサトシの二人は同じエリアに足を踏み入れていた。 梨花の足取りは重かった。 この近辺に、シカマルと言う少年がいる。 彼に会えば、きっと北条沙都子が殺し合いに乗っているかハッキリするだろう。 そう考えると、会うのは気が重かった。 だって、自分にとって望む答え…沙都子が殺し合いに乗っていないという答えは。 きっと、九割方待っていない。胸の内では、そう確信していたから。 だが、同時にハッキリさせなければ前へは進めない。 その想いも強く胸の内に在った。 「梨花…大丈夫か、疲れてないか?」 「大丈夫なのですよ。ボクには部活で鍛えた体力があるので、にぱー」 足取りの重い梨花に合わせるように歩き、サトシが尋ねてくる。 旅をしていて体力には自信があるサトシとは違い、梨花の身体の線は目に見えて細い。 ついでに言えば、凹凸も壁と見紛う程平らである。 そんな自分を気遣っての言葉だろう、と、梨花も直ぐに考えが及んで、笑みを返す。 空元気に近かったが、百年間通してきた演技だ。こんな時でも淀みない。 「私の知り合いは沙都子だけですー、サトシも知り合いが来ていない様で良かったのです」 「あぁ、みんなが連れてこられてなくて良かったよ。ピカチュウと一緒だから心強いしな」 梨花にとって、この地に連れてこられた知り合いは沙都子一人だけで。 サトシにとっては、人間の知り合いは一人もいなかった。 それについては間違いなく朗報だったと言えるだろう。 だが、梨花の表情はあまり明るくない。 見かねたサトシは、僅かな間を置いて尋ねた。 「………梨花は、やっぱり沙都子の事が気になるか?」 その問いかけに、言葉に詰まってしまう。 気にならない筈がない。百年間苦楽を共にしてきた、北条沙都子が。 一緒に奇跡を成し遂げた掛け替えのない仲間が、自分を地獄に叩き落した張本人で。 この殺し合いの儀式の中でも、凶行を及んでいるなんて、梨花は考えたくなかった。 「はい……沙都子は…僕の親友なのですよ」 もっとも、この島に連れてこられる前に、大喧嘩をしてしまいましたが。 そう言って表面上は普段通りに、しかし力なく梨花は笑った。 どうしても考えてしまうからだ。 沙都子が殺し合いに乗っていた場合、自分はどうするべきなのか。 「沙都子は多分、この殺し合いも部活の延長だと考えていると思うのです」 人一倍勝利に貪欲だった沙都子の事だ。もし殺し合いに乗っているのなら。 この殺し合いも、部活の延長線上として、ゲームの様に優勝を目指しているのだろう。 ただでさえカケラ渡りは正常な倫理観を破壊する。梨花もそれは良く知っている。 壊れた倫理観で、勝つことを目指す沙都子を止める方法は果たしてあるのだろうか。 古手梨花の魔女としての側面が、風見一姫の言う様に殺すしかないのではないか?と囁き。 北条沙都子の親友だった梨花の側面が否定する。しかし、代案は未だ思いつかない。 表情が暗くなるのも、無理はない話だった。 「……そっか、でもさ。二人は親友だったんだろ?」 そんな梨花を励ますように、サトシは肩に乗るピカチュウを撫でながら告げる。 頭を撫でられるピカチュウは気持ちよさそうに瞼を細めてほほ笑む。 一瞥するだけで、一人と一匹が強い絆で結ばれているのが見て取れた。 「俺とピカチュウも、最初は全然上手く行ってなかったけど…今では最高の相棒なんだ。 だから……二人でちゃんと話しあえば、また仲直りできると思うんだよ」 勿論、俺とピカチュウも協力する。 サトシは、梨花に力強くそう告げた。 肩に乗るピカチュウもピッカァ!と元気よく鳴き声を発し、頷いている。 そんな二人を見ていると、梨花も不思議と身体の奥から力が湧いてくるようだった。 「…そうね、良くも悪くもあの子は変わってない。ただの勉強嫌いのクソガキだったわ。 それなら、ちゃんと話し合えば…せめて此処だけでも協力できるかもしれないわね…」 最後に殺し合いながらお互いの心情をぶつけ合った時。 北条沙都子は本当に良くも悪くも、何も変わっていない様子だった。 雛見沢症候群を罹患している訳でも、誰かに操られている訳でもない。 ただ意固地になっているだけで、話が全く通じない相手では無かった。 なら、説得次第で一時停戦位は望めるかもしれない。 あの子、絶対そういうノリ好きだし。そこまで考えて、くすりと笑った。 「──サトシのお陰で元気が出ました!ありがとうなのです! そうと決まれば、急ぎましょう!もうすぐここも禁止エリアになってしまいますから」 「あぁ、もうすぐ港が見えてくるところまで来てるし、急ごう!」 にぱーと、調子こそ何時もの猫を被ったものだが、笑顔は屈託のないモノを浮かべて。 ジョギングの様な所作を行い、急ぐように促した。 何せ先ほどの放送で既にここは禁止エリアだと告げられている。 シカマル達が近辺に居るのなら、嫌でも移動を始めているだろう。 であれば、今が最も遭遇できる可能性が高いのは自明の理。 今を逃せばこのエリアから離れてしまうだろうし、首輪が爆発して梨花達も死んでしまう。 故に、まだ二時間近く時間はあるが、急がなければならなかった。 てててて、と駆けながら、梨花は考えを巡らせる。 (そうね……沙都子(あのこ)が一番乗って来そうなやり口は…… テストの点数や、課外活動の評価を部活の様に競うのはどうかしら) 聖ルチーアにおいて、穏当に、共に歩むことができないのなら。 あえて憎まれる事で、好敵手(ライバル)として沙都子と関係を再構築する。 沙都子の勝負ごとに対する執着を利用するのだ。 不意に浮かんだ考えだが、不思議と上手く行きそうな気がした。 もしかしたら、そんなカケラが実際にあって、その残滓を感じ取ったのかもしれない。 今なら、沙都子が例え殺し合いに乗っていたとしても、その事実を直視して対峙できる気がした。 「先ずは全部をハッキリさせて──その後は、サトシ達の力を借りてでも、沙都子と話す」 サトシのお陰で、自分の心持の態勢が整った気がした。 ふん縛って、参考書を口の中に突っ込んででも先ずは彼女と対話する。 そう、強く強く決意を胸に、意志を表明した、その時の事だった。 鋼鉄の暴風とけたたましい破壊音が、周辺に響いたのは。 「───梨花ッ!!」 先ほどより緊張を露わにした声と顔で。 サトシが、梨花の手を掴む。 そして、有無を言わさず一番近くにあった民家の塀の影に二人そろって身を隠す。 緊張が走り、ドクドクと生命の危機を感じ取った心臓が鼓動を早める。 それを落ち着けてから、二人は意を決して、建物の影から音のした方向を伺った。 「な……何あれ………」 二人が目にしたのは、目を疑う光景だった。 赤毛の軍服を纏った少女が、空で銀髪甲冑の少女に嬲られている。 落下する事も出来ずに、全身を滅多打ちにされている少女の姿は遠目に見るだけでも心胆を一気に冷やす光景だった。 数秒ほどその様を呆然と見つめた後、サトシがある事に気づく。 銀髪甲冑の少女には、見覚えがあった。 「梨花、あれって……」 「……えぇ、沙都子と一緒にいた子だわ」 サトシの言葉に、苦虫を?み潰したような顔で梨花は応える。 あの目立つ格好に、人間離れした美貌。沙都子と一緒にいた少女だ。 確か名前は…メリュジーヌと名乗っていたか。 近場に沙都子がいない様だが、間違いないだろう。 「当たって欲しくない予想が、当たってしまったかもね……」 吐いた言葉は、実に苦々しい物だった。 あの様子であれば、メリュジーヌは殺し合いに乗っていると見て間違いないだろう。 赤毛の少女が襲った側であるなら、当に勝負はついている。 撃退するだけなら、全身の骨を砕く勢いで痛めつける必要はないからだ。 そして、そんな彼女と行動を共にしていた沙都子も恐らくは……… (今は一人みたいだし、沙都子は騙されているだけ、という線も無くはないけど…… それなら今度は沙都子が今も生きているのか怪しくなる、か………) 浮かんできた可能性は、何方も梨花にとって喜ばしい物では無かったし。 これ以上思索した所で、応えはあの騎士少女に問わなければ答えはでないだろう。 かぶりを振って、考えを切り替える。 問題は、これからどうするか、だ。 「……止めないと」 梨花が沙都子の事を考えている間に。 サトシは既に、目にした光景に対する結論を出していた様子だった。 その表情は強い決意に満ちている。 彼の肩に乗るピカチュウも、それは同じだった。 「ダメよサトシ、幾ら何でも無謀だわ」 猫を被る事を辞めて、梨花本来の口調で、サトシを制止する。 サトシの実力を疑っている訳ではない。 でも、幾ら何でもメリュジーヌを相手にするのは危険すぎる。 放送前に襲われた孫悟空という少年と比べても、なお強いだろう。 速さは同じくらいでも、体さばきは比較にならない。 下手に助けに入れば、此方も巻き添えを食う。 それが梨花の見立てだった。 「でも、放って置く訳にはいかないだろ。 俺も、何も勝負しようとは思ってないさ。それよりも……… さっき、梨花に支給されたあれ、貸してくれ」 サトシが譲渡を求めた物は、此処に来る道すがら確認した梨花の支給品だ。 梨花にとっては使い方すらピンと来ないが、サトシにとっては切り札になり得るアイテム。 渡しても惜しくはないが、それでも譲渡にあたって梨花の表情には躊躇があった。 そんな彼女に向けて、もう一度サトシは「頼む」と、要請を行う。 「大丈夫だ、約束する。梨花も、ピカチュウも危ない目に会わせるつもりは無いよ。 ただ……もしあいつが俺達に気づいて追ってきたら、きっと必要になる」 そう言われては、梨花も反論しようがなかった。 元より自分が持っていても意味のない道具だ。それならサトシ使ってもらった方がいい。 無言でランドセルから件の支給品を取り出し、サトシに手渡す。 「………それで、どうするの?」 渡された支給品を手早く身に着けるサトシを眺めながら、素の梨花の口調で問いかける。 メリュジーヌとの距離は五百メートル以上離れている。 ピカチュウの電撃の射程距離は、多分そんなに長くは無いだろう。 となれば、近づけなければならないが、そうなるとどうしてもあのメリュジーヌに近づかなければならない。 そこは最早死地だ。この距離であっても、安全であるとは言い難いのに。 「あぁ、ピカチュウもあれだけ強くて、しかも離れても相手を狙うのは難しい。 だから……これを使うんだ」 彼はポケモントレーナーであって決闘者ではなかった。 だから、可能なのかは間違いなく未知数だった。 