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名稱:灌嬰 伺服器及顏色:5服藍 類型:武 性別:男 生命值:841 武力:46 智力:17 防禦:18 敏捷:42 運勢:32 敘述:灌嬰 (—前176年),睢陽(今河南商丘)人。漢朝開國功臣,官至太尉,丞相,謚號為懿侯。
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【元ネタ】史実 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】灌嬰 【性別】男性 【身長・体重】181cm・79kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力D 耐久C 敏捷C 魔力D 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 騎乗:A+ 騎乗の才能。獣であるのならば幻獣・神獣のものまで乗りこなせる。ただし、竜種は該当しない。 【固有スキル】 追撃:A 戦闘から離脱、あるいは状況リセットを阻害する能力。 撤退を許さないだけでなく、判定に成功すれば相手に後手の対応を強いることができる。 友誼の証明:B 敵対サーヴァントが精神汚染スキルを保有していない場合、 相手の戦意をある程度抑制し、話し合いに持ち込むことができる。 聖杯戦争においては、一時的な同盟を組む際に有利な判定を得る。 戦闘続行:B 天性の戦好き。 決定的な致命傷を受けない限り、各地を転戦することを止めない。 【宝具】 『驍将討つ場に其人あり(かんえい、せんじょうにあり)』 ランク:C++ 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 様々な戦場で別働隊として騎兵隊を率い、敗走する項羽の追撃さえ麾下の兵が行ったという逸話を宝具に昇華したもの。 それらの逸話を「項羽を殺した」と強引に曲解したすえの宝具であり、 そのあまりの強引さゆえに、宝具としての能力は騎乗時の戦闘ステータス向上のみに留まるが、 それゆえ極めて省魔力で、真名解放さえ必要としない。 【解説】 前漢時代に高祖・劉邦に仕えた功臣。 もとは睢陽(旧宋国領)で絹商人として活動していたが、 項梁の討ち死にから時を同じくして劉邦陣営に加わり、三秦平定戦線や彭城敗戦後の滎陽の戦いで活躍。 特に滎陽では騎兵・別働隊指揮の巧みさでもって名を轟かせた。 その後は韓信の副将として、斉の平定戦や、濰水の戦いでその指揮能力を発揮。 楚軍の勇将・龍且を自らが指揮する部隊の兵が仕留めた他、灌嬰自身も龍且の副将・周蘭を生け捕る功を挙げた。 また、垓下の戦い後の項羽追撃は灌嬰軍が行い、その亡骸を持ち帰ったのも彼の配下の将であった。 項羽を破った後も各地を忙しなく転戦し続け、呂后の死後の斉の反乱鎮圧にも大将軍として鎮圧に向かうが、 周勃らとともに呂氏側を謀って斉と戦わないように示し合わせ、呂氏を誅滅して代王恒を文帝として擁立した。 文帝年間に丞相を務めたが、高位職にあっても最後まで戦場に居場所を見出し続け、 丞相任期中の文帝4年に死去。懿の諡号を奉られた。
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購入条件 出陣可能武将 年代記一話 沛県のごろつき 二話 芒碭山へ 三話 帰還 四話 沛公・劉邦 五話 対面 六話 名将・章邯 七話 別働隊 八話 思わぬ悲報 九話 懐王の約束 十話 難攻不落 十一話 千軍万馬 十二話 快速の進軍 十三話 咸陽進撃 十四話 項籍の怒り 十五話 鴻門の会の陰謀 コメント 購入条件 周勃、樊噲、劉邦の登用 出陣可能武将 必須必要武将太祖高帝の牌(牌合計3000、魂合計4800):灌嬰(魂200)、王陵(魂200)、周勃(魂200)、曹参(魂200)、夏侯嬰(魂200)、蕭何(魂600)、樊噲(魂600)、張良(魂600)、劉邦(魂2000) 自由追加武将なし 年代記 一話 沛県のごろつき 推奨LV一般:16、極限:46 強制出陣武将劉邦、樊噲、周勃 自由追加武将なし 出陣不可武将灌嬰、王陵、曹参、夏侯嬰、蕭何、張良 出陣部隊数3 勝利条件雍歯の退却 敗北条件劉邦の退却 樊噲の退却 印章任務戦闘勝利 劉邦と雍歯の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち樊噲vs雍歯(退却) 会話劉邦と雍歯 入手可能演義宝物なし 二話 芒碭山へ 推奨LV一般:17、極限:48 強制出陣武将劉邦、周勃 自由追加武将樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、曹参、夏侯嬰、蕭何、張良 出陣部隊数2~3 勝利条件曹参の退却 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 周勃vs曹参の一騎討ちを実施 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち周勃vs曹参 会話劉邦と夏侯嬰、劉邦と曹参 入手可能演義宝物なし 三話 帰還 推奨LV一般:18、極限:50 強制出陣武将劉邦、曹参、夏侯嬰、蕭何 自由追加武将周勃、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数4~6 勝利条件県令の退却 敗北条件劉邦の退却 蕭何の退却 印章任務戦闘勝利 曹参と県令(極限では簫何と県令)の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話劉邦と県令、曹参と県令、夏侯嬰と県令、簫何と県令 入手可能演義宝物なし 四話 沛公・劉邦 推奨LV一般:19、極限:52 強制出陣武将劉邦 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数1~6 勝利条件雍歯の退却→劉邦が目的地まで移動(選択肢1を選ぶと変化) 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 劉邦と雍歯の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話劉邦と雍歯 入手可能演義宝物なし 備考援軍が来ると、選択肢1で勝利条件が変化。十分な兵がいる状態で雍歯を退却させると復活。※情報求む。城外の敵を倒し切ると北門が開く? 城外の敵を倒しきって劉邦が北門に近づくと北門が開く? 選択肢1だと援軍1回目を倒し切ると北門が開く? 選択肢2だと援軍2回目を倒し切ると北門が開く? 援軍を倒し切ると援軍が再出現? 一定ターン経過で援軍が再出現? 五話 対面 推奨LV一般:20、極限:54 強制出陣武将劉邦 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数1~6 勝利条件雍歯の退却 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 劉邦と雍歯の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち 会話劉邦と雍歯 入手可能演義宝物なし 六話 名将・章邯 推奨LV一般:21、極限:56 強制出陣武将劉邦、蕭何、曹参 自由追加武将周勃、夏侯嬰、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数3~6 勝利条件章邯の退却 敗北条件劉邦の退却 項梁の退却 印章任務戦闘勝利 項籍vs章邯の一騎討ちを実施 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち項籍vs章邯(退却) 会話 入手可能演義宝物なし 備考選択肢2を選ぶと、側面に移動して自軍全体と項籍に攻撃力上昇と士気上昇2。項籍には無限引導攻撃・会心の一撃等強力な効果がついている。ずるい。項籍vs章邯発生で章邯は退却してしまうので、印章をコンプを狙うなら実質この一騎討ちの発生が勝利条件になる。 七話 別働隊 推奨LV一般:22、極限:58 強制出陣武将劉邦 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数1~6 勝利条件司馬欣の退却 敗北条件劉邦の退却 司馬欣が目標地点に到達 印章任務戦闘勝利 劉邦と司馬欣の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話劉邦と司馬欣 入手可能演義宝物なし 八話 思わぬ悲報 推奨LV一般:23、極限:60 強制出陣武将劉邦、周勃 自由追加武将曹参、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数2~6 勝利条件司馬欣の退却 敗北条件劉邦の退却 司馬欣が目標地点に到達 印章任務戦闘勝利 劉邦と司馬欣の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話劉邦と司馬欣 入手可能演義宝物連環の鎧:司馬欣を退却させると入手 備考周勃と⑥は別働隊で、3ターン目の敵のターンに出現。 九話 懐王の約束 推奨LV一般:24、極限:62 強制出陣武将劉邦、蕭何 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数2~6 勝利条件龍門の退却 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 味方2部隊未満が退却 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話なし 入手可能演義宝物なし 備考①~③と④~⑥に分かれる。 十話 難攻不落 推奨LV一般:25、極限:64 強制出陣武将劉邦、蕭何 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、樊噲 出陣不可武将灌嬰、王陵、張良 出陣部隊数2~6 勝利条件陳同の退却 酈食其が陳同と対話(どちらかの城門を突破すると追加) 敗北条件劉邦の退却 酈食其の退却 印章任務戦闘勝利 味方2部隊未満が退却 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ちなし 会話酈食其と陳同 入手可能演義宝物なし 備考:①~③と酈食其(道士)、④~⑥と盧綰(弩兵)の二手に分かれる。選択肢1で、自軍全員に攻撃力増加・士気増加2・防御力減少・瞬発力減少。 選択肢2で、自軍全員に攻撃力減少・瞬発力増加2・士気減少・防御力増加2と、残りターン数減少20→15。 十一話 千軍万馬 推奨LV一般:26、極限:66 強制出陣武将劉邦、樊噲、張良 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何 出陣不可武将灌嬰、王陵 出陣部隊数3~7 勝利条件灌嬰の退却 敗北条件劉邦の退却 張良の退却 印章任務戦闘勝利 樊噲vs灌嬰の一騎討ちを実施 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち樊噲vs灌嬰 会話 入手可能演義宝物なし 十二話 快速の進軍 推奨LV一般:27、極限:68 強制出陣武将劉邦、灌嬰、王陵、張良 自由追加武将周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将なし 出陣部隊数4~6 勝利条件呂義の退却 敗北条件劉邦の退却 張良の退却 印章任務戦闘勝利 王陵vs呂義の一騎討ちを実施 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち王陵vs呂義 会話劉邦と呂義 入手可能演義宝物なし 備考②~③は別働隊で、関前に到達すると関を挟んで反対側に出現。敵全員が混乱状態になる。 王陵vs呂義は周囲に敵兵がいると実施に失敗する。 十三話 咸陽進撃 推奨LV一般:28、極限:70 強制出陣武将劉邦、曹参、張良 自由追加武将灌嬰、王陵、周勃、夏侯嬰、蕭何、樊噲 出陣不可武将なし 出陣部隊数3~8 勝利条件咸陽の城門を開ける 敗北条件劉邦の退却 張良の退却 印章任務戦闘勝利 味方全員生存 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち曹参vs梅鋗(退却) 会話 入手可能演義宝物なし 備考選択肢1を選ぶと、①③⑤⑦⑧と②④⑥に分かれる。 曹参vs梅鋗の開始前に関周辺の敵に攻撃力減少・防御力減少・士気減少2。 城に近づくと、城の北に敵の援軍が12部隊出現。 城外の敵兵残り5部隊ほどで城門が開く。 十四話 項籍の怒り 推奨LV一般:29、極限:72 強制出陣武将劉邦、灌嬰、樊噲、曹参、夏侯嬰、王陵 自由追加武将周勃、蕭何 出陣不可武将張良 出陣部隊数6~8 勝利条件項籍の退却 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 劉邦と范増の会話 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち劉邦(退却)vs項籍、灌嬰vs龍且、樊噲(退却)vs項籍、夏侯嬰vs鍾離眜、王陵vs英布 会話劉邦と范増 入手可能演義宝物白銀の鎧:項籍を退却させると入手 備考選択肢1を選ぶと張良が出陣不可 敵将、特に項籍は武将効果を大量に持っている。 項籍の効果に最大ダメージ防御10%があり、こちらのターンの場合は最低でも10発殴らないと退却させられない。 劉邦vs項籍が発生すると、劉邦が退却し敗北する。 十五話 鴻門の会の陰謀 推奨LV一般:30、極限:74 強制出陣武将劉邦、樊噲 自由追加武将灌嬰、王陵、周勃、曹参、夏侯嬰、蕭何 出陣不可武将張良 出陣部隊数2~5 勝利条件劉邦が目標地点に到達 敗北条件劉邦の退却 印章任務戦闘勝利 樊噲vs龍且の一騎討ちを実施 13ターン以内の戦闘勝利 一騎討ち樊噲vs龍且 会話 入手可能演義宝物なし コメント 情報提供はこちらにお願いします (2018-07-31 14 39 36) 函谷関の戦い 14話 劉邦が項籍に隣接すると一騎打ちが発生し、ゲームオーバーとなります (2018-07-31 15 09 34) 四話 沛公・劉邦 劉邦が南側で戦っている状態で城外の敵を殲滅しても北門は開きませんでした。 (2018-08-09 10 38 51) コメント
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漢の高祖の功臣の序列。 王族や叛逆者たちは意図的に除外されているため、韓信、彭越、英布など有名どころは見られず、 日本での知名度が低い功臣たちの名前も多く見られる。 序列一位 蕭何 序列二位 曹参 序列三位 張敖 序列四位 周勃 序列五位 樊噲 序列六位 酈商 序列七位 奚涓 序列八位 夏侯嬰 序列旧位 灌嬰 序列十位 傅寬 序列十一位 靳歙 序列十二位 王陵 序列十三位 陳武 序列十四位 王吸 序列十五位 薛歐 序列十六位 周昌 序列十七位 丁復 序列十八位 蠱逢
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第5回商会BC (過去の模擬・BCの復習はこちら) 前回の大成功を受け、今回もSAGRES商会さんと共同開催となりました♪ 今まで同様、低レベルの方から高レベルの方まで、なるべく差を無くして、一緒に楽しめる対人戦を目指しています! 日時 2010年8月21日(土)21:45 セビリア銀行前集合、移動(もしくは、21:50ごろ現地で合流) ルール 今まで参加してた人は分かると思うけど、今までのルールと同じ(キャラの育ちで差がでないようにする)船:店売りピンネース(戦ピン、商ピン、ピンピン)(材質変更不可、増減なし、配分改造可、強化なし) 大砲:ノーマル(名匠以外)の生産品可 兵装:店売り品のみ可、板は2枚用意するけど装備せず(状況に応じて板の枚数を調節) スキル:R5制限、砲術系スキル・機雷スキル・白兵スキルは使用不可(ブーストしてR5以上にしてもR5に補正されるのでご注意ください) アイテム:店売り品のみ可、もちろん料理は生産品OK 副官:兵長以外に配置、副官船長禁止 装備(服・武器・アクセ):店売り品のみ可 ルール補足 スキル:R5制限、砲術系スキル・機雷スキル・白兵スキルは使用不可(ブーストしてR5以上にしてもR5に補正されるのでご注意ください)NGなモノ:弾道・水平・貫通・速射・戦術・銃撃・突撃・防御・接舷・回避 →アイテムで代用 OKなモノ:外科・修理・統率・消火 アイテム:店売り品のみ可NGなモノ:轟音弾、火炎壷、呪術や刻印とか OKなモノ基本的なモノ:予備帆、予備舵、撤収の鐘、手桶とか 料理、盟約美酒は生産品OK 店で買えるモノ(ここの情報間違ってるかもしれん…):突撃の軍旗(チュニス)、砲兵隊の心得(セビリア)、鋼の砲弾(ハンブルグ)、偽造通信文(ナポリ)、悪酔いの酒樽(ナント)、異臭の香(マスカット)、アルマジロの鉄皮(モザンビーク) チーム分け ヴェネツィア(灌嬰 Lv8 途中で落ちる) tarot70 Lv25 りえそな Lv28 やらしー Lv25 ねんきん Lv35 天助 Lv47 てんそば Lv52 北斗ユリア Lv58 (小松姫 Lv55 途中参加) イスパニアnihs Lv17 (かずと23 Lv27 途中で落ちる) 大更改 Lv33 55DSL Lv36 (O:ウェスカー Lv36 途中で落ちる) シャルロット・コルデー Lv39 (エギーユ・デラーズ) ファンタジア Lv51 陀羅尼助丸 Lv55 (移香斎 Lv70 途中参加) 当日の流れ 21 15ごろ 茶室作ります 21 45 セビリア銀行前集合、移動(または、21 50ごろ現地で合流) 22 00 戦闘開始 0 30ごろ 戦闘終了 0 35~45 成績発表、写真撮影 0 45~後日 賞品配り 戦闘開始までの流れ 情報官→りおはの作戦→参加&パスワード→再度情報官→作戦情報→参加完了 戦績 1回戦 ヴェネツィア32:イスパニア52 2回戦 ヴェネツィア36:イスパニア52 3回戦 ヴェネツィア32:イスパニア52 ♨10分休憩♨ 4回戦 ヴェネツィア44:イスパニア44 同点にゃん♪ 5回戦 ヴェネツィア52:イスパニア48 ヴェネ初勝利! 6回戦 ヴェネツィア20:イスパニア52 上位10名 与沈 被沈 戦績 1 シャルロット・コルデー 21 6 15 2 nihs 15 5 10 3 北斗ユリア 16 8 8 4 陀羅尼助丸 9 3 6 4 天助 13 7 6 6 55DSL 9 6 3 6 大更改 8 5 3 8 ファンタジア 7 7 0 8 やらしー 10 10 0 8 小松姫 1 1 0 守りの上位10名 修理回数 守り行為トータル回数 1 シャルロット・コルデー 877 906 2 北斗ユリア 553 590 3 55DSL 501 572 4 天助 492 548 4 陀羅尼助丸 421 526 6 灌嬰 505 505 6 やらしー 424 474 8 移香斎 203 218 8 大更改 171 192 8 nihs 109 116 賞&賞品 今回から、賞は重複して受けられないこととします 選べる賞品設定を導入してみました 対象者 受賞者 賞品(賞品スポンサー) 勝ったチームのメンバーで、賞から漏れてる方 かずと23 50ブーツ(天助) ファンタジア 50ブーツ(天助) 陀羅尼助丸 東アジア造船技法書(小松姫) MVP シャルロット・コルデー 金のタロット(かずと23)+朝鮮水軍軍弓(小松姫) 2位 nihs 金のタロット(かずと23)+漆塗り角弓(小松姫) 戦闘Lv40以下MVP 55DSL アドミラルジュストコール(小松姫) 戦闘Lv40以下2位 大更改 南蛮筒(小松姫) 守りの女神賞(艦隊料理・修理・外科・統率・予備帆・予備舵の回数の上位4名) 北斗ユリア 各種宝箱(かずと23)+黄金の刀剣(小松姫) 天助 各種宝箱(かずと23)+朝鮮衣装縫製法レシピ 灌嬰 各種宝箱(かずと23)+靴(小松姫) やらしー 各種宝箱(かずと23)+タクシー券(りおは) ブービー賞 O:ウェスカー パイレーツジュストコール(匿名様) ひみつの特別賞(隠れ賞品キャラ小松姫を最も沈めた人) 移香斎 レア帆塗料(小松姫) 参加賞 17名の皆さま 高級上納品4個(小松姫)+タロット10枚(天助) 選べるギフトカタログ「熊の舞」はこちら 商品コード 商品 賞品スポンサー A 漆塗り角弓 小松姫 nihs D パイレーツジュストコール 匿名様 O:ウェスカー E 朝鮮水軍軍弓 小松姫 シャルロット・コルデー G 南蛮筒 小松姫 大更改 H アドミラルジュストコール 小松姫 55DSL 選べるギフトカタログ「島のかほり」はこちら 商品コード 商品 賞品スポンサー J 黄金の刀剣(貴金属+1鉱石+1) 小松姫 北斗ユリア L 朝鮮衣装縫製法レシピ 小松姫 天助 S タクシー券 りおは やらしー U 草履(探索+1) 小松姫 灌嬰 個人賞の判定方法:(沈めた回数)-(沈んだ回数) を計算します。 脳筋ツールは記録漏れがありますが、ご了承ください。 賞品を配りますので、戦闘後、25 00ごろにセビリア銀行前に来てください(BC会場では受け渡しできないため)。 セビリア出発じゃなかった人で、後日受け取る場合は、SAGRES商会さん:天助さんにまとめてお渡ししますので、天助さんから受け取ってください。 ガラスノハァト:後日、セビリアに来た際に りおは まで声をかけてください。 戦闘Lv40以下の部、該当者 (灌嬰 Lv8 途中で落ちる) tarot70 Lv25 りえそな Lv28 やらしー Lv25 ねんきん Lv35 nihs Lv17 (かずと23 Lv27 途中で落ちる) 大更改 Lv33 55DSL Lv36 (O:ウェスカー Lv36 途中で落ちる) シャルロット・コルデー Lv39 (エギーユ・デラーズ) マメ知識 ttttt→統率おねw ggggg→外科おねw sssss→修理おねw fffff→やばいですw 色が濃い所:浅瀬(ハマると止まる、座礁) 動き方のポイント かたまって動こう:1人で行動すると、囲まれて、集中攻撃されます チームプレイをしよう:個人プレイよりも、戦闘中にチャットを活発にして連携を取り合っていたチームのほうが、勝てるようです 物資が無くなったら無理せずいったん退却:物資切れで死ぬより、いったん帰りましょう クリティカルを狙ってみよう:普段やったことない人も、まん前か、真後ろを狙って砲撃してみよう 注意事項 準備が時間かかるので、準備は先に済ませておいてね。ピンネ買って、アイテム買って、装備買って、ってやってると、あっというまに1時間とか過ぎちゃいます。。。 沈んでも、泣かない!+同じ人ばかり狙わないようにしよう!BC参加後に消息を絶った初心者プレーヤーさんが何人かいらっしゃいます。同じ人ばかり皆で狙って、繰り返し沈めるのは避け、違う人を狙うように心がけてくださいませ。 現地に銀行はありますが、アイテムは出せません。行商人が鐘程度なら売ってマス お写真 後日 まとめ チャット活用しての連携、今回は両チームともできてました!おつかれしゃん。が、イスパチームのほうが、より連携が取れてた印象でした イスパの人のチームワークがいつも良いので、今回はバラけさせようと思ってたのに、イスパニアvsヴェネという設定だったので計画が崩れてもうたw なんと、学校以来、大砲撃った事もないというnihsちゃんが2位受賞!「クリティカル狙えとこのサイトに書いてあったので狙いました」 シャルロットたんゎ、メインさんが脳筋さんなので、さすがでしたね!大差で圧勝です!素人じゃ思いつかないような状況分析、チームへの指示出しにも感心しますた。修理回数もハンパなくすごかったw あえてメイン脳筋キャラ以外のキャラで来てくれた脳筋さんたち、試合を面白くしてくれて、ありがとう! BCは最低催行人数やチーム分けの関係から、事前に参加者を把握しとく必要があるんだけど、開催直前まで把握ができなかったのが運営的にゎしんどかったデス。。。進行が遅れたりして、ご迷惑をおかけいたしましたorz 参加表明 ↓キャラ名、国籍、海事Lvを、ゲム内でりおはまでメルくれるか、下のコメント欄に書いてください。。。 イスパニア、Lv27、出撃予定でし。 -- かずと23 (2010-08-16 12 27 09) イケイケの25歳、ちょっとやる気を出してみます -- やらしー (2010-08-16 20 50 14) 欠席だそうです -- 錫ちゃん (2010-08-17 01 46 17) とりあえず、現時点での参加決定者です。天助(オスマンLv47)、大更改(ポルLv33)、55DSL(イスパLv32)。よろしくお願いしま~^-^ -- 天助 (2010-08-19 00 24 40) ありがと~ -- りおは (2010-08-20 13 36 08) セカンドの生産会をお手伝いするため、欠席しまうす。 -- 奥義アチョンケ (2010-08-20 17 41 38) 訂正と追加です。レベル訂正55DSL(イスパLv36)。1人追加です、ねんきん(イングLv35)。よろしくおねがいします^-^ -- 天助 (2010-08-20 21 35 06) またまた追加です、りえそな(ポルLv28)。よろしくおねがいします! -- 天助 (2010-08-20 22 13 26) ぎりぎりで申し訳ないけど参加希望です。こっちじゃ流石にしんどいのでシャルロット・コルデー(イスパLv39)で出撃予定。 -- エギーユ・デラーズ (2010-08-21 12 58 14) 名前 コメント ご質問 何か質問あれば、ゲム内で聞くか、こちらへ↓ 名前 コメント ▲上に戻る▲ ここから下、運営用メモ 参加者 イスパニア(かずと23 Lv27 途中で落ちる) 55DSL Lv36 シャルロット・コルデー Lv39 (エギーユ・デラーズ) 陀羅尼助丸 Lv55 (ソニックス Lv55 途中参加) (移香斎 Lv70 参加できるか不明) (りおは 司会のみ) イングランドnihs Lv17 やらしー Lv25 ねんきん Lv35 ファンタジア Lv51 てんそば Lv52 北斗ユリア Lv58 ポルトガルtarot70 Lv25 りえそな Lv28 大更改 Lv33 (交響曲第五番 付き人のみ) オスマン天助 Lv47 ネーデルランド(O:ウェスカー Lv36 途中で落ちる) 小松姫 Lv55 ヴェネツィア(灌嬰 Lv8 途中で落ちる) ▲上に戻る▲
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8.史記變體 史記曹參世家敘功處,絶似有司所造冊籍。自後樊噲、酈商、夏侯嬰、灌嬰、傅寬、靳歙、周鰈等傳記功,倶用此法,並細敘斬級若干、生擒若干、降若干人,又分書身自擒斬若干、所將卒擒斬若干,又總敘攻得郡若干、縣若干,擒斬大將若干、裨將若干、二千石以下若干,纖悉不遺,另成一格。蓋分封時所據功册,而遷料簡存之者也(張良傳:以諸將未定封,上急趣丞相、御史定功行封,是必先有功冊)。然亦可見漢初起兵,即令諸將各立簡牘以紀勞績,無枉無濫,所以能得人死力以定大業也。又張蒼、任敖、周昌合爲一傳。竇嬰、灌夫、田蚡亦合爲一傳,似斷不斷,似連不連,此又是一體。漢書皆全用之。漢書韓安國傳下半篇,全載王恢與安國辯論撃匈奴事,一難一答,至十餘番,不下斷語,亦一奇格。 前頁 『廿二史箚記』巻一 次頁 史記律書即兵書 8.史記變體 漢王父母妻子
