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目次 1.永遠の神理 第一の桂 ― 神の実在 2.永遠の神理 第二の柱 ― 愛 3.永遠の神理 第三の柱 ― 悔い改め 4.永遠の神理 第四の柱 ― 霊的転生輪廻の真相 5.永遠の神理 第五の柱 ― 光の天使の存在 1.永遠の神理 第一の桂 ― 神の実在 ミカエルです。こうして私の3部作も、最終章にたどりつくことができましたことを心よりうれしく思います。また私をして、このような場で語らせてくださった関係者のみなさんに、とても感謝の気持ちでいっぱいです。 さて私はこの最終章において、永遠の神理の話をしてみたいと思います。 今までさまざまなことを述べて伝えてまいりましたが、今回の正法神理の運動として、後世に述べ伝えねばならないことはいったい何であるのか、その永遠の神理とはいったい何であるのか、これを私なりに解釈し、また整理して、これだけはどうしても残したい神理であるということを明らかにしておきたいと思うのです。 私は、この永遠の神理の柱を五本考えてまいりました。 第一の柱は、「神の実在」ということです。宗教だ、哲学だ、思想だといろいろなことを言っても、究極において神の実在を信ずるかどうか。ここが議論の分かれ目となりますが、神の実在なくしての宗教もない。神の実在なくしての人間も、また大宇宙の万生万物も高級諸霊もない。これだけを言っておきたいのです。 人間よ、不遜(ふそん)になってはいけない。謙虚さを忘れ去ってはいけない。神ありてこその世界であり、神ありてこそのあなた方であるということを決して忘れてはならない。 すべての始まりに神があり、すべての終わりに神がある。この世界が始まる前にも神はおられ、この世界の終わりの後にも神はあられる。この間に人は生まれ、死に、また生まれ、死に、さまざまな記憶を持って、さまざまな歴史をたどってきたわけですが、しかしその間、神は瞬(まばた)きの間ほどにも感じておられないかもしれないのです。 この神の実在ということは、神理の中の神理、不変の神理の中の中心であり、どんなことがあっても決してねじ曲げることはできない、そうした大きな柱であるのです。 したがってこれより後、どのような指導者が出、どのような宗教家が出、どのような思想家が出たとしても、神の実在を否定するのであればまったく問題外であり、論外であるということを私は明らかにしておきたいと思うのです。 2.永遠の神理 第二の柱 ― 愛 永遠の神理の第二の柱、それはやはり「愛」です。愛ということは、片時も忘れてはならない。愛とは何かと言うと、神の創られた世界を善きものと見、人間の本質を善きものと見て、それを限りなく押し包み、優しく見つめ、ともに手をたずさえて向上していこうとすることなのです。 第7章では、私は厳しいことを縷々(るる)述べました。しかしこれは、今、真実が見えなくなっている人に気づきという名の愛を与えるためなのです。めざめていない人たちをめざめさせてあげるということも大きな愛です。 愛にもいろいろな愛がありますが、真実にめざめ、神理にめざめ、神の心にめざめるという、そうした手助けをする愛こそ、いちばん値打ちのある愛であると私は思うのです。 ほんとうのことを教えてあげること、ほんとうの神理を教えてあげること、神がどこにおられるのかを、神の御心がどこにあるかを教えてあげること。― これが私は真実の愛であると思うし、ほんとうにたいせつな愛であると思うのです。 したがって本書の読者のみなさまにも私から申し伝えておきたいことは、愛の愛たるもの、愛の最たるものは、この神理の伝道にあるということなのです。神理を述べ伝えるということなのです。 なぜ過去において伝道者たちが殉教しても偉しとして、りっぱな方として讃えられたか。それは最高の愛のために生きた方がたであるからです。みずからの身命を賭(と)してでも神理を伝えるということのために生きた、そこに最高の愛の姿があったからです。 私は多くの人たちに言っておきたい。黙っていて、座していて、この真実の愛は広がらない。神理は広がらない。 時節到来したと思うならば、この法を述べ伝えなさい。この法を多くの者のもとに届けなさい。多くの者に知ってもらいなさい。それがだいじであると私は思うのです。 真実の愛とは、真実の法を教えること。神の心を教えること。今私は天上界より、はるかなる時空間を超えて、この二十世紀の最後にあたる法の時代に、この日本の地においてミカエルの言葉を語っておりますが、このように明瞭な形で私がわが思いを地上に託し、伝えるということは、かつてなかったことなのです。かつてそのようなことはなかったのです。 今そうした時期に再会しているということを、あなた方はその意味を知ってほしい。ミカエルがその名を語リて、みずからの使命を明らかにし、みずからの信念を明らかにし、みずからの思想を明らかにする時、それは救世主降臨の時です。その時を外して、私がこのような形で明瞭に語るということはないということを知っておいていただきたいのです。 わが語る時、ここに救世の時代が始まるということを知っていただきたいと思います。 3.永遠の神理 第三の柱 ― 悔い改め 私の考える永遠の神理の三本目の柱、それはやはり「悔い改め」ということだと思います。もちろん「反省」という言葉で呼んでもよろしい。地上にある人間は、ともすれば行きすぎ、ともすれば思いすぎ、ともすればやりすぎ、ともすれば語りすぎる。そしてさまざまなな過ちを起こしがちであります。 しかし過ちを起こすということは、人間にはありがちなことではありましょう。そのありがちなことをありがちなこととして、そのまま放置しておいてはならないのです。このありがちなことを、またありがちな方法で修正していくことこそだいじなのです。 そのありがちな方法とは何であるか、それが悔い改めということなのです。反省ということなのです。みずからまちがったと思うならば素直に反省することです。我を張らないことです。 大いなる神の御手のなかにある自分というものを知った時に、人間は謙虚にならざるをえないのです。謙虚となってみずからの心を裸になって見つめる。飾りもなくてらいもなく、おごりもなく、みずからの心を見つめるということがだいじなのです。私はそう思います。 そうでなければなにゆえの人生、なにゆえに各人にその人生の川を下る舟の櫂(かい)が与えられましょうか。各人に、人生の川を下る舟の櫂が、オールが与えられているということは、みずからが進路をまちがったと思えば、その進路を変えて行きなさいということなのです。これを悔い改めと称します。 その悔い改めの効果は何であるか、そう考えてみると、ここにひとつの赦(ゆる)しがあることは事実です。人間は罪を犯しがちの者であるが、悔い改めることで赦しを得、神の光を受けることができるのです。 これだけの大きな愛が、慈悲があるというのに、なぜそれに気づかないのか。霊的に見れば、神の赦しは飢えた者に与うるひと切れのパンです。ひとグラスの葡萄酒でもあります。喉(のど)が乾いた者には一杯の水でもありましょう。 霊的には私たちはまちがいを犯した時に、良心が苦しんで苦しんでどうしようもないのです。その苦しみから救うもの、それは赦しなのです。赦しという名の神の愛の光なのです。そしてそれが与えられるための儀式があるのです。それが悔い改めというのです。 私たちが語っている神理に照らして、みずからの思いと生き方がまちがっていると思うならば、これをふり返り反省してみることです。そしてもう一度やり直すことです。 高級霊の言葉であっても個性に差があるということは、あなた方もごぞんじでしょう。多くの人たちはすでに数多くの霊示集によって、その事実を知っているでしょう。 たしかに私たちの考えにも個性はあります。たとえば私ミカエルの考えと仏陀の考えでは、かなり多くの違いがあるでしょう。仏陀は和をもって尊しとし、中道に入ることをもってよしとしておられます。しかし私はある程度、正邪というものを明らかにしようとする傾向があります。それは私の語った言葉を読めば明らかにわかりましょう。 どちらのほうが神埋かと言われたら、それは一概には言えない面があるでしょう。医者に外科と内科があるように、神埋を述べ伝え、教えることにも外科と内科があります。 悪しきものを取り去って、そして手術を完了させる者もあれば、あくまでも形は損なわずに人間を治そうとする動きもあるでしょう。どちらがよいかは一概には言えない。方法論の違いはありますが、どちらもまた神の心にかなうことであるということを知っていただきたいと思います。 神の心のなかには、すべてのものを調和させたいという思いと、真実は真実として明らかにしたいという思い、こうした複合的な思いがあるのです。 私は真実を明らかにするという使命を担い、やっております。それゆえに私はみなさんに言っておきたいのです。神埋に反した行為は、思いは、かならずそれなりの反作用を受けることになります。それは他によって負わされるのではなく、みずからが自らを苦しめるための罠(わな)を作っているのと同じことなのです。やがてみずから作った罠にみずからがかかっていくのです。みずからが掘った穴にみずからが落ちてゆく、それが神を呪(のろ)う行為であり、神理に反する行為でもあります。どうかそのことを忘れないでいただきたいと思います。 4.永遠の神理 第四の柱 ― 霊的転生輪廻の真相 さて永遠の神理として残すべき第四の柱を、私はこれを「霊的転生輪廻の真相」ということにしたいと思います。 私たちが地上に肉体を持つことがありますが、それはほんの束(つか)の間です。ほんのわずかなことです。そして大部分、人間の魂は霊界、実在界にあって、そちらがほんとうの生活となっています。そしてときおり生まれ変わり、時代を変え場所を変えて生まれ変わり、新たな魂修行をしているのです。 この事実は目に見えぬ世界の事実であるがために、多くの人たちは気づかないままに過ぎていきます。信じることができないままに過ぎていきます。しかしこれが真実であるのです。 私はこの意味において、幸福の科学の教えを見ていても、まだまだ霊的世界の実証という意味で不足な面が数多いと思います。霊的世界があるということを、これを実証し、見せ、教えるということ自体も、ひとつの大きな愛であるということを知らねばなりません。 もちろん方便として霊的なことを避けて、他の方面から人びとを善導することもだいじでしよう。そうした方便の力も大きいでしょう。しかしながら、まず、霊的世界があるのだということを教えること、知らしめること、これもまた最大の愛であるということを知らねばなりません。その最大の愛によって、多くの人の人生観が変わってゆくからです。 どうしてもどうしても地上の人びとの疑いは濃く、また彼らの猜疑心(さいぎしん)には限りがないために、霊的なるものを避けて、説法のみで、あるいは法理論のみで人びとを導こうという気持ちが起きてくることがあるでしょう。 このミカエルの降臨のごとき霊示集を避けて、説法だけで人びとを導こうという気持ちになることもあるでしょう。しかしながら、私はあえて言っておきます。霊言集、あるいは霊示集、こうしたものを出し続けるということが、これが最大の愛であるということを。神理に気づいていない多くの人たちをめざめさせるということが、最大の愛なのです。 すでに神理にめざめている人がさらに法理論を学び、みずからの悟りを上げていくこともだいじなことだとは思いますが、現在、いちばん応急手当て、救急の手当てを、緊急の手当てを必要としている者たちは、目の鱗(うろこ)が落ちていない唯物論者たち、霊的世界を知らない人たち、霊的転生輪廻の世界を知らない人たちなのです。これら多くの、いちばんその真実を必要としている人たちをめざめさせることこそ、やはり最大の愛であると私は思うのです。 実際に地獄というところに行って、私は数多くの者たちを指導していますが、彼らが自分たちが霊であって、地上というものは魂修行のために出ていたのだという事実さえ知っていてくれれば、いったいどれほどやりやすいか、どれほど助かるか、そう思うのが毎日毎日なのです。 彼らはみずからの本質を知らないのです。自分たちが霊であったということを知らないのです。地上にいた時にみずからの本質が霊であって、地上に生まれ変わって来ているということを知っていた魂は、来世においても立ち直リがひじょうに早いのです。悟りが早いのです。気づきが早いのですが、そのことを知らず「肉体即我」と思って生きてきた人は、なかなかにめざめさせることができないのです。いくら語っても、その頑迷な思想を打ち破ることができないのです。 したがって私は、法にとって何がだいじであるかと言っても、霊的世界の実証は、これは最大の愛であるということを言わなければならないと思います。これに成功するだけでもたいしたことである、そう思います。 この意味において私たちの霊言、霊示集は、これは限界があってはいけない、終わりがあってはいけない、限りがあってはいけない。数限りなく、証明のために出し続ける必要があるのです。 私も九月、十月、十一月と、各月一冊ずつ、この『大天使ミカエルの降臨』という本を収録して、そして次つぎと出してまいりました。しかし、これもまだ証明の一部分でしかないと思います。大霊界においては数限りない高級霊たちがひかえています。そうした多くの霊人たちが控えています。その個性の違いを通して、やはり霊的世界の存在を教えるということかだいじであると思います。 私のこの『大天使ミカエルの降臨』という本にしても、他の霊言、霊示集や、理論書とは、おそらく趣(おもむき)を異にしているでしょう。読者の多くは、高級霊のなかにこれだけ戦闘的な霊がいるということに驚きを持たれたかもしれません。しかしそうした役割の方もいるのです。 それはあなた方の地上においてもそうでしょう。学者の生活をしている人もあれば、僧侶をしている人もある。商店主をしている人もあれば、しかしまた警察官であったり、軍隊にいるような人もいるでしょう。いろいろな立場の人がいて国が成り立っているでしょう。 私の仕事はかなり厳しい仕事です。そうした霊的世界の警察官の役割かもしれません。この意味において、寛容を旨とし、法を学ぶことを中心としている人にとっては、違和感があることは否めないと思っています。 しかしながら、考えてみるならば私もまた、いちばんたいせつなことをやっているわけでもあります。たとえば日本という国は治安がよい、世界一治安がよいということになっています。その結果、多くの人たちがどれだけの利益を享受しているかおわかりでしょうか。東京という都市はひじょうに治安のよい都市です。外国人であっても女性であっても、安心して夜道が歩ける都市です。それだけ治安がよいからです。 これはこの効果を考えない人は多いでしょうが、もう各人が武装して自宅へ急がねばならないということになったら大変なことになってしまいます。そうならないのは治安組織がよくできているからです。 私もまた霊的世界の治安に、これ努めているわけです。そうした職業は好まれないこともあるでしょう。かならすしも花形ではないかもしれません。しかしそうした役割をしている霊がいるということを、地上のみなさんにも知っていただきたいのです。 こうしてみずからの身を危険にさらしてでも真実の世界を広げ、そして神理の人たちを護るために日夜働いている霊がいるということを、どうか知っていただきたいと思います。そうした事実を知ったならば、どうかほんとうにそうした転生輪廻があるということを、霊界の世界があるということを、勇気を持って宣言し、説明してほしいと思うのです。 私たちのこの努力を、この汗を無駄にしないためにも、真実のことを真実として述べ伝えてほしいのです。地上の常識が違っているならば、この常識を塗り替えるために、どうか活躍し、活動していただきたいのです。それを私は切に願っています。 これがいちばんだいじなことです。霊的転生輪廻、そして人間が霊的存在であるということ、地上は一時の宿りであって、魂の学習の場であるということ、これを知っていただきたいし、できれば早く、こうした事実を学校でも教えていただきたい。家庭のなかでも教えていただきたい。 これは願いですし、また人間の義務です。人間としての義務です。自分自身のほんとうの姿を知らないということは、地上での学習の効果がなかったということに等しいのです。そうではないでしょうか。私はそう思います。 どうかみなさんも、こうした私の霊言、霊示集も完全なものではないし、完全な法でもないと思いますが、このような個性の強い霊人が天土界にいて、そして人びとを護っているということを知ったならば、これを多くの人に伝えていただきたいと思うのです。 5.永遠の神理 第五の柱 ― 光の天使の存在 永遠の神理の五番目の柱として私がだいじだと思うこと、それはやはり、光の天使という存在が現にあるのだということだと思います。 一番目に神の実在ということを言いました。神の実在はその通りでありますが、残念ながら人間はそれを手に取るように見ることができません。しかし明らかに感じ得るものは、光の天使と言われる存在があるということです。高級霊と言われるものが真実あるということです。 この事実に基づいて、この真実に基づいて、過去さまざまな教えが説かれたのです。仏教やキリスト教や、あるいはいろいろな教えがありますが、これらはすべて、光の天使とも言うべき人の存在を前提としているのです。こういう存在があって神の法を、その個性を通していろいろな形で説いているのです。 まずこれを知っていただきたい。これを知らねば宗教の違いの意味がわからないからです。多様な価値観と言ってもその意味がわからないからです。それは神の使者として、光の天使がいろいろな時代にいろいろな地域に生まれ変わって、そして教えを説いている。独自な教えを説いているということなのです。それは個性の違いはあったとしても共通するものは同じです。底に流れるものは同じです。私はそう思います。 この光の天使とも言うべき、こうした高級霊団、高級霊の存在があるということ、これを知っていただきたい。これが宗教の意味を、その教えの違いを、その歴史の違いを雄弁に物語る真実なのです。 たとえばキリスト教の人を見てみるならば、イエスの信仰は当然ながら、イエス以前にはもう神もいなかったかのごとき信仰をしていることも多いが、やはり仏教のなかにも、神道のなかにも、儒教のなかにも、回教のなかにも、神理の流れはあった。こうした流れがあったということを知るということがいかほどだいじであるか。知らないということがいかほど人間を偏狭(へんきょう)にし、偏屈にしているか、それがみなさまはわかるでしょうか。 地上で熱心に一つの宗教をやった人たちは、その派閥争いと所属争いに明け暮れて、天上界に還っても自分の属する宗派にだけ属して、それ以外のものを異端視し、目を向けないという傾向があります。しかしながら本当はそうではないということ。歴史の流れのなかの真実なるものを見抜くということかだいじです。 私は前章においてはたいへん批判的なことも言っておりますが、しかし現代の地上にもいろいろなところに光の天使が出ていることは事実です。光の天使は各界、各層に現われ、各地域に現われていろいろな活動をしているのです。みなさんが気づかないようなところで、いろいろな職業をしながら人びとを導いている人が数多くいるのです。そうした光の天使が数多く活動している、そういう地上であるということを信じていただきたいのです。知っていただきたいのです。 その事実を知るということが、神の愛を知るということになりましょう。神がどれほどまでに人間を愛しておられるのか、ということを知ることになりましょう。私はそう思います。そしてこの思いは、どうしても多くの人に認めていただきたいという気持ちが強くなるのです。 ですからたんなる正邪、正しい、まちがいということだけでとらえるのではなく、そうした光の天使の存在を介して、法が流れているという事実を知っていただきたいのです。 ミカエルの話と他の高級諸霊の話とでは、違うところはずいぶんあるはずです。しかしなにゆえに違うのかと言えば、それは仕事の違い、役柄の違い、個性の違いによって現われているものです。 そうであるならば、その真実を知って、そしてそのなかから少しでも役に立つ神理を、いろいろなもののなかから学んでゆくことだと思います。それが地上の人間に課せられた義務だと私は思うのです。私の生き方だけを真似をし、私の通りにすべての者が生きて行かねばならないとすれば、これは大変なことになるでしょう。ただ、さまざまな霊示、霊言のなかにある神理を学び、学び、学び尽くして、自分のものとして吸収していくこと、これがだいじだと思います。 以上五つの柱について、私は永遠の神理となるべきものがいったい何か、その核が何であるかということを説き来たりました。 さて、ここで私の当初の予定である三部作は終わることとなります。しかし時あらば、また多くの人の希望があるならば、またわがこの霊示集の真偽を疑うものが数多く出るならば、続々とまたわが声を世に問い続けたい。そのように思います。とりあえずは、これにて私の今回の計画を終わらせていただきたいと思います。
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目次 1.新文明には三つの柱がある 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 4.信仰とは、認識力の増大を意味する 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない (1987年8月15日の霊示) 1.新文明には三つの柱がある さて、第五章、「神理文明論」という章になりました。これで私の霊訓集が終わるんですねえ。 みなさんうれしいですね。とうとう来ましたよ。何冊読みたいですか。 僕はね、読者のみなさんのお力次第なんだけど、五冊ぐらいで終わりたくないですねー。できたら十冊、ちょっと声が大きくなって二十冊、小さくなって三十冊、もうちょっと小さくなって五十冊ぐらいやりたいなーって思ってるんだけど、そのぐらい読みたいって言ってくれないかなーと思ってね。 まあ、でもあるじゃない、よく世界の名作全集なんて言ってね。第一回配本、第二回配本なんて、あれだって三十冊も五十冊もあるじゃない、配本がね。二ヵ月おきぐらいに来るんでしょ。だから私の霊訓集もそうした第何回配本ぐらいのつもりでね、出るの楽しみにしてくれなきゃいけない。 でも読者のなかにはいるでしょう。「本が多くって、まあいっぱいいっぱい出しちゃって、もうこんなに読めるか。」って言うから、読めなくていいんです。私の本だけをずーっと読んでいきゃいいんですよ、みなさんね。 私は一貫教育してますから、一冊目から最後まで読めばね、みなさんの人生もピカピカに光って、そしてもうあの世で絶対いいとこ行けて、そしてあの世の勉強も終わるような、そういう教育システムっていうのを考えてますから、もう安心してね、ついてきたらいいんです。 だから、本が多すぎて読めないとか忙しい人は、私の本だけを頼りにしてね、これを持っていきゃいい。ね、毎日会社に。ま、行けると思いますよ。 私はね、むずかしいこと言わないんです。お子様やお母様や、爺ちゃん、婆ちゃまにもわかるように、話してるんですね。だから、OLなんかの間に私の本はずいぶん人気が高いんですね。 入会願書っていうのがあって、霊言集の感想を書いてるんですねえ。それで、私もときどき見せてもらってるんだけども、「もう高橋先生大好き。」ってね、OLですよ、たいていあなた。 ね、たいてい二十代だけど、二十代後半のちょっとうれ残りかかっとるOLが多いんだけども、「高橋先生、大好きです。」ってね、「ユーモラスでとってもステキなおじさん。」ってね、「私大好きだわー。」なんてね、言ってるかたいっぱいいますよ。女性です。 私は女性に人気があるんです。たぶんそのかた美人だと思いますね。「とっても好き。」って言う人ね。「高橋信次とっても好き。」って言う人は、たぶん美人でね、頭がよくて、そしてみんなから好かれてて、もうお父さん、お母さんからも評判がよくてね。 会社でも上司の受けがよくて、同僚の受けがよくてね、そして同じ女の子どうしからも、ひじょうに好かれている女の子、こういう人が私の本を読んで、感動するんだと思うんですね。 だから私の本読んで感動した人は、心がきれいなかたですから、そういう心のきれいなかたはやっぱり外面に表われるんですね。そして、えー外面も美しくなり、人からも好かれ、そしてすばらしい毎日を送っていけるようになるんですねえ。まあそういうふうに思っているんです。 さて、本章では神理文明論ですね、ずいぶん大きくかまえてみました。この意味は、神理に基づいた文明論ということになるわけですね。まあ、そういうふうに考えていただいてけっこうであろうと思います。 さて、神理文明論というのは、これからどうした文明を創っていかねばならんのか、と、そういうことでもあるわけですね。それでけっきょくは、私たちのこれからの課題ということでもあるんですね。 この本書において、私たちの今後の文明構築の課題というものをいくつか、呈示しておきたい。まあこういうふうに思うんですね。 さあ、では来たるべき新しい文明っていうのは、いったいいかなる文明でありましょうか。どのような文明が来るのでしょうか。これをね、考えてみたい。こう思うんですね。 そうしてみると、これからの文明っていうのはね、僕はね、大きく考えて三つの柱があると思うんです。三つの柱ですね。 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 第一の柱はなにかって言うと、これはね、「霊性実証の時代」であります。ね、霊性の実証時代、これが第一の柱なんですね。 これは霊性って言いましてね、霊的な性質ですね。人間が霊的なる存在であるっていうことのね、実証の時代、これが来なきゃいけない。ま、こう思うんですね。 だってみなさんね、真実は真実なんですから、ね。みなさんね、これマイク握ってね、私マイク握ってしゃべっとるんですよ。ね、これ霊ですよ。霊が言ってるんです。 霊がね、私は霊だって言ってるんですね。霊が私は零(ゼロ)だって言ってるんじゃなくて、ゼロじゃなくて霊(零)だって言ってるんですよ。いいですかね。そういうことなんです。 ある人は先日言ってましたよね。「そんな霊があるって言うならあんたね、そんなら霊に色がついとりゃええじゃないか。」ってね。 「そんな無色透明で見えんからいかんのだ。」ね。「ピンク色かなんかでサーッと出てくりゃいいんじゃ。」ってね、ネグリジェみたいなん着て霊が。夜な夜なピンク色でサーッと出て来たら楽しくて楽しくて、「霊よ来い来い、また来いよ。」ってね。「こっちの水は甘いぞ。」ってね。 そして霊よ来い来いして、ピンク色のなんかネグリジェ着た霊が出てきたら、そしたらね、便利でいいよね。あー認めた、認めたって、たしかにいるねー、いるねーってね。 「あー僕はこんどはピンク色のつぎは水玉模様がいいや。」なんてね。水玉模様の霊出て来いなんてね、はい出てきました。なんてね。 夏は暑いからやっぱりなーんちゅうかなあ、えー夏は暑いからこうござっていうんかな、「ござ巻いたような霊出てこい。」なんて言ったらねえ、高橋信次がござなんか巻いて「はい出てきたぞー。」なんてね。「ござでござりー。」ってね。こういうふうに出てくるかもしれませんね。 こういうふうに霊に色があってね、かたちがあってみんなが見えたら、証明もいらんじゃないか。まあそういう人もなかにはいらっしゃるでしょう。 たしかにそりゃそうだけど、ねえ、しかしねえ、霊がそんなござかぶって出てくるぐらいならね、あんたね、なーんで霊にならにゃいかんのだ。そんなんだったらもうそのままこの地上でみな生活しとりゃええんだね。そうでしょ。 霊が霊になるっちゅうのは、こことはちがう世界で生活しとるからそれでええんだな。そんなこの地上で見えるような確認できるようなあれだったら、べつに霊にならんでええわな。 そんなんだったらもうやめちゃって、霊になるのやめちゃって、青虫がね、あなたサナギになって、チョウチョになるようになりゃええんだ。 だから人間七十年やったら、八十年でもいいよ、人間八十年やったらね、死んだように横たわってね、しばらくしとったら、体コチコチに固まってね。 しまいに繭(まゆ)みたいになって、固まっちゃって、半年ぐらい固まったままでね、あなたね、銀行の金庫のなかかね、貸し金庫のなかか、あるいは魚河岸(うおがし)のね、なんか鮪(まぐろ)の冷凍庫のなかほうり込まれてね。 半年ぐらい固まっとったら、半年ぐらいしてあったかくなってきたらなんか取り出してみたら、パカツと真二つに割れちゃってね、なかからぜんぜんちがうの出てきたりね。 こういうようにして、あなた、こんど羽が生えた人間出てきてね。こんどは、もういったん死んだらつぎは、羽が生えてなんか、空中飛べるようになると、人間こんなんでもいいんですよ。そら考える勇気はありますよ。そらおもしろいでしょうな。こういうふうにすりゃあな。 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 だけどまあ、この世に二種類の人間は置かなかったんですね。だからまあ神様のその辺は芸術センスの問題でね。 この芸術センスが「5」だか「4」だか僕はよくわがらん。ねえ、点数がよくわかんない。ただこういうふうになっとんだな。だから僕はいまもう一回人間創りなおすとしたら、そんなんでもいいと思うんだね。 だから六十、七十になったらどんな美人でもきたなくなるんだろう。いやだろう。だからコチコチになって死んじゃって、鮪(まぐろ)の削りぶしみたいになっちゃって、あら鰹(かつお)か、鰹の削りぶしみたいになっちゃって固まっちゃってね。 それで半年ぐらい冬眠して、そしてサナギになって、サナギから出てきたら、こんど、ね、羽が生えちゃって、なにか生えちゃって、ブンブン、空飛べるようにね、そうしたらすばらしいよね。 