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青竜、白虎、朱雀、玄武をまとめた名称。 701年(大宝元年)正月元旦、文武天皇の大極殿における朝賀の際、 正門に鳥形幢(はた)をたて、左に日像・青竜・朱雀の幢、 右に月像・玄武・白虎の幢があり、外国の使節は左右に列し、 「文物の儀是に於て備われり」と『続日本紀』にある。 (すなわち、四神は単に帝都建設など土木的意味ばかりではなく、 元旦の盛儀にも示されるなど儀式的(=政治的)意味も持ったと思われる。 高松塚古墳の壁画も同様の意味を持っていたのではないか、との由) 2014年(A)、中国河南省南陽市から漢代の漆棺が出土、その表面に美麗な四神が描かれている事が公表された。 表面には黒漆が塗られ、赤白二色で装飾されており、四神の他蓋部分にはカラスとヒキガエルが描かれていたという。 参考文献 『日本陰陽道史総説』村山修一 新華網2014年11月7日記事 日本陰陽道史総説
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297: 名無しさん :2017/05/06(土) 23 44 29 沖縄に乗り上げた「大和」を曳航しようとしても、米軍の時には頑として離岸しなかった世界であれば、従軍記者が撮影した写真に無数の手が写っていそうです。 死して尚も「大和」を守ろうと、必死で艦体にしがみつく腕が。 317: 名無しさん :2017/05/07(日) 01 21 28 297さんを見て、二次創作どころか三次創作の如くネタを。 最初は、起床ラッパを担当していた水兵だった。 定刻になってもラッパが鳴らず、不審を抱いた周囲が気づいた時には、既に彼は「ミズーリ」のレーダーマストの先端に昇っており、衆目を十分に集めた瞬間に飛び降りた。 周辺の風景が一望できる、湾内で最も高い位置から。 二人目は、「ミズーリ」のコック長だった。 艦長の朝食に副長がケチをつけた瞬間、やおらキッチンの包丁を投擲して副長を殺害。その後は駆け付けた兵士を次々と殺傷して装備を奪うや、艦内を縦横に馳せ廻って遭遇した乗員を次々と殺傷。一個人の凶行とは信じがたい犠牲を出した。 偶々乗艦していた海兵隊員いわく、取り押さえて事情聴取する所ではなく、戦場で邂逅した日本兵よりも凶悪で、咄嗟に砲術長が主砲を撃つ事でコック長を海に吹き飛ばしていなければどれだけ死傷者が出たか分からないと語った。 三人目は、新人の衛生兵だった。 温厚で親切な、兵士よりも教師が向いていると誰もが思うような人物で、自分でも除隊後は教職員になりたいと語っているような好青年が、「ミズーリ」の周辺に存在する全ての船舶にM1カービンを乱射したのだ。 これらの事態を、過酷な戦闘で乗組員の心理的な治療が必要であると提督と各艦艦長以下の主要幹部が会議中に、それは起こった。 提督つきの従卒が、いきなり発火したのである。 提督以下、衆人の目の前で直立不動の姿勢を保っていた従卒が、いきなり全身が青い炎に包まれたのだ。 それが従卒自身の自殺でない事は、自身に何が起こったのか理解できず、恐怖すら浮かんでいない困惑の表情が物語っていた。 奇妙にも全身が骨すら殆ど残らない程に焼きつくされながら、彼の頭部のみは火傷ひとつなく、生けるが如く焼け跡ひとつない足許の床にストンと着地した。 人体自然発火。この異常事態の原因は―――。 ―――やはり、あれだな。 その場にいた全員が、艦内からは見える筈のない存在が目の前にあるが如く、ある方角に視線を向けた。 宜野湾市沖、「8番岩礁」。 四度に渡り、米軍が行っている離岸作業にも関わらず、頑として動こうとしない存在。 現在、五回目の作業が計画されており、今度こそ成功させる為に万難を排して(予算と人員が許す範囲で)離岸を完了させる予定の、戦艦「大和」。 318: 名無しさん :2017/05/07(日) 01 22 38 対応は速やかに、そして密やかに行われた。 南北の合衆国長老教会、福音派の正統長老教会、聖公会など。プロテスタント諸宗派の従軍牧師が参集し、様々なエクスーシア(悪霊祓い)の儀式を「大和」に施そうとし……悉く、自らの血肉に染まった。 従軍牧師ではない、ある本職の日系牧師は、悪霊の中枢として艦内の大和神社を焼却すべく自ら乗り込もうとしたが、艀が接舷しようとして横転。スクリューに切り刻まれて三日後に死亡する。 合衆国ではこの頃は少数派であるカリフォルニアやニューヨークのカトリックから、本職のエクソシスト(祓魔師)が派遣され、盛儀祓魔式が厳かに執り行われ、無事に終了した。 満を持した合衆国海軍は、五回目の「大和」離岸作業を開始したのだった。 ……だが。 教皇の要も古い旧教の準秘跡を以てしても、「大和」を鎮める事は出来なかった。 その成功は、昭和27年4月17日を待たなければならなかった。 恐縮の極み。ウィキへの掲載はお任せいたします。
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【検索用 きせい 登録タグ 2012年 IA KAITO VOCALOID mayuko き 曲 曲か 殿堂入り】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:mayuko 作曲:mayuko 編曲:mayuko 唄:KAITO コーラス:IA 曲紹介 天に 捧ぐ 曲名:『祈声』(きせい) 歌詞 灰に帰す現の理 微睡に流るる時 風和ぎの安らかなる結びを願いて瞑目す 塵に消ゆ徒夢の理 影ろうは久遠の時 五月雨に織り紡ぐは起こりの願いと瞑目す 燦々と降り注ぐ陽光 影法師 賛々と諷詠せよ 祈り歌い捧げよ この声の届く限り己を裂いて伝う 泡沫に望む声が生を拭うまで (燦々と降り注ぐ陽光 影法師) (賛々と諷詠せよ 祈り歌い捧げよ) 祈り歌い捧げよ 等しく生は枯れ玉響の死に惑う 上ぐる永久の祈り 彼の神へ 祈り… 歌えや 三千大千世界の理を 儚き嘆きに染め上げなぞるなら (祈りを途絶えまで) 嗚 随神と面を伏せど 掲ぐる声は終もなく (燦々と降り注ぐ陽光 影法師) (賛々と諷詠せよ 祈り歌い捧げよ) 歌い捧ぐ生の調べ 永久に紡ぐ 歌い捧げよ 願うは夢の錦 祈りて奏で祀り慰む 吾が為に祈念せし捧げる神楽歌 (願いを祈りとして祈りて捧ぐ祀りの盛儀) 賛々と歌い継ぐ起こりを願う歌 賛々と諷詠せし神が為の歌 (彼の為に紡ぎしと声 高く天を打つ) 賛々と歌い継ぐ結びを屠る歌 賛々と諷詠せよ 天に放てよ この声の届く限り己を裂いて伝う 祈り重ね望む歌が生を繋ぐまで (燦々と降り注ぐ陽光 影法師) (賛々と諷詠せよ 祈り歌い捧げよ) 祈り…歌い捧げよ コメント 追加乙! -- 名無しさん (2012-05-11 18 59 38) 作成頑張れ!mayukoさんきたあ! -- 名無しさん (2012-05-12 11 01 30) 作成超頑張れ!! -- 名無しさん (2012-05-12 11 49 56) 今更ですが歌詞追加させていただきました。 -- 名無しさん (2012-05-13 18 00 51) ありがとう、死ぬほどありがとう!!mayukoさんの引き出しの多さに脱帽せざるを得ない。この曲調はまだ出てきてなかったはずだ! -- 名無しさん (2012-05-20 16 38 18) もしかしたらこの曲が1番好きかも知れない -- 名無しさん (2012-05-27 20 52 39) 罰ゲーム -- 名無しさん (2012-05-29 08 15 45) IAの声の癖がギリギリまで抑えられてて本当に綺麗なコーラスだった -- 桐 (2012-06-03 16 54 47) pixivで絵見てから聴いたけど感動の一言しかでてこなかった…mayukoさんの曲は本当に美しい。 -- (・ω・`) (2012-07-20 12 57 30) 神降臨。 -- ナイス中毒 (2012-08-04 12 13 31) KAITO好きで聞いたけど想像以上にキレイで神々しい唄だった。耳が幸せです。 -- 凍音 (2012-10-28 19 33 12) 神! KAITO声きれい!聞きやすい! -- 武勝タク (2013-06-28 23 21 18) 歌詞格好いい!KAITO兄さん美声~ pv?も格好いいので、皆さんみてくださいね( ( (o(*゚▽゚*)o) ) ) -- 月牙 (2013-07-12 22 21 49) 『三千大千世界の理を···』の早くなるところが好き!! -- 吏闇 (2013-12-25 15 35 36) ↑でも、最終的にはこの曲の全部が好き!!ってゆーか、ネ申!! -- 吏闇 (2013-12-25 15 38 07) これを聞きながら死にたい この曲を作ってくれて本当にありがとうございます。 -- 名無しさん (2014-02-11 22 41 18) これ好き! -- 名無しさん (2014-05-08 20 46 57) 寝るとき聴いてから寝とる。兄さん、ええ声やね。 -- 顔無し (2014-05-10 19 10 49) 兄さん好き -- 名無しさん (2014-07-22 19 09 57) 兄さんかっけー! -- 名無しさん (2014-08-01 16 24 07) KAITO兄の声にあってて好き!! まさかコーラスがIAちゃんだったとは…… -- 名無しさん (2014-10-24 18 54 12) 今まで沢山のKAITO曲を聴いてきましたが。こんなに綺麗な歌を聴いたのは初めてです。 -- 青廃 (2014-11-03 21 03 17) 正直今まで聴いたKAITOの曲の中で一番好き。隠れた名曲ってこの曲の事だと思う -- 名無しさん (2017-12-07 23 29 03) 名前 コメント
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百詩篇第5巻 79番 原文 La1 sacree pompe2 viendra baisser les æsles3, Par4 la venue5 du grand legislateur6 Humble haulsera7 vexera les rebelles, Naistra sur terre8 aucun æmulateur9. 異文 (1) La Par 1600 1610 1611 1627 1630Ma 1644 1650Le 1650Ri 1653 1668 1716 1981EB (2) pompe Pompe 1672 (3) æsles 1557U 1557B 1588-89 1589PV 1590SJ aisles T.A.Eds. (4) Par Pa 1610 (5) venue 1557U 1557B 1568 1588Rf 1589Rg 1590Ro 1597 1600 1610 1627 1630Ma 1650Ri 1672 venuë T.A.Eds. (6) legislateur Legislateur 1590SJ 1603PL 1649Ca 1650Le 1665 1668 1672 (7) haulsera haussera 1589PV 1590Ro 1597 1603PL 1605 1610 1611A 1627 1628 1630Ma 1644 1649Xa 1649Ca 1650Le 1650Ri 1653 1665 1668 1672 1981EB (8) terre Terre 1672 (9) æmulateur emulateur 1588-89 1644 1650Ri 1653 1665, æmulrateur 1649Xa, Æmulateur 1672, œmulateur 1840 日本語訳 聖なる華美がその翼を低くすることになるだろう、 偉大な立法者の到来によって。 下層民を高くし、反逆者たちを悩ませるだろう。 (彼と)競える者は地上に一人も生まれないだろう。 訳について 1行目 pompe について、ピーター・ラメジャラー、リチャード・シーバースはいずれもそのまま pomp と英訳している。なお、「翼を低くする」は勢力を弱めることを意味するノストラダムスの常用語のようなものである(百詩篇第1巻6番ほか)。 4行目 æmulateur は現代フランス語では émulateur だが、もとはラテン語の aemulator (競争者、模倣者(*1))である。 既存の訳についてコメントしておく。 大乗訳について。 2行目 「偉大なる法をあたえるためにやってきて」(*2)は「偉大」「法」「やってきて」など、単語レベルで部分的な一致は見られるものの、全体としては原文から離れすぎている。ただし、元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳は at the comming of the great law giver(*3)で、そうおかしなものではない。 3行目「彼は謙虚で反逆者をくやしがらせる」は、前半が明らかに不適切。humble は確かに形容詞だと「謙虚な」「卑賤な」などの意味もあるが、それを高くするだろう、とあるのだから、この場合は身分の低い立場を示す名詞的に使われていると見るべきだろう。実際、ラメジャラーやシーバースの英訳でもそうなっているし、そもそもロバーツの英訳でも raise the humble と訳されている。 4行目「競争者がそのほかにでることはない」は大意としては正しいが、naistra sur terre (地上に生まれるだろう)が aucun (誰も)で否定されている原文の意味からすると、やや簡略化された印象がある。 山根訳について。 1行目 「聖なる盛儀が翼を休めに訪れよう」(*4)は「翼を低くする」=「翼を垂らして休める」と理解したのだろうが、上述の通り、「勢力を弱める」ことを意味する慣用表現であろうことからすると、その意味合いが読み取りづらい意訳ではないかと思われる。 信奉者側の見解 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、キリストの誕生やクリスマスと関係のある詩のようだ、とだけコメントしていた(*5)。 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、バルタザール・ギノー、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォードの著書には載っていない。 シャルル・ニクロー(1914年)は、ナポレオンの戴冠式と解釈した。偉大な立法官はローマ教皇のことで、その前でナポレオン(鷲)がその翼を下げた、というわけである(*6)。 エリカ・チータム(1973年)、ヴライク・イオネスク(1976年)、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)もナポレオンと解釈したが、彼らは逆にナポレオン法典の存在などから偉大な立法官がナポレオンのことで、彼の戴冠によってキリスト教勢力が減衰したことを示すとした(*7)。そうした解釈は彼らより先に、エドガー・レオニ(1961年)の著書に見出すことが出来る(*8)。 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は近未来に現れる偉大なローマ教皇に関する予言としていた(*9)。 アンドレ・ラモン(1943年)はキリストの再臨に関する予言と解釈した(*10)。 ロルフ・ボズウェル(1943年)は近未来に現れる偉大なフランス王アンリ5世と解釈していた(*11)。 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)はアメリカ大統領リンカーン(リンカン)についてと解釈した(*12)。これは娘夫婦や孫の改訂でも変化なかった。 セルジュ・ユタン(1978年)は疑問符付きでド・ゴール将軍と解釈した(*13)。ボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)では、ノストラダムス予言にしばしば登場する大君主に関する予言とする解釈に差し替えられた(*14)。 同時代的な視点 ピーター・ラメジャラーは編者不明の予言書『ミラビリス・リベル』(1520年前後)に収録された予言、特にその第1章(偽メトディウス)や第2章(ティブルのシビュラ)に描写された世界最終皇帝に関する予言が下敷きになっているのではないかとした。 コメントらん 以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 名前 コメント
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詩百篇第10巻 76番* 原文 Le grand senat1 discernera2 la pompe3, A l vn4 qu apres5 sera vaincu chassé6, Ses7 adherans8 seront à son de trompe, Biens publiez ennemys9 deschassez10. 異文 (1) senat 1568X 1568A 1568B 1590Ro 1772Ri Senat T.A.Eds. (2) discernera disernera 1568X, dicernera 1590Ro, decernera 1594JF 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840, discornera 1716PR (3) pompe Pompe 1672Ga (4) l vn vn 1594JF 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga (5) qu apres qu aprez 1605sn 1628dR 1649Xa (6) chassé chassez 1611A 1611B 1981EB, chassés 1716PR (7) Ses Des 1594JF 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 1672Ga (8) adherans adhærans 1672Ga (9) ennemys ennemy 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1668 1672Ga 1840 (10) deschassez 1568 1590Ro 1772Ri dechassez 1591BR 1594JF 1597Br 1610Po 1603Mo 1606PR 1611A 1611B 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1716PR 1720To 1981EB, dechassé 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1840 校訂 2行目と4行目は韻を踏んでいるものの、単複が一致していない。17世紀の諸版では単数か複数かで統一するような異文が見られるが、ピーター・ラメジャラー、ジャン=ポール・クレベール、リチャード・シーバースは特に統一していない。 3行目 adherans (adherants) は現代語ならば adhérents で、中期フランス語でも adherens が使われていたが(*1)、些細な綴りの揺れだろう。 日本語訳 偉大な元老院が見抜くだろう、 後に打ち破られ、追い払われるであろう一人の虚栄を。 彼の支持者たちは喇叭の音で(召喚され) 財産が競売にかけられ、敵として追い出されるだろう。 訳について 1行目 pompe を「虚栄」と訳すのはジャン=ポール・クレベールの読みに従ったものだが、訳の都合上、2行目に回した。 ピーター・ラメジャラーやリチャード・シーバースはpompeを語源の pompa にひきつけて理解し、「偉大な元老院が祝勝するだろう、後に打ち破られ、追い払われるであろう一人について」というような訳にしている。凱旋した人物が後に零落するというモチーフになるわけで、これはこれでありうる訳だろう。 4行目 ennemis deschassez は「敵たちが追い出される」だが、「敵たち」は「支持者たち」と同じ一群と見ないと文脈にそぐわない。そこでラメジャラーの読みに従って言葉を補い、「敵として」と読んだ。 クレベールは publiez ennemis とひとまとめにし、「(彼の支持者たちが)敵であると公〔おおやけ〕に宣告される」という読みを披露した。これはこれで面白いが、biens が浮いてしまうし、この行の前半律(最初の4音節)は biens publiez なので、採用できないだろう。 既存の訳についてコメントしておく。 大乗訳について。 1行目 「上院は名誉をさずけられ」(*2)は誤訳。受動態にする必然性がない。実際、元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳では能動態になっている。 2行目「あとで征服され強制される」も不適切。 à l un que.. (que 以下であるところの一人に)が訳に反映されていない。ロバーツの英訳はきちんと to one who... という訳し方になっている。 3行目「彼の側近のよき者が」も不適切。 à son de trompe (ラッパの音で)が訳に反映されていない。この点はロバーツの英訳も同様であった。なお、「よき者」は goods の誤訳。当然、ここでは「財産」の意味である。 4行目「公然と売られ 敵は追われる」は上述の通り、一応成立する。 山根訳について。 1行目 「大いなる元老院が盛儀を識別するだろう」(*3)はpompeの訳によっては成立する。ただし、少々意味が分かりづらいのではないだろうか。 4行目「彼らの財産は売りに出され敵は駆逐される」は上述の通り、成立する訳。 信奉者側の見解 最初に解釈したジャン=エメ・ド・シャヴィニー(1594年)を除けば、ほぼ全訳本の類でしか解釈されてこなかった詩であり、全訳本ですらあまりまともに解釈されてきたと言い難い。 シャヴィニーは『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年)に載せたアンリ4世の家臣アルフォンス・ドルナノ (Alphonse d’Ornano) 宛の献辞の中で、パリ高等法院が王国に関する優越権を認めた人物たちが追い払われ、アンリ4世のパリ入市が実現するだろうとする解釈を示した(*4)(アンリ4世は即位したものの、カトリック同盟の強固な反対によってパリへの入市を果たせないでいた)。 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、この詩で難しいのは元老院と特定の人物が何を意味するかだけ、とコメントした。 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)は漠然とした解釈しかつけていなかったが、後の娘らによる改訂では、1982年にアメリカ上院(Senate)で、ニュージャージー選出議員のハリソン・ウィリアムズが不祥事によって罷免されたことを指すのではないかとされた(*5)。 エリカ・チータム(1973年)は一般的な詩としてほとんどコメントしなかった。上記のハリソン・ウィリアムズの罷免の後でもそのスタンスは変わらなかった(*6)。ただし、チータムの本の日本語版では、ニクソン大統領のウォーターゲート事件とする解釈に差し替わっている。 セルジュ・ユタン(1978年)はフランスの第三共和政の終焉(1940年)についてと解釈した(*7)。 懐疑的な見解 シャヴィニーの解釈について、確かにアンリ4世の入市は1594年に実現したから的中したといえなくもないが、その前年にカトリックへの改宗を済ませてパリ市民の態度軟化につなげつつあった情勢からすると、予測はそう難しくなかったのではないかとも思える。 同時代的な視点 権勢を誇った人物の虚栄や虚飾が暴かれて追放され、その取り巻きも悲惨な目に遭うという内容である。一部の信奉者からもコメントされていたように、かなり一般的な内容で、もう少し限定する要素がないと特定が難しいといえる。 ピーター・ラメジャラーは2003年の時点では出典未特定としつつも、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』に見られるユリウス・カエサルのエピソードとの類似性を示唆していたが、2010年には単に出典未特定とだけした。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。 コメントらん 以下に投稿されたコメントは書き込んだ方々の個人的見解であり、当「大事典」としては、その信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。 なお、現在、コメント書き込みフォームは撤去していますので、新規の書き込みはできません。 今の北朝鮮の情勢を暗示しているような -- P (2017-04-24 11 28 07) そうかも。もしかして、trompe が米国45代目のトランプ大統領を暗示しているのかも? 財産のくだりも、彼が元ビジネスマンだったことを示唆しているのかも? 北朝鮮危機を予言している可能性があるな。 -- とある信奉者 (2017-05-10 10 12 09)
