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Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反対し、交渉が進まなかった。 こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として朝鮮への派兵を計画し、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣するという征韓論を閣議決定した。しかし、帰国した岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通らがそれに反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)という。 しかし征韓論に反対した大久保らも、朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 江華島事件 大久保らが実権を握っていた日本は1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮を開国させた。朝鮮は当時清の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われた。 独立党と事大党の対立 江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきた。 壬午事変 1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。 1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。 長崎事件 1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化した。 甲午農民戦争 1894年5月に朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。朝鮮政府はこれを鎮圧するため、清に派兵を要求した。このとき、天津条約に従って日本側に派兵することを通知した。 日本は、その時政府と議会との激しい対立により政治的に行き詰まっていたが、対外的に強硬にでて事態打開をはかろうとした。加えて、清によるこれ以上の勢力拡大を恐れていたため、朝鮮政府からの派兵要請を受けていないにもかかわらず、壬午事変の結果締結された済物浦条約を根拠として公使館と在留邦人の保護のために1万人規模の大軍の出兵を決定した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民の要求をほぼ全面的に受け入れ、6月10日に停戦したTemplate 要出典?。 日清戦争開戦 甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化した。 日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まった。なお、宣戦布告は8月1日である。 なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。 宣戦 thumb|200px|right|[[伊東祐亨]] 日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。 「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」 戦争の経過 7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。 講和条約 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 条約の主な内容は次の通り 清は朝鮮が独立国であることを認める。 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。 このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子がある。 三国干渉とその後 当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。 戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。 台湾では、日本を快く思わない清朝の役人が、日本の統治を妨害するため、台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北した。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始した。 年表 1894年 5月 朝鮮政府、甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を清朝に依頼 5月31日 内閣弾劾上奏決議案が衆議院で可決され、伊藤内閣が倒閣の危機に直面 6月2日 在韓邦人保護を名目として日本軍の朝鮮派兵を決定。衆議院を解散。 6月5日 大本営を開設し、朝鮮への派兵を開始 7月16日 日英条約改正(日英通商航海条約)が実現 7月20日 朝鮮政府に対して清軍の撤兵を要求する最後通牒を発令 7月23日 旅順西海岸の制海のため連合艦隊が佐世保を出港。 7月23日 日本軍が漢城(ソウル)に入城し、朝鮮王宮を勢力下に置く。 7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件) 8月1日 日本・清国が互いに宣戦布告 8月26日 日本は朝鮮に圧力を掛け親日政権を樹立、共同で清国に対処する方針を採らせる。 9月15日 明治天皇が戦争指揮のため広島に移ったことに伴い大本営も移動(広島大本営)。 1895年 3月 遼東半島全域を制圧 4月17日 講和条約締結(下関条約) 4月23日 三国干渉により遼東半島を返還 戦闘 豊島沖海戦 7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津洲」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇し、戦闘が始まった。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。 日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行い、清国兵が停戦命令に従わないため、「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。 豊島沖海戦による、日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。 なお、「高陞号」を撃沈したことによって、一時英国の世論が沸騰するが、英国が日本寄りの姿勢だった事もあり、イギリスの国際法の権威、ウェストレーキおよびホルランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙をとおして伝わると、英国の世論も沈静化する。 成歓作戦・牙山作戦 6月9日に清国軍が牙城に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。 両作戦の日本側の死傷者は82名なの対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。 なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。 平壌作戦 8月に清国軍は平壌に1万2千名の兵員を集中させる。9月15日に日本軍が攻撃を開始する。攻略に当たっていた日本軍の歩兵第18連隊長佐藤正大佐は銃弾を受け左足切断の重傷を負う。同日午後4時40分に清国軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。ところが、清国軍は、約を違えて逃亡を図る。同日夜に日本軍が入城する。 黄海海戦 詳細は黄海海戦 (日清戦争)参照。 