ある者はだからそうしたサナギになる前に、えーよく悟った人がね、こんどはサナギから出てきたときに羽が生えて空が飛べる。 しかし悟らんかった霊はどうなるかっちゅうたら、こんど出てきたら手足がなくなって魚になっとると。そして悟らんかった霊はサナギから出てきたら、海のなかドボンとはいって海のなかで泳いどると。 でお魚さんになっちゃう、ね。で、悟った霊はエンゼルみたいに空飛べる、ね。こういうのでもあってもおもしろいかもわかんないねー。どうだろうか、ね。 こういう二種類にしたらもう天国、地獄言わなくたってね。サナギになったあとお魚さんになっちゃうのと、ね、人魚だな、顔はいいわ人間でも、下半身が人魚で、人魚姫みたいに海のなか泳がないかんのと、羽が生えて、空が飛べるのと、こう二種類創ってもいいんだよな。そうしたらおもしろいね。 そしてこんど人魚とエンゼルがまた適当な年齢になったら、もうエンゼルやめちゃってもう羽が歳とってとれちゃって落ちちゃって、ね。 人魚もなんか産卵しちゃって、卵産んだら人魚も消えちゃってね、卵になる。卵がまた人間になるとかね。こういうふうな循環考えてもよかったのかもしれないね。 ただね、神さん考えられたのは、そんな目に見えるかたちでね、信賞必罰がはっきり見えるのはね、あまりおもしろくないと思うんだなあ。 ね、パン食い競争といっしょでさ。あそこ行ったらパンがぶら下がっている。あそこ行ったら牛乳飲まにゃいかん、あそこで顔洗わにゃいかんなんてね、目に見えるのおもしろくないじゃない。 そうじゃなくて探検でね、これ森のなかでいったいなにが出るかわかんない。大蛇が出るか、乙姫さんが出るかなにかわかんない。とにかく手探りで森のなか進んでいく。これがおもしろいんだな。これがスリルと探検がね。 ところがパン食い競争みたいにあなた、見渡しゃもう百メートル先までなにがぶら下がってるかみな見える。 ね、あとなんか黄な粉のなかに飴かなんかはいっちゃってプープープープー吹いて顔真白になって、食べなきゃいけないとかね。こんなんみな見えちゃうね。おもしろくないわね、たいしたことねえや、ね。 だから、それで人間諭(さと)すのがだいじだよねえ。 おめえ鳥になりたいっちゅうんか。空飛びたいならねえ、もっと修行しなさい、なんてね。お魚になりたきゃそんでいいよ、なんてね。そんなのもう子供みたいでバカバカしいじゃない。わからんからいいってね。 だから霊っていうものを色ついてピンク色で飛ばさないようにしておる理由は、やっぱり人間のこの精神的なね、えーなんと言いますかね、価値を高めるためにそういうふうにしとるんですねえ。 4.信仰とは、認識力の増大を意味する やっぱりね、けっきょくなんて言いますか、信じるってことは宗教にはつきものですけれども、信じるっていうことがつきものの背景にはね、そこに大いなる精神的な飛躍ってのがあるんだね。精神の飛躍。飛翔感ていうのがあるんですね。これがあるわけです。 あなたね、自分が確認したものだけを信じるっていうのはね、これはりっぱなように思うよ、一見ね。科学的実証精神のように思うよ。もう自分が確認したものだけを信じる。 じゃあアメリカ行ってない人はアメリカのあるのを信じないの筋なんじゃないですか、ねえ。月行ったことのない人は月がないことを思うのは筋なんじゃないですか。どうでしょうか、ね。僕はそう思うんですよ。 そんなら霊だけをそんなこと言わずに、じゃあほかのことだっていっしょじゃないですかってね。軽井沢行ったことない人は、軽井沢なんてあんなの神話じゃないかって言っとりゃいいんだよ。そうだろう、ね。 自分が経験したときが、ことだけがすべてで、真実で、経験してないことは真実でないって言うならそういうこったな、ね。じゃあその結果どうなるんだ人間は。 自分が確認できて、経験できたものだけが真実で、そうでないものはそうじゃないって言ってどうなるんだ。人間はね、けっきょく手さぐりといっしょだろ。ちがうか。 手さぐりで生きとる人間てけっきょくなんだ。そしたらあなたね、アリと変わらんぜ。アリと。 あなたがた地上はっとるアリ見てごらん。ねえ、かわいそうだよねえ。もう右曲がり左曲がり、もうあっちまわりこっちまわり見てたら一時間、見てたら一時間グルグルグルグル一メートルぐらいのところまわっとんだろ。ちがうか。地面のね。あっちあたり、こっちあたりグルグルグルグルまわっとる。触角動かしてね。触角でさわってるんだよ、一生懸命。 ね、ああいうアリさんみたいな人生になっちゃうんだな。かわいそうだろ。ね、もう一段高い認識力がないんだな。自分の置かれとる立場、あるいはこの世界というものにたいする認識っていうものができない。アリさんはね。こういうことだ。 だから経験論、実証精神だいじだけど、それがようするに自分を小さくして、そして認識力を低めておるなら意味がないな。だから信ずるっていうこと、信仰っていうことの意味は、認識力の増大を意味するんですね。 つまり、目や口や鼻や手ざわりで感ずるもの以外を感じとるってことでしょ、信ずるっていうことは。ちがうか。全身全霊で感じるっていうんでしょ、ね。それは認識力が高まったことだ。認識力が。 認識力が高まるっていうのはどういうことかって言うと、わかる範囲が広がるってことだな。物事がわかる範囲が広がる。 物事がわかる範囲が広がるってことはどういうことかって言うと、アリさんよりは人間さんでしょ。アリさんよりはバッタさんかもしれない。バッタさんよりはお亀さん。お亀さんよりはウサギさんやらなにや知りませんがね。 あるいは、犬、犬よりは人間、そうかもしれないね。人間よりはじゃあ神様だな。認識力が高まるってことは神様にそれだけ近づいていくってことだ。ちがうだろうか、ね。そういうことでしょ。 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る だから、自分が確認したことだけしか信じないって言うんなら、人類は何世代にも、何十世代、何千世代にもわたって生まれ変わってきたけど、それぞれの人間が、自分が確認したものしか信じられないって言うんなら、文明や文化の進歩はなにもないことになる。そうだろう。 もう一回ゼロから始めて、ね。一足す一がほんとに二かどうか、もう一回確認しなきゃいけない。ちがうだろうか、ね。そういうことだね。 だからあるていど前提とする部分があって、文化や文明は進んどるんですな。そのなかにはたんなる信仰とはちがうけれども、信ずるという行為がやはりあるし、それを受け入れるという行為はあるんだな。僕はそう思う。 だからこれからの時代はね、まず第一に霊性の時代であって、そうした目に見えぬ霊の世界が厳にあるということに対する実証、ほんとうにそっちの意味の実証精神ね。これはいってきますよ。 で、科学者なんていろいろ言ってるけど、この霊界のね、研究者なんていうのはものすごく尊敬されるようになる時代が来ますよ。第一人者なんてね。 いまだったら医学界の第一人者、ねえ物理学の第一人者なんて尊敬されてるけど、それが霊界の第一人者なんて言ったら「なーに言ってんの、気持ち悪い。バカにして。」ってね。バカにされちゃいますね。 ところがこれから霊界研究の第一人者って言ったら「ほーすごいなー。」ってね。こういうふうになってくるでしょう。まあこれが霊性の時代ってことの第一点ですね。だから文明、新しい文明のね、第一。 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 第二はね、これからの時代の特徴の第二点は、第二の時代はいったいなにかと言いますとね、えーまあこれからもう一度ね、文明の再考、というのが始まっていきますね、再考。 文明、現代ある科学文明っていうのが、これがいいものかどうかっていうことが、もう一度考えなおされる時代ね。こうした時代にこれからはいっていくんですね。 それはなにかって言うとね、二つに分かれるんですね。 これはなんか『孔子の霊言』かなんかにもあったそうですけども、ますます科学文明を発達させていこうとする方向と、原始に還れ、昔に還れという復興運動、この二つの潮流が巻き起こってきますね。どっちも神理は神理なんですね。 なんで都会でネクタイぶら下げてね、ギュウギュウ電車にゆられて、会社冷暖房きいとるかどうか知らんが、会社のなかでね、一日中働かなきゃいかんのかと。こんなの人間の本来の性質に向いていない。こういうふうに主張する人が出てきて、それに賛同する人も出るでしょう。 そういう人たちが武者小路実篤じゃありませんが、新しき村運動じゃないけどね。そうした原始に還れと、自然に還る、自然の美しさに還ると、いうふうな運動をね、展開、積極的展開をする時代がこれから始まってきますよ。 おおいにそういうことを唱道する人が出てきます。それはそれでひとつの動きだと思う。 やはりね、都会が人間を進歩、発展させるところもあるが、堕落させてる面もひじょうに多い。そんな堕落させるような素材をそのままにしておかないで、そうしたものがない、もう一度新たに造りなおす時代ね、造りなおすという時代、これをやはり考える。そういう時期が来るんですね。 リンカーンじゃございませんが丸太小屋をね、自分で作る。ね、みんなね、小さいころは喜び感じたんだよ。自分でいろんなもの作ったことをね。 ボーイスカウトだか、村の少年だか知らんがね、自分で小屋を作ってみたりね。自分で穴を掘ってね、それで上に茅(かや)かなんか葺(ふ)いちゃってね。そして探検ごっこやってみたりね。 そうしたことにずいぶん生き甲斐感じてたわけだよ。いつかしらそんなの生き甲斐忘れちゃった。ね、自分で新たにいろんなもの作っていくっていうこと。ね、農作物だってそう、動物を飼うことだってそうね。 畑正憲さんて言うんか、ムツゴロウの動物王国とか言って、北海道やらどっか、なんとか村やら知らんけど、どっかでやっとんだろう、ムツゴロウ共和国とかね。ああいうのがね、まあひとつのなんて言うんかひとつのあれになりますよ。 あのムツゴロウさん、あれ諸天善神のひとりだよ、ね。ああいうのは稲荷大明神って言ってね、動物を指導しておる霊人がおるんだな。そういう人のなかのひとりですよ。 まあ、ああいう人がやるわけだな。ああいう時代になるわけです。僕はこれでもいいと思うんだよね。 文明でかならずしも進歩する人ばかりじゃないんだな。毒されることが多い人も多いと思うんだ、ね。 だってあなたね、都会行きゃあもうほんと悪の臭いがしちゃって、新宿歌舞伎町とかね、あなた銀座のどこそことかね、渋谷のどこそこ、上野の某所、あるいは千葉のナントカ町、ね、川崎のナントカ町。 こんなところってのはあなたね、まあそりゃ聖人君子だってあんまりそんなとこ住んでたらね、だんだんだんだんやっぱりフラフラフラフラし始めますね。ないほうがいいわけですね。 そういう意味では、そういうものはないってこともいいんですね。軽井沢には風俗営業がない。そういう町もだいじなわけなんですね。ないとどうしようもないですからねえ。あるとやっぱりフラフラ行きますわね。ないこともけっこうなんですね。 だから自然のなかでね、そんな風俗営業ないようなところで、生活することもだいじですよ。そうじゃないでしょうかね。それが人間向上させることにもなる、ね。 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 で、これがひとつの流れだし、もうひとつの流れとしては、いわゆるもっと科学技術の進歩ですね。まだまだこんなんじゃあ物足りない。どんどん作り出してみよう。いろんなものを作り出してみる。 それから、やっぱり好奇心旺盛な人はどんどん月へ行き、金星へ行き、ねえ、ほかに太陽系からも出て探検してみたい。宇宙人とも握手してみたい。こんな人もおるでしょう、ね。 『太陽の法』っていう本読むと、なんだか金星人がおったらしい、ね。エル・ミオーレっていう神霊が治めとったらしい、統治者がおったらしい。 「ちょっと金星ツアー行こう。」ってね。「金星人の化石を見つける会」なんてね、できちゃって、金星ツアーして、どこかに埋まっとらんかと一生懸命シャベルで掘ったりしてね。そんな人も出るかもしれない。 そうした新しい経験でもって、それで進歩する人もいるでしょうから、まあそれはそれでけっこうでしょう。 後者について、宇宙時代についてもうちょっと言えばね、宇宙人との交流っていうのが、これがますます積極的になってきますよ。彼らもまた新たな世界観求めて来とるんですね。 いま、地球自体、だいたい法が出尽くしたと思うかもしれないが、宇宙人と接触するとこんどまたちがった法がね、感じられますよ。地球の法だけがすべてじゃないんですよ。 私は前のほうの章でも言いましたけどね。そんなお札(さつ)交換してなんかしとるの見たら不思議に感じるって言ったけども、そういうほかの惑星の考え学んだら、また人間気がつかない教えってのも増えてね、そして新たな考えかたっていうのを学ぶかもしれないね。まあそういうふうに思いますよ。 だからそういう宇宙時代も来るし、UFOも現在十何種類来てますから、地球にね。やがてだんだん確認されていくでありましょう。 彼らが来とる理由は、新しい文明のなかに参入したいという気持ちもあるし、あるいは地球を偵察に来とるとこもあるし、もと私たちが来た母星からもちょっとは来とるんですがね、確認しにね。いろいろやっとるんですが、理由はいろいろあるんですけどね。 ま、これはまた『高橋信次の空飛ぶ円盤』(「高橋信次のUFOと宇宙」として刊行)でもなにかまた一回組まにゃいかんかもしれませんね。ちょっとこの本章のなかで言うのはむずかしい。まあそういうことがありますね。 ですから第一の柱として、霊性の時代が来るって言ったけども、第二番目の柱で時代が二極分解して、原始に還れ、それと未来産業型の文明時代へと行くと。こういう二極分解するでしょう。で、それぞれ神理はそのなかにあると。こういう話しましたね。 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 じゃあ、第三番目の時代はいったいなにでありましょうか、ね。これはね、まあ先ほどの霊性の時代ということにひじょうに関係するわけなんですね。 つまりひじょうにそれと似かよっておって、空海さんなんかも『空海の霊言』のなかで言っておられたように思いますが、これからはね、精神的な帰属というものが、社会的ステータスをつくる、そういう時代が来ます。 精神的な帰属。つまり宗教なら宗教、なにを信じておるか、あるいは道徳ならどうした道徳を信じておるか。どうした教えというものを実践しておるかね。 こうしたことが社会的ステータスシンボルになる時代がやってきます。これは不思議ですがね。 いまだいたいみな名刺だして、「なんとか会社の専務です。」ね。「部長です。」「なんと平社員です。」って、やっとるわけですね。 そうじゃなくて、空海さんが言っておられるように、まあ、いっしょですが、自分はえー「講師をしておる。」とか、ね。「自分はGLAの後始末をした人間だ。」とか、ね。 「自分は高橋信次亡きあと別派作って、世の中混乱に陥れた人間だ。」と、ま、これは論外でございますが、こういうのは別にすれば、精神的な帰属っていうのが、その人のやはり値打ちを表わすようになる時代がやって来ますよ。 だからいまは宗教やっても「なんだかバカみたいな。」って言うけれども、これからどういう団体に帰属しておるかっていうことはね、その人の値打ちね、魂の値打ちを決める時代が来る。 ま、いま入会試験むずかしいのやってますが、これなんかその走りなんですね、時代の、ね。 ゴルフの会員権だけが高いなんてそんなのとんでもありませんよ、ねえ。どこそこゴルフ会でやれるとかね。こんなんだけがあなたね、値打ちじゃありませんよ。 これから神理の団体っていうのはね、ほんとうに魂を磨く団体になっていきますから、どの団体に属しておるかね、これがね、社会的ステータスになってきますよ。 こういう時代、価値逆転の時代がね、始まりますよ。ね、これだいじですし、僕たちそれをねらってるんですね。 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る えー神理価値ってことはずいぶん言いましたけども、前章でも言いましたけども、これからそういう価値逆転の時代でね。 いままでは宗教にはいってるちゅうのは隠さなきゃいけなかったけども、これからは、はいってるっていうことが値打ちになってきて自慢になってくる、ね。自分のステータスになる。 で、むしろ会社に勤めてるっていうことなんかそんなのどうでもいいことでね、どこの会社に勤めてようが、なにやろうが、そんなの漁師やってようが、あんた木こりやっとろうが、会社の重役やっとろうが関係ない。 それはね、生業(なりわい)を立てるためにやっとるんだ。そうじゃなくて土、日あるいは普段の夜、いったいなにやっとるかね、これがだいじになってくる。これを競うようになる、ね。ま、そういう時代にならにゃうそです。ほんとうに魂磨くということがだいじになる時代ね。 だからいまねえ、こそこそといろんな神理の伝道手伝ってる人おると思うけど、これからそれを堂々と言う時代になってくるよ。これから堂々と、ね。資格の時代になるよ。神理も。 資格の時代が始まる。新たな、ね。えー魂を磨いているってことにたいする資格の、大いなる資格の時代が来る。こういうふうに思いますね。 それでないとおかしいよねー。文部省認定、英語検定だけあるでしょう。一級だとかあなた二級だとか三級だとかね。 最近は一級と二級の間に差があるから準一級なんて作ったらしいよ、文部省ね。こんなことばっかりやってね、もうええ大人があんた英語の試験ばかり勉強してるんだ。もったいないよー。 英語なんかあなたアメリカにこんど生まれりゃええんだよ、ね。転生してアメリカに生まれりゃ英語しゃべれるじゃないねえ。 日本に生まれりゃ日本語勉強できるんだよ。そんなのわかっとるんだからもう、ほどほどにすりゃええんだ、そんなことね。 そんなんじゃなくてね、これからどれだけね、神理の勉強してるかね、これがほんとうは役に立つかもしれないよ。 だからこれから神理が資格の時代にはいってくるぞ。ね、楽しいじゃないか。そんなんがあって、みんながね、日本国民がね、われを競って神理を勉強し始めるって。これはいいことですよー、ねえ。 文部省の教育はいいとしても、そんな英語だとか、あなた無線通信士の技能だとか、針灸だとかなんだかんだとまああるかもしらんけど、まあそれもけっこうだけども、いろんな国家資格あるわなあ。まああるけどたいしたことはないわなあ。死んであの世へ持って還るほどのものはほとんどないんだ、資格はな。 だからこれから神理を勉強してるってことが資格になる時代になると思います。そして神理の団体もね、いわゆるほんとうに信ずるか信じないか、まあそういうふうなオカルト的なあれじゃなくてね。ひじょうに教育的な側面というものを多く持ってくる、そういう時代がやってくると思うんですねえ。 だからこういうこと言ってた人いたけどねえ、通信教育の時代なんて言ってたけども、そうなるかもしれませんね。 これから法というのがあるていど定型化され、類型化されてね、ほんとう通信教育でもできるような、そういう時代ほんとうに来ると思いますよ、もうすぐ、これそう遠くないですよ。 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない だからいろんな教えがあるけれども、もう教えが多すぎるからもういくつかね、分けて、とにかく高橋信次コースってあって、高橋信次コースってのは、幸福の科学出版から出てる高橋信次霊訓集、たとえば全二十巻がテキストである。 で、これで単位があってね。前期は第一巻から第五巻、ね。後期は第六巻から第十巻。そしてこの基礎コースをマスターしたらつぎに応用コースヘはいっていく。で、第十一巻から第十五巻、ね。それから卒業コース、第十六巻から第二十巻、こういうふうにこう範囲が決まってね。 そして、三年計画ぐらいで、社会人の生涯学習で、「高橋信次コース終了認定」こういうのが出ます。 「あーよかったー。」ね。「終了認定出た。じゃどうしようかな。まあじゃあこれ卒業したから、じゃあちょっと谷口雅春コース行ってみるかー。」って言ったら、つぎまた三年ぐらい「光明思想研修」なんてね。 谷口雅春コース三年ぐらいやって、「また免許いっちょ取ったー。」ってね。こういうので何枚も取ってね。勉強の手段がそこでできてくる。こういう時代になってくるかもしれませんね。いいことですよ。どんどんマスターしてくる。 これだけ天上界の先生がいっぱいおるんだから。あの世還ったってもう消化不良でできないですよ、だんだん。この世のうちに早目にマスターしておきましょうね。 そしてあの世に還ったらね、ちょっと見せてね、資格、「もうこれとこれと終了してますから。」って「おっそうか。じゃあつぎはもう残ってんのはまあ岩登りとあなた木登りの仙人の修行しかねえから、ちょっと仙人界行ってこい。」なんて言われてね、カクッときたりするかもしれませんが、まあそういうことはあるかもしれませんが、まあね、あの世でもどうせ勉強するんだから、この世でできる機会にね、バッチリ勉強してね、どんどん優等生になっていただきたい。 まあそういう話で神理文明論と称しましてね、えー三つの柱立てて話をしました。霊的なことが実証される時代。そういう時代が来るということ。 それから文明の類型として、えー自然に還れ型と、未来産業型と、二つに分かれてくるであろうっていうこと。 それから三番目に、えーこれから霊的なものがね、勉強が資格の時代になってくるよ。それからステータスシンボルになってくる時代が来るよ、ね。まあこういうことを話しました。 まあこういう未来を先取りしてね、みなさんもね、日々努力精進してください。そしたら賢い人間と言われるようになるんですね。じゃあまた、お会いしましょう。
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目次 1.道を求める青年の生き方 2.今世の使命について 3.自分の使命を知りたい人へのアドバイス 4.スポーツを通しての神理伝道は可能か 5.病院カウンセラーの使命 6.ある画家の転生と今世の使命について 1.道を求める青年の生き方 (問) 私は瞑想(めいそう)ヨーガの教えを受けて半年ほどになります。その間、心の世界にだんだん惹(ひ)かれていきました。そして、霊言集を読んだとき、自分の求めていた世界はこれだと思い、現在、正法伝道のお手伝いをさせていただきたい気持ちがつのっています。そこで、私の今世においての使命を、お教えいただければありがたいと思います。 事務職(男性)22歳 (答)過去世は道元の直弟子(じきでし)であった この方は、過去世において、仏法の伝道に力があった方です。この方は、今からおよそ七百数十年ほど前、日本の鎌倉時代に生まれております。このとき、この方は、仏教の修行に大変励んでおります。この方は、現在、鎌倉という地域がありますが、そこを中心として起こったある宗教、このなかで大変に力を持っていた方です。 この方は、その過去世において、道元という人の弟子だった時代があります。道元の弟子となって、さまざまな修行をしていたのです。また、道元について、北陸、永平寺にも行っていたことがあるはずです。このように、過去世では、自力行において、かなり悟った方であったようです。ですから、今世においても、やはり宗数的な伝道ということを一生の仕事とするように生まれてきております。まだ若い方なので、その魂の煌(きらめ)きだけしか見えないでありましょうが、この方はやがて、大変貴重な存在となる方だと思います。すなわち、今世において学んだことだけではなく、過去世において得た知識、過去世において学んだ法、こうしたものが力を得てくるからであります。 私は、この方が誰であったかについては、今は言うつもりはありません。ただ、過去において、鎌倉仏教の時代に、鎌倉という地域を中心に、主として道元の教えを説いた方であります。こうした方が、七百数十年ぶりに日本の国に生まれてきたのです。 正法者へのアドバイス この方に対する注意点ですが、人生経験が浅いために、今後数年間は、まだまだ大変な苦労をすると思います。この方が手伝っているOOOOOの動きも、非常に大きなものとなってきました。さまざまな人が訪ねて来て、大変な苦労が出てくるはすです。そうしたときに、この方は、まだ年齢も若く、人生経験がたりないために、大変な苦労をすることがあると、私には見えます。 ただ、そうしたなかにおいても、この方は、負けるような人ではありません。いろいろな人と接しながら、揉(も)まれていくということ、そして、過去世においてこの方がなしてきたことからして、現在、たとえ若くて経験がたりないとしても、そんなことに負けるような人ではないのです。すなわち、それだけ何十年もの修行を積んだ方なのです。 そういう方ですから、どうか自信を待って、自分の方向に間違いないということを確信して、一途に進んでいただきたいと思います。そして、過去世に学んだ教えのみではなくて、今世においても、さらにさまざまな教えを学んで、よりいっそう力強い法の伝道者として立ち上がっていただきたいと思います。私はこの方に期待しています。 (1986年8月21日の霊示) 2.今世の使命について (問) 私は、高橋信次先生の正法に触れて、約七年ほどになります。その間、ヨーガ、内観を通して自己向上を計り、また、日常生活のなかでも、自分の心を向上すべく努力してきたつもりです。このたび、日蓮様の霊言集を読ませていただき、涙が止まらず、体が熱くなって、感動のあまり、ふるえが止まりませんでした。 現在私は、自分で会社を運営しておりますが、何か、人様のお役に立ちたい、正法伝道をしたいという気持ちを強く持っております。しかし、盲が盲の手を引けないという思いもあり、現在どのようなことで、人様のお役に立つことができるかと、悩んでいます。今後、私がどのようにして進んでいったらいいのか、アドバイスをお願いします。 貿易会社社長(男性)48歳 (答)過去世は日蓮六老僧の一人であった この方は、もちろん、神理に非常に関係のある方です。また、仏縁のある方です。私の霊言集を読んで大変感動したとのことですが、それもそのはずです。というのは、この方は、過去世において、私の弟子だったからです。 この方は今から七百数十年前、ほぼ八百年近く前になりますが、私が日蓮として鎌倉時代の日本に出たときに、私の弟子をしていた一人です。ですから、この方が、今、地上に出て、かつての師の教えを、その言葉を読んで涙が出るのは当然です。この方は、私の話を、毎日毎日聴いておったのです。この方は、今から数百年前に、何十年もの間、私の弟子をやっておったのです。だから、それを感じなければ、盲であります。 まあ、この方も今、自分が何をしたらいいのかわからなくて、ヨーガをやったり、内観をやったりといろんなことをやっておるようです。しかし、こうしたもので、この方の本当の心の渇きを癒(いや)すことはできないのです。なぜならば、この人は、過去世において、仏法のかなり深い神理を学んでいるからであります。そういう方ですから、そんなところで止まることはできないのです。 今世において、私はまた、このように指導霊をして、新たな霊言集を出し、世の人びとを指導していこうとしています。つまり、この方のかつての師は、今、天上界にあって、地上の人びとの指導をしております。よく聴きなさい。あなたは、私の弟子なのです。師が天上界にいようとも、地上界にいようとも、同じであります。弟子は弟子としての本分をはたす必要があるのです。すなわち、この方は、私の教えを、あるいは、私以外の高級霊の教えを、世の人びとに広めていくことが使命だということです。それがこの方の使命なのです。ですから、それをはたさずして、貿易会社の社長として一生を終えたならば、この方は日蓮の弟子としては、失格であります。 どうか残りあと何十年かを、熱血、火のごとくなって正法、神理の伝道に励んでいただきたいと思います。あなたは、かつてのわが弟子、かつてのわが弟子であります。私が本当に心から信頼していた弟子の一人なのです。あなたの名は、日蓮六老僧の一人日頂(にっちょう)であります。かつて六老僧の一人として、私を支えてくれた方であります。 神理伝道の盾(たて)となり、矛(ほこ)となりなさい こういう方なのですから、今世においても、この神理伝道の中核となって世の人びとに法を説いていきなさい。この方は、適当な年齢にあり、また、社会的にも地位のある方であります。そういう方なのですから、神理伝道の盾となり、矛となっていくべきなのです。いいですか、他からの攻撃を一身に受けたとしても、それを吹き払っていくような、そういう力強い生き方をしなさい。この方は、盾であり、矛であります。神理伝道のための盾であり、矛であるのです。 また、この方は、露払いでもあります。ですから、神理がこれから伝道されていく道々で、埃や塵を払っていきなさい。この方は、そういうふうに、先頭を切って切り込んでいく人なのです。いわば、切り込み隊長であります。そこで、そういう自分の使命を十分に悟って、いいですか、残りの人生、できるかぎりの人生を送りなさい。それが、この方のかつての師、日蓮からの教えであります。どうかわが声を信頼しなさい。 (1986年8月22日の霊示) 3.自分の使命を知りたい人へのアドバイス (問) 私は、ある自動車販売会社の社長をしております。最近、自分は、少し本心とはずれた人生を生きてきたのではないかと悩んでいます。今までの人生を振り返ってみると、何をしても、そこそこにはやってきました。ただ、何とも要領よく生きてきただけのような気がします。 自分の知らないところで、罪をつくっているような気がするのですが、それが何なのかがわかりません。感謝の心で、毎日を送っております。しかし、一生懸命働いて、会社が順調に成長していても、自分が本当にやらなければならないことがどこか別にあるような気がしてなりません。今後、私は、どういう方面を伸ばしていけばよいのか、また、どうすれば自分の使命をはっきりとわかることができるのかを教えてください。 