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【連載】本朝幻想文学縁起(全9回)奇想天外(奇想天外社) 号数 発行日 頁 単行本 1981年1月号(No.58) 1981.01.01 (巻の一)菩薩文学秘考 (第一帙)小野小町七変化 P132-P145 ★ 1981年2月号(No.59) 1981.02.01 (第二帙)真言武装する空海 P134-P145 ★ 1981年3月号(No.60) 1981.03.01 (巻の二)古道文学外伝 (第一帙)世界征服秘策 P164-P176 ★ 1981年4月号(No.61) 1981.04.01 (第二帙)唯一神道名法要集 P154-P170 ★ 1981年5月号(No.62) 1981.05.01 (第三帙)秋成狂乱 P146-P157 ★ 1981年7月号(No.63) 1981.07.01 (巻の三)江戸期幻学譜 (第一帙)転真敬会革命を論ず P132-P144 ★ 1981年8月号(No.65) 1981.08.01 (第二帙)房総幻想王国 P134-P147 ★ 1981年9月号(No.66) 1981.09.01 (第三帙)吉利支丹打払ひのこと P132-P141 ★ 1981年10月号(No.67) 1981.10.01 (第四帙)幽冥界覚書 P162-P169 ★
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元亀天正期(1570年)のシナリオ。 本体シナリオとは別に、特徴的な8bitサウンドのBGMや外国勢力からのイベントを加えた外伝バージョンがある。 あらすじ 生きとし死せるあらゆる事共に捧ぐ-。 宇宙は一つではないという・・・歴史は無限に並行するという・・・ 我々の想像し得る全ての事象は、果たして<夢幻乃繰言>でしかないのであろうか・・・ 本朝暦は元亀元(1570)年- 天下布武を推進する 織田 信長 の傀儡に堕せし 室町幕府十五代将軍 足利 義昭 は、乾坤一擲の賭けに出ようとしていた。 俗に謂う『信長包囲網』の構築である。 現将軍は第一手として、畿内において画策しその秘められた謀才を如何なく発揮する。 浅井・朝倉連合軍、三好一党、さらには本願寺一向教団を「親幕(反織田)勢力」として糾合させることに成功したのである。 対する 織田 信長 は豊富な国力を源泉とする「総力戦」を企図-羽柴 秀吉 、 明智 光秀 、 柴田 勝家 ら家中の才子を軍団長に任命-用い得る全ての資源・戦力を巧みに展開・再編させ、方面軍による「各個撃破戦略」を実行に移そうとしていた。 〝創意・逆説の異能者〟 織田 信長 の鬼技は、未だ産湯したたる現将軍の謀技を凌駕するかに思われた。 だが しかし- 其疾如風 其徐如林 ・・・ こなたには 懸念あり- 侵掠如火 不動如山 ・・・ 彼方より来たりし 報せあり- 難知如陰 動如雷霆・・・・・・ そしてついに 嘱望の刻来たれり- 其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山 難知如陰 動如雷霆 御旗 楯無 御照覧あれ! 織田 信長 は今正に 修羅の道を歩まんとしていた-。 (OPより引用) 備考 シナリオ名: 乱舞左右左乃伝 本朝嵐世図絵巻 SE 作者: 新参武蔵 現バージョン: 1.9(外伝 1.5) 最終更新: 2020年1月1日更新 動作環境: SE◎ FE○ 旧× 規模: 日本全国 開始年月: 1570年4月 大名家数: 161 城数: 456 武将数: 1521 入手先 戦国史アップローダー 戦国史旧作シナリオ復興委員会 攻略難易度表(難 S ~ F 易) キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
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【連載】本朝幻想文学縁起 拾遺篇(全5回)連載:BOOKMAN(イデア出版局→トパーズプレス) 号数 発行日 頁 Link (#1) 1982.10.01 【巻之一】明治期異人、「破邪神霊」ノ要ヲ論ズ。 P58-P62 単 【一】ある不気味さについて P58 【二】嗚呼茫々たる坤輿の際 P58 【三】火星と日本とをみつめたひと P59 【四】極東の魂 P60 【五】日本的神秘 P61 【六】ただ一握りのアブノーマル P62 (#2) 1982.12.01 【巻之二】巷談妖術考、其一 P56-P60 単 【一】魔事為す者 P56 【二】俗流魔術の系譜 P57 【三】仙術への道 P58 【四】仙術と仙書 P59 (#3) 1983.02.01 【巻之二】巷談妖術考、其二 P58-P60 単 【一】箏曲 P56 【二】霊的国防 P57 【三】加持祈祷 P58 【四】極意 P59 (#4) 1983.04.01 【巻之二】巷談妖術考、其三【五行順にして天下治まる】 P56-P60 単 【一】力動(承前) P56 【二】陰陽科学 P57 【三】奇偶 P57 【四】天象 P59 【五】河図洛書 P60 (#5) 1983.07.01 【最終巻】陰陽博士、出世を語る事 P56-P61 単 【一】戻橋 P56 【二】晴明博士 P57 【三】魔力競べ P58 【四】類異 P60 【五】物語の海へ-結び P61
