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目次 1.新文明には三つの柱がある 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 4.信仰とは、認識力の増大を意味する 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない (1987年8月15日の霊示) 1.新文明には三つの柱がある さて、第五章、「神理文明論」という章になりました。これで私の霊訓集が終わるんですねえ。 みなさんうれしいですね。とうとう来ましたよ。何冊読みたいですか。 僕はね、読者のみなさんのお力次第なんだけど、五冊ぐらいで終わりたくないですねー。できたら十冊、ちょっと声が大きくなって二十冊、小さくなって三十冊、もうちょっと小さくなって五十冊ぐらいやりたいなーって思ってるんだけど、そのぐらい読みたいって言ってくれないかなーと思ってね。 まあ、でもあるじゃない、よく世界の名作全集なんて言ってね。第一回配本、第二回配本なんて、あれだって三十冊も五十冊もあるじゃない、配本がね。二ヵ月おきぐらいに来るんでしょ。だから私の霊訓集もそうした第何回配本ぐらいのつもりでね、出るの楽しみにしてくれなきゃいけない。 でも読者のなかにはいるでしょう。「本が多くって、まあいっぱいいっぱい出しちゃって、もうこんなに読めるか。」って言うから、読めなくていいんです。私の本だけをずーっと読んでいきゃいいんですよ、みなさんね。 私は一貫教育してますから、一冊目から最後まで読めばね、みなさんの人生もピカピカに光って、そしてもうあの世で絶対いいとこ行けて、そしてあの世の勉強も終わるような、そういう教育システムっていうのを考えてますから、もう安心してね、ついてきたらいいんです。 だから、本が多すぎて読めないとか忙しい人は、私の本だけを頼りにしてね、これを持っていきゃいい。ね、毎日会社に。ま、行けると思いますよ。 私はね、むずかしいこと言わないんです。お子様やお母様や、爺ちゃん、婆ちゃまにもわかるように、話してるんですね。だから、OLなんかの間に私の本はずいぶん人気が高いんですね。 入会願書っていうのがあって、霊言集の感想を書いてるんですねえ。それで、私もときどき見せてもらってるんだけども、「もう高橋先生大好き。」ってね、OLですよ、たいていあなた。 ね、たいてい二十代だけど、二十代後半のちょっとうれ残りかかっとるOLが多いんだけども、「高橋先生、大好きです。」ってね、「ユーモラスでとってもステキなおじさん。」ってね、「私大好きだわー。」なんてね、言ってるかたいっぱいいますよ。女性です。 私は女性に人気があるんです。たぶんそのかた美人だと思いますね。「とっても好き。」って言う人ね。「高橋信次とっても好き。」って言う人は、たぶん美人でね、頭がよくて、そしてみんなから好かれてて、もうお父さん、お母さんからも評判がよくてね。 会社でも上司の受けがよくて、同僚の受けがよくてね、そして同じ女の子どうしからも、ひじょうに好かれている女の子、こういう人が私の本を読んで、感動するんだと思うんですね。 だから私の本読んで感動した人は、心がきれいなかたですから、そういう心のきれいなかたはやっぱり外面に表われるんですね。そして、えー外面も美しくなり、人からも好かれ、そしてすばらしい毎日を送っていけるようになるんですねえ。まあそういうふうに思っているんです。 さて、本章では神理文明論ですね、ずいぶん大きくかまえてみました。この意味は、神理に基づいた文明論ということになるわけですね。まあ、そういうふうに考えていただいてけっこうであろうと思います。 さて、神理文明論というのは、これからどうした文明を創っていかねばならんのか、と、そういうことでもあるわけですね。それでけっきょくは、私たちのこれからの課題ということでもあるんですね。 この本書において、私たちの今後の文明構築の課題というものをいくつか、呈示しておきたい。まあこういうふうに思うんですね。 さあ、では来たるべき新しい文明っていうのは、いったいいかなる文明でありましょうか。どのような文明が来るのでしょうか。これをね、考えてみたい。こう思うんですね。 そうしてみると、これからの文明っていうのはね、僕はね、大きく考えて三つの柱があると思うんです。三つの柱ですね。 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 第一の柱はなにかって言うと、これはね、「霊性実証の時代」であります。ね、霊性の実証時代、これが第一の柱なんですね。 これは霊性って言いましてね、霊的な性質ですね。人間が霊的なる存在であるっていうことのね、実証の時代、これが来なきゃいけない。ま、こう思うんですね。 だってみなさんね、真実は真実なんですから、ね。みなさんね、これマイク握ってね、私マイク握ってしゃべっとるんですよ。ね、これ霊ですよ。霊が言ってるんです。 霊がね、私は霊だって言ってるんですね。霊が私は零(ゼロ)だって言ってるんじゃなくて、ゼロじゃなくて霊(零)だって言ってるんですよ。いいですかね。そういうことなんです。 ある人は先日言ってましたよね。「そんな霊があるって言うならあんたね、そんなら霊に色がついとりゃええじゃないか。」ってね。 「そんな無色透明で見えんからいかんのだ。」ね。「ピンク色かなんかでサーッと出てくりゃいいんじゃ。」ってね、ネグリジェみたいなん着て霊が。夜な夜なピンク色でサーッと出て来たら楽しくて楽しくて、「霊よ来い来い、また来いよ。」ってね。「こっちの水は甘いぞ。」ってね。 そして霊よ来い来いして、ピンク色のなんかネグリジェ着た霊が出てきたら、そしたらね、便利でいいよね。あー認めた、認めたって、たしかにいるねー、いるねーってね。 「あー僕はこんどはピンク色のつぎは水玉模様がいいや。」なんてね。水玉模様の霊出て来いなんてね、はい出てきました。なんてね。 夏は暑いからやっぱりなーんちゅうかなあ、えー夏は暑いからこうござっていうんかな、「ござ巻いたような霊出てこい。」なんて言ったらねえ、高橋信次がござなんか巻いて「はい出てきたぞー。」なんてね。「ござでござりー。」ってね。こういうふうに出てくるかもしれませんね。 こういうふうに霊に色があってね、かたちがあってみんなが見えたら、証明もいらんじゃないか。まあそういう人もなかにはいらっしゃるでしょう。 たしかにそりゃそうだけど、ねえ、しかしねえ、霊がそんなござかぶって出てくるぐらいならね、あんたね、なーんで霊にならにゃいかんのだ。そんなんだったらもうそのままこの地上でみな生活しとりゃええんだね。そうでしょ。 霊が霊になるっちゅうのは、こことはちがう世界で生活しとるからそれでええんだな。そんなこの地上で見えるような確認できるようなあれだったら、べつに霊にならんでええわな。 そんなんだったらもうやめちゃって、霊になるのやめちゃって、青虫がね、あなたサナギになって、チョウチョになるようになりゃええんだ。 だから人間七十年やったら、八十年でもいいよ、人間八十年やったらね、死んだように横たわってね、しばらくしとったら、体コチコチに固まってね。 しまいに繭(まゆ)みたいになって、固まっちゃって、半年ぐらい固まったままでね、あなたね、銀行の金庫のなかかね、貸し金庫のなかか、あるいは魚河岸(うおがし)のね、なんか鮪(まぐろ)の冷凍庫のなかほうり込まれてね。 半年ぐらい固まっとったら、半年ぐらいしてあったかくなってきたらなんか取り出してみたら、パカツと真二つに割れちゃってね、なかからぜんぜんちがうの出てきたりね。 こういうようにして、あなた、こんど羽が生えた人間出てきてね。こんどは、もういったん死んだらつぎは、羽が生えてなんか、空中飛べるようになると、人間こんなんでもいいんですよ。そら考える勇気はありますよ。そらおもしろいでしょうな。こういうふうにすりゃあな。 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 だけどまあ、この世に二種類の人間は置かなかったんですね。だからまあ神様のその辺は芸術センスの問題でね。 この芸術センスが「5」だか「4」だか僕はよくわがらん。ねえ、点数がよくわかんない。ただこういうふうになっとんだな。だから僕はいまもう一回人間創りなおすとしたら、そんなんでもいいと思うんだね。 だから六十、七十になったらどんな美人でもきたなくなるんだろう。いやだろう。だからコチコチになって死んじゃって、鮪(まぐろ)の削りぶしみたいになっちゃって、あら鰹(かつお)か、鰹の削りぶしみたいになっちゃって固まっちゃってね。 それで半年ぐらい冬眠して、そしてサナギになって、サナギから出てきたら、こんど、ね、羽が生えちゃって、なにか生えちゃって、ブンブン、空飛べるようにね、そうしたらすばらしいよね。 ある者はだからそうしたサナギになる前に、えーよく悟った人がね、こんどはサナギから出てきたときに羽が生えて空が飛べる。 しかし悟らんかった霊はどうなるかっちゅうたら、こんど出てきたら手足がなくなって魚になっとると。そして悟らんかった霊はサナギから出てきたら、海のなかドボンとはいって海のなかで泳いどると。 でお魚さんになっちゃう、ね。で、悟った霊はエンゼルみたいに空飛べる、ね。こういうのでもあってもおもしろいかもわかんないねー。どうだろうか、ね。 こういう二種類にしたらもう天国、地獄言わなくたってね。サナギになったあとお魚さんになっちゃうのと、ね、人魚だな、顔はいいわ人間でも、下半身が人魚で、人魚姫みたいに海のなか泳がないかんのと、羽が生えて、空が飛べるのと、こう二種類創ってもいいんだよな。そうしたらおもしろいね。 そしてこんど人魚とエンゼルがまた適当な年齢になったら、もうエンゼルやめちゃってもう羽が歳とってとれちゃって落ちちゃって、ね。 人魚もなんか産卵しちゃって、卵産んだら人魚も消えちゃってね、卵になる。卵がまた人間になるとかね。こういうふうな循環考えてもよかったのかもしれないね。 ただね、神さん考えられたのは、そんな目に見えるかたちでね、信賞必罰がはっきり見えるのはね、あまりおもしろくないと思うんだなあ。 ね、パン食い競争といっしょでさ。あそこ行ったらパンがぶら下がっている。あそこ行ったら牛乳飲まにゃいかん、あそこで顔洗わにゃいかんなんてね、目に見えるのおもしろくないじゃない。 そうじゃなくて探検でね、これ森のなかでいったいなにが出るかわかんない。大蛇が出るか、乙姫さんが出るかなにかわかんない。とにかく手探りで森のなか進んでいく。これがおもしろいんだな。これがスリルと探検がね。 ところがパン食い競争みたいにあなた、見渡しゃもう百メートル先までなにがぶら下がってるかみな見える。 ね、あとなんか黄な粉のなかに飴かなんかはいっちゃってプープープープー吹いて顔真白になって、食べなきゃいけないとかね。こんなんみな見えちゃうね。おもしろくないわね、たいしたことねえや、ね。 だから、それで人間諭(さと)すのがだいじだよねえ。 おめえ鳥になりたいっちゅうんか。空飛びたいならねえ、もっと修行しなさい、なんてね。お魚になりたきゃそんでいいよ、なんてね。そんなのもう子供みたいでバカバカしいじゃない。わからんからいいってね。 だから霊っていうものを色ついてピンク色で飛ばさないようにしておる理由は、やっぱり人間のこの精神的なね、えーなんと言いますかね、価値を高めるためにそういうふうにしとるんですねえ。 4.信仰とは、認識力の増大を意味する やっぱりね、けっきょくなんて言いますか、信じるってことは宗教にはつきものですけれども、信じるっていうことがつきものの背景にはね、そこに大いなる精神的な飛躍ってのがあるんだね。精神の飛躍。飛翔感ていうのがあるんですね。これがあるわけです。 あなたね、自分が確認したものだけを信じるっていうのはね、これはりっぱなように思うよ、一見ね。科学的実証精神のように思うよ。もう自分が確認したものだけを信じる。 じゃあアメリカ行ってない人はアメリカのあるのを信じないの筋なんじゃないですか、ねえ。月行ったことのない人は月がないことを思うのは筋なんじゃないですか。どうでしょうか、ね。僕はそう思うんですよ。 そんなら霊だけをそんなこと言わずに、じゃあほかのことだっていっしょじゃないですかってね。軽井沢行ったことない人は、軽井沢なんてあんなの神話じゃないかって言っとりゃいいんだよ。そうだろう、ね。 自分が経験したときが、ことだけがすべてで、真実で、経験してないことは真実でないって言うならそういうこったな、ね。じゃあその結果どうなるんだ人間は。 自分が確認できて、経験できたものだけが真実で、そうでないものはそうじゃないって言ってどうなるんだ。人間はね、けっきょく手さぐりといっしょだろ。ちがうか。 手さぐりで生きとる人間てけっきょくなんだ。そしたらあなたね、アリと変わらんぜ。アリと。 あなたがた地上はっとるアリ見てごらん。ねえ、かわいそうだよねえ。もう右曲がり左曲がり、もうあっちまわりこっちまわり見てたら一時間、見てたら一時間グルグルグルグル一メートルぐらいのところまわっとんだろ。ちがうか。地面のね。あっちあたり、こっちあたりグルグルグルグルまわっとる。触角動かしてね。触角でさわってるんだよ、一生懸命。 ね、ああいうアリさんみたいな人生になっちゃうんだな。かわいそうだろ。ね、もう一段高い認識力がないんだな。自分の置かれとる立場、あるいはこの世界というものにたいする認識っていうものができない。アリさんはね。こういうことだ。 だから経験論、実証精神だいじだけど、それがようするに自分を小さくして、そして認識力を低めておるなら意味がないな。だから信ずるっていうこと、信仰っていうことの意味は、認識力の増大を意味するんですね。 つまり、目や口や鼻や手ざわりで感ずるもの以外を感じとるってことでしょ、信ずるっていうことは。ちがうか。全身全霊で感じるっていうんでしょ、ね。それは認識力が高まったことだ。認識力が。 認識力が高まるっていうのはどういうことかって言うと、わかる範囲が広がるってことだな。物事がわかる範囲が広がる。 物事がわかる範囲が広がるってことはどういうことかって言うと、アリさんよりは人間さんでしょ。アリさんよりはバッタさんかもしれない。バッタさんよりはお亀さん。お亀さんよりはウサギさんやらなにや知りませんがね。 あるいは、犬、犬よりは人間、そうかもしれないね。人間よりはじゃあ神様だな。認識力が高まるってことは神様にそれだけ近づいていくってことだ。ちがうだろうか、ね。そういうことでしょ。 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る だから、自分が確認したことだけしか信じないって言うんなら、人類は何世代にも、何十世代、何千世代にもわたって生まれ変わってきたけど、それぞれの人間が、自分が確認したものしか信じられないって言うんなら、文明や文化の進歩はなにもないことになる。そうだろう。 もう一回ゼロから始めて、ね。一足す一がほんとに二かどうか、もう一回確認しなきゃいけない。ちがうだろうか、ね。そういうことだね。 だからあるていど前提とする部分があって、文化や文明は進んどるんですな。そのなかにはたんなる信仰とはちがうけれども、信ずるという行為がやはりあるし、それを受け入れるという行為はあるんだな。僕はそう思う。 だからこれからの時代はね、まず第一に霊性の時代であって、そうした目に見えぬ霊の世界が厳にあるということに対する実証、ほんとうにそっちの意味の実証精神ね。これはいってきますよ。 で、科学者なんていろいろ言ってるけど、この霊界のね、研究者なんていうのはものすごく尊敬されるようになる時代が来ますよ。第一人者なんてね。 いまだったら医学界の第一人者、ねえ物理学の第一人者なんて尊敬されてるけど、それが霊界の第一人者なんて言ったら「なーに言ってんの、気持ち悪い。バカにして。」ってね。バカにされちゃいますね。 ところがこれから霊界研究の第一人者って言ったら「ほーすごいなー。」ってね。こういうふうになってくるでしょう。まあこれが霊性の時代ってことの第一点ですね。だから文明、新しい文明のね、第一。 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 第二はね、これからの時代の特徴の第二点は、第二の時代はいったいなにかと言いますとね、えーまあこれからもう一度ね、文明の再考、というのが始まっていきますね、再考。 文明、現代ある科学文明っていうのが、これがいいものかどうかっていうことが、もう一度考えなおされる時代ね。こうした時代にこれからはいっていくんですね。 それはなにかって言うとね、二つに分かれるんですね。 これはなんか『孔子の霊言』かなんかにもあったそうですけども、ますます科学文明を発達させていこうとする方向と、原始に還れ、昔に還れという復興運動、この二つの潮流が巻き起こってきますね。どっちも神理は神理なんですね。 なんで都会でネクタイぶら下げてね、ギュウギュウ電車にゆられて、会社冷暖房きいとるかどうか知らんが、会社のなかでね、一日中働かなきゃいかんのかと。こんなの人間の本来の性質に向いていない。こういうふうに主張する人が出てきて、それに賛同する人も出るでしょう。 そういう人たちが武者小路実篤じゃありませんが、新しき村運動じゃないけどね。そうした原始に還れと、自然に還る、自然の美しさに還ると、いうふうな運動をね、展開、積極的展開をする時代がこれから始まってきますよ。 おおいにそういうことを唱道する人が出てきます。それはそれでひとつの動きだと思う。 やはりね、都会が人間を進歩、発展させるところもあるが、堕落させてる面もひじょうに多い。そんな堕落させるような素材をそのままにしておかないで、そうしたものがない、もう一度新たに造りなおす時代ね、造りなおすという時代、これをやはり考える。そういう時期が来るんですね。 リンカーンじゃございませんが丸太小屋をね、自分で作る。ね、みんなね、小さいころは喜び感じたんだよ。自分でいろんなもの作ったことをね。 ボーイスカウトだか、村の少年だか知らんがね、自分で小屋を作ってみたりね。自分で穴を掘ってね、それで上に茅(かや)かなんか葺(ふ)いちゃってね。そして探検ごっこやってみたりね。 そうしたことにずいぶん生き甲斐感じてたわけだよ。いつかしらそんなの生き甲斐忘れちゃった。ね、自分で新たにいろんなもの作っていくっていうこと。ね、農作物だってそう、動物を飼うことだってそうね。 畑正憲さんて言うんか、ムツゴロウの動物王国とか言って、北海道やらどっか、なんとか村やら知らんけど、どっかでやっとんだろう、ムツゴロウ共和国とかね。ああいうのがね、まあひとつのなんて言うんかひとつのあれになりますよ。 あのムツゴロウさん、あれ諸天善神のひとりだよ、ね。ああいうのは稲荷大明神って言ってね、動物を指導しておる霊人がおるんだな。そういう人のなかのひとりですよ。 まあ、ああいう人がやるわけだな。ああいう時代になるわけです。僕はこれでもいいと思うんだよね。 文明でかならずしも進歩する人ばかりじゃないんだな。毒されることが多い人も多いと思うんだ、ね。 だってあなたね、都会行きゃあもうほんと悪の臭いがしちゃって、新宿歌舞伎町とかね、あなた銀座のどこそことかね、渋谷のどこそこ、上野の某所、あるいは千葉のナントカ町、ね、川崎のナントカ町。 こんなところってのはあなたね、まあそりゃ聖人君子だってあんまりそんなとこ住んでたらね、だんだんだんだんやっぱりフラフラフラフラし始めますね。ないほうがいいわけですね。 そういう意味では、そういうものはないってこともいいんですね。軽井沢には風俗営業がない。そういう町もだいじなわけなんですね。ないとどうしようもないですからねえ。あるとやっぱりフラフラ行きますわね。ないこともけっこうなんですね。 だから自然のなかでね、そんな風俗営業ないようなところで、生活することもだいじですよ。そうじゃないでしょうかね。それが人間向上させることにもなる、ね。 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 で、これがひとつの流れだし、もうひとつの流れとしては、いわゆるもっと科学技術の進歩ですね。まだまだこんなんじゃあ物足りない。どんどん作り出してみよう。いろんなものを作り出してみる。 それから、やっぱり好奇心旺盛な人はどんどん月へ行き、金星へ行き、ねえ、ほかに太陽系からも出て探検してみたい。宇宙人とも握手してみたい。こんな人もおるでしょう、ね。 『太陽の法』っていう本読むと、なんだか金星人がおったらしい、ね。エル・ミオーレっていう神霊が治めとったらしい、統治者がおったらしい。 「ちょっと金星ツアー行こう。」ってね。「金星人の化石を見つける会」なんてね、できちゃって、金星ツアーして、どこかに埋まっとらんかと一生懸命シャベルで掘ったりしてね。そんな人も出るかもしれない。 そうした新しい経験でもって、それで進歩する人もいるでしょうから、まあそれはそれでけっこうでしょう。 後者について、宇宙時代についてもうちょっと言えばね、宇宙人との交流っていうのが、これがますます積極的になってきますよ。彼らもまた新たな世界観求めて来とるんですね。 いま、地球自体、だいたい法が出尽くしたと思うかもしれないが、宇宙人と接触するとこんどまたちがった法がね、感じられますよ。地球の法だけがすべてじゃないんですよ。 私は前のほうの章でも言いましたけどね。そんなお札(さつ)交換してなんかしとるの見たら不思議に感じるって言ったけども、そういうほかの惑星の考え学んだら、また人間気がつかない教えってのも増えてね、そして新たな考えかたっていうのを学ぶかもしれないね。まあそういうふうに思いますよ。 だからそういう宇宙時代も来るし、UFOも現在十何種類来てますから、地球にね。やがてだんだん確認されていくでありましょう。 彼らが来とる理由は、新しい文明のなかに参入したいという気持ちもあるし、あるいは地球を偵察に来とるとこもあるし、もと私たちが来た母星からもちょっとは来とるんですがね、確認しにね。いろいろやっとるんですが、理由はいろいろあるんですけどね。 ま、これはまた『高橋信次の空飛ぶ円盤』(「高橋信次のUFOと宇宙」として刊行)でもなにかまた一回組まにゃいかんかもしれませんね。ちょっとこの本章のなかで言うのはむずかしい。まあそういうことがありますね。 ですから第一の柱として、霊性の時代が来るって言ったけども、第二番目の柱で時代が二極分解して、原始に還れ、それと未来産業型の文明時代へと行くと。こういう二極分解するでしょう。で、それぞれ神理はそのなかにあると。こういう話しましたね。 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 じゃあ、第三番目の時代はいったいなにでありましょうか、ね。これはね、まあ先ほどの霊性の時代ということにひじょうに関係するわけなんですね。 つまりひじょうにそれと似かよっておって、空海さんなんかも『空海の霊言』のなかで言っておられたように思いますが、これからはね、精神的な帰属というものが、社会的ステータスをつくる、そういう時代が来ます。 精神的な帰属。つまり宗教なら宗教、なにを信じておるか、あるいは道徳ならどうした道徳を信じておるか。どうした教えというものを実践しておるかね。 こうしたことが社会的ステータスシンボルになる時代がやってきます。これは不思議ですがね。 いまだいたいみな名刺だして、「なんとか会社の専務です。」ね。「部長です。」「なんと平社員です。」って、やっとるわけですね。 そうじゃなくて、空海さんが言っておられるように、まあ、いっしょですが、自分はえー「講師をしておる。」とか、ね。「自分はGLAの後始末をした人間だ。」とか、ね。 「自分は高橋信次亡きあと別派作って、世の中混乱に陥れた人間だ。」と、ま、これは論外でございますが、こういうのは別にすれば、精神的な帰属っていうのが、その人のやはり値打ちを表わすようになる時代がやって来ますよ。 だからいまは宗教やっても「なんだかバカみたいな。」って言うけれども、これからどういう団体に帰属しておるかっていうことはね、その人の値打ちね、魂の値打ちを決める時代が来る。 ま、いま入会試験むずかしいのやってますが、これなんかその走りなんですね、時代の、ね。 ゴルフの会員権だけが高いなんてそんなのとんでもありませんよ、ねえ。どこそこゴルフ会でやれるとかね。こんなんだけがあなたね、値打ちじゃありませんよ。 これから神理の団体っていうのはね、ほんとうに魂を磨く団体になっていきますから、どの団体に属しておるかね、これがね、社会的ステータスになってきますよ。 こういう時代、価値逆転の時代がね、始まりますよ。ね、これだいじですし、僕たちそれをねらってるんですね。 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る えー神理価値ってことはずいぶん言いましたけども、前章でも言いましたけども、これからそういう価値逆転の時代でね。 いままでは宗教にはいってるちゅうのは隠さなきゃいけなかったけども、これからは、はいってるっていうことが値打ちになってきて自慢になってくる、ね。自分のステータスになる。 で、むしろ会社に勤めてるっていうことなんかそんなのどうでもいいことでね、どこの会社に勤めてようが、なにやろうが、そんなの漁師やってようが、あんた木こりやっとろうが、会社の重役やっとろうが関係ない。 それはね、生業(なりわい)を立てるためにやっとるんだ。そうじゃなくて土、日あるいは普段の夜、いったいなにやっとるかね、これがだいじになってくる。これを競うようになる、ね。ま、そういう時代にならにゃうそです。ほんとうに魂磨くということがだいじになる時代ね。 だからいまねえ、こそこそといろんな神理の伝道手伝ってる人おると思うけど、これからそれを堂々と言う時代になってくるよ。これから堂々と、ね。資格の時代になるよ。神理も。 資格の時代が始まる。新たな、ね。えー魂を磨いているってことにたいする資格の、大いなる資格の時代が来る。こういうふうに思いますね。 それでないとおかしいよねー。文部省認定、英語検定だけあるでしょう。一級だとかあなた二級だとか三級だとかね。 最近は一級と二級の間に差があるから準一級なんて作ったらしいよ、文部省ね。こんなことばっかりやってね、もうええ大人があんた英語の試験ばかり勉強してるんだ。もったいないよー。 英語なんかあなたアメリカにこんど生まれりゃええんだよ、ね。転生してアメリカに生まれりゃ英語しゃべれるじゃないねえ。 日本に生まれりゃ日本語勉強できるんだよ。そんなのわかっとるんだからもう、ほどほどにすりゃええんだ、そんなことね。 そんなんじゃなくてね、これからどれだけね、神理の勉強してるかね、これがほんとうは役に立つかもしれないよ。 だからこれから神理が資格の時代にはいってくるぞ。ね、楽しいじゃないか。そんなんがあって、みんながね、日本国民がね、われを競って神理を勉強し始めるって。これはいいことですよー、ねえ。 文部省の教育はいいとしても、そんな英語だとか、あなた無線通信士の技能だとか、針灸だとかなんだかんだとまああるかもしらんけど、まあそれもけっこうだけども、いろんな国家資格あるわなあ。まああるけどたいしたことはないわなあ。死んであの世へ持って還るほどのものはほとんどないんだ、資格はな。 だからこれから神理を勉強してるってことが資格になる時代になると思います。そして神理の団体もね、いわゆるほんとうに信ずるか信じないか、まあそういうふうなオカルト的なあれじゃなくてね。ひじょうに教育的な側面というものを多く持ってくる、そういう時代がやってくると思うんですねえ。 だからこういうこと言ってた人いたけどねえ、通信教育の時代なんて言ってたけども、そうなるかもしれませんね。 これから法というのがあるていど定型化され、類型化されてね、ほんとう通信教育でもできるような、そういう時代ほんとうに来ると思いますよ、もうすぐ、これそう遠くないですよ。 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない だからいろんな教えがあるけれども、もう教えが多すぎるからもういくつかね、分けて、とにかく高橋信次コースってあって、高橋信次コースってのは、幸福の科学出版から出てる高橋信次霊訓集、たとえば全二十巻がテキストである。 で、これで単位があってね。前期は第一巻から第五巻、ね。後期は第六巻から第十巻。そしてこの基礎コースをマスターしたらつぎに応用コースヘはいっていく。で、第十一巻から第十五巻、ね。それから卒業コース、第十六巻から第二十巻、こういうふうにこう範囲が決まってね。 そして、三年計画ぐらいで、社会人の生涯学習で、「高橋信次コース終了認定」こういうのが出ます。 「あーよかったー。」ね。「終了認定出た。じゃどうしようかな。まあじゃあこれ卒業したから、じゃあちょっと谷口雅春コース行ってみるかー。」って言ったら、つぎまた三年ぐらい「光明思想研修」なんてね。 谷口雅春コース三年ぐらいやって、「また免許いっちょ取ったー。」ってね。こういうので何枚も取ってね。勉強の手段がそこでできてくる。こういう時代になってくるかもしれませんね。いいことですよ。どんどんマスターしてくる。 これだけ天上界の先生がいっぱいおるんだから。あの世還ったってもう消化不良でできないですよ、だんだん。この世のうちに早目にマスターしておきましょうね。 そしてあの世に還ったらね、ちょっと見せてね、資格、「もうこれとこれと終了してますから。」って「おっそうか。じゃあつぎはもう残ってんのはまあ岩登りとあなた木登りの仙人の修行しかねえから、ちょっと仙人界行ってこい。」なんて言われてね、カクッときたりするかもしれませんが、まあそういうことはあるかもしれませんが、まあね、あの世でもどうせ勉強するんだから、この世でできる機会にね、バッチリ勉強してね、どんどん優等生になっていただきたい。 まあそういう話で神理文明論と称しましてね、えー三つの柱立てて話をしました。霊的なことが実証される時代。そういう時代が来るということ。 それから文明の類型として、えー自然に還れ型と、未来産業型と、二つに分かれてくるであろうっていうこと。 それから三番目に、えーこれから霊的なものがね、勉強が資格の時代になってくるよ。それからステータスシンボルになってくる時代が来るよ、ね。まあこういうことを話しました。 まあこういう未来を先取りしてね、みなさんもね、日々努力精進してください。そしたら賢い人間と言われるようになるんですね。じゃあまた、お会いしましょう。