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総アクセス数は - 件です。本日の訪問は - 人目 昨日は - 人の訪問がありました。 2009/11/24(火) 内山 さてさて、無事渡米出来たかな? 向こうの入国審査は通過出来たのだろうか・・・ まぁ、なんやかんや言っても、今は、ネットですぐに連絡が出来るから、何かあればメールなり来るかw で、年末年始は帰ってくるのかな? 2009/8/19(水) みんな元気なのかな??? このサイト作成のあっちゃん、その後元気なのかな? うっちーは本当の先生続いてる? よういちは、相変わらず見れてないと思いますが。 最近、ゴルフの練習から開始しましたよ! 調子は十数年前から全く変わっていませんでした。 ドライバーも当たるし。(これって、結構いけてるでしょう?!) 最後にクラブ振ったのは、3年前のハワイでいきなりコースリベンジ。 スコアは135でした。 ゴルフ大好きな、うっちーとうっちーママと昔いっしょに行った頃 (15年位前だったっけ?)と、全く変わっていませんでしたよ。 当面はたまに練習して(集中して練習はちょっとできないので) 2桁台(って事は99で周るのか・・・これって大変だよね。きっと) をめざそうかなと。まーー楽しんでやります!! 2009/7/17(金) 博多に行ってきました! 福岡、最高に美味しい物が沢山で、3泊4日では昼夕食が4×4=8食。 とても、とても、日数が足りなくて困りました。博多祇園山笠祭りも見れて楽しかった~。 祭りは7/15(水)がクライマックスで、それだけ見たかったけど、 あまりに博多に滞在していると、帰らなくなり住民票を移しそうになりそうなので、 泣く泣く次回持ち越しで帰ってきました。 今度は15日見るために行こう。と心に決めました!! 今年は、集団山見せで王さんが初の晴れ舞台で台上がりをされたようで、 移動中でなんとか2番目からしか見れなかったので、1番目の王さんには間に合わず、お会いできませんでした。ちょっと心残り。 http //www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/news/20090714/20090714_0003.shtml 〇飾り山 これは飾りの方で走るのは、もう少し小さいのです。 〇7/12(日)追い山ならし(追い山リハーサル) ↓ゴールで櫛田神社前の山笠が戻って来る前と、街中を走ってる所。 ↓この雄姿良いでしょう~。これで全長5km走るのよ。普通に走っても5kmはダメでしょう。 〇7/13(月)集団山見せ(走るけど、お披露目が主目的) 水をバシャバシャかけて気持ち良いよ~。さすが九州の祭りって感じ。 〇各夜の宴料理の一部 やはり予想通り、その前の週に連日プールで絞った肉体は、微塵にも消え危機的な状況です。 がんばって泳ごうっと!! 2009/7/2(木) いよいよ博多祇園山笠が開幕しました(って事も知りませんでした) たまたま、福岡に遊びに行くだけだったのですが、 友人から山笠の祭りがある事を教えてもらって、なんだか得した気分です。 どんな祭りなのかよくわからないのですが、サイトで見てみると、 「〇〇〇流」「〇〇〇流」とかで時間を競っているのかなぁ・・・ 動画見たりしていると盛り上がってきますね。楽しみです。 〇博多祇園山笠、7/1から開幕しました。 http //www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/movie.shtml 2009/6/29(月) 7月に福岡行き決定。行って着ます! 今回は欲張らずに、福岡のみ重点滞在。初めてなので何にもわかりません。 大宰府天満宮、山笠祭りのリハーサル、は見てこようかと思ってます。 さすがに、食べ物は豊富なので、宿泊日ではあれも、これも足りません。 山笠祭りは、知らなかったのですが、7/15がクライマックスですが、 さすがにそこまで滞在期間の延長は、どーしようかと迷ったのですが、 7/12の追い山ならし(本番と同じとのこと)でも良いかも。 との友人からの推奨でしたので、それにしておこうかと思ってます。 誰かこれだけは!行っておいた方が良いよ。って、お薦めあったら教えてね。 〇博多祇園山笠 http //www.youtube.com/watch?v=QRjsvUeQ2Ys 〇追い山ならし http //www.club-9.com/yamakasa/2008/narashi.html 2009/6/14(日) 皆様、お元気でお過ごしでしょうか?石橋先生は元気かなぁ~・・・ちょっと心配です。 自分探しの旅in国内編は継続中で、なかなか忙しい日々を過ごしてます。 大好きな温泉がメインですが。 〇5/27~30:出雲大社、玉造温泉、宍道湖温泉、境港(皆生温泉) 山陰は初めてでしたが、良かったです。あの厳粛な空気、凛とした雰囲気、 気持ちが引き締まる感じがたまりません。 さすがに神々の首都、本家本元の神社が多数あり、いくつか周れる範囲で行きました。 10月の神無月(出雲では神在月と言う)には、日本中の神様が出雲に集結するため、 神無月と言うと聞き、やっぱり10月に行く方がいいのかな。 次回は10月に大切な人と行きたいな(いつの10月になることか・・・)。 まー、良い事があったら、お礼参りで行かないとね。 大好物の宍道湖名産の「しじみ」を楽しみにして行ったのですが、都会で食すのと なんら変わりなかった・・・。流通の発達はすごい事ですね。 旅行に行く前に、友人から「神々の国の首都/小泉八雲」を読んで行くと良い。と 聞いたので、文庫本購入し(文庫で¥1200もします)触りだけ読んで行き、 小泉八雲さんを知らなかったので感動しました! 外国人が、私達日本人が当たり前と思っていた日本の情景を、 こんな素敵な表現をしている事に感動します。日本人なら、是非一読する事をお薦めします。 って、私も全部読めていませんので、厚いので少しづつがんばろっと! 雪女、耳なし芳一、の著者でもあった事、知ってましたか?外国人が作者だったなんてビックリです。 ↓出雲大社の謂れ 〇6/10~13:雲仙普賢岳温泉、長崎平和記念公園、長崎夜景 濁り温泉の最高峰、普賢岳は緑いっぱいで心が洗われます。 九州ではいつも、空港からレンタカーで周りますが、侮ってはいけません。 前回もレンタカーで、湯布院、阿蘇、黒川温泉、高千穂と地図で見ると軽く移動できる。(団体ツアーだと2泊3日で平気でこのあたりのプランになっている) と思い、3泊4日で計画したらかなり距離があるのよね・・・ 移動で時間が取られて、夕食に間に合わないなど大慌ての旅になってしまったため今回はその反省を踏まえて長崎の南側中心で計画しました。 原爆記念館は、修学旅行の小学生達といっしょになり、小学校で習った復習して 勉強になったな。。。大人になってから行くのも良いものですね。 長崎の夜景は、日本3大夜景(神戸、函館、長崎)の一つらしいので、とりあえず。 ホテルの部屋から夜景が見れるのですが、各窓の外に元気が付いていて、 夜景を見るには消したいのだが、コントロールできず、なんだかな・・・と思ってたら、 12 00にいっせいに消えたらしい。多分、夜景維持のためにルール化されているように思う。 ↓雲仙地獄の散歩道内の箇所に立っている注意書きで環境省が「地獄内は危険です」って面白いでしょう?! ↓長崎市街地では、路面電車が沢山走っていて昭和を感じさせます。路面電車と平行して走るこの街並み。このレトロな雰囲気がまた良いと思いますよ。 ついつい、大好きな映画「地下鉄に乗って」の主題歌を鼻歌で。 路面電車が走っている道路に慣れてないのもあって、運転はちょっとドキドキして難しいよ。 やっぱりTVや本ではわからない、現場に行って空気で感じる事がとっても良い事と 旅の良さを実感しています。 ちょっと間を空けて、来月またどこかに出没するかも。 京都は鱧が旬との甘い誘惑が。。。 2009/6/8(月) 国立新美術館の展覧会に、丹さんが着てくれました。 丹さん、ありがとうございます。 6/3(水)その日は私もたまたま行っていたのですが、 うまく連絡が取れず、会えずに残念でした。 6/8(月)本日14 00で終了したので、絵が搬出され戻ってきますので一段落です。 今回はプロの画家の方々と並べて出展できて、勉強になりました。 ギャラリーと美術館では、展示する絵画の号数を変更した方がいいですね。 美術館では、やっぱり100号、200号ぐらいは必要ですね。 よく画家の方々は、xx展覧会に向けて、絵の製作をしているようですが、 よーーくわかりました。 ま~、今回はチャレンジして勉強になって良かったです。 今回のをきっかけに、行ったことや、行く機会も無かった、 国立新美術館に行くきっかけがあって良かったと、ご足労いただいた人達は言ってくれました。 本当に皆さんに感謝です。 今週は、長崎に自分探しの旅です。まだまだ自分は見つかりませんね・・・ 2009/5/20(水) 油絵を2点。展覧会の選考に出していたのですが、 なんと今週「入選しました」の通知が来ました! 展示される場所が良い所なのですごく嬉しい。 入選しないと飾られないので、通知が来るまではドキドキ楽しみでした。 (昔から実は、試験とか審判好きです) 六本木の国立新美術館 第一美術展 2009/5/27(水)~6/8(月) ◎地上の聡明 30号(虎の油絵) ◎春露 30号(滝の油絵) プロの画家の方達も沢山出展されるので、100号、200号はあたりまえなので、 私のはきっと、ちびっーーーちゃいです。 2009/5/18(月) 精神を綺麗にするぞ。と思い立ち、善光寺に行ってきました。 善光寺は初めてです。 御開帳って知ってます? 七年に一度の盛儀でで、前立本尊さまとのありがたい結縁。 http //www.gokaicho.com/gokaicho/ 御本尊様は、絶対に姿を見せないことから、 御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られて、その手から結んだ紐を、柱に結ばれて、その柱に触れることで、前立本尊様の手に触れている事と同じになる。のが御開帳期間で その時にしか、前立本尊様も柱も見れません。 ↓この柱に結んであるのが(見えます?)その紐です。 全長はどのくらいかな?100m位はあるのかな? ってぐらい、ご本堂の中からいろいろな障害物の間を通って伸びてました。 さすがに御老人達が多く、皆さん礼儀正しく、忙しく超スピードの中で生活している 現代人の生活を見直しして、改めて反省しないとな・・・と、 ゆっくりした時間が流れていました。 平日であるにもかかわらず、御開帳期間なので、お参りや柱に触れるための行列、 真暗の中で鍵穴を探すなど、とにかく祭儀日でもないのに、 1~1.5時間待ちはあたりまえ。で大行列でした。 周囲に温泉はないので、戸倉山田温泉まで移動してとにかく温泉泊。 疲れもすっかり取れました。 〇戸倉山田温泉の「笹屋ホテル」 温泉:★★★★☆(源泉かけ流し。無色だけど硫黄の香りがして、珍しい感じ) 食事:★★★★☆(体に良い、やさしい会席) 接客:★★★★★ また行く度:70%(善光寺に行く時はここかな) この旅館、なかなか良かったです。 2009/05/14(木)[わし] あらら・・・ 今迄一番長く在籍していたんじゃないの? 色んな事情があったのだろうけど・・・・ ヒロミのばやい、この先の就活も切り抜けられるんでない? 過充電にならないようにねぇw 最近、つけ麺にはまっていますw 2009/4/26(日) 13年勤続の会社を退職しました。 昨年ぐらいから、いつにしようか考えてはいましたが、 良いきっかけがあったので、このタイミングに!と思い退職しました。 良い人達との縁や、経験は財産になりました。 これからも付き合って行きたい人達との宴会が連夜続いていて、体力勝負です。 週末は、温泉2連ちゃん。 ◎4/18-19:松本の扉温泉(明神館)で、ツボネーズと共にプチバブルな旅 温泉:★★★★★(立ち湯の景色が絵画の様ですっごく綺麗) 食事:★★★★★(フォアグラ大根が最高に旨い!) 接客:★★★★★(従業員がとっても良い) また行く度:100%(毎年来訪中) ◎4/24-25:箱根の強羅温泉(ハイアット)で、スペシャル全身トリートメントな旅 温泉:★★★☆☆(露天風呂がない) 食事:★★★★★(寿司会席で美味しかった) 接客:★★★★☆(シティホテルと同じサービス) また行く度:??%(トリートメントは値段でかなり期待しましたが、特に感動なく) 一度行けばもういいかな。 ・部屋は広くて快適です。 毎年のグループ絵画展(4/23-28)も銀座でやっていて、 その搬入、展示、搬出が大変(画家の人達って、物流が大変ですよ・・・) 退職や、宴会やらで、皆さんにご案内できませんでしたので、 次回は是非飲み会のきっかけにしていただければ。 まずは、暫くは充電しますので、飲みに行きましょうよ! 2009/2/11(水) ダイビングでパラオに行って来ましたよ。 ダイバーには、憧れのスポットだけあってとっても良い所でした。 行ってみて初めて知った事が多かったなーー。 ・昔、日本が統治してた事がある。親日を感じさせる共和国で国旗が日本と色違いでそっくり。 (聞くところ、日本が強制的にさせたわけでなく、自主的にしたらしい) ・戦争当時、パラオから切り出した材木で零戦を作るために、当時の線路が残ってた。 ・そんな歴史があるので、年配の人は日本語も少し話せる。 ・日本人経営店(居酒屋、ホテル)が多く、料理も日本食にアレンジしたのが多いので、日頃と違和感なくすごせる。 ・漢字があふれていて言葉には不自由しない。 ・リゾートなのに、白人が非常に少ない(時期的な問題なのかなぁ) ・ダイビングするには持って来いだが、他はあまりやることがない。 ・リゾート、リゾートしていない。 ・食事は日本食もどこでも食べれる。締めはおにぎりと味噌汁を食べました。 などなど 見てきた魚 ・バラクーダの群とギンガメアジの群が同時に見れちゃう。 ・サメがそこらへんに泳いでる(全く、危険なし) ・ナポレオンフィッシュも珍しくなくなるぐらい多く見れる。 などなど、ダイバーには最高です!また、行っちゃうと思う。 ↓私が取った写真です。動画もあるけどサイズが大きいからアップできないです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (P1010006-s.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (P1010023-s.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (P1010043-s.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (P1010039-s.jpg) [コメント by 石沢] いいねぇーパラオ! 俺は、ダイビングやらないけど、一度は行ってみたい。 ちなみに画像のサイズ調整、俺は ↓ コレを使ってます。 http //www.digitalphotoarts.com/software/resize/index.html [Hiromi] あっちゃん、ありがとう。できました。 でもファイルアップしたのは、削除できないのね。 オーナーができたら編集前のファイル削除してね。 2009/1/3(土) 皆さん 明けましておめでとうございます。 昨年は再結成できてよかったです。今年も景気良く始まりましょうね。 今年もよろしくお願いします!! 2008/12/29(月) 今日は弊社の最終Close日だけど、有休で9連休中の3日目。 とっても幸せな1日でした。 越前蟹を朝空輸で送ってくれて、店で釜揚げしてくれる店が、青山「ありそ亭」です。 ここの蟹、絶品。人生で一番おいしい蟹です。蟹は大好物だから、とっても幸せでした。 毎年、越前にいつか蟹食べに行こうと思ってましたが、行った事がなくて。 でも交通費考えたら、同じ味で青山で食せるので、逆に安いらしい。とある人のコメント。 東京から越前は遠いのよね。名古屋からだと、2時間位で行けるらしい。 夜は、陳健一さんのマーボ豆腐を食べて。これがまたすごく美味しい! 他とは全然違いますよ。うーー考えただけでまた食べたくなった。 あーーご褒美の後は、しっかりと「体型改善作戦」で明日は、朝からプールで泳ぐぞ!! って、私の投稿は食い物ばっかだな。 2008/12/28 大には、年賀状でアクセスしてみます。これで連絡無かったら、連絡取りたくない。って事で終了します。 あっちゃんお薦めのラクーアに行きました。が、ROXの方が良かったような気が。 マナーが悪くて携帯バンバンなるし、明るいしで、全くゆっくりできなかったですよ。 施設設備は、広いし綺麗でいいんだけどね。 今年は忘年会が多く遊び過ぎた感はありますが、十数年ぶりの再会劇もいくつかあり、とっても良い年でした。また縁が繋がった感じ。 良い出会いも合ったし個人的な今年の漢字は「縁」かな。 来年もさらに良い年にするぞーー!! 楽しくないとね、人生は。みんな楽しみましょう!! 2008/12/23 今日は「体型改善活動」でプールで1.3km泳いで来たよ。 最近は1.0kmでなく、気持ち増やしてます。 でもプールって、筋肉+脂肪の両方が付くって話を先月聞きました(ショック) 冷たい水から体を守るための自己防衛なんだってさ。 でも筋肉痛にならないし、ターンする時の無重力の感覚がたまらないから、泳ぐの好き! あっちゃんも見習って運動したら?! 2008/12/21-22 越後湯沢 魚沼産コシヒカリ食べ&温泉に行ってきました。めちゃめちゃ米が旨い!! 今年は温泉にかなり行きました。OLは疲れてるのよ~。。。 〇越後湯沢駅前の「HATAGO井仙」 温泉:★★★☆☆(源泉) 食事:★★★★☆(米最高) 接客:★★★★★ また行く度:80% 温暖化なんでしょうね。雪全く無し、寒くない、雨。 寒い時は、寒くないと地方はかきいれ時なのに過疎化してしまうでしょう。 (「そうでしょう」「間違いないでしょう」って、たしか言い合ってなかったっけ?) 昔、湯沢によく強行スキーに行ったよね。 連絡乞うから、早1週間。大、から連絡来ません。。。 [コメント by いしざわ] 越後湯沢といえば駅前で『へぎそば』 食ったよね。 なつかしいなぁ... 2008/12/23[コメント by ひろみ] へぎそば、食べてきましたよ。 昔と変わらず、お盆に大量に乗ってきました(二人前、四人前しかない) 越後湯沢の駅前通りにある「中野屋」が有名らしく、そこに行きました。 昔は一人、「丼+へぎそば」注文がデフォルトだったね。しかもいつも同じ店で。 [内山 コメント] いろんな所に行ってるねぇ・・・ へぎそば、しばらく食べてないなぁ・・・ 湯沢の駅の、ちょっと石打寄りの蕎麦屋は健在なのかなぁ・・ カツ丼とへぎ2はデフォルトだったね。 雪遊び、全然してない・・・
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第十二 のびゆく日本(にっぽん) 一 明治(めいじ)の維新(いしん) 孝明天皇がおかくれになり、第百二十二代明治(めいじ)天皇が御位をおつぎになりました。 天皇は、嘉永(かえい)五年の秋深く、菊花(きっか)の香(かお)りも清らかなよき日に、めでたく御降誕(ごこうたん)になりました。まだ御幼少(ごようしょう)の時、孝明天皇に従って、御所の日の御(ご)門で、藩兵(はんぺい)の演習をごらんになったことがあります。百雷の一時に落ちるような大砲の響きに、人々はただ身をふるわせていましたが、天皇は、御(おん)顔の色うるわしく、御(ご)熱心にごらんになったということであります。御位をおつぎになったのは、御年十六歳の時でありました。 走馬燈(そうまとう)のような、めまぐるしい世の移り変りも、慶応(けいおう)三年に入って、しだいにおちついて来ました。衰えはてた幕府(ばくふ)には、もう国事をさばく力がありません。そこで、三条実美(さんじょうさねとみ)・岩倉具視(いわくらともみ)らの公家(くげ)は、薩摩(さつま)藩士西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩士木戸孝允(きどたかよし)らとともに、幕府を倒そうとはかりました。土佐(とさ)の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は、このなりゆきを心配し、家臣後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を将軍慶喜(よしのぶ)のもとへつかわして、大政(たいせい)の奉還(ほうかん)をすすめました。 慶喜は、斉昭(なりあき)の志をついで、もともと尊皇(そんのう)の心に厚く、またよく時勢を見抜いていましたので、こころよく、豊信のすすめに従いました。そこで、一族・家臣・諸藩主の意見をまとめ、参内(さんだい)して大政の奉還を奏請(そうせい) *37するとともに、積りに積った幕府の失政(しっせい)を、深くおわび申しあげました。天皇は、その真心をおほめになり、ただちに申し出をおきき入れになりました。時に紀元二千五百二十七年、慶応三年で、江戸(えど)に幕府が開かれてから、およそ二百六十年の年月が過ぎ去りました。前後七百年近く続いた武家政治も、ここにまったく終りをつげたのであります。 天皇は、その年の十二月、神武天皇の御創業(ごそうぎょう)の昔にたちかえり、御(おん)みずから、いっさいの政治をお統(す)べになる旨を、仰せ出されました。まず、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)などの官職をおやめになり、新(あら)たに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職をお定めになって、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に総裁を、皇族の方々、維新の功臣に、議定あるいは参与をお命じになり、政治をおたすけさせになりました。これを王政復古(おうせいふっこ)と申しあげています。やがて各国の使節をお召しになり、王政復古の旨をつげ、開国和親(わしん)の方針(ほうしん)をお示(しめ)しになりました。 天皇は、諸政を一新し国力を充実(じゅうじつ)して、皇威を世界にかがやかす思し召しから、まず、政治の根本方針をお立てになりました。明治元年三月、文武百官を率いて紫宸殿(ししんでん)に出御(しゅつぎょ) *38、天地の神々を祭って、この御(ご)方針をお誓いになり、更に、これを国民にお示しになりました。すなわち、 一、広く会議(かいぎ)を興(おこ)し、万(ばん)機(き) *39公論(こうろん) *40に決すべし。 一、上下(しょうか)心を一にして、盛(さかん)に経綸(けいりん) *41を行(おこな)うべし。 一、官武一途庶民(しょみん)に至る迄(まで)、各其(おのおのその)志を遂(と)げ、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめん事を要す。 一、旧来の陋習(ろうしゅう) *42を破り、天地の公道に基(もとづ)くべし。 一、智識(ちしき)を世界に求め、大(おおい)に皇基*43を振起(しんき)すべし。 の五箇条がそれで、世に、これを五箇条の御誓文(ごせいもん)と申しあげています。文武百官は、しみじみ任務の重大なことを感じ、決死の覚悟で職務にはげむことを、お誓い申しあげました。ここに、新政の基(もとい)はいよいよ定まり、国民は、聖恩に感泣(かんきゅう)して、新しい日本のかどでを、心から喜び合いました。 やがて天皇は、即位(そくい)の礼を紫宸殿でお挙(あ)げになりました。御(おん)儀式もまた、古(いにしえ)にたちかえって、荘厳(そうごん)であり盛大でありましたが、承明門(しょうめいもん)内の中央には、直径三尺六寸余の大地球儀が、御代の栄(さか)えをことほぐように、飾(かざ)られていました。この地球儀は、天皇のお生まれになった嘉永五年に、徳川斉昭(とくがわなりあき)が奉ったものであります。ついで、慶応四年を明治元年とお改めになり、一世一元(いっせいいちげん)の制をお立てになりました。 天皇はまた、人心を新たにする御(み)心から、遷都(せんと)のことをお思い立ちになり、江戸を東京と改めて、まず行幸(ぎょうこう)になりました。鹵簿(ろぼ) *44はしずしずと、東海道をお進みになり、かしこくも、鳳輦(ほうれん) *45を各地におとどめになって、民草(たみくさ)の生業にいそしむ有様(ありさま)をごらんになりました。沿道(えんどう)の民は、この御(ご)盛儀と御(み)恵みを拝して、ただ感涙(かんるい)にむせぶばかりでありました。やがて京都へ還幸(かんこう)になり、皇后をお立てになって、翌二年、ふたたび東京へお向かいになりました。まず、伊勢(いせ)の神宮に御(ご)親拝ののち、日を重ねて、東京へお着きになり、ながくここに、おとどまりになりました。しかも後年(こうねん)、即位の礼と大嘗祭(だいじょうさい)とは、特に京都で行うことにお定めになり、千余年の古都のゆかりを、後世にお伝えになったのであります。 こうして日本は、昔ながらの正しい姿にたちかえって、島国から海国への一大発展(はってん)を示しました。しかし、何ぶんにも大きな変化(へんか)ですから、この間、国内には、なお色々のもつれ合いが続きました。 さきに、慶喜が大政を奉還したのち、朝廷では、諸政一新の思し召しから、慶喜に官職や幕府の領地を返上するよう、お命じになりました。ところで、幕府の旧臣や会津(あいづ)・桑名(くわな)などの諸藩は、慶喜が新政府(せいふ)の列に加らないのを見て、もっぱら薩・長二藩の取り計らいであろうと思いこみ、明治元年の正月から一年半ばかり、次々にさわぎを起しました。すなわち、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦から、さわぎは、やがて江戸に移り、更に奥羽(おうう)から函館(はこだて)へと飛火(とびひ)しました。朝廷では、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王を征討大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じて、鳥羽・伏見の戦をおしずめになり、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(とうせいだいそうとく)に任じ、西郷隆盛らを参謀として、江戸及び東北のさわぎを、御平定(ごへいてい)になりました。 東征軍が江戸に向かった時、慶喜は、ひたすら恭順(きょうじゅん)の意をあらわしました。この間、孝明天皇の御(おん)妹、静寛院宮(せいかんいんのみや)の御(お)とりなしがあり、やがて、慶喜の家臣勝安芳(かつやすよし)・山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)の努力と隆盛の真心とによって、慶喜は罪(つみ)をゆるされ、江戸の市民は、兵火の災害から、まぬかれることができました。奥羽では、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)が、若松城(わかまつじょう)にたてこもり、諸藩と相応じて兵を挙げましたが、やがて順逆の道をさとると、すぐに帰順(きじゅん)を申し出ました。会津の白虎隊(びゃっこたい)と名づける少年の一団が、はなばなしく戦って、次々に討死し、わずかに残った十九人が、飯盛山(いいもりやま)にのぼり、はるかに城を望みながら、たがいに刺(さ)しちがえて、けなげな最期(さいご)をとげたのは、この時のことです。函館では、もと幕府の海軍を指揮(しき)していた榎本武揚(えのもとたけあき)が、五稜郭(ごりょうかく)にたてこもりましたが、これも、ほどなく降(くだ)りました。 のちに朝廷では、容保が、孝明天皇の御(ご)信任のもとに、京都を守護して忠勤をはげんだ功を思し召され、その罪をおゆるしになった上、正三位(み)をお授けになりました。武揚もまた、ゆるされて重く用(もち)いられ、その職務にはげみました。 新政がしかれてのちに、なおこうしたさわぎが起ったのも、一つには、大名(だいみょう)が昔のままに領内を治めていたからです。そこで木戸孝允は、大久保利通とともに、大名の領地を朝廷に奉還させ、新政が国のすみずみまで行き渡るように努力しました。すでに大名も、多くは、それを望んでいましたから、明治二年、まず薩摩・長門(ながと)・土佐・肥前(ひぜん)の四藩主が相談して、領地の奉還をお願い申しあげ、ほかの諸藩も、続々これにならいました。