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概要 早苗浦駅(さなえがうらえき)とは、内池市港北区早苗浦に位置する内池急行と内池市営地下鉄の駅である。内急ホームは南北に、地下鉄ホームは東西に交差する形となっている。前州宇久氏14代宇久政重の愛した(早苗浦の命名も彼による)内池港の景勝地である早苗浦にある駅。現在では住宅地に変貌しているが駅から望む内池港の景色は政重の愛した景色と同じように多数の船が行き交うのが一望できる。なお内池市営地下鉄については延伸計画があるため駅番号は11から始まっている。 内池急行 駅データ 駅名 早苗浦 よみがな さなえがうら ローマ字 Sanaegaura 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面3線地上駅 所属路線 内池本線 キロ程 5.1km (1.5km)新港北←早苗浦→北浦(1.0km) 備考 駅構造 2面3線の地上駅。改札は地下鉄連絡自由通路に1ヶ所。駅舎の作りは新港北駅と似ている。またホームは構造上2面4線化可能であるが隣の新港北駅が2面4線であるため具体化はしていない。1番乗り場は折り返し専用で内池方面にしか線路がつながっていない。主に普通・準急は当駅で折り返す。なお1番乗り場から3番乗り場までは対面乗換ではなく内池方面からだと国前大島駅待避の電車も多い為新港北方面へは接続によっては瀬川駅や江里吉駅(急行のみ)で乗り換えた方が楽な場合も多い。 乗り場 路線 行先 備考 1・2 内池本線 瀬川・内池・山下・湯谷・国前松本方面 1番乗り場は折返列車のみ 3 内池本線 新港北・本港方面 内池市営地下鉄 駅名 早苗浦 よみがな さなえがうら ローマ字 Sanaegaura 駅番号 K11 所属事業者(乗入路線) 内池市営地下鉄海岸線 ホーム 1面2線地下駅 キロ程 0.0km 早苗浦→宝泉寺(1.1km) 備考 駅構造 地下1Fに改札口や売店などが、地下2Fに島式ホームがある。改札は西改札と中央改札があり内急線には中央改札が近い。線路はさらに終端より早苗浦検車場につながっており延伸も可能な構造になっている。さらに内池港を沈埋トンネルで越えて谷口方面への延伸も計画されている。 乗り場 行先 備考 1・2 浜守山・小宮・新三井楽・竹達・西加倉方面 両社共通 駅周辺 内急エアリア早苗浦店 西口(地下鉄西出口) 早苗浦港 内急フェリーが発着。当駅から直通連絡バス5分 早苗浦北港(メモリアルポート早苗浦) 現在の早苗浦港が完成する前のターミナル。住宅開発前の緑あふれる早苗浦の面影を残す。 内池市交通局早苗浦検車場 地下鉄海岸線車庫。 内池市バス早苗浦営業所 早苗浦検車場併設。市バスの車庫。 政公トンネル 早苗浦と対岸の奈木を結ぶ海底トンネル。名称は宇久政重公から。 東口(地下鉄中央出口) 港北区役所早苗浦支所 内池電力北浦変電所 碧海団地 宝泉寺 前州宇久氏14代当主宇久政重の墓所がある。市営地下鉄宝泉寺駅が最寄りではあるが内急線からだと早苗浦駅からも歩ける。 宝泉寺庭園 バス路線 早苗浦駅前バス停と地下鉄西出口前にある早苗浦駅西口バス停が最寄りとなる。 41系統 碧海団地・港北区役所前経由新港北駅前行/北浦駅前行 内急バス本港営業所・小宮営業所の運行。市道新港北早苗線を走破して早苗浦駅から北浦駅に至る。昼間毎時3本運行。 42系統 早苗浦7丁目・碧海団地・郷ノ浦2丁目・港北区役所前経由新港北駅前行 内急バス本港営業所の運行。こちらは41系統より海寄りの郷ノ浦地区を経由して新港北駅に至る。昼間でも乗降客は多い。昼間毎時3本運行。 早苗浦駅西口 143系統 早苗浦港・北浦埠頭・北浦団地・大島本町・北大島小学校前(北大島駅西口)・江里吉清風会前経由江里吉駅前行 早苗浦から国道551号線や島道270号線を経由して江里吉に至るロングラン系統。内急バス小宮営業所・瀬川営業所と内池市バス早苗浦営業所の共同運行。大島本町以北は内池市電大島線の代替路線でもある。昼間毎時3本運行。 その他 乗降客が多い為特急の停車が要望されているが遠近分離や隣駅の新港北駅が特急停車駅であること、快速急行の昼間の運行開始などにより実現していない。ただし朝晩の一部の特急は当駅に停車するようになってきている。 毎年7月に行われる奈木神社と宝泉寺の神事・法要である青苗祭(せいびょうさい)の際宇久政重公が乗るとされる神輿の行列の為バス路線は迂回運行を行う。その場合基本的に駅北側500mのところにある早苗浦支所前バス停が臨時の早苗浦駅前バス停とされる。また混乱防止の為に両駅ともに駅員が大増員されたり特急の臨時停車も行われる。 歴史 内池港の景勝地として古くから知られていた上之浦は1890年宇久政重により「早苗浦」と命名された。 そんな政重が愛した早苗浦を一望できる位置に当駅は開業した。開通当時は内池港駅から5.1kmも途中駅が無くいかに当地が有名な景勝地であったかがうかがい知れるだろう。当時の駅名は宝泉寺口駅であったが1918年には所在地から現在の駅名に変更された。後に新港北ニュータウン開発に伴い住宅地に変貌するが今も各所に緑あふれる早苗浦の面影が残る。 1904年3月12日 内池電気鉄道内池港~内池間の開通に伴い宝泉寺口(ほうせんじぐち)駅として開業。当時は駅そのものが早苗浦を一望できる観光スポットとなっていたようである。 1918年7月20日 現在の早苗浦駅に改称。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。 1963年10月1日 新港北ニュータウン造成による乗客増を見越して現在の2面3線に拡張。 1977年3月20日 内池市営地下鉄4号線として当駅~浜守山間開通。4号線は内池川線の計画路線名であるが浜守山~早苗浦間も計画上4号線とされた。 1979年4月1日 内池市営地下鉄4号線の延長区間となる5号線が浜守山~新三井楽間で開通したことに伴い4号線浜守山~早苗浦間と5号線を統合する形で海岸線に路線名を変更する。 隣の駅 内池急行内池本線 ■特急・特急はまもり・特急さなえ通過 ■快速急行・特急プルート・一部の特急さなえ新港北駅←早苗浦駅→瀬川駅 ■急行新港北駅←早苗浦駅→江里吉駅 ■快速・■準急・■普通新港北駅←早苗浦駅→北浦駅 内池市営地下鉄海岸線 ■早苗浦駅→宝泉寺駅