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 1.新しき時代の前ぶれ まず、新人類の予兆というテーマをあげてみましょう。このなかで語られていることは、時代の端境期の様相です。新しい時代が来るときにはその前触れがあって、同時代のなかに次の時代を予想させるものがすでにあるということです。 今、霊言・霊示集を読んでいる私たちは、新しい時代がどうやら来るらしいと感じているわけであります。ところが同時代に生きている多くの人にとっては、それがなかなかわからないのです。しかし、今から千年後、二千年後の立場に立って今の時代を見たときに、みなさんが、いったいどういう時代に生きているのかということを想像するとおもしろいと思うのです。 たとえばイエスの時代であるとか、旧約の予言者の時代などを、いま私たちは聖書を通して知ることができますが、あの時代に生きていればやはりおもしろかったと言えるのではないでしょうか。しかし、時代の流れのなかで、そうした大きなことが現在、起きているのです。後世の人も、必ず今という時代をふり返って興味を持たれるだろうと思います。私たちは毎日毎日のなかに生きているので、意外に当然のことのように思って、それほどのことには感じていない人も多いのです。 ①「鉄の時代」から「太陽の時代」へ 今、ここ一万年ぐらいのサイクルで、ひとつの文明が終わり、新たな文明に入ろうとしているのです。この文明は、後の世にはおそらく、「鉄の時代」と呼ばれるようになるでしょう。その理由は、鉄というものを使っていろいろな機械が発明され、時代が進歩し、そしてそれが文明の象徴になったということです。また「鉄の時代」の別名としては、「知性の時代」あるいは「知の時代」とも言われるでありましょう。 そして、次に来るべき文明の名は何と呼ばれるかと申しますと、これは「太陽の文明」と呼ばれるのです。「新しい神理」の太陽が昇りくる時代の文明という意味を持っています。いったん沈んだかのように見えた「神理の太陽」がふたたび昇ってくるという『太陽の法』のメインテーマ、そのままの時代になり、後世の人々から輝ける「太陽の時代」と呼ばれるようになるのです。このことは、はっきりと予言をしておきたいと思います。 そして、その「太陽の時代」のモチーフの部分は何かといいますと、「悟り」ということなのです。「悟りの時代」が前面に出てきます。ですから、時代的な考え方からみれぱ、この『太陽の法』が出たということは、まことに画期的なことなのです。まだ多くの人はそのことに気づいておらず、数万人ぐらいの人にしか読まれていないと思いますが。実はこれは大変な意味をもっているのです。ひとつの時代の端境期に出た、時代を区切るための書物であるのです。 その内容については、ノストラダムスがすでに予言していたということを前に述べたことがありますが、次のように、はっきりと予言しています。「東の国で『太陽の法』が説かれるときに私の予言が終わり新たな時代が始まる。」とたしかに、記されているのです。ノストラダムスの書物のなかで、「太陽の法」という言葉はたくさん出てきています。ただ、この予言の価値づけがはっきりわかるのは何百年か後になるようです。同時代で気づく人もいれば、気づかない人もいるという意味合いがあるのです。 ②人類の秘史を学ぶ 『太陽の法』という本一冊にしても、相当の霊的能力といいますか、単なる人霊の部分を超越した、アーカーシャーの力を引き出して書かれています。かなり人類全体の知恵の部分、秘史の部分が、明らかにされて出てきています。もちろん内容全般にわたるものではありませんが、かなり具体的に出てきております。 ですから、最初の段階でこの本を読み、勉強しているみなさんというのは、後世の人から、ユダヤ的に言うならば選ばれたる人たち、預言の民と呼ばれても然るべき感じであると思います。ですから、あの世に還ったときには自慢になるかもしれません。 さて、現文明の特色は、知性という部分であったと述べましたが、学問的知性の部分がそうとう強いようです。これに比べて、それ以前のアトランティスは、理性を中心にした文明が栄えていたといわれておりますが、そこではマイトレーヤ如来、クートフーミーなどが活躍していました。さらに、それより古いムーの時代の文明は何かといいますと、光エネルギーの文明でありました。それからさらに前には、インド洋上にレムリアという大陸があって、この時代は感性が中心の文明であったわけであります。ムーの時代には、ランティ、カンターレなどが活躍していましたが、レムリアはマヌとゼウスが中心となって感性の文明を創っていました。 2.感性の文明とは ①色彩感覚 レムリアという感性の時代において、最高度に修行を積んでいた人は、三千種類の色と、二千五百種類の匂いを区別することができたのです。考えてみれば、なるほどという感じはすると思います。みなさんは、色の区別は何種類くらいつけることができるでしょうか。クレョンでは12色や24色の色がありますが、普通の人であれば、24色ぐらいを区別することがせいぜいではないでしょうか。 私も別に遊んでいるわけではありませんが、私もたまにクレヨンで絵を描いたりしています。指導霊のなかには芸術家もおられ、霊言では十分に表現できないので、たまに出てこられるとやはり絵を描きたくなることもあるらしくて、そのときに描かせてあげるのです。ピカソが出てきて水彩画を描いたり、マチスが描いたりします。こうした色彩感覚や調和感覚、デザイン感覚のようなものは現在の文明のなかで確かに一部分、デザイナーや画家などには生きています。しかし、今日これが主流として前面に押し出されるということはそれほどありません。 ところが、今日みなさんはいろいろな色、デザインの服を着ていますけれど、もし、こうしたことで点数がつくような感じの文明であればどうなるかです。パッと見た瞬間に、あれは九〇点を越えるくらいの感覚である、これは七〇点くらいだというように、その人の色彩感覚のレベルがわかるのです。このようなことが認識として明確にわかるとすればどうでしょうか。そうなりますと、そのような美的感覚がひじょうに優れている人が上流階級をつくってゆくわけです。このような時代があってはおかしいかと言うと、そうでもないような気もいたします。 私たちはある意味では、色彩について現在、鈍感であるかもしれません。流行というものがあって、今年は何色が流行、などと言われて、そうしたものを着て歩いているけれども、主体的にどういう色がどのように好きなのかと問われたならば、わからないのではないでしょうか。しかし、色の好みのレベルはあるはずです。 『ピカソの霊言』を読みますと、色を司る天使のような存在があって分担してやっているということですから、やはりレベルがあるようです。ですから、このような感性の評価がもし主流になればどうかといいますと、ベストドレッサーが総理大臣になるような、そのような時代がないとは言えないかもしれません。それが人間としていちばん洗練されているという見方をすれば、そういうことになるわけです。 三千種類の色が見分けることができれば、これはそうとうなものです。私たちは二四色くらいしかわからないけれども、三千、二千、千、五百種類のというふうに、いろいろなレベルの差、実力の差があるわけです。微妙な色合いがわかるというところが人より優れている、洗練されているというわけです。このような世界があってもおかしくはないのです。 ②匂いのセンス また、私たちは匂いについても案外に鈍感です。私たちが特に敏感なのは、嫌な匂いで、一般的に臭いということで表現されていますが、どのように臭いかといわれますと、私もよくわからないのです。また「いい匂いだな」とは思うけれども、そのいい匂いというものの表現がどこまで的確に、みなさんできるでしょうか。このあたりに語彙がそうとう不足しているのがわかると思います。たとえば何の花の匂いに似ているとか、植物の名前であるとか、そうした比喩を出してこなければ説明ができないわけです。もし、その人が、その植物の名前を知らなければ、それで終わりです。これ以外に、匂いということに関して何か言えましょうか。私たちは、二千五百種類の匂いを説明し分けることができるかといいますと、できないのです。 ところが、最近の先端産業といいますか、ニュービジネスのなかでは、匂いビジネスというものも流行(はや)ってきているようです。女性が中心になって、匂いを売るという仕事をやっているそうです。そして、たとえば、ファッションショーのときに匂いの演出、パフォーマンスを繰りひろげるのです。あるいは立体映画のように、匂いがパーッとひろがるようにしたり、あるいは潮騒の匂いなどを漂よわせて、観客に海にいるような感じをかもし出したりするというような匂い産業が、けっこう何億、何十億円の市場に成長してきているそうです。このような人たちは、この時代の昔の記憶、パーニャーパラミタが出てきているのでしょうが、私たちにはあまり出てこないようです。 3.文明で変わる価値観 このように考えてみますと、人間が生きがいを感じたり、あるいは値打ちを感じることは、意外にいろいろとあることがわかります。このように感性の最高度に進んだ時代に生きた人から見れば、私たちがいかに鈍感で、服装にしても何を着ていようがかまわず、匂いに対しても全然センスがない、それで生きていられるということが、まことに不思議で、かわいそうな人びと、いってみれば奴隷階級に見えるはずです。そして知性が中心ではない文明の人びとであれば、今のように一生懸命に本を読んで勉強しているということは、何と憐れな人間たちだろう、というふうに見るでしょう。眼を悪くするまで本を読んで、そのはてにめがねをかけるようになり、悪循環でますます近眼になるという姿は、なぜあのような馬鹿なことをしているのだろう、目を一生懸命悪くしている、というふうに見えるわけです。たいへんおかしなことと感じると思います。 こうしたように、いろいろな文明が移り変わるなかで価値観は変わってきているのです。私たちの魂は、さまざまなところでそうした修行をしてきており、魂の器そのものがいろいろな訓練を受けてきているわけですから、この地上の生活も、その文明に固有の変わったことがあるので、あきることがないわけです。 たとえば、抜群に体格のいい人や運動能力のある人はオリンピック選手にでもなれればもちろん評価されますが、それ以外の人は、仕事ができるとか、勉強ができるとかいう尺度で評価されます。それは今の時代がそうだからです。ところが時代が変わると、評価のうえでいま下にいる人、ほかの特長のある人、たとえば匂いに敏感であるとか、微妙な色合いがわかるとかいう特長をもった人が上がってくるのです。このようなことをいろいろと経験して体験を積んでいるのです。 価値観の多様性という話をしておりますが、それも単に教えの多様性ということだけではなくて、私たちが生きてきた時代そのものに、こうした価値観の多様性があったということを考えあわせることが、ここに、大いなる芸術的な見地があるということです。神は人間にいろいろな何かを悟らせようとされているのです。今私たちが是としている価値観が、すべてに通用すると思っては、ほんとうはいけないのであって、いろいろありうるということなのです。これを知ることが、黄金の時代を知ることにもつながっていくと思います。それぞれの文明が栄え、そして滅びていった話を私はしてまいりますが、それはSFでも何でもありません。もしかすれば、私たちも生きているうちにここに書かれているような出来事を目撃することになるかもしれないということなのです。 4.ゴンダアナ文明と霊文化 ①真・大陸移動説 ゴンダアナ大陸とは、九十六万二千年前に、海底火山の爆発の後に隆起してできた大陸です。現在のアフリカ大陸と南米大陸とを結ぶ海域がその位置していた場所です。そして今から七十三万五千年前の大陸の分裂移動という前代未聞の大事件により、ひとつの大陸が消え、ふたつの大陸の出現をみたのです。過去に、こうしたことが、ほんとうにいろいろと展開しており、大陸が浮かんだり、沈んだりしていたわけです。 現在、大陸移動説というものが地球物理学のほうでも提出されています。プレートテクトニクス理論というものですが、彼らの理論からいえば、すべての大陸がひとつになっていた時期を三、四億年前と考えていて、それが徐々に今のように広がっていたと考えているようでありますが、実際はそうではありません。やはりその間にものすごい変転があったのです。それは数十万年単位で浮上したり沈んだり分裂したり、けっこう変化に富んだおもしろい推移があったのです。 ですから、アフリカの、今のエジプトあたりの土地はかなり古いのですが、あのあたりにしても、ずいぶん上がったり下がったりしています。山脈のようになったときもありますし、いったん海底に沈んだこともあり、また今のようになったこともありまして、いろいろと変わっています。 このゴンダアナという大陸はそうとう大きな大陸で、主として南米とアフリカがひとつの大陸であった時代のことをいっているわけです。それ以前に他の大陸とくっついていた時代もありましたが、百万年前は、そのような状態にありました。そして、大陸の分裂移動という大事件が起きたのです。 今の大陸移動の考え方では、マントルの対流によって、浮かんでいる大陸が動くという説明をしています。そこでは、プレートと呼ばれる固い岩石の層が地球の表層を、一年間に何センチずつか動いていくというのです。たとえばハワイにある島は一年に二、三センチくらいずつ日本のほうに近づいてきています。そして日本海溝のほうは、何センチかずつやはり沈没していっているのです。このままでどんどんいけば日本列島が沈み、あちらのハワイのほうの島がだんだんと日本のほうに寄ってくるであろうというような説明をしているのです。 ただ、その移動の速度を測っているのは現在の観測結果です。しかし、これはやはり変わります。地球自体が生きているからなのです。地球はひとつの肉体であり、マントルの対流というものも、これは地球自体の血液のようなものなのです。ですから地球という、生命体に異常事態が起きたときには、これはそうとう激しく動きます。したがって、マントルの対流の速度にも、いろいろな変化の時期があります。今のマントル対流がこのような状態であるから、同じようにずっと来たのかといいますと、そのようなことはありません。やはりいろいろな変動をしているのです。 ②男女間の超能力の違い さて、このゴンダアナ文明が栄えたのは、今から七十六万年前から、大陸消滅までの約二万五千年の間くらいの期間でありましたが、ここは超能力を中心とする文明でありました。 当時は男性の身長がニメートル一○センチ、女性が一メートル八○センチくらいが標準であり、かなり大きな体格でした。特徴のひとつは、男性には第三の眼が眉間のところにあったということです。ヨガで、チャクラとよく言いますが実際に、肉体的にもそこに眼があった時代であったのです。 現在は、二つの目だけで見ているような気もいたしますが、感覚的に見ても、霊視などができたりするため、やはりこの眉間のあたりで見ているような感じが、私はそうとう強くします。この時代の痕跡があるのだろうと思います。 この眼は超能力を発揮するときだけ開いたということですから、一つ目小僧のようでありますが、普段は閉じていて、いざ超能力を発揮するときにだけパッと開くのです。そうしますと、女性はそれが怖くてパッと逃げるわけです。そういうことで女性が従たる立場に置かれた、ということも言われています。 しかし、ゴンダアナの末期の神話として語られているものとして、「神は、人間の男女を平等につくられた。その証拠に、男性は、自分の身をまもり、一族の安全をまもるために、第三の眼が与えられ、女性は、一族の繁栄のために子宮を与えられた。」ということもあります。 おもしろい平等思想であると思います。この第三の眼によって超能力を男性は持っているが、女性も超能力器官を持っている。それは、一族の繁栄のための子宮であるというわけです。そして、この超能力器官によって、女性は霊天上界と交信ができて、子供となるべき霊を身に宿す前に面接試験ができたというのです。そして、両者合意のうえ、宿したということですから、現在のような人工流産もなかったようです。 内も子供が生まれてくる前に、子供と話をしていました。その会話もテープに収録してあります。一九八七年の四月くらいであったでしょうか。そのときには、すでに生まれてくるのがわかっていました。生まれる本人が「私がこれから出ます。」というので、その準備期間中のことであったようです。 それは、だいたい一か月と少し前くらいから生まれる準備を始めるらしいのです。そして、どのような人生を送るのかをテープに全部吹き込ませてあります。ですから、この計画と実績のズレを、これから分析することができるわけです。本人の計画と実際の人生がどうなるのか、これはまさに実験をしているのと同じで全部わかってしまいます。 約三〇分間くらいの時間をかけて自分の人生の予言をしております。本人に言わせれば、自分は勉強はあまりしたくない、だから、詰め込み教育は止めてほしい、しかし私は早熟の天才となるであろうなどと、いろいろと言っておりました。このようにして一生を予言しております。今後、彼の人生をたどっていくとおもしろいと思っております。 実際に宿るときはどうなるかということについてでありますが、肉体に宿る直前には、やはり交信ができない状態になるのです。生まれてくる前にカプセルのようなものに入るからなのです。 霊界には、そういった産卵場ではありませんが、何か生まれ変わりセンターのようなところがあって、そこにいき、やはりひとつのカプセルのようなもののなかに収まって、冬眠状態に入っていくのです。そして、霊体自体がひじょうに小さなものになっていきます。 ですから、一か月と少しの間は話ができなくなりました。交信がほとんど不可能な状態になるわけです。そして、その後、魂が宿った時期がいつであったかということを計算すると、満九週目に入ったときでありました。家内はそのとき大きな白い犬が出てきて遊ぶ夢を見たのですが、どうやらそのときに入ったようです。 そして宿ったあと、一週間くらいは話ができました。そのときは私もずっと話をしていたのでありますが、まだこのときには本人も大人の意識で、あまり変わりはありません。二か月ちょっと、三か月にならない胎児でありましたが、ずいぶん難しいことを言っていました。 これがやがて「バブバブ」としか言えなくなるのかと、かわいそうだなと思っていたわけですが、一週間くらいはしっかりしていたのです。その後赤ちゃんみたいなことを言うかと思っていますと、急に難しいことを言いはじめたりするという一定しない状態が三か月目ぐらいのあいだ続いていました。 そのうち意識的には、だんだんと赤ちゃんのようになっていきました。七か月目ぐらいに入ったときには、赤ん坊としての意識として話ができるので、おもしろかったです。 ですから、ゴンダアナのときはみんながこのようなものだったわけです。向こうの要求がわかりますし、こちらの話しも通じるのです。 テレパシーでも話ができるのですが、おもしろいことに赤ん坊の霊言もできるのです。言いたいことがあれば、私のロを通じてしゃべることができます。霊言自体は、たいしたことありません。「パフパフパフ」から始まって、何とかが痛いとか、欲しいとかが中心です。もう少し意識が目覚めていたときは、あまり勉強させられると困るというような内容でした。中国系の魂なのですが、家内が論語などを読んでいると、系統が違うものですから嫌がったりして、自分は勉強が嫌いだなどと言ってきたりしていたのです。家内が自転車に乗ったときには、揺れて頭を打ったのでしょう、「自転車痛い、乗るの止めて。」と言われたりして、それ以後家内は自転車に乗れなくなったのです。そのようなことを要求してきたこともありました。 魂が肉体に入っているので、普通の霊言とは少し違うようです。しかし、このような状況であると、普通の地上の肉体とは違って出入りがしやすいのでしょう。まことにおもしろいのです。胎児の言いたいことが、全部わかるのです。 ですから、ゴンダアナのときも、実際こうだったのだろうなと思います。胎教であまり英語はやらないでくれなどと、要求もいろいろするのです。みなさんも、もし女性でこれから出産される方で、霊道を開いたならば、お腹のなかの赤ちゃんと話ができるわけです。何が言いたいかが全部わかります。 それと、霊道を開いた場合の女性は、つわりがありません。つわりの原因は、たいていの場合、母親の肉体意識があまりにも三次元化してきているためで、それで苦しいのです。赤ちゃんが宿るときというのは、この子宮という霊能器官に宿るわけで、ブレが起きるのです。超能力器官ではあるけれども、心が澄んでおらず、錆ついていると、その意識のズレがそうとう出てきます。このときに、つわりが起こるわけです。ですから吐いたり食べ物の好みが変わったりするのも、このようなときです。なかなか合わないところにむりやり魂を押し込むので、それで何か変調をきたすわけです。 また、女性の霊意識が低いところに、もう少し高い意識を押し込むときにも、よくつわりが起きます。それで、霊道を開くとつわりがゼロになるわけです。まったくバイブレーションのズレが起きないのです。 このようにおもしろい結果をずっと分析しています。追跡調査をずっとしてみたいと思っています。本人の予言がどこまで当たるか、何十パーセント的中するのかを調べてみれば、たいへんおもしろいと思います。あと、三〇年くらいすればそれを発表するかもしれませんので、みなさんに長生きをしていただきたいと思います。 ③目の色と超能力 ゴンダアナでは、八つの民族が入り乱れて覇を競っていたので、外敵から身を守る必要があり、第三の眼がひじょうに使われていました。この眼には、黄色、緑、紫、黒、灰色、茶色という色があり、民族によって超能力の発達の度合いが違っていたようです。この六つの色の眼のどれにも共通しているところ、いわゆる念力的な部分は、強弱はありますが、だいたいみな持っていました。つまり念による物理的な力で、相手を金縛りにして、身体を動かせなくすることくらいのことはできました。このように出口王仁三郎のような世界では、霊力の強いほうが相手を縛れるわけです。 黄色い眼の特徴を言うとすれば、読心力、マインドリーディングの力がひじょうに強かったようです。緑の眼を持っていた人は、音感あるいは音楽的な超能力にひじょうにすぐれていました。紫系統は臭覚的感覚が特に強く、黒い眼に特徴的なのは霊視能力で、いわゆるオーラが見えたり、霊体が見えたりする能力が強かったのです。さらに灰色は霊聴能力が中心で、茶色は予知能力でした。 このように中心的な念動力といいますか、それぞれ特徴のある最高パワーをもっていたわけなのですが、これ以外にも六大神通力に値するような部門をいろいろもっていて、技を競い合っていました。 各民族の秘伝の部分があって、そこの長がおりまして、その部族の霊能力や超能力を高めるべく磨き合い、訓練に訓練を積むわけです。たとえば、霊視能力であれば、その能力を開発して、はるか地平線のかなたにいる相手を見えるようになるために訓練するわけです。もちろんそれは第三の眼でみているわけであって、しばらく見つめていると、拡大図のように近づいきてその様子がわかるわけです。 こういう訓練をやっていますと、忍者のように千里先の針が落ちた音がわかるというように、地に耳を伏せて遠くの音を聞いただけで、だいたい敵が何人ぐらいいて、どのような装備をしてきている、ということがわかるようになるのです。 ④文明の盛衰と霊界への影響 このような時代も、それなりにおもしろかったと思いますが、残念なことは「心」がなかったということです。そしてこの大陸消失後、これが仙人界、天狗界、魔術界等の源流になっていったということです。 霊天上界にはいろいろな世界ができているわけですが、このように一つの特別な世界ができる原因は、地上でやはり大量にそうした方面で生きた人が多くいて、それがまとまって天上界にあがったというところにあるようです。そして、その一つの世界が天上界にできると、そこでまた拡張力を発揮するわけです。そこでも、いろいろな新参者を連れてきて訓練させたりして、仙人の世界や天狗の仲間を増やしていきます。そして人数が増えてくれば、また地上に送りこんで地上の仲間を増強したりしてがんばっているのです。 あまりにも異常に大きな数の、同じような傾向性を持った魂が教育によってつくりだされた場合には霊界にもそのような影響が出てきます。 そして、やはりそういう集団がだんだんとどこかに場所を借りて住みはじめ、拡張しはじめます。そのようにしていろいろと変わっていくのです。霊界でも指導霊団の力、実績というものは変わっていきます。ですからイエス様が地上に出たときなどは白色系団がそのあと活動して天上界で邑(むら)をたくさんつくりました。そのあとに、また地上に出てキリスト教を広めたりして、よく教育していきますと、その教育を受けた人が、また広げていきます。他の霊系団も、このような感じで活動しています。 みなさん方のなかにもだいぶこのゴンダアナの時代に生きていた人がいらっしゃると思います。 ⑤ゴンダアナ文明の滅亡 「七十三万五千年前の秋の、ある夕暮に大地からゴーというすさまじい地鳴りがしたかと思うと、ゴンダアナ文明の中心都市のひとつであるエカーナという大都市の中心に、南北に亀裂が入り、みるみるうちに大地に断層ができてきました。最初の断層は、南北百キロぐらいでしたが、やがて、海水が入りはじめて分裂の兆候を示してきたのです。第二段目の変化は、それから三日目におこりました。マグェチュード10ぐらいの、強烈な直下型地震です。約三十万人のエカーナの住人は、この日、死にたえました。」と『太陽の法』に説明されています。このエカーナがどのあたりにあたるかというと、現在でいえば、やはり大西洋域になります。エクアドルの北東の方向で、ヨーロッパとの中間点のところにあったようです。 これは、文明の滅び方を見ればよくある話であるということがわかると思います。それから、ゴンダアナの東南部にはエルミナという都市があって、そこに住んでいたエルミナ族は予知能力がひじょうに発達していたので、一部の人はあらかじめ逃げることに成功しました。そして南方にあった無人の大陸に逃れていきました。 このエルミナは、どのあたりに位置していたかといいますと、これが現在で言うとブラジルのサンパウロのもう少し北のほうで、やはり海域に相当しています。そして、この予知ができる部族が海路南に、逃げたわけです。 この南に無人の大きな大陸があり、この大陸が実は現在の南極大陸と八割くらい重なっている大陸で、いまの南極は寒帯にありますが、当時は地軸がずれていて、比較的温暖な大陸でありました。小麦によく似た穀物がひじょうによくとれました。そしてここにミュートラム文明という三〇万年前から一五万三千年ぐらい前ころまで栄えた文明が出現しました。 5.ミュートラム文明と食文化 ここで特に発達した文明は、食生活の文明です。