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木戸孝允の略歴は↓こちら 木戸孝允 - wikipedia 作者名 発行日 作品名 シリーズ 時代 ジャンル 受賞歴 文庫化 映像化 電子書籍 司馬遼太郎 1963/12/10 幕末 短編集 幕末維新 歴史小説 ○
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ヅラじゃないかつらだ!! 木戸孝允(桂小五郎) (小学館版学習まんが人物館)
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前半は木戸孝允を参照 人物 木戸孝允の苦悩の原因 木戸自身は、文明開化を自ら実践し、自ら世間に開明諸施策を率先して推進し続けた大胆かつ繊細な開明派である。ところが同時に、安政の大獄や新選組や長州征伐や戊辰戦争など数々の修羅場の経験に裏打ちされた用心深い漸進(ぜんしん)派でもある。 このため、木戸は、開明思想乏しくして明治政府に参加してしまった守旧派からも、また、現実や経験を踏まえず輸入物の知識による理念だけで権力闘争したがる急進派からも、上策ないし是とは判断し得ない下策をいちいち訴えられ続けた。つまり真反対の両方向から全く相異なる苦悩を同時に抱え込まされ続けるという非常に割に合わない難業に木戸は耐え続けていたことになる。 そのため、病気が再発・悪化した明治6年以降は、明治政府とはしばしば明確に距離を置き始める。 そして、一方ではその当時としては余りにも先見的な提言を残したまま、他方では木戸自身にとって余りにも時代錯誤な西南戦争の最中に、この世に見切りを付けたかの如く象徴的に去って行ってしまうのである。 木戸孝允と板垣退助 土佐の板垣は、木戸が早くから、土佐を倒幕に動かし得る重要人物として龍馬に対しても特に念を押して推奨したほど大いに買っていた人物である。事実、龍馬亡き後も、その通り土佐を討幕に動かした開明的で統率力のある人物である。 しかし、板垣は、木戸の大胆にして細心な漸進路線を理解することが出来ず、着実かつ大胆に明治政府内で実行していくよりも、薩摩と組んでの「不平士族」的な路線闘争に走ったり、下野して薩長政府を急進的に攻撃する「民権」闘争に走ってしまったりなどしたため、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、また、一度は木戸と手を組んで明治政府に復帰していながら、木戸とすら離反してしまい、結局のところ、最も政権運営から遠ざかってしまった。 木戸孝允と大隈重信 肥前の大隈は、余りにも急進的な開明派であったため明治政府内で守旧派から総攻撃され窮地に陥っていたのであるが、開明派のボスである木戸は、出身藩の別を超えて大隈を擁護し、引き立て、何かと面倒を見続けようとした。事実、木戸は、西郷が大隈を「俗吏」と呼んで嫌っていたことを承知で大隈を西郷と同じ参議にまで積極的に引き立てている。 ところが、薩長の人間と比較すれば、不当なまでに優越した立場を与えられたことを自己の能力と過信したためか、やはり大隈も権力闘争に走ってしまう。権力闘争に血が騒ぐ大隈は、開明派のボスである木戸が病気がちになると、木戸や大隈ほど開明的ではないが故に海外視察で出会ったビスマルクに大いに感化され「鉄血宰相」然とし初めていた大久保に近づき、自己の権力の更なる安定を図る。その大久保が暗殺されると、今度は伊藤と権力闘争のデッドヒートを展開し、結局、明治14年(1881)の政変によって、明治政府から追放されることとなる。大隈もまた、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、それを理解出来ず、権力闘争にうつつを抜かしていることを木戸からあっさり見抜かれ、「将来を自分で潰してしまうことになるぞ」と“鬼怒”されてしまい、結局のところ、木戸が予見した通り大隈も政権運営から大きく遠ざかることとなってしまった。 木戸孝允の眼力 木戸の人物を見出す眼力には一定の評価がある。土佐の坂本竜馬と親しく交際し薩長同盟に結びつけ、また幕府打倒の軍事行動を最終的に全て指揮する事になった大村益次郎の後ろ盾となり、一介の平民の彼に周囲の反発を押し切って大役を任せ得るのは全て木戸の進言あってのものであった。 また明治後、木戸同様、木戸に見込まれるほどに開明的で権力闘争に向いている板垣や大隈が下野したからこそ、(皮肉にも)薩長政府は常に近代化へ向けての手痛い批判に晒され続けることになり、日本の政党運動が軌道に乗り、国民意識もそれなりに発展し得たと言える。 木戸自身、幕末においては絶えず命を危険にさらし続けながら、徳川幕府に対して倒幕運動を推進し続けて来た第一人者であった。 そういうことを考え併せると、やはり木戸の目に狂いはなかったということになる。木戸が開明的な板垣や大隈を(出身藩の別を超えて)熱心に引き上げ、調和的に明治政府の参議にまで登り詰めさせておいたからこそ、薩長政府も日本の政党活動も、それなりに機能し得たということになる。 木戸孝允と伊藤博文 木戸孝允の内弟子的存在として伊藤がいる。木戸と同様、武士の生まれではなかった軽輩者の伊藤自身は、単に木戸の愛弟子であるだけでなく、木戸と同様に至誠の実践者である松陰の愛弟子でもあり、初代奇兵隊総督高杉晋作の弟分でもあり、都落ち七卿の一人で誠実な三条実美の弟子でもあり、明治政府に入ってからは大久保や岩倉の弟子にもなっている。自分で師匠を見つけては積極的に弟子入りし、積極的に下働きし、積極的に何ものかを吸収して行くのが上手いと言える(その分、下手な思想性はない)。 木戸が1873年(明治6年)以降、病気がちで参議内閣に出席できなくなると、その代役、つまり長州を代表する参議として抜擢されたのが、伊藤である。既に木戸の執事的存在であり、かつ有能な官僚でもあった。また、木戸没後の話であるが、木戸が病気を押して熱心に推進していた地方官会議の第二回目が開催されることになると、その議長という難職を自ら買って出、律儀に務め上げたのも、伊藤である。 これ以降、衆議院議長(立法府の長)と各委員会の委員長と全国知事会の会長と全国都道府県議会議長会の会長と首相(行政府の長)の五つを一人で兼任しているような地方長官会議議長という過渡期的な難職は、日本の政治から消える。木戸が率先して提言し続け、木戸が作成しなかった明治憲法の下での帝国議会が地方長官会議に取って代わる。 木戸と伊藤と開国と破約攘夷 木戸と伊藤との関係は、当然のことながら古く、極めて密接な関係である。 伊藤が、松陰の推薦で木戸の義理の弟に当たる来原良蔵の御手付役(侍従・使い走り)として士雇(さむらいやとい)であったところを、来原が亡くなる前後から、木戸が自分の御手付役として伊藤を引き受け、育て上げ、長州藩士として独り立ちさせ、多くの松陰門下生同様、松陰や桂(木戸)の“飛耳鳥目”として積極的に活躍させ続けていた(江戸、水戸、京都、英国、長崎、欧米諸国など)。 もともと木戸は、安政2年(1854年)、義弟・来原良蔵と共に、自分たちが吉田松陰に次いで留学希望者である旨を藩に公然と願い出るほど開国的であった。それが幕府の鎖国政策に恐れおののく藩から当然の如く拒絶されたため、文久3年(1863年)春、代わりに井上馨・伊藤たち5人を藩の公費で英国ロンドン大学へ秘密留学させることを快諾した。先進的な木戸・周布政之助・村田蔵六(大村益次郎)たち長州正義派政権の上層部がこの秘密留学を平然と推進したのには極めて重大な事情がある。 彼らは既に前年(1862年)、長井雅楽の幕府擁護策である『航海遠略策』を、久坂を中心に否定して行く過程で、幕府の見せかけだけの開国路線、すなわち実態的には幕府直轄領の開港場が増えて幕府関係者だけが得をするに過ぎない幕府の自己保身的な“鎖国・屈服開港”路線を否定し、『日本は全国的に“開国・破約攘夷”路線で進まねばならない。自ら積極的に開国して海外の文化文明を知り、自ら積極的に文化文明を吸収して行かなければならない。そうしない限り、破約攘夷はとてもおぼつかない。と幕府とは微妙かつ本質的に異なる“開国・破約攘夷”路線で決していたのである。 薩長土はじめ幕末の多くの勤皇志士たちが本能的に日本国の破滅の危機を感じ、訴え続けた“破約攘夷(不平等条約の撤廃)”は、長井雅楽の『航海遠略策』(1862年)を長州正義派政権が分析し、否定してから49年後、すなわち日露戦争勝利の余韻さめやらぬ1911年(明治44年)に、薩長政府の下でようやく完全に実現する。 家族親族 妻松子は木戸の死後、翆香院と名乗って出家生活に入り、十年後、この世を去った。 木戸家は木戸孝允の実妹治子と来原良蔵との間の次男正次郎が継いでいる。 木戸正次郎はインド洋航海中に病死しているが、木戸孝正が木戸家を継いだ。孝正は孝允の実妹治子と来原の子で正次郎の兄、東宮侍従長を務めた。その長男の木戸幸一は内大臣を務め、昭和戦前の重要歴史資料である木戸幸一日記を残している。 木戸幸一の二男の木戸孝彦は弁護士。東京裁判では父の弁護人を務めた。 木戸幸一の弟は和田家に入って和田小六となった。小六は航空工学者で東京大学教授、東京工業大学学長。その息子は元東京大学教授で理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長の和田昭允である。 木戸幸一、和田小六の従妹は、内閣総理大臣池田勇人の最初の妻の直子。 経済学者都留重人の妻の正子は和田の娘。 系譜 木戸氏 系譜 Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=1| | |}|-|-|kosei| | | |kosei= 木戸孝正}} {{familytree|border=1| | kihara | | |}|-|v|koichi|kihara= 来原良蔵|koichi=木戸幸一}} Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=1| | | | | | |}|-|v|hiro|hiro=広沢真吾}} Template familytree? Template familytree/end? 四賢堂 伊藤博文は、自分が大いなる薫陶を受け、賢いと感嘆し、尊敬し続けた4人の人物(三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通)を讃え、肝に銘じ、恥じることのないようにするため、大磯の自宅の庭先に四賢堂を建立した。 この四賢堂は、現在、更に伊藤、西園寺公望、吉田茂の三人を加えて七賢堂とされ、同じく大磯の旧吉田茂邸に転座されている。 大磯歴史ツアー報告 映画・ドラマ・漫画・舞台 映画 幕末(1970年、演・御木本伸介) 徳川一族の崩壊(1980年、演・松方弘樹) 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、演・川谷拓三) ゴルフ夜明け前(1987年、演・島田紳助) 竜馬を斬った男(1987年、演・本田博太郎) 幕末純情伝(1991年、演・柄本明) ドラマ 三姉妹(1967年・NHK大河ドラマ、演・御木本伸介) 竜馬がゆく(1968年・NHK大河ドラマ、演・高橋昌也) 勝海舟(1974年・NHK大河ドラマ、演・和崎俊哉) 花神(1977年・NHK大河ドラマ、演・米倉斉加年) 竜馬がゆく (1982年・テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演・竜崎勝) 白虎隊(1986年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演・石橋正次) 田原坂(1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演・風間杜夫) 五稜郭(1988年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演・あおい輝彦) 坂本龍馬(1989年・TBS大型時代劇スペシャル、演・篠田三郎) 奇兵隊(1989年・日本テレビ年末時代劇スペシャル、演・中村雅俊) 翔ぶが如く(1990年・NHK大河ドラマ、演・田中健) 竜馬がゆく (1997年・TBS大型時代劇スペシャル、演・石黒賢) 徳川慶喜(1998年・NHK大河ドラマ、演・黒田アーサー) 蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦(2000年・NHK、演・阿部寛) 新選組!(2004年・NHK大河ドラマ、演・石黒賢) 白虎隊(2007年・テレビ朝日、演:榊英雄) 篤姫(2008年・NHK大河ドラマ、演・スズキジュンペイ) 漫画 HAPPY MAN(石渡治作。桂小五郎を主人公とし、坂本竜馬らを交えた青春劇漫画) るろうに剣心 (桂小五郎として登場) アニメ化もされている。アニメでの声は、関智一が担当している。るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-の登場人物一覧を参照。 舞台 LOOSER~失い続けてしまうアルバム(TEAM NACS 第10回公演「LOOSER~失い続けてしまうアルバム」演:音尾琢真) 参考文献 『松菊木戸公伝 上下』 『木戸孝允文書 全8巻』 『木戸孝允遺文集』 『木戸孝允日記 全3巻』 『大久保利通伝 全3巻』 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 248-249頁 関連項目 日本史の人物一覧 - 明治の人物一覧 大江氏(桂氏,和田氏の本姓) 士道 外部リンク 桂氏系譜 関連系図 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15 32。