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概要 北浦駅(きたうらえき)とは、内池市港北区北浦町に位置する内池急行の駅である。 駅データ 駅名 北浦 よみがな きたうら ローマ字 Kitaura 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面2線地上駅 所属路線 内池本線 キロ程 6.1km (1.0km)早苗浦←北浦→国前大島(1.6km) 備考 駅構造 2面2線の盛土駅。改札は1ヶ所。駅の北端は第一内池川橋梁でありホームの一部は内池川堤防に位置している。直線が続くことから撮影地として人気が高い。 乗り場 路線 行先 備考 1 内池本線 瀬川・内池・山下・湯谷・国前松本方面 2 内池本線 早苗浦・新港北・本港方面 駅周辺 早苗浦の開発とともに開発の進んだエリア。住宅地が広がる。 内急エアリア北浦店 西側 北浦団地 北浦埠頭 内池港最北端の漁港岸壁。 新浦島大橋 国道551号線の橋梁。ここを境に南側は内池港、北側は内池川となる。名称は北浦と大島から。 東側 浜守山公園 内急電車の最寄駅だが当駅からは2kmほど距離がある。早苗浦駅から地下鉄海岸線を利用するのが一般的。 バス路線 北浦駅前バス停と北浦団地バス停が最寄りとなる。 41系統 早苗浦駅前・碧海団地・港北区役所前経由新港北駅前行 内急バス本港営業所・小宮営業所の運行。市道新港北早苗線を走破して新港北駅に至る。昼間毎時3本運行。 北浦団地 143系統 大島本町・北大島小学校前(北大島駅西口)・江里吉清風会前経由江里吉駅前行/北浦埠頭・早苗浦港経由早苗浦駅西口行 早苗浦から国道551号線や島道270号線を経由して江里吉に至るロングラン系統。内急バス小宮営業所・瀬川営業所と内池市バス早苗浦営業所の共同運行。大島本町以北は内池市電大島線の代替路線でもある。昼間毎時3本運行。 歴史 1920年11月1日 内池電気鉄道早苗浦~国前大島間に新設開業。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。 隣の駅 内池本線 ■特急・■快速急行・■急行通過 ■快速・■準急・■普通早苗浦駅←北浦駅→国前大島駅
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概要 新港北駅(しんこうほくえき)とは、内池市港北区新港北に位置する内池急行の駅である。港北区の中心に位置している。 駅データ 駅名 新港北 よみがな しんこうほく ローマ字 Shin-Kohoku 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面4線地上駅 所属路線 内池本線 キロ程 3.6km (1.7km)漁連前←新港北→早苗浦(1.5km) 備考 駅構造 2面4線の地上駅。待避が可能であるがホームの関係上本線が1・4番乗り場であり副本線が2・3番乗り場である。盛土上にあり改札は盛土下の市道新港北停車場線に面しており地下駅舎となっている。駅南側には2・3番乗り場から入線可能な折返線が1本ありここで当駅止の電車は折り返す。準急は最遠でも当駅で折り返し本港駅には乗り入れない。なお駅北方にも渡り線があるため1・4番乗り場での直接の折り返しも可能である。主に台風上陸時などに海のそばを走る当駅~本港間が運休になる際に活用される。 乗り場 路線 行先 備考 1・2 内池本線 早苗浦・瀬川・内池・山下・湯谷方面 3・4 内池本線 本港方面 駅周辺 元々は港北郡郷ノ浦町の外れにある低湿地であったが1955年の内池市編入後開発が進んだエリア。 東側 港北区役所 新港北バスターミナル 港北区役所併設の為バスの行先としては港北区役所前となる 新港北地区センター 碧海団地 郷ノ浦港 上内・下内方面への航路が出ている。 西側 新港北公園 市場書店港北早苗店 新港北団地 新港北中学校 バス路線 新港北駅前バス停と東に300mの新港北地区センター前バス停が最寄りとなる。 新港北駅前 41系統 港北区役所前・碧海団地・早苗浦駅前経由北浦駅前行 内急バス本港営業所・小宮営業所の運行。市道新港北早苗線を走破して早苗浦駅から北浦駅に至る。昼間毎時3本運行。 42系統 港北区役所前・郷ノ浦2丁目・碧海団地・早苗浦7丁目経由早苗浦駅前行 内急バス本港営業所の運行。こちらは41系統より海寄りの郷ノ浦地区を経由して早苗浦駅に至る。昼間でも乗降客は多い。昼間毎時3本運行。 新港北地区センター前 41系統 港北区役所前・碧海団地・早苗浦駅前経由北浦駅前行/新港北駅前行 42系統 港北区役所前・郷ノ浦2丁目・碧海団地・早苗浦7丁目経由早苗浦駅前行/新港北駅前行 122系統 港北製鉄前・上波止・下波止・三号岸壁前・本港営業所前経由本港バスターミナル行/港北区役所前行 本港埠頭から工業地帯を走破して港北区役所に至る系統。内急バス本港営業所が運行。昼間の本数は2時間に1本と少ないが朝晩はかなり多い。 また駅前から新港北地区センター・港北区役所を経由して郷ノ浦港への直通連絡バスも出ている。 なお小宮方面のバスは地下鉄海岸線開通時に港北区役所止となったが乗継割引も設定されている。 歴史 当駅は新港北地区の開発の為に設置された駅である。その為意外に歴史は新しく内池急行となってからの開設である。 1962年3月10日 内池本線漁連前~早苗浦間に新設開業。当時は駅前の開発は進んでおらずもっぱら駅開設の7年前に内池市に編入された郷ノ浦地区や早苗浦エリア南端の住民が使うのみであった。 1965年4月 駅北方に渡り線設置。 隣の駅 内池本線 ■特急・特急はまもり・特急さなえ本港駅←新港北駅→瀬川駅 ■快速急行・一部の特急さなえ本港駅←新港北駅→早苗浦駅 ■急行・■快速・■準急・■普通漁連前駅←新港北駅→早苗浦駅
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概要 北大島駅(きたおおしまえき)とは、内池市瀬川区北大島・加瀬町に位置する内池急行の駅である。 駅データ 駅名 北大島 よみがな きたおおしま ローマ字 Kita-Oshima 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面2線地平駅 所属路線 内池本線 キロ程 9.0km (1.3km)国前大島←北大島→江里吉(1.5km) 備考 駅構造 2面2線の地平駅。改札は2ヶ所。ホーム間は地下通路で連絡している。駅の北側で内池本線は大池川を渡る。 乗り場 路線 行先 備考 1・2 内池本線 瀬川・内池・山下・湯谷・国前松本方面 3・4 内池本線 新港北・本港方面 駅周辺 大島の街の北端で駅周辺は住宅街である。 東口 瀬川区加瀬住民センター 西口 東大池団地 北大島小学校 大池川公園江里吉地区 平家原線大池高校前駅 西へ約2km バス路線 西に400mの北大島小学校前(北大島駅西口)バス停が最寄りとなる。 143系統 江里吉清風会前経由江里吉駅前行/大島本町・北浦団地・北浦埠頭・早苗浦港経由早苗浦駅西口行 早苗浦から国道551号線や島道270号線を経由して江里吉に至るロングラン系統。内急バス小宮営業所・瀬川営業所と内池市バス早苗浦営業所の共同運行。大島本町以北は内池市電大島線の代替路線でもある。昼間毎時3本運行。 歴史 比較的歴史の古い駅の多い内池本線の南線区間では珍しく1950年代になってから開設された駅である。これは内池市電大島線との競合の意味合いもあった。西を走る大島線は1974年に廃止されている。 1951年10月14日 内池電気鉄道国前大島~江里吉間に新設開業。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。 隣の駅 内池本線 ■特急・■快速急行・■急行通過 ■快速・■準急・■普通国前大島駅←北大島駅→江里吉駅