自動車会社社長(男性)50歳 (答)本質的には宗教家の事業家 この方は、自動車販売会社の社長さんをしているとのことです。つまり、現代社会においては、社会のなかでは、一つの先端的な立場にいて、現代のなかで、いろいろな勉強をしていらっしゃる。魂の修行をしている方だと思います。 この方は、さまざまな生き方をして、そこそこの業績をあげているにもかかわらず、心は満足できない。その理由は確かです。というのは、この方は宗教家だからです。この方は、その生まれつきにおいて、その本質において、宗教家としての素質を持っているのです。人間のなかには、やはり生まれつきの素質というのがあります。そのなかで、たとえば、宗教家的な資質、素質を持った人というのがいるわけです。 どういう人が、そういう素質を持って生まれるか。すなわち、転生輪廻の過程において、そうしたことを数多くやったことがある人です。こういう人は、そういう宗教家的な素質を持っているので、この世の中の仕事をしていても、それだけでは、どうしても満足できないのです。そこで、結局は、心の世界を求めていくことになります。どこかに他の世界があるのではないか、と。それを求める。だから、そういう世界へと入っていくことになります。 この方は、かつて僧侶でした。中国に生まれております。天台智顗という人のお弟子さんでした。中国人です。僧侶をやっていました。天台山系の修行僧で、天台智顗さんのお世話役をずいぶんやっていた方です。そういう方が今、現代に生まれてきているわけですから、やはり仏教の教えに心惹かれるのは当然です。そうでなければ、この方の天命ははたせないからです。つまり、今言った話でだいたいおわかりかと思いますが、この方はそういう修行僧として生まれたのです。 ただ、この方の魂の兄弟のなかには、゛大黒天゛こういう人がいらっしゃいます。天上界で、今、この方を指導しているのは大黒天であります。大黒天が、現在、この方の守護霊をしております。 大黒天が、現在この人を指導している 大黒天というのは、別に特定の個人ではありません。諸天善神のなかの役割は、いろいろに分れています。たとえば、経済的な協力などの役割を持っている人を福の神とか、大黒天とか言います。そして、この方の魂の兄弟、今、天上界で指導応援している人は、大黒天さんなのです。 この方は、おそらくは個人、自分自身でもいろいろ修行されるでしょうが、かつて天台智顗大師のもとで、天台さんの生活をずいぶん助けた方なのです。やはり修行僧でありながら天台さんの身の回りを世話をしたり、生活をずいぶん助けた方です。そういう過去世のある方ですから、今世においても、経済的な側面を見ながら、やはり修行される方となるはずです。そういうことで、だいたいこの方の今世での役割というのが見えてきたと思います。ですから、経済生活そのものはしっかり、今後とも、やっていただきたいと思います。この方は、社会生活を捨てて、出家して、山のなかに篭るようなタイプではありません。そこで、経済生活は経済生活として、しっかり自分の足場を固めながら、その一方で、自分の自由な時間というのをできるだけつくっていくように努力していくべきです。 そして、自由な時間ができたら、この方は、神理伝道のための経済的基礎と人脈づくり、そのために主として奔走するといいと思います。この方の守護指導霊たちにもそうした方たちが多いので、この方に対して、ずいぶん期待しておられます。 ですから、どうか今世においても、神理伝道のための側面的な援助、あるいは、土台づくりのために努力していただきたいと思います。それが、この方の使命なのです。天台智顗大師も、天上界から、この方を応援しています。頑張りなさいと言っています。その他にも、また何か質問があれば受けます。 (問) 自分自身が何か罪を犯しているのではないかということを気にしていて、その点を知りたいのですが、それについて、お答えください。 (答) この方はね、もちろん人間として生まれた以上、さまざまな罪をつくっています。それは当然です。人間関係で、社会生活をしている以上、いろいろな罪をつくるものです。罪なくして死んだ人は、今まで、一人もいないのです。釈迦も、キリストも、罪がありました。日蓮などは、山のような罪があった。日蓮は、山のような罪を背負って死んでいった人間です。あわれな人間であります。そういう日蓮が、今、この方を見ると、この方の罪なんてちっちゃいほうです。罪はあります。もちろん、いろんな罪が見えてきます。しかし、いちいち指摘する必要はないと思います。この方が、一番よく知っているからです。 自分の罪は、自分自身が一番よくわかっているのです。この方が、何をやったかを、私は知っています。ただ、そうしたことは小さなことなのです。大きな道があるのですから、そこを進んでいくためには、そうしたちっちゃな罪の思いというのは、振り捨てていかなくてはなりません。 罪の思いというのは、ちょうど砂袋みたいなものだと言えます。砂袋を背負って歩いていると、実に、重い。重くて重くて、旅路は重いんです。足が重いんですね。だから、そういう砂袋は、一つ一つはずしていかなくてはならないのです。 また、罪というのは、鉄の下駄(げた)みたいなものです。しかし、鉄の下駄を履いて修行すればいいのは、柔道の選手などです。普通の人は、鉄の下駄を履いていたのでは、歩けない。そこで、鉄の下駄は投げ捨てて、竹の下駄かなんかね、あるいは、健康サンダルでも何でもけっこうですが、それを履けばよろしい。そうしたものを履いてですね、身軽にして、旅立っていただきたいと思います。 ですから、あまり自分のことを咎(とが)める必要はありません。そうしたことを気にせずに、もっと軽やかに、もっと軽快に人生を生きていただきたい。もっと積極的な前向きな人生を送るということです。後ろ向きの人生ではダメなんです。 罪を反省するのも大事ですが、そんなことをしているよりは、より多くの人につくす。そのほうが、ずっと大切です。そして、より多くの人のために役立てるような人間として、積極的に自分自身をつくっていくことです。それがまず大事です。個人的な悩みは、二の次であります。 (1986年8月23日の霊示) 4.スポーツを通しての神理伝道は可能か (問) 私は、現在、スポーツクラブを経営しております。私は、以前は無神論者でしたが、内観をして初めて、心の偉大性に気づき、その後、正法に触れ、今は神様の喜ばれるような仕事をしたいという思いに燃えています。 私の夢は、スポーツを通して、人びとが、さらに心の世界を知っていただけるようなセンターを、都内につくりたいということです。より具体的には、スポーツクラブの会員が、瞑想をし、心の平安を得て、さらに正法を知っていただけるような場をつくりたいと思っています。この構想に対してのアドバイスと、いつ頃を予定したらいいのかを教えてください。また、私の今世の使命をお話ください。 スポーツクラブ経営(男性)41歳 (答)スポーツの領域も神理伝道のための入口である どうやらこの方は、悩みがあまりないようです。純粋に自分の思ったことを、思った通りのことを実現していける方のようです。この方は、私に対して質問をしておりますが、実は質問のなかに、もう解答が入っているのです。この方自身が、すでに解答を知っている。そういう方だと思います。 こういう方は、私たちから見ると、非常に心強い方です。この方は、もうすでに、自分自身の使命を知っているはずなのです。私たちは、こういう方のことを好ましいと思っております。何もかもわからずに、「何かを言ってください」というような人よりは、自分のやるべきことにだいたい気づいていながら、「これでいいのでしょうか」と最後の一言を、一押しを聞いてくる、こういう方を見ると、私たちは、非常に頼もしいと感じるのです。 たとえば、昔からあるような伝統的な手段によって、幸福を追究する人もいるでしょう。また、哲学のようなものを通して、知的に悟って、自らの幸福感を高める人もいるはずです。 あるいはまた、この方のように、スポーツというようなものを通して、幸福を追究する人もおります。現代においては、確かにスポーツという領域は、非常に素晴らしい意味で、神理伝道のための入口だと思います。なぜならば、昔のように、出家して、山のなかで瞑想せよとか、あるいはですよ、拝火教とか何かのように、火の燃えているなかを潜っていけだとか、そういうことを今の時代に言ったところで、世の人びとは理解することはできないからです。 スポーツという入口もまた、素晴らしい人口であります。この方は、現在、スポーツということを通して、人間の幸福というのを探るために生きております。その方向自体は、間違っていません。日本人、あるいは、世界の人びとに、スポーツというものが広がっていくということ、これは素晴らしいことです。 スポーツのなかにもさまざまな教えがある スポーツのなかにも、さまざまな教えがあります。スポーツには、まず肉体の健康ということがあります。第二には規則正しい生活、あるいは、スポーツマンシップというようなものがあるはずです。あるいはまた、スポーツのなかにも、人間としての生き方、人間としての礼儀作法、人生の縮図といったものがあるはずです。 この方は、スポーツということを通して、人間の幸福を探究するとともに、スポーツの背後にある心の教えというものを追究していきたいとのこと。これは、この方の本来の使命でありますし、また、その方向は間違っておりません。 もちろん、この方向が、私たちの教えのすべてではありません。しかし、その一角をなすものであることは確かです。ですから、この方が、人びとに心の世界を知ってもらうために、スポーツセンターをつくるとの願いを持っているということは、私たちにとっても大変朗報です。また、この方にとっても、やりがいのある仕事となるはずです。 この方のスポーツセンターづくり、心の世界を知るためのスポーツセンターづくりは、おそらく今から二、三年以内に実現化するでしょう。そして、単に宗教活動を通して神理を知る人だけではなく、こうしたスポーツクラブでのスポーツを通して、私たちの教えに触れるような人が、一人でも二人でも増えてくれることを、私たちは願っております。 この方の方法は、間違っておりません。スポーツクラブならスポーツクラブでけっこうです。それをつくって、肉体の健康だけでなく、心身の調和を求める人たちを一人でも多くつくってほしいと思います。そしてまた、そうした人びとが、私たちの教えに触れていただきたい。こう思っています。 知識だけでものを考える人は、私たち、あの世の人びとの教えというものを得てして疑ってかかりがちです。しかし、そういうふうに疑っている暇があったら、体でも動かして、汗でも流して、健康になることを考えなさいと言いましょう。まず、健康づくりから入っていくべきなのです。知識的にものばかりを考えている人というのは、どこかに不純物がたくさん溜(たま)っているんです。体のなかばかりでなく、頭のなかにも、さまざまな不純物のカスがたくさん溜っている。ですから、こういう人は、まず、体を動かすことです。そして、スポーツのよさを知る。スポーツマンシップのよさを知る。あるいはまた、スポーツの背後にある心身の調和ということ、すなわち、肉体と心とは別なものではなくて不二一体(ふじいったい)だということを知ってほしいのです。こういうことを悟っていっていただきたいと思います。最後に、この方に関しては、今の方向でけっこうだと思います。思うがままに、どんどんやってください。 (1986年8月25日の霊示) 5.病院カウンセラーの使命 (問) 私は、現在、ある病院で患者さんたちにトータル的なカウンセリングを行なっております。この仕事は自分に合っていると思っています。ただ、仕事が忙しく、毎晩十一時前に帰れることはほとんどなく、日曜日も研究会、その他で出かけることが多く、自分の心にゆとりを持つ時間がないことだけが不満です。 現代医学、東洋医学はもちろん、最先端の医学から、超心霊医学、心の世界をも含んだ幅広い場をつくって、悩める人たちのために協力をしていきたいというのが、私の理想です。そのためには、私自身がもっと勉強しなくてはと思っています。今の段階で、自分の時間をつくるとしたら、一日三、四時間の睡眠にするか、あるいは、現在の職場をやめるかしかありません。自分の理想を実現させるためには、私はどのようにしたらよろしいのでしょうか。お教えください。 病院カウンセラー(女性)50歳 (答)人を救いたいというこの方の理想は天命である この方は、これから行なおうとする神理の流布の協力者の一人として選ばれている方です。そういう方ですので、単なる普通の相談とは違うと思います。この方自身、自分の使命感を強く持っておりますが、それはその通り、そういうことを使命として、今世に生まれてきたからです。そして、今五十歳にして初めて、自分の本当の使命ということを悟ったのであります。 この方は、長年病院において、患者さんたちを救うということを仕事としています。これはすなわち、ある意味での菩薩行であります。つまり、そういう何か、人を救いたい、人のためになりたい、人の支えになりたいという気持ちから、現在のような職を選んだのです。ですから、現在の職業は、生まれつき、この方の心性にかなったものでもあったわけです。 しかし現在、この方は、新たな教えに触れております。これから神理の教え、神理の伝道が始まるにつれて、この方の仕事の重点は、だんだんにそちらのほうに移ってきます。この方の問題は今、さまざまな仕事を持っているために大変忙しくて、時間が取れないことです。睡眠時間を減らして頑張るか、あるいは職場を辞めるか、どちらにするにせよ、自分の理想を実現したいということだと思います。 さきほど、前半の総論において、私は、この方の理想そのものは、まさしく天命であり、天職であるということを明らかにしました。人びとを救う、それもいろんな意味から救う。これは、この方の天命なのです。さて、具体的な問題としては、職業というものをどう見るのか、あるいは、職業以外に伝道の道があるのかどうか、こういうことだと思います。これについて、私の考え方を述べたいと思います。 現代の教えは出家の教えではない この方は、病院以外に神理の揚があって、そこに没入しなければ、本当の意味での天命天職を遂行することはできないのではないかと考えております。しかし、実際には、そうではないのです。 現代の教えは、出家の教えではありません。世の仕事をすべて捨てて、いいですか、この世的なるものをすべて捨てて、そして初めて、道に精進するというのは、現代的な教えではないのです。かつて釈迦の時代に、在家の人たちが次々と出家をして、自らの仕事を捨てて、釈迦教団に入りました。釈迦自身は、そのような出家というものを、必ずしも歓迎はしていませんでした。 しかしながら、弟子というのは、すぐ師の形を真似るものです。師が出家をして悟ったのだから、やはり出家ということを通さずしては神理を悟ることはできないのではないか、と。そういうふうに考えて、弟子たちはまず、師の形を真似るのであります。ですから、出家者が、あとを断ちませんでした。そこで、これは非常な問題だとして、釈迦は、「どうか在家のままで修行できる人はしていただきたい」と、こういうことを言ったわけです。 また、次々と夫たちが出家して行ってしまうために、残された妻や子供たちが、釈迦教団に苦情を言ったこともあります。「どうか夫を返してください」と釈迦教団に対して、文句をつけたこともありました。また、娘が出家して尼になる。嫁にいく予定だった娘が出家して尼さんになってしまった。そのときのご両親の悲しみは大変なものだったでしょう。そこで、「どうかそういうことはやめてください。どうかお釈迦様よ、うちの娘を返してください」と、そういうことを言った両親たちもいます。 しかし、そのとき、釈迦はこう言いました。「それはあくまでも、本人の問題である。本人が在家のままで修行するならそれもよし、本人がわれらのもとに来るならばそれもよし。あくまでも、それは、本人の問題である。悟りをもとめる心とは、本人の心、神性、菩提心であるからして、それを何人も妨げることはできない。その菩提心が、どのようにして満たされるかということが問題なのである」と。このように釈迦は、言ったのです。ですから、すなわち、在家もよし、出家もよし、世の混乱は招きたくないけれども、それは本人の心の問題であるということを釈迦は言ったのであります。 それぞれの持ち場を戦場と考えなさい さて、現代においては、はたしてどうであるのか。この方のように、たとえば、夜十一時までも病院で忙しく働いているのであれば、なかなか自分の時間がとれないのは当然です。そこで、これを捨てるか二者択一になるわけです。さあ、どうしたものでしょうか。ただ、私はこう言います。あなたたちのなかには、どうしても他の仕事は辞めて、専任で、専従で、仕事をしていただかねばならぬ人がいることは、もちろん確かです。そういう人がいてくれないと、確かに神理というものは広まりません。しかし、大部分の人には、それぞれの持ち場、これを戦場として考えていただきたいということです。 いいですか、これは一つの、この地上における、三次元における戦(いくさ)なのであります。戦をするには、さまざまな陣形を採らなくてはなりません。戦闘部隊というのが、たくさん必要なのです。切り込み隊も必要です。また、殿(しんがり)を務める人もいます。このように、部隊があるのです。 大きな部隊で今、私たちは、神理のための、神のための戦を起こそうとしております。それぞれの部隊は、小さく分れております。小隊です。大隊があり、中隊があり、そして、小隊があるのです。それぞれの小隊は、それぞれのところに持ち揚がある。これがすなわち、それぞれの人たちが持っている職場というところなのです。各自の職場とは、それぞれが自分の長所を活かせる場だと言えます。そこは、自分の基盤なのです。ですから、自分の持ち場をいたずらに捨てて、いいですか、神理を求めている人ばかりが寄って来て、生活をしたところで、本当の意味での法は広がらないのです。 勤務時間外に教えがあるのではない ですから、この方に対しては、私は、次のようにアドバイスをしたいと思います。この方は、一日病院で、八時間、あるいは十時間、さらには、おそらくそれ以上の時間を過ごしているはずです。そこで、そのなかでの密度を高めることを考えてごらんなさい。 今、この方が、病院で指導しているのは、いわゆる西洋医学の範疇(はんちゅう)のなかでの指導だろうと私は思います。ですから、このなかにおいて、いいですか、この方が心を学ぶことによって、心の教えを一人でも多くの患者さんに説いてあげるということです。これが大事なのです。外にあるのではありません。勤務時間の外に教えがあるのではないのです。勤務時間のなかにも教えはある。そういうことです。 また、この方は、病院に勤めております。すなわち、救われたい、なんとかしてこの世的な悩みから救われたい、病という現象の苦しみから逃れたいという人たちに囲まれているわけです。これは、またとない神理伝道の場だと言えます。こういう場を持っている人は、他にいないのです。一般の人びとが、こういう患者さんたちに教えを説こうとしても、いいですか、患者さんはいません。患者さんたちが、足を引きずって向うからやって来なければ、なかなか教えというものは、説けないのです。 職場のなかにも、神理伝道の場がある 病院というのは、最初から、悩みから救われたいという人が集まっている。まさしく、素晴らしい神理の伝道の場だと言えます。これを活かさない手はないのです。ですから、この方に関して、私は言います。夜帰るのが遅いかもしれません。休みがあまり取れないかもしれません。しかし、その休みの時間は、できるだけ自分の勉強に取り、そして、必要最低時間を他の人びとと連絡を取る時間とする。そして、自分の説法の場は、病院のなかにあると考えることです。 病院のなかというのは、もちろん、そこでお経を上げろと言っているのではありません。いいですか、神理の言葉を、出会う患者一人一人に投げかけてあげるということです。自分が勉強していることを教えてあげる。そういう機会はあるのです。病院の患者さんは、忙しくありません。瞑想ではないけれども、一日一日うつらうつらと過ごしておるのです。このようにムダに時間を過ごしている。ですから、このときに、いいですか、患者さんの部屋を回って行きながら、神理の話をしてあげることです。そして、この方のファンをつくっていく。病院のなかにね。神理の伝道といっても、別に特定宗教の教義を教える必要はありません。自分が学んだ心の教えを伝えてあげる。そういうことです。そういう形で、やってごらんなさい。 そして、患者さんだけでなく、自分を取り巻く医師の人たち、看護婦の人たち、こういう人たちにも、心の世界というものを教えてあげなさい。愛を持って医師や看護婦が患者に接するのと、あるいは、そうではなくて、薬が効く効かない、手術が成功するかどうか、こういうことばかりを唯物論的にやっているのとでは、雲泥の差があります。愛を持って接すれば、治る患者は多いのです。つまり、愛の光、神の光によって影響を受け、病気が治っていくからです。 病人というのは、悪霊に憑かれている場合が多いのです。そういう人たちも、神理の光、愛の光によって救われてきます。ですから、とにかくこの方は、現在の職揚のなかに神理伝道の揚があるということを真剣に考えていくことです。それが、この方の生きる道です。やがてこの方には、必要な時間が与えられるときがきます。そのときまでは、現在の持ち揚のなかで、最大限に自分の力を発揮していく。それが大切です。 (1986年8月24日の霊示) 6.ある画家の転生と今世の使命について (問) 私は現在、画家として生活しております。小さいときから絵は好きで、描き続けてきたとはいうものの、周囲の人たちがいくら誉めてくれても私自身はとても自信がなくて、画家として身をたてるなど、思いもよりませんでした。 私は、いわゆる虚弱児で、小学生の頃から、「人間は、死んだらどうなるのだろう」といったことばかりを考えていました。今でいう、いわゆるネクラだったのです。高校は工業高校に進みましたが、専門科目についていけなくなり、倉田百三や内村鑑三、山室軍平などの著作を読みふけっているうちに、キリスト教の伝道師になろうと神学校に進学。しかし、心身ともに参ってしまい、退学しました。その後、社会福祉関係の仕事を二十年近くいたしましたが、あるきっかけから、画家になったというわけです。 画家になって初めて、自分の使命は、世の人びとに希望と安らぎを与える絵を描くことだとの自覚を持つことができるようになりました。数年前から、今後描くべき絵へのうずきがあります。ただ、今までのいきさつから、社会的に求められている制作に追われてしまい、しかも、妻子のことを考えると、自分のやりたいことだけに没頭できないという葛藤があります。画家としてのキャリアは、まだ十数年でしかありません。海外に取材旅行に出かけることが多いのですが、いずれの国であろうとも、そこに住む人びとは、私たち同様、ごく平凡な暮しを希求していることを感じます。それにつけても、政治イデオロギーの対立から、ある少数の権力者に地球人類の命運が握られていることに恐ろしさを感じます。私のこれからの生き方に対し、また、芸術生活を続ける上でのご助言をいただけたらと思っております。 画家(男性)50歳 (答)日蓮聖人の弟子であった前世 この方に対して、現在、私が考えているかぎりのことを簡単にお伝えしたいと思います。一つは、現在の画家ということに関して。今一つは、それ以外のことに関してです。まず、この方は、現在の仕事、画業ということに専念してやってきて、けっこう軌道に乗ってきたようであります。しかし話としては、やはりこの方の過去世から遡って話を説き起こしていきたいと思います。 この方の前世は、日本の鎌倉時代に、日蓮の弟子だった六老僧の一人日向(にっこう)であります。鎌倉時代、私は三十二歳のときに立宗しました。そして、郷里のお寺で、最初の説法をしたのですが、このとき、私が悟った法華経こそ真理だとの仏法を説きました。しかし、予言者故郷に入れられずではありませんが、郷里の檀家の人たちにはこの説法が受け入れられず、私は郷里を追われ、鎌倉の地に逃れてまいったのです。そして、鎌倉で、辻説法をしたりして、布教を始めたのであります。 その頃、私を助けて法華経を伝道していた六人の弟子たちがおりました。これを日蓮の六老僧と言いますが、この画家は、その六老僧の一人日向だったのです。当時のこの方は、大変人情の機微(きび)に通じている人で、日向の説法を聴く人びとの心を揺さぶることで有名でした。また一方では、大変な詩人でもあり、日向の書く文章、語る言葉の一つ一つに光がこもっておりました。芸術的なセンスにも大変優れていた方で、書を書かせても、一級品となす方だったのです。 聖徳太子の弟子であった前々世 さらにまた、この人の過去世を見ていきますと、今から千四百年近い昔、やはり日本に生まれています。西暦でいうと、六百年前後です。この方は、どうやら聖徳太子の弟子として生まれたようです。聖徳太子の時代に生まれて、太子の仏法の宣伝にずいぶん協力した。そういう方のようであります。 太子は隋(ずい)の国に小野妹子(おののいもこ)を始めとする使者を送って、ずいぶんあちらの仏教思想を取り入れました。その際に、この方も、ずいぶん協力をしています。とくに仏像を中心とした仏教芸術を広めることに主として力があったようです。 飛鳥時代、すなわち聖徳太子の時代には、仏教の仏像、あるいは仏画、こうしたものがたくさん入ってきました。この方も、そうした仏教芸術を中心に、仏教思想を日本の国内に伝えるために、かなり努力した方であります。このとき、朝鮮のほうから日本に渡ってきた帰化人がおります。この人の名を鞍作鳥(くらつくりのとり)と言います。飛鳥寺というところに大仏がありますが、この大仏をつくった人です。鞍作鳥が、現在、この方の指導書をしております。同時代に生きて、共に仏教関係の指導に頑張った人たちです。 釈迦の弟子であった過去世 さらにそのまた前世を透視してみると、紀元前四百数十年前、これは釈迦の弟子のようですね、釈迦の死後弟子たち数百人が集まって仏典の結集ということを行なったのでありますが、そのときのメンバーの一人としてこの方がおります。今あなた方が、私たちの声をこういう形で原稿に起こして書物をつくっているように、この方もそのときに、仏典の結集を手伝っておりました。当時、まだ年が若かったので、十大弟子の一人ではありませんが、アナンたちと一緒に仕事をしていた方です。この方の釈迦の弟子のときの名前は、ウイヤリーという名前で呼ばれています。 アポロンの弟子であった四代前 さらに四代前の前世に遡っていきますと、今から三千六百年から三千七百年くらい前でしょうか、ゼウスという人がギリシャに肉体を持ちました。このとき、ゼウスを中心に、大変文化が栄えましたが、ここでも、この方は出ています。 この当時は、たくさん絵を描いていたようです。ですから、現在の画家の面は、このギリシャ時代の魂の性質がかなり出てきているようです。この方は、そのゼウスの時代に、ゼウスの息子であった光の指導書アポロンを助けて、伝道に力のあった方です。 アポロンには、当時、主だった幹部である弟子が五人ほどおりましたが、このアポロンの弟子の一人でした。すなわち、アポロンを中心とした光の芸術を手伝っていた方の一人であります。アポロンの弟子のときのこの方の名前はエリオンと言います。五人弟子がいたなかでは、まあ、中心に近い役割をしていた方です。こういうふうに、この方の魂は宗教と芸術の両方の面を持って生まれてきています。現在、帰化人であった鞍作鳥が指導霊をしている関係で、こういう芸術方面にずいぶん手腕を持っておりますが、この方の過去世を見たら、わかる通り、この方は、芸術の方面だけでの、一生終わる方ではありません。真理の伝道のために、頑張っていただきたい方です。 また現在、私、日蓮がこうして直接あなた方の指導をするという役割をしていて、この方が、日向上人が今地上に出ておって、そして何も手伝わないわけにいかないのは、当然のことであります。それは、ちょっと考えればわかるはすでしょう。 今世の使命について 過去世の話をして、そして、前世において日蓮六老僧の一人であったこの方の今世における仕事が何であるか、それは、自分自身で、よく自問自答してみることです。そうすれば、わかるはずです。こうしたことは、解答として与えられることではなくて、自分がその解答をしなければいけないことなのです。画家だけで終わっていいわけはないのであります。 他の諸国について、権力者によってどうこうと、この方は言っていますが、こうしたことは、法の全体から見れば、小さなことなのです。今後、いろんな法を学んでいくなかで、その解答を与えられていくでありましょう。いずれにせよ、こういう小さなものにとらわれずに、もっと大きな全体の法、全体の悟りというものを勉強していただきたいと思います。 (1986年9月1日の霊示)
