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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 はじめに 1 公文書館 2 慰安所の統制 3 ジャワ 4 スマラン―スマラン慰安婦事件 5 ムンティランからマゲランへ 6 スマラン市内からフロレスへ 7 ジャカルタ(旧バタビア) 8 スマトラ 9 ボルネオ島ポンティアナック 10 バリ島 11 ハルマヘラ 12 セレベス(現スラウェシ) 13 アンボン 14 モア島 結びにかえて 民族、人種 レストラン、バー、慰安所 時代区分 注 文献目録 日本語文献 外国語文献 オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表 国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD] 国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA] Ⅰ.蘭印高等裁判所検察局公文書 1945-1949 Ⅱ.オランダ軍情報局[Netherlands Forces Intelligence Service: NEFIS] Ⅲ.A.F.X. Vos de Wael 公文書コレクション 外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ] 公文書請求番号: Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer 1 公文書請求番号: Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer7(42) 『「慰安婦」問題調査報告・1999』index
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今日の訪問者 - 「慰安婦」問題 調査報告・1999 目次 刊行にあたって 3 政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」--『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 和田春樹 7 防衛庁防衛研究所蔵《衛生・医事関係資料》の調査概要 波多野澄雄 33 「半島女子勤労挺身隊」について 高崎宗司 41 雲南・ビルマ最前線における慰安婦たち一死者は語る 浅野豊美 61 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 89 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ/ウィリアム・ブラッドリー・ホートン 107 著者紹介(PDFリンク) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソースは 財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金) http //www.awf.or.jp/ (内)「慰安婦問題」調査報告・1999 PDFファイル1 http //www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf 日本政府による調査と公開資料の概要
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 はじめに 慰安婦に関する文献、図書は近年数多く出版されているが、一次資料や信頼のおける資料を丁寧に検討して書かれた物は滅多に無く、多くは急速に変化する証言や新聞記事を、基本的資料にして書かれている。この状況は、公文書の欠如ということにある程度起因しているとはいえ、研究者や著者の政治的恣意により、戦史や慰安婦の歴史を容易に操ったり否定したりする結果を招き易くし、このことが歴史の中で慰安婦の理解を困難なものにしている。 既に周知されていることではあるが、オランダは他の国と比較し、BC級戦犯裁判で多くの日本人を「強制売春」容疑で起訴、有罪判決を下している1)。このことから、オランダに所蔵されているインドネシア地域関連の公文書が、慰安婦に関する信頼の高い資料の1つであると思われた。オランダBC級戦犯裁判の売春に関する裁判の中でも、特に資料が多いスマラン慰安婦事件に関する判決文及び法廷尋問書は、『朝日新聞』がオランダ国立公文書館[Algemeen Rijksarchief、略称ARA]から入手し2)、1992年8月30日付け朝刊でその一部を公開した。しかしながら、その後出版された図書または論文を見ても、十分に公文書を検証した研究はほとんど無いといった状況である。例外的に、1993年オランダ議会の第二院に提出するためオランダ政府内務省官僚バート・ファン・プールへイスト[Bart van Poelgeest]3)が調査、執筆した報告書があり、これは英語及び日本語にも翻訳され、慰安婦研究の叩き台になったといっても過言ではない4)。プールヘイストがおこなったオランダ所蔵の公文書調査は、閲覧した資料の広範さ、またその情報を迅速に発表したといった点に於いて未だに貴重な文献であるが、この調査には、いくつかの重要な問題点があることも指摘しておく。 第1に、プールヘイストの調査目的が、「強制売春」とオランダ人女性に関することのため、焦点がヨーロッパ人と印欧混血人[Eurasian]5)に限られてしまっている。インドネシア人、中国人、日本人6)、朝鮮人女性に関する記述は、完全に欠落しているか、たとえ言及されても偶発的な記述のため、オランダの公文書館に非ヨーロッパ人の慰安婦に関する十分な資料が所蔵されているか否か、未回答のままになってしまった。第2にプールヘイストの調査の議論は、「強制」7)と「非強制」売春に分割する事の必要性から発展させなければならなかったため、この「強制」と「非強制」というカテゴリーのアプリオリによって、プールヘイストがいくら客観性を希求しようとしても、結局主観的な議論に終わってしまっている上、この単純な分割が当時の複雑状況を覆い隠してしまっている。このような問題のため、プールヘイストの調査は、多く「事件」に触れたこと以外では、インドネシアにおける慰安婦の全体像を描き出し ―107― ているとは言い難い。 第3に、議会提出用に作成された政府文書という性格上、調査が政治的な文脈の中で書かれたものであるということは否めない。調査が政治的な物であるという事は例えば、オランダ、オランダ領東印度、また日本で売春は違法であったといった単純な歴史の誤認からでも明らかである。これは、反売春が全世界的な法律だったという歴史背景を「作り」、日本は「世界的に受け入れられた」制度に違反していたということを周知させる政治的意味合いがあった。ここで簡単に当時の状況を説明すると、1925年に日本は、婦人に対する強制売春募集及び未成年者8)の売春禁止をうたっている1904年及び1910年パリ条約の改正版を、また1920年ジュネーブ「婦女子売買禁止国際条約」を受け入れた。だが、日本が署名した条約には、年齢規定に関して植民地を除いており、その上この条約は、婦女子の「国家」間移動に関してのみの適用であったため、日本と日本の植民地間の「国内」売春を目的とした女性の移動は明らかに可能であったらしい9)。 オランダ領東印度の売春に関しても、プールヘイストの記述のような状況ではなかった。まず、公娼制度存在についてだが、1874年以降は自治体当局の責任下に置かれたものの、19世紀を通じて公娼制度は存続していた。軍人のための特別な娼館でさえもその当時存在していた。リアウ諸島にいた日本人娼婦はオランダ海軍から避妊・性病予防用の器具を提供されさえしていた10)。オランダ領東印度のような軍隊の娼館は新考案施設となり、日本でも、1918~20年のシベリア出兵の際、性病管理のため初めて作られるようになった11)。1910年代になりようやくオランダ領東印度の状況に顕著な変化がおこった。公序良俗(公的道徳)法の導入により、1911年に地方権力による(売春婦の)検診は中止になり、1913年には公娼制度に終止符が打たれた。1913年以降、オランダ領東印度にいた多種類の売春婦の法的地位は不透明になったが、結果として権力が、小規模におこなわれている売春を規制する手段をほとんど失い、結局オランダ支配の終わる最後の年まで、売春は盛んにおこなわれたのであった12)。 しかし、たとえプールヘイストの調査や議論に政治的な背景があり、歴史的背景に不理解があったとしても、彼の報告書の調査価値を消去してしまうというわけではない。ただし、読者や研究者の注意深い丁寧な精読と、彼の使用した資料の再検討は最低限必要である。 