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内急フェリー株式会社は内池自治府内池市港北区本港に本社を置く海運業者である。内池急行の子会社。 内池と夜島や荻沢、愛浜、さらには日本本土(※航路は架空)とも連絡している。 また夜島・南畳に営業所を設けている。荻沢・愛浜については荻沢電鉄に業務委託。 現在のところそよかぜ加盟社局で唯一高速船の一種であるジェットフォイルを所有、運行している。 会社データ 内急フェリー株式会社 会社データ 会社名称 内急フェリー株式会社 よみ うちきゅうふぇりーかぶしきがいしゃ 設立年月日 1933年4月1日(新内池海送として) 事業内容 海運業 本社所在地 内池市港北区本港3-1本港駅構内 主要子会社 歴史 1933年新内池海送として設立。当時は本港駅埠頭が完成しておらず上波止と早苗浦に発着していた。 1947年には内池電気鉄道の傘下に入る。 1960年6月1日内池電気鉄道を含めた9社の合併で内池急行が成立することに伴い社名を変更し内急フェリーに変更。 1963年6月15日本港新埠頭整備完了に伴い内急フェリーは上波止から本港に発着地を移転する。 1990年にはジェットフォイルを導入。 航路 全ての航路は本港駅で基本的に特急「はまもり」に接続している。なお船舶は基本的な運用でありドック時や非常時には代走は多く見られる。 内池~夜島航路 内急フェリーの前身である新内池海送時代からある伝統ある航路。 内池本港~夜島港間 約4時間 1500円 昼行5往復夜行1往復 フェリーみのり・フェリーさなえ・フェリーかくらの3隻が就航。 区間的には池上海峡線と競合しており減便でフェリーななみが荻沢航路に移籍するが貨物輸送などの関係から島の重要なライフラインであることに変わりはない。近年では2往復は加倉港、1往復は早苗浦港、2往復が本港と用途ごとに変わった発着地となっている。なお夜島と内池を結ぶフェリーと鉄道の連絡切符では加倉港発着の場合加倉町駅から、早苗浦港発着の場合早苗浦駅からも有効である。 かつてはジェットフォイルが就航していたが池上海峡線開通に伴い廃止。ジェットフォイルは予備船となった後南畳航路に再就航。 内池~荻沢航路 人気の内池~愛浜航路の補完として開設。 内池本港~荻沢航路(内荻航路) 約8時間 2500円 夜行1往復 フェリーはるかと荻鉄いちぜき丸が就航。2014年より荻沢電鉄との共同運航となることから新造船を導入してフェリーななみを置き換えた。 内池~愛浜航路 内池と愛浜をショートカットで結ぶ。ビジネス、観光に人気の航路。 内池本港~愛浜港 約5時間 2000円 昼行4往復夜行1往復なお昼の1往復は本港から延長し横江港発着。 フェリーあじさい・フェリーまりんらぶ・フェリーうく・フェリーはまもりが就航。 繁忙期にはジェットフォイルが運用されている。通年運航については現在検討中。 また2014年12月より増便し早苗浦港発着が新設された。 船舶 フェリー 全ての船が自動車航送可能。2016年冬ドックをもって速力向上工事が終了し冬ドック明けから所要時間が短縮されている。 また通常の最高速度は20ノット程度である。 フェリーさなえ 2008年進水 速力22.0ノット横江造船建造。船名は内池港の景勝地である早苗浦に由来。某キャラではない。2015年夏ドックより速力向上。 フェリーみのり 2002年進水 速力22.0ノット丹野造船建造。船名は美野里県に由来。2015年夏ドックより速力向上。 フェリーあじさい 2008年進水 速力22.5ノット丹野造船建造。船名は折戸のあじさいに由来。2016年冬ドックより速力向上。 フェリーまりんらぶ 2010年進水 速力22.5ノット横江造船建造。船名は愛浜の「愛」と海の「マリン」から。2016年冬ドックより速力向上。 フェリーうく 2011年進水 速力22.5ノット横江造船建造。船名は内池の発展に尽力した宇久氏から。2015年夏ドックより速力向上。 フェリーはるか 2014年進水。12月1日就航。速力22.0ノット西彩造船建造。フェリーななみの代替として荻沢航路に就航。船名は西彩造船の社内公募で決定。 フェリーよこえ 2014年進水。12月1日就航。速力22.0ノット横江造船建造。愛浜航路に就航。船名は就航地のひとつである横江港から。 新造船 2015年3隻、2016年1隻進水予定。2014年11月28日の横江新報の記事によると1990年代就航のフェリーを全て置き換える計画である。 フェリーかくら(2代) 2015年進水。6月1日就航。速力22.5ノット丹野造船建造。 フェリーはまもり(2代) 2015年進水。7月1日就航。速力22.5ノット横江造船建造。 フェリーみさき 2015年進水。8月1日就航。速力22.5ノット丹野造船建造。船名は平家原岬から。 過去の船舶 フェリーななみ 1992年進水 速力16.5ノット西彩造船建造。船名は七つの海を駆けるイメージから。2014年11月30日をもって引退し売却。 フェリーかくら 1993年進水 速力16.5ノット横江造船建造。船名は当時乗り入れていた加倉港に由来。現在も一部の航路は加倉港に乗り入れている。2015年5月31日をもって引退し貨物専業の前州海運に売却され貨物船に改造中。 フェリーはまもり 1996年進水 速力17.0ノット西彩造船建造。船名は内池港のシンボルでもある浜守山から。2015年7月1日をもって引退し現在早苗浦港に係留中。 ジェットフォイル ジェットフォイルに関してはボーイング社よりライセンスを受けた丹野造船が一括して担当している。 船名は造船時期ごとにシリーズ化されている。 ペガサスシリーズ 色+ペガサスの名称となっている。 レッドペガサス 1995年進水 速力45ノット185総トン丹野造船建造。 ブルーペガサス 1995年進水 速力45ノット185総トン丹野造船建造。 ジェットシリーズ ジェット+惑星名となっている。 ジェットプルート 2004年進水 速力45ノット185総トン丹野造船建造。 ジェットカロン 2004年進水 速力45ノット185総トン丹野造船建造。 ジェットプルートについては名称公募。ジェットカロンについては冥王星に対応する衛星としてカロンの名が選ばれた。 運賃 原則的に運賃は追加方式である。すなわち通常の2等運賃が上の運賃に当たる。ジェットフォイルは追加運賃が必要。 就航港 内池港(内池本港) 本港駅併設。本港駅1番乗り場と柵を隔てて隣接しており直接アクセスできる。埠頭は2ヶ所で通常は本港駅と隣接している第一岸壁を使用しているが繁忙期など続行や臨時増発がある場合は本港駅の南改札前の第二岸壁から出港する。それでも入りきらない場合は後述の早苗浦港や加倉港から出港。 内池港(早苗浦港) 早苗浦駅から直通連絡バスで5分。内池駅から内池高速バスによる連絡バスも運行。内池川河口の東岸にある。普段は本港に枠の少ないジェットフォイルや内池島の二次離島など近距離航路の出港に使用されるがチャーター便などは早苗浦港を発着する場合が多い。