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【2004年6月】 日本各地で神帝軍が停戦交渉に応じる。 マティア、札幌のフィリポ、名古屋の大天使は魔属に敵対継続。 九州で平和維持機構『ミチザネ機関』が設立。 【2004年10月】 ミチザネ機関にミチザネ企業財団が参加。 【2005年】 日本各地にマティア神帝軍の新戦力、第2次侵略テンプルム部隊出現。 第2次神魔戦線勃発。 マティア神帝の分散作戦により、古以外の隠れ家は壊滅する。 【2005年後期】 激戦の中、悪魔化する魔皇が続出。各地の被害増加。 弱体化したマティア神帝軍、名古屋の大天使と共に北海道に撤退。 その際に発生した追撃戦でテンプルムが多数墜落。各地に甚大な被害をもたらす。 フィリポと合流したマティア神帝、追撃隊及びエグリゴリにより日本を離脱。 第2次神魔戦線、一応決着。 九州地方のマティア神帝軍、キマイラ型サーバントの開発に成功 【2006年初頭】 古の隠れ家の遺跡で魔獣殻発見。 逢魔の司・歩美、 『パンデモニウム』、『レギオン』、『アクスディアの指輪』の封印を宣言。 インファントのメッセージを受けた神属が『人類従属派』に変容。 ミチザネ企業財団がミチザネ機関を襲名、 感情搾取代替エネルギー放射人工衛星の打ち上げに成功。 【2006年前期】 魔属・エグリゴリ・自衛隊、一丸となって北海道の復興に着手。 2006年中頃には自給自足体制確立一歩手前まで復興する。 これに対し本州は未だ完全復興の兆しが見られない。 九州マティア神帝軍の奇襲とキマイラ型サーバント投入により、 穏健派神帝軍と魔属、本州に撤退。 マティア神帝軍、一部の占領地から撤退。 アジア・アフリカの諸国家、支配から解放。 【2006年後期】 北海道に本州の難民が流入。 その際、ミチザネ機関との権力闘争に敗れた権力者達も入り込む。 権力者達、北海道に浸透、権力基盤を形成。 中立国・中国、神帝軍を敵と認識。 国内の魔属を捜索して厚遇する一方、 親神帝軍的思想の人間を徹底的に弾圧。 中立国・ASEAN、神帝軍撤退による解放後の混乱期に突入。 ASEAN各国間で連絡を取り合い、事態を乗り越えるべく協力し合う。 各中立国、神帝軍を侵略者と認識するも、 神帝軍の遺棄したサーバントや自国が抱える問題の表面化により、 中国・ASEANを除く各中立国は、対マティアに傾注できない状況に陥る。 【2007年】 日本、壊滅等しい状態になる。 『人類従属派』が日本の新しい呼び名を提案、 多数の肯定的意見により、日本は『パトモス』と呼ばれるようになる。 北海道、パトモス建国に反対を表明。 葛城辰巳内閣が発足、自らを日本の正当後継国家と発表。 青森事変勃発。 特務軍第2師団によって鎮圧。 パトモス、日本国・北海道に宣戦布告。 津軽紛争勃発。 パトモス、九州・沖縄で活動する魔属への支援開始。 同じ様にサルデスへのゼカリア配備が進められる。 中立国・中国、パトモスから神魔兵器輸入開始。 パトモスとの結びつきを強めようとする。 中立国・ASEAN、中国の軍事力に脅威を感じた台湾が接触。 軍事面での協力を主にした連合、ASEAN+1が結成。 中国同様に神魔兵器の輸入開始。
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MT*2_47-「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 2010.6.12 第二巻 第四七号 「日本民族」とは何ぞや 本州における蝦夷の末路 一 緒言 二 蝦夷馴服(じゅんぷく)の歴史 三 遺物・遺跡より見たる蝦夷 四 北海道のアイヌ民族 五 近世まで保存せられた本州の蝦夷 六 蝦夷と日本民族 七 日の本将軍 八 蝦夷と武士道 九 東人(あずまびと) 十 武士の起原と蝦夷 十一 結語 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四七号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=71431) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (788KB) 定価:200円(税込) p.224 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(122項目)p.679 飛び出せ! 週刊ミルクティー* この点については、さすがに日の本将軍ともいわれた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、みなそれぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれをいたしません。彼はみずから土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)というもので、神武天皇ご東征以前の、大和の領主であったといっております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったといっております。その後裔なる秋田実季(さねすえ)のごときは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということをもって、家の誇りといたしているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査をかさねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の『永禄日記』十年(一五六七)の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていたおもむきに見えております。(略)しかしながら、仮に安東氏が土人の後裔であるとしましても(略)血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、もちろん日本民族になってしまっているのであります。(略)徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏をもって、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、きわめてなだらかに推移してまいりましたことは、この一例をもってしても思いなかばに過ぎるでありましょう。 2_47.rm (朗読:RealMedia 形式 408KB、3'18'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 「日本民族」とは何ぞや 日本民族の概念を論ず 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第一巻第一号」 1919(大正8)年1月 本州における蝦夷の末路 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「東北文化研究 第一巻第四号」 1928(昭和3)年12月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 年表 本州における蝦夷の末路 宝亀一一(七八〇) 伊治公呰麿、暴動を起こし按察使・紀広純を殺す。 延暦年間(七八二〜八〇六) 坂上田村麿の遠征。胆沢城に鎮守府を設けて蝦夷地経営・東北守備の根拠地となし、さらにその北の紫波郡の地に志波城を築く。 弘仁(八一〇〜八二四)の頃 文室綿麿が遠征。今の岩手県二戸郡福岡町付近の爾薩体・都母あたりまで従える。和賀、稗貫、紫波の三郡を設置。 貞観一一(八六九) 新羅の海賊船が二艘、九州博多の海岸をかすめた時、太宰府の軍人は誰もよう出かけない。付近に移住していた蝦夷人をさしむけたところ、容易にこれを撃退。これから太宰府海岸の防御には、蝦夷人をして当たらしめる。 元慶年間(八七七〜八八五) 出羽の乱。今の秋田県地方の蝦夷が国司の悪政をうらんで暴動を起こす。御物川から北の地方をもって、蝦夷の国として要求。藤原保則、赴任し善政をほどこす。大乱を鎮定。 延喜(九〇一〜九二三)のころ 藤原利仁(利仁将軍)、蝦夷を征伐。事跡は不明。 永承六(一〇五一)〜康平五(一〇六二) 前九年の役。 永保三(一〇八三)〜寛治元(一〇八七) 後三年の役。 鎌倉時代の末ごろ 津軽に蝦夷の乱がおこる。幕府、容易に鎮定することができず。詳細は不明。 鎌倉・室町時代のころ 安東氏、津軽地方に勢力を有して日の本将軍とよばれる。 津軽浪岡家『永禄日記』一〇年(一五六七)の条 同地岩木神社の祠官阿部氏が、秋田実季(本姓、安倍)と同様、先祖の安日という名を取ったという系図を持っていたおもむきに見える。 寛文(一六六一〜一六七三)頃 津軽藩領分内に蝦夷として認められたもののいた村が、外が浜に十六か村、戸数が四十二軒。たいていは日本人と同じ名をつけていた。それを区別するために、時としてその名の下に犬という字をつける。最北の六か村のものは、このとき日本人になるのを嫌って逃げ出す。 宝暦六(一七五六) 津軽藩「この年、外が浜の狄(えびす)シャモとなる」。蝦夷を平民の戸籍に編入し、普通の日本人と同一の待遇を与える。蝦夷村が解放。 文化三(一八〇六) 津軽藩の蝦夷、はじめて最後の解放を受ける。 嘉永五(一八五二) 吉田松陰、津軽の地を視察。『東北遊日記』を書く。 大正一三(一九二四) 喜田貞吉、以来、東北大学へ勤務。年中の大部を東北地方に暮らす。 昭和三(一九二八) 七月十一、十二日 仙台放送局「本州における蝦夷の末路」放送。 難字、求めよ。 