朝廷では、これをお許しになりましたが、なおしばらくは、旧領を治めるようお命じになり、やがて明治四年に、藩を廃(はい)して県を置き、新たに知事(ちじ)を御(ご)任命になりました。この時にも、これまでのように家がらだけを重んじる習わしをやめて、広く人材をお用いになりました。ついで明治五年には、国中に教育が行き渡るようにと、新たに学制をおしきになり、また国民すべてが兵役(へいえき)に服することのできるようにと、徴兵令(ちょうへいれい)をお定めになりました。こうして、政治はまったく改り、国民の心もすっかり新しくなって、維新のまつりごとが、大いに整ったのであります。 明治天皇は、王政復古の思し召しから、神々をあつくおうやまいになり、国民にも、これをおさとしになりました。明治二年には、東京九段坂(くだんざか)の上に招魂社(しょうこんしゃ)を建てて、国事にたおれた維新の将士を、おまつらせになりました。また、維新の志士(しし)が手本にした、吉野(よしの)の忠臣にも、それぞれ社を建てて、あつくおまつらせになりました。こうして明治の日本は、御恵みのもとに、昔ながらの美風(びふう)を伝えながらも、新しく、正しく強く、しかも明るく、のびて行きました。 二 憲法(けんぽう)と勅語(ちょくご) 明治天皇御製(ぎょせい) よきをとりあしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな わが国は、欧米(おうべい)の諸国が、たがいに争(あらそ)ったり、国内で内わもめを起している間に、もののみごとに、維新の大業をなしとげたのであります。これらの国々は、すっかり驚き、ことに、諸大名が喜び勇んで領地を奉還したことを、ふしぎに思いました。それは、日本の国がらが、よくわからなかったからでしょう。ちょうどこのころ、ドイツやイタリアも、新しく生まれかわり、イギリス・フランス・ロシアなどと、張り合うことになりました。海国日本は、こうした国々に負けないように、国の力を養わなければならないと思いました。 それには、もっと内治や外交(がいこう)を整えることが大切であるとともに、朝鮮や支那と仲よくし、更に、欧米諸国のようすを調べる必要がありました。そこで政府は、廃藩置県(はいはんちけん)がすむと、まず清(しん)と交りを結び、ついで、岩倉具視・木戸孝允らを欧米へやって、国々のようすを視察させ、条約の改正(かいせい)をはからせました。もちろん、昔から関係の深い朝鮮へも、早く使いをやって、王政復古のことをつげ、改めて、交りを結ぼうとしました。 ところが朝鮮は、そのころ鎖国(さこく)の方針をとっていましたので、これに応じないばかりか、わが国が欧米諸国と交りを開いたことをあなどるといった有様です。そこで、西郷隆盛らは、なおよく朝鮮と談判し、それでもきかなければ、これを討とうと主張(しゅちょう)しました。そこへ具視らが帰って、内治を整えることが急務であると説(と)き、政府の方針も、内治を先にすることにきまりました。明治六年のことであります。 隆盛は、官を退(しりぞ)いて鹿児島(かごしま)へ帰り、青年のために学校を建てて、ひたすら教育にはげみました。ところで、その青年たちが、政府のやり方に不平をいだき、明治十年、隆盛をおし立てて、兵を挙げました。朝廷では、有栖川宮熾仁親王を征討総督とし、諸軍を率いてこのさわぎをおしずめさせになりました。世に、これを西南(せいなん)の役(えき)といいます。こうした思いがけないことが起ったので、内治を整えることも、なかなか容易なことではありませんでした。 明治天皇は、さきに御誓文によって、国民に政治をたすけさせる御方針をお示しになりました。このありがたい思し召しをいただいて、政府は、その仕組みをどうするかにつき苦心(くしん)しました。内治では、これが、いちばん大きな問題でありました。 そこで政府は、明治八年、地方官会議を東京に開き、十二年には、府・県会を設(もう)け、始めて民間から議員を選(えら)び出させ、国民の政治にあずかる糸口を開きました。やがて十四年、かしこくも天皇は、明治二十三年を期し、国会をお開きになる旨を、仰せ出されました。国民は、御恵みに感激して、それぞれ務(つと)めにいそしみました。 天皇は、皇祖皇宗の御(ご)遺訓に基づき、国をお統べになる根本のおきてを定めようと、かねてお考えになり、政府に憲法制定(せいてい)の準備をお命じになりました。明治十五年、伊藤博文(いとうひろぶみ)は、仰せを受けて憲法の取調べに当り、やがて、皇室典範(こうしつてんぱん)と帝国憲法との起草(きそう)に取りかかって、明治二十一年に、草案を作りあげました。天皇は、枢密院(すうみついん)に、草案の審議(しんぎ)をお命じになり、終始(しゅうし)会議に臨御(りんぎょ) *46あらせられ、したしく審議をお統べになりました。かくて翌二十二年に、御みずから、皇室典範及び大日本帝国憲法をお定めになり、めでたい紀元節の日に、憲法を御発布(ごはっぷ)になりました。 この日、天皇は、まず皇祖皇宗に、したしく典憲制定の御(おん)旨をおつげになったのち、皇后とともに、宮中正殿(せいでん)にお出ましになり、皇族・大臣、外国の使節を始め、文武百官・府県会議長をお召しになって、おごそかに式をお挙げになりました。盛儀が終ると、青山練兵場の観兵式に臨御あらせられました。民草は、御(おん)道筋を埋めて、大御代の御(み)栄えをことほぎ、身にあまる光栄に打ちふるえて、ただ感涙にむせぶばかりでした。奉祝(ほうしゅく) *47の声は、山を越え野を渡って、津(つ)々浦(うら)々に満ち満ちたのであります。 このめでたい日、おそれ多くも天皇は、西郷隆盛の罪をゆるして正三位をお授けになったほか、佐久間象山(さくまぞうざん)・吉田松陰(よしだしょういん)らの志士にもそれぞれ位をたまわりました。 翌二十三年、憲法の定めに基づいて、帝国議会が東京に召集(しょうしゅう)され、開院式には、したしく臨幸あらせられました。こうして、御恵みのもと、国民の活動はいよいよ盛んになり、国力は、年とともにのびて行きました。 天皇はまた、明治二十三年に、教育に関する勅語をおくだしになって、国民のふみ行うべき道をお示しになりました。維新以来、海外との交通が、にわかに開けましたので、国民の中には、むやみに欧米の学問や習わしを取り入れて、わが国の美風をおろそかにするものが出ました。もちろん、日本の美風を守ろうとする人々も、次々に現れましたが、いっぱんの国民には、正しい道のよくわからない者も、少くなかったのです。おそれ多くも天皇は、この形勢(けいせい)を深く御(ご)心配になり、勅語をおくだしになって、皇祖皇宗の御遺訓を明らかにせられ、尊い国がらをわきまえ皇運を扶翼*48し奉らなければならないことをおさとしになりました。ちょうど、紀元二千五百五十年のことです。ここに、いつの世までもかわらない、わが国教育の根本が、はっきりと定まりました。この御(み)教えをいただいて、国民は、心をひきしめ、身をつつしんで、学問や仕事に、はげんだのであります。 三 富国強兵(ふこくきょうへい) 明治天皇御製 ほどほどにこころをつくす国民(くにたみ)の ちからぞやがてわが力なる 安政(あんせい)年間に、幕府が諸外国と結んだ条約には、わが国の面目(めんもく)や利益(りえき)をそこなう箇条が、少くありませんでした。わが国は、外国の居留民が罪をおかしても、これをさばくことができず、また、輸入品に対して、自由に税をかけたり、税率(りつ)をきめたりすることさえ、できない定めになっていました。それというのも、海防の不十分であった当時、幕府が、外国の要求(ようきゅう)をそのままに承知してしまったからです。 明治の新政府は、つくづく国防の急務をさとり、大村益次郎(おおむらますじろう)・山県有朋(やまがたありとも)・西郷従道(さいごうつぐみち)らが、軍備の充実に、力を注ぎました。まず明治四年、始めて近衛(このえ)の御親兵(ごしんぺい)と地方を守る鎮台(ちんだい)とを設け、廃藩の際(さい)、諸藩の艦船を全部朝廷に献納(けんのう)させ、翌五年には、兵部省(ひょうぶしょう)を分って、陸軍省と海軍省とを設けました。やがて六年に、徴兵令が発布されて国民皆兵(こくみんかいへい)となり、ここに皇軍は、陸・海ともに、発達の糸口を開いたのであります。 たまたま、明治十年に起った西南の役は、新しく組織(そしき)された皇軍の腕をためす機会となり、その後、軍事費(ひ)もしだいに増して、軍備も年とともに整って行きました。天皇は、この役に、かしこくも大阪陸軍病院に行幸あらせられ、したしく傷病兵をおいたわりになりました。皇后・皇太后(こうたいごう)は、みてずから、ほうたいをお作りになって、負(ふ)傷兵にたまわりました。将士はいうまでもなく、いっぱんの国民も、これを承って、皇室の深い御恵みに、感泣しないものはありませんでした。また佐野常民(さのつねたみ)らが、博愛社(はくあいしゃ)を作って、日本赤十字社(せきじゅうじしゃ)の基を開いたのも、この時のことであります。 天皇は、更に、西南の役の戦死者(しゃ)を、東京の招魂社におまつらせになり、明治十二年、これに、靖国(やすくに)神社の社号(しゃごう)をたまわりました。やがて十五年、陸海軍人に勅諭(ちょくゆ)をおくだしになって、つぶさに、皇軍の歴史と建軍(けんぐん)の精神とをお説きになるとともに、帝国軍人の本分を、ねんごろにおさとしになりました。大御心のかたじけなさに感激して、陸海の将兵は、いよいよ奉公の道にいそしんだのであります。 やがて明治二十一年、陸軍の兵力は、近衛師団及び六箇師団となり、海軍は、二十七年に、軍艦三十一隻・水雷艇二十四隻、約六万噸(とん)の兵力となりました。かくて、明治二十七八年の日清戦役(にっしんせんえき)には、陸・海ともに、よく皇軍の面目を発揮し、戦後、陸軍は、二十九年に六箇師団を増設し、海軍も、三十五年に至って、六六艦隊を作りあげました。更に明治三十七八年の日露戦役(にちろせんえき)に、皇軍は、ふたたび無敵の威力を示しました。しかも陸軍は、戦後四箇師団を加え、明治の末には、陸・海空軍の糸口を開きました。海軍もまた、大艦巨砲(きょほう)の方針をとって、その威力を増し、大正の初め、艦艇の総噸数は、早くも五十万噸を越え、戦前に比べて、約二倍の勢力となりました。維新の当時、これというほどの軍備もなかった日本は、明治の御代に、たちまち、世界にほこる強国になったのです。それは、御稜威(みいつ)のもと、軍・官・民が一体となり、欧米の列強に負けないようにと、ひたすら富国強兵に努力した、たまものであります。 軍備を整えるには、まず産業を興(おこ)して、国力を充実する必要があると知った政府は、極力、諸産業の発達につとめました。農業・牧畜(ぼくちく)・鉱業(こうぎょう)を盛んにして、米・馬・金属など、国防に必要な物資の増産をはげまし、交通特に海運を興して、造船術の進歩をはかりました。しかも政府は、兵器の製作や艦船の建造(けんぞう)、そのほか鉱山の開発など、軍備に関係の深い産業をみずから営(いとな)んで、民間に手本を示しました。こうして、わが産業は、めきめきと発達し、憲法発布のころには、国力も、いちじるしく充実して来ました。 この間、政府は、幕府の不始末(ふしまつ)をつぐなおうとして、条約の改正に乗り出していました。明治四年、岩倉具視らが欧米へ渡って、その交渉(こうしょう)を始めて以来、政府は、たびたび関係国と談判して、条約の改正をはかりました。ところが諸国は、東亜の各地に根城を構(かま)えて、勢力を張ることばかりを考え、わが国力を見くびって、なかなかこれに応じません。政府も国民も、こらえにこらえて、ひたすら国力の充実につとめました。 やがて憲法は発布され、制度や法律は整い、軍備は充実しました。さしもの列国も、わが国力を認めなければならなくなって来ました。そこで明治二十七年、時の外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)は、まずイギリスと談判して、ついに、条約の改正に同意させました。それは、日清戦役の起るすぐ前のことでした。イギリスは、そのころ東亜で、ロシアと張り合っていましたので、わが国のいい分を通す方が得策(とくさく)だと考えたのでしょう。しかも、この戦役で、わが国の実力が、はっきりと示されましたから、ほかの国々も、続々改正に同意しました。 この改正で、まず裁判(さいばん)の不公平が取り除かれ、更に明治四十四年には、貿易(ぼうえき)上の不利な点も、すっかりなくなりました。こうして、わが国は、長い間の望みをついに達したのです。これも、明治の日本が、涙ぐましい努力によって、結んだみのりの一つであったのであります。 第十三 東亜(とうあ)のまもり 一 日清戦役(にっしんせんえき) 世界の海に乗り出した日本の行手には、条約の改正(かいせい)ばかりではなく、色々の困難(こんなん)がひかえていました。ロシアとの国境(こっきょう)問題も、その一つでした。さきに幕府(ばくふ)は、千島を分有、樺太(からふと)を共有と定めましたが、こうしたあいまいな、きめ方では、いつまた、もつれが起るかわかりません。それに、ロシアは、孝明天皇の万延(まんえん)元年、英仏連合軍(えいふつれんごうぐん)が北京(ぺきん)を落したすきをねらって、沿海州(えんかいしゅう)を手に入れ、ウラジオストク港を築いて、東亜侵略(しんりゃく)の根城にしました。しかも、この港の名は、「東洋を支配する」という、ロシアの野心を、そのままあらわしたものであります。そこで、わが国は、明治七年、ロシアと談判を始め、翌八年、千島を全部日本の領地とし、樺太をロシアの領地として、国境をはっきりと定めたのであります。 わが国は、東亜をむしばむ欧米(おうべい)の列強に対し、あくまで東亜をまもろうとしました。ところが、朝鮮も清も、こうした形勢(けいせい)に目ざめず、ことに清は、自分を世界でいちばんえらい国と考え、そのうぬぼれがぬけません。事ごとに、わが国のやり方にいいがかりをつけて、東亜の保全を、いっそう困難ならしめました。のちに、日清戦役が起るのも、まったくそのためであります。しかも、こうした東亜の仲間どうしのすきまにつけこんで、欧米諸国の勢力が、ますますくい入って来るという、まことに残念な、なりゆきでありました。 ロシアの南下を防ぐことは、朝鮮はもちろん、日・清の両国にとっても、きわめて大切な問題であります。それには、まず第一に、朝鮮がしっかりしていてくれる必要があるのです。わが国は、明治九年、朝鮮と交りを結んで、その健全な成長を望み、朝鮮も、一時はわが国を手本として、政治(せいじ)を改めにかかりました。ところで、朝鮮には、以前から内わもめが絶えず、それに清が、これを属国扱いにして、政治に干渉(かんしょう)するので、政治の改革(かいかく)が、とかく思うように行きません。かえって、いっそう乱れるようになりました。明治十七年には、京城にいた清兵が、朝鮮の兵といっしよになって、わが公使館をおそい、火を放って、官民を殺傷(さっしょう)するさわぎが起りました。わが政府は、朝鮮にきびしく談判して、謝罪(しゃざい)させるとともに、こうしたことから東洋の平和が乱れることを心配し、伊藤博文(いとうひろぶみ)を清へやって、天津(てんしん)条約を結ばせました。両国ともに朝鮮から兵をかえし、必要があれば、たがいに通知してから、出兵することにきめました。 ところで、この条約には、朝鮮が清の属国でないということが、はっきりと示(しめ)してありませんでした。清は、それをよいことにして、その後も、ますます朝鮮に勢を張ろうとします。そのため、朝鮮の政治は乱れる一方で、中には、ロシアと結ぼうとするものさえ現れる有様(ありさま)でした。明治二十七年、朝鮮の心ある人々は、こうした有様にたえかねて、ついにたちあがりました。すると清は、属国の難を救うという口実で、朝鮮に出兵し、この旨をわが国に通知して来ました。わが国も、公使館や居留民を保護するために、ひとまず兵を送りましたが、この際(さい)、日・清両国が力を合わせて、朝鮮の政治を指導(しどう)することを、わざわざ清に申し入れました。 ところが清は、わがすすめに応じないばかりか、かえって陸海の大兵を朝鮮へ送り、同年七月、豊島(ほうとう)沖で、わが艦隊を砲撃しました。わが艦隊は、ただちに応戦して、これを撃破(げきは)し、ついで陸軍も、清兵と成歓(せいかん)に戦って、大勝しました。八月一日、明治天皇は、宣戦の大詔をおくだしになり、やがて大本営を広島に進めて、したしく諸軍をお統(す)べになりました。 皇軍の士気は、いやが上にも振るい、陸軍は平壌(へいじょう)をおとしいれ、海軍は黄海(こうかい)に敵の北洋艦隊を撃破し、しかもわが方は、全艦無事という大戦果(せんか)をあげました。連(れん)戦連勝のうちに、翌二十八年を迎えると、陸軍大将大山巌(おおやまいわお)は、海軍中将伊東祐亨(いとうゆうこう)と力を合わせて、敵海軍の根城、威海衛(いかいえい)を攻め落しました。 この時、敵将丁汝昌(ていじょしょう)は、責任(せきにん)を感じて自殺しました。祐亨は、敵ながらもあっぱれな、その志をあわれみ、特に船を与えて、ねんごろに柩(ひつぎ)を送らせたといいます。 やがて、わが軍は、破竹(はちく)の勢で遼東(りょうとう)半島を占領し、まさに清の都、北京へせまろうとしました。清は驚きあわて、李鴻章(りこうしょう)を使いとして、和を請(こ)いました。よって内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)は、これと下関(しものせき)で談判し、清に、こののち、朝鮮の政治にいっさい干渉しないこと、遼東半島及び台湾・澎湖島(ほうことう)をわが国にゆずることなどを約束させて、和を結びました。時に二十八年四月で、これを下関条約といいます。 思えば、この戦役は、当時わが国の国運をかけた大戦役でありました。かしこくも天皇は、広島へお出ましになって、平和の回復するまで、久しく大本営のせまい御(おん)室で、日夜(にちや)万機をお統べになり、将兵の労苦(ろうく)をおしのびになって、寒さのきびしい冬の日にも、ストーブさえお用(もち)いになりませんでした。御稜威(みいつ)のもと、陸海の将兵は、家を忘れ身を捨てて、大君のために戦い、官民また心を一つにして、職務にはげみました。こうして、わが国は、世界を驚かす大勝利(だいしょうり)を博したのであります。しかも、ロシアの南下は防がれ、清もやっと目がさめて、東洋平和の基(もとい)も、始めて固められる日が来たのであります。 ところで、ここに、思いがけないことが起りました。ロシアが、ドイツ・フランスの二国をさそって「日本が遼東半島を領有することは、東洋平和に害がある」と主張(しゅちょう)し、これを清に返すよう、わが国に申し入れて来たのです。そのころヨーロッパでは、ロシア・フランスの二国と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国とが、それぞれ同盟(どうめい)を作って、張り合っていました。ですから、フランスはともかくとして、ドイツまでがロシアのさそいに応じたのは、ロシアの目を、もっぱら東方へ向けさせたいからでありました。 わが国は、戦後のことではあり、内外の形勢を深く考えて、三国のすすめに応じることにしました。おそれ多くも天皇は、特に詔(みことのり)をおくだしになって、東洋平和のために遼東半島を還附(かんぷ)する旨をお宣(の)べになり、あわせて、国民の覚悟をおさとしになりました。国民は、涙にむせび歯をくいしばり、今後、どんな困難にもたえしのんで、一日も早く、大御心を安んじ奉ろうと、堅く心に誓いました。 そこで、わが国は、産業を興(おこ)し軍備を整え、国民の心をひきしめて、ひたすら国力の充実(じゅうじつ)につとめるとともに、新(あら)たに領土となった台湾の経営にも、大いに力を注ぎました。島民で、なお命に従わないものがありましたので、北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)は、近衛師団の将兵を率いて、これをお討ちになり、その御功績(ごこうせき)によって、ほどなく全島がしずまり、ことごとく皇化に浴(よく)するようになりました。また、わが国は、清の干渉のなくなった朝鮮に対し、真心こめて政治の指導に当りました。やがて明治三十年、朝鮮は、国号を韓(かん)と改め、国王は新たに皇帝の位について、わが国とともに、東洋平和のためにつくすことになったのであります。 二 日露戦役(にちろせんえき) 日清戦役ののち、ヨーロッパ諸国は、非道(ひどう)にも、清の弱味につけこんで、いよいよ支那を荒し始めました。まずロシアは、遼東半島を返させたことを恩にきせて清にせまり、明治三十一年、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)一たいの土地を租借(そしゃく)して、鉄道や鉱山(こうざん)に関する権利(けんり)を占(し)めました。ドイツ・イギリス・フランスの諸国も、これにならって、膠州(こうしゅう)湾・威海衛・広州(こうしゅう)湾などを、それぞれ租借しました。また、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)は、ハワイ諸島をあわせ、スペインと戦ってフィリピン群島を手に入れ、東亜に根をおろしました。清のごうまんなふるまいがもとで、日清戦役が起り、その結果(けっか)、欧米の諸国をますます東亜にはびこらせたのは、まことに残念なことでありました。わが国は、こうした形勢を見て、明治三十一年、福建省(ふっけんしょう)を他国に与えないことを清に約束させ、また、昔からなじみの深いシャムと、改めて条約を結び、わが国土をまもり、東洋の平和をたもつことにつとめました。 さすがの清も、わが国にやぶれて、幾分目がさめたのか、一部の人々は、明治の新政にならって、国力の回復をはかろうとしました。しかし、多くの人々は、世界の形勢を知らず、自分の力をもわきまえず、いたずらに感情に走って、ただちに外国の勢力を駆逐しようとしました。明治三十二年、義和団(ぎわだん)という暴徒(ぼうと)が起ると、清の政府は、ひそかに兵を出してこれを助け、北京にある各国の公使館を囲ませました。翌三十三年に入って、さわぎは、ますます大きくなり、わが公使館の人々も殺傷される有様です。よってわが国は、兵をやって、関係国の軍隊とともに、さわぎを取りしずめました。清は、暴徒を罰(ばっ)し、列国に償金(しょうきん)を出し、罪(つみ)をわびて、やっと事がおさまりました。これを、北清事変(ほくしんじへん)といいます。この事変において、わが軍は、特にめざましい活躍(かつやく)を見せました。将兵が勇敢で規律の正しいことは、列国の軍隊を、はるかにしのいでいました。ところで、欧米諸国特にロシアは、清のこうした軽はずみに乗じて、更に侵略の手をのばして行ったのであります。 北清事変が起ると、ロシアは、しきりに満洲に出兵して、各地を占領し、変後、ますます兵力を増強するばかりか、やがて、韓をうかがうようになりました。ところで、イギリスは、かねて、ロシアが南下するとインドが危いことを、心配しています。そこでわが国は、清・韓両国の領土をまもり、東洋の平和をたもつために、明治三十五年、イギリスと同盟を結び、また、しばしばロシアと談判して、兵をひきあげさせようとしました。しかしロシアは、少しも誠意を示さず、翌三十六年に入って、更に兵力を増し、ついに北韓の地を、おかし始めました。そこでわが国は、三国干渉以来の非道をこらしめるため、明治三十七年二月、決然として国交(こっこう)をたちました。早くも、わが艦隊は、旅順・仁川(じんせん)の港外に、敵艦を撃沈(げきちん)して敵の出鼻をくじき、二月十日、宣戦の大詔がくだされました。 黒木(くろき)大将の率いる第一軍は朝鮮から、奥(おく)大将の第二軍、野津(のづ)大将の第四軍は、遼東半島の二方面から、三道それぞれ、満洲の野に転戦しながら、敵の根城遼陽(りょうよう)へ向かって進みました。やがて、総司令官には大山元帥が、総参謀長には児玉(こだま)大将が任じられ、九月、三軍の総攻撃は、敵将クロパトキンの死守する遼陽を、わずか十日で攻め落しました。しかも、援兵を加えて陣容を立て直した、敵軍二十余万の反撃を、激戦数日、またまた沙河(しゃか)で撃ち破りました。 この間、海軍は、まず旅順港の閉塞(へいそく)をはかり、広瀬(ひろせ)中佐を始め、壮烈無比な決死隊の活躍によって、その目的(もくてき)を達しました。乃木(のぎ)大将の率いる第三軍が、旅順の攻撃を始めると、敵艦隊は、封鎖(ふうさ)を破って港外へのがれましたが、たちまち黄海で撃滅され、ウラジオストク艦隊も、これが救援(きゅうえん)の途中、蔚山(うるさん)沖で撃滅されました。こうして、八月のなかば、制海権(せいかいけん)は、早くもわが手に帰(き)したのであります。 旅順の要塞(ようさい)は、さすがに、ロシアが防備に手をつくし、難攻不落(ふらく)を世界にほこっただけあって、その攻略は、なかなか容易でありませんでした。しかも、わが忠勇な陸海の将兵は、悪戦苦闘(くとう)、いくたびか決死の突撃をくりかえして、ついに要害二〇三高地をうばい、他の砲台も、次々に占領しました。ここに敵将ステッセルは、力尽きて、翌三十八年一月一日、降伏(こうふく)を申し出ました。かしこくも明治天皇は、敵ながらもあっぱれな、ステッセルの奮闘をおほめになり、旅順開城の際には、特に寛大(かんだい)な扱いをお許しになりました。 旅順がおちいると、第三軍は、ただちに北上して、満洲軍の主力に加り、大山総司令官の指揮(しき)のもとに、全軍およそ四十万、クロパトキンの率いる五十余万の敵軍にせまって、いよいよ最後の決戦を試みることになりました。奉天の大会戦は、かくて開始(かいし)され、わが将兵の意気は天をつくばかりで、激戦まさに二十日、大いに敵を破り、三月十日、ついに奉天を占領しました。 このころ、敵海軍の主力バルチック艦隊は、制海権の回復を夢みて、はるばる東洋へ廻航(かいこう)中でありました。やがて五月二十七日、敵艦隊は、大たんにも対馬(つしま)海峡を通りぬけようとしました。わが連合艦隊司令長官海軍大将東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、四十余隻の艦隊を率いて、これを迎え撃ち、ここに、皇国の興廃(こうはい)をかけた大海戦が、折から風烈(はげ)しく波の高い日本海上に、くりひろげられました。この日を待ちかまえたわが将兵は、司令長官の激励にこたえて勇戦力闘(りきとう)、決戦二昼夜にわたって、敵艦十九隻を撃沈し、五隻を捕らえ、敵司令長官を俘虜(ふりょ)にしました。わが損傷は、きわめて軽微(けいび)で、世界の海戦史に例のない全勝を博しました。しかもこの際、わが将兵は、溺(おぼ)れる敵兵を救い、俘虜を慰めるなど、よく皇軍の面目(めんもく)を発揮したのであります。 ついで別軍は、更に樺太を占領しましたが、日露戦役は、奉天の会戦と日本海海戦によって、すでに大勢(たいせい)が決していました。米国大統領(べいこくだいとうりょう)ルーズベルトは、この形勢を見て、わが国とロシアとの間に立ち、講和をすすめることになりました。わが国は、これに応じ、外務大臣小村寿太郎(こむらじゅたろう)らをアメリカのポーツマスへやって、ロシアの全権委員(ぜんけんいいん)と談判させ、審議(しんぎ)を重ねた末、三十八年九月、ポーツマス条約を結びました。