黄海上で遭遇した日清艦隊は、9月17日12時50分に「定遠」から攻撃が開始される。日本側は連合艦隊司令長官伊東祐亨中将率いる旗艦「松島」以下8隻と第一遊撃隊司令長官坪井航三少将率いる旗艦「吉野」以下4隻であるのに対して、清国艦隊は丁汝昌提督率いる「定遠」「鎮遠」等14隻と水雷艇4隻であった。日本艦隊は、清国「超勇」「致遠」「経遠」等5隻を撃沈し、6隻を大中破「揚威」「広甲」を擱座させる。日本側は4隻の大中破を出し、旗艦「松島」の戦死者の中には勇敢なる水兵と謳われた三浦虎次郎三等水兵もいる。 この海戦で日本側が勝利したことによって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。 鴨緑江作戦 10月25日払暁に、山県有朋率いる第1軍主力は渡河作戦を開始した。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧する。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領する。 旅順攻略戦 10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か1日で陥落することとなる。 日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して敗退する。 攻略そのものは問題なかったが、その後の占領において大きな問題が発生した。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(同年12月12日付)により、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺された人数については諸説あるが、実際に従軍し直接見聞した有賀長雄は清国民間人の巻き添えが有ったことを示唆している。現在、この事件は旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。 この事件は外交的に大きな影響をもたらした。当時はアメリカと不平等条約改正を交渉中の最中であり、この事件により一時アメリカ上院には条約改正は時期尚早という声が大きくなり、重要な外交懸案が危殆に瀕した。陸奥宗光はこのため『ニューヨーク・ワールド』に弁明せざるを得なくなる事態に陥ることとなった。 山東作戦・威海衛作戦 1月20日に日本陸軍は栄城湾に上陸する。行軍中に歩兵第11旅団長大寺安純少将が戦死する。2月2日に威海衛を占領する。 2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本水雷部隊は清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。2月9日に「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈する。2月12日に丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決をする。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命する。このことは、通常例を見ない厚遇であった。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督とともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。 日本軍の損害 脚気 玄米を主食としていた海軍では脚気による死者はほとんどいなかったが、陸軍の兵士の主食は白米であったため罹患者・約4万人、病死者・数千人だった。陸軍の戦死者は数百人(資料により人数は異なる)であり、脚気による病死のほうが多かった。当時、脚気の原因が解明されておらず、陸軍軍医制度を確立した石黒忠悳や陸軍軍医総監であった森林太郎が脚気の原因は細菌であるという伝染病説に固執していたことなどによる。 日清戦争当時は補給路が確立されておらず、兵站が滞ることがしばしばであった。平壌の戦いでは野津師団長以下が本国では乞食でさえ食わないという黒粟や玄米などで飢えをしのぐ場面が度々であった。 凍傷 当時の日本陸軍は、まだしっかりした冬季装備と厳寒地における正しい防寒方法を持っておらず、結果として冬季の戦闘で多くの将兵が凍傷にかかり、相当な戦力低下を招いた。日清戦争後、この教訓を基にして防寒具研究と冬季訓練が行われるようになった。そうしたさなかに発生したのが八甲田雪中行軍遭難事件である。 日本軍の兵站 村田銃による小銃規格の統一 欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていた。だが、各軍(日本の場合は旧藩)がそれぞれの基準によってバラバラに輸入を行ったために、さまざまな国籍・形式のものが混在してしまい、弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。 明治13年(1880年)、日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。陸軍はこれを村田銃と命名して全軍の小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていたわけではなかったが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていたため、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能となった。 一方、依然として小銃の混在状態が続いていた清国陸軍では、部品の補給などに手間取ってしまうなどの混乱が生じてしまい、日本軍の攻勢を食い止めるだけの火力を揃える事が出来なかったのである。 その他 海外では日清戦争の事を第一次中日戦争と呼んでいるが、実際には日本軍と中国軍が戦ったのは歴史的に見れば3度目である。一度目は白村江の戦い、二度目は文禄・慶長の役である(元寇は通常モンゴル帝国扱い)。 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦は、順に1894年、1904年、1914年と、下一桁が4 の年に始まっており、また十年毎の戦争のためか死の三十年という語呂合わせもある。 参考文献 陸奥宗光 中塚明 校注 『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂ワイド版岩波文庫255 岩波書店 ISBN 4-00-007255-2 陸軍省 編 『日清戦争統計集』 海路書院 ISBN 4-902796-32-5 檜山幸夫 編著 『近代日本の形成と日清戦争』戦争の社会史 雄山閣出版 ISBN 4639017359 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、ISBN 4480857222 斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003、ISBN 4-8295-0336-X〈2003〉 外部リンク 清国ニ対スル宣戦ノ詔勅 戦史 日清戦争 日清戦争 1894–1895(北海道大学スラブ研究センター) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月1日 (日) 03 22。
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/38.html
