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異界備忘録 異界見るにも案内はいるよ、旅先、銀幕、本の中。 忘れちゃならんと、端書する。 ちょいと見てくれこの羅列。 つまるところが備忘録。 イベント 場所 首都圏外郭放水路 博物館明治村 養老天命反転地 適当に書き込んでアピールして、時期が来たら適当に消してください。 使いやすいように改変してもらえると喜びます。
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Anywhere Out Of The World(いずこへなりとこの世の外へ) ボードレール 人間誰しも、生きている日常である「いま、ここ」の世界ではない 別の世界に畏れ、憧れるもんです。 異界会はある意味日常すら別の世界=異界と見る勢いで物狂いながら、異界な事柄についてゆる~く追い求めるゆる~い集団です。 「ここに迷い込んで来た者は今日は - 人、昨日は - 人ぢゃっ!」 累計 - 人 htmlプラグインエラー このプラグインを使うにはこのページの編集権限を「管理者のみ」に設定してください。
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京都異界案内2 今回の趣向は斯界の大物・安倍晴明を巡る旅と洒落こもう。 鉄輪の井の紹介で示したように晴明は平安時代における異界のトラブルバスターとして活躍しただけでなく自身、狐から生まれたという出生譚など人間ばなれした本朝随一の大魔術師である。 まずは彼の出生地である大阪阿倍野の安倍晴明神社に行ってみた。 なんか、しょぼ……じゃなかった、閑静な住宅街の狭間にその神社は忽然と現れた。 鬱蒼とした林に囲まれ、えもいわれぬ雰囲気を醸し出している。 境内には晴明が生まれた際、産湯に使ったという井戸があった。 そして散策を続けるうちに、やはり、ここは異界であったことを思い知らされた事態に。 絵馬にする意味が……わからねぇ……っ!(ざわざわ) 「ドッカ~ン」とストレートをくらったような気分になりながら一路、京都へ。安倍晴明が通っていた陰陽寮跡地へ行く。 さすが国営放送。電波の霊的守護は完璧である。 最後に京都一条の晴明神社に到着。 大阪のものとは打って変わって、社殿も豪華で絵馬もドーマンセーマンにちなんで五角形と洒落ている。みやげ物屋の充実し、すがすがしいまでの俗物ぶりであった。 また、晴明が式神を潜ませていたという一条戻橋は新しく作り直されてしまったが、以前の橋が(親柱だけが実際のものでミニチュア化しているが)境内に鎮座している。 現在かかっている戻橋はこれ↓。 ちなみに観光名所にははずすことのできない魅惑の顔ハメもできるところが俗塵にまみれてて良いと思いました。
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書物という異界6:死者たちの視線 漆原友紀 『フィラメント』(講談社) 『蟲師』の作者による作品集。以前に志摩冬青という名で出し,今は絶版となっている『バイオ・ルミネッセンス』(ラポート)から抜粋・再編集し,新たに2本加えての作品集である。 『蟲師』といえば,<蟲>と呼ばれる原-生命体と人間との関わりが主題のマンガである。毎回いろんな<蟲>が出てくるが,話の展開に都合のよい性質を持った<蟲>が毎回設定されていて,「ムシのいい話だ」と思ってしまうのは無粋だろうか。しかし生命が分化・進化する以前の生命,形を得る前の生命を見つめることは,生命の起源,生命そのものを見つめることでもある。それ故,様々な<蟲>のエピソードは,生命そのものの力,多様性を描こうとしているのかもしれない。上野の国立科学博物館に<系統広場>というのがあるが,そこで生命の始原と多様性に触れるのに似た感興を,『蟲師』は呼び起こす。 深夜テレビでアニメも放映されているが,こちらも美しい。 さて短編集の方に戻ろう。全てではないが,<あの世>や<亡霊>が出てくるものが目立ち,その点では『蟲師』よりも異界色が濃い。 《小景雑帳》というアンソロジーは,一つ一つが僅か4ページからなる超短編を集めたものだが,どれも静謐な情景を繊細に描いているように思える。とくに良かったのは<花咲く家路>。お盆をこのように描いたものは他にないのではないだろうか。 そこにあるのは視点の換位である。あの世はこの世から見て<あの世>であるが,この世もあの世から見れば<あの世>なのである。そしてお盆こそは,普段は別々の二つの世界が交わる時なのだ。 死者たちの視線をなぞることで,我々自身の異界への感覚を研ぎ澄ますことができる一篇。 menocchioの部屋に戻る