すなわち、わが国は、ロシアに、韓を保護することに干渉しないことや、清の領土に手をつけないことを約束させ、また、関東州の租借権、長春(ちょうしゅん)(新京)旅順間の鉄道と附近の炭坑(たんこう)、及び樺太の南半と沿海州の漁業権とをゆずらせることに定めました。戦が終ると、陸海の諸軍は、次々に凱旋(がいせん)しました。天皇は、伊勢(いせ)に行幸(ぎょうこう)あらせられ、したしく、神宮に平和の回復をおつげになりました。 日露戦役は、世界の一大強国を相手とする大戦役で、日清戦役に比べて、はるかに大きく、また困難な戦でありましたが、わが国は、御稜威のもと、挙国一体、連戦連勝して、ロシアの野心をくじき、大いに国威をかがやかしました。かくて、三国干渉以来十年間の労苦も、ついにむくいられたのであります。それというのも、御(み)恵みによって、教育が広く国民にゆきわたり、尽忠(じんちゅう)奉公の精神が深く養われていたからです。しかも、この戦勝によって、わが国は、世界における地位を、諸外国にはっきりと認めさせるとともに、東亜のまもりに重きを加え、これまで欧米諸国に圧迫(あっぱく)されて来た東亜諸民族の自覚をうながし、これを元気づけたのであります。 第十四 世界(せかい)のうごき 一 明治(めいじ)から大正(たいしょう)へ わが国は、日露戦役(にちろせんえき)後、欧米(おうべい)諸国と大使(たいし)を交換(こうかん)して国交を厚くし、イギリス・フランス・ロシア・アメリカ合衆国(がっしゅうこく)とは、更に条約を結んで、東亜の安定(あんてい)をはかりました。ところが、東亜の形勢(けいせい)には、注目(ちゅうもく)すべき変化(へんか)が起りました。それは、ロシアに代って、アメリカ合衆国が乗り出して来たことです。 米国の東亜に対する欲望(よくぼう)は、さきに、ハワイやフィリピンを手に入れてから、急に高まって来ました。日露の講和に仲だちしたことを恩にきせて、満洲に勢力をのばそうとさえしました。しぜん、わが国との関係は、しだいに曇りを生じて来ました。すると、英国もまた、米国に気がねして、わが国をうとんじ始めました。かの日英同盟(どうめい)も、日露戦役の際(さい)、一時固くなりましたが、明治の末には、すっかりゆるみました。米国が日英同盟をいやがり、それに英国も、このころ露国と仲よくなったので、そろそろ、同盟の必要を認めなくなったからです。 この間、わが国は、樺太(からふと)の開発、関東州の経営につとめるとともに、東亜の安定をめざして、韓(かん)の保護にも、ずいぶん力を用(もち)いました。まず、韓に対する他国の干渉(かんしょう)を、いっさい取り除き、ついで、内政(ないせい)の改革(かいかく)を指導(しどう)しました。こうして韓は、ますますわが国に対する信頼(しんらい)を深め、韓民の中には、東洋の平和をたもつため、日・韓両国が一体になる必要があると考えるものが、しだいに多くなりました。韓国皇帝も、かねてこれをお望みになっていましたので、明治四十三年、天皇にいっさいの統治権(とうちけん)をおゆずりになることになりました。 明治天皇は、この申し出をおきき入れになって、特に韓国併合(へいごう)の詔(みことのり)をおくだしになり、韓国皇帝もまた、韓民に対し、日本の政治に従って、いよいよ幸福(こうふく)な生活を送るよう、おさとしになりました。また、韓という名も朝鮮と改り、新(あら)たに置かれた総督(そうとく)が、いっさいの政務をつかさどることになりました。古来わが国と最も関係の深かった半島の人々は、ここにひとしく皇国の臣民となり、東洋平和の基(もとい)は、いよいよ固くなったのであります。 維新(いしん)以来、わが国運は日に月に盛んとなり、国威は隆(りゅう)々として世界にかがやく折から、思いがけなくも、天皇は、明治四十五年七月、御(おん)病におかかりになりました。国民の驚きはいかばかりか、上下こぞって、ひたすら御平癒(ごへいゆ)をお祈り申しあげました。御(ご)病状を案じ奉って、二重橋のほとりに集るものは、日に幾千とも知れないほどで、夜を通して祈り続ける人々も、少くありませんでした。ところが、御病は日ごとに重らせられ、ついに七月三十日、御年六十一歳で、おかくれになりました。国民の悲しみは、たとえようもなく、世界の国々もまた、御高徳(ごこうとく)をたたえ奉り、つつしんで崩御(ほうぎょ)をおいたみ申しあげました。 かしこくも明治天皇は、内外多事の際、御(ご)年少の御(おん)身で御位をおつぎになり、万機をお統(す)べ*49になること、まさに四十六年に及びました。その間、維新の大業をおとげになり、新政を整えて国力を充実(じゅうじつ)あらせられ、皇威を世界にのべて、興亜の礎(いしずえ)をお築きになりました。まことに、明治の御代における国運の進展(しんてん)は、東西(とうざい)古今の歴史に、その例を見ないところであります。 天皇は、皇祖皇宗の御(ご)遺訓に基(もと)づき、つねに御(おん)みずから手本をお示(しめ)しになって、ふみ迷う国民をおみちびきになりました。また、明け暮れ、万民のことに大御心をかけさせられ、数々の御(み)恵みをたまわりましたが、その御心を、 照るにつけくもるにつけて思ふかな わが民草(たみくさ)のうへはいかにと とおよみになっていらっしゃいます。われわれ国民は、ただありがたさに、涙がこぼれるばかりであります。 天皇がおかくれになると、ただちに第百二十三代大正(たいしょう)天皇が、御位をおつぎになり、年号を大正とお改めになりました。この年の九月、大葬(たいそう)の御(おん)儀があり、伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)におさめまいらせました。霊柩(れいきゅう)がまさに宮城をお出ましになる時刻に、乃木(のぎ)大将と夫人(ふじん)は、その邸(やしき)で自刃(じじん)して、明治天皇の御(み)あとをしたい申しあげました。 明治天皇神去りまして、悲しみの涙さえまだ乾かないのに、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)もまた、御病のため、大正三年四月に、おかくれになりました。重ね重ねの悲しみのうちに、やがて大葬の御儀があり、伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)におさめまいらせました。皇太后は、いつくしみの御心に深くいらせられ、戦時には、傷病兵をおいたわりになり、つねには、学校・病院・工場などに行啓(ぎょうけい) *50あらせられて、教育や産業をおはげましになり、慈善(じぜん)・施療(せりょう)の業(わざ)をおすすめになりました。 東京代々木(よよぎ)の明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后をおまつり申しあげるお社であります。国民は、ながく御二方(おんふたかた)の御高徳を仰いで、神宮に御陵(ごりょう)にお参りするものが、つねに絶えません。昭和二年、第百二十四代今上(きんじょう)天皇は、明治天皇のお生まれになった十一月三日を、明治節とお定めになりました。国をあげて、この日をお祝い申しあげ、とこしえに、大御業(おおみわざ)をおしのび申しあげるのであります。 明治天皇・昭憲皇太后の諒闇(りょうあん) *51が終って、大正天皇は、大正四年の十一月、始めて皇室典範(こうしつてんぱん)の定めにのっとり、即位(そくい)の礼を、京都の皇宮(こうぐう)でお挙(あ)げになりました。ここに大正の御代は、御恵みのもと、洋々として開けて行きます。しかもこのころ、ヨーロッパ諸国は戦争の真最中で、わが国もまた、東亜の保全のため、正義の戦を進めていたのであります。 二 太平洋(たいへいよう)の波風(なみかぜ) ヨーロッパに戦争が起ったのは、大正三年七月のことであります。ヨーロッパでは、かねて、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国とフランス・ロシアの二国とが、それぞれ同盟を結んで対立(たいりつ)していました。ところが、それまで、どちらのみかたもしないでいたイギリスが、日露戦役のころから、フランスに近づき、やがて明治四十年には、すっかりフランス・ロシア側の仲間入りをしました。それは、イギリスが、めきめきと強くなったドイツの勢を、恐れたからです。一方ドイツ側では、イタリアとオーストリア=ハンガリーとの仲がわるくなって、イタリアは、同盟から離れそうになっていました。 日露戦役でわが国の勝ったことは、こうしたヨーロッパの形勢に、少からぬ影響(えいきょう)を与えています。イギリスがロシアに近づくようになったのは、その一つです。また、ロシアがやぶれたので、オーストリア=ハンガリーは、バルカン半島へ手をのばし始めました。ところで、バルカンの一国、セルビアの一青年が、オーストリア=ハンガリーの皇嗣(こうし) *52を暗殺(あんさつ)したため、両国の間に戦端が開かれ、この波紋がひろがって、ついに、ドイツを中心とする同盟国と、ロシア・イギリス・フランス等の連合(れんごう)国との、大戦争になりました。 わが国は、当時なお諒闇のことでもあり、もっぱら中立を守って、東洋の平和をたもとうとしました。ところがドイツは、膠州(こうしゅう)湾の兵力を増し、しかもその艦艇が、しきりに東亜の海に出没します。よってわが国は、東洋平和のため、また日英同盟のことをも考えて、大正三年八月二十三日、ドイツと国交をたち、この日、かしこくも、宣戦の大詔がくだりました。海軍は、ただちに膠州湾を封鎖(ふうさ)し、陸軍は、背後(はいご)から青島(せいとう)を攻撃して、同年十一月、これをおとしいれました。わが国で、飛行機を戦闘に用いたのは、この時が最初でした。この間、わが艦隊の一部は、南洋へ進み、敵艦を太平洋から追い払って、ドイツ領のマーシャル・マリアナ・カロリンなどの諸群島を占領しました。ドイツの艦艇は、なおインド洋や地中海に現れ、盛んに各国の商船を撃沈(げきちん)し、わが商船にも損害を与えました。そこで、わが艦隊は、遠くこの方面へも出動し、さまざまの困難(こんなん)をしのいで、通商の保護に当りました。 この間、ヨーロッパの形勢は、トルコ・ブルガリアが同盟国に加り、イタリアが連合国に加りましたが、戦況は、同盟国に有利(ゆうり)でした。大正六年に、やっとアメリカ合衆国が、連合国に加りました。アメリカは、それまで中立を守り、通商で、ばくだいな利益(りえき)を占(し)めていたのです。これと前後して、ロシアに内乱(ないらん)が起り、やがてソビエト政府ができると、翌七年、ドイツと単独(たんどく)講和を結びました。ところで同盟国も、このころから急に弱って足なみが乱れ、まずブルガリア・トルコが降伏(こうふく)し、やがてオーストリア=ハンガリー・ドイツにも、相ついで内乱が起り、ついに屈して、講和を求めました。 翌大正八年、平和会議(へいわかいぎ)が、フランスのパリで開かれ、ベルサイユ条約が成立しました。これによって、わが国は、膠州湾と山東(さんとう)省とにもっていたドイツのいっさいの権益(けんえき)を得、赤道(せきどう)以北の旧ドイツ領南洋群島の統治を委任(いにん)されました。また、この条約にそえて、各国は国際連盟(こくさいれんめい)を作り、以後たがいに力を合わせて、世界の平和をはかることになりました。 こうして、世界の平和は、ひとまず回復されましたが、大戦の結果(けっか)として現れたものは、アメリカ合衆国やイギリスのわがままなふるまいでした。米国は、自分のいい出した国際連盟にさえ加らず、英国は、連盟を自分の都合のよいように利用することにつとめました。そればかりか、日本の興隆をねたんで、事ごとにわが国の発展をおさえようとしました。それは、米・英が東亜に野心をもっているからで、米国は、大戦中、わが海軍が南洋へ進出することをさえ、いやがったほどです。大正三年に、パナマ運河が開通してから、米国の東亜に対する欲望は、いよいよ大きくなっていました。しぜん世界の目は、戦後、ヨーロッパから太平洋へ移りました。大正から昭和へかけて、国際問題の中心になった海軍軍備縮小(しゅくしょう)会議は、まさに、米・英が太平洋を支配しようとする下心の現れでありました。 大正十年、米国の発起(ほっき)で、日・英・米・仏(ふつ)・伊(い)等の諸国が、ワシントンに会議を開き、軍備の制限(せいげん)、太平洋・東亜に関する諸問題を協議しました。その結果、軍備の制限では、日・英・米の主力艦の比率(ひりつ)を三・五・五(仏・伊は一・七五)と定め、また、太平洋の島々の武備を制限することにきめました。太平洋・東亜の問題については、別に条約を結び、この方面にある各国の島々に、問題が起った時は、共同で処理(しょり)し、かつ、支那の領土を尊重(そんちょう)することなどを、約束しました。しぜん日英同盟は、不必要というので、廃棄(はいき)されました。しかも会議は、米・英の無理が通って、わが国に不利な点が少くなかったのですが、わが国は、もっぱら列国の信義に期待(きたい)して、寛大(かんだい)に事に処しました。すると、米・英の非道(ひどう)は、更に露骨(ろこつ)となり、わが移民(いみん)に圧迫(あっぱく)を加え、大正十三年、米国は、わざわざ法律まで作って、移民をこばむようになりました。 この間、米・英は、支那に対して、領土を尊重するように見せかけながら、ひそかに利益をあさりました。支那では、明治の末に清(しん)がほろび、中華民国(ちゅうかみんこく)がこれに代っていました。しかも支那は、北清事変(ほくしんじへん)以来のわが好意を忘れ、しだいに、米・英にたよって、わが国を軽んじるようになりました。かくて日・支の関係は、前途なかなか多難で、東洋の平和も、ふたたび危く見えて来ました。 わが国も、たびたびの戦勝から、内には、ゆだんの心も起っていました。世界のうごきの表面だけしか見ない人が多く、だいじな東亜、ことに支那に対する研究が、不十分でした。国民の気持も、いつとなくゆるんで、生活が、はなやかになっていました。折しも大正十二年、関東地方に大震災が起り、その災難で、人々の心がぐらつきました。おそれ多くも、国民精神作興の詔書をおくだしになり、深く国民をお戒(いまし)めになったのは、この時のことであります。 さきに、大正十年三月、皇太子裕仁親王(ひろひとしんのう)は、八重(やえ)の潮路(しおじ)をはるばると、ヨーロッパへお渡りになり、国々をめぐって皇威を御発揚(ごはつよう)の上、同年九月、めでたく還啓(かんけい) *53あらせられました。時に、天皇御病のため、皇太子は、同年十一月、皇室典範の定めにより、摂政(せっしょう)の任に、おつきになりました。 大正十五年十二月、天皇の御病は、いよいよ重く、国民こぞって御平癒をお祈り申しあげたそのかいなく、ついに同月二十五日、御年四十八歳で、おかくれになりました。かしこくも大正天皇は、特に国際上多事の際、明治天皇の御(ご)遺業をおつぎになり、内に、民草をおいつくしみになって、国力の充実につとめさせられ、外に、国威をおのべになって、世界平和のために、御心をお用いになりました。その御高徳・御鴻業(ごこうぎょう) *54は、国民はもとより、世界のひとしく仰ぎ奉るところであります。 第十五 昭和(しょうわ)の大御代(おおみよ) 一 満洲事変(まんしゅうじへん) 今上天皇は、大正天皇の第一皇子(おうじ)にましまし、明治三十四年四月二十九日に、御降誕(ごこうたん)あらせられました。御年十六歳の時、皇太子にお立ちになり、やがて内外多事の折に、摂政(せっしょう)の御(ご)重任をおはたしになりました。 大正天皇がおかくれになると、ただちに践祚(せんそ) *55あらせられ、年号を昭和と改め、ついで文武百官を召して、朝見(ちょうけん)の儀を行(おこな)わせられました。やがて昭和二年二月、大正天皇の大葬(たいそう)の御(おん)儀があり、多摩陵(たまのみささぎ)におさめたてまつりました。 諒闇(りょうあん)があけて昭和十年十一月、即位(そくい)の礼を、京都の皇宮(こうぐう)でお挙(あ)げになりました。まず、賢所(かしこどころ) *56大前(おおまえ)の御儀があって、皇祖天照大神に、即位の由(よし)をおつげになり、ついで、紫宸殿(ししんでん)の高御座(たかみくら)にお登りになって、広く天下に、これをお宣(の)べになりました。この時、国民は、一せいに万歳をとなえて、宝祚(あまつひつぎ)の御栄(みさか)えをお祝い申しあげました。天皇は、ついで大嘗祭(だいじょうさい)を行わせられ、天照大神を始め天地の神々に、したしく神饌(しんせん) *57を供えて、夜もすがらおまつりになり、かぎりなく尊い御(ご)盛儀は、かくてめでたく終りました。 昭和の御代が隆(りゅう)々と開けてゆく時、海外の諸国は、世界平和を望むわが国の誠意を無視して、勝手なふるまいを続けていました。イギリスは、ひそかにシンガポールの武備を固め、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)は、たくみに支那をあやつり、ソビエト連邦(れんぽう)は、軍備の拡張(かくちょう)に日も足らぬ有様(ありさま)です。中華民国(ちゅうかみんこく)もまた、このころ、国内がひとまずしずまるとともに、いよいよ、排日(はいにち)の気勢を高めて来ました。しかも米(べい)・英は、更にわが国をおさえようとして、またまた、軍備縮小(しゅくしょう)の相談をもちかけ、昭和五年、英国の発起(ほっき)したロンドン会議(かいぎ)では、わが公正な意見をかえりみず、補助艦(ほじょかん)の比率(ひりつ)七割を、わが国におしつけました。 支那は、じっとこらえているわが国の態度を、臆病(おくびょう)と見て取ったのか、ますます排日の気勢をあおり、はては、わが居留民に危害(きがい)を加え、満洲におけるわが権益(けんえき)をさえおびやかす挙に出ました。すなわち、昭和六年九月、支那軍は、不法にも、南満洲鉄道を爆破(ばくは)しました。東洋の平和を望み、隣国(りんごく)のよしみを思えばこそ、たえしのんで来たわが国も、事ここに至って、決然としてたちあがりました。支那は、国際連盟(こくさいれんめい)にすがり、列強をみかたに引き入れようとします。わが国は、正々堂々、膺懲(ようちょう)の軍を進めて、たちまち、支那軍を満洲から駆逐しました。これを満洲事変といいます。 長い間、悪政のもとに苦しんでいた満洲の住民(じゅうみん)は、これを機会に独立(どくりつ)の運動を起し、昭和七年三月、新(あら)たに国を建てて満洲国とし、溥儀執政(ふぎしっせい)をいただくことになりました。わが国は、東洋平和のため、その建国(けんこく)を喜び、同年九月、列国に先だって独立を承認(しょうにん)し、日満議定書(にちまんぎじょうしょ)を交換(こうかん)して、両国の共同防衛を約束しました。 ところが、国際連盟は、わが公正な処置(しょち)を認めず、満洲国の発達をさまたげようとしました。よってわが国は、昭和八年三月、きっぱりと、連盟を脱退(だったい)しました。この時、かしこくも天皇陛下は、詔(みことのり)をおくだしになって、日本の進むべき道をおさとしになり、国民の奮起をおはげましになりました。国民は、つつしんで詔を拝し、東洋永遠の平和のためには、いかなる困難(こんなん)にもたえしのぶことを誓いました。しかも国民は、満洲事変を通して、世界のうごきをはっきりと知り、ここに、自主独往の覚悟を固くしたのであります。 昭和八年十二月二十三日、皇太子継宮明仁親王(つぐのみやあきひとしんのう)が、お生まれになりました。国民は、久しく皇太子の御誕生(ごたんじょう)をお待ち申しあげていましたので、その喜びはたとえようもなく、奉祝(ほうしゅく)の声は、全国に満ちあふれました。満洲国でも、家ごとに日の丸の旗をかかげて、心から御誕生をお祝い申しあげました。 満洲国は、独立後わずか一二年の間に、見違えるほど、りっぱな国になり、国民の生活も、日々に安らかとなりました。昭和九年三月には、溥儀執政が、国民に推(お)されて、皇帝の位におつきになり、国は満洲帝国となりました。秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王は、天皇の御名代(ごみょうだい)として、満洲国へお渡りになり、したしく、お祝いのことばをお述べになりました。翌昭和十年、皇帝は、御答礼(ごとうれい)のため、わが国をお訪(たず)ねになり、日満の親善(しんぜん)は、年とともに深まって行きました。 国際連盟が、わが正当な行為(こうい)を認めない今となっては、ワシントン会議以来の軍備制限(せいげん)条約は、国防上、とうていしのびがたいものとなりました。よってわが国は、昭和九年十二月、条約の廃棄(はいき)を、アメリカ合衆国に通告しました。かくて一年ののち、ふたたびロンドンで会議が開かれた際(さい)、わが国は、国防上最も公正な意見を、堂々と述べました。しかも、米・英両国がこれをこばむに及んで、わが国は、決然として会議を脱退しました。ここに、帝国海軍の日ごろの猛訓練は、更にいっそうの激しさを加えて行きました。 二 大東亜戦争(だいとうあせんそう) わが国は、さきに内鮮一体の実を挙げて、東洋平和の基(もとい)を築き、今また、日満不可分の堅陣(けんじん)を構(かま)えて、東亜のまもりを固めました。しかも、東洋永遠の平和を確立(かくりつ)するには、日・満・支三国の緊密(きんみつ)な提携(ていけい)が、ぜひとも必要であります。わが国は、支那にこの旨をつげて、しきりに協力をすすめました。ところが支那の政府(せいふ)は、わが誠意を解(かい)せず、欧(おう)米の援助(えんじょ)を頼みに排日を続け、盛んに軍備を整えて、日・満両国にせまろうとしました。 果して、昭和十二年七月七日、支那兵が、北京(ぺきん)近くの盧溝橋(ろこうきょう)で、演習中のわが軍に発砲して戦をいどみ、更に、わが居留民に危害を加えるものさえ現れました。 わが国は、支那の不法を正し、さわぎをくい止めようとつとめましたが、支那の非道(ひどう)は、つのるばかりでした。ここに、暴支(ぼうし)膺懲*58の軍が派遣(はけん)せられ、戦は、やがて北支から中支・南支へとひろがりました。 この間、忠烈勇武な皇軍の将士は、各地に転戦して、次々に敵の根城を落し、早くも十二月十三日、首都南京(しゅとなんきん)を攻略して、城頭高く日章旗をひるがえし、翌十三年十月には、広東(かんとん)・武昌(ぶしょう)・漢口(かんこう)等の要地を占領しました。しかも、海軍が沿岸の封鎖(ふうさ)に当り、陸海の荒鷲(あらわし)が、大陸の空を制圧(せいあつ)しましたので、重慶(じゅうけい)へ落ちのびた敵の政府は、息もたえだえの有様になりました。 かしこくも天皇陛下は、宮城内に大本営を置いて、日夜(にちや)軍務をお統(す)べになり、事変一周年の当日には、勅語(ちょくご)をたまわって、将士の奮闘と銃後の勉励とをおほめになり、日・支の協力による東亜の安定(あんてい)を、一日も早く実現(じつげん)するようにと、おはげましになりました。聖旨(せいし)を奉(ほう)体(たい) *59して、わが政府は、この年の明治節に、戦の目的(もくてき)が、支那の目をさまして、東亜に新しい秩序(ちつじょ)を作ることにある旨を声明しました。 わが誠意に感激した支那の人々は、いくつか新しい政府を作り、これが基となって、昭和十五年三月、汪精衛(おうせいえい)の率いる新国民政府が、南京で成立しました。やがて十一月、わが国は、これと条約を結び、ここに日・満・支三国が、力を合わせて、東亜新秩序の建設に、はげむことになりました。しかし、重慶の政府は、なお米・英の援助によって、からくも命をつなぎ、あくまで、わが国に手むかい続けました。 このころ、すでにヨーロッパでも、戦争が起っていました。欧洲大戦後およそ二十年間、ひたすら国力の回復につとめて来たドイツが、昭和十四年に、うらみ重なる英・仏(ふつ)その他の諸国と、戦争を開始(かいし)しました。しかもドイツは、たちまち、ポーランド・オランダ・ベルギーを撃ち破り、ついでフランスを降伏(こうふく)させ、その勢は、なかなか盛んであります。それに今度は、イタリアが、ドイツのみかたとして立つことになりました。 わが国は、かねがね独・伊(い)両国と、志を同じゅうしていましたので、昭和十五年九月、改めて同盟(どうめい)を結び、三国ともどもに力を合わせて、一日も早く戦乱(せんらん)をしずめ、世界の平和を確立しようと約束しました。わが国は、東亜をりっぱな東亜に立て直すことを使命とし、独・伊は、欧洲を正しい欧洲に造(つく)りかえることを使命とする、──三国は、この大業をなしとげるため、たがいに助け合うことになったのです。 ところで、米・英の両国は、重慶政府を助けて、支那事変を長引かせるばかりか、太平洋の武備を増強し、わが通商をさまたげて、あくまで、わが国を苦しめようとしました。しかも、わが国は、なるべく事をおだやかに解決しようと、昭和十六年の春から半年以上も、誠意をつくして、米国と交渉(こうしょう)を続けましたが、米国は、かえってわが国をあなどり、独・ソの開戦を有利(ゆうり)と見たのか、仲間の国々と連絡(れんらく)して、しきりに戦備を整えました。こうして、長い年月、東亜のためにつくして来たわが国の努力は、水の泡(あわ)となるばかりか、日本自身の国土さえ、危くなって来ました。 昭和十六年十二月八日、しのびにしのんで来たわが国は、決然としてたちあがりました。忠誠無比の皇軍は、陸海ともどもに、ハワイ・マレー・フィリピンをめざして、一せいに進攻を開始しました。勇ましい海の荒鷲が、御(み)国の命を翼にかけて、やにわに真珠(しんじゅ)湾をおそいました。水(み)づく屍(かばね)と覚悟をきめた特別攻撃隊も、敵艦めがけてせまりました。空と海からする、わが猛烈な攻撃は、米国太平洋艦隊の主力を、もののみごとに撃滅しました。この日、米・英に対する宣戦の大詔がくだり、一億(おく)の心は、打って一丸となりました。二重橋のほとり、玉砂利(たまじゃり)にぬかづく民草(たみくさ)の目は、決然たるかがやきを見せました。 ほとんど同時に、英国の東洋艦隊は、マレー沖のもくずと消え、続いて、かれが、百年の間、東亜侵略(しんりゃく)の出城(でじろ)とした香港(ほんこん)も、草むす屍とふるいたつわが皇軍の精鋭によって、たちまち攻略されました。昭和十七年を迎えて、皇軍は、まずマニラを抜き、また破竹(はちく)の進撃は、マレー半島の密林をしのいで、早くも二月十五日、英国の本陣、難攻不落(ふらく)をほこるシンガポールを攻略しました。その後、月を重ねて、蘭印(らんいん)を屈伏させ、ビルマを平定し、コレヒドール島の攻略がなり、戦果(せんか)はますます拡大されました。相つぐ大小の海戦に、撃ち沈められた敵の艦船は、おびただしい数にのぼっています。しかも、細戈千足(くわしほこちたる)の国のますらおは、西に遠くマダガスカルの英艦をおそい、北ははるかに米領アリューシャン列島を突いて、世界の国々をあっといわせました。 この間、三国同盟は、一だんと固められて、独・伊も米国に宣戦し、日本とタイ国との同盟が成立して、大東亜建設は、更に一歩を進めました。今や大東亜の陸を海を、日の丸の旗が埋めつくし、日本をしたう東亜の民は、日に月によみがえって行きます。すべてはこれ御稜威(みいつ)と仰ぎ奉るほかありません。 三 大御代(おおみよ)の御栄(みさか)え わが国は、尊い戦を進めながら、かがやかしい紀元二千六百年を迎えたのでありました。