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長崎県山の神楽の代表的なものとしては、平戸神楽、壱岐神楽、五島神楽に大別されます。 五島神楽はさらに上五島神楽と下五島神楽に分けられ、その起源については明らかではありませんが 、明暦年間(1655年頃)福江藩、富江藩の藩主を中心にして編み出されたものと言われており、2つの神楽 の芸風にはかなりの相違が見られます。 上五島神楽は、新魚目地区、上五島地区を中心に歴代の神官によって伝承されていましたが、昭和54年 に上五島神楽保存会が結成され、幅広い活動をしています。 神楽としての特徴はメリハリのきいた律動的な舞で、素朴で勇壮、神楽本来の清々しい魅力を持っています。 以前は40種以上の舞がありましたが、現在は27種類の舞が伝承されています。 ※神楽・・・神道(しんとう)の神事(神に関する祭り事)において神に奉納するために奏される歌舞のことで、 神社の祭礼などで見られます。 当地においては10月から11月にかけて秋の例大祭(その神社にとって一番重要な祭りである例祭の 俗称)が行われ、上五島地区の青方神社では、毎年11月2日夕方からと、翌3日の午前にそれぞれ 舞神楽が奉納されております。
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五島うどんは、秋田の稲庭・香川の讃岐うどんと並び、「日本三大うどん」の一つに数えられ、 「幻のうどん」とも言われます。 日本三大うどんの根拠は、狩野近雄さん(元スポーツニッポン新聞社社長)の著書「好食一代」 の中で、九州大学・名古屋大学・慶応大学の教授を務め、横綱審議委員会の委員を務めた高橋義孝 先生から、日本三大うどんと称して頂いており、地元でもこのようにPRしております。 ※五島うどんの代わりに、群馬の水沢もしくは富山の氷見うどんをいれて三大うどんと称する説もあります。 また、「幻のうどん」については、今までは近代化された製造工場において天候に左右されることなく、 一年中うどんの製造が行われていますが、以前は手作業によるところが多く、乾燥施設も今のように空調 設備が整っておらず、天日干しによる乾燥のため、北風が吹く時期に生産が集中していたことと、完全手作り の夫婦二人だけでの作業で行っていたところがほとんどであったため、生産量が少なく、手に入れることが 難しかったため、幻と言われていたようです。 現在においても全工程すべてを手作業で行うと、一人で一日に54束、小麦粉にして約20kg分と言われて おります。 また、このうどんのルーツについては、五島列島が遣唐使船の寄港地であったため、中国から帰国する 遣唐使によって伝えられたとする説や、元寇の役に捕虜となり、五島に住み着いた中国人が教えたなど、 数多くの伝承が残っており、起源は定かではありませんが、大陸から伝わったのは間違いないようです。
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あご(飛魚)のだしで食べるのが一般的な食べ方です。 また、この地ならではの「地獄炊き」と呼ばれる食べ方もあります。 「地獄炊き」とは、生卵にネギやショウガ、削り節といった薬味を加え、醤油を垂らしかき混ぜた 中に、鍋の中でぐつぐつ煮えたぎる五島うどんをつけ、食べるもので、五島うどんを一番美味しく 食する食べ方かもしれません。 また、五島うどんを煮るときの煮加減は、壁や天井にうどんをぶつけて落ちなければ上等と 言われております。
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上五島洋上石油備蓄基地は、緊急時における石油輸入の滞りに備えて昭和59年(1984年)10月から 4年の歳月と総工費2000億円をかけ、昭和63年(1988年)に完成した世界初の洋上石油備蓄基地です。 折島(右側)と柏島(左側)を結ぶ防波堤に、長さ390m、幅97mの貯蔵船5隻を配備しており、最大440万kl を備蓄可能となっております。 これは、現在日本国内で消費される全石油量の7日分に相当します。 ※折島・・・上五島洋上石油備蓄建設のため、日本石油公団により全島が買収された折島は、キリシタン の島であり、昭和5年(1930年)からは、巡回教会も置かれておりました。 全島の買収に伴い、住民全ては青方地区へと移住しております。
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日本にキリスト教が伝来したのは、フランシスコ・ザビエルによる1549年のことです。 翌年の1550年にフランシスコ・ザビエルが平戸に上陸したのが、長崎におけるキリシタン の歴史の始まりだと言われています。 1566年、五島藩の第19藩主 宇久純尭(すみたか)公の庇護の下、布教活動が進められ、 五島における信者の数は二千人を超えたと言われます。 領主純尭公は、夫人とともに洗礼を受け、キリシタン大名となっています。 しかし、1587年に豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって、五島の教会が閉鎖されます。 1614年には江戸幕府によって禁教令が発布され、五島にも弾圧の手が伸びてきます。 以後、信仰は地下へと潜伏し、潜伏の時代として長い年月を生きていきます。 この潜伏期の1797年、五島藩の要請を受け、大村藩外海地方(現長崎市外海町)のキリシ タン農民第一陣、108人が信仰の自由と安住の地を求めて、五島各地に移住してきます。 