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書物という異界7:民衆の心に堆積した異界の古層 カルロ・ギンズブルグ 『ベナンダンティ 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』 (せりか書房,竹山博英・訳) 16世紀の北イタリア・フリウーリ地方の異端審問記録に「ベナンダンティ」と呼ばれる謎の者たちの記録が見出される。彼らは皆「シャツを着て生まれてきたものたち」,つまり羊膜をまとったまま生まれた者で,ある年齢に達すると夜の集会に参加するようになるという。四季の斎日の木曜の夜になると,身体から魂が抜け出し,野原に飛んで行って魔術師・魔女と戦うというのである。 (作成中)
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書物という異界1:三途の川を溯ったらどうなるか しりあがり寿 『真夜中の弥次さん喜多さん』(マガジンハウス) 鬼才の漫画家しりあがり寿が,おなじみ『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんを使って,全く新しい世界を切り開いた。この続編ともいえる『弥次喜多in DEEP』(エンターブレイン)は朝日新聞社の第5回手塚治虫文化賞のマンガ優秀賞を受賞。 春うららかなお江戸日本橋,仲睦まじく愛し合っている恋仲の弥次さんと喜多さんだが,実は喜多さん薬物中毒。そこで弥次さんは,喜多さんに薬をやめてもらい,二人が幸せになれるようにとお伊勢参りを提案する。ここから東海道を進む二人の長い旅が始まる。 とは言っても,ふつうの道中ではない。それは夢と現,リアルと幻想が絡まり合い入れ替わる,魂の道行きなのである。幻想世界が現実世界に流れ込み,飲み込んでしまう。 しりあがりは,意図的に現実世界と幻想世界をメービウスの環のように繋ぎ合わせることで,この二つの区別を無効化している。たとえば「駿府之宿」。この宿はプラモデルに満ちており,「本物」の宿屋の隣には1/1スケールのプラモデルの宿屋がある。ここでは「本物」という概念が茶化され,意味を奪われているのである。 しかしまた,その掉尾を飾るのは「岡部之宿」であろう。丸子之宿で飲んだとろろ汁の痒みに耐えられなくなった喜多さんは,またしても薬に頼ろうとする。そして,それを制止しようとした弥次さんを図らずもエクスカリバーで刺し殺してしまう。志半ばで死んでしまった弥次さん,三途の川をわたるのはイヤ,しかし戻ることも叶わない。そこでどうしたかといえば,何と三途の川を遡ることに。そして奪衣婆に導かれて辿り着いた三途の川の源流,そこでは文字通り,生と死が表裏一体となってカーニヴァルを繰り広げている。ここは是非ご一読を。 そしてここになって「旅」は,はっきりと再生・生まれ変わりという色調を帯びてくる。そもそも旅,巡礼といったものは,「<俗>なる共同体をはなれ<聖>なる霊地へとおもむくことによる,贖罪と復活の旅である。罪=穢れをまといつかせた受難の道ゆき(往路)と,いっさいの罪=穢れを祓いさったあとの蘇生の道のり(還路),巡礼の全行程がこうしたある種の通過儀礼のプロセスを踏んでいる」という(赤坂憲雄『異人論序説』,ちくま学芸文庫)。異界を巡る旅が,再生への道となっている。 そして気づけばこの道中記を読む我々もまた,弥次さん喜多さんとともに,出口のない迷宮へと入り込み,方向感覚が麻痺してしまっている。しかしそれも実のところ,我々自身の再生への道行きなのではないか。このように,我々が「現実」と呼んでいるものを鋭く問いかけ,我々の生に新たな光を投げかけてくれるもの,それがまさに「異界」と呼ぶべきものなのではなかろうか。この漫画自体が勝れて強力なひとつの異界なのである。 『弥次喜多in DEEP』の方はさらに凄いことになっている。5巻から6巻にかけては,まさにグロテスク(grottesco)の極みで言語を絶するし,結末に向けた7巻・8巻も圧巻である(menocchio)