三国同盟が成立したのも、新しい支那と条約を結んだのも、この年、すなわち昭和十五年のことです。 かしこくも天皇陛下は、このめでたい年の紀元節に、詔をおくだしになって、国民すべてが、神武天皇の御創業(ごそうぎょう)をおしのび申しあげ、いかなる難局をも切り開くようにと、おさとしになりました。ついで六月には、神宮を始め、橿原(かしはら)神宮・伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)・多摩陵などに、御(ご)参拝あらせられ、紀元二千六百年をお迎えあそばされたことを、したしく御(ご)報告になりました。 同月、満洲国皇帝は、ふたたび御(ご)来朝、天皇陛下に、紀元二千六百年のお祝いを、したしくお述べになり、皇大神宮・橿原神宮・伏見桃山陵などに、御参拝になりました。皇帝は、かねがね、わが皇室の御(おん)徳をおしたいになり、日本と同じように満洲国を治めたいとのお考えでありましたので、御帰国(ごきこく)後、建国神廟(けんこくしんびょう)を帝宮(ていきゅう)内に建て、天照大神をおまつりになって、日夜、大神の御(み)心を奉体し、政治におはげみになることになりました。 この年の九月、北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)が、尊い御(おん)身をもって、蒙疆(もうきょう)の地で御(ご)戦死をおとげになりました。国民の驚きは、ひと通りでなく、御(おん)祖父能久(よしひさ)親王の御(おん)事をもしのび奉って、感激の涙にむせびました。 やがて、菊花(きっか)かおる十一月、宮城前の式場に、天皇・皇后両陛下の臨御(りんぎょ)を仰ぎ、おごそかに、紀元二千六百年奉祝の式典が催されました。この日、大空はさわやかに澄み渡って、一片(いっぺん)の雲影もなく、美しい式殿の両側には、銀色の鉾(ほこ)が、秋日を受けてきらきらとかがやき、朱色(しゅいろ)の旛(はた)が、そよ風にゆらいでいました。式場をうずめた参列者は、大君の尊い御(み)姿を仰ぎ、ありがたい勅語をたまわって感きわまり、声をかぎりに、万歳を奉唱しました。津(つ)々浦(うら)々の民草もまた、これに和し、奉祝の喜びのうちに、遠く国史をふりかえって、難局打開(だかい)の覚悟を新たにしました。 遠すめろぎのかしこくも、はじめたまいしおお大和(やまと)、──まことにわが大日本帝国は、皇祖天照大神が、天壌無窮(てんじょうむきゅう) *60の神勅をくだして、国の基をお固めになり、神武天皇が、皇祖の大御心をひろめて、即位の礼をお挙げになった、尊い国であります。以来、万世一系の天皇は、いつの御代にも、深い御(み)恵みを民草の上にお注ぎになり、国力は時とともに充実(じゅうじつ)し、御稜威は遠く海外にかがやき渡りました。 御恵みのもと、世々の国民は、天皇を現御神(あきつみかみ)とあがめ、国の御(み)親とおしたい申しあげて、忠誠をはげんで来ました。その間、皇恩になれ奉って、わがままをふるまい、太平に心をゆるめて、内わもめをくり返し、時に無恥無道(むちむどう)の者が出たことは、何とも申しわけのないことでありました。しかし、そうした場合でも、親子・一族・国民が、たがいに戒(いまし)め合い、不覚をさとし、無道をせめて、国のわざわいを防ぎました。清麻呂が道鏡の非望をくじき、重盛が父のわがままをいさめ、光圀・宣長らが大和心を説(と)いて尊皇(そんのう)の精神を吹きこんだなど、その例です。しかも、元寇の時のように、いったん外国と事の起った場合には、国民こぞってふるいたち、戦線・銃後ともどもに、力を合わせて国難を打開しました。また、大化の改新、建武の中興、明治の維新のように、内外多事の際には、勤皇の人々が続々現れて、大御業(おおみわざ)をおたすけ申しあげました。従って、わが国では、一見世の中が乱れたような場合でも、決して国の基を動かすようなことはありません。こうしたことは、わが国だけに見られることで、すべては御稜威のかがやきであり、尊い国がらの現れであります。 昔、支那の勢が盛んで、あたりの国々を従えていた時でも、日本だけは、堂々と国威を示(しめ)して、一歩もゆずりませんでした。四百年ばかり前から、まずポルトガル・スペインが、ついでオランダ・イギリス・ロシアが、最後にアメリカ合衆国が、盛んに東亜をむしばみました。わが国は、いち早くその野心を見抜いて、国の守りを固くし、東亜の国々をはげまして、欧米勢力の駆逐につとめて来ました。そうして、今やその大業を完成するために、あらゆる困難をしのいで、大東亜戦争を行っているのです。皇国の興隆、東亜の安定は、この一戦とともに開けてゆくのであります。 昭和十四年五月二十二日、かしこくも天皇陛下は、全国青少年学徒の代表を、宮城前で御親閲(ごしんえつ)になり、特に勅語をたまわって、日本の将来をになう、りっぱな人物になるようにと、おさとしになりました。つづいて、昭和十六年には、御国のお役に立つ、りっぱな国民を育てるために、小学校は、国民学校に改りました。私たちは、現にこの国民学校で、楽しく勉強しているのであります。 私たちは、楠木正成が、桜井の里で、正行をさとしたことばを、よくおぼえています。 「獅子(しし)は子を産み、三日にして、数千丈の谷に投ず。その子、まことに獅子の気性あれば、はね返りて死せずといえり。汝すでに十歳に余りぬ。一言耳にとどまらば、わが教えにたがうことなかれ。今度の合戦、天下の安否と思えば、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。………敵寄せ来らば、命にかけて忠を全うすべし。これぞ汝が第一の孝行なる」 私たちは、一生けんめいに勉強して、正行のような、りっぱな臣民となり、天皇陛下の御(おん)ために、おつくし申しあげなければなりません。 終
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元ネタ語録 闇は去り、太陽は昇った~平成の宗教改革~(第二部) 第一部はこちら。第三部はこちら。 第二部 日顕宗の実態と三代会長の宗教改革 (男性ナレーター) 池田名誉会長は、日顕宗(注:日蓮正宗に対する創価学会の蔑称)の魔の手から全学会員を守り、一方で、悠然と自ら世界に羽ばたいていった。 (拍手) (1991年9月 ハーバード大学 講演 ソフト・パワーの時代と哲学) テチャク「ソフト・パワーの時代を切り開く、最も大切なキーワードとして、わたくしは「内発的なもの」ということを申し上げてみたいと思います」 (拍手) 対話で、世界平和を開く、池田名誉会長。世界第一級の知性が、名誉会長に共感していく。 権威的で封建的な宗門(=日顕宗)の鉄の鎖を断ち切った創価学会は、堰を切ったように常勝していく。 宗教ジャーナリスト クラーク・ストランド氏 「宗門から離れ、学会は弘経(ぐきょう)する力が、格段に増してきたと思います。 すなわち、学会は宗門から離れて、本来あるべき姿になったのです」 ガンジー記念館 元館長 N.ラダクリシュナン博士 「破門などによってSGIの組織が破られるはずがありません。 破門によって民衆の運動はさらに発展したのです。 運動が民衆運動となれば、いかなる力もそれを打ち負かすことはできません。 創価学会、そしてSGIは、そのことを見事に証明したのです」 (第一部同様日の出のバックとともにプロジェクトX風のテロップ) 闇は去り、太陽は昇った ~平成の宗教改革~ 第二部 日顕宗の実態と 三代会長の宗教改革 所化教育の実態 (大石寺三門と富士山の画像をバックに) (女性ナレーター) 宗門では昔から、代々坊主の寺院を中心に派閥が形成されていた。 末寺で弟子を取るから派閥が生まれる。ならば本山で一括して弟子を取ろう。 こうして、昭和35年より、年分得度制度(ねんぶんとくどせいど)が始まった。 これは12歳の少年を対象に、一括して得度者を採り、本山で集団教育する制度である。 少年達は大坊と呼ばれる宿舎に寝泊りしての、修行の日々が始まる。 渡辺雄範 住職「本山に入って驚いたのは、まったくあの、江戸時代さながらの本山の状態でした。 言葉ひとつとっても『お目通り』とか『大奥』とか、まるで時代劇に出てくるような」 希望に燃えて本山に入った彼らを待っていたのは、法主(ほっす)や先輩に対する絶対服従と、暴力による制裁であった。 青年僧侶改革同盟(創価寄りの坊主組織)石井信広 住職 「僧侶として生きていく中でですね、まぁ重要なことということで、 あのー白い壁を指差してですね、これを猊下(げいか:日蓮正宗のトップ)が黒だと言ったら、黒なんだと、 絶対服従っていうことをまぁそこでまぁ叩き込まれるわけなんです」 (再現イメージ) 「オデマシデス」 (女性ナレーター) 所化たちは法主の前では「伏せ拝」と呼ばれる姿勢を取らなくてはならない。 それは心服随従を意味する姿勢である。 渡辺雄範 住職「まさしくあのテレビの時代劇に出てくるような、あの殿様に対するような態度です。 で日顕と道端で会った時には端座合掌(たんざがっしょう)といって、まぁしゃがんで合掌すると、本当に信じられないような世界でした」 (再現イメージ) 「南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~」 大坊では想像を絶するいじめが横行していた。 朝の勤行中、居眠りをする小僧は、情け容赦なく殴る蹴るの暴行を加えられる。 (居眠りをする小僧に向かって正拳突きで頭を殴ったり背中を蹴ったりする先輩のバイオレンス坊主) 渡辺雄範 住職「1年にですね何回か脱走事件があるんですね。 やはり、そういう本山のそういう暴力やいじめに耐えられなくて、 子供達が夜中逃げだしてしまうということも、度々ありました」 (再現イメージ) さらには、さしたる理由も無く先輩の所化(しょけ)から金属バットでお尻をフルスイングで叩かれることも、日常茶飯事であるという。 (パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆) (汗流しながらケツバットに耐える小僧。………ウホッ) 青年僧侶改革同盟 菅原雄政 住職 「まぁあの、教育、所化教育という、その「教育」という言葉が使われますけれども、 実際には教育というよう内容なことはほとんどないわけで、 言うことをきかなければ、まぁ暴力でそのーおさえつけると」 (再現イメージ) 10代の多感な頃に受ける教育は、その後の人格形成に大きな影響を与えると、兵庫教育大学・梶田学長は指摘する。 梶田叡一 学長「教育という名に借りてですね、自分が腹を立てた、 その腹を立てた気持ちをですね、子供にぶつけてです、子供をですねまぁ、結果としていじめる。 そのいじめられた子・虐待された子がね、大きくなっていってですね、 自分がですね教育する立場に立った時に同じことやるんです。 自分が腹が立ったからです、怒鳴りちらす。ある意味でこれも卑劣な話なんですね」 この異常な暴力体質の元凶はどこにあるのだろうか? 日蓮正宗改革同盟(これまた創価寄りの坊主組織)渡辺慈済 住職 「で日顕がなってからでしょ、そんな、日顕になってから暴力を振るうっちゅうことが、平気な人間を育てちゃったわけだな」 (再現イメージ) エア日顕「南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~」 午前二時半に行われる丑寅勤行(うしとらごんぎょう)。 東を向く日顕は、常に小僧達の様子を観察している。耐えかねて居眠りをする小僧を見つけた時… 丑寅勤行を終え、大奥へと戻る廊下で、いつもの『瞬間湯沸かし器』が爆発する。 エア日顕「おい!お前!誰が寝ていいって言ったんだ、YO!誰が寝ていいって言ったんだ、YO!」 小僧「はい」 エア日顕「貴様ァッ!」 小僧「はい」 エア日顕「YO!答えろ!YO!YO!YO!YO!…ハァハァハァハァ」 (坊主用の扇子(中啓)で小僧を殴りつけるエア日顕。途中、中啓が壊れる。 創価側の資料では、日顕が中啓で僧侶を殴ることを「中啓ミサイル」と呼んでいた、とされている。 中啓ミサイルの攻撃力低すぎィ!) そして次に日顕は、その頃得度したばかりの山口雄在住職に声をかけた。 エア日顕「あ~~。お前は、ユウゾン(雄存)だったな」 (エア日顕が山口ユウゾンの頭を中啓でペシペシ叩く) ユウゾン「いえ!雄在(有罪)でございます!」 エア日顕「なぁにぃ~!?キサマァ!お・ま・え・は!ユウゾン(牛丼)なんだ、YO!YO!!」 「貴様ァッ!お前は!ユウゾン(牛丼)なんだ、YO!」 (日顕また爆発して叩きまくる) 山口雄在 住職 「『おい!貴様は山口ユウゾンなんだYO!』 すみません…。私はあの、当時(リアル日顕と)目を合わせることもできませんし、 このいくら顔を上げろと言われても、この目を合わせて見ることができませんので、 必死に言われるまま、 『はい!山口ユウゾンでございます』 と言うしかありませんでした」 この屈折した大坊生活で叩き込まれるもの。 それは徹底した差別意識である。 『僧が上で信徒が下』 渡辺雄範 住職「まぁ私たちが出家した時に、まぁ一緒に出家した子供達を見てたらわかるんですけど、 まぁ初めはですね、例えば本山に池田先生が来ても、『あっ、池田先生が来た』という風に喜ぶ子もいましたした。 ところがですね、だんだん池田先生がですね「池田さん」になるんですね。そのうち「池田」になります。 で本山では、何て教えるかというと、『たとえ池田名誉会長でもお前達よりは下なんだ』と、という風に教えるんですね」 (女性ナレーター) 貧しき時代も知らないので、信徒のご供養に対する感謝の念も持たず、繁栄も当たり前のように受け止めていた。 日顕宗が主張する『僧が上で信徒が下』という差別感覚は、日本仏教界特有の檀家制度の弊害によるものである。 葬式仏教 (男性ナレーター) 日本における仏教寺院は、徳川幕府の時代に、民衆の支配するための権力機構に組み込まれた。 幕府は庶民を強制的に、いずれかの寺院の檀家とさせた。これが「檀家制度」である。 愛知学院大学 名誉教授 赤池憲昭 氏 「それはある意味で、えー…、社会的なしい政治的な意味で、 宗教が、ま、いわば日本に広がったということであって、 宗教を持っているその信仰の力が、仏教の信仰が 広がったということと、ちょっと違うんですね」 檀家制度は、一度入った寺から離れることが許されない、純粋な信仰心を蹂躙する悪政であった。 そして幕府は、キリシタンであるか否かを判定する権限を、寺院に与えた。 権力と結びついた仏教界は、布教を忘れ、葬式と法事が専門の『葬式仏教』へと堕落していく。 東洋哲学研究所 小林正博 主任研究員 (注:「東洋哲学研究所」はテチャクが作った組織で東京・八王子の創価大学の敷地内に存在する) 「東南アジアのあの南伝仏教の国っていうのは、 例えばタイにしてもミャンマーにしても、 出家者に対して、もう心の底から民衆たちが尊敬すると。 えー、そしてそこへ供養すると。 ま、韓国の場合には、あの僧侶が葬式にタッチするということはないわけですね」 (堕落坊主の浮世絵を背景に) 権力依存体質の行き着いた果ては、人の死を商売にする腐敗・堕落の姿であった。 それは同時に「日本仏教界の死」をも意味していた。 赤池憲昭 名誉教授 「今の坊さんにこんなこと言ったらお坊さんに怒られるけれども、 何やってんだかっていう坊さん結構いますよ。 お金を儲けることが坊さんの仕事だと。 しかし、口先では、ね、仏陀の教えはこうですよ、と言う」 (リアル日顕の映像を背景に) こうした死を商売にする檀家制度の弊害を、色濃く受け継いだのが日顕宗である。 日顕宗は「医師の塔婆を立てなければ故人は成仏しない」という脅迫商法まがいの邪義を述べている。 当時、学会の発展に伴い、塔婆供養は膨大な数となっていた。大石寺(たいせきじ)では1日に5000本もの申し込みがあった。 山口雄在 住職「ぇー、しかし、ま、それを書くのは高校生。 何かウォークマンを聞きながらであったり、 あるいは、お菓子を食べながらであったり、 信者さんには表向き見せることができないような 乱雑な字で書いているのが、実態でありました」 さらには、この塔婆を削って使い回しをしていたという。 坊主丸儲けとは、まさにこのことである。 また、その葬儀においても日顕宗は「僧侶が引導を渡さないと、成仏しない」との邪説を唱えている。 創価学会 斉藤克司 教学部長 「(日蓮)大聖人は、まず葬儀については、葬儀を執行すんのが僧侶だと、いうことは一切言われておりません。 釈尊の教えを見るとですね、『僧侶は葬儀に関わっちゃいけない』とまで言われているんですね」 (東京大学安田講堂の映像をバックに) 東京大学 市川教授はこう指摘する。 東京大学 教授 市川裕 氏 「それは金儲けのためなのかそうでないのかっていうのを、 あの信徒の側も見分けなきゃいけないわけですね。 衣を着た人が言うんだから、あのー、これは下手すると、 自分のあの成仏が関わ、関わってくるということになるとですね、 なかなかその…不正を見抜けない」 死を商売にする宗教と戦い、真の宗教を蘇られたのが、創価学会の歴代会長である。(そうなのー?) 学会の歴史はまさしく「宗教改革の歴史」そのものなのだ! (富士山をバックに) 三代会長による宗教改革 昭和5年11月18日、(日蓮)大聖人の仏法を基調にした教育改造を目指して、創価教育学会が設立された。 初代会長は牧口常三郎(まきぐち・つねさぶろう、1871~1944)先生。 戸田城聖(とだ・じょうせい、1900~1958)理事長との二人の活動から始まった学会は、 やがて仏法を根本とした公宣流布(こうせんるふ)の団体へと発展していった。 しかし、日本は国家主義・軍国主義の道をたどり、やがて戦争へと突入していく。 昭和14年には、宗教団体法が可決。国家による宗教統制が加速した。 (昭和)16年には、思想・宗教弾圧の法律である治安維持法が全面改正され、戦争遂行への思想統制が強化されていく。 そして、太平洋戦争が始まった。 学会の機関紙「価値創造」も翌17年廃刊に追い込まれる。 一方、軍部政府による弾圧を恐れた宗門(日蓮正宗)は、大聖人の教えさえ曲げて軍部にオモロッテ(おもねって)いくようになる。 この時代には不都合とばかり、大聖人が「末法の御本仏」としての確信を述べられた御文(ごもん)を中心に、御書の一部を削除した。 また、戦争を賛美する訓諭(くんゆ)を発し、戦意を鼓舞するとともに、信徒には伊勢神宮を拝むよう徹底させている。 こうした状況の中、牧口初代会長は、特高警察の監視の下、2年間で実に240回を超える座談会を開催し、正義を悠然と語り続けた。 市川裕 教授「外では戦争をやって、内では人権を蹂躙していたっていう、そういう時代ですから、 そぉう…その時にまさにその牧口・戸田の二人が出てきたわけですね。だからまぁ、日本が試されたという感じですね」 学会の登場で、檀家制度以来、数世紀ぶりに民衆が宗教の主役となった。 創価教育研究所 事務長 塩原将行 氏 「1対1の対話ってことが大事だっていうかたちで、 牧口先生は、「座談会」っていうことを大切にされたんだと思います。 で、それは決して座談会という場をつくるというよりは、 人との対話の中でその人を啓発していくという、 実は、この創価の座談会の運動論というものを生み出されたところに、 あのー、牧口先生の宗教改革の達見っていうのが あったんではないかっていう風に、私には思います」 宗門はこうした学会の行動が弾圧の理由になると、昭和18年6月、牧口会長に登山を命じ、神札(かみふだ)を受けるように申し渡した。しかし、牧口会長はそれを拒否する。 (牧口と戸田のイラスト) 「神札は、絶対に受けません」 下山の途中、牧口会長は戸田理事長にこう語った。 「一宗が滅びることではない。一国が滅びることを、嘆くのである」 「いまこそ、国家諌暁(こっかかんぎょう)の時ではないか。何を恐れているのか」と。 そして戦争はいよいよ激化していく。 7月6日、牧口会長は折伏(しゃくぶく)に訪れていた静岡県下田で検挙される。 同日に、戸田理事長も逮捕・拘留された。 罪状は、治安維持法違反ならびに不敬罪。 牧口会長の子息、洋三さんの夫人である金子貞子さんは翌日面会に飛んで行った。 金子貞子「玄関から入ってこうらせん的なこう階段だったんですね、 まわりにけっこう人が、警察の関係の人が立ってました。 あぁそれでその中でね、(感極まりながら) あの『決して心配することはない』っておっしゃってね、 んで、『信心だけは怠ってはいけない』という、 大きな声でね、私に向かっておっしゃいました」 慌てた宗門は我が身に累が及ぶのを恐れ、牧口会長らに対し、登山停止、末寺の参詣禁止という処分を下した。 警視庁で特高の取り調べが始まった。牧口会長は当時72歳、尋問は約2カ月半に及んだ。 牧口会長は検事に対し堂々と「立正安国論」を引き、軍国主義の誤りを述べ、仏法の正義を語っている。 のち、巣鴨の東京拘置所に移管され、3畳の独房での闘争が始まる。 牧口会長は獄中で多数の書簡をしたためた。 金子貞子「手紙の中に、いつもそのー 『自分がこういう中にいてもね、あの心しだいであのー…ホントに地獄も極楽にもね』 だっていうことを思いなされて、そのお手紙の中に書いてらっしゃいますね、 もう本当にね、あの、私は心を打たれましたね」 一方、宗門は、軍部政府に迎合し続ける。 全国の末寺に神札を祀るように指示を出し、本山では戦勝祈願の唱題会も行っていた。 まさに大謗法(だいほうぼう)にまみれた姿がそこにあった。 昭和19年10月13日、獄中からの便りが(牧口の)絶筆となる。 その末尾に、こう記されている。 「これゆえ三障四魔が奮起するのは当然で、経文通りです」 そして、約1カ月後の11月18日、東京拘置所にて牧口会長はその偉大なる生涯を閉じた。 その半年後、大石寺は大火事となり、時の法主・鈴木日恭(1869~1945)は焼死する。 それは、大聖人のお怒りがいかばかりであったかを物語る出来事であった。 (「ブレードランナー」っぽいサウンドと米軍の空爆) 昭和20年7月3日、豊多摩刑務所から戸田第2代会長が出獄。 獄中にて法華経をみで読み、地涌(じゆ)の菩薩の使命を自覚した戸田会長は創価学会の再建、日本の公宣流布に一人立つ。 生涯の願行(がんぎょう)として「750万世帯の折伏」を宣言した戸田会長は、本格的な弘経拡大に駒を進めた。 公宣流布の開始にあたって、戸田会長が真っ先に行ったことは、御書(ごしょ)の発刊であった。 戸田会長は、生前こう語っていた。 「牧口門下は教学がないから退転した」 戸田会長を深く信頼していた、宗門の碩学・堀日亨上人(ほり・にちこう、1867~1957)の監修を得て、御書発刊へ向けての作業は進められていく。 しかし、戸田会長と堀日亨上人との信頼関係と学会の前進を妬んだ宗門は、御書編纂の聖業を黙殺した。 渡辺慈済 住職「いや、あれは学会がやることだから勝手だよ。宗門には関係ないよっていう…。 御書を出すんだからっていえば、少なくても10人や20人の手伝いを教学部の方からまわしてくるのが本当でしょう。 それをしなかったところに、やっぱり教学部の狭さっていうか、 その一番のもとはやっぱり阿部日顕なんだよ。教学主任なんだから。 最後の最後まであれですよ、堀上人を苦しめたんだから」 戸田会長は戦時中、牧口会長を死に至らしめた宗門への怒りを生涯忘れなかった。 (『価値創造』11月号「牧口先生」より) 「先生の法難に驚いて先生を悪口(あっく)した坊主共よ、 法を捨て先生を捨てたる意久地無共よ。 懺悔滅罪(ざんげめつざい)せんと欲すれば 我等が会に来たって先生の威風を仰ぎ、仏の御訓(みおしえ)に随順すべきであるぞ。」 信徒が各家庭で朝晩の勤行(ごんぎょう)をするにしたのも戸田会長である。 それは、民衆が聖職者に騙されることなく、自立して信仰の実践を始めた「宗教改革」であった。 創価学会 谷川佳樹 副会長 「まさに一人一人が、地涌の菩薩の自覚でえー… 勤行をし、題目をあげ、折伏(しゃくぶく)をし、 自分たちの使命として闘争として、 大聖人の仏法を実践して世界に弘めていく、 自分も師匠とともに戦おうといううねりを起こして、 これだけの世界公布の未曽有の時代を開いた。 これが創価学会の宗教改革ということだと思います」 昭和27年には学会員4000人が参加し、立宗七百年祭が行われた。 その時、学会の青年部がある人物を探し出す。 戦前に「神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)」という邪義を唱え、 牧口会長らが投獄される因をつくった小笠原慈聞(おがさわら・じもん、1875~1955)その人であった。 青年部は小笠原慈聞に戦時中の邪義を追及する。 はじめはその非を認めなかった小笠原も、ついに牧口会長の墓前で謝罪文を書いた。 この行動は、のちに「狸祭り事件」(笠原事件)と呼ばれる。 宗門はこの学会の行動に対し、強い拒否反応を示した。 「信徒のくせに僧侶には向かうとは何事だ」、と。 そして宗門は宗会議員(しゅうかいぎいん)の決議により、戸田会長に対し登山を停止するとともに、大講頭をも罷免する。 戦時中に続き、創価学会にとって2度目の登山停止処分である。 当時の聖教新聞の「寸鉄」に戸田会長はこう記している。 (注:「寸鉄」は聖教新聞1面に掲載されるコラム欄) 「三類の悪人の仕業の中に『遠離塔寺(おんりとうじ)』と言つて寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。」 「折伏も出来ず、御衣(おんころも)の権威で偉(い)ばること許(ばか)りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。」 登山停止を撤回させるために宗会議員の寺を一件一件まわったのが、若き日の池田名誉会長を中心とした青年部であった。 そして、全面取り消しを約束させた。 750万世帯の偉業を達成した戸田第2代会長は、昭和33年3月16日、後継の青年に公布の一切を託す。 「追撃の手を緩めるな」との遺言を残し、4月2日、安生(あんじょう)として霊山(りょうぜん)に旅立った。 (♪威風堂々の歌) 昭和35年5月3日、池田先生が創価学会第3代会長に就任。 戸田第2代会長の意思を継承して、公宣流布(こうせんるふ)の陣頭に立つ。 ヤングテチャク「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、 化儀(けぎ)の公宣流布(こうせんるふ)を目指し、一歩前進への指揮を 執らさせていただきます!」 (拍手) (注:ヤングでスリムなテチャク先生の映像は結構レアでお宝物だと思います) この第一声の獅子吼(ししく)から、学会の新たな前進が始まった! (昭和35年10月2日 初の海外指導へ) (飛行機のタラップでドヤ顔で手を挙げるヤングテチャク) そして、恩師の遺言であった世界公宣流布への一歩を踏み出す。 「東洋に、そして世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」 「君の本当の舞台は世界だ」 (旧ソ連 コスイギン首相(1904~1980)や中国 周恩来首相(1898~1976)とテチャクの握手・会談映像) 師匠・戸田城聖会長の願行を一身に背負ったその戦いは、全世界を舞台にしての公布の胎動を開く壮絶な戦いであった。 