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{{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務卿 |就任日2 = 明治7年(1874年)2月14日 |退任日2 = 明治7年4月27日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = }} 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士・長州藩士、政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。 江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。名の孝允は「コウイン」と有職読みされることもある。 略歴 吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。 維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。 明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。 昭和21年(1946年)正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。 名前 「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。 「小五郎」は生家和田家の由緒ある祖先の名前であり、五男という意味ではなく長男である。 「木戸」姓は、第2次長幕戦争前(慶応2年(1866年))に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱(いみな)のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 雅号としては、「木圭」「猫堂」「松菊」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがある。 名前の大まかな推移は、和田小五郎(元服して正式に桂家を継ぐまで)→桂小五郎(15歳以降)→木戸貫冶(33歳)・木戸準一郎(33歳以降)→木戸孝允(36歳以降)である。43歳(年齢はいずれも満年齢)で逝ってからは「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれる。 経歴 少年時代 天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市)萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くという。母はその後妻。前妻による姉が二人いる。長男ではあるが、病弱で長生きしないと思われていたため、長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、7歳で向かいの桂家の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。 少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあった。萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉(かいさい・かいや)を叫ぶといういたずらに熱中していた。あるとき、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂(かい)で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。この当時の、いたずら好きとしての勲章が額の三日月型の傷跡として後世まで残り続ける(写真では見えない)。 10代に入ってからは、藩主毛利敬親による親試で二度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英として注目され始める。 嘉永元年(1848年)、次姉・実母を相次いで病気で失い、悲しみの余り病床に臥し続け、周囲に出家すると言ってはばからなかった。 嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は、「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。 剣豪桂小五郎 弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立つ。 身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身だった。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となる。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。 ほぼ同時期に、 「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた武市半平太 「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬 も免許皆伝を得ている。 幕府講武所の総裁、男谷精一郎の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間、剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩・鳥居藩・内藤藩などの江戸の藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。 一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太や坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。 留学希望・開国・破約攘夷の志士 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。 松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出るが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れる。しかしながら、義弟となる来原良蔵とともに藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の「下田踏海」への対応に弱っていた藩政府を更に驚愕させる。 倒幕方針をまだ持っていない藩政府が江戸幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。 兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ 浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ 江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ 長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ 文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。 この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、 井上馨(聞多) 伊藤博文(俊輔) 山尾庸三 井上勝 遠藤謹助 の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。 5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始める(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。 5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指す。 池田屋事変 元治元年(1864年)に会津藩お預かり新選組が勤皇の志士を襲撃した池田屋事件で小五郎は、到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れた…と言われているが、それは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。 乃美織江の手記に基づくなら、桂小五郎は池田屋事件当時池田屋にいて、逃げ延びたと言うことになる。 その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂らとともになおも活動をし続ける。 蛤御門の変 八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約三百名が率兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとする所まで行くが、一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と半ば脅され、幕府・会津藩と完全な敵対関係に入る覚悟までは持ち併せていない孝明天皇および公卿たちは、あっさりとひるんでしまう。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。 長州軍としては武門の名誉に賭けて、何も果たさず、何も戦わずに、すごすごと国許まで帰ることは、まず不可能である。天皇直訴と集団諫死に賭けた長州先発隊は、まだ瀬戸内海上にいる世子定広率いる長州軍本隊二千名に引き上げを要請した上で、蛤御門の変(禁門の変)を敢行する。 来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は、会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫るも、薩摩軍に横腹を付かれ、来島が倒れた後は総崩れとなって、散り散りに敗走する。 福原越後率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大阪方面へ退避する。 久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は、淀川のぬかるみで出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、鷹司邸を根城にして天皇に直訴だけは行おうとするが、これもかなわず、久坂たちは自らは大将として自刃し、残りは天王山方面へ退避させる。 このとき小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。 第一次長州征討 朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降りた。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で武士らしく責任を取った。 ところが、長州俗論派政権がここぞとばかり正義派の面々を徹底的に粛清し始めたため、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻して軍事クーデターを成功させ、俗論派政権による恐怖政治を終わらせた。この後、小五郎がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。長州政務座に入ってからは、高杉たちが所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。 薩長同盟 長州藩は土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの薩長同盟を結ぶ。慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行く。薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらった。 第二次長州征討 長州藩の武備恭順や大村益次郎たちによる秘密貿易を口実として幕府側(会津藩・新撰組)は、第二次長州征討(四境戦争)を強行してくる。 薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。長州訪問中の坂本龍馬が感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。 初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた木戸貫冶(小五郎)は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、高杉晋作艦による幕軍への艦砲射撃によって形勢が逆転し、その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。 大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。 ことに芸州口を担当していた井上馨率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせた。 肥後軍の高みからの猛攻撃により八ヶ月に及んでいた小倉口の戦いは、幕府側の劣勢にもかかわらず戦おうとしない幕艦・幕軍にあきれ果てた肥後軍の撤退によりあっさり幕を下ろした。 大島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。この結果、浜田藩(天領・石見銀山含む)と小倉藩の主要部分は明治2年(1869年)の版籍奉還まで長州藩の属領となる。 明治維新政府で 明治新政府にあっては、副総裁の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛、参与、参議、文部卿などを兼務していく。