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秦・前漢 確定者(9名) ◎韓信 ?-紀元前196年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎項籍(字は羽) 紀元前232年-紀元前202年 項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。 実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の覇権を握っている。 (と同然だろとの突っ込みもありそう) ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではなく、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。 個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。 (其ノ弐 661より) 項羽は確定入りでいいと思う。 もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも 局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれるものじゃあない。 「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇の凄みを感じるのみ。 君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝ではないしな。 (其ノ弐 671より) 項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。 個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。 鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと 徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。 不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。 どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後のあがきでなんじゃないかな。 (其ノ弐 672より) ◎霍去病 紀元前140年-紀元前117年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎衛青 ?-紀元前106年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎趙充国 紀元前137年-紀元前52年 武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。 若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。沈着にして勇猛。智謀あり、 若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。 弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。 食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、 身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。 昭帝の時武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し西祈王を捕らえた。 中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光と共に宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。 本始年間(前73-前70)、蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、 基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。 ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を無駄に殺したので羌族は叛乱、 匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて 南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。 ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。 宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国に諮った。『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』 趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、 『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。 『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。 はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、 実地の地図を描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』前61年現地入り。 目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。 叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。 慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、 行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。 自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。 このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。 彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、 速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、趙充国に彼の部下として働くよう下命した。 趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、 同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。 毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。 趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、 最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。 詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。 漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。 趙充国は罕羌、幵羌の地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、 命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。 趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、国庫は以前に比べて大いに潤った。 趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。 前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。 のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。 前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 (其ノ弐 633、634より) ◎陳湯 ?~紀元前6年 字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。 貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。 西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。 建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって1518人を斬り、 145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。 元帝はその態度を潔しとして嘉したが、陳湯に鹵獲物着服の罪があったため恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。 宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。 射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。 太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。 段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、 「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。 従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。 人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、 また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。 しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。 没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。 郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。 (其ノ弐 693より) (李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。) に対して陳湯を弁護。 陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、 先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、 それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。 単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。 やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか? (其ノ弐 708より) ◎周亜夫(周亜父とも) ?~紀元前143年 紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、 文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。 その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、 周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで 軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、 文帝一行を陣内に入れささなかった。 この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、 周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。 文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、 文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。 将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。 (其ノ弐 647より) 周亜夫を十傑に推したい 彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる 逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している (実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった) そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断 相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破 勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、 偏に周亜夫自身の将器の賜物と言っていいと思う 呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?) 漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう 天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい (其ノ弐 793より) ◎章邯 ?~紀元前205年 章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる 反乱軍を撃退してるし、候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。 援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、 かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。 韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。 (其ノ弐 691より) 章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに 個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。 (其ノ弐 711より) 章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い 一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ 韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし 悲劇の名将として一票 (其ノ弐 780より) ◎灌嬰 ?~紀元前176年 今度は灌嬰の武勲。 二千石のものを擒らえること二人、 城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、 将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。 数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。 まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。 (其ノ弐 801より) 灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、 別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。 更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。 項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。 呉・予章・会稽の三郡を平定。 匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。 B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。 車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。 (其ノ弐 812より) 灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。 自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を 行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる) 大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に 甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる) (其ノ弐 838より) 候補者(4名) ○劉邦 紀元前247年(または紀元前256年)~紀元前195年 秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、 相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている。 対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、 かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている。敗走しても兵を韓信から吸収したり ゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている。 統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている。 彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、 それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う。 (其ノ弐 664より) 一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、 劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている 打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、 相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、 項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、 劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない 項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが 張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ 実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう 晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、 長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか? (其ノ弐 738より) 「将の将」は別にしても、沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、 項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている 武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、 劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった) 項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、 項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい 目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、 本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ (其ノ弐 776より) ○曹参 ?~紀元前190年 沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。 将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。 東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、 ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。 秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、 秦将章邯の車騎を撃破、その他諸々の戦いで先陣の功があった。 ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。 劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、 秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。 敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。 西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。 再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。 秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。 三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。 項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、 碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。 しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。 高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。 竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。 項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。 英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。 生涯に二百二十二間を降し、王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。 蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。 ・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。 (其ノ弐 799より) ○彭越 ?~紀元前196年 彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、 漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。 彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、 決して只のオヤジではないんじゃよな。 (其ノ弐 691より) 秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。 劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、 彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。 劉邦が項羽と対立するようになった時、彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。 斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。 討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。 漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、 梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。 その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、 結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。 漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。 漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。 垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。 (其ノ弐 695より) 史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、 弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。 韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。 後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。 (其ノ弐 749より) ○鄭吉 ?~紀元前55年 車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。 後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。 (其ノ弐 729より) 鄭吉は、当時の地図からして鳥塁から張掖までの範囲で、匈奴・大月氏 などの勢力と対抗しながら、西域三十六国を武力で統治し続けたと推測されます。 具体的な戦功や統治した年数が明確になれば、名将に挙げてもよいかと思います。 (其ノ弐 768より)