それでも…目の前で危機に瀕している人がいれば放って置けない。 それが、ブラックマジシャンガールのカードを梨花の前に翳す、サトシと言う少年だった。 ■ ■ ■ 目論見は、半分は成功した。 呼び出したブラックマジシャンガールは、見事に作戦を遂行したのだ。 正確に放たれた魔力砲によって、メリュジーヌから、赤毛の少女を引き離した。 爆風によって、赤毛の少女が吹き飛んでいくが、今はサトシ達も気にしている余裕がない。 少女が生きているかは、祈るほかなかった。 今はただ、メリュジーヌの目標を此方に引き付ける事を優先する。 「よし、梨花、離れ───!」 後はこの場を急いで離れる。 敵はブラックマジシャンガールの方に気を取られて、サトシ達には気づいていない筈。 使用者が一定距離離れればカードから現れたモンスターは消滅するそうだから、 このままブラックマジシャンガールが殺される前にこの場を離れれば、犠牲者は0で済む。 その算段だった。急ごしらえとは言え、悪くない作戦だっただろう。 「……飛び上がった………?」 姿勢を低く、できる限り補足されにくい様にしながら、メリュジーヌの様子を伺う。 彼女は攻撃を受けて直ぐ、ブラックマジシャンガールに襲い掛かる真似はしなかった。 ただ、まるで「そらをとぶ」の様に更に高度を高く飛び上がって、そして静止した。 ───まるで、高所から何かを探すように。 「────!!!ヤバいッ!ブラックマジシャンガール!!」 それは、サトシがメリュジーヌの意図に気づいたのとほぼ同時だった。 彼女(メリュジーヌ)は、ブラックマジシャンガールがカードによって呼び出された存在だと気づいている! 視線と視線が交錯する。 メリュジーヌの爬虫類めいた目と、目が合った。 見つかったと、瞬時に判断。こうなれば、腹を括るほかない。 ブラックマジシャンガールを呼び戻しながら、迎撃の態勢を整える。 「梨花…ごめん。結局こうなっちゃって」 「…いいわ。私も何となく予感はしてたし。あの子に聞きたい事もあるし。 その代わり、絶対に二人で切り抜けるのです。にぱー」 立てた算段を遥かに超える相手だった事をサトシは梨花に詫びた。 そんな彼の謝罪を、梨花は責めなかった。 ここまで連れてくるように頼んだのは自分自身だし。 責めた所で、何も状況は好転しない。 元より戦う力のない彼女にはサトシを信じる他ないのだから。 当初の計画は破綻したが、梨花の目に映るサトシの表情は未だ信頼に足るものに思えた。 迫りくる怪物を相手にしても、サトシの瞳に怯えは無く。 ただ強い意志だけを秘めた───歴戦のチャンピオンの目をしていた。 ■ ■ ■ サトシの目論見は、きっと成功していただろう。 メリュジーヌが数時間前、カードから呼び出された星屑の竜を相手にしていなければ。 ブラックマジシャンガールの容姿が子供であったなら。 メリュジーヌはサトシの想定通り、ブラックマジシャンガールと交戦を開始していた。 だが、彼女は既に知っていた。 強力な幻想種を呼び出すカードが、参加者に支給されていることを。 そして、まず真っ先に目に入ったブラックマジシャンガールの容姿は、 これまで自分が出会ってきた参加者の共通した特徴と合致しない。 首輪も、参加者に嵌められている物とは大きく違っていた。 これ等の情報から、メリュジーヌは突然現れた魔術師をあの星屑の竜と同じ召喚獣だと判断した。 「見つけた」 召喚獣であるなら、呼び出した人間がそう遠くない位置にいる筈。 そう考えて高度を高くとっての索敵だった。 予想通り此方の様子を伺っている子供が二人、見つかった。 少年の方の行動は、迅速だった。 見つかったと判断するや否や、陽動役として前に出していた女魔術師を呼び戻した。 瞳の彩も冷静。戦う覚悟を既に決めている様だった。 「もう一仕事、働くとしようか」 両手の手甲から、『今は知らず、無垢なる湖光』を伸ばす。 目標との距離は一キロ近くある。 例え人智を超えた知覚能力を有するサーヴァントであったしても。 索敵スキルがないサーヴァントであれば、距離を詰めている間に近辺の民家に身を潜められれば探すのはそれなりに骨だっただろう。 だが、二人の子供達にとっては不運な事に相手は最強の妖精騎士。 その飛行速度は音速を優に超える。 制限下であっても、一キロに満たない距離であれば、数秒で到達可能だった。 「悪くない判断だ」 メリュジーヌは、追撃を行わず女魔術師を呼び戻した少年の判断を賞賛した。 女魔術師の魔力砲では自分を止められないと判断したのだろう。 その見立ては、決して間違っていない。 全身から魔力を放出、一秒でその速度は音速を超える。 先ほどまで小さな人影だった少年少女の顔立ちすらはっきりと見える距離まで駆け抜ける。 そして、黒髪の少年少女の前に、ドン!と。 右膝と左手を大地について、着地。 誅罰に横やりを入れた二人の“標的”と対峙した。 ■ ■ ■ 次話へ
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君の前に出した手が 痛みを覚えた日から 孤独な心開こうとせず 長く眠らせて 君とようやく握手を 交わせるようになってから 確かに幸せはまだ 蝕まれ続けていた ここにいるよ すぐ近く ここにいるよ 背を合わせ 空と君とのあいだには 今日も冷たい風が吹く 君が奪われてきたもの 僕は守り抜きたい 君と僕とのあいだでは 今日も希望が交差する 絶えぬ笑顔の裏側で 僕は恐怖にすくむ 君の笑顔が誰かを 傷つけることになるなら 張り慣れない意地を張ってでも君を 止めるだろう 君が破綻を目指すと 目を伏せた時にわかった 最初から何も信じ られず生きてきたのだと ここにいるよ 受け止めて ここにいるよ ふたりでひとり 君と僕とのあいだには 今日も星が輝いてる よどみ繋がれた縁(えにし)に 温もりはなくていい 空と君とのあいだには 僕に見えない虹がある 君が望んだ未来では 僕の虹は見えない 空と君とのあいだにでは 闇が光を塞いでる 欲が落とした影を抱き 僕と共に沈もう 原曲【中島みゆき「空と君のあいだに」】 元動画【削除済み】 参考用歌ってみたURL【http //www.nicovideo.jp/watch/sm1984886】
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空と君とのあいだには 言葉にできない 短編 空と君とのあいだには/朝倉涼子の発現 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話(完結) 空と君とのあいだには/朝倉涼子の消失 プロローグ 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 エピローグ - 春よ、来い 空と君とのあいだには/空と君のあいだに プロローグ 前編 後編 エピローグ - 空も飛べるはず
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アーティスト:中島みゆき レベル:6 作詞・作曲:中島みゆき 編曲:瀬尾一三 歌唱範囲:2番サビ〜ラスサビ 地声最高音:hiB (笑ってくれるなら)※計6箇所 1994年に発売された中島みゆき31枚目のシングル。(*1) 当時大ヒットした日本テレビ系ドラマ『家なき子』主題歌に使用された。タイアップのためか「浅い眠り」に続いてミリオンセラーを達成し、自身最大のヒットソングとなった。 最高音はhiBと高くないものの、音程やリズムが独特でかつ歌唱時間も1分弱と長尺のため、集中力がかなり求められる曲。 「空ときみとの」の高低差のある音程に挟まれている音を含んだフレーズや「悪にでもなる」のリズム、しゃくりの1音目がバーに反映されていたりと外し所は満載である。
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「それでさ、みくるちゃんが羊になってね、あたしが鞭でこう、ビシバシと……」 不思議探索ツアーの中休み、いつもの喫茶店でのブレイクタイム。 もはや、真面目にこの町に不思議を探し求める気など、こいつにはないのではないだろうか? しかし、それはまったく持って賢明な判断であると言えるので、回を重ねるごとに、ただのSOS団の親睦を深める会になりつつあるこの時間を否定したりはしない。 ハルヒは付け合せのマカロニチーズを残したハンバーグランチの皿を脇に寄せつつ、自らが夢に見た、果てしなく粗末な異世界の話を、オレンジジュースを肴に、俺たちに向けて熱く語っている。 それを聞き流しつつ、俺は今日、朝から絶え間なく感じ続けている奇妙な違和感のようなものを、飴玉でも舐め溶かすかのように持て余していた。 気温は朝からナイフのごとく痛烈で、風はやや強め。このところ降らない雨の所為で、いささか土ぼこりの多い土曜日。 午前中のくじ引きでは、古泉とのツーショットデートというハズレ籤を引き、ある種、ハルヒのそれよりも念仏的な、奴の異世界にまつわる論説を、煙草臭いゲームセンターの空気を肴に聞かされ続けた。おかげで無駄に平行世界の概念に詳しくなった気がするが、数時間前に奴が何を話していたかは、もはや思い出せない。 嗚、ありふれた冬の土曜日。 そんな中、俺は自分の中に渦巻く、奇妙な焦りのようなものを、延々と引きずり続けていた。 目覚めた瞬間、窓から差し込む陽光を目にした瞬間から。輪郭の見えない、長い既視感のような不気味な淀みが、俺の胸の内側の、そこらじゅうに張り付いていた。 そしてその粘りは、ただ今日と言う日を淡々と生きればいい筈の俺の心に、不要――であるはずの――何かに追われているかのような、危機感のはしくれを植えつけていた。 「それはまさに、僕の言う平行空間の理念に当てはまると思いませんか?」 そんなおかしな感慨に追われているからこそ。俺はあろうことか、このただでさえ喧しい事この上なかったSFシナリオ再生マシンに、余計な焚き付けをしてしまうなどという、凡ミスを犯してしまった。 「たった今、この世界と平行して、同じ時間軸を辿っている世界があるとします。 その世界で、たとえば貴方が、何らかの問題を抱えている。 貴方は、一刻も早くその問題を解決に導かなくてはならない。 