日清戦争で清国兵はどんな残虐行為を働いたんだ? 日清戦争の時の旅順攻略で日本軍の第二軍の第一師団は本当に虐殺を行ったのでしょうか? 日清戦争当時の日本はいわゆる三景艦を建造しましたが、3000トン級の艦を四隻建造するのではなく、5000-7000トン級の艦を2-3隻建造するという案は検討されなかったのでしょうか? 日本は日清戦争中、広島に大本営を置いていたそうですが、なぜ東京でなく広島に置いたのでしょうか? ラッパ兵が死んでもラッパを離さなかったという話があったと思うのですが、どんな話か知ってる人いたら教えていただけるとありがたいです。 浪速艦長時代の東郷大佐のとった処置である、 日本軍が「捕虜になるぐらいなら死ね」といっていたのは、日清戦争のときに捕虜になったら死んだほうがマシと思えるようなことをされたからですか? 日清戦争の時に、清軍は辮髪をしていたために髪に火がついて悪戯に死者を増やしたためそれから辮髪を廃止したって本当ですか? 「西太后が清朝を滅ぼした」という言い方は正しいの? 日清戦争における清国側の勝利条件は何だったのでしょうか? 戊辰戦争で榎本武揚が艦隊を率いて脱走した際の旧幕府の海軍力について,よく「東洋一」と表現されているのですが,明治政府の海軍力は清より劣っていて,日清戦争当時でも劣勢だったとも言われています.清が1870~80年代にかけて急速に,海軍力で日本を凌駕したということですか? 捕虜になったら死んだほうがマシと思えるようなことをされた事件って? 日清戦争の時日本は遷都したとか? 日清戦争で日本が勝った要因は何なんでしょうか? 旅順虐殺って実際にあったの? 中国の今の国旗は五星紅旗ですが、日清戦争時代の清国海軍は軍艦にどんな旗印をつけていたのでしょうか? 清は経済力の点で日本を凌駕しているので、本気になれば日本を上回る大海軍を建設することができたでしょうか? 日清戦争で清国兵はどんな残虐行為を働いたんだ? 捕虜の処刑 (戦後送還された日本軍の捕虜はわずか兵士1名と軍夫10名に過ぎません…) 日本兵に対する残虐行為・死体の損壊 (死体から略奪したとか、死体をバラバラにしたとか…) 虐殺された日本兵を目撃した兵隊は皆復讐を誓ったと 上記「凱旋紀念帖」には記載されています。 (65 名無し軍曹) 日清戦争の時の旅順攻略で日本軍の第二軍の第一師団は本当に虐殺を行ったのでしょうか? 結論から言えば、確かに日本軍は市街で殺戮を行っています。 日本側の証言として野沢三等軍医の日記に聞き書きとして旅順港陥落後に 民間人が老若男女を問わず惨殺されていたことが記されています。 また、この殺戮に関して陸海軍士官素養会が発行した「凱旋紀念帖」では、 市街の家屋に紛れ込んだ敵兵が軍服を脱いで民間人に偽装していたためやむを得ずそれらしき 人間を引きずり出して処刑したことを外国人が誤り伝えたものと著述しています。 上記「ワールド」の記事などもありこの行為は外交問題になっていました。そのため 国内では極秘扱にされていましたが、実際は「万朝報」や「中央新聞」といった新聞でも 報道されていました。もっとも、清国側の残虐行為に対する報復として 国内的にはまったく問題にならなかったようです。 (以上ソースは「日清戦争」檜山幸夫著・講談社刊) (65 名無し軍曹) 日清戦争当時の日本はいわゆる三景艦を建造しましたが、3000トン級の艦を四隻建造するのではなく、5000-7000トン級の艦を2-3隻建造するという案は検討されなかったのでしょうか? 明治初期の日本は清国を仮想敵国として整備しました。 ところが、戊辰以来日本は戦乱続きで、しかも他の近代化のための国内資本を 整備する必要に迫られて、軍費に回す余裕が無く、明治十五年に天皇のご沙汰を 三条太政大臣を通じて諸大臣に通知し、諸費倹約して漸く、軍費に回すことが出来ました。 その結果、高千穂、浪速、畝傍の三隻の巡洋艦を発注出来た訳です。 以後、海軍は毎年のように、甲鉄艦の新造を要求し、明治18年に甲鉄艦8隻を 要求して削られ、次いで6000t級の海防戦艦2隻と、4000t級海防艦4隻を要求して これもまた政府に容れられず、明治21年に6,500tの海防艦1隻、2,000t級モニターを 4隻を要求しました。 明治18年の要求については、妥協の結果、三景艦を建造することで折り合いが着いた訳です。 (74 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本は日清戦争中、広島に大本営を置いていたそうですが、なぜ東京でなく広島に置いたのでしょうか? 電信だけでは、戦況の把握が出来ないのと、確か電信自体も、 広島~東京間の敷設しか出来ていなかったのではないかと記憶しています。 日清戦争は、日本にとって清という大国に戦いを挑む乾坤一擲の戦争であり、 情報把握の少しの遅れが敗戦に繋がりかねないと言う危惧があったため、 広島に大本営を設置しました。 また当時は山陽線(山陽鉄道と言ってましたが)がこの広島まで伸びていたので、 情報の結節点となり得た訳です。 日露戦争は、軍の調整機構としての天皇が必要なくなり、或程度の経験を持ったためも有ったのではないかと思います。 (95 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ラッパ兵が死んでもラッパを離さなかったという話があったと思うのですが、どんな話か知ってる人いたら教えていただけるとありがたいです。 キグチコヘイ で検索 (92 666) 浪速艦長時代の東郷大佐のとった処置である、 1・A国から脱走した犯罪者を艦内に匿い、引渡要求を拒否。 2・交戦状態となったA国兵を乗せたB国船籍の船を警告の後、撃沈。 の二つのケースは、現在の国際法ではどういう判定になりますか? 高陞号事件なら、事実が違っている様な…。 日清戦争の開戦劈頭、英国所有の商船「高陞号」が清国兵、大砲、弾薬を輸送しているのを 日本海軍が発見し、戦時国際法に従い、接収を宣言するも清国兵は乗組員を脅した為、 やむなく高陞号乗組員の退船を命じて後にこれを撃沈したというものですが…。 まぁ、まず日清戦争の様な状況が違法状態とされるのではないかと思いますが。 戦争当事国が第三国との傭船契約を締結し、その輸送中にもう一方の紛争当事国の臨検を受けた場合、 当該船は速やかにこれに従わなければなりません。 これを無視した場合は、威嚇射撃などを受ける可能性があります。 でもって、戦争当事国の強制という状況で、警告を繰り返し、それでも臨検に応じなければ、 最終的に撃沈に至っても問題はありません。 但し、撃沈に際して、乗組員の保護と、敵国兵員の速やかなる救助が求められるでしょう。 特に後者は、これを無視すれば、国際法上、甚だ難しい状況に陥ります。 また、第三国の船主に対しては、その船舶の対価は賠償しないといけないのではないでしょうか。 (114 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍が「捕虜になるぐらいなら死ね」といっていたのは、日清戦争のときに捕虜になったら死んだほうがマシと思えるようなことをされたからですか? 日清戦争に於いて、1894年11月8日、旅順~大連間の双台溝と土城子の近郊で、日本軍 騎兵隊が清国軍に襲撃され、戦死者11、負傷者35の損害を出しました。 この時、中萬中尉などの首は切断され、死体に陵辱を受ける事件が発生していますので、 多分このことが発端かと思います。 (123 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日清戦争の時に、清軍は辮髪をしていたために髪に火がついて悪戯に死者を増やしたためそれから辮髪を廃止したって本当ですか? 辯髪は清朝を築いた満州族(女真族)の風習で、清内の漢民族にも強制されました。 戦闘など激しく動く作業の時は、頭に巻いて邪魔にならない様にしていました。 辯髪が廃れたのは清朝が倒れて風習を強制していた満州族が力を失った為で、戦闘で火が点きやすかったからと言うワケではありません。 (475 593) 「西太后が清朝を滅ぼした」という言い方は正しいの? 最近の中国史研究では,従来語られてきたような西太后の悪事とされてきたことの多くが,根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており,むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている. 西太后の功罪としては,以下のことがあげられるだろう. 功績 ・19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し,アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功 ・国内勢力の調停者として内政を安定させつつ,近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった. ・従来,政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功. ・義和団戦争後,抜本的近代化政策である「新政」を実施,これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった. 彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたと,いう指摘もある. 