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諸葛亮北伐 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 趙雲(ちょううん) キン[革斤]詳(きんしょう) 陳式(ちんしょく) 魏(ぎ) 司馬懿(しばい) 曹休(そうきゅう) カク昭(かくしょう) 王双(おうそう) 呉(ご) 陸遜(りくそん) [おもな地名] 石亭(せきてい) 街亭(がいてい) 陳倉(ちんそう) 武都(ぶと) 陰平(いんぺい) 228年 諸葛孔明(しょかつこうめい)は呉の勝利の 報告を受けて再度魏への北伐を決意します。 しかし出兵を前にして訃報がもたらされます。 蜀の歴戦の勇にして最後の五虎将である 趙雲(ちょううん)が逝去します。 諸葛孔明は片腕の将軍が亡くなった事を大いに 嘆きます。 諸葛孔明は再度”出師の表”を書いて 戦いへの意気込みを述べます。 (後出師の表:存在しないとの説も有) 前回の戦いで蜀は北方の街亭(がいてい)付近を 完全に魏に奪われていました。 諸葛亮としては 前回 囮部隊として亡き趙雲が攻めた 陳倉(ちんそう)へ向かう陳倉道を 進むことを決定します。 魏にもこのことを先に予見して準備をしている 人物がいました。 第一次北伐で蜀を敗北に導いた男 司馬懿(しばい)です。 彼は事前に陳倉に突貫工事ながら強固な城を 作らせていました。(陳倉城) また、攻城戦において守りには 弓弩が必須であるとの事からそこに弓の名手である カク昭(かくしょう)を抜擢します。 いわば守りの達人を配置したわけです。 赴任した彼は堀を深くし、塁を高くし防備を高めます。 11月 孔明は迅速に数万の兵で陳倉城に迫り 城攻めにかかります。 陳倉城を守る兵は千人あまりしかなく、 また魏は先の呉との大敗で援軍をすぐに 出すこともままならない状況でした。 孔明はまず謀略戦に出ます。 カク昭の親友である蜀の将 キン[革斤]詳(きんしょう) を遣わして降伏と帰順をときました。 しかし、カク昭は首を縦に振らず交渉は決裂。 諸葛亮は強硬手段をとるに至ります。 諸葛亮はこの戦いで新兵器といわれる はしご車の「雲梯(うんてい)」、 大矢倉の「井闌(いらん)」 破城のための「衝車(しょうしゃ)」 などを駆使して攻め立てます。 カク昭はこれらの兵器が木製であることを みてとると、火矢や投石兵器などで応戦。 新兵器は無残にも燃えてしまいました。 蜀軍はただちにこの火に弱いという弱点を克服すべく 泥や糞尿を塗って防火対策を施した改良兵器で 攻めかかります。 しかし、20日あまりもの攻城戦にも関わらず 城は落ちませんでした。 孔明は補給の限界と敵の援軍の到来で 撤退をすることを決断します。 こうして、二度目の魏への侵攻は兵力の面では 勝る蜀がカク昭と強固な陳倉城の前に 敗れ去ることとなりました。 また魏の援軍が到着し追撃を行いますが 魏の期待の新鋭 王双(おうそう)が魏延(ぎえん)に 討ち取られるという大失態をおかし 魏は追撃を諦め撤退します。 229年春 孔明は陳式(ちんしょく)を派遣して国境の都市 武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を奪い 部分的勝利を得ます。 しかし、 これらの地はあまり大勢に影響の無い地で 諸葛孔明率いる蜀は、結局のところ大きな 成果は得ることは出来ませんでしたが、 一矢報いたという形にはなりました。 230年 魏は度重なる蜀の諸葛孔明の遠征に対抗すべく 新たに大都督となった曹真(そうしん)の進言で 先手をとって本格的に蜀への侵攻を開始しようとします。 曹真は長安(ちょうあん)を出発し 斜谷道(やこくどう)から、 司馬懿(しばい)・張コウ儁乂は宛(えん)を 出発し子午道(しごどう)から、 ともに漢中(かんちゅう)を目指し侵攻を開始します。 (魏による第一次南伐) 両軍は漢中(かんちゅう)で合流する 予定となっていました。 これは魏が準備して攻撃に出た戦いであり 戦力は圧倒的に魏のほうが多く 蜀最大のピンチというべき事態でした。 しかし、運悪くこの時長雨が続き 降り止むことをせず、一ヶ月以上降り続きました。 そのため魏軍は進退ままならない状態がつづき 漢中に集合することができず、孤立状態となります。 この頃、蜀軍はというと 第一次北伐より諸葛孔明と魏延(ぎえん)が 長安への進軍ルートでの意見の相違から 二人の間には徐々に溝ができており 魏延は別働隊として独自の作戦行動を望んでいました。 そしてちょうどこの時、諸葛亮は魏延に望みどおりに 別働隊として西方の涼州(りょうしゅう)方面の 羌中(きょうちゅう)への侵攻をまかせていた所 だったのです。 (蜀による第三次北伐) 魏延はわずかな期間で羌中をみごとに奪い、凱旋の途中に 魏の侵攻部隊と遭遇します。 諸葛亮は援軍を率いて駆けつけ挟撃をし 費瑤(ひよう)と郭淮(かくわい)を破ります。 こうして孤立した各部隊を 蜀軍が各個撃破する作戦をとったことで、 浮き足立った魏軍は各地で敗戦を重ねる事となります。 それを聞いた魏の明帝(曹叡(そうえい))は 作戦中止命令をだします。 これにより、天候を味方につけた蜀の勝利となりました。 魏の南伐は失敗、蜀の北伐はある程度は成功。 しかし、魏延の素晴しい活躍はあったものの 第二次北伐時の武都・陰平攻略と同様に 戦略的にあまり重要でない涼州を奪ったところで 魏と蜀の戦力バランスはあまり変わることは ありませんでした。 