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目次 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 4.三段構えの今回の救世事業計画 5.真の正法には文証、理証、現証がともなう 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ 8.白色光線 ― イエス・キリスト 9.赤色光線 ― モーゼ 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ 11.銀色の光線 ― ニュートン 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター 13.紫色の光線 ― 孔子 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ 15.七大天使ほか八次元の諸如来たち 16.ミカエルの生命体 17.GLAでの霊道現象の誤り 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 19.人につかず、組織につかず、法につけ 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 高橋信次です。今日は第5章「大宇宙と神理」ということで、宇宙の秘密もふくめた上で、お話をしていきたいと思います。 さて、今まで「新復活」「人類救済の原理」「愛と慈悲の世界」「正義の時代」とまあ面白おかしく、時に厳しく言ってきましたけれども、私の本意がどこにあるかというと、皆さん、私は今立場を明らかにしておきたいと思うのです。本論に入る前に、立場を明らかにしておきたいと思います。私の考えは三つあるんです。 第一点はね、神理っていうのは普遍のものであって、特定の宗教とか、特定の団体にだけ属するものではない、ということです。そういうことでもって、今話をしておるわけです。 ですからあなた方の霊言集の中にも、高橋信次も出れば、谷口雅春も出れば、日蓮も、親鸞も出る。こういうふうにいろいろ出ています。キリストも出ていますね。こういうように今、天上界の総力をあげて、すべてのものが唯一の神から出ているということを、知らしめるためにやっとるのです。 そのために私も、最近の人間でありますけれども、生きていた時にそういうことの話をし、また死後そういうことに対して、まだ関心を持っておりますから、この宗派を超えた動きというもの、精神運動というものに加わるために、あえて霊言を今、お送りしておるわけです。まあ、こういうことが私の考えの一つです。 それから二番目にお教えしたいことはね、私も生前GLAというものをつくって、そして七年、八年、法を説いていろいろな教えを残しましたけれども、部分的には、まだこちらに来て修正したいこともあるし、それから後の世の人たち、あるいは現代の現時点の弟子たち、残された弟子たちにもいくつかの言葉を言いたいという気持ちもあって、今、メッセージを送っているわけです。こういうことが二番目ですね。 第三番目は、まあ谷口雅春さんもそうだし、内村鑑三さんもそうだし、私もそうだけれども、こういう人たちが皆、近代日本の、まあ宗教といいますかね、時代の精神運動を起こすための、土台をつくるために出て来た光の天使たちなんですね。そしてこの同じ流れをくむものが、大川隆法さんを中心とする新しい動きであると。こういうことの証明のために私たちは出て来ておるのです。 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは いつの時代もそうでしてね。後に来る人たちを予言していくのが私たちの使命なのです。 私は一九七六年の六月にこの世を去りましたけれども、その前から私の後継者が出て来るということについてのべました。そして、「その人は若者である。若者が大人たちに法を説く日が来るであろう」ということを、私はのべました。そして、「その若者が関西から出て来るであろう」ということも、私は講演会でのべたことがあります。 ただ私も死ぬ間際にあっては、すいぶん混乱がありました。混乱があったために、正確に後継者がだれであるかということを言えませんでした。そのために、その後十年間さまぎまな混乱があったと思います。これの収拾をつける意味でも、私は自分の本当の後継者がだれであるかということを、皆さんに明らかにするために今、語っておるわけです。 まあ後継者ということで言えば、大川隆法さんに失礼に当たりますけれども、法をさらに継いで発展させていく方がどなたであるかということを、私は言う義務があると思うのです。これが私の使命だからです。このことが明らかでなかったために、私の死後、さまざまな混乱が起きたからです。 後継者争いということで、GLA系統でさまざまな争いがありました。それは、私自身にも責任があります。そのために今、その間違いを正すために、私はこうして霊言を送っておるわけです。高橋信次が霊言を送ることができるということは、一体どういう意味かということを、地上の皆さんに分かっていただきたいからです。 私は死んで間もなく一度だけ地上の人たちにメッセージを送ったことかありますけれども、その後一九八一年六月に大川隆法さんに霊示を送るまでの間、だれに対してもメッセージを送ったことはありません。そして一九八一年の六月から、現在一九八七年の一月ですけれども、この五年半の間、私は大川隆法さん以外のところに通信を送ったことは一度もありません。 これに関してさまざまに言う方がいるでしょう。「そんなはずはないんだ」と。「高橋信次という人が、そんなところへ出るはずがない」と言う方もいるでしょうけれども、地上の皆さんに今知っていただきたいことは、この霊界通信の原理なのです。どういう原理でもってできているかということですね。私たちは霊媒(れいばい)にかかって出て来ているのではないのです。巷(ちまた)の拝み屋とか、あるいは霊能者たちに通信を送るのと全然違うことなのです。ます、これを知ってはしいんです。 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 私たち、天上界の法をつくるための、主流の魂系団たちが、やっておることは何かというと、結局いろいろな時代に出て、文明の原理をつくり、聖典をつくってきたのは私たちなのだということです。 二千五、六百年前にインドにおいてブッダが悟られた時に、ブッダに対していろいろな啓示を与えたのも私たちでありました。 また二千年前にイエス様が目覚められた時に、霊言を伝えたのも私たちでありました。 また三千二百年前にモーゼが霊言を伝えた時に、いろいろなことを言ったのも私たちでありました。 その前にはギリシャのゼウスのところにも、私たちは通信を送りました。 こうした大規模の、世界的規模の大きな啓示を与えるために私たちはやっとるんであって、私たちの啓示というのは単なる霊能者とか、単なる霊媒とかには絶対にかからんのです。出て来ないのです。そういうことを間違えてはいけないのです。 私たちが通信を送るということは、本当に世界的規模での救世の事業が起きる時だけなのです。それ以外の時は、絶対にあり得ないのです。そういうことです。 ですから、地上の皆さん方、高橋信次が通信を送る人というのはどういう人かというと、結局その人が救世の事業を起こし得(う)るか否(いな)かにかかっておるのです。真実、救世の事業をしている人であるならば、私たちからの通信を受けることができるのです。そうでない巷の霊能者たちは、私たちのメッセージを受けることが絶対にできません。 今、世界的に大救世主の降臨(こうりん)であるとか、大マイトレーヤの降臨であるとか、大導師の下生(げしょう)であるとか、こういうことが言われています。まさしく、そういう時期が来ておるのです。そのために、私たちは、その証明のために、こぞって出て来て、こうして霊言を伝えておるのです。 単に一宗、一派を起こすだけであるのならば、キリスト教系ならキリスト教系の霊言を送ればそれですむのです。 あるいは仏教系なら、日蓮なら日蓮の霊言を送れば、それですむのです。それで日蓮宗系の新興宗教は十分できるでしょう。日蓮さんが霊示を送っただけで、一宗一派が十分できます。それだけで何百万人もの会員を有するような、大教団ができると思います。しかし、日蓮さんが中心的な指導をしながらも、日蓮さん以外の人が出て来ています。空海さんが出、親鸞さんが出、道元さんが出、仏教系ではそういうふうにいろいろ出ています。 またイエスが出、モーゼが出、また内村鑑三が出て来ています。それから、これが真実であることの証明のために近年の人で谷口雅春さんであるとか、私とかが出て来とるわけです。 地上の人たちはキリストの霊言といっても、それがキリストかどうかは分からない。あるいは、日蓮といったって、昔の日蓮の性格が分からない。あるいはモーゼといったって、そんな人見たことがないということで分からんでしょう。 それでは近年の人で、高橋信次が出て来ればどうか。あるいは内村鑑三が出て来ればどうか。谷口雅春さんが出て来たらどうか。これを見れば、分かるはずなのです。 高橋信次というような、十年前に、この世を去った人の霊言が出るということは、これは一つの勝負なわけですね。もし偽物(にせもの)であったならば、とんでもないペテン師になってしまいます。しかし、あえてそれを世に問おうとしていることが、一体どれだけの意味かあるかということを地上の人たちは知らねばならんのです。私たちは、冗談やざれ言のために言っておるのではないんです。本当にこぞって世の中を救っていくがために、今霊示を送っておるのです。 4.三段構えの今回の救世事業計画 したがって、高橋信次も大川隆法さんに霊言を送っておるけれども、これは決してGLAの後継者指名のためにやっておるのではないのです。私も生前知りませんでしたけれども、今回の地上の救世事業というのは、何段階にもわかれて計画がなされておったのです。 とくに日本を中心の計画でありますけれども、キリスト救系では、明治の内村鑑三さんであるとか、あるいは政治家でも明治維新の人がいっぱい出ました。こういう方が出て、日本を仏国土にするための最初の準備をしました。坂本竜馬だとか、あるいは木戸孝允だとか、福沢諭吉だとか、こういう方が出て、まず、地ならしをしました。 彼らが地ならしをして、それからそれ以後にも、たとえば大正、昭和期に出口王仁三郎みたいな霊能者も出たし、あるいは谷口雅春さんが出て来たし、あるいは、それ以外にも、いくつかありますけれども、出て来ました。また私たちが出て来ました。こういうふうにしてどんどん地ならしをして、第二段階、第三段階へと進んでおるのです。 谷口雅春さんという人は万教帰一をとなえましたけれども、万教は同根で一つのところから出て来ているってことを彼は実証しました。理論でもそれを説きました。 そして高橋信次が出て来て、それが理論だけではなくて、霊能力というものを駆使して、霊的現象として、事実であるということを皆さんの前に、ご披露(ひろう)したのです。 私は霊道現象において過去世の姿というのを皆さんの前に、全国の何万、何十万人の人の前に示しました。霊道現象というのをやって過去世が本当にあるんだということを、そしてある時は仏教系統に生まれ、ある時はキリスト教系に生まれ、いろいろなところを転生輪廻して、人間という者は生まれ変ってきておるんだという、そういうことの実証をやってきました。万教が一つであるということを霊的現象として、実証したわけです。 そして今、ニ段階目です。大川隆法さんが出て来て、本当に理論的にも現象的にも、万教は一つであり、唯一の神の心の発現によるのであり、そうして今、全世界をユートピアにするための運動が起きているんだということを文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)、この三つそろったことを、今やろうとしておるのです。 5.真の正法(しょうほう)には文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)がともなう 文証というのは文章ですね。文章に書いて納得がいくような法があるということ、これが文証です。現証というのは、現に優(すぐ)れた霊能力を持っているということ。霊現象をともなうということですね。これが現証。理証というのは、これは、理論的にも、それが筋が通っておって、つじつまが合うような理論がちゃんとあるということ。まあ、こういうことです。 たとえば過去世で言えば、現証というのを担当したのがエジプトの地に生まれて、カナンの地を目指したモーゼです。モーゼはさまざまな奇蹟を起こしました。ある時は杖を蛇にかえ、ある時には紅海を真二つに裂き、ある時にはマナという食べ物を天から降らせ、ある時はヤーヴェの神の十戒を石板に刻みました。こういうことをした現証中心のモーゼの動きがありました。 あるいは、その後紀元前六百五十四年に生まれて、紀元前五百七十四年に地上を去ったゴーダマ・ブッダという人、この方は、文証を主として担当しました。文証というのは、要するに法です。法という体系化した神理ですね。これを担当したのが、ブッダであったわけです。 そうして二千年前イスラエルの地において、イエス・キリストが出て、まあこの人は、主として理証というのを実証いたしました。理証というのは何かというと、分かりやすく言えば、原因・結果の法則でもあるわけです。たとえばそのような心を持てば、このような結果が出るということを、厳然とした、その法則を明らかにする。これが理証であります。 一つの例として、愛を心に描くことによって、神の国というのが自分の心の中に、そして自分のまわりに現出するということね。これを説いたのがイエスであります。また神の光によって、病気が治るというようなことも現証としてあらわしました。それから悔い改めによる神の国の出現ということを説きましたね。まあ、こういうことで、イエス様というのは、そういういわゆる法則も説いたのです。神の法則を説きました。そして愛について語りました。こういうふうな特徴があったわけです。 で、今じゃあ、大川隆法さんっていう人が出て来ておるけれども、日本で。彼は一体何をするのかという疑問があろうかと思います。文証、理証、現証この三つとも、おそらく備えることとなりましょう。この三つとも備えたものが、真の正法であることを私はすでに語っておるはずです。もちろんこの中でいちばん重点があるのは、文証です。文証っていうのは、要するに法の完成であり、仏典の編纂(へんさん)であります。二千年後、三千年後残るため、仏典の編纂、これが文証であります。これがもちろんいちばん必要な仕事です。なぜならば、彼はそういうことを使命に持っとるからです。 大川隆法の光線は黄金色の光線、黄色い光線と言ってもいいけれども、黄金色の光線、すなわち法の色であります。法の光線ですね。 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ あなた方は読者たちもふくめて、七色の光線のことを霊言集の中でさまざまに読んでおられると思います。この大宇宙を貫いている、神の光というのがあります。そして神の光というのは、もちろん燦然(さんぜん)たる光でありますけれども、その光をプリズムによって、七色に分光しておるのですね。七色に分光してさまざまな機能を持たしています。そして大宇宙の神の、つまり、十次元以降の神のエネルギーをプリズムによって分光しておるのがだれかというと、これがエル・ランティという立場の人間なわけです。エル・ランティというのは何度も言いましたけれども、私自身の生命体であります。 しかしエル・ランティというのは私自身の生命体というだけでは不十分です。そうではなくて、高橋信次という、そんなちっぽけな人間ではなくて、もっと偉大な生命体なんです。私の全意識体は、もっと偉大な意識体なんです。 こういう意識体があって十次元からの指示を受けながら、光を受けながら、それをプリズムのように分光しておるのです、そして九次元の各大如来たちが、役割を担当しておるのです。 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ そして、その中で法の光、こういう七色の光の中で法の光というのがあります。黄色い光線です。あるいは、これを黄金色の光線と言ってもいい。これを担当しているのがゴーダマ・ブッダなんですね。釈尊の生命体っていうのが、法というのを担当しています。法、あるいは悟り、悟りの方法論、これを担当しているのがブッダなのです。 8.白色光線 ― イエス・キリスト それから次に白い光線というのがあります。白色光線、これがイエス・キリストの光線なのです。これは主として愛です。つまり、愛の光線なんですね。先はどのブッダの黄色の光線が法と、慈悲も入っていますけれども、そういう光線であるならば、このイエス・キリストの光線は愛の光線であり、白色光線です。 9.赤色光線 ― モーゼ それからその次に何があるかというと、モーゼの光線があります。モーゼっていうのは色でいうと赤です。赤い光線です。赤って何か。赤っていうのは、この世的に言えば政治関係です。政治、あるいは指導者たちの光線です。また別の時には奇蹟の光線でもあります。これが赤です。 したがって、モーゼの光線の系列下にあるのは何かあるかというと、たとえば、各時代に活躍した英雄たち、こういう方がたはモーゼの光線の下にあるのです。アレキサンダー大王であるとか、あるいはフランスで活躍したナポレオンであるとかね。こういうふうな英雄たち、時代をつくった英雄たちの中で、光の天使たちを指導しておるのがモーゼなんです。それ以外の役割としては、さまざまな奇蹟も起こします。これが赤の光線です。 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ さらに、次の光線かおりますね。これは青い光線です。青というのは何の色かというと、哲学や思想の光線なのです。天上界において、青の光線を主として担当しているのはだれかというと、これは、一人ではないんです。九次元の中で青を担当しているのは主として二人いるのです。ゼウスという方とマヌという方と、この両方がかねてやっておるのですね、青の光線をつくっています。この両方で青の光線をつくっています。で、哲学、思想関係をやっています。ゼウスには、もう一つ担当があるために二人でやっておるんです。 マヌという人の仕事というのは、私の、つまり、エルこフンテイ意識のプリズムによる分光の補助、分光作業の補助と、それと青の光線の補助をやっているのですね。この二つをかけ持っているのがマヌという九次元如来の意識体です。それと、この青の光線、哲学、思想、文学もありますけれども、文学関係を持っているのが、このゼウスです。 以上で、黄色を言って、白を言って、赤を言って、それから青を言いましたね。 11.銀色の光線 ― ニュートン 残っているのは、たとえば銀色の光線というのがあります。これは科学者の色、科学の光線です。白銀と言ってもいい、シルバーの光線です。これの頂点に立っているのはだれかというと、ニュートンという人です。ニュートンという人で、近代物理学の祖であるということも言われておりますけれども、この人は過去世においてギリシャに生まれて、アルキメデスという名前で出たこともあります。こういう方です。こういう如来がいて、主として科学担当をしております。 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター あと、残りで緑色があります。緑の光線、これも『孔子の言言』が出てその中で老荘思想というようなのが出ていましたけれども、老荘というのが緑の光線です。けれども老子というのは、べつに九次元の方ではなくて、八次元の方です。じゃあ、緑のトップっていうのは、だれがやっているのかというと、緑は、さっき言ったマヌという人もちょっと、一部分持っております。それから、それ以外に持っとるのがね、ゾロアスターという人がいるんだけれども、この意識の一部分も、この緑を担当していますね。マヌとゾロアスター。この辺が半分ずつ持っておるのが緑なんです。こういう意識体があります。 13.紫色の光線 ― 孔子 それから残りが、紫色ですね。紫の光線というのは、すでに霊言集の中で紹介されています。この紫の担当というのは、孔子様が担当です。孔子様がいちばん頂点におります。まあ孔子様が昔、連れて来た霊団が紫の霊団で、ここは主として「礼節」とか、あるいは「秩序」とか、あるいは「忠」、「孝」、「信」、「仁」こうしたものをつかさどっております。これが孔子様です。 この下には、この系列としては、日本でいう神道系の天之御中主之命、あるいは天照大御神、こういう人が紫色の光線です・こういうふうに、立場が分かれておるわけです。 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ あと、無任所でマイトレーヤという人がいますね。九次元の中にマイトレーヤという人がいて、この人は特色ある光線を特っておるわけではないけれども、マイトレーヤというのはプリズム運動の一つなんですね。そういう調整役をしています。 マイトレーヤっていうのは、今、大救世主マイトレーヤの降臨というようなことでいろいろ言われておりますけれども、マイトレーヤというのは、まあ地上には出ていません。地上に出ている人じゃないんです。あるいは弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことをマイトレーヤだと言う人もいますけれども、いわゆる弥勒菩薩と九次元意識のマイトレーヤとは違うのです。違う意識体なのです。マイトレーヤと言われている人は、今、九次元にいる意識体の一つです。そして男性です。意識体としてはもちろん男性です。そしてまあ、私が主として分光をやっておるとすれば、マイトレーヤというのは、今の十人の大如来たちの役割の調整を主としてやっているのですね。文明、時代によって、どういう光線を強くするかっていうようなことを、こんなことをやっておるのがマイトレーヤなんです。 たとえば、今二十世紀末になると、そろそろ、これは新たな法が説かれるべき時代だっていうので黄色の光線、まあブッダの光線ですね、これを非常に強く地上に照らす時が来ているのではないか。こういう役割を決めるのがマイトレーヤの立場なのです。こういうことをしています。こういうふうにいろいろな方がいて、九次元で役割の分担をしておるのです。 ですから私は主として、光線をプリズムにかける役割と、それと各人のその時代、時代での役割を決めたり、こういうことをしています。 七大天使ほか八次元の諸如来たち それから、これから下に、八次元の最上段階に、いろいろな如来たちがいるのです。八次元如来たちがね。キリスト教系でいえば、たとえばミカエル。大天使長のミカエルっていうのがいます。それからガブリエル、ラファエル、サリエル、パヌエル、ウリエル、ラグエル、こういう七人の天使たちがいます。こういう人たちは、もともと大昔に人類が円盤に乗って、地球に渡ってきたわけですけれども、その時に私が連れて来た方がたなのです。そして私は、直接は地上にほとんど出ませんでしたので、彼らはイエス様のもとで、弟子として働いておったのです。こういう方がたがいます。 あとブッダの下にいる八次元最上段階にいる人たちというのは、たとえば大日如来であるとか、阿問(あしゅく)如来であるとか、ブッダの下には、こういう如来たちがいるのです。こういう大如来たちがいます。それ以外にも、地上の人たちが知らないような如来たちがいっぱいおります。 それからまた、孔子様の下にはさっき言ったように天之御中主之命であるとか、御中主之神と言ってもいい、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)とか、こういう方がいます。 他には哲学系統については、さっき言いました。ゼウスとかマヌとかのちょうど下あたりにはだれがいるかというと、ソクラテスあるいはプラトン。あるいはヘーゲル。こういう人もいますけれども、へーゲルという人はプラトンの生まれ変わりなのですね。ソクラテスたちは八次元の最上段階です。こういう方がいますね。それ以外では中国系でも、これはイエス様の系統ですけれども、墨子様という人がいます。この方は、八次元の上段階の如来です。 八次元の上段階っていうのを広い意昧では太陽界って言うこともあり得ますけれども、普通は太陽界っていうのを九次元と言っています。が、時には八次元と九次元の境目のことを太陽界って言うこともあります。 16.ミカエルの生命体 それでミカエルの生命体っていうのを先ほど言いましたけれども、アポロンだとかそういう形で何度か地上に出たことがあります。 現在もミカエルは天上界において、陣頭指揮をとっています。今、法が説かれる時期でありますが、同時に二十世紀の後半から二十一世紀にかけては、天変地異が起こり、地上が非常に暗くなり、争乱となります。そして悪魔の勢力っていうのが、非常に強力に働き始めます。地獄からはい出して、地上を混乱させようとします。そういう時ですから、ミカエルが非常に今、強く働いとるわけです。 ミカエルっていうのは、別名軍神マルスでもあるわけです。そういうことで悪と戦う、こういうことをやっている最高責任者です。で、地上に出ている、いろんな悪い宗教ですね、悪霊たちが根城(ねじろ)にしている悪い宗教の教かず、この悪魔たちと。今、戦っているのがミカエルです。これは、いつも私のそばにおります。 ただ、私が亡くなる前にミカエルというのが何度か出たことがあります。そして、私とも話をしました。はっきり言ってしまえば、私の娘である高橋佳子を通じてミカエルというのが語ったことがあります。その時に私は、ミカエルというのが、高橋佳子だということを言ってしまいましたけれども、そうではないのでこの際、訂正しておきます。私の光を得て、霊道を開いた方がたにいろいろな、そういう天使が入っておったのです。 ミカエルというのはちょうど、指尊霊だったわけです。男性の光の指尊霊なんです。光の指導霊として入ったわけです。高橋佳子、そのものがミカエルではなくて、高橋佳子の体の中に、私がいた時にミカエルが入って通信をしたんですね。ミカエルが私の中に入って私自身が自問自答する代わりに、彼女の体を借りて、ミカエルが語っておったのです。それに対して私は、非常に誤解をしました。 17.GLAでの霊道現象の誤り 当時のGLAでの私の間違いとして、今言っておきたいのは、いろいろな聖霊たちが入って語ると、その聖霊をその人自身だと認定したことが数多くありました。これが間違いだったので、私は修正をしておきたいと思います。 これ以外にも、親鸞という人、こういう人が出て来て語ったことがあります。私の身近にいる人のロを通して語ったことかありますけれども、親鸞が出て来て、その人の口を通して語ったということは、その人が親鸞とは違う方であるということです。これは私は、はっきりしておきたいと思います。 まあこういうことは、GLAにいる人たちにとってはおそらくショッキングなことであろうと思うけれども、事実は事実ですので、私ははっきりしておく必要があると思うのです。またそれはね、あなた方自身がおかしいというのではなくて、高橋信次自身が間違っておったことでもあるから、それを修正せねばならぬと思うのです。 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 私自身が、自分を釈迦だと思っていた時がありました。そして『人間・釈迦』も書いたし、霊道現象においても釈迦の意識として、ずいぶんいろんな人たちの病気を治したり、あるいは現象を起こしました。そのために、私自身が自分の過去世を釈迦だと思いました。そう思っていました、何年かの間。 そのために釈迦弟子というのがいっぱい出て来てね、いろいろ話をしました。現象の中で。その中で、間違いがずいぶん多くありました。高橋信次が釈迦なのではなくて、要するに高橋信次を助けるために釈迦の意識体の一部が高橋信次を指導しておったということです、当時ね。そして過去世のことを教えたり、あるいは他の聖霊たちとインドのことの話をしておったのです。 私自身は、現在エル・ランテイという名前でも呼ばれているし、あるいは西の方の地では、エホバだとか、ヤーヴェだとか言われている人間でありました。けれども、私自身が最近地上に出て、肉体を持ったことがなかったがために、私自身の過去世というのがなかったわけです。 しかし過去世がない人間が、人間には過去世があるということを一生懸命説いているわけですから、こういうのは非常に具合が悪いわけであったのです。それでは困るということで、とりあえす釈迦の意識を使って、インドの時の模様などを一生懸命語っておったわけです。しかし、これは誤解であったわけです。 人間には皆過去世があるから、自分にも過去世があると私は思っておったのです。ですから、過去世がないと困るから、そういうことで釈迦の意識体を借りてきて過去世を一生懸命しゃべっておったわけです。それで釈迦弟子なんて出ておったから、「なつかしい、なつかしい」といって涙を流して語っておったんですけれど、これは高橋信次の過去世が、皆さんの知っている文明の中にはないことが分かって、今、非常にしまったと思っておるところです。 ただ、残されてしまった人たちはそれを聞いて、「そりゃあ、嘘つきじゃないか」と。「そんな、ペテンをやったな、お前は。どうやって責任を取るんだ」と。「それで天上界におるなんておかしい。そんな嘘をやった人間は地獄におって当然だ」と言うかもしれないけれども、まあ皆さん、私の言葉をよく聞いて下さい。生まれて初めて悟って霊道を開いて、自分自身が過去世でエホバの神であったなんて、もし言い出したなら、一体だれがあなた信じますか。エホバの神なんて地上に生まれたことありません。天上界におると言われて、イエス様が父だと言ったり、モーゼが唯一の神だと言った人です。それが自分自身だなんて、言えるわけがないんです、絶対に。そういうことなんです。 しかし、私も地上では神理伝道の使命がありますから、過去、自分が何かを一生懸命説いたはずだと思っていましたからね。過去説いたことがあるとすれば、仏教に違いないということで一生懸命しゃべっとったわけです。ま、これもやらされとったということですね。 私自身も最近めずらしく肉体を持ったので、それで釈迦のハ正道を現代に復活させるという、そういう第一段階の使命を持って、教えを説きました。そして自分自身も肉体を持つことによって、高橋信次という個性を得ることができたわけです。それによって地上の皆さんと、今、こうして話ができるというわけです。 これが皆さん、ヤーヴエの神が今、出て来て話したとしたら信じられません。ところが高橋信次がしゃべっているから信じられるのです。高橋信次というのがGLAにおってしゃべっとったから、その記憶を持った人がいっぱいいます。