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751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 06 24 32 ID uhB3fX7FO 738 >打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成 ゲリラ的行動は主は彭越だろ? 軍の再編成って韓信から無理矢理兵を奪っているだけじゃ? 再編成の評価は寧ろ韓信に対してするべきだろ? >項羽は劉邦の侵攻があるからこそ 彭越の活動が大きくないか? 劉邦もピンチを救われてるんだし。 752 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 09 23 52 ID kQ/yK4lQ0 747 項羽が関羽や張飛、尉遅恭と同じ系統の猛将? 史記のどこを読めばそう判断できるのか教えてほしいな とても上記の連中に、項羽と同じだけ城を落としたり、大規模な野戦で大軍を指揮している 姿が想像できない、さすがにイメージ先行だろその評価 彭越の場合、旧魏国内での活躍がほとんど(戦略的に重要地域だが) 単純なゲリラ戦術というわけでもないし(斉の田兄弟も似たようなことしている) 功績は大きいが、真正面から韓信、項羽あたりと戦ったら(戦わないわけだが)間違いなく負けるな 逆に、攻城戦の経験が殆どない衛青、霍去病あたりには相性が良いだろうな (特に兵站を平気で無視する霍去病なんかには) 劉邦も同じことが言えると思う 753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 10 37 00 ID fZN5alXM0 >後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う 唐突すぎてちょっと意味不明なんだが 754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 11 13 51 ID KN1fevg20 754 後戦国時代って、統一秦後の楚漢戦争を指しているんじゃね? んで、前戦国時代が、統一秦前の一般的に言われる戦国時代。 755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 12 10 13 ID UBYThCFT0 たぶん、「あと、戦国時代に活躍した・・・」 といいたかったんだと思うが。 756 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 12 13 18 ID nC48FSks0 じゃあ白起や李牧や楽殻はアウトか。 757 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 12 53 44 ID davQkqlCQ そうそう 後、戦国・・・ 758 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 14 21 ID fZN5alXM0 誤解した 754には申し訳ないけど、俺は「戦国時代は対象外」なんて意見が 意味不明で訊いたんだけど、やはりそういうことなんだな どちらにしても理解できないことにはかわりないんだが、何で説明するなり 自論を提示するなりせんのだろう 759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 23 00 ID JF915E0B0 758 本人じゃあないがおそらく 「後(=もう一つ)、今の話題である”統一秦・前漢”の時代に戦国時代(秦の統一前)にのみ 活躍がある人はいれるべきではないと思う」 こんな意味だったのではないかと。 王賁・李信・蒙恬の話題に対するレスと思われます。 760 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 29 12 ID q5fnZrtHO 759 王賁や李信はともかく、統一後の活躍も目立つ蒙恬はこっちでも良いとは思うがね 761 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 14 03 30 ID davQkqlCQ 759 その通り 762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 15 30 08 ID UBYThCFT0 761 手抜きせず自分で言えよw 763 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 16 51 37 ID BEI74e6z0 紛らわしいがこの候補の中で誰が最強? 漏れは李衛公だと思うが。 764 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 17 31 34 ID 0JwtOrU7O 763 まだそれを決めるのは早いんじゃ? 765 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 17 43 29 ID BEI74e6z0 なんでですか? それを決めれば微妙な候補を落としやすくなるはずですけど。 766 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 17 48 03 ID q5fnZrtHO 765 一位が決まったからって、百位前後の比較に役にたつと思うか? 767 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/27(土) 17 50 29 ID E/uaLKWk0 765 たとえば、李靖を最有能将帥として、どういう基準でそれと他とを比較する? 時代や背景が変われば、最強なんて変動するから、こうやって各時代ごとの有能将帥を挙げていっているわけだ。 そこのところをよく理解したほうがいい。 768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 20 11 30 ID 9W+iq81y0 鄭吉の功績について間接的な資料から調べてみた。 車師前国の王城は交河城(ヤルホト) (現在のトゥルファン市街から西に10Kmほど) 前漢王朝時代の西域都護府は、鳥塁(今の輪台県内)に置かれ、 その以東に酒泉、武威、張掖、敦煌郡の河西四郡が設置された。 当時の地図 ttp //www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/as4/j4.jpg 西域回廊 ttp //www.ne.jp/asahi/overland/japan/xinjianghome.htm 鄭吉は、当時の地図からして鳥塁から張掖までの範囲で、匈奴・ 大月氏・大などの勢力と対抗しながら、西域三十六国を武力で統 治し続けたと推測されます。 具体的な戦功や統治した年数が明確になれば、名将に挙げてもよ いかと思います。 769 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 21 28 25 ID hbilgZlv0 768 漢書の鄭吉伝を読んでみたんだけど、 むちゃくちゃ短くて具体的な戦功とか、統治した年数とか、 全然書いてないんだよね。 西域を支配した功績は大きいけど、 候補に挙げるには、事跡が少なすぎるかな。 770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 12 16 32 ID NPcfoWB60 現在の状況。 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、項羽(籍)、霍去病、衛青、灌嬰 、趙充国、陳湯 【候補】 章邯、彭越 【論争中】 蒙恬、周亜夫 、劉邦、鄭吉 趙充国、陳湯は異論が無ければ確定でいいのでは? 章邯、彭越は推す人が多いので有力候補としました。 蒙恬、周亜夫、劉邦は意見が割れている様なので論争中とさせていただきます。 鄭吉は事跡が分かりにくいということでこれも論争中とさせていただきます。 諸兄こんな感じでどうでしょうか? 771 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 12 24 36 ID l6atc5vN0 よろしいと思います。 蒙恬がオルドス征服で候補に挙げられているので、じゃあ秦のもう一つの外征、 嶺南遠征の司令官はどうなんだと調べてみたらロクな記録がないのな。 772 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 13 21 15 ID CYtxbtC/O 今まで反対意見は出て無いし、推す人も多数いるんだから、 章邯、彭越は確定でいいんじゃないの。 773 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 15 06 13 ID l6atc5vN0 范明友が、候補に挙げられるだけで具体的な功績の紹介もなく 770でもハブられているので ちと調べてみた。といってもググってみるだけだが。 昭帝の時代(前87-前74年)、烏桓は次第に強勢となり、匈奴単于の墓を暴いて冒頓への恨みを報いた。 匈奴は激怒し、東に走って烏桓を撃破した。大将軍の霍光がこれを聞き、度遼将軍の范明友を派遣し、 二万騎を率いて遼東外境の匈奴に出撃したが、匈奴はすでに退去していた。明友は烏桓の新たな敗戦に 乗じて、遂にこれに進擊し、斬首六千余級、三王の首を獲って帰還した。烏桓は再び幽州に侵攻したが、 すぐに明友がこれを撃ち破った。 前73 宣帝、范明友・韓増・趙充国らに匈奴を撃たせる。 …他に見当たらない。あるいは宣帝期の対匈奴戦争にも従軍していたのかもしれないが。 他に功績がないのなら、候補落ちでもいいかと思った。 774 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 15 28 34 ID gLEbnvKt0 章邯は無いんじゃないか? 項羽に敗れるまでは確かに名将、 群雄をある程度淘汰した点は隋末の張須陀とかに似ているかもしれないが… 終わりが良くない所為だろうか 彭越は確定でもかまわない 劉邦は「将の将」の体現者として一応推す 775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 16 21 22 ID CYtxbtC/O 774 >項羽に敗れるまでは確かに名将 確かに破れてはいるけど章邯がいくら有能でも、 援軍が見込めないあの状況では項羽相手に勝つのはまず無理じゃないか? 俺は兵卒の命を救う為に項羽に降ったのは将として立派だと思うけど。 (章邯の考えとは違う結果になったが) 韓信にも破れてるが相手が相手だけになぁ・・・ 劉邦は「将の将」の件は朱元璋の時、揉めに揉めた記憶が・・・ 776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 16 48 04 ID 3rQFp2ZQO 「将の将」は別にしても、 沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている 武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった) 項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい 目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ 777 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 17 14 32 ID l6atc5vN0 朱元璋の時もそうだったが、誰も「無能だから落せ」とは言っていないと思うのだが。 778 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/28(日) 20 21 08 ID d9rsfr9x0 あぁ、朱元璋論争のとき意固地になって朱元璋を確定に残そうとしたの俺やが。 朱元璋の軍事的才能は朱棣に劣らんゆーてね。今となっては恥ずかしい思い出。 当時はまだ標準語モードやったけど、今は博多弁バリバリ。 なんで変わったんやろ。一遍キレたけんかな? さておき、鄭吉についてちょいと調べてみた。 会稽の人。はじめ兵卒として従軍し、しばしば西域に出て郎となる。 宣帝のとき侍郎となって渠黎に屯田し、西域諸国の兵を徴発して車師国を破った。 功により衛司馬とされ、鄯善国以西の南道諸道を管領した。 前60年、匈奴の日逐王が単于に背いて漢に降ろうとしたので、 西域の兵5万を率いてこれを漢土に迎えた。 車師国討伐、日逐王護送その他の功により鄭吉の名は西域を震わす。 都護騎都尉とされ南北二道を併領し、また安遠候に封ぜられた。 西域諸国の中心である烏塁城に幕府を立てて諸国を鎮護し、漢の威徳を遠西まで広めた。 初代西域都護。着任後11年にして現地で没。 ・・・出典はアジア歴史事典。しかしこれだけやと事跡、戦功あんまりわからんな。ま、参考までに。 779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 20 25 49 ID TtaB2GFN0 劉邦の彭城における大敗は、油断以前に大軍を適切に配置する ことさえ出来なかった。また、匈奴の冒頓単于に包囲されて、 やはり大敗しているし、戦術指揮官として名将に推すには欠点 が大きすぎると思う。 鄭吉は西域都護を11年間勤め上げた時点で、個人的には1票を 投じたい。理由は 768と 778から。 780 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 02 40 ID AuIBmNcmQ 章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い 一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ 韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし 悲劇の名将として一票 781 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 13 35 ID ivrSSeOG0 776 ここはあくまでも名将スレだし 劉邦は良将ではあるかもしれないが、名将じゃない 782 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 15 18 ID Yvge6u840 事績が具体的じゃないんだったら、鄭吉は推薦できないだろ むしろ、霍去病による棚ボタ的な河西回廊の獲得によって、匈奴の西方防備が崩壊したことを 考慮すると、西域経営の功績の多くはやはり霍去病に起因するものと言っていいでしょ 全盛期の匈奴を破るのと、斜陽の匈奴の庇護から乖離しつつあるオアシス諸都市の征服を 同列で評価はできないなあ 劉邦を推したい気持ち、分からなくもないが、やっぱ無理じゃねえ? でも、彭越も特殊な功績だ、能力・戦績そのものは劉邦と大差ないだろうし 彭越推してた人たちに二人の優劣をどこで判断したか教えてほしいな 783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 30 56 ID Yvge6u840 780 「万卒は得易く一将は得がたし」はかなり疑問のある格言だね 実際にはよく訓練された兵卒を多数抱えることが勝利への近道だ そういう意味で、章邯は率いてきた兵卒の大部分を項羽に坑殺されたわけで その後、封ぜられた三秦の人民からは逆恨みを買うなんておまけつきで こんな状態で戦力が温存されていた劉邦の精兵と戦えなんて、氏ねと言ってるようなもんだ 項羽が自害したのも同じ理由でしょ 捲土重来を果たすには、あまりにも幕僚や兵卒を失いすぎた 軍略を知り尽くしていて、矜持を抱いていた項羽だからこそ、挫折したと言えなくもない 784 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 36 05 ID l6atc5vN0 彭越の推薦理由がゲリラ戦術で項籍を苦しめたからなら、斉の田栄・田横兄弟なんてどうよ。 彭越と異なる点は、彼が項籍の軍は徹底的に避けたのに対して田栄・田横は項籍本軍相手に ゲリラ戦で苦しめたこと。 書によっては田栄が彭越を梁に派遣してゲリラをやらせたともあるし。 785 779 sage 2007/01/28(日) 21 37 25 ID TtaB2GFN0 782 霍去病や衛青の匈奴戦の功績から西域都護の設置までは 50年前後空いてます。 それとこの二人は前漢が西域経営に乗り出す前に逝去してる と思いますが。 また、私が鄭吉を評価しているのは、オアシス諸都市の征服で はなく、複数の騎馬民族の交通の要所であり、係争地である 異国を、それらの民族と対抗して統治してきたことです。 786 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 45 51 ID 3rQFp2ZQO 782 劉邦が選に漏れるのはまあ仕方ないかもしれないけど、彭越よりは劉邦の方が将として総合的には上だと思うので、彭越が入るのはちと疑問 787 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 22 16 41 ID +mk7JmVF0 上:項羽、股夫 中:高祖、黥布、彭越 下:陳余、張耳、韓王信、魏王豹ほか この「上」のランクに灌嬰が入るなら曹参も入ると思うが如何か? 788 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 22 35 27 ID SVjZ+nys0 787 曹参の具体的な戦功をあげてくれ。 あと、曹参が韓信の副将だったことを忘れてはならない。 789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 02 13 ID CYtxbtC/O 784 >彭越の推薦理由がゲリラ戦術で じゃあその田横が候補に名が挙がっているのに誰も推薦しないのはなぜだ? 同じゲリラ活動でも項羽の思惑を悉く打ち砕き、行動を制止させた点、 劉邦に対する貢献度、共に、彭越が果した役割りは大きくないか? それに田横の本拠地である斉の城を落としているしな。 劉邦の場合は個人の器量だけでなくブレーンの策略、弁舌を駆使し戦績を挙げているよな。 彭越は全ての己の器量で戦績を挙げているんだぜ。 (しかも寡兵で) それと田栄、田横の斉攻略以外の功績を挙げてみてくれ。 790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 11 18 ID U62fwxmw0 田栄はあっさり殺されてないか 田横は人物としては素晴らしいけど 軍事的に大きな戦果を挙げてないと思う 791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 19 25 ID +mk7JmVF0 名将の副将は名将ではないのだろうか? まあそこが一番入選に厳しい点だと私も思う。 だが、論功行賞で諸将が灌嬰でも簫何でもなく曹参を首位に推した、という点に注目したい。 股夫はその時点で既に別格の存在だった。(信者が多杉) 戦時ならそのまま前線指揮官の曹参が首相になったはず。 灌嬰が入って曹参が落ちるのでは樊噲、周勃、柴武らが納得しないかと思う。 792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 24 20 ID gLEbnvKt0 787 S 項羽 韓信 A 灌嬰 彭越 章邯 B 曹参 項梁 周文 C 劉邦 黥布 D その他 簡単に分けるとこんなもんじゃないかな 793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 27 40 ID Yvge6u840 785 じゃあ、名将でなくていいじゃん (前涼の張軌や前秦の呂光ですら選外漏れなのに) 周亜夫を十傑に推したい 彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる 逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している (実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった) そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断 相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破 勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、偏に周亜夫自身の 将器の賜物と言っていいと思う 呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?) 漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう 天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい 794 785 sage 2007/01/28(日) 23 44 28 ID TtaB2GFN0 793 鄭吉が明らかに平和でない異国に武力駐留して、11 年間に渡って、統治してきたのは将としての功績でしょ うよ。 それとも、匈奴、烏桓などの領域外の騎馬民族と政 治的な駆け引きで平和的に西域を保った、非常に優 れた文官であったとでも? それに、前涼や前秦については、未だ決定の作業に 入っていませんよ。この後に推薦者が出てきても不思 議ではありませんね。 795 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 00 42 17 ID 73igenzz0 789 彭越も、劉邦という不撓不屈のサンドバッグいてこその後方攪乱戦なんだが 独立勢力でやってたら、それこそ田斉のごとく項羽に制圧されておしまいだった可能性大 田栄、田横は論功行賞漏れから、一気に全斉をゲリラ的に奪取しているから、凄いと言えば凄いんだよな 逆に彭越は魏一国すら単独で切り取れなかったとも言えるわけで、評価に困るよ (そもそも領土拡大が主目的じゃないから仕方がないと言えば仕方がない) 戦略的には非常に大きな役割を果たしているし、地の利のある彭越でなければできない仕事だったけれど 796 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 01 08 26 ID 3C48d4S+O 792 曹参と劉邦は逆だろ 鄭吉だが、既に大宛や楼欄を征服、進出しており、匈奴も弱体化の一途をたどっている時代 しかも西域の兵は数も装備も漢より劣っていた これらの点も考慮すべきだと思う 797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 01 13 54 ID o6Jf9g770 魏で独立なんかしたら真っ先に東西列強に挟み討ちになると思うけど… 798 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 01 38 31 ID RM1cMq2e0 もう周亜夫は確定でいいと思う。793のいう通り、勝つべき戦いには勝つのは 凄みを感じる。戦略で勝つのも名将。 ただ、自分的には、後は難しいというのが本音。(強いてあげれば、章邯だけど) どれも、春秋戦国の十人には見劣りがするんだよね。 それと後に予定している時代の名将と肩を並べるのも難しい気がする 五胡や隋唐の時とかかなり違う。 ここは八人(七人)で終わらせ、他の時代の人物を増やすか、 (隋唐は300年以上あるので少し譲っていいと思う) 新の時代の武将を候補にいれるかしたらよいのじゃないかな。 新の荘尤や光武帝配下をのぞく群雄を候補にすれば、なんとかバランスとれそう 799 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 01 39 55 ID iqawi9oV0 788曹参の具体的武勲。 【名前】曹参 【時代】前漢 【功績】 沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。 将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。 東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、 ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。 秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。 また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、秦将章邯の車騎を撃破、 その他諸々の戦いで先陣の功があった。 ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。 劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、 秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。 敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。 西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。 再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。 秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。 三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。 