また荒天時は本港より奥まった位置にあることからフェリーなどはここを発着としたり避難することがある。丹野造船の新造船は基本的にここで引き渡される。 内池港(加倉港) 加倉町駅から直通連絡バスで10分。内池駅・松ヶ崎バスターミナルから内池高速バス・内急バス・倉交バスによる連絡バスも運行。島原口駅や加倉町駅からの路線バスもあるが昼間は本数が少ないので注意。内池湾の中でも比較的東側にある。内急フェリーは加倉港西端にある有洲埠頭から発着する。 横江港 横江浜海水浴場の西側にある。横江駅からバスで5分。美貴町駅から徒歩10分。連絡バスは無いが近くの美貴町3丁目バス停から横江駅方面へのバスが頻発(美貴町新通経由/横江区役所前経由)しているのと美貴町駅が近いため特に不便はない。フェリー乗船客には横江バスの乗車券が渡され繁忙期には近くにある横江バス本社から応援の車両が回送される。なお横江造船の造船所も近いことから横江造船で建造された新造船は営業運転前の試乗会として横江~内池間を往復するのが慣例となっている。 備考 内池本港は内池急行本港駅と併設されており1番乗り場から直接アクセスできる。乗船券もUTICAで購入が可能。詳しくはUTICA参照。 内急フェリーとの乗継の場合UTICA・スピードカードでの直通乗船は不可能である。そのため内急電車から内急フェリーに当駅で乗り換える際には事前に乗船券との引き換えが必要である。なおこれは早苗浦港、横江港、加倉港でも同様である。内急線直通の連絡乗車券については通常切符・企画乗車券では発売しているがUTICAなどのIC乗車券では適用されないため発駅~当駅/本港~着港と運賃が本港でリセットされるので注意が必要。スピードカードでも同様。 内池本港の位置から内急の鉄道連絡船とよく言われるが鉄道車両の輸送ができないことや内急フェリー側の歴史的経緯から厳密には鉄道連絡船ではないとされている。しかし実態は各就航地では両岸とも鉄道との接続は良く(夜島港は新芝岬ターミナルからバス)内池側に至っては駅放送で「フェリー連絡」などの放送があり内池港でフェリーに接続する特急には「はまもり」の愛称が与えられていることから鉄道連絡船そのものとなっている。 内急フェリーの名物はカレー。船内の食堂で購入してデッキのテーブルで食べるのが通のやり方。潮風とともに過ごすひとときはいかが? 毎年4月と10月に「内急フェリーまつり」が行われ運用をやりくりして多くの船が内池港に集まり船内公開や体験航海などのイベントが行われる。4月は「内池みなとまつり」と共同で開催するため早苗浦港、10月は加倉港と横江港の隔年開催である。体験航海ルートは早苗浦港・加倉港開催の場合は内池港クルーズ(加倉港開催時は本港沖、早苗浦港開催時は宮前浜沖まで運航)、横江港開催時は清津島沖一周が定番である。港では名物のカレーが振る舞われ毎年満船飾が施されていて一見の価値あり。 内急フェリーのドックは基本的に1月と6月に分かれて行われており前者を冬ドック、後者を夏ドックと呼ぶ。規模は冬ドックの方が大きい。ドック期間中は代走なども多く行われる。 Q&A Q.船は揺れますか? A.外洋航路ですので全く揺れないとは断言できません。しかし横揺れ防止装置(フィンスタビライザー)を全船に装備しているため揺れを大幅に軽減しています。 Q.欠航することはありますか? A.時化の場合などは運休の場合があります。ホームページや内池急行の各駅でご確認ください。なお断言はできませんが夜島航路は最重要ライフラインであるのと概ね波は穏やかなエリアを航行するため比較的欠航は少なくなっております。 Q.UTICA・スピードカードは利用できますか? A.利用できますがUTICA・スピードカードでの直接の乗船は不可能です。一旦乗船券にお引き換えください。 Q.忘れ物はどこにありますか? A.本港駅・内急フェリーお忘れ物センターにご連絡ください。 Q.航海中携帯電話の電波は届きますか? A.各航路内池港内・横江湾内では問題なくご利用いただけます。内池港外・横江湾外での携帯電波は不安定ですのでご了承ください。夜島航路では比較的電波がつながりやすいようです。 Q.内急電車への接続保証は? A.内急電車→内急フェリーへの接続は保証致します。しかしながら内池本線は本数も多いので内急フェリー→内急電車に関しては接続の保証は致しかねます。ですが乗り換えには余裕時間を持たせてありますのでご安心ください。 Q.なぜ乗船名簿が必要なのですか? A.内池自治府からの要請により自治府と自治府外を結ぶ全てのフェリー会社では自治府の保安上の理由から乗船名簿の記入を義務付けられております。ご了承ください。 Q.内急フェリーから内急電車に乗り換える際の本港以外の港からの接続駅を教えてください。 A.早苗浦港は早苗浦駅、加倉港は加倉町駅と島原口駅、横江港は横江駅と美貴町駅が接続駅となっております。フェリーと電車の連絡乗車&乗船券の場合も以上の接続駅での接続でも有効です。
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概要 国前大島駅(くぜんおおしまえき)とは、内池市瀬川区大島に位置する内池急行の駅である。1974年までは平家原電気軌道(→内池市電)大島町線も乗り入れていた。 駅データ 駅名 国前大島 よみがな くぜんおおしま ローマ字 Kuzen-Oshima 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面4線高架駅 所属路線 内池本線 キロ程 7.7km (1.6km)北浦←国前大島→北大島(1.3km) 備考 駅構造 2面4線の高架駅。改札は1ヶ所。1999年第一内池川橋梁~当駅間の高架化に伴い高架化。優等列車の通過待ちが多く行われる。 駅高架下は広々としたバスターミナルとなっている。また東口近くに内池海洋大学、バスで10分ほどのところに内池経済大学があることから大学生の利用も多い。 乗り場 路線 行先 備考 1・2 内池本線 瀬川・内池・山下・湯谷・国前松本方面 3・4 内池本線 新港北・本港方面 駅周辺 大島の街の中心部。東側には中小工場も見受けられる。 東口 内池海洋大学 海洋や水産関連の大学。 内池経済大学 バスで10分。内池川の対岸の新松浦区小宮にあり地下鉄海岸線小宮駅からも近い。 市場書店海洋大前店 市営地下鉄内池川線海洋大前駅 東に500mと比較的近い 西口 テラモール大島 ショッピングモールでありかつての内池市電大島車庫の跡地でもある。 東大野小学校 南池端団地 バス路線 高架下の大島駅前バス停と西に300mの大島本町バス停が最寄りとなる。 大島駅前バス停 33系統 内池海洋大前・新小島東橋・内池経大前・小宮駅経由小宮営業所前行 内急バス小宮営業所の運行。新小島橋を渡って対岸の小宮地区と当駅間を結ぶ。大学生の利用が多い。昼間毎時2本運行。 44系統 北大島中学校前・東大池団地・大池高校前経由大池駅前行 内急バス瀬川営業所の運行。住宅地を経由して大島と大池を結ぶ。