このあたりにきますと思いあたる人がそうとういらっしゃると思います。食物をどのように組み合わせて食べることが人間性にとって役立つかという、食生活と人間の精神生活との関連性が、徹底的に追究されていました。どういう植物を食べると人間の気質が穏やかになるか、あるいは、どういう精肉を食べると筋肉に瞬発力がつくか、乳製品を一日に何回、どのくらい食べれば長寿が得られるか、脳細胞の活性化に役立つかということが熱心に研究されていたわけです。 たとえば、当時もビーールに似た泡立ってアルコール分のある飲み物があり、それを飲むと気質がひじょうに穏やかになるということも研究されていました。アルコールにも種類によっていろいろな効用があって、ビールに近いようなものは、人間の性格を穏やかにさせていくけれども、その当時にあったブランデーに近いような飲み物は、人間を多少狂わせたりするような力があるとか、あるいは当時の、ワインに近いような飲み物は、高級な精神生活に向いているなど、このようなことをずいぶん研究していたようです。 食物でも乳製品が当時、流行(はや)っていて、農業国であったのですが、酪農に近いものが行なわれていて乳製品をいろいろと研究していました。現在ではミルクとして飲むか、チーズあるいはバターというように、乳製品はこの程度の種類しかないと思いますが、この時代にはもっと研究されていて、何百種類もの乳製品がありました。私たちは、まだそれほど研究心がなくて、チーズかバターくらいでよいと思っていますが、当時はひじょうに研究がなされていたわけです。 この乳製品についても、やはりどういうミルクでつくるかということが、ずいふん課題とされていました。この当時の牛は現在よりも少し小さめでしたが、育て方、飼料の与え方等でどういうミルクを出すか、ということが熱心に追究されていました。それと牛以外のほかの動物のミルクも、ずいぶん消費されていました。 ①パノアのミルク 狼に似た動物のミルクも一生懸命採取していました。その動物は狂暴で家畜にならない種類のものであったのですが、そのミルクは、ひじょうにおいしかったのです。山に棲(す)んでいて、歯がすごい動物でした。ですから、これから乳を搾るということはなかなかの大仕事で、これをどう捕まえて乳を搾り、またそれをもとの野性の状態にどうやって戻すかということが問題でした。山に、ある程度の囲いをつくって、勇士が山に登っていき、バケツを持って搾りにいくわけです。 それはとても大変な作業で、そのための訓練も施されていまして、その狼牛からミルクを搾るために筋力トレーニングも行なわれていて、格闘技の前身にあたるようなものが、そうとう開発されていました。その動物を押え込んでいかに噛まれずに乳を搾って帰れるかという方法が工夫されていました。これは、投げ縄をつかうカウボーイのやり方に近い方法でした。武器としては縄に近いもので、長さが一メートルぐらいの仕込み棒で、中が空洞になっていて棒の先から輪がついた縄が飛び出すような仕掛けになっていたものです。飛び出す縄全体の長さは、だいたい四メートルですから、それぐらいまでは近づかなくてはならないのです。ですから、柵をつくって、音楽隊のように太鼓をたたいたりして、追い込みをするのです。その柵のなかに狼牛を追い込んで、仕込み棒を使い投縄を飛ばして狼牛の首にかけます。 この投縄は、仕込み棒についているボタンを押すことにより狼牛の首を締めるようになっています。首が締まって「フーフー」いっている狼牛にまたがって、もうひとつの伸縮性のあるバンドのような武器をだして、それをロにかけます。ゴムのようになっていますから、「キューッ」とロを締めてしまいます。そしてそのときにもう一人が出てきてこの狼牛からミルクを搾るのです。 この狼牛のミルクはひじょうに高価で、飲めば長生きするといわれていたのです。当時、研究はいろいろありましたが、とくに、長生きの秘訣、不老長寿の薬がそうとう研究されていて、不老長寿の薬が、三種類あると言われていたのです。その一つが蜂蜜のたぐいです。現在の蜂蜜のたぐいのなかに不老長寿のエキスがあるといわれていました。 もうひとつは、この狼牛の乳に長生きする素(もと)がはいっているという研究報告がありました。なぜそう思われたのかといいますと、この狼牛はひじょうに精力的な動物であって、そのうえ動物のなかでも長寿であり、また繁殖力がたいへん強く、ものすごく生命力が旺盛であったので、それにあやかろうという考え方があったわけなのです。この狼牛の名前は、「パノア」と呼ばれておりました。 このパノアのミルクは、このような危険を冒して手に入れるものですから、現在の経済原理からいっても、これがどれだけ高価になるかということがわかります。このミルクは現在でいえば、ワニ革くらいの値打ちがある貴重品でした。ですから、だいたい王侯貴族の経済力がないと、飲めないものでした。 それゆえ、一般の人は、経済力をつけて早くパノアのミルクが飲めるようになりたいとか、ある島でとれるあの蜂蜜が飲めるようになりたい、そしてもうひとつの不老長寿の薬としてクロレラの先祖にあたるものを手にいれたい、という思いが強くありました。このように長寿の研究が進んでいたので、その結果、この時代にはけっこう長寿の者が多かったようです。 ②食物と人間の精神 魚の研究もずいぶんされていました。魚の料理方法なども、現在よりかなり進んでおりましたし、それぞれの魚の味に対する好みも厳しかったのです。どういう香辛料とあわせるといちばん美味しいかということが、徹底的に探究されていました。今の西洋人はそれほどではありませんが、ギリシャなどでは現在でも魚料理の研究が盛んなようです。 この時代に高級魚とされていた魚は、鯛ではなくて、イトヨリの親戚のような魚でした。それはなぜかといいますと、いろいろな分析の結果、つまりエネルギー量換算や、健康度、成分の分析、美味しさの分析というようなものからいくと総合的に一番であったためです。鯨に近いものもいましたが、大きな生物であったので、海の神というように呼ばれ恐れられていました。鯨を見た場合には、漁師は逃げていました。鯨は食用ではありませんでしたが、鮫は食べていました。フカヒレスープに近いものの研究は進んでいて調理法もいろいろありました。 そして、食生活部門ごとに長寿博士あるいは耐久力博士や、記憶力増強博士など、いろいろな博士部門がありました。ようするに、食品と精神のかかわりを徹底的に追究していたわけです。考えてみますと、あるいはそういうものかなという気もいたします。 もしみなさんが、子供のころから、人間の基礎は食品であって、これがないと人間は死んでしまうし、食べ物によって人間の発揮する能力、あるいは精神状態が左右されるのだから、食物と精神のかかわりを研究していくことが最先端の学問であり、一番の叡智者、知恵ある者が行なう仕事である、と言われていたならば、ある程度納得されるのではないでしょうか。確かに食品は万人に必要なものであるし、それでどのようなものを食べればどうなるのか、気質が穏やかになるのか、乱暴になるのか、崇高な精神になるのか、ということはだいじな問題だということです。 ですから、その当時一生懸命研究した人が、今世生まれ変わってきますと、だいたい食品の研究家や、美容食研究家などというようになるわけです。食物と運命の研究家のようになって出てくるのは、だいたいこのころにやってた博士たちがやはり出ているのです。このように、ミュートラム文明は食生活と人間の気質についての膨大な研究を残しました。 このころの研究と比べますと、やはり現代食生活の研究は、数段遅れています。また料理法などもあまり進歩しているとは言えません。ここ何千年かでみれぱ進歩しておりますが、人類の長い歴史、何億年の歴史からみれぱ料理法は決して進歩はしていません。いまでは信じられないような料理が過去にはたくさんありました。そのときに活躍した人が今、生まれていて、時どきパーニャ・パラミタを出して、過去世の料理法を思い出したりしてつくるのです。 ③エミューラの改革 ただこのときに、ひとつの唯物思想のはしりが出てきました。食生活に関心が移ったために、本来の使命である魂の研究、修行がおろそかにされてきたということです。このミュートラムの最盛期は一六万年前くらいになりますが、モーゼとのちに言われた人、当時の名前はエミューラという名前でありましたが、このエミューラ大師が地上に出たときに、「食生活から心の生活へ」というスローガンのもとに精神革命を起こそうとしました。 しかし、これは失敗したようです。それほど深く食生活を研究し食を愛していった人たち、いわばグルメの大群のような人たちに真向から「食物じゃないです。人間は心です。」と言ったところで通用するかどうかです。実際には異端視され、大変な苦労をし、迫害を受けました。ただ功績としては、食生活だけではない何か別のものが、人間性に影響があるのだというイメージだけは植えつけることはできました。この図式は現代の唯物思想とたたかう宗教のはしりに近いともいえるでしょう。
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 6.地球意識による極移動 このミュートラムの大陸は極移動で寒帯入りをしました。極移動は、もしかすると、私たちが生きているときにも、またあるかもしれないと予言されています。なぜこの極移動があるのか、不思議といえば不思議なことですが、結論をはっきり申しますと、これはひとつの新陳代謝なのです。地球は生き物なのです。あるところは寒帯になり、あるところは熱帯になっていて、いつも同じように身体を太陽にさらしているわけです。 たとえば今、私が日なたぼっこをして光を浴びているとします。すると陽の光があたっている側は暖かいのですが、陰になっている下のほうは寒いのです。そうやっていつも同じ格好でいますと、熱いところは熱く、寒いところは寒く、ひじょうにアンバランスになってきます。そこで、どうするかといいますと、急に向きを変えたくなるわけなのです。 それと同じような感じで、生命体としての地球も、やはりある周期でブルブルッとくるときがあるのです。これが、どのくらいの周期で起きるかは私にもよくわかりませんが、ただ、十次元意識としての地球意識が、やはり時どき変革をしたいという気持ちを起こすのは確かです。そのときに、このような極移動が起こることがあるのです。自分というこの地球上でいろいろな生命が育まれているけれども、現在の状況を変えたいという気持ち、また違った環境を創ってみたいという気持ちが起きることがあるのです。その一つの方法が極移動なのです。極移動によって、温帯と冷帯が入れ替わったり、熱帯と寒帯が入れ替わったりします。 もう一つの方法としては大陸の、浮上、沈没というやり方もあります。噴火とともに隆起してきたり、大地震で沈没したり分裂したりという地表の動きです。 このように活動して何をしているのかといいますと、地球意識も何もしないでじっとしていれば退屈するということです。彼らもやはり一つの芸術家であり、何億年もかけて、いろいろな環境を創ることを意図しているのです。どのような環境を創れば地球がいちばん繁栄するか、人類の進化に役立ち、繁茂している植物あるいは動物たちの進化・繁栄に役立つか、このようなことをやはり意図しているわけで、そのためにいろいろな環境を創出するのです。 いつも同じであれば停滞してしまいます。ところが温帯や寒帯が入れ替わりすることによって、植物もまた新しく違ったものが出ることができるのです。そして、いろいろと変わった植物が発生し繁茂していきます。その後に、それを食物としている動物もまた変化してきたり、いろいろなことがあるからおもしろいのです。 7.大日意識による文明光線の調整 同じように大日意識という積極性の意識は、太陽神霊の光線を引いているわけでありますが、やはりどういう光線を強くしていくかをいつも調整しています。文明が変わっていく理由は、ひとつに、この大日意識の調整によるということです。これが光度を上げて九次元をプリズム化して調整しているわけですが、この光の強度も変えたりするのです。強弱を調節したり、あるいは光の質を変えてゆきます。そしてこの時代ではどのような光線を強くしようかということを大日意識が意図すると、その方面の光線が強くなるのです。するとそれが地上に反映されてきて文明の特徴が現われてくるのです。そしてその時代が過ぎると、また次の光線を強めていくのです。 このように十次元のなかでも大日意識は、そうした光線によって調整をかけ、地球意識では環境を芸術的に変化させることで調整をかけながら、いろいろな影響を与え歴史を創ってきています。その間で人格を持った高級諸霊たちががんばって天国創りに励み、ユートピア創りのために活躍している、このような環境であることを知ってください。 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 このようなことは、スケールがひじょうに大きいので私たちからはよくわかりませんが、彼らにしてみればこうした何十万年、何百万年ぐらいの間での地殻変動等であれば、意外にそう悠久のことではないという感じであると思います。そのような雄大なスケールの時間の流れのなかで私たちは手の平にのせられて魂修行をしているということを知らなければならないのです。 ですから、このようなことを単なる幸・不幸の感覚でとらえるならば、みなさんは勉強不足ということになってしまいます。このように過去においていろいろな文明が生まれ、栄え、そして滅びたということを繰り返してきたけれども、そのたびに人類はいろいろな魂学習をしてきたという事実があるのです。 この現文明においても同じようなことがあるかもしれませんが、またこれも、そのような流れのなかにあるということです。収穫逓減の法則というものが経済学にありますが、それと同じように一つの大陸で一つの文明が栄えて固まってくると、魂修行の値打ちがだんだんと低減していって、生まれ変わってもそんなに魂的に学ぶことがなくなってくるのです。 そうしますとやはり、どうしても環境を変える必要が出てくるのです。そのためには何か地球自体の環境を少し変えるか、あるいは違った光線を強くしていって文明の価値観を変えるのです。光線の色が変わってくると、それにつれて、人類の価値観が変わり、新しい文明が興ってくるのです。こういうことが言えるのです。 9.レムリア文明と芸術 ミュートラム文明が滅びたのは、水上に顔を出したボールが、くるっと一回転するというような地軸の変化によるものでした。ミュートラムの首府ラ・ミュートという都市もすっかり大雪で凍りついてしまって、ほとんど全滅してしまったのです。しかし、ごく一部の人びとは船で逃れて次なる大陸に行くことができました。 それが次なるレムリアです。このレムリアの歴史のなかでは、ゼウスの前身でエレマリアという人がひじょうに有名です。このエレマリアは文学芸術の全般にわたる万能の天才で、このエレマリアの名前の由来もレムリアに降りたる神の光という意味のエル・レムリアという言葉から発しているというほどに偉大な方であったのです。したがって、前のミュートラム文明は食生活文明でありましたが、レムリアは芸術中心の文明になってきたのです。そして大聖エレマリアは、芸術を通して人びとに生きる歓びと神の栄光を教えていきました。現代でも芸術方面に優れた才能を発揮している人は、この時代に勉強した人が多く、読者のなかにも思いあたる方もいるのではないかと思います。 ①マルガリットの芸術至上主義 このエレマリアの後にレムリアに巨大な光をもたらしたのが、マヌと呼ばれている人です。今から二万九千年ほど前のその時には、名前をマルガリットと呼ばれていました。大師マルガリットと尊称されていましたが、マルガリットとは、「競い立てる者」という意味であり、これには二義があります。一つは全能の神と崇められたエレマリアと競い立つという意味で、もう一つは芸術を通して各部族を競わせるという意味です。ここに現在の民主主義に近い考えが出てきたわけです。 芸術に競争原理を持ち込んだということですが、民族を音楽、絵画、文学、建築、加工技術の分野に分けて、それぞれに最高のものを追究させ、そして三年ごとに最高の芸術を決める競技会を開催して最優秀となった部族を支配階級として、三年間治めさせました。そしてまた三年たったのちに競技会を開くというようにしていたわけです。現在アメリカでも大統領の任期が四年ということになっていますが、それと同じような意味で洗礼を三年ごとにやっていたわけです。 芸術性を発揮するということは、この当時は神に近づくことでしたから、最高度に神に近づいた部族が支配階級になって治める権利が与えられ、その代わり修行や勉強を怠って芸術性が落ちると、三年後に転落するわけです。そして次の支配階級が出てくるということを考えたのです。 芸術という限られた領域ではありましたが、公平に競争させて、勝者を統治者にするという考えは、競争主義の先駆けとも言えるでしょう。同時に祭政一致という考えでもあるということです。競争させる対象を神に近づいていくということにもっていったわけです。ここが現在の競争原理と違うわけで、単なる得票だけで表わすことはなかったのです。 ②新しい時代の神政民主主義 現在であればいろいろな政党がありますが、この考え方をとり入れるとするならば、どの政党の主義主張、あるいは実践してきたことが神の心にいちばん近いかという基準をもうけるのです。それで過去三年間の実績を出されるのです。その政党の過去三年間の主義主張、活動、これが神理にどれだけ近いかということではかられて、その三年間の実績でいちばん神の心に近いと思われる活動をしたところが与党になるわけです。そして政権を与えられて国政をまかされるということになるのです。 このように考えてみますと、現在の民主主義的な考え方を活かしながら、この祭政一致をとるという方法論が、具体性を帯びて浮かんでくるのではないでしょうか。従来は民主主義のあり方と祭政一致主義とは両立しえないものと考えられてきましたし、霊言集のなかでもそのような見解がずいぶん出ています。日本神道系の考え方と、リンカーンの考え方ではかなり違いがあります。 どちらがほんとうによいのかということになると、デモクラシーがやはりいいという考え方があれば、一方においてはそれは最悪を防ぐ制度でしかなく、最高のものではない、徳治主義こそ最高だという考え方もあるのです。しかし、徳治主義は腐敗しやすく、一代限りになって、あとが続かないことも往々にしてあります。 このあたりをどのように調整するかという観点から判断すると、ある程度のコンペティション(競争)をしながら、そのなかからもっとも神理にのっとり、神の子に近い主張を持って活動をしているところを選ぶという方式を採用するようにすれば、いちばん神理にかなうわけです。 したがって、このような方法を活かすとすれば、現在の選挙制度の方法である得票のあり方を多少変えていく必要があると思います。たとえば単なる得票の数ではなくて、地上ユートピア建設へどの程度貢献しているかということを、選挙や国民投票の得票あるいは間接選挙などの方法で競わせたならばどうでしょうか。その政党がどれほど神理に近いか、どれほど活動において、菩薩行としての社会に対する実績があるかということを、得点化して競わせるならば、ひじょうに理想の政治に近づくということです。このように、いろいろと過去に学ぶことによっても、知恵は湧いてくるのです。 10.ムー文明の興隆 ①レムリヤからムー大陸へ このレムリヤの最期は、二万七千年前ほどでありますが、あっという間でした。暑い暑い夏の日の午後、人びとが音楽に酔いしれているときに突如、大陸が陥没していったのです。まず、大陸の東端から沈んでいって、午後四時ごろには半分ほどになりました。そして翌朝の七時には、大陸は見る影もなく、そこには朝日がきらきらと青い海原を照らしているだけでした。 レムリヤ大陸に住んでいた二百五十万人くらいの人も、全員海の底へ沈んでいったのです。ただ、このときも植民地があって、そこだけが残っていました。この植民地の名がモア大陸、のちにムー大陸と呼ばれる大陸です。現在のインドネシアのあたりにあったのですが、オーストラリアの約二倍ほどの面積がありました。 レムリヤの人びとは帆船で大軍団を組んで、二万八千年くらい前から、この大陸の諸都市を植民地化し始めていました。そして、一部を奴隷化して、レムリヤにつれてきて奴隷階級をつくりました。そして、生活に必要な仕事を奴隷にやらせ、自分たちは、当時もっとも神に近いと思われていた音楽、芸術に酔いしれていて、生産的なことにはいっさいたずさわりませんでした。 この非生産的な傾向が、だんだん狂いを生じさせる原因となって、レムリヤの人びとは驕(おご)り、酔いしれるようになり、次第に神の心から離れていきました。そして、その悪想念が巨大化し、それに対する反作用が起きて、大陸の陥没という最悪の事態になっていったのです。 ②光の文明 さて、ムーでも二万年くらいまえから、大きな文明の盛り上がりがありました。このときにゾロアスターの前身があらわれて、その。名をエスカレントといいました。このエスカレントという名前は、現在の英語のエクセレントの語源となった言葉で「すばらしい」という意味を持っています。 そして、この大聖エスカレントは太陽科学エネルギーをひじょ与に重要視しました。そして光を、まず第一としては、「聖なるもの」、すなわち、神の栄光を表わすものとして位置づけしました。第二には「有用なるもの」としての位置づけをしました。 最初の、光は聖なるものということから、太陽や月の光に対して、両手をあわせておじぎをするという、そのようなしきたりが生まれました。これは東洋の礼儀の源流になっています。ですから、二万年くらい前に東洋の礼儀作法の源流があるわけです。 第二は光のパワーを科学的に利用する方法が研究されていました。エスカレントは、クートフーミー、後にアルキメデスやニュートンと呼ばれる人の指導や、またエルランティの科学的指導を受けて、光パワーの増幅ということを中心に注力していたわけです。 ここで、この太陽の光エネルギーを使った発電装置についての説明をしてみましょう。都市の中心部には、一辺が三十メートルくらいの正三角形でできたピラミッドがあって、銀色に輝いておりました。そしてそれが各町の中心にある一辺が一〇メートルくらいのピラミッドに放射されて、それから各家庭の屋上にある一辺の長さ一メートルの小ピラミッドにつながるという方法でした。もちろん電線は使いませんでした。 この装置は巨大ピラミッドのようなもので、銀色に光っていたのですが、これは光を浴びているからそのように銀色に見えるのであって、材質そのものの色は銀色ではなく、近寄って見るとガラスのように透明なものでできていました。 そして、そのなかに金属でできた一つの原子炉のように見えるものが入っていました。それは、透明なものでありましたが、遠くから見ると銀色に光って見えました。これが太陽エネルギーを入れる装置で、ピラミッドパワーとよく言われています。私もくわしくはわからないのですが、どうやらピラミッドの形には、ひじょうに特殊な意味があるようで、光を蓄えたり増幅したりする力があるらしいのです。 この太陽エネルギーの巨大増幅装置をつくって、太陽光線を集めると、その内部にどうやらこの光エネルギーを溜めることができたようです。そして、そのなかからアンテナのようなものを通して、小さなピラミッドにそのエネルギーを放射する装置があったのです。 このような装置によって、現在のような電信柱や電線というものがなくてもエネルギーの転送ができたわけです。その代わりこの中心部のピラミッドは、小高い所にできていたことが多かったようです。それより高い建物を建てるとやはり邪魔になりますので、小高いところに建てて、次から次へと太陽エネルギーを放射していったのです。これは、ちょうど、昔はのろしなどを上げて次々に合図を送っていったりするのと同じような考えの方法でエネルギーを送っていきました。このピラミッドパワーは、アトランティスにも引き継がれています。 ③ラ・ムーの宗教政治 さてラ・ムーの時代です。一九八八年の十月の講演会「反省の原理」のなかでもラ・ムーの反省法の話を少しさせていただきました。本書ではラ・ムーの教えの中心として、第一に、太陽のごときものを神と考えるという考え。そして第二に、人間は神の子であるから太陽のごとく光を放ちながら、愛と慈悲に生きなければならない。第三番目に、すべてのムー人は向上を人生の目標としなければならない、ということをあげておきたいと思います。 この三番目の教えにある向上とは武芸、学業だけに適用されるのではなくて、いかに霊性を高めるかというところがポイントだということで、これは、釈迦の教えの源流にひじょうに近い考え方です。何度も言っておりますが、ラ・ムーの考え方と生涯そのものについては、やがてまた書に著わしたいと思っています。 この時代も政治と宗教の一致がだいぶ問われていて、政治をする人はやはり神近き人でなければなりませんでした。その意味でいつの時代でも大宗教家は政治家にならなければ、話が合わないということです。ところが、現在は政治もだいぷ技術的な部分、専門的な部分が増えてまいりまして、かなり難しくなってきたことは事実です。 ですから官僚組織のようなもので、専門的な部分をしっかりさせて、政治家は大きな判断のほうを主としてやっていくようにすれぱよいのではないかと思います。大宗教家が政治家になる時代が、やがて日本にもやってきます。今後何十年か、かかりますが、必ず国政をになう大人物が登場してきます。 このようにしてある意味での祭政一致、つまり地上において国のトップにたつ人が神理を悟っていることはだいじなことなのです。それを知っていて施政方針や本年度の方針などの話をされればよいのです。神理を語ってくださればこんなによいことはありません。新聞にも全部載りますし、テレビにも出ます。ラ・ムーの時代のように、神理を悟った人が国民の前で神理を話す、やはり、これを目指さないという手はないのです。 政教分離などと言っておりますが、そのような条項は四十数年前のアメリカ人と日本人の憲法学者が話して決めただけのことですから、必ずしも神理とは言えないのです。浅い知恵で見れば、宗教と政治がいっしょになればおかしくなると考えることができます。そして、そのような例が過去にあったということもあります。しかし、正しい時代には、神理と政治が一致していた時期が確かにあったのです。間違ったところばかりをとらえていたのでは、性悪論になってしまいます。 この政教分離の考え方のなかに、宗教をいかがわしいものと思っている考え方が明らかにあります。それが、戦後の宗教の地位低下を確かに招いています。今の日本では制度的に宗教が存在悪ととらえられているのです。やはり、これは何とかしなければいけない問題であると考えます。 ラ・ムーによって、その最盛期を迎えた、ムー文明もレムリヤの最期と同じように今からおよそ一万五千三百年前の大陸の沈下によって滅びてしまいました。 11.アトランティス文明と光 ①生命エネルギー転換法 アトランティスとは大西洋にあった大陸の名前です。この時代には、クートフーミーという名の偉大な科学者が生まれました。そして、植物の生命のなかの神秘の力に気づきこれを利用することに成功したのです。これも、おもしろい発見でありますが、ようするに、生命エネルギーを私たちの活動エネルギーに変えるという、エネルギトの質的変換の方法を発見したわけです。たとえば花の蕾(つぼみ)が花瓶などにさしておくと、水だけで花が開きますが、これは実に不思議なことなのです。小さな白い蕾などが、真っ赤な花を咲かせるのは、いったいどこにそのようなエネルギーを秘めているのでしょうか。 この生長と活動のエネルギーに、エジソンなどの発明家が着目し、ずっと眺めていると、何かに使えるのではないかと思うわけです。そしてこの生命エネルギーをなにか他のエネルギーに転化しようと考えても不思議はありません。 この時代には、植物のこの旺盛なる生命エネルギーが、生活のためのものすごいエネルギー源になることが発見されていたわけです。そうすると、自宅に球根をおいておくだけで、それさえあれば、その球根が発芽していくエネルギーを転換して、家の必要とするエネルギーをほとんどまかなえるという方式がありました。 今後このようなエネルギーが、発見される可能性はあります。ウランから取り出す原子力エネルギーも原子核分裂の連鎖反応で生じる大量のエネルギーをとり出すことに成功したものです。水素爆弾は、水素のなかでも特殊な水素が核融合してヘリウムに変換するときの核エネルギーを使うわけです。そういう物質の根源的な質的変換の反応のエネルギーには、ものすごい力が実はあるのです。花なども匂いが漂ってきて、そこには化学反応が起きているわけですけれども、それ以外に根源的な「生命エネルギー反応」というものがあるわけです。