項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、 碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。 しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。 高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。 竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。 項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。 英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。 生涯に二百二十二間を降し、 王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。 蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、 無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。 800 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 01 45 53 ID iqawi9oV0 799 訂正。下のほうの“生涯に二百二十二間”は生涯に二百二十二城、の間違い。 801 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 02 07 56 ID iqawi9oV0 悪いけども連投。今度は灌嬰の武勲。 二千石のものを擒らえること二人、 城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、 将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。 数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。 まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。 802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 02 11 42 ID P/2Ni0lEO 798 時代の長さと名将の数は必ずしも一致しないから、長いから多くて良いっていうのには賛成しにくい ただ時代ごとに十人挙げるのは偏らないようにする為というのもあるが、決定作業の都合でもある 取り合えず百人選び終わったら調整はしなくちゃならないでしょうね (そうしないと話題が無くなるしw) 803 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 06 29 31 ID o6Jf9g770 799 いや、当方も特に推す訳でもないが、 灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。 しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。 結局灌嬰曹参ともに入れないのが百選の純度を高めるだろう。 余った枠は他の時代にくれてやるのがいいかと。 個人的に章邯は良い線いってると思うけど、項羽にも韓信にも負けている。 「迷ったら除外」というスタンスでやる分には入選は無理。惜しいところだが良将止まりだ。 804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 10 43 30 ID 4EoWw7kPO 803 >灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。 灌嬰は戦績だけでノミネートされてる訳ではないのを忘れていないか? >しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。 韓信、項羽の化け物二人と比較するのは厳し杉じゃないか? 他の時代の武将で韓信、項羽に勝てる奴なんて何人いるんだよ。 章邯は項羽にも韓信にも負けているがあの悪条件で良く戦ったと思うけどな。 805 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 12 50 47 ID 3SFy6HSnO 灌嬰や曹参も入るとなると、樊會とか周勃も候補になるんじゃない? 806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 18 04 15 ID /rC4wknI0 801 灌嬰の武勲の詳細を簡単に付け加える 楚の本拠である彭城を降し、垓下から逃げた項羽を追跡して斬っている さらに長江を渡って呉・豫章・会稽郡を平定している 後に匈奴とも戦っている 807 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 18 30 35 ID o6Jf9g770 353 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 09 16 31 ID g5gmsaEl0 灌嬰 楚の本拠の彭城を降伏させ、亥下で敗れた項羽を追跡して斬っている 他戦功多数 369 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/03(日) 23 21 11 (p)ID K3j/CdUKO(3) 368 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 23 00 49 (p)ID z0cozBnwO(2) 横山「項羽と劉邦」と「史記」しか読んだことないけど、灌嬰入るのなら曹参、周勃とか入るんじゃないかな~と思ったんだけど、だめ? 368 灌嬰は別格 秦以来の騎兵隊を任され、項羽追撃などの大役を務めた 実力、功績とも随一だろう 808 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 18 50 12 ID N2oaIOq/0 >匈奴とも戦っている。 灌嬰は匈奴と戦い、打ち破っていますし、統一後の謀反討伐にも参加、見事な功績を残しています。 809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 20 54 01 ID r2WaV39L0 灌嬰が入るなら、劉邦の子飼いの中では最大の軍功を 挙げたと評価された曹参が入っても良いだろう。 このスレの基準は戦功が第一なのだからな。 810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 21 07 33 ID 3C48d4S+O 809 戦功第一なら劉邦が先に入る罠 潅嬰も確定と言うには微妙だと思うが、曹参は無いわ 一見記録される実績は多くても、劉邦や韓信の節度を受けたものだし、騎兵を率いて中核となるとか項羽を斬るとかの特筆するような実績には欠ける 811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 21 56 54 ID gq2vDPSNQ 809 同意 812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 22 40 25 ID N2oaIOq/0 810 灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、 別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。 更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。 項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。 呉・予章・会稽の三郡を平定。 匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。 B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。 車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。 こんな感じですが特筆に欠けますか? 813 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 22 46 15 ID 3C48d4S+O 812 あわてんぼさんめ 俺が特筆すべき功がないと言ったのは曹参だよ 潅嬰は君の言うとおり 漢の将から韓信以外に一人選ぶなら彼だろう 814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 22 57 53 ID r2WaV39L0 曹参に特筆すべき功がないと言ってもなあ。 当時の関係者達の評価をさしおいて、潅嬰の戦功の方が 上というのも、どんだけ傲慢な話なんだ。 815 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 30 26 ID 3C48d4S+O 814 当時の関係者の評価も功績の分析もしないで愚痴るだけの方が傲mry 816 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 56 09 ID 4EoWw7kPO 814 手柄を多く立てたからといって内容も考察せず、 いくら定義とはいえ戦績の数だけで名将扱いしようとするのは理解不能。 817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 57 06 ID aDgDzH+60 灌嬰が韓心や項羽はもちろん、白起や郭去病や李靖や徐達やらと同列に並べられると思うとニヤリとなる。 818 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 57 35 ID ujkrBdBv0 つらつら読み返すにID 3C48d4S+Oも十分に傲m(Ry 819 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/01/30(火) 00 03 20 ID srVf4tNPO これから煽りモードをお楽しみください。 820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 00 46 31 ID cnhfj5780 r 丁´ ̄ ̄ ̄ ̄`7¬‐,-、 / r | | | |/ >、 / ! | | | |レ ´/| | 待 て | | | /\ | |l /⊂う | | | |__∠∠ヽ_\ | リ / j ヽ あ わ て る な |´ ̄ O  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`! 〉 l "´ ̄ ̄ヾ "´ ̄ ̄`ヾ 幵ー{ / こ れ は 孔 明 の 罠 だ ⊥,,,,,_、 ___,,,,,ヾ| l | | lヾ´ f}`7 ヘ´fj ̄フ | l i ⌒i | 819 l ,.ゝ‐イ `‐=ニ、i | l´ ( } ヽ l { U | l 、_ノ ∠ヘ l / ̄ ヽ、 | l ヽ_ \,_________ ! ハ´ ̄ ̄ ̄`ト、 |亅〃/\ ,人 f ´ ̄ ̄ ̄``ヾ j ,!// {_っ )、 // `ト、__iiiii______,レ ‐ // _,/ /スァ-、 ,.イl{ { 々 !/´しllllト、 ̄`ヽ、 // /´,.-、 /彑ゝ-{スァ-、 ,.イ彑l l ゞ く l 〃 l|ハ.lヽ、 ハVゝヽ二ノ/ゝ-{、彑ゝ-{、彑ァ-、 ,.イ彑ゝ- l l ( (,) レシ′ !l `ソァ ´ _ノ7{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑{ ュゝ-{、彑l l ` -イヘ !l // /⌒ヽヾ/_ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、 {、彑ゝ- l l f⌒Yハ , !l/ / ヽ_う ノ /-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ 彑ゝ-{、彑l l{ に!小 ヽ /!l / ,/ /彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、 821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/30(火) 02 13 36 ID caJWhNhE0 iloveme 822 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 02 27 01 ID UG3MyGq00 曹参と潅嬰のどちらか? 個人的には、どちらかに絞ることなく両者を挙げてもいいと思います。それだけの 功績があるのなら。 光武帝劉秀配下から、太祖趙匡胤配下から、洪武帝朱元章配下からそれぞれ数人 づつあげられてますしね。 ただ 814、生前の評判や地位勲功は参考にはなっても比較には使えないと思います。 論功行賞というものには、実際の功績以外のプラスアルファが常に付き纏いますから。 例えば、南宋初期に張俊・韓世忠が枢密使、岳飛が枢密副使に任じられてますが、これ をもって韓世忠の将才・功績は岳飛より上だとは言えないでしょう。 823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 14 20 37 ID VWKnc22z0 統一前は曹参、統一後は灌嬰でどうだろう 灌嬰は韓信が斉王になった後、別行動を取り 車騎将軍として内乱鎮圧や匈奴討伐に駆け回る 文帝の代まで活躍、丞相になり没する 曹参は韓信が垓下向かった後、斉を保持、そのまま次の斉王劉肥の宰相になる 陳豨や黥布を討つが灌嬰より動きは少ない 恵帝の代、丞相になり没する 824 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 16 08 38 ID 3R1cOfekO 823 曹参をエントリーさせるのは別に構わないよ、 只、推すつもりは無いだけ。 825 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 18 29 51 ID 6FKvoo5IQ 曹参、灌嬰は同じようなレベルだと俺も思う この時代は韓信が凄すぎるから小粒に見えるのもしかたない 826 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 19 38 25 ID ZhY/sJVR0 韓信 項羽 霍去病 衛青 趙充国 陳湯 周亜父 章邯 彭越 灌嬰or曹参 といった感じかな 上九人まで確定しちゃっていいなら、残り一枠はおいといて 次の時代へ行くという手もあるが 827 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 39 20 ID 3R1cOfekO 826 灌嬰はともかく曹参はないだろ。 つ 灌嬰は元々確定してたんだし無理に外す意味が分からない。 828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 44 09 ID UG3MyGq00 残り一枠を曹参or彭越で残すというのはどうだろう。 829 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/30(火) 20 46 30 ID +h3ybGLZO もういい加減次の時代の議論に入ったほうがいいのでは? 後漢以降の時代について語りたい人達が待ちくたびれてると思うよ 830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 48 10 ID srVf4tNPO 828 劉邦or彭越or鄭吉ってことで 831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 53 12 ID ZhY/sJVR0 じゃあまとめると 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰 の九人が確定、 残り一枠が劉邦、曹参、彭越、鄭吉といったところだろうか 832 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 55 59 ID srVf4tNPO 831 まあいいんじゃないでしょうか 833 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 25 04 ID UT11UfLt0 統一秦~前漢をいったん纏めるなら、 619、 623で言われていた春秋戦国の異議申し立てタイムに入る? 834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 30 39 ID UG3MyGq00 でも、春秋戦国に続いて統一秦前漢も一枠の議論の余地を残しているのだから、 いちいち前代に戻ることもないのでは? この調子で時代を進めて行って、清が終わったらまた戻るでいいんじゃないでしょうか? 835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 45 49 ID caJWhNhE0 outカンエイ inリュウホウ、テイキツ でお願い致します。 元々確定と仰りますが、たいした審査も無く確定にされたのが不思議なレベルでございます。 836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 59 40 ID RlqhzTTt0 834 いいんじゃないでしょうか。 どの時代も同じ様な事態が予想されると思いますし、 取り敢えず次の時代に移るのも悪くないかと。 諸兄いかかでしょうか? 837 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/30(火) 22 04 34 ID ruL/ZO9Q0 後漢入るならとりあえずこれ貼っとくわ。 【新・後漢】 劉秀 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 廉范 班超 張奐 虞[言羽] 賈復または馬援 以上十名、確定なし、暫定。 劉秀から呉漢までは確定でもいい気もするけど雲台28将から引っ張りすぎな気もするけんが、 とりあえず事跡・戦功を挙げた上で決めようやってことで。 あと、結局曹操・周瑜の曹丕簒奪前組はどっち扱いにするんかな? こっちに引っ張ると廉范とか張奐あたりは一気に落選しそうやけど。 ・・・とりあえず来てみたけど、きついんでやっぱ寝ますわ。皆さんあとはよろしく。 838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 22 43 00 ID Nki3kEoE0 灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。 自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を 行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる) 大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に 甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる) まあ、後漢に入るなら別にいいけど 839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 41 42 ID 15X9cuKC0 836 今のうちに後腐れなく前漢時代は確定しておいたほうが良いように思う。 でないと、また議論してもグダグダを繰り返すだけになる。 840 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 52 08 ID 7c/EhidG0 後漢の政策課題のひとつに羌族の叛乱が挙げられる これは前漢における対匈奴戦争並みに、国家財政を圧迫しているが その間に多くの将帥を輩出している というわけで、推薦 【名前】馬賢 【時代】後漢(安帝~順帝期) 【理由】 護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに 20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた (皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う) 主な戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している まあ、戦死がマイナスか 841 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 52 42 ID srVf4tNPO 839 後腐れがなくなるまで相当長期間gdgdな議論をすると思われますがよろしいですか? 842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 02 42 46 ID kTfqkq/20 馬援と賈復を推薦します。推薦理由は以前に俺が 444に示しています。 843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 08 32 16 ID 4rgF15440 賈復は「猛将」の側面が強く、この際はほかのそうでない人に譲るのが良いと考えます。 馬援は… 入れるべき人だわなぁ… 死神呉漢と交替する? そうでないと、光武帝陣営で終わってしまう。まぁそれだけ名将が麾下にいたということではあるけども。 844 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 10 00 55 ID kTfqkq/20 分かりました。賈復は他に譲ります。 個人的には馬援をかなり推したいので、馬援は是非残してほしいです。 先祖の汚名を晴らそうと遮二無二に光武帝の元で活躍した点と、 人物を見抜く優れた識別眼を高く評価したい。 845 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/31(水) 12 23 43 ID KUkdqQ3LO 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 確かに昆陽の一戦等でみられるように光武帝は優れた将ではありますけど 全国統一の過程における功績は配下の将達の貢献が大きいと思うし 呉漢や馮異等を選出しておけば敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと 846 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 13 13 22 ID kTfqkq/20 845 その案、いいかもしれませんね。 仰る通り、劉秀自身も有能な将なのですが、雲台28将を 上手く使いこなした、名君として扱い、あえて外してみる提示案を みんなで検討してみるのも一つの手だと思います。 847 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 13 21 53 ID 4rgF15440 845 しかしなぁ… 皇帝に即位した後も、賈復や馬武らよりも真っ先に敵陣に斬り込み、敵兵を斬りつつ陣頭指揮するあたり、項羽を彷彿とさせる統帥ぶりを発揮しているしなぁ… これは劉邦や劉備らと違い、紛れもない名将の証明なんだけどなぁぁ 848 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 14 06 37 ID ssdpVric0 光武帝陣営で終わってしまう。 光武帝は外してはどうだろうか? 敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと 純粋に能力の高い奴を選出するんじゃないのか? 結局自分の好きな武将を捻じ込むだけのスレか 849 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 14 44 17 ID UGano2apO 848 だからみんなで議論しないかと伺ってだろ。 なのに文句ばっかgdgd言ってる奴って… もっと有意義な意見は出せんのかと言いたい。 850 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 16 36 30 ID KXeWokb/0 842 馬援はいらないんじゃないか? 誰の節度も受けずに戦った戦いは二つしかないし、 いずれも反乱平定。 強敵だったことは確かだが、反乱二つ平定では戦績不足。 耿恭や段ケイ、馬賢を入れた方が良い。 851 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/31(水) 16 59 40 ID 0wTpCgQw0 劉秀を入れるか外すか、について。有意義かどうかわからんが2案。 とりあえず、朱元璋あたりと比べてみるってのはどうやろーか? 向こうも惜しいところで候補に落ちた選手(?)やし、 比較して劉秀のほうが明らかに上やったら、文句なしに確定、とか。 もしくは改めて後漢書をひいて、光武帝紀を調べなおす。 で、呉漢、耿弇レベルと比べてどうか対比してみる。 ・・・どっちにしてもちょっと手間かかりそうやが、そんくらいしか思いつかん。 852 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 17 16 17 ID dB2ZjeT80 851 う~む、良い案だとは思うが、 後漢末と元末両方の英雄を比較できるほど 両時代に精通した住人がいったいどれほどいるか・・・ 853 852 sage 2007/01/31(水) 17 17 29 ID dB2ZjeT80 後漢末じゃなくて新末だ、スマソ 854 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/31(水) 17 19 17 ID 0wTpCgQw0 連投になるがついでに推薦。この人が落ちることはまず無いと思うが、一応。 【名前】耿弇 【時代】新~後漢初 【功績と推薦理由】 字は伯昭。生来学問を好み、上谷太守にして黄老の学を修めた父・況に学んだ。騎射を 見てこれに傾倒し、将帥の道を歩む。 劉秀が廬奴にいると聞くとはせ参じて拝謁し、「漁陽太守は南陽宛(劉秀の地元)の人、 上谷の太守はわが父です。この二郡から騎兵1万人ずつを発せば、邯鄲なぞ恐るるにたり ません」と進言、劉秀は「君は北道のよき案内役だ」と笑うもたまたま薊で乱が起こり南征。 