そして、そんな局面に面している貴方の発する……一種の危機信号のようなものでしょうか? それがこちら側の世界の貴方のもとへと、貴方の言う焦りのような形で届いている……と」 もし、その説が正しいものなら、まったくはた迷惑な話だ。 なぜなら、今、どこぞの平行世界で、俺がジュラシック・パーク的絶体絶命の危機に襲われているとして。そのエマージェンシーを、何故別の次元を生きている俺がキャッチせねばならんのだ。そんなもの、俺にはまったく関係ない話じゃないか。 「ええ、本来ならそうでしょう。ですが、可能性として。 別次元の貴方が面している事態というものが、今、この次元の貴方…… ひいては、この世界そのものにまで影響を及ぼし得るようなものだったとしたら。 今、二つの世界の距離が、限りなく近い距離まで接近している。 向こうの世界で、貴方がその危機に飲まれる事があれば この世界の貴方にまで異変が発生するかもしれない…… だとしたら。貴方はすぐにでも、その接近している平行世界へと飛び移り、問題の解決に貢献しなければならないのですよ」 SF映画の筋書きとしては、平凡すぎて逆に悪くないとすら思うが。 しかし、意味も無くただ焦らされたところで、俺には世界なんぞを飛び越える術などない。そもそも、もしそんな事態が、この世界のどこかで発生しているとして、俺になにやらしなければならんことがあるとすれば、大概の場合、長門やら、お前やら、朝比奈さんやらが、俺を導いてくれるはずじゃないか。というか、そうでなかったら、無力な俺はただジリジリと尻に火をつけられる思いをするばかりだ。向こうの世界の俺は、SOS団の団員の中の誰かに助けを求めるべき場面で、迷わず最も無力な俺を選択するほどに、思考回路の機能がいかれちまってるとでも言うのだろうか? 「はは……すべては、たとえばの話ですよ。 確かに、これまでに幾度か発生したような、世界の存続や 涼宮さんの精神にまつわる事態が発生しているとしたら 我々のうちの誰かしらが、貴方を導く立場となっているはずですから。 長門さんや朝比奈さんのほうは存じませんが 少なくとも僕の機関は、そのような異常事態の発生を感知してはいません。 涼宮さんの精神状態も非常に良好、このところは僕のアルバイトもご無沙汰です。 あるいは……そうですね。そんなあまりにも平坦すぎる日常に 貴方の精神のほうが退屈なさっているのではないでしょうか? 貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが 閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」 俺の閉鎖空間。 おそらく何気なく発したのであろう古泉の言葉が、ささくれに突き刺さる小さなトゲのように、俺の心を刺した。 ふと、思い出す、ひと月前の事件。 俺がこの世界を作り出した。そんな世迷言のような出来事。 ああ、あれは―――夢、では、ないはずだったか。 最も、今となっては、それが夢でも夢でなくても、俺が忘れてしまったが最後、そのままこの次元の歴史の片隅に置き忘れられてしまうような、空ろなもの。 「……もし、俺のヤツが出来る時があったら、そのときはよろしく頼むぜ」 「ええ、善処しますよ。できるだけ、AIのレベルは下げて置いてくださいね」 会話の間、延々と惰性のように動かされていた俺の両手が停止する。過剰装飾といわざるを得ない大げさな打撃音と共に、俺の操作していたキャラクターが宙を舞う。見慣れたような、見慣れぬような、YOUR LOSEの文字。 「なるほど、確かに今日の貴方は、いつもとはいささか調子が違うようですね」 そのようだな。 ◆ 「ほら、キョン、あんたの番」 数時間前へとタイムスリップしていた俺の意識を引っ張り戻したのは、冷や水の如きハルヒの呼び声だった。 気がつくと、俺たちのテーブルに散乱していたランチメニューの空き皿はあらかた下げられ、ドリンクのグラスによって作られた五角形の中心に、四本の割り箸が握られたハルヒの右手が突き出されていた。 「ああ、悪い」 テーブルに着くほかの面々を見回すと、古泉のやつはすでに籤を引き終えたらしく、無印の割り箸を片手に、例の薄ら笑いを浮かべながら、俺の顔に注目している。ハルヒの両隣に座る朝比奈さんと長門の視線もまた、俺の手元とハルヒの手元に注がれている。 時計を見ると、午後一時四十五分。そうだ、もう午後の分が始まる頃合か。 俺は総勢の注目を浴び、奇妙な緊張を覚えつつ、割り箸の生えたハルヒの握りこぶしへと手を伸ばし、人差し指の第二間接辺りに引っかかっていた一本を引き抜いた。 ◆ 「ほら、引いたぜ」 割り箸の先端には、赤いマジックで印がつけられている。とりあえず此れで、引き続き古泉の異次元論を聞かされるルートは免れたわけだ。 俺は赤い印を見せびらかすように、テーブルの中心に向けて、割り箸を持つ手を差し出した――― しかし。その赤い印を見せるべき相手は、誰一人存在しなかった。 俺の目の前にあるものといえば、空きグラスの散乱したテーブルと 窓ガラスに切り取られた、いかにも寒々しそうな午後の光景だけだった。 「ハルヒ?」 どれくらいの間かの沈黙の後。俺はたった今まで、目の前で握りこぶしを作っていたはずの、我がSOS団団長の名前を呟いた。 しかし。呟きに反応を返してくれる人間は、そこには誰一人としていない。 ……何か、催し物でも始まったのか? 俺はテーブルと椅子との間の、狭い空間を縫うようにして腰を上げ、周囲を見回した。 「ハルヒ、古泉?」 先ほどまで――つい一瞬前まで、だ――俺の周囲に屯していた筈の人々の名前を呼びながら 「長門……朝比奈さん」 誰一人として、人と呼べるものの姿の無くなった店内を見回す。 そう。俺の記憶が確かならば、俺たちのテーブルの蓮向かいのテーブルでは、頭のはげた中年の男が、スポーツ新聞を読みながら紅茶のカップをすすっていたはずだった。 丁度この席から見渡せるキッチンでは、長い髪の毛を後ろで結った男が、忙しなく調理器具を扱っていたはずであり、レジカウンターでは、エプロンドレスを纏った若い女性が、営業スマイルの出来損ないのようなものを携えながら、思いを馳せるようなぼやけた目で、代わり映えの無い内装の店内を見回していたはずだった。 それら、すべてが。 使い古された表現を使うならば、煙のように。 忽然と、姿を消してしまっているのだ。 ◆ それからしばらく。俺は突然始まってしまった、大規模なかくれんぼの鬼役に努めた。 まず喫茶店内。キッチンを覗き、普段は足を踏み入れることの無い、大型冷蔵庫の中まで足を踏み入れた。物陰と言う物陰を探し、終いには手洗い場を――一瞬躊躇った後に、女性用のそちらまでもを調べた。 閉じたトイレのドアを、順番に開けていくという作業は、なにやら背筋に寒いものを感じるものではあったが……無駄に高鳴る左胸を押さえつけながらも、俺はそれを、備え付けられているトイレの数だけやり遂げた。 そして、最終的に。喫茶店の中には、誰一人の姿も無いという結論へとたどり着いた。 レジスターの使い方を知らないので、五人が飲食した分の料金を精算せずに店を後にしたことは責めてもらっても困る。店を出る前から予測はしていたことではあったが――どうか外れて欲しい予測であったのだが――冷たい風の吹く街をいくら歩き回れど、鏡面に映る自分の姿以外に、人の姿を見つけることは出来なかった。 俺は駅前のロータリーを歩き回った後、自転車のカギを外し、ペダルを踏み込んだ。半ばやけくそになっていたのか、かなりのスピードを出していたし、横道や信号なども一切気にせずに突っ走った。しかし、風を切る俺を阻むものなど、何一つ現れなかった。せいぜい、風に乗ったスーパーの袋が、俺の前を横切っていったくらいだ。 自宅に戻り、あらゆる部屋のドアを開いて周り、シャミセンを弄り回すか、寒い中アイスを咥えた妹の姿を探す。しかし、妹はおろか、どこかしら日向を見つけては転がりまわるシャミセンの姿すら見つけられなかった。居間のテレビを付けて見たものの、あらゆるチャンネルは砂嵐。自室のPCはと言えば、起動はするものの、インターネットは一切繋がらない。 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwww街に俺しかいないwwwwwwwwwwwwww そう口に出そうとしてみたが、どう発音すべきかわからない記号があまりにも多すぎた。 ◆ 廊下に出て、自室の扉を閉めた時点で、ようやく諦めがついた。 分かった、認めよう。 何かが起きているのだ。 ◆ 居間で途方にくれていて、分かったことがいくつかある。 まず一つ。俺を残してすべての人間が消え去ってしまったこの町には、冬の昼下がり、午後零時四十六分以外の瞬間が訪れることは、決して無いらしい。足の速いはずの冬の太陽は、いくら待てど決して沈むことは無かった。太陽は沈まず、冷たい風は吹き続ける。尽きることの無い土ぼこりが、どこかからどこかへと運ばれてゆく。それを迷惑がるのは、俺一人のみ。 居間で呆けていると、だんだん俺自身までもが消えてしまいそうな危機感に襲われ、再び街に出る。 駅の近くまで歩いて戻った後で、自転車を自宅へ置き忘れたことに気づき、この後、どこへ向かうにも徒歩で向かわねばならないという面倒な事態に陥ってしまった。しかし、今更自転車一つの為に自宅へ戻るのもまた面倒に思い、結局、俺はスニーカーの底をすり減らしながら、再び駅前へと戻ってきた。念のためにと、喫茶店を覗いてみるが、やはりそこに人の姿は無い。どうせ夕暮れ時になっても、カラスの鳴き声なども聴こえてはくれないのだろう。そもそも、夕暮れ時が訪れる気配すらないのだから困ったものなのだが。 「涼宮ハルヒの精神状態は、良好じゃなかったのか」 当ても無く街を歩きながら、誰にとも無く呟く。 今までに経験した異変の中でも、この度のスケールのでかさは、ある意味では此れまでと比較にならない。 今までならせいぜい、ハルヒと、俺と、その周囲を巻き込む程度のものだった。 しかし、今回はどうだ? キョン以外全員消失。 どこのパロディ映画のタイトルだ。 あるいは、逆に。俺一人が、つい先ほどまで(もはや先ほどでもないほど、時間が経過しているのだが)の世界から追放され、この静けさと寒々しさ以外の何者も持たない街へと放り込まれてしまった。という可能性もあるかもしれない。冷静に考えれば、そちらのほうが幾分か現実的な話のように思える。 