罪 ・バランサーであるがゆえに,なかなか抜本的な改革が出来なかった.清朝の旧態依然とした構造が保持されることになる. これは,宮廷内で排外勢力が台頭した際に,八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる. ・皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと, そのため,政治系統が複雑化し,彼女自身は引退したかったにも拘らず,自身の存在が不可欠になってしまい,死後の混迷の原因をつくった. ただし抜本的な近代化は,清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった. 結果として,20世紀初めに実施された「新政」は,ソ連のペレストロイカと同じく,政権の屋台骨を崩してしまった. すなわち,清朝の最後の10年間に行われた,明治維新をモデルとした改革運動である「新政」により,中央への権力回収はかなりのレベルまで進展していた. 後に皇帝を称する袁世凱は,改革の最大の推進者であった. しかし皮肉なことに,地方政府の力を弱めるという改革の成功のため,地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまった. それが辛亥革命による清朝政府の瓦解へとつながることになる. (軍事板) 日清戦争における清国側の勝利条件は何だったのでしょうか? 清は朝鮮に於けるその宗主権を認めさせることが最大の目的でした。 元々、数度の事変によって、日本軍は敗北とは言わないまでも、清国軍相手に撤退を繰り返して いました。 このため、清としては、この際はっきりと領有権を主張し、清による朝鮮半島の領有を実現すると いうのが最終目標でした(英国もロシアの南下を阻止するために、清国に期待していた節もあり ますし)。 (201 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戊辰戦争で榎本武揚が艦隊を率いて脱走した際の旧幕府の海軍力について,よく「東洋一」と表現されているのですが,明治政府の海軍力は清より劣っていて,日清戦争当時でも劣勢だったとも言われています.清が1870~80年代にかけて急速に,海軍力で日本を凌駕したということですか? 【回答】 まったくその通り. 清国には李鴻章という人物がいて,彼によって清国の海軍は建設されたといっていい. 彼が1870年に直隷総督と北洋大臣(北の海の海軍大臣)に任命されてから,関税収入を利用して北洋海軍を急速に拡張している. 特に1885年に購入して北洋艦隊に配備された戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻は,世界的にも大艦と呼んでもいい立派な戦艦で,日本海軍にとって脅威だった. (軍事板) 捕虜になったら死んだほうがマシと思えるようなことをされた事件って? 日清戦争に於いて、1894年11月8日、旅順~大連間の双台溝と土城子の近郊で、日本軍 騎兵隊が清国軍に襲撃され、戦死者11、負傷者35の損害を出しました。 この時、中萬中尉などの首は切断され、死体に陵辱を受ける事件が発生していますので、 多分このことが発端かと思います。 (123 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日清戦争の時日本は遷都したとか? 明治27年、日清戦争の指揮のため一時的に大本営、帝国議会など首都機能が広島に移転、天皇陛下も広島入りしました。 翌年までの225日間、日本の首都が広島になっていたことになります。 広島大本営 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6 (346 295) 日清戦争で日本が勝った要因は何なんでしょうか? 当時の清の軍隊は満州族を中心とした「八旗」と漢人を中心とした「緑営」、さらにその中から 選抜した優秀な兵士による「練軍」、新たに募った志願兵による「勇軍」という四種類の軍隊が存在していた そのため組織力や団結力が欠如しており、その上指揮系統が不統一、士気が低いなど軍隊としての質は最悪 さらに日本と清では戦争に対する意気込みが全く違い、武器の面でも日本が自国製の村田銃を全軍に支給して いたのに比べ清では軍単位で小銃を緒外国からバラバラに輸入していたなど、 まぁ一言で言えば日本の勝利の要因は軍隊の質だったわけだ (607 903) 旅順虐殺って実際にあったの? 事実です。 日本の外交文書にしっかり、「旅順口虐殺事件」という名称で書かれ、英米でも、 "Port Arthur Atrocities"あるいは、"Port Arthur Massacre"と呼ばれています。 後、「参謀本部歴史草案十七」には、この虐殺の経緯と第二軍の弁明が掲載されて います。 但し、中国側見解の2万人虐殺は眉唾物というのが、現在の史学上の一般的な見解 で、実際には2,000名程度と言うのが妥当な数字と言われています。 (248 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 中国の今の国旗は五星紅旗ですが、日清戦争時代の清国海軍は軍艦にどんな旗印をつけていたのでしょうか? 1863年の海軍創設時は、皇帝の権威を表示するため、船首旗には黄地に青龍を置くことになっていましたが、 紆余曲折があり、緑地に黄色い聖アンドリュー十字が描かれ、中心部に三角の中に青龍が描かれる海軍旗が 制定されています。 ちなみに、緑地に黄色い聖アンドリュー十字は、海軍司令官に就任した英国人Charles Gordonの一門に伝わる 色だったり。 1872年11月10日に、この旗が清朝の公式海上用官用旗、海軍旗となりますが、1890年からは、中央の紋章部分 のみが取り出されて、矩形となり、黄地に青龍が描かれるだけの旗となりました。 これが、1912年の清朝崩壊まで続きます。 蛇足ながら、緑地に黄色の聖アンドリュー十字の旗は、中央に描かれた青龍が除かれ、海事税関旗となりました。 もの的にはこんな感じです。 http //www.nationalflaggen.de/flags-of-the-world/flags/cn-dragn.html (248 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 清は経済力の点で日本を凌駕しているので、本気になれば日本を上回る大海軍を建設することができたでしょうか? 清朝の対日海軍増強策は後手後手に回って、予算要求に対して支払いが追いついていません。 対日艦隊である北洋水師は確かに最新最強の軍艦で固めてはいますが、 ほかにも南洋水師・広東水師・福建水師も並行して増強せねばなりませんから とりあえず北洋水師を増強しつつ、型が古くなったら他の艦隊にお下がりする形式で増強をしました。 明治7年に沖縄の漁民が台湾の原住民に虐殺された征台の役において、 日本は即座に日進・筑波・孟春・龍驤を派遣しましたが、当時の清朝は対抗艦を持ちませんでした。 そこで翌年に、龍驤・虎威・飛霆・掣電の4隻をアームストロングから購入しますが これは機動力のある日本砲艦とは正反対に、固定砲のレンデル砲艦でした。 レンデル砲艦は主砲が旋回しないので、多数の船がないと使い物になりません。 しょうがなく、明治12年に鎮東・鎮南・鎮西・鎮北、14年に鎮中・鎮辺・海鏡清を購入して糊口をしのぐ形になります。 ようやく明治14年に念願の定遠・鎮遠を購入して形勢逆転となるわけですが 予算不足で3隻目の甲鉄艦は断念して巡洋艦済遠で我慢しなければなりませんでした。 今度は来遠・靖遠・致遠などの巡洋艦、平遠・超勇・揚威などの本格的砲艦の整備に時間がかかりまして 日清戦争勃発時には、広東水師から広甲・広乙・広丙などをレンタルして補充するなどしているので やっぱ足りてないと判断できるんではなかろうかと…。 (244 鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