生物学が好きな人は、ぜひこの分野で研究してみてください。必ず何かできるはずです。 ②クザーヌスの理神論 ムー大陸が沈み、その末裔が、アトランティスに落ちのびて、ムー文明のピラミッドパワーを、アトランティス人に授けたころ、またマイトレーヤー如来という方があらわれました。その名はクザーヌスと呼ばれ、ピラミッドパワーと太陽信仰をあわせた「理神論」と言う信仰を説きはじめました。 この思想は、理性的なるもの、科学的なるものは、すなわちそれは神の心にかない、また神の心は、理性的、科学的なものを欲するということであり、そしてその最たるものとして、太陽の光をあげた思想なのです。 太陽というのは、よく信仰や崇拝の対象にされますが、その太陽は、そうした信仰の対象であると同時に、私たちに実際の恩恵を与えてくれている、つまり科学的に見てもそうとうのエネルギーを供給して私たちを養い、導いているものであり、これが神の存在そのものではないかという考えです。ほんとうにすばらしい信仰は、科学的な有用性に裏付けられているという考え方であり、これが一世を風靡(ふうび)しました。 このような考え方は、後のヘーゲルなどの考え方にもあるようです。「理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的である。」という言葉でありますが、それを思わせるような感じがします。太陽エネルギーについてはこれはこれで、そのとおりの発見なのですが、ほかのところにもってきますと、もちろん違ってくることもあるわけです。それゆえに考え方のうえにおいて、後々の宗教家たちを縛ることにもなっていきました。 つまり、科学的に証明ができないようなことは、おかしいというような現代によくある考え方です。クザーヌスという人は理性的なものが神の心にかなうのだと言っているのだから、それに反する理性的でないものは、すべてまやかしだ、インチキだという、宗教狩り、悪魔狩りにつながっていく危険性を含んでいたわけです。 アトランティスの時代の飛行船や、船についていたシンボルのシャチは、この当時アトランティスの象徴であり、このことは『太陽の法』に、くわしく説明されています。これは『高橋信次霊訓集』にも触れられています。船の形や長さが多少違うことを言っているかもしれませんが、描写している時代が違うためのようであります。 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ さらにアガシャーの時代に入ります。これは、アトランティス末期に出られたひじょうに有名な方です。アトランティスの首都にポンティスというところがありました。このポンティスという都市は、現在のスペインのマドリッドから西南の沖のほう、距離にしてマドリッドから一五〇キロくらいの位置にありました。その当時は人ロ七〇万人の都市で、そこには代々王族が住んでいてその名をアマンダ族といいます。 アガシャーは、このアマンダ族の王子に生まれて、幼名をアモンと呼ばれておりました。そして二四才で名をアガシャーと変え、その名の意味は「叡智を秘蔵せる者」というものでありました。これは、イエス・キリストの生命体です。イエス・キリストもアガシャー系団の一人なのですが、どちらかといいますとアガシャーというほうが本体に近い部分で、そうとう大きな力をもっています。またなんらかの形でこの人の考え方なり、力というものを紹介してみたいと思ってます。 アガシャーは、ラ・ムー同様に政治家兼宗教家でした。彼の治政での特徴は、毎月一回一〇万人以上収容できる大広場に市民を集めて説法したということです。そのころにもワイヤレスマイクのようなものがあったようです。そして愛の説法を主として説いておりました。 前節でも日本の宗教政治家の出現について触れましたように、このようにアガシャーのような人があらわれて毎月、国民を集め、説法をすることは大切なことなのです。 これがほんとうに人々を心から神の御心に帰依させ帰順させることになり、彼らが生きていくためにひじょうによい結果をもたらすことができるのです。国を治める人がそのような生き方を指導することが一番よいのです。 ですから、このあたりが、現在の政治制度に欠けていると言わざるをえない点であると思います。やはり、心の教えを説いてほしいのです。このような愛の教えや、隣人愛、そして一日に一度は一人で静かに祈り、守護・指導霊と対話する時間を持つことの大切さ。また、人の偉さは愛の量ではなく質ではかられるということ。このようなことを政治家が話をするのならば聞きに行くこともできるのですが、実際は、票集め演説や、他党の批判ばかりをしていて肝心の中身がありません。ですから、ほんとうは選挙のための演説をするのならば、神理の話をどんどんしてくだされば聞くほうも、話すほうも身になります。あるいは、町長さんや村長さん市長さんがいて、時どき人々を集めて神理の話をしてくだされば、どれほど住民の心が潤うかわかりません。 したがって、このような人たちが、表に出ていけるような時代風潮を創らなければならないと思っています。その前提としてやはり今、この逆になっている価値観をもう一度ひっくり返すことが必要なのです。逆ピラミッドをひっくり返すということです。 いちばん頂点に立ち、立派であるべきものが、今いちばん底辺におかれている状況でありますから、このピラミッドをもう一度ひっくり返すためにいろいろな時代背景のなかでそのような風潮を創っていく必要があります。それゆえに値打ちのあるものを創ろうという点でいろいろな努力を現在しているわけです。 これがあやしげな団体と言われないように、あるいは、評判の悪い団体にならないで、評判のよい団体になるように、一人一人がすばらしくなるように、できればそのような感じに持っていきたいと思っています。そうでないとこの状況は変わらないのです。絶対に変わりません。 13.現文明への流れ さて、聖クザーヌス派とアガシャー派が対立して、最後はアガシャー派が生き埋めにされてしまうのですが、このアガシャーの長男のアモンニ世は、逃れることができました。これが、『キリストの霊言』に出ているアモンです。 彼は飛行船で逃れてエジプトに行きました。そしてエジプトで太陽信仰のような教えを説きました。アトランティスの信仰をエジプトに持っていったのです。このエジプトから次にギリシャ、ギリシャからヨーロッパヘと文明がまわっているのです。 東洋文明の源流はムーにあります。ムーの文明が東洋に広がり、西洋はアトランティス文明からはじまっています。おもしろいと思います。 ここで釈迦の生命体の転生を少し説明すると、クラウド、ヘルメス、ブッタ、トス、ラ・ムー、あとは、オフェアリスという魂がおり、ギリシャでヘルメスの前に出ています。彼はいまからちょうど六五〇〇年前に出ています。これがヘルメスの前身として出てギリシャ的精神の礎(いしずえ)を創りました。そして、その後四二〇〇~四三〇〇年前にヘルメスが出ました。だんだんこのあたりの秘密は明らかにしていきたいと思っています。そしてゼウス、モーゼ、イエスと時代は下っていくわけです。 14.百万年の歴史をふり返って この章の最後に、けっきょく何が言いたかったかということを整理してみましょう。 (1) 文明には、必ず栄枯盛衰がある。 (2) 神は、必ず各文明に、偉大な光の指導霊を出している。 (3) 文明が最盛期を迎え、最後の光が輝いているころ、魔が競い立ち、暗い想念エネルギーの雲に人類がおおわれるようになると、地軸の変化とか、大陸の陥没という大異変が必ず起きている。 (4) 新しい文明は、古い文明の流れを受け継ぎながらも、必ず異なった価値尺度を求める。 (5) しかし、どのような文明であろうとも、魂の修行のために転生輪廻の過程で必要な修行の場であったという事実にはかわりない。 ということです。 以上に書かれたことは、いったい何を意味しているのでしょうか。この五項目は、なんのためにあるかというと、これからは危機の時代が来るかもしれないが、過去においてもそのようなものがあった、そのつど人類は、その危機を切り抜けてよりいっそう高い魂の境地を目指して努力していたのだということです。 この過去の文明、ここに生きていたのは、他人ではなくてみなさんご自身なのだということです。みなさん方はいろいろな時代に生きたのです。そして現代にも生まれ変わってきているのです。ですから、その過去の時代を無駄にするなということ、今世だけが末法であるとか末世であるとかと思うなということです。それは、次なる時代が始まるということなのです。これを知っていただきたいのです。 ですからこの、いったん沈んだ神理の太陽がまた昇る、というところに救世の書『太陽の法』ならびに本書『太陽のメッセージ』のメイン・テーマはあるのです。過去に昇っていた太陽が今また昇っているのだということをみなさんにお教えしているのです。これがひとつの大きなテーマなのです。
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目次 1.太平洋上の大帝国 2.文明の特色 3.人びとの霊的目覚め 4.ラ・ムーの教え 5.ムー文明の崩壊 1.太平洋上の大帝国 さて、本章では、いわゆるムー文明、ムー大陸について話をしてみたいと考えます。 太平洋上に浮かんでいたと言われる、伝説の大帝国ですね。ただ、これは、私たちの実在世界にある記録から見て確かにあった文明なのです。そうした文明があったという記憶を、人類はどこかに持っていて、そのムー文明の話が現代まで伝わっています。 ムーという大陸は、そうだね、現在で言えば、まあジャカルタ付近だろうか。あのあたりを中心とした大きな大陸で、それが太平洋上に浮かんでいたんです。ここは非常に発達した大帝国でありまして、農業はもちろんのこと、牧畜業、その他いろんな面でも進んでいましたし、また、一大海洋文明であったことも事実です。海洋文明であって、船の技術が大変進んでおりました。 この時代には、数多くの光の天使たちが地上に降りたわけです。そして、まあ言ってみれば、東洋文明の源流のひとつともなるべき文化があったのです。このムーの文明がやがて、日本とかその他のアジアに広がっていったし、その一部がもちろん他の西洋の方にも流れていった。こういうことがあったように思います。 まあ人びとはね、人類は一直線に直線上に進化してきたと、まあ思っているかも知れないけれども、実際はそうじゃないんだね。人類の進化っていうのは、まあ上がったり下がったりしながら、次第しだいに向上してきたというような感じなんです。螺旋(らせん)階段状とも言えないけれども、ある時代は上がって、また下がって、上がって下がって、また上がったりしながら、まあギザギザの折れ線グラフみたいな感じで、次第しだいに上がってきてるのです。 また同時代においても随分、文明の落差はあります。このムーの文明の時にも非常に高い文明があったけれども、その時代にも世界の各地を見てみると、それほど高くない文明もいっぱいあったのですね。まだ狩猟民族や単なる農耕民族もいた。文明という名のつかない人たちの方が多かった、というのが事実です。これは現代でもそうですね。現代ニューヨークのマンハッタンだとか日本の東京だとか、いろんなところではそのような素晴らしい近代文明が栄えていますが、同時代に、アフリカの密林のなかに住んでいる人もいれば、南アメリカですね、南米なんかのなかでもまだまだ未開の生活をしている人もいるし、湖の上に葦(あし)の藁(わら)で編んだ家に住んでいるような人もいるんですね。あるいは、エスキモーみたいにアザラシ取って生活している人もいる。 こういうように、非常に難しいですね。同時代であってもいろんな文明の落差があるし、過去の時代であっても、やはりあった。だから、一万年前とか二万年前っていうと、もうこういう文明のレベルというふうに、私たちは決めつけて考えがちですが、やはり一万年前、二万年前であっても、その時代に文明の落差はあった。こういうことを認めなければいけないと思います。 この太平洋上の大帝国であるムーという文明は、今から一万五千年、あるいは一万六千年前まで太平洋上で栄えていた国なんです。ま、やがて沈没していったわけです。まあこの辺の事情は、大川さんの『太陽の法』なんかにも詳しく書いてあるから、それを読まれたらいいと思うんですが、沈没していったんですね。大陸沈没の話はあちこちにありますが、あのノアの洪水のような話ですね。やっぱり没していくんです。大帝国が没していく。そういうことがあったということです。 さて、そうした大帝国だけれども、まあここには何万年にもわたって人類が文明を築いていたわけです。築いていたけれども、やはりいちばん有名なのは、その末期、沈没する前の二千年、あるいは三千年ぐらいに栄えていた文明です。だから今から言えば、そうだねえ、一万八千年ぐらい前から一万五、六千年前、この間のニ、三千年というのが、ひとつの高みであったのです。文化的な高みであった。そして非常に、異様に高い文明を誇っていた。まあこういうふうに言えると思います。この時にムーはね、みなさんが思っているよりも遥(はる)かに強大な力を持っていて、軍隊なんかも相当持っていたんです。そうした時代、そうした文明であったと言えましょう。 2.文明の特色 さて、そこでムー文明の特色について、私の立場からいくつか話してみたいと思います。 いろんな時代の文明には、それぞれ特色というものがありますね。これは、天上界でもいろんな光の天使たちの計画がありまして、地上計画がある。そして、こういうふうに創る、ああいうふうに創るっていう、いろんな計画があるんです。その計画に基づいて文明を展開していっているんです。 まあこれは、なんでもそうでしてね、やはり飽きてくるわけですね。今なんかは、たとえば野球みたいなのが非常に栄えていて、みんなベースボール、ベースボールでワーワーやっているけども、じゃあこれが千年も二千年も続くかといえば、続きゃしないんですね。やっぱりどこかで飽きてきて、また新しい新種のゲームが始まるんですね。そしてそれが栄えて、また飽きていく。こういうことがあるわけです。 同じように、文明と言っても、その本質においてはそう大きく違わないとしても、その切り口、あるいは角度、繁栄のしかたにはさまざまな差異があるんです。違いがあります。ですからムー文明にも、やはりひとつの特徴があったと言えると思います。 ただこのムー文明というものを、ここ二、三千年ぐらいの文明と比較してみると、どういう特色があるかと言うと、結局似ているのはエジプト文明と日本の古代文明、これを融合したような形じゃないか。まあこういう感じを受けるんです。エジプトの文明は、ピラミッドを中心にしてさまざまな文明がありましたが、あの時にも霊魂不滅という思想、これは明確な思想でした。これがあって、そしてやはり神というものを中心とした、そうした太陽信仰があって、そして人びとが生活をしていました。また、古代日本でもひとつの太陽信仰であったと私は思います。太陽信仰であって、天照大神(あまてらすおおみかみ)信仰もありますが、こういうふうに太陽神というのを信仰していました。 まあこれと非常に似ていたわけで、当時のムーも太陽信仰でした。まあもちろん、ああいう太平洋上の大陸ですから、太陽の恩恵というものをものすごく受けていたわけで、太陽信仰が栄えたとしても不思議じゃありませんね。当然ながら栄えていた。そういうふうに言えると思います。 その太陽信仰で何が文明の特色としてあげられるかというと、まあ僕は、三つぐらい主にあげられるんじゃないかなあと思います。三つぐらいあげられる。 それはね、この時代には、まあ現代もそうだけど、ひとつには、霊信仰というのが非常に強かったんですね。霊信仰が強くて、人びとの生まれ変わり、転生(てんしょう)も随分信じられていたんです。したがって、やはり人びとは、この転生の過程においてどれだけの実績を積むかということが、非常に問題となっていたわけです。 それゆえ、まあそうした霊的な能力を持った人たちも、数多く活躍をしていました。霊能者集団がかなりいて、彼らが職業霊能者をやっていたのです。つまり、僧侶階級あるいは祭司階級と言いますか、そうした職業霊能者たちの集団があって非常に高い権威を持っていた。また、その職業霊能者たちは、当時非常なインテリであって、最高の英知、人類の最高の英知を持っている、というふうに言われていたと思います。そうした方々が知恵の集団をつくっていて、そして国政であるとか、さまざまな経済の問題、あるいは軍事の問題が出てきた時に、彼らの知恵を借りて判断をしたのです。こういうことがあります。まあこれが、古代の日本の神政政治とよく似ているところではないかと思います。 二番目にあげられる特色として、経済の原理についても多少語っておきたいと思うんですが、このムー文明の時には、もう物々交換ではなかったのです。ひとつの経済原理が働いていて、面白いのですが、当時、青銅の文明と言いますか、青銅の金属が使われ始めていたのですけれども、この青銅の硬貨に近いものが、やはりあったのです。そういうものがあったのです。 そして、まあ女性が首飾りなんかよくしますが、首輪の周りに、その硬貨のようなものを並べる風習があったのです。その形は、どういう形かというと、ちょうど涙をたらしたような形です。そういうふうに、上の方が細くなって下が丸くなっている。涙をたらしたような形、こうした形のようなものを首の周りにぶら下げていたんです。糸で通してぶら下げていたのですが、この涙形の硬貨、これがお金でもあったわけです。首飾りともなり、お金ともなる。したがって、この首飾りを二重、三重に巻いている人ほどお金持ちだったのです。 今みたいに金庫はないし、銀行もなかったわけですが、女性、まあ男性もそうだけども、首の周りにいくつかの首輪、あるいは首飾り、ネックレスみたいなのがあって、それにこのお金をぶら下げていたんです。で、二重、三重四重、五重と、お金持ちほどいっぱい何重にも巻いているんです。こういうものを持っていて、全財産を首につけて歩いていた。そして何か物が欲しければ、その首からひとつ硬貨を取って、それを渡して買うということであったわけです。まあこういうことをやっていて、お金持ちかどうかは一目瞭然であった。 こうした首輪の習慣は、現在のポリネシア、インドネシア、あの辺の住民にも随分あると思います。そうしたものが出ているんじゃないかと思います。こうした経済原理を持っていて、現在の貨幣経済の端緒(たんしょ)ともなるべきものが、すでにあった。これが言えます。 第一に霊能者集団、第二にそうした貨幣経済のはしりがあった。第三番目の特色として何があったかと言うと、これは、まあ階級が主に三つに分かれていたということなのです。すなわち、神によって選ばれた人びとの階級というのがあるのです。神によって選ばれた人びとの階級というのが、第一階級としてあって、そのなかには先ほど言った霊能者集団と、もうひとつは政治を執(と)り行う貴族集団、この二つがあったのです。これが第一階級としてあって、これは対等です。身分は対等ですが、神によって選ばれた人たち、そういう人たちがいたのです。これが第一階級です。 第二階級は何かと言うと、これは商業なんです。商業で生きている人たち、これは第二階級で、やはリサービス業ですね。サービス業をやっている人たちが第二階級としていました。 第三階級としていたのが、これが第一次産業的な人たちなのです。すなわち、農業、漁業をやっていた人たち、これが階級として第三にいたんです。そして、それを加工する人たちはどこにいるかというと、加工する人たちは、やはりレベルが多少高いということで、第二階級、商業階級と同じところにあった。こういう身分階級がありました。 そして、そのように身分階級が三つあったわけですが、こうした違った階級の者同士とは、やはり結婚ができない。こういうふうになっていました。お付き合いができないのですね。また、使われていた言葉も、この三つの階級によって多少違っていました。上流階級には上流階級の神秘的な言葉があるし、中流階級には中流階級の賑(にぎ)やかな繁栄の言葉があり、下流階級には下流階級で、非常に語彙の少ない、言葉数の少ない言葉があったのです。 農業、漁業をやっている人たちは、現代で言えば、三百語か五百語ぐらいの言葉でもって話をしている。こういう世界です。そして、読み書きはできませんでした。第二階級である商業、あるいは工業、加工業をやっている人たちは、多少読み書きができました。商売上必要であって、読み書きもできるし、言葉も、まあ千語から二千語ぐらいの言葉を知っている。こういう人たちです。第一階級のインテリ階級になると、言葉はもちろん何千語、何万語使っていて、そして、まあインテリであることが条件でありました。それと、神秘体験などを必ず通過するような、そういうことをしてました。 霊能者階級は、もちろん神秘体験をしていましたが、貴族階級のなかにも、やはり霊的なものにあこがれる者が非常に多かったので、現代の洗礼に代わるような、そうした神秘的な儀式を執(と)り行っていて、各人が必ず神秘体験、神霊体験というのをするような、そういう通過儀礼がありました。子供の時にひとつ、それから成人する時にひとつ、こうした通過儀礼があって、霊的な体験を必ず積まされるようになっていました。まあこれが、ムー文明の特色です。 3.人びとの霊的目覚め まあその文明にあって、人びとはどういうふうに霊的に目覚めるかということですが、第一階級が、このような霊的に目覚めた人たちの階級であったために、第二階級、第三階級もやはり、霊的なものへのあこがれが非常に強かったのですね。 下層階級の者であっても、上位の僧侶階級、あるいは貴族階級に入れる道がひとつだけあった。それは何かと言うと、現代的に言えば霊道を開く、すなわち、心の窓を開いて光の天使たちと話ができるようになれば、階級が上がるのです。そういうことがありました。 そして、まあプロフェッショナルな資格試験ですね、僧侶階級の面接試験、筆記試験などを通った場合には、第二階級、第三階級出身の者であっても僧侶になることもできるし、場合によっては、その能力が偉大であれば貴族階級にとリ立てられるということもあったわけです。したがって、平民に生まれついていたとしても、下層民に生まれついていたとしても、神の恩恵を受けて霊的能力を持った場合には、あるいは祭司階級にまわり、あるいは政治を行うような階級に入っていける。こういうことがあったのです。 現代だとどうかっていうと、まあ勉強ができるっていうことがそうだろうねえ。どんな田舎の生まれであっても、そこから一生懸命勉強してね、小学校、中学校、高校と主席で卒業して、いい大学出て、で、まあたとえば法律家になったりね、裁判官や弁護士になったり、政治家になったり、官僚になったり、いろいろして、生まれが貧しくとも身分ができてくる人がいますね。現代では、そういう勉強ができるっていうことがひとつのステータスをつくっているように思います。日本には貴族階級がないけれども、そうした学歴社会というのが、ひとつの貴族階級をなしているんじゃないかと、私は思います。 この時代は、だからそうした霊的な目覚めですね、霊的な目覚めによる階級差があったということです。ではその霊的目覚めをつくるためにはどうしたかと言うと、人びとはやはり、この霊道を開くということの研究を随分やっていました。ただ第一階級は、それは職業上の秘密であるので、できるだけ機密を守るということで、内部で集まって極秘に、そうした霊道現象等をやっていましたが、第二階級、第三階級共に、次第にそういうことを聞きおよんで、だんだんに、そうした能力を自分で修行して身につけようということで、努力をしていたようです。 だから、霊道を開いて第一階級に入ることが、当時の出世の目的であったし、どうやって霊道を開くかということを、町にいた人たちが、それぞれに我が家の秘伝ということで、家々で競っていたという事実があるのです。 そして、まあ基本的な方法としては、現代で言うような反省ということが、それほど強く言われたわけではないけれども、やはり心清らかにするということが、第一の方法としてあげられていたのですね。 だから悪いことをしたら、それを反省したり、謝ったりする。そして、悪いことを念(おも)わないで、常に太陽のような心をもって生きる。こういう教えが、中心になって説かれていたように思います。だから、霊的な目覚めが早ければ早いばど、身分階級が上がるという世界があったのです。 ここに、ユートピアの話をいろいろしてきましたが、すべての関連を見るわけですね。個人としてのユートピアと、全体としてのユートピアの話をしてきましたが、こういうふうに、個人としての目覚めが、霊的目覚めが、階層を上げていく、社会的な階層をつくっていくという世界が、ムーの文明であったわけです。 これはひとつの面白い現象なんです。霊道現象すなわち悟リとは言えないけれども、こうした神の声を聴けるようになる、光の天使たちと話ができるようになる人たちが、階級が上がっていくのですね。こういうことがある。それともうひとつは、上流階級、第一階級であっても、そこからの追放という現象があったのです。すなわち、心をやはり清く保つということがひとつの義務であって、心が乱れて、いわゆる光の天使ではなく、曇りの天使たちに指導されるようになった時、悪霊たちに憑依(ひょうい)されるようになった時に、第一階級ではそうした査問会議があって、階級から追放されるということがあったのです。こういう面で、新陳代謝(しんちんたいしゃ)が起きていた。まあこのように言えると思います。 だから、人びとは、霊的目覚めがすなわち自分の地位を上げるという、そういう社会に生きていたと言えると思います。 4.ラ・ムーの教え さて、こうしたムー文明でありますが、滅亡のちょっと前ぐらいでしょうか、今から一万六千年余り前の頃に、「ラ・ムー」という帝王が出ました。ラ・ムーとは「ムーの光」というような意味ですが、こうした帝王が出て、これが大きな功績をあげたのです。ムーの発展のために、非常な力があった方です。 もちろんこれは、王宮に生まれた王様がなったわけですが、当時の王様は最高の統治者であると同時に、最高の神官でもあったわけなんです。地上のこの世と、あの世の権威を、両方兼ね備えている最高権力者である。まあ、ローマ法王とアメリカ大統領を兼ねたような、こういう人ですね。こういう力を持っていたのです。 そして、ラ・ムーは霊的能力においても最大であって、ムーで最大の霊能者、霊指導者と言われた方なのです。まあ後に、ラ・ムーの生命体は、インドにゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏という名で生まれ変わっていくわけですが、こうしたラ・ムーの生命体は、それだけのやはり力を持っていた。 そして、多くの人たちに、正法神理を説きながら、また、国政のあり方、これを教えていったわけです。そして、人びとを善導していった。正しい方向に導いていった。まあこういうことが言えると思います。 このラ・ムーの教えを要約してみると、まあ私なりの考えですよ、もちろん、他の考えもあるし、他の人の意見もあると思いますが、僕は三つぐらい、やっぱり教えの核があったと思います。 第一は、やはり、心の浄化ということだったと思います。反省に近い教えですが、心をやはり浄化しなければ、人間は本当の意味で光の天使の仲間には受け入れられない。まあこういうことを言っていたと思います。常々心の浄化をするということ。これが大事であるということ。 それから二番目は、やはり、愛の教えを随分言っていたようです。互いに愛し合えということを、結構言っていたように思います。互いに愛し合うことの大切さ、愛を広げていくことの大切さ、こういうことを、随分言っていたように思います。 心の浄化、それから愛の大切さを説きましたが、三番目は、やはりこのラ・ムーは偉大であったと思うのは、宇宙観、世界観、これをかなり詳しく示してみせたということです。現代で私たちが、こうした神理の探究において、本当の宇宙観、世界観を開示していますが、ラ・ムーも、ほとんど同じぐらいのレベルまで話をしていた。多次元世界についても話をしていましたし、この多次元空間のなかで、人類は転生輪廻(てんしょうりんね)しながら、いろんな地域に生まれ変わって出ているというような、そうした高度な理論を説いていたんです。 まあこういう「宇宙の理法」を説けたというところが、ラ・ムーを他の霊能者と区別する最大の違いになったわけです。霊能者たちはいくらでもいたわけだけれども、「宇宙の理法」を説ける霊能者はいなかったわけです。だが、ラ・ムーは「宇宙の理法」を説けた。なぜ説けたかというと、それだけのやはり大指導霊たちが、当時、ラ・ムーを指導していたわけです。 