耿弇は上谷に帰って父に進言、寇恂、景丹らとともにそれぞれ騎兵2千、歩兵1千を率いて 出陣、漁陽の兵と合流して南進し、王郎の大将、九卿、校尉以下4百余を斬り、兵卒3万人の 首級を挙げた。涿郡から河間の22県を平定し、劉秀に再閲。劉秀は大いに喜び、将帥らに 「まさに上谷、漁陽の士大夫とこの大功をともにすべし」と発破をかけて邯鄲を抜いた。 偏将軍を叙す。父・況は大将軍・興義候とされた。 更始帝が劉秀の勢力拡大をおそれ、軍を解除して召し戻そうとしたとき、劉秀に「弇願わくは 幽州に帰り、益々精兵を発して以って大計をなさん」と述べて劉秀自立の覚悟を決めさせた。 劉秀は幽州の全兵力を発して南進し、耿弇は常にその先鋒を務めて銅馬・高湖・赤眉・青犢を 破った。尤来・大槍・五幡を追撃、呉漢ら12将軍とともにこれを追い、ついに平谷でこれを 大破、首級3万余を挙げる。劉秀即位後、建威大将軍とされた。驃騎大将軍景丹・強弩将軍陳俊 らとともに厭新将軍劉茂を破って降す。建武3年(27)、延岑・杜弘の軍と戦って大勝。斬首 三千余、将士50人を生け捕りにし、杜弘を投降させた。5年(29)、呉漢とともに富平、獲索の 賊を討ち、降るもの4万余という大勝を飾る。 詔を受けて張歩を撃ち、虚報と謀略(ホントはここが耿弇伝のキモなんやけど、割愛)とを駆使して 大いにこれを破る。光武帝は自ら車賀でこれをねぎらい、「その功は韓信よりも高い」と絶賛した。 耿弇はさらに張歩を追い、投降させ、ついでに五校の残党も平らげて、斉の地を悉く平定した。 生涯に平らげた郡は46、陥とした城はおよそ300。一度の敗戦すら経験することがなかった。 建武13年(37)、大将軍を辞めて政治顧問となり、“四方の異議あるごとに、すなわち 召し入れて籌策を問われた”らしい。永平元年(58)年、56歳にして没。謚は愍。 情報戦の巧妙さと寡を以って衆を破る精緻な用兵は雲台28将の中でもトップクラス。また、 戦時が終わって文治の時代が来ると剣を書に持ち替えて政治顧問となる適応力の高さも推薦理由として挙げたい。 855 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 17 21 01 ID qyq7a7z30 別の時代と比べる必要ないんじゃないの? 後漢の時代で十人に入るかどうかの問題にすぎないと思うのだが だから単純に同じ時代のほかの候補と比べりゃいいだけのことであって 856 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 18 14 15 ID UGano2apO 851 少なくとも前向きな意見を述べるのは有意義だと思うけど。 857 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 27 21 ID BNI4Ofp30 【名前】樊崇 【時代】新末 【功績と推薦理由】 赤眉軍の実質的な指導者。勇猛で名が知られ、決起後、すぐに数万人の勢力をつくる。 新軍を各地で破り、太師・王匡率いる新の大軍にも勝利をおさめ、新の権威を地に落とした。 その後、緑林の更始帝に降伏するが離反。長安を目指して進軍する。 その過程で更始帝軍に連戦連勝した。兵が集まり、三十万に達する。 ここで読み書き、計算ができない樊崇は劉盆子を立て、自立し、御史大夫となる。 その後、ついに更始帝を降伏させ、長安を占領する。 だが、政務が乱れ、統治ができず、食料が足りなくなり、長安の西を攻める。 略奪を繰り返し、その際、兵を大勢、凍死させる。 その時、光武帝配下の鄧禹が長安に来て、公称百万の大軍で攻めかかるが、これを大破する。 再び、長安を手に入れ、南にいた延岑を討伐させるために、 副将格の逢安に十数万の軍で攻めさせる。 その虚を鄧禹が再び攻めるがまた撃破する。 逢安は敗れて逃げ帰り、長安は食料が全くなかったため、二十数万を率いて東に帰る。 途上、鄧禹にまた襲われるがまた撃破。しかし、馮異に敗れる。 退路を自ら来た光武帝と耿エンに阻まれ、やむを得ず降伏する。後に謀反をおこして処刑される。 858 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 29 13 ID BNI4Ofp30 ポイント ・まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。新の与えた打撃は光武帝にも匹敵する。 ・武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった) 更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。 更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。 ・内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。 それより、光武帝二十八将の筆頭・鄧禹を三度も破っているのは大きい。 鄧禹はこのせいで名将としての評価は低いが、 凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。 鄧禹は馮異たちの劣らぬ武将であった可能性もありえる。 少ないとも良将ではあったのではないか。 それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。 ・部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。 859 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 31 54 ID BNI4Ofp30 あと、曹操・周瑜は三国に含めても、孫堅・孫策・呂布はこちらでいいのかな? なら、孫策を推薦したいのだが。 860 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 21 14 45 ID KUkdqQ3LO 858 トウ禹は赤眉討伐のために光武帝より大軍を任されたにも関わらず、戦況が思うように行かないことに功を焦り 同僚の馮異の諫めも聴かずに無理して出撃したあげく 敵の罠に嵌まって大敗し、たった二十四騎で逃げかえるという大失態を犯しており到底名将とは言い難いと思う ただその後も光武帝からの信任は揺らぐことは無かったけど 後に曹操がこの故事を部下とのやりとりの中で引用したりしてるから この時のトウ禹の敗戦は後世の人達の間でも結構有名な出来事だったようです 861 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 23 14 55 ID +iBDcbEc0 858 光武帝が鄧禹を重用したのは名将だからとは限らないしねえ。 前スレでも鄧禹が出てきたときも言ったが、彼は曹操における夏侯惇、秦における蒙恬 と同じで政権の重臣であっても必ずしも名将な人物ではない。 むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。 862 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 23 21 12 ID 4rgF15440 861 そうなると、その国は亡国の道を歩んでいることになるわなw。 鄧禹は頭脳明晰だけど、諸将の折衝役みたいなところがあるから、その意味で総大将とされたのじゃなかろうか? 「馮異の意見を聞けよ、おまい! いっつもおれに言ってるのにどうした!?」って劉秀は思ったに違いないw(いやウソです) 863 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 11 49 ID Sr9B3q+U0 861 むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。 つ徐達 864 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 41 47 ID JyljPlLP0 863 軍部のナンバー1もしくは2なら徐達だろうけど、朱元璋政権のナンバー2(臣下のナンバー1)なら李善長じゃない? 865 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 46 43 ID GygXAodR0 んで、曹操は後漢に入れるのか? 866 863 sage 2007/02/01(木) 00 49 34 ID Sr9B3q+U0 864 861さんの基準に合わせるならどう考えても徐達になるんじゃない? なんつっても魏の筆頭に夏侯惇、秦の筆頭に蒙恬挙げてるんだから。 861さんは政権とは言っているけど、事実上は軍部のナンバー1を指してるでしょ。 867 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 58 16 ID g9hYksZnO 865 入れないと「後漢はいつまでか」から始まり、各時代の分かれ目を確定する不毛な論争が巻き起こってしまう 曹丕の魏帝即位までを後漢とし、軍事的な活動が主にそれ以前にかかる将は後漢、以後の将は三国とすべきだろ 名将になるかどうか別にして、劉備は後漢で諸葛亮は三国ということだな 868 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 21 58 48 ID g7mxEhmI0 現行の時代区分に従えば220年までだからな 曹操、周瑜は後漢の候補に入れるべきだろう 869 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 29 23 ID Joa3//ke0 前スレで、曹操台頭以降から三国時代としてこのスレでは扱っていく、って流れになったと思うんだが (劉裕登場からが南北朝時代の開始って言うのもそのとき決まった話しだし) まあ、実際後漢は候補があんまり挙げられていないから、曹操、周瑜たちが入ってきてくれれば 結構盛り上がりそうな気もする 870 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/01(木) 22 37 48 ID PVet+kzxO じゃあ後漢末の英雄も入れた案を 劉秀 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 馬援 班超 曹操 孫策 周瑜 ってのはどうだろう? 871 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 38 20 ID 0hqs5m+NO 【名前】馮異 【時代】後漢 【推薦理由】光武帝の挙兵後、潁川で配下に加わり多くの苦労をともにする。 兵士の信頼の厚く、読書家で春秋左氏伝、孫子に通じ兵法に明るく、 温和な性格で、兵士に戦場以外では他の部隊の後ろにいるように命じていた。 また軍の規律が高く、掠奪行為をしなかったため敵にも慕われ、 投降した兵士たちは馮異の部下になりたいと願ったほど。 戦功を立てたが、謙虚な人柄で決して自分から発言せずに 一人離れて大木の木陰に座って休んでいたので、大樹将軍とあだ名された。 戦歴としては偏将軍として河北で戦い、孟津将軍として河内を守っている。 河内にて寇恂らと蘇茂を大破し洛陽に迫り、 陽夏侯に封じられ、七尺の宝剣を賜る。弘農郡を降伏させる。 征西大将軍となり、 禹に代わって赤眉と戦いこれを破る。 延岑と戦いこれを討つ。 公孫述の将軍程焉と戦い破り、その為咸陽王と呼ばれた。 隗囂の将軍行巡と戦いこれを破り、隗囂と隗純を撃退。 公孫述の将軍趙匡と戦い斬るも陣中にて没する。 人柄の良さ、古典・兵法に精通、且つ戦上手、光武帝の腹心中の腹心で軍師格。 馮異こそ名将の鏡だと個人的には思う。。。 あと馬援にも一票。 872 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 48 28 ID JyljPlLP0 光武帝関係で6人ってのはやりすじゃねえの?とはさすがに思う。 対外的にハデなことが無い(少ない)から、建国期と末期に集中してしまうのも 仕方ないのかもしれんが。 873 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 59 53 ID KYLnwTRr0 870の案には馬賢、樊崇がはいってないよ。 改めてこんな感じで 劉秀(光武帝) 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 馬援 班超 馬賢 樊崇 曹操 孫策 周瑜 874 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 23 58 11 ID wmQhDUKh0 関羽は? 875 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 00 00 03 ID GioyAU1BO 874 劉邦の将で言えば柴武くらいの強さ 876 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 00 04 17 ID bvTR+Zg/0 ttp //72.14.253.104/search?q=cache VlxJFcgY2XcJ www.h3.dion.ne.jp/~china/human33a.html+%E6%9F%B4%E6%AD%A6 hl=ja gl=jp ct=clnk cd=3 柴武って選ばれてる韓信に勝ってるじゃん。 877 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 00 09 57 ID GioyAU1BO 876 分かってて言ってるとは思うが別の韓信ですじゃ 878 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 06 40 59 ID EQQRNHqC0 孫策が挙がるなら落選覚悟でこの人も。ただ、曹丕即位後まで生きとるんよね、この人。 【名前】張遼 【時代】後漢末~三国曹魏 【戦歴】 丁原、何進、董卓、呂布に仕え、曹操が下邳で呂布を破ると部下を引き連れて投降、 武勇抜群なのを認められて中郎将に任命された。別将として魯国に派遣され、諸県を平定。 袁譚・袁尚討伐に従軍、功績を立て行中堅将軍となる。楽進とともにみたび鄴を攻め、 これを落とした。また別軍を率いて趙国と常山を攻め陥とし、黒山の賊、孫軽を投降させた。 ふたたび袁譚攻撃に参加、これを破る。別軍を率いて海岸一帯を攻略、遼東の賊・柳毅らを破る。 鄴に帰還すると曹操自らの出迎えを受け、盪冦将軍に任ぜられた。さらに別軍を率いて荊州を攻撃、 江夏の諸県を平定する。 荊州攻略のため長社に駐屯、造反者が屯所に火を放ち、軍が混乱すると冷静に対処してこれを鎮撫、 造反の首謀者を捕らえて斬った。 陳蘭・梅成が氐族の居住地に拠って叛乱を起こすと討伐に派遣され、寡兵で険路をゆき部下が 諌めるのも聞かずに進み、陳蘭・梅成両将を斬った。 赤壁ののち、楽進・李典らとともに合肥に駐屯。孫権が10万の大軍を率いて攻め寄せると 決死隊800人を編成、大会戦に挑み、先頭に立って陣を陥とし、囲まれる都度これを破って、 ついに東呉の兵を潰走させた。追撃に移り、孫権を追ってあわやその命を絶つ寸前までせまるも 大魚を逸す。しかしこの敗戦で孫権は張遼恐怖症とでも言うべきトラウマを抱えることになる。 曹操はこの勝利を大いに喜び、張遼を征東将軍に任命した。 曹丕は王位につくと張遼を前将軍に任命、孫権が背くと再び合肥に駐屯させ、これにあたらせた。 曹丕登極後、晋陽候に封ぜられ、「彼は古代の召虎なり」とたたえられた。 病に伏せると曹丕からは大医の見舞いを受け、道にはかつて孫権を打ち破ったときの虎賁(近衛兵) らが見舞いに訪れてひきもきらなかった。孫権が再び叛くと曹休とともに海陵に赴き、長江沿岸に布陣。 孫権はかつてのトラウマから張遼を過剰に恐れ、諸将に「張遼は病気とはいえ、これを侮るな」と命じた。 諸将とともに東呉の将呂範を破るも、病状が悪化してそのまま江都で没す。謚は剛候。 戦歴・戦功ともに曹操陣営随一。曹操の信頼厚くしばしば別軍を任され、常にその期待にこたえる働きを見せた。 病臥したとき虎賁800人が彼を見舞い、道にあふれんばかりであったということから将士にも人望の厚い名将で あったことがうかがえる。よって推薦。 879 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 06 49 25 ID EQQRNHqC0 追記。 前スレで皇甫崇を推しとる人と祭遵推しとる人がおったから、 このふたりも候補に入れてはどうかと。雲台28将からはすでに 候補多勢出とるのにこれ以上増やしてどげんするとかって感じでも あるけど。これを4~5人に絞って、後漢末からも3~4人とすると、 中期からは一人二人か。しかもその枠にはすでに班超おるし。 俺が暫定候補に挙げた廉范とか張奐あたりは生き残る余地ないですな。 あと、曹操は劉秀を偉い尊敬しとったし、劉秀のほうが帝位についても 陣頭指揮したり戦術的才能には優れとった(しかも実際天下取った)みたい やから、曹操確定=劉秀確定、でいいのでは。あとは推薦文の挙がっとる 耿弇と馮異、それと支援者の多い馬援が一歩リード? しかし俺の推薦文(←耿弇。張遼もそんな感じ)は長すぎなのがいかんやね。 みんな短くまとめるスキルが高くて感服する。 880 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 07 52 36 ID Cf8a6XNu0 879 戦歴の凄いから多少長文になるのは仕方ない。 エピソードを交えるなら必要そうなとこをチョコット入れるのがいいかと。 881 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 10 24 40 ID NT9K+D4vO 張遼は大軍を率いたことがほとんど無いからなぁ… 882 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 12 02 43 ID pgBI3Mo20 大軍を率いた経験っつったら袁兄弟討伐後、曹操から数十万の軍隊の全指揮権を任されて 烏丸族を殲滅、蹋頓単于をぶっ殺した。多分これだけやね。まぁ烏丸は少数民族やし、 数十万おったら凡将でも力押しでバッサリできたのかもしれんが、いくら大軍で寡兵を攻めても 勝てんやつは勝てんけんね。寡兵の赤眉に大軍で当たって三度も負けた鄧禹がいい例。 合肥のときは烏丸討伐のときとは真逆で、800人で10万人を潰走させるんやから、 もちろん寡兵での作戦行動も得意。数千~一万人単位とはいえ毎度別軍を任されるのも信頼が厚いことの証。 状況に従ってどっちでもいける万能タイプやと思うんやが、どうやろ。 まぁifは無しやから、大軍を率いての用兵、一回きりでは評価に疑問符がつくなのもしゃーないけど。 あと耿弇の推薦理由に一個追加。 更始帝が劉秀の勢力拡大を恐れて軍隊解除の上帰れと命令したとき、悩む劉秀に「幽州に割拠して自立するべきです」と進言して独立の決意を固めさせた功。 いちおう推薦文にも書いちゃおるけど、長文に隠れてわかりづらいし、これは一つ二つの武勲よりはるかに高い功績やと思うのであえて追加。 昼んなったんでメシ喰ってきます。それではまた。 883 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 14 06 23 ID kt3A+xPYO 882 まあ、もちつけ。 寡兵ながら兵力が倍以上の敵を何度も撃破したり、敵側の思惑を阻止したりしてるなら、 それはそれで十分評価に値するんじゃないかな。 大軍を率いてもヘボい奴だっているんだし。 ( 禹のことじゃないよw) 張遼は知略にも富んでるみたいだし。 数千~一万人単位は張遼が自ら望んで曹操から与えてもらったのではと俺は勝手に推測。 寧ろ寡兵に因る機動性を重視したとも考えらるし。 あと個人の近況報告は別にイランよww 884 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 16 17 56 ID QjzgOT3i0 枠が余ったら別時代に持ち越しでいいと思うけどな 885 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 19 22 08 ID bvTR+Zg/0 だったら後漢は曹操だけでいいよ 886 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 21 35 09 ID yBMgK+U/0 俺あんましこの時代知らないんだけど、 新末群雄(劉秀軍除く)に骨のある奴っておらんの? なんか、全く話題が出てきてないんすけど。 887 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 21 57 42 ID NT9K+D4vO 骨のあるやつといったらカイゴウとか延岑とかかな、個人的には延岑が好きだけど ただやっぱ圧倒的に劉秀軍が強過ぎて他のやつらは霞んでしまうな 888 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 22 00 11 ID GioyAU1BO 荘尤はガチ 889 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/02(金) 22 01 41 ID vMSepamz0 あるにはあるわなぁ… 劉秀初期で言えば、邯鄲の王朗とか(耿弇によってあぼ~ん) 後には徐州の董憲とか(劉秀自らの速攻であぼ~ん) さらにもと故郷でもある南陽での鄧奉の乱(これも劉秀の陣頭指揮であぼ~ん) 荊州の秦豊(岑彭にあぼ~ん) あとは隴西、四川の大物くらいだが、どうも劉秀陣営が強すぎてどうしようもないって感じだなぁ。 反乱や割拠している地点は、どの時代にも通じる要衝でもあるわけだから(鄴や徐州、揚州、荊州、隴西、四川といえば、分裂期にはなんらかの勢力が割拠する)、そう見劣りするわけでもないし、鄧奉は微勢力ながら、劉秀を結構苦しめてはいるんだけど… 890 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 22 06 55 ID GioyAU1BO 劉子輿は王郎です 朗だと于禁を推薦した将軍です 891 1 2007/02/02(金) 22 08 46 ID 4PZLSFbn0 【名前】段ケイ 【時代】後漢 【推薦理由】 泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙三万余人を 大いに破って斬首すること万余、これを鎮圧した。 焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が隴西、金城を侵したため、 一万二千騎を率いてこれを撃破。首二千級を斬り、捕虜数万を得た。 羌が張掖を侵すと、大帥を斬り、千六百人を殺し、さらに首三千余級を斬った。 勒姐、零吾種が允街を囲んだため、救援に向かい、数百人を斬った。 羌五六千人が武威、張掖、酒泉を侵すと、護羌校尉となって三千余戸を降伏させた。 万余の兵を率いて勒姐種を撃破し、その酋長を斬り、四千余級の首を得た。 復た勒姐種を撃ち、四百余級の首と二千人の捕虜を得た。 当煎種を湟中で撃ち、首級数千を得た。 西羌と戦って斬首すること二万三千級、捕虜数万、家畜八百万頭を得て、 万余戸を降伏させた。 892 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/02(金) 22 12 41 ID vMSepamz0 890 あ、ほんとだ。 そういば、前スレで五代のとき別の人に自分も誤字を指摘したけど、最初Why?になるのがわかったw サンクス。 893 2 2007/02/02(金) 22 29 40 ID 4PZLSFbn0 【推薦理由2】 当煎の諸種が反乱を起こして武威を攻めようとしたため、 これを撃って、斬首すること三千余級。 西羌はここにおいて鎮圧された。 征西将軍馬賢を戦死させた東羌先零は何度も三輔を攻め、 朝廷には討つことが出来ず、皇甫規、張奐もこれを鎮圧できなかった。 段ケイは万余人を率いて、先零諸種を逢義山で撃破し、 斬首すること八千、得た家畜は二十八万頭に及んだ。 羌を奢延澤で破り、追撃してさんざんに打ち破った。 羌を討って一万九千級の首を斬り、数え切れないほどの戦利品を得た。 百八十戦して、三万八千六百余級の首を斬り、 牛馬羊騾驢駱駝四十二万七千五百余頭を得た。 段ケイ軍の戦死者は四百余人であった。 後漢後期の最大の外患であった対羌戦争において常勝を誇り、 名将馬賢ですら勝てなかった東羌をも破った。 同時代の名将としては皇甫規、張奐がいるが、 段ケイの武勲はひときわ大きく、頭一つ抜けているように思われる。 戦略眼に優れ、東羌討伐の際には張奐との論争に勝っている。 士卒を手厚く遇し、苦しみを同じくしたため、皆喜んで段ケイのために死戦した。 宦官と手を結んで富貴を得たが、彼の武勲を損なうものではないだろう。 894 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 07 07 48 ID ZDh9khbT0 樊崇を推したものだが、 鄧禹が『へっぽこ』という評価については反論すると http //www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/touu.htm これを見ると、前半だけを見ると『名将』といっても過言ではない気がする。 光武帝が重任を与えたのもただの調整役ではとどまらないだろう。 鄧禹が無様な姿を見せたのは赤眉との戦いだけ。 そのため、ここまで評価が低いのは不当に思える。 鄧禹が馮異の意見を聞かなかったのも、鄧禹なりの算段があったかも知れない。 (失敗しているにしても) 鄧禹が弱いのではなく、樊崇が異常なまでに強かったと解釈するのが自然な気がするが また、樊崇を推す理由として、鄧禹の参謀として、馮異がいたこともかえってプラスになる。 樊崇は馮異を破ったともいえる。 鄧禹が馮異の意見をきかなかったせいにしても、馮異を野戦で敗走させたことに変わりはない 895 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 07 33 21 ID ZDh9khbT0 自分なりにこの時代の議論をまとめると、 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、班超、曹操 【候補】 耿エン、岑彭、呉漢、賈復、祭遵、馬援、樊崇、段ケイ、馬賢、張奐、虞[言羽] 皇甫崇、孫策、周瑜、張遼 こんなとこか? 上の四人は確定でいいと思うが 耿エンは後半活躍してない点、岑彭は暗殺された点で議論の余地があると思うので 候補にとどめた 896 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 12 00 05 ID 4JGXh3Gh0 895 多分おちるだろうとは思うが、候補に厳尤も入れておいてくれ。 897 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 15 38 30 ID N3vN9XjlO 895 樊崇、段ケイは確定にしても良さそうだが諸兄どうだでしようか? 