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京都異界案内1 古都、京都。 豪華絢爛の平安絵巻の舞台となった裏で有象無象の物の怪どもが跳梁跋扈した異界でもあった。 その闇の世界をここに紹介しよう…… と意味もなく振りかぶってみたが、要はちょいと思い立ち、京都に一泊二日の旅行に行ってきたのでそのレポートを書いてみるという話。 一応これでも異界会の末席を汚す身なのでそれなりのスポットに行ってみた。 まず行ったのが「鉄輪(かなわ)の井」と呼ばれる井戸。 平安の世、夫を後妻に奪われた先妻がつれない夫に嫉妬の炎を燃やした。 嫉妬の鬼と化した妻のいでたちは顔に朱をさし、からだに丹を塗り、頭に鉄輪(五徳)をいただき、その三本のツノに火のついたロウソク、口にはたいまつをくわえ、貴船神社に丑の刻参り。 人形にうらみをこめて神木にうちつけ、呪文を二十ペン唱えて釘を打つ。 満願は七日。 しかし、満願を前にした六日目、深夜の祈りに弱りきったのか自宅近くのこの井戸のそばで力尽きた…… この伝説は『源平盛衰記』から生まれたといわれ史実であるかどうかは明らかではない。 謡曲「鉄輪」もこの伝説にちなんだ話であるが、ここでは女は呪いが昂じて遂には鬼となり、悪夢に悩まされる夫が陰陽師・安倍晴明の許を訪ねる。晴明は人形(かたしろ)をもって祈祷を続け、鉄輪の女と対決し、やがて晴明の呪術が勝り、鬼は消え失せたという。 いざ行ってみると民家と民家の間にあり大変見つけにくい所だった。 でも身近にこういう場所があるなんて素敵な街やね(←そうか?) それから腹に子供を宿したまま死んだ母親が墓の中で生まれてしまった子のために幽霊となって買いに来たという由来がある「幽霊飴」を買って食べながら六道珍皇寺へ。 この辺りは古くから葬送の地であった鳥辺山の麓にあって、あの世とこの世の境域と考えられた所。 六道珍皇寺にはそんな境域にふさわしい人物が鎮座している。 その名は小野篁(おののたかむら)。 遣隋使・小野妹子の子孫で学術や歌に優れ わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船 の歌は百人一首にも採られた。 時には上皇にすら刃向かうなどの不羈の精神の持ち主で、野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)と呼ばれることもあった。 また、『宇治拾遺物語』では嵯峨天皇の出した「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」(無茶をする!)と読み解いてみせた、という逸話も見えるエスプリの持ち主でもある。 しかし、それは表の顔。 実は篁は毎晩冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物なのである。 『今昔物語集』や大江匡房の『江談抄』に記述があり中には「第二の冥官」であったとも書いてある。 そしてこの寺にはなんと篁が冥府に行くときに使った井戸がある。 異界へのワープゾーン発見! 胸を膨らませながら行ってみると み、見にくい…… 格子に阻まれて覗き見するしかないのである。 この寺には閻魔堂があり、その中には篁の像と彼が彫ったと言われる閻魔像(写実?)があるのだがそれも小さく開いた格子窓から覗き見である。 気分はもうピーピング・トム。どうせやるなら女子高の更衣くぁwせdrftgyふじこ ちなみにこれが格子戸の隣にあったアップの写真。 こことは逆に冥府から現世に戻るための井戸は上嵯峨の六道町にあった福生寺にあったというが宅地整理のため今は寺ごともうない。