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) 鮮卑(せんぴ) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 魏延(ぎえん) 高翔(こうしょう)、 呉班(ごはん) 劉備(りゅうび) 魏(ぎ) 司馬懿(しばい) 郭淮(かくわい) 賈ク(かく) 魏平(ぎへい) 郭淮(かくわい) 張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい) [おもな地名・場所] 長安(ちょうあん) キ山(きざん) 下弁(かべん) 漢中(かんちゅう) 天水(てんすい) [位置関係地図] 涼州 │ <魏> │ ・天水 ・長安 │・キ山 ・下弁└───────┐ <蜀> ・漢中 │ 231年2月 諸葛亮は4度目の魏への戦いに挑むこととなります。 彼は過去三度の反省からかの有名な秘密兵器を生み出します。 「木牛(もくぎゅう)」「流馬(りゅうば)」と呼ばれる 輸送用の四輪車と一輪車です。 彼は兵糧補給の弱点を克服すべくこれらを開発しました。 (なお、諸葛亮はこのように戦略戦術だけでなく 防具・武具にいたるまで研究していたといわれています。 実際晋代における鎧は孔明の開発したものが あまり進化せず使われていたといわれています。) 蜀の漢中(かんちゅう)から魏の長安(ちょうあん)へ 向かうコースは5つ。その中で諸葛亮は 今回の侵攻のコースを第一次北伐と同じ 関山道をとおる一番遠いルートを選択します。 下弁(かべん)からキ山(きざん)攻略を 目指します。<位置関係地図参照> キ山では賈ク(かく)と魏平(ぎへい)が守る城を 包囲します。 また西方の異民族 鮮卑(せんぴ)からも援軍を 取り付けて、長安の北方よりかく乱のための攻撃を させることに成功します。 魏の司令官は曹真(そうしん)亡き後 司馬懿(しばい)がついていました。 長安から司馬懿は準備を整えて出撃します。 諸葛亮は隊を城の包囲軍と司馬懿迎撃軍の2つにわけます。 魏の先遣部隊の郭淮(かくわい)をなんなく撃破。 その勢いのまま司馬懿の主力と当ろうとした矢先 司馬懿は軍を天水(てんすい)の城に立てこもり 持久戦にでました。 これにより兵糧・兵力共にある魏は蜀の攻勢を 押しとどめることに成功します。 また、鮮卑による蜀への援護攻撃は大きな成果を得るには 至りませんでした。 打って出てこない魏に対し遠征軍の蜀は兵糧のこともあり 一部撤退を余儀なくされます。 蜀の撤退に対し、魏では司馬懿の消極姿勢に不満が起こり 司馬懿の思惑とは別に追撃をせざる得なくなります。 231年春 ついに防衛一方の魏の主力が追撃に動き出します。 しかし、蜀の諸葛亮はそれを予期していたのか 冷静に動き、魏延(ぎえん)、高翔(こうしょう)、 呉班(ごはん)の精鋭部隊を当らせて 魏軍を完膚無きまでに打ち破ります。 この敗戦により司馬懿率いる魏軍は 完全な防御を固め持久戦を決め込むことしました。 当然将兵からも不満はおきませんでした。 持久戦が続き、遂に蜀の兵糧はそこをつき 木牛の効果もあまりでないまま補給が続かず あえなく諸葛孔明は全軍撤退を決定します。 これをみた司馬懿はこれこそ追撃のチャンスと 歴戦の名将張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい) に追撃命令をだします。 張コウは異論を唱えますが容れられずに 追撃を開始します。 (三国志演義では張コウ自らの意思で追撃します。) 当然これも諸葛亮の計算の内にあり 伏兵を用意していました。 張コウは伏兵の矢にあたり戦死します。 この時、張コウ50歳でした。 名将の死に魏軍は追撃をあきらめ 蜀軍は無事帰途につきます。 この撤退により4度目の北伐も過去同様に 蜀軍は優位に戦い進めながらも あと一歩ならず悲願を達成できませんでした。 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 魏(ぎ) 曹叡(そうえい) 司馬懿(しばい) 呉(ご) 孫権(そんけん) [おもな地名・場所] 泰嶺(しんれい)山脈 五丈原(ごじょうげん) 合肥新城(ごうひしんじょう) [位置関係地図[簡易]] <魏> 陳倉 ・五丈原 ・長安 泰嶺山脈 ────────┐ ・漢中 │ <蜀> ├─────── │ <呉> 234年2月 総勢10万、蜀の諸葛亮は五度目の北伐を決行すること なります。 ルートは真中から魏の領土へ向かうルートである斜谷道。 険しい泰嶺(しんれい)山脈を越えるルートでもある この道を順調に進み無事通り抜けます。 そして平地である五丈原(ごじょうげん)に布陣しました。 当然補給の面でこの泰嶺山脈を超えて物資を送り続ける事は 困難であることは諸葛亮も計算していました。 まず、第四次北伐の時に使った木牛に加え 新兵器 流馬(りゅうば)を使い輸送手段を確保すると 共に、五丈原において農作を行いその場での 食料調達の準備も行いました。 これは長期戦に備えての事でした。 魏も30万の軍を用意して 司馬懿を司令官として送り込みます。 司馬懿は長安と五丈原の間に布陣し、砦を築きました。 魏もまた長期戦を考えていました。 司馬懿には皇帝曹叡(そうえい)からも ”堅く守るのみで攻めてはいけない”との命令が でていました。 過去4度の蜀に対する敗退で 魏は完全に守りに徹する策を選んだのでした。 両軍はにらみあったまま ほとんど動かず小競り合いがおきる程度。 諸葛亮も魏の出撃を誘い出すさまざまな 行動に出ますが魏は応じずません。 相手の動きに対して虚を突く軍事行動を起こすことが 得意な諸葛孔明としては 危険をおかして敵軍に対して突撃することは 出来ませんでした。 この戦いでの敗退は軍事力の小さい蜀にとって 即、蜀の滅亡に繋がりかねないのです。 234年5月 そんなおり、前回のお話である 呉(ご)と魏の戦い[合肥新城での戦い]がおきます。 蜀と同盟関係にある三国の一つ 孫権(そんけん)率いる呉が魏へ攻め込みます。 しかし呉は惨敗し撤退。合肥新城での戦いは 魏と蜀の戦いにたいした変化をもたらすことなく 幕を閉じます。 