昼間毎時2本運行。 133系統 東大野小学校前・西大島・南大野町経由大野神坂駅前行 内池市バス早苗浦営業所と内急バス小宮営業所の共同運行。平電(→内池市電)大島線の代替路線であり本数・利用客ともに多い。昼間毎時6本運行。 135系統 内池海洋大前・新小島東橋・内池経大前・小宮駅・新横江石油小宮前経由材木埠頭行 内池市バス早苗浦営業所と内急バス小宮営業所の共同運行。小宮駅までは33系統と同じルートを走るが小宮駅からは臨海の工業地帯を走る。昼間は内池市バスのみ運行。昼間毎時1本運行。 大島本町バス停 143系統 北大島小学校前(北大島駅西口)・江里吉清風会前経由江里吉駅前行/北浦団地・北浦埠頭・早苗浦港経由早苗浦駅西口行 早苗浦から国道551号線や島道270号線を経由して江里吉に至るロングラン系統。内急バス小宮営業所・瀬川営業所と内池市バス早苗浦営業所の共同運行。大島本町以北は内池市電大島線の代替路線でもある。昼間毎時3本運行。 歴史 当駅は内電開業前から平家原電気軌道が乗り入れており内池初の乗換駅であった。 1903年9月1日 平家原電気軌道大野港~当駅間の開通と同時に大島町(おおしままち)駅として開業。 当初平電は現在のテラモールの位置辺りに終着駅を置くつもりであったが(後の大島本町電停→バス停)大島町民の用地提供と内電の乗り入れが予定されていたことから内電の駅予定地の西方に終着駅を構えた。 1904年3月12日 内池電気鉄道内池港~内池間の開通に伴い内池電気鉄道が現在の国前大島駅として乗り入れ。同時に平電も駅名を国前大島駅に改称。 1933年10月1日 内電側現在の2面4線となる。 1948年4月1日 平電の路線名が本線から大島町線に変更される。 1954年4月1日 内池市市域拡大に伴い瀬川郡瀬川町・大池町・江里吉町・大島町・浦本村・大野郡大野町・西谷村・佐谷村が内池市に合併。同時に平電は大島町線を内池市交通局に譲渡し瀬川から大島本町まで続いていた内池市電大島線の一部となる。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。 1974年11月30日 内池市電大島線廃止に伴い内池市電としては廃駅。大島線の北部区間の渋滞と収益悪化による廃止により収益は良かったが離れ小島となってしまう旧大島町線部分が巻き添えを食らう形となってしまった。 1999年5月18日 駅周辺高架化に伴い高架化。 隣の駅 内池本線 ■特急・■快速急行・■急行通過 ■快速・■準急・■普通北浦駅←国前大島駅→北大島駅
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概要 上波止駅(かみはとえき)とは、内池市港北区上波止に位置する内池急行の駅である。隣の漁連前駅と並んで内池港上波止漁港地区の中心駅。また内池でのシェアトップの製薬会社である早苗薬品の本社の最寄駅でもある。 駅データ 駅名 上波止 よみがな かみはと ローマ字 Kamihato 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線 ホーム 2面2線地上駅 所属路線 内池本線 キロ程 0.9km (0.9km)本港←上波止→漁連前(1.0km) 備考 駅構造 2面2線の地上駅。改札は2番乗り場にあり相対式ホームで跨線橋により連絡している。昼間は乗降客が少ないが駅前に本社を構える早苗薬品上波止本社工場や北側にある谷口鉄鋼新港北製鉄所への通勤客が多く朝晩は混雑する。また日曜日早朝には上波止漁港の朝市があり新鮮な魚が安く買える為買物客で賑わう。また1番乗り場は海に面している。その為荒天時には新港北~本港間が運休することもある。 本港側は当駅を過ぎるとすぐに下波止運河を渡り本港埠頭に至る。内池側は駅の北側がカーブとなっていて漁連前以南は最高速度が70kmに制限されていることもあって人気の撮影地となっている。 乗り場 路線 行先 備考 1 内池本線 新港北・瀬川・内池・山下・湯谷方面 2 内池本線 本港方面 駅周辺 漁港としての一面と工業地帯としての一面が共存する。 (内池港)上波止漁港 1963年本港埠頭整備までは下波止岸壁にフェリーも発着 早苗薬品上波止本社工場 谷口鉄鋼新港北製鉄所 新港北という名だが最寄駅は当駅と漁連前駅である 港北製材場 上波止第一貯木場 上波止第二貯木場 新港北共同ヤード 内池港上波止地区第六岸壁に整備。 上波止石油一時貯蓄施設 輸入された原油や沖合の石油プラントで産出した原油などを一時的に貯蓄しておく施設。新横江石油や丹野化学などのタンカーが出入りする。 下波止運河 内池港上波止漁港地区と内池港下波止地区・本港埠頭の間にある運河。新港北共同ヤードに出入りする船や上波止石油一時貯蓄施設に出入りするタンカーなど多数往来している。 バス路線 122系統 下波止・三号岸壁前・本港営業所前経由本港バスターミナル行/港北製鉄前・漁連本部前・新港北地区センター前経由港北区役所前行 本港埠頭から工業地帯を走破して港北区役所に至る系統。内急バス本港営業所が運行。昼間の本数は2時間に1本と少ないが朝晩はかなり多い。ただし本港バスターミナルまでは区間便として毎時1本確保されている。 歴史 1918年7月20日 内池電気鉄道内池港~宝泉寺口(同時に早苗浦駅に改称)間に新設開業。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。 1960年10月1日 下波止運河工事に伴い概ね北側100mの位置に移設。 隣の駅 内池本線 ■特急・■快速急行 通過 ■急行・■快速・■普通本港駅←上波止駅→漁連前駅
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架空地域の歴史を掲載する。ここには内池地区の歴史を記載する。内池急行の歴史については内急ネット資料館参照。 内池の歴史 内池の歴史前史(宇久氏領有まで) 江戸期の前州(江戸時代) 自治権への道(明治~自治権獲得まで) 内池条約と対米問題 内池の現代史 前史(宇久氏領有まで) そよかぜ他社のエリアが日本の1都道府県として歩んできたのに対し内池は独立性を戦前から保ってきた。 そこで内池島の歴史をここで詳述しておく。 内池に人が住み始めたのは2000年ほど前と意外に最近であるといわれている。起源は明らかでないがおそらく九州方面由来の海洋民族であろう。 日本人が内池にやってきたのは平安時代末期である。源平の争いに負けた平家の落人や源氏内の権力争いに負けた一部の木曽源氏などが内池に逃れてきたと考えられている。 その平家の落人達が最初に上陸したのが現在の平家原であるという。 先述の通り前州(当時の文献による。内池島は国前島と呼ばれていた)には先住民がいたが渡来した人々は融和の道を選んだ。内池において先住民問題が表面化しないのはこの時から混血化が進んだからである。 江戸期の前州(江戸時代) 16世紀中頃には肥前の宇久(五島)氏の一派が内池にやってきた。 宇久氏は平家側であったこともありそのまま全島宇久氏の保護下に収まることになった。