第4に、プールヘイストは、調査報告書の文末に、オランダ公文書館所蔵の資料請求番号を参考資料として列挙しているが、引用資料の注が無いため、彼の報告書を指針として使用する研究者は、結局列挙されている膨大な参考資料をすべて検証する必要がある。また、注がないため、記述されている強制売春に関する1つの「事件」の説明が、例外的な1点の資料から再構築されているのか、或いは説明の正確性を期するため何点もの独立した報告書から議論されているのか、読者には判断しかねる点に問題がある。最後に、報告書には公文書に関する情報が(文末の請求番号以外)ないため、調査で使われた資料について、誰が回答者或いは尋問を受けた人物だったのか、またどのような趣旨で作られたのかといった資料の背景がまったく掴めず、漠然とした概観を得られるだけである。プールヘイストの報告書には単に「これらの資料は、ほとんどが戦犯と共犯者の責任を追及するバタビア臨時裁判法廷の証人、犠牲者、容疑者が提出した意見といくつもの判決文とそれに伴った資料からなっている」13)と記述するにとどまっている。故に、報告書の内容をそれ以上理解することがなかなか難しく、読者はプールヘイストの報告書の結論を信じるか否定するかのみ可能で ―108― あり、資料をもとにしながら自分の結論に導く事は不可能になっている。 今回おこなったオランダ公文書調査の主な目的は、慰安婦に関する歴史再構築の基本である公文書の識別と検証であった。多くの公文書は日本人のBC級戦犯裁判準備のためか、共犯者の調査のために作成された資料であり、これらの資料は明らかに目的が戦後の文脈で形成され、当時の世論感情を象徴する資料であった。公文書の識別と検証という目的の為に行った今回のオランダ公文書館調査の結果を報告するにあたり、当報告書は2本の基本的柱――①オランダに所蔵してある公文書の性格の説明、②公文書から得た慰安婦や売春に関する説明――で構成した。特に第2点目は、それぞれの公文書館で検証した資料の短い引用を含め、インドネシアをいくつかの地区ごとにわけ、慰安婦や売春について短い説明と補足資料で紹介してある。さらに、外交資料、蘭印高等裁判所検事局資料、オランダ軍情報局、Vos de Wael 公文書コレクション等の公文書と戦争資料研究所資料を合わせ5種類の公文書から得た資料情報に関しては、それぞれの請求番号と短い説明を含め一覧表にまとめ文末に補足として添付した。検証した公文書の情報を、できる限り正確に紹介することを趣旨としている当調査の性格上、情報の「混乱」を防ぐため、できる限りオランダ公文書の情報だけを使用し記述した。既に出版されている文献、図書のデータと突き合わせる試みはしていないが、基本的参考文献は記述することにした。当報告書の資料情報量は、決してプールヘイストの報告書に代替する物ではないが、当報告書での資料情報の引用、具体的注、また補足の添付一覧表が一般読者の理解と研究者の今後の調査の一助になればと考えている。 当調査の主題である慰安婦14)という用語に説明を加えると、慰安婦という用語は近年しばしば使われるが、最近名乗り出ている元慰安婦の証言の中で彼女たちの経験を「強姦」と表現していることから、慰安婦の解釈に幅ができている。このため、解釈の混乱を避けるため、ここで改めて慰安婦の定義をすることにした。慰安婦とは、軍が所有、経営、監督、或いは指定した「慰安所」または売春宿といった特定の場所において、「性的なサービス」を提供する女性と定義する。誰が慰安所を使用したか、またその場所が慰安所であったか否か等は、慰安婦の歴史という課題の包括的な議論では重要なことだが、この定義のなかでは、これらの要素は慰安婦の判断材料に必要ではない。邦人が使用する事を主目的としている軍指定の個人所有売春宿でさえも慰安所と考えることができる。しかしながら、実際のところ、ある特定の売春宿、バー、レストラン、ホテルがどのように計画また設置され、誰が所有して経営していたか、またそれが軍の管理下に置かれていたかどうか確認するのは難しいことである。加えて、幅広い設置状況だったため、はっきりした区別はほとんどないに等しかった。そのため当調査では日本占領下のインドネシアにおける売春に関する記述のある資料はどれでも、その情報内容が慰安婦に関連するものと考えた。邦人男性の愛人と慰安婦の違いさえも曖昧で、特に募集方法は関しては、概して同様の手法でおこなっていた。しかしながら、1つだけ明白に異なっていることは強姦である。強姦は個々人の性的暴力であり、組織が計画し実行したものではない。個々人の性的暴行の犠牲者である強姦の被害者は、被害者が慰安所の中にいた例を除いて、慰安婦の定義の枠外とする。 ここで少し調査の経過を説明すると、当調査は、1998年(財)女性のためのアジア平和国民基金の依頼により約6週間に亘り実施した。3ヶ所のオランダ公文書館に所蔵されている公文書を閲覧、識別、検証した。限られた時間と多量の公文書の ―109― ため、プールヘイストが報告書作成の際当たった資料の一部の検討にとどまった。閲覧した資料は、社会的に敏感な内容のため、また個々人のプライバシーを保護する必要性のため一般公開はされていない。プライバシー保護のためオランダの法律により、各公文書館が慰安婦関連の公文書資料の閲覧許可、閲覧した公文書から得た情報の回覧及び出版等の許可に厳しい制限をつけている。加害者及び被害者個々人の名前は社会的に敏感であり、その影響力を考え個人情報の保護に慎重な配慮がなされている。このようなことから当報告書でもやはり、オランダのプライバシー保護の立場を尊重、踏襲した15)。 本文に移る前に、調査した資料の性格を説明する意味も兼ね、それぞれの公文書館の特徴を紹介する。 注へ 次へ 【目次】
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今日の訪問者 - 従軍慰安婦庫 千田夏光・従軍慰安婦問題FAQ 「慰安婦」を「女子挺身隊」というは歴史無視の「思い違い」か 従軍慰安婦問題政府資料を読む 河野内閣官房長官談話 いわゆる従軍慰安婦問題について(内閣官房内閣外政審議室)1993.8.4 「従軍慰安婦」にされた人々 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 『「慰安婦」問題調査報告・1999』『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む 《衛生・医事関係資料》の調査概要 「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成) 雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る インドネシアにおける慰安婦調査報告 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 「慰安婦問題に対する日本政府の施策」平成19年4月「河野談話はゆるぎない日本政府の立場」という安倍首相発言を裏打ちする文書 敗戦後、慰安婦を看護婦に 共同通信2008年6月19日配信 リンク従軍慰安婦問題 15年戦争資料庫
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「慰安婦」問題調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p089_105.pdf 【目次】 はじめに(倉沢) Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題 1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 4 法律援護協会への登録 5 兵補協会による慰安婦の登録 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 7 インドネシア政府の態度 Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態── 1 慰安婦募集の過程 2 軍管理慰安所の状況 3 私設慰安所の場合 4 終戦後 Ⅲ 面接した元慰安婦たちの現状と償い金に対する立場 1 登 録 2 社会省の決定に対する態度 3 兵補協会の会長交代 おわりに──調査を終えて感じたこと── (付録)兵補協会登録慰安婦数 『「慰安婦」問題調査報告・1999』index