明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させる。 なお、昭和戦後まで実現はしなかったが、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言を、その当時に、維新の元勲の立場で行っている。 五箇条の御誓文 一 廣ク會議ヲ興シ、萬機公論ニ決スヘシ。 一 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ經綸ヲ行フヘシ。 一 官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。 一 舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。 一 知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ。 我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此趣旨ニ基キ、協心努力セヨ。 第一条の「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」、第四条の「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」の二つが木戸により全く新たに挿入された五箇条の御誓文の最重要精神である。 その他には、 福岡孝弟の会盟の「人心をして倦まざしむるを要す」という言葉遣いをより洗練された表現「人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」に修正したり(ただし、前半の「官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ」という表現は福岡孝弟独自の表現をそのまま尊重している)、 「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」を最後の第五条に持って来て、「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない」という明治維新の最重要課題を国民全員に印象付けることに留意する などの修正を施している。 「五箇条の御誓文」と称し、明治天皇以下全員が天地神明に誓うという儀式を木戸自身が構想したこともあり、木戸は抵抗する守旧派を説き伏せ、明治天皇には大いに本気になってもらっている。 参議内閣制の確立と崩壊 明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年(1871年)6月、西郷隆盛(第2代宰相)、大久保利通(第3代宰相)、三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)たちから、木戸(初代宰相)がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじ、ファシズム的な独裁体制を嫌う長州の代表である木戸は、これを堅く固持し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、西郷が「俗吏」と評して嫌っていることを知っていながら、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も人事では負けじとばかり(自分が先月主張していた「命令一途」体制を忘れて)『それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ』と応じ、めでたく薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 しかし、この薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。 海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を変更しない」という約束が交わされていた。しかし、それを留守政府が大きく反故にしてしまっていたのである。また、留守政府による征韓論の方針は、海外視察組には到底承伏し難い暴挙にしか見えなかった。 木戸は海外視察へ出かけていたただひとりの参議であり、しかももともと筆頭参議的な存在であるため、帰朝後、あらゆる難題が一気に木戸の下に持ち込まれ、明治政府の難題をひとりで背負わされているかの如き態となり、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始めた。この奇妙な持病のため、木戸は以後、本格的に明治政府を取り仕切れなくなった。 何よりも頭が痛かったのは、権力の腐敗と闘争が、木戸の不在時に激化し始めたことであった。長州出身の山縣有朋や井上馨などが汚職事件を起こし、肥前出身の司法卿江藤新平から厳しく責任を糾弾され、失脚に追い込まれていた。これと長州出身の伊藤博文が対立していた。木戸としても、弟分たちの復権を考慮せざるを得なかった。こうして、木戸自身がつくった薩長土肥の参議内閣は、木戸自身ですら調和的にコントロールし得なくなっていた。以後この矛盾は、海外派兵の是非を巡る対立から不平士族の反乱・暴発へと発展していく。 薩長政権の成立 木戸自身、大久保から、事態収拾のため、やはりかつての薩長同盟のように薩摩と長州が組むべきだという提案を受けていた。土肥をも尊重していきたかった木戸としては不本意ではあったが、もはや了承せざるを得なかった。あとは大久保利通の指導力と自分の執事のように動いてくれる伊藤に任せるしかなかった。 こうして、木戸を頂点に担ぐことでかろうじて統合されていた薩長土肥の明治政府は、開明派と守旧派、漸進(ぜんしん)派と急進派という二重のねじれた権力闘争の結果、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・井上馨・山縣有朋・黒田清隆・松方正義たちに代表される、開明的で漸進的な、第二の薩長同盟の如き薩長政府と、土肥の板垣退助・大隈重信たちに代表される、薩長政府から政権を奪取せんとする権力闘争的で急進的で開明的な民権活動家グループ(のちの政党活動家グループ)へと分離していく。 岩倉使節団とその影響 木戸は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結のため、岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧し、予備交渉と欧米視察を進め、欧米の進んだ文化だけでなく、民主主義の不完全性や危険性まで洞察して帰って来る。 しかしながら、欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。かつての征韓論などは引っ込めて、内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組んだ。後に文部卿に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したものであった。西郷らが主張する征韓論や大久保らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させるための手段として構想された秩禄処分が、財政至上主義のために単なる農民・武士の切捨策として実行された時にはこれに激しく反発した(木戸は井上馨に充てた手紙(1876年12月6日付「木戸文書」所収)では、地租改正反対一揆を擁護すらしている)。そして、無謀と判断していた台湾出兵が不平士族たちの暴発をそらすため決定された1874年(明治7年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。 立憲政体漸立 木戸と板垣とを明治政府に取り戻したい大久保利通・井上馨らは、明治8年(1875年)8月、大阪会議に彼らを招待する。木戸・板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、直ちに立憲政体の詔書が発布される。議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された。司法については現在の最高裁判所に相当する大審院が新たに設立されることとなった。 初めての国民的会議 明治元年(1868年)の集議所、同2年(1869年)の公議所など、木戸自身の開明的な方針で国会の下院に相当するものを実際に構成し、機能させようとする努力は当初から為されてはいた。 しかし、江戸時代の封建意識そのままの各地の不平士族たちを出仕させ、自由に発言させただけでは、維新の方針とも現実的な可能性とも乖離(かいり)し過ぎており、保守的な大久保をして「廃止すべし」と断言させるほどに、時期尚早かつ、ほとんど無意味なものであった。また、これらの会議は、「廃刀令」「四民平等」以前に行われたため、薩長土肥以外の、特権を奪われまいとする武士たちの不満の発散所でしかなかった。 このため、現在の国会の衆議院に相当するようなものを模索し続け、その必要性を訴え続けて来た木戸自身が、環境を整備し、タイミングを見計らった上で、第1回の地方官会議(1875年6月20日~7月17日)を、自ら議長として挙行した。それでも不平士族や民権派の多岐にわたる要望や噛み合わない議論の中、議長の木戸は鮮やかな議事進行で法案をまとめて行き、成立させていった。このとき採択された五法案は、地方警察、地方民会など地方自治の確立を促進する画期的な法案であるが、のちの内務省の台頭により、いずれもそのままの形では実施されなかった。 西南戦争 明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発すると、すぐさま西郷をなだめる鎮撫使に立候補する。内務卿の大久保が、それは自分の仕事だと言って認めず、西郷への鎮撫使として木戸の次に立候補してしまう。明治政府の瓦解を恐れた伊藤博文が、これに反対し、結局、西郷をなだめるための鎮撫使が出されないまま、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。 かねてから重病化していた正体不明の脳発作が悪化し、明治天皇のお見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った。享年45。 墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市糸米(いとよね))に木戸神社がある。 晩年、木戸は現在の東京都文京区本駒込5丁目、豊島区駒込1丁目の別宅で親しい友人を招き過ごしたと言われる。当時の庭園が今も維持されている。JR山手線駒込駅から別邸までの間に木戸坂と命名された坂が残されている。 後半は木戸孝允-2を参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15 32。
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目次 1.私は゛天台智覬゛と魂の兄弟 2.日本におけるスピリチュアリズムの流布は画期的事業 3.明治の私は天の計画樹立のためのアンテナ役 4.批判に耐え得る実績を積め 5.過渡期の宗団にはそれ自体の意義がある 6.新憲法は神より授かり公布されよう 7.憲法前文に精神規定の宣言が必要 8.新憲法は今後二十年以内に改正されよう 9.神の国建設のデモクラシーこそ本物 10.神への不信は無知が原因 11.ユートピア建設への大いなる「器(うつわ)」づくりに励め (1986年1月1日の霊示) 1.私は゛天台智覬゛と魂の兄弟 ―― 木戸孝允先生の招霊を行う。―― 木戸 ――木戸です―― 善川 木戸先生ですか、私ども今回明治維新の元勲方をお招きし、以来百年を経過した日本の国のこれからの政治、教育、文化の進むべき方向についてそれぞれご指教を頂いたのですが、先生からも何かご指導を頂けますならと存じますが、よろしくお願いいたします。 木戸 ――わかりました。私は他の方々とは違ってあなた方の仕事に関しては既に承知しているものです。ということはかつて「高橋信次」さんを指導したこともあるということで「正法」そのものに関しても私自身はかなり知識を持って居るつもりです。私はあなた方の所に既に出た「天台智覬」といわれる方、この方と私とが魂の兄弟なのです。 私はたまたま政治家としての役割を担って近代日本に出ましたけれども、これは既に高橋さんも述べておられたように将来このような形で日本という国に゛正法゛の伝道がなされることが予定されておりましたから、その前の土台造りということで私も政治家として日本に生まれ、そうして将来のそういった宗教的な開花の土台として政治家として、まず生まれたということです。 ですから私自身の生涯が、あなた方や、あなた方に続く者達の土台造りであったということです。ですから私に対してはまあ単に明治時代にどうこうしたということの関心もあるかと思いますが、そういったこと自体は、私の意識からは非常に遠いものと今ではなっております。私自身はあなた方同様、゛神理゛伝道のために地上においても、またこちらの世界においても日夜活動しているものであります。 善川 ああそうでありましたか、そこでまあ私どもご承知のように現在のところ各聖賢方よりいろいろのお教えを賜わってこれを自らの心の糧として学んでいると同時に、これを書物として刊行し、広く世の人びとに訴え、゛神理゛の普及に努めて居るものでありますが、そういう目的を持っている私どもに対しご指導して頂くという意味から、先生のお考えなりまたこれからの私どもに対するアドバイスということも兼ねてお願い出来れば幸いと存じますが……。 2.日本におけるスピリチュアリズムの流布は画期的事業 木戸 そう恐縮されることもないのであって、もう私もあなた方の指導霊の一人に入れて頂いていいような立場にあります。