樊崇は光武帝には負けているが緑林・更始帝軍を倒し、トウ禹を三度も打ち負かしている。 一応、天下獲っており、欲得抜きの性格で人々から慕われていた点も考慮しました。 段ケイは対羌戦争において数多くの武勲を挙げ、 馬賢ですら勝てなかった東羌をも悉く平定していますし 十分資格を満たしていると思います。 896 取り敢えず厳尤の戦績を挙げていただけないだろうか? 898 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 17 03 46 ID cAAjmUXU0 周瑜確定でいいんじゃない? 孫策時代も戦ってるし、江陵を赤壁の兵力そのままで一年で墜としたのはヤバイと思うんだけど 899 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 18 43 45 ID dptrkRIWO 耿エンは確定でいいと思う あと岑彭に関してだけど、暗殺されたことと名将の資質とはあんま関係無いと思うけどな 900 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 19 51 58 ID y2qYHba00 諸葛孔明が入っていないのはなぜ。 901 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 20 00 14 ID c/Fg+rhNO 900 入れたいんなら三国まで待て 902 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 20 03 47 ID y2qYHba00 ゴメン。 903 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 50 24 ID T/219OKK0 名相ならともかく、どう解釈すれば正史の孔明が名将に入るのか聞きたい・・・ 904 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 55 03 ID E2PKen/O0 903 防御に回って劣るとは思わんが、攻勢に出た場合の戦績は芳しいとは言えないからなあ。 会戦に及んだ時の強さはともかく。 905 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 55 40 ID 7YsTVlT/0 一応自分が指揮した戦闘はたいてい勝ってるからな 名将までは行かなくても普通に有能ではある 906 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 00 08 ID E2PKen/O0 まあ本人の言うように 「運籌策於帷幄之中、吾不如子初遠矣。若提枹鼓、會軍門、使百姓喜勇、當與人議之耳」 と言ったところなんだろうな。 907 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 09 05 ID T/219OKK0 904 905 孔明が獲得した領土上げてみるべし(・・・もしあったらだが) 入蜀はホウ統、漢中は法正、南蛮は李恢・張ギョクだから 908 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 21 12 ID E2PKen/O0 907 陳式が武都・陰平を平定できたのは諸葛亮が郭淮を牽制してたから。 南蛮も高定らの反乱の時に南征して平定してる。 この時、李恢は昆明で倍の軍勢に包囲されたが策略を用いて突破という活躍をみせたが、その後諸葛亮に合流してる。 909 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 30 51 ID N3vN9XjlO 905の見解が妥当だろうな。 つ 果てしなく議論が続きそうだし諸葛亮の話はもういいだろ。 他のスレで散々やりやってんじゃん… 910 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 37 39 ID E2PKen/O0 じゃあ今すぐにでも諸葛亮の話をしたい人はとりあえず↓でことで。 【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1168572076/ 911 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 22 45 23 ID dptrkRIWO とりあえず後漢を確定させよう その後で好きなだけ諸葛亮について語ればいい 891を改めて読んでみたけど、段ケイは確定としてもいいような気がする 912 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 23 56 15 ID 4JGXh3Gh0 後漢は三つに分れるね。 1新末から建国・統一戦(光武帝関係) 2西北の対異民族戦争 3董卓以降の末期 1の代表で劉秀、2の代表で班超、3の代表で曹操は確定でいいでしょう。 それぞれで二番手を出すとすれば1で樊崇か馮異、2で段ケイか皇甫崇、3で孫策か周瑜 となりますかね? 913 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 00 48 30 ID 3I3Pn0e20 樊崇支持者が多くてよかった。ついでにトウ禹の名誉回復も少しできたし (あまりにもトウ禹が無能なら、光武帝の減点材料にもなりかねないし) 自分的には、劉秀、馮異、耿エン、岑彭、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜 の十名。 馬援が抜けたのは、活躍が地方反乱が相手なのと、最後に計略を誤り、 耿エンの弟である武将の耿舒からぼろくそに言われているせい。 悲劇的な最後と人格で高名があり、『勇将』の方がぴたりくる。 それにさすがに光武帝陣営六名は多いと思うので、群雄代表の樊崇をいれた方が バランスがいいような気がする。 段ケイも支持者が多いので入れる。後漢は『戦争が強すぎて滅びた』といわれるほど 異民族には強かった。その代表者として選んだ。 (国力差もあるのでさすがに一人でいいと思う) 自分で推した孫策を抜けたが、これは周瑜が三国に含まれると思っていたから。 南北朝の端をつくり、三国時代の幕開けをつくった周瑜の方がふさわしいと思う。 張遼については、曹仁、夏侯淵、張コウ、徐晃、関羽、呂蒙らと三・戦板や様々なサイト で誰が上か延々とこれからも論争中である。つまりは大きな差はないといえる。 孫策が落ちたのでこれも落とした。 異論があると思うけど、こんなものでどうかな?(次点は馬援ということで) 914 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 01 59 02 ID wCWAbGbP0 913 いい線いってると思う。 個人的には、それでも光武帝関係で五人かよと思うが、じゃあ誰を抜いて代わりに 誰を入れるのかとなるとかなり悩む。 あとは周瑜が悩みどころか。でもここも誰を代わりにするかが難しいな。 915 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 04 24 52 ID 561ANtKWO 913 いいんじゃないかな。 馬援にはまあ涙を飲んでもらうわ。勇将と言ってくれてるし。 光武帝陣営には凄いのが犇めき合ってるので、 個人的には多く入るのは仕方ないんじゃないかと思うけどな。 916 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/04(日) 11 14 00 ID Y86/aXwU0 913 呉漢と岑彭はどっちか落として四人に削るというのはどうやろ? 両者戦歴似とるし。戦功なら呉漢、人格なら岑彭、ぐらいの差やないかな。 で、後漢末に一枠増やして孫策か張遼を入れるという案を提示したい。 張遼挙げたのは俺やから、ここは公平を期して孫策かな。 917 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 11 40 17 ID wCWAbGbP0 916 孫策と周瑜は、入れるならどちらか一人じゃないですかね? 後漢末にもう一枠つくるなら、田中芳樹にならって蜀陣営から一人といきたい ところだが…いないんだよなあ。 918 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/04(日) 11 44 48 ID 74slseESO 個人的には武闘派の代表として呉漢を残して岑彭は次点に回すのでいいんじゃないかなと思う で後漢末から一人入れるなら自分も孫策を推す 919 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 11 52 50 ID RNjeXcsr0 917 じゃあ、間を取って孫瑜で。 920 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 12 12 16 ID K7hVKxJT0 後漢末なら、黄巾平定とか涼州討伐で名をはせた皇甫嵩の方が張遼や孫策よか上だろ 後漢の対羌族の討伐戦のほとんどの原因は、劉秀の洛陽奠都に帰趨するところ大でしょうな どう考えても、関中から河南にまで絶対国防圏を後退させたのは失策だろう 長安はおろか、首都洛陽まで羌族に攻め込まれておいて 913の「戦争に強すぎて滅びた」は ちょっと贔屓の引き倒しじゃないかい? 馬賢と涼州三明の皇甫規、段ケイ、張奐の中から一人選ぶとすると、あとは好みの問題だからな 馬賢の場合は失地回復、戦歴の長さ、何より羌族討伐戦のパイオニアとして 段ケイは東羌を悉く平らげた当たりがポイント高い うーん、馬賢の方を俺は推したいが 921 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 12 31 23 ID eC6DRx970 920 段ケイは確定でいいのでは。 指摘どうり馬賢より功績は上なんですし。 孫策より皇甫嵩の方が俺もいいと思います。 曹操が登場するまで皇甫嵩が黄巾賊を討伐しまくっていたんだしこの功績は大きいと思います。 922 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 13 07 08 ID wCWAbGbP0 たしかに、国家に対する功績では間違いなく皇甫嵩ですな。 923 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 13 42 30 ID zzI2Diy4O 917 敢えて蜀から選ぶなら劉備だろうけど、無理に選ぶ必要もないでしょう 924 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 22 02 54 ID eC6DRx970 【新・後漢】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜、皇甫嵩 呉漢を残して岑彭を外しては?という意見があったので岑彭は次点にしてみました。 残りの一枠は孫策を推す声が多いですが 孫策より皇甫嵩の方が功績が上だと思いますがいかがですかね? 馬賢を推す意見もありますが段ケイは東羌を悉く平らげている点を 考慮して段ケイを確定にしました。 諸兄の意見を参考にして考えてみました。 取り敢えずこんな感じですがどうですかね? 925 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 22 05 28 ID bcCeBJrY0 俺もそれでいいと思う 孫策は早死しすぎたね 926 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 01 03 15 ID E8pEgwyL0 推薦 名前:陳規 時代:北宋末期~南宋初期 推薦理由:もとは一地方の県令というしょぼい職ながら、北宋~南宋の過渡期において 現地住民に請われ留まり徳安府を大~中勢力から少なくとも九度の侵攻から守りぬき 鎮撫使(ミニ宣撫使:宣撫使は五大軍閥の主将が歴任した大官)になった。 文官出身で、しかも実績のみでこの大責をまかされたと断言してよいのはこの時代では彼のみ。 本人の武力には疑問符が付くが、火槍(限定的火炎放射機能を持った槍)を開発するなど その活躍は一介の有能な文官では説明がつかない。 「守城録」という防衛戦の専門書としては墨子以来の著作も遺している。 順昌府の戦いで劉錡と共に宗弼の軍を撃破する。 劉錡が岳飛効果の恩恵を受けているため陳規は単に清廉潔白な官僚と思わてる節も多い。 張巡・袁崇カンと共に数少ない守りの名将・・・かもしれないが 撃破した有名どころは所詮順昌府の宗弼一回きりで、その時は皇帝親衛隊を引き連れた 劉錡も一緒だったというネックはある。 しかし劉錡の順昌府以前の戦歴はそれほど振るわないという点と、失策らしい失策は 見られないという手堅い点から推挙する理由は十分だと思う。 こいつを候補から外すくらいなら、同じように劉錡を外しても良いと思う。 ・・・でも知る人ぞのみ知る名将という感じもするし、複雑である 927 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 16 05 25 ID l7X58MU20 924 周瑜を入れるぐらいなら、岑彭を入れて欲しい。 切り取った領土の広さ、撃破した敵の数、 独立した指揮権を有して戦った期間、 いずれも岑彭は周瑜を上回っている。 928 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/05(月) 17 20 18 ID jKij5xHO0 927 戦略構想では周瑜のほうが上では? 益州を取って荊州あたりをそうついとる劉備陣営を潰し、 長江以南を平定して 一足飛びに南北朝時代を確立させようとした戦略眼は 当時の将帥たちの上を行っとると思うんやけど。 まぁ、準備万端整ったところで病死したってのが痛いか。 ともあれ、 孫策に使えてからほぼ一生涯に渡って独立指揮権を任されとったわけやし、 将才では負けてないと思う。戦術活動の成果としては岑彭のが上か知れんけど、 大局を見極める目は周瑜やろ。 それに、前期四人、中期二人、後期三人のバランスもあるけんね。 光武帝の麾下があんまり入りすぎるとバランス崩れるやろ。 他所の時代やったらみんな軽く10傑入りできる将器の持ち主だけに、 斬り捨てるのは実際惜しいけど。 929 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/05(月) 17 23 17 ID jKij5xHO0 928、間違えた。前期四人、中期三人、後期三人やわ。失礼した。 930 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 14 21 ID l7X58MU20 928 実現されなかった戦略構想は実績とは言えない。 また、孫策時代の周瑜は孫策の指揮下や後方支援で動くことが多く、 独立した指揮権を有して戦ったのは孫策死後。 大きな戦いで指揮権を握ったのは、赤壁が初めて。 後漢を代表する名将というには、実績が足りない。 大局を見極める目があるというだけでは、 岑彭の実績には及ばない。 バランスに関しては、実績のある武将を入れられるなら、 崩れてもかまわないと思う。 どうしてもバランスを崩したくないというのなら、 周瑜よりはるかに実績の多い馬賢を入れた方がより釣り合うように思う。 931 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 18 39 56 ID pT1BwXegO 流れからするとバランス重視の方がいいをじゃない? 俺は周瑜を馬賢に替える案に賛成。 932 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 47 00 ID 9qXibB7s0 水軍で陸戦をする無茶をやらかす周瑜 933 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 49 15 ID 2S0yxpz10 周瑜は赤壁のお陰で一発屋のイメージが強いし 益州を取って曹操に対抗云々は既に甘寧が提唱しているからな。 それなら寒門出身で一兵卒から出世して 最後は呉軍総司令格までのし上がった呂蒙を入れたい。 934 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 09 32 ID M9KEYhb80 933 周瑜は赤壁で曹操の南下を防ぎ、曹操麾下の猛将曹仁守る江陵を確保。 それに対して呂蒙は2度にわたる荊州侵攻で見せた手腕は鮮やかだが、相手関係を考えれば実績は落ちる気がする。 935 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 18 47 ID 2S0yxpz10 相手関係ねー。 確かに(公称)二十万の曹操軍を破った周瑜と比べると 呂蒙の相手は関羽だからね。 でも名族出身で先祖に太尉を出した周瑜はスタートの時点で恵まれた感がある。 ちなみに虎穴に入らずんば虎子云々の初典は三国志の呂蒙伝。 936 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 31 25 ID IFh09vNV0 935 確か成立時期の古さは三国志のが後漢書より先だったっけ? 呂蒙伝が初典とは知らなかった そういう言葉が班超の時代から残ってたか 後漢書作った范曄が三国志から拝借したのかどっちだろう 937 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 31 36 ID ZnAMmgaI0 935 班超じゃないの? 938 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 21 14 35 ID gkuHnGev0 やっぱ周瑜は議論のタネになるか。 ただ、 924の他の人選にはほぼ文句なしってことでいいのかな? ってことは 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、皇甫嵩、曹操 を確定として、 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜からってことでよろし? 939 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 21 37 51 ID 9qXibB7s0 あえて樊崇を抜くという選択肢もある 時代のバランスも含まれてランクインしてる面もあるし 940 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 22 13 00 ID pT1BwXegO 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいと言う意見が出てるが、 周瑜より岑彭、馬賢の方が功績は上回ってるし、周瑜は外してもいいんじゃない? 光武帝陣営からは4人でいいと思うし、先程も言ったが残りの一枠は馬賢がいいと思う。 あと俺はあえて樊崇を抜くという選択肢には反対だな。 941 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 22 34 54 ID 4mxDS0egO たまにいわれる光武帝陣営から出しすぎ、って意味がよくわからん 実力があるなら、たとえ後漢10傑が劉秀陣営で埋め尽くされてもいいんじゃないの? と素人は思う 942 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 22 35 48 ID Qroz/e/Y0 逆に実力で決まるんなら曹操で全部埋まるだろ 943 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/05(月) 23 04 38 ID Arz6A/GO0 942 曹操が尊敬する光武帝を差し置いてか? なにか強い推薦理由がありそうだが…? 944 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 14 40 ID gkuHnGev0 941 その実力の優劣どうやって量るのか、万人に納得されられる方法があるのならそれでもいいよ。 しかし実際には同時代で敵対対決するとか同陣営で評価や功績や行賞に明確な差がつけられる のならまだしも、同じ王朝でも別の時代に別の戦争でそれぞれ活躍した人物の優劣なぞ付けられ ようがない。 だったら、一つの時期陣営に偏らずまんべんなく選出するようにするというのは一つの解決法。 乱世に一地方の平定に活躍して平和をもたらした人物と、対外戦争に活躍して国難を排除した人物。 どちらを上とするかなんて、功績のどの部分を重視するかによって変わり、結局個人の趣向で選出 するのと大差ない。 945 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 21 05 ID GJXoeUvW0 劉秀って、一端滅亡した国を中国史上で唯一人、復興させた 人じゃなかったっけ。 それだけの偉業をしてる人間の陣営だから、選ばれる人間が多 くなっても妥当でしょうね。 946 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 33 12 ID 1Zj6/ayY0 でもほとんど別物だからな 名目さえ復興ならいいのだろうか、という問題はある 947 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 34 07 ID 9qXibB7s0 そりゃ名前だけでしょ?>復興 前漢と後漢は別物よ、別物 948 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/05(月) 23 36 42 ID Arz6A/GO0 945 名文的には復興ではあるけど、中身は別の王朝なんだよね。 たまに、漢朝四百年とかいうけど、あれはあまりにもまとめすぎな表現で、正しくはない。 劉秀陣営が非凡なのは、常に相手よりも少数で戦いに勝ち続けたところにある。復興を成功させたことだけではないということ。 でもまぁ、バランスをとる意見には賛成ですな。 949 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 23 56 47 ID SAxiv0vUO 【名前】延岑 【時代】新末~後漢初 字は叔牙。新末の混乱に乗じ挙兵する。 赤眉軍との杜陵の戦いに於いて諸戦は破れるものの、その後態勢を立て直し大いに破り、赤眉軍に決定的な打撃を与えた。 その後は劉秀勢力と死闘を繰り返すことになる。 他の群雄が次々と劉秀に殲滅されたり降伏していく中で彼だけは劉秀に決して屈することは無かった。 幾度も劉秀配下の名将に敗れながらも、一度はトウ禹を破る等劉秀を苦しめ続け決して反光武の姿勢を諦めなかった。 結局流れながれて蜀の公孫述の元にたどり着きそこで劉秀に対する最後の抵抗を試みることになる。 成都を大軍に包囲され弱気になった公孫述に対し 「男児たる者正に死中に生を求めるべきです!居ながらに窮してはなりません。 財物は集め易いもの、これを惜しむこと無きように。」と進言し これにより財物を散じて得た敢死の兵五千人を率い、 劉秀軍の先鋒であった呉漢を計略をもって破った。 この時呉漢は落馬して水に落ち危うく死にかけるところであった。 さらにその後ゾウ宮の軍を三度破る等意地を見せるも大勢を覆すことは出来ず 結局態勢を立て直した呉漢の軍に敗れ公孫述と共に族殺された。 950 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 04 19 25 ID x2IBZ7jtO 945 バランスを重視の方がいいって方向で話を進めているのに、 無理に光武帝陣営を増やす必要はないじゃないか? 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいだけだろ?違うのか? 951 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 05 16 26 ID qWNDLA7b0 942 短期間で統一を果たした光武帝陣営と統一できないまま終わった曹操陣営では雲泥の差。 何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。 実力からいえば敗北が多い曹操はトウ禹と同クラスと解釈されてもおかしくない。 武力で政権をとれたのでランクインできただけとも思える。 曹操がこの程度だから、彼を苦戦させた周瑜や劉備の評価も低い。 とにかく、自分は岑彭を落とすことには反対。統一政権下のもとの異民族討伐や傑出した英雄が あらわれず、乱世がえんえんと続いた後漢末と復興を名目とはいえ、新王朝を作った光武帝と では差がでるのは当然。 また、この選出ではバランスや功績と同時に、将としての軍略や戦いの強さも重要と思う。 岑彭の将才は相当なもので外すには相応な理由がいると思う。 自分的には、功績は確かに大きいが、それほど傑出した戦いぶりをしていない皇甫嵩を落とす べきだと思う。腐敗していたとはいえ、後漢の軍の指揮を大部分まかされ、多数の兵で民衆反乱に 過ぎず戦闘経験も浅い黄巾軍と王国を破ったぐらいでは『良将』の域を超えないのではないか。 それがだめなら、周瑜を外すべき。孫策死後、曹操が袁一族と戦っていたころ 劉表や黄祖などを相手ほとんど国力を伸ばせなかった手腕はこのリストにあげる には不足かと思う。曹操がイメージで強いと思うから周瑜が入るわけで、曹操がトウ禹や苻堅と同じ 凡将クラスには勝てても、良将クラスには勝敗を繰り返してなんとか勝ち、名将には負ける レベルと思えば納得がいく。 942が馬鹿なことを言うものだから、感情的になっているかも知れないが 判断そのものは誤ってはいないつもりだ。だから曹操を外せとはいわない。 後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。皇甫嵩か周瑜を外してほしい 952 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 07 45 49 ID 1IZag9DG0 951 いや、充分感情的になりすぎてると思うよ 後漢・三国の連中を不当に貶めてやいないか。 953 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 08 17 17 ID g6tnfLu80 951 >何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。 >曹操がこの程度だから、 >後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。 周瑜や皇甫嵩を外すべき理由には一考に値する物があるのに、感情的になりすぎて台無し。 まずは相手に話を聞いてもらえるように提案しないと、逆方向に行っちゃうよ。 