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD] 国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA] 外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ] 1998年6週間に亘り実施したオランダ3公文書館――国立戦争資料研究所、国立公文書館、外務省公文書室――調査で検証した資料のうち、慰安婦に関連した記述があるものを公文書の種類ごとにまとめ一覧表にした。表は、国立戦争資料研究所、国立公文書館(①蘭印高等裁判所検察局公文書1945―1949、②蘭軍情報局、③A.F.X.Vos de Wael)、外務省公文書室の順番でまとめた。 全表を通して、( )には筆者の補足説明を、[ ]には原文の綴りを記載した。綴りは、市町村以上の行政区域、抑留所名以外の固有名詞に付記した。 国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD] ※表には請求番号、公文書作成日、ケース発生年、場所の他、短い説明を記載した。 請求No. 頁 作成日(年.月.日) 発生年 場 所 内 容 000003 8 1946.1.8 1944 クンジャラン・キドゥル抑留所 スマラン慰安所への強制徴募。アンバラワ抑留所について。カナリ通り[Kenarilaan]での経験と将校倶楽部について。 000010 2 1946.1.8 1944 同上 同上 000012 9 1946.1.7 1944 スマラン抑留所 慰安所日の丸について。 000026 3 1946.1.12 1944 スマラン スマランの慰安所にいたオランダ人婦女子について。 000238 11 1944 スマラン 抑留所婦女子がスマラン慰安所へ強制的に連れて行かれたことについて。 3 記載なし 1944 同上 同上 2 1945.12.14 1944 同上 同上 2 1945.12.13 1944 同上 同上 1 記載なし 1944 同上 同上 1 1945.12.17 1944 同上 同上 1 1945.12.16 1944 同上 同上 000263 3 1946.4.3 1943-4 ムンティラン ムンティランとマゲランの慰安所へ強制徴募。 000270 2 1944 スマラン 慰安婦用婦女子の選考について。ブラカン・ケブン[Belakang Kebon]通りの中華ビルについて。 003437 4 記載なし ソロ 軍慰安所「フジ・リオカン」(富士旅館?)について。 004006 9 1944 スマラン 慰安所にいる婦女子への手助けについて。 009792 4 1946.3.18 1943-5 ポンティアナック ポンティアナック慰安所設置の情報。数人の証言を抜粋。 016380 2 1946.2.1 モア島 モア島の慰安所へ女性の補充。女性たちは父親の行動に対する処罰を理由にされ慰安所へ連れて行かれた。 016382 2 1946.1.13 1944-5 モア島 モア島慰安所計画者の説明と5人の強制慰安婦と1人の志願者慰安婦に関する情報。 016410 2 1946.7.24 記載なし バリ 地元女性を募集する数々の手法について。 017145 4 1946.6.18 1943 東南セレベス ポマラアとコラカの慰安所にいた女性に関する情報。東京に留学させてあげるとだまされて慰安婦に。 017161 2 1944 マカッサル? 1944年にできた新しい慰安所について。 017333 1 1946.3.19 1944 ジャンビ 女中のインドネシア女性が日本人男性と寝ることを強制されたこと。 018117 1946.11.5 1944-5 スマラン スマランで集められフロレス島へ慰安婦として送られた婦女子について。 018118 1946.12.11 1942 パダン? NEFIS日々報告: 慰安婦に強制的にさせられたオランダ男性の姪についての説明。 018206 2 1947.6.21 1942-5 パダン・パンジャン 1942年発生の少女強姦について。抑留所にて日本人が嫌がらせをおこなう。 パダン・パンジャンにある日本軍レストランでヨーロッパ人が強制され酌婦に。 018346 パダン インド人が慰安所としての機能があったサカリオ・レストラン、旧ソシエテイト・ドゥ・エインドラクト[SocieteitDe Eendracht]で慰安婦周旋。 019186 2 1945.12.15 記載なし マラン地区 レストラン、クラブへメナド人女性を周旋するメナド人とアンボン人の役割。印欧混血人、アンボン人、メナド人25人を使っているメナド人所有の慰安所。 019362 4 1946.7.18 1944 バタビアとクラマット抑留所 スマランからの女性到着。 019424 3 1946.3.27 記載なし スマラン 双葉荘/青雲荘、旧ホテル・ファン・ブラッセル[Hotel van Brussel]軍慰安所にいた1人の女性への救助について。 019429 1946.5.15 記載なし スマラン スマランのレストラン/慰安所について。医療状況。印欧混血婦女子を使い再開。 019448 3 1946.6.15 1943 バンニュワンギとボンドウォソ ボンドウォソにある数軒のホテルやバーを含む慰安所への募集。 019499 1945.11.16 記載なし スラバヤとムンティラン スラバヤの(ヨーロッパ人?) ダンスバンドリーダーが日本人のための「歓楽娘」提供に関与したことについて。ムンティランのケースについて言及あり。 019636 5 1946.3.1 記載なし ポンティアナック 女性関係に関する特警隊規則と慰安所の設置について。当初4軒、後6軒になる。内2軒は軍専用。 019902 2 1946.3.29 1943-5 ポンティアナック 特警隊、海軍慰安所のために女性を逮捕。住宅地に近接したパビリオン[pavilion]にあった慰安所について。インドネシア人女性、中国人女性との結婚禁止について。 020061 3 1945.12.22 スマラン ヨーロッパ人や中国人その他の男女の慰安婦周旋について。慰安所へ連れて行かれた女性について。 022053 28 1946.12.22 1943-5 バタビア 戦犯委員資料。バタビアのガン・ホーニング[GangHorning]慰安所の支配人裁判から裁判資料4点。 025545 3 1946.10.16 1944 スマラン 慰安所への女性選び。 025557 2 1946.6.9 1944 ハルマヘラ抑留所 「志願」と強制慰安婦。 025583 2 1946.3.22 1944 ハルマヘラ抑留所 オランダ人婦女子のスマラン慰安所への徴募 025640 1 1946.2.7 1943 ムンティラン 強制と「志願」慰安婦。 025646 1 1945.12.10 1944 アンバラワ6 婦女子慰安所へ連れて行かれる。 025647 1 1945.12.13 1943 アンバラワ [6] 慰安婦募集について。 025665 3 1946.3.8 1944 アンバラワ6 慰安婦に「選ばれた」女性に関する詳細説明。 025681 2 1946.7.6 1943 アンバラワ6 作成年月日は翻訳年月日であり証言の日ではない。慰安所への女性募集と抑留所の管理。 026502 1945.10.20 1944 アンバラワ4 慰安所ホテル・スプレンディッド[Hotel Splendid]とペンション・ファン・ブラッセル[Pension van Brussel]について。 027091 19 1949.2.18 1944 スマランとムンティラン 判決34/48。抑留所からスマランとムンティランの慰安所へ女性たちが連れて行かれた件に関する裁判。 032514 2 1946.5.11 1944 アンバラワ6 スマラン慰安所への徴募と、慰安所の状況、コタ・パリス抑留所、クラマット抑留所について。 034224 3 1948.2.24 1944 ムンティラン 慰安婦の募集について。 034228 3 1948.2.24 1944 ムンティラン 同上 034232 2 1948.2.25 1944 ムンティラン 同上 034235 4 1948.2.17 1943? ムンティラン 同上 034239 3 1948.2.18 1944 ムンティラン 同上 034348 1948.3.10 1944 ムンティラン 同上 034251 4 1948.2.13 1943-4 ムンティラン 同上 034255 3 1948.3.17 1943 ムンティラン 同上 034258 3 1948.3.16 1943-4 ムンティラン 同上 035054 3 1946.2.13 1944 アンバラワ4 ケブン・ブラカン[Keboen Belakang]の中華ビル慰安所について。慰安所への女性募集について。 035943 27 1948.3.24 1944 アンバラワとスマラン 判決文72/47。抑留所からスマラン慰安所へ女性徴募に関する裁判ケース。 046996 7 1948.9.11 1944 アンバラワとスマラン 判決文72a/47。抑留所からスマラン慰安所への女性徴募に関する裁判ケース。 