234年9月 蜀と魏が睨み合う事100日以上 秋の風が吹き冬の足音が聞こえようかとする時期。 変化は突然訪れます。 激務がたたった諸葛亮は突然倒れてしまいます。 234年10月 諸葛亮は床に伏したまま 帰らぬ人となってしまいました。 ただ、諸葛亮の死の際には 今後の軍事行動や方針、後継者など遺言されており、 蜀は整然と撤退を始めます。 諸葛亮の死を知った司馬懿も追撃を行いますが 突然の蜀の反転・反撃具合に まだ諸葛孔明は死んでいないのではと考え 追撃を中止し撤退しました。 これが後に 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という 名言となって残りました。 時に、孔明54歳。 遂に劉備以来の蜀の悲願である魏の討伐は 諸葛孔明の死を持って一時終わりを迎えました。 三国志の時代も新たな世代へと 物語はうつっていきます
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諸葛亮 姓 諸葛 名 亮 字 孔明 誕生年 181年 死亡年 234年 出身地 徐州琅邪郡陽都県 年表 年 所在 立場・事跡 出典 備考 ? 揚州豫章郡 従父の諸葛玄?が袁術により豫章太守に任命されると、弟の諸葛均?と共に豫章に移住。 蜀書・諸葛亮伝 ? 荊州 諸葛玄が劉表?を頼るとこれに従う。 蜀書・諸葛亮伝 諸葛亮伝の注には諸葛玄は劉表に豫章太守に任命されて赴任したが劉ヨウ?に負けて逃亡し、その先で殺害されたとあり、本伝と矛盾している。 ? 荊州南陽郡鄧県隆中 諸葛玄が死ぬと襄陽の西二十里にある隆中で農耕に携わり、徐庶?・崔州平?と遊学。 蜀書・諸葛亮伝 207? 荊州南陽郡鄧県隆中 劉備は諸葛亮を三度訪ねる。諸葛亮は天下三分の計を説き、劉備に従う。 蜀書・諸葛亮伝 208 荊州南郡当陽県長坂 曹操が荊州に侵攻。劉琮が降伏し、劉備は曹操の追撃を受けて敗走。諸葛亮も劉備にしたがって逃亡。 蜀書・諸葛亮伝 年月は武帝記による。 備考 名前 コメント
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ウィキペディアより引用します。 読むのが面倒だ!という方は日本における三国志の受容と流行までの文を読んでから 管理人が最後に書くまとめみたいなんでも読んでみてください。 といっても管理人もあまりよんでませんが。 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。 日本における三国志の受容と流行 正史の受容 『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。 天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。 神護景雲3年(769年)称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には[2]当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。 『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。 中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した[3]。 林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[4]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。 明治以降の正史に基づいた史伝として内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、正史を基礎とした三国志の解説書が多数登場し、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになる[5]。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。 三国志演義・大衆文化の受容 『三国志演義』の伝来時期は確定されていないが、江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。[6]林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した[7]。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった[8]。 『三国志演義』の日本語訳として、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』が刊行される。これは日本語完訳された初めての外国小説であり、満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』である[9]。同書は以後も再刊を繰り返し、葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子))の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 12年(1841年刊)が人気を博し、明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)がある。 明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、明治期には久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高い。戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973年 改版88年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社 1958年、徳間文庫 1983年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫 2003年)、渡辺精一『新訳三国志』(天・地・人の巻 講談社 2000年)があり、これらの訳本は改稿・重版を経て現在も通行している。 『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎においては早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。 洒落本では夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある[10]。 曲亭馬琴は羅貫中ら中国の小説家を崇敬し自らを羅貫中になぞらえており、読本の表現手法において『三国志演義』に負うところが大きい[11]。その一方、随筆においては関羽に対する辛らつなコメントを残している。 戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ[12]、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された[13]。 明治以後は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社 1940年)などがあるが、戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治の新聞小説『三国志』(『台湾日日新報』等に連載。単行本は大日本雄弁会講談社 1948年・六興出版 1956年)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調高い歴史文学として評価されている。また、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード(劉備をもてなすのに劉安が妻を殺してその人肉を提供するなど(鉢の木のエピソードの原型版))に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っている。それまで単なる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。日本では、吉川三国志が事実上の底本となっている。これ以後柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)[14]、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年)『諸葛孔明』1991年 『曹操』1998年(各.中央公論社 のち同文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所 1996年)、安能務『三国演義』(講談社 1999年)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 2004年)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。 戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受けた。また、曹操を主人公とした漫画である『蒼天航路』も高い評価を受けている。ゲームについては、『三國志シリーズ』や『真・三國無双シリーズ』などがヒット作品となっている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで「赤壁の戦い」をメインにした映画『レッドクリフ』が公開され、ヒット作品となっている。 高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像の見本として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行された。 1980年代以降、ゲーム・漫画において爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。その後今日に至るまで、漫画やゲームや映画やアニメとして多数の作品が出版・製作され、不動の人気を博してきた。また他にも、三国志に出てくる人物の名前やその時代観を基にした、全く違ったものが作られるなど多彩なものと成りつつある。 そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも『三国志』あるいは『三国志演義』に忠実なものではなく、大きく改変が加えられているものも多い。特に顕著な傾向として、諸葛亮死後以降の展開については省略が目立ち、晋の統一に至るまで忠実に描き切った『三国志』作品は国内では皆無である。また、「もし、こうなっていたら」という仮定の設定で作られているものや、君主の設定が少し違うもの、あるいは基になっている人物の性別を換えているものなど、多種多様な作品が存在している。 三国志とは蜀の臣下の陳寿という方が記した歴史書だったんですね。 みなさん三国志は吉川三国志やその漫画版 横山光輝の三国志、 あるいはコーエーのゲーム三国志、三国無双。今年はレッドクリフなどの方がほとんどでしょうが ほとんどが三国志演義ベースなんですね。 北方謙三などが正史ベースです。 蒼天航路はどっちかな? えぇ?正史とか演義って何?ってかたは正史と演義を。 興味をもっていただけましたか? このwikiを読み通せばあなたも立派な 三国志オタク!!