同時に、真の僧俗和合を目指して宗門の外護の赤誠(げごのせきせい)を貫く。 これにより宗門は未曾有の発展を遂げていく。 (昭和47年10月 正本堂建立) 昭和47年10月、全世界800万信徒の真心のご供養によって公布の殿堂たる正本堂が完成した。 民衆の民衆による民衆のための殿堂である正本堂は、まさに全世界に開かれた「民衆立の戒壇」であった。 しかし、この頃から宗門と創価学会との間で、公宣流布に対する考え方の違いが浮き彫りになってきた。 創価学会 原田稔 副理事長 「このできあがった正本堂のあの盛儀の時には、 えー世界各国の外交団、日本の外交団の数多くの人たちが、 えー来賓として参加したし、 また、その間においても様々な意味で、 (池田)先生の世界的な活躍がある。 そういう姿に宗門としては間違いなく、 このえー先生の存在というものに嫉妬を抱いてきた。 そしてまた、あれだけの素晴らしい正本堂を建立するという、 学会の底力というものにある意味では、コンプレックスを抱いた。 そうした大きな隔たりのもう最大の原因がそこにあったのではないかと…」 (不穏な音楽) この、反学会感情を利用し金儲けを企んだ男がいる。 山崎正友。 学会出身の弁護士でありながら学会に対し、億単位の恐喝を行い、懲役3年の実刑判決を受けた男。 昭和50年頃、学会が静岡県富士宮市に建設した墓苑の建設計画を巡って、 山崎は地元の有力な実業家と癒着、土地ころがしやリベートを受け取ることによって、巨額の裏金を手にした。 金儲けに味をしめた山崎が考え付いた策略が、宗門と学会を支配すること。 宗門の権威を使って学会を操ることができれば、大金を得られるという妄想に取り憑かれた。 原田稔 副理事長 「宗門側には、このー学会の、 えー反学会感情をあおるような、そういう情報を流して。 そして、えー宗門側には、 『自分が参謀役となってえー学会との関係をおさめますよ』 ということをいいながら。 そして、学会側には、えーまったく知らぬ存ぜぬのそういう顔をしながら、 『私がおさめましょうか』 という風に乗り出してきたと。 まさにもうマッチポンプなどという言葉ではこの表現できないぐらいの謀略の男」 山崎は信者から告発を装った謀略書簡を宗門内部に持ち込んだ。 それは「学会が宗門支配を企んでいる」とのデマ文書であった。 さらに山崎はマスコミを利用し、度重なるデマを流すことで、宗門に学会への不信感をあおりたてる。 山崎のマッチポンプ手法に撹乱された宗門の反学会感情は全国の末寺にも飛び火していった。 原田稔 副理事長 「かなり数多くの連中が、 えー当時、流布された週刊誌を振りかざしながら、もう 『創価学会を辞めなければ成仏できない』 とか、あるいは、 『創価学会を脱会しなければ葬儀に行ってあげないぞ』 とか、こういう脅かしをかけてきた」 (随筆 新・人間革命より引用) 「私は苦悩した。 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛められることだけは、防がねばならない。」 昭和54年4月24日、どこまでも公布のため、僧俗和合を願い続けてきた池田先生は、第3代会長を勇退、名誉会長となった。 (テロップ:随筆 新・人間革命 昭和54年5月3日) 「学会伝統の総会も…宗門の"衣の権威"の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。 しかし、私の見つめる同志の目は真剣であった。 体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、 けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない」 その後、池田名誉会長は神奈川文化会館へと向かう。 そこで名誉会長は『正義』の文字をしたためた。 「われ一人正義乃旗持(たも)つ也」 そしてただ一人、反転攻勢への戦いを開始したのである。 創価学会 大場好孝 副理事長 「『指導してはいけない』『先生と呼んではいけない』『先生の写真を載せてはいけない』。 そういうことをー…まぁ理不尽な要求が出されておりましたんで、 先生は『指導をしていけないのならばあぁー…記念撮影をしよう』と。 それから『話してはいけないというのならばピアノを弾いて激励しよう』と。 それから『会合で話してはいけないというのならば、家庭訪問しよう』と。 こう言われて先生は、あー、実行されました」 (テロップ:神奈川静岡合同協議会 平成18年1月) 「神奈川文化会館の前から、海を見つめて、 これからの全世界に指揮を執ろう! そう決意していたのである」 神奈川文化会館、創価大学、そして立川文化会館を拠点に、正義の闘争は続いていく。 (扇子を持って踊るテチャク、座談会で語りかけるテチャクの映像インサート) (テロップ:随筆 新・人間革命 我が闘魂の勝利城・立川) 「もう一度、新しい創価学会をつくり直す覚悟で (インサート:後にニコニコで発掘される「美味しそうだねー!」と言いながら創価学園の生徒にもんじゃ焼きを手際よく焼くテチャクのお宝映像) 一人、また一人と、同志を励ますことから始まった 私は、徹して同志のなかに飛び込んだ 会うこと、それ自体が戦いであり、一瞬一瞬が真剣勝負であった」 卑劣な坊主や反逆者をものともせず、池田名誉会長と会員の絆はさらに強靭なものとなった。 名誉会長のこの戦いがあればこそ、嵐に揺るがぬ不滅の師弟の城は築かれた。 (雪の中で学会員の皆さんと一緒に右手を高く掲げる、白いコートを着たテチャクのお宝映像) 第二部 完
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+女帝没後の政局 女帝没後の政局 称徳天皇の皇嗣には藤原百川らが支持する白壁王が立てられ、光仁天皇となった。 彼は先ず、銅鏡とその一派、及び皇嗣となる際の対立候補を支持した吉備真備らを政界から一掃、また聖武天皇の娘でおのれの妻である井上皇后と子の他戸皇太子を幽閉し山部親王を皇太子に立てた。後の桓武天皇である。 彼光仁天皇以下の政権は、「官人がやたらに多く、人民を食いつぶしている」と指摘、官人削減の方針を採り、人民を苦しめ、農業生産を痛めつける雑徭について、兵士数を減らし、徴兵も「殷富百姓」からのみ行うとした。 「殷富百姓」とは、農村に於ける支配階級的存在であった。 この時代、個々は独立していた農民を、大化以前からの土着勢力である「土豪」、およびその周辺の有力農民が束ねていた。この有力農民が「殷富百姓」である。 かれら土豪や殷富百姓は、口分田を放棄した農民や浮浪人を組織し開墾をしたり、有力な寺社や貴族の土地開墾に絡んで勢力を伸ばした。 北方、蝦夷の地では伊治公呰麻呂が胆沢を中心に反乱を起こし、多賀城を攻略した。 彼は胆沢周辺の地域の長であったが、朝廷に下り外従五位下を叙せられていた。 が、朝廷から派遣されてきた仕事場の同僚や、陸奥按察使紀広純らに夷浮として辱められていた事などから部族の元に帰る決意をした。 (NINN) +桓武天皇の登場 桓武天皇の登場 老いた光仁天皇は反乱の一報にひどくショックを受けた。それでも老体に鞭打って政を行っていたが、気力尽き果て山辺親王に譲位、桓武天皇となった。 彼は前光仁天皇の政治路線を引き継ぎ、まず朝廷内の改革に取り掛かった。 天下の民を食いつぶしている過多の官人を辞めさせる方針を出し、2省2司を廃した。 この時、造営省を廃しているので、まだ遷都は考えていなかったのであろう。 また、調、庸の収奪に力を注ぎ、税収システムを揺さぶる土豪、殷富百姓を牽制した。 同時に彼は征夷の準備にも取りかかった。 先の乱により、胆沢を中心に結束を固めていた蝦夷側に対し、乱後ふるわなかった征東軍を解体、新たに大伴家持を鎮守府将軍とし、次なる攻撃に備えた。 征夷事業に刺激されるように、遷都問題が持ちあがった。 これをバックアップしたのは百川の甥、種継で、造営使に任命された。 遷都の主な理由としては、先の章で述べた井上皇后らの亡霊が揺曳し、千の無能の僧どもが跋扈する平城京から脱出するためである。 彼は急ぎ長岡京造営に取りかかった。が、785年、造営使種継が暗殺された。 捜査の結果、大伴、佐伯両家を始め多くの者が処罰され、桓武の弟、早良皇太子も罪に問われ、憤死した。 結果、桓武の子が次の皇太子となったが、この事件は桓武の血筋を天皇とする為のでっち上げ立ったのでは無いか、と筆者は述べている。 (NINN) +征夷大将軍坂上田村麻呂 征夷大将軍坂上田村麻呂 征夷大将軍坂上田村麻呂・・・4代前は壬申の乱で名を上げた老(おゆ)、父は先の藤原仲麻呂の乱などで活躍した苅田麻呂、武官の一族である。 782年に鎮守府将軍に任命された大伴家持の後をついで、788年、多治比宇美が職に就いた。 今度の徴兵は坂東の他、東日本全土から5万2千余りが徴発され紀古佐美がこれを率いることとなった。 789年、胆沢を目指して北進を開始したが、大きな戦闘はなかった。都からの要請で漸く精鋭6千が進軍した。が、川を渡っていた最中に、阿弖流為率いる蝦夷軍が山の陰から急襲、征東軍1000名以上を川に沈めた。大敗を喫した征東軍は帰郷。紀古佐美も都へ帰った。 こうして刃を交えた双方だが、蝦夷人と公民の間ではなごやかな交易が行われており、蝦夷人が鉄を入手する機会となっていた。 また、蝦夷人も陸奥国府に下ると「田夷」と呼ばれ「山夷」と区別された。彼らの間に入植したのは、クーデターの失敗などで没官、平民にされた者が送られていた。 「田夷」となった蝦夷人は支配者から貢物にもなる馬の飼育を勧められた。 かれら蝦夷人はこの馬を用いて連絡を取り合い、それぞれが独立していた蝦夷の諸集団をまとめ、朝廷軍の攻撃に耐える生命線を築いていた。 789年の第1回目の攻撃に失敗した朝廷は、794年に再度進撃するため、今度は2倍、10万を徴発するとし、財のある公民には甲を造る事を命じた。が、これは凶作と疫病にあえいでいた農民を苦しめる事となった。 794年、第2回目の攻撃も遂に蝦夷側の本陣胆沢に届かなかった。この際、征東副使に田村麻呂が任命されていた。 (NINN) +平安京の建設 平安京の建設 種継の暗殺、早良親王の死、相次ぐ皇族の死など、長岡京は汚されてしまった。また、造営の為に徴発された役民も、逃亡する者が多く、工事もなかなか進まなかった。更に疫病も流行り、多くの死者を出した。 桓武はこれを死んだ者達の祟りと信じてやまなかった。 天下の公民に更なる負担を強いるとしても、桓武は遂に2度目の遷都を決意した。 これを和気清麻呂がバックアップし、造宮使に任命された。 794年、第2回蝦夷攻伐の頃、急ピッチで新都造営がすすめられ、桓武はひとまず皇居が落成した平安京に移った。但し、それ以外の建物の工事は、未だ全く手がつけられていなかった。 とかく、桓武は2度の造都と、蝦夷攻伐に力を注いだ。結果、国家財政は行き詰まり、地方官の精励に期待するほか無かったが、彼らは彼らで、特権を振りかざした土地開墾で私服を肥やすことに力を注いでいた。 彼らは開墾した土地と共に土着化し、国司の交替を渋るようになった。 これを督察する為、政府は勘解由使を設置。また、地方に問民苦使を派遣、地方民の苦情を受け付けたが、国司の乱脈ぶりに手を打つことが出来ず、軽度の営田などの問題は見逃すほか無かった。 班田収受も行ったが、従来の6年1度を保てなくなっていた。 前章にもあったが、雑徭の軽減も行った。というのも、雑徭や出挙の為に口分田を捨てて逃げ出すものが多かったからである。 調・庸を確実に収奪するため、彼ら浮浪者を検挙したりしたが、根本的な解決には至らなかった。 桓武朝の政治は軍事(蝦夷攻伐)と造作(造都)の強行と停止に尽きると思う。 強行は上記のとおり、農民の疲弊にもかかわらず行った攻伐、造都である。 病の床に伏した桓武は、宮中の論議の際、農民の負担軽減のため、軍事と造作の停止を提案し、806年に逝去した。 (NINN) +平城上皇の変 平城上皇の変 平城上皇の乱 桓武の後を継いだ平城天皇はまず、即位5日にして六道観察使を各道に送った。 これは、問民苦使と勘解由使を合わせたようなものであった。 これにより私腹を肥やす国司・土豪・裕福な百姓をの不正を正したが、それ以外の面では殆ど成果がなかった。 807年の終わりごろ、皇族の重鎮伊予親王が謀反の罪に問われ幽閉の憂き目にあい、自害した。これに連なり藤原南家の大官2人が没落した。 事件の背景には種継の子、仲成・薬子がいた。薬子は藤原縄主の妻でありながら、平城天皇の寵愛を受けており、彼らはこの事件を契機に更に天皇に接近、薬子の為に仲成も大幅に昇進している。 809年、平城は体調不良を理由に弟賀美能親王に譲位、嵯峨天皇として即位した。 皇太子には高岳親王がたてられた。 天皇側は、上皇になった平城の命に従い、旧平城京の地に宮を築いた。 この平城の宮と平安京をさして「ニ所朝廷」と呼ばれたりした。が、平城の宮は少数の官人グループが居たのみで、政府機能は持って居なかった。 翌年、平城上皇は平安京を廃し、平城京に遷都するように命令した。これに対し、天皇側は、信頼の篤い田村麻呂などを造営使の名において平城の地に送り、上皇をけん制した。 また、旧三関などを固め、平城上皇と繋がりのあった仲成を捕らえ、射殺した。 平城上皇は挙兵を決意して東国へ向かおうとしたが、朝廷軍に行く手を阻まれ、悪あがきの内に終わった。 天皇は上皇を罪には問わなかったが、上皇の子、高岳皇太子を廃し、大伴親王を皇太子につけた。 (NINN) +内裏・院・神泉苑 内裏・院・神泉苑 嵯峨・淳和・仁明天皇の治世、承和の変に至るまでの割と平穏な33年間について述べている。 まず、地方に於いて、農民たちは地方官(富を蓄えた彼らの勢いは、この章の最後3節に記されている)のサボタージュにつけこみ、戸籍調査にて老人の戸主と女、子供ばかりの家であると記載し、正丁にかかる諸税から逃れようと必死であった。対して政府も、農民の生産力を上げようと水車の普及などに努め、長い間の問題である治水、池溝の保全について法を定めた。 また、私服を肥やしてばかりの地方官の間にも時々善政をしく者が居た。彼らは「良二千石」と持て囃された。 京では治安対策として新たに検非違使をおき、警察権の一部を握らせたが、その権力が拡大、司獄・行刑にまで力が及ぶようになった。 また、桓武朝で停止された「軍事」を引き継ぎ、征夷大将軍文室綿麻呂が北進、閉伊・爾薩手方面に進撃した。 802年、嵯峨は弟に譲位、淳和天皇が即位した。彼は特に目ぼしい政策を打ち出すでもなく、10年の治世の後譲位、仁明天皇が即位した。 彼らは執政よりも「山水に詣でて逍遙し、無事無為にして琴書を翫ぶ」事を欲していた。 また、彼らの頃から臣籍に下った皇族、嵯峨源氏などが政治の舞台に現れ、藤原諸家の冬嗣、園人、緒嗣ら、小野岑守などと共に天皇に代わって政を司った。 光仁・桓武朝から嵯峨・淳和・仁明天皇の3代を経てその後に掛けて、日本書紀など「六国史」が作られた。 また官府的編述事業が成果を挙げ、これまでの政治のある総括となった。 (NINN) +最澄と空海 最澄と空海 八世紀中期以降、政府がしばしば問題にしていた僧侶の堕落とは、主として次の二点であった。すなわち、仏法を脱税のための看板として利用していたことと、政治への介入である。 光仁天皇は僧侶の政治介入を完全に排除し、山林修道をゆるした。そして、私度僧をとりしまった。桓武天皇の仏教対策は父天皇の方針をうけつぐものであり、また厳しく寺院の経済活動に圧迫を加えた。それらは、より根本的には、桓武とその政府の土豪・有力農民との対決の一局面であった。 他方、そうした平城京の諸寺での生活に安んじることのない者は、山林にこもって仏道に精進した。最澄と空海もまた、そのような求道者のひとりであった。 七六七年、最澄は生まれた。僧となり、比叡山に入った。鑑真のもたらした典籍の天台宗にかんするものに導かれ、関心を深めていった。空海の誕生は七七四年である。はじめは学問の道を志したが、仏門に入り、山林の徒となった。そして「大日経」を発見し、密教への関心をわきたたせた。 二人は、桓武天皇の特旨により、八〇四年の遣唐使の一行にくわえられた。最澄は八ヵ月、空海は足かけ三年、それぞれ唐で学び、典籍や仏像・仏画などを持ち帰った。 最澄は八〇五年に帰来し、天台法華宗の開立を勅許され、比叡山寺をその本拠とした。空海は八〇六年に帰朝し、嵯峨天皇の愛顧を受けた。八一〇年には高雄山寺での修法をゆるされている。 最澄と空海は、当初は協力関係にあったが、その後に不和が生じた。 最澄のなした東国巡化は、土豪・有力農民にも感化を及ぼし、本山と末寺の関係を形成する契機を築いた。また、最澄はその後、南都の仏徒と教義上の論争を繰り広げた。 最澄が八二二年に亡くなった後、嵯峨天皇によって大乗戒壇の設立がゆるされた。八二三年に比叡山寺は寺号を延暦寺とあらためた。 空海は高雄山寺をおもな拠点とし、真言への布教にしたがった。後に、嵯峨天皇から高野山を与えられ、そこを本拠となす。八二三年に、嵯峨天皇から東寺を与えられた空海は、そこを密教化した。八二六年に、教王護国寺と寺号をあらためた。空海は、密教芸術にも新風をもたらしている。 天台、真言の開宗は、平安朝初期の天皇たちの積極的な庇護という世俗的外力によるところが多い。その宗義は鎮護国家をうたい、桓武以下の歴代天皇の仏教統制に対応・協力し、それぞれ独自のゆきかたで推進した。 最澄は論争によって、空海は懐柔によって、伝統的な南都勢力に対応した。その影響で、旧大寺の学僧たちもみずからを教団に組織することとなった。 また、新宗の創始者たちは、一切衆生成仏説や即身成仏というテーゼの力説において、仏教が民衆の生活・精神をよびさます可能性をはらませた。 最澄の死後、円仁によって天台宗はいちだんと密教化され、教団の力は強大となった。空海の死後、真言宗は天台に比べふるわなかったが、東寺の存在は、ぬきがたい伝統と力を擁していた。 真言・天台の二宗は、教団創設の直後から寺領の拡大に力をいれた。新興宗派の根本道場は、はやくから道・俗両界を圧する庄園形成者の相貌をおびていた。 (Shade) +王朝の詩人たち 王朝の詩人たち 嵯峨天皇は唐風文雅への傾向をみせていた。 最初の勅撰漢詩集『凌雲集』は、嵯峨天皇が小野岑守に詔を下し、菅原清公、勇山文継らとともに編成された。 桓武、嵯峨の時代に、唐風化を推進したパイオニアとしては、仏教界の最澄・空海、儒林の菅原清公、政界に藤原冬嗣・小野岑守らをあげうるであろう。 八一九年の嵯峨天皇の詔書により、天下の儀式、男女の衣服、五位以上の位記は唐風となった。また諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額をかかげた。七世紀以来の唐風の模倣は、律令の諸制度・宗教と学問から、宮廷行事の形式にまでひろくおよんできた。 宮廷の公けの場で詩賦が行事となり、筆蹟に美をもとめる傾向が強くなった。嵯峨にはじまる三代にいたって、書道の世界がひらかれた。空海・嵯峨・橘逸勢をくわえて三筆という。これも唐風受容の一側面とみなせる。 また、八世紀の初頭に唐帝国の支配から脱して独立した渤海との交歓も行われた。 (Shade) +応天門の炎上 応天門の炎上 嵯峨上皇が八四二年に没し、その二日後、仁明の政府は伴健岑、橘逸勢らを逮捕した。仁明天皇には皇太子恒貞親王と、良房の擁する長子道康親王がいたが、伴健岑と橘逸勢を謀叛人と断じて、その責を恒貞親王にも問うことで、皇太子の地位をうばいさったのである。数日後に良房は大納言となり、源信は中納言に、源弘、滋野貞主は参議となった。翌八月に、仁明天皇は道康親王を皇太子にたてた。これが承和の政変である。 承和の変は、政治疑獄くさい。良房は、阿保親王の密書を手がかりとして、皇室の大家父長制に入り込み、嵯峨源氏との結託をいちだんと深めた。また同族の高官で競争相手の二人を政界の外に追い出し、古い名門である伴・橘の両氏に一撃をくわえた。 良房は冬嗣の二男である。 かれは淳和朝で蔵人になり、東宮亮として皇太子時代の仁明と親密な関係をつくり、その即位に際して蔵人頭についた。まもなく三十一歳で参議に、その翌年に権中納言となった。 承和の変において、良房は仁明天皇・皇太后嘉智子に働きかけ、藤原一門の政敵を政界から放逐した。官職の方面においても、大納言のほかにも要職を経ていた。 良房は恒貞親王を皇太子の地位からおいはらい、妹の腹にうまれた道康親王をあとがまにすえ、自らの娘である明子を皇太子の宮にいれた。道康親王(文徳)と明子の子が惟仁親王(清和)であり、こうして良房は天子の外戚となった。 仁明帝が四十一の壮齢をもってたおれ、道康親王が即位し文徳天皇となった。文徳朝の初政には、政策において新味はなく、仁明朝末期からの政治や治安の乱れは一層ひどくなっていた。班田については良房の全執政期を通じていちどもまともに問題にされていず、地方行政における中央政府の指導性は、意外なほどこの時代に後退している。 こうした情勢の推移の中、良房は八五七年、左大臣をへないで太政大臣となった。その主な理由としては、かれが天皇の外舅にあたるためであった。 八五八年に文徳天皇が死去し、惟仁親王が即位し清和天皇となった。かれはそのとき九歳であった。幼帝清和については、良房の専横によるものとして世上の不評がつきまつわっていた。清和の妻は良房の姪(養嗣子である基経の妹)の高子である。良房は、幼帝出現の日から摂政としての役割をになった。 清和期の良房による政治指導は、文徳期の延長としてしか評価できない、事なかれの消極的なものであった。班田は放置され、戸籍計帳の制度もひどい状態であり、国司の不正は横行した。律令国家による公民の支配はくずれていった。 貞観の初年は不作続きで疫病もはやった。都の人々はこれを御霊の祟りとして、御霊会をおこなっていた。ここにいう御霊とは、崇道天皇や橘逸勢など、いずれも宮廷における紛争の渦中に憤死した人である。 八六三年、朝廷でも神泉苑において盛大な御霊会をもよおした。民間では、こうした御霊会はながくつづいたが、政府のがわは、いつもそれにたいして警戒的であった。 八六六年、太政大臣の染殿第における天皇らの花見の盛儀から十日後の夜、応天門が炎上した。その直後、大納言伴善男は右大臣良相に対し、失火を左大臣源信の所為であると告げた。良房はこれを知り、天皇のもとに人をおくって左大臣の無実を主張させた。 その五ヶ月後、大宅鷹取というものが伴善男とその息中庸らが共謀して応天門に放火したと密告した。伴大納言らは犯状を否認したが、九月の末に朝廷は、善男・中庸ら五名に応天門放火の罪をかぶせ、遠流の刑に処した。その累は古来の名門たる伴・紀の二氏におよんだ。 貞観の政府は伴大納言家の私財を没収して国家の用に供したが、それは多様で豊富だったようだ。 晩年の良房が強い関心を示したのは、法制と修史であった。 『貞観格式』は、右大臣藤原良相が太政大臣良房と協議し、天皇に奏して、八二〇年以後八六七年までのほぼ半世紀間の格・式を編集したものである。 また、八六九年に完成した『続日本後紀』二十巻は、良房のもとで編纂されたいわゆる「六国史」の一つで、仁明天皇の治世を対象としたものである。 八七一年に応天門は再建された。翌年九月、良房は病死した。 良房の執政の特質は仁明時代の政治の延長というほかはなく、新しい施策にとぼしく、法制・修史の事業を持って朝政をかざりたてた。それとともに、かれは平安朝における最初の太政大臣の地位につき、天子の政を摂行して人臣摂政の先例をひらき、藤原氏による摂関政治の前提をつくった。 (Shade) +関白藤原基経の執政 関白藤原基経の執政 太政大臣良房に代わり政界の大立者になったのは、基経であった。かれは政治家として非凡の器であった。 貞観の末葉は、世情には不穏のムードがただよっており、火災が多かった。八七六年には大極殿が焼け落ち、清和はこれらの火難でつよい打撃をうけた。大極殿焼失の七ヶ月後、清和天皇は皇位をすてた。ときに二七歳で、高子の腹にうまれた皇太子貞明親王は九歳であった。この幼帝を陽成という。 文徳の若死にによる幼帝の出現と、基経の摂政をあてにしての清和の退位は、事情がすこぶる異なっている。幼帝の即位と人臣の折衝が慣行化への一歩をふみだしているのである。 陽成期において、京・機内の民心は安定を欠いていた。公卿は常平司を新設し、官米を売り出して米価抑制にのりだすとともに、河内・和泉の二国に特使を派して、貧民救護にあたらせた。八七八年、出羽国の蝦夷と俘囚が蜂起し、秋田城を急襲した。出羽国府がこの動乱に対してお手上げだったため、基経らの政府は藤原保則を出羽権守に任じ、討伐にあたらせた。 保則は備中・備前の国守として善政をうたわれた人物であり、寛政によって夷を降した。保則が武力による大反撃をくわだてなかったところに、桓武の時代とは異なる国家権力の限界があらわれている。 良房・基経の執政をあわせて前期摂関政治というが、基経は停滞した国政のマナリズムを打破しようという意欲をみせはじめていた。夷俘の反乱が、かれを国政へとたちむかわせる原動力となったのである。 八八六年、出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書がだされたが、そうした際に、高尚・春風そして保則といったすぐれた経験者の所見を聴取して政府の断案の資料にしたところに、基経の国政への意欲がうかがわれる。 基経が征夷と同時にくわだてた大事業は、班田収受の実施である。五十年ぶりのことであった。基経は、律令制の基礎をなす土地の関係の弛緩に対処しようとしたのである。 この五十年間に生まれた大部分の農民は国家から土地を分け与えられず、土豪・有力者から土地を借りるか、貴族・寺社の庄園につながれた。かれらは、田租とは比較にならぬ高率の地子稲を収奪されることになった。 また、戸籍の制度がくずれ、中央政府は浮浪人対策がたやすくうちだせなくなっていた。 八七八年に朝廷は五畿内の国府にたいして校田(土地調査)を明治、翌年には班田使の任命があった。土豪・有力農民は、班田中絶のあいだに口分田をうばいさり、自己の農業経営の要地に編入していた。班田を歓迎していなかったかれらへの対処が必要だったのである。 五十年めに、基経らの政府が班田収受を断行したことが、律令的支配の瓦解をくいとめるために何ほどかの寄与をしたと判断できる。それは中央政府の、新しい勢力との農民の生産を場とした抗争でもあった。 清和上皇の死の直前、基経は太政大臣に任ぜられた。 八八三年、陽成天皇と基経とのあいだが疎隔し、険悪になった。太政大臣は天皇に対し、ボイコットの戦術をとった。そして八八四年、陽成天皇は譲位の旨をしたためた書を太政大臣のもとにとどけさせた。 基経は、後継者として、仁明天皇と藤原沢子を父母とする時康親王を選んだ。このとき親王は五十五歳で、一族の間ですこぶる評判がよかったらしい。こうして光孝天皇が即位した。 老天皇は親政を行うことを避け、太政大臣のポストにおいて万機の統裁を基経にゆだねる旨の宣明をした。 光孝天皇の治世はごく短かった。不況により強盗・殺傷の事件があいつぎ、妖怪談がはびこり、大地震や大風雨がおきた。こうした天変地異の恐怖のなかで天皇はしだいに気力をうしない、危篤の状態におちいった。 光孝天皇の次に即位したのは第七皇子であった定省であり、これを宇多天皇という。このとき二十一歳であり、基経とのあいだに外戚の関係がまったくない。 