ですから「日蓮」さんとか、他の方に聴かれるような気持で、私に接しられたらいいのだし、特に近年の日本に生れたからかなり感覚自体はあなた方に近いものがあると思います。 特にまず述べておきますと、今あなた方はこのような形で、書物の出版ということをされておりますけれども、この方向は非常に今いい方向だと思います。いろんな形で宗教を説かれた方は多いと思うのですけれども、あなた方は、まあいわばスピリチュアリズムですわね、こういった形で現代において、日本において、スピリチュアリズムをまず広めるということをやっておられるわけですから、これは興味深いことであるし、また話の内容自体が、私達明治維新の人間達も特集するということですから、単に宗教家の集まりばかりでないわけですね、そういう意味において非常に画期的な考えだと思います。 3.明治の私は天の計画樹立のためのアンテナ役 善川 そこで先生が出られました明治の時代のお役割と申しますか、そのことを若干お話し願いまして、今後の日本の進み方ということについてご指導願えたらと存じますが……。 木戸 まあ明治のことといいましてもね、天上界でも勿論計画はありましたし、地上界には諸如来、諸菩薩沢山出ましてですね、さまざまな力が合わさって一つの動きにになったわけですが、また地上界にもですね、アンテナを張っておく必要があるということで私なんかが選ばれて地上界へ出ていったというわけです。ですから私自身はそれ程大きな仕事をしたとは思っておりません。私のやったことというのはまあいわばアンテナです。この三次元の世界にアンテナを張るために降りて来たというような役割ですね。で、仕事自体はそれ程大きなことはやっていないと自分では思って居ります。むしろそういうことではなくてね、私が三次元に降りて行って、まあ天上界からもこの三次元の動きというのは勿論見えるのですけれども、次元が違いますから感覚が違うわけです。例えば、天体望遠鏡でお星様を見ているような感じですね、そういう感じで見ているわけですから、実際に行って肉を持ってですね、その場に接し、雰囲気を感じとるというのとではかなり違うわけです。そういう意味では私が肉を持って明治の時代に生まれまして、そうして還えって来ましてですね、天上界において、いま日本はこういった状況にある。環境にある、雰囲気にあるということを伝えて、゛正法゛伝道の計画を練ったということです。ですから私が肉を持って出て帰って来てからまた゛高橋゛さんがこの日本に出ること、またあなたや、あなた方ですね、あなたとか、こういった者達が地上に出るということの計画、相談にあずかったその本人でございます。最近の日本の現状を話した上であなた方が、この地上に出ていくということ、そういったことを計画したわけです。 善川 そうでありましたか……。 木戸 まあ私が、どちらかというと斥候ですね、斥候というのがありますけれども、まあそういった敵状視察ではないけれども、そういった役割をもってアンテナの役割で降りたというわけです。ですからあなた、私を全然ご存知ないような顔をしておられますが、私とあなたというのは、天上界においては非常に親しい友達なのです。よく話もしたし、あなたが大正に生れる前には、私と毎日話していたのです。こういった行動計画についてはね、ずい分話をして居られたのです。あなたはね、あなたのお友達の一人ですよ、私は。 善川 そうですか、哀しいかな、肉を持つとすべて忘却し、記憶からはいっ時でしょうが抜きとられてしまいますものですからこれは何んとも致しようございません。 木戸 まああなたが還って来られるとね、まあ私とか、日蓮さん、天台智覬さん、こういった方々とまあ友達だということです。で、私らと一緒に話したりするようになると思います。 善川 私はどういう巡り合せか近々七百年かそこらの間毎に地上に出生して来ておりますけれども、これは私自身の希望でこういうことになっているのでしょうか……。 木戸 その通りですよ、あなた日蓮さんの弟子として生まれているし、その前には中国で真言密教の八祖中の第五祖として活動していますはね、その前にも五、六百年置きに二回程生まれて来ておりますね、なぜそんなに何回も生まれているかということに疑問を持って居られると思いますけど、これはね、あなた自身の性格に基因しているのです。あなた苦労性でしょう。苦労性というのは逆に私たちからみるとね、使い出があるのです。苦労性の人というのはね、自ら買って出るくせがあるわけです。ですから大体この三次元地上界において修行するというのはね、これは苦労性でなければできないんですよ。皆さん天上界においてもですよ、自由満喫しておられる方々というのは出たがらないのですよ。私らの仲間になるとね、もうやはりカルマとかね、生まれ変りなどという法則性で生まれ変るのではないのです。もう相談して自分らの意志で決めるんですね、あなたにしてもそうですし、私たちにしてもそうですけれども、もう自分達の意志で決めるんです。出ることは、だから一般の人の何年おきに生まれ変るとかね、そういったこととはずい分違っているわけです。あなた自身はまあ要するに仏教、仏法の伝道ね、やり足りないということですね、中国でやったけどまだ足りないと、日本で鎌倉時代にやったけれどまだやり足りないと、まだやりたりないということですね、あなた自身が希望しておられるし、またそういうふうな、苦労性の性格をして居られるということなのですね。 善川 そうですか。その苦労の仕方がいささか時間がかかり過ぎ、この齢になって漸く本道の苦労に入ったような気が致します。法、流布のために働く時間の少なくなったことをまことに残念に思っております。 4.批判に耐え得る実績を積め 木戸 まあそれはね、後、現象界で何年になるか知れないけれど、帰って来られたらね、私どもとまた膝詰で話しさせて頂くけれども、善川三朗、生誕期の計画と、実績、ということでね、予想実績との対比ということで、反省会やらせて頂くつもりでおりますが、さあその時、あなたが頭を抱えないか見ものですね――。 善川 まあしかし、今日そのようなシステムを知ることができました現在、もう後、どれ程の時間が与えられているか知れませんが、粉骨砕心と申しては古い言葉になりますが、全力投球で残された時間を効率の高いものとして果たしたいと考えております。 木戸 まあ眼が見えてね、手が動いて字が書けるうちはですね、こうした書物の出版を中心に頑張られたらいいと思います。それでね、まあ人間ですから肉体勿論衰えますね、眼も手も動かなくなることありますけれども、そういった時には相談役としてね、よき相談役としてのね、仕事をやられたらいいと思います。まあいつまでも書物を書くということは出来ないでしょう、身体も大変ですから、ただ相談役としてはね、やっぱり何歳になってもやれるものですから、後それで頑張って欲しいと思います。後は気力ですよ、だからまああんたはっきりいうならば、自分の計画に比較してみるならば、まあちょっと実行がもの足りないという悔みがありますわね、まあこれはご自分もそう思われるし、私達も思う。だから出来るだけですね、後、執念深くですね、言葉は悪いけど、執念深くこの世に止どまってですね、少しでもお釣りを返して行くようにして置かないと還ってきて、いろんな方に叱られますからね、今のうちに少しでも執念深く止どまってね、やっぱり一つでも多くの仕事をしてくるということが肝心ですね。 まあでも考えてみなさい。さあ桂小五郎、木戸孝允の事業と、さああなた、まあ善川三朗という名前ですわね、それでやっている事業と、まあこれが比較されるわけですよ。まあ桂小五郎、維新の三傑かなんかになっていますけれども、さあ私がやって日本の国の人びとに役に立ったことと、あなたが善川三朗という名前でやって、日本の国の人びとに役に立ったことと、まあこういったことが比較されるわけですね、まあ必ずしもその人の業績だけが比較されるわけではなくて、影響力とか、その他、あるいは後世に残ったものとかね、いろんなものがあるから一概には言えないし、私自身の生涯を見れば、明治の一時期には確かに役には立っていますけれども、じゃあ以後には何か残したかというと、以後に残した程のものはないと言えますね。ただ土台にはなっています。もちろん日本の国の土台にはなっています。けれども、以後に何か残したかというと残していない。ではあなた自身はどうかというと、まあ日本の国の土台になるようなことは今までのところやって来ていない。ただ以後に残るようなことは残されようとしている。だからこれがね、神様の眼から見て、さあどっちの方がよく頑張ったかということになるんですね――。 善川 まあその比較の問題は、われわれとやかく考える問題ではないと思いますが、何れにしても与えられた役割というものが明らかにされた以上は、その役割の目標に向って驀地(まっしぐら)に進む以外にはないと思っておりますので、今後とも、目の見える限り、手の動く限り書き通したいとこのように考えております。またアドバイス戴きましたように将来目も見えず、手も口も動かなくなった場合にはまたそれはそれなりの仕事が与えられようかと思いますので息のある限りは努めたいと考えております。 木戸 まあメドとしてはね、七十歳ぐらいまではまだまだ書けると思うのです、ある程度まではね、目も手も多小は動くでしょう。七十くらいまではまあ速度はね、書物を書く速度は多少遅れるかも知れないけれど、書物など書いたりしてね、また、あなた方はやがて大きな団体出来て来ますからね、そういう時にほかのとこがやっているようなこと、真似るわけですよ、機関紙というか、月刊誌みたいなものをどうしても作るようになりますのでね、そういったものに載せるとかね、やはり編集したりするのにどうしても努力して貰わねばいけなくなると思います。まあ七十くらいまではそういった読み書き出来るでしょう。七十過ぎたらちよっとね、身体にはえらいですからあとは相談ですね、いろんな人の相談に乗ったりしたりするようなときにね、アドバイスしたりするようなことはできます。これは政治家見たってわかります。七十過ぎて矍鑠(かくしゃく)とやっていますから、まあ講演なんかきついかも知れないけれども、人びとの相談に乗ったりすることはできるはずです。で、その頃にはね、あなた方の創られた団体も、いろいろな支部なんかも出来ていますから、あなたが七十になられる頃には、もう支部が一杯出来ています。勿論、東京支部、大阪支部ね、九州にも福岡支部、あるいは北海道にも札幌支部ができているでしょう。名古屋支部も出来ています。勿論四国にも出来ています。このように日本各地に支部が出来ていますから、あなたの仕事は、まあ一般の人と話しするというよりは、こういった支部の方々を指導するというような仕事におそらくなってくるでしょう。そういったね、指導者養成のための先生にあなたはなられると思います。そういったお仕事が残っております。 善川 わかりました。 木戸 ただね、いまのうちは肉体を使えるうちは肉体で奉仕するということです。メドとしては七十までは、ある程度執筆で頑張ること、目の見える限り手の動く限りはね、それ以後はね、そういった方の精神的な糧になるようなアドバイスをして生きて行くということですね。 またお還りになる頃は、私またお呼びしますから、それまではね、お呼びがかかるまでは心配ないですからね、あなた方は、ハハ……まああの世の幽霊さんか、亡霊さんかしらないけれども、お招きする人が直接出てきておしえているんだから、お招きする時はちゃんと声をかけますから、声のかからないうちはお呼びないですからご心配なく、今のところ七十以降まではね、お仕事あること言って置きます。で、お迎えの時にはね、ちゃんとお迎えに上がりますから、それまではね、この世でね、住みにくいけれど、あなたよく生まれ変る人だからね、も一回生まれたくなかったらね、早目に今のうちにね、どんどん仕事されておくに越したことないですよ。だからお呼びがかかるまではね、あなたはまだまだ寿命がありますから仕事やって下さい、安心してね……。 善川 わかりました。ときにお尋ねいたしますけれども、現在出ている新興諸宗でも、われわれが見て良心的だと思われるような団体がいくつかありますが、こういう団体との関わりというものはどういうことになりましょうか――。 5.過渡期の宗団にはそれ自体の意義がある 木戸 そういう宗団は宗団でいいのです。過渡期の宗団というのは何時の時代でもいるのです。ですからね、これからはあなたや、それからその後に続くものたちの時代が来るということです。決してあなた方の力だけではありません。けれどもね、これから中心をなしていくのはあなた方の力だということです。よいですか、事業は大きいですよ。かなり、高橋さんがやれなかったことをやらなきゃいかんということですよ。高橋さん自身は、そりゃもちろん偉かった人ですけども、彼の計画自体がああいった露払いの役割りですから、地上に本当の意味での正法神理というのが消えてしまっていたから、まず種蒔きにあの人は降りられたのです。種を蒔きに降りられたのです。種自体はもう蒔かれました。ただあなた方がね、これからこの苗を育てて、大木にしていくという作業ね、大木にする人はあなた方なんです。これを一本の樫の樹にしなくちゃいかんということですね、これはあなた方の仕事、これは大きいですよ――。 善川 ここでいま一つのS教団というものとの関係はどんなものでしょうか。 木戸 これもあなた方もご承知のように教祖のTさんも亡くなられて、まあ二代目の方がやっておられますけど――、教団としては大きいですからそういう意味で教団の維持自体はしばらく残っていくでしょうけどね……、しかし、彼らが居るということは、あなた方にとっては希望だということですね、やはりそういった先人が居るということ、先頭部隊が居るということはやはりいいことですよ、後からついて行く者にとっては勇気百倍です。斬り込み隊ですからね、彼らは、いわば斬り込み隊です。先陣をうけたまわった人達です。尊敬の念を持ってみなければなりません。 善川 まあ他教のことは伏字を使いなるべく生まの表現はしないことにしております。 木戸 まあそれはそれでいいでしょう。物足りない面もないことはないけれども、逆にね、それをそのまま出して置くと、後世あなた方がいろいろと疑われることになりますから、そういったね、教えのね、弟子筋というか二代目、三代目と思われてもあれですからそれはそのままでいいと思います。 