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書物という異界9:異界を旅した航海者の末路 ジョナサン・スウィフト 『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳,岩波文庫) 誰もが知っている『ガリヴァー旅行記』(Gulliver s Travels,1726)は,イギリス人航海者のレミュエル・ガリヴァーが小人国(リリパット国),巨人国(ブロブディンナグ国),飛行島(ラピュータ),馬の国(フウイヌム国)など,奇想天外な国々を巡るという点で,典型的な異界についての物語である。それもそのはず,作者のジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift,1667-1745)は,ヨーロッパ文学に綿々と伝わる「メニッポス的諷刺」の伝統を汲んでこの傑作を書き上げたのだが,有名なバフチーンの分析によれば,「夢や未知の国への旅」がメニッポス的諷刺と呼ばれる諸文学の主要な構成要素となっているのである。 では,そのガリヴァーにとって異界とは何だったのか,少し考えてみることにしたい。 ガリヴァーと言えば,リリパット(小人国)に流れ着いたガリバーが目を覚ますと,雁字搦めに縛られて大勢の小人に囲まれているという場面を思い出す人が多いかもしれない。しかしガリヴァーはリリパットから無事故国に帰った後も,さらに様々な国を航海し,様々な経験をする。むしろ物語の真髄は,旅を重ねるうちにガリヴァーの考えがどのように変容を遂げていくのかというところにあるのだと思う。 小人国航海の次に出た旅でガリヴァーが辿り着いた先は,巨人国だった。小人国では<巨人>として扱われ,その大きさと力の強さ故に得意になることも多かったガリヴァーだが,ここでは巨人たちに囲まれ,<小人>として自らの非力を思い知る。 …こんな風に心が動転しているさなかに,どうしたわけか私はふとあのリリパットのことを思い出していた。そうだ,私はあそこの住民たちからは,この世界では空前絶後の奇怪な巨人だと見做されていた。片手で全艦隊を引っぱることもできたし,…その他さまざまな偉業もなしとげたものであった。それが今,この巨人族の間に紛れ込んで,全くとるに足らない虫けらのように見做されるとすれば,それこそ何たる屈辱であろうか…。しかし,なおよく考えてみると,そんな屈辱など大したことではないように思われた。なぜなら,人間という奴はその図体が大きければ大きいほど野蛮で残酷だといわれているので,この途方もなく巨大な野蛮人のうちの誰かにもし捉ったら最後,そいつに一口で食われてしまうにきまっているからだ。それも要するに比較の問題にすぎない,と哲学者たちは言うが,誠に至言という他はない… 「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より ここでは,<人間>観念が相対化されている。偉大であったり,矮小であったり,「それも要するに比較の問題にすぎない」のである。 さらに追い討ちをかけるように,メニッポス的諷刺,そしてスウィフトならではの冷徹な眼差しが<巨人>に注がれる。それは人間の美醜に対する相対化の視線であり,人間の汚さを注視することである。 …私は有体に告白するが,何がぞっとするほど嫌らしいといっても,彼女[赤ん坊に授乳する巨人の乳母のこと]の巨大な乳房に匹敵するものを私は知らない。物好きな読者にその大きさ,恰好,色合いが大体どんなものであったかを伝えたいのだが,残念ながら何にたとえたらよいのか,私には未だに見当もつかないのだ。…その際,私はふとわがイギリスの女性たちの白い肌のことを考えた。つまり,彼女たちがわれわれにひどく美しく見えるのは,要するにわれわれと体の大きさが同じであるからにすぎず,拡大鏡を通してでなければ,その欠点は見られない,ということなのだ。拡大鏡を用いて実験すれば分ることだが,彼女たちのどんなにすべすべした白い肌でも実はでこぼこで粗く,不気味な色をしているのである。 「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より ガリヴァーは小人国と巨人国を訪れて,<人間>を相対化する視点を手に入れた。鏡の前に立っているがごとく,彼は小人と巨人のうちに自己を見出したのである。二つの異界で彼が出会ったのは,紛れもなく自分自身,<人間>であった。 旅の過程で<異界>に出会うなか,そこで問い直されるのは<自己>である。旅にはアイデンティティの動揺が伴う。 <異界>を巡る他の様々な物語と同様,『ガリヴァー旅行記』は,<自己>,あるいは<人間>そのものを巡る物語なのである。 そうした観点から言えば,その掉尾を飾る「フウイヌム航海記」が決定的な重要性を持っている。