060921 1944.8.28 1942-3 マランとカリジャティ NEFIS報告書。慰安所について。 060928 スラバヤ NEFIS報告書。慰安所について。 061830 1946.11.11 1942-4 バンドゥン バンドゥンにあった日本人将校用の慰安所とチハッピト抑留所?からの女性たちについて。将校倶楽部に関する記述。 080125 1946.10.21 1944 アンバラワ8 慰安婦募集について。 ―136― 国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA] Ⅰ. 蘭印高等裁判所検察局公文書 1945-1949 [Het Archief van de Procureur-Generaal bij het Hooggerechtshof van Nederlands-Indie,1945-1949:PG] ※ 頁の左側に位置する番号は公文書請求番号を示す。一つ一つのファイルには、多数の資料がまとめて入っているため、便宜上a.b.c.等のローマ字を付記した。短文は公文書の内容要約、或いは引用文の日本語訳である。プライバシーの保護を考え名前は伏せ字にした。 情報請求No. 場所 内 容 28 1945年8月までの地域ごとの「容疑者」一覧。英語。含む下記の資料。 28-a ジョグジャカルタ 1人のジャワ人慰安婦/スパイ。1943年の避難報告書から。 28-b スラバヤ 日本人将校用の印欧人女性とインドネシア人女性の周旋をした2人の兄弟について。情報は避難報告書から。 29 地区ごとの「容疑者」一覧。引用文の原文は英語。資料は下記の情報を含む。 29-a マカッサル ある著名なインドネシア人民族主義者。日本当局に協力するため設立した「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の書記官であった。彼は慰安婦として女性を斡旋した。この情報は1945年6月5日の避難報告書をもとに作成された。 29-b マカッサル 前出の「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の指導者と市助役について。共済会は女性を慰安婦に提供した。情報は1944年11月28日のもの。 29-c アンボニア ワヤン・スタンブルの元喜劇役者だった容疑者●●●●●●●婦人はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者として日本から任されていた。婦人は、この人身売買のため地元の少女を調達しただけではなく、このような目的にジャワ人の少女を向わせたことへの責任はあった。情報は1943年10月の避難報告書より。 29-d アンボン 容疑者はボルネオ島酋長[the headman]の娘。彼女はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者●●●●●●●婦人の手伝いをしていた。彼女は、アンボニアの憲兵隊日本人将校●●●●●●●の愛人であった。情報は1943年12月のもの。 30-a 1946年5月10日付けの文書には、日本人男性と関係のあった女性数人に関する情報が掲載。少なくとも1人の女性は、女性たちを日本人将校の手に渡した。 31-a ファイルには、ジャカルタの慰安所にいた女性たちを含め、戦争中の一部の女性達に関する情報が入っている。 31-b ヨーロッパ人女性を調達した2人のヨーロッパ人女性に関する情報。この2人は、ガン・ホーニング慰安所とペトジョ[Petodjo]のハンウェグ[Hanweg]の慰安所の支配人として活動していた。 32-a 日本人に女性を調達した女性達について。モーレン抑留所班長で、バタビアにあったキャピトル[Capitol](劇場?)の支配人について。 32-b 元警察官からのバンドゥンの状況報告。わずかながら慰安婦に関する記述もある。 32-c 既に拘留されている個人の情報。この資料は、強制的に女性を慰安所に提供したことで告発されている2名に関する記述も含む。 65-a 資料Nr.182、(1945年10月26日付け) 記述の一部引用。原文はオランダ語。「私は女性達が家からそして夜劇場から特警[PID]に連れて行かれたこと、また特警の関与で女性を慰安所に補充していたことも知っています。このようなことにあった女性のうちの1人●●●●●●●さんは、その頃この町のコリア通り[Koreaweg]に住んでいました。」 290-a 個々人に関する短い記述を集めたもの。記述の中には、4人のメナド人が周旋屋として(特に慰安所への斡旋)活動していたこと、バンドゥンで1人のオランダ人男性が日本人に女性を調達していたこと、マゲランの一個人が外島の慰安所への女性を募集していたこと等がある。 ―138― II. オランダ軍情報局[Netherlands Forces Intelligence Service: NEFIS] 請求No. 頁数 報 告 日 発生日 発生場所 内 容 BAS/5641 1 1948.4.12 バタビア 曙倶楽部(旧 t Hof van Holland)で働いていた1人の女性とその姉妹について、他の情報カード。 約35 1945~48 バタビア 情報カードに名前が掲載されていた(ヨーロッパ人?)女性が、産婦人科の診断書等を提出し自己弁護の説明記載。 BAS/5644 スマラン ホテル・ドゥ・パビリオン[Hotel du Pavillion]で働いていた女性についての短い記述。 BAS/5647 5 1946~48 バタビア バタビアのガン・ホーニング[Gang Horning]桜バーで働いていた女性に関する記述。 BAS/5651 1947.5.25 マラン 日本バー[a Jap bar]で働いていた2人の姉妹に関する記述。 BAS/5654 12 1947~48 スマラン 中国人と日本人がひいきにしていたセダン[Sedane]近郊にあったカロリナ・バーと他のレストランの経営者、キリスト教徒メナド人に関して。 BAS/5660 10 1946~52 バンドゥン 約30人のオランダ人女性とインドネシア人女性がいた慰安所ウェルへーレン[Welgelegen]に関して。ヨーロッパ人女性が支配人をしていた。慰安所はサイパン陥落後閉店になった。 BAS/5664 1 1946.9.7 ソロ ソロ市ヨーロッパ人コミュニティーの世話人の男性が日本人のため(慰安所の記述あり)若い女性を捜す手助けをしていた。 2 1946.5.28 サラティガ シン・コー・カン、バーク・エン・ダル[Berg en Dal]婦女子抑留所で抱えた問題についての説明。問題には、「道徳心に乏しい」女性と抑留所の周辺に散らかっていたコンドームがあった。「道徳心に乏しい」女性は一覧されている。 BAS/5693 5 1946.9.14 マゲラン 憲兵隊と共同で他州の慰安所へ女性を徴募した1人の男性について。 Bes/3/ 2 1947.1.13 1944-5 チハピット抑留所 日本人バーで働いていたある抑留者の日本人との関係。 Bes/5/ 5 1946.5.12 記述無 スラバヤ 慰安所へ女性を送る。 Bes/12/ 記述無 Prt.10/L:日本人に数人の女性を渡した人物の名前。 トゥレテス Prt.14/L: 1つの館にいた抑留者女性20人と印欧混血人女性9人を管理したインドネシア人について。売春に関しては不明であるが、戦後6人が妊娠した。 BM/1123 2 1946.5.27 1944-5 ゲンダンガン抑留所 抑留所からスマランの慰安所へ連れて行かれた1人の女性の証言。 BM/1124 1946.5.28 1943 同上 スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢18歳以上)について。 BM/1125 1 同上 1943 同上 同上 BM/1126 1 同上 1943 同上 スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢15歳以上)について。 BM/2469 1946.8.21 マラン 女性の補充に関与した1人のヨーロッパ人男性に関する記述。 BM/2743 1946.8.30 バタビア 日本人と共にバーや慰安所へ行った1人のオランダ人男性について。男性の叔母は慰安所を経営、若い女性を慰安所で働かせるため欺瞞しようとした。 BM/2824 1946.9. マラン 日本人の為に女性を捜した1人のヨーロッパ人女性について。 BM/2825 1946.9.4 1942 マゲラン 1942年に慰安所になった数軒のホテルについての記述。これらのホテルの経営者また支配人(含む1人のチェコ人、1人のスイス人)は女性を周旋また補充した。 ―139― III. A.F.X. Vos de Wael 公文書コレクション ♯ 報告日 記述されている場所 発生日 内容 1 1946.3.19 ボンドウォソ、ジェンベル 1942-3 女性の募集。 2 1946.3.21 ハルマヘラ抑留所 1944 慰安所のために強制慰安婦と志願者の徴募。 3 1946.3.14 スマラン 1942-5 スマランのオランダ人の若い女性の性病と中絶について。これらの女性は他の(オランダ人)女性によって日本人の為に集められた。 4 1946.3.15 バンドゥン 記載無 ウェルへーレン[Welgelegen]慰安所のオランダ人責任者。 5 1946.3.18 アンバラワ第8抑留所 1944 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 6 1946.3.25 ボンドウォソ、ジェンベル 1942-5 ジェンベルのホテル・ボンドウォソ/ジーン・ポール[Jean Paul]に日本人用バーの設置。日本人にヨーロッパ人女性と印欧混血人女性を提供。 7 1946.4.1 ソロ抑留所 1944 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 8 1946.3.18 アンバラワ第9抑留所 1944 慰安所への女性徴募と後日起こった抵抗。 9 1946.3.25 ムンティラン 1943 慰安所への女性徴募。 10 1946.6.5 バダビア 記載無 慰安所の「ハウス・キーパー」としての女性の募集。通訳はドイツ人女性。 11 1946.3.30 ソロ抑留所、ハルマヘラ抑留所 記載無 ソロ抑留所で慰安所への女性募集に対する抵抗という風説とハルマヘラ抑留所での慰安婦募集。 12 1946.3.29 ブロラ 1942 1942年5月強姦事件。 13 1946.3.29 スラバヤ、ゲダンガン 1942-4 日本人の為に女性周旋に関与したスラバヤ所在ホテル・ブリストル[Hotel Bristol]とバーの西印度人支配人と他のオランダ人。慰安所への女性の徴募はゲダンガンで1944年2月。 14 1946.3.17 アンバラワ第1/6抑留所 1944 1944年2月に慰安所用に女性募集。 ―140― 外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ] ※1つの公文書番号の中に幾点もの文書が収めてある為、便宜上ローマ字を付記した。 公文書請求番号: Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer 1 報告日 情報資料 発生場所 内 容 a 1946.8. 女性を斡旋したオランダ人男性の取り調べ依頼の書簡(下記の公文書請求番号voorlopig nummer 7, 文書d参照)。詳細の記載なし。 b 1946.7.26 スラバヤ 書簡。オランダ人男性が「海軍の慰安所設置の為日本人に手を貸し女性を集め強制的に慰安婦にした」という記述。 男性は1944年7月捕虜収容所にて死亡。 公文書請求番号:Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer7(42) Betrouwbaarheidsonderzoek 2 226a/938d 報告日 情報資料 発生場所 内 容 a 1946.9.10 NEFIS Ri/260/Geh. スラバヤ ある女性が将校倶楽部を開店しなければいけなかったことについて他のオランダ人女性からの報告。 b 1942.5. IGPGK バリ バリ人官吏報告書。デンパサールに電話で日本人将校用に10人の女性を補充するように(毎日?)命令があったこと。 c 1946.5.19 Nefis No.4087/AB2 バンドゥン? 日本人への女性周旋屋について。詳細記述なし。 d 1946.9.20 Nefis宣誓書 チマヒ 1人のオランダ人男性について。その男性がチマヒ近郊のチサルアにあった山荘ホテル、デ・ウィタ・ウィッケン[De Witte Wieken]の支配人あるいは経営者であったかとの質問。また、抑留される(1942年11月)以前、日本人にヨーロッパ人女性を含め、女性を提供したことはあるかとの質問。ベルヘルスト[Berglust]ホテルの記述もある。文書作成者はこの情報は真実ではないと疑っている様。 e 1946.9.4 H宣誓書 バリ バリ人官吏が日本人へ女性を斡旋したことに関与したことについて。 f 一連の短い報告書 バンドゥン 1944年4月から45年6月までバンドゥン市のコンコーディア(社交倶楽部)で働いていた「サービス・ガール」に関する一連の短い報告書。1945年6月、その女性が泥酔し、はめをはずしたため辞めさせられた。明らかに、日本人と性的関係を持ったことはなかった。 ―141― 注へ 【目次】
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/553.html
『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 注 ※[ ]には、資料に記載されていた固有名詞の綴りを、( )内には筆者の説明を付した。 茶園義男編『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、1992年、268頁。茶園によると、BC級戦犯裁判では、売春強要の罪でオランダが30人、アメリカが1人、また中国が1人に判決を下した。 『朝日新聞』の第1報は、1992年7月21日であったが、判決文の抜粋は1992年8月30日に掲載された。同様の判決文は(日本政府に)補償要求をしているオランダ人元抑留者及び捕虜からなる「日本の道義的債務団体」の弁護士により入手され、1994年1月25日、日本側弁護団に「オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件」の提訴証拠資料として提出。その後日本語に翻訳され『季刊 戦争責任研究』第3号、1994年(春季号)、44-50頁に掲載された。 著者バート・ファン・プールヘイストの名前に関しては、オランダ及び米国等で一般的に使われているオランダ人著者の引用方法を踏襲し、参考文献にはPoelgeest,Bart van.で本文にはファン・プールヘイストではなくプールヘイスト[Poelgeest]と記載する。 Poelgeest, Bart van. 1993. Gedwongen Prostitutie van Nederlandse Vrouwen in Voormalig Nederlands-Indie, Tweede Kamer, vergaderjaar 1993-1994, 23 607, nr.1. Sdu Uitgeverij Plantijinsraat, s-Gravenhage.──1994a." Report of Study of Dutch Government Documents on the Forced Prostitution of Dutch Women in the Dutch East Indies during the Japanese Occupation". Unofficial Translation, January 24, 1994.──「日本占領下蘭領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」、『季刊 戦争責任研究』第4号、1994b。 オランダ領東印度では、印欧混血人[Eurasian](直訳:欧亜混血人)という分類は法的な物ではなかった。法的には、ヨーロッパ人に認知された子どもがヨーロッパ人の法的地位を与えられた。公文書の記述も統一性がないため、印欧混血人という記述が特にない限り、この報告書ではヨーロッパ人は「純粋な」ヨーロッパ人と印欧混血人の両方を指すこととする。 「日本」は、現在の日本という枠組みではなく、当時植民地だった朝鮮、台湾等も入ることがある。報告書は、日本民族の枠組みを主題にしているわけではないため、「日本人」、「邦人」等の用語に対しては、流動的に使用している。ただし、「内地」といった場合に限り、沖縄を除く現在の日本を意味する。 Piccigallo, Phillip R. 1979. The Japanese onTrial Allied War Crimes Operations in the East, 1945-1951. Austin and London University of Texas Press.Groot, L.F. de, Oud-President Temporaire Krijigsraad Batavia.1990. Berechting Japanse Oorlogsmisdadigers in Nederlands-Indie 1946-1949, Temporaire Krijgsraad, Batavia. s-Hertogenbosch Art Research. Vol. 1.