善川 今までのお話はプライペートに関わるお話なのでまことに恐縮なんですが、特に一般の方々の先生のご存在に対する認識とはいささかかけ離れて居りますので、これが正(まさ)しく木戸先生のお言葉であるとうなずけるようなご霊訓を何か頂ければ幸いと存じますが――。 木戸 というか、私の心の中にはもう既に明治は遠くなりにけり、ということであって、残念ながら私は時代にも、日本にも正直言って執われていないのです。ですから一般の方からみれば゛木戸孝允゛にしては話がおかしいのではないかと、いうことになるかも知れないけれども、私自身はこういうものであるし、他の光の指尊霊達の話も同じであろうと思います。いわゆる正法伝道というものを知っているものにとっては、同じ話ですね。これはやむを得ないことですし、これは明治維新の頃に何をしたということ、私が今関心があるかといえば、実際上無いわけですねもう、だから私の話、私らしくないと思えば載せなくてもいいし、まあそれはあなたの自由にして下さい。 6.新憲法は神より授かり公布されよう 善川 でもありましょうが、折角のお出ましでもあり、また機会でもありますので少しはお教え願いたいと存じますのですが、如何でしょう一つ憲法問題について、――これはあなた政治家としての経験もおありだから、お分りになると思いますが、まあ現在昭和憲法というのが出て居りますが、過般、聖徳太子様からこの憲法問題についてのお話があったのですが、太子は日本の現行憲法は根本的に改正しなければならないというようなご意見を出されておられましたが、先生のご見解は如何でしょうか。 木戸 私も同じ意見ですね、今までの憲法では十分でないと思います。これはどちらかというと、アメリカで作られたような憲法です。現行憲法、いいところも勿論あるんでしょうけども、やはり日本の国の風土に合ったものではないと思うのです。いくつか変える点があると思う。ただ明治憲法ですね、明治憲法と現代の憲法とを較べてみると、何というか現代の憲法というのが第二次大戦後ですはね、一億総懺悔の中にできた憲法ですはね、だから昔の大和魂とか、戦前の軍国主義とか、そういったものをみんな否定する方向でやっています。ですから明治憲法というのは非常に時代遅れの反動的な憲法というふうに、今は見られて居ります。ただね、私は思うんですが、いろんな国において憲法がある以上、それぞれの国において特色があっていいのじゃないかと思うのです。ですからもう一度ですね、日本的な美風というものを、うまく、現代的にアレンジし直した形での憲法というのが大切じゃないでしょうか、そう思います。具体的には他の方々も仰しやっているような選挙制度の改正なんかも入ってくるでしょうし、それ以外にまあ制度的な問題以外にですね、憲法には基本的人権ということでいろいろ書かれていますけれども、基本的人権の方にむしろいろんな問題があります。これをですね、精神規定そのもの、木質を足元から見直していく必要があると思うのです。 7.憲法前文に精神規定の宣言が必要 木戸 まあ多少ね、時代は古いものの様に感じられるかも知れないけれども、精神規定ですね、憲法の前にですね、何条かの精神規定というものが入らなければいけません。その精神規定とは何かというと、人間の生きるべき道です。生きるべき道について何条かの指針がいると思うのです。 それは例えばモーゼの時代にモーゼの十戒があったように、そういった行動指針ですね、聖徳太子の時代に十七条の憲法があったように、行動指針、あるいは人間として生きるべき道筋ですね、神の子としての人間の生きるべき道筋というものがはっきりしなければいけないと思います。ですからね、私は今思うに、あなた方からみれば、こういった考えというのは、革命的に思えるかしれませんがね、まず憲決の中にはね、こういったことが謳(うた)われなきやいけないと思うのです。「人間はすべて神の子にして平等なり」――「そして神の子としての使命を果たすためにこの国において修行するものなり」――と。しかしてね、そういった神の子としての使命にもとづく様々な権限というものが与えられなければいけないのです。そういうことです。 恐らくは新しい憲法においては、人間は、――「人間は、神を愛し、神の子としての使命を果たすためにこの日本の国において、理想国家建設のために邁進するものである」。――というようなこういった一条が入るでしょう。現在においては天皇が象徴であるということが最初に書かれているわけですけれども、恐らく、改正される憲法の中においては、「人間は神の子であって神の子としてこの地上にユートピアを建設するために努力するものである。そのために日本人は神の子として日本国をユートピアとするために努力せんものとす」というこういった宣言がまず入るはずです。そしてこれ以下に人間として生きるべき道が与えられます。例えば初期にあなた方に日蓮聖人からアドバイスがあったはずです。そのアドバイスの中にはこういった指針があったはずです。例えば、――「人を愛しなさい。人を生かしなさい。人を赦しなさい」――こういった指針があったはずです。また――「人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」と、こういったアドバイスがあったと思います。こういった指針もですね、憲法の中に盛られるようになって来ます。 ――「ここに日本国民は、その国民たる義務において他の国民を愛し、他の国民を生かし、また他の国民を赦す、斯かる精神でもって生きていくことを誓う」――といった文言が入るはずです。人を愛し、人を生かし、人を赦す。ということです。こういったことが、国民の義務として規定されるでしょう。今の憲法にはないでしょうこれは。いいですか、これはすべきことという義務なんです。人を愛するということはね、今までの宗教においては人を愛するということはいいことだ、人を愛しなさい。と言ったかも知れない。しかしこれはあくまで良心の問題として個人の個々の問題として自由ですね、自由の問題として言われていました。しかしこれからの日本というのは、ある意味において祭政一致。ある意味において「神の理念」が政治経済制度の中に純粋な意味合いで滲透(しんとう)するような時代がやって来ます。そういう国における憲法であるならば、その神に対する義務、神の子としての義務というのが明らかに示されなければいけません。でありますから、人を愛するべきであり、人を生かすべきであり、人を赦すべきである。というこれが義務としてね、宗教的な讃(ほ)められるべき行為ではなくしてね、国民の義務として規定されるでしょう。 これは恐らく世界人類にとって画期的な「憲法」となるでしょう。日本国民は、その名において人を愛し、人を生かし、人を赦さなければならない。こういった規定があります。また、日本国民は神の子として人を信じ、世を信じるとは国、社会を信じるということです。素晴しい理想社会を信じるということですね、人を信じ、世を信じ、神を信じなければならない。こういった信仰規定ですね、こういった義務条項、これは必ず入らなければならないでしょう。人を信じるということは大切なことです。これは国民の義務であります。神の子としての義務であります。世を信じるということ、この日本の国が、社会が、そして世界がユートピアになるということを信じるということです。善良な人達によって理想社会が建設されなければならないということ、理想社会建設のためにわれらがあるということを信じるということです。であるならば、そのような世の中を信じるということなのです。戦争が起きるというのはなぜでしょうか、それは他国を信じていないからです。なぜ主戦派、非教派が争うのでしょうか、それは人を信じていないからです。日本を、社会を信じていないからです。国民の良識を信じていないからです。ですから世を信じるということ、良識ある世論を信じるということなのです。世論というものは疑ってかかると、どちらにでも振じ曲っていくものなのです。むしろ信じることなのです。そうなるべき世論として信じることです。ですから世を信じるということは、世論、良識ある世論を信じるということでもあるし、日本の国を信じるということでもあるし、他の国の国体をも崇敬、敬意を払うということです。これが世を信じるということです。そして最後に神を信じよ、神を信じなければならない。こういった義務規定ですね、これが必要だと思います。 だから私は今三条申し上げました。 第一条においては、『日本国民は、人間は神の子であって、神の子として地上にユートピアを築くために修行しているということを認め、これを信じるものである』 と、こういった総則規定ですね、神の子としての使命ということを明確に第一条において誦われるべきであります。 第二条においてはその神の子としての人間の義務ですね、義務として『人を愛し、人を生かし、人を赦さねばならない』ということ。 第三条としてはまた信仰ですね。信ずるということの大切さ『人を信じ、世を信じ、神を信じよ』と、こういった信じるということの大切さ、これを謳わなければなりません。憲法というのはこういうふうにすべての法律の上にあるというよりも、本来は神の法の具現でなければいけないのです。今私は、三条だけを申しました。すべては申しません。すべては今後あなた方の行動によって様々なものが生まれていくでありましょうけれども、憲法の総則規定、において「神法」というか、「正法」というか、ユートピア建設のための道標というものが打ちたてられなければいけないということです。後のですね、議員の定数とか、解散とかね、内閣制度とか、こういった制度的なことはどうでもよろしい。このようなものは、いろいろと変ってくるでありましょう。これはよろしいのです。そのままで、そしてね、総則規定においてそのような神の子としての使命が、明記されたならば、例えば現行憲決第九条というようなもののあつかいがですね、戦争放棄、ということいま言っていますけど、これをどのようにあつかわなければいけないかということはもう明らかになるはずです。 日本人は、神の子としての本義に基づいて戦争に対して良識ある態度をとる。ということですね。さすれば道は明らかになるはずです。――こういったことが謳われねばなりません。あなたがたいま、憲法を読んだり勉強されたりすることがあるでしょう。そしてそれを素晴しいこと、当然のことと思っておられるでしょう。しかし今言ったような神の子としての義務が憲法にもし入ったなら、これは素晴しいことではありませんか。 今いったようなことは、どの宗教、特定の宗教に偏するものではありません。何教を信じるからそうなるというものではないはずです。宗教の自由、信仰の自由というものは、どのような世の中においても認められなければいけません。あなた方の教えだけが正しいわけではなくて、他の教えの中にも正しいものがあるし、それを信仰する人はいつまでたっても居るでしょう。あなた方が新しい法を説いても、キリスト教を信じる人も居るでしょう。従来の仏教を信じる人も居るでしょう。神道を信じる人も居るでしょう。それはそれでよいのです。それらの人であっても、自分達は神の子であるということ、神仏の子であるということは否定しないでありましょう。また人を愛し、生かし、赦すということが真実であるということは否定しないでしょう。また、人も信じ、世の中を信じ、神も信じなければいけないということが、真理だということは否定しないでありましょう。こういったことが、こういった共通綱ですね、宗教の共通綱、間違っていない黄金の原則、こういったものを、憲法の申に織り込んでいかねばなりません。そういったことです。 現象的なね、役割として憲法が果たすことは、これはどのように変えられてもいいと思うのです。永遠に続く人間の精神原則について謳われるべきであります。たとえばその憲法の中にあなた方の教えを信じなければいけないとか、そういったことを入れると、後世を害することになるわけです。そうではなくて、本当の神の子として、本当のものは何かということです。神の子ということを信じることによってね、社会の様々な悪とかね、戦争とかいうものは無くなっていくのです。ですから、まず日本に生まれた以上は、そういった義務を守らなきゃならないということを教える必要があるのです。 今日日本は、憲法に戦争放棄を謳っている国ということで、世界にまあ冠たる国ですね。まあ実際軍備は持っていますけれども、憲法に戦争放棄をうたった国はありません。そういうことによって非常に目立った存在ではありますが、憲法において神の子としてのユートピア建設を明確に謳ったならば、これは世界の中で日本が目立っているだけでなく、人類の歴史の中においてでも、日本人というのは非常にユニークな存在となりましょう。 8.新憲法は今後二十年以内に改正されよう 木戸 つまりあなたの仕事は、宗数的な伝道、新思想の普及拡張ということを通してユートピア建設の理念を、政治、経済制度の中にも織り込んでいくということなのです。かつてあったような悪い意味での宗教と、政治との癒着ということではなくてね、本来あるべき本質を明らかにするということなのです。 こういったことの作業がやがて行われていくでしょう。日本国憲法の改正はやがてここ二十年以内に、あるいは二十年から三十年、やはり二十年以内でしょう。二十年以内に一つの大きな顕れが出て来るでしょう。すべてされるとは言いませんよ、二十年あればね、あなた方の動きは国民的な大きな動きになっています。おそらく滲透しているし、今あなたが書いておられる書物、こういう書物がですね、各家庭に一冊ずつあるような世の中になっていると思います。大きな力が結集されます。あなたはね、私達の書物出しています。私達の言葉を編集しては、本を書いています。で、これがどれだけ売れるか心配しているかも知れません。けれどもね、私は言って置きます。後二十年経てば一般的な家庭の一戸、一戸にこういった書物が置かれるような時代になります。 その前には、日本においても、他国においても様々な゛天変地異゛が起きるでしょう。そういった混乱の中において人びとは、何か自分達は間違っているに違いない。「神」の心に反しているのではないか……、そしてそういった現象とともにですね、信仰の熱というのが非常に高まって来ます。世紀末の予言もいろいろ出てくるでしょう。世紀末の感覚というのは一杯出て来ます。