内池弁に九州方言の影響が見られるのはここに由来する。 しかし五島の宇久氏は名前が五島氏に改まったが本領の福江から内池は遥かに遠いこともあり五島氏は内池の統治を事実上島の人々に任せたのである。 1603年五島氏は徳川家康に属し宇久氏以来の領地である五島列島の所領を安堵され福江藩1万5000石を得るがこの時に朝鮮出兵時より親しい関係にあった島津氏の勧めで内池の存在を隠し通すことにしたのである。 幕府も江戸から遠く離れた離島の藩のさらに離島の領地に対して特に興味も無かったことから幕末まで前州の存在は無かった事にされる。伊能忠敬ですら知らないまま江戸時代は過ぎた。 なお五島には信仰を捨てなかった外海や長崎のキリシタン達が移住してきていたがそのうち一部はさらに内池に移住している。 当然ながら前州は幕府の統治下ではなかったため絵踏もなく信仰の自由が一応保証されていた。 江戸時代中期には福江藩の三年奉公制から逃れるために内池に移住する人々もいた。新三井楽や椛島や玉浦(元々は玉之浦)や西浜といった地名はこの時移住してきた人々の出身地に由来する。 なおこの時前州宇久氏の文献に「国前国」という表記があることから一応幕府への服属体制はあったとみることができる。 この間内池城には前州宇久氏が住んでおり統治は前州宇久氏がそのまま行っていた。これはその後重成が内池に自邸を構えるまで続いた為内池城は廃城を免れ1937年まで宇久家所有の現役の城であった。この時代より決して政治が安定したとは言えなかった本領福江の宇久氏と異なり前州宇久氏には「宇久家に暴君なし」と言われるほど名君が多かったといわれている。 自治権への道(明治~自治権獲得まで) 版籍奉還時にようやく福江藩は新政府に内池のことを報告。新政府としては寝耳に水だったようで新政府の手に余るものとして引き続き福江藩の持ち分とされた。 1871年廃藩置県に伴い福江藩領をもって福江県が成立。同時に福江藩から国前地区が切り離され大島県が成立。この時点で内池が日本の施政下に入った。 この時に北海道を開拓していた開拓使に内池の開発を兼任させる。しかし北海道の開発で手一杯である日本に内池の開発をする余力も無くむしろ民間資本での開発に期待する対応となっていった。 そうこうしている間に明治維新頃より当時の宇久氏の当主宇久政重の命により日本本土で学んでいた内池出身の後の技術者や政治家達(内池では彼らを前州志士と呼ぶ)が次々と本土の技術や文化を学び帰島する。 さらに政重自ら本土を視察(宇久視察団)し様々な技術を持ち帰る。この前州宇久氏14代目当主宇久政重が内池にもたらした功績は大きく(早苗浦の命名も1890年の彼による。それまでは上之浦や浜守山浦と呼ばれていた)1905年72歳での政重の死去の際生前愛した早苗浦を望む宝泉寺に墓が置かれ早苗浦の対岸に当たる奈木には政重を祀った奈木神社がおかれた。内池で「宇久様」というと宇久政重を指すことも多い。 政重の経済政策のもと内池初の鉄道となる奈木軌道が開通する。さらに教育分野でも「人を育てるは島を強くするに等しい」と力を注ぎ1900年当時としては高い就学率を誇るにまで至ることになる。 これを皮切りに内池にも鉄道ブームが訪れた。1900年には内池市電の前身となる内池都市軌道が開通した。 15代目当主宇久重成は城南から内池島全体の発展に寄与した政重とともに内池町の発展に寄与し1904年36歳で初代内池町長と大島県知事に就任。1904年には内池電気鉄道が開通。 その間も日本政府は内池に対し冷遇こそしないものの大きな政策も取らなかった。 日夜内池の為に働き続ける宇久氏を見ていた大島県民の中には日本からの独立論まで出始めた。 その内池独立の機運を高めたのが1914年第一次世界大戦の開戦である。内池にも納税と兵役の義務はあったが第一次世界大戦において内池に何の得も無いのは目に見えていた。その為重成は内池地区からの出兵を止めるように政府に掛け合った。 この時内池の人々に日本政府への期待が無いに等しいことは重成ももちろん知っておりこれを機に内池を統治する気がないなら大幅な自治権を与えよと直談判するのである。 この時前州志士達も再び日本本土に渡り内池の自治権を与えよと関係各所に掛け合った。 そして重成や前州志士達の働き、国際連盟の誕生やヴェルサイユ条約の締結などの追い風に支えられて1920年3月1日内池条約発効により内池地区に大幅な自治権が与えられた。 これは中立を旨とする独自外交権も認められたものであり国防のみ日本に委託したものである。 太平洋の一部の国では国防のみアメリカに委託した形での自由連合という形での独立がある現在では一種の独立国ともいえる歴史的な条約であった。 宝泉寺の宇久政重の墓の前は政重に内池の自治権獲得を報告しようとたくさんの人々が集まったという。 この日は内池地区では条約記念日として祝日とされた。同時に大島県が廃止され内池自治府が誕生した。同日には自治議会や自治総監が成立し重成が初代自治総監に就任した。 内池条約と対米問題 1930年4月1日内池郡内池町・城ヶ崎町・川西町・湯野村・長野郡長野町・御門村・高田村・坂中郡坂中町・売布村・城方郡城南町・井岡村が合併して内池市が誕生する。 同日内池都市軌道が内池市に買収され内池市電となる。 1937年宇久家より内池城の所有権が自治府に移管される。これは当時宇久家の私有地となっていた内池城内の帰属先となる自治体が不明確であったことが理由である。1937年当時内池城の外堀に面している自治体は内池市、吉川郡吉川町、北野村、柴田郡柴田町、城北村、城北郡堀北町、城西郡夏川町、夏井村、城西町と1市5町3村に及んだのである。 1940年11月1日横江郡横江町・片浜町が合併して市制、横江市となる。その後1949年に横江郡小野村と横北村を、1965年には瀬名町、上浦町、白沢村を編入し市域が旧横江郡全域となる。 第二次世界大戦の際にも内池には日本軍が内池条約に基づき使用していた軍港由良を除いてほとんど空襲は無かった。 しかし由良では民家などにも空襲があった(由良事件)内池では外交上の中立を掲げていたためこれは大きな問題となった。 1945年4月には重成が渡米してアメリカ側に猛抗議するとアメリカも全面謝罪したため事なきを得たがこれは内池の安全保障政策を転換させる一因となった。 この頃には重成は16代目当主となる長男の宇久久重に自治総監の座を譲る考えであったが時節柄重成が総監の座を維持することになった。しかし民主的内政改革については既に久重が行っていたともいわれている。 1945年8月15日日本が敗戦。同時に進駐軍による間接支配が日本本土ではスタートした。 内池には日本軍の軍港となっていた由良基地の占領のために米軍がやってきた。なおこの時日本政府とアメリカ政府は止めようとしたものの米軍は聞く耳を持たなかったといわれている。なお当時の城西駐屯地については日本軍が使用していなかったこともありおとがめなしとなった。 しかし由良事件以後の内池の人々の対米感情はあまりよいともいえず冷たい視線を受けながらの占領となった。 