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B-11:本朝十二銭[皇朝十二銭]の一覧 ■1 ◇和同開珎(わどうかいちん) ○708年 ■2 ◇万年通宝(まんねんつうほう) ○760年 ■3 ◇神功開宝(じんぐうかいほう) ○765年 ■4 ◇隆平永宝(りゅうへいえいほう) ○796年 ■5 ◇富寿神宝(ふじゅしんぽう) ○818年 ■6 ◇承和昌宝(じょうわしょうほう) ○835年 ■7 ◇長年大宝(ちょうねんたいほう) ○848年 ■8 ◇饒益神宝(じょうえきしんぽう) ○859年 ■9 ◇貞観永宝(じょうがんえいほう) ○870年 ■10 ◇寛平大宝(かんぴょうたいほう) ○890年 ■11 ◇延喜通宝(えんぎつうほう) ○907年 ■12 ◇乾元大宝(けんげんたいほう) ○958年
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2009.5.16 No.43 中山太郎 本朝変態葬礼史・死体と民俗 定価:200円(税込) p.159 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(76項目)p.575 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright is public domain. 古代には死体を埋めるときは、概して屈葬と称して首から脚へかけ縄をもって強くしばるのが習俗となっていた。そしてこの葬法は近年まで残っていた。(略)古代人が死霊をおそれたことは、現代人が想像するよりは幾十倍の強烈さであった。眼に見える猛獣や毒蛇の害なれば、何とかして防ぐこともできたであろうが、眼にも見えず手にも取れぬ死霊——ことにそれが変死をとげた者の凶霊にあっては、迷信が深かっただけに、さらに思索が進まなかっただけに、これが依憑なり襲来なりを防ぐことができなかったのである。加うるにこの時代にあっては悪疫の流行もおもわぬケガも、この死霊や凶霊のなす仕業と考えていたのであるから、その死霊の発散して疎び荒ぶることをおそれて、かくは死体を緊縛するようになったのである。わが国で古く鎮花祭というのを、桜の花の散るころに行うたのは、あたかもこの時分に死霊や疫霊が発散するので、それを防ぐための祈祷にほかならぬのである。 こうした民族心理は、変死をとげた者、または叛臣や逆徒などの凶暴性をおびた者の死体を埋葬するに、さらに一段の惨酷を加えたことは、当然の帰結であった。そしてその方法は変死者なれば死体を逆さにして、橋の袂か四つ辻に埋めたものである。これはこうした場所ならばたえず人馬の往来があるので、死霊が発散せぬよう踏み固めると信じたからである。 43.rm (朗読:RealMedia 形式 344KB、2'46'') #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第43号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (756KB) 中山太郎 なかやま たろう 1876-1947(明治9.11.13-昭和22.6.13) 本名中山太郎治。栃木県足利郡梁田村(現足利市梁田町)生まれ。民俗学者。1914年、報知新聞社を退社。柳田国男を訪れ、同年、柳田の口利きで博文館へ入社。著『日本売笑史附吉原の沿革』『土俗私考』『日本民俗志』『日本婚姻史』『日本巫女史』『日本若者史』『日本民俗学事典』『万葉集の民俗学的考察』他。 底本 本朝変態葬礼史 底本:『タブーに挑む民俗学 中山太郎土俗学エッセイ集成』河出書房新社 2007(平成19)年3月30日 初版発行 初出:『犯罪科学』増刊号「異状風俗資料研究号」 1931(昭和6)年7月 死体と民俗 底本:『タブーに挑む民俗学 中山太郎土俗学エッセイ集成』河出書房新社 2007(平成19)年3月30日 初版発行 初出:『デカメロン』第1巻第5号 1931(昭和6)年 親本:『随筆耳のあか』象文閣 1936(昭和11)年 NDC 分類:382 385 2009.5.20:公開 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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慶安三年 重大事件 政権 外交 生誕 死去 宗教界 学術 林家、『本朝通鑑』の前身『本朝編年録』完成、幕府に献上。 文学・芸術 市井 地方 伝説など(史実かどうか疑わしいもの) その他