954 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 08 29 34 ID aUi93BeQO 951の考え方で行くと、たった十年程度で亭長から天下統一した劉邦とその将たちの評価が低すぎるな 955 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 10 26 48 ID d+GgwL/rO 周瑜が入らないとなると後漢末~三国志の人物がほとんどランクインしなくなるような… 956 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 10 42 34 ID dM68cmJL0 無理に選出する必要はないと思うのだが 957 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 11 07 18 ID x2IBZ7jtO 多少バランスが崩れても周瑜を外し岑彭を確定にして、 皇甫嵩に反対意見が無ければ現状維持、反対意見がが有れば馬賢を確定入りにすればいいんじゃない? 無理に後漢末~三国志から選出する必要はないと思うのだがと言う意見もあるし。 958 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 11 31 25 ID XFtBaG8O0 956 同意。周瑜はいらないと思うが。 959 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 08 57 ID oWFp0mNu0 951 そうやって評価するのなら、比べるのなら劉秀と曹操、劉秀配下と曹操配下でするべきでしょう。 キッツイことを言えば、天下を統一したのは劉秀であって岑彭たちはその配下。 「相手のレベルが低いからそれに勝っただけの曹操も凡将レベル(あるいはその逆)」 なんて、それこそ程度の低いちゃもんにしか聞こえない。 日本史戦国の方でよく聞かれる「信長は周囲がザコばかりだったから勢力拡大できたんだよ」 同じことだな。 こんな主張がまかり通るのなら、「光武帝の時代には、敵に無能しかいなかったから統一できた んだよ」なんて阿呆ないちゃもんも成立してしまうわな。 念のためいっておきますが、私は信長の周囲も光武帝の時代にも、敵はザコしかいなかった なんて思ってませんよ。もちろん、後漢末もね。ですからそのテの議論はやりません。 960 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 17 20 ID v5lnbEtm0 後漢末は低レベルってのを示さないと、周瑜は外せないような。 961 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 20 42 ID d+GgwL/rO 取り敢えず周瑜の事跡と岑彭の事跡を書きだしてみて皆で比較検討してみてはどうだろうか? 962 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 12 45 59 ID aUi93BeQO 逆に考えるんだ 後漢末はどんな優れた人物でも容易には覆せない状況だったんだと 100m走で100m10秒台出した選手と、100mハードルで出した11秒台出した選手を見て、それだけで前者が優れていると断定するようなものではないか? 963 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 13 59 01 ID oWFp0mNu0 962 まあアヘン戦争や義和団事件を個人の将才で覆せたとは思えませんしねえ。 ところで、次スレどうしますか? 964 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/06(火) 16 14 55 ID AYptQ9tP0 963 ですね。 個人の将才だけでかたがつくなんて思ってる人はここにはいないだろうけど、時としてそのときの政治的背景や人々の世論といったものを無視しがちに思う。 劉秀の生きた新の時代は、漢の劉氏が不遇に扱われ、その不満や不安が劉氏擁立というかたちで現れた。 劉秀は後発ながらそれにのり、更始帝にはない公平さでもって部下が働きやすいような環境を与えている。 当時劉氏復興の世論が各地にはあり、劉氏擁立や血統を主張して、それ以外の勢力は大義名分的に弱かったといえる。 こういう流れで後漢末を見てみると結構興味深い。 曹操は後漢王朝の中興の臣だけど、一面では君側の奸ともとれる。これは後漢王朝を保守しようとする人々の世論の後押しがやや弱く、漢朝の臣と曹操独自の臣との結びつきが思うほど強固ではなかったのではないか。 曹操が戦線を延ばした先で負けているのは、そういうところにあると思うし、またその先で曹操を阻み、分裂を決定付けたのは孫権軍閥だということ。 曹操軍閥から離反せしめなおかつ撃退した周瑜という将軍の功績は、戦績以上に大きいのではないか。 自分は五代の流れからも、こういった独立国が誕生する瞬間、それに関わった将や臣たちの功績は高く評価できると思う。 とすると、とーぜん劉備も評価するに値するわけだけど… さて…(個人的には目を見張るほどの将才があるとは思えない。劉秀と違って負けが多いし…) 965 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 17 38 16 ID d+GgwL/rO 新末は王莽の極端な復古政治に対する反発が漢朝の復興を望む声につながり 後漢末では宦官や外戚の専横による政治の腐敗に対して民衆の間に漢朝に対する失望が広がってたんじゃないかな 966 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 18 31 25 ID x2IBZ7jtO つまり 951が偏った知識で物事を判断してるだけだろ。 ただそれだけだ!! それより論議に移らないか。 967 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 18 38 30 ID Nm7SsIX+0 偏った知識というよりは偏った愛 968 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 18 55 32 ID IEjQPnlWO 965 漢朝に対する失望があったと同時に、漢朝や劉氏政権が正統だという意識があったみたいだからややこしい 劉備も劉淵も劉氏だからって王朝の名前を「漢」にしたし (だから纏まらなかったのかねぇ) 969 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 21 13 21 ID oWFp0mNu0 ところで、段ケイの「ケイ」って、「熲」この字でよかったっけ? あとなんで耿エンも漢字じゃないんだ? 970 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 21 58 35 ID snPB2VPW0 969 段ケイのケイは潁の字の水が火になった字。 971 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 22 53 07 ID snPB2VPW0 957 賛成。 955 それではダメなのか?十分な戦績を持った将軍が 曹操しかいない以上、仕方がないのでは。 964 歴史的意義よりは、実績の多寡で選んだほうがいいように思う。 でないと、一発屋がランクインしてしまう恐れがある。 周瑜は戦略家として優れているが、司令官としての実績には乏しい。 独立した指揮権を握ったのは二回だけ、切り取った土地は長江中流域のみ。 荊州を敵軍の三分の一の兵力で攻め取り、 公孫述から長江の制河権を奪い、巴郡を平定し、 蜀を平定する一歩手前で死んだ岑彭の方が、 遥かに一軍の将としての実績は豊富。 972 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 01 27 ID BnbC+3e00 関羽は? 973 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 08 16 ID LcIQFcaZ0 初期の4名、中期の3名は確定でいいと思う。 かわりに呉漢がはいっとるから岑彭には涙を呑んでもらうとして。 で、後漢末では曹操確定、周瑜内定。 馬賢を推す声は多いけども彼はむしろ後漢中期に活躍した人、な気がするし、 寡聞にして俺はこの人の具体的実績を知らん。 皇甫崇は実績十分ながら大兵力をもっての反乱平定は出来て当然、な気もする。 話を蒸し返すようやけども叩かれ覚悟で孫策、張遼を推したい。 まだこの二人引きずってんのかよと言われそうやが、 孫策は夭折ながら僅か2000の寡兵で挙兵して連戦連勝、東呉の礎を造ったし、 (これは弟に同じことやれゆーても絶対できんかったと思う) そのうえ一時曹操をビビらせた。 張遼は烏丸族殲滅やら合肥の対孫権戦で見せた活躍やらで曹魏陣営最高の名将やと思うし、 光武関係で4人出とるわけやから曹魏の将を一人追加てもいいかなと。 実績から言ってもし彼が蜀漢の武将やったら確実にランクインするやろーし。 ついでに、スレ立て技能ない俺がそろそろ次スレの容易せなねーと無責任に言っとく。 974 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 23 13 14 ID snPB2VPW0 973 馬賢の戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している 975 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 20 07 ID LcIQFcaZ0 974 サンクス。前漢の趙充国みたいな人やと思えばいいんかな。 976 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 20 25 ID snPB2VPW0 973 徒手空拳で大勢力を築いた奴は、他の時代にもいくらでもいる。 孫策だけをランクインさせるのは、不公平な気がする。 張遼は単独で指揮権を握った経験に乏しい。 司令官というよりは、司令官の下で働く良将といった感じ。 どうしても後漢末、三国からランクインさせたいという執念には頭が下がるが、 そこまで無理して良将レベルの人間をランクインさせる必要は無いと思う。 孫策や張遼を他の確定組と並べたら、遥かに遜色があるように思う。 977 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 26 47 ID LcIQFcaZ0 976 そうですな。個人の嗜好でランクインさせるべきでもないしね。 978 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 44 29 ID qWNDLA7b0 確かに感情的になったのは悪かったが、後漢末・三国は知識がかなり知られており こういう企画で優遇されるから警戒しすぎてしまったんだよ。 曹操軍の十位っていったら、曹洪クラスだろ。 他の時代と比較はできないといっても、光武帝や岑彭が曹洪以下といわれて馬鹿らしいと 思わない人がこのスレにいるか?こんなのが論議に入ってくると、スレそのものが 壊されかねないと感じてしまったんだ。悪かったよ 942はただの新手のネタかも知れぬし、忘れることにする。 でも、自分で書いてみて、やっぱり曹操はイメージ先行で強いと思われすぎてると思う。 戦略は良いが、戦術はそれほどでもないのではというのが印象。 また、十六国は創始者全て入っているわけではないので、呉や蜀から無理に出す必要はないと思う ただ、歴史的意義を考えるなら周瑜だが、孫策の方が功績はでかい。だが若死にはいたい 三国で無理にいれるなら、この二人を外して益州を短期間で落とし、漢中を奪い、曹操を撃退した 劉備も検討してほしい。負け戦は多いが実績は大きい。 (逃げ上手も戦術のうちという説もあるし) 赤壁の勝利もこの人の存在が本当に影響を与えた可能性もある。 残り二人の枠は、皇甫崇を外して、岑彭と劉備でどうだろう? (孫策+周瑜が認められるなら別だろうけど) 979 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 23 46 00 ID /ii+IWQG0 961 岑彭 信義を守る義士で、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開、秦豊を滅ぼす、呉漢が隗囂に破れた際には殿軍として奮戦、公孫述討伐に活躍した。 その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。 周瑜 孫策が暗殺され、その遺言で孫家陣営の軍事責任者となる。 赤壁の戦いに於いて曹操の南下を受けると抗戦を主張し、それが決まると全権を委ねられた。 水軍に長けている孫権軍の長所を最大限生かし、曹操軍を完全に押さえ込み、曹操軍の軍船を焼き払う。 この戦いで、初めて曹操を撃退した武将として天下に轟いた。 江陵を攻め曹仁・徐晃らを撃破。牛渚の合戦、呉郡の戦い、黄祖討伐に参戦。 以上Webより抜粋 周瑜より岑彭の方が功績、将才は上だと思いますがいかがですかね? バランス無視なら岑彭、バランス無視なら馬賢のどっちかを確定入りにすればいいのでは? 980 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 51 05 ID aUi93BeQO 周瑜は曹操に対する完璧な廟勝の策を示したことも評価して良い 981 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 05 56 ID aIaoqkyB0 赤壁の敗戦がなければ曹操が天下を統一していた。 曹操陣営が劉秀陣営より評価が低いのはこれが理由。 もし曹操が天下を統一していたら劉秀陣営との評価は対等となったろう。 それほど周瑜の戦功は大きい。 もし劉秀が曹操の立場であったら天下を統一できなかった可能性もある。 よってここで周瑜を外すのは納得できない。 天下を統一したかどうかは同時代においての評価の物差しとはなっても、異なる時代間の評価の物差しとはなりえない。 と思いっきり周瑜に好意的な評価をしてみる。 982 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 07 15 ID K6Fq4ny8O 978 >逃げ上手も戦術のうちという説もあるし 檀道済ならともかく劉備の逃げ上手は全くの別物。 劉備じゃ話にならないと思うが・・・ >皇甫崇を外して、岑彭と劉備で云々 皇甫崇を外して岑彭と馬賢なら話はわかるがこれ又話にならないと思うが・・・ あと黄巾賊は只の民衆蜂起ではないと思うけどな。 貴方こそ後漢末~三国志をいろんなことイメージ先行で語ってませんか? 983 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 00 11 41 ID JZVX5tASO 皇甫嵩って正しく書いてる人少ないね 984 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 00 20 38 ID jhdIx4wjO あと一人他の誰かを抜いて周瑜と岑彭を二人とも入れるってのは無理かな? 985 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 38 45 ID Q6XBSgl40 樊崇抜いたらどうだろう。 986 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 00 40 02 ID km6BbKIv0 現状での確定は初期で4人、中期で三人、末期で1人やから、 抜かんでも入れようと思えば入るんやない? ただ、光武関係が多くなりすぎるのは個人的に歓迎できんわ。 優遇しすぎ、って感あるけんね。 まぁ、その優遇しすぎな叩き台出したのは俺なんやけど。 987 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 01 07 40 ID MJVknA0pO 986 馬鹿は黙ってろ 988 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 02 10 25 ID Ou6gNASC0 971 すべての一発屋とかいうのを、全部肯定する気はないけど、その戦果自体の難度なども考慮しなくては。 一回で戦闘を終らせ態勢を決めた場合、その戦略構想と戦術面での実行力は特筆に価するでしょう。 どういう意図で一発屋と分類しているかは、こちらの得心がいかないところだけど、周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが大きいわけで。 岑彭も神速の用兵を旨とした将で、すごいのは認めているし好きな武将ではあるが、安易に実戦経験が多くて勝ちも多いほうが名将、という判断はしかねる。 勝ち難きに勝ちてというのも名将と思えるわけで、戦績の多寡はむろん考慮はするけど、それをどの場面でも当てはめすぎるテンプレートにしては、悪いけど視野が狭くなると、そう考えるわけだ。 まぁその辺、一考レスということで。 周瑜と岑彭の件は、正直自分でも判断に迷っています。 989 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 07 51 49 ID K6Fq4ny8O >周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが でもな曹操側は水上戦が不得意、尚且つ水軍の大半は荊州の降伏兵で自前ではないし、 ホウ統、黄蓋の計略なども絡んでいたり、 いろんな要素が入り交じり決して周瑜一人の力で勝利したとは言えないような気がする。 990 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 09 33 49 ID EmdZipWL0 「名将」っていうイメージだと三国志は小粒な気がする ソウソウも将としては微妙 991 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 09 43 30 ID DSPHlkDY0 三国志の世界には勝ちっぱなしの将軍があまりいないからな ただ逆に全体のレベルは逆に高い気もするが 992 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 09 44 11 ID Ou6gNASC0 989 そりゃね。 自分も方々で将帥一人「だけ」の功績なんてない、とふれて回っているから、その点はわかるのだけど… 麾下に入った将をうまく使ったかとか、他軍との連携で主力部隊を統率したかとか、戦況を決定付ける重要なアクションをおこしたとか、そういう視点も必要と思う。 多くの将帥は、ある会戦や決戦で、やはり多くの計略やかけひきなどが介在して、将帥だけの手柄だとはいいきれない部分がある。 しかし、戦術能力には直接関係ないにしても、それを取捨選択し、戦略戦術の優位性に結びつけるのは将としての能力でもある、と。 別に周瑜だけに限ったわけではないけど、いつもいつも特定の臣下に軍事の全権を与えて前線に送るなんてことはないし、あってもそれが継続することも少ない。 一回の起用において、勝利せしめたのに一発屋と言われては不本意な場面も(今後)あるんじゃないかなぁ。 ああ、それと周瑜は外すには「惜しい」と思っているだけで、それを無理に入れろとは考えていないです。 993 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 09 48 47 ID sOfSQEo90 議論が白熱しているのはいい事だと思うが、 そろそろ新スレ立てないとやばくないか? 994 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 41 50 ID sOfSQEo90 スレ立てやるよ。 995 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 53 13 ID sOfSQEo90 スレ立て完了です。 【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/ 996 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 13 01 39 ID aIhWbTiK0 987 別にバカ言われるのはいいが、なにをもってバカと? 初期から劉秀、馮異、耿弇、呉漢の4人、 中期から段潁、樊崇、班超の3人、 末期からは曹操1人で皇甫嵩は確定に到ってないんやから、 現状での確定は八人。岑彭、周瑜ともに入る余地ありやと思うが。 雲台28将からの枠入りが増えすぎるのはどうやろって言っただけでバカ扱い? 997 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 13 22 48 ID JG4hHm9I0 皇甫嵩はまだ候補やと思っとったら、 確定に決まっとったんやね。 それやと二人入るっちゅーた俺が確かにバカタレやな。すまん。 998 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 22 51 ID sOfSQEo90 996 こういう輩の中には反応したりすると喜ぶのが多いから、 基本は無視の姿勢をとった方がいいと思うよ。 ◆oOLAqFKRBさんは過剰な反応を示すから、 ある意味からかわれてるんだと思う。 999 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 28 02 ID sOfSQEo90 それと、新スレに皇甫崇を確定にして、樊崇を候補に落としちゃったけど、 あくまで暫定(確定とは言っているが)的なものだから、 納得行かない人がいるなら議論を重ねる余地はあると思うよ。 1000 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 47 05 ID 4IdRe7Ru0 10000 1001 1001 Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】周勃 【性別】男性 【身長・体重】179cm・94kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力B 耐久A 敏捷E 魔力E 幸運E 宝具D 【クラス別スキル】 対魔力:E 魔術に対する守り。 無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。 単独行動:C マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクCならば、マスターを失ってから一日間現界可能。 【固有スキル】 剛毅朴訥:B 空気を読めないのではなく“読まない”気質。 敵対者からの対精神干渉や交渉話術などの抵抗能力に大幅なプラス補正。 代償として、対マスター間の軋轢を気にしない性質が表面化する。 相性の悪いマスターとの関係はさらに悪化する。 自陣防御:B 味方、ないし味方の陣営を守護する際に発揮される力。 防御限界値以上のダメージ削減を発揮するが、 自分はその対象には含まれない。 また、ランクが高ければ高いほど守護範囲は広がっていく。 パルティアン・ショット:B 遊牧騎馬民族 楼煩の、白兵戦を避ける一撃離脱戦法。 戦闘離脱と、離脱前の一射の命中判定に有利な補正を発生させる。 スキル名こそパルティアの名を冠するが、同様の戦術はほぼすべての騎馬民族が持っている。 劉邦陣営には騎射に優れた楼煩人がいたという逸話から、 半ばこじ付けに近い形で、陣営屈指の強弓射手たる周勃はこのスキルを得た。 【宝具】 『左袒の覚悟(ぎにしたがうもの、われにつづけ)』 ランク:D+ 種別:対軍宝具 レンジ:10 最大捕捉:1000人 衣服の左肩部分をはだけることで周囲を威圧する檄を放つ。 魔術的な抵抗能力を持たない者が檄に宿る強烈な怒気に中てられた場合、 ごく短期間ながら自身の兵として強制徴用することが可能。その際、兵は服の左肩を必ずはだける。 抵抗力のあるサーヴァントなどに使用した場合は、低確率でスタン状態を付与する程度の効果に留まる。 【Weapon】 『無銘・弓矢』 【解説】 前漢時代に高祖・劉邦に仕えた功臣。 沛県で機織業者兼、葬儀屋として働く傍ら、非常時には兵卒として従軍もした。 時期は不明ながら彼も劉邦挙兵時初期段階から付き従い、彼が漢王となってから三秦平定戦などで武官の才を開花させる。 八千余戸を与えられて、絳の地に封じられ、その後の諸侯叛乱鎮圧でも活躍。 寡黙にして剛毅朴訥な気質ゆえに多くの諸将や主君たる劉邦にも信頼を置かれ、 呂后死後に陳平・灌嬰らとともに呂氏を誅滅すると、文帝を擁立して丞相位を得るが短期間で辞職。 陳平没後に再度丞相となるもこれも短期間で辞し、その後叛乱の嫌疑を掛けられて投獄。 先述の剛毅朴訥さ(と言うか口下手さ)と、主君たる文帝が周勃を尊敬しへりくだっていたという複雑な背景から、 周勃の投獄は長引いたが、袁盎の取りなしによって釈放。 その際、獄吏から受けた扱いから「百万の軍を率いたことがあるが、獄吏がここまで強いとは思わなかった」と溢したという。 釈放後は絳に戻り余生を過ごした。武の諡号を奉られた。
