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渤海使 渤海使(渤海国使節、渤海国→日本)の一覧表です。 No. 着年 出航年 Code 1 727 728 H0727a 2 739 740 H0739a 3 752 753 4 758 759 5 759 760 H0760a 6 762 763 7 771 772 H0772a 8 773 773 9 776 777 H0776a 10 778 779 H0777b 11 779 779 12 786 787 13 795 798 14 798 799 15 809 810 16 810 811 17 814 816 H0815a 18 818? 819? 19 819 820 20 821 822 21 823 824 22 825 826 23 828 828 H0828a 24 841 842 25 848 849 26 859 859 27 861 861 28 871 872 29 876 877 30 882 883 31 892 892 32 894 895 33 908 908 34 919 920 35 922 ? 小嶋芳孝「日本海を越えてきた渤海使節(日本の古代3)」を改変 参考文献 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社.
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遣渤海使の一覧 遣渤海使(日本→渤海国)の一覧表です。 No. 出発 帰国 Code 1 728 730 H0727a 2 740 740 (H0739a) 3 757? 758 4 760 760 5 761 762 6 763 763 7 772 773 H0772a 8 777 778 H0777b 9 779 ? 10 796 796 11 798 798 12 799 799 13 811 811 小嶋芳孝「日本海を越えてきた渤海使節(日本の古代3)」を改変 参考文献 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社. 佐伯有清, 2007. 最後の遣唐使. 講談社.
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簡王(かんおう)、大明忠(だい めいちゅう)渤海????~818統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第9代渤海王。康王・大嵩璘の子で、定王・大元瑜、僖王・大言義の弟。王位を継ぐも間もなく病没する。 僖王(きおう)、大言義(だい げんぎ)渤海????~817統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第8代渤海王。康王・大嵩璘の子で、定王・大元瑜の弟。兄王が病没すると王位を継承する。以前よりも頻繁に唐や日本との交流を強化し、特に仏教などの文化交流に力を注いだ。 康王(こうおう)、大嵩璘(だい すうりん)渤海????~808統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第6代渤海王。成王・大華璵の叔父に当たる。唐からは、はじめ渤海郡王の称号しか与えられなかったが、抗議して銀青光禄大夫・検校司空・渤海国王に封じられた。唐だけでなく日本とも積極的な外交を行い、2代続いた短命の国王の政権混乱から国を安定させた。 宣王(せんおう)、大仁秀(だい じんしゅう)渤海????~830統率:A 武力:B 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第10代渤海王。高王・大祚栄の弟の子孫で、傍系の王族だったが、僖王・大明忠の死により渤海王位を継承する。新羅や周辺の靺鞨に対して軍事行動を行い、勢力を拡大した。唐や日本とも積極的に交流を行い、長期の政権で国内を安定させた。 大彝震(だい いしん)渤海????~857統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第11代渤海王。宣王・大仁秀の嫡孫。父が早世しているため、祖父王の死後に王位を継いだ。中央集権の制度を整え、軍制として左右神策軍・左右三軍・一百二十司などを設置した。 大虔晃(だい けんこう)渤海????~871統率:C 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第12代渤海王。兄である大彝震が没すると王位を継承する。日本との交流の中で『長慶宣明暦経』を伝えている。 大玄錫(だい げんしゃく)渤海????~895統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第13代渤海王。大虔晃の嫡孫で、唐や日本との交流を継続した。 定王(ていおう)、大元瑜(だい げんゆ)渤海????~812統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第7代渤海王。康王・大嵩璘の子。父祖同様に唐や日本との密接な関係を構築した。