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第一節 『日本霊異記』の成立 『日本霊異記』は、説話文学として分類されるもので、聖典として尊崇されることはない。エリートの仏教ではなく、民衆の仏教に属するものである。しかし、そこには仏教にはじめて触れた古代の人々が、どのようにそれを受け入れたかが、生々しく描かれている。 仏教学者の仏教論の中には、肉食妻帯も葬式仏教も神仏習合も出てこない。それらは低俗な堕落仏教として否定的にしか見られない。そして、そのような領域の研究は民俗学などの学問に任される。民俗学の研究者は、現実の日本の仏教は仏教学者の説くような空理空論とは無関係であり、それを知るためには教学など必要はないと主張する。こうして仏教は、仏教学者の説く理論的な仏教と民俗学者の説く土着化した仏教とに二分され、相互に無関係であるかのようになってしまった。しかし、それらをまったく無関係で、別々のものと見るのが適切だろうか。実は両者は深く関わっているのではないだろうか。日本の仏教が強い生命力をもって、長い歴史の経緯の中で人々の生活に定着してきたのは、このような二つの領域が相互に関連しながら、硬直することなく展開してきたからではなかっただろうか。新しい仏教を創唱したような思想家たちは必ず民衆の心を汲み取っていたに違いないし、民衆の間に根付いた仏教はそのような思想家たちの理論が浸透することによって発展していったに違いない。 『日本霊異記』の著者である景戒は、『日本霊異記』に記された断片的な記述以外に資料がなく、詳しい伝記は分からない。薬師寺に所属し、妻子を持って貧しい暮らしをしていたと考えられている。『日本霊異記』の成立年代ははっきりしないが、弘仁13年(822年)の記事を含むので、最終的に完成されたのはそれ以後のことと考えられる。平安初期のことで、ようやく日本の社会に仏教が定着しつつあった時代であった。 第二節 『今昔物語集』の成立 『今昔物語集』は、インド・中国・日本の三国仏教史観を提示し、インドの説話を収録した巻1から巻5までの天竺部5巻、中国の説話を収録した巻6から巻10までの震旦部5巻(ただし巻8は欠巻)、日本の仏教的霊験譚などを収録した巻11から巻20までの本朝仏法部10巻(ただし巻18は欠巻)、日本の貴族から民衆までに関する説話を収録した巻21から巻31までの本朝世俗部11巻(ただし巻21は欠巻)で構成される。 本論文では、仏教の教義よりも民衆の自然観を扱うので、本朝部の巻21以降の巻の内容を主な分析対象とする。本朝部の巻21以下の巻の標題は、巻21は欠巻、巻22と巻23は「本朝」、巻24と巻25は「本朝付世俗」、巻26は「本朝付宿報」、巻27は「本朝付霊鬼」、巻28は再び「本朝付世俗」、巻29は「本朝付悪行」、巻30と巻31は「本朝付雑事」となっている。 出雲路 は、巻22前半には「王と大臣」的な色彩が認められ、巻23後半 に「武人」的な色彩が認められるとする。そして、そのことから推定して、巻21は「王」、巻22後半は「王と后」、巻23前半は「求道者」として構成する意図があったとし、以下、巻24と巻25の「凡俗」の話へと接続する。これら巻22から巻25までは、「前仏教の世界」あるいは「非仏教の世界」 として、巻11から巻20までの「仏教の世界」 の後ろに収録されることとなる。 巻26以降の扱いは、『今昔物語集』の編纂をめぐる問題と不可分となっている。『今昔物語集』を源隆国(1004年-1077年)の編纂とすることは、現代の研究では否定されており、『今昔物語集』の原撰本のようなものを想定して、その編纂者を隆国とする研究もほとんど見られない。これは、『今昔物語集』は後世の増補を含まないとする説 が、研究者の間で採用されているためである。 『今昔物語集』には、説話の標題のみを存して、説話本文を欠くものが、19話含まれている。このような標題のみの説話の存在は、編纂と筆録とが同時に行われなかったことを示している として、出雲路は、編纂者と筆録者による時間的ずれと内容理解のずれが生じていることを指摘している 。