元々政重や重成の開明路線により戦前から内池の教育制度に関しては現在の教育と変わらない制度であったこと(新制教育体制は内池の教育制度に範を取った説が有力)農地改革にしてもそもそも前州には地主制度そのものが無かった為(全島総自作農)行う必要がなく女性参政権は1915年には内池条約関連の法改革で容認されておりGHQとしてもあまり価値のある占領ではなかった。財閥解体という点では宇久家がリストアップされていたことが近年明らかになったがただでさえ米軍に対して冷たい内池の民衆の暴徒化などを懸念して取りやめとなったという。 しかし成果の無いことに不満を持った米軍側が由良一帯の民有地も含め占領しようとした為自治府側が激怒した。そもそも中立を保っていた内池に他国の軍隊がいるだけでも由々しき問題だったのである。 重成は高齢の体を押してついに東京のマッカーサーの元に直接出向き強硬に内池の中立確保を迫った。マッカーサーは治安維持を理由に拒否したため重成はついに内池の中立確保の為の戦力保持を決意したのである。これは武装中立への転換点であった。 1947年5月3日日本国憲法が施行。これについては自治府議会で憲法9条を除く形での内池での効力容認を決定。憲法9条が内池において効力を持たなかったのは内池の外交・軍事独立権の兼ね合いと後の中立守備隊の設置を見越したものとされている。 1947年11月23日第二次内池条約発効に伴い国防委託を終了し中立守備隊を設置する。これは現在の自衛隊内池総監部の祖である。 そして内池独自の中立確保手段を手に入れた自治府はついに対米交渉に入る。 この時アメリカやソ連などから自治府の国際連合加盟の誘いも受けていたが後の由良事件で頓挫することとなる。 しかしその半ばの1948年1月24日重成が病に倒れ自治総監を辞職。これに代わり内池市長であった久重が自治総監に選出される。 そんな中2月26日夜に由良に駐屯していた米兵が酒に酔った勢いで民間人を暴行し殺害する事件を起こしてしまう。内池で二・二六事件というとこちらを指す事が多い。 これにより内池の世論は沸騰し翌朝には内池自治府下の全ての自治体が全会一致で抗議声明を出し由良にはたくさんの人々が抗議に集まった。当時の内池自治府の人口114万人のうち30万人が由良に集結したのである。 事態収拾の為マッカーサーが由良に極秘上陸した際にもこの抗議の取り囲みは続いておりマッカーサーが基地内にいると分かった途端に民衆の殺気が増したといわれる。マッカーサーはこれを見て内池撤退を決意しアメリカ政府に撤退を進言した。 米軍は即座に内池撤退の準備を始める。そして1948年10月1日米軍が内池から完全撤退した。 1951年11月1日ラジオ内池(現内池放送/略称RUB/コールサインJOFF)が開局。内池最初の民間ラジオ放送でこれは内池新聞と宇久家の出資によるものだった。ラジオ内池に宇久家が出資しているのも政重以来の教育分野への注力の一環であり中部日本放送、新日本放送(現毎日放送)に次ぐ開局である。 内池の現代史 1952年には戦後の混乱も落ち着きいつまでも宇久家の世襲ではいけないと(久重に子供がいなかったのもある)久重は自治総監を辞職。この時より自治総監は自治議会内で選出されることとなった。久重はその後も内池の主要企業の株主となる形で内池に影響力を保持したがあまり行使することはなかった。 1953年ラジオ前州(コールサインJOTF)が開局。ラジオ前州は加倉・横江地区の有力企業の出資であり新聞も横江新報系であった。 1954年内池ラジオ放送開局。 1955年7月1日城西郡城西町、夏井村の編入により内池城の所有権が内池市と確定されたため内池城を自治府から内池市に譲渡。 1956年12月1日内池初のテレビ放送としてラジオ内池テレビ放送開始。甘南備山に送信所を構える。 同年日本の国際連合加盟と同時に自治府としても加盟。ただし内池自治府に関しては国際中立のためのオブザーバー参加とすることになった。なおWHOやユネスコには加盟している。敵国条項の適用についても議論はあったものの由良事件や内池二・二六事件などで痛いほど自治府の民衆の強さを思い知らされたアメリカの強い反対で適用されないこととなった。 1958年1月19日内池市高速電気鉄道(内池市営地下鉄)1号線(北野神社前~新長野間)が開通。1号線は福島線の前身であるが内池市営地下鉄特有の建設区間と路線番号が一致しない事情により後にこの区間は長野線の区間となる。 1960年3月1日自治総監であった時の横江市長が締結した第三次内池条約により中立守備隊が自衛隊と統合され自衛隊内池総監部となった。再びの日本との国防統合に武装中立を保てるのかと懐疑的な声もあったが財政面からすると有効策であった。なおこの時の取り決めで内池総監部と自衛隊については対等で相互防衛を行うことが決められた。この関係と内池の対米感情から日米安全保障条約の範囲内には厳密には入っていないものの在日米軍と自衛隊の合同軍事演習に内池総監部も参加するなど関係は良好である。 同日テレビ内池(略称UTC/コールサインJOBX)が開局する。開局日のトップニュースはもちろん第三次内池条約の発効であった。 1960年6月1日に内池の鉄道9社が合併し内池急行が成立。これは資金繰りに苦しんだ国前共立銀行と電気事業に注力したい内池電力が各社の株を手放したことが背景であり7月14日には国前共立銀行と内池銀行の合併が発表された。 現在でいえば内池急行はホールディングスになるのであろうが当時は持株会社が容認されていなかったこともあり9社はそれぞれの経営安定化の為に新会社を設立してそこに合併することにしたのである。 1964年には内池文化放送が開局。 1967年資本関係の整理の為ラジオ前州とテレビ内池が合併。テレビ内池はラジオ前州のコールサインを継承したうえでラジオ部門はUTCラジオとして再出発。(コールサインJOTF) ラジオ前州には横江鉄道(内急に引き継ぎ)が出資していたがテレビ内池には内池急行本体が出資していたことにもよる。現在も内池急行はテレビ内池の大株主である。 1970年内池城守護の要となっていた城西駐屯地が西に2km離れた現在の瑠里丘に移転。跡地は丹野化学城西工場となった後に城西丹化タウンとなる。 1972年4月1日平野部のほとんどを合併した内池市が政令指定都市に移行。元々政令指定都市移行前から旧郡ごとに「~区」と住所に入れていたことから区制も概ね旧郡ごととなった。ただし旧郡と区名が一致しない例などがあったため完全に住所が同じというわけではない。(例…甘南備駅住所は東山郡山岸町甘南備→[内池市編入後]内池市東山区山岸町甘南備→[政令指定都市移行後]内池市山下区山岸町甘南備と変化している) 1977年3月1日内池市電全廃。この時点で自治府下に残った路面電車は加倉電気軌道のみとなる。 1980年4月1日横江市・加倉郡加倉町・佐屋町・港南郡港南町が内池市と合併して内池島の自治体が内池市に統一。加倉区・横江区・港南区が設置される。 この時たまたま内池条約の条約改正期に入っていたこともあり自治府の独立や横江市などへの配慮から内池市を廃止して特別区とする案などもあったが前者は自治議会や市民の反対で、後者は旧内池、横江両市民の反対で立ち消えになっている。 1987年内池最後発となる内池ワイワイテレビが開局。ワイワイとは自局のコールサイン「JOYY-TV」の略称。 2006年内池ガスと横江ガスが経営統合。2008年には横江ガスブランドが消滅する。 2010年内池と夜島を結ぶ池上海峡線が開通。内池の重要なライフラインとなった。 2011年3月27日日本本土に先駆けてアナログテレビ放送終了。各局特別クロージングで迎えた。
