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世界線説明 アヘン戦争、アロー戦争において屈辱的な敗北を喫した大清帝国は、徹底的な欧化改革と近代化、「洋務運動」を実行。この試みは成功し、清仏戦争、日清戦争、清露戦争で他国の干渉を退けた。第一次世界大戦に連合国側で参戦し、ドイツ太平洋植民地を粉砕。シベリア出兵によって北方に傀儡国を建国。大日本帝国、タイ王国をはじめとしたアジア国家を従え、欧米列強の排除、華夷秩序の復活を目論み、目を覚ました獅子は、大空を駆ける龍の如く進撃する。 概要 if世界史界隈に所属している フォロワー1.019人(2022/8/17現在) 人物 中の人は、京都府出身大阪在住の16歳高校生で結月ゆかりをこよなく愛するゆずきず廃である リンク Twitter Twitter(中の人)
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名稱:劉坤一 伺服器及顏色:5、6服藍 類型:武 性別:男 生命值:838(825) 武力:46(48) 智力:17(18) 防禦:19(19) 敏捷:54(48) 運勢:33(31) 敘述:(1830年—1902年),字硯莊。廩生出身。湖南新寧人。在太平天國之亂時嶄露頭角,成為當日急速冒升的漢族封疆大吏之一,及後在曾國藩、左宗 棠等去世後,和張之洞成為後期洋務運動的主導者,並在其後的甲午戰爭、百日維新、義和團亂、清末新政等晚清歷史事件上均發揮著重要角色 伺服器及顏色:5、6服綠 類型:文 性別:男 生命值:418 武力:33 智力:20 防禦:12 敏捷:31 運勢:81 敘 述:(1830年—1902年),字硯莊。廩生出身。湖南新寧人。在太平天國之亂時嶄露頭角,成為當日急速冒升 漢族封疆大吏之一,及後在曾國藩、左宗棠等去世後,和張之洞成為後期洋務運動 主導者,並在其後 甲午戰爭、百日維新、義和團亂、清末新政等晚清歷史事件上均發揮著重要角色。
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人物一覧 第一次世界大戦で裏切らずに勝利したイタリア王国 大東亜戦争に勝った大日本帝国 大東亜戦争に負けたアメリカ 洋務運動に成功した大淸帝國 日英同盟が続いた世界線の大日本帝国
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627 :無名草子さん:2009/02/20(金) 15 58 02 加藤徹『西太后』と君塚直隆『ヴィクトリア女王』はどちらもベストに推したい。 両書とも19世紀後半に活躍した人物を通して、その時代史を描き出している。 『西太后』は洋務運動や戊戌の政変など、清末のわかりにくいあたりを。 『ヴィクトリア女王』は保守党と自由党の政権交代や大英帝国の極大期(衰退の始まり)を。 同時代の女性ということで、読み比べてみるのも一興。 ⇒アマゾンリンク
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408 :無名草子さん:2009/01/29(木) 22 46 00 推薦リストのなかでも『ヴィクトリア女王』なんかはベストにいれちゃっていいんじゃないかな。 ずいぶん詳細で、新書でヴィクトリア朝期について知りたいってならこれでしょ。 なるほど王室文書館に通いつめたというだけあるし、 ジェンダー云々にかたよらないシンプルな政治史であるのもよい。 新書界に、しばらくこれ以上のヴィクトリア女王本はあらわれないと思うのだが。 410 :無名草子さん:2009/01/30(金) 01 29 54 歴史は(も)苦手だけど『ヴィクトリア女王』は大変読みやすかったな。 ただ歴史マニアや玄人さんの評価がどうなのか 自分のような無知な者には、なかなか量り難い。 408みたいな意見はありがたいね。 627 :無名草子さん:2009/02/20(金) 15 58 02 加藤徹『西太后』と君塚直隆『ヴィクトリア女王』はどちらもベストに推したい。 両書とも19世紀後半に活躍した人物を通して、その時代史を描き出している。 『西太后』は洋務運動や戊戌の政変など、清末のわかりにくいあたりを。 『ヴィクトリア女王』は保守党と自由党の政権交代や大英帝国の極大期(衰退の始まり)を。 同時代の女性ということで、読み比べてみるのも一興。 ⇒アマゾンリンク
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脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、「後進地帯であるアジアを脱し、欧州列強の一員となる。」ことを目的とした日本に於けるスローガン、およびそれに類する思想のこと。その具現化として断髪令・廃刀令が著名である。 明治以降、富国強兵とともに政府が行った政策の根幹となるものともいえるが、この考え方も、のちの朝鮮半島および中国など、大陸への進出に至る流れの一つの過程と捉えることもできる。 福澤諭吉が書いたとされる論説「脱亜論」なお、同論説はあくまでも無署名文であり、近年は福沢執筆説に対して疑問が提出されている。詳細は同項目参照は、基本的にこの考え方にそっていると指摘されることがある。またよく間違えられることであるが、福澤諭吉は署名著作・時事新報論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない ref name= fukuzawa 「「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。」丸山眞男 「『福沢諭吉と日本の近代化』序」『福沢諭吉の哲学 他六篇』282頁。 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年 ISBN 978-4003810415 。 一方、逆説的であるが興亜論(後の時代では「大アジア主義」)の考えこそが、中国・朝鮮への進出を押し進めたという説も有力に主張されている。 脚注 参考文献 丸山眞男 『福沢諭吉の哲学 他六篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年。ISBN 978-4003810415 関連 明治維新 洋務運動 人種差別 民族差別 脱亜思想 特定アジア 嫌韓・嫌中・反中 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月10日 (木) 14 34。