参照。「強制売春」が主題に選択された理由は、おそらく戦後インドネシアにおけるオランダ政府が「強制売春を目的とした婦女子の誘拐」を戦争犯罪としたため、「強制売春」に関する多量の公文書が残っていたからと思われる。しかし、当然の事ではあるが、公娼制や軍売春に対しては、強制という言葉を使うことによって社会の道徳コンセンサスを獲やすかったということも事実であり、それは伝統的に売春制度があるオランダのような国でさえ、大きな役割を果たしていた。 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、33-36頁。1904年版では未成年は20歳以下、1910年版では21歳以下と記述されているが、1925年に日本が受け入れた改正版では18歳以下となっている。 同上。 Hesselink, Liesbeth. 1987. "Prostitution:A Necessary Evil, Particularly in the Colonies. Views on Prostitution in the Netherlands Indies".Indonesian Women in Focus:Past and Present Notions. Edited by Elsbeth Locher-Scholten, and Anke Niehof, 205- 24, Verhandelingen van het Koninklijk Instituut voor Taal-, Land- en Volkenkunde, 127. Dordrecht-Holland Foris Publications. 216-7. 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書384、岩波書店、1995年。鈴木裕子「からゆきさん、『従軍慰安婦』、占領軍慰安婦」、『岩波講座 近代日本と植民地5』、岩波書店、1993年、234-6頁。 Braconier., A.de.1919."Prostitutie".In Encyclopaedie van Nederlandsch- Indie.Tweede Druk ed. Onder redactie van D. G. Stibbe, 511-15. s-Gravenhage Martinus Nijhoff, Leiden E . J . Brill 511-515. Hesselink, Liesbeth. op, cit., 1987:207.Ingleson, John. 1986. "Prostitution in Colonial Java", Nineteenth and Twentieth Century Indonesia Essays in Honour of Professor J. D. Legge. Edited by David P. Chandler, and M. C. Ricklefs, 123-40. Monash Papers on Southeast Asia, 14. Clayton, Victoria: Southeast Asian Studies, Monash University. 英語の翻訳はプールヘイスト、前掲、1994a。日本語の翻訳(プールヘイスト、1994a)はプールヘイスト、前掲、1994b。 現在では一般化しているcomfort station(慰安所)、comfort women(慰安婦)という語彙は公文書原文に記載されていない。基本的には当報告書で記述した慰安所は、公文書原文では売春宿、置屋、娼館という意味のbordeel(蘭語)、或いはbrothel(英語)、また yoshiwara(吉原)という記述である。また、公文書原文のmilitary brothel(軍売春宿)は軍慰安所、prostitutes(売春婦)は慰安婦と表現している。Ianjoとローマ字で綴った記述は1点見つかった。これに関しては、カタカナでイアンジョと表記した。 許可を迅速に得るため、当調査報告書の原文は英語で執筆し、日本語に直訳した。出版許可は、国立公文書館[ARA]、外務省公文書館[BZ]、国立戦争資料研究所[RIOD]の各公文書館責任者から、オランダ政府の閲覧条件に適っているか確認の上出された。この場を借りて、今回の調査及び報告書の許可手続の際、公文書館員および責任者の方々がご尽力くださったことにあらためて感謝を示したい。 Jaquet, Frits G.P. 1983. Sources of the Historyof Asia and Oceania in the Netherlands. Part II Sources 1790-1949. Muchen, New York, London, Paris K. G. Saur. 調査期間の最終時点で日本語の資料検討の為の閲覧依頼を申請し、これらの資料閲覧の許可を受けたが、残念な事に、許可はオランダを離れた後だったため、今回は資料閲覧検討は不可能だった。 Graaff, M. G. H. A. de and A. M. Templaars. 1990. Inventaris van het Archief van de Algemene Secretarie van de Nederlands-Indische Regeringende daarbij Gedeponeerde Archieven, 1942-1950. Deel III:Gedeponeerde Archievenvan Departmented Diensten, Commissies en Funktionarissen. Den Haag Alglemeen Rijksarchief, Tweede Afdeling参照。 この公文書はVos de Wael個人の報告書という事から、請求番号が付けられていないため、巻末補足資料には、便宜的に番号をつけて一覧表にしてある。 キャンディーは、南アジア及び東南アジア英司令官マウント・バッテン卿の本部があった。因みにインドネシアは1945年7月に東南アジアに参入された。 吉見義明、前掲、1992年、105-6頁。これは、北支方面軍及び中支派遣軍参謀長に宛てて出されている。この文書には、1942年日本占領下ジャワの初代第16軍指揮官今村均の署名も見られる。 早稲田大学 旧社会科学研究所にて閲覧。 RIOD 027091参照。 例えば、外務省公文書のNefis / CMI 1942-1949、Voorlopig nummer 7(42)、Betrouwbaar heidsonderzoek 2 226a/938dに見られるが、バンドゥン市外のホテル支配人に関する最初の報告書の記載は他の公文書でよく引用されているが、間違った情報であったようだ。 RIOD 060928参照。 バンドゥンの記述はNEFIS BAS/5600とVosde Wael #4に、マゲランはNEFIS BAS/5693とBM/2825に、スラバヤに関してはRIOD 060928とVos de Wael #2 13、そしてマランはRIOD060921参照。簡単な内容を巻末の一覧表にしてまとめてある。 Vos de Wael #1 6、RIOD 019448、NEFISBAS/5654。 RIOD 003437によると、当初は軍人以外が使用する事も許されていたらしい。複数のバーに関する記述はNEFIS BAS/5664。 NEFIS BAS/5664。 NEFIS Bes/5/にはスラバヤ、PG32にはバンドンの記述がある。スマランに関しては、後述スマラン~フロレス事件を参照。 RIOD 060921。 RIOD 060928。 抑留所の名前は、矛盾していることがしばしばある。例えばRIOD 035054を見ると、1人の被害者は、彼女を含め8人が第4抑留所(おそらくアンバラワ第9抑留所のことであろう)から、そして次に9人が第2抑留所(アンバラワ第1或いは第6抑留所)から、連れて行かれたとなっている。また判決文には、スマラン東、ゲダンガン、ハルマヘラ、アンバラワ第4、アンバラ第6の5ヶ所の抑留所が記されていた。 RIOD 000238(インタビュー322b)。 BURAM Box5、MHA-M、Vos de Wael#13参照。プールヘイストの報告書を含み、他の記述によると、ゲダンガン抑留所での抵抗は、大変厳しいものだったため、抑留所からは、「志願者」だけが連れて行かれたとされているが、NEFIS BM / 1123、BM/ 1125、BM/ 1126等の記述では、後日、志願者を集めたと書かれている。また、プールヘイストによるとハルマヘラ抑留所でも若い女性の代わりの志願者があったが、日本側が断っている。 