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高王(こうおう)、大祚栄(だい そえい)渤海????~719統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------ツングース系民族の韃靼族。乞乞仲象の子。独立を目指し、武則天の軍を撃退するが、後に復権を果たした唐より渤海郡王、忽汗州都督府都督に任命された。こうして、初代渤海王となる。唐以外にも、日本、新羅、突厥、契丹などとも外交関係を構築した。 成王(せいおう)、大華璵(だい かよ)渤海????~794統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第5代渤海王。文王大欽茂の嫡孫。暴虐な廃王・大元義が殺害された後に擁立された。東京龍原府から上京龍泉府への遷都を実施したがすぐに病没した。 廃王(はいおう)、大元義(だい げんぎ)渤海????~794統率:E 武力:D 政治:E 知力:D 文化:D 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------第4代渤海王。高王・大祚栄の子。先王の文王・大欽茂が病死すると、族弟ながら王位を継承する。しかし猜虐な性格で、反対派を次々と粛正したため、即位数ヶ月で殺害された。 武王(ぶおう)、大武芸(だい ぶげい)渤海????~737統率:B 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第2代渤海王。高王・大祚栄の子。唐から渤海国王と冊封されたが、独立を目指し、黒水部など周辺地域にも侵攻を進めた。一方で日本には渤海使を送るなど通好を進めた。
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乞乞仲象(きつきつ ちゅうしょう)渤海(唐・営州)????~699統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------ツングース系民族の韃靼族。渤海を建国した大祚栄の父。酋長の乞四比羽と共に営州都督の趙文翽へ反乱を起こした。
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シーサイドヴィラ渤海 シーサイドヴィラぼっかい 石川県志賀町にあるホテル、レストラン、温泉複合施設。 所在地 石川県羽咋郡志賀町富来領家町甲の59 入浴料金 600円 時間 11 00~23 00 (年中無休) 地図 より大きな地図で 石川県 を表示 ここはおもしろいのでおすすめ。 アバンギャルドなデザインがすごい。露天には、白い柱が並び、ジャグジーが高いところにういてる。テーマは古代のロマン?らしい壁画も意味不明。 露天にはシャワーもあるが、体洗ってると寒くなる。 たまたま26日に行ったら、風呂の日ということでタダ券をくれたので、翌日朝もう一回入った。 このときは敷地内の公園に泊まった。スーパーは隣にある。 関連項目 風呂一覧 タグ 志賀町 温泉 石川県 風呂
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大瑋瑎(だい いかい)渤海????~907?統率:E 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第14代渤海王。大玄錫の子。内乱の相次ぐ唐に継続して使節を送り続けた。 大諲譔(だい いんせん)渤海????~926統率:D 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第15代にして最後の渤海王。大瑋瑎の子。朱全忠が建国した後梁に使節を派遣している。西部の契丹に対抗するため、新羅や高麗、日本との連携を模索したが新羅が契丹と結んだため上京龍泉府が陥落して渤海国も滅亡した。 大光顕(だい こうけん)渤海????~????(10世紀)統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------最後の渤海王族の一人。契丹の侵略によって追われ、反抗の期を伺うも成功せず高麗へと落ち延びていった。