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http //www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100131-OYT1T00912.htm 日中歴史共同研究の報告書要旨<1>…満州事変まで 1月31日発表された、日中歴史共同研究報告書要旨は次の通り(中国側要旨は読売新聞社訳)。 ◇ <序>=(略) <古代・中近世史>=(略) <近現代史> 【明治維新】 日本側 明治維新では、中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。薩長の下級武士からなる官僚が藩を廃止し、自ら武士(身分)も廃止した。清国の改革「洋務運動」は十分な成果を上げなかった。全国一体としての運動にならず、儒教が大きな障害になったというべきだろう。 中国側 明治政府は国内改革の成功で国力を結集し、近代強国に成長し、対外的な力を強化した。洋務運動での重点は近代海軍の創設で、清国の海軍は当時、日本に実力で勝っていたが、実戦や訓練が著しく不足し、装備も日増しに老朽化した。 【脱亜入欧】 日本側 福沢諭吉の「脱亜論」は、「脱亜」という言葉もタイトル以外には使われておらず、強硬なアジア外交を説いたものではなかった。ただ、日朝、日清の連携が以後、強調されなくなる。 中国側 「脱亜入欧」は中国人への蔑視(べっし)や敵対感情をあおった。欧米諸国に文明国として見られたがる心情が表れている。対外拡張主義や武力至上論の道具になった。 【琉球(沖縄)帰属】 日本側 (琉球王国は)元来、日清両属と呼ぶべき位置にあった。17世紀以来、事実上琉球を支配していたのは薩摩藩で、清国もそのことを知っていた。(日本帰属は)民衆にとって明らかによい方向への変化だった。 中国側 琉球は中国と日本の双方に属していた時期があったが、1879年に日本に併合されるまで独立国の地位を保っていた。琉球は中国との関係断絶を好まず、国体や政体の変更を好まなかった。 【日清戦争】 日本側 日本が朝鮮の内政改革案を提示し、朝鮮と中国が反発。日本が親日政権を朝鮮に成立させるなどしたため、日清両国は対立を深めて宣戦布告した。戦局は日本有利に進行し、講和で日本が得た賠償金は軍備拡張費などに利用され、産業発展の基礎となった。 中国側 朝鮮の内政改革は日中間の衝突を促す外交手段に過ぎなかった。日本軍は清国軍を攻撃し、清国は戦う決意もなかったが、日本に宣戦せざるを得なくなった。近代日本軍国主義が中国、韓国に対して起こした大規模な侵略戦争であり、近代東アジア国家関係が激変した転換点だった。 【日露戦争】 日本側 中国は中立を宣言したが、個人的に日本に協力し、戦争終結後に勲章を受けた者が少なくない。しかし、日本がロシアにかわって満州の占領統治を開始すると、日本を批判する言論が目立つようになった。ただ、戦争後に日本の対中政策が一層強硬になったと単純に論じることはできない。 中国側 日露戦争で中国の国家主権や国益はさらに失われた。日本は清国にロシアが東北部で手にしていた権益を譲るよう迫ったばかりでなく、道路を建設するなどの植民地権益を強引に手に入れた。日本は大拡張を成し遂げ、サハリン南部、遼東半島を占拠し、朝鮮を支配下に置いた。軍事植民帝国の初歩的な形成を遂げ、更なる侵略のために、多方面で基礎を築いた。 【辛亥革命】 日本側 (清朝を倒し、中華民国を樹立した)辛亥革命について、日本政府は静観の方針を採り、成り行きに任せる決定を行った。後に英仏独露とともに借款を行い、新政府を承認した。 中国側 孫文らは日本を活動拠点として宮崎滔天、犬養毅などから多大な支援を受けていた。武装蜂起に必要な軍事訓練や武器の購入などもほとんど日本で行われた。日本の軍政当局は天皇制を維持するため、中国革命の影響に憂慮や反対を表明した。 【対華21か条要求】 日本側 日本は第1次世界大戦期に対華21か条要求という過大な要求を最後通告で突きつけるという失策を犯した。とはいえ、そこから日本が一貫して大陸への膨張に突き進んだわけではない。 中国側 日中間で衝突も起きておらず、日本の21か条要求は理不尽。要求は政治、経済、軍事などの面で中国を支配しようとしたもので、日本の中国に対する侵略は大きく前進した。 【満州事変】 日本側 関東軍は南満州鉄道の爆破を「中国軍の仕業」「自衛」と称し、一気に(満州=中国東北部=中心都市の)奉天を制圧した。若槻内閣は事態不拡大方針を決めたが、(陸軍の)朝鮮軍が独断で国境を越えたため、追認せざるを得なかった。この後、現地軍の一部が突出し、陸軍指導部と政府が行動を追認していくパターンが繰り返されることになる。 中国側 関東軍は鉄道爆破を中国軍の仕業として中国東北地方侵略の「満州事変」を発動した。日本政府は「事態不拡大」の方針を表明したが、次第に拡大する軍部の中国侵略行動に実質的に追随した。昭和天皇は関東軍の行動を褒めたたえる「勅語」を下した。 (2010年1月31日23時40分 読売新聞) 日中歴史共同研究
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太平天国 文学革命:口語文を尊び、「浮文」や「巧言」を戒めた。 洪秀全・楊秀成・洪仁玕・石達開 洋務運動 中体西用 復古・反動 文における桐城派の中興 詩における同光体の興起 近代ジャーナリズムの成立 プロテスタント宣教師による中国語の新聞雑誌:1810年代 《申報》:中国人による新聞雑誌:上海:1870年代 →科挙に志を得なかった人々に論説や小説の筆を振るう場を提供。 →清末の小説流行 日清戦争 変法維新運動:康有為・梁啓超:議会を開いて立憲君主制を目指す改良運動。 種族革命運動:孫文・黄興:満州族政府を倒して共和制をめざす革命運動。 西欧近代思想の翻訳・紹介 厳復:九種の西欧学術名著を選んで翻訳出版:桐城派古文の名手 《天演論》:トマス・ハックレー《進化と倫理》 《群学肄言》:ハーバート・スペンサー《社会学》 《群己権界論》:J・S・ハミル《自由論》 《法意》:モンテスキュー《法の精神》 詩界革命・小説界革命・新民体 譚嗣同・夏曾佑:仏典や聖書の語彙、外国語の音訳をむやみに取り込んだ。 黄遵憲:平俗化;「我手写我口」:口語的発想:現実的題材を取り上げる。 《日本雑事詩》:外交官として日本在住中の風物や歴史を詠じた。 