これらの規則を確認できる資料はまだ発見されていないが、スマラン慰安婦事件の判決文によると、スマラン勤務の軍将校がこのような手続きを踏んでいたことを示している。(『馬来広報』のように)第16軍のインドネシア語『Kan Po』及び日本語『官報』にはこのよな規定はみられない。このような規則は、陸軍将校レベルで会報や軍内部規則のようなものを通して周知されたのかもしれないが、現在のところでは文書として残されている形跡はない。 吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、377頁。この日本占領期初頭から開設した慰安所は、ヨーロッパ人女性を抑留所から連れてきた慰安所と同様と思われる。1人は、1944年スマラン事件発覚のため慰安所閉鎖後東部ジャワに移動している。 この将校は、陸軍省俘虜管理部員兼俘虜情報局事務官の小田島薫大佐であった。スマラン慰安所の状況をしり、直ちに南方軍総司令部と第16軍司令部へ通知した。吉見義明、前掲、1995年、185頁参照。 RIOD 019429参照。RIOD 027091によると、慰安所経営者の陳述は、スマラン事件の判決文に第13番目の被告として出ている。1947年に日本政府により収集された情報によると、1942年8月には、既に慰安所を営業していた。吉見義明、前掲、1992年、377頁。 多くの情報は、民間人医師と1人の女性の1945年と1946年の間の証言から抜粋したものである(RIOD 000238参照)。この2人はスマランの地理を熟知していたため、情報は信頼のおけるものと考えられる。他の参照資料は、戦犯裁判の判決文である(RIOD 046943)。旧ホテルの所在地はInterlocale Telefoongids 1940を参考にした。 ブラカン・ケブン1番にあったホテル"H.Owa & Nederland"は、1940年にはタン・スウィ・スワン[Tan Swie Swan]が所有していた。 RIOD 000012によると、当初スマラン倶楽部へ連れて行かれた女性達は、1944年4月頃、1人は慰安所日の丸へ、他の女性達は将校倶楽部あるいは双葉荘へ移動させられた。この証言は、フロレス島の慰安所へ移送する女性を選考する直前、スマラン倶楽部が閉鎖されたことを指し示している(フロレス島の詳細は後述)。 判決文抜粋日本語訳は「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」、『季刊 戦争責任研究』3号、1994年、44-50頁。オランダ語一部Groot. op.cit.,1990. pp.32-38,pp.497-8. Pg.503、判決の概要は1992年8月30日付け『朝日新聞』及び内海愛子「『スマラン慰安所』事件」、『Indonesia2』1996年、1-18頁。内海愛子の詳細な説明は、スマラン慰安所事件の判決文及び陳述書からのものと思われるが、参考文献に記されている公文書請求番号を含め、この論文には多くの誤りがある。吉見義明が使用した資料は、朝日新聞社の提供、吉見義明、前掲、1995年、238頁。 RIOD 000003。 RIOD 000012。 RIOD 019424。この件では、最低2人の日本人男性がこのような手助けをした。そのうち1人の日本人は、1946年10月16日、スマラン市内のブル刑務所事件で死亡したと言われている。あるヨーロッパ人の証言によると、このスマラン「慰安所」事件の結果、何人もの憲兵隊員が地位を失っている。 RIOD 000238。 レストランに関する内容は判決文から引用。 1947年1月日本で自殺した時の遺書であった。吉見義明、前掲、1995年、188頁。 RIOD 034258、RIOD 034251参照。抑留所リーダーは、日本人たちに明確な反対意志表示をしなかったとか、日本人抑留所管理者たちに対してあまりにも「親しすぎる」といった、抑留所にいた他の女性たちからの非難に対して自己弁護することばかりを考えていたようだが、彼女たちの証言記録は概して信憑性の高いものである。多数の証言録を読んだ後、ヨーロッパ人抑留所リーダー達が、たえそれが不本意であったとしても、日本人に協力していたということが明確になった。他の抑留者による証言記録は、本文末の一覧表参照。 証人の説明には、ある程度話にくい違いがある。抑留所副リーダーの証言記述によると、15人の内、確かに8人は無理矢理連れて行かれたが、他の7人は、だいたい自分の意志で行ったことになっている。また、この副リーダーは、他の女性達が証言しているような警察署での「選考」に関しては全く覚えがないようである。またそのうち何人が戻されてきたかもはっきりしていないようである(RIOD 034258)。 ヨーロッパ人抑留所リーダーは、1月25日に日本人が「道徳観念に薄い」女性の名簿をリーダーに渡したと主張しているが(RIOD 034251)、抑留所リーダーの補佐は1月25日に連れて行かれた若い女性を返してもらうため、その後作成し日本人に渡したと認めている(RIOD 034258)。 Vos de Wael #9の文書のみ、この事件についての記述があったが、事件の発生日と事件に巻き込まれた女性の数は異なっている。 このケースが戦犯裁判で起訴された事は、Groot. op.cit.,1990年、35-38頁参照。 NEFIS BM / 2825。 RIOD 018117参照。 日本人社会の中では、この男性の流暢なインドネシア語とオランダ語は有名なことであった。インドネシアにいた他の日本人と異なり、日本人以外の人々とのコミュニケーションという点において問題がなかったようである。戦後、短い間ではあったが(有罪判決後、獄中で病死)、捕虜収容所に入っていた日本人の通訳として手助けをしていたようである。河合政「ジャワの日本人」、『大東亜戦史』蘭印編4、富士書苑、1968年、52-3頁参照。 この事件に関する論文は、Piccigallo 1979. op.cit., 内海、前掲、1996年参照、及びCase No. 76.1949. Law Reports of Trials of War Criminals, Vol.XIII.,122-25. London Published for The United Nations War Crimes Commission by his Majesty s Stationary Office。 同上の国連戦争犯罪委員会[UNWCC]発行のこのケース(Case No.76)に関する論文によると、基本法令は"Under the war crimes are understood acts which constitute a violation of the laws and usages of war committed in timeof war by subjects of enemy power or by foreigners in the service of the enemy, suchas.....7. Abduction of girls and women for the urpose of enforced prostitution." [「戦争犯罪とは、戦争中に敵国臣民或いは敵国に使用されている外国人によって、戦争の法規及び慣例に違反して犯された事実をいう、例えば..。7.強制的売いんのための婦女子の誘かい」]と書かれている(日本語訳、茶園義男、前掲、1992年、62頁)。このケースに関して、誘拐は明らかに存在しなかった。「貧困の打撃」という状況を経営者は私欲の為に「利用」したと裁判所は記述しているが、このケースは、戦犯というより民事ケースのようであった。ただし、この経営者のヨーロッパ人の愛人兼支配人が、日本人ではないことから何ら訴追されなかったことが戦犯裁判であるためとはいえ、そうではあるが。 PG 31参照。 例として、RIOD 017333の資料は、苦力の妻が日本人の愛人になるように強要された件は、慰安婦とは直接の関係がないが(プールヘイストの報告書には引用されていたが)、この事は、スマトラでの戦後調査で慰安婦問題がはっきりと顕れなかった理由を提示している。 RIOD 018346参照。 RIOD 018118参照。 RIOD 019636、RIOD 019902参照。他の資料は、5軒の慰安所と記されているが、慰安所の開設に関わった者の証言では合計6軒を増設したとなっている。回答者が関係者であった事から、6軒という証言が比較的信憑性のあるものと考え、本文では6軒を採用した。RIOD 009793には、シンカワン[Singkawang]、シンタン[Sintang]にも慰安所が作られたと記録されているが、これは上述の6軒には含まれていないと思われる。 RIOD 009793、RIOD 019902、RIOD 019636参照。 BZ Nefis/CMI 1942-1949、Voorlopig nummer7(42)Betrouwbaarheidsonderzoek 2 226a/938d参照。 この資料の内容はプールヘイストの報告には含まれていなかった。おそらく、問題の焦点がバリ人の女性で、ヨーロッパ人ではないためであろう。 RIOD 016410参照。 AS 5191参照。 この文書には慰安所をローマ字でIanjoと綴ってあった。 当報告書に記述してある原住民は、すべて公文書の記述nativesの直訳である。 PG 29。 RIOD 017145。 PG 29。 RIOD 016380、RIOD 016382。 Piccigallo, op. cit.. League of Nations. 1933. "Commission of Enquiry into Traffic in Women and Childrenin the East". Report to the Council.pp.103-104. 注へ 次へ 【目次】