このラ・ムーは、やがてアトランティスの時代に、「トス」として生まれたり、また、アンデスの山中に「リエント・アール・クラウド」という名前で生まれたり、また、その後には、ギリシャで「ヘルメス」という名で出たり、それからインドにおいて「釈迦」という名で出たり、いろんな形で、その魂の分光が地上に出て来ていますが、このラ・ムーの部分は、比較的このブッダ生命体の本体に近い部分であった、ということが言えると思います。それだけの大きな力があった。一万六千年も経って、その名が残っているほどの巨大な指導者であったわけです。まあムーの栄光でもあったわけです。ムーの人たちはラ・ムーという人が出たということを、大変な誇りに思っていました。まあ、こういう時代があったということです。 5.ムー文明の崩壊 さて、こうした偉大なラ・ムーが出たわけですが、ラ・ムーもやはり人の子であって、何十年か生きたら、やがて地上を去ってゆかねばならなくなりました。そしてその後継の者たちが、だんだん継いでいったわけですが、この時代は祭政が一致であったために、政治的指導者すなわち宗数的指導者であった。つまり、宗数的指導者が凡庸(ぼんよう)になってくると、政治的指導能力も落ちる。こういうことにもなったわけですね。 そうして、ムーの末期はどのようであったかというと、多少やはり乱れがあったわけです。現代的に言えば、悪しき新興宗教がいっぱい出て来まして、このラ・ムーの教えが正しく守れなくなっていったのですね。だんだんにラ・ムーの教えが正しく守られなくなって、いろんな異説、邪説がいっぱい出て来るようになります。そして、このムー帝国そのものが次第に混乱をしていくわけです。 そうして、帝国の上空に、人びとの暗い想念の曇りができていくようになります。だんだん地上が殺ばつとしていきます。そして、犯罪とかも増えていきますし、だんだん倫理、道徳が衰えていきます。そして、霊能者、聖別(せいべつ)された階級としての霊能力集団、僧侶階級のなかにも、悪霊の黒い影が次第に忍び込んでいって、そして、霊能信仰が間違った方向に行くようになる。曲がり込んでいく。こういうことがあったわけですね。 こうした経験を積むにつれて、次第に天変地異というのが多くなってきました。これは、末法の世には、どこも天変地異が流行(はや)っておりますけれども、このムーの文明の時もやはり同じであって、天変地異が起きました。そして、随分いろんな火山の爆発があったり、地震があったり、津波があったり、まあいろんなことがあって、やがて文明が崩壊していったわけです。 そして、そのムーの子孫たちが、いろんな形でまた、さまざまな所に逃れていったわけです。日本などにおいても、その南方から来た文明のなかには、このムー文明があります。一万五千年以上昔に、崩壊していったこのムー文明、この末裔(まつえい)たちが、日本にもだいぶ来ています。日本には、もちろん、韓国、中国系統から渡ってきた人もいますが、このムーからの人、それから、アリューシャン列島を渡ってきたアイヌ系統の人たち、こうした三種類の人たちが流れ込んできて、日本民族をつくっているのです。 日本という地域が霊的に非常に高い意味合いを持っているのは、このムーの部分の魂系統が、かなり入って来ているためだといえると思います。ムーの一部は、もちろんアトランティス等にも流れていきましたけれども、まあこの東洋では、こうした日本などに、日本あるいは東南アジアにだいぶ流れていった。また、インドの方にも出ていったのですね。ムーの文明の一部は、インド文明の源流にもなっていっております。 まあ、天照大神(あまてらすおおみかみ)という、現代日本の主宰神のような役割をやっているような人もいますけれども、この人もムーの時代にやはり出たことのある方であって、ムーの時代に女王をやった経験があります。まああるんだけれども、そうしたことをあまり言うと、まあ嫌われるといけませんのでね、私はほどほどに言っておきたいと思いますが、やはりムーに出た方です。そして、太陽信仰を、その時にも説いたことのある方です。その方がまた、日本で、日本の国造りのために、あれほど活躍をされた。そのように言うことができると思います。まあ非常に霊的な力のお強い方である。そう言ってもいいのではないでしょうかね。 このように、このムーの文明は去っていったわけですが、そのムー文明が去ること自体を悲しむのではなくて、また新たな光が出て、新たな文明ができていく。私たちは、そうして何億年もの間、飽きることもなく、いろんな生まれ変わりをして、そのたびに偉大な経験を積んでいくのです。それで、魂のなかには、そうした英知が蓄積されていく、まあこうしたことを、くり返し、くリ返し、やっているわけなのです。
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目次 1.驚異の科学文明 2.現代文明との比較 3.救世主トス 4.トスの教え 5.アトランティス大陸の沈没 1.驚異の科学文明 さて、本章では、ムー文明に続いて、アトランティス文明について、話をしてみたいと思います。 アトランティスについては、私もすでに刊行しました霊訓集のなかで何回か言及しているところもありますので、くり返しはできるだけ避けたいと思っていますが、これもね、やはり、人類史上では非常に誇るべき文明であったのではないか。まあそのように思います。 驚異の科学文明を誇っていた文明です。まあアトランティスにも飛行船があったという話、いわゆる飛行機のようなものがあったという話、潜水艦のようなものがあったという話、こういうことも、もうすでに読んでおられる方もいると思いますが、相当なものです。相当な科学文明があったし、その部分的なもの、一部分は現代文明をも凌駕(りょうが)するような、そうした面があったのです。 それは、アトランティスの文明の時代には、科学技術系統の方も相当出てこられた。銀色光線ですね、銀色の光線もだいぶ照射して、地上にそうした科学者としての偉大な魂も数多く出た。まあこうしたことが言えると思いますが、やはり、文明の実験室として、その後の現代文明のもとになるもの、モデルがこの時代に創られた、というように言うこともできると思います。 まあアトランティスというのは、もうみなさんご存じかと思いますが、現在の北米大陸とヨーロッパとの間に、大西洋というのがありますけれども、この大西洋上の島であったわけです。島というか、大陸であったわけです。そして、ここに一大文明圈を築いていたわけです。 この文明圈は、もちろん海洋文明でもあったんでしょうが、やはり位置的に現在のヨーロッパ、アメリカに匹敵するところですから、気候、風土的に見ても、かなり文化的な生活ができるような、そうした気候風土でもあったと、まあこのように言えるのではないかと思います。 その科学文明のなかで、潜水艦や飛行船の話はもうすでに出ているから、私は今回はちょっと違った話もしておきたいと思うんだけれども、面白い機械がいくつかあったのです。 ひとつ言ってみましょうか。それはね、たとえば、今、植物とかが今四季折おりに育っていたり、あるいは夏の果物が、もう冬場にね、温室で取れたりとか、いろんなことをやっていますが、こうした方法なんかは、現代よりもアトランティスの時代の方がもっと進んでいましたね。すなわち、植物なんかでも、早期に栽培できる。そういう方法があったんです。 たとえば、トマトなんかも何ヵ月もかかって作るものだと思いますが、トマトなんかもね、一日ぐらいで作ってしまうようなね、そうした方法があったんです。それは、特殊な光線を当てるのですね。そういう発育を良くするための、発育促進光線みたいなのが当時開発されてまして、そうしたものを照射していると、トマトが一日ぐらいでみるみる大きくなっていくんですね。そして食べられるようになる。 こういう発育促進法というのがあって、それを当てるといろんなものが急速に成長するんですね。ですから、トマトのような植物、きゅうり、かぼちゃ、まあこんなものがあったかどうか知らないけれど、そうしたものの成長がどんどん早くなるし、稲のような、ああしたものであってもね、極めて短い速度で生成、生育するという方法があったんです。 それゆえに、たとえば今、稲だと、たいていのところは田植えをしてから刈り入れするまで半年かかりますね。五、六月頃か知りませんが田植えをして、秋頃刈り入れということで、一年に一回お米を採るのが普通であって、温暖な地域では二期作とかいって、一年に二回お米を作る。あるいは、なかには三期作と言って、三回作るところもあります。ただそうすると、土地がだんだんやせてくるために、採れが悪くなってくる。あまりお米が採れなくなってくる。それで、まあ、土地を休ませたりする必要がありますね。 こういうことがありますが、こうした一年にせいぜい二期作ぐらいしかできないようなお米ですが、アトランティスの時代では、こうした発育促進光線というものが開発されていたために、全然事情が違ってくるんです。そうした温室のなかに、たとえば稲なら稲を植えて、そして発育促進光線をかけながら育てるとどうなるかというと、もう一週間ぐらいでお米ができちゃうんです。一週間ぐらいでできちゃう。驚異の速度です。 そうするとどうなるかというと、まず土地の節約になるんですね。今だと水田というのはものすごく広い土地がいりますね。山形地方だ、秋田地方だ、いろんなところで水田が随分あって、そしてお米を作ってますけど、何ヵ月も寝かして作ってますが、これが一週間でできるとなるとどうなるかというと、土地がいらなくなってくるのです。すなわち、ハウス栽培みたいに小さいとこで稲を作っても、一週間でできちゃいますから、一週間ごとに作っていけばいいんであって、一年中作れるんです。だから「ジャスト・イン・タイム」、トヨタのカンバン方式じゃないけど、ジャスト・イン・タイムで、お米が毎週、毎週できるんです。そして採れ立てのお米が毎週、毎週市場に流れていく。こういうことなんですね。一年中、お米ができたわけです。だから、それほど広い空間がいらないんですね。 だから現代、これからの社会、農業の改革にあたって、このアトランティス方式がやがて出てくる必要があると思います。こうすれば、日本なんかの土地問題、解決されちゃいますね。そんな水田いらないんですね。畑もいらないのです。こういう企業として大会社をつくって、農場をつくってね、体育館みたいな農場持っていたらね、たとえばそれを農場にして、そのなかでこの発育促進光線でどんどん、どんどん大きくしていけば、一年中作れるわけですから土地がいらないんです。だから大きめの建物のなかで、農作物ができるんです。こういう方法がありました。 こうするとね、現代の日本の土地不足は解消しますよ。あなた方は非常に地価の高いところで、堂々と野菜作ったりしているでしょう。東京近郊で、あんなの高いですよ。何億もする上地で野菜作ってるんでしょう。もったいないね。まあこうしたことがあります。 ただこれはね、動物には使えなかったみたいだね。動物にやっちゃうと、やっぱりいろいろ奇形児が生まれたり、いろいろするもんだから、植物だけにしかできなかった。 こうした、驚異の発育促進光線なんていうのもありましたし、これ以外にも、いろんなエネルギー源としては、現代と違うようなエネルギー源もあったことは事実です。まあこうしたことが、文明の特色として、言えるのではないかと思います。 2.現代文明との比較 さて、このアトランティスの文明を、現代文明と多少比較してみたいと思うのですが、これはね、やはり文明として見ると、見てみる角度が多少違うっていう感じはするね。 現代の文明はどっちかと言うと、どうだろうね、まあペーパーワーク文明だね。書類文明があって、そして株式会社なんかつくってね、こういう株式会社なんていうのが流行(はや)ってますが、このアトランティスの文明ではどうだったかというと、株式会社みたいなのがなかったんです。そうではないけども、ひとつの面白い社会システムがありました。 それは何かっていうと、まあ貨幣にあたるようなものは、もちろんあったわけです。お金にあたるようなものはもちろんあったんですが、これが、まあ政府から与えられるわけなんです。それぞれの企業でも個人商売でもなんでもいいのですが、与えられるわけだけど、毎年一回、今日本では、あるいは世界でも税金の申告やって納めていますが、この逆がやられていたんです。一年間の働きを提出するんです。今年いっぱいこういう仕事をしましたという、申告をするんですね。そうすると、それに対して役所の審査があって、確かにこの者は申告通りの仕事をしたと、こういう認定がされるのです。 あなたは申告以上の仕事をした、あるいは申告以下の仕事をした、という認定をするところがあって、そして個人の申請に、たとえばよく働いた人は一・五倍をかけたり、働きが少ない人は〇・五になったりしますが、そうした乗数かけた分だけのお金が、毎年一回支給されるんです。面白いでしょう。税金の逆なんですね。税金の逆で、毎年一回そういうお金の支給がされるんです。そして、それで翌年一年、それをもとにして生活できるんですね。 こうすると、政府というのは非常に有り難いね。今の政府は、税金を国民から取るだけだろう。非常に悔しいね。一生懸命儲(もう)けたのに、政府にピンハネされちゃうんですね。そしてお役人に使われちゃう。ああ悔しい。何に使っているのかさっぱりわかんない。こういうことが非常に我慢がならない人は、数多いと思います。 ところが、アトランティスだと逆だね、政府はお金をくれるんです。面白いですね、一年に一回、その年の働きに応じたお金をくれる。そして、そのお金をくれるわけだから、その働きを確かにしたという証人がいるんだな。証人、その証人をしているのは誰かっていうとね、これが面白いんだけども、牧師さんみたいな人なんだねえ。聖職者、僧侶と言ってもよい、お坊さんだな。こうした、お金に全然関係がなく道を求めている人、法を求めている人、悟りを求めている人、こういうふうにお金に無頓着(むとんちゃく)であるというところが、非常に評価されるわけだな。こういう人の判断は公明正大であろう、利害が何もないであろうということでね。 まあこういうことで、その一年に一回の申告書を書いたら、このお坊さんがね、毎年、いつでもいいけど、十二月なら十二月に、そういう仕事があるんだよ。年に一ヵ月だけ、そうした仕事があって、そうした自己申告、町民の各人、あるいは村人の自己申告に目を通して、そして心を調和して見て、これが偽りがないと思ったら、判子(はんこ)をポコポコッと押すんだね。ポインポインポインと、判子を押すんです。そして証人ができる。だから、お坊さんに判子押してもらったら、これを役所に届けにいくんだな。そして、まあお坊さんの方は、その書類に偽りがないか、その人の心に間違いがないかというようなことを見ながら、判子を押すわけで、あとの役所の方はそれをテクニカルに判断していく。その仕事がどれだけの価値を生むかっていうことを判断していって、そして支給額を決めていく。こういうことなんだよ。 だから、日本の政府もこんなことをすると、人気が上がるんだな。政府が、要するにお金をくれるんだったら、みんな一生懸命働くよね。そして、国民の信頼が厚くなる。政府がとにかく、お金をくれるんだから。大蔵省なんていうのは、お金くれるんだったらいいけど、お金取っていくだろう。だから人気が悪いね。威張っているけど人気が悪い。 お金くれるところだったらね、あなた、大蔵省がお金くれるんだったら、みんな大蔵省さまさまですよね。そうじゃないでしょうか。そうでしょう、ね。こうしたこともあったんだよ。だから、政府というのは、取ることばかり考えないで、与えることもあるってことを知らなきゃいけないですよ。そういうことなんです。まあそういう給料の支給を、国家がやっていたんです。 こういうところが現代文明と違うと思うし、その意味では資本主義社会でもないし、共産主義社会でもない。なんかへんてこりんだけども、そういう社会だったと思いますね。職業や資本源は全部国にあったわけだけれども、ただ各人が自由にやって、自由競争の結果を国が判定してくれる。こういうことなんだね。押しつけの、画一的な共産主義じゃない。収入は一定、みんな一緒だというんではない。収入に格差はあります。あるけれども、そうしたような査定をするんだね、査定をする。そういうことがあるんですね。 では役人たち、じゃあ役人がいるだろうけど、役人の給料は一体どうなってるのかと、まあ、それが気になる人もいるでしょう。 役人の給料っていうのは、またこれがね、面白いんだけれども、国民投票で決まるんだよ。面白いだろう。たとえば、役所の名前はもちろん違うけど、大蔵省や通産省や外務省みたいな、そういう役割を果たしている役所かあるわけだ。あるいは、県庁のような役割を果たしているところがあるんだね。 それで、たとえば、前年度の予算が決まっているでしょ。たとえば県庁なら県庁で、ある県庁で人件費として、前年度たとえば二十億円の予算があったとするね。これに対して、その住民のなかに識者がいて、たとえばなんとか県でもいいけど、なんとか県の識者が、たとえば五百人に調査アンケートを配るわけですね。そして点数を入れるのです。その一年間において、その県庁が県の行政としてやったこと、評価を前年度と比べてみんなが査定するんです。査定をして点数を入れていく。 そして、前年度の平均点が八十点だった時に、今年度やった時にその行政の効率が、たとえば八十二点と出たとする。平均がね、五百人の識者の平均が八十二点と出ると、これが上乗せされて、たとえば前年度、二十億だったその人件費予算が、二十億かける八十分の八十二になる。だから、約ニパーセントだけ増えるわけです。そうすると、役人の収入が増えるわけですね。 ところがその一年の総決算で査定受けて下がった場合には、全体の予算が減る。そして分け前が滅る。こういうふうになっていて、役人の給料がやはり国民の審査受けて決まっていたのです。それで上がり下がりしたのです。だから悪い行政すると収入が滅るんですね。いい行政をすると収入が上がる。こういうふうになっていて、現在の自由競争の原理が逆に働いていたのです。公務員社会、役人の社会にも働いている。 だから、裁判所みたいなものももちろんあったけれど、裁判についても、やはりそういう国民審査があった。現在でも最高裁判所の裁判官の国民審査があるけども、あんなの給料に響いてないね、全然。過半数かなんか知らないけど、×が多くなけりゃいいんだろう。ところが、裁判についても国民審査がちゃんとあって、それで毎年、裁判官の給料が変わるんだね。いい裁判するとよくなるけど、悪い裁判すると下がる。こういうことが安全弁になっていたんだね。こういう制度もあるんだよ。 だから、現代の社会制度が当然と思ってはいけないよ。こういう面白い逆転の発想もあるということを、知って下さい。 3.救世主トス さて、このアトランティス文明に、救世主として、「トス」と言われる方が生まれました。これは今から一万二千年、あるいは一万三千年前という時代ですね。アトランティスが滅亡する、千年から二千年ぐらい前と言われています。 このトスと言う方は、先ほど述べたラ・ムーの生命体の一部なんです。そして、トスは、科学的な素質もあったし、政治家でもあったし、そして宗教家でもあるというような、いわゆる万能の天才でありました。 この方はね、まあその風貌を現在語ってみるとするならば、まあ随分、温厚な顔立ちをしているところはその通りですが、面白い特徴がありました。それはいったい何かというとね、まあ現在でも霊視なんかきく人は、人に後光が射しているなんていうのがよく分かるんでしょうが、このトスという人は、その後光というのが現象化して出る方だったんです。すなわち、トスの話を聞いていると、トスの周りが本当パッと明るくなってくるんですね。百燭光(ひゃくしょくこう)、百ワット、二百ワットの電球つけたようにパッと明るくなって、顔色が虹(にじ)色に変わってくるんです。この方はこういうのを現象として現す能力があったんです。 だから、トスと会って話しているうちに、もうだんだん眩(まぶ)しくなってくる。周りが明るくなってくる。こういう人間発電機みたいな、東京電力みたいな人だったんですね。こういう人です。そういう特徴がありました。その人が来ると、周りが本当に物理的にも明るくなるんです。光輝いている。まあこういう能力を持った方でありました。 この人の面白かったところはね、すなわち、なんでもやる人だったんです。なんでもこいっていうか、いわゆるそういう超天才です。なんでもこいの人であって、レオナルド・ダ・ヴィンチが万能の天才っていうけど、あんなのはトスに比べるともう数段小さいです。このトスっていうのは、もうなんでもできる人なんです。この人にとっては、学問の領域、こんなものはなんにもないです。理科系も文科系もないんです。技術もなければ、英語もなければ、哲学もない。何もないんです。なんでもこいなんです。 これはパーニャパラミタと言って、心の奥底が開いて、そして、大宇宙の英知、光の大指導霊たちと交信することができていたからです。したがって、大多数のそうした専門家集団を自分の背後にひかえていたために、どんなことでも答えられるという能力を持っていたのです。驚異の霊能力です。こういう超天才で、それゆえに人びとから畏(おそ)れもされ、また畏敬(いけい)もされていました。非常な天才です。まあこういうことで、なんでもこいという人で、天才のはしり、万能型天才のはしりでもありました。 もちろん、病気治しなんかもしたり、あるいは、あらゆるものからね、あらゆるものと言ってもあれだけども、まったく予期もされないような物から薬を作っちゃったりするんですね。まあ不思議な、誠に不思議な能力ですが、山のなかに入って、いろんな薬草をつんできたかと思うと、それを調合して、あっと言う間にいろんな薬を作ってしまう。まあこんな人であったんです。まあそういう医者のような役割もできた。また、発明特許じゃないけども、いろんな発明もした。政治についても、どんどん新手法を編み出していった。まあこういう方です。 だから、救世主と言っても、単に法を説くだけではなくて、なんでもこいの人であって、そういう形でもって世の中の人びとの尊敬を集め、また自らの力を増していった。発言力を増していった方であった。そう思います。 4.トスの教え さて、このトスの教えは、いったいどんなものであったかということが、みなさんの興味のあるところだと思います。 これはね、お釈迦様の生命体の一部というだけあって、やはり基本的な線ではズレてないんですね。ズレてない。すなわち、法の骨格そのものは、ほとんど変わっていません。ただ現象面としてね、そうした万能の天才型でいろんなことができる、そういう人であったという、そのような現象があったということです。 トスの教えでね、私が見ていて、その根本となるのはいったい何かと言うと、まあそうだね、やっぱりこれも三つぐらいに分けて、言えるのではないかと思います。 第一は、人間は心の開拓に応じて、いくらでも能力が引き出せるというような教えであったんです。心を開拓していけば、いくらでも能力をアップしていける。そして、いわゆる観自在能力だけれどもいろんなことがわかるようになり、そして、いろんな知恵がどんどん出て来る。このパーニャパラミタの思想、こうぃう考え方が、第一にありました。 これは、釈迦の「心の窓を開けばパーニャパラミタが出て来る」という思想と、それとヘルメスの発展の思想、この両方を合わしたような思想だと思います。心の開拓によって、無限の力を出して来れる。そして、無限の可能性が拓けていく。まあこういうことだ。心の開拓の方法論を随分説したし、その能力の駆使の実際論、これをも教えたということだね。まあ自己実現の先駆者かも知れません。そうぃう自己実現の法も教えていました。これが第一であったと思います。 第二は、やはりこの人の本来の魂の方向としまして、「神の偉大性」ということを教えました。神がいかに偉大であるか。その宇宙の英知としての神の偉大性を教えました。それは、自分の霊能力の多面的展開、さまざまな万能の天才として現れたことを通して、「神の僕(しもべ)である私でさえ、これだけの力を持っているのだ。全能の神は、いかほどの力を持っているかわかるか」と、このように教えていたのです。これが、トスの神の偉大性を教えた面です。 三番目の特色はいったい何かと言うと、これは「統治の原理」だね。政治の原理について、だいぶ言ったわけだな。これはユートピアの原点でもあるけれども、どのようにして人びとを治めていくか、この徳治政治だね。徳治政治の原理と、この人は合理主義と効率主義、これを交ぜ合わしたような原理を登用しておりました。 徳治主義、徳ある者が人の上に立つということと同時に、その人を立てることによって、どれほど効率的に運営できるか、こういう西洋合理主義の原点みたいなこともやっていたのです。両方をやっていました。交ぜ合わせていたのですね。単に徳あるだけでは駄目で、徳がある人に適材適所を与えていって、そしてやる気を引き出して、どんどん効率をあげていく。こういう方法を取っていたのです。 まあその意味で、釈迦が後代、非常に優れた教育者として現れるけれども、教育者の側面というのが、随分あると思います。徳治主義をやる人は、ふつう教育者という側面が弱くて、人間はもともとそういう光輝いたもんという考えを持っている人が多いのだけれども、教育者としての側面をこの人は非常に多く持っていたと思います。そして多くの人たちの能力をアップするということを、最大限の力をはらって実現した。まあそういうふうに思います。非常に優れた方です。 だから、その魂の原形のなかに、やはり、将来の釈迦やヘルメスとして出た方の姿が見えますね。チラチラと見えます。まあこうした万能の天才も、またやがて、地上に現れてくると思いますが、同時代にいた人にとっては、やはり神聖な人、神そのもののように言われていたように思います。 やがて、アトランティスは没していくわけだけれども、アガシャー大王が出るまでの間、トスというのは万能の天才のように言われていましたし、「主・トス」ということで、言われていました。やがて、アガシャーが生まれてきた時に、このトスが天地創造の神の如く敬われていたわけであります。 5.アトランティス大陸の沈没 まあこうしたアトランティスも、今から一万年あまり前、一万一千年近い昔でしょうか、やがて、ムーと同じで海没していく運命にあったわけであります。 この点については、もうすでに私も何度も触れておきましたけれども、やはり、唯物信仰がだいぶ流行(はや)ってきて、想念の曇りが相当、文明あるいは大陸を覆ってきた。それと末法の世に出した光の大指導霊たち大多数を、なんと言いますかね、イエス様の時のように殺害するっていうような、こういう暴挙をしたために、大陸自体が不調和の想念に包まれて、反作用によって沈んでいくという、まあ前代未聞の事件が起きたわけです。 この最後の光の大指導霊として出たのが、アガシャー大王と言われた方です。トスから時代が下がること千何百年ぐらいでしょうか。アガシャー大王というのが出まして、これがイエス様の前身の部分です。こういう偉大な方が出ましたが、やがてそのアガシャー系一族も滅びていくという、悲運のまた指導霊だったと言えるかと思います。 まあアトランティスの末期のありかたは、やはり、今後現代文明を待ちかまえているさまざまな危機を思わせるものがあります。アトランティスの末期は、現代と非常によく似ている点があるのです。 文明は非常に発達し、そして、神理は説かれていたけれども、その神理がいろいろにまげられてきていた。そしてまた、新興宗教のようなものがいっぱい起きてきて、そして、本当の法を説く人を迫害するような現象も出ていた。この意味において、アトランティスは、非常に現代に酷似しているところがあります。 だから、このアトランティスの愚をくリ返さないためには、どうしたらいいかというと、やはり、真実の法というものを一日も早く広げて、多くの人たちに納得してもらうことですね。これがいちばん大事である。私はそのように思います。この真実の法が一日も早く広がることが、アトランティスのような不幸を妨げる効果があるのではないか。そして、現代の文明をさらに押し進めていく「黄金の時代」を創っていくのではないか。まあこう思います。 ただ、アトランティスという悲劇の大陸、悲運の大陸、文明であったとしても、やはりそこになんらかのユートピアの原形があったことは事実です。このユートピアの原形としてのアトランティス文明、これから何かを私たちは学ばねばならん。彼らの文明が私たちの文明より優れている面もある。それは事実です。こういうところをやはりしっかり学んで、今後の文明に活かしていきたい。まあそういうふうに感じます。