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772年 遣渤海使07+渤海使07、能登に漂着 宝亀2年6月27日(771/08/12)、渤海使07、壱万福(いちまんふく)を大使とする325人の渤海使が出羽国野代に来着。常陸国に安置 宝亀2年12月21日(772/01/30)、渤海使07、入京 宝亀3(772)年、渤海使07、出京 宝亀3年、武生島守に命じて渤海使07を送らしむ(遣渤海使07)。宝亀3年9月21日(772/10/21)暴風に逢うて能登に漂着す。勅して福良の津に置く。 宝亀4(773)年2月、渤海副使慕昌禄(ぼしょうろく)が死亡 宝亀4春?、遣渤海使07+渤海使07、出国 宝亀4(773)年8月、遣渤海使07、帰国(大林, 1995) 宝亀4年10月13日(773/11/02)、渤海国使壱万福の送使であった正6位上の武生連鳥守(たけふのむらじとりもり)が、高麗(渤海)より帰国した。(続日本紀) 参考文献 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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760年 渤海国迎使(遣唐使13)判官、渤海使05とともに対馬に漂着 遣渤海使03が渤海使04とともに帰国 天平宝宇2年9月18日(758/10/24)、小野朝臣田守(たもり)(遣渤海使03)らが渤海より帰った。渤海大使の輔国(ほこく)大将軍兼将軍行木底洲(ぎょうもくていしゅう)の刺史兼兵署少正(ひょうしょしょうしょう)・開国公の揚承慶(ようしょうけい)以下23人(渤海使04)が田守に随行して来朝した。そこで越前国に滞在させた。 天平宝宇2年10月28日(758/12/03)、帰国した遣渤海大使(遣渤海使03)・従5位下の小野朝臣田守に従5位上を、副使・正6位下の高橋朝臣老麻呂(おいまろ)に従5位下を授けた。その他の66人にも、功労に応じて位階を授けた。 天平宝宇2年12月10日(759/01/13)、遣渤海使03の小野朝臣田守らが、唐国の情勢(政変)を奏上した。田守は唐王から渤海王に賜った勅書1巻を報告書に添えて進上した。 天平宝宇2年12月24日(759/01/27)、渤海使04の揚承慶らが入京した 天平宝字3年1月1日(759/02/02)、天皇は大極殿(だいごくでん)に出御して朝賀を受けられた。文武の百官および高麗の蕃客ら(先に入京していた渤海使04のこと。当時渤海を蕃国視していた)は、規定の儀礼に従っておのおの拝賀を行った 天平宝字3年1月3日(759/02/04)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗使(渤海使04)の揚承慶らは土地の産物を貢上し、国書を奏上した 天平宝字3年1月18日(759/02/19)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗(渤海)(渤海使04)大使の揚承慶に正3位を、副使の揚泰師に従3位を、判官の馮方礼(ひょうほうらい)に従5位下を授けた。録事以下の19人にも、それぞれの地位に応じて位を授けた。国王および大使以下には地位に応じて禄を賜った。5位以上の官人と高麗の使人、ならびに主典(さかん)以上を朝堂で饗応し、舞台で女人による楽を演じさせ、庭では内教坊の女性が蹋歌を舞った。高麗の使人や主典以上の者もこれにつづいた。事が終わってのち、身分に応じてそれぞれに真綿を賜った。 天平宝字3年1月27日(759/02/28)、大保(たいほ)の藤原恵美(ふじわらえみ)朝臣押勝(おしかつ)が、高麗の使人(渤海使04)を田村第(たむらてい)(押勝の邸宅)に招き、宴会した。天皇は勅して、内裏の歌祇を遣わし、真綿1万屯を賜った。また、当代の文人たちが、詩を賦して使人に送り、副使の揚泰師も詩を作って唱和した。 遣唐使13が渤海使04とともに出発 天平宝字3年1月30日(759/03/03)、正6位上の高元度に外従5位下を授け、迎入唐大使使(天平勝宝4年度の大使藤原清河を迎える使い(遣唐使13))に任じた。 天平宝字3年2月1日(759/03/04)、天皇は高麗王(渤海王)に次のような書を賜った。 「貴国の国使(渤海使04)は、日本の国使につき従って来朝したので、乗って帰る船がない。よってそのための使者を任命し、本国に送り返す。わが使者はそのまま帰国から大唐に行き、前年入唐した大使の藤原朝臣清河を迎えようと思う。よく理解して助けられたい。」 天平宝字3年2月16日(759/03/19)、揚承慶ら(渤海使04)が国に帰った。高元度ら(遣唐使13)もまたそれに随って出発した。 迎入唐大使高元度(こうげんど)は往路渤海から山東半島の登州を経由して長安に至る。藤原清河を迎えるのが目的であったが、安史の乱の最中で危険なため、唐朝は帰国を許さず、高元度だけが帰る。 羽栗吉麻呂の子翔同行。翔は唐にとどまったらしい。 遣唐使13判官、帰路渤海使05とともに対馬に漂着 天平宝字3年10月18日(759/11/12)、藤原河清(清河)を迎える使い(遣唐使13)の、判官内蔵忌寸全成(くらのいみきのまたなり)は渤海を廻って帰国する途中、海上で暴風にあって対馬に漂着した。渤海使の輔国大将軍兼将軍・玄菟(げんと)州刺史兼押衙官(おうがかん)・開国公の高南申が、ともに随って来朝した(渤海使05)。その中台(中書省)の牒(ちょう)(連絡文書)には次のように言っている。 藤原河清を迎える使いは、全部で99人であります。大唐の安禄山は、先に天子の命にそむき、史思明(ししめい)もその後に乱を起こして、内外は荒れて騒がしく、まだ平らげられていません。それで河清を迎える使いを送り出そうとしても、恐らく殺されるというような害を受けるでしょう。