そうだ。前にもこんなことがあったじゃないか。 あの時は、俺ともう一人……俺をその場所へ引きずり込んだ張本人を引き連れて、ではあったが。 「……閉鎖空間、か」 いつの間にかたどり着いていたのは、土曜の午後。部活動に勤しむ生徒たちの為に解放された校門の前だった。 誰の気配もしない学校。この感覚には、以前とはいささか異なるものの、見覚えがある。すべてが灰色に包まれたあの世界に比べれば、この光景は、随分と彩りが溢れてはいるが……それ以前に。閉鎖空間と言う単語と同時に、今日、午前中に耳にした、古泉の言葉が脳裏を過ぎった。 「貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが 閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」 去年の春。涼宮ハルヒは、神の力を用いて、この俺を巻き込み、もともとの世界とは異なる、まったく別の世界を創造しようとした。ハルヒ自身が作り出し、ハルヒ自身が迷い込んだ、生まれたての世界を、俺は訪れたのだ。 そして、もう一つの事実。 幻に消えてくれてもかまわないと、ついさっきまで考えていた、ひと月前の出来事。 この俺が、世界を作り変えた、あの事件。 まさか、この俺が? あの一件をきっかけに、もし、たとえば、俺にハルヒと同じような力が備わっていたとして。 俺はあのときのハルヒと同じように、新たな世界を作ろうとしてるってのか? しかし、理由はなんだ? 俺は昨日までの世界に、不満を感じていた覚えなど一つも無い。ましてや、自分以外をすべて放棄してまで、世界を作り直す理由など…… 思考をめぐらせながら歩くうちに、俺は自然に、SOS団の部室へとやってきていた。 長方形に並べられた机、備え付けられたコンピューター。『団長』の印の置かれた机。本棚に詰め込まれた無数の書物に、ついたての向こうのハンガーラック。いくつかのコスプレ衣装。ロッカーからはみ出したボードゲームの山、電子ポットと団員の人数分の湯のみ、茶筒、急須……すべてがありのままだ。俺はダッフルコートを脱ぎ、自分の席の椅子の背に掛け、私服のシャツのボタンを一つ開けた。そして、石油式のストーブと電子ポットのスイッチを入れる。やがて、ストーブは独特の匂いと共に暖気を発し始め、ポットの中の液体が沸騰する。 茶筒から適当に茶葉を取り出し、普段、朝比奈さんが行っていた一連の動作の見よう見まねで、一人分の玄米茶を淹れる。やがて、ティーカップに注がれた味のしない緑色の液体を啜りながら、コートを掛けた椅子に腰を掛け、息をつく。部室内の時計は、12 46を示している。どこを訪れても同じ数字だ。 念のために、ハルヒの机に備え付けられたコンピューターの電源を入れてみる。しかし、表示されるものは、俺の自室のPCと似たようなものだった。せめてもの心の救いは、mikuruフォルダの中身までもが消失してしまっていないことだろうか? 幾度かインターネットへの接続を試みた後、諦めた俺は団長机を離れ、窓際の椅子に腰を掛ける。そこは普段、長門が読書に勤しむ為の席だった。 「長門」 口の中でくすぶらせるように、その名前を呟く。 ……そう。もしも、仮に、救いがあるとするならば。 俺が縋れるのは、長門しかいない。 しかし、おそらくこれから長門の家を訪れたところで 俺はかたくなに道を開けぬであろうパスコード式の門に阻まれ、途方にくれるだけだろう。 長門。 そう。またしても、俺は長門を頼っている。たったひと月前に……もう、あいつに苦労はかけまいと、思ったばかりなのに。 ティーカップを手に持ったまま、俺は本棚の前へ赴き そこに並べられている、まるで別世界のような背表紙たちを眺めた。 そう。長門と俺を繋ぐもの―― ―――その瞬間。 今朝がたから、俺の頭にこびりつき続けていた、あやふやな既視感が。 はっきりとした輪郭を持ったビジョンとして、俺の目の前を横切った。 土曜日の昼下がりの文芸部室。午後一時に歩み寄る時間。 ストーブの匂いと、ティーカップを持つ右手。 目の前に並んだ、古びた背表紙の数々…… それは、ひと月前のあの日。 こことは別の世界で、長門と二人で訪れた部屋と同じ状況だ。 俺はあの日、あの世界でも……こうして、本棚を眺めていた。そして、何かを探していた。数々の覚えの無い題名の中から、たった一冊の本を―――あの時は思い出せなかったそのタイトルを、今なら思い出せる。 「ダン・シモンズ『ハイペリオン』」 その名前を口にすると同時に。 俺の目はまるで魔法にでも掛けられたかのように 本棚の隅で、斜めに傾いている、その背表紙を捕らえた。 これでこの本を手に取るのは、三度目になる。 一度目は、長門と会って数日目、あいつから直接手渡された日。 二度目は、ひと月前。あの世界で、古泉一樹から手渡された。 そして、三度目。俺はようやく―――自らの手で、この本を手に取ることになる。 俺は右手に持ったティーカップをテーブルの上に置くと、一つ深く呼吸をし、そして、まだいくらかぬくもりの残っている指先で、その本の背表紙に触れた。 ―――それと同時に。いつだか感じたのと同じ、世界が自分と共に、コーヒーの渦に融けて行くかのような、あの違和感に襲われた。 地面と天井が重なり合い、その間で、自分の体が引き伸ばされては、また元に戻って行く。長い長いめまいのような感覚。 まるで永遠に続くかのようなそれが終わったとき。俺の耳に、長くに渡って追い求めていたざわめきが聴こえてきた。ハイペリオンを右手に抱えたまま、飛びつくように窓際へと駆け寄り、閉ざされたガラス窓を開け放つ。冷たい外気が竜巻のように部屋に舞い込み、カーテンが音を立ててなびく。 それと同時に、俺の耳にはっきり届く……俺ではない、無数の人々が産み出す雑音。 見下ろした中庭には、北高のジャージを見に纏った、何人かの人影が確認できる。 俺の見間違いではない。そこには俺以外の人間が存在していた。 そして、窓枠に掛けた自分の手を見て気づく。先ほどまで身に纏っていた私服のYシャツではない、分厚い生地によって作られた重たいブレザー。北高の制服。 冷たい外気を背に、部室内を振り返ると、そこには団長机も、団員の為の長方形の机も無い。先ほどまで俺が持っていたティーカップを載せた机も、どこかへと消え去ってしまっている。あるのはたった一つの会議用の机と、三つの椅子。そして、パソコンの備え付けられた机がひとつ。 そこはSOS団の部室ではなかった。 ひと月前まで俺が在籍していた、長門有希を部長とする、文芸部の部室だった。 状況を理解するのに、時間は掛からなかった。 そう。俺は、還って来てしまったのだ。 俺の手によって、削除されたはずの記憶の世界へと。 長門がいて、朝倉が消え、ハルヒが死んだ、あの世界へと。 しばらくの間、俺は冷たい外気を背負ったまま、その場で途方にくれていた。 やがて、動き始めた時計が一時を回りだした頃。 俺の中で、一つの仮説が組み立てられた。 一月のある土曜日の午後、一時前。正確には、十二時四十六分であったのだろう。それは俺が、ちょうどひと月前に、世界を十二月十八日へと巻き戻した、その瞬間だったのだ。 そして、それと同じ時間に……俺の作り変えた世界は、止まってしまった。 朝倉の工作と、長門の力によって、俺が世界を作り変えた。問題は、そこにあったのだ。 俺が世界を作り変えたのは、朝倉がデータ化したという、いわば『涼宮ハルヒの力』の海賊版だった。 本来の力の持ち主でもなく、それを流用するだけの力も持たない俺が、そんな粗雑なものを用いて世界を構築する事が、そもそも不可能なことだったのだ。だから、あの世界は、つい数分前のあの時間。十二時四十六分を持って、停止してしまった。そして俺は……俺と長門を繋ぎ続けたハイペリオンによって、俺によって作り変えられる前の世界へと還って来た。 それは、長門の力なのか? 違う。いわばそれは、強制終了のようなものだろう。 過ちは正されていなかった。過ちは過ちのまま、俺の知らないところで回り続けていた。そして、俺はそこに引き戻されたのだ。 今度こそ、過ちを正すために。 しかし。 この世界が、ひと月前のあの世界であるならば。この部室には、足りないものが一つだけある。 「……長門?」 そう。朝倉涼子の作り出したデバッグモードを起動した瞬間。俺の隣には、あの眼鏡の長門がいたはずなのだ。今、俺の帰ってきたこの部室が、あの瞬間の直後の世界のはずならば、この部屋には、まだ長門がいるはずだった。しかし。物陰すらないほどに見通しのいい部室内に、その姿はない。 一瞬考えた後、俺は右手にぶら下げたままのハイペリオンのページを繰った。あるいはまたそこに、俺を導く為の何かが残されているかもしれないと考えたのだ。しかし、いくらページをめくれど、本をさかさまにして揺さぶろうとも、そこから恵の何かが零れ落ちる事は無かった。……そうだ。長門がこの世界に残してくれたものは、あの小さな栞一枚だけだった。そして、その栞の手がかりの果てに……俺は再び、この場所にやってきてしまった。もう、俺を助けてくれるものは何もない。俺は自らの手で捜さなくてはならないのだ。長門が俺と朝倉に託したこの世界を、本当に正すための術を。 そして―――もう一人の長門。 俺と共に、この部室を訪れていたはずの、眼鏡の長門の行方。 俺はコートを着ることも忘れ(そもそも、俺の着てきたダッフルコートは、SOS団員としての俺の椅子と共に消えてしまっていた)部室を飛び出した。そうだ。いくら部室にいないとはいえ、まさかあの眼鏡の長門までもが、朝倉のように消えてしまったと決まったわけではない。俺があの部室から姿を消してから、こうして舞い戻るまでに、多少の時差があった可能性もある。となれば、長門はただ、部室を離れ、どこか別の場所へと行ってしまっただけかもしれない。俺は階段を駆け下りながら、ポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から長門の番号を検索した。 しかし、それとほぼ同時に。携帯の画面が、メール受信中の幾何学的模様へと変わり、機体が振動する。 新着メール 1通 長門 その無機質な電子文字が、どれほど俺を安心させてくれただろうか。よかった。あの長門は、どこにも消えてはいなかったのだ。階段の踊り場で足を止め、俺はメールの受信ボックスを開く。 