だから信じられるのです。それでいいのです。そのために出たのですね。 だから私が今世、生まれた目的というのは、そういう釈迦仏教の露払い、ゴミ落としと、自分自身の個性を得るという、こうぃう使命と目的のために出たわけです。そうして、これから本当の仏法が、説かれていくための準備をしたわけです。そういう意味があったのです。 だから今回は何重にも構造されて、今回の事業が絶対に失敗のないように、計画をされておるのです。これを私は、はっきり言っておきます。絶対に失敗はないのです。そのためにダブルで出て来ているのです。九次元の大マイトレーヤ、大如来が二人も出て来ているのです。こういうことがあるわけですね。 19.人につかず、組織につかず、法につけ ですから私は今、GLAの人たち、あるいは私の過去の教えを学んだ人たちにも言っておきたいけれども、あなた方は組織にとらわれてはならん。高橋信次がつくった組織にとらわれて、これが真実だ、あれが真実だ、我こそは正しい後継団体だと、こんなことを言い争ってはならんです。人につかず、組織につかず、法につくことです。真実の法をつくり、残していくことが本当のやり方であり、本当の使命であって、それ以外にどういう団体を創ったから、それを守っていくとか、これが本物、これが偽物とか、そういうことは、どうでもいいんです。 ですから私も、高橋信次として出て、地上でつくった団体、これを要するに、はっきり言えば、解消してしまう目的のために私は今、語っておるのです。そういう団体は、どうでもいいのです。真実のものが伝わればいいんです。法が伝わればいいんです。法をつくることが今、大事なんです。 GLAであるとか、あるいはGLAの流れをくむいろいろな団体がいっぱいあります。私の弟子たちがやっています。こんな組織そのものを守ることは、どうでもいいのです。そんなことは意味ないんです。彼らには、この地上を救う力がないんです。そんなことはどうでもいいのであって、高橋信次は義理だてしないのです。GLAだろうが、私のかつての弟子たちがやっている団体であろうが、義理だてしないのです。全然関係のないところへ出て来て、今しやべっておるんです。 その理由は、一日も早く正しい法を残して、全世界の人びとを救わねばならんからです。そういう使命のもとに出ておるのです。一宗一派は、どうでもいいのです。 ですから過去において、私の教えを学んだ者たちも、もう一度、心を白紙にして、真実の法を学ぼうと、今、決意してほしいと思います。そのために私が、出て来てしゃべっておるのです。これは一宗一派じゃないんです。神仏の意志を体して、地上に本当の法を残すための運動が今、起きておるのです。これを、地上の皆さんは知ってほしいと思います。 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 まあ大宇宙には、非常に高い次元の意識があります。今、私たちは九次元というところにおりますけれども、九次元以上の十次元にも意識があります。十次元には、「地球意識」とか、「大日意識」とか、あるいは「月意識」とかいうような、三つの大きな意識体があります。惑星意識であります。さらにこれ以上に、たとえば十一次元に「太陽系意識」、十二次元に「銀河系意識」ってものがあります。こんなのは、もう人間ではありません。もっと上の意識もあります。そういうふうに十一次元、十二次元、十三次元、十四次元とこんなふうにいっぱい上の次元があるのです。 そして本当の神様って何次元か絶対に分からないのです。私のところにいてもね。あるいは九次元っていうのは、もしかして富士山の裾野(すその)の方かもしれないのです。神様ってのは二十次元にいるか、五十次元にいるのか分からないのです。 けれども高次元に行けば行くほど、だんだん神の実体とは何かが感じ取れるのですね。神様ってどうやら光であるってことは、もう明らかなのです。一つの光であり、エネルギーであリ波動であり、また愛と慈悲の流れであり、すべてを生かしめる大調和のエネルギー体であり、本源であるってこと、これだけは明らかなことです。 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ そうした大調和の世界の姿をつくるために私たちは今、いろいろな人格をとって、役割分担をして、天上界および地上界を治めているのです。この地上を地ならしし、そして天上界の人びとを統制し、統治しとるのは、その唯一の神から出ている力なのです。そのために私たちは人格をもって、いろんなことをやっておるのです。 私たちは時どき、神様と呼ばれることかありますけれども、本当の意昧での神様ではありません。私たちが神であるというのは、上下(かみしも)の上(かみ)であり、人格神です。 だから本当の神っていうのは、宇宙本源の神っていうのは分かりません。もっと高いところにあります。こういう宇宙の構造があるのです。この中で、私たちは生きておるのです。 ですから皆さん、そういう無限の世界かおるということを知りながら、その中で自分の現在置かれている小さな立場、三次元にある立場というものをよく考えて、一日も早く、そのことを悟り、そして真実の生き方に目覚めることですね。これが大事なことです。 そういうことで、今日は、「大宇宙と神理」ということについて、お話をしましたけれども、まあこうした話は、これからまだまだ続いていきます。皆さんの理解の程度に合わせて、私は何度も話をしていこうと思います。ありがとうございました。
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目次 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 2.われらは何をなすべきか 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 4.新時代に向かっての伝道方法について 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 善川 今後正法流布に当ってどういう方式、態勢で当っていくのがよろしいか。 日蓮 あなた方が団体を造っていくのではないのです。人びとが集まってくるのです。それを誤ってはいけない、あなた方が組織を造るのではないのです。あなた方はほっとくのです。法を広めるのであります。ただ結果的に人が集まってくるのです。人を集めんがために法を説くのであるなら、今の株式会社のようなものと変わりないではないですか、利益を与えてくれるから人が集まるのであるなら会社組織と変わらないではないですか、そうではないのです。"法" そのものを説けばよいのです。それが広がっていけばよいのです。広がる、広がらないはまかせておけばよいのです。本物であれば確かに広がっていきます。本物を目指すべきです。本物は人から人へと、人びとの良心から良心へと伝わっていきます。 善川 私たちが核となって天上界の皆様方のお教えを述べ伝えねばならぬと思いますが、とりあえず、これらのお言葉を紹介させていただいてよろしいか。 日蓮 これも一つの方便であります。病気を治したり、奇蹟を起こしたりするという方便がありますが、私たちの言葉を伝えるという、これも一つの方便だということであります。かつてこのような形で明確に現象が起きたことも、あまりなかったはずです。このように記録にとり、これを文章に起こす、私たちと対談した言葉が残る、ひじょうに稀なケースであります。これも一つの方便であります。あなた方にとっての方便なのです。誰とでも、天上界の誰とでも、呼び出して話ができる。このようなことが実際にできますか、できるようなことではありません。通常にできることではないのです。今、呼び出そうとして、呼び出せない霊がありますか、ないのであります。このようなことはあり得ないことなのです。これが方便なのです。しかして最後にはあなた方独自で新たな法を造成していかなければならないのです。私たちの言葉を伝えるということ、聞き書き――そのようなものだけではいけないのです。ただこれも、人びとに法が説かれるための方便なのです。これが最初の方便なのです。やがてはあなた方が考え行動することが、"法" となるのです。はじめは手引きがいります。手引書がいります。導きがいります。アドバイスがいります。そのために私たちは語っているのです。しかしやがてはあなた方が頭で、自らの頭で判断し、語り、行勤したことが、またそのものが「法」として後世に残っていくことになるのです。 後の世の人びとにとっては、この二十世紀の後半に「日蓮」が出てきて喋ったということは、大したことではありません。あなた方自身が更に今後、未来世における「日蓮」であり、他の宗教者でなければならぬのです。伝え聞きではなく、あなた方自身が、そのような本来そのもの、といいますか、本物そのものにならなければいけないのです。 あなたは今、われわれからの "正法" の流布という自らの任務に、驚きと戸惑いとを感じているようですが、何も心配はいらないのです。これも、あなた方も当然考えておられると思うけれども、既にすべてが予定された約束事であります。心配はないのです。ただ、あなた方は団体を造ろうと思ってはいけない。そういうことを思うと我が出、欲が出てきます。そうではなく、あなた方は真理を広めるのです。神理を広めればよいのです。宗団は出来ようが、出来まいがそんなことは問題ではありません。一人でも多くの人びとに神理が伝わればそれでよいではありませんか。宗団を造ろう、教団を造ろう、教祖となろう、このような考えは持たないことです。 このようなことは、自然に人がそう言い、そうなってくるものであって、それを目指していけば大変な間違いになります。それもまた旧来の行き方にひじょうにとらわれている行き方です。自らの教団造りに奔走して、教団の勢力を広げることに奔走するようでは今までの既成の新興宗教と一体どこが違うのですか、そんなものではないはずです。あなた方が対象にしている人たちは、今後、五百年、一千年、一千五百年、二千年後に出てくる人たちです。それらの人びとを今教団に入れることはできないでありましょう。今教団などというものは、現に今生きている人たちだけの話であります。そのようなものは、大きくとも小さくともよいのです。本当のものを残すということであります。 2.われらは何をなすべきか 日蓮 私たちは、まだまだ大きな眼で見ております。毎日、毎日あなた方に、毎日決まりきったレールの上を走ってもらおうとは思ってはいないのです。究極的に歩んでもらうべき道、それは既に示しました。そして最終的にそこまで行ってほしいというわれわれの希望も持っております。しかし、その目的地と、現在地の間を一体いかにして歩むかということは、あなたがたご自身の修行ということともからんでいるのですから、私たちは、こまごまと小さなことは申しません。ただ、あなた方が間違った方向に歩んだとき、或いは気力をなくした時、或いは失意に沈んだとき、私たちが何らかの言葉を述べ、あなた方に勇気を奮い起こしてもらう必要があるのでばないかと考えています。 善川 まず私たちができることは何でしょう。 日蓮 まず、あなた方一人ひとりが、自らできる最善のこと、自らに与えられた機会、環境、そのような中において、自らできる最善のことを志すべきです。現に何をせよ、と私は申しません。今あなたに何ができるであろうか、ということを考えていただきたい。人それぞれに考えるべきであります。あなたは、あなたで、いかなることをなすことが、今のあなたにとって一番大切であるかということを考えねばならないのです。各人、各様で結構です。自らの最善を尽くすということであります。 その各人、各様の動きが、やがて総合された大きなうねり、大きな動きとなってくるのです。人のことを特に考える前にあなたはあなたのできることをしてください。 善川 ここ四年間は、日蓮聖人が主体となって「正法」をお説きくださってきたのですが、これを今の世で同じく法を求める者に語り継ぎたいと思うのですが、その方法と申しましょうか、形態と申しましょうか、この聖人様のお言葉を、書物という表現形式によって表わすことについては、お許し願えましょうか、重ねてお伺い申します。 日蓮 間違っておりません。やがてすべては白日のもとに晒(さら)されることになりましょう。しかし、ものごとには段階があります。今現在、こうして私と話しているあなたも、三年前、四年にもなりますか、こういう現象が起きたときは、あなたも信じていなかったはずです。あなたが信じないようなことであるなら、一般の人はどうして信じることができましょうか。彼らを信じさせるところに行くまでにさまざまな段階が必要です。その段階、段階においてやはりついてこれない人が出てくるでありましょう。しかしながら、たとえ一握りの人であろうと、最後の段階まで導いてこなければならない人がいるのです。彼らがどうやったらついてこれるか、彼らの立場に立ってあなたは考えていきなさい。 ☆ ☆ ☆ 日蓮 まず具体的な方針、或いは何らかの計画、そのようなものをあなたは私から聴き出したいのだと思います。多分そうでありましょう。私から何かの言葉を聞き出したいと思っておられるのでしょう。何かは言わねばならぬと思います。 まず、あなたは、まもなく自由な時間を得ましょう。以後の行動であります。当座の間と申しますか、暫くの期間と申しますか、手が放れる。或いはあなたにとって、自由の時間ができてくると思います。しかし、やがてこれは自由な時間ではなくなってきます。やがて仕事になってくるわけです。いそがしい時期がやってまいります。そう遠い将来ではありません。忙しい時期がまいります。それまでの間、これは天から与えられたあなたに対する時間であります。あなたの宝物であります。時間は宝物であります。天から与えられた機会だと思って、この期間にあなたができることをやっていきなさい。その手がかりはもうあるはずです。私たちの言葉であり、あなた自身の考えであります。あなた自身の経験であります。あるはずです。そしていかなるものを残していくかということは、いかなるものを残すことがそれに接する人たちにとって有難いか、その接する人たちにとって素晴らしいものになるかという観点から考えて、あなたはなすべきことをなしていきなさい。 単に名を上げるとか、自分の遣り甲斐を見つけるとか、名を得るとか、そういうことではないのです。あなたが今考えていることは、どのような意味を持っているのか、どのような使命に基づいたものなのか、それを今後現わしていこうと思うものに、接する人の立場に立ってよくお考えください。 善川 私のような非力なものに、私一人でどれ程のことを人びとに訴えることができようかと思えば、前途にまだ自信が持てないのです。 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 日蓮 今世紀から来世紀にかけて、人類は第二のルネッサンスを迎えることになりましょう。それは、東西の文化が交流し、新しい時代にふさわしい文化が建設されることになりましょう。 あなたも以前にこんなことを聴いたでしょう。「花一輪では花壇はできません。色とりどりの何輪もの花が咲いてはじめて花壇となるのではないですか。」 この話は、かつてレオナルド・ダ・ビンチとして世に出られたガブリエルに聴いたはずです。あなたもこれから咲く一輪の花であります。あなたは、あなたの花を咲かせなさい。チューリップの花か、カーネーションか、牡丹か、他の花か、或いはタンポポの花か、菫(すみれ)か、それはあなたご自身が、やがて悟ることであります。あなたが一体何の花であるか、それはあなた自身がまだ充分に掴(つか)んでいないかも知れませんが、花は花としての使命があります。チューリップは、菫の花を咲かすことはできません。菫はチューリップの花を咲かせることはできません。あなたには、あなたの花があります。しかし、どのような花であってもよいのです。花壇が出来るのであります。花一輪では花壇になりません。その訓えを、いま想い起こしてほしいのです。ですから誰もあなたに全能といいますか、オールマイティといいますか、すべての法を説けと言っている人もいなければ、すべての人を救えと言っているわけでもないし、すべての人の指導者になれと言っているわけでもなく、古今東西を通じた完璧の書物を書け、と言っているわけでもないのです。あなたはあなたの、できるだけの、花を咲かせればよいのです。そうではありませんか――。 4.新時代に向かっての伝道方法について 日蓮 私たち天上界のものたちの話を聴いて、もうあなたは知っていることなんです。けれども忘れているだけです。そういう私たちの話を聴いて勉強することから始めるとよろしいです。けれども、やがてあなたご自身のお考えなり、思想なりというものをまとめていかなければいけません。 さて、伝道の方法ですが、心配はいりません。一人の人間が三人、五人の人を知っているのです。百人が三百人になり、五百人になるのは、もし内容があるものであれば、アッという間です。伝道というのは、いつの時代でもそのような形をとってきたものです。まず身近なものに説かれて、それを聴いたものが、これこそ本物だと、思い至った時に、それを多くの人たちに広めていったのです。 これからの伝道形式としては、文章による啓蒙の方向をとっていく、この方向が賢明です。あまり「現象」をやり始めると、「現象」のみを求める人たちが後を絶たなくなってきます。それはきりがないことです。 私どもの、こういった話を誰にでもできるわけではありません。そういった話が出てくると、何といいますか、われらを試そうという人が次々と出てくるのです。果たしてこれが本当に「日蓮」かどうか、ということを、詐術ではないのかと、あれこれと調べたくなる人が出てきます。私たちにとっては悩ましいことです。できれば私たちの言葉の内容を見て判断してくださるのが、一番幸せです。われわれの証明について、これが本当の何々の神か、本当の何々という人が言っている言葉なのかどうかと、根掘り葉掘り、或いはジャーナリスト、或いは、科学者というような人に調べられるために、私たちは出てきているのではありません。そうした方向に行くと、道はだんだんと外れていきます。 あくまで中身で勝負する、できれば「現象」など見なくて信ずる人たちが増える方が、幸せです。"拝み屋" のようになっていかないこと、「現象」を用いると、いろんな方々が、次々と問題を持ち込んできます。いろんな方々の、それに笞えている私たちは、結局は "拝み屋" 的な行為をやってしまうことになってしまうのです。 彼らは、更に証(しるし)、を求めてくるようになるでしょう。真に「日蓮」であるなら、病気を治してみよ。真に「日蓮」であるなら、来年の何月に何がどうなるか言ってみよ。彼らは、こういうふうにして私たちを試してくるようになるでしょう。もしそれが当ったら、お前を信じよう。そういったことになってきます。それは、私たちの意図しているところではありません。 私たちは、今、いろんな形であなた方を指導しております。 あなた方は、自分の信念なり、自分の心に浮かんだこと、これは、良い、と思ったことは信ずることです。ただ、その判断をするときに、自分の心の中に名誉心や、自己保存や、我欲や、そのようなものがないかどうかを、いちど、踏み留まって考えてから判断してください。 今の日本という国には、宗教を悪く言う人もいるけれども、半数近くの人は、何らかの宗教にかかわっているし、信仰深い人たちの中にも、素晴らしい人たちは、たくさんいます。男性だけではなく、女性もまた然りです。全く心配ありません。そんな心配する問があったら、自分自身の思想をその間に磨いてください。 宗教というものは、おかしいものだと思っている人は、少数です。宗教を信ずる人の中にも "狂" という感じを受ける人たちもおれば、素晴らしい人もいるというふうに、分けて考えられるのが一般おとなの人たちです。要は、あなた方が、狂ったおかしな人びとでないことです。 あなた方が真理に則した立派な人生を生き、立派な人柄を持ち、立派なことを語り、立派なことを書くのであれば、心ある人たちは、あなた方を信ずるでありましょう。その方がたは、あなた方を、決して非難したり責めたりしないはずです。むしろ、あなた方を尊敬したり、あなた方の教えを乞いにやってきます。 要は、あなた方の中身であり、人格です。 現在のあなた方の考えに、試行錯誤はありません。なぜなら、既にわれわれの力という一つの歯車が回り始めているからです。試行錯誤はない――。 善川 しかし、私たちはすくなくとも志を一つにする同志というものがなければ、ことは運ばないと思いますが。 日蓮 同志というのは必要でありましょう。ただ慎重に相手を選んでいきなさい。事を運ぶに、ひじょうに賢くありなさい。少しでも自己宣伝や、或いは我欲、そういったものが入ってくれば、間違った人たちを引き込んでしまうことになります。どうか純粋な気持を忘れないでください。 それともう一つは、新しい宗教を興すという気持は当面の間持たないことが、安全です。そうではなくて、もっと別な形があるでしょう。「精神科学」と申しますか、或いは「幸福哲学」と申しますか、要するに、この世の中の仕組み、この宇宙の仕組み、この宇宙を統べている「法」、この「神の理法」を明らかにすること、その神の理法の中に生きている人間たちに、幸せへの道は、どこにあるか、ということを教えることです。 そういう意味において、あなた方の教えも、一つには科学であり、宇宙科学、神霊科学であり、いま一つには幸福学であり、幸福哲学であるということです。宗教を興すという考えを持っていると、間違った方向に行く可能性があります。 幸福科学の研究をしているとでも思ったらいいのです。宗教を興せば、巷の神々の一人になってしまいます。また新興宗教が出来たか、ということになってしまうのです。その辺は時代の要請というものを見誤らないようにしなければなりません。 宗教を、新興宗教と銘うって出て、それで集まる人たちは、病気の人たちや、年とった人たちばかりになりがちです。しかしあなた方がねらうべき人たちは、これからの日本を背負っていく世代です。若者であり、インテリ層なのです。そういう人たちには新興宗教が一つ出来たといって訴えても、だめでしょう。そうでしょう、宗教でなくてもいいのです。要は世界の仕祖みを知らせ、そこに住んでいを人びとが幸福になれば、それでいいのです。これは幸福科学であり、幸福への哲学であります。 日蓮がこう言ったからこうした、というのはできるだけ避けたいのです。根本的な精神論、規範論については、意見を申しましょう。けれどもあなた方の行動について、いちいち私が具体的な指針を出すことは、これは避けるに越したことはありません。これは三年以上前から、私がもう既に言っていることです。そうしないとあなた方は、木偶(でく)の坊、になってしまうのです。神代の時代のト占(ぼくせん)によって、政事(まつりごと)を決めたような時代に還ってしまうのです。
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目次 1.出発点 2.神を知る手がかり 3.釈迦の「存在と時間」 4.変化するもののうちにある不変の理念 5.空即是色とイデア説 6.個性ある意識体 7.人間の認識力の限界 8.洞察力と知能の差 9.真に開かれた社会とは 10.プラトンによる実在界の説明 11.次元構造の究明 12.釈迦の次元分析 13.四次元世界と時間との関係 14.高次元世界の成り立ち 15.一千億年の孤独 16.地球人霊の誕生 17.地球人類最初の歴史 1.出発点 基本的な考え方として、神理というものが、唯一のものから出てきているということを前提にしています。諸教、諸宗派、その形は違っても、出ている源は一つであって、その現われ方が時代と地域によって変わっているのだという前提を出しているわけです。このことは、かなりの数の本を読まれた方がたは、もはや当然と思っておられるかもしれません。しかしながら、ほかのいくつかの団体や教えに属している人から見れば、これは当然のことではないのです。むしろ、意外な感じを受けていると言ってもよいと思います。 地上に降りた人間の認識力というものはきわめて低いものであり、自分の見える範囲、聞ける範囲、接することができる範囲でしか世界をつかむことができないという悲しい現実があるのです。トータルで神理というものをとらえ、仏教も、。キリスト教も、他の宗教も、元をただせば根源なる意志が、さまざまな人格的な高級霊を通して現われてきている姿にすぎないという考え方は、世界的に見たならば、ごくごく少数派であると考えてよいと思います。このような考え方自体が、一般的には受け入れられるものではないのです。 霊的なものを信ずる人が、日本人のうちに五〇%いるとして、それらの人が何らかの団体に所属しているとしても、このような考え方をストレートに受け入れられるかどうかといえば、やはりひじょうに難しいと言ってよいでしょう。したがって、みなさんが神理の縁に触れられて、この神理というものが唯一のものから出てきているという前提を常識と考えられて、これを当然だと思い、他の人に押しつけようと思っても、なかなかそう簡単に通るものではないということであります。 たとえば、キリスト教関係の方にこのような話をしたとしても、まずこの最初の前提からして納得がいかないと思います。彼らは、イエス様を通して述べられた教えこそが神理であって、歴史において他によいものもあったのかもしれないけれども、それは教えとして認められていない、ということで頑固に頑張られるのがその筋であろうと思います。 また仏教の方においても似たような考え方はありましょう。仏教で僧侶をしておられるご本職の方が、もしこのような考え方を公式に持っておられるとするならば、やはり僧侶としての仕事がやりづらいというのが現状であると思います。 しかし、神理は神理であります。世のみなさま方が、あるいは過去の人々が認めようが認めまいが真実は真実であります。ここに私たちの立脚点、およびその出発点があるということを確認していただきたいと思います。 また「神や仏があるというならば、なにゆえに宗教があれほど醜い姿をさらしているのか、争いが絶えないのか。」という無神論者、あるいは知識人たちの批判に応えるとするならば、「真実はそうではなかった。一時期、太陽が雲の間に隠れることはあったとしても、けっして消えたことはなかった。その証明として、過去いろいろな光の天使たちが現実に地上に降りてさまざまな教えを説き、数多くの偉業をなしてきたのだ。」と、言うことができます。この光の天使たちの活躍の詳しい説明は『黄金の法』のなかに述べられているとおりであります。 したがって、世界が光を欲しているときに、神理の太陽が昇らないことはなく、また、神は人びとが欲しているときに救いの手を伸ばさなかったことはない。このような前提があるということをまず押さえていただきたいと思います。 2.神を知る手がかり 神とは何かということについて述べてみたいと思います。いわゆる神の存在証明の問題についてであります。これも世の知識人あるいは、このような考え方について批判的な人々に対する、反批判あるいは強烈な一撃として出された考え方です。 無神論者たちの考えは「神などといっても、その存在証明ができた人はいないではないか。見たこともないものを、どうやって信じることができるのか。」というものであります。神理に触れられた方の多くも、いろいろな人に神理を説こうとして、まったく同じ壁にぶつかってこられたのではないでしょうか。 さて、このような考え方に対しての答えがここに一つあります。それは、「確かに直接証明として神の存在を説き、そして世に納得せしめた人はいないかもしれない。それはそのとおりであろう。しかし、神の間接証明に成功した人はかなりの数いるのです。」ということであります。 その間接証明とは、全智全能の神の存在があって、それにそば近き人間であればやはり、その神の能力に近き能力を発揮することができたという事実です。たとえば「現象」がそうです。霊的現象を示してきた人は過去に数多くおりましたし、現在も数多くおります。私自身もそのような「現象」をお見せしていることにもなっていると思います。 そして、もう一つ、どうしても否定しがたい事実があります。釈迦、キリスト、モーゼというような三人の偉人が人類史のなかにおりますが、彼らはけっしてまだ伝説の人とはなっていないということです。ギリシャ神話の時代になれば、伝説の人だと思う方も多いかもしれませんが、この釈迦とキリストとモーゼは明らかに実在の人であったわけです。もちろん、あと二千年もすれば、キリストらも架空の人、伝説の人になるかもしれませんが、現時点で明らかに実在の人であったと信じられているということです。 そして、この実在の人であった三人の巨人が、いずれも神、あるいは仏と、言葉は違えども根源なるものを信じ、そしてそれを証明しようとして努力されてきました。このように数十年の人生を確かに生き、死んでいったという現実があるのです。釈迦やキリストやモーゼのような人類史の偉人たちが、今、神や仏のことを話す方がたを馬鹿にしたり冷笑したりする人たちよりも、劣るような人かどうかをよくよく考えていただきたいと思うのです。 神や仏の実在を否定するような人たちに、「あなたは、イエス・キリスト以上の人格をお持ちですか。あるいは釈尊以上の知恵をお持ちでしょうか。もしそうならば、その証明をしていただきたい。できましょうか。」と問いかけたならば、納得がいくような説明ができる方はいらっしゃらないでしょう。逆に問いかけられれば、説明することができないわけです。人間として生きて、釈迦以上の知恵を持っていること、イエス以上の人格者であることを、証明することはできません。 なかには「イエスは頭が狂っていて、神がいるなどという思想にとりつかれて、気違いじみたことをやったにすぎない。」と言う方もいるかもしれません。このような人には「それでは聖書のなかに語られているこのイエスの語った言葉、これを見てあなたはどう思われますか。