ガリヴァーが最後に訪れたフウイヌム国,そこは完璧な理性を持った馬と,人間そっくりな外見を持つ野蛮な獣ヤフーとが住む国だった。 「フウイヌム航海記」において,理性的なフウイヌムと野獣ヤフーは二つの極を構成している(この二つの極は,単なる善‐悪の対立ではなく,それぞれが両面価値性を持った相補的な二極となっているのだが,それについては後に掲げた文献を参考していただきたい)。人間ガリヴァーは,この二つの狭間,どちらともつかぬところに位置している。 しかしユートピア的なフウイヌムのあり方や忌むべきヤフーの振舞いを観察し,そしてフウイヌムの主人との会話において人間やその社会・国家の様子を報告するうちに,理性的人間としての<人間>が強く問われ(これまでまず何よりも理性を持った存在として定義されていた<人間>が,はるかに優れた理性を持つ馬の出現によって問われる),その結果人間や人間社会の堕落と病弊が明らかとなり,さらに人間とヤフーの類似を否応もなく思い知らされることになる。 そして哀れガリヴァーは,人間を相対化する視点を喪失し,フウイヌムを理想と仰ぎ,人間をヤフーと同一化して激しく嫌悪するに至る。 だが,この際有体に白状するが,人間の腐敗と余りにも違う,この優秀な「四足獣」の美徳の数々を見て,私の目は豁然として開け,理解も急に深く広くなり,そのため,人間の行動や感情を今までとは一変した角度から眺め始め,自分と同類の者たちの名誉なんか考慮する必要はない,と私は思い始めた。…この国に来てから一年もたたないうちに,私はここの住民に対する愛情と尊敬を心の底から覚えるにいたった。その結果,もう二度と人間の世界には帰るまい,そして,およそ悪というもののない…この素晴らしいフウイヌムの世界に留まり,ひたすらあらゆる美徳について思索し,かつそれを実践しつつ余生を送ろうと,固く決心するにいたった。 「第四篇・フウイヌム航海記」より フウイヌム国を追放され,いやいやながらも帰国したガリヴァーは,再会した妻の抱擁と接吻に耐えられず卒倒してしまう。帰国して五年経ってもなお人間への生理的嫌悪を消し去ることができず,二頭の馬を大事に飼って,毎日話し合うのを楽しみにしている。これが物語のエンディングである。 (作成中) ●参考文献 『ガリヴァー旅行記』の持つ作品の豊かさは,これで汲み尽くされるものではない。四方田犬彦『空想旅行の修辞学』(七月堂,1996)は,『ガリヴァー旅行記』をメニッポス的諷刺の系譜上に位置づけ,作品テクストの構造を精緻に分析している。ずいぶん前に読んだので,中身をちゃんと覚えていないが,お薦めの一冊。
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異界学とは …構想中 異界学 基本文献 こちらを参照。
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書物という異界2:とある異界の百科事典 クラフト・エヴィング商會 『すぐそこの遠い場所』(ちくま文庫) 「とある世界についての百科事典」という体をなした小説と言えば,ベオグラード出身の文学者・作家であるミロラド・パヴィチの『ハザール事典』[男性版/女性版](東京創元社)が有名だが,それについてはまたの機会に譲るとして,ここでは日本の作者による,ささやかな事典小説を一つ。作者(ら)はブックデザインにも定評があり(先ごろ創刊された「ちくまプリマー新書」の装丁も手がけている),視覚的にも楽しい一冊である。 読者が手にするのは,『アゾット事典』。それは子どもの頃に祖父から話を聞きながらも読むことの叶わなかった事典である。しかし祖父の亡き後,作者は祖父の書棚の最上段から探し出してきたのであった。 それは「アゾット」(AZOTH)という名の「世界」についての事典である。事典はまず「AZOTHという名前について」から始まり,「アゾットの「21のエリア」について」,「世界の回転について」,「アゾットの言語について」と続く。さらに進むと読者の耳慣れない項目が現れる。「忘却事象閲覧塔」,「雨師」,「残像保管庫/残響音保管庫」,「哲学サーカス団」などなど。登場する物事はどれも,これまで出会ったことのない新奇なものであるが,妙に懐かしい心地を呼び起こすものばかりだ。なぜだろうか。