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書籍別メニュー 要注目書籍 幸福瞑想法 +... 第1章 幸福瞑想法とは 第2章 禅の瞑想 第3章 無為自然の瞑想 第4章 満月瞑想 第5章 止観瞑想 第6章 足ることを知る瞑想 第7章 対人関係調和の瞑想 第8章 光の瞑想 第9章 幸せの瞑想 第10章 希望の瞑想 第11章 自己実現瞑想 第12章 頭の良くなる瞑想 第13章 宇宙即我の瞑想 書籍INDEX 空海の霊言 +... 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part1 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part1 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part3 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part1 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part2 第4章 恵果阿闍梨の霊訓(一) 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part1 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1985.11 キリストの霊言 +... 第1章 イエス・キリストの霊訓(Ⅰ) 第2章 イエス・キリストの霊訓(Ⅱ) 第2章 イエス・キリストの霊訓 質疑応答&余聞 第3章 モーゼの霊訓 Part1 第3章 モーゼの霊訓 Part2 第4章 アモンの霊訓 第5章 リエント・アール・クラウドの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.1 天照大神の霊言 +... 第7章 聖徳太子の霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.3 ソクラテスの霊言 +... 第1章 ソクラテスの霊訓(一) 第2章 ソクラテスの霊訓(二) 第3章 カントの霊訓(一) 第4章 カントの霊訓(二)Part1 第4章 カントの霊訓(二)Part2 第5章 エジソンの霊訓 Part1 第5章 エジソンの霊訓 Part2 第6章 リンカーンの霊訓 第7章 ガンジーの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.6 坂本竜馬の霊言 +... 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第3章 吉田松陰の霊訓 第4章 勝海舟の霊訓 Part1 第4章 勝海舟の霊訓 Part2 第5章 西郷隆盛の霊訓 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part1 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part2 第7章 木戸孝允の霊訓 Part1 第7章 木戸孝允の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.7 卑弥呼の霊言 +... 卑弥呼の霊訓 卑弥呼の霊訓2 弟橘媛の霊訓 紫式部の霊訓 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part1 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part2 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.10 高橋信次霊言集 +... 第1章 人生の目的と使命 Part1 第1章 人生の目的と使命 Part2 第2章 反省、瞑想、祈りについて 第2章 質疑応答 第3章 悟りについて Part1 第3章 悟りについて Part2 第4章 真の幸せ、真の安らぎ 第5章 足ることを知る Part1 第5章 足ることを知る Part2 第6章 心と肉体の関係 第7章 自力と他力 第8章 心の仕組み 出版:潮文社/ 発行年月:1986.12 孔子の霊言 +... 第1章 孔子の霊訓 Part1 第1章 孔子の霊訓 Part2 第2章 孟子の霊訓 Part1 第2章 孟子の霊訓 Part2 第3章 老子の霊訓 Part1 第3章 老子の霊訓 Part2 第4章 荘子の霊訓 Part1 第4章 荘子の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1987.1 谷口雅春霊言集 +... 第1章 天上界に帰る 第2章 生命の実相を語る 第3章 光明思想の本義 第4章 神の子人間の本質 第5章 光一元の神秘力 第6章 本来病なし 第7章 言葉の創化力 第8章 真理は汝を自由にする 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.2 日蓮聖人霊示集 +... 第1章 職業の悩み Part1 第1章 職業の悩み Part2 第2章 病気の悩み Part1 第2章 病気の悩み Part2 第3章 恋愛・結婚の悩み Part1 第3章 恋愛・結婚の悩み Part2 第4章 夫婦問題の悩み 第5章 人生の諸問題の悩み Part1 第5章 人生の諸問題の悩み Part2 第6章 神理伝道の悩み 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.4 高橋信次の新復活 +... 第一章 新復活 第二章 人類救済の原理 第三章 愛と慈悲の世界 第四章 正義の時代 第五章 大宇宙と神理 第六章 心と科学 第七章 地獄界から高級霊界への旅 第八章 神理問答集 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 親鸞聖人霊示集 +... 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 内村鑑三霊示集 +... 第1章 キリスト教と日本 第2章 無教会派について 第3章 日本を憂う 第4章 イエスの働き 第5章 新しき時代への警鐘 第6章 七大天使の働き 第7章 新エルサレム 第8章 未来への福音 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.7 出口王仁三郎霊示集 +... 第1章 神のまたの名 第2章 月の時代と星の時代 第3章 天女の舞い 第4章 神通力 Part1 第4章 神通力 Part2 第5章 七曲がりの丘 第6章 天狗と仙人 Part1 第6章 天狗と仙人 Part2 第7章 大仏への道 第8章 お立て直し Part1 第8章 お立て直し Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.8 谷口雅春霊示集 +... 第1章 人類幸福化の原理 第2章 唯神実相哲学 第3章 人類無罪宣言 第4章 真説・神想観 第5章 本来肉体なし 第6章 光の行軍 第7章 日本神道の秘密 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.11 高橋信次の天国と地獄 +... 第1章 愛とは何か Part1 第1章 愛とは何か Part2 第2章 悪霊と憑依 Part1 第2章 悪霊と憑依 Part2 第3章 守護・指導霊の役割 Part1 第3章 守護・指導霊の役割 Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.12 イエス・キリスト霊示集 +... 第1章 愛の復活 第2章 神の愛 Part1 第2章 神の愛 Part2 第3章 祈りと生活 Part1 第3章 祈りと生活 Part2 第4章 キリストの使命 Part1 第4章 キリストの使命 Part2 第5章 新時代の精神 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.1 天照大神の降臨 +... 第一章 美しき国 第二章 わが教えの根本 第三章 秩序の原理 第四章 神の愛する人間像 第五章 日本を憂う 第六章 信仰の優位 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.7 谷口雅春の大復活 +... 第1章 生死を超越せよ 第2章 霊格の向上とは何か 第3章 女性の本質 第4章 発展の構図 第5章 霊界見聞録 第6章 久遠の今を生きる 第7章 愛と性を超えて 第8章 内在する叡知の発見 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.8 ピカソ霊示集 +... 第1章 ピカソの霊示1 Part1 第1章 ピカソの霊示1 Part2 第1章 ピカソの霊示1 Part3 第2章 ピカソの霊示2 Part1 第2章 ピカソの霊示2 Part2 第3章 ゴッホの霊示 第4章 ベートーベンの霊示 第5章 シェークスピアの霊示 第6章 ダンテの霊示 第7章 松雄芭蕉の霊示 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.9 エドガー・ケイシー霊示集 +... 第1章 リーディングとは何か 第2章 治病の原理 Part1 第2章 治病の原理 Part2 第3章 現代人の健康法 第4章 宗教の諸問題 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part1 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part2 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part3 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part4 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.10 新・運命の開拓 +... 第一章 光の賛歌 第二章 神の栄光 第三章 生命の本質 Part1 第三章 生命の本質 Part2 第四章 神々は集う 第五章 運命の開拓 Part1 第五章 運命の開拓 Part2 第六章 向上の原理 Part1 第六章 向上の原理 Part2 第七章 積極的人生の方法 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 谷口雅春・光はここに +... 第1章 実相としての光 第2章 輝ける日々 第3章 祈りとは何か 第4章 経済問題解決の法 第5章 神の子の健康法 第6章 信仰と奇跡 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・モーゼ霊訓集 +... 第1章 暁の章 第2章 科学の章 Part1 第2章 科学の章 Part2 第3章 太陽の章 Part1 第3章 太陽の章 Part2 第4章 星の章 第5章 大自然の章 Part1 第5章 大自然の章 Part2 第6章 希望の章 第7章 ダイヤモンドの章 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 スウェーデンボルグ霊示集 +... 第一章 我が人生観 第2章 霊界と結婚 第3章 キリスト教と私 第4章 私の見た地獄界 第5章 転生輪廻のしくみ 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・神霊界入門 +... 第1章 神霊界入門 Part1 第1章 神霊界入門 Part2 第2章 地獄界と竜宮界 第3章 天上界の秘密 Part1 第3章 天上界の秘密 Part2 第4章 天使の役割 第5章 女性論・人生論 Part1 第5章 女性論・人生論 Part2 第6章 六次元神界の実相 Part1 第6章 六次元神界の実相 Part2 第7章 小桜姫の新霊言 出版:幸福の科学出版 / 発行年月:1989.4 真説・八正道 +... 第2章 正見 第3章 正語 第4章 正業 第5章 正命 第6章 正思 第7章 正進 第8章 正念 第9章 正定 第10章 総論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.4 ニュートン霊示集 +... 第1章 科学の本質 第2章 光とは何か 第3章 エネルギーの源泉 第4章 私の見た世界 第5章 人間を科学する 第6章 宇宙の秘密 第7章 未来科学の姿 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.6 太陽のメッセージ +... 第1章 いま神理の太陽が昇る Part1 第1章 いま神理の太陽が昇る Part2 第2章 魂の世界とその真実 Part1 第2章 魂の世界とその真実 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part1 第3章 愛の力・愛の神秘 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part3 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part1 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part2 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part3 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part1 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part1 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part3 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.7 ユートピア価値革命 +... 第1章 新時代の展望 第2章 ユートピアとは何か Part1 第2章 ユートピアとは何か Part2 第3章 ユートピア価値について 第4章 未来型人間とは 第5章 ユートピア価値革命 第6章 ユートピアと経済 第7章 理想的ユートピア論 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 永遠編 +... 第1章 新創世記 第2章 甦る仏教 第3章 永遠の生命 第4章 心の法則 第5章 運命を超えて 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 天使編 +... 第1章 天使の再来 第2章 ポスト・ノストラダムスの時代 第3章 神は光なり 第4章 幸福への道標 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.9 高橋信次復活の原点 希望編 +... 第1章 悟りへの段階 第2章 人類の夜明け 第3章 神々は招く 第4章 希望の光 第5章 不退転の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.10 高橋信次復活の原点 太陽編 +... 第1章 生死を超えて 第2章 未来への遺産 第3章 目覚めへの道 第4章 啓示と宗教 第5章 太陽の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.11 ゼウス霊示集 +... 第1章 ゼウス登場 第2章 神々の饗宴 第3章 新しき神となるために 第4章 ゼウスの悟り 第5章 ギリシャ的精神の起源 第6章 大いなる光の最期 第7章 ゼウスの復活とアポロンの使命 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.11 高橋信次復活の原点 新生編 +... 第1章 生命と進化 第2章 中道とはなにか 第3章 心と行い 第4章 新経済学 第5章 神理文明論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1990.1
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目次 1.憎しみと愛 2.愛と持続 3.愛の目的 4.愛と許し 5.愛の根源にあるもの 6.愛の復活 (一九八七年十一月五日の霊示) 1.憎しみと愛 人間には、基本的な二種類の感情がある。その感情の一方は、憎しみが極端なところにあり、もう一つの極に、愛があると言えよう。 しかし、こうして憎しみと愛というように、二つの異なったもののように見えるものも、その本質、実は異なったものではない。それは、愛の原理を無視した行為と、愛の原理を認めた、受け入れた行為とのその違いでしかないのです。 憎しみとは、結局のところ、愛に栓(せん)をすることであり、この栓を取り除いたときに、愛はまた流れていくのである。 人間は、いかなるときに憎しみを抱くであろうか。憎しみを抱くときは、やはり自分の思いの通りに相手がならないときではないであろうか。相手が自分の思うがままにならぬとき、そこに憎しみが現われるのではないだろうか。 憎しみとは結局、人を自分の思うがままにせんとして、相手が思うがままに動かないことをもって、憤(いきどお)ることを言うのである。 さすれば我われは、この憎しみという感情の根源にあるものを洞察せねばならん。それは、姿を変えた愛の願望にしか過ぎないということだ。 すなわち、憎しみを抱いている人というのは、何らかの意味で相手に愛を与えてほしいと思っておるか、尊敬を与えてほしいと思っておるか、自己の重要感がほしいと思っておるかのいずれかなのである。したがって、彼らは愛に飢えているのである。そして、人に愛を与えるがごとき境地にないと言うことができるのである。 これに反し、愛に生きる人はそうではない。彼らは求めない。彼らは、手に入れようとするのではない。彼らは、ただ与えんとするのである。与え、与え、与え、与え続けんとするのである、なぜ与え続けんとするのか。それは結局、彼らが、神より多くのものをすでに与えられているからである。与えられているからこそ、また与えんとするのである。この与える愛の循環こそが、愛の本質に他ならない。 さすれば、愛の根本にあるものは何であるかと言うと、自らが与えられているということに関する感謝、そして、感謝に先立つ自覚ということになるのではないだろうか。与えられているということ、これに対する認識をし、そして感謝をしていくということ、感謝をするということが、すなわち他の人に対して愛を与えるという行為となっていくのである。 したがって、憎しみの炎に燃えている者たちよ。自らの心に手を当てて、考えてみなさい。あなた方には感謝という気持があったかどうかを。神に感謝する気持があったかどうかを。他の人びとに生かされているということに関して、感謝する気持があったかどうかを考えてみなさい。 感謝のないところに、愛はないのです。神より与えられているからこそ、我われは与えねばならんのです。神より多くのものを与えられておるにもかかわらず、そのことに気づかず、人から与えられんことばかりを願って、他人に強要し、他人にこのようにしろ、あのようにしろと強要することをもって、本当は、人間の本来の姿とは言えないのです。 やはり、愛に生きる行為こそが、本当に美しいのではないでしょうか。結局、憎しみという行為は、他人を害すると同時に、自分自身の神性を害するということにしか他ならないのです。憎しみがこのようなものであるならば、私たちは憎しみを捨てねばなりません。 いろんな個性ある人間が生きておるならば、すべての人間を自分の思うがままにしたいという気持は、これはやはり、無理がそこにあるのではないでしょうか.神でさえも、すべての人たちを自分の思い通りに強制しようとはされておられないではないですか。さまざまな人に、さまざまな行動と、さまざまな思いと、さまざまな言動を許しておられるではないですか。 その中には、神の御(み)心に合わない言葉や、神の御心に合わない行ないや、神の御心に合わない思想もあるでしょう。そうした人びとに対しても、神は惜しみなくあの太陽のように熱や光を与え、慈雨(じう)を降らし、穀物を実らせ、そして、彼らを養っておられるではないですか。 神は、善人だから穀物を数多く取れるようにし、悪人だから少なく取れなくしたり、善人だけに雨を降らして、悪人には雨を降らさなかったり、そうしたことは、決してされていないはずです。 さすれば、あなた方は、よくよく物事を考えねばならん。あなた方は、決して、神は 悪人だから生かしておられないんだとか、善人だけをえこひいきされるのだとか、そうした考えをもってはいけないと思う。神もまた、多くの悪しき行為をする人たち、悪し き思いを発する人たち、悪しき言葉を発する人たちを養っておられるということを知らねばならない。 そういう認識のもとに考えるときに、神が彼らの存在を許しておられるのに、なぜ、あなた方だけが彼らを裁こうとするのか。裁いてはいけない。人を裁いてはいけない。汝が裁かれぬことを願うなら、人を裁いてはいけない。他人に悪人というレッテルを貼ってはいけない。他人に間違っているというレッテルを貼ってはいけない。そうした人びとであっても、神はまた、養っておられるということ。これを信じなければいけない。 彼らもまた、完全な悪人ではないのです。完全な罪人や、完全な悪人というのは、この世にはいないのです。お互いに、他人から自分が害されるのではないかと思って、その害というものを予想して、身構えているだけなのです。そして、身構えておるだけでは足らずに、まず相手に対して、批判をしてみる。悪口を言ってみる。こういうことをしておるのです。しかし、それは決して、神のお心にかなっていることではないのです。 憎しみに対して、愛をもって応(こた)えよ。怒りに対しては、笑顔でもって応えよ。激しい言葉に対しては、沈黙でもって応えよ。そうした行為の中に、神の愛の実践がある。 2.愛と持続 さて、人間は、自ら優れていると思うときに、他人に対して優しくすることは簡単です。自らが人より勝っていると思うときに、他人を慰めるのは簡単です。自らが金持ちであるときに、貧乏人を慰めることは簡単です。自らが幸福であるときに、不幸な人を慰めるのは簡単であります。自らが健康なときに、病人を慰めることは簡単であります。自らが恵まれているときに、恵まれてない人たちに優しくするのは簡単です。 しかしながら、人生は必ずしもそうした時期ばかりは、続かないということです。自らが豊かなときに、貧しい者たちに対して、分け与え、優しくすることはできても、自らが貧しいときに、人びとは一体何をすることができるでしょうか。 この貧しさとは、決して、金銭的な貧しさだけではありません。精神的にもそうです。不成功のとき、失敗のとき、心は貧しくあります。しかし、この心貧しき時に、一体どれだけのことができるでしょうか。 富者の万灯よりも、貧者の一灯です。貧しい者が、その貧しい中から蝋燭を一本、神のために捧げるのと、大金持ちが一万の、あるいは一億本の蝋燭を捧げるのと、どちらが神が喜ばれるかと言えば、より多くの犠牲を払ったものの方を神は喜ばれるのです。 さすれば、人びとは、自分の置かれる立場というものを当然として、物事を判断してはいけない。富める者は、ますます大いなるものを返していかねばいけない。貧しい者は、貧しいものの中から、出していかねばならない。それが愛の、愛についての基本的な考え方です。 そうしてみると、結局、こういうことではないでしょうか。愛とは、相対的なるものの中にはないということです。愛は、すなわち、絶対的なものだということです。その人の置かれた立場によって、愛を与えたり、与えなかったり、その状況によって、それをより好みするようなのが、本当の愛ではないのです。愛というものは、どのような状況にあっても、自ら与えていくものだと言えましょう。 かつて、教会に納める税金に、十分の一税というものがありました。それは、富める者も、貧しき者も、自らの収入の十分の一を神に納めるということが、その主旨でありました。これは、結局のところ、すべての者が、同じだけのものを与えるという気持であります。お金があれば与える、お金がなければ与えない、こうしたものではないということです。 つまり、健康な者が、病者を見舞うだけではなく、病のときにあって、他の人にどれだけの配慮をすることができるかどうか。これが、大切だということです。病の中にあって、他の人をどれだけ気遣うことができるだろうか。病の中にあって、健康な人をどれだけ気遣うことができるであろうか。不幸の中にあって、幸福な人をどれだけ気遣うことができるだろうか。これが、問題となるのです。 結局、こういうことです。人生にはさまぎまな波があります。大波、小波があります。そして、波が高まっているとき、また、波が低くなっていくとき、両方があると言えます。 しかし、その大波、小波、いろんな状況にあるけれども、決して与えることをやめないという姿勢が、大事なわけです。 自分が健康なときだけ、他の人にいたわりの言葉を与えて、自分が不健康なときには、与えない。こうしたものであっては、よくないのです、決して、愛というものは、そうしたその場その場の気分で、与えたり、与えられたりするものではないのです。 結局のところ、愛の本質の中には、持続というものがあるということです。持続とは、与え続けるということです。これが持続です。この持続というものがないときに、一切はむなしくなります。 どんな苦しいときにも、どれだけの愛を人びとに分かち合えるかどうか。どんな苦しいときにも、どれだけの愛を神に対して与えることができるかどうか。与え返すことができるかどうか。それが、あなた方に今、問われている時です。 他の人びとから、非常な善意でもって褒められたときに、笑顔をもって応えることは簡単でありましょう。他の人びとから、悪意でもって迎えられたときに、そのときに笑顔を崩さないことは困難であります。しかし、これは努力して、そういうことをしていかねばならないのです。 自分を愛している者を愛したからとて、それが一体何になるでしょうか。自分を愛している者を愛することぐらい、これは動物でもやっておることであります。自分を愛しておる親を、犬であっても、鹿であっても、子供はまた愛します。また、子鹿や、子犬が親を愛するときに、親犬や親鹿は、子供を愛します。そうしたように、愛してくれる者を愛することは、簡単なことであります。 しかし、本当に心の修行というものを考えたときには、愛するべきでないものを愛するということが、大事なのです。その人が自分に好意を持ったときだけ愛し、自分に敵意を持ったら愛さない、そうしたものであってはいけない。どんなことがあっても、太い太い命綱のように、決して愛を離さないという気持が、大事だと私は思います。 それは、決して捨てないという気持でもあろうかと思います。真理の道に入っても、さまざまなことに間違いを起こして、道をそれていく人たちがいます。道をそれていった人たちに対して、彼らは間違ったのだから、そして裁かれて当然である、いなくなって当然である、迷子になって当然である、そうした気持であってはいけないということです。愛は決して捨てないということです。 私はかつて言ったことがあります。百頭の羊のうちの一頭が、谷間に迷子になったときに、残りの九十九頭をそのままにしておいてでも、その一頭を探し求めるのが、これが羊飼いの仕事ではないだろうか。 神の愛とは、そうしたものであります。決して捨てないということが、大事なことなのです。決して捨てないということ。 たとえば、神の愛というものは、親の愛のようなものです。親は、自分の子供がいい子だから愛し、悪い子だから愛さないでしょうか。悪い子であるからこそ、ますます心配し、ますます彼らの世話をやき、ますます彼らのために、なんとか力になりたいと思うのが親ではないでしょうか。それは、かわいい我が子だからです。 まして、地上に降りたる人間もすべてそうです。すべて神の子なのです。そうであれば、神の言うことをよく聞く子もかわいいけれども、聞かない子供たちこそ、もっとかわいいんです。もっともっと彼らのことを世話をしてやりたい、そういう気持が私たちにはあるのです。 さすれば、あなた方は、心清き人を愛することは簡単だけれども、心において間違いがある人をも愛さればいけない。