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読み にっしんせんそう 正式名称 別名 和了り飜 2飜 牌例 解説 1、8、9、4を刻子又は槓子にした対々和。 成分分析 日清戦争の53%は株で出来ています。日清戦争の32%は電力で出来ています。日清戦争の6%は夢で出来ています。日清戦争の3%は勢いで出来ています。日清戦争の2%はミスリルで出来ています。日清戦争の2%は情報で出来ています。日清戦争の1%は乙女心で出来ています。日清戦争の1%は根性で出来ています。 下位役 上位役 複合の制限 採用状況
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日清戦争 ―― 東アジア近代史の転換点 ―― 藤村 道生 岩波新書 http //www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/8/4131270.html 日清戦争は,日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」へ転換させた.その意味で,日本近代史上画期的な戦争であった.アジアの民族同士が戦い,全アジアを近代帝国主義の分割競争にひらき,日本の民衆自身が帝国主義化した自国の政府のくびきにつながれる契機となった「痛歎すべき戦争」の全貌を,東アジア史の中で総合的に解明する. 7-2 台湾占領と抗日武装闘争 台湾の歴史・日台関係史
https://w.atwiki.jp/jap0/pages/82.html
★Point ①甲午農民戦争 @朝鮮 ↓ ②日清戦争 ↓ ③下関条約(結果:日本の勝利!) (1)認めさせたもの:朝鮮の独立 (2)もらった領土:台湾、遼東半島、澎湖諸島 (3)賠償金:2億両(3億円) ↓ ④三国干渉:遼東半島を清に返せ!byロシア・フランス・ドイツ ↓ ⑤中国分割 ★詳説 ①「日本の勝利」は強調して指導しましょう! 日清戦争で日本が清に勝利したことで、 日本は、清や朝鮮に対して優位に立つ(差別意識を持つ)ようになりました。 これが、1910年の「韓国併合」や1915年の「二十一ヶ条の要求」につながります。 ロシアが朝鮮半島を求めた理由も説明したほうがよいかも。 ②下関条約の賠償金について 下関条約でもらった額は、当初は3億1000万でした。加えて領土がもらえました。 三国干渉により、ロシアは遼東半島を占領しました。 このとき、日本は清に訴えました。「遼東半島をとられた。その代わり、お金をちょうだい。」 それは賠償として土地を獲得したのにもかかわらず土地(遼東半島)がとられた(実質もらえない)から、 もらえなかった分を償えという理屈から来ています。 そこでもらえた額が日本円に換算すると5000万だったというわけです。 最終的に、もらえた額が3億6000万というわけです。 →教科書だと「清から還付金が獲得され、合計3億6000万円に到達した」と表現されます。
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第二次世界大戦シナリオの改造。日清戦争を題材にしたシナリオ。 あらすじ 1894年 朝鮮をめぐる、日清両国の対立は臨界点に達していた。 東学党の乱に乗じて出兵した清に対抗し、日本も混成旅団を朝鮮に派遣する。 日清間の緊張が高まるなか、陸奥宗光外相は伊藤博文首相に強調した。 「(日清間は)到底不可避衝突なれば、我が勝利あるべき日に衝突するに 如かず」 開戦に躊躇していた伊藤だが、清でもやがて主戦論が台頭し、軍事衝突は時間 の問題となった。 7月19日、李鴻章は朝鮮への増援部隊の派遣を命令する。 開戦を決意した日本は、7月23日、佐世保より連合艦隊を出撃させた。 佐世保港外の帆揚岩付近に位置する汽船「高砂丸」にのって、樺山資紀 軍令部長は、二十二隻の軍艦の出撃を見送っていた。 「帝国海軍の名誉を掲げよ」 樺山軍令部長は、軍艦の姿が見える度、「高砂丸」に、しきりに信号旗を 揚げさせていた。 海軍力で勝る清に勝利する自信は、樺山にも連合艦隊にもなく、大国清との 戦いに、誰もが不安を感じていたのである。 -近代日本、最初の対外戦争である日清戦争がはじまろうとしていた。 (OPより) 入手先 戦国史旧作シナリオ復興委員会 備考 シナリオデータ シナリオ名: 日清戦争 作者: 秀也 現バージョン: - 最終更新: 2005年2月16日更新 動作環境: SE○ FE◎ 旧◎ 規模: 世界 開始年月: 1894年7月 大名家数: 73 城数: 424 武将数: 2128 攻略難易度表(難 S ~ F 易) S A B C D E F キャプチャ画像 リプレイサイト 関連項目 以下、加筆求む
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日清戦争の社会史 https //www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9940568894 書 名 日清戦争の社会史 副書名 「文明戦争」と民衆 シリーズ名 多巻物書名 原書名 出版社 発行所=フォーラム・A 著 者 大谷正 原田敬一 税込価格 2,650円(本体2,524円+税) 発行年月 1994年9月 判型 A5 ISBN 9784894280090 内容情報 [BOOKデータベースより] 日清戦争は近代日本の最初の対外戦争であった。この戦争は日本国民にどのように受けとめられ、日本社会に何をもたらしたか。戦争の実相に社会史の斬新な手法で切り込んだ本書は、日清戦争100周年にふさわしい共同労作である。 第1部 国民と戦争(日本国民の参戦熱;『自由新聞』の戦争メッセージ); 第2部 天皇の戦争(臨戦地広島の周辺;死者たちの日清戦争); 第3部 もうひとつの日清戦争(都市東京と軍夫;「文明戦争」と軍夫) 台湾の歴史・日台関係史
https://w.atwiki.jp/o-rod/pages/163.html
世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数(16世紀以降) 戦争及び大規模紛争 時期 死者数(人) 非戦闘員の 犠牲者の割合(%) ■主要な戦争での死者数 農民戦争(ドイツ) 1524-1525 175,000 57 オランダ独立戦争(対スペイン) 1585-1604 177,000 32 30年戦争(ヨーロッパ) 1618-1648 4,000,000 50 スペイン継承戦争(ヨーロッパ) 1701-1714 1,251,000 不明 7年戦争(欧州、北米、インド) 1755-1763 1,358,000 27 フランス革命/ナポレオン戦争 1792-1815 4,899,000 41 クリミア戦争(ロシア、フランス、英国) 1854-1856 772,000 66 南北戦争(米国) 1861-1865 820,000 24 パラグアイ対ブラジル・アルゼンチン 1864-1870 1,100,000 73 普仏戦争(フランス対プロイセン) 1870-1871 250,000 25 米西戦争(米国対スペイン) 1898 200,000 95 第1次世界大戦 1914-1918 26,000,000 50 第2次世界大戦 1939-1945 53,547,000 60 ■1945年以降の大規模武力紛争による死者数 中国国共内戦 1946-50 1,000,000 50 朝鮮動乱 1950-53 3,000,000 50 ベトナム戦争(米国の介入) 1960-75 2,358,000 58 ビアフラ内戦(ナイジェリア) 1967-70 2,000,000 50 カンボジア内戦 1970-89 1,221,000 69 バングラデシュ分離 1971 1,000,000 50 アフガン内戦(ソ連の介入) 1978-92 1,500,000 67 モザンビーク内戦 1981-94 1,050,000 95 スーダン内戦(1995年現在) 1984- 1,500,000 97 (注)Ruth Leger Sivard, World Military and Social Expenditures(1991,1996)による。 (資料)レスター・R・ブラウン「地球白書1999-2000」(1999) (出所)社会実情データ図録 (資料)社会実情データ図録(http //www2.ttcn.ne.jp/honkawa/) http //www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5228.html