これがほんとうの絵空事だと思えるでしょうか。この言っていることに間違いがあるでしょうか。神とか霊とかいう言葉をはずしたとしても、その愛の教えのなかに間違いがはたしてあるでしょうか。また、釈迦が説き来り説き去った言葉、すでに二千数百年の歴史を経ておりますが、その言っている内容に、何か常識人が見て、ほんとうに違っているということがありましょうか。思想家として見て、これ以上の思想家が出ていたでしょうか。どうでしょうか。」と問いかけることができるのです。 したがって、霊とか神とかいうものが信じられず、馬鹿馬鹿しいと言う方は、「釈迦、キリスト、モーゼといった歴史上の偉人たちは霊や神を信じていたけれども、かくいうあなた自身は、彼ら以上の認識力と知恵をお持ちであるということを証明でき、彼らを裁けるだけの人間であるということをほんとうに証明できましょうか。」と問われたときに、沈黙をせざるをえないのであります。 なぜならば、歴史の風雪に耐えた偉人の業績というものは、燦然(さんぜん)たるものであって、少々の人びとの批判では動かないからです。このような実績をつくるにふさわしい努力もまた、彼ら自身してこられたわけであります。 したがってまず、自称、無神論者、あるいは科学的と自認する人に対して問うとするならば、「歴史のなかにどれだけ偉大な人物がいたかということを知っていますか。歴史のなかの偉人たちのなかで、ほんとうに神仏を信じていた人はいくらでもいましたし、偉人の歴史を調べてみれば、その八割以上の人がやはり、なんらかのかたちで神というものとの遭遇を経験しているのです。そして、神を信じていた人は多いのです。そうした人たちが、ほんとうに物笑いにされるような人たちであったでしょうか。もしそうであるならば、人類の歴史そのものにいったい何の値打ちがあったのですか。その歴史そのものを疑ってかからねばなりません。そうではないでしょうか。」ということが言えると思います。 ですから、こういった人はまず謙虚になる必要があります。過去の歴史において、現在の自分以上の知者も、現在の自分以上の人格者もいたという事実、これをまず素直に認めなければいけないのです。そのような人がいて、そして神を信じているという事実がある以上、その事実について、あるいは彼らの思想について、もっと虚心坦懐(きょしんたんかい)に学んでみるべきではないでしょうか。学んでみて、学び尽くして、はじめて批判するのはよいのですが、学んでもいないのに批判するのは甘いということであります。 「人生の探究は、どこかで必ず神の存在にぶつからざるをえません。神を知る手がかりは人生の随所に散りばめられています。」と『太陽の法』に書きましたが、そのとおりです。やはり、この問題と遭遇(そうぐう)しないでは、ほんとうに人生を生き切ったとはいえないのです。そこで私は、本書全体を通じて、この「神とは何か。神は何を考えておられるのか。神は何を意図しておられるのか。」ということを説明してみたいと思います。 3.釈迦の「存在と時間」 「存在と時間」についての基本的な考え方を述べてみたいと思います。 「存在と時間」と言いますと、きわめて現代的な響きでありますが、これが仏教の教説そのものなのであります。釈迦が説いていた教えは実はこういうことであったというと驚かれるかもしれませんが、実際に釈迦は、「存在と時間」について語っていたのです。これについての詳しい説明は、『釈迦の本心』のなかにも述べてありますが(『釈迦の本心』第5章)、業の思想、縁起の思想、こうしたものは実はこの「存在と時間」にかかわる思想であったわけです。そして、この人類、あるいは地上に住んでいる他の生きとし生けるもの、すべてにあてはまる法則があり、その法則こそ生々流転(せいせいるてん)の法則であり、それは普遍の法則であるということを説いています。 この生々流転の法則は、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべてそのルールのもとにあります。この地上のものには、誕生のときがあり、生長のときがあり、衰退のときがあり、そして消滅のときがあるということです。人間にしても、誕生のときがあり、そして成人していく過程があり、老化する過程があり、そして必ず死去せざるをえません。物でもそうです。自動車でも、造られるときがあり、それがいろいろな人の使用に供されることもあり、そうして、やがて故障して、その姿を消していくのです。スクラップになって、ほかのものにまた変わっていくでしょう。 このような循環の法則があるということなのです。これが人生を貫き、またこの地上のさまざまな生物、すべての存在に対して、あてはまる法則であるわけです。別の言葉で言うならば、この三次元現象の存在はすべて変転の時間を内包しているということです。これはきわめて難しい哲学的な議論でありますが、存在のなかに時間が内包されている、変転の時間が内包されているということを言っているわけです。けっして静止した存在ではなく、すべてのものは変転を前提として存在することが許されているのです。 この「存在と時間」に関する考え方は、ドイツの哲学者のハイデッガーという人も出しています。彼についても、『黄金の法』では述べておりますが、やはりこのハイデッガーに対して、インスピレーションはかなり降りていたわけで、そのインスピレーションを出していたもとはひとつで、同じ源から出ているのです。 このように、存在の定義としては、流転するという性質があり、時間を内包しているということ、このことを述べたいと思います。 4.変化するもののうちにある不変の理念 この「存在と時間」から霊魂の存在を推定させる説明が続いていくのであります。 たとえば、私自身の肉体、これを構成している細胞の数は、何十兆という莫大な数であるといわれております。その細胞の一つ一つは、何十日か何百日かたてば、すべて死滅して新しいものに代わっています。しかし、一年たとうが二年たとうが、私は私の個性として、実体として存在し続けております。この実体を存在させているものがいったい何であるかということなのです。何十兆もの細胞があって、それぞれが勝手に点滅するランプのようにできたり消えたりしているわけです。しかしながら、どのようなことがあっても、私自身は、私の個性として存在している。これはいったいどのようなことなのだろうかということです。 植物にしてもそうです。一本の花を花たらしめているものは、いったい何でしょうか。毎日毎日、植物は伸びてゆき、やがては花が開いてゆきます。その姿は変化していきますが、やはり菊の花は菊の花として、水仙の花は水仙の花として、チューリップはチューリップとして、存在しているのであります。昨日と今日とでは姿が違っても同じ存在なのです。ここを統一しているものはいったい何なのでしょうか。 動物でもそうであります。いろいろと変化していきますが、その個性を統一しているものがあるのです。この個性を統一しているものこそ、魂といわれているものの正体であるということなのです。 5.空即是色とイデア説 変化するもののなかにあって、逆に今度は変化しない何かがあるというわけです。この地上のものはすべて変転していくという法則のもとにある。変転していく法則のもとにあって、生命あるものは変転しない何かを確かに持っているのです。姿は変わってゆくのにもかかわらず、統一体として存在しているということ、だれが見てもその花はその花、この人間はこの人間として存在しているということは、いかなることか。そこには、それを統一させるものがある。この統一するもの、このイデア、理念、これこそが実は魂といわれる存在そのものであるといえるのであります。 「色即是空、空即是色」という仏教の言葉がありますが、これも、けっきょくのところ、プラトンのイデア説と変わらないということであります。理念があって地上に存在が許されているということなのです。この理念というべきものがなければ、変転する法則、変化の法則のもとにある地上の物体、物質は、すべて姿・形なきものになっていくのみです。ところが、それが消滅と生成をくりかえしながらでも、統一体を維持しているということは、そこにそれを統一しているイデア、理念といった、かたちが何かあるということなのです。 ここで、変化の法則から説明を続けてきて、今度は変化しないものに説明が移りゆくわけです。『太陽の法』においては、「人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなく、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命(いのち)であり、魂であり、霊であります。」と書いております。 霊という言葉を特殊なものとして、摩訶不思議なものとして私は言っているのではなく、この不変の実在、イデアのことを言っているのであります。 6.個性ある意識体 私は、「肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体、これらが人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を持とうが持つまいが、真実は一つなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。」と言い切ってよいと思います。事実であるから、否定のしようがないのです。そのとおりだからです。はっきり言ってしまえば、議論の余地はないのであります。 確かに霊というものの存在証明はひじょうに難しいのです。みなさんも、これをなそうとされるならば困難をきわめることとなりましょう。しかし、これは霊というものが実際に存在するということを実体験し、感じてしまえば、これは信じる・信じないの問題ではなく、あるものはあるとしか表現しようがないのです。現実にあるからです。実際に私は毎日いろいろな諸霊と話をしています。現にいるのです。いるものはいるのでどうしようもないのです。それは否定のしようがありません。またそれはデータによっても確かめられることでもないのです。現にいるのです。同じ個性が存在しているのであります。このことは否定しがたいのです。 たとえば、『高橋信次霊言集』という本が出版されています。このシリーズは、すでに一〇冊を超えていますが、何回刊行しても同じものがあります。どれをとっても、内容は全部違いますが個性は同じです。読まれた方もそう感じておられることと思います。第一冊を出してからもう二年以上もたっていますが、どの霊示集においても個性は変わりません。どの部分をとってみても同じです。このようなものではないでしょうか。違う人になれば明らかに違ってくるはずです。 谷口雅春氏の霊示集も何冊も出して、内容がそれぞれ違っても、やはりどこを切ってもいっしょです。谷口雅春氏の個性は個性です。たとえて言えば、栗ようかんは栗ようかん、小豆ようかんは小豆ようかんで、どこの切りロをとっても味は変わりません。例がよくないかもしれませんが、簡単にいうとそういうことです。 7.人間の認識力の限界 有限と無限について考えてみたいと思います。ここに一つのたとえ話があります。ある亀の話です。 昔、大きな亀がいて、右足を出すのに一〇分、左足を出すのに一〇分、後ろ足をそれぞれ出すのにまた一〇分、つまり体をひとまず動かすのに四〇分もかかる亀がおりました。あるとき、この亀は砂浜の海岸に行きつくところがあるかどうか不思議に思って、自分の住んでいる島の探検に出てゆきました。 その島というのは亀にとってはまさしく全世界そのものであったわけです。そして、世界探検にこの亀は乗り出します。体一つ動かすのに四〇分かかる速度で乗り出したのです。見渡すかぎりの海岸線をハッタと見すえ、よし世界探検に出るぞということで勢いこんでスタートし、そして全力で歩きはじめました。そして、自分がどこを踏破したかわからないと困るので、自分の歩いた足跡がしっかりついているかどうかを見ながら歩いていたのです。「足跡さえ見ておけば自分が通ったところがわかるはずだ。こうして、この時間を計っておればおそらく世界がどの程度の広さかわかるだろう。」こう考えてこの亀は歩いていったのです。 しかし、いくら歩けども歩けども、海岸線は終わることなく、ある日、亀は力尽きて死んでしまいました。自分が全世界の半分くらいは踏破したと信じながら生涯を終えました。あくる日に島の漁師がやって来て、その亀を引きずって島の反対側へ持って行って食べてしまいました。島の反対側まで行くのに大変な時間がかかったのかといえば、漁師の足で行けばわずか一〇分ですみました。 哀れな亀は、太平洋の波が非情にも自分の足跡を洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をグルグルと回っていただけであったのです。自分が確かめようとしていた足跡は波で消されていたのです。それとも知らずにグルグルと小さな島を回っていただけであったのです。 これは、いうなれば、認識力のたとえ話です。有限と無限を考えるときに、どうしてもこの話が出てくるのです。この話は、実在界でよく使われているたとえ話なのです。私も、如来の説法、菩薩の説法をずいぶん聞いておりますが、彼らはたとえ話がひじょうに上手です。そしていろいろな比喩を出してきます。 仏陀の説法のいちばんの特色もたとえ話でした。キリストも実際たとえ話がひじょうにうまかったのです。やはり、そのようなたとえ話を使わないと当時の人々にはなかなかわからなかったからです。このようなことで、やはり菩薩や如来といわれる方はみな、たとえ話がひじょうに上手です。哲学的な話だけではなくて、やはり、それをどのように説明すればわかるように話ができるのかということが大切なわけです。そしてそのなかに普遍的な神理があるのです。 このたとえ話のなかの亀と漁師の違いはどこにあるのでしょうか。歩く速さは、もちろん違うでしょうし、体の大きさももちろん違うでありましょう。あるいは経験量の差、これももちろん違うでしょう。いろいろな要素はありますが、しかし、根本的な差異は認識力の差にあったのではないかということです。わかる者とわからない者の差が明らかにあるわけです。 亀の目的や努力、そして熱意は見上げたものだけれども、その結末においてひじょうに悲しいものが漂っています。悲壮感が漂い、ペーソスにあふれています。これはいったい何なのでしょうか。つくづく考えてみますとけっきょく、認識できないということに対する悲しさです。 8.洞察力と知能の差 神が人間をどのように見ておられるのかを、このたとえ話で考えてみていただければよいのです。このように見えるということなのです。現代の知識人といわれるような方々も、神の目から見れば、この認識力のない亀のようなものなのです。かわいそうです。わからないのです。彼らは一生懸命歩いているのです。この亀と同じように、鼻に汗を浮かべ、脂汗をにじませながらやっているのです。一生懸命、自分の足で歩いて、世界を測量しようとしているのです。それで足跡を残していけば、必ずわかると考えているのです。地上の人間の認識力はこのような段階なのです。 このたとえ話において、ちょうどこの漁師くらいにあたるのが、高級諸霊といってもよいでしょう。また、悟った方といってもよいでしょう。そういう悟った人から見れば、悟っていない人がこの亀のように見えるということなのです。ここに認識力の絶対的で、質的な差があることを知らなければならないと思います。 また、このたとえ話を無神論者と有神論者に言い換えたらどうでしょうか。たいていの無神論者は、「われわれは亀ではない。」と言ってきっと怒るでしょう。しかし、人生が六〇年、七〇年で有限であると思っている人は、まさしくこの亀そのものです。本人が気づくと気づかないにかかわらず、事実はこのとおりなのです。 たいへん気の毒なことでありますが、これは知能指数とは関係がないのです。知能指数の差にかかわる認識の差ではなく、知能指数がいくら高くても、わからない人にはわからないのです。知能指数ではかられるような認識とは違うのです。 これはやはり、魂の奥底から出てくる能力でもありましょう。洞察力にも似たものだと思います。いくら頭がよくても、わからない人はわからないのですから、ほんとうにかわいそうです。 私ももう一〇年近く前にもなりましょうか、東大在学中に、法哲学という授業に出席しておりました。その授業の教授は無神論者でありました。法哲学ということで、過去の哲学を法律的な側面から説いておられる人です。彼の研究する哲学的思想が記された書物は、本来いろいろな光の天使たちが書いたものでありますが、そのような光の天使たちが書いた文献を研究していても、かわいそうですけれど、わからないのです。それでも、東大の教授にはなれるのです。よく文献を調べて、鋭い論文を書けばなれるのでしょうが、本質がわかっていないのです。まったくわかってないといってよいのです。光の天使の書いたものを勉強して、いろいろとやってはいるのだけれども、まことに残念だと思います。 その人が最高レベルの学問であると思っているのは、やはり、私たちが見れば神界レべルを最高の考え方だと思っているのです。そうしたものが最高だと思っていて、そしてご自分の悟りがどのあたりにあるかというと、明らかに四次元幽界から地獄界の間を行ったり来たりしているのです。本人には気の毒ですが、おかしかったです。 そのころ、私はまだ霊道は開けていなかったのですが、多少その前兆があったのでしょうか、人の姿を見ていると、いろいろとそのオーラに近いものがわかるような感じがしていました。そして、その教授を見ておりましたけれど、頭の回りがやはり薄らぼんやりとしているのです。何かをかぶってるような感じでした。あとから考えれば、まあ完全にあれだろうなと思うのですが。 講義のときに学生との質疑応答がありまして、その先生は神とか霊とかを絶対に信じないということを一生懸命にいっているので、そのときに、ある学生が「先生は来世が大変ですね。」と逆に質問していたのです。その先生は「後生恐るべしですね。」などと一生懸命に答え、心のなかでヘヘンと思っているのがわかったのですが、ほんとうに大変だろうなあと思って、私も見ていました。そういう方も最高学府で教えているのです。 私は、卒業の前であったと思いますが、その先生に提出する答案があって、法哲学の試験問題ではありましたが、まったくそれに関係なく、高橋信次先生の『心の発見』の科学編を読んだその感想を答案に全部書いたのです。無神論者で霊を信じていない人に対して、徹底的に霊を信じる立場で書いたのです。私は全般的に成績はよかったのですけれども、その結果は、珍しく「良」ということでありました。それでも不合格ではなかったので安心しました。「不可」かなと思ったのですが、「良」ぐらいはいただいていたようでした。 まあ、あまり唯物論的な講義を聞いていますと、そのように書きたくなることもあります。税金を使って教えているわけですから、やはり許せないという感じでした。言っていることが間違っているのですから、やはりいけないと思います。税金から給料をもらって、それで嘘を教えていたらやはり許されないのです。いくらインテリであって大学の先生であっても、間違っていることは、神理の立場から見ればはっきりしているのです。 このような人は知能指数は高いであろうし、ペーパーテストを受ければ、さぞかしできることでありましょうが、根本が間違っているのですからしようがないのです。まさに後生恐るべしです。ほんとうに学生に言われているとおりなのです。本人は気がついてないのです。もうあと一〇年くらいであろうと思いますが、気の毒です。東大で哲学を教えていた教授などといって、あの世に還っても、自分は絶対偉いと当然ながら思っています。あの世に還って、実際にまわりの世界が暗かったらどうするのでしょうか。困ると思います。 なかなかこのようなタイプの人は救うことができません。ほんとうに救いがたいのです。なぜ救えないかといいますと、頭でっかちになっていますから、あの世でお坊さんのような人が説得に行っても、このタイプだけは説得できないのです。「私はあれだけ知性的に詰めて勉強してきて、絶対これで真理だと思っている。だから間違いない」の一点張りで考えを変えることができないのです。 9.真に開かれた社会とは 『黄金の法』のなかでも少し批判しておりますが、「プラトンの呪縛」という内容に関して著わしているカール・ポパーという有名な哲学者がおります。彼の代表作の一つは、「開かれた世界とその論敵」という題の本で、原書が「The open Society And lt s Enemy」というタイトルです。英文でも読んでみました。かなりの大著であるため、そうとうな時間をかけて書かれたものだと思います。おそらく何年もかかっていると思いますが、やはり間違っているのです。現在、そうとう有名になっておりますけれども、根本が違うところはどうしようもないのです。 学派を興してずいぶん弟子筋もあるのですが、けっきょく、彼の考えでゆくと、「ソクラテスのあとプラトンが出て、"イデアの世界" と称しながら、実際は霊界の世界を哲学のなかに持ち込んでいる。そして、あの世があるようなことを言っている。」ということになるわけです。 このプラトンの呪縛によって世界は暗くされたと、このポパーという人は批判しているのです。そしてこのプラトンの呪縛によって、その後西洋世界がどれほど呪術的になり、暗くなったか。開かれた世界が、プラトンの呪縛によって閉じ込められたようなものだ。このような陰湿な古代のアニミズムと言うか、精霊信仰のような世界に、哲学という優れた学問が押し込められてしまった。このプラトンの呪縛から人類は二千数百年、逃れられないでいるのである。 だから自分は今、自分の哲学によって新たな地平を開いてプラトンの呪縛からみんなを解放させてやるのだ。そして閉じられた世界から、開かれた世界へ導くのだ。このようなことを書いているのです。 ところが事実は逆なのです。プラトンは、四次元以降に広がる世界のことを知っていたのです。そして、それについて、どのようにしてみんなに教えようかと努力して、あのようなイデアの説などをいろいろ出して説明しているのです。この開かれた世界のことを説いたプラトンの哲学を三次元世界のなかに閉じ込めたのが、このカール・ポパーという人なのです。つまり、逆にポパーが閉じ込めたのです。そして、これこそが開かれた社会だと言っているのです。 八〇〇ページくらいにわたる本ですが、まあ内容としてはO点です。まさにO点です。論点がまったく外れているのですから、読む価値はありません。お金を返してもらいたいくらいです。これで、世界的に有名な学者になれるのですから、間違っていると言うのです。 このような考え方がどれほど世界に害悪を及ぼしているかと考えると、はなはだしいと思います。ですから、私も今、霊的なもの、宗数的なものをだいぶ出していますが、もう少し基礎が固まってくれば、このような思想界の方をもっと斬(き)っていきたいと思っています。間違っていますから、私に言わせれば問題にならないのです。真実を知るということは、難しいことでありますが、ほんとうにだいじなことであります。 10.プラトンによる実在界の説明 プラトンも実在の世界、霊的世界のことを説明するのに、ひじょうに難しいと感じていたのでしょう。「洞窟の比喩」をつかって、おもしろい説明をしています。このたとえ話を学ばれた方もいらっしゃると思いますが、プラトンが説明しているのは、このイデアの世界、つまり、実相の世界を知っている人と、そうでない人の説明をしているわけです。 このプラトンの説によると、人間というのは囚(とら)われの存在なのです。人間が洞窟のなかにいるとします。外から光が入っているのですが、その人は、洞窟のなかで手も足も鎖で縛られているために光が入ってくる後ろのほうは見えないのです。そして前方に洞窟の壁面があって、ここに映る彭だけが見えるわけです。 外には道路か土手のようなものがあるらしくて、そこを通行人が行ったり来たり、どうもしてるらしいのです。そうすると、通行人が行ったり来たりするときだけ、その影らしきものが映って見えるのです。このような世界を説明しています。 この比喩で実は、実相世界と現象界の説明をプラトンはしているのです。実際に人間というのは縛られていて、この縛りこそ、実は肉体を意味しているのです。肉体という縛りです。これによって一つの方向しか見えない。つまり、これは三次元の世界しか見えないということです。 ところが、この実在世界における存在が時どき土手の上を行ったり来たりしていて、光があたるものですから、影だけが映るのです。そして、この人間はこの影だけを見て、いったいこれは何であろうかと推定するのです。この程度の世界だと言っているわけなのです。まさしく彼は知っていたと言えましょう。 このような説明は、私たちから見れば、何を意味しているのか、全部わかってしまいます。私たちには、プラトンが何を考えていたのか、直観的にわかるのですが、プラトン以降、後世の哲学者たちはこのようなことを一生懸命勉強して、「プラトンは宇宙人でもあるまいにどうして映画の原理がわかったんだろうか。」などと考えているのです。映画のスクリーンの原理と同じですから、映画のことを知っていたのだろうか、などと議論しているわけです。 これでわかるように、プラトンも「実在の世界」について説明をしているわけですが、彼も苦労しているのです。高級諸霊がこの世に出てきても、なかなかうまく説明ができないという苦労があるわけです。 11.次元構造の究明 多次元宇宙についての説明に入ってゆきます。多次元の宇宙を、人体にたとえてみましょう。三次元宇宙とは裸の肉体人間、四次元宇宙とは肉体を包む下着、五次元宇宙とは下着の上のワイシャツ、六次元とはワイシャツの上のセーター、七次元とはセーターの上にはおるスーツ、八次元とは全身をおおうコート、そして九次元とは頭の上の帽子のようなものだという説明ができます。 このようにほんとうは多次元宇宙や、高次元宇宙といっても、全然別の世界ではなくて、実は同じところにオーバーラップするように存在しているのだということを理解することが大切です。 この多次元の宇宙については、みなさんそうとうなご関心があることでありましょう。しかし、説明はいろいろなところで行なってまいりました。たとえば一九八七年の三月の講演会「知の原理」の質疑応答でもお話ししましたし、それ以外の本のなかでも、この次元についての話は何度か出してきております。 ここで、物理学者的に見た次元構造が、多次元的な宇宙の構造に引き当てられるということがなぜわかるのかという疑問があるでしょう。私も実際に、次元という言葉で表わすのが適当かどうかはわかりません。しかしながら、あの世の世界には確かに、階層の明らかに違った世界があり、それはアインシュタインやエジソンなどの科学者の高級霊たちに聞いてみても、だいたい私がいろいろと詰めてきた結論と同じであります。 私たちが菩薩界と呼んでいる世界が、七次元世界にあたり、神界というのは六次元にあたる。八次元には如来界が相当する。このような結論です。これは、科学者の霊と宗教家の霊が考えているところを全部つき詰めて整合した結果、このようになるということであります。 もちろん多次元宇宙の構造について、この世的にすべてを明らかに説明ができるかというと、かなり難しい面はあるでしょう。けれども、現実に霊層そのものは分かれておりますので、それをどのように呼ぶかは自由であるということもあると思います。 『天照大神の霊言』という本のなかで天之御中主之神が一九八四年二月第一回目に降臨されたときに、善川顧問が「何次元におられますか。」と聞くと天之御中主之神はわかりませんでした。そのあたりのいきさつが明らかに出ています。顧問に説明を求めているわけです。それで、相手の心のなかに浮かんだ説明を読んで、だいたいこのような引き当てをしているのかと思い、たぶん八次元というところだろう、というふうに答えているのです。 日本の神様であれば、何次元に自分が住んでいるかなどということは、考えたこともないのでわからないのです。そのようなものなのです。ですからあくまでもこれは現代的に言い換えればこのような表現になるということです。 「実在の世界」を三次元から九次元、十次元まで分けておりますが、実際、「実在の世界」の構造はもっともっと細かく分かれています。なぜ分かれているかといいますと、この世界は私たちのような物質の世界ではないからなのです。 もし、いまここで、ニメートルくらいのところまでが三次元で、この上から違う人が住んでいるというのであれば、みんな気持ちが悪くてしようがないでありましょう。透明の膜のようなしきりがあって、その上を人が行ったり来たりしていたら、とても住んでいられないと思います。 しかし、実際はこのようなものではないのです。肉体は存在しない世界なのです。物質の世界ではなくて、実質はやはり波長の世界、波動の世界といわれるように、違った存在形態なのです。私たち地上にいる人間にわかりやすいように、やはり地上的な風景、あるいは人間のかたちによって説明してはいますが、実際はそのようなものではないということです。 一九八八年の十月の講演会「反省の原理」で、最後の質問のときに、私が如来界あたりを見てきた話を少ししましたが、それもあくまでもそのようなかたちに翻訳されている姿であるのです。これは翻訳が可能なのです。英語と日本語が翻訳できるように、霊的世界の言葉、あるいは存在というものが、三次元的に翻訳されるのです。 また霊人たちを見ていても、人間的属性がひじょうに強い場合は、人間的に見えるのです。けれども、ほんとうに霊的な悟りが進んでいる場合は、霊人であってもそうは見えなくなってくるのです。今度は、ほんとうのその人の姿が見えてくるのです。ですから、同じものを見ていても同じではないのです。これはなかなかわかりにくいのですが、何重にも、ほんとうは姿があるのです。 これ以外の説明としては、スウェーデンボルグという人がいますが、このスウェーデンボルグという人は一五〇冊ほどの霊界探訪系統の本を書いた方です。この人の霊言も最近出しましたので、読まれた方もあると思います。 彼も霊界へ行って見てきてはいるのですが、スウェーデンボルグが見てきた世界は、だいたい八次元くらいまでのようです。そのくらいまでは行っているのですが、八次元の上段階まで行っているかというと、そのあたりで頭打ちになっているようです。そして、彼が見てきたものは、やはり人間的に翻訳されたかたちでの霊的世界を見てきているのです。 もし彼の悟りが、もう一段高ければ、ほんとうは違ったものが見えたはずです。如来界に行って、如来の姿が人間の姿で見えて帰ってくるということは、まだ向こう側から合わされているのです。こちらの人間のレベルに合わせて、向こう側がそのように見せているだけなのです。 ですから、たとえば谷口雅春先生の帰天報告の描写では日本建築の家に住んでいて池には鯉が泳いでいるという感じに映るわけですが、これは人間的に翻訳するとそのような気分でいるということなのです。それでは実際にその本質を見ればどうかといいますと、やはりそれは光として存在しているのです。