from 長門 Sub 無題 ------------------------ 26575 -----------END---------- たった僅かな文面。ある種、口数の少ない長門らしいメールでは有る。しかし、その五つの数字が一体何を示すのだろうか? 俺と長門の間にまつわる、五つの数字。 その答えが出るまでに、そう時間は掛からなかった。 それは長門と朝倉が、決して俺に教えようとしなかった、二人のマンションの玄関の電子ロックのキーナンバーだ。 俺たちが三人で、あるいは、長門と俺との二人であのマンションを訪れるとき、俺は決まって後ろを向かされ、番号を察することが出来ないように、目隠しまでされたこともあった。 「だって、深夜に突然訊ねてこられたら怖いものね」 イタズラの言い訳をするように笑う朝倉の表情が、俺の脳裏を過ぎる。 俺はそのメールに対し、何らかの返事を返すべきかと迷った挙句、メールを打つのももどかしく、『そっちに行く』と短く返信した後、再び階段を駆け下り、下駄箱を目指した。 ◆ 街は校内同様、人と言う人の溢れかえる、有るべき姿を取り戻していた。 風は冷たく、Yシャツにセーター、ブレザーを着ているのみの俺にはいささか厳しいものだったが、今は一刻も早く、再びあの眼鏡の長門に会いたい一心が逸り、気に留まらなかった。時空を超えてひと月ぶりに履いたローファーを喧しく鳴らしながら、俺は長門のマンションを目指した。 やがて、マンションの正門にたどり着いた俺は、先ほどのメールを開き、そこに記されている通りに、五つのキーを押す。一瞬の間を置いて、背の高い電動の門が、僅かな音と共に左右に開かれる。誰の同伴も無く、俺がこの敷居をまたぐのは初めてのことだ。幾度か訪れたロビーをまっすぐに進み、エレベーターのスイッチを押す。エレベーターの位置を示す電子数字は、最上階であり、長門の部屋のある階である七階を示している。 ―――早く降りて来い。焦らしてるつもりなのか。 そのとき。俺の逸る気持ちをなだめるかのように。ポケットの中で、携帯電話が振動した。あわてて機体を開くと、そこには長門からの新たなメールが届いていた。 from 長門 Sub 無題 ------------------------ 4 2 6 2 7 5 -----------END---------- 六つの数字によって綴られた、先ほどとよく似ている文面。しかし、今回は数字の間が開いている。今度こそ、意味がわからない。すでにマンションのキーは解除されたのだ。この先に、何か数字が必要な場面などあるだろうか? 携帯電話を片手に困惑する俺の耳に、エレベーターが到着したことを知らせる。重たいドアの開く音が届く。 ……良く分からんが、とにかく、今は長門の元へ急ごう。 気早に扉を閉めようとするエレベーターにあわてて飛び乗り、階数を選択するボタンに手を伸ばす。長門の部屋は、七階だ。迷わず七のキーを押そうとした、そのほんの一瞬前に。俺はたった今、自分 ……思えば、不思議なことだ。 あの眼鏡の長門が、俺がこの世界に舞い戻るのとほぼ同時に、マンションのロックのキーを教えた。まるで、俺をこのマンションへと導くように。そして俺がその導きの通りに、この場所にたどり着いた。それと同時に届いた、この暗号のような数字の羅列。 誰かが、俺を導いている。 それも、きわめて奇妙で、非科学的な方法で。 誰が? このメールの送り主が。 あの、眼鏡の長門が? ……ほんの少しの間、躊躇った後に。俺は七のキーから指を逸らし、四階のキーを押した。やがて、エレベーターは動き始める。やはり、とても僅かな音を立てて。 エレベーターは俺の指示の通り、二階、三階を通過し、四階で停止する。重たい扉が開き、狭苦しいエレベーター内に、寒気が流れ込む。エレベーターの前には誰もいない。 俺は四回の廊下に降りることなく、続けて、二階への移動を示すキーを押した。扉が閉じ、エレベーターが下降を始める。三階を素通りしたエレベーターが、二階の廊下にて停止し、口を開ける。 次は、六階。 ……二階。エレベーターには、誰一人として乗ってこない。 七階。 本来なら、俺が真っ先に訪れていたはずの階層だ。 しかし、長門の部屋へと続く廊下へ踏み出すことなく、俺は最後のキーを押した。 五階。 エレベーターは、下降して行く。五階。俺がこのマンションで訪れたことのある、もう一つの階層。でたらめに移動を強いられたエレベーターの扉が、いい加減痺れを切らしたようにひときわ重々しい音を立てながら口を開ける。 そこには、見慣れたセーラー服に身を包んだ、一人の少女の姿があった。 白い肌に、青み掛かったロングヘアー。 そして、いつかどこかで見たような……液体ヘリウムのように、色濃く、澄んだ瞳。 「久しぶり」 朝倉涼子だ。 ひと月前のあの日、俺と長門と、三人での晩餐を最後に 俺たちの前から姿を消していた。 あの朝倉涼子が、心の内側を見透かしたような微笑を携えて、姿勢良く立っていた。 「―――!」 「ダメよ、まだ、喋ったら」 言われるまでも無く、俺の喉は、内臓のどこかのかけらが謝って詰まってしまったかのように引きつっていて、声など出せはしなかった。 朝倉はそれに追い討ちを掛けるように、白い人差し指を俺の目の前に突き出し、言葉を発することを諌める旨を口にする。 「いい? あとは、黙ってみてて」 くるり。と、スカートのすそを躍らせながら、朝倉涼子は俺の隣の僅かな隙間に滑り込むように、エレベーター内へ乗り込んできた。そして、うろたえる俺をよそに、一階へ向かうことを指示するキーを押す。エレベーターはものも言わず、のっそりと移動を始める。 時間が、奇妙なほどにゆっくりと経過している気がする。五階から一階へ、たった四階分の移動だというのに、俺にとってそれは、十数分にも及ぶ、長い待ち時間のように思えた。 朝倉は、俺の動揺など少しも気にするそぶりを見せず、ただ、柔らかな微笑を携えたまま、閉ざされた扉をじっと見つめていた。 やがて、エレベーターは一階へ到着し、重たい口を開く。朝倉は、おそらくとても奇妙な表情をしているであろう、俺のことをちらりと見た後に、何も口にすることなく、黙ってエレベーターのキーを押した。 七階。 長門の住む、七○八号室がある階層だ。 ゆっくり、ゆっくりと。エレベーターが上昇して行く。 「ねえ、まだ喋っちゃダメよ。……ごめんね、騙すような真似して。でも、これが一番手っ取り早かったから」 エレベーターが四階から五階へ移動している最中に、朝倉はそう呟き、俺の目の前に、見覚えのあるデザインの携帯電話を差し出した。朝倉のものではない。それは俺の記憶が確かならば、あの眼鏡の長門が所持していた携帯電話だ。 「私が盗んだわけじゃないの。ただ、今日。私はこの場所にいて、この電話を持っていたの。 それって、つまり、こうしろってことだと思うの。だから、許してね。 ……ほら、もうすぐよ」 意に介せぬ言葉を紡いだ後で、朝倉が、エレベーターの現在地を示す電光数字を見上げる。エレベーターはすでに六階を通り過ぎ…… やがて、俺たち二人の目の前で、7の値を示した。 ごうん。ようやく仕事を終えた。とばかりに、エレベーターが呻く。 「いらっしゃい、キョン君」 朝倉が微笑み、呟く。 エレベーターの扉が開くと同時に、俺の目の前は、光に似た眩い何かに包まれた。 つづく
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「懐かしい、夕焼け。私たち三人で」 朱色の逆光を背負いながら、朝倉は無邪気な子どものように笑いながら、室内を見回し、そう言った。 鼻を突く、薬品の匂い。埃っぽい布団の乾いた匂い。大きな白いカーテンからは、古い洗剤の匂いがする。 ……俺の背筋を、冷たい何かが一瞬過ぎる。 靴箱の手紙で呼び出され、向かった先で、朝倉が待っていた、あの日と良く似た風景。 エレベーターに乗っていたはずの俺たちは、今、夕焼けの差し込む、見知らぬ病室に、向かい合って立っていた。 ……ここは? 長い間詰まっていた喉に、ようやく気体が入り込む余地が出来た俺の喉から、ざらついた声が漏れ出す。 「ここはどこなのか。それは、私にも分からないわ。誰も説明してくれないんだもの。 だから、想像したの。ここはね。きっと、力を手にしたものの集う場所なのよ」 「力?」 「涼宮ハルヒの力。……もう、回りくどいから、神様の力って言っちゃおっか? 世界を作り変える力、よ。思い当たること、あるでしょう?」 朝倉の言葉が、俺のぼやけた脳の奥底から、あの灰色の文芸部室の光景を思い出させる。 そう。俺はさっきまで居た、あの世界を、十二月の十八日まで巻き戻した。 正確には、その日付までの、俺の記憶を元とした世界へと、作り変えたのだ。ヒューマノイドインターフェースの長門が用意し、朝倉涼子が作り変えた、緊急脱出用プログラムの力を使って。 「きっとね。これは、神様の力を盗み出した、罰なんじゃないかって思うの。私たちは、まだずっとずっといいほう。 ……彼女は、もっともっと思い罪を、今も償い続けてるわ。 会いたかったんでしょ? あわせてあげるわよ」 朝倉はそう言うと、傍らの閉ざされたカーテンに手を掛けた。 かしゃっ。という乾いた音と共に、俺たちと同じ夕焼けの色に染まった、白いベッドが現れる。 几帳面さを押し付けられたかのように清潔な、そのベッドの上に横たわっているのが、一体誰なのか、一瞬わからなくなる。ぶしつけな陽光によって茜色に塗りたくられた肌と髪が、俺の中に存在するその人物のイメージと重ならなかったのだ。 そこには、長門が居た。 肩までを清潔そうな布団に覆われ、首から上の僅かな部分だけを、炎のような光の中に晒している。 瞼を錠前のように閉じ、まったくの無表情のまま、まるで氷の彫刻のように眠る、長門有希がいた。 それはあまりにも静かな眠りで、呼吸すらもしていないかのようにも見えた。 しかし、良く観察すると、白い布団の胸の辺りが僅かに上下していることから、それが単なる印象であることが分かる。 「難しいことは、私には分からないわ。 でも、きっと、一番初めの過ちを犯したのは、彼女だって…きっと、神様は、そう判断したのね」 朝倉は微風の様に言った。 「ねえ、キョン君。貴方が一体何度、あの夕暮れの教室で、私と向かい合って 私にナイフを向けられたのか、その回数が分かる? ……たったの一度だけって、そう答えるんでしょうね。