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しょかつりょう 諸葛亮 【歴史】 中国・三国時代の人物。字は孔明。 三顧の礼によって劉備に迎えられ、彼を蜀漢の初代皇帝にまでのし上がらせた、三国志を代表する名軍師である。 劉備の陣営に加わってからは、魏の曹操・呉の孫権に続く第3の勢力を築くという「天下三分の計」のために尽力し、多くの戦いを経て、劉備に蜀という国を持たせることに成功している。 彼の真価は、軍事面よりもむしろ、古の管仲・蕭何にも匹敵すると言われた政治の才能にあるだろう。 小さな一勢力に過ぎず、人材も少なかった劉備軍を、他の2国と肩を並べ得る一大強国にまで成長させたその手腕は、見事という他ない。また劉備の死後も、次第に小粒となっていく人材を上手く使って、呉と和を図り魏を防いだ。諸葛亮の死後も蜀は30年間潰えることはなかった。 軍治に関しても決して無能なわけではないが、臨機応変に戦局への対応が出来る人物ではないという評価が多いらしい。それでも、人材も国力もはるかに上回る魏を、そしてあの三国志最強軍師・司馬懿を向こうにまわして一進一退の攻防を続けていたその才覚は、特筆に価すると思う。 三国志を知る多くの人は、横山光輝の三国志から入ったものと思われる。 しかしあの三国志はあくまで入門書的なものだとケッケは考える。 例えば、横山三国志だけを読む人は荀彧の偉大さを知らない(←個人的嗜好)。曹操を悪役だと思ってしまう。 そして、名政治家としての諸葛亮の真の姿を知らない。 あの漫画の中での諸葛亮は、戦において神懸り的な強さを誇り、まともに対抗できるのは司馬懿のみ。その司馬懿でさえ最終的には「自分は諸葛亮にはとても敵わない」という発言をしているが、実際に兵を率いれば司馬懿の方がずっと強いと僕は思う。 それが証拠に、諸葛亮は5度も北伐を行ったが、それらは一度も成功しなかったのである。 元々蜀よりである三国志演義を元に描かれている上、内容的にもかなり端折ってあるので、あの作品のみで三国志をすべて知ろうなどということはおよそ不可能である。ただしそれでも、三国志を知らない人が大まかな話の流れを知るにはもってこいの漫画であると思う。 そんなこと言ってる僕も、実はあまり詳しい三国志の内容を知らない。メンゴ。 最終的に言えるのは、諸葛亮が三国志最高の名軍師であり、天才だということである。 平和な世の中を夢見て乱世を懸命に駆け抜けた彼の雄姿は、1800年以上の時を経た今でも、その輝きを微塵も失わずに語り継がれている。
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諸葛亮(しょかつりょう)は、中国、三国時代の政治家、戦略家であり、三国志の登場人物。 参考Webリンク 諸葛亮 - Wikipedia 作品 パズル ドラゴンズ 臥龍神・諸葛亮 俊才の臥龍神・諸葛亮 命龍神・諸葛亮 天星の命龍神・諸葛亮 臥龍神・ミニ諸葛亮 俊才の臥龍神・ミニ諸葛亮 命龍神・ミニ諸葛亮 天星の命龍神・ミニ諸葛亮 タグ 三国志 歴史上の人物
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諸葛亮の次の天才軍師は? 選択肢 投票 龐統 (26) 司馬懿 (68) 陸遜 (25) (この三国志投票はどれかが50を超えると更新します。) 過去の投票 関羽と張飛、どちらが好き? 50対48で関羽の勝ち! 好きな皇帝は誰ですか? 劉備50 曹操13 孫権4で劉備の圧勝!
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諸葛亮北伐 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 趙雲(ちょううん) キン[革斤]詳(きんしょう) 陳式(ちんしょく) 魏(ぎ) 司馬懿(しばい) 曹休(そうきゅう) カク昭(かくしょう) 王双(おうそう) 呉(ご) 陸遜(りくそん) [おもな地名] 石亭(せきてい) 街亭(がいてい) 陳倉(ちんそう) 武都(ぶと) 陰平(いんぺい) 228年 諸葛孔明(しょかつこうめい)は呉の勝利の 報告を受けて再度魏への北伐を決意します。 しかし出兵を前にして訃報がもたらされます。 蜀の歴戦の勇にして最後の五虎将である 趙雲(ちょううん)が逝去します。 諸葛孔明は片腕の将軍が亡くなった事を大いに 嘆きます。 諸葛孔明は再度”出師の表”を書いて 戦いへの意気込みを述べます。 (後出師の表:存在しないとの説も有) 前回の戦いで蜀は北方の街亭(がいてい)付近を 完全に魏に奪われていました。 諸葛亮としては 前回 囮部隊として亡き趙雲が攻めた 陳倉(ちんそう)へ向かう陳倉道を 進むことを決定します。 