崇祭 祖祢 そでい 王道融泰 人禽 日の本将軍 虜陣戎庭 窮説 橘正一 スリーパーズ日記 六月一二日(土)快晴。県内で今年はじめて三〇度をこえ、真夏日となる。三週間に一度の恒例のブックオフ・図書館参り。 都城で口蹄疫確認。本日より緊急に宮崎県内の図書館・博物館など文化施設・スポーツ施設も閉鎖という。動物園ならわかるが、図書館の閉鎖の意味がわからん。(1) 正常な判断能力がマヒするほどに行政の意志決定が疲労・どうしたらいいのかわからなくなっている可能性。すべてのものを疑ってしまう状態。(2) 収集している新聞や週刊誌・過去の関連記録などへのアクセス数が増加。農家や業者が特定され非難を受ける可能性への配慮。(3) 口蹄疫の伝染媒介を図書館利用者・貸し出し図書がおこなっている可能性。 図書館情報へのアクセス規制というと、未成年者の加害事件にともなう実名報道の問題と、2008年の元厚生事務次官宅連続襲撃事件にともなう名簿閲覧の制限が記憶に新しい。が、情報コントロールは相互疑心を強くするもので、良策かは疑問。 空気感染、同一水源の汚染、人間媒介……? 体液感染の可能性がもっとも高いような気がするのだが、ハエ・アブ・カラス、か?。 2010.6.14:公開 ♪ハゲに牛のヨダレをあびせろ。ニッポン牛のヨダレ化計画。 目くそ鼻くそ、ケツ毛ボーボー亀仙人。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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撤退レスの時に被弾してしまう事であり、某氏曰「撤退被弾はカッチョ悪い」とのこと。 帰ろうとするアバターの撤退被弾を虎視眈々と狙うキャラもおり、 その筆頭として活躍するのがアイアンハイドとロビンマスクが挙げられる。 赤字が出ている時に撤退被弾をしてしまっても慌てず騒がずに撤退しよう! これと同じ意味で「おみや」と呼称する人もいる。
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トップページ 用語集 撤退 撤退 プレイヤーは、対戦の途中で「撤退」することができます。 撤退に関するルール ▶︎「撤退」の操作 画面左下の「撤退」ボタンを押すと撤退できます。うまくいかない場合は、画面中央下のエネルギーアイコンをタップし、そのターンでの行動を取り消してから、再度押してみましょう。 ▶︎「今すぐ撤退」と「今は撤退しない」 「今すぐ撤退」は、相手の「撤退」を待たずに撤退できます。 「今は撤退しない」を選ぶと相手の「撤退」待ちになります。ここで相手も撤退した場合は引き分けです。 ▶︎SNAP直後には撤退できない時間がある SNAP(スナップ)操作をしたプレイヤーは、そのSNAPが成立するまでは「撤退」ボタンを押せなくなります。ただし、SNAP操作を見た対戦相手が「あとからSNAPを返してきた」場合は例外です。「撤退」ボタンが復活し、撤退可能になります。 ▶︎用語集へ戻る ▶︎トップページへ戻る
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8月3日 7日目 函館市→青森市(フェリー) 33km 本州に突入した。 フェリーが1400円で済んで嬉しかった。 この日泊めてもらうはずだった小学校時代の友達が体調を崩してしまったらしく、急遽青森市内で宿かテントはれるところを探さなければならなくなったが、ねぶたの期間だけ水道局の芝生が無料のキャンプ場として開放されるらしく、なんとかなった。キャンプ場にはバイク乗りや自転車乗りがたくさんいた。 幼稚園以来のねぶたにかなり感動した。 青森は美人が多かった。 8月4日 8日目 青森市→七戸市 67km りんごがうまい。 この日も素敵な出会いがあった。 コインランドリーで洗濯をしていると、老夫婦に話かけられた。 話を聞くと、なんとキャンピングカーとクルーザーで日本中、世界中を旅しているのだそうだ。 キャンピングカー内に案内してもらって色々な話をした。 そして4000円もいただいてしまった。
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九州に行く旅計画@2009 九州の歴史と自然と食を探しに行く旅です。たぶん。あと温泉 意表を突いて鹿児島からフェリー、沖縄経由で台湾なんて裏技も ← 台湾航路のフェリーなくなりましたよ(な) ed79.jpg?BCEroUKBXi5rlicA c450.jpg?BCEroUKB7oYdkL8q 2c5c.jpg?BCEroUKBHuDQItoj 行程 行き方ば考えよ てきとースケジュール 見所 主なスポットばい ちゅうちゅうのお食事 ちゅうちゅうの寝床 温泉 その他 九州モバイル事情 えーもさいさい おすすめの何か 九州は飽きたでごわす 旅のポリシー てんとめいん?@道の駅? たまにYHとかに泊まる。 雨の日もYHとかに泊まる。 バッテリーが切れてもYHとかに泊まる。 YHじゃなくてもいい感じの温泉宿や民宿でもいいかも。 事前リサーチで良さそうな宿があったら予め予約しとこう。(時期、金額的にGW中は難しいので後半メインか) 雨の日はまったり博物館や郷土資料館などを観覧したいかも。 野営の場合、日没後は速やかにテント設営。暗くなってからの行動は極力避ける。朝は早めに起床。 転んでも泣かない。 なるべく転ばない。 #bf ここを編集