《降将軍歌》:日清戦争のときの北洋水師提督丁汝昌の降伏を諷刺。 梁啓超:変法運動の失敗後日本に亡命、横浜で活動を続ける。 《清議報》《新民叢報》:改良運動 新民体:桐城派古文に対する文体改革を提唱。新しい語彙・語法を取り入れた平易で論理的な新文体。 《少年中国説》《新民説》 《訳印政治小説序》:日本の政治小説《佳人之奇遇》《経国美談》を紹介し、政治小説の効用を説いた。 小説界革命:政治的・社会的な効用という面から小説を再評価。 《新小説》:中国で最初の文学雑誌:論文「小説と政治の関係について」 小説の隆盛 ※《繡像小説》《月月小説》《小説林》 梁啓超の提唱と《新小説》創刊をきっかけに創刊された文学雑誌。 翻訳小説 林紓:琴南 《巴黎茶花女遺事》;デューマ《椿姫》:外国語を介さず、協力者に口述させてそれを文章化。 林訳小説:170種以上の翻訳があり、郭沫若・魯迅などもこれによって小説に目を開かれた。 政治小説 譴責小説 社会批判小説・暴露小説の類。 梁啓超-王国維-魯迅 梁啓超:政治小説の端を開いた。文学の持つ教育的・政治的な効用性に着目した啓蒙主義的文学観。 王国維:芸術としての文学そのものの価値を探ろうとした。 -文芸批評:《紅楼夢評論》・《人間詞話》 :芸術における内面的な形式美を追求。 魯迅 人間の真実の表現であるところに文学そのものの価値を認める。 西洋近代文芸の根底にある近代的人間を、意志的な「精神の自由」において把握した。
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李 鴻章(り こうしょう、リ・ホンチャン、Li Hung Chang、1823年2月15日 - 1901年11月7日)は、中国清代の政治家。字は少筌(しょうせん)。 日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 来歴 安徽省合肥出身。1847年(道光27年)の進士となる。太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の捻軍鎮圧にも功績を上げ、1870年曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍と呼ばれるようになった。 1876年、江華島事件に関連して、李氏朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。 その後は清の最高為政者として西太后の信任を得て清の洋務運動に尽力した。この時期には清のみならず世界でも指折りの政治家として各国から尊敬を受けた。 1884年の清仏戦争においては早々に講和をしベトナムに対する宗主権をフランスに明け渡した。後にこれが非難された。 1894年、朝鮮に対する宗主権をめぐって清と日本の対立がより悪化した際、北洋海軍の装備では日本に勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、両国の主戦派によって戦端は開かれた。日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は1895年3月から下関で交渉を開始した。3月24日、李鴻章が群馬県人・小山豊太郎に狙撃され、負傷するという事件が起こった(小山は3月30日、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた)ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約(下関条約)の調印を行った。日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは事実上李鴻章個人の軍隊である北洋軍だけと言って良く、これが打撃を受けた事で戦後失脚した。 しかし李鴻章がいない清政府には政務を執る能力はなく、まもなく李鴻章は復権した。 阿片戦争以来の清の高官は、イギリスを仮想敵国とみなす海防派と、ロシア帝国を仮想敵国とみなす塞防派に分かれていた。 李鴻章は海防派の代表であり、復権後の李鴻章はロシアに接近し、日本に対抗しようとした。 そのためにロシアとの間に密約(露清密約)を結び、事実上満州をロシアに明け渡した結果になった。 義和団事変の際には再び全権を任されて諸外国との交渉に当たり、辛丑条約を締結し、その後まもなく病死した。諡は文忠。 外部リンク 列伝一百九十八 李鴻章、清史稿 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月1日 (土) 09 11。
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西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清の咸豊帝妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺。 中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。 紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。 生涯 西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。 1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に妃号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。 西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば, 西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。 最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。 いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。 などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。 1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。 