魏にもこのことを先に予見して準備をしている 人物がいました。 第一次北伐で蜀を敗北に導いた男 司馬懿(しばい)です。 彼は事前に陳倉に突貫工事ながら強固な城を 作らせていました。(陳倉城) また、攻城戦において守りには 弓弩が必須であるとの事からそこに弓の名手である カク昭(かくしょう)を抜擢します。 いわば守りの達人を配置したわけです。 赴任した彼は堀を深くし、塁を高くし防備を高めます。 11月 孔明は迅速に数万の兵で陳倉城に迫り 城攻めにかかります。 陳倉城を守る兵は千人あまりしかなく、 また魏は先の呉との大敗で援軍をすぐに 出すこともままならない状況でした。 孔明はまず謀略戦に出ます。 カク昭の親友である蜀の将 キン[革斤]詳(きんしょう) を遣わして降伏と帰順をときました。 しかし、カク昭は首を縦に振らず交渉は決裂。 諸葛亮は強硬手段をとるに至ります。 諸葛亮はこの戦いで新兵器といわれる はしご車の「雲梯(うんてい)」、 大矢倉の「井闌(いらん)」 破城のための「衝車(しょうしゃ)」 などを駆使して攻め立てます。 カク昭はこれらの兵器が木製であることを みてとると、火矢や投石兵器などで応戦。 新兵器は無残にも燃えてしまいました。 蜀軍はただちにこの火に弱いという弱点を克服すべく 泥や糞尿を塗って防火対策を施した改良兵器で 攻めかかります。 しかし、20日あまりもの攻城戦にも関わらず 城は落ちませんでした。 孔明は補給の限界と敵の援軍の到来で 撤退をすることを決断します。 こうして、二度目の魏への侵攻は兵力の面では 勝る蜀がカク昭と強固な陳倉城の前に 敗れ去ることとなりました。 また魏の援軍が到着し追撃を行いますが 魏の期待の新鋭 王双(おうそう)が魏延(ぎえん)に 討ち取られるという大失態をおかし 魏は追撃を諦め撤退します。 229年春 孔明は陳式(ちんしょく)を派遣して国境の都市 武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を奪い 部分的勝利を得ます。 しかし、 これらの地はあまり大勢に影響の無い地で 諸葛孔明率いる蜀は、結局のところ大きな 成果は得ることは出来ませんでしたが、 一矢報いたという形にはなりました。 230年 魏は度重なる蜀の諸葛孔明の遠征に対抗すべく 新たに大都督となった曹真(そうしん)の進言で 先手をとって本格的に蜀への侵攻を開始しようとします。 曹真は長安(ちょうあん)を出発し 斜谷道(やこくどう)から、 司馬懿(しばい)・張コウ儁乂は宛(えん)を 出発し子午道(しごどう)から、 ともに漢中(かんちゅう)を目指し侵攻を開始します。 (魏による第一次南伐) 両軍は漢中(かんちゅう)で合流する 予定となっていました。 これは魏が準備して攻撃に出た戦いであり 戦力は圧倒的に魏のほうが多く 蜀最大のピンチというべき事態でした。 しかし、運悪くこの時長雨が続き 降り止むことをせず、一ヶ月以上降り続きました。 そのため魏軍は進退ままならない状態がつづき 漢中に集合することができず、孤立状態となります。 この頃、蜀軍はというと 第一次北伐より諸葛孔明と魏延(ぎえん)が 長安への進軍ルートでの意見の相違から 二人の間には徐々に溝ができており 魏延は別働隊として独自の作戦行動を望んでいました。 そしてちょうどこの時、諸葛亮は魏延に望みどおりに 別働隊として西方の涼州(りょうしゅう)方面の 羌中(きょうちゅう)への侵攻をまかせていた所 だったのです。 (蜀による第三次北伐) 魏延はわずかな期間で羌中をみごとに奪い、凱旋の途中に 魏の侵攻部隊と遭遇します。 諸葛亮は援軍を率いて駆けつけ挟撃をし 費瑤(ひよう)と郭淮(かくわい)を破ります。 こうして孤立した各部隊を 蜀軍が各個撃破する作戦をとったことで、 浮き足立った魏軍は各地で敗戦を重ねる事となります。 それを聞いた魏の明帝(曹叡(そうえい))は 作戦中止命令をだします。 これにより、天候を味方につけた蜀の勝利となりました。 魏の南伐は失敗、蜀の北伐はある程度は成功。 しかし、魏延の素晴しい活躍はあったものの 第二次北伐時の武都・陰平攻略と同様に 戦略的にあまり重要でない涼州を奪ったところで 魏と蜀の戦力バランスはあまり変わることは ありませんでした。 