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■撤退確認(キャラシ消失or撤退明記) ガラサ ウルフェン コール キオ ロゼ リコ ベルモット ラグナロッタ・B・ハックターン 兎 ラルフ・バークレイ リオ・ヴァロット ミック ウリッセ フィール・スタンディ アベル エニシ レナート ルイジ・ポリーニ ロート・カタラーニ アドルフォ・バルバトール キアロ オージ・ボルジア フリーテ ヴァイオレット アルヴィン・ベイツ メグミ・グッドマン 潤太 リイナ ヴィヴィ ニコロ レオン・ハーティス キティ・オリーヴァ イチカ・フィリップ 倉市サクト ボーマン リヒト アーク クロト ガロ リシャール・ファーゲルホルム お疲れ様でした! ※私のデータに残っていた限りなので、もっと前に撤退された方は記載できていません
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サイト ホームページ(本州化) IRサイト(本州化) CSRサイト(本州化) 各種ツール 事業報告書(本州化) アニュアルレポート(本州化) CSRレポート(本州化) 総会通知(本州化) 有価証券報告書(本州化) 決算短信(本州化) 中期経営計画(本州化) その他資料(本州化) 戻る
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作戦 【装備】 ≪全般≫ 発煙弾、閃光弾を発射。敵の視界を奪う 【体術】 ≪全般≫ 可能ならば、偽装工作によって敵の追撃を躊躇わせる 足の遅いものを護衛と共に先行させ、殿は戦闘力の高い者が行う。 脱出経路と手段を予め把握もしくは戦闘中に入手しておく。 倒した敵から、敵に関する情報を出来る限り入手解析。予め頭に入れておく。 情報端末やケーブルからデータの吸出しを行い、脱出経路までの見取り図を手に入れる。 案内板を見る。こういう重要な物は目立つマークになっているはず。 どこも構造は似ているのである程度分かる 現地のエースに撤退のルートに関して助言をしてもらう 使わない乗り物もあるだけ動かして囮にする 迅速に脱出する為、戦闘は極力控える。 機器の誤作動でシャッターが閉じていればこじ開けて開いて進む。 隠密行動しつつ速度重視で脱出をはかる。 背後を狙われる危険性もある為、必ず背後を警戒する。 乗り物や設備に自動攻撃させて脱出の援護をさせる 付近の隔壁などを閉鎖し、時間を稼ぐ。 移動通路の一部を破壊して敵の足止めをはかる。 敵のセンサー類を騙す為に偽装を施す 車や壊れた船の残骸を利用して追撃を逃れる 姿勢を低くして移動することで敵の弾に当たりにくくする 死体は動きを阻害しないように背中に担ぐ 必要ない装備は捨てる イラスト SS RP まとめ
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尾張撤退戦 尾張撤退戦(おわりてったいせん)とは永禄9年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・清洲城兵52154 足止めとして9154 守将:武田信虎 残物資 馬:18237 鉄砲:30500 撤退部隊(11月25日) 鉄砲隊9500:下間頼廉、中川清秀、斎藤龍興 騎馬隊9000:博麗霊夢、霧雨魔理沙、八意永琳 鉄砲隊9500:松永久秀、鈴仙・U・イナバ、六角義治 鉄砲隊5000:赤井直正、八雲藍、橙 鉄砲隊5000:蓬莱山輝夜、小野寺輝道、前田利益 鉄砲隊5000:籾井教業、淡河定範、松倉重信 (12月10日) 騎馬隊5000:武田信虎 稲葉山城兵(増援)(11月10日) 騎馬隊9500:羽柴秀吉、滝川益重、荒木氏綱 騎馬隊8500:丹羽長秀、羽柴秀長、宮部継潤 武田・岡崎城兵163500 武田信玄 :騎馬隊22000 武田勝頼 :騎馬隊20000 武田義信 :騎馬隊14000 高坂正信 :破城槌隊14500 武田信繁 :破城槌隊14000 太田資正 :破城槌隊9500 原虎胤 :破城槌隊9500 初鹿野昌次:騎馬隊9500 成田長泰 :破城槌隊9000 秋山信友 :騎馬隊8500 木曾義康 :騎馬隊7000 長野業盛 :足軽8500 内藤昌豊 :弓隊9000 大久保忠世:弓隊8500 清洲城を中心とする尾張の防備大勢は不十分であり、武田軍の戦力は圧倒的である。