迎える使いを渤海が率いて帰らせようとしても、考えてみれば日本の意に反するでしょう。それで長官の高元度ら11人を出発させ、大唐に行って、河清を迎えさせ、同時にこちらの使者を任命して、高元度らと共に唐に出発させます。また判官の全成はいずれも帰国させます。またこちらの使いを任命し、全成らに随って日本に往かせ、詳しい事情を通報させます 天平宝字3年10月23日(759/11/17)、高麗(渤海)の使い(渤海使05)を大宰府に呼び寄せた。 天平宝字3年12月19日(760/01/11)、高麗(渤海)使(渤海使05)の高南申(こうなんしん)と、わが国の使(遣唐使13)の判官内蔵忌寸全成らが難波の江口に到着した 天平宝字3年12月24日(760/01/16)、高南申(渤海使05)が入京した 天平宝字4年1月1日(760/01/23)、天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けた。文武百官および渤海の使節(渤海使05)らが、おのおのの儀礼にしたがって拝賀した。 天平宝字4年1月5日(760/01/27)、帝(淳仁)は宮殿の端近くに出御し、渤海国使(渤海使05)の高南申らが土地の産物を貢上した。そして次のように奏上した。 「国王の大欽茂(だいきんも)が申し上げます。日本の朝廷の遣唐大使で特進兼秘書監(唐の秘書省長官)の藤原朝臣河清が、本国に差し出した上表文と恒例の貢物を献上するために、輔国(ほこく)大将軍の高南申らを選んで、使いに任じて入朝させます」と。 これに対して天皇は次のように詔した。 「遣唐大使の藤原河清は久しく帰国しないので、心がふさぎ気がかりに思っていた。ところが高麗王(渤海王)が南申を遣わして河清の上表文を持って入朝させた。王の誠心は本当に嬉しく思う」と。 天平宝字4年2月20日(760/03/11)、渤海使05の高南申らが帰国した 参考文献 宇治谷孟,1992. 続日本紀(上)全現代語訳. 講談社. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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777年 遣渤海使08, 渤海使10 宝亀8年5月23日(777/07/02)、渤海使09(H0776a)の史都蒙らが帰国した。大学少允(しょうじょう)・正6位上の高麗(こま)朝臣殿継(とのつぐ)を送使に任じた(遣渤海使08)。渤海国王に書を賜った。(続日本紀) 高麗殿継、遣渤海使08として出発(出港地不明)。渤海に漂着破船 宝亀9年9月21日(778/10/15)、渤海使10、三国に来着。前に送渤海使として渤海に使せる大学少允高麗殿嗣(「継」とも)(遣渤海使08)が、船路を失い渤海遠夷の境に漂着破船し困窮せるに対し、渤海国王は船2艘を造らしめ、献可大夫司賓少令張仙寿を送使として殿嗣等を送還せしめた。その乗船がこの日、三国湊に来着。 天皇は越前国に次のように勅した。遣高麗使と高麗国の送使は都合のよい所に落ち着かせ、先例にしたがって彼らに衣食を供給せよ。ただし、殿継1人は早く入京させよ。 宝亀9年10月6日(778/10/30)、正6位上の高麗朝臣殿継に従5位下を授けた。 宝亀9年12月17日(779/01/09)、正6位上の大網(おおよさみ)公広道を高麗の客を送る使者に任じた。 宝亀10年1月1日(779/01/22)、天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けられた。 渤海国は献可大夫(こんかだいぶ)・司賓少令(しひんしょうれい)の張仙寿(ちょうせんじゅ)らを遣わして、朝賀させた。その儀式は通常の通りであった。 宝亀10年1月5日(779/01/26)、渤海使の張仙寿らが土地の産物を献上して次のように奏上した。 「渤海国王が申し上げます。聖朝(日本の朝廷)の使者、高麗(こま)朝臣殿継(とのつぐ)らは航路を見失って遠い境域に漂着し、乗っていた船は破損し、帰る手段がありませんでした。そこで、船2艘を造って、張仙寿らを遣わし、殿継に随行して入朝させます。併せて献上物を積載して天朝(朝廷)を拝し奉らせます」と。 宝亀10年1月7日(779/01/28)、5位以上の官人及び渤海使の張仙寿らと朝堂で宴を催され、地位に応じて禄を賜った。 天皇は渤海国の使者に次のように詔された。 渤海王の使者の仙寿らが来朝して朕を拝しまみえた。朕はこれを喜びとする。ゆえに位階を加え授け、あわせて禄物を与える。 宝亀10年1月16日(779/02/06)、5位以上の官人及び渤海使と朝堂で宴を催され、禄を賜った。 宝亀10年1月18日(779/02/08)、内射(ないじゃ)(大射に同じ)を行った。渤海使も射手の列に加わった。 宝亀10年2月2日(779/02/22)、渤海使が国に帰るので、渤海国王に璽書(じしょ)(天皇の印を捺した詔書)を賜い、併せてみやげを附けた。 参考文献 福井県編, 1993. 『福井県史』通史編1 原始・古代. 福井県. 室賀信夫, 1970. 日本人漂流物語. 新学社 園田一亀, 1991, 韃靼漂流記. 平凡社