そうした考え方を大切にしていきなさい。 3.愛の目的 こうしてみると、愛の目的とは一体何であるかということが、明らかになってくるでありましょう。愛の目的とは、結局のところ、すべての人、一人ひとりが手をつなぎ合うことなのです。決して離さないということです。決して離さない。 あるいは、すべての人の体に、命綱を巻きつけていく作業だということです。自分のみが助かろうとして、その命綱を切り捨ててはいけない。すべての人が力を合わせて、なんとかして持ちこたえていかねばならん。そういう気持が大事であろうと思います。 愛は、すべての人を山の頂上まで連れて行くことを目的とするのであって、自分が落ちそうになれば、他の者を切り落とすというようなこと、そうした命綱を切り落とすというようなことをもって、それを愛の目的とはしておらんのです。 苦しくとも、つらくとも、なんとかして、がんばっていこうということです。励まし合っていこうとすることです。それが愛の本質であり、愛の目的であるのです。 ただ、中には、神が人びとをすべてそのように救おうとしており、また、神の子として地上に出ている人たちが、同じくその意を体現せんとしておるにもかかわらず、それを理解しない人もいます。命綱を垂らしておるにもかかわらず、それが自分を縛りつけて、自分を思うがままにせんとしておるのだというふうに、被害の思いでもって見る人もいます。 そうした人に対しては、根強い、根強い信頼という気持でもって、見てあげる必要がある。彼には悪霊が入ったとかいうような、そうした言葉でもって、切って捨てることをよしとはしないのです。たとえどのような状況にあろうとも、必ず相手がよくなると思って、祈って待ってあげなければいけない。 なぜなら、愛とは、自分一人がよければいいという思いではないからです。愛は、すべてがよくなることを祈る気持です。自も他も一体であるという気持です。他人ではなくて、それもまた自分の分身であるのです。そうしたものが、愛の根底に横たわっているのです。 さすれば、あなた方が兄弟であるということを知らず、あなた方が差し伸べた手をもって、これを異邦人(いほうじん)の手か何かのように、振り払う人がいるかもしれないけれども、あなた方はそれで顔をしかめてはいけない。青い顔色になってもいけない。そうしたことを断じてしてはいけない。あなた方は彼らに対して、彼らはまだ知らないのだ、自分が兄弟だということを知らないのだ、友達が来ているということを知らないのだ、と、そのように思わねばいけない。 往々(おうおう)にして、敵というものは、結局、そうしたものなのです。敵というものは、結局のところ本当のことを知らないだけの人であることが多いのです。本当のことを知らない人に対して、その無知を暴(あば)こうとしてやっても、なかなか彼らの許すところとはならないでしょう。 知らないということは事実であっても、知らないということを指摘し、知らないということを暴き、知らないがゆえに劣っていると、それを証明することをもって、本当の愛とは言わないのです。知らないということに関しても、それも、根気強く、根気強く、彼らが知るのを待ってやるということ、これが大切ではないでしょうか。 そうした、圧倒的な愛の思いでもって、生きていくことが大事なのではないでしょうか。私はそう思います。愛は決して見捨てない。愛は、すべてのものが向上していくことを目的とする。すべての人が、手をつなぎ合わせることが目的である。自分たちの仲間だけが手をつなぎ合わせて、他の者たちをその輪の中から放り出すことをもって、愛とは言わんのです。 自分の気にくわない者をその輸から放り出したところで、それで調和ができたところで、それが一体何になりますか。そうではない。すべての人が手をつなぎ合わせられるような、そうしたことこそ、理想と思わねばならん。 愛には敵はない、ということです。なぜならば、すべての人の向上を願う思いが、愛だからです。それが今、敵のように現われてきているということは、まだまだ自分の愛に、足りざるところがあるのではないかどうかを検討しなければいけない。 人を怒らせるときには、あなた方が発している言葉の中に、剌(とげ)があるのかもしれぬ。毒があるかもしれない。人の不幸を願う気持ちが、どこかにあるのかもしれない。そうした思いがあるならば、それをまず、神に詫(わ)びることです。 人間は、圧倒的な善人に対して、悪くは言えないものです。自分に対して、どんなことがあっても、よくしてくれる人に対しては、悪口は言えないものです。人間は、自分の悪口を言う人のことを悪く言うのです。悪魔だけが悪魔を呼び出すことができるというのは、このことを言っているのです。 敵として、大きな悪魔が出てきたと思えば、その悪魔に匹敵するだけの大きな悪魔が、我が心の内にあるということを知りなさい。それを呼び出すだけのものが、こちらにもあったのだということを知りなさい。 反省の材料は、向こうだけにあるのではない、またこちらにもある。悪魔だけが、悪魔を誘(おび)き出すのだということを知りなさい。 事実を事実として述べることは、必ずしも真理ではないと私は思う。相手を生かすことは大きく、相手を苦しめることは小さく、そうした努力もまた、必要ではないだろうか、私はそう思います。愛とはそうしたものだからです。 あなた方は、自分の最も信頼している人から、手厳しい批判を受けたときに、それでもって、ありがとうと言うことができるでしょうか。言葉では言うことができるかもしれませんが、自分の間違いを指摘した人に対して、感謝する気持よりも、やはり、くやしい思い、傷ついた思い、それが強くはないでしょうか。信頼する人であればあるほど、そうしたことに関して、敏感になっていくのです。 さすれば、決して悪く言わない、そうした友人であってもよいのではないでしょうか。私は、それが本当の生き方であるように感じます。愛の目的の中には、そうした、友人を創り出すことが大事であろうと思います。 どの人間にも欠点があります。相手があなた方の欠点を暴きたて、あなた方が、相手の欠点を暴いたところで、それで一体何の愛でありましょう。何のユートピアでありましょうか。 相手があなた方の欠点を暴きたてんとしているときであるからこそ、相手のよいところを見い出してゆこうとする努力が大事なのではないでしょうか。その中に、何らかの光るべきものがあるのではないか。そうしたものを見い出してゆこうとするべきではないでしょうか。 あるいは、相手があなた方の欠点を暴こうとしているということは、相手の中にある善なるものを見い出そうとするあなた方の努力に、不足するものがあったのではないか、ということを心に問う必要があるのではないでしょうか。 人間は、他人の悪は大きく見えて、自分の悪は小さく見えるものです。他人の悪口に対しては、許し難いけれども、自分の悪口に関しては、簡単に許してしまうのが人間です。あのときはああいう事情であったから、やむを得なかったのだというのが、人間のよくある姿であるわけです。しかし、他人の悪に対しては、なかなか許そうとしません。こうしたものである。自分もそうした生き物であるならば、他人もまた、そうした生き物であるということを知らなくてはいけません。 4.愛と許し さて、そこで私は、許しということに関して、話をしていきたいと思います。この私の書物を読む読者の中で、一体何人の方が、他人を許し得たことがあったでしょうか。あなた方は心静かに目をつむって、思い出してみてください。一体あなたは人生の途上で、何人の人を許したでしょうか。 許した数が、十人以上にのぼる人があれば、それは珍しい方であろうと思います。なかなか、十人もの人を許した覚えはないというのが、通常の人間ではないでしょうか。 しかるに、自分の一生というものを振り返ったときに、あなた方が害したことがある人は、一体何人あったとお思いでしょうか。あなた方が人生の途上で害した人は、おそらく十人という数では済まなかったのではないでしょうか。もっともっと多くの人たちを害したのではないでしょうか。彼らを心理的に害したり、経済的に害したり、そうしたことをしたのではないでしょうか。 さすれば、自分は、自分が害した人と、自分が許した人とのこの違いを比べてみたときに、善人であるか、悪人であるかということを自らの心に問うてみなさい。十人以上の人を害したことがない人であるならば、十人以上の人を許さなくてもよいかもしれない、しかし、現実は、一人の人も許したこことがないにもかかわらず、数名にとどまらず、数十名の人びとを害していったのが人生の道筋ではなかったでしょうか。そして、その害しているということすら気づかずに、生きているのが大多数の人間の姿ではないでしょうか。 害している、自らが他人を害しているということさえ、気づかぬ人間。そうしたことは数多くあるのです。みなさん方も、自分は他人に害されたと思っているけれども、その当人は、そうしていない、そう思っていない、こういうことに数多くめぐリ合ったと思います。あの人はこういうことにも気がついていない、そう思ったかもしれません。ただ、あなた方にも同じことはあるということを知らねばならないのです。知らないで、害したことはあるということです。 さすれば、心の中に静かに思いをいたして、自分が人生の数十年の間で、一体何人の人を害したであろうかということに思いをめぐらしてみなさい。 父に対して、母に対して、兄に対して、弟に対して、姉に対して、妹に対して、友人に対して、先生に対して、また職場の同僚に対して、自分をひいきにしてくれた人に対して、あなた方はその友情を裏切るようなことはなかったでしょうか。彼らの信頼を裏切るようなことは、なかったでしょうか。 そうすれば、罪深い自分という姿が、ふつふつと思い出されるはずであります。あなた方がいくら思い出しても、思い出しても、それですべてが十分というわけではありません。けれども、その思い出しても十分でない数以上に、人を許そうということを考えてみてください。 具体的に会うことができる人があれば、会って許しを請(こ)うことも大事です。会うことができない人であるならば、心の中で許しを請いなさい。そして、自分が許されたという気持がないならば、神に対して、許しを請いなさい。神はきっと、あなた方の罪を許してくださるでしょう。 結局のところ、こういうことです。罪なく人生を生きている人はいないんです。また、他人を一度も害することなく、人生を生きている人もいないということです。「汝らのうち、罪なき者のみ、この女を石にて打て」と、私はかつて語ったことがある。同じであります。 あなた方のうち、人を害したことがない人だけ、他人を悪人呼ばわりすればよい。あなた方のうちで、心に悪を思ったことがない人だけ、他人を悪人扱いすればよろしい。あなた方の中で、心に恥ずべきことをしたことがない人だけが、他人の恥を責めればよい。こうしてみると、なかなか、人のことを悪く言うことは難しい、ということが言えると思います。 さすれば、許しの根源にあるものは、しっかりとした自己観照(じこかんしょう)、自分を振り返るということにあると言えましょう。自分を深く、深く振り返ったときに、他人に対して厳しくはなれないのです。他人を許さんがために、許すのではないのです。その許しは、同時に、自分を許すための許しともなっておるのです。自分を許すがための許しとも、なっているということです。 自分が自分を許す、自分が神に許していただく、そのためにも他人を許しているのです。一生において、百人以上の人を許したことがある人は、どれだけいるでしょうか。数少ないことであろうと思います。 しかるに、神は一体どれだけの人を許しているとお考えでしょうか。それは、地上に六十億の人間ありとすれば、神は六十億の人間を許し給うているのです。さすれば、神の境地とあなた方の境地はいかに違うことでしょうか。この地上でいくら優れた人であっても、六十億の人を許しているような人がいるでしょうか。 「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉は、今もまた、金言(きんげん)であるのです。あなた方も、そうであるならば、「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉を心に銘じていただきたい。これは正確に言えば、「汝の敵と見えし者を愛し、汝を迫害するかのごとく、振舞う者のために祈れ」ということです。本当の意味での敵というものはない。そこにあるのは、誤解せる人が存在するということだけです。 それなら、人のために愛を与え、そして、あなた方を迫害する人のために、心から祈ってあげなさい。それが大事です。そうした誠意は、いつか必ず相手に伝わっていくものです。 時を待ちなさい。ギブ・アンド・テイクを思うなかれ。自分が与えたら、すぐ与え返されると思うな。神が無限に与えきりであるように、あなた方も与えきりでありなさい。与えて、与えて、与え続けなさい。それがあなた方の仕事であるのです。 5.愛の根源にあるもの こうして、愛について、さまざまなことを語ってまいりました。私は、この愛の根源にあるもの、これを語ってみたいと思います。 なぜ、人間は、愛ということを考えねばならんのでしょうか。そして、私はなぜ、愛ということを人びとに説いてきたのでしょうか。このことについて、話をしてみたいと思います。 結局のところ、人間の人生というものは、自分自身の発見にあるのです。自分自身が、一体何者であるかということを発見するために、人間の人生はあるのです。結局、愛を探し求める旅というものは、自分の内なる愛を発見する旅であるということ。そして、自分が、愛という目的のために生きていることを知る、ということ。こうしたことであります。 なぜなら、神は、愛だからです。神が愛であるのに、あなた方が、愛に背(そむ)く行為をすることは、あなた方が、自分自身を裏切っているということです。自分に正直に生きることです。自分の内に愛があるのに、その愛に目覚めないで、愛の反対のことをしてはいけない。そして、他人が自分の愛に応えてくれないからといって、それですぐ、あなた方は不平不満をもったり、怒ったり、妬(ねた)んだりするようなことがあってはいけない。 それは、あなた方はまだまだ、自分の愛の発掘が足りないのです。あなた方の愛というものは、掘れども掘れども湧いてくる泉のように、井戸のように、汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることがないものなのです。 愛というものは、その泉は、何人がその喉(のど)の乾(かわ)きを潤(うるお)したからといって、それで泉が尽きてしまうということはないのです。あなた方も自分の心の中に、そうした愛の泉を描きなさい。その泉から水を汲んで汲んで、人びとは喉を潤していくけれども、いくら水を汲んでも泉の水は尽きることがない。決して、尽きることがない、そうした無限のものでありなさい。 大いなる泉は、昔から、多くの旅人の喉を潤してきた。砂漠を行く人たちの喉を潤してきたのは、あの砂漠地帯のオアシスです。オアシスは多くの人びとの喉を潤してきて、そして、一円も取ろうとしない。さりながら、いくら多くの人の喉を潤しても、オアシスがそれで涸(か)れてしまうということはない。そうしたものでありなさい。 結局、自分の心の奥に、深い深いオアシスを掘り、深い深い井戸を掘り、深い深い泉を掘ったときに、その愛が何人によって飲まれたとしても、干(ひ)からびるようなことは決してないのです。愛はすなわち、神の生命であり、神の生命は汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることのない、清冽(せいれつ)な水だからです。 さすれば、あなた方は、自らの愛の少なきことを嘆きなさい。自らの泉を充分に掘っていないことを嘆きなさい。あなた方が溢(あふ)れ、溢れ、溢れ、溢れてくるような、愛の泉の存在であるならば、多くの人たちがそれを奪い合ったところで、何ら争いはないのです。あなた方の水が少ないから、他の人びとの喉の乾きを潤すことができないでいるのです。 これは、他人に、その水を飲むなかれということではなくて、自らの内なる水をもっともっと豊かに、掘り当ててゆかねばならんということです。その愛の泉を掘り当てていきなさい、湧(わ)かしていきなさい。滾々(こんこん)こんこんと、湧き出でる泉のようなものでありなさい。そうしたことが、非常に大切ではないでしょうか。 こうして考えてみると、結局、愛の根源にあるものは、一本の深い井戸であるということが言えると思います。その井戸を掘り進んでいくときに、地の底にある大きな水脈に行き当たるということです。地の底には、多くの水脈が張リめぐらされています。そしてその中には、豊かな豊かな、地下水というものが流れているのです。 この地下水を掘り当てるということが、結局、一人ひとりの個人に委(ゆだ)ねられた業(わざ)なのです。三十メートルの深さを掘れば、地下水が出てくることもあるでしょう。それを、二十九メートルでやめてしまう人もいるのです。 あと一メートル掘れば、清冽な水が噴き出してくるのに、二十九メートルまで掘ってやめてしまう人がいかに多いことであろうか。また、三十メートルの底まで掘っていく前に、ほんの五メートルぐらい掘って、少し水が出たということでもって、満足している人がいくらいるでしょうか。 あなた方は、愛は、そうした深い深い地下の水脈であるということを知リなさい。そして、どんどん、どんどんと掘っていきなさい。やがて大きな大きな水脈に行き当たったときに、その中に、神の生命を感じ取りなさい。神の無限のエネルギーを感じ取りなさい。神の無限の力を感じ取りなさい。 6.愛の復活 さて、わたくしは今、二千年の沈黙を破って、こうして地上に霊示を送らんとしています。わたくしがこのように、直接に霊示を送るということは、非常に稀(まれ)な場合であります。 もちろん、何人かの宗教家たちを陰(かげ)になり、ひなたになって、指導したことは数多くあります。けれども、こうした形で、私が直接に地上の人たちに語リかけるということは、かつてなかったことであります。空前絶後(くうぜんぜつご)のことであります。地上の人たちは、この意味を噛(か)み分けて、噛みしめてほしいのであります。 そして、私が再び復話せんとしていることを、どうか心の底から喜んでいただきたいと思うのです。 あなた方の中には、疑い深い人が数多くいらっしゃることと思います。イエスが再び出てくるはずがない、一番にそう言うのが、クリスチャンたちでありましょう。しかし、クリスチャンたち、またクリスチャンでない人たちにも、私は知っていただきたいと思う。それは、神はみなさまを決して見捨ててはおられないのです。決してみなさまを見捨てて、みなさまを孤児(みなしご)にしようとはしておられないのです。 さすれば、この地上に生きている身であっても、どこかに神仏の力が働きかけているということを信ずることが、大切ではないでしょうか。どこかから、神仏の偉大な力が働きかけているのではないかということを知ることが、大事ではないでしょうか。 直接的、間接的に、さまざまな形でもって、神の愛というものは、いろんな時代を照らしてきたのです。いろんな人を通じて、地上に法を説かしめたり、いろんな人を通して、地上に絵画を広めさせたり、 いろんな人を通じて、地上に文学を広めさせたり、いろんな人を通じて、地上に哲学を広めさせたりしてきました。そもすべて、神の息吹であります。 さすれば、そうした息吹、神の奇跡が過去だけにあったと思うな。現代にもまた、あるはずだということを知リなさい、キリストは二千年前だけに出たのではない。今日(こんにち)に至るまで、わたくしがキリストの使命を果たさないでいたことは、一日たりとてない。今日まで私は、一日も休んだことはない、あなた方は、土曜日だと言い、日曜日だと言い、休んでおるけれども、今日まで私が働かなかった日は、一日もなかったということを、あなた方に知っていただきたい。 私は、さまざまな形でもって、みなさん方をより幸福にするために、より愛に満ちた生活に導くために、より信仰深き生活に導くために、日夜、努力をしているのです。このことを知ってほしい。このことを信じてはしい。このことをはっきりとわかってほしい。そうした思いがあります。 今、地上にある多くの人たちは、霊的世界の実在を認めず、また、霊の実在も認めない人が多いと聞いていま。そして、霊の世界を信じている宗教者であっても、偉大な人びとが、次々と地上に霊言を送るということを信ずることができないかもしれません。 ただ、しかし、あなた方は、一体どちらに賭(か)けるつもりですか。神の救いを期待するほうに賭けるのですか。それとも、神の救いを期待しない方に賭けるのですか。それを考えていただきたいのです。神の救いがなくてよいなら、それでもよいでしょう。しかし、あなた方がもし、神の救いというものを期待しておられるなら、あなた方は、心の態度を変えてしまう必要があります。 いつの時代にも神の奇跡はあり、いつの時代にも神の救済の手は伸ばされていたのです。 現代の中にも、どこかでそうしたものがあるはずだという認識を、持っていなけばいけないということです。 私は今、語ります。私が今、こうして語っているということ、こうして霊言を送っているということの意味を、多くの人に知っていただきたいのです。これを信ずる、信じないは各人の自由かもしれない。しかし、信じるのと信じないのとでは、あなた方の心の安らぎは大いに違うでありましょう。神の救いが来ていることを信じることと、それを否定し去ることと、一体どちらがよいかです。 否定し去ったところで、一体それが何になりますか。あなた方にとって、一体何のプラスになるのですか。あなた方が、唯物信仰に陥ることを防ぐことにもならないばかりでなく、あなた方を神へと導くことにもならないはずです。 さすれば、疑うべきは信ぜず、ではなくて、どのようなものであっても、その中に、本当に真理があるかどうかということをもう一度、振り返って考えていただきたいのです。 この混沌(こんとん)の世の中に、この人類の危機が迫っているというときに、なぜ、私が復活しないわけがありましょうか。あなた方がかわいいと思えばこそ、あなた方を愛しておればこそ、私は今、復活せざるを得ないのです。肉体によって復活するのではない。生命として、言葉として、私は今、復活せんとしているのです。言葉としての復活、生命としての復活であります。 これをを信ずる者には、大いなる勇気が与えられるでありましょう。そうした、栄光の時代に生きているということに対する、自信が湧いてもくるでしょう。 どうか、人びとに知っていただきたいのです。イエスは、二千年前に、ナザレの地で十字架に架かって果てたような、それだけの弱い人間ではなかったということ。その後、二千年にわたって、連綿(れんめん)として、霊天上界にあって多くの人びとを指導してきたということを。そして今また、私は、九次元世界というところにあって、地上に神理流布(るふ)のための運動を起こすべく、陣頭指揮を取っているということをわかっていただきたいのです。 私か陣頭指揮を取っているということが、どういうことであるかを知っていただきたいのです。私が地上に直接霊言を送るということは、私以外の者の霊言もすべて出るはずであるということであります。地上の人たちは、なかなか信じぬかもしれない。クリスチャンがキリストの霊言をなかなか信じないがごとく、ある団体の人たちは、その団体の教祖が、地上に霊言を送るということを信じないかもしれない。 しかしながら、神の本質というものを考えてみたならば、神は一体どうされるであろうかということを考えられたらいい。神が、単に沈黙をしているだけだろうか。神は、そういう単なる沈黙を守ってはいない。神は、常に、何らかの形で人びとを導かんとしている。そうであるならば、この導きの手もまた、多いなる愛ではないかどうか、ということを一度、踏み止まって考えてみる必要があるのではないだろうか。 私は今、霊天上界にあって、この地上浄化と、大いなる救済ということに関する、最高責任をもつ者であります。どうか、人びとに、このことをわかっていただきたいのです。自分たちのプライドであるとか、自分たちのエゴであるとか、自分たちの利益であるとか、そうしたつまらないものにとらわれることなく、大いなる神の救済ということを信じていただきたいのです。この混沌の時代に、イエスが黙っているわけがないということを知っていただきたいのです。 私は、愛として復活したのです。これは、私の愛の復活なのです。私は、生命として、言葉として、大いなる響きとして、さらにもう一度、復活せんとしているのです。肉体としてではない。弱々しい人間としてではない、大いなる生命(いのち)として、汲めども汲めども尽きぬ愛の泉として、言葉として、今、復活せんとしているのです。 どうか人びとよ、再度再度、あなた方に通告しておく。我の復活するとき、それは、大いなる救世運動の起きるときである。このときに、汝らは思い過(あやま)つことなかれ。この大いなる運動のときに、誤解をし、勘違いをしてはならない。他宗を排撃したり、他の人を謗(そし)ったりすることのみに、汲々(きゅうきゅう)としてはならない。この大いなる愛の息吹(いぶき)に接したならば、あなた方も目覚めなさい。 そして、すべての者を我がもとに連れて来なさい、私の子羊を私のもとに連れて来なさい。羊飼いは今、還って来ているのです。さ迷える子羊たちよ、私のもとに還って来なさい。私はあなた方を褒(ほ)めてあげよう。私はあなた方をかわいがってあげよう。私はあなた方の疲れを癒(いや)してあげよう。私はあなた方を心から愛してあげよう、許してあげよう。包んであげよう。 だから、羊飼いのもとに、還って来なさい、日は、間もなく暮れんとしています。日が暮れたならば、羊飼いの声と、ラッパの声、鈴の音を聞いて、集まって来なさい、私のもとへ。私の羊は、私のところへ還って来るでしょう。今という時代を創るために、数多くの私の子羊たちが、地上に降りているのです。 子羊たちよ、私の声を聞いたならば、ただ、一筋に集まって来なさい。私を求めて来なさい。あなた方が求めれば、求めるほど、私はより多くを与えることができるのです。なぜなら、私は、あなた方に愛を与えるために生きているからです。 乳飲(ちの)み子が、母親に乳を求めるように、私に愛を求めなさい。私に生命を求めなさい。私にすべてを求めなさい。他人に求めるのではなく、私に求めなさい。懐かしい私の声を聞き、私の姿を知り、私の声に従って、どうかついて来なさい。私は、あなた方を山の頂きまで、連れていくつもりです。どうか、我があとに従い来たりなさい。