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概要 本港駅(ほんこうえき)とは、内池市港北区本港に位置する内池急行の駅である。内池本線の始発駅。内池港の本港埠頭に位置し内急フェリーと連絡している。ここでは内急フェリーについても記載する。また前身の内池港駅についても記述する。 駅データ 駅名 本港 よみがな ほんこう ローマ字 Honko 所属事業者(乗入路線) 内池急行内池本線・内急フェリー夜島航路・愛浜航路・荻沢航路 ホーム 5面4線地上駅 所属路線 内池本線 キロ程 0km 本港→上波止(0.9km) 備考 0キロポストは海上 駅構造 5面4線の地上駅。頭端式ホームであるため駅全体が地平でバリアフリーである。改札は内池急行としては2ヶ所あり北改札と南改札がある。その他内急フェリー専用の乗船改札と乗換改札がある。南改札と内急フェリー本社併設の乗船改札は隣接している。 西端の1番乗り場は本港駅埠頭第一岸壁に柵を隔てて直結しており連絡改札がある。特急は1番乗り場の発着が多いが特にフェリー連絡の特急は原則1番乗り場に発着。また特急以外でのフェリー接続列車は2番乗り場への入線が多い。 また内急フェリーについては岸壁に自動券売機を設けている。乗継は後述のように少し複雑なことと内急フェリーの乗船券検札の為係員が常駐することから直通改札は簡易改札となっている。 なお駅構内には待合室があり連絡時間が長く内急フェリーの改札を行っていない場合そこで待つこともできる。制度上は本港駅の改札外で待つことも可能だが工場地帯である為一般の店などは少ない。駅構内にコンビニもあるので特に改札外に出る必要も無いだろう。 なお駅屋上には内急系のテレビ内池のお天気カメラが設置されており他局が港北分波局からの映像であるのに対してUTCで内池港の風景が映される場合ここからの映像となっている。 なお内急フェリーは繁忙期は駅前の第二岸壁から出港する場合もある。 乗り場 路線 行先 備考 1・2・3・4 内池本線 新港北・瀬川・内池・山下・湯谷方面 1番乗り場はフェリー連絡特急はまもり優先 駅周辺 1960年の新埠頭整備により多数の工場が位置しておりフェリーだけの駅ではないことが分かる。 南改札 内急フェリー本社 内池自動車本港工場 出屋敷印刷本港第三工場 内池急行下波止火力発電所 内池電力本港第二火力発電所 北改札 内池電力本港火力発電所 出屋敷印刷本港第一・第二工場 前州製紙本港工場 市場書店上波止集配センター 新横江石油本港精油所 新横江石油本港三号岸壁 本港埠頭の第三岸壁は新横江石油専用であり新横江石油のタンカーが横江白波瀬港と交互に入船する。 バス路線 本港バスターミナルが最寄りとなる。 122系統 本港営業所前・三号岸壁前・上波止・港北製鉄前・漁連本部前・新港北地区センター経由港北区役所前行 本港埠頭から工業地帯を走破して港北区役所に至る系統。内急バス本港営業所が運行。昼間の本数は2時間に1本と少ないが朝晩はかなり多い。ただし上波止までは区間便として毎時1本が確保されている。 132系統 宮前浜経由宮前駅行 本港海底トンネルを経由して平家原線国前宮前駅と本港駅をショートカットする系統。本数は朝晩を中心に多い。昼間は毎時4本運行。 その他 内急フェリー乗り継ぎについて 内急フェリーとの乗継の場合UTICA・スピードカードでの直通乗船は不可能である。そのため内急電車から内急フェリーに当駅で乗り換える際には事前に乗船券との引き換えが必要である。なおこれは早苗浦港、横江港、加倉港でも同様である。 内急線直通の連絡乗車券については通常切符・企画乗車券では発売しているがUTICAなどのIC乗車券では適用されないため発駅~当駅/本港~着港と運賃が本港でリセットされるので注意が必要。スピードカードでも同様。 乗船券未購入の場合 本港駅到着→本港駅構内フェリー乗船券販売窓口or乗船券発券機でUTICAをタッチorスピードカードを挿入→乗船券購入→フェリー乗換改札の簡易改札でUTICAをタッチorスピードカード・切符を改札機に通し乗船券を提示→フェリー乗船 乗船券購入済の場合 本港駅到着→フェリー乗換改札にUTICAをタッチorスピードカード・切符を改札機に通し乗船券を提示→フェリー乗船 内池本港到着の場合 本港埠頭到着→フェリー乗換改札にUTICAをタッチorスピードカード・切符を改札機に通し乗船券を渡す→電車乗車 本港駅0キロポスト 本港駅は内池港駅の後身であるが内池本線の0キロポスト位置は内池港駅時代から一貫して変更されていないため現在では本港駅埠頭第二岸壁前の海上になる。内池本線0キロポストの標識は本港駅南改札横の第二岸壁前に移設されている。 歴史 内池港駅 1904年3月12日 内池電気鉄道当駅~内池間の開通に伴い開業。当時は貨物輸送中心の駅でありフェリーは上波止に発着していた。 1937年4月1日 駅施設拡張完了。一部のフェリーが発着。この時点では内急フェリーの前身である新内池海送は上波止に本拠を置いていた。 1960年6月1日 内池電気鉄道を伴う内池の鉄道会社9社統合により内池急行に移管。新内池海送は社名を内急フェリーに変更し本社を港北区上波止から当駅構内に仮移転。上波止の旧社屋は敷地ごと隣接して本社を構える早苗薬品に売却し同社の研究棟となった。 1960年9月30日 内池電気鉄道時代から準備工事がなされていた本港新埠頭整備工事に伴う内池本線上波止新旧分岐点~当駅間廃止に伴い廃止。この代替として内急フェリーが建設中であった本港駅埠頭の優先使用権を取得。 本港駅 1960年10月1日 上波止分岐に本港駅仮駅開業。2面2線の相対式ホーム。当時フェリーは上波止駅南端の岸壁に接岸しており本港埠頭の整備まではフェリーは引き続き上波止発着であった。内急フェリーは本社を現在地に変更。 1963年6月15日 本港新埠頭整備完了に伴い仮駅から南に300mの位置に本港駅が正式に開業。内急フェリーは上波止から本港に発着地を移転し現在の形となる。 1989年10月1日 直通改札が自動改札化。現在の形の乗継制度が確立する。 隣の駅 内池本線 ■特急・特急はまもり・特急さなえ・■快速急行本港駅→新港北駅 ■急行・■快速・■普通本港駅→上波止駅
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コメントフォーム 何でもどうぞ。 早苗さんが相手だとJ2Cばら撒いてくることが多いのでモーゼの奇跡を入れておくと空中にいる相手を叩き落とせるのでいつもより1、2枚多めに入れておくといいかも (2009-08-25 10 07 50) コメント