撤退を決断したのも無理はないだろう。 合戦概要 8月初旬に陥落した尾張清洲城の守りが手薄と見た武田軍は、尾張奪還の好機と捉え三河岡崎城から総勢16万を越す大軍を持って攻め込んだ。 これに対し姉小路軍は稲葉山城から後詰めを要請したものの、軍監である八意永琳により撤退を決断。 武田先鋒隊が尾張領内に進入した11月25日に撤退を開始した。殿には武田信虎と兵9000がこれを務めた。 12月10日、十分に時間を稼いだと判断した信虎が騎馬隊5000と共に撤退を開始しようとした矢先、武田軍は木曽川の堤防を決壊させ清洲城を水攻め。 その様子は城が湖の上に浮かんでいるようであった。 武田軍の重囲の中、霧雨魔理沙は堤防の一部を破壊することに成功。 水が引いたことで信虎は残る僅かな動ける兵を率いて辛うじて武田軍の包囲を突破した。 清洲城に残っていたのは元々北条方の傷兵達であったため、12月20日に降伏。 清洲城に二度武田の旗が翻った。 この戦いの影響 姉小路包囲網は各地で敗戦を繰り返していたが、この戦いの勝利で武田家は盟主としての面目を保つとともに、各国の士気をあげることに成功した。 また、富裕な尾張国は武田軍を経済面で大きく支えた。 逸話 この戦いについて、太田牛一は『騨侯記』の中で「まつながじぶ、謀りごと用いて武田と通ず、と京童噂しけり」との記事を残している。 謀の存在は、先の伊勢侵攻ともども明らかではないが、まつながじぶ、則ち松永治部大丞久秀が何らかの行動を行った可能性は決して低くないと、歴史家は一致見解を見せる。 当時畿内は一大商業・農業圏として、著しい発展を遂げ、姉小路領のみならず、日本全国から見ても圧倒的な生産量を見せていた。 そして畿内を抑えることは、姉小路家の財政を支え、姉小路強大化の元でもあった。 故に、姉小路の金庫ともいえる畿内を抑える大和衆は、極めて大きな権限を持つはずであった。 しかし実際は、要所を姉小路家直轄地や、姉小路主力・美濃衆に抑えられていた。 また美濃衆がより古参であることもあって、大和衆はそれほど大きな権力を持つことができなかった。 これは、大和衆が美濃衆に反感を持つ要因となる。 さらに、永禄九年(1566年)4月の稲葉山防衛成功・6月の尾張攻略は、美濃衆がより権力を得る結果をもたらしている。 特に、肥沃な尾張を美濃衆が得ることは大和衆が最も危惧すべきことであった。 畿内にも多数の所領を持つ美濃衆は、大和衆の急所を握っている同然であり、尾張の生産力を手に入れることで大和衆を滅ぼすことも容易となったからである。 その状況を鑑みれば、大和衆がその権力を維持するため、武田による尾張侵攻を誘発し、 美濃衆をあわよくば壊滅させようとすることも、決して不思議ではないのである。 結果的に美濃衆壊滅とはならなかったものの、尾張喪失による生産力の低下、敗戦による損害によって、美濃衆の影響力は戦の前から比べると低下している。 なお、ほぼ同時期に北条家家臣某が、松田憲秀に内通の嫌疑ありとの書状を残している。 この嫌疑については一度沙汰止みとなっているが、この時期の北条家内に対し謀をしかけるような人物は松永久秀しかおらず、内通相手が松永であることはほぼ間違いない (松永・松田間の書状は現存していないが、松永ほどの謀略家が己の謀が露見するような物を残すはずがない)。 おそらくは伊勢・尾張を切り取り大和とともに姉小路家からの独立をもくろみ、 かつそれを維持するため武田家の同盟を画策していたとの推測がなされている(ただし、この説の蓋然性は低い)。 結局それは尾張侵攻とこの撤退戦により不発に終わっているが、 実際に独立するならば武田との同盟が、かつての徳川・織田同盟のように必要であるは想像に難くない。 また、伊勢・大和を武田に差し出す形での独立・同盟を目論んでいる可能性もある。 清洲城はわずか3年ほどの間に織田→武田→北条→姉小路→武田と持ち主を変えた。 持ち主を変える度に大きな戦いが行われたため、織田家が領有していた当時は繁栄を誇っていた城下町も、 姉小路家が領有する頃には軍事施設を除けば城兵のための臨時の市が月に数度立つ程度で、荒廃しきっていた。 住民の多くは津島、桑名等の伊勢方面や、交通の要衝で門前町もある熱田へ移住したという。 武田信玄が清洲水攻めを決断した背景に、元々荒廃している清洲を水攻めしても経済的にさして悪影響がないことがあったと考えられる。 清洲城は平城で標高が低く、水量の多い木曽川も近いため水攻めをする条件は揃っていた。数万の足軽に多額の金子を与え、突貫工事でまたたく間に堤防を完成させたという。 時、折りしも冬であったため、水量はさほど多くは無かったが、それでも城内の大部分を浸すには十分であった。 むしろ、冷水によって多くの兵が凍え、士気の低下が深刻となった。 姉小路軍は懸命に排水作業を行ったが、効果はあまり無く、むしろ作業をする者を凍えさせるのみであった。 この戦いでの死者には多くの凍死者が含まれていたという。