きっと。 でも、違うのよ。それは、幾度も繰り返されていることなの。 彼女の……長門さんの見ている夢の中で、幾度も幾度も、途方も無く繰り返されていること。 それが一体、何度繰り返されたかなんて、誰にもわからない。きっと、神様にさえ」 朝倉は、眠る長門を気遣うかのように、俺に聴こえる最低限の音量でそう囁きながら、長門の閉じた瞼を指でなぞり、左右に分かれた髪の毛に触れた。 「……私のもくろみはね、失敗に終わったの。 私は貴方に……長門さんが最も幸せになれる未来を選択してもらおうとした。 あの世界、長門さんが望んだ世界を、あなたにとって、耐えられるものではない、凄惨なものへと作り変えて。 ……私、貴方に頼ったのよ。自分の愚かさを棚に上げて、あなたに全部の責任を負わせようとした。 それが、私の罪。私の過ち」 「それが、ハルヒを殺した理由か」 「ごめんなさい。私、いまだにわからないのよ。こんなふうに、長門さんにくるってしまった今でも。 有機生命体の、死に対する概念が。 でも、きっと涼宮ハルヒなら……彼女の死でならば、貴方を動かせないはずがないって、そう思ったの。 だから、私は彼女を殺した。……それが正しいことだと思ったの。だって、私の元に、このナイフが届いたから」 いつの間に、どこから取り出したのか。朝倉の右手には、俺にとっても見覚えのある、おぞましい代物が握られていた。 あの日、俺を殺そうとした朝倉の手に握られていたものと良く似たナイフ。 「だから、私が貴方よりも先に、あのプログラムを見つけたことも。 みんなみんな、運命だと……長門さんが望んだことだと、本気で信じてた。 あなたはきっと、世界を元に戻す。私のいない、長門さんが冷たいままの世界を選択すると思った。 だから私は……貴方にそれをさせないために、長門さんと貴方の邪魔をし続けた。 ……あんなふうに、友達面をしながら、そんなことを考えてたのよ、私。 こういうのって、薄情ものって言うのよね。私、それは分かるわ」 薄情ものか。悪い、朝倉。それについては、俺も何も文句は言えん。 ……結果はどうあれ、俺もまた、お前を見捨てた、薄情ものなんだからな。 「おかしな人。 たった今、自分を騙し続けてたことを白状した相手に、見捨てる、見捨てないだなんて。 やっぱりあなたって、わからないわ。 ……続きを話すわね」 朝倉は短く咳をして、さて、どこから話したものかとでも言わんばかりに数秒視線を泳がせた後で、再び話し始めた。 「私のコピーした神様の力じゃあ、世界を本当に作りかえることなんて出来なかった。 あなたはね、世界を作りかえることは出来なかったの。 ただ、電脳の世界に、仮想次元を作り出しただけ」 電脳世界? 「そう。私は私なりに、神様の力を解析し、再生し、それをプログラム化したつもりだった。 だけど……無理だったのよ。ニセモノは所詮ニセモノ。それは本当にただのプログラムでしかなかった。 ……やっぱり、本当の力を再生できるのは、長門さんだけだったのね。 貴方は世界を作り変えたつもりで、たった一人、プログラムによって作られた電脳世界へと迷い込んでしまった。 ……世界は、続いていたのよ。貴方が緊急脱出用プログラムを実行して、十二月十八日へと還ったあとも。 そして、欠陥プログラムによって造られた電脳世界は、その場でフリーズしてしまった。 貴方の世界は、巻き戻した時間を使い果たし、その瞬間が訪れると同時に、バグを起こして、消え去ってしまう。 そんなうたかたみたいな世界に、貴方は旅立って行ってしまった。貴方の記憶の中に住む人々と共に。 そして……あの文芸部室に残された長門さんは、その事実に気づいてしまった。 彼女が自分に掛けた魔法のすべてが解けてしまったの。 自分が犯した罪……神の力へ妄りに干渉しての、身勝手な世界の改変。 それが彼女の過ち」 ……世界がバグを起こす瞬間。 それが、あの土曜日の、十二時四十六分だったってのか? 「その通り。 ……すべてを思い出した長門さんは、貴方を助け出そうとした。 彼女は私や貴方と違って、あのプログラムから、本当の神様の力を再生することが出来た。 彼女はその力を使って、もう一度世界を作り変えるという方法で、あなたを救いだそうとした。 貴方と涼宮ハルヒが出会った、一番初めから、もう一度。世界を作り直したの。 そして、自分……長門有希という存在が、二度とエラーを起こさないように。 自分の魂を、貴方の望むような、ヒューマノイドインターフェースの長門有希として、その世界へと宿したの。 その代わりに、彼女と言う存在の実体は、魂を失い、眠りに着くことになってしまった。 力を手にしたものの行き着く、世界の最果てで。 それが、ここ。……彼女は、長門さんの源のようなものよ」 朝倉は話を続けながら、長門の顔や髪の毛に触れ続けていた。 俺は朝倉の指先によって僅かにかたちを変える長門の顔を見つめながら、エラーを起こしたヒューマノイドインターフェースとしての記憶を取り戻した眼鏡の長門のことを思った。 笑い、脅え、悲しみ、怒る、あの眼鏡の長門。 それは、ヒューマノイドインターフェースの長門が、そうありたいと望んだ果てにたどり着いた姿だったはずだ。 しかし、長門は……自らの理想を捨ててまで……冷たいからくり人形のような長門有希で有り続けることを選んでまで、俺を救おうとした。 「そうして、世界は繰り返されたの。初めから、もう一度。 貴方が涼宮ハルヒと出会い、長門さんと出会い、私とも出会い…… ……でもね。やっぱり、エラーは起きてしまったのよ。 長門さんは同じように、感情に芽生え、更に大きなそれを求めて、禁忌を犯した。 彼女は貴方を残して世界を作り変え、私は彼女の為に過ちを犯した。 貴方は閉ざされた世界へ旅立ち、彼女はそれを救うために、すべてを巻き戻す…… エラーの輪廻よ。ぐるぐるぐるぐる回り続ける、同じシナリオを辿り続ける壊れたフィルムのような。 こんなに悲しいことって、ある? 長門さんはこの場所で、永遠に、同じ過ちの夢を見続けているのよ」 「……だが、なら何故……俺は今、ここにいる? その話の通りなら、俺は永遠に、長門の創る世界の住人でありつづけるはずじゃあないのか」 「エラーが起きたからよ」 朝倉は言った。 「終わらないエラーの歯車を狂わせたのは、新しいエラーだったの。 長門さんが……あなたが消えた後。あの賞味期限ぎれのフロッピーから、神様の力を再生する能力を、失ってしまった。 正確には……それを半分、持って行かれてしまったの。 あなたによ、キョン君。……あなたが、長い長い繰り返しの、最後の最後に。 本当に、長門さんと結ばれてしまったから。 長門さんの力は、貴方と二分されてしまった。 だから、貴方は今、ここにいるの。たったの半分だけだけれど、本当の神様の力に触れてしまったから」 俺が、長門と結ばれた。 ……その言葉に、身に覚えが無いわけではない。 俺が奇妙な出来事たちにまぎれて、忘れてしまえばいいと、ひそかに思っていたあの出来事。 ハルヒが死んだことを知らされた日の夜。 ……確かに、俺は。長門と結ばれたと言っても良いのかも知れない。 それによって、長門の持つ、神様の力……を、再生する力が、俺にも分け与えられてしまった。 「もっとあけすけに言って欲しかったかしら? ……あなたが最後に作り出した世界は、0と1だけで創られた電脳世界なんかじゃなかった。 多分、あなたにとっては、つい最近まで、当たり前に存在していた、その世界のことよ。 長門さんと力を分け合った貴方は、世界を作り変えることは出来なかった。けれど、世界を創ることはできた。 それはただ、今日の日の十二時四十六分より先の未来を持たないだけの、れっきとした平行世界だった。 そして、あなたに力を奪われた長門さんは、世界を作り変え、貴方を呼び戻すことが出来なくなってしまった。 彼女はついに、魂までもを、この世界の最果てへと迷い込ませてしまった。 そして、世界の終わりにたどり着いてしまった、哀れで未熟な創造主である、あなたを……私が、この場所に呼んだの」 ……長い長い螺旋のような朝倉の言葉が、俺の頭の中を縦横無尽に駆け巡った後に、脳髄に染み渡って行く。 「何故お前が、俺をここに呼ぶ必要があった?」 「あなたに、長門さんを目覚めさせないためよ」 朝倉は言った。 「長門さんは、待っているのよ。誰かがこの終わらない眠りに、終止符を打ってくれることを。 だけど……私が何をしても、彼女は目を覚ましてはくれないのよ。本当に、何をしてもよ。 長い、長い間、私はこの場所で、長門さんと二人きりで過ごしてきた。 でも、その間に、一度だって、彼女は目を覚まして、私の名前を呼んではくれなかった。 何故か分かる? 私には良く分かるわよ。 ……あなたがいるからよ」 朝倉のその言葉と同時に。俺は全身が粟立つ様な悪寒に襲われ、咄嗟にその場から飛びのいた。 その結果、俺の背中は、閉ざされた入り口の扉へと打ち付けられ、危うく喉から横隔膜が飛び出しそうになる。 しかし、その程度で済んだのだからまだマシなほうだろう。……この咄嗟の回避運動を行わなければ、俺の体は、朝倉の振り切ったナイフの刃によって切り裂かれていただろう。 「世界がどうなろうと、運命がどうだろうと。長門さんは、永遠に、貴方にとらわれたままなのよ。 私はただ、貴方と長門さんが、いつか、何の隔たりも無く結ばれる為の…そのためだけに踊らされ続ける、道化師なのよ。 今、この場所に、貴方がいる事だって、そう。 もしも、こうしてエラーの輪廻が途切れたとき、私は貴方をこの場所に導く、ただそれだけの為に…… たったそれっぽっちの事の為だけに、私は夢を見続ける長門さんのそばに居させ続けられたのよ」 穏やかで、歌うようだった朝倉の口調が、徐々に覇気を帯び、高潮してゆく。 あの時、夕暮れの教室で感じた殺気の比ではない。 朝倉涼子は、今、純粋な感情の元に、この俺を殺そうとしているのだ。 「長門さんは、あなたに世界の選択を委ねた…… 私は貴方にそれを知らせるためだけに、あの世界に作り出されたの。 私は、長門さんを、あなたから守るために呼び起こされたと……そう信じてたのに。 なのに、そうじゃなかった。私はただ、あなたと、長門さんを引き寄せるための道具でしかなかった。 長門さんにどれだけ感情に芽生えようと、彼女私のことを、バックアップとしてしか見てくれないのよ!」 