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) 鮮卑(せんぴ) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 魏延(ぎえん) 高翔(こうしょう)、 呉班(ごはん) 劉備(りゅうび) 魏(ぎ) 司馬懿(しばい) 郭淮(かくわい) 賈ク(かく) 魏平(ぎへい) 郭淮(かくわい) 張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい) [おもな地名・場所] 長安(ちょうあん) キ山(きざん) 下弁(かべん) 漢中(かんちゅう) 天水(てんすい) [位置関係地図] 涼州 │ <魏> │ ・天水 ・長安 │・キ山 ・下弁└───────┐ <蜀> ・漢中 │ 231年2月 諸葛亮は4度目の魏への戦いに挑むこととなります。 彼は過去三度の反省からかの有名な秘密兵器を生み出します。 「木牛(もくぎゅう)」「流馬(りゅうば)」と呼ばれる 輸送用の四輪車と一輪車です。 彼は兵糧補給の弱点を克服すべくこれらを開発しました。 (なお、諸葛亮はこのように戦略戦術だけでなく 防具・武具にいたるまで研究していたといわれています。 実際晋代における鎧は孔明の開発したものが あまり進化せず使われていたといわれています。) 蜀の漢中(かんちゅう)から魏の長安(ちょうあん)へ 向かうコースは5つ。その中で諸葛亮は 今回の侵攻のコースを第一次北伐と同じ 関山道をとおる一番遠いルートを選択します。 下弁(かべん)からキ山(きざん)攻略を 目指します。<位置関係地図参照> キ山では賈ク(かく)と魏平(ぎへい)が守る城を 包囲します。 また西方の異民族 鮮卑(せんぴ)からも援軍を 取り付けて、長安の北方よりかく乱のための攻撃を させることに成功します。 魏の司令官は曹真(そうしん)亡き後 司馬懿(しばい)がついていました。 長安から司馬懿は準備を整えて出撃します。 諸葛亮は隊を城の包囲軍と司馬懿迎撃軍の2つにわけます。 魏の先遣部隊の郭淮(かくわい)をなんなく撃破。 その勢いのまま司馬懿の主力と当ろうとした矢先 司馬懿は軍を天水(てんすい)の城に立てこもり 持久戦にでました。 これにより兵糧・兵力共にある魏は蜀の攻勢を 押しとどめることに成功します。 また、鮮卑による蜀への援護攻撃は大きな成果を得るには 至りませんでした。 打って出てこない魏に対し遠征軍の蜀は兵糧のこともあり 一部撤退を余儀なくされます。 蜀の撤退に対し、魏では司馬懿の消極姿勢に不満が起こり 司馬懿の思惑とは別に追撃をせざる得なくなります。 231年春 ついに防衛一方の魏の主力が追撃に動き出します。 しかし、蜀の諸葛亮はそれを予期していたのか 冷静に動き、魏延(ぎえん)、高翔(こうしょう)、 呉班(ごはん)の精鋭部隊を当らせて 魏軍を完膚無きまでに打ち破ります。 この敗戦により司馬懿率いる魏軍は 完全な防御を固め持久戦を決め込むことしました。 当然将兵からも不満はおきませんでした。 持久戦が続き、遂に蜀の兵糧はそこをつき 木牛の効果もあまりでないまま補給が続かず あえなく諸葛孔明は全軍撤退を決定します。 これをみた司馬懿はこれこそ追撃のチャンスと 歴戦の名将張コウ儁乂(ちょうこうしゅんがい) に追撃命令をだします。 張コウは異論を唱えますが容れられずに 追撃を開始します。 (三国志演義では張コウ自らの意思で追撃します。) 当然これも諸葛亮の計算の内にあり 伏兵を用意していました。 張コウは伏兵の矢にあたり戦死します。 この時、張コウ50歳でした。 名将の死に魏軍は追撃をあきらめ 蜀軍は無事帰途につきます。 この撤退により4度目の北伐も過去同様に 蜀軍は優位に戦い進めながらも あと一歩ならず悲願を達成できませんでした。 [勢力] 蜀(しょく) 魏(ぎ) 呉(ご) [おもな登場人物] 蜀(しょく) 諸葛孔明(しょかつこうめい) 魏(ぎ) 曹叡(そうえい) 司馬懿(しばい) 呉(ご) 孫権(そんけん) [おもな地名・場所] 泰嶺(しんれい)山脈 五丈原(ごじょうげん) 合肥新城(ごうひしんじょう) [位置関係地図[簡易]] <魏> 陳倉 ・五丈原 ・長安 泰嶺山脈 ────────┐ ・漢中 │ <蜀> ├─────── │ <呉> 234年2月 総勢10万、蜀の諸葛亮は五度目の北伐を決行すること なります。 ルートは真中から魏の領土へ向かうルートである斜谷道。 険しい泰嶺(しんれい)山脈を越えるルートでもある この道を順調に進み無事通り抜けます。 そして平地である五丈原(ごじょうげん)に布陣しました。 当然補給の面でこの泰嶺山脈を超えて物資を送り続ける事は 困難であることは諸葛亮も計算していました。 まず、第四次北伐の時に使った木牛に加え 新兵器 流馬(りゅうば)を使い輸送手段を確保すると 共に、五丈原において農作を行いその場での 食料調達の準備も行いました。 これは長期戦に備えての事でした。 魏も30万の軍を用意して 司馬懿を司令官として送り込みます。 司馬懿は長安と五丈原の間に布陣し、砦を築きました。 魏もまた長期戦を考えていました。 