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 6.地球意識による極移動 このミュートラムの大陸は極移動で寒帯入りをしました。極移動は、もしかすると、私たちが生きているときにも、またあるかもしれないと予言されています。なぜこの極移動があるのか、不思議といえば不思議なことですが、結論をはっきり申しますと、これはひとつの新陳代謝なのです。地球は生き物なのです。あるところは寒帯になり、あるところは熱帯になっていて、いつも同じように身体を太陽にさらしているわけです。 たとえば今、私が日なたぼっこをして光を浴びているとします。すると陽の光があたっている側は暖かいのですが、陰になっている下のほうは寒いのです。そうやっていつも同じ格好でいますと、熱いところは熱く、寒いところは寒く、ひじょうにアンバランスになってきます。そこで、どうするかといいますと、急に向きを変えたくなるわけなのです。 それと同じような感じで、生命体としての地球も、やはりある周期でブルブルッとくるときがあるのです。これが、どのくらいの周期で起きるかは私にもよくわかりませんが、ただ、十次元意識としての地球意識が、やはり時どき変革をしたいという気持ちを起こすのは確かです。そのときに、このような極移動が起こることがあるのです。自分というこの地球上でいろいろな生命が育まれているけれども、現在の状況を変えたいという気持ち、また違った環境を創ってみたいという気持ちが起きることがあるのです。その一つの方法が極移動なのです。極移動によって、温帯と冷帯が入れ替わったり、熱帯と寒帯が入れ替わったりします。 もう一つの方法としては大陸の、浮上、沈没というやり方もあります。噴火とともに隆起してきたり、大地震で沈没したり分裂したりという地表の動きです。 このように活動して何をしているのかといいますと、地球意識も何もしないでじっとしていれば退屈するということです。彼らもやはり一つの芸術家であり、何億年もかけて、いろいろな環境を創ることを意図しているのです。どのような環境を創れば地球がいちばん繁栄するか、人類の進化に役立ち、繁茂している植物あるいは動物たちの進化・繁栄に役立つか、このようなことをやはり意図しているわけで、そのためにいろいろな環境を創出するのです。 いつも同じであれば停滞してしまいます。ところが温帯や寒帯が入れ替わりすることによって、植物もまた新しく違ったものが出ることができるのです。そして、いろいろと変わった植物が発生し繁茂していきます。その後に、それを食物としている動物もまた変化してきたり、いろいろなことがあるからおもしろいのです。 7.大日意識による文明光線の調整 同じように大日意識という積極性の意識は、太陽神霊の光線を引いているわけでありますが、やはりどういう光線を強くしていくかをいつも調整しています。文明が変わっていく理由は、ひとつに、この大日意識の調整によるということです。これが光度を上げて九次元をプリズム化して調整しているわけですが、この光の強度も変えたりするのです。強弱を調節したり、あるいは光の質を変えてゆきます。そしてこの時代ではどのような光線を強くしようかということを大日意識が意図すると、その方面の光線が強くなるのです。するとそれが地上に反映されてきて文明の特徴が現われてくるのです。そしてその時代が過ぎると、また次の光線を強めていくのです。 このように十次元のなかでも大日意識は、そうした光線によって調整をかけ、地球意識では環境を芸術的に変化させることで調整をかけながら、いろいろな影響を与え歴史を創ってきています。その間で人格を持った高級諸霊たちががんばって天国創りに励み、ユートピア創りのために活躍している、このような環境であることを知ってください。 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 このようなことは、スケールがひじょうに大きいので私たちからはよくわかりませんが、彼らにしてみればこうした何十万年、何百万年ぐらいの間での地殻変動等であれば、意外にそう悠久のことではないという感じであると思います。そのような雄大なスケールの時間の流れのなかで私たちは手の平にのせられて魂修行をしているということを知らなければならないのです。 ですから、このようなことを単なる幸・不幸の感覚でとらえるならば、みなさんは勉強不足ということになってしまいます。このように過去においていろいろな文明が生まれ、栄え、そして滅びたということを繰り返してきたけれども、そのたびに人類はいろいろな魂学習をしてきたという事実があるのです。 この現文明においても同じようなことがあるかもしれませんが、またこれも、そのような流れのなかにあるということです。収穫逓減の法則というものが経済学にありますが、それと同じように一つの大陸で一つの文明が栄えて固まってくると、魂修行の値打ちがだんだんと低減していって、生まれ変わってもそんなに魂的に学ぶことがなくなってくるのです。 そうしますとやはり、どうしても環境を変える必要が出てくるのです。そのためには何か地球自体の環境を少し変えるか、あるいは違った光線を強くしていって文明の価値観を変えるのです。光線の色が変わってくると、それにつれて、人類の価値観が変わり、新しい文明が興ってくるのです。こういうことが言えるのです。 9.レムリア文明と芸術 ミュートラム文明が滅びたのは、水上に顔を出したボールが、くるっと一回転するというような地軸の変化によるものでした。ミュートラムの首府ラ・ミュートという都市もすっかり大雪で凍りついてしまって、ほとんど全滅してしまったのです。しかし、ごく一部の人びとは船で逃れて次なる大陸に行くことができました。 それが次なるレムリアです。このレムリアの歴史のなかでは、ゼウスの前身でエレマリアという人がひじょうに有名です。このエレマリアは文学芸術の全般にわたる万能の天才で、このエレマリアの名前の由来もレムリアに降りたる神の光という意味のエル・レムリアという言葉から発しているというほどに偉大な方であったのです。したがって、前のミュートラム文明は食生活文明でありましたが、レムリアは芸術中心の文明になってきたのです。そして大聖エレマリアは、芸術を通して人びとに生きる歓びと神の栄光を教えていきました。現代でも芸術方面に優れた才能を発揮している人は、この時代に勉強した人が多く、読者のなかにも思いあたる方もいるのではないかと思います。 ①マルガリットの芸術至上主義 このエレマリアの後にレムリアに巨大な光をもたらしたのが、マヌと呼ばれている人です。今から二万九千年ほど前のその時には、名前をマルガリットと呼ばれていました。大師マルガリットと尊称されていましたが、マルガリットとは、「競い立てる者」という意味であり、これには二義があります。一つは全能の神と崇められたエレマリアと競い立つという意味で、もう一つは芸術を通して各部族を競わせるという意味です。ここに現在の民主主義に近い考えが出てきたわけです。 芸術に競争原理を持ち込んだということですが、民族を音楽、絵画、文学、建築、加工技術の分野に分けて、それぞれに最高のものを追究させ、そして三年ごとに最高の芸術を決める競技会を開催して最優秀となった部族を支配階級として、三年間治めさせました。そしてまた三年たったのちに競技会を開くというようにしていたわけです。現在アメリカでも大統領の任期が四年ということになっていますが、それと同じような意味で洗礼を三年ごとにやっていたわけです。 芸術性を発揮するということは、この当時は神に近づくことでしたから、最高度に神に近づいた部族が支配階級になって治める権利が与えられ、その代わり修行や勉強を怠って芸術性が落ちると、三年後に転落するわけです。そして次の支配階級が出てくるということを考えたのです。 芸術という限られた領域ではありましたが、公平に競争させて、勝者を統治者にするという考えは、競争主義の先駆けとも言えるでしょう。同時に祭政一致という考えでもあるということです。競争させる対象を神に近づいていくということにもっていったわけです。ここが現在の競争原理と違うわけで、単なる得票だけで表わすことはなかったのです。 ②新しい時代の神政民主主義 現在であればいろいろな政党がありますが、この考え方をとり入れるとするならば、どの政党の主義主張、あるいは実践してきたことが神の心にいちばん近いかという基準をもうけるのです。それで過去三年間の実績を出されるのです。その政党の過去三年間の主義主張、活動、これが神理にどれだけ近いかということではかられて、その三年間の実績でいちばん神の心に近いと思われる活動をしたところが与党になるわけです。そして政権を与えられて国政をまかされるということになるのです。 このように考えてみますと、現在の民主主義的な考え方を活かしながら、この祭政一致をとるという方法論が、具体性を帯びて浮かんでくるのではないでしょうか。従来は民主主義のあり方と祭政一致主義とは両立しえないものと考えられてきましたし、霊言集のなかでもそのような見解がずいぶん出ています。日本神道系の考え方と、リンカーンの考え方ではかなり違いがあります。 どちらがほんとうによいのかということになると、デモクラシーがやはりいいという考え方があれば、一方においてはそれは最悪を防ぐ制度でしかなく、最高のものではない、徳治主義こそ最高だという考え方もあるのです。しかし、徳治主義は腐敗しやすく、一代限りになって、あとが続かないことも往々にしてあります。 このあたりをどのように調整するかという観点から判断すると、ある程度のコンペティション(競争)をしながら、そのなかからもっとも神理にのっとり、神の子に近い主張を持って活動をしているところを選ぶという方式を採用するようにすれば、いちばん神理にかなうわけです。 したがって、このような方法を活かすとすれば、現在の選挙制度の方法である得票のあり方を多少変えていく必要があると思います。たとえば単なる得票の数ではなくて、地上ユートピア建設へどの程度貢献しているかということを、選挙や国民投票の得票あるいは間接選挙などの方法で競わせたならばどうでしょうか。その政党がどれほど神理に近いか、どれほど活動において、菩薩行としての社会に対する実績があるかということを、得点化して競わせるならば、ひじょうに理想の政治に近づくということです。このように、いろいろと過去に学ぶことによっても、知恵は湧いてくるのです。 10.ムー文明の興隆 ①レムリヤからムー大陸へ このレムリヤの最期は、二万七千年前ほどでありますが、あっという間でした。暑い暑い夏の日の午後、人びとが音楽に酔いしれているときに突如、大陸が陥没していったのです。まず、大陸の東端から沈んでいって、午後四時ごろには半分ほどになりました。そして翌朝の七時には、大陸は見る影もなく、そこには朝日がきらきらと青い海原を照らしているだけでした。 レムリヤ大陸に住んでいた二百五十万人くらいの人も、全員海の底へ沈んでいったのです。ただ、このときも植民地があって、そこだけが残っていました。この植民地の名がモア大陸、のちにムー大陸と呼ばれる大陸です。現在のインドネシアのあたりにあったのですが、オーストラリアの約二倍ほどの面積がありました。 レムリヤの人びとは帆船で大軍団を組んで、二万八千年くらい前から、この大陸の諸都市を植民地化し始めていました。そして、一部を奴隷化して、レムリヤにつれてきて奴隷階級をつくりました。そして、生活に必要な仕事を奴隷にやらせ、自分たちは、当時もっとも神に近いと思われていた音楽、芸術に酔いしれていて、生産的なことにはいっさいたずさわりませんでした。 この非生産的な傾向が、だんだん狂いを生じさせる原因となって、レムリヤの人びとは驕(おご)り、酔いしれるようになり、次第に神の心から離れていきました。そして、その悪想念が巨大化し、それに対する反作用が起きて、大陸の陥没という最悪の事態になっていったのです。 ②光の文明 さて、ムーでも二万年くらいまえから、大きな文明の盛り上がりがありました。このときにゾロアスターの前身があらわれて、その。名をエスカレントといいました。このエスカレントという名前は、現在の英語のエクセレントの語源となった言葉で「すばらしい」という意味を持っています。 そして、この大聖エスカレントは太陽科学エネルギーをひじょ与に重要視しました。そして光を、まず第一としては、「聖なるもの」、すなわち、神の栄光を表わすものとして位置づけしました。第二には「有用なるもの」としての位置づけをしました。 最初の、光は聖なるものということから、太陽や月の光に対して、両手をあわせておじぎをするという、そのようなしきたりが生まれました。これは東洋の礼儀の源流になっています。ですから、二万年くらい前に東洋の礼儀作法の源流があるわけです。 第二は光のパワーを科学的に利用する方法が研究されていました。エスカレントは、クートフーミー、後にアルキメデスやニュートンと呼ばれる人の指導や、またエルランティの科学的指導を受けて、光パワーの増幅ということを中心に注力していたわけです。 ここで、この太陽の光エネルギーを使った発電装置についての説明をしてみましょう。都市の中心部には、一辺が三十メートルくらいの正三角形でできたピラミッドがあって、銀色に輝いておりました。そしてそれが各町の中心にある一辺が一〇メートルくらいのピラミッドに放射されて、それから各家庭の屋上にある一辺の長さ一メートルの小ピラミッドにつながるという方法でした。もちろん電線は使いませんでした。 この装置は巨大ピラミッドのようなもので、銀色に光っていたのですが、これは光を浴びているからそのように銀色に見えるのであって、材質そのものの色は銀色ではなく、近寄って見るとガラスのように透明なものでできていました。 そして、そのなかに金属でできた一つの原子炉のように見えるものが入っていました。それは、透明なものでありましたが、遠くから見ると銀色に光って見えました。これが太陽エネルギーを入れる装置で、ピラミッドパワーとよく言われています。私もくわしくはわからないのですが、どうやらピラミッドの形には、ひじょうに特殊な意味があるようで、光を蓄えたり増幅したりする力があるらしいのです。 この太陽エネルギーの巨大増幅装置をつくって、太陽光線を集めると、その内部にどうやらこの光エネルギーを溜めることができたようです。そして、そのなかからアンテナのようなものを通して、小さなピラミッドにそのエネルギーを放射する装置があったのです。 このような装置によって、現在のような電信柱や電線というものがなくてもエネルギーの転送ができたわけです。その代わりこの中心部のピラミッドは、小高い所にできていたことが多かったようです。それより高い建物を建てるとやはり邪魔になりますので、小高いところに建てて、次から次へと太陽エネルギーを放射していったのです。これは、ちょうど、昔はのろしなどを上げて次々に合図を送っていったりするのと同じような考えの方法でエネルギーを送っていきました。このピラミッドパワーは、アトランティスにも引き継がれています。 ③ラ・ムーの宗教政治 さてラ・ムーの時代です。一九八八年の十月の講演会「反省の原理」のなかでもラ・ムーの反省法の話を少しさせていただきました。本書ではラ・ムーの教えの中心として、第一に、太陽のごときものを神と考えるという考え。そして第二に、人間は神の子であるから太陽のごとく光を放ちながら、愛と慈悲に生きなければならない。第三番目に、すべてのムー人は向上を人生の目標としなければならない、ということをあげておきたいと思います。 この三番目の教えにある向上とは武芸、学業だけに適用されるのではなくて、いかに霊性を高めるかというところがポイントだということで、これは、釈迦の教えの源流にひじょうに近い考え方です。何度も言っておりますが、ラ・ムーの考え方と生涯そのものについては、やがてまた書に著わしたいと思っています。 この時代も政治と宗教の一致がだいぶ問われていて、政治をする人はやはり神近き人でなければなりませんでした。その意味でいつの時代でも大宗教家は政治家にならなければ、話が合わないということです。ところが、現在は政治もだいぷ技術的な部分、専門的な部分が増えてまいりまして、かなり難しくなってきたことは事実です。 ですから官僚組織のようなもので、専門的な部分をしっかりさせて、政治家は大きな判断のほうを主としてやっていくようにすれぱよいのではないかと思います。大宗教家が政治家になる時代が、やがて日本にもやってきます。今後何十年か、かかりますが、必ず国政をになう大人物が登場してきます。 このようにしてある意味での祭政一致、つまり地上において国のトップにたつ人が神理を悟っていることはだいじなことなのです。それを知っていて施政方針や本年度の方針などの話をされればよいのです。神理を語ってくださればこんなによいことはありません。新聞にも全部載りますし、テレビにも出ます。ラ・ムーの時代のように、神理を悟った人が国民の前で神理を話す、やはり、これを目指さないという手はないのです。 政教分離などと言っておりますが、そのような条項は四十数年前のアメリカ人と日本人の憲法学者が話して決めただけのことですから、必ずしも神理とは言えないのです。浅い知恵で見れば、宗教と政治がいっしょになればおかしくなると考えることができます。そして、そのような例が過去にあったということもあります。しかし、正しい時代には、神理と政治が一致していた時期が確かにあったのです。間違ったところばかりをとらえていたのでは、性悪論になってしまいます。 この政教分離の考え方のなかに、宗教をいかがわしいものと思っている考え方が明らかにあります。それが、戦後の宗教の地位低下を確かに招いています。今の日本では制度的に宗教が存在悪ととらえられているのです。やはり、これは何とかしなければいけない問題であると考えます。 ラ・ムーによって、その最盛期を迎えた、ムー文明もレムリヤの最期と同じように今からおよそ一万五千三百年前の大陸の沈下によって滅びてしまいました。 11.アトランティス文明と光 ①生命エネルギー転換法 アトランティスとは大西洋にあった大陸の名前です。この時代には、クートフーミーという名の偉大な科学者が生まれました。そして、植物の生命のなかの神秘の力に気づきこれを利用することに成功したのです。これも、おもしろい発見でありますが、ようするに、生命エネルギーを私たちの活動エネルギーに変えるという、エネルギトの質的変換の方法を発見したわけです。たとえば花の蕾(つぼみ)が花瓶などにさしておくと、水だけで花が開きますが、これは実に不思議なことなのです。小さな白い蕾などが、真っ赤な花を咲かせるのは、いったいどこにそのようなエネルギーを秘めているのでしょうか。 この生長と活動のエネルギーに、エジソンなどの発明家が着目し、ずっと眺めていると、何かに使えるのではないかと思うわけです。そしてこの生命エネルギーをなにか他のエネルギーに転化しようと考えても不思議はありません。 この時代には、植物のこの旺盛なる生命エネルギーが、生活のためのものすごいエネルギー源になることが発見されていたわけです。そうすると、自宅に球根をおいておくだけで、それさえあれば、その球根が発芽していくエネルギーを転換して、家の必要とするエネルギーをほとんどまかなえるという方式がありました。 今後このようなエネルギーが、発見される可能性はあります。ウランから取り出す原子力エネルギーも原子核分裂の連鎖反応で生じる大量のエネルギーをとり出すことに成功したものです。水素爆弾は、水素のなかでも特殊な水素が核融合してヘリウムに変換するときの核エネルギーを使うわけです。そういう物質の根源的な質的変換の反応のエネルギーには、ものすごい力が実はあるのです。花なども匂いが漂ってきて、そこには化学反応が起きているわけですけれども、それ以外に根源的な「生命エネルギー反応」というものがあるわけです。生物学が好きな人は、ぜひこの分野で研究してみてください。必ず何かできるはずです。 ②クザーヌスの理神論 ムー大陸が沈み、その末裔が、アトランティスに落ちのびて、ムー文明のピラミッドパワーを、アトランティス人に授けたころ、またマイトレーヤー如来という方があらわれました。その名はクザーヌスと呼ばれ、ピラミッドパワーと太陽信仰をあわせた「理神論」と言う信仰を説きはじめました。 この思想は、理性的なるもの、科学的なるものは、すなわちそれは神の心にかない、また神の心は、理性的、科学的なものを欲するということであり、そしてその最たるものとして、太陽の光をあげた思想なのです。 太陽というのは、よく信仰や崇拝の対象にされますが、その太陽は、そうした信仰の対象であると同時に、私たちに実際の恩恵を与えてくれている、つまり科学的に見てもそうとうのエネルギーを供給して私たちを養い、導いているものであり、これが神の存在そのものではないかという考えです。ほんとうにすばらしい信仰は、科学的な有用性に裏付けられているという考え方であり、これが一世を風靡(ふうび)しました。 このような考え方は、後のヘーゲルなどの考え方にもあるようです。「理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的である。」という言葉でありますが、それを思わせるような感じがします。太陽エネルギーについてはこれはこれで、そのとおりの発見なのですが、ほかのところにもってきますと、もちろん違ってくることもあるわけです。それゆえに考え方のうえにおいて、後々の宗教家たちを縛ることにもなっていきました。 つまり、科学的に証明ができないようなことは、おかしいというような現代によくある考え方です。クザーヌスという人は理性的なものが神の心にかなうのだと言っているのだから、それに反する理性的でないものは、すべてまやかしだ、インチキだという、宗教狩り、悪魔狩りにつながっていく危険性を含んでいたわけです。 アトランティスの時代の飛行船や、船についていたシンボルのシャチは、この当時アトランティスの象徴であり、このことは『太陽の法』に、くわしく説明されています。これは『高橋信次霊訓集』にも触れられています。船の形や長さが多少違うことを言っているかもしれませんが、描写している時代が違うためのようであります。 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ さらにアガシャーの時代に入ります。これは、アトランティス末期に出られたひじょうに有名な方です。アトランティスの首都にポンティスというところがありました。このポンティスという都市は、現在のスペインのマドリッドから西南の沖のほう、距離にしてマドリッドから一五〇キロくらいの位置にありました。その当時は人ロ七〇万人の都市で、そこには代々王族が住んでいてその名をアマンダ族といいます。 アガシャーは、このアマンダ族の王子に生まれて、幼名をアモンと呼ばれておりました。そして二四才で名をアガシャーと変え、その名の意味は「叡智を秘蔵せる者」というものでありました。これは、イエス・キリストの生命体です。イエス・キリストもアガシャー系団の一人なのですが、どちらかといいますとアガシャーというほうが本体に近い部分で、そうとう大きな力をもっています。またなんらかの形でこの人の考え方なり、力というものを紹介してみたいと思ってます。 アガシャーは、ラ・ムー同様に政治家兼宗教家でした。彼の治政での特徴は、毎月一回一〇万人以上収容できる大広場に市民を集めて説法したということです。そのころにもワイヤレスマイクのようなものがあったようです。そして愛の説法を主として説いておりました。 前節でも日本の宗教政治家の出現について触れましたように、このようにアガシャーのような人があらわれて毎月、国民を集め、説法をすることは大切なことなのです。 これがほんとうに人々を心から神の御心に帰依させ帰順させることになり、彼らが生きていくためにひじょうによい結果をもたらすことができるのです。国を治める人がそのような生き方を指導することが一番よいのです。 ですから、このあたりが、現在の政治制度に欠けていると言わざるをえない点であると思います。やはり、心の教えを説いてほしいのです。このような愛の教えや、隣人愛、そして一日に一度は一人で静かに祈り、守護・指導霊と対話する時間を持つことの大切さ。また、人の偉さは愛の量ではなく質ではかられるということ。このようなことを政治家が話をするのならば聞きに行くこともできるのですが、実際は、票集め演説や、他党の批判ばかりをしていて肝心の中身がありません。ですから、ほんとうは選挙のための演説をするのならば、神理の話をどんどんしてくだされば聞くほうも、話すほうも身になります。あるいは、町長さんや村長さん市長さんがいて、時どき人々を集めて神理の話をしてくだされば、どれほど住民の心が潤うかわかりません。 したがって、このような人たちが、表に出ていけるような時代風潮を創らなければならないと思っています。その前提としてやはり今、この逆になっている価値観をもう一度ひっくり返すことが必要なのです。逆ピラミッドをひっくり返すということです。 いちばん頂点に立ち、立派であるべきものが、今いちばん底辺におかれている状況でありますから、このピラミッドをもう一度ひっくり返すためにいろいろな時代背景のなかでそのような風潮を創っていく必要があります。それゆえに値打ちのあるものを創ろうという点でいろいろな努力を現在しているわけです。 これがあやしげな団体と言われないように、あるいは、評判の悪い団体にならないで、評判のよい団体になるように、一人一人がすばらしくなるように、できればそのような感じに持っていきたいと思っています。そうでないとこの状況は変わらないのです。絶対に変わりません。 13.現文明への流れ さて、聖クザーヌス派とアガシャー派が対立して、最後はアガシャー派が生き埋めにされてしまうのですが、このアガシャーの長男のアモンニ世は、逃れることができました。これが、『キリストの霊言』に出ているアモンです。 彼は飛行船で逃れてエジプトに行きました。そしてエジプトで太陽信仰のような教えを説きました。アトランティスの信仰をエジプトに持っていったのです。このエジプトから次にギリシャ、ギリシャからヨーロッパヘと文明がまわっているのです。 東洋文明の源流はムーにあります。ムーの文明が東洋に広がり、西洋はアトランティス文明からはじまっています。おもしろいと思います。 ここで釈迦の生命体の転生を少し説明すると、クラウド、ヘルメス、ブッタ、トス、ラ・ムー、あとは、オフェアリスという魂がおり、ギリシャでヘルメスの前に出ています。彼はいまからちょうど六五〇〇年前に出ています。これがヘルメスの前身として出てギリシャ的精神の礎(いしずえ)を創りました。そして、その後四二〇〇~四三〇〇年前にヘルメスが出ました。だんだんこのあたりの秘密は明らかにしていきたいと思っています。そしてゼウス、モーゼ、イエスと時代は下っていくわけです。 14.百万年の歴史をふり返って この章の最後に、けっきょく何が言いたかったかということを整理してみましょう。 (1) 文明には、必ず栄枯盛衰がある。 (2) 神は、必ず各文明に、偉大な光の指導霊を出している。 (3) 文明が最盛期を迎え、最後の光が輝いているころ、魔が競い立ち、暗い想念エネルギーの雲に人類がおおわれるようになると、地軸の変化とか、大陸の陥没という大異変が必ず起きている。 (4) 新しい文明は、古い文明の流れを受け継ぎながらも、必ず異なった価値尺度を求める。 (5) しかし、どのような文明であろうとも、魂の修行のために転生輪廻の過程で必要な修行の場であったという事実にはかわりない。 ということです。 以上に書かれたことは、いったい何を意味しているのでしょうか。この五項目は、なんのためにあるかというと、これからは危機の時代が来るかもしれないが、過去においてもそのようなものがあった、そのつど人類は、その危機を切り抜けてよりいっそう高い魂の境地を目指して努力していたのだということです。 この過去の文明、ここに生きていたのは、他人ではなくてみなさんご自身なのだということです。みなさん方はいろいろな時代に生きたのです。そして現代にも生まれ変わってきているのです。ですから、その過去の時代を無駄にするなということ、今世だけが末法であるとか末世であるとかと思うなということです。それは、次なる時代が始まるということなのです。これを知っていただきたいのです。 ですからこの、いったん沈んだ神理の太陽がまた昇る、というところに救世の書『太陽の法』ならびに本書『太陽のメッセージ』のメイン・テーマはあるのです。過去に昇っていた太陽が今また昇っているのだということをみなさんにお教えしているのです。これがひとつの大きなテーマなのです。