ドアを背にしりもちをついた俺に向けて、逆手に持ったナイフが振り下ろされる。 朝倉の腕力と、俺の腕力とを比べた場合に、僅かに俺の腕力のほうが勝っていたらしい、それが救いだった。 俺が朝倉の両の手首を掴み、全身全力を込めて押しとめたために、ナイフの刃先は俺の眉間を突き刺す寸前で停止していた。 「貴方が居なければ……長門さんはもう、こんな終わりのない夢を見ずにすむのよ 貴方が……あなたさえ、いなければ……」 「……違う、朝倉。お前は―――」 お前は、あの小説を――長門の書いた物語を、読まなかったのか? 「読んだわよ。何度も、何度も……ここには、それ以外に何もないもの。 紋白蝶と、蓑虫と、蜜蜂の物語。 私は蓑虫の貴方を、魔法の場所に導く、ただそれだけのために―――」 「違う! 違うんだ、朝倉、長門は……」 俺があの、灰色の文芸部室で出会った、長門の姿をしたもの。 あの灰色の長門の言葉が本当なら……魔法のカギはふたつあった。 そして、そのうちの一つは――もう、お前の手に渡っているはずなんだよ。 「……私が、カギを?」 朝倉がそう呟いた瞬間、俺の両腕に掛かる朝倉の体重が、一瞬、僅かに弱まった。 その瞬間をつき、俺はアトラスの巨人か何かになったつもりで、思いきり状態を起し、俺の体に圧し掛かる華奢な肉体をはじき返した。 ううっ。と、短いうめき声が聞こえ、今度は反対に。朝倉がリノリウムの床にしりもちを着く体勢になる。 俺は勢いのままに両足を地面に付け、ナイフを握る朝倉の両手に抱きつき、全体重をかけ、床へと押さえつけた。 ダメージを与えるつもりはないが、こんな物騒なものを振り回す手を、自由になどさせてはおけない。 「そんな……だって、私が手に入れたものなんて、あの本とプログラム以外に……」 「……あるじゃねえか、ここに」 不細工な腕ひしぎのような体勢のまま、俺は朝倉の手首を握る手をひときわ強く握り締め、その手の中の獲物を奪い取る。 「あっ……!」 朝倉は、一瞬、しまった。と、単純に獲物を奪われたことに困惑する表情を見せた。 しかし、その直後から。油のしみこんだ布が端から燃えて行くように、その表情が青ざめて行く。 腕の中で、朝倉の体から、見る見るうちに力が抜けて行くのが分かる。 俺は朝倉への拘束を解くと、今、まさに朝倉の手から落ちた、物騒な刃物を拾い上げた。 ……俺の脳裏に、あの灰色の長門有希の言葉が蘇る。 ―長門有希は、一人分の修正プログラムを用意することしか出来なかった 故に、あなたが世界を修正する場合には、この『緊急脱出プログラム』によって あなたに一度時空間移動を行わせ、過去の長門有希が構築したプログラムを 入手させる手筈だった。 ―……この時空の長門有希によって構築された修正プログラムは 十二月十八日の午後に、彼女の手に渡されていた。 彼女がそれを受け取った時に、全てを理解できるような形状で。 そして、彼女が時空間移動をするための手段も確保されていた 「……嘘、でしょう?」 嘘じゃねえよ。 朝倉。俺はあの一件で、自分がとんでもない大馬鹿者だったってことを痛感したもんだったよ。 だけど……お前も、似たようなものかもしれないぜ。 「俺よりもずっと容易い場所に……お前の為のカギは用意されていたんだよ。 ……いわば、俺は予備みたいなもんだ。 あいつも、お前と同じ……ハルヒが絡めば、俺はきっと黙ってないと、そう思ったんだろうよ。 ……本当なら」 長門が望んだ、一番の選択者は……お前だったかもしれないんだよ、朝倉。 お前は俺なんかより、ずっと、ずっと、長門の近くにいたじゃないか。 「うそ……だって、このナイフは……私が、あなたを……」 「あれはお前じゃない……お前の意思を、情報統合なんとやらが操作してたんだろう」 「……そんなわけ、ないわよ。私が、長門さんに……あの長門さんが、私を選んでくれてたなんて」 「だったら!」 だったら、どうしてお前がここにいる? 神様の力とやらに直接触れちまったものが行き着く、この場所に。 出来損ないのプログラムしか作れなかったはずのお前が 「……え……?」 「もしも、の話だがな。朝倉」 俺と長門が……その、なんだ。心を通じ合わせたことで、その力が分け与えられていたってんなら。 お前は……お前はこんな滅茶苦茶な堂々巡りが始まっちまう、とっくの昔から、長門と通じ合ってたんじゃないのかよ。 あの世界でのお前には、ヒューマノイドインターフェースとしての力なんか無かったんだろ? だってのに、お前はその、神様の力とやらを、あのフロッピーから呼び起こせてたんじゃねえか。 「じゃあ、じゃあ、長門さんは……長門さんが、私をあの世界に構築したのは」 「俺が知るかよ、そんなこと! お前が……お前のことが、好きだったからとかじゃねえのか!?」 俺のその自暴自棄の怒号を最後に、病室には、氷水のような静寂が訪れた。 朝倉は、冷たい床に力なくへたり込み、荒く呼吸をつきながら、鏡を覗き込む魔女か何かのように、自分の両手を見つめている。 俺は一連の格闘で上がった呼吸を整えながら……すこし考えた後に、手の中のナイフを朝倉のすぐ傍へと置いてやった。 朝倉は、力なく光る刃をしばらく見つめた後、震える手で恐る恐る、その柄を手に取る。 「私……私の、カギ……これで、私、何をしたら……何をするために、ここにいたの?」 「……さっき、自分で言ってたじゃねえか」 長門は、この永い眠りの終わりを望んでいるのだ……と。 今、朝倉の手に握られているのは、正真正銘。長門が用意した、世界を再生させる為の修正プログラムだ。 灰色長門の言葉の通りなら、そいつは俺か朝倉のどちらかが、時間移動をし、長門が世界を改変した瞬間に起動しなければならないものだったはずだ。 しかし、時空転移どころか、どこの世界がどこに行っちまったのかの見当もつかない現状じゃ、処方通りに起動することはできない。 だが……俺たちに出来る選択は、一つだけ。何もしないか、何かをするかの選択のみだ。 駄目元で、やってみるしかねえじゃねえか。 「だけど……私、これを使ったら……世界は、修正されてしまうの? それじゃあ……私は、また、消えてしまう……そうなの?」 ……そういうことになるな。 だけどな、朝倉。悪いが、俺にはどうしてやる事も出来ねえよ。 世界を修正しないって選択肢をぶっ潰しちまったのは……お前なんだからよ。 お前の『過ち』は、俺を選択から遠ざけたことなんかじゃなかったんだ。 それがお前の選択だったんだよ。 それだってのに、お前は……なんでこんなバカなことしちまったんだよ? 「長門さんは……だって、長門さんは、貴方が好きだったじゃない! あなただって、長門さんのことが好きだった……違うの?」 「ああ、そうさ。俺は長門のことが好きだったよ。 メガネがあろうと無かろうと、笑おうと、無表情だろうと、泣こうと、冷たかろうと、暖かかろうと 俺は長門有希が好きだったよ! だけど、俺がいつ、お前のことが嫌いなんて言ったんだよ! 長門がいつ、お前のことが嫌いで、邪魔だなんて言ったんだよ!」 腹からあふれ出す声と共に、体中の力が抜けていくようだった。 俺は薬品棚のロッカーに背を預け、そのままずるずるとブレザーの背中を滑らせ、冷たい床の上に尻餅をついた。 肩の辺りがひりひりと傷む。どうやらさっき、朝倉に噛み付かれていたらしい。 ◆ 「私……消えたく、ないよ……怖いよ 長門さんと、離れたく……ないよ…………」 「じゃあ、このままずっと、こうしてるか?」 「……でも、それじゃ長門さんは、ずっと」 「眠ったままなんじゃ、ないか?」 ……頼むからもう、俺に何も訊かないでくれ。 「だって……私、私…………」 助けてやれるなら、俺だって、助けてやりたいさ。 だけど……もう、頼むから、今は。 俺に何も訊かないでくれ…… ◆ 延々と耳に障り続ける水音が、ゆるい粘土のようなまどろみの中から、ゆっくりと俺の意識を引き上げて行く。 どうせならば、目を開けたその場所が、見慣れた自室のベッドの上であってくれたならば良かったのだが。 どれくらいの間眠っていたのだろう。病室の中は、色濃い闇に包まれている。夜がやってきたのだろうか。 薬臭い空気は、何しろ冷え切っている。制服に身を包んでいるのみの俺の体は、すっかり冷え切ってしまい、立ち上がろうとしても、はじめはうまく体が動かせないほどだった。 長い時間をかけて、氷のような床から体を持ち上げる。 ベッドの上では、はじめに見たときとなんら変わりない様子で、長門有希が寝息を立てている。 その僅かな呼吸音を掻き消さんばかりに耳に障る音。それに導かれるように窓の外を見て、俺は初めて、夜の闇を、無数の雨粒が曇らせていることに気がついた。それも、ハンパな雨ではない。所謂、土砂降りと言うヤツだ。 けたたましい雨音を背負い、俺は長門のベッドの傍らに有った丸椅子に腰を掛け、灯りのつけられていない室内を見回す。狭い室内に、朝倉の姿はない。となると、俺の目の前。この閉ざされたもう一つのカーテンの向こうにいるのだろうか? 「……朝倉?」 小声でその名前を呟いてみるも、返事はない。眠っているのだろうか。 しかし。そう安易に考えた直後。病室の唯一の出入り口である引き戸が、僅かに開かれていることに気づく。 朝倉が、どこかへ出て行った? 一体、どこへ? そもそも、その扉の向こうには、一体何があるのだろうか? 「……」 眠り続ける長門の顔をしばらく見つめた後。俺は冷たくなった体に鞭を打ち、僅かに開かれたその扉へ向かった。 近づくと、古い引き戸には、俺の朝倉の格闘の痕跡と思われる、僅かな凹みが生じている。 ……当たり前のことだが、すべては夢などではないのだ。 もっとも、こんなところに置き去りにされたまま、すべては夢でした。などといわれても、困るのだが。 引き戸の向こうには、あえて述べるべき特徴も見当たらない、平凡な病院の廊下が広がっていた。 病室から一歩外に出れば、そこは病院内。考えてみれば、当たり前のことだった。 歩き回るには少しばかり暗すぎたが、どこを探れば電灯のスイッチが有るのかもわからない。仕方なく、俺は暗闇に視界が慣れるのを待ち、手探りで壁を伝いながら、人気のない廊下を歩み進めた。 人気のない深夜の病院、しかも外は雨となれば、考えてみれば末恐ろしいシチュエーションだったが不思議なことに、俺はその空間に恐怖を感じることは無かった。さすがにここまで非現実的な状況下にあると、物事の価値観などは容易く変わってしまうものだ。