思うにそれは,そうした物事のすべてが「この世のものでありながらこの世のものでない」,あるいは「異世界のものでありながら異世界のものでない」ものだからなのではないだろうか。まさにアゾットとは,タイトルの示す如く「すぐそこの遠い場所」なのだ。 ここで特別に,お気に入りの一項を丸ごと御紹介しよう。 ●夕方にだけ走る小さな列車 エリア7「パープル・エッジ」は,実に広大なエリアである。というより,ここでは何もかもが長く引き伸ばされているかのように見える。 この現象を象徴するものとして,このエリアの夕方の「長さ」がある。このエリアで流れる時間のほとんどが「ひき伸ばされた夕方」のように感じられるのだ。 夕方の始まる,とろんとした眠たさに始まり,夜がおりてくる一瞬手前の最後の青い光芒まで。夕方特有の数時間が,ここではほぼ一日を費やし,蜜が充たされるようにゆっくりと過ぎてゆく。 この時間の中では誰もが輪郭を失い,人のみならず,語られる言葉すらぼんやりとして,すべてが長く影をひいている。 このエリアでは,このようにいつでも10月であるような時間たちのことを,いつからか「彼は誰の刻」と呼びならわしてきた。 実際ここではそんな夕方的憂愁の力に丸めこまれ,誰ひとりとして「彼方の人物」の正体を見極められない。その「彼は誰か?」といぶかる時間さえ,どこまでも長く影をひいている。 このエリアには「夕方にだけ走る小さな列車」(正式名称はダンテズ・イヴニング・レイルロード)の停車場があり,ここはすべての列車の発着駅でもあるため,駅舎は列車の小さな車体に反し,とてつもなく大きい。プラットホームは両端が確認できぬほどで,どこまでも永遠に続いている。そこへ,わずか2両編成の小さな車両が到着するのだから,いったい,この滑走路のように長いホームのどこで列車を待てばよいのか,途方に暮れること必至である。 「そんなこと駅長に訊けばよい」 と思うかもしれないが,ここは「彼」がどこにいるか確認できないことで有名な場所なのである。駅長とてすぐに見つけられるものではない。駅長を見つけられるくらいなら,列車の方がよっぽど見つけやすい。 それだけではない。 この列車は「夕方にのみ走る列車」なのである。したがって,乗車するためには,一日中夕方であるようなとりとめのない時空の中から「本物の夕方」を的確に感じとらなければならない。それゆえ「夕方音痴」の乗車希望者は,どこまでも乗り遅れることになる。 だが,そうあわてることもないのだ。 ここには夜は来ないし,もちろん朝だって来ない。 ここでは,ただひたすらの夕方が永遠に繰り返されているだけだ。 永遠の夕方の中で,永遠に乗り遅れるがよろしい。 それは,ほとんど天国に来てしまったかのような,心地よくも憂鬱な開放感である。 「夕方」と「永遠」と言えば,ボルヘスの哲学的エッセイ「永遠の歴史」(『永遠の歴史』,ちくま学芸文庫)に,この上もなく美しい箇所があったではないかと思い出し,久しぶりに書棚から取り出しその本を開いてみた。しかしボルヘスの「永遠」は,「静穏な月夜」であったことが判明した。人の記憶など頼りにならないものだ。 『アゾット事典』の編者は冒頭でこう述べている。「世界はどこまでも混沌とし,そして,本当に大切なことは次から次へと忘れ去られているように思えてならない。にもかかわらず,私たちはよほど重大な謎でも生じない限り,「はてな?」と首をかしげることもなく日々をやりすごしている。しかしそもそも私たちは,この世界をどれほど理解しているというのだろう?」。さらに言うには,「私は物忘れのひどい「記憶係」であり,「そもそもこれって,どうしてなんだっけ?」とつぶやき続ける事典編集者である。それでも,なんとか「忘却の谷」の崖っぷちまで,そろりそろりと出かけてゆき,ひっそりとつかみ取ってきたものだけを,そのまま編集したのが,この「事典らしきもの」だ」。 我々は「物忘れのひどい動物」である。果たしてそのことは不幸なことなのか幸福なことなのか。たとえば本を読んでもすぐに内容を忘れてしまう。しかしそのお蔭かどうか,その同じ本を読み返そうと思い立ち,また新たな発見が生まれることになる。書物は出会いを与える。それは新しい出会いでもあり,同時に懐かしい旧友との再会でもあるのだ。 書物を読むことは逆説的にも,ぽっかりと開いた「忘却の谷」の存在を指し示す。しかしその「忘却の谷」こそ,「すぐそこにある遠い場所」であり,それがまさに異界なのかもしれない(menocchio)