その後、その数は三千人以上に達します。 しかしながらご覧のように、上五島地区は、土地は山の傾斜が急で、平地が少なく、開梱 して畑を拓くのは並大抵の苦労ではなく、厳しい弾圧の中、信仰だけが日々の救いであった と言われております。 さらに禁教令が解かれる寸前、1867年長崎の浦上に始まった弾圧の嵐(浦上四番崩れ)が ご当各地でも吹き荒れ、数百人の信徒が殉教しています。 特に、五島崩れと言われる五島市・久賀島の弾圧では、久賀島の宗徒200名近くが6坪の 小屋に押し込まれ、8ヶ月にも及ぶ期間監禁され、39名の方が牢屋で殉教したとされ、今 では牢屋の窄殉教地として、記念碑と記念聖堂が建てられております。 こうした迫害は五島全島に及び、ここ上五島でも各地でキリシタンへの迫害が相次ぎま した。 改宗を迫るため牢に入れられ、毎日、算責めや海中への逆さ吊り等の拷問が行われたそう です。 こうした迫害の嵐が収まりかけた1870年の1月24日の夜には、有川の郷士4名が鯛ノ浦 (鷹ノ巣)地区の寅吉方を襲い、寅吉の一家六人を斬るという、惨殺事件も起きております。 このような信仰の自由のない日本の実情が外国から非難を受け、1873年(明治6年)ついに 禁教令が解かれます。 1879年(明治12年)パリ外国人宣教会のマルマン神父によって、福江島の堂崎後に仮聖堂が 建てられ、ここを弾圧後の五島における宣教活動の拠点として、次々と五島の各地に教会堂 が建てられていきました。 現在五島には、49もの教会が活動しており、上五島にはそのうち29(そのうち、長崎県内 で使われている木造教会としては最も古かった江袋教会が平成19年2月の火事により消失。 現在は復元されています。)の教会があり、島の人口の約23%・約5800人の方がカトリック 信者として信仰を守っております。
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位置と面積・・・新上五島町は、九州の西端、長崎県五島列島の北部に位置し、中通島と若松島を中心とする7つの 有人島と、60の無人島から構成されております。 北は海上0.6kmを隔てて小値賀島に、南は海上1kmを隔てて奈留島に面しています。 本土には、奈良尾港から長崎港まで77km、有川港から佐世保港まで60kmの直線距離にあります。 総面積は213.93平方kmで、山林が73.6%、畑が16.5%、宅地が4%となっております。 地形・・・・・・地形は全般的に細長く、急峻な山々が連なり、平地は海岸沿いにわずかに広がっている程度で、 大きな河川はありません。海岸線の延長は429kmに及び、そこには自然海浜と複雑で変化に富んだ 地形が見られます。 また、東海岸の断崖と西海岸に広がる若松瀬戸の景観は非常に美しく、海と山の豊かな自然を擁 する本町は、その大部分が西海国立公園に指定されております。 気候・・・・・・対馬海流の影響で温暖ですが、台風の常襲地域でもあり、年間降水量は多くなっております。 人口・・・・・・平成21年10月1日現在で、男性11,040人、女性12,570人の23,610人、10,731世帯です。 平成26年8月時点での推計人口は20,148人になっております。 産業・・・・・・定置網、養殖などの水産業が中心となります。 歴史・・・・・・古くは旧石器時代からの遺跡も発見され、肥前国風土記などにも記述されているように人は早く から住み着いていました。 遣唐使船の寄港地として南路を通るようになった西暦776年第14回遣唐使船は青方に停泊した という、また804年第16回遣唐使船は第一船に弘法大師空海、第二船に伝教大師最澄が乗り、 青方港で一週間風待ちして南下し、福江島・三井楽から大陸に渡ったというように、その後も 朝鮮半島や大陸との交易、その関わりは深く、1500年代には中国の王直や倭寇の根拠地ともなり ました。 江戸時代においては、迫害を受けたキリスト教徒が新天地を求めて移住した土地の一つであり、 迫害を受けながら守り継がれた信仰は今も受け継がれております。 食・・・・・・・・豊かな水産資源を活用した水産加工品はもとより、日本三大うどんの一つに数えられる五島手延 うどん、伝統的お菓子のかんころもちや豆ようかんといった伝統的なお菓子類があり、島内に数 多く自生する椿の実を原料とした椿油や、豊かな海の恵を凝縮した「自然海塩」なども見逃せま せん。
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この地域は、石器時代、縄文、弥生時代の遺跡が各所から発見されており、その時代から人が住んでいた ことがうかがい知れます。 中心部は青方地区と呼ばれ、青方とは青い森林帯と盆地、入江の奥に干潟があり、これが青方の地名の 起こりと言われております。 その昔は街の中心部にあります石油備蓄基地記念館横の体育館辺りまで浜辺であったと言われております。 天然の良港に恵まれた青方港は、遠洋まき網船団の基地で、以前は多くの船団がこの地より東シナ海へと 操業しておりました。 また、日本最後の遣唐使船の寄港地でもあり、水や食料を補給し、青方の港などで風待ちをして出港していた と言われております。 この地区の有名な教会としては、青砂ヶ浦教会、大曽教会などがあります。
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頭ヶ島教会 青砂ヶ浦教会 大曽教会 江袋教会 中ノ浦教会