出雲路は、隆国没後の内容を含む説話は、『今昔物語集』収録の全1059話のうちの4話のみであり、しかもそのうちの3話が巻の末尾にあり、残りの一話も末尾から2番目にある ことから、隆国以外の人物による巻末への小規模な増補を想定すれば、編纂者が隆国であることは否定されないとする。 そして、『今昔物語集』の成立時期については諸説あり、定まっていない。『今昔物語集』の年代の分かる説話のうち、最下限のものは1106年前後となっており、出典の一つである歌学的説話集『俊頼髄脳』の成立が1110年前後と推定されることと、保元の乱(1156年)に始まる源平の戦いには全く触れられていないことから、成立は1120年前後とする説 がある。本論文では、この説を採用する。 第三節 『沙石集』の成立 『群書一覧』には、無住(1226年から1312年)は梶原景時の甥であると記されているが、他にも三男であるとか、末裔であるとか、資料の間で一致しない。かろうじて、梶原氏ゆかりのものとすることでは、共通する。無住が1226年生まれで、景時が1200年没なので、子どもとすることはできない。 無住は、13歳で、鎌倉の僧房に住む。18歳で出家し、28歳で遁世の身となり、このときから律を6、7年学ぶ。37歳から尾張の長母寺に止住し、54歳のとき、『沙石集』を執筆し始め、58歳のときに執筆を終える。その後、83歳まで裏書をしている。後世の文献によれば、鎌倉の僧房とは寿福寺のことであり、その後、尾張の長母寺に止住するまでに、奈良の正暦寺、京都の東福寺などにいたこともあり、このときに中央の教学に触れたとされる。 『沙石集』執筆中の3年間の休筆については、「此物語書始シ事ハ、弘安二年 也。其後ウチヲキテ、空ク両三年ヲヘテ、今年書キツキ畢ヌ。仍テ前後ノ言語不同在之。為後人ノ不審所記之也。」(巻10末)と無住自身が記していることから明らかである。しかし、無住の休筆の理由と、どの巻まで書き進めて休筆したのかは、無住自身によって明らかにされていない。渡邊 は、無住の休筆の理由を、世情や無住自身の身辺の事情が執筆の情熱を冷ましたことをその一つに挙げつつ、主たる理由は、無住が始めに意図していたところを、すでに一応書きつくしていたからだとしている。世情としては、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)には元寇があり、無住が『沙石集』を起稿した弘安2年(1279年)7月29日には、元使周福が博多で斬られた。無住自身の身辺の事情としては、弘安3年(1280年)に、長母寺外護(げご)の善知識、山田正親の死と、敬愛する恩師、円爾(えんに) の死に逢う。翌弘安4年(1281年)には、後宇多帝の詔によって、藤丞相実経から、三度にわたって東福寺第二世の座に移ることを望まれている。これに対して無住は、勅使とともに参内して、長母寺は熱田明神の参禅の道場であるため、長母寺を去ることは困難であることを述べ、固く辞退している。
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寛文四年 重大事件 政権 外交 生誕 死去 宗教界 学術 幕府、林鵞峰に対して、既に成立していた『本朝編年録』を『本朝通鑑』として続撰するよう命じる。 文学・芸術 市井 地方 伝説など(史実かどうか疑わしいもの) その他
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寛文十年 重大事件 政権 外交 生誕 死去 宗教界 学術 『本朝通鑑』全二百七十八巻成立。林鵞峰、幕府へ献上。 その際、徳川光圀が『本朝通鑑』を閲覧し、天皇家の祖先を「呉の太伯」とする記述に驚愕、 猛抗議によってこれを改めさせたという(藤田東湖『弘道館記述義』、藤田幽谷『修史始末』など) 文学・芸術 市井 地方 伝説など(史実かどうか疑わしいもの) その他
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第六十六代天皇 在位中に藤原道長が摂政の座に就くなど、藤原氏による摂関政治の全盛期にあたる。 また、在位中に清少納言、和泉式部、紫式部をはじめ、様々な文人や傑出した賢臣が多く輩出した時期にあたる。 そのため、大江匡房『続本朝往生伝』では、一条帝の在位期間を「聖朝」と記述している。 『続本朝往生伝』巻一、『古事談』巻三などに、一条帝が一度崩御した後に蘇生した話が載る。 いちど崩御したのち、慶円らによる不動火界呪によって蘇生し、自ら百万遍念仏を行って登霞したと云々。 参考文献 『日本伝奇伝説大事典』