政権掌握 thumb|right||250px|[[頤和園にて。西太后]] アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだ東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。 1874年同治帝は大婚皇帝や天皇の結婚を意味する。を機に親政を行おうとしたが若くして崩御、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、現代日本では天然痘によるものであるとされている。 同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。 1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。 東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。 日清戦争以後 光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、海軍予算を西太后肝いりの頤和園再建へ流用していた事が主要因の1つといわれる。 日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意。改革に好意的と見られていた袁世凱が一部で進めていた西太后幽閉計画を密告した事により変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを戊戌六君子という。。わずか3ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。 2004年出版の台湾雷家聖著『力挽狂瀾:戊戌政變新探』によれば、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう次から次へと要望を上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下は拱手の礼をして人に譲るようなものだ」と西太后に進言した。このような烈しい主張は、西太后をして9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入らせ、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。ところが、伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。それを受けて、変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝に上奏し、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。・・・・・・皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城に戻った後、20-21日この話を知り、事態の重大さを悟ったため、即断しクーデターを起こして自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。 西太后は権力の座に返り咲いた。さらに将来光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。 義和団の乱 1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初から好意的だった事もあり義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。 義和団事件の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。 義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に諸所の配慮を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始したが、立憲君主制を忌避する西太后が権勢を手放す筈も無く、根幹部分に手を付けない新政では辛亥革命への流れを堰き止めることはできなかった。 1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も74歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。 なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺したとする説がある(2007年調査では光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出された)。 後世の評価 権力欲と人を巧みに操る感覚は並外れたものを持っていたが、人材登用や施政の第一義を自らの権威確立としていたため、統治後半に政権中枢を与った高官の質は総じて低く、清朝崩壊の要因になった感は否めない。このような人民を顧みない政治を行い続けたことは、当時の中国人にとって、とりわけ不幸以外の何物でもなかった。 また諸外国との対立に際して、しばしば洋務担当者等の慎重論を軽視し、主戦論へ引きずられた見通しの甘い開戦を決断、戦後処理の際も安易な妥協や講和をし続けた。 人物・政治見識の無さから清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまったことについて、後世の歴史家達から批判されている。 注 関連項目 京劇 東陵事件 保慶帝 参考文献 濱久雄『西太后』ニュートンプレス、1984、ISBN 4315403482 ジョン・O.P. ブランド、エドマンド・トリローニー バックハウス共著・藤岡喜久男訳『西太后治下の中国―中国マキアベリズムの極致』光風社出版、1991、ISBN 4875190204 スターリング・シーグレーブ『ドラゴン・レディ』上・下、サイマル出版会、1994 徳齢著・井関唯史訳『西太后汽車に乗る』東方書店、1997、ISBN 4497975266 加藤徹『西太后』中公新書、2005年、ISBN 4121018125 雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月1日 (日) 12 21。