即位の後、宇多が参議橘広相に作らせた基経への勅答に、「阿衡」という文言があった。紀伝博士の藤原佐世の説によれば、阿衡とは位が高くとも職掌がないものということであり、これが天皇と太政大臣の確執となった。結局のところ、天皇は阿衡の言葉の失当を認め、基経の圧力に屈服した。この一連の事態を阿衡の紛議という。 阿衡の紛議は若い天皇の心に大きなシコリを残し、それが宇多を仏道に深入りさせる要因になったようである。この時期に、かれの発願によって京の西山に仁和寺が新造されている。宇多は父帝の時代のように国政は基経にゆだねて、文雅の一事に心を傾けた。 関白太政大臣藤原基経は、八九一年に五十六歳をもって死去した。 (Shade) +多恨の歌人在原業平 多恨の歌人在原業平 在原業平は専門の歌人ではなく、朝廷の高官であり、歌は私生活のなかの心のすさびにすぎなかった。かれは、詩人としての天賦をその歌作に示した平安貴族の一典型であろうが、そうした貴族のタイプは、平安朝の業平以前にすでに出現していると考えられる。万葉最後の歌人、大伴家持である。 業平は恋の遍歴と歌において、宮廷人のあいだではスター的存在であったが、権栄の座からは疎外されていた。在原氏の五男のかれは、ついに右近衛権中将どまりであった。 (Shade) +受領と郡司・百姓の抗争 受領と郡司・百姓の抗争 この時代、地方における土豪や有力農民の基盤は、在地にひろく根をはった農業経営そのものであり、かれらは豊富な労働力を支配していた。一般農民の困窮と礼楽が、かれらの農業経営をますます拡大させる。 土豪・有力農民は中央省庁にツテをもとめその下僚となり、あるいは大官の家につかえて平安京に移住した。上京した土豪・有力農民はしばらく出仕して、やがて郷里にたちかえった。そして、脱税のために名ばかりの官職を悪用した。 また、出家をめざす地方人もふえた。坊主どもも国家の見地からいえば脱税者である。これらが農民にシワヨセされていった。 地方の豪族や農民は、国司への対処の仕方を脱税や権門勢家との結び付きにもとめたが、一般農民のばあいは浮浪と逃亡の行動によった。 嵯峨以後の親政三代、さらに良房・基経の執政気になると、国司のなかで、現地に行かずその得分だけをふところに入れるものがふえた。これを遥任という。 それに対し、任地に出向いて地方行政にあたる国司のことを受領とよぶようになった。かれらは徴税請負人にちかい官人であった。 受領は、地方の豪族・有力農民の武装抵抗に対抗するために、それぞれの規模の私的な従者群を編成しはじめた。それを郎等(郎党)という。九世紀後半以降の受領たちは、こうした力をも行使しながら、もっぱら法外な徴税に狂奔した。 郡司はだいたいその地方の名望家であり、国造の系譜をひく者が多かった。中央政府は地方行政を国司にゆだねたが、在地の土豪を郡司にすえて、その強大な勢力を利用した。 郡司は受領の専横にたいして内心ではつよく反発していたが、通常は協力的であった。受領が天皇を頂点とした権力組織に身をおいているからである。 九世紀後半になり、土豪・有力農民が農業経営を拡充し、受領の力をおそれないていどまでに成長してくると、受領と地方民との板挟みになっていた郡司は、地方民の側につくようになっている。 地方の豪族・有力農民と受領との対立をいっそう深める要因になったものは、従来の人頭税を一種の土地税に変えたということであろう。戸籍の制度がくずれ、国府は精確に部内の公民の人口をつかめなくなっていたが、土地に税をかければ、そうした問題は回避できる。 受領の攻勢にたいし、地方民は電池を権門に寄進して庇護を求めた。こうして寄進地系庄園といわれるものが、九世紀後半から諸国に出現した。諸院・諸宮・王臣家あるいは寺社は、この形成に乗じて庄園の獲得に熱を入れるようになった。 受領と地方民との対立が、公然たる抗争の姿をとって政治の次元に浮かびあがってくるのは、九世紀後半の文徳・清和朝の一時期である。 その構想には、地方民のある集団が国司の館を襲撃して受領らを殺傷するゆきかたと、土豪・有力農民が武力の行使を避け、中央政府にむかって受領の非法について陳情し、免職をねがう、いわゆる愁訴の方法という、二つの行動様式があった。 前者の事例では、郡司が首謀者であり、国府の内部に分裂がふかまっていることがうかがわれる。 後者の事例では、ほとんどのばあい、訴えられた受領のほうがまけている。この年代以降、愁訴事件はくりかえされ、道長・頼道のいわゆる摂関時代にそのピークに達する。かれらの愁訴によって、かなり多くの受領が罷免されている。 このように、在地の土豪・有力農民らの階層は、経済的に伸びてきただけではなく、政治の力をいちだんと高めてきたのである。 それが、親政三代ののちの良房・基経の執政期に生起した地方の新しい政治情勢である。 (Shade) +時平と道真 時平と道真 藤原基経死後、宇多天皇は親政を開始し、藤原時平の他、藤原保則や菅原道真を登用して北家・時平の対抗とした。保則・道真とも受領階級層ではあるが、実務に長ける保則に対し、保則の後に重用された道真は漢学に長けた吏僚であった。 宇多天皇は行政粛正を行っているが、これは守旧的なものに終始した。これは下級官人達の要求によるものであり、それを基経や保則、道真が組み上げることで実現化した。 この寛平の治の底にあったのは、「階級の分離への対策」「有力農民・郡司への接近と王臣家の牽制」「官制簡素化」が挙げられる。また対外策も変更が加えられた。長くなされなかった唐への遣使が企図されたのである。これは、新羅の牽制や文化移入、密教の要請によるものと考えられる。新羅寇の増加から、北九州の軍備増強も行われる。 また宇多天皇は道真や時平に命じて歴史編纂も行わせた。これが『日本三代実録』である。これとは別に、道長に命じて『類聚国史』も編纂させている。 だが藤原時平が執政となると、宇多天皇は息子・醍醐天皇へと譲位する。上皇となった宇多天皇は、まもなく出家して法皇となった。 これによって道真は後ろ盾を失い、時平派より失脚させられることとなった。これで藤原時平は権力を確立し、朝廷を牛耳ることとなる。執政として力を得ると、時平は延喜と改元したうえで大きな改革に取りかかった。これは寛平の治をさらに推し進めた形といえた。地方で広がる荘園に対して掣肘を加え、律令国家の体制を維持しようとはかったのである。 しかし、これも時平が若くして死ぬことで、挫折することとなった。 (Spheniscidae) +古今の時代 古今の時代 譲位して後、宇多法皇は風流の生活に明け暮れた。そしてこの空気は、朝廷にも蔓延することになる。三善清行『意見封事』は、唯一これに反抗する動きであったがこれも朝廷には取り入れられなかった。 この時期、大和絵をはじめとする国風文化が発達してくるが、これは唐風に対するアンチテーゼとして取り入れられたものではなく、あくまで唐風を日本へアレンジしたものに過ぎない。依然として唐風が尊ばれるのは変わらなかった。 また歌会が頻繁に開かれるため、宮廷人たちは歌の上手な者を集めるようになる。このようにして頭角を現したのが紀貫之で、彼は上級貴族の歌会に呼ばれて歌を披露することで名を馳せた。そしてこのタレント歌人の中から、『古今集』が編纂される。これに収録された歌は、『万葉集』と異なって優婉な歌が多いが、これは歌の芸能化を示していると言える。 このように、所謂"遊び"の部分では下級貴族をも包摂して行われた。これが、醍醐朝の特徴的な風景である。 貴族の歓楽が花開いた醍醐朝であるが、災害が頻発した時代でもあった。940年には雷が紫宸殿に落ちることになる。これからまもなく、醍醐天皇も譲位し、すぐに崩御してしまった。 (Spheniscidae) +東の将門と西の純友 東の将門と西の純友 醍醐天皇死後、天皇の座に付いたのは皇太子であった朱雀天皇である。摂政には時平の弟・忠平がついた。彼を掣肘する者はおらず、よって彼は朝廷を切りまわした。 一方、地方では受領たちの土着が進んでいた。彼らは一族で地方に土着し、勢力を拡大する。その中の一人が将門であり、純友であった。彼らは中央に行き、権門に従うことでより支配基盤を強固にしていた。 また彼らは武装し、群盗として働くこともあった。彼らは自衛のために武装して社会的勢力としての地位を確立していたのである。 瀬戸内海では、武装した彼らが海賊として跋扈し、純友はその長として名を馳せた。一方の坂東では、土着した平氏内の内紛から将門が貞盛を追放するという事件が起きた。 畿内でも天災が相次ぎ、人々はそれに恐れを隠せなかった。空也上人が念仏を唱えて行脚したのはこの時期であり、人々は次々と彼に従うことになる。 (Spheniscidae) +天慶年間の大乱 天慶年間の大乱 天慶に入ると、各地で国府を巡る乱が増える。尾張では国司が射殺された。また純友の勢力も拡大し、瀬戸内海一円に及ぶ。 この状況は、忠平政権下のないがしろにされる国政や、地方土豪と中央貴族の荘園を介した繋がりなどを、如実に反映した結果である。 武蔵で受領と郡司が対立したことに、将門は介入する。また源経基や平貞盛を追い、坂東での覇権を確立した。常陸での争乱にも介入して国府を襲撃した。このように強大な力を得た将門であるが、次第に独立性を高める。 やがて将門は新皇を名乗って独立。国司を勝手に任命する等を行うようになる。 このころ、純友も摂津まで接近。西と東に乱を抱えた朝廷は狂乱の体を為した。朝廷は神階を上げるとともに、追捕使を任じた。 一方、将門は残敵掃討を行うも貞盛を討つことはできず、やがて藤原秀郷と結んだ貞盛の反撃を受けて、崩壊した。彼は国家への反逆者と記憶される一方、受領に対して反抗した人間としての親近感を以て坂東の人間に受け継がれた。一方秀郷は、貴族末裔の武人たちの目標となっていく。 瀬戸内海の純友も、追捕使に任じられた小野好古によって本格的に討伐が行われる。博多湾での決戦に好古は勝利し、純友もその勢力を失うこととなった。 (Spheniscidae) +天暦の治 天暦の治 この大乱にも関わらず、朝廷は旧態依然とした体制を護持したままであった。将門討伐も受領層によるものに過ぎない以上、ふたたび反乱が起こる可能性があった。にも関わらず、である。 まもなく村上天皇が即位し、天暦の治が始まる。前後して忠平も死に、朝廷の中心は変化してゆく。忠平死去後は関白が置かれず、村上天皇による親政となった。だがそれは風流に偏るものであって、さしたる国政は行われなかったと言ってよい。ただ、詩画書の類は非常にもてはやされることになる。また和歌も取り行われたが、これは古今集のマンネリズムに陥っていた。 修史も目指されたが、これは政治の混乱から終ぞ行われることはなかった。 (Spheniscidae) +天皇親政の終焉 天皇親政の終焉 このような政治状況において、地方は酷い状況に曝される。承平・天慶の乱の底流となった、土豪や受領層の武装化が進み、有力な在地領主と化していた。また国府の押領使も暴虐を行うようになり、廃止されることとなる。 火災や疫病も多く、藤原師輔は疫病で早くに亡くなり、また内裏は焼け落ちた。治安も悪化し、あちらこちらで闘争が絶えなくなっていた。 この平安京の凄惨な状況から、人々は怪しげな宗教に熱狂したりするようになる。空也が出てきたのもこのころである。貴顕の救済しか行わぬ仏教勢力に対し、空也は庶民の救済を行うべく行脚したのである。 村上天皇は結局亡くなり、天皇親政は終わりを告げるが、この間の政治とは非常に頽廃した物であった。彼らは受領の支援を受けて始めて成り立つもので、その蠕動が次の時代へと動いて行く。 (Spheniscidae)
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このページはhttp //www.glorantha.to/~tome/lib/shargash.htmからの引用です シャーガシュ Shargash 破壊するもの、灰の王、イェルムの槌 1.神話と歴史 シャーガシュは古のダラ・ハッパの戦神であり、イェルムの忠実な息子の一柱である。イェルムの治世のあいだ、シャーガシュは父の敵どもを滅ぼそうと起こった闘いすべてに駆けつけていた。ウーマトゥム(Umatum) が天空を引き裂いたときには、シャーガシュは彼を天から放り落とした。“水の母”が娘オスリラの復讐のために吠え猛ったときには、シャーガシュはその盾で彼女を叩き伏せた。だが、イェルムは闘いを止めるようシャーガシュに命じた。敵どもが「イェルムの正義」の力で改心するやもしれぬと考えたのである。忠実なシャーガシュは、それに従って引き下がった。そうして彼は、ただ敵たちについて学び、新たな闘いに備えていた。 優れた息子の言葉に耳を貸さなかったばかりに、イェルムは殺害された。シャーガシュはイェルムなき世界を統治した。彼は「良き土地」を蹂躙する怪物、悪霊、異邦者たちを貪り喰った。彼は“雄羊の神”(Ram God) を打ち負かし、その鉄でできた死骸を北に置き、北方よりきたる氷河を砕くために使った。彼は“偽りの太陽”セデーニァ (Sedenya) を天から放り落とした。彼は、エレマルス(Elemals) が盗みを働きに来るとそれを不具にした。彼は“残虐なる神”(Cruel God) 、“身勝手なる神”(Selfish God) 、そして“貪り喰うもの”(Devourer) と戦った。そして彼は従う全ての人々、愛する全てのものさえも破壊し、アルコスの「封殺の地」(エンクロージャー)へと置いたのである。 ついに、シャーガシュは「全ての善なるものの堕落」である、カツクルトゥム(Kazkrtum)と相対した。カツクルトゥムは「封殺の地」へと入り込むために、シャーガシュによって殺されることを望んでいた。だがシャーガシュは全く賢き神であった。その偉大な力をもって、彼はカツクルトゥムをバラバラに引き裂いた。それから彼はその破片を埋め、偉大な魔術によってそれを護らせたのである。 全世界がついに浄化されると、シャーガシュはビジーフ・イェルムの下へゆき、世界を修復するよう命じた。“不滅の神”は覚醒し、シャーガシュに死せるもの全てを世界に戻すよう命じた。かくしてシャーガシュは世界へ帰還し、全ての生命もそれに従って世界に戻ってきた。またもシャーガシュはイェルムの正義を保ち、守ったのである。 シャーガシュは当初ダラ・ハッパの第一の軍神であったが、コルダフ帝の御代(訳注:在位ST.221~247)に、カルトは最盛期にあった政治的な力と名声の多くを失った。ダージーンへ対して行った狂戦士的な争乱によって、カルトは続く皇帝たちの不興を買った。シャーガシュ信者が竜族との戦い(訳注:ドラゴンキル戦争)で甚大な被害を被ると、これを機に皇帝はポーラリスを帝国の軍神としたのだった。 シャーガシュは信者に確信を与え、彼らを救う。シャーガシュ信者はみな、自分らをカツクルトゥムの不浄と不正な統治よりシャーガシュが護ってくれること、魂は常に神の偉大な意志と共にあることを知っている。 「赤き道」の戦士たちは、彼らの中で最も優れた者は、「血色の惑星」、すなわちシャーガシュの大いなる天空の宮殿へと昇ることを知っている。そこで英雄たちはシャーガシュを喜ばすために相戦い、ふたたびイェルムがシャーガシュを解き放つ日を待ちわびているのである。その時が来たれば、彼らは軍を召集してふたたび世界を破壊するだろう。ときに英雄は信者によって血色の惑星より喚び降ろされる。アルコスにある連隊のいくつかは、特定の英雄への信仰を中心としたものである。英雄の位に達しなかった赤き道の戦士たちは、地界へと赴き、貪り喰われ、再びシャーガシュ信者として生まれ変わる。 「緑の道」に従う者たちは、彼らがみまかる時にシャーガシュが迎えに訪れ、その魂を安らかに「封殺の地」へと置いてくれることを知っている。死体は一年の聖なる期(sacrid period)に荼毘に付され、儀式の中でシャーガシュを呼び起こして魂を死者の地へと送る。そこで全ての魂はビジーフ・イェルムにより裁きを受ける。正しき者は、次の破壊と再生のサイクルまで地界の封殺の地に留まる。正義を欠く者はシャーガシュによって貪り喰われる。彼らの精神は破壊されるが、そのエッセンスは死体の灰を通して大いなるサイクルへと再び加わるのである。 シャーガシュの像は、古代の木彫りや粘土細工では、しかめ面をし棍棒を持つ男として表されている。時代が下り、葦製の敷物に描かれた絵では、シャーガシュは長髪と長い髭を生やし、強靱な体格の赤い肌の男として描かれている。そこではシャーガシュは逆巻く雲の間に姿を現し、手には稲妻と天空の槍を持っている。彼はまた炎のイメージ、数多の人間を貪り喰う姿、怪物、大きな物体としても表される。現代ではルナー様式によって、シャーガシュは四本の腕を持ち、舞踏を舞う姿で描かれる。 シャーガシュは多くの名を持つ神なり 以下は誰もが知る一般的な名である。 雷を呼ぶもの―最初の反逆者ウーマトゥムが天に乱入したとき、それを地へ落としたのはシャーガシュだった。シャーガシュはウーマトゥムを二つに畳むと、その嵐の力を奪い取った。それからというもの、ウーマトゥム一族の反逆者どもは真っ直ぐ立つこともできず、よたよたと歩くことしかできなくなったという。 破壊するもの―世界が暗くなり正義が地に墜ちると、シャーガシュは世界をばらばらに引き裂き、全てを破壊した。世界が腐敗し堕落したとき、シャーガシュはそれを破壊して再生を可能とする。 貪り喰うもの―シャーガシュが世界へ解き放たれたならば、彼は全てを喰らう。何者も生き残れない。シャーガシュの目覚めとともに戦が解き放たれる。シャーガシュが行く先々では、彼に貪り食われるまで、敵は敵と戦い、友は友と戦う。 戦の達人―争いあるところシャーガシュはいる。彼は軍団にドラムのビートに合わせて行軍することを教え、それ以来軍団はドラムの音に合わせ行軍できるようになった。偉大なる神は陣形を組んで戦うことを教え、それ以来蛮人どもは岩に攻撃する風のように蹴散らされるようになった。蛮人でさえ、血色の惑星が天にあるときに戦う方がよいことを知っている。 浄化するもの―シャーガシュはその炎と風の力で堕落と不正義を破壊する。「赤は言葉を砕くかの神の雷なり。赤はかの神が地にまきし血の色なり。赤は生贄を燃やし尽くす炎の色なり」(シャーガシュの祝詞より) アルコスの守護神アルコー―彼はオスリラの夫であり、アルコスの人々すべての父である。 暗き道の王―彼は生者と死者を地界へと導き、価値あるものを世界へと戻す。 シャーガシュは多くの名を持つ神なり 以下は聖者のみが知る秘された名である。 小杖にして石―シャーガシュは豊穣の力を持つ。ちょうど藪火事のあとに新芽が芽吹くように。 原初の恐怖(ホリビリス・プリムス)―シャーガシュはデーモンたちの父である。シャーガシュは彼が殺して地界に繋がれた怪物たちの王である。封殺寺院に住む魔物たちはこのようなものたちなのである。 最後の反逆者―かつて、「良き土地」へ恐るべき怪物が現れた。シャーガシュは攻撃を望んだが、イェルムは理を説くことができると主張した。シャーガシュは怪物たちは邪悪で虚言者であることを見抜いたが、イェルムは“闇”のものを見ることができなかったのである。シャーガシュは怪物たちは滅ぼされるべきであると知っていた。そこでシャーガシュは父を殺害し、イェルムの中のビジーフのかけらを地界にある安全な「封殺の地」へと送ったのである。 赤の女神の兄神―ヴェリスルサはイェルムの貞淑なる娘であり、シャーガシュの妹であった。ウーマトゥムが世界に現れたとき、ヴェリスルサはウーマトゥムの定かならざる動きに従ううちに世の果てより落ち、イェルム無き世界の恐怖を見た。彼女は傷つき、変化した。彼女は元の純粋な姿に戻ろうと何度も姿を変えた。憐れみ深い兄神シャーガシュは、死と浄化と再誕の力を使って彼女の姿を変えるのを助けた。 2.カルトの生態 “破壊するもの”シャーガシュは、ダラ・ハッパ神殿の嵐と戦の神である。ダラ・ハッパ人の多くはシャーガシュをなだめるだけだが、アルコスでは「万物の王」として彼を信仰している。血色の惑星にある彼の宮殿から、シャーガシュは戦さと破壊を轟きのように送り、地界にある彼の領土では、シャーガシュは死者の再生を導いている。彼の社はダラ・ハッパ中の太陽神殿で見ることができる。アルコスと古ヘンジャール地方では、「封殺寺院」(エンクロージャー)と呼ばれ大寺院が幾つか存在する。アルコス人は、イェルムに解き放たれたときにはダラ・ハッパの敵を滅ぼすことに同意している。社では《粉砕》を教えている。 アルコスの地はシャーガシュにとって常に聖なる地であり続けてきた。彼の霊気は封殺寺院の中で感じられる。中でも最大の寺院は、アルコス市そのものである。万物に遍在する畏るべきシャーガシュの存在に対し、アルコス人は“破壊するもの”を崇める。彼の精神は彼を崇める民の中に織り込まれる。信者は、生命活動の中のほとんどあらゆる事象をシャーガシュの浄化の炎の燃料と見なす。 ダラ・ハッパの人々は、シャーガシュに貪り喰われないために彼を信仰している。古ヘンジャール(Henjar)地方では、多くの者がシャーガシュを祖先神、守護神として信仰する。アルコスの住民(都市の最奥より響き続ける古代のドラムの音を聞ける者)は、皆なんらかの形で彼を信仰している。戦士たちは、シャーガシュを喜ばすため、彼ら自身の魂を奪い去ってくれるよう祈願する。シャーガシュはグローランサ全土から間接的な貢ぎ物を受け取っている。戦さと破壊は彼のものだからである。 司祭、ルーン王、王たちは戦士たちを戦闘へ送り出し、生者と死者を結びつけ、世界に正義が残っている事を確認するために、シャーガシュの神秘を舞う。 シャーガシュの信仰は高度に儀式的である。一般人は他の生活に関わる神とともに、守護の神としてシャーガシュを礼拝している。高位の信者は二つの道に従って編成される。 「赤き道」は“破壊者の舞い”であり、世界を貪り喰い、封殺の地の中にある善きものに全てをもたらすシャーガシュの仮面である。これは戦士の道であり、封殺の地の外界と関わる者の道である。赤き道の大司祭は都市を戦争へ導き、外界との関係を監督する。この大司祭は「赤き王」として知られる。 「緑の道」は“灰の王の舞い”であり、封殺の地の内にある者全てを守るシャーガシュの仮面である。この道にはシャーガシュの息子であり、都市内部の問題を解決し農地の豊穣を維持するアルコーの道が含まれる。「緑の王」は緑の道の全ての下位カルトを統べている。これは行政官、司祭、そして神秘的な「十一者」(緑の王の忠実な部隊兵として知られる)の辿る道である。 我、ダージーンの簒奪者どもを憎む しばしばアルコス人は集団で破壊的な大略奪行を行い、ダージーンの人々を殺戮し、物品を破壊する。 彼らの行動は神話的には正しい。『イェルムの輝ける再昇』では、ダージーン人は天蓋帝マナルレイヴァス(訳注:小暗黒時代の皇帝)の御代に滅ぼされた古代の不浄な都市、ニヴォロスの破廉恥漢たちの子孫であるとされているのである。 「……かくて好色なるアオサギの女神シュール・エンスリーブ、民をしてマナルレイヴァス帝とダラ・ハッパの万象は取るに足らぬ、邪悪ぞと公言させるに至った。イェルムのフッツストールを模したジグラットで、きゃつらは自身の「皇帝」を選出したのである。 帝これを聞くに及び、その御業を止め、民会を召集すると徳について協議を行った。帝はイェルムのフッツスツールの頂上へ登り、シャーガシュ神と軍団を祝福し、冒涜者を滅ぼすために送り出した。帝曰く、『我、ダージーンの簒奪者どもを憎む』と。」 (『イェルムの輝ける再昇』、30ページ) 「封殺の大寺院」には、ダージーン人の生皮と骨を使って作られた巨大なドラムが置かれている。ときに、シャーガシュの精霊がざわめく時には、司祭、また通行人さえも太鼓を叩くようにせき立てられる。 太鼓の深い音が都に響き渡るとき、多くのアルコス人が「我、ダージーンの簒奪者どもを憎む」連隊へと加わる。彼らは不正で堕落したシュール・エンスリーブ信者との戦いに行軍する。 近世の最も有名なのは、“正帝”ユリカレルムの御代の866年、EWFとの共闘が失われたときのものである。最悪の時期の狂気の計画に悩まされた皇帝は、ついに退位してしまったほどであった! 3.世界におけるカルト アルコスの人々にとって、シャーガシュは宇宙の中で卓越した位置を有している。彼は燃え盛る太陽であり、破壊神であり、雷、浄化する者、激怒する父、そして死の神である。シャーガシュは世界が堕落するやそれを破壊し、善きもの、純粋なるものに新たな生命を与える。シャーガシュは全ての風、炎、世界中の戦さの中に現れるが、アルコスがその特別な領土である。 ルナー帝国の勃興により、帝国の第一の軍神はヤーナファル・ターニルズとされるようになった。シャーガシュは今もアルコスの全住民、ライバンスにある皇帝親衛隊の一連隊、ときに他のダラ・ハッパの兵士に信仰されているが、アルコス人のみからなる僅かな連隊をのぞけば、現在では戦略決定権と軍団指揮権は全てターニルズの士官の手にある。甚大な被害をもたらした「ジャニソールの反乱」にシャーガシュ信者が加わったことは、赤の皇帝にシャーガシュのイェルムへの反乱を思い起こさせることなった。以来、赤の皇帝はアルコスとシャーガシュのカルトの管理に細心の注意を払っている。 シャーガシュ、かくの如きものなり: 貪り喰うもの、 浄化するもの、 壱位のもの、 小杖にして石、 ウーマトゥムの破壊者、 カルグザントの征服者、 エルマルスを不具とせしもの、 レシーラを天より落とせしもの、 雷を呼ぶもの、 天空の槍を持つもの、 灰の王、 暗き道の王。 『イェルムの輝ける再昇』 4.入信者 破壊の館の住人 成人に当たり、アルコスの男子は“守護者”シャーガシュのカルトへPOWを1ポイント捧げて入信する。彼らは神話を語ることでシャーガシュの様々な道についての理解を示し、アルコーの司祭の審問で自らの功績の証だてねばならない。 信者は各季の聖儀式に参加し、シャーガシュが大いなる市壁にかけた魔術を維持する儀式を援助せねばならない。儀式は多くの略奪に対する防衛の成功を再演するものであり、その後で儀式的な饗宴と暴動が行われる。「良きアルコス人」は儀式の全てに参加するのを期待される。 信者はその生涯のほとんどを平和に送るが、危難の際には仕事をなげうち、メイスを手にアルコス防衛の栄につらなることになる。 精霊呪文:《シャーガシュの護り》、《筋力》、《治癒》、《鉄の手》、《発火》、《光》。 雷鳴者の舞い (赤き道) 彼らは「赤き道の戦士」のシャーガシュの入信者である。赤き道の戦士は“破壊するもの”の激怒に満たされており、シャーガシュ信者でない全ての者に恐れられている。 シャーガシュの戦士は戦闘に長けていなければならない。通常の条件に従う。要求される技能は〈舞踏〉、〈メイス攻撃〉、〈槍攻撃〉、〈手技〉、〈浄化〉。候補者は「破壊の道」に従うことを決定せねばならない。 また彼はシャーガシュの様々な道と、その神話についての深い知識を証だて、その勇気と服従を示さねばならい。これは“戦士の舞い”に参加することで示される。この儀式の中で戦士たちは集い、舞踊を舞い、太鼓を鳴らし、かの神の醸した血を飲む。その中で司祭は“破壊するもの”を喚び起こす。シャーガシュはその存在を戦士の一人の意志を奪い、僚友を徹底的に攻撃させることで示す。その後、戦士たちは儀式的な敵たち、またお互いと何時間ものあいだ戦い続ける。戦闘はしばしば家路へつく途上、街の路上にまで続く。