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目次 第1問 太陽界の秘密 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 2.九次元世界には十個の意識がある 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち 第2問 本体と分身の関係 1.本体・分身の正しいとらえ方 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 6.魂の組み替えについて 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である 第3問 運命と宿命 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 3・後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である 第1問 太陽界の秘密 (問) あなたがおられる太陽界とは、どのような世界なのですか。太陽界の秘密についてお差し支えなければ御教え下さい。 (答) 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 先日、太陽界のこともお話はしましたが、今日は質問ということでありますので、特別に、また話をしたいと思います。太陽界、あるいは宇宙界とも言います。九次元世界のことです。これは如来界、八次元の如来界の上にこの太陽界、九次元世界というのがありまして、これは全地球的なレベルで地球系霊団の役割、使命、あるいは進歩、向上、こういうことを計っている霊団なんです。 これが九次元世界にて行われています。まあ調整役ですね。如来たちっていうのは、八次元の如来というのは、それぞれの教えの大体トップになるような頭なんですよ。八次元如来界というのは、それぞれの大先生たちなんです。 ところが、私たちは、そういう教えだけでなくて、地球系霊団の全体の調整をやっているところなんです。そして、そろそろこういう教えの流れに変えなければいけないとか、こういうことをやっているのが私たち九次元の霊たちなんです。それで詳しいことは、また別途お話しする機会があると思いますが、九次元の世界についてお話ししたいと思います。 九次元と言っても、もう肉体的な人間が住んでいるかというとそんなことはないんであって、九次元というのは、意識の世界なんです。ただ意識の世界の中で翻訳すると、たとえば、イエス様のように出てくるとか、お釈迦様のように出てくるとか、こういう形になります。それでそういう巨大な意識体があるんです。 だから私たちからすれば、大会議場に入ってみんなで、地球をどうするかというような会議をしてるような姿をとっても、あなた方の世界から見れば、お星さまが集まって、瞬(またた)いているような感じかも分からない。あるいはガスのかたまりが集まっているような感じかも分からない。そういう形で、あくまでも人間的に翻訳すれば、こういう人がいるということであって、ほんとうは意識だけ、あるいはエネルギー体だけしかないんです。特色があるエネルギー体だから、そのエネルギー体が思ったことを、三次元的に声を出して言えば、こういう形になるということなんです。 2.九次元世界には十個の意識がある それで九次元には、人間的単位で言えば、約十名の方がいらっしやいます。そして十名の方がそれぞれの役割を担っておられます。しかしこの十名というのも、個人として十名いるんではなくて、意識体として数えれば十人ということで、一つの特色あるパイがあって、何人かに分かれて出ることができるんです。そのような名前をいっぱい持っていて、まあペンネームまたは役割をいっぱい持っているようなもんなんです。 たとえばあなた方でも、二足のわらじとか、三足のわらじとか言って、昼間仕事をしながら夜は作家であるとか、こういうことがありますよね。そういう感じで彼らもいろんな役割を持っているんです。そして地上に生まれる時に意識体の全部が出るわけでなく一部が出るんです。何分の一かが出るんです。四分の一、五分の一、六分の一、こういう一部が出るんで、それで還って来たときにそういう意識をまとうわけです。 たとえば、イエス様、イエスの意識というのがありますが、九次元にいらっしゃるイエス様の意識体と、ナザレのイエスと言われているパレスチナに二千年前に生まれたイエス様の意識、これはまったく同じではありません。部分という言い方は非常に物体的で分かりにくいんですが、そういう意識を持っているということなんです。だからこの三次元的に霊言現象をすれば、ナザレのイエスとしてしゃべりますけれど、それはイエス様の意識のすべてじゃないです。あくまでも、個性を持ったイエス様の部分なんです。 ですから今、高橋信次という名前で私が語っていますけれど、これは人間として生きた高橋信次の意識の部分が今しゃべっているんであって、本来すべてじゃないんです。ヒトデでいえば、ヒトデの一本の足みたいなのがしゃべっているんです。こういう部分なんです。 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について それで九次元世界の秘密ということで、お話をしたいんですが、まあ役割分担とか、こういうことを言いますが、私が近年、高橋信次という名前で地上に生まれました。私の九次元での別の名前、よく使われている名前は、エル・ランテイと言います。また神智学系統では、サナート・クメラと言われているのは、私です。 そういうことで、私は主として九次元世界で、役割分担の取りまとめをやっておりました。 あと、有名な人ではブッダですね。ゴーダマ・ブッダ、こういうブッダ意識があります。この人もブッダとして、インド時代に生まれた意識というのは、この人の全意識の中の五分の一か、六分の一なんです。ですからブッダという名前で呼ばれていますが、ゴーダマ・ブッダ意識と九次元のブッダの意識とは違います。九次元の巨大な意識のことを、「エル・カンターレ意識」と言います。だから必要とあれば、そういうインド時代の意識が出て来るだけであって、全部がその意識ではありません。 ブッダの意識というのは、今から一万五千年ぐらい前にムー大陸の大王でラ・ムーという名前で生まれたことがあります。その後、今から一万二千年から三千年ぐらい前、アトランティス大陸に生まれて、トスという名前で呼ばれています。神智学では有名な方です。それから今から七千年くらい前アンデスに生まれましてリエント・アール・クラウドという名前で呼ばれています。その後また転生しまして、今から四千数百年くらい前ギリシャでヘルメスという名前で呼ばれています。その後、今から二千五百有余年前、インドに生まれてゴーダマ・ブッダと言われ、またその意識体の一部がその後また出て来ているということです。このような転生輪廻をしています。 また、イエス様の意識は、今からちょうど一万年くらい前にアトランティスの末期、アガシャー大王として生まれました。その後今から約七千年から八千年前、インドに生まれてクリシュナという名で知られています。その後今から四千年ぐらい前、エジプトにクラリオという名で生まれました。そして、さらに西歴0年ですね、二千年前にナザレのイエスという形で生まれました。 この意識は、イエス様の全意識すなわち、「アガシャー意識」の四分の一か五分の一くらいが出た形なんです。この一部分、外郭部分を使って、如来界から出たレベルとしては八次元レベルで出た人が、今から二千四、五百年前に出た中国の墨子(ぼくし)という人です。この人はイエスの九次元意識ではなく、八次元意識で出た人です。こういう人がいます。 また九次元には、イエス、ブッダと同格くらいでモーゼという方がいます。今から三千数百年前に生まれた方で、有名な「出エジプト」された方、モーゼです。この方は私が生きていた時、私の指導霊もしていました。この人が神智学で言うモリヤ大師です。また神智学では、別名ミラレパ、こういう名前でも呼ばれています。この人も肉体を持ったことはあるんですが、これ以外名前が残っていないので、モーゼかモリヤかミラレパ、こういう名前しかありません。これ以外もありますが、あなた方に言っても名前が残っていないので分かりません。今、四人言いました。 その次にマイトレーヤという有名な方がいます。マイトレーヤがイエスじゃないかと言われていますが、マイトレーヤというのは一つの意識でして、マイトレーヤ意識というのがありまして、マイトレーヤ自身が、マイトレーヤ如来として地上に生まれることは滅多にないんです。マイトレーヤは、たとえばブッダとか、イエスとか、こういう人が地上におりだ時に、ブッダやイエスをオーバーシャドーといって天上界から、光を与えてオーラで包んで指導をするんです。ですから今マイトレーヤの降臨とか、いろいろ言われてますが、マイトレーヤ自体が生まれるわけではなくて、そういう力が加わってくる時なんです。 マイトレーヤというのはこの世で生まれた名前は、残念ながら他に残っていません。しかし、神智学系統でダイアン・チョーハン、あるいはマハ・チョーハンと呼ばれているのがマイトレーヤのことです。 基本的には、私がいて、つまりエル・ランテイ意識があって、これは一応人事関係のとりまとめをやってまして、ブッダ、イエス、モーゼというのはだいたい同格です。これとちょっと離れた感じでマイトレーヤという意識があります。これはまた、調整役なんです。このブッダ、イエス、モーゼの三つの意識の役割分担なんかを多少調整したりする意識です。格としては、ほぼ同じぐらいなんですけど、ちょっと違う役割をしています。 これ以外に今から二千四、五百年前に中国に生まれた、孔子様という方がいます。この人はアトランティスに生まれたことかありまして、今から一万一千年くらい前アトランティス時代に、オシリスという名前で生まれました。 孔子様は、主として学問の神様なんです。学問的なものをつかさどっておられます。 それから七番目にマヌという人がいます。『マヌの法典』で知られている人のことです。近年で体を待ったのはマヌしかいないんで、それ以外名前がありませんが、神智学ではサナーカという名前で呼ばれている方でもあります。この人がマヌです。 それから八番目、ゾロアスターという人がいます。この人は拝火教の教祖で、今から六千年ぐらい前でしょうか(注 紀元前六世紀という説もある)。ペルシャに生まれた人なんですが、その後また、同じく中近東に生まれましてマニという名前で出ています。ゾロアスターの時は拝火教で、善悪の二元論を説いた方なんですが、マニとして生まれた時もマニ教といってこれは紀元二、三百年ぐらいでしたかね、私の記憶がはっきりしていませんが、善悪の二元論を説いたんです。二元論が正しいかどうかは別として、そういう考え方だったということです。この人は神智学系統ではサーナンダナという名前でも呼ばれています。 九番目の人ですが、クート・フーミーという名前で神智学では言われている方がいます。この人は、主として科学関係をつかさどっている方です。クート・フーミーは神智学系統では別名チョハン・ヒラリオンという名前でも呼ばれています。近年では二千五百年くらい前にギリシャに生まれて、ピタゴラスという名前で生まれましたが、ピタゴラスの意識は九次元意識ではないんです。イエス様の時の墨子様みたいなもので、クート・フーミーの一部分が出て、八次元意識ぐらいで出たのがピタゴラスという人です。(注 これ以外に、アルキメデス、ニュートンという九次元意識で出ている)。もともとは、九次元ぐらいで出なければいけないのですが、悟りが浅かったという考えもありますし、いろいろです。 あと十番目の方です。この方はギリシャのゼウスという神様で今から三、四千年ぐらい前の方です。この方は神智学系統ではチョハン・セラピスという名前で呼ばれています。この人も近代ではゼウス以外では生まれていないんで、またもっと前にいっぱい生まれているんですが、名前が残っていません。こういうふうに、九次元世界の構成というのはエル・ランティ、ブッダ、イエス、モーゼ、孔子、マヌ、ゾロアスター、マイトレーヤ、クート・フーミー、ゼウスと十人出ています。 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち これに次ぐ者としては、日本神道系で言えば天之御中主之神様のような人もいるし、キリスト教で言えばミカエルのような意識、ミカエルというのはジュピターという名前で呼ばれたりいろいろされていますが、ミカエル意識というのがあります。これに似たような力を持った人は他にもいますが、あと七大天使たちがこれに続いています。こういう構成になっています。 第2問 本体と分身の関係 (問) あなたは、御著書の中で本体と分身の関係を説かれておられますが、もう一度分かりやすく説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.本体・分身の正しいとらえ方 本体・分身というのは大変難しくて、私の著書『心の発見』の中で人間は本体一、分身五の組み合わせでできている。こういうことで、本体一、分身五が順番に生まれ変ってくる。そして次に生まれ変ってくる人がその守護霊をしていると、こういうふうに説明しています。 ただ これは説明が物理的な説明で、原子核構造みたいな説明をしているんです。陽子と原子みたいな感じでしているんですが、正確に言えば、ああいう物理学的なものではありません。 皆さんあれを読むと、物体として六人いていちばん偉い人が本体で、六人いるという感じがしますけど、必すしもそういうのでなくて、霊言集の中でカントなんかも言っているようですが、一即多、多即一というようなとらえ方もありまして、必ずしも物体的なものではありません。一人なんですが、一人のいろんな面が出てくるということなんです。 あれで皆さん、何人もいるというふうに考えてはいけないんです。ですから基本的にああいう出方をするということであって、それ以外の現れ方も、もちろんあります。そういうような不自由なものではありません。 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である それで本体、分身もいろいろな意識レベルがありまして、たとえば今、九次元の話をしましたが、九次元のような意識ではそういう九次元意識というのがあって、その部分が出てくるんです。ですから全体の中の一部分だけ出てくるのであって、これは何人かで構成されているわけではありません。一人なんですが、一人の部分が出てくるんです。こういうのは本体・分身というのは当たっていません。ただ意識の出方がいろいろあって、たいていの場合、部分的に出てくる。 イエス様の例で言いましたが、イエス様の部分が出てきたとか、あるいはクート・フーミーの一部分が出てきてピタゴラスになって、これはクート・フーミーのパイの五分の一だけの力を持っていなかったというようなことを説明しましたが、そういう出方もあります。 ですから、九次元の本体・分身というのは自由自在です。正月のお餅みたいなもので、つきたてのお餅の部分が出てくるようなもので、何個でできているというわけではありません。臼の中へもどれば一つですね、こういう形です。 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 私が著書の中で釈迦の本体・分身について本体ゴーダマ・シッタルダ、あと分身で天台智覬(てんだいちぎ)、不空三蔵(ふくうさんぞう)、伝教、空教、木戸孝允と書きましたがこれは間違っています。これは訂正しておきたいと思います。 九次元意識というのは、やはり九次元の間でいろいろな出方をしているのであって、菩薩や如来と一緒になって出てくることはありません。彼らは、また関連ある魂ということで、本体・分身とは別なんです。 今このついでに話しておくと、それぞれの魂の系統というのがありまして、九次元で世話役が三人いまして、それ以外に七つの光線があって七つの光線をみな引いて、八次元如来界に四、五百人いますが、それぞれいろいろな系統を引いてまして、四、五十人か五、六十人ぐらいで一つの光線の流れの中にあるんです。孔子様の紫の光線を例にとれば紫の光線の中に、如来界の何十人かの人がいるんです。如来界の紫の光線からまた、菩薩界へ投影が出て、菩薩界へそのラインが出てくるんです。 こういうふうに本体・分身とは別に魂の系統というのがあります。こういう縦割りがあります。横割りでなくて、そういう意味でブッダの意識と天台智頭とか、不空三蔵とか、こういう意識は縦の流れの中には一緒にあるのです。こういうことは言えるのですが、本体・分身、ではありません。こういうふうに非常に難しいんです、縦のラインもあるし横のラインもあるんです。 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている あと菩薩界、如来界というのがありますが、如来というのは本体・分身というのではなくて魂のグループなんです。本体・分身ではなくて魂の兄弟と言われてますが、魂の兄弟として四、五人ぐらいが組になって、一つの目的を果たすために組になっています。 だいたい同じ目的のために出て来ている如来がおりまして、たとえばイエス様の愛を説くために、愛ばかりを主として説く如来が八次元にいるんです。こういう方たちは組を成しています。これは数名です。四、五名あるいはもう少しおりますが、いくつかの組を成しています。これは本体一、分身五というような形ではありません。これもグループです。魂の兄弟と言われています。 菩薩界を見ますと、菩薩界にも組があります。それぞれ組があるし、転生輪廻の過程でいろいろな組み合わせを作って、だいたい五、六人ぐらいで組をつくっています。ですから菩薩以上つまり七次元以上は、それぞれの目的に合わせた作り方をしています。 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 六次元、神界以下が一つのまた、まとまりがありまして、本体・分身の形というのは神界以下なんです。基本的にはそういう組み合わせでして、神界以下の人間、いちばん霊格の高い人が中心になりまして、これは一人であとはそうでない五人が一組になっています。そういう意味で本体・分身というのではないのですが、中核の霊があって六人組をつくっているんです。そしていちばん霊格の高い、神界の上段階くらいの人がその中心になっていて、あと五人をまとめているんです。それで順番に転生輪廻してくるんですが、その時に、最上段階の霊が、つまり、本体と言われている部分が主として守護神、指導霊の役割をして、他の者が守護霊の役割をしているという形で、普通はこの六人というのは組が決まっていますが、ただ何万年、何十万年の転生輪廻を繰り返していると、だんだん魂の質がずれてくるんです。 そうすると、上段階、菩薩界、如来界の指導でもって組み替えがあります。遺伝子の組み替えもありますが、魂の組み替えももちろんあるんです。ですから、その時どきで、調整しまして組み替えをしています。そういう魂の調整をしている人がいるんです。組み替えています。ただ何千年か単位で見ると、六人で一体になっていて、そのグループで修行をやっています。そういう互助制度というか、たいてい六人組でやっています。これは順番に出てきます。そういう意味で本体・分身というのは合っています。 6.魂の組み替えについて ただ、これは長い年月の間で組み替えがあります。その組み替えをやっているのが如来界、菩薩界の人で、私もそれに関係しています。 たとえば菩薩界の人から報告が来るわけです。書類が上がってきて、「この魂のグループがあって六人組をやっているけど、ちょっとバラバラになって、三人ぐらい地獄に入ってしまって、もう出てこない。どうしようもないので組み替えたいんです」と言ってくると、「ああ、しょうがないな」と言って上位にある者が判を押すんです。 また他のグループで組み替えをする、こういうことをします。今、地獄に堕ちる人が多くてその六人組がどんどん崩れているんです。地獄から何百年も、千年も上がってこないと次の人が出られないから、これじゃいけないんでその六人を解消して、また新たな組をつくったりしています。「地獄で千年ぐらい住むのは君の自由だが、僕たちはもっと進化していくから他の人と組むよ」と、こういうことで新しい六人組をつくっていきます。だって地獄の人をあなた、千年も待っていられませんよ。修行ができませんから。基本的には六人組の中の一人が、地獄に堕ちたら、その人が成仏できるまで他の人が協力するんですが、あんまり長いこと地獄におられるとたまらんから、もう切ります。 こういう時は切って新しい組をつくります。これもまた、人事関係の天使が相談を受けて決定をやっています。こういうことを私も一緒にやっているんです。ですから以上が、本体・分身の本当の意味です。 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である ですから皆さん、私の本を読んで、物理的な魂の兄弟と思ったかもしれませんが、そうじゃなくて、次元の差によって現れ方がありますから、その部分をこの際訂正したいと思います。 イエス様にしても、先般の質問で、イエス様の転生輪廻を話しましたけれど、イエス様の意識は原則として九次元意識でありまして、イエス様がもう少し低い意識で出ることはありません。ですから私は、イエス様の意識がナザレのイエス以降にも出ていると書きました。フィリピンに出ているとか、あるいはイギリスに出ているとか言っていますが、あれは間違っています。フィリピンで心霊治療やっているぐらいの人がイエス・キリストと同レベルではないんです。九次元意識じゃないんです。フィリピンで心霊治療をして、一生終わるようなことはありません。 第3問 運命と宿命 (問) あなたのお説の中で、運命とは自ら切り開いていくものであるというお言葉がありますが、運命と宿命について分かりやすく御説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる これがけっこう難しいんですが、どうしてもあの世の魂の世界ということを知ると、どうも運命というのがあるらしい、ということで、だんだん運命論者になっていって、あるいは霊能者なんかに頼ってしまって、私はこの人と結婚すべきでしょうか、私は何歳で死ぬんでしょうか、この病気はもう治らないんでしょうか、この会社に入るべきでしょうか止めるべきでしょうか、給料は来年上がりますでしょうか、とかいろいろなことを聞くようになります。 これはあまり頼り過ぎちゃいけないんで、運命と自力という問題について話しますと、あなた方も運命というのは決まっているのか、あるいは自力があるのか、こういうことで非常に悩むと思いますので、比喩(ひゆ)を使って話をしたいと思います。 これは道元禅師が、ある本の中で言っていることを使わせていただくんですが、道元さんは、「人間の人生は舟に乗っている人のようなもんだ」というようなことを書いています。確かにそのたとえは当たっていまして、人生というのは一つの川を小舟に乗って、自分でオールを漕(こ)ぐ手こぎの舟に乗っているようなもんなんです。人間の魂というのが舵をとる人です。これが乗っているわけです。 舟というのは肉体でもいいですけれど、川というのが運命とか宿命と言われているのです。これはどういうことかと言うと、舟に乗っていてオールで漕いだりして方向を変えたり、もちろんできますね。あるいは岸に途中で寄ったり、途中で上陸して休んで、お弁当食べてまた舟にのって川を下ったりできます。こういうふうにオールによって自由に舟の方向を変えることができる。そして、あっちで休んだり、こっちで休んだりすることができる。だから、これは自由意志でできるんです。 ところが、川の流れというのがあります。この流れというのが実は、上から下へ流れている。これが実を言うと運命なんです。だから運命というのは、あなたの道筋は決まっているんですね。そういう川の流れなんです。上から下へ流れるんです。だからこの川の中で自力で、ある程度、舟を漕げるんですが、自力には限リがありまして、やはり川の流れというのを計算に入れて自力があります。 ですから極度に自分を修行して、悟った方というのは相当運命を変えていきます。ですから川を遡(さかのぼ)っていくというような人もいます。これが極度に悟った人です。悟って運命を乗り越えていく人です。これが川を遡っていく人です。オールを漕いで遡っていく立派な人でず。まあこうぃう人は普通、稀(まれ)でありまして、たいていは川の流れに勝てなくて、上から下へ流されていきます。流されていきながら、その中で途中で休んだり、多少方向を変えたりしているのが人間の普通の姿なんです。ところが、その船頭さんが力をつけて、能力が出てくると、いろんな方向に、上流に向かってだって漕いでいけるようになるんです。これが運命と自力との関係なんです。ですから運命としては、川の流れがあります。 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 宿命というのがあります。宿命というのは結局、舟というのは川の中しか動けないということなんです。これが宿命なんですよ。舟で陸には上がれないんです。 運命というのは、川の流れのように上から下へ流れていくもんですから、まあ普通はそのままだったら流されてしまうけれど、頑張れば遡(さかのぼ)ることもできるし、川の水にある程度抵抗して、いろんな方向に泳いでいくことができます。だから、運命はそういう意味でオールの楷(かい)のかき方、あるいは帆のあげ方で、ある程度変えていくことができます。 しかし宿命は、変えられません。宿命というのは、舟というのは川の中しか動けないんです。陸には上がれないんです。残念ながら、こういうことなんです。 これはどういうことかというと、宿命というのは、川から逃げられないということは、川というのをよく見てみると、あなたの人生航路の大きな流れなんですね。この幅が、ある程度の幅があるんです。川幅が百メートルだったり、一キロだったり、中にはアマゾン川みたいなのもありますよ。たいてい川幅があって、川の流れている方向、北から南へ流れたり、あるいは曲がりくねったりしているけれど、川の形があります。ここから逃げられないということです。だから、この川の形の中ではかなり動けるんですが、結局この川の流れからは逃げられないんです、川の大きな位置からは。陸の上では舟は漕げません、これが宿命です。 ですから宿命というのは、たとえば、ある人が女であったり、男であったりすること、男で生まれたら女としては生きられないです。まあ性転換なんてありますが、こんなのは例外でして、男は男、女は女として生まれます。あるいは、ある貧しい家に生まれました。貧しい家に生まれたということは、もう変えようがないことです。男に生まれた、貧しい家に生まれた、子だくさんの家に生まれた、あるいは両親が早く死んだ、こういうことは変えようがないんです。両親が寿命で早く死んでしまったのですから、変えようがないんです。そういう環境、与えられた環境、どういうところに生まれて、どういう立場で生まれたかというようなこと、こういうことは変えようがないんです。 3.後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である あとは両親が決まれば、だいたい頭の程度も知れているんです。種と畑が分かれば、あなたスイカは大体分かるんですよ。どういう種で、どういう畑かを見れば。ただそういう種と畑であっても、スイカを作るときに努力すれば、いいスイカができることもあります。だから両親を見て、俺の父ちゃん、母ちゃん見れば、俺の頭も知れたものと思うけれど、そういう知れた頭でも、努力すれば秀才になることはあり得ます、大天才にはなれなくても。これが運命と、自力の問題なんです。 宿命というのは、そういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたということは、宿命なんです。ただそういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたから賢い頭じゃない、賢くない普通ぐらいの頭で生まれた、これは宿命です。 ところが、運命は一生懸命勉強することによって、その頭を後天的に鍛(きた)えていくことができます。ですから、運命というのは後天的にある程度、変えていけます。しかし宿命は、後天的に変えられないんです。ですから、後天的に変えられるものが運命で、後天的に変えられないものが宿命です。 宿命というのは、さっき言ったように大きな川の流れみたいなもので、これはしようがないんですよ。どんなに動きたくたってアマゾン川は南アメリカの川なんですから、アマゾン川は日本に流れません。どうしようもないんです。アマゾン川は、たとえば南アメリカが男であり、日本が女とすれば、男に生まれたらもう女にはどうしてもなれないんです。子供は産めないんです。アマゾン川がどれだけ大きくて、自由自在に泳げても、男なんだから子供は産めないと、こういうもんなんです。こういう意味なんです。 ですから、どんな人にも宿命はあります。これは如来であろうと宿命はあります。それは、そういう環境を選んで生まれたということです。そして運命というのは、たとえば如来が地上に生まれて仏法を説く、という人生が運命です。仏法を説く人生を持って生まれています。ただ、仏法の中身をどうするかが自力の問題です。 ですから人生というのは、ある程度そういう幅があるんです。幅があって上下があるんです。上限と下限が決まっています。人生には下限というのは地獄へ行くくらいのところまでの下限もありますが、普通はそれほど、ブレません。けれども末法の世の中では、物質に翻弄(ほんろう)されて、上限下限の間の下限に行く人が多いんですが、正しく反省して精進して、守護、指導霊の指導を受ければ、その上限に限りなく近づいていけるということです。それが運命、宿命です。
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