そういった中において人間は本来のものは何かということを非常に強く求めるようになって来ます。世が乱れて来ます。乱れる反面、真実のものの求めるという気持も強くなって来ます――。 善川 日本の憲法改正ということについては先般聖徳太子様が出られて太子は数十年後にと言われましたが、あなたのお見通しでは二十年後というように短縮されていますが、そういうことになりましょうか。 木戸 二十年以内にまず最初の着手があるでしょう。それ一回で終るとは言いません。二十年以内にはまず最初の改編が行われるでしょう。その後にまた様々に手が加えられていかれるはずです。 9.神の国建設のデモクラシーこそ本物 善川 いま一つお伺いしたいのは゛デモクラシー゛の問題ですが、民主々義ですが、これは先般見えられた「天照大神」様のお考えあたりでは、これは優れた法ではなくて、最悪を防止するための一つの手段であると、いうふうなお話でございましたけれども、しかし、一方アメリカのリンカーン大統領のお説によりますと、そうではないのだ、と、確かにそれは最高の法ではないけれども、最悪を防ぐ方が現時点ではより重要なことではないのでないか、というお説ですが、これについての先生のご意見は如何なものでしょうか。 木戸 これに関しましては、デモクラシー、民主々義ですね、民主々義というのは人類の発明したもので非常に大切なものだと私は思います。何時の時代でも様々な政治倫理、政治の価値基準が打ち出されるわけですが、確固としたものはなかなかできません。そうであるならば最大多数の人間にとってですね、有益な社会であるならば、大きな間違いがないという意味において当たっているわけですね。最大多数の人間に支持されるような政治であるならば大きな間違いは犯さないということです。そういう意味で、デモクラシーは、リンカーンソが言われたかも知れないけれども大切なものだと私は思います。 要はね、デモクラシーの中に流れているものだと思うのです。先程憲法の中で神の子としての義務を規定すべきだと私は言いました。そういったような本来のデモクラシー、ユートピア建設の途中の゛相(すがた)゛としてのデモクラシーということを謳えばですね、問題は解決されると思います。いいですか、デモクラシーは、多くの人間が集まって、ワッショイ、ワッショイやるためのデモクラシーであるならば、これは、目的と手段を履き違えているわけです。デモクラシーはあくまでも手段なのです。何かを達成するための、で、何かとは一体何かということですね。――これはユートピアの建設です。地上にユートピアを建設するための手段としてのデモクラシーということです。神の子のデモクラシーです。そういったことです。なんでもかんでも自由に、勝手に主張している人間のデモクラシーという意味ではないのです。そういう意味での多数決でも、民主政でもないのです。神の子としてのデモクラシーです。神の子ができるだけ自らを生かすことができるような場をつくるという意味でのデモクラシーなのです。ユートピア建設のためのデモクラシーであって欲しいと思います。そういう意味においてデモクラシーは大切ですけれども、これの質というものがね、質というものが今後変ってくると思います。
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目次 1.私は゛天台智覬゛と魂の兄弟 2.日本におけるスピリチュアリズムの流布は画期的事業 3.明治の私は天の計画樹立のためのアンテナ役 4.批判に耐え得る実績を積め 5.過渡期の宗団にはそれ自体の意義がある 6.新憲法は神より授かり公布されよう 7.憲法前文に精神規定の宣言が必要 8.新憲法は今後二十年以内に改正されよう 9.神の国建設のデモクラシーこそ本物 10.神への不信は無知が原因 11.ユートピア建設への大いなる「器(うつわ)」づくりに励め 10.神への不信は無知が原因 善川 まあ私どもは神の存在というものを信じて居りますけれども、現代一般社会の特に政治家、および科学者といわれているような層の方におきましては、真の神の存在というものを十分に理解していないように思いますけれど、というよりも、むしろ否定するような考えでありますが、これらの人びとに対する啓蒙といりものも非常に重要なんではないでしょうか。 木戸 そうですよ、それでね、あなた方の仕事もそのために役に立っているということですね、例えば優れた科学者とか、あるいはキリスト教系のですね宗教家達が宗教を離れていく場合があります。無神論者なんかになっていく場合があります。その理由はね、例えばこういう場合だと思うのです。じゃあ何故神様がいらっしゃるなら地獄があるのかと、神様がそんな全知全能の神様であるなら、愛の神様であるなら、なぜ地獄があるのだろうか、人びとは地獄に堕ちるのであろうか、そういうものは信じられない、矛盾していると、たとえばこういう意見があるわけですね、こういう意見に遭遇して信仰を離れていく人達があるのですね、これはある意味においては、天国、地獄の仕組みについて十分に知らない人、その意義について知らないということ、無知が原因しているわけです。これに関しては今あなた方が解明していますわね、この方向でいいわけです。ある別の場合では、人が宗教を信じなくなるということは、宗教の宗派争いがあると思うのです。同じ神の子であることを主張しながらある者はイスラム教徒だといい、ある者はクリスチャンだといい、ある者は仏教徒だといってね、いがみ合いや、争いをやって来たと、キリスト教徒の中でも、新教、旧教といっては殺し合いをやってきましたね。これがおかしいという方がいらっしゃるわけです。良心的な方でね、優れた方で、理性的な方でこういった神の子同士で殺し合いというのがおかしいという方がいるわけです。こういったことで無信仰に入っていく人が居るわけですはね、これも結局はね、万教は一つであってね、その信ずる者の立場が違っているだけなのですね。あなた方ご存知の通り、これを明らかにすることによってこういった方々の疑いというのは晴らすということができると思うのです。 要するに無神論に走っていく原因というのを追求するのです。で、その原因は何かということを考えるわけですね、その原因はたとえば地獄の存在が分らないとか、あるいはそういった神の子同士の血みどろの戦いというのが信じられないとかね、そういったことに帰着していくのですね結局は。あるいは進化論なんていうことにことよせて否定する人も居ますはね。では゛進化論゛に対しては、今あなた方が説いていることの内容は地球の歴史を越えられないじゃあないかと、地球が出来る以前にも宇宙はあり、神はあり、人の生命はあったのだということになると進化論は通用しなくなって来ますはね、こういうことなのです――。 善川 そういうことについて過日、トマス・エジソンさんが出られまして科学者の立場からあの方は説かれましたが、こうしたご意見も発表させて頂くわけですが、これらによって、そういう人達のご理解も得られるものと思います。特に科学者やインテリ層の人達のね、まあ宗教者達ばかりの説法では納得できないが、まあ科学者の意見というのでは一度読んでみよう、聴いてみようというようなことで、この方の科学者の立場からまた科学者の眼からみた宇宙観なり三次元世界の物質の構造なりの解析論は非常に有益なご意見だったと存じます。 木戸 まあそういうことでね、あなた方、今自分らの道を驀地(まっしぐら)に走ることで夢中になっておられますけど、逆にね、あなた方の道から離れていっている人達、信仰から離れている人達ね、その原因は何かということを追究することもあなた方の勉強なのです。その離れていった原因を追究して、その何故かの部分を解明することです。今物理学が進んで、四次元以上の世界があるということが分ってきました。で、今あなた方は、四次元以上の多次元世界のことを解明しています。こういったことはまた科学者達の共鳴を呼ぶようになってくるでしょう。 善川 まあ先生は、一般常識では明治維新当時の元勲ということで皆さん尊敬しているのでありますが、実はそれだけではなくて、本来はもっと高い精神領域で活躍されておられる方であるということが明らかになり、人びとの認識もまた新たになろうと思いますが、特にお教え願った゛憲法論゛については、まことに画期的なご意見でこれからの政治家達は大いに学ばして頂くべきだと存じます。 木戸 私の意見は必ずしも完全なものではありませんけれども、私の意見をきっかけとして、更にそこにね、あなた方の勉強や、今後、後の人達の研究ね、議論を重ねていいものを創っていって欲しいと思うのです。 それとね、今憲法について私申あげましたけれども、゛政党゛についてもそうですよ、まあ現在仏教界から出ている政党などもありますけれども、もう少し宗教的な観点から信仰の問題など意見を出してもいいと思うのですよ。ヨーロッパの方にはキリスト教民主党とかね、そういった人の心に訴えるような宗教をもった政党もあります。そういう意味で本当の「神法」に基づく宗教的政党みたいなのが出てもいいと思います。今の憲法では政教分離など申していますけども、本当に正しいものに基づいたものであるなら政治から必ずしも離れる必要もないのです。かつてね、政治と宗教が癒着することによって腐敗した歴史があったもんだから、それへの反省を込めて、今政治から宗教の分離ということ言われているわけですけども、これはそういった安全弁ではあるけれども創造的なものを生み出していくための仕組みでは必ずしもないのです。本当にいいものであるならばね、宗教が政治の中に入ってもおかしくはないのです。これは決してね、宗教と政治との分離というのは、人類の一つの知恵ではありますが、完全な知恵ではないのです。これもまた最悪を防ぐための制度でしかないということです。 それと今は政党の話をしましたが、政治家にしてもそうですはね、もっと信仰ある人達が政治家となってもおかしくないですね、私はたとえば自民党のために働きます。私は民社党のために働きます。私は共産党のために働きます。こういうことでやっていますが、これはあくまで政治的信条であってね、人間としての生きるべき道については何も言っていないわけです。政治信条について違っていてもね、人間として生きる信条について共通している人であるならば、協力して戦っていけばいいと思うのです。基本的人生観というか、政治家の人生観というのが試されるような時代に今後なってくるでしょう。おそらくそうであろうと思います。政治信条よりも人生観が共鳴出米るかどうか、その人の人生観が国民に認められるかどうか、訴えかけるものがあるかどうか、こういったことが問われるようになると思います。――そうでしょう、あなた方にしてもね、政治家を選ぶにしても、その人の人生観を信じられるような人であるならば、他の国政に関する判断まかしといても安心できるでしょう。そうでないでしょうか。 以上で、「憲法」とか「政党制度」あるいは「政治家」自身の問題について私は述べたわけです。この三つ共、今後とも改変していく必要があると思います。 善川 ありがとうございました。 11.ユートピア建設への大いなる「器(うつわ)」づくりに励め 木戸 最後にもう一つだけつけ加えておきますとね、あなた方の仕事は、あなたはね、もう古い方だから自分のやっていることを直ぐ宗教のように考えて宗教臭さが漂っておられますけれども、あなた方の仕事は、宗教を作るというのでは本来はないのです。よいですか。神の国を科学するということなのです。いつでもね、三次元以上八次元、九次元まで解明していくんですからね、神の国を解明し、神の国の行動基準を明らかにするということなんですね。そういう意味ではあなた方は科学者でもあるわけだし、道学者でもあるわけだし、法律家でもあるわけだし経済学者でもあるわけだし、哲学者でもあり、文学、美学など芸術家でもあるわけなんです。よろしいですか、今まで万教帰一ということで、いろんな宗教を受け入れるような器をもった宗教家は居たはずです。ところが、そうじゃなくて、様々な学問、語学、すべての分野をも吸収するようなものでなければいけないということです。 「科学」であり、「政治」であり、「経済」であり、「哲学」であり、「宗教」であるような、そして「美学」、「文学」、その他「芸術」全般であるような、そういったものを創っていくのです。これは新たな精神的革命であり、正に新しい意味での第二のルネッサンスをひき興こそうとしているのです。ですから狭い宗教とかいうようなものに閉じ籠る必要もないし、あなたが言っているような「正法」というようなそんな「日蓮」的な゛法゛ではないのです。ですから「正法」というような枠の小さなものではなくてね、これからの「精神革命」なのです。よろしいですか。――ユートピア創りのための「精神革命」なのです。すべてを含んでいるのです。そしてあなたがその時にもう生きていられるかどうか分りませんが、何十年の後にはですね、あなた方の運動は、政治の革新や、経済革新や、あるいは芸術の革新へも影響を与えていくものなのです。それだけの大きな『器(うつわ)』のあるものとして考えていきなさい。よいですか、――枠を決して小さなものにしないということです。目的はユートピアの建設であるし、それもこの三次元だけではなくして、あなた方の仕事は、四次元以上も変えていくという話でしたね、他次元をも上げていくというような話でしたね、そういうことですから本当の意味においてね、神の創られた国すべて、九次元以下総てをね、改善していくような改革していくような運動ということなのです。 善川 三次元、五次元、六次元、七次元と、すべての次元を活性化していくような運動であり事業でなければならぬということであります。 木戸 この地上がね、菩薩界、如来界になったらこの地上より、三次元より上の四次元の幽界なんか幽界で居られないですね。彼らは、あなた方より次元の高いところに居るわけですから、それで地上界が菩薩界になっちまったら、彼らは彼らでおられなくなっちゃうと、お化けなんかやっておられないというわけですね。 善川 まあそのような時代を早く来ささればいけませんね――。 木戸 今後ともあなた方、いろんな計画とか方針で悩むこともあると思いますがその時はね、゛日蓮゛さんを呼ぶようなつもりで私を呼んで下さい。現代的な日本知の感覚で私がお答えいたします。あなたも私と一緒に何十年か前に計画を練った一人だということを決して忘れないで下さい。あなたの心づもりを私は知っているし、あなたの゛決意書゛ですね、あなた地上に生まれてくる前にね、俺はこうこうこういうことをやってくると、決意書、に書いて来ているのです。それ預っているのは私なのです。その封を解けばですね、あなたが決意したことをずっと書いてあります。あなたは二十箇条位ずっと書いておりますから、やることを、俺はこれだけのことをやってくるとずっと書いてあります。達筆でね、二十箇条書いている。帰ってきたらね、そのうち幾つやったか、私らがみんなで点検しますから、二十点満点で何点やっているかね――。 善川 いやふり返ってみると私の今までの人生は残念ながら何一つ成就したことはなかったと思います。 木戸 ですから最終回での挽回ということもあるでしょう。逆点満塁ホームランというやつです。これやって頂きたいと思います。 善川 テンポの遅さからみて私の出生については当初の計画違いがあったのではないでしょうか。 木戸 そんなことはありません。決してそうではありません。裕福な家庭に生まれるとね、なかなかまた悟るのもむつかしいのです。私が預っているあなたのご誓文、これを見せられるとあなたはどうなるかですね、これは恥ずかしいような思いをすると思いますよ、もう結果見えているような気がしますけどね……。それだけの決意して出てきたわけです。だから諸霊から不甲斐ないと言って叱かられているわけです。 善川 ああそうですか、何はともあれ、最終ゴールのテープを切るまでにはまだ後五メートルか十メートルかはある筈ですので、その間を全力疾走するつもりです。今後のご指導を何分よろしくお願いいたします。 本日は長時間にわたっての有益なご指教を賜わるととも、別段において本編構成上の特別のご高配にあずかり、まことにありがとうございました’。あわせて厚くお礼申し上げます。