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日清戦争(甲午中日戰爭) アセリア暦1894年から1894年の間に日本と清の間で起こった戦争。 江華島事件後の朝鮮では,急進的欧米化を進めようとする親日的な独立党と,漸進的改革を進めようとする親清的な事大党との対立が激しくなっていった。それとともに,独立党を支援する日本と事大党を支援する清との対立も表面化してきた。 1894年5月に朝鮮で,東学教団構成員の全琫準を指導者として民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争が起きた。5月31日には全州が陥落し,朝鮮政府はこれを鎮圧するため,清に派兵を要求した。日本は清によるこれ以上の勢力拡大を恐れて1万人規模の大軍を出兵した。事態の悪化にあわてた朝鮮政府は農民軍の要求をほぼ全面的に受け入れ,6月10日に停戦。農民軍は全州から撤退した。 甲午農民戦争の停戦後,朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが,どちらも受け入れなかった。それどころか,日本は朝鮮の内政改革を求め,朝鮮政府や清がこれを拒否すると,7月23日に王宮を占拠して,親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して,対立が激化した。 7月25日豊島沖の海戦で,日清戦争が始まった。なお,宣戦布告は8月1日である。 7月25日の豊島沖海戦の後,陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破った。9月14日からの平壌の陸戦,9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し,その後朝鮮半島をほぼ制圧した。10月に入り,日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り,第2軍も遼東半島に上陸を開始した。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月,清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し,3月には遼東半島を制圧,日本軍は台湾占領に向かった。 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き,清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし,日本は遼東半島の完全占領を目指していたため,この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で,日本側が伊藤博文と陸奥宗光,清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり,このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され,5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 大日本國大清國間ノ講和条約 大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ囘復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勳一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勳一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ 第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ 第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス 一 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼 二 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼 二項 清國ハ左記ノ土地ヲ日本國ニ租借シ該地方ニ在ル城壘兵器製造所及官有物ヲ日本國ニ割與ス 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼 第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ 二項 該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界線ヲ維持スヘシ 第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀貳億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス金額ハ都合八囘ニ分チ初囘及次囘ニハ毎囘五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初囘ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次囘ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初囘拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス 二項 但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ 第五條 日本國ヘ割與セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スル者ハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニヨリ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ 二項 日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ 第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ 三項 清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス 第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス 一 湖北省荊州府沙市 二 四川省重慶府 三 江蘇省蘇州府 四 浙江省杭州府 日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽舩ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ 一 楊子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル 二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル 日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ 第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ 第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ 清國ニ於ケル日本臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地税賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス 四項 此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス 第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤囘ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス 第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衞ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初囘次囘ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場所ヨリ撤囘スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終囘ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤囘セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤囘ヲ行ハサルモノト承知スヘシ 第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス 二項 日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種種ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス 第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ 第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル 大日本帝國全權辨理大臣 内閣總理大臣從二位勳一等伯爵 伊藤博文 印 大日本帝國全權辨理大臣 外務大臣 從二位勳一等子爵 陸奧宗光 印 大清帝國欽差頭等全權大臣太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隸總督一等肅毅伯 李鴻章 印 大清帝國欽差全權大臣 二品頂戴前出使大臣 李經方 印
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日清・日台戦争戦没者数 日清・日台戦争戦没者数(1)『日本軍事史』 (2)靖国神社戦争別合祀者数 (3)日清・日露戦争死傷者数、直接戦費等 (4)wikipedia日清戦争 (5)台湾征服戦争(乙未戦争) (6)「台湾の歴史 日台交渉の三百年」 (7)藤村道生「日清戦争」 (8)参謀本部「明治二十七八年日清戦史」減耗人員階級別一覧表 減耗人員師団別一覧表 戦闘ごとの「死傷表」 (1)『日本軍事史』 http //d.hatena.ne.jp/higeta/ 日本軍の死者の数も9600人(うち病死7600人)と、下関条約締結までの戦没者8400人(うち病死7200人)を上回った戦闘であった(高橋典幸ほか『日本軍事史』吉川弘文館、2006、326頁)。 (2)靖国神社戦争別合祀者数 http //www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM 日 清 戦 争 13,619 台 湾 征 討 1,130 ※この「台湾征討」が指すものは何か? ●1895.12.17 戦死者、戦傷死者を合祀する臨時大祭 ●1898.9.30 戦病死者を合祀する臨時大祭 (3)日清・日露戦争死傷者数、直接戦費等 http //www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM 日清戦争(明治27年8月~28年4月) ※この「期間」は引用者の不注意と思われます (1) 人 員 戦死・戦傷死 1,567名 病 死 12,081名 変 死 176名 計 13,824名 (4)wikipedia日清戦争 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.8F.B0.E6.B9.BE.E5.BE.81.E6.9C.8D.E6.88.A6.E4.BA.89.28.E4.B9.99.E6.9C.AA.E6.88.A6.E4.BA.89.29 損害 戦死 1,417 病死 11,894人 負傷 3,973 (右蘭) http //yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin3.html 戦死戦病死 1417名 病死 11894名 変死 177名 計 13488名 (5)台湾征服戦争(乙未戦争) http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.8F.B0.E6.B9.BE.E5.BE.81.E6.9C.8D.E6.88.A6.E4.BA.89.28.E4.B9.99.E6.9C.AA.E6.88.A6.E4.BA.89.29 この平定戦での動員兵力5万のうち戦死者は日本軍164人であるが、マラリア等による病死者は近衛師団長北白川宮能久親王はじめ4642人にのぼり、中国側兵士、住民およそ1万4千人の死者を出して終了した。[19] 19 ^ 原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 ISBN 978-4-00-431044-0 隅谷三喜雄「大日本帝国の試練」中央文庫「日本の歴史」22 ISBN 4-12-200131-5 (6)「台湾の歴史 日台交渉の三百年」 殷 允芃, 丸山 勝 (翻訳) 藤原書店 p285 伊能嘉矩は、日本軍上陸から全島制圧までの五か月間に台湾総督府に報告された台湾人の犠牲者少なくとも一万人に対し、日本軍の死者はわずか二百七十八人であり、「日本兵一人に台湾人五十人ほどが殉葬させられたことになる」としている。 (7)藤村道生「日清戦争」 藤村道生「日清戦争」岩波新書183ページ 表『日清戦争における損害』 死亡者 1894.7.25-95.5.30 1895.5.31-11.30 合計 戦死 736 396 1,132 傷死 228 57 285 病死 1,658 10,236 11,894 変死 23 152 177 合計 2,647 10,841 13,488 服役免除者 合計 傷病 1,584 疾病 2,174 刑罰 36 合計 3,794 184ページ 日本の動員した全兵力は24万0616名でほかに軍夫15万4000名を使役した。海外に派遣した軍隊は17万4017名で、常備兵力の1.7倍であった。10年後の日露戦争時の動員兵力108万8996名ににくらべれば、日清戦争の動員兵力は約5分の1で、実際の戦闘には戦列隊があたり、未教育兵を招集する必要は無かった。講和直後の5月30日までの日本軍の損害は、2647名であり(「日本」1895年7月5日)、戦争の全期間(1894年7月25日~翌95年11月30日)の1万3488名の約2割にすぎなかった。 なお 図書館で調べてみましたら、岩波新書の藤村道生さんの『日清戦争』1973では、陣没者数4,642人とされています(p200)。それに対し原田敬一さんの『日清・日露戦争』2007(p101)では、「台湾征服戦争」における日本の戦死者が164人、戦病死者4,642人とされています。同じ数字の意味が、「陣没者」から「戦病死者」へと変わっています。「陣没者」とは、「戦争で死んだ人」の意であって「陣地で死んだ人」ではありません。 