司馬懿には皇帝曹叡(そうえい)からも ”堅く守るのみで攻めてはいけない”との命令が でていました。 過去4度の蜀に対する敗退で 魏は完全に守りに徹する策を選んだのでした。 両軍はにらみあったまま ほとんど動かず小競り合いがおきる程度。 諸葛亮も魏の出撃を誘い出すさまざまな 行動に出ますが魏は応じずません。 相手の動きに対して虚を突く軍事行動を起こすことが 得意な諸葛孔明としては 危険をおかして敵軍に対して突撃することは 出来ませんでした。 この戦いでの敗退は軍事力の小さい蜀にとって 即、蜀の滅亡に繋がりかねないのです。 234年5月 そんなおり、前回のお話である 呉(ご)と魏の戦い[合肥新城での戦い]がおきます。 蜀と同盟関係にある三国の一つ 孫権(そんけん)率いる呉が魏へ攻め込みます。 しかし呉は惨敗し撤退。合肥新城での戦いは 魏と蜀の戦いにたいした変化をもたらすことなく 幕を閉じます。 234年9月 蜀と魏が睨み合う事100日以上 秋の風が吹き冬の足音が聞こえようかとする時期。 変化は突然訪れます。 激務がたたった諸葛亮は突然倒れてしまいます。 234年10月 諸葛亮は床に伏したまま 帰らぬ人となってしまいました。 ただ、諸葛亮の死の際には 今後の軍事行動や方針、後継者など遺言されており、 蜀は整然と撤退を始めます。 諸葛亮の死を知った司馬懿も追撃を行いますが 突然の蜀の反転・反撃具合に まだ諸葛孔明は死んでいないのではと考え 追撃を中止し撤退しました。 これが後に 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という 名言となって残りました。 時に、孔明54歳。 遂に劉備以来の蜀の悲願である魏の討伐は 諸葛孔明の死を持って一時終わりを迎えました。 三国志の時代も新たな世代へと 物語はうつっていきます
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諸葛亮 特性:策士 兵科:歩兵系、弓兵系、特殊系 戦法 階級 戦法名 1 2 3 4 5 反客為主・陥穽・火計・偽退誘敵 6 挑発 7 落石 8 声東撃西 9 援護 10 11 12 13 14 15 16 戦法発動時台詞 威圧 援護 力を貸しましょう! 激励 絶対に勝ちますよ! 偽退誘敵 下がります 声東撃西(被発動) 単騎駆 運用のコツ ユニット一覧へ
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諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢に活躍した政治家。字は孔明(こうめい)。 逸話も多く、後の三国志を題材とした作品の多くで天才軍師として登場する。 ニコニコで使用される意味での孔明とは、「自作の改造マリオを友人にプレイさせる」シリーズにおいて 友人(プレイヤー) の裏をかいて設置されている罠の数々を、諸葛亮が計略に秀でてたとされることから 「孔明の罠」と呼んだことに由来する。転じて、罠全般やそれに類するものも「孔明の罠」、「孔明」と呼称される。 ニコニコワールドでは第十四幕で本物の孔明自身が登場した。その後本人は登場していないが、 第十八幕でニコニコミュニティの技術を使い、魔王城を他の動画から隔離して外から入れないようにしたようである。 第十九幕で久しぶりに本人が登場。北条沙都子と鏡音レンの二人に、 タイムシフト上で削除された動画の中で何かの訓練を行わせていたようである。 更に三国志では彼のライバルである司馬懿(しばい。字は仲達(ちゅうたつ))と共に行動しており、 「3人目の光の使者」とやらを決めようとしているようだ。 余談だが、実際の諸葛亮は治世は得意としたようだが罠などの兵法は苦手であったと記されている。
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諸葛亮 特性:策士 兵科:歩兵系・弓兵系・特殊系 友好武将 馬良・龐統・趙雲 備考 陥穽、挑発持ち この二つを覚えてしまえばまあ強い 但し、知謀を上げるためできれば特殊系兵科に変更し、戦闘では兵糧庫を作り味方の士気を上げていきたい。味方には張飛、劉備など士気を上げれば戦法が使いたい放題になる特性を持つ武将がいるので戦闘を非常に有利に進めやすい。(その中に万人敵にした関羽、黄忠。策士、奸雄にした徐庶、趙雲がいればさらにいい) 能力は知謀が戦記一位。初期兵科が弓なためにその高さを生かすことができないが戦法は虚報前進以外の知謀系戦法は覚え、統率系戦法は挟撃、椅角、援護、激励を覚え武芸系は火矢を覚える。また、郭嘉同様、戦法を同じものを2つ覚えることがないため覚えたい戦法は良く吟味しよう。 秘策の大混乱が使えないのが本当に惜しい。