この儀式の中で多くのアルコス人が殺されるが、それでもこれは愉快な盛儀なのである。 精霊呪文:《棍棒》、《鉄の手》、《火剣》、《火の矢》、《治癒》、《加速》、《惑い》、《抵抗》、《シャーガシュの護り》、《熱狂》、《筋力》、《スタミナ》、《機敏》、《活力》、《早足》、《発火》、《光》。 シャーガシュ 特殊精霊呪文 《シャーガシュの護り》Protection 可変 遠隔、残照、受動 この呪文は通常の《防護》と同じものだが、アーマーを全くつけていない者にかけた場合、効果は倍となる。この効果を得るためには、灰と血の混じった染料でボディペイントを描いておく必要がある。 シャーガシュ 特殊神性呪文 《贄(にえ)》Immolate 3ポイント 自身、残照、複合不可、再使用可 術者はこの呪文によって霊感を受け、持続時間のあいだ全ての技能成功率、耐久力ポイント、魔力ポイントが2倍となり、疲労しなくなる。呪文が切れると、術者とその持ち物は白い炎を発して激しく燃え上がり、数分間で白い灰となる。灰の状態から《蘇生》は可能だと言われているが、ほとんどあり得ないだろう。この呪文が使われることは稀だが、信者にはシャーガシュに対する素晴らしい捧げ物だと考えられている。 《崇拝者鼓舞》Inspire Worshippers 1ポイント 接触、残照、複合可、再使用可 呪文はシャーガシュ信者一人に対してかける。標的の士気は上がり、その攻撃成功率は10%上昇する。また標的のINTや士気に影響を与える呪文(《精神破壊》、《惑い》、《消沈》、《魔酔》など)に対する抵抗ロールは、術者と同じ成功率で行うことができ、術者が士気喪失しない限り標的もまた士気消失しない。標的がINTや士気に影響を与える呪文の効果を被った場合も術者は影響を受けないが、術者が効果を被った場合は、この呪文によって繋がった者もまた影響を受ける。複合1ポイント毎に標的を一人増やすことができる。 5.破壊者の舞い(ルーン王) (赤き道) “破壊者”は「赤き道」のルーン王兼司祭であり、世界におけるシャーガシュの粉砕の力そのものである。彼らは死と破壊に飽きることはない。なぜなら彼らが殺し滅ぼした生あるもの全ては、カツクルトゥムの不正と不浄の及ばない「封殺の地」の中に保護されることを知っているからである。 シャーガシュの破壊者は数多の敵対者を生贄の儀式戦闘あるいは戦場で殺すこと(過去に少なくとも一つの偉大な戦功を上げていること)でシャーガシュを喜ばせていなくてはならない。通常儀式戦闘では神話上の敵──カツクルトゥム、カルグザント、エレマルス、雄羊の神、セデーニァ──の代理となるものが選ばれる。また候補者は〈メイス攻撃〉および〈槍攻撃〉に90%以上を持ち、以下の技能のうち少なくとも3つが90%以上であること:〈(第三の武器)攻撃〉、〈手技〉、〈盾受け〉、〈舞踏〉、〈集団戦〉、〈ドラム演奏〉。またPOW×3で表される聖試験に合格しなくてはならない。 破壊者が同盟精霊を得るためには、さらなる聖試験(POW×3)に合格した上で4D6のPOWを持つ恐るべきカルトの魔物をうち負かし、服従を誓わせねばならない。 軍事的指導者として、彼らは猛然たる戦いを好む。しかしならがら、シャーガシュは戦の手練手管に精通しており、決して敗北することはなかった。ほとんどの破壊者は軍学院で適切な戦略と強い指揮力の価値を学んでいる。 破壊者の舞いは神性介入を1D10で行うことができ、以下の神性呪文を再使用可で使用することができる。 一般神性魔術:全て。 特殊神性魔術:《無敵》、《贄(にえ)》、《盾》、《粉砕》、《神槌》、《落雷》、《崇拝者鼓舞》、《シャーガシュの筋力》、《シルフ支配》。 《シャーガシュの筋力》Strength of Shargash 3ポイント 遠隔、特殊、複合不可、再使用可 この呪文は標的の筋力を強化し、STRを3倍にする。呪文が効果を持続する1ラウンドにつき1D6の疲労ポイントを失う。CON×5の目標が疲労により0にまで下がった段階で、呪文は破れ、標的は疲れ果てて倒れる。 《落雷》Thunderbolt 3ポイント 遠隔、瞬間、複合可、再使用可 天をゆく赤い惑星シャーガシュから一筋の神性エネルギーを引き出し、特定の標的の上に落とす。抵抗ロールは行わない。この呪文を使用するには、天空にシャーガシュの惑星(注:ゼイヤラン人には「トラート」と呼ばれる赤い惑星)がなければならない。惑星は2週間かけて天蓋を横断し、その後2週間をかけて地界を旅している。複合させる1ポイント毎に、さらに一つの標的を攻撃することができる。 この呪文は耐久力ポイントに直接、3D6のダメージを与える。物理的なダメージに対して効果のあるアーマーや呪文は、この呪文に対しては役に立たない。ただし、《抵抗》呪文は有効である。 6.十一者(侍祭) (緑の道) 十一者は“貪り喰うもの”として知られるシャーガシュの「緑の道」の相を直接信仰するものたちである。これは死と再生の相である。彼らは「魂の死」儀式を再演することにより、生命のサイクルの中に転生することを求める者として自身を象徴化する。その魂は儀式的に死に、アルコスの大封殺寺院でシャーガシュに捧げられる。この儀式は十一者の魂と正義を試す恐るべき試験が含まれる。もし万一資格に欠けることが判明すれば、彼らは二度と戻ってこない──肉体は火葬され、精神はシャーガシュに貪り食われる。 十一者となるためには、〈(第一の武器)攻撃〉、〈(第二の武器)攻撃〉、〈(第三の武器)攻撃〉に成功し、POW×3で表される聖試験に合格しなくてはならない。また3D6のPOWを持つ精霊との精霊戦闘に勝利を収めなくてはならない(呪文の使用は禁止される)。失敗は死を意味する。 その価値を証明できれば、候補者は十一者となることができる。その魂は“貪り喰うもの”のいる地界に縛り付けられるが、精神と肉体は地上へ残ったままとなる。彼らに《霊魂放逐》は効果がない。十一者はシャーガシュへの奉仕を終えその純粋性を証明できるまで、地上を歩く死者となるのである。これには十一年間にわたる厳しい服従の期間を要する。通常彼らはこの期間が終わる前に死ぬが、もし生き残ることができたのなら、彼は完全な「緑の道のシャーガシュ信者」、高名な戦士となるだろう。死にあたっても、忠実な十一者は周期の中に自らの場所を与えられる。 地界についての知識のため、十一者は戦闘中の恐怖や志気の問題とほとんど無縁になる(シャーガシュその人と“死者の地”を目にした戦士を恐怖させる事がこの地上にあろうか?)。彼らには《惑い》、《熱狂》、《恐怖》、《狂気》、《精神破壊》などの精神に影響を与える呪文は効果を持たない。この恐怖への免疫により、十一者は全く恐れを知らぬ戦士としての評判を得ている。 彼らはまたその残虐性で名高い。彼らは殺害を始めるや、慈悲や善悪の観念を持たない。彼らは最後には全てのものは「封殺の地」へ入ることを知っているのである。 多くの道を完全に理解しようと望む「赤の道」の戦士が十一者となることがある。この戦闘に長けた戦士たちは十一者の将官となり、狂信的にその身を捧げる。 十一者は「破壊者の舞い」と「灰の司祭」の両方の神性呪文を一回限りで使用できるが、「破壊者の舞い」となることはできない。十一者は通常の侍祭の技能制限を受けない。 《火葬》Cremate Dead 1ポイント 儀式(浄化)、複合不可、再使用可 この呪文はロウドリルのものと同じである。 《精霊喰らい》Devour Spirit 2ポイント 遠隔、残照、複合不可、再使用可 精霊戦闘において、魔力ポイントの代わりにPOWにダメージを与え、またダメージを与えられるようにする。失われたPOWは直接“灰の王”シャーガシュの所へ送られる。この行動によって、信者は彼らが地界への道を行くとき必要なシャーガシュの覚えめでたきを得ると信ずる。 《煙の舞い》Smoke Dance 1ポイント 遠隔、残照、複合不可、再使用可 この呪文は術者の姿と術者の立てる物音とを煙の中に完全に隠してしまう。呪文の効果範囲にいる者は、術者を知覚することができなくなる。姿が煙の中に完全にとけ込んでしまうのである。 7.灰の司祭 (緑の道) 「緑の道」は死、地界、そして再生を包括する大いなる神秘の一つである。この「道」の中心は、シャーガシュの“灰の王”の相である。灰の司祭は儀式を統制し封殺寺院に跳梁する精霊を管理するという重大な役目を務める。 緑の道はまた贖罪と精神的充足の道でもある。人生のやり直しを求める多くの者が十一者に加わり、自由を求める奴隷は封殺寺院で灰の司祭と共に働くことを選ぶ。赤の道の「破壊者」が神の探求の一端として十一者と共に供儀を行うことも稀ではない。 灰の司祭となるのを望む奴隷は、少なくとも十一年間を封殺寺院で下郎として仕えることで教えを受けなければならない。彼らは死体を運び、灰を運び、儀式に使われる物品の配置を行う。十一者として奉仕期間を終えた者は、封殺寺院で短期間の訓練を受けるだけでよい。 灰の司祭になることができるのは、封殺寺院で従者として過ごした者のみである。かような啓蒙を求めるアルコス市民がいても、特別な扱いを受けることはなく、他の候補者と同様の時間を奉仕せねばならない。 候補者は11年間を封殺寺院の奴隷として過ごすか、もしくは十一者として過ごさねばならない。さらに〈浄化〉、〈召還〉、〈舞踏〉、〈ダラ・ハッパ語読み書き〉が50%以上であり、10ポイント以上の神性呪文を持っていなくてはならない。またPOW×3で表される聖試験に合格しなくてはならない。 “灰の王”の司祭は封殺寺院で行われる儀式を統括する。彼らはアルコスの都、その地下にあるカタコンブ、封殺寺院に跳梁する無数のカルト精霊と魔物を扱う。 一般神性魔術:全て。 特殊神性魔術:《恐怖》、《サラマンダー支配》、《ゴースト解放》、《火葬》、《精霊喰らい》、《煙の舞い》。 大図書館 ビューゼリアン寺院の大図書館は、アルコスを訪れるものにとって最も人気のある訪問地の一つです。図書館は一見小さく見えますが、その地下にある古文書の蔵書は莫大なものになります。トゥル葦で編まれた最近の巻物、羊皮紙の本などが、粘土・銅・骨・ごく稀に鉄(!)製の書字版のある本棚に収められています。ですが、この図書館の聖なる洞窟には、戦の物語や略奪品目録以上の価値有るものが存在します。イェルムガーサ帝が長く忘れられていた『イェルムの輝ける再昇』の書を探索し、発見したのはこの図書館でした。 古代書を復活させるという事は仔細なことではありません。もしアルコスを地界の一部と考えることができるならば、アルコスの図書館はより深き地獄でなければならないことになります。図書館の最深部にはシャーガシュによって置かれ、シャーガシュ・ビューゼリアン信者に統御される、死せる神性を帯びたものたちと魔物たちが整然と並べられているそうです。地界に相当する階にゆくには勇敢な司書の助けが必要です。最深部へ至るためには、要求される“死”がはたして儀礼的なものなのか疑わせるほど耐え難い儀式を受けなければなりません。図書館が略奪を受けたことがないのを疑うものはほとんどおりません。 エティリーズの道を見つける者、エンヘドゥ・アトラスロー著「アルコス旅行ガイド」より 8.下位カルト 赤き道の英雄カルト これまで多くの“破壊するもの”の英雄たちがいた。彼らはシャーガシュの諸王であり守護者であり、神の破壊の完遂の全側面を体現した者たちである。これらの英雄は皆、血色の惑星の上にそれぞれの宮殿を持っている。彼らは従う者たちにその道を示している。 エウスブス Eusibus エウシブスはアルコス出身のシャーガシュの息子の一人であり、戦車皇帝でも騎馬皇帝でもない。彼は古のオヴォスト帝の儀式により皇帝に帯冠した。 この偉大なアルコス人はひとたびは皇帝であったが、コルダフが現れその「神の正義」を示されたとき、コルダフに帝位を譲った。エウシブスは蛮人を同盟者として使い騎馬遊牧民と戦わせたことで名高い(訳注:第一評議会と騎馬遊牧民との間の戦いのこと)。怪物の軍団までもがヴォンラース、コスターディ、ダージーンの各地方の略奪に加わった。後年、コルダフを帝位にふさわしいと認めると、エウシブスは遊撃軍団の王、神器(レガリア)の守護者として皇帝に仕えた。彼はアルコスがムルハルツァーム帝の偉大なる都の一つであることを確認した。彼に従う信者はこの偉大なシャーガシュの戦王の将器、指揮力、部下への寛大さといった特性を見習おうとする。 エウシブスの下位カルトへ属する者は、馬に乗ってはならない。また〈集団戦〉、〈雄弁〉のチェックに成功せねばならない。また彼は寛容であることを期待される。エウシブスに従う者は、通常のシャーガシュ信者にましてイェルムの言葉に従うことを求められる。イェルムの正義への服従が至上のものとされるのである。 ヴォルダンサス Vhordanthus 信じられないような筋力とその食欲で知られるこの戦士は、カルマニアの攻城兵器をバラバラにしたことでその名を轟かした。他にもドラストールからの襲撃の際、エリンフラース川の交通を妨げていた“六の角持つナメクジ”を引き裂いたこともある。ドブリアンへの略奪行の際には、カルマニア帝国の守護者、“ライオン馴らし”カダッシュと格闘し彼を投げ倒した。一度など、“貪り喰うもの”への敬愛を表するために、彼は野蛮人どもが見守る中で遊牧民のカーンの愛馬を食べ、その後にそのカーンも喰ってしまったこともあった。 ヴォルダンサスの下位カルトに属する者は、生死を賭した格闘試合で勝利を収めた者でなくてはならない。また肉は生で食べなくてはならない。この英雄カルトの信者は素手のみで戦うときには《筋力》の呪文の効果が倍になる。また食事や飲酒に関係する判定では、CONを+5して判定できる。 トゥロガス Turrogus “騎馬王”として知られるこの英雄は、配下の騎馬戦士を率いはるか遠くまで遠征した。彼はペントの平原を踏破し、クラロレラなるカージョールキの地を略奪し、さらにテシュノスという眠れる地を襲って戦利品と奴隷を民にもたらした。彼は馬術と騎射を知悉していた。トゥロガスは敵を奇襲し恐怖を与えることの価値をよく理解していた。 魔のカーンの治世の間、トゥロガスは邪悪な遊牧民たちを寄せ付けず、武力によってシェン・セレリスの憤怒からアルコスを救った。堕落したダージーン人たちが裏切ってシェンの側にまわり、アルコスを攻撃してきたとき、彼は弓とメイスでそれを叩き潰した。その無礼に復するに彼らを足下に屠り、生き残った者はその好色さを正すために去勢した。トゥロガスは純粋性を守るために世間一般の楽しみに対して節制していたことで知られる。彼が楽しんだのはポロのみだった。このゲームは彼の治世のあいだに再び人気を取り戻し、それは現在まで続いている。 この下位カルトに属する者は、〈騎乗/馬〉、〈弓攻撃〉のチェックに成功し、自分の馬のみでアルコスの外で血色の惑星の一周期(訳注:2年。“ブック・オブ・ドラスティック・レゾリューションズ プラックスの書”29ページ参照)の間生き延びねばならない。このカルトの戦士は、個人的な懲戒を厳しく守らねばならない。彼らはポロを愛しており、全ての都市のチームから引き合いを受ける。物理的な安楽は忌避されねばならない。また出来る限り騎馬の背の上で過ごさねばならない。 トゥロガスは《火焔弓》の呪文を提供する。トゥロガスの堅忍不抜はCON抵抗ロールにおいてCONに+3のボーナスを与える。 エウシブス特殊神性呪文 《渉外》Liaison 2ポイント 自身、1日、再使用可 呪文の投射により、呪文の持続時間の間、術者による異邦人との交渉には文化の違いによるマイナスの修正がつかなくなる。 トゥルガス特殊神性呪文 《火焔弓》 Flame Bow 2ポイント 接触、残照、複合可、再使用可 この呪文は弓にかける。1MPを消費してこの弓から放たれた矢は、火の矢(3D6ダメージ)となる。この呪文は弓矢に影響を及ぼす精霊呪文と同時に使うことはできない。 ルカリウス帝の物語 (アルコスで語られる話) アナクシアル王朝の時代(訳注:小暗黒時代)、ルカリウス帝は諸王に朝貢を求めて使者を送った。皆が素直に勅命に従ったが、メルニッタの都の黒き女王、セデーニァだけは別であった。代わりに厚かましきメルニッタの市民は、女王─彼らは彼女を太陽として信仰していた─に朝貢するようルカリウス帝に求めたのである。 ルカリウス帝は立腹し、軍団を召集すると反乱の女王を罰するために北へと進軍した。女王の邪な信者たちは皇帝の正義の前に引き退いた。だがメルニッタ市を滅ぼすために軍団が近づくと、恐ろしく武装した巨大なものが天空より降臨してきた。太陽のように輝き、風のように唸りながら、魔物はルカリウス帝の前に立ちはだかってその道をふさいだ。魔物の口より光線が放たれ、その長腕で武器が振るわれた。恐るべきものはルカリウス帝に唸りたて、セデーニァの名にかけて彼を嘲った。 ルカリウス帝は臆せず、猛然と魔物に攻撃を浴びせた。哄笑しつつ、魔物は武器を全て喰ってしまった。メイス、槍、弓、剣……。ついに、ルカリウス帝は武器を無くしてしまった。彼は“破壊するもの”シャーガシュを呼びたまわった。ルカリウス帝は自身を供物として与え、勝利のためなら全てを捧げることができると言った。 その瞬間、ルカリウス帝の前に光り輝く祭壇が現れた。怪物のごとき存在の主は、炎の中に入るよう手招きした。ルカリウス帝は恐れず祭壇を登り、炎に飛び込んだ。彼は肉体以上のものを捧げることを示そうと両手をあげ、自身を“破壊するもの”に捧げたのである。ルカリウスは魔物の眼前の自分が、シャーガシュその人であることを悟った。 シャーガシュは皇帝に宿った。“雷を呼ぶもの”の神の力に満たされ、ルカリウスは卓越した戦の力を得た。だが武器はなくしたままである。そこでシャーガシュは、星々を燃やし尽くし惑星を破壊することできる「月砕き」と呼ばれる神弓をルカリウスに与えた。 シャーガシュの神弓をつがえると、ルカリウスは“偽りの太陽”を撃ち抜いた。天体はメルニッタの都の上に墜ち、都市の住人は全滅した。 こうしてシャーガシュは供物を受け、セデーニァに再生を与えたのである。 9.友好カルト イェルム Yelm アルコスではイェルムは曖昧で遠く離れた神だと受け取られている。イェルムは皇帝であり、シャーガシュの父である。イェルムはシャーガシュの「正義の仮面」にすぎないと考えているものさえいる。 イェルムは代々アルコスの外の世界と交渉を持つ人々によって崇められてきたが、それはイェルムのカルトに属することがダラ・ハッパでは強い影響力を持つことになるからである。アルコスにおけるイェルムの重要な相に、ビジーフがある。彼は“殺害された神”である。秋に行われる祭儀ではイェルムの殺害が再演され、シャーガシュの治世の開始を祝う。 聖祝期には、ビジーフを“生まれ変わった神”とするための集団礼拝が行われる。アルコスのイェルムの大寺院は緑の丘の上にある。この場所は、ダラ・ハッパ中の敬虔で勇気のあるイェルム信者にとって特別な巡礼先とされている。神話的な理由から、シャーガシュ信者はイェルム信者の命令に従うよう要請される。シャーガシュ信者はイェルムの命令に従わないこともあるが、これはどうしても避けられないときのみである。 イェルムは「破壊者の舞い」に《天空の槍》(=《太陽槍》)を再使用可で提供する。 オスリラ Oslira オスリラはダラ・ハッパの中心に流れる大河の女神である。彼女は十万人以上の入信者を擁し、河の中に足を入れようとする者すべてになだめられている。アルコスでも千人以上もの人々(ほとんどは女性である)が彼女を信仰している。オスリラとその娘“稲の母”エヴェーリナは、現在は都市周辺の平原を守護している。オスリラの女祭は都市の下水道を洗い流す儀式を執り行い、危急の際にはアルコスの地下門を洗い流すこともある。彼女は《溺死》を灰の司祭に一回限りで提供する。 サジトゥス Sagitus サジトゥスはシャーガシュの“神弓”である。他のダラ・ハッパ人は彼をイェルムの息子、弓使いの神と呼ぶ。彼は《命中》を「破壊者の舞い」に再使用可で提供する。 ハスタトゥス Hastatus ハスタトゥスはシャーガシュの“神槍”である。他のダラ・ハッパ人は彼をイェルムの息子、槍使いの神と呼ぶ。《神槍》を「破壊者の舞い」に再使用可で提供する。 その他のアルコスの重要なカルト ビゼルエンスリーブ ビゼルエンスリーブは、ヘンジャール地方の大河の岸辺の葦と湿地から賜物を与える、長脚の良き女神である。彼女はかつてシャーガシュの妻にしてアルコスの守護女神であった。シャーガシュがオスリラの魅力に惹かれ彼女を離れたとき、ビゼルエンスリーブはアルコスの寺院を出て湿地に去った。今日、彼女はアルコス周辺の土地を持たない「草の民」や、オスリル河やエリンフラース川流域の人々に信仰されている。彼女はまたアルコス人のオスリラの儀式を通して信仰を受けている。ビゼルエンスリーブは前夫に呪文を提供しないが、沼沢地で異邦人を襲う疫病から都市を護っている。 ロウドリル シャーガシュの叔父ロウドリルは、地界の最奥の地獄の門を守っている。地上世界では、彼は畑作農民の神である。ロウドリルはアルコスではあまり信仰されていないが、通常シャーガシュとロウドリルのカルトは友好関係を保っている。 モーヘンガス ロウドリルとオスリラの息子であるモーヘンガスは、水路に水をもたらす「動く大地」の神である。彼は灌漑路、建物、橋などを作る者、また労働者を監督する者の守護神である。 “十の労働者”の神たちと共に、モーヘンガスは通常オスリラと結びつけられ、都市の内外の労働者・農民に広く信仰されている。 ビューゼリアン ビューゼリアンはシャーガシュの兄弟神であり、イェルムの息子の一柱である。彼は神の力と導きのために天空を見つめる。ビューゼリアンの信者は書記、数学者、司書、天文学者、信任される顧問として仕える。ビューゼリアン信者にとっては儀式は生活の重要な一部とされている。ビューゼリアン信者は世襲の司祭階級の出身である(地位や官職のために争うこともあるが)。 現在の赤き王、ブスジャジュームの顧問を選ぶ際の戦いはいまだ人々の口の端に上る。競争相手が本立てを立てている間に、書記官クリタスタトゥムはシャーガシュの千の御名を読み上げ、血色の惑星から雷を落として相手を死に至らしめたのである。 10.その他 アルコー、シャーガシュの息子 Alkor,Son of Shargash アルコーの入信者は儀式と都市管理に秀で、シャーガシュの法を知り、以て都市内で正義を施行せねばならない。またアルコーの司祭は一年に一度の穀物蒔き換えの儀式を執り行う。封殺寺院から持ってきた灰を農業の開始にあたって農地に撒くのである。 アルコーの入信者は、アルコスの市民でなくてはならない。加えて1ポイントのPOWを捧げること。アルコーの入信者は時間の5%と収入の1%を捧げるのみでよい。アルコーの神性呪文や神性介入はアルコスや封殺寺院の領域内でしか仕えない。入信者は祈祷師または魔道士であってもよい。 通常、アルコーの司祭は代々続く司祭階級から選ばれる。〈ダラ・ハッパ語読み書き〉、〈ダラ・ハッパ語会話〉が90%以上であること。司祭職に空きが生じたときのみ選抜が行われる。神性呪文はアルコスと封殺寺院の領域でしか使えないが、神性介入はアルコスの外でも行うことができる。司祭は祈祷師や魔道士であってはならない。アルコスのほとんどの官位と同じく、アルコー信者は位冠を得るために儀式的な競争を行う。競争はアルコーの大司祭、緑の王によって裁定される。 一般神性呪文:《破門》、《精神結合》、《聖別》、《隔離》、《アルコー礼拝》。 特殊神性呪文:《暴徒鎮圧》(=《都市の調和》)、《収穫祈願》。 赤き王の宮 赤き王の宮はアルコスの市壁の中にある砦である。砦は赤き丘の高所にあり、都と周囲の地方を望むことができる。宮殿は赤き王の戦士団の兵器廠(しょう)、訓練所として機能する。また宮は破壊者の赤き道の最高寺院でもある。 暗き道の王 シャーガシュはあまり知られていない「仮面」を一つ持っている。それは「超越せる暗黒」である。この仮面は、「赤き道」と「緑の道」の両方を歩み、さらにそれらを越えた秘密を見いだした神秘主義者によって信仰されている。 この苦行者はアルコスの街路や地界への道を彷徨い、さらなる神秘を探求し、通りがかる者に時折金言を与える。多くはもはや世間一般の心配事に悩まされることはない。彼らは普通食うや食わずで、ぼろを纏い、灰をかぶっており、泥だらけで酷い傷を負っている。 アルコスの住人は啓蒙の言葉や力の歌を期待して彼らに食事を与え、一時の慰めを与えられることを非常に幸運だと考えている。ときに彼らは彼ら“暗き道の王”の祝福を受けることができるが、そのためには酷い傷を負ったり、ときに死を賭けねばならない。どちらにせよ、寄進者はシャーガシュによって祝福を受けることを非常に喜ぶ。 “破壊するもの”を赤き王が、“灰の王”を緑の王が体現しているように、「黒の王」が存在することが知られている。彼の正体や力は知られていない。「黒き道」を歩む者たちの中、みすぼらしい格好で街路を彷徨っているのだと言う者もいる。黒き王の中のシャーガシュは非常に強力なため、もし彼が怒りを露わにしたなら軍団でさえ士気を失うだろうと言う者もいる。 シャーガシュへの祝詞 かの神は万象に顕れる 赤きものを讃えよ!黒きものを讃えよ!道々の王を讃えよ! 吠え叫ぶ彼を讃えよ!彼の音とこだまを讃えよ! 土と風にある彼を讃えよ!雨と雲にある彼を讃えよ! 陽と嵐にある彼を讃えよ!雷と風にある彼を讃えよ! 若草にある彼を讃えよ!火焔にある彼を讃えよ! 若葉にある彼を讃えよ!枯葉にある彼を讃えよ! 「万歳!」織工の叫び声、「万歳!」漁師の叫び声、「万歳!」壺工、鍛冶の叫び声 「万歳!」貧者の叫び声、「万歳!」富者の叫び声、「万歳!」狩人、犬の叫び声 「万歳!」槍槌持つが叫ぶ声、「万歳!」弓弦張りしが叫ぶ声、 「万歳!」貴賤が共に叫ぶ声 恐るべきものを讃えよ!解放するものを讃えよ! 全ての殺戮者を讃えよ! 勇敢なるものを讃えよ!忠実なるものを讃えよ! 戦士らの父御を讃えよ! 弓持てる神を讃えよ! 太鼓の演者を讃えよ! 略奪せる王を讃えよ! 生者の世界にある彼を讃えよ! 死者の世界にある彼を讃えよ! 彼岸の彼方にある彼を讃えよ! 天を横切る彼を讃えよ!地を横切る彼を讃えよ! 死をもたらす彼を讃えよ! 灰をかぶった乞食の怒号 アルコスの腸抜き広場 恐れるでない、 やがて貪り喰われる者たちよ! 赤の月は墜ちるじゃろう。 赤の月は貪り喰われるじゃろう。 じゃが、別のものがやがて昇ろう。 レシーラの前に天にあった存在が。 セデーニァの前に天にあったのと同じ存在が。 最初には“白きもの”があった。 全ての月は“破壊するもの”に天から落とされた。 全ての月は以前より力を得て再び天に昇った。 じゃが、誰が舞いを導くのか? “破壊されたもの”か“破壊するもの”か。 “再生せしもの”か“再生させるもの”か。 じゃが、“白きもの”は再び天に昇ろう。 かつてイェルムの家門があったが如く、 かつて殺害された神の家門がありしが如く。 エティリーズの道を見つける者、エンヘドゥ・アトラスロー著「アルコス旅行ガイド」より アルコスとシャーガシュに関する記事は、Dennis Hoover, Harald Smith, グレッグ・スタフォード, John Medway, Pam Carlson, Martin Laurie の間の議論の中で書かれた。
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