藤村『日清戦争』1973(p200) 原田『日清・日露戦争』2007(p101) (8)参謀本部「明治二十七八年日清戦史」 国会図書館近代デジタルライブラリー http //kindai.ndl.go.jp/index.htmlから検索 [第7冊]第8巻 減耗人員階級別一覧表 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00007 KOMA=90 ITYPE=0 付録第120 減耗人員階級別一覧表 死亡 服役免除 合計 階級 戦死 傷死 病死 変死 計 傷痰 疾病 刑罰 計 軍人 将官 1 4 5 5 上長官 3 1 23 1 28 1 1 2 30 士官 34 12 131 7 184 13 5 1 19 203 准士官 7 17 1 25 3 2 5 30 下士 119 25 655 17 816 128 111 5 244 1060 兵卒 953 246 10757 150 12106 1439 2056 29 3524 15630 計 1116 285 11587 176 13164 1584 2174 36 3794 16958 軍属 奏任文官 3 3 3 判任文官 15 1 16 16 雇員 16 98 114 114 傭人 191 191 191 計 16 307 1 324 324 總計 1132 285 11894 177 13488 1584 2174 36 3794 17282 一、本表の人員は本戦役に関し明治27年7月25日より翌28年11月18日(内地服務者は5月13日)までの間に於て死亡し又は服務免除と為りたる者及同期間内に於ける傷痰(しょうたん)疾病に原因し該期間後三個年即ち明治31年11月18日(内地服務者を除く)までに死亡し又は服務免除と為りたる者とす ○戦死、傷死中には戦闘中にあらざるも敵の為に殺害せられまたは負傷療養中死亡せし者等をも含有す又変死は自殺若くは汽車転覆等に因り非命に死したる者とす ○服役免除は将校は退役、下士兵卒は服役(常備後備とも)及永久兵役を免除したるものとす刑罰は将校は剥官、下士兵卒は重罪の刑に処せられたる者なり ○雇員は下士以上の要員に充てたる者傭人は看病人磨工とす ○本表人員の外に減耗せし者若干あるも材料不完全なるに依り之を除きたり ○生死未詳なるも戦死若くは病死と認定せるものは各々其項に合算せり ●原文はカタカナ。「傷痰」「磨工」は字形読み取り要確認。 ●上表はおそらく「軍夫」を含まず 減耗人員師団別一覧表 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00007 KOMA=91 ITYPE=0 付録第120 減耗人員階級別一覧表 死亡 服役免除 合計 戦死 傷死 病死 変死 計 傷痰 疾病 刑罰 計 近衛師団 198 35 2093 19 2345 106 193 1 300 2645 第一師団 174 69 834 4 1081 481 492 5 978 2059 第二師団 121 13 2670 19 2823 96 148 8 252 3075 第三師団 270 82 1043 34 1429 424 287 9 720 2149 第四師団 1469 11 1480 14 219 5 238 1718 第五師団 311 71 1612 66 2060 355 389 4 748 2808 第六師団 45 13 1317 12 1387 96 424 3 523 1910 臨時特設部隊 11 2 717 10 739 12 21 1 34 774 常設部隊及官衙 2 139 2 143 1 1 144 總計 1132 285 11894 177 13487 1584 2174 36 3794 17282 一、戦地派遣の憲兵科将校下士兵卒の減耗は其所属不明なるを以て憲兵司令部の区画に合算せり (引用者注) ○ 朝鮮に最初に派兵された混成旅団の編成は、歩兵11連隊と歩兵21連隊。第1軍編成とともに歩兵第九旅団となり第五師団の隷下。 ○ 第1軍の編成は、第三師団と第五師団。 ○ 第2軍の編成は、第一師団、 第二師団、 混成第十二旅団(第六師団内)。威海衛攻略戦のとき残りの第六師団が参入。 ○ 近衛師団と第四師団は、4月講和条約調印直前の征清大総督府設立時に旅順へ派兵。 ○ 台湾征討には、最初近衛師団が上陸、後に遼東半島にいた第二師団より混成第四旅団を抽出増派、さらに後備歩兵第一旅団(第二師団残部か?)、第四師団の後備歩兵28個中隊、ほか臼砲隊、工兵隊、要塞砲兵隊、憲兵隊などの部隊も投入。 ●損耗総数 17282人は、減耗人員階級別一覧表と一致 ●おそらく「軍夫」は含まず 戦闘ごとの「死傷表」 参謀本部篇「明治二十七八年日清戦史」1~6巻の付録には、戦、闘詳報に基づくものでしょうか、弾薬兵器の損耗集計と併せて、各戦闘における「死傷表」が添えられています。 見落としがあるかと思いますが、以下です・ 第1冊第1巻 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00001 KOMA=131 ITYPE=0 第2冊第2巻 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00002 KOMA=253 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00002 KOMA=263 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00002 KOMA=265 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00002 KOMA=267 ITYPE=0 [第3冊]第3巻 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=179 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=181 ITYPE=0 [第3冊]-4巻 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=401 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=404 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=406 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=408 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=410 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00003 KOMA=412 ITYPE=0 [第4冊]第5巻 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00004 KOMA=254 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00004 KOMA=256 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00004 KOMA=259 ITYPE=0 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00004 KOMA=262 ITYPE=0 [第5冊]第6巻 第七篇 山東半島ノ作戦 第八篇 南清及直隷ニ対スル作戦 第九篇 平和克復 http //kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014351 VOL_NUM=00005 KOMA=250 ITYPE=0 これらの統計(A群とする)には、「戦病死者」も「戦傷死者」もありませんので、戦闘直後の報告に基づくものとおもわれます。それに対して前掲の第8巻付表120(B群)は、「戦病死者」「戦傷死者」「服役免除者」を3年後の明治31年11月18日をカウント規準としていますから、この統計は3年後に統計を取り直したものと解すべきです。したがって、単純にA群とB群に加減乗除をなすことは避けるべきかと思います。 2、ただし、A群からB群をどう導いたのか、数字の事後補正をどのように行ったのかの詳細がわかれば、それにしたがって両者の数字を対照することは可です。 3、ただしA群は、B群全体と対照するには反欠け状態です。「第8巻 第十篇 台湾ノ討伐」の付録には「死傷表」はありません(あるいは本文中にあるのかもしれませんが今のところ見つかりません)。 台湾の歴史・日台関係史