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Template Infobox Celebrity? 木戸 幸一(きど こういち、1889年7月18日 - 1977年4月6日)は、日本の政治家である。侯爵。幸一の父・木戸孝正は木戸孝允の妹・治子と長州藩士来原良蔵の長男。夫人は陸軍大将児玉源太郎の娘、ツル。 来歴・人物 1889年、東京赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として生まれる。学習院高等科を経て京都帝国大学に入学。同校卒業後は農商務省へ入省。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。 1930年、友人であった近衛文麿の引きにより、臨時産業合理局第一部長兼第二部長を最後に商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。1937年第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940年-1945年に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり天皇の側近として宮中政治に関与する。宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。 大東亜戦争(太平洋戦争)中は東條英機内閣を支えたが、一方では早い段階での和平を考えていた。戦争末期には、外務大臣・重光葵と二人だけで天皇の「鶴の一声」による終戦工作を行い、鈴木貫太郎内閣の面々に和平の方針を説いて回るなど、いわゆる「聖断」工作を進めた(これらの政策を推し進めていたことから、本土決戦派の間では、木戸を暗殺する計画があったという説もある)。 極東国際軍事裁判(東京裁判)では昭和天皇の戦争責任などに関して、自らのいわゆる『木戸日記』などを証拠として提示した。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。その一方で、『木戸日記』は軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、武藤章や佐藤賢了は木戸のことを指差しながら同乗の笹川良一に向かって「こんな嘘吐き野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹はたたんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ」と吐き捨てている。その木戸も終身禁固刑の判決を受け服役する。 1955年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。のち青山のマンションに転居。1969年、傘寿の際には、天皇から賜杖を下賜されている。1977年4月6日、宮内庁病院で87歳で死去。遺骨は東京都府中市多磨町の多磨霊園に埋葬されている。 家族・親族 祖父: 木戸孝允 実祖父: 来原良蔵 外祖父: 山尾庸三 父: 木戸孝正 弟 和田小六(元東京工大学長) 妻: ツル(陸軍大将兒玉源太郎の長女) 長男: 孝澄 二男: 孝彦 系譜 木戸家 兒玉源太郎───┬─兒玉秀雄 └─ツル 桂九郎兵衛===┌─桂小五郎(木戸孝允)===┌─木戸孝正 ┠───────┬─木戸孝澄 │ │ ┠─────────木戸幸一 └─木戸孝彦 和田昌景────┴─治子 │ ┃ ┠────────────┘ ┃ 来原良蔵 ┃ ┌─寿栄 山尾庸三─────────┴─山尾三郎 参考文献 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店、岩波新書、1992年) 城山三郎『落日燃ゆ』(新潮社、ISBN 4101133182 1986年11月) 平塚柾緒、太平洋戦争研究会『図説 東京裁判』(河出書房新社、2002年) 木戸幸一を演じた人物 中村伸郎(『日本のいちばん長い日』) 歌澤寅右衛門(『プライド・運命の瞬間』) 関連項目 戦前の政治家一覧 重臣会議 外部リンク 系図でみる近現代 木戸日記研究会旧蔵資料 | 国立国会図書館 木戸幸一の墓 木戸幸一 系譜 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年1月11日 (金) 05 03。
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試験的ではありますが、写真選択問題は、写真の横の名前の部分をクリックすると、コナミ問題作成者が参照していると思われる写真ページに個人別にリンクで飛ぶことが出来ます。 参照Web 国立国会図書館 近代日本人の肖像 http //www.ndl.go.jp/portrait/ 問題 ○ × 補足 次のうち 暗殺された人物を全て選びなさい 伊藤博文 大久保利通 坂本龍馬 佐久間象山 板垣退助 木戸孝允 西郷隆盛 高杉晋作 土方歳三 次のうち 薩摩藩出身の人物を全て選びなさい 大久保利通 西郷隆盛 島津久光 板垣退助 伊藤博文 木戸孝允 高杉晋作 土方歳三 次のうち 新選組の隊員だった人物を全て選びなさい 近藤勇 土方歳三 大久保利通 高杉晋作 次のうち 長州藩出身の人物を全て選びなさい 伊藤博文 大村益次郎 木戸孝允 高杉晋作 板垣退助 岩崎弥太郎 大久保利通 西郷隆盛 山内豊信 次のうち 土佐藩出身の人物を全て選びなさい 板垣退助 岩崎弥太郎 後藤象二郎 坂本龍馬 中岡慎太郎 山内豊信 伊藤博文 西郷隆盛 大久保利通 次のうち、日本初の内閣 第一次伊藤博文内閣で大臣を務めた人物を全て選びなさい 伊藤博文 井上馨 榎本武揚 大山巌 西郷従道 松方正義 山県有朋 板垣退助 大久保利通 木戸孝允 五代友厚 後藤新平 佐久間象山 高杉晋作 次のうち 明治まで生き延びた人物を全て選びなさい 板垣退助 木戸孝允 後藤象二郎 西郷隆盛 土方歳三 近藤勇 坂本龍馬 佐久間象山 高杉晋作 吉田松陰
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主人公達が住んでいる地域の所轄の刑事で、三姉妹の父の風行の友人。 同じ事件に偶然居合わせた主人公と、事件の捜査を巡って対立する。 独創的な捜査と子供のような理屈で行動する為「キッド」と呼ばれている。 両親は維新志士、木戸孝允のように人々の先頭に立って立ち上がる人になって欲しいと考え、同じ名前を付けようとしたが、自分達の息子でそれは高望みか、などと遠慮してしまい、名前を逆さにすることで落ち着いた。 結局性格がひねくれてしまったのはそのせいではないかと、密かに後悔している。 CV 岡崎 雅紘
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業績について メイン ノーマルアリーナ 召喚 探索「原宿」 探索「新宿」 探索「池袋」 探索「上野」 探索「銀座」 探索「お台場」 探索「六本木」 探索「混沌の球」 探索「北千住(閉鎖都市)」 業績について 業績をクリアすると、報酬に各種アイテムやシルバー・DCなどを獲得する事が出来ます。 「称号」の獲得には解放されている業績をクリアして次の業績を解放していく必要があり、いきなり称号の獲得条件をこなしても獲得できない仕組みとなっています。 殆どの場合、メイン業績から派生した業績をクリアしていくと特定の称号を獲得できます。 1つの業績に絞ってクリアしていくも良し、光消費が少ないエリアや通常より光消費が少なくなっているエリアを日替わりで攻めていくも良し、です。 メイン 業績 報酬 解放条件 ようこそデビルメーカーへ シルバー × 10000 - 渋谷マルキュー・1エリアを 1回 クリア 召喚チケット × 1 シルバー × 5000 ☆5 特別経験値カード × 1 「ようこそデビルメーカーへ」を達成 フォレスト原宿・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 ☆5+ ベルダンディ × 1 「渋谷マルキュー・1エリアを 1回 クリア」を達成 東京都庁・1エリアを 1回 クリア 召喚チケット × 1 シルバー × 10000 ☆5 シルバーカード × 1 「フォレスト原宿・1エリアを 1回 クリア」を達成 新宿中央ビル・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 デビルコイン × 350 「東京都庁・1エリアを 1回 クリア」を達成 池袋西口公園・1エリアを 1回 クリア 召喚チケット × 1 シルバー × 15000 ☆4 スキルカード × 1 「新宿中央ビル・1エリアを 1回 クリア」を達成 乙女ロード・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 デビルコイン × 350 「池袋西口公園・1エリアを 1回 クリア」を達成 東京スカイタワー・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 シルバー × 20000 ☆5+ スクルド × 1 「乙女ロード・1エリアを 1回 クリア」を達成 アメヤ横丁・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 デビルコイン × 350 ☆5 ポイントカード × 2 「東京スカイタワー・1エリアを 1回 クリア」を達成 国立近代美術館・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 シルバー × 20000 ☆4 スキルカード × 1 「アメヤ横丁・1エリアを 1回 クリア」を達成 浜離宮恩賜庭園・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 デビルコイン × 350 ☆5 スキルカード × 1 「国立近代美術館・1エリアを 1回 クリア」を達成 レインボーブリッジ・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 召喚チケット × 1 ☆5 特別経験値カード × 1 「浜離宮恩賜庭園・1エリアを 1回 クリア」を達成 お台場テレビ・1エリアを 1回 クリア 召喚チケット × 1 デビルコイン × 350 ☆5 特別経験値カード × 2 「レインボーブリッジ・1エリアを 1回 クリア」を達成 国立新美術館・1エリアを 1回 クリア 光ポーション × 1 進化ポイント × 5000 召喚チケット × 1 「お台場テレビ・1エリアを 1回 クリア」を達成 六本木タワービル・1エリアを 1回 クリア 召喚チケット × 1 デビルコイン × 350 進化ポイント × 5000 「国立新美術館」を達成 異界の球・初級を 1回 クリア シルバー × 25000 ☆4 異界カード × 8 「六本木タワービル・1エリアを 1回 クリア」を達成 天界の球・初級を 1回 クリア シルバー × 25000 ☆4 天界カード × 8 「異界の球・初級を 1回 クリア」を達成 魔界の球・初級を 1回 クリア シルバー × 25000 ☆4 魔界カード × 8 「天界の球・初級を 1回 クリア」を達成 閉鎖都市・初級を 1回 クリア シルバー × 25000 オプションポイント × 6000 「魔界の球・初級を 1回 クリア」を達成 閉鎖都市・上級を 1回 クリア シルバー × 30000 オプションポイント × 6000 「閉鎖都市・初級を 1回 クリア」を達成 アリーナに 3回 参加 光ポーション シルバー × 10000 「ようこそデビルメーカーへ」を達成 プレミアム召喚を 1回 利用 召喚チケット ×1 「アリーナに 3回 参加」を達成 ノーマル召喚を 1回 利用 光ポーション シルバー × 10000 「プレミアム召喚を 1回 利用」を達成 ノーマル アリーナ 業績 報酬 解放条件 アリーナに 4回 参加 シルバー × 1000 「アリーナに 3回 参加」を達成 アリーナに 5回 参加 シルバー × 2000 