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 13 アンボン 1943年10月から12月までの「BC級戦犯容疑者」尋問調書にアンボン島のバトゥ・ガントゥンにあった慰安所について短い記述があった74)。支配人は「ワヤン・スタンブルの元喜劇役者」で、地元の少女を慰安婦に徴募、ジャワの少女も雇っていた。2人の支配人補佐のうちの1人は他島有力者の娘、もう1人はアンボン憲兵隊将校の愛人であった。 注へ 次へ 【目次】
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 12 セレベス(現スラウェシ) この地域の売春に関する資料は数点保存されている。戦争中のオランダ軍情報局[NEFIS]資料は、原住民71)組織がマッカサル(現ウジュンパンダン)にいた日本人に協力して「日本人売春用」に、女性を集めるため助力した記述がある72)。他の報告書には若い女性達に、東京へ留学させると騙し、ケンダリやポマラアの慰安所へ連れていった。ポマラアとコラカの慰安所を目撃したという個人からの情報も入っていた73)。 注へ 次へ 【目次】
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 1 公文書館 オランダの慰安婦関連の資料は、次の3ヶ所の公文書館に所蔵されている。大半の政府組織、個人の公文書が保管されているハーグにある国立公文書館[Algemeen Rijksarchief、略称ARA]、日本占領期の資料の他、回想録や戦争に関連する研究に必要な資料が集められているアムステルダムの国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie、略称RIOD]、そしてハーグにある外務省公文書室[Buitenladse Zake、略称BZ]である。 上記の3館の中では、国立戦争資料研究所[RIOD]が一番資料整理がすすんでいる。RIODに所蔵してある1942~45年のインドネシアに関連する資料の量は、厚さにすれば40メートルにわたり、加えて約180人分の日記、約1万点の写真、無数の雑誌と小規模の図書館を有している16)。閲覧許可を公文書閲覧責任者から得た後、公文書館員が利用者の調査対象資料を探し、閲覧室に持ってきてくれる。公文書館員の補助を基本にしたRIODの閲覧のシステムは、利用者が数週間から数ヶ月という短い期間で、迅速に最重要な資料を閲覧する事を可能にしているが、これはあくまで公文書館員が認識している資料のみの閲覧のため、自分の研究に必要な資料を探し出すためには、実際かなり長い期間を要する。 RIODでの興味深い資料の1つに、多量に保管されている戦争中の諜報活動の情報を集めたオランダ軍情報局 [The Netherlands Forces Intelligence Service、略称 NEFIS ] の報告書がある。英語で書かれたこの報告書は、主に戦争中捕虜となった連合国の敵国(邦人)の兵士、インドネシア人兵補、インドネシア人市民の尋問から得た情報で、慰安所の所在地及び女性の移動といったことを含め幅広い事項に亘り、短い文章で端的に情報を記述してある。率直なところ、書かれている内容を過大に信用することは危険ではあるが、内容が他種類の報告書、戦後に書かれた回想録や手記の内容と一致する場合も多々あることは確かである。今回の調査では、RIOD所有のオランダ軍情報局資料の一部を閲覧、そのうち2点に、マラン、カリジャティ、スラバヤに軍慰安所があったことが記述されていた。ここには少ないながら日本語の資料も保管されているが、当調査の閲覧許可はプールヘイストが使用した資料に限るという制約があり、調査当初これら日本語の資料の閲覧許可が下りなかった為17)、今回の調査では調査対象にできなかった。 国立公文書館[ARA]には、売春及び慰安婦関連の資料が、いくつかの異なる公文書に所蔵されている。それぞれの公文書自体かなりの量がある上、記述のある資料は散在している。さらに、各々の公文書の出所が異なっているため、性質も異なっているということは、調査段階で最低限知 ―110― っておく必要がある。最初に紹介する公文書は、蘭領印度高等裁判所検察局公文書1945~1949年[ Het Archief van de Procureur-Generaal bij hetHooggerechtshof van Nederlands-Indie, 1945-1949、略称PG ]である。このPGは、プールヘイストが報告書を書き上げた後、整理し直され請求番号が変わったため、彼の報告書に使った資料を確認するには困難をきたした。さらに、プールヘイスト報告書には参考資料として、92点の資料番号が列挙されているが、その番号を「新旧整理番号の対照表」に照らし合わせてみると356点の資料になり、これはPG全体の24%におよぶ。第2番目の、蘭領印度総督府官房室公文書[AlgemeneSecretarie、略称AS ]だが、ここには広範囲の資料があり、中でもスマラン、ムンティラン、ブロラ事件等18)に関する日本人将校を始め、元オランダ植民地人や他のアジア人、民間邦人等の裁判関係資料は既に知られていることである。公文書の一部を既に日本人研究者が紹介していることや調査の時間を考え、今回の調査ではこの公文書は閲覧の焦点から除外した。第3の公文書は、オランダ軍情報局公文書(略称NEFIS)である。ここで所蔵しているNEFIS文書は、国立戦争資料研究所[RIOD]が所蔵しているNEFIS資料とはかなり性格が異なるもので、主な資料は戦後作成された個人情報ファイルであり、個人のプライバシーに関することが書かれた資料が多いのが特徴である。 第4の公文書は、A.F.X. Vos de Wael氏[略称Vos de Wael]の公文書である19)。この公文書の中で興味深い資料は、戦後オランダ領東印度からヨーロッパへ引き揚げる途中、オランダ人民間人に対してキャンディー(現スリランカ)20)でおこなった尋問資料である。また民間人に対しておこなったジャワでの尋問資料もある。尋問された民間人元抑留者や元捕虜は1942~1945年の間に抑留或いは収容されていたため、売春、慰安婦についての尋問内容はヨーロッパ人また印欧混血人女性の売春周旋、あるいは日本人男性の女性愛人の徴募に関した記述が多い。最も一般的な情報内容は、女性が数ヶ所の抑留所からスマラン市内にある4軒の慰安所に連れて行かれた、「有名な」スマラン慰安婦事件であるが、バーやホテルそして日本人への女性の補充に関係した人々について秘密裏に調査した身上書も含まれている。類似した内容の資料は他の公文書でも見つかったが、この公文書ほどまとまってはいない。第5番目は、外領省身上調査部[Het Bureau Antecedentendersoekvan het Ministerie van Overzeese Gebiedsdelen、略称BURAM]である。BURAMは給料の月額が1,000ギルダー以上の高級官吏、及びインドネシアに出入「国」した個々人の身上調査情報が集められた資料である。最後に、今回は調査対象にしなかったが、国連戦犯委員会公文書[The UnitedNations War Crimes Commission、 略称NWCC]がある。NWCCの中にはロンドンへ送付した資料も保存してある。 オランダ軍情報局[NEFIS]の戦争中作成した資料も含め、外務省公文書室[BZ]も、やはり慰安婦関連の重要な資料を所蔵している。今回の調査では、わずかな資料のみ検討する事ができたが、BZ所有のものは、他館とはかなり色合いの違う物があった。このことは文末の資料一覧表を参照にしていただきたい。 ―111― 注へ 次へ 【目次】