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資治通鑑巻第十三 漢紀五 高皇后 元年(甲寅、前一八七) 1冬,太后議欲立諸呂爲王,問右丞相陵。陵曰:「高帝刑白馬盟曰:『非劉氏而王,天下共撃之。』今王呂氏,非約也。」太后不説,問左丞相平、太尉勃,對曰:「高帝定天下,王子弟;今太后稱制,王諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰;「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏;諸君縱欲阿意背約,何面目見高帝於地下乎?」陳平、降侯曰:「於今,面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」陵無以應之。十一月,甲子,太后以王陵爲帝太傅,實奪之相權。陵遂病免歸。 乃以左丞相平爲右丞相,以辟陽侯審食其爲左丞相,不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸於太后,公卿皆因而決事。 太后怨趙堯爲趙隱王謀,乃抵堯罪。 上黨守任敖嘗爲沛獄吏,有德於太后,乃以爲御史大夫。 太后又追尊其父臨泗侯呂公爲宣王,兄周呂令武侯澤爲悼武王,欲以王諸呂爲漸。 1. 2春,正月,除三族罪、妖言令。 2. 3夏,四月,魯元公主薨。封公主子張偃爲魯王,謚公主曰魯元太后。 3. 4辛卯,封所名孝惠子山爲襄城侯,朝爲軹侯,武爲壺關侯。太后欲王呂氏,乃先立所名孝惠子強爲淮陽王,不疑爲恆山王;使大謁者張釋風大臣。大臣乃請立悼武王長子酈侯台爲呂王,割齊之濟南郡爲呂國。 4. 5五月,丙申,趙王宮叢台災。 5. 6秋,桃、李華。 6. 二年(乙卯、前一八六) 1冬,十一月,呂肅王台薨。 1. 2春,正月,乙卯,地震;羌道、武都道山崩。 2. 3夏,五月,丙申,封楚元王子郢客爲上邳侯,齊悼惠王子章爲朱虚侯,令入宿衞,又以呂祿女妻章。 3. 4六月,丙戌晦,日有食之。 4. 5秋,七月,恆山哀王不疑薨。 5. 6行八銖錢。 6. 7癸丑,立襄成侯山爲恆山王,更名義。 7. 三年(丙辰、前一八五) 1夏,江水、漢水溢,流四千餘家。 1. 2秋,星晝見。 2. 3伊水、洛水溢,流千六百餘家。汝水溢,流八百餘家。 3. 四年(丁巳、前一八四) 1春,二月,癸未,立所名孝惠子太爲昌平侯。 1. 2夏,四月,丙申,太后封女弟嬃爲臨光侯。 2. 3少帝浸長,自知非皇后子,乃出言曰:「後安能殺吾母而名我!我壯,即爲變!」太后聞之,幽之永巷中,言帝病,左右莫得見。太后語羣臣曰:「今皇帝病久不已,失惑昏亂,不能繼嗣治天下;其代之。」羣臣皆頓首言:「皇太后爲天下齊民計,所以安宗廟、社稷甚深。羣臣頓首奉詔。」遂廢帝,幽殺之。五月,丙辰,立恆山王義爲帝,更名曰弘,不稱元年,以太后制天下事故也。以軹侯朝爲恆山王。 3. 4是歳,以平陽侯曹窋爲御史大夫。 4. 5有司請禁南越關市、鐵器。南越王佗曰:「高帝立我,通使物。今高后聽讒臣,別異蠻夷,隔絶器物,此必長沙王計,欲倚中國撃滅南越而並王之,自爲功也。」 5. 五年(戊午、前一八三) 1春,佗自稱南越武帝,發兵攻長沙,敗數縣而去。 1. 2秋,八月,淮陽懷王強薨,以壺關侯武爲淮陽王。 2. 3九月,發河東、上黨騎屯北地。 3. 4初令戍卒歳更。 4. 六年(己未、前一八二) 1冬,十月,太后以呂王嘉居處驕恣,廢之。十一月,立肅王弟産爲呂王。 1. 2春,星晝見。 2. 3夏,四月,丁酉,赦天下。 3. 4封朱虚侯章弟興居爲東牟侯,亦入宿衞。 4. 5匈奴寇狄道,攻阿陽。 5. 6行五分錢。 6. 7宣平侯張敖卒,賜謚曰魯元王。 7. 七年(庚申、前一八一) 1冬,十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。 1. 2春,正月,太后召趙幽王友。友以諸呂女爲后,弗愛,愛他姫。諸呂女怒,去,讒之於太后曰:「王言『呂氏安得王!太后百歳後,吾必撃之。』」太后以故召趙王,趙王至,置邸,不得見,令衞圍守之,弗與食;其羣臣或竊饋,輒捕論之。丁丑,趙王餓死,以民禮葬之長安民塚次。 2. 3己丑,日食,晝晦。太后惡之,謂左右曰:「此爲我也!」 3. 4二月,徙梁王恢爲趙王,呂王産爲梁王。梁王不之國,爲帝太傅。 4. 5秋,七月,丁巳,立平昌侯太爲濟川王。 5. 6呂嬃女爲將軍、營陵侯劉澤妻。澤者,高祖從祖昆弟也。齊人田生爲之説大謁者張卿曰:「諸呂之王也,諸大臣未大服。今營陵侯澤,諸劉最長;今卿言太后王之,呂氏王益固矣。」張卿入言太后,太后然之,乃割齊之琅邪郡封澤爲琅邪王。 6. 7趙王恢之徙趙,心懷不樂。太后以呂産女爲王后,王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姫,王后使人鴆殺之。六月,王不勝悲憤,自殺。太后聞之,以爲王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。 7. 8是時,諸呂擅權用事。朱虚侯章,年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍太后燕飲,太后令章爲酒吏。章自請曰:「臣將種也,請得以軍法行酒。」太后曰:「可。」酒酣,章請爲耕田歌,太后許之。章曰:「深耕穊種,立苗欲疏;非其種者,鋤而去之!」太后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之而還,報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之!」太后左右皆大驚,業已許其軍法,無以罪也,因罷。自是之後,諸呂憚朱虚侯,雖大臣皆依朱虚侯,劉氏爲益強。陳平患諸呂,力不能制,恐禍及己。嘗燕居深念,陸賈往,直入坐,而陳丞相不見。陸生曰:「何念之深也!」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下極富貴,無欲矣;然有憂念,不過患諸呂、少主耳。」陳平曰:「然!爲之奈何?」陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士豫附;天下雖有變,權不分。爲社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交歡太尉,深相結?」因爲陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金爲絳侯壽,厚具樂飲;太尉報亦如之。兩人深相結,呂氏諸益衰。陳平以奴婢百人、車馬五十乘、錢五百萬遺陸生爲飲食費。 8. 9太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝之,願守代邊。太后乃立兄子呂祿爲趙王,追尊祿父建成康侯釋之爲趙昭王。 9. 10九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之。國除。 10. 11遣隆慮侯周灶將兵撃南越。 11. 八年(辛酉、前一八〇) 1冬,十月,辛丑,立呂肅王子東平侯通爲燕王,封通弟莊爲東平侯。 1. 2三月,太后示犮,還,過軹道,見物如蒼犬,撠太后掖,忽不復見。卜之,雲「趙王如意爲祟」。太后遂病掖傷。太后爲外孫魯王偃年少孤弱,夏,四月,丁酉,封張敖前姫兩子侈爲新都侯,壽爲樂昌侯,以輔魯王。又封中大謁者張釋爲建陵侯,以其勸王諸呂,賞之也。 2. 3江、漢水溢,流萬餘家。 3. 4秋,七月,太后病甚,乃令趙王祿爲上將軍,居北軍;呂王産居南軍。太后誡産、祿曰:「呂氏之王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐爲變。必據兵衞宮,愼毋送喪,爲人所制!」辛巳,太后崩,遺詔:大赦天下,以呂王産爲相國,以呂祿女爲帝后。高后已葬,以左丞相審食其爲帝太傅。 4. 5諸呂欲爲亂,畏大臣絳、灌等,未敢發。朱虚侯以呂祿女爲婦,故知其謀,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,朱虚侯、東牟侯爲内應,以誅諸呂,立齊王爲帝。齊王乃與其舅駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平弗聽。八月,丙午,齊王欲使人誅相。相聞之,乃發卒衞王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王固善,勃請爲君將兵衞王。」召平信之。勃既將兵,遂圍相府,召平自殺。於是齊王以駟鈞爲相,魏勃爲將軍,祝午爲内史,悉發國中兵。 使祝午東詐琅邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王,自高帝將也。請大王幸之臨菑,見齊王計事。」琅邪王信之,西馳見齊王。齊王因留琅邪王,而使祝午盡發琅邪國兵,並將之。琅邪王説齊王曰:「大王,高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最爲長年,大臣固待澤決計。今大王留臣,無爲也,不如使我入關計事。」齊王以爲然,乃益具車送琅邪王。琅邪王既行,齊遂舉兵西攻濟南。遺諸侯王書,陳諸呂之罪,欲舉兵誅之。 相國呂産等聞之,乃遣穎陰侯灌嬰將兵撃之。灌嬰至滎陽,謀曰:「諸呂擁兵關中,欲危劉氏而自立。今我破齊還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭齊王及諸侯與連和,以待呂氏變,共誅之。齊王聞之,乃還兵西界待約。 呂祿、呂産欲作亂,内憚絳侯、朱虚等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之。欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未決。 當是時,濟川王太、淮陽王武、常山王朝及魯王張偃皆年少,未之國,居長安;趙王祿、梁王産各將兵居南、北軍。皆呂氏之人也。列侯羣臣莫自堅其命。 太尉絳侯勃不得主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商,令其子寄往紿説呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已佈告諸侯,皆以爲宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守藩,乃爲上將,將兵留此,爲大臣諸侯所疑。足下何不歸將印,以兵屬太尉,請梁王歸相國印,與大臣盟而之國。齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲以兵屬太尉。使人報呂産及諸呂老人,或以爲便,或曰不便,計猶豫未有所決。 呂祿信酈寄,時與出遊獵,過其姑呂嬃。嬃大怒曰:「若爲將而棄軍,呂氏今無處矣!」乃悉出珠玉、寶器散堂下,曰:「毋爲他人守也!」 九月,庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國産計事。郎中令賈壽使從齊來,因數産曰:「王不早之國,今雖欲行,尚可得邪!」具以灌嬰與齊、楚合從欲誅諸呂告産,且趣産急入宮。平陽侯頗聞其語,馳告丞相、太尉。 太尉欲入北軍,不得入。襄平侯紀通尚符節,乃令持節矯内太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉掲先説呂祿曰:「帝使太尉守北軍,欲足下之國。急歸將印辭去。不然,禍且起。」呂祿以爲酈況不欺己,遂解印屬典客,而以兵授太尉。太尉至軍,呂祿已去。太尉入軍門,行令軍中曰:「爲呂氏右袒,爲劉氏左袒!」軍中皆左袒,太尉遂將北軍。然尚有南軍。丞相平乃召朱虚侯章佐太尉,太尉令朱虚侯監軍門,令平陽侯告衞尉:「毋入相國産殿門。」 呂産不知呂祿已去北軍,乃入未央宮,欲爲亂。至殿門,弗得入,徘徊往來。平陽侯恐弗勝,馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂,未敢公言誅之,乃謂朱虚侯曰:「急入宮衞帝!」朱虚侯請卒,太尉予卒千餘人。入未央宮門,見産廷中。日食甫時,遂撃産,産走。天風大起,以故其從官亂,莫敢斗,逐産,殺之郎中府吏廁中。朱虚侯已殺産,帝命謁者持節勞朱虚侯。朱虚侯欲奪其節,謁者不肯。朱虚侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衞尉呂更始。還,馳入北軍報太尉。太尉起,拜賀朱虚侯曰:「所患獨呂産。今已誅,天下定矣!」遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。辛酉,捕斬呂祿而笞殺呂嬃,使人誅燕王呂通而廢魯王張偃。戊辰,徙濟川王王梁。遣朱虚侯章以誅諸呂事告齊王,令罷兵。 灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王舉兵,使使召魏勃至,責問之。勃曰:「失火之家,豈暇先言丈人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能爲乎!」乃罷魏勃。灌嬰兵亦罷滎陽歸。 班固贊曰:孝文時,天下以酈寄爲賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父爲功臣而又執劫,雖摧呂祿以安社稷,誼存君親可也。 5. 6諸大臣相與陰謀曰:「少帝及梁、淮陽、恆山王,皆非眞孝惠子也。呂后以計詐名他人子,殺其母養後宮,令孝惠子之,立以爲後及諸王,以強呂氏。今皆已夷滅諸呂,而所立即長,用事,吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言:「齊王,高帝長孫,可立也。」大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣。今齊王舅駟鈞,虎而冠。即立齊王,復爲呂氏矣。代王方今高帝見子最長,仁孝寬厚,太后家薄氏謹良。且立長固順,況以仁孝聞天下乎!」乃相與共陰使人召代王。 代王問左右,郎中令張武等曰:「漢大臣皆故高帝時大將,習兵,多謀詐。此其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新啑血京師,此以迎大王爲名,實不可信。願大王稱疾毋往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「羣臣之議皆非也。夫秦失其政,諸侯、豪桀並起,人人自以爲得之者以萬數,然卒踐天子之位者,劉氏也,天下絶望,一矣。高帝封王子弟,地犬牙相制,此所謂磐石之宗也,天下服其強,二矣。漢興,除秦苛政,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂爲三王,擅權專制;然而太尉以一節入北軍一呼,士皆左袒爲劉氏,叛諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲爲變,百姓弗爲使,其黨寧能專一邪?方今内有朱虚、東牟之親,外畏呉、楚、淮陽、琅邪、齊、代之強。方今高帝子,獨淮南王與大王。大王又長,賢聖仁孝聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王。大王勿疑也。」代王報太后計之。猶豫未定,卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余爲天王,夏啓以光。」代王曰:「寡人固已爲王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具爲昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳,從詣長安。至高陵,休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。昌還報。代王馳至渭橋,羣臣拜謁稱臣,代王下車答拜。太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉乃跪上天子璽、符。代王謝曰:「至代邸而議之。」 後九月,己酉晦,代王至長安,舍代邸,羣臣從至邸。丞相陳平等皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠子,不當奉宗廟。大王,高帝長子,宜爲嗣。願大王即天子位。」代王西郷讓者三,南郷讓者再,遂即天子位。羣臣以禮次侍。 東牟侯興居曰:「誅呂氏,臣無功,請得除宮。」乃與太僕汝陰侯滕公入宮,前謂少帝曰:「足下非劉氏子,不當立!」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去;有數人不肯去兵,宦者令張釋諭告,亦去兵。滕公乃召乘輿車載少帝出。少帝曰:「欲將我安之乎?」滕公曰:「出就舍。」舍少府。乃奉天子法駕迎代王於邸,報曰:「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衞端門,曰:「天子在也,足下何爲者而入?」代王乃謂太尉。太尉往諭,謁者十人皆掊兵而去,代王遂入。夜,拜宋昌爲衞將軍,鎭撫南北軍;以張武爲郎中令,行殿中。有司分部誅滅梁、淮陽、恆山王及少帝於邸。文帝還坐前殿,夜,下詔書赦天下。 6. 太宗孝文皇帝上 元年(壬戌、前一七九) 1冬,十月,庚戌,徙琅邪王澤爲燕王;封趙幽王子遂爲趙王。 1. 2陳平謝病。上問之,平曰:「高祖時,勃功不如臣,及誅諸呂,臣功亦不如勃,願以右丞相讓勃。」十一月,辛巳,上徙平爲左丞相,太尉勃爲右丞相,大將軍灌嬰爲太尉。 諸呂所奪齊、楚故地,皆復與之。 2. 3論誅諸呂功,右丞相勃以下益戸、賜金各有差。絳侯朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常目送之。郎中安陵袁盎諫曰:「諸呂悖逆,大臣相與共誅之。是時丞相爲太尉,本兵柄,適會其成功。今丞相如有驕主色,陛下謙讓。臣主失禮,竊爲陛下弗取也!」後朝,上益莊,丞相益畏。 3. 4十二月,詔曰:「法者,治之正也。今犯法已論,而使無罪之父母、妻子、同産坐之,及爲收帑,朕甚不取!其除收帑諸相坐律令。」 4. 5春,正月,有司請蚤建太子。上曰;「朕既不德,縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。其安之!」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟、社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也;呉王,兄也;淮南王,弟也,豈不豫哉?今不選舉焉,而曰必子,人其以朕爲忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也!」有司固請曰:「古者殷、周有國,治安皆千餘歳,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝平天下爲太祖,子孫繼嗣世世不絶,今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啓最長,純厚慈仁,請建以爲太子。」上乃許之。 5. 6三月,立太子母竇氏爲皇后。皇后,清河觀津人。有弟廣國,字少君,幼爲人所略賣,傳十餘家,聞竇後立,乃上書自陳。召見,驗問,得實,乃厚賜田宅、金錢,與兄長君家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不爲擇師傅、賓客;又復效呂氏,大事也!」於是乃選士之有節行者與居。竇長君、少君由此爲退讓君子,不敢以尊貴驕人。 6. 7詔振貸鰥、寡、孤、獨、窮困之人。又令:「八十已上,月賜米、肉、酒;九十已上,加賜帛、絮。賜物當稟鬻米者,長吏閲視,丞若尉致;不滿九十,嗇夫、令史致;二千石遣都吏循行,不稱者督之。」 7. 8楚元王交薨。 8. 9夏,四月,齊、楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。 9. 10時有獻千里馬者。帝曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行三十里。朕乘千里馬,獨先安之?」於是還其馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也。其令四方毋求來獻。」 10. 11帝既施惠天下,諸侯、四夷遠近歡洽。乃修代來功,封宋昌爲壯武侯。 11. 12帝益明習國家事。朝而問右丞相勃曰:「天下一歳決獄幾何?」勃謝不知。又問:「一歳錢穀出入幾何?」勃又謝不知,惶愧,汗出沾背。上問左丞相平。平曰:「有主者。」上曰:「主者謂誰?」曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢谷,責治粟内史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「陛下不知其駑下,使待罪宰相。宰相者,上佐天子,理陰陽,順四時;下遂萬物之宜;外鎭撫四夷諸侯;内親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」帝乃稱善。右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲強對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,人或説勃曰:「君既誅諸呂,立代王,威震天下。而君受厚賞,處尊位,久之,即禍及身矣。」勃亦自危,乃謝病,請歸相印,上許之。秋,八月,辛未,右丞相勃免,左丞相平專爲丞相。 12. 13初,隆慮侯灶撃南越,會暑濕,士卒大疫,兵不能隃領。歳餘,高后崩,即罷兵。趙佗因此以兵威財物賂遺閩越、西甌、駱,役屬焉。東西萬餘里,乘黄屋左纛,稱制與中國侔。 帝乃爲佗親塚在眞定者置守邑,歳時奉祀;召其昆弟,尊官、厚賜寵之。復使陸賈使南越,賜佗書曰:「朕,高皇帝側室之子也,棄外,奉北藩於代。道里遼遠,壅蔽樸愚,未嘗致書。高皇帝棄羣臣,孝惠皇帝即世;高后自臨事,不幸有疾,諸呂爲變,賴功臣之力,誅之已畢,朕以王、侯、吏不釋之故,不得不立。今即位。乃者聞王遺將軍隆慮侯書,求親昆弟,請罷長沙兩將軍。朕以王書罷將軍博陽侯;親昆弟在眞定者,已遣人存問,修治先人塚。前日聞王發兵於邊,爲寇災不止。當其時,長沙苦之,南郡尤甚。雖王之國,庸獨利乎!必多殺士卒,傷良將吏,寡人之妻,孤人之子,獨人父母,得一亡十,朕不忍爲也。朕欲定地犬牙相入者,以問吏,吏曰:『高皇帝所以介長沙土也。』朕不得擅變焉。今得王之地,不足以爲大;得王之財,不足以爲富。服領以南,王自治之。雖然,王之號爲帝。兩帝並立,亡一乘之使以通其道,是爭也;爭而不讓,仁者不爲也。願與王分棄前惡,終今以來,通使如故。」 賈至南越,南越王恐,頓首謝罪,願奉明詔,長爲藩臣,奉貢職。於是下令國中曰:「吾聞兩雄不倶立,兩賢不並世。漢皇帝,賢天子。自今以來,去帝制、黄屋、左纛。」因爲書,稱:「蠻夷大長、老夫臣佗昧死再拜上書皇帝陛下:老夫,故越吏也,高皇帝幸賜臣佗璽,以爲南越王。孝惠皇帝即位,義不忍絶,所以賜老夫者甚厚。高后用事,別異蠻夷,出令曰:『毋與蠻夷越金、鐵、田器、馬、牛、羊。即予,予牡,毋予牝。』老夫處僻,馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修,有死罪,使内史藩、中尉高、御史平凡三輩上書謝過,皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削,兄弟宗族已誅論。吏相與議曰:『今内不得振於漢,外無以自高異。』故更號爲帝,自帝其國,非敢有害於天下。高皇后聞之,大怒,削去南越之籍,使使不通。老夫竊疑長沙王讒臣,故發兵以伐其邊。老夫處越四十九年,於今抱孫焉。然夙興夜寐,寢不安席,食不甘味,目不視靡曼之色,耳不聽鐘鼓之音者,以不得事漢也。今陛下幸哀憐,復故號,通使漢如故;老夫死,骨不腐。改號,不敢爲帝矣!」 13. 14齊哀王襄薨。 14. 15上聞河南守呉公治平爲天下第一,召以爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼,帝召以爲博士。是時賈生年二十餘。帝愛其辭博,一歳中,超遷至太中大夫。賈生請改正朔,易服色,定官名,興禮樂,以立漢制,更秦法。帝謙讓未遑也。 15. 二年(癸亥、前一七八) 1冬,十月,曲逆獻侯陳平薨。 1. 2詔列侯各之國,爲吏及詔所止者,遣太子。 2. 3十一月,乙亥,周勃復爲丞相。 3. 4癸卯晦,日有食之。詔:「羣臣悉思朕之過失及知見之所不及,□以啓告朕。及舉賢良、方正、能直言極諫者,以匡朕之不逮。」因各敕以職任,務省繇費以便民,罷衞將軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。 穎陰侯騎賈山上書言治亂之道曰:「臣聞雷霆之所撃,無不摧折者;萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;執重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡;又況於縱欲恣暴、惡聞其過乎!震之以威,壓之以重,雖有堯、舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉!如此,則人主不得聞其過,社稷危矣。 昔者周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,君有餘財,民有餘力,而頌聲作。秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。一君之身耳,所自養者馳騁弋獵之娯,天下弗能供也。秦皇帝計其功德,度其後嗣世世無窮;然身死才數月耳,天下四面而攻之,宗廟滅絶矣。秦皇帝居滅絶之中而不自知者,何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者,何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,退誹謗之人,殺直諫之士。是以道諛、媮合苟容,比其德則賢於堯、舜,課其功則賢於湯、武;天下已潰而莫之告也。今陛下使天下舉賢良方正之士,天下皆欣欣焉曰:『將興堯舜之道、三王之功矣。』天下之士,莫不精白以承休德。今方正之士皆在朝廷矣;又選其賢者,使爲常侍、諸吏,與之馳驅射獵,一日再三出。臣恐朝廷之解馳,百官之墮於事也。陛下即位,親自勉以厚天下,節用愛民,平獄緩刑;天下莫不説喜。臣聞山東吏布詔令,民雖老羸癃疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方郷風而從;豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,撃兔、伐狐,以傷大業,絶天下之望,臣竊悼之。古者大臣不得與宴游,使皆務其方而高其節,則羣臣莫敢不正身修行,盡心以稱大體。夫士,修之於家而壞之於天子之廷,臣竊愍之。陛下與眾臣宴游,與大臣、方正朝廷論議,游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。」上嘉納其言。 上毎朝,郎、從官上書疏,未嘗不止輦受其言。言不可用置之,言可用采之,未嘗不稱善。 帝從霸陵上欲西馳下峻阪。中郎將袁盎騎,並車攬轡。上曰:「將軍怯邪?」盎曰:「臣聞『千金之子,坐不垂堂』。聖主不乘危,不徼幸。今陛下騁六飛馳下峻山,有如馬驚車敗,陛下縱自輕,奈高廟、太后何!」上乃止。 上所幸愼夫人,在禁中常與皇后同席坐。及坐郎置,袁盎引卻愼夫人坐。愼夫人怒,不肯坐;上亦怒,起,入禁中。盎因前説曰:「臣聞『尊卑有序,則上下和』。今陛下既已立后,愼夫人乃妾。妾、主豈可與同坐哉!且陛下幸之,即厚賜之。陛下所以爲愼夫人,適所以禍之也。陛下獨不見『人彘』乎!」於是上乃説,召語愼夫人,愼夫人賜盎金五十斤。 賈誼説上曰:「管子曰:『倉廩實而知禮節,衣食足而知榮辱。』民不足而可治者,自古及今,未之嘗聞。古之人曰:『一夫不耕,或受之饑;一女不織,或受之寒。』生之有時而用之亡度,則物力必屈。古之治天下,至纖至悉,故其畜積足恃。今背本而趨末者甚衆,是天下之大殘也!淫侈之俗,日日以長,是天下之大賊也!殘、賊公行,莫之或止;大命將泛,莫之振救。生之者甚少而靡之者甚多,天下財産何得不厥。 漢之爲漢,幾四十年矣,公私之積,猶可哀痛。失時不雨,民且狼顧;歳惡不入,請賣爵子。既聞耳矣,安有爲天下阽危者若是而上不驚者! 世之有饑、穰,天之行也;禹、湯被之矣。即不幸有方二三千里之旱,國胡以相恤?卒然邊境有急,數十百萬之衆,國胡以饋之?兵、旱相乘,天下大屈,有勇力者聚徒而衡撃,罷夫、羸老,易子上咬其骨。政治未畢通也,遠方之能僭擬者並舉而爭起矣;乃駭而圖之,豈將有及乎!夫積貯者,天下之大命也。苟粟多而財有餘,何爲而不成!以攻則取,以守則固,以戰則勝,懷敵附遠,何招而不至! 今驅民而歸之農,皆著於本。使天下各食其力,末技、游食之民轉而縁南晦則畜積足而人樂其所矣。可以爲富安天下,而直爲此廩廩也,竊爲陛下惜之!」 上感誼言,春,正月,丁亥,詔開藉田,上親耕以率天下之民。 4. 5三月,有司請立皇子爲諸侯王。詔先立趙幽王少子辟強爲河間王,朱虚侯章爲城陽王,東牟侯興居爲濟北王;然後立皇子武爲代王,參爲太原王,揖爲梁王。 5. 6五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗、妖言之罪,是使眾臣不敢盡情而上無由聞過失也,將何以來遠方之賢良!其除之!」 6. 7九月,詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也;而民或不務本而事末,故生不遂。朕憂其然,故今茲親率羣臣農以勸之;其賜天下民今年田租之半。」 7. 8燕敬王澤薨。 8.