コンクリートの外壁を隔てた外界で、轟々と降り続ける雨音が、建物内に不気味にしみこんで来る。 外界。 そういえば、この病院の外にも、世界が広がっているようだった。そこには一体、何が有るのだろう。俺は窓の外にどんな光景が広がっていたか思い出そうとしてみたが、夕焼けの色と、雨に曇る夜の闇ばかりが思い出されて、その向こうに何が存在したかを思い浮かべることはできなかった。 フロアには、長門が眠りに着いている病室のほかにも、いくつかの病室が存在したが、それらにはすべてドアロックが掛かっており、同様に、スタッフルームらしき部屋にもロックが掛かっていた。 病室の廊下を抜けた先には、小さな待合室のような空間があり、そこからもう一方、どこかへ繋がる道があるようだったが、そこは鈍色のシャッターによって遮られており、先に進むことは出来なかった。エレベーターらしきものは無く、あるのは階段のみ。そのうち、下りの階段もまた、先ほどと同じシャッターによって閉ざされていた。 となれば、進む道はただ一つ。上りの階段である。 ここまでに、朝倉の姿は見つけられていない。朝倉は、この階段を上った先にいるのだろうか。 徐々に目覚めてきた体で、緑色の塗装の成された階段を上って行く。ローファーの靴底が、クツクツと濡れたような音を立てた。 階段を上りきると、底には左右に避けられた格子扉が門を構えており、その向こうには、片開きの鉄の扉が張り付いていた。先ほどと比べて、建物内に響き渡る雨音が大きくなっている。どうやらそれは、屋上へと続く扉のようだった。 踊り場で軽く周囲を見渡し、朝倉の姿を探す。どこかの物陰にうずくまってでもいないかと、念入りに探してみるが、見つからない。あとは、この鉄の扉を開けた、その向こうしかない。おそらく、土砂降りの雨に晒されているであろう、この見知らぬ建物の屋上。 朝倉は、そこで、何をしていると言うのだろうか? ◆ 扉は俺が予想していた以上に重く、冷たかった。 ドアノブに両手をかけ、右肩を押し付けながら、そのサビの匂いのする扉を開ける。 案の定、壁との間に僅かな隙間が生じた途端に、俺の体に、噴水のように水飛沫が襲い掛かってきた。冷たい水の球体が、俺の髪を濡らし、肌を冷やし、制服へ沁みこんで行く。全身がぶるりと奮え、一瞬心が怖気づきそうになる。しかし、なけなしの気合を込めて、俺はその扉を開け放った。ドウドウと音を立てて、コンクリートの地面の上に、大量の水滴が降り注ぎ、それが地表に触れると同時に水飛沫となり、霧の様に雨粒の間を埋め尽くしていた。 空は濃い灰色。もちろん、月の光などが届くはずも無く、世界は徹底的に陰鬱な闇にくるまれている。いつぞやの孤島での嵐を髣髴とさせる。そして、その時と同じ連想が、俺の脳裏をよぎる。そこには、閉鎖空間に良く似た世界が広がっていた。 靴などはすぐさま水で溢れ帰り、あっという間に、頭の先からつま先までがずぶ濡れになる。まるで嵐に立ち向かうかのように、俺はドアの向こうへと体を放り投げた。体に直接響き渡る轟音に混じって、背後で鉄の扉が閉まる音がする。そのあまりの雨量に、俺はすぐさま、その場にへたり込んでしまいそうになる。しかし、その弱気を寸でのところで押さえ込み、俺は両手で前髪をかき上げ、周囲を見渡した。 朝倉。 朝倉涼子は、どこにいる? 残された場所は、ここしかないじゃないか。 果てしなく続く灰色の空の下に、縦横無尽に視線を投げかける。 やがて、俺の視線は。鉄の扉をあけた、すぐ左側で留まった。 そこに、朝倉涼子の姿を見つけたのだ。 彼女は雨のカーテンの向こうで、まるでダンスでもするかのように、ふわふわと、ふわふわと、長い髪と、藍色のスカートを翻しながら、回り、揺れ動いていた。 「朝倉?」 僅かな声では、雨音に掻き消されてしまう。俺は喉奥からひねり出すようにして、その名前を呼んだ。 俺の声が、彼女の元に届いたのかどうかはわからない。しかし、少なくとも俺がその名前を呼ぶと同時に。朝倉の揺れ動いていた体が、ぴたりと止まった。朝倉は、俺に背を向ける形で立ち止まり、やがて、ゆっくりと俺を振り返った。 彼女の長い髪が、ふわりと風に舞い、空中に綺麗な曲線を描く。 水飛沫に霞む、振り向いた朝倉涼子の顔。 朝倉は、一瞬、俺の顔を見つめた後に、糸が解けるような小さな笑みを浮かべ、何かを呟いた。 しかし、それはあまりにも小声であり、俺の耳に、彼女の声は届かない。 「朝倉!」 もう一度、俺はその名前を呼ぶ。 しかし、俺が一瞬、濡れた前髪に視界を遮られた、その僅かな瞬間の間に。 朝倉涼子の姿は、忽然と消えてしまっていた。 朝倉? 喉の奥が僅かに揺れる程度の音量で、俺はその名前を呼ぶ。 たった今まで、彼女がいたはずの場所まで、歩みを進めようとする。 しかし。俺の歩みは、彼女が居たはずの場所には遠く及ばない場所で留まってしまう。ビニルコーティングされた鉄線のフェンスが、俺の体を押し戻したからだ。 フェンスの奇妙な弾力が、俺の体をふわふわと揺るがせる。俺はその網目に両手をかけ――冷えた両手には、もはやまともな神経が及んではいなかった――頭上を見上げた。 俺の身長よりも、頭一つくらいの高さのフェンス。上部に有刺鉄線などは見当たらない。 続いて、俺は足元に視線を落とした。フェンスと地面との僅かな隙間に引っかかるようにして、つなげられた楕円形の何かがふたつ、引っかかっている。水溜りと為った床の上に膝をつき、それを手に取る。 暗闇のため、色ははっきりとはわからない。しかし、そのフェイクレザーの手触りには覚えがある。 それは、俺がたった今履いているものと同じ――それよりも、二周りほどサイズの小さな――ローファーだった。 片方を拾い上げると、もう一方が縋りつくようにして持ち上がる。 二つのローファーの側面を一度に貫き、繋ぎとめている、数十センチほどの刃物。 朝倉。 それは、朝倉涼子のカギだ。 つい先刻、俺の胸と、眉間に襲い掛かろうとしていた、あのナイフだ。 朝倉、そうじゃねえだろ。 手の中から落ちた一塊が、水浸しのコンクリートの上に落ち、びしゃりと音を立てる。 雨に濡れ、重たくなった全身を、目の前の鉄の網目へと叩き付ける。 俺の脳の一番奥で、この空間の冷たさを覆すような熱の塊が膨れ上がって行く。 それはやがて、俺の顔面中を張り詰めるほどに膨れ上がり…… やがて、爆発した。 「朝倉あああ!!!」 ◆ ◆ ◆ ……どれほどの時間、そうしていただろうか。 雨に浸かることも構わず、体が冷えることも構わず、俺は腕の中に、朝倉涼子の穴の開いたローファーを、まるで雨から守るかのように抱きかかえ、温度のないコンクリートの上にうずくまっていた。 数分間であったようにも、数時間であったかのようにも思える。 しかし何にしろ、その時間が経過した後で、俺が顔を上げたときにも、豪雨はまだ続き、夜の闇が晴れる気配は無かった。 俺はフェンスの足元に朝倉のローファーを捨て、濡れ光るナイフを拾い上げた。 それからは、まるで、自分のからだが、何かに乗っ取られてしまったかのように思えた。 俺は揺れ動く全身を幾度も壁に打ち据えながら、院内へと戻り、階段を這うように下りた。 ナメクジのように、床に水の道を描きながら、先ほど歩いてきた道を逆さに辿る。 開いたままになっていたドアから、病室へと戻る。 先ほどと何も変わらない光景。窓の外の雨と、グレーに染まるベッドの中で、眠り続ける長門。 俺は体にまとわりついてくる、水を吸って重たくなったジャケットを取り払い、丁度俺が座り込んで眠っていた、薬品棚の足元辺りに放り投げた。 一気に身軽になると、心なしか、気分がいくらか落ち着いたような気がした。 「長門」 俺の喉から、うわごとのように、その名前が零れだす。 「長門、長門、長門……」 酩酊したかのように揺れ動く体で、俺は長門のベッドまでたどり着き、その上によじ登る。濡れた服から、淀んだ水分が、清潔そうな布団へと移り、染み渡る。 俺は長門の上に四つんばいになるようにして、布団越しに覆いかぶさり、荒く息をついた。 冷気と混乱で鈍った全身の神経が、布団の向こうに確かに存在している、華奢な肉体の感触を、僅かに感じる。 雨音がいっそう激しくなっている。一体この量の液体が、この世界のどこに収納されていたというのだろう。 「長門」 目の前に、長門の顔が有る。はじめに見たときと何ら代わりはない、安らかな寝顔。 俺の前髪から滴った雨水が、きめの細かい肌の上に落ち、球体となり、頬を滑り落ちて行く。 まるで涙のように。 「ああああ!!」 全身に残された、あらゆる力、気合、魂、気力、もう、何だってかまわない。 俺の中に存在する、何かしらのエネルギーのすべてを総動員して、その一瞬の動作を行った。 長門の体に跨り、右手に持ったナイフを――たった今まで、それを持っていることすら忘れていた――逆手に握り込み、長門の顔から、いくらか下。白い布団に包まれたその部分に向けて。 俺は、何もかもを叩き込んだ。 ◆ 喉がいくら痛もうと、叫ぶことをやめなかった。 不思議なことに、その動作を繰り返している間。俺の体は、それまでどこに隠れていたのかと言うほどの、莫大なエネルギーに満ち溢れていた。 長門の表情は、少しも変わらない。ただ、俺が右手の刃をつきたてる度に、ベッドが軋みを上げ、それにあわせて、グレーの髪がはらはらと揺れ動いているだけだった。 ……なあ、長門。やっぱり俺、わからねえよ。 本当にコレが正しいことなのか? 朝倉に、こんなことを求めてたのか? 違うか。 間違ってるのは、俺のほうか。 それとも、本当にコレが正しいことなのか? 何が間違ってて、何が正しいのか もう、わからねえよ。 ずたずたになった布団から、まるで潰れた紙細工のようになってしまった、長門の体を引きずり出し 俺はその胸の部分に顔を埋めた。 長門の血液と、俺の涙と、雨水と、あらゆる液体がでたらめに混ざり合って、ベッドの上を汚し尽くしている。 俺の涙が枯れ果ててしまうことは無かった。 まるで冷たい雨のように、俺は泣き続けた。 何が悲しくて泣いているのかさえ、俺には分からなかった。 ◆ 雨の音と、俺のうめき声とに混ざり 窓の外で、巨大な落雷のような音が聞こえた。 その音に反応し、俺は長門の胸から顔を上げ、窓の外に視線を向ける。 窓ガラスと、雨のカーテンを隔てた向こうで。 いつしか見たのととてもよく似た 無数の光の巨人たちが立ち上がる光景が見えた。 ◆