「アリーナに 4回 参加」を達成 アリーナに 10回 参加 シルバー × 5000 「アリーナに 5回 参加」を達成 アリーナに 15回 参加 シルバー × 7000 「アリーナに 10回 参加」を達成 召喚 業績 報酬 解放条件 ノーマル召喚を 2回 利用 シルバー × 1000 「ノーマル召喚を 1回 利用」を達成 ノーマル召喚を 3回 利用 シルバー × 2000 「ノーマル召喚を 2回 利用」を達成 ノーマル召喚を 5回 利用 シルバー × 5000 「ノーマル召喚を 3回 利用」を達成 ノーマル召喚を 10回 利用 シルバー × 7000 「ノーマル召喚を 5回 利用」を達成 ノーマル召喚を 15回 利用 シルバー × 10000 「ノーマル召喚を 10回 利用」を達成 ノーマル召喚を 30回 利用 復活ポーション × 1 「ノーマル召喚を 15回 利用」を達成 ノーマル召喚を 50回 利用 パーティーポーション × 1 「ノーマル召喚を 30回 利用」を達成 ノーマル召喚を 100回 利用 光ポーション × 1 「ノーマル召喚を 50回 利用」を達成 ノーマル召喚を 200回 利用 召喚チケット × 1 「ノーマル召喚を 100回 利用」を達成 ノーマル召喚を 300回 利用 称号「5級契約者」 「ノーマル召喚を 200回 利用」を達成 探索「原宿」 業績 報酬 解放条件 渋谷マルキュー・1エリアを 3回 クリア シルバー × 1000 「渋谷マルキュー・1エリアを 1回 クリア」を達成 渋谷マルキュー・1エリアを 5回 クリア シルバー × 2000 ☆3 特別経験値カード × 1 「渋谷マルキュー・1エリアを 3回 クリア」を達成 渋谷マルキュー・1エリアを 10回 クリア シルバー × 2500 ☆3 ポイントカード × 1 「渋谷マルキュー・1エリアを 5回 クリア」を達成 渋谷マルキュー・2エリアを 1回 クリア シルバー × 1000 「渋谷マルキュー・1エリアを 10回 クリア」を達成 渋谷マルキュー・2エリアを 5回 クリア シルバー × 2000 ☆3 特別経験値カード × 1 「渋谷マルキュー・2エリアを 1回 クリア」を達成 渋谷マルキュー・2エリアを 10回 クリア シルバー × 2500 ☆3 ポイントカード × 1 「渋谷マルキュー・2エリアを 5回 クリア」を達成 フォレスト原宿・1エリアを 3回 クリア シルバー × 2000 「フォレスト原宿・1エリアを 1回 クリア」を達成 フォレスト原宿・1エリアを 5回 クリア シルバー × 3000 ☆3 特別経験値カード × 1 「フォレスト原宿・1エリアを 3回 クリア」を達成 フォレスト原宿・1エリアを 10回 クリア パーティーポーション × 1 「フォレスト原宿・1エリアを 5回 クリア」を達成 フォレスト原宿・2エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「フォレスト原宿・1エリアを 10回 クリア」を達成 フォレスト原宿・2エリアを 5回 クリア シルバー × 3000 ☆3 ポイントカード × 1 「フォレスト原宿・2エリアを 1回 クリア」を達成 フォレスト原宿・2エリアを 10回 クリア シルバー × 5000 ☆3 ポイントカード × 1 「フォレスト原宿・2エリアを 5回 クリア」を達成 フォレスト原宿・3エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「フォレスト原宿・2エリアを 10回 クリア」を達成 フォレスト原宿・3エリアを 5回 クリア シルバー × 6000 ☆3 特別経験値カード × 1 「フォレスト原宿・3エリアを 1回 クリア」を達成 フォレスト原宿・3エリアを 10回 クリア シルバー × 12000 ☆5 特別経験値カード × 1 「フォレスト原宿・3エリアを 5回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・1エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「フォレスト原宿・3エリアを 10回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・1エリアを 5回 クリア シルバー × 6000 「南青山ヒルズ・1エリアを 1回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・1エリアを 10回 クリア 光ポーション ☆3 特別経験値カード × 1 「南青山ヒルズ・1エリアを 5回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・2エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「南青山ヒルズ・1エリアを 10回」を達成 南青山ヒルズ・2エリアを 5回 クリア シルバー × 6000 「南青山ヒルズ・2エリアを 1回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・2エリアを 10回 クリア シルバー × 5000 進化ポイント × 2000 「南青山ヒルズ・2エリアを 5回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・3エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「南青山ヒルズ・2エリアを 10回」を達成 南青山ヒルズ・3エリアを 5回 クリア シルバー × 6000 ☆3 ポイントカード × 1 「南青山ヒルズ・3エリアを 1回 クリア」を達成 南青山ヒルズ・3エリアを 10回 クリア 称号「契約の準備」 「南青山ヒルズ・3エリアを 5回 クリア」を達成 探索「新宿」 業績 報酬 解放条件 東京都庁・1エリアを 3回 クリア シルバー × 2000 「東京都庁・1エリアを 1回 クリア」を達成 新宿中央ビル・1エリアを 3回 クリア シルバー × 2000 「新宿中央ビル・1エリアを 1回 クリア」を達成 新宿中央ビル・1エリアを 5回 クリア シルバー × 3000 ☆4 特別経験値カード × 1 「新宿中央ビル・1エリアを 3回 クリア」を達成 新宿中央ビル・1エリアを 10回 クリア 召喚チケット × 1 「新宿中央ビル・1エリアを 5回 クリア」を達成 新宿中央ビル・2エリアを 1回 クリア シルバー × 2000 「新宿中央ビル・1エリアを 10回 クリア」を達成 新宿中央ビル・2エリアを 5回 クリア シルバー × 3000 ☆4 ポイントカード × 1 「新宿中央ビル・2エリアを 1回 クリア」を達成 探索「池袋」 業績 報酬 解放条件 池袋西口公園・1エリアを 3回 クリア シルバー × 2000 「池袋西口公園・1エリアを 1回 クリア」を達成 乙女ロード・1エリアを 3回 クリア シルバー × 4000 「乙女ロード・1エリアを 1回 クリア」を達成 乙女ロード・1エリアを 5回 クリア シルバー × 6000 悪魔の香水 × 1 「乙女ロード・1エリアを 3回 クリア」を達成 乙女ロード・1エリアを 10回 クリア シルバー × 10000 悪魔の香水 × 1 「乙女ロード・1エリアを 5回 クリア」を達成 探索「上野」 業績 報酬 解放条件 東京スカイタワー・1エリアを 3回 クリア シルバー × 4000 「東京スカイタワー・1エリアを 1回 クリア」を達成 アメヤ横丁・1エリアを 3回 クリア シルバー × 4000 ☆4 ポイントカード × 1 「アメヤ横丁・1エリアを 1回 クリア」を達成 アメヤ横丁・1エリアを 5回 クリア シルバー × 7000 ☆5 ポイントカード × 1 「アメヤ横丁・1エリアを 3回 クリア」を達成 アメヤ横丁・1エリアを 10回 クリア シルバー × 13000 パーティーポーション × 1 「アメヤ横丁・1エリアを 5回 クリア」を達成 アメヤ横丁・2エリアを 1回 クリア シルバー × 5000 「アメヤ横丁・1エリアを 10回 クリア」を達成 アメヤ横丁・2エリアを 5回 クリア シルバー × 7000 復活ポーション × 1 「アメヤ横丁・2エリアを 1回 クリア」を達成 アメヤ横丁・2エリアを 10回 クリア シルバー × 13000 パーティーポーション × 1 「アメヤ横丁・2エリアを 5回 クリア」を達成 アメヤ横丁・3エリアを 1回 クリア シルバー × 5000 「アメヤ横丁・2エリアを 10回 クリア」を達成 アメヤ横丁・3エリアを 5回 クリア シルバー × 15000 ☆5 シルバーカード × 1 「アメヤ横丁・3エリアを 1回 クリア」を達成 探索「銀座」 業績 報酬 解放条件 国立近代美術館・1エリアを 3回 クリア シルバー × 5000 「国立近代美術館・1エリアを 1回 クリア」を達成 浜離宮恩賜庭園・1エリアを 3回 クリア シルバー × 6000 「浜離宮恩賜庭園・1エリアを 1回 クリア」を達成 探索「お台場」 業績 報酬 解放条件 レインボーブリッジ・1エリアを 3回 クリア シルバー × 7000 「レインボーブリッジ・1エリアを 1回 クリア」を達成 お台場テレビ・1エリアを 3回 クリア シルバー × 7000 「お台場テレビ・1エリアを 1回 クリア」を達成 お台場テレビ・1エリアを 5回 クリア シルバー × 13000 パーティーポーション × 1 「お台場テレビ・1エリアを 3回 クリア」を達成 お台場テレビ・1エリアを 10回 クリア シルバー × 20000 ☆5 特別経験値カード ×1 「お台場テレビ・1エリアを 5回 クリア」を達成 お台場テレビ・2エリアを 1回 クリア シルバー × 7000 パーティーポーション × 1 「お台場テレビ・1エリアを 10回 クリア」を達成 お台場テレビ・2エリアを 5回 クリア シルバー × 13000 悪魔の香水 × 1 「お台場テレビ・2エリアを 1回 クリア」を達成 お台場テレビ・2エリアを 10回 クリア シルバー × 26000 悪魔の香水 × 2 「お台場テレビ・2エリアを 5回 クリア」を達成 お台場テレビ・3エリアを 1回 クリア シルバー × 7000 「お台場テレビ・2エリアを 10回 クリア」を達成 お台場テレビ・3エリアを 5回 クリア シルバー × 13000 ☆5 ポイントカード × 1 「お台場テレビ・3エリアを 1回 クリア」を達成 お台場テレビ・3エリアを 10回 クリア シルバー × 20000 パーティーポーション × 1 「お台場テレビ・3エリアを 5回 クリア」を達成 探索「六本木」 業績 報酬 解放条件 国立新美術館・1エリアを 3回 クリア シルバー × 10000 ☆5 ポイントカード × 1 「国立新美術館・1エリアを 1回 クリア」を達成 六本木タワービル・1エリアを 3回 クリア シルバー × 12000 ☆5 特別経験値カード × 1 「六本木タワービル・1エリアを 1回 クリア」を達成 六本木タワービル・1エリアを 5回 クリア シルバー × 18000 ☆5 ポイントカード × 1 「六本木タワービル・1エリアを 3回 クリア」を達成 六本木タワービル・1エリアを 10回 クリア シルバー × 25000 召喚チケット × 1 「六本木タワービル・1エリアを 5回 クリア」を達成 探索「混沌の球」 業績 報酬 解放条件 異界の球・初級を 3回 クリア シルバー × 12000 「異界の球・初級を 1回クリア」を達成 天界の球・初級を 3回 クリア シルバー × 12000 「天界の球・初級を 1回クリア」を達成 魔界の球・初級を 3回 クリア シルバー × 12000 「魔界の球・初級を 1回クリア」を達成 探索「北千住(閉鎖都市)」 業績 報酬 解放条件 閉鎖都市・初級を 3回 クリア シルバー × 6000 オプションポイント × 1000 「閉鎖都市・初級を 1回 クリア」を達成 閉鎖都市・初級を 5回 クリア シルバー × 8000 オプションポイント × 1000 「閉鎖都市・初級を 3回 クリア」を達成 閉鎖都市・初級を 10回 クリア シルバー × 16000 オプションポイント × 2000 「閉鎖都市・初級を 5回 クリア」を達成 実験体S-509 のカードを獲得 シルバー × 30000 悪魔の香水 × 1 「閉鎖都市・初級を 3回 クリア」を達成 閉鎖都市・中級を 1回 クリア シルバー × 12000 オプションポイント × 2000 「閉鎖都市・初級を 10回 クリア」を達成 閉鎖都市・中級を 5回 クリア シルバー × 18000 オプションポイント × 2000 「閉鎖都市・中級を 1回 クリア」を達成 実験体N-127 のカードを獲得 シルバー × 30000 悪魔の香水 × 1 「閉鎖都市・中級を 1回 クリア」を達成 閉鎖都市・上級を 3回 クリア シルバー × 13000 オプションポイント × 3000 「閉鎖都市・上級を 1回 クリア」を達成 閉鎖都市・上級を 5回 クリア シルバー × 19000 オプションポイント × 3000 「閉鎖都市・上級を 3回 クリア」を達成 閉鎖都市・上級を 10回 クリア シルバー × 26000 オプションポイント × 4000 「閉鎖都市・上級を 5回 クリア」を達成 実験体F-111 のカードを獲得 シルバー × 30000 悪魔の香水 × 1 「閉鎖都市・上級を 3回 クリア」を達成 閉鎖都市・超級を 1回 クリア シルバー × 15000 オプションポイント × 5000 「閉鎖都市・上級を 10回 クリア」を達成 閉鎖都市・超級を 5回 クリア シルバー × 20000 オプションポイント × 8000 「閉鎖都市・超級を 1回 クリア」を達成 実験体C-909 のカードを獲得 シルバー × 30000 悪魔の香水 × 1 「閉鎖都市・超級を 1回 クリア」を達成