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目次 1.永遠の時 2.神理の流転 3.現文明の特色 4.正しさの変容 5.神理の金字塔 6.太陽は昇る 1.永遠の時 今、私たちは、はるかなる高次元にあって、地上の人びとに対して、本当の世界観を教えんとしております。ほんとうの世界観がどれほど広く、どれほど長く、どれほど高いものであるかということを教えんとしているものです。 永遠の時、われらが神は人類を指導してきた。千年を一日(いちじつ)のごとく、神は人間の歴史を見、繁栄を見、衰退を見てきたのです。この永遠の時の流れにあって、我もまた、大いなる心でもって人びとの人生を、いくたびかの文明の興亡(こうぼう)を眺(なが)めてきたものです。 地上にある者たちは、一日をニ十四時間として、地球の自転を一日として生きておりますが、しかし、こうした地上の時間というものは、地上をはるかに隔(へだ)てた高次元世界から見るとするならば、それはまたたく間の時間であります。 われはかつて、今から三千二百年の昔、エジプトに生まれ、人びとに解放への道を説き、人びとを奴隷から解放し、紅海を渡ってシナイの山のほとりへと旅立ったものでありますが、そうした。三千年以上昔のことであっても、私の立場にたってみるならば、つい昨日、一昨日(おととい)のようでもあります。ちょうど、絵巻物か何かを目の前に広げていて、それを一望に見るがごとくであります。 たしかに今見ているところには、二十世紀という絵物語が広げられているけれども、その左を見れば過去があり、その右を見れば未来がある。このように、永遠の時のなかにわれらがあるということを知らなくてはならない。神の眼から見れば、千年も一日のごとしである。三千年前、五千年前というのは、つい三日や五日前のことにしかすぎないのである。さすれば、五百年後の人類、千年後の人類といっても、明日明後日(あすあさって)にしかすぎないということだ。 人びとは、これだけの永遠の時の流れのなかに生きていることの、この無常感を知れ。永遠の時の流れのなかに生きている人間のはかなさを知れ。はかない存在ではあるが、そのなかにおいて死することのない生命を維持していることの尊厳を知れ。偉大性を知れ。 汝(なんじ)らの生命は、点滅する螢(ほたる)の光のごとき生命ではないのである。それはそれは、はるかなる彼方(かなた)より光を発し、はるかなる彼方へと、光を点(とも)しつつ通り過ぎてゆく列車のごときものだ。永遠の彼方から、永遠の彼方へと通り過ぎていく列車の光のようなものである。 人間よ、知れ。あなたがたの生命が不生不滅(ふしょうふめつ)であり、始めなく終わりなきものであることが、これが、あなたがたが神の子であるということの証拠であるのだ。神の子であるからこそ、不生不滅である。不増不滅(ふぞうふげん)であるのだ。汝らが持っている生命のエネルギーは、決して滅ることはない。滅びることもない。つねに、天上界とこの地上界を転生輪廻しつつ、決してなくなることのない生命エネルギーであるのだ。これこそが、すなわち、汝らが神の子であるということの偉大なる事実、偉大なる証拠であるのだ。このことを知りなさい。 神は永遠の時のなかに世界を創っておられ、永遠の時のなかに空間を持っておられ、永遠の時のなかに自己の意思の展開をなされ、新たな世界を築かんとしておられるのです。そのような永遠の時のなかにあって、みずからもまた永遠の生命を生きているということを、このことを誇りとしなさい。これが出発点である。 地上にある生命を有限だと思うからこそ、そこに物質への執着が生まれ、この世的なる生き方へのとらわれがでてくる。されども、人間ははるかなる昔から、はるかなる彼方へと生き続ける存在だと知る時に、われらが地上での生命も、あるべき姿ということがわかるのである。地上での生命のあるべき姿は、限りない進歩と、限りない調和の実現にほかならないということだ。限りない進歩、限りない調和、それで地上を楽園とし、そしてすばらしい実績を持って還ってくるということだ。 何度も何度もこの世に生まれるものならば、この世に生を持つものであるならば、やはり一回一回の生を、すばらしいものとしてゆく必要があるのではないのか。一回一回の学びをすばらしいものとしてゆく必要があるのではないのか。私はまず、このことのたいせつさ、すばらしさということをあげたいと思う。 2.神理の流転 さて、そうした永遠の時のなかにあって、いかに神の心、神の教え、神の理(ことわり)が流転(るてん)してきたかということについて話をしてゆきたい。題して「神理の流転」という。 神理は流れ流れ、流れきたって転じていったものである。その現われ方にはさまざまな現われ方があるけれども、その現われ方のなかにおいて、やはり一筋の黄金の流れがあったということである。 われらは、かつて偉大なる文明のなかに生きていたことがあるのだ。その偉大なる文明のひとつとして、あなたがたが「ムー大陸」と呼んでいる文明があった。ムーという大陸は、今から一万数千年前に太平洋から姿を隠した大陸であるが、この大陸において、大いなる文明がかつて栄えていたのだ。 この文明の特徴はいったい何であるかというと、霊と科学、これが合一(ごういつ)していたということ。神への信仰と太陽信仰が合一していたということ。こうした特徴をあげることができるであろうと思う。 ムーの文明を支配していたものは、光への信仰であり、偉大なるものへの帰依(きえ)であったといえようか。彼らはほとんど、神というものを信じていた。神というものを信じ、その神に対する感謝ということを生活の中心においていた。朝に感謝、昼に感謝、夕べに感謝ということを怠(おこた)らなかった。そして、そうした神に対する祭り事というのが、政治の中心でもあった。そして、偉大なる政治家は偉大なる宗教家でもあった。毎日神殿のなかにいて心を調和し、心の扉を開いて、みずからの守護霊や指導霊たちと毎日語りあっていた。そして、そうしたもので得た知識でもって、国政を牛耳(ぎゅうじ)っていたのである。すなわち、神の心を心として生きてゆかんとしていたということだ。 もともと、人類の無限に近い歴史を見るときに、政治の中心は、こうしたこの世とあの世を結ぶパイプであったということだ。政治の中心はいつの時代にも、この世の中に神の光をどのように実現していくか、神の教えをどのように実現していくかということであったのだ。 こうしたことのために、ラ・ムーという偉人な生命体は地上に肉体を持ったのである。そうして、偉大な神理と同時に、こうした神の教えを生きる則(のり)として、規範として、日々に精進することを人びとに教えたのである。 そしてこのラ・ムーの生命体が、過去幾転生してきたという話は、すでに多くの書物において、諸君らが学んでいるとおりでもあろう。 やがて、ムーという大陸は滅(ほろ)びていったが、アトランティスという大陸のなかに、また新しい文明が開けてきた。アトランティスというのは、今の大西洋に浮かんでいた大きな大陸である。この最盛期は、今から一万一千年から一万三千年の昔であっただろうか。このころに、トスという偉大な指導者が出てきた。これがラ・ムーの転生の姿であった。このトスのやったことは根本においてはラ・ムーの教えと同じであったけれども、そのなかで特徴的なことは、アトランティスの時代においては、科学的なることをかなり内容の柱としていたということだ。 アトランティスはひじょうに科学が発達していた。そしてアトランティスの科学のなかには、現代文明をも、ある意味で凌駕(りょうが)しているものがあったということができる。そうした偉大な文明の先駆けがあったのだ。 しかし、このアトランティスにも末期が訪れた。それは人びとの心が、やがて唯物的な思考に流れ、神の心を忘れ、霊の実在を忘れた、そうした人たちが多数出てきたことだ。この乱世の世、末法の世、末世を救うがために、今から一万一千年近い昔、アガシャーという光の大指導霊が肉体を持った。これがイエス・キリストの転生の姿である。 けれども、のちにイエスが十字架に架かったがごとく、このアガシャーという大王も、ひじょうに国民からは尊敬はされていたけれども、やはり、そうした唯物思考の塊(かたまり)のような人間たちから迫害され、霊を信じない人たちの迫害を受けて、やがて悲劇的なる最期を迎えるようになった。 こうした不調和が起きたために、やがてアトランティスという大陸は、その不調和な想念のくもりが太陽の光をさえぎり、心のなかに射している霊太陽の光さえ射さなくなり、そして暗黒のままに、悪魔の心を心として生きている人が跳梁(ちょうりょう)し、やがてそうした暗い想念のくもりから反作用が起き、大陸全体が陥没するという事態となったのである。 キリストは聖書のなかにおいて、「聖霊を侮辱する罪は許されぬ」と言ったことがある。聖霊を迫害する罪、侮辱する罪、殺(あや)める罪、こうした罪というのは、なかなか拭(ぬぐ)い難(がた)いものがある。光の指導霊たちを、それだけの窮地に陥れたという人間たちに対しては、それなりの反作用が起きたということだ。 それは、現文明においてもそうであろう。キリストという救世主を十字架にかけた、それによって人類の罪があがなわれたと言っているような神学者もいる。しかし、キリストが十字架にかけられたということによって、その後二千年の長きにわたって、ユダヤの民族は迫害され続けてきたではないか。それだけの反作用を受けたではないか。 アトランティスの時代においては、これがもっと短期間に、もっと集中的な形で起きたのである。こういうことであって、偉大な文明が滅びていくときに、その原因はほとんど人びとが心を失ったということにあった。唯物思考や、あるいは悪霊のとりことなった行動、こうしたものが蔓延(まんえん)したときに、暗い想念のくもりが大地を覆(おお)い、やがて大地自体が巨大な反作用を起こして陥没していったということがあったのである。 そうした神理の流れがあって、また現代文明が始まっているということを知らなくてはならない。 3.現文明の特色 さて、それでは現文明の特色とはいったい何であるか。この点について考えてみたいと思う。 現文明の特色というのは、いくつかの面を持っているが、大きくとらえるとするならば、やはり知性の文明であるということが言えるであろうと思う。それは九次元の光の指導雲のなかで、私(わたくし)モーゼ、あるいはイエス・キリスト、ゴーダマ・ブッダ釈尊、あるいは孔子、こうした者たちが出てきて、それぞれの特色を地上に広めたけれども、結局のところ、大いなる主流をなしていたのは知性の文明としての特色であったといえようか。 この意味においては、今文明においては、ゴーダマ・ブッダ釈尊の力が、いちばん地上に影響を与えていたということができるかもしれない。今文明の特色を創り出しているのが、釈迦の力であったといえるかもしれない。 このように、九次元の高級霊であっても、時代時代に力を持っている者がいて、それらがちょうど、星占いでいうような、何とか宮(きゅう)から何とか宮に移っていくというようなことをいうけれども、そうした時代の境目と軌(き)を一(いつ)にしている。そうしたことがいえるであろう。 ひと時代前には、私が中心になったこともあった。また、イエスが中心の時代というものもあった。しかし、現時代の文明は、釈迦の知性の時代であったといえるであろう。 これに対して、ひと時代前、アトランティスの時代というのは何であったかといえば、これは主として理性の時代であった。このようにいえるであろう。 また、ムーの時代は何であったか。これはどちらかといえば、感性の時代であったといえるかもしれない。 こうしてみると、これから来る時代はいったい何の時代が来るのであるか。それは、やはり悟性の時代というものが来るということがいえるであろうと思う。悟性ということが、おそらくは文明の中心となってくるであろう。すなわち、知性の時代のもう一歩奥である、この世的なる知を乗り越えた真実の知、実相の世界に対する知、これを文明の根本に据(す)える時代がやってくるということだ。この実相知、すなわち悟りということが、今後さまざまな形から探究され、考究されてゆくであろう。そしてこれこそが、現文明から次の文明への橋渡しであり、遺産となっていくのだ。 われらは、現文明が知性の文明であったことを悟ったならば、この知性の文明の総決算を、今しなくてはならない立場に立っている。この数千年の間に知性の文明が創りあげてきたものを集大成していく必要があるのだ。これを集大成し、これから抜け出してゆかねばならん。これが、現代文明の最後を飾る行為であり、また次の文明への始まりとなる。古い文明が終わり、新しい文明がこれから始まってゆくのだ。 古い文明というものは、西暦二千年を中心として急速に滅びてゆくこととなろう。そして西暦二千年を中心として、新しい文明が栄えてゆくようになっていくであろう。そうした時代がもうすぐそこまで来ているのである。 我われは、そうした時代を創っていくために、いまこうして、あなたがたを指導しているのだ。こうした時代であるからこそ、悟性というものを中心とするからこそ、実相知を教えんがために、実相の世界のありかたを、真実の世界のありかたを教えんがために、いまこうしてあなたがたに、霊訓を送っているのである。私たちが霊訓を送っている理由は、本当の世界のありかた、真実の世界の様相というものを一日でも早く、一人でも多くの人間に伝えたいと思っているからなのです。そうしたことを知っていただく必要があると思う。 われらは今、大いなる指導霊団を創り、この大事業を遂行すべく計画し、その実践に着手しているのだ。この指導霊団はたいへん大きい。数百名、それだけの大霊団が今、あなたがたを指導しているということを知りなさい。かつてなかった規模の大霊団である。これだけの大霊団がついているということは、すなわち、今文明の総決算をせんとしているということ、そういうことだと思いなさい。 これからあなたがたが中心となって創ってゆく真実の教えは、かつての釈迦の教え、キリストの教え、モーゼの教え、孔子の教え、ソクラテスの教え、こうした教えを、多様性を多様性と認めながら、これを統合してゆく大いなるうねりとなってくるであろう。そうした大いなるうねりのなかで、真実のものが、一筋のものが、やがて出てくるであろう。人びとは、この新文明を創るための息吹(いぶき)の大きさを知るであろう。かつてなかった規模の教え、かつてなかった規模の運動が、起きていくということを知るであろう。 4.正しさの変容 さて。こうした文明の特色のなかにあって、私の使命はいったい何であったかということを語りたいと思う。 私は天上界にあっては、「正義」というものを中心として活躍してきた。正義とは、まず「正しさ」ということがひとつである。次には「義」、これは理(り)に適(かな)っているということだ。どちらも意味は同じ意味である。正しさというもの、そして理に適っている義、どちらも同じ意味であろう。 正しい者は強くなければならない。これは私の考えの根本であります。真実なる者は強くなくてはならない。神の教えは強くなくてはならない。真実を説く者は強くなくてはならない。真実に生きる者は強くなくてはならない。真実を真実と述べることにおいて強くなくてはならない。神理を神理として述べることにおいて強くなくてはならない。勇気をもって生きてゆかねばならない。決して挫(くじ)けてはならない。決して妨害に戦慄(おのの)いてはならない。決して恐れてはならない。決して怯(ひる)んではならない。決してわなないてはならない。決して臆病になってはならない。 本来神とは強きものである。強きものが後押しをしておるならば、強きものがあなたがたの傍(かたわ)らにおるならば、強きものがあなたがたを応援せんとしておるならば、何を恐れることがあるであろうか。 私は何度も何度も、くり返して言っておきたいと思う。正しき者は強くなくてはならんのです。真実なるものは世に認められなければならんのです。 まちがった教えや、まちがった行動に対して迎合(げいごう)してはならん。地上の人間には、さまざまな感情はあるであろう。ただ、そうした感情に迎合してはならん。また、古き教えを信奉する人たちもいるであろう。そうした古き教えを信奉する人たちにも、また、迎合してはならん。 新しき法が説かれる時、さまざまなる問題は起きるであろう。さまざまなる軋轢(あつれき)は起きるであろう。さまざまなる困難はあるであろう。しかし、挫(くじ)けてはならん。 神とは強きものである。このモーゼに対しても、神がどれだけの奇跡を起こしえたかということを思いなさい。あなたがたはまだ、あれほどの奇跡を体験してはいないであろう。神は最後には、私たちを救うために、紅海を真っぷたつに割ってでも助けてくれようとした。またわれらが飢(う)え苦しんだ時には、天からマナという食べ物を降らしてくれた。またわれらが教えを欲している時に、天からの光でもって十戒というものを授けてくれた こうした数かずの奇跡を起こされた神である。 そうであるならば、あなたがたが正しいことを正しいとして、真実なるものを真実なるものとして訴え行動せんが時に、怯(おび)えてはならない。それだけ大いなる奇跡を起こされる神がついておるのだから、その神の偉大なる力を信じなさい。信ずるということにおいて、その力はますます強くなってくるのだ。神の力は信する量に応じて現われてくる。信ずる量が増えれば増えるほど、信ずる力が強くなればなるほど、そこに神の栄光が現われてくる。神の奇跡が現われてくる。 地上における人間が神の心を測(はか)ることは、これは愚(おろ)かなことです。地上の人間としての知性と理性だけでもって神のお心を測り、神のお力を量(はか)らんとすることは、愚かなことであります。神にとっては千年も一日のごとしであります。神にとっては、われらが山ほどあると思われるような、そうした軍勢も、ただの蟻(あり)の行軍にしかすぎない。神にとっては聳(そび)え立つエベレストの山も、単なる服の皺(しわ)にしかすぎない。神にとってはこの偉大なる大宇宙も、箱庭の一部にしかすぎない。 そうした偉大な神が、われらを見守っておられるのです。そうした偉大な神が、われらを励ましておるのです。それを信ずるかどうかです。 あなたがたは箱庭のなかに住んでいる一匹(いっぴき)の蟻にしかすぎない。蟻にとって認識できる世界というものは、ひじょうに狭いものであるであろう。その狭い世界のなかにおいて、一匹の蟻が自力によってどちらに進んだらよいかを迷っているのです。 しかし、蟻から見れば巨大な山としてそそり立っている砂山も、神のごとき人間が立ち現われて、その手でもって一気に山をとり崩したならば、眼前には視界が開け、にわかに道ができるのです。そうしたものであろう。 蟻に対する人間以上の偉大な存在である神から見るならば、この世のことでできないことは何ひとつない。この世のことで不可能なことは何ひとつない。それのみならず、すべてのものを創り、すべてのものを消滅させることができるのが神の力であるのです。神は創造と破壊の両面を持っておられるのです。すべてのものを創り、すべてのものを消滅させるだけの力を持っているのが神の本質であるならば、この地上で、なしえないことなど何がありましょうか。すべてのことは可能であります。 信ずる者に道が開かれていきます。その信ずる量に応じて開かれていきます。奇跡が起きないのは信ずるカが弱いのです。信ずる力が強いということは、すでにその奇跡を受けるだけの器(うつわ)があるということです。 まず信ずるということによって、心の扉(とびら)が開かれるのです。そして心の扉の開かれた開き方に応じた神のエネルギーが注ぎ込んでくるのです。本来、神のエネルギーは無限です。無限のエネルギーの奔流(ほんりゅう)であります。そのエネルギーの奔流は、扉を閉じていては入り込んでこないのです。扉を開けるにしたがって流れ入ってきます。 さすれば、まず信ずることです。信ずるということが強さを生み、信ずるということが正しさを守ることになっていきます。 この世の中においては、正しさということがさまざまに変容してきたように言われています。あなたがたもさまざまな教えを学んでいくうちに、「正しさの多様性」というものを発見するでしょう。 しかし、正しさが多様であるということは、正しさが変わっていってもよいということではないのです。それは正しさの幾つかの面は出ているけれども、究極において正しさとはただ一点につながってゆくものであります。それは、この世界を神は善(よ)しと観(み)ておられるということです。善きものとして観ておられるということです。正しさの多様性は、神が世界を善きものと観ているという、この一点に集中し、集約されてゆくのです。これが正しさの究極の姿であります。 ただこの究極の姿としての正しさが、ある時には仏教的に現われたり、ある時はキリスト教的に現われたり、ある時には哲学的に現われたり、芸術的に現われたり、さまざまな現われ方をしているのです。したがって、私たちは変容していく正しさのなかで、変容せざるものの真なる姿というものを観なくてはならない。すなわち神は、すべてのものを善きものと観ておられ、善きものが善きものとして存在し、善きものが善きものとして世界を運営していくために必要なことをなされんとしているのです。そうした事実を知りなさい。 5.神理の金字塔 正しさの変容という話をしてきました。変容する正しさのなかで、さすればあなたがたがすべきことはいったい何であるのか。何を目標とし、何を行動の原理として生きてゆけばよいのでしょうか。何を信じ、何をどう説明していけばよいのでしょうか。また、何のためにあなたがたが地上にあるのでしょうか。こうしたことを知らねばならない。 さすれば、あなたがたはこの地上に、「神理の金字塔」を打ち立ててゆかねばならないということです。神理の金字塔、それは燦然(さんぜん)と輝き、はるかなる距離からも、はるかなる時間の彼方からも見える金字塔でなくてはならない。金色に光る塔です。そうしたものを創らねばならない。金色に光る黄金の塔です。これがだいじです。そのための努力とはいったい何でありましょうか。どうした努力が本物なのでしょうか。 私は、神理の金字塔を打ち立てるための原理として、三つのことをあげたいと思います。神理の金字塔を打ち立てるためには、三つの方法論があるのです。これが新時代の行動原理でもありましょう。 新時代の行動原理の第一は、「発展する愛」という概念であります。これはすでにあなたがたが『太陽の法』というが物のなかで学ばれたところのものであります。「発展する愛」という考え方、より高次の愛に向かう発展の形式であります。これの追究、探究ということが、大きな仕事となってきます。 今まで愛というものを、平等知だけでとらえていた向きが多かったでありましょう。共に愛し合い、共に慈(いつく)しみ合う。共に励まし合い、共に慰(なぐさ)め合う。こうした平等の関係のなかにおける愛というものが、考え方の主流としてあったと思われます。 しかし今、愛に発展の形式があるということが教えられました。すなわち愛の道は、単に平等に慰め合うということのみならず、神に向かって進む道でもあるということです。神に向かって無限に進んでゆく道。神に向かって無限に発展してゆく道。これが愛の道であるということを明らかにされたわけであります。 そして、その愛の段階にも、自分に縁のある人びと、自分が人生の途上で接すべくして接した人びとを愛する愛というのがあり、さらに指導者として他人を生かす愛があり、また宗数的見地からして、他人を許す愛があり、時代の精神として生きるという存在の愛があるということを教わったはずであります。これらの愛の発展原理と発展の様式は、すなわちこれが新時代のひとつの生き方であるということです。新時代においては、こうした平等知と差別知とを統合的に観(み)てゆくという方向において、神理の価値というものが発見され評価されてゆかねばならないのです。この「愛の発展形式」ということが、これがだいじな行動原理のひとつとなるでありましょう。だいじな指導原理のひとつとなるでありましょう。 新時代の行動原理の第二は何であるか。それは、「神理の学習」という面であろうと思います。 今時代が知性的なる時代であったとするならば、今時代から次の時代へと移ってゆく時に大切なことは、知的な面からの探究でもありましょう。この知的な面からの探究ということが、この世的なる学問のレベルだけではなくて、あの世的なる学問のレベルまで進んでゆかねばならない。すなわち、実在界において多くの霊たちが共有している霊的知識、神理の知識を地上において学べるような環境の出現ということが大切となってくるであろう。こうしたことがいえるわけであります。 この「神理知識の学習」ということが、新しき行動原理となってゆくでありましょう。この世的なる学問の学習だけではない。神の創られた知識、実相世界にある知識をいかに学ぶかということが、新時代の行動原理のひとつとなるのです。それは、神理の知識を学ぶということが、すなわち悟りへの道となっていくからであります。「神理の学習」ということが、今後の偉大な行動の形式となってゆくでありましょう。 第三の行動の原理は、いったい何であるか。これは、「科学という考え方の変化」ということでありましょう。 今まで科学的であるということは、実験によって検証が可能であるということを意味していました。すなわち、何人(なんぴと)が同じ条件で同じ実験をくり返しても同じことが起きるということでもって、それが科学的であるとされてきたのであります。 けれども、この科学というもののあり方、存在形式に変容が訪れてくるのです。誰が同じことをしても同じ結果が現われる、ということだけをもって科学といわなくなってきます。こうした科学は、やがて「存在の科学」といわれるでしょう。「かく在(あ)りの科学」であります。「現にかく在りの科学」です。こうした「存在の科学」ともいうべき古い科学の形態はやがて流されていくでありましょう。過ぎ去っていく形となりましょう。 これからの科学は「存在の科学」ではなくて、「当為(とうい)の科学」、すなわち、為すべし、かくあるべしの科学であります。「かくあるべしの科学」というのが、今後発展していくでありましょう。 すなわちそれは、帰納(きのう)的に、現実にあるもののなかから抽出されるものではなくて、理念として現にあるもの、理想として現にあるものから演繹(えんえき)していって、現象世界はこのように説明されるはずである、この説明の探究ということであります。 かつてわれは、ニュートンという人が地上に肉体を持った時に、彼に対しても科学的なる指導をしたことがあります。彼の科学のあり方は本来こうした「かくあるべしの科学」「当為の科学」であったのです。すなわち、彼は霊的エネルギーの注入を受け、霊的な啓示を受けて、宇宙の構造はこのようになっているのだ、こうした宇宙の原則が働いているのだ、たとえば万有引力という法則が働いているのだということを、霊的直観として、ひらめきとして教えられた。そしてそのひらめきでもって、現実のあり方というものを探究していって、その理論を創っていったのである。 こうした「当為の科学」は長続きせず、その後の科学の流れは「存在の科学」となってきた。「かく在りの科学」だ。現実に顕微鏡で見、現実に試験管を振って確認できるものをもって科学とした。実験の結果得られるものを科学とした。ここに微妙なすり替えがあるであろう。 今後、こうした科学が出てくるであろう。すなわち、かくあるべきであるという理念からこの現象世界を解明していこうとする科学の立場である。こうしたことがいえると思う。 すなわち、私は以上に述べたように、神理の金字塔を打ち立てるための新時代の行動原理として、第一に「愛の発展形式」が認められ、それに基づく行動が起きてゆくであろうということ。第二に「神理の学習」ということが重大な仕事となってゆくであろうということ。第三に、「存在の科学」から「かくあるべしの科学」へ、ただ「かく在り」の科学から「かくあるべし」という科学に変わってゆくであろうということ。それが研究者の姿勢ともなるであろうということ。こうした時代の出現というものを予言しておきます。 6.太陽は昇る さて、文明というものをさまざまな角度から、さまざまにとらえてまいりました。そしてこうした説明が意味をなすためには、いったい何か必要であるかというと、今、新時代の太陽が昇っているのだということへの事実認識であります。そうしたことへの事実認識というのがだいじであろうと思います。神理の太陽が現に昇りつつあるということへの事実認識であります。 やはり信じなければならないということがあるのです。私たちの書物も、単なる読み物として読まれている方もいるでありましょう。あるいは創作として読んでいる方もいるかもしれない。 しかしながら、モーゼが三千数百年の眠りを破って地上の人びとにメッセージを伝えんとしている真の意味が、いったいどこにあるのかということを知らねばならない。われはかつて、このような形にて地上の人を指導したることはなし。さまざまな方にインスピレーションを与えたことは数多くある。ただ、こうした書物を創ってまで地上の人びとを指導せんとしたことは、かつてない。私の考えをそのままに地上の人びとに伝えたということは、かつてなかったことであります。それが現に行なわれているということの意味を知らねばならない。 ここに大いなる奇跡がある。ここに最大の奇跡がある。ここに新時代の奇跡がある。ここに最終の奇跡がある。このことを知らねばならない。 病気を治す奇跡があったり、いろんな物質を地上に出す奇跡があったり、予言をしたりする奇跡があったかもしれないけれども、奇跡の現われ方として、そうしたものは決して高次なものではなかったのである。 奇跡の現われ方として、最高の次元のものはいったい何であるかと言えば、神のお心をそのまま地上に伝えるということです。これが最大の奇跡であるのです。神の心を直接に地上に伝える。これはなるほど困難なことであるかもしれぬ。しかし、神近きわれら九次元の大指導霊たちが直接に話をすることができるということが、ほぼ神の心を地上に伝えるということに等しいのではないか。そのように言うことが可能であると思います。 この奇跡に対して、大いなる眼を開かねばならぬ。大いなる驚きを感じなければならん。これを当然のことと思ってはならん。何ゆえにモーゼが三千年の眠りを破って、地上にメッセージを伝えねばならんのか。その意味を考えねばならん。 われは今、現象界という名の紅海(こうかい)を真っぷたつに裂(さ)かんとしているのだということを知りなさい。霊的世界から隔絶(かくぜつ)されたこの現象界という箱庭を、真っぷたつに今裂かんとしているのだということを知りなさい。そうした奇跡が起きているのだということを知りなさい。現代に、同時代に、同時代人のなかに、そうした奇跡が起きているということを知りなさい。この意味の重大性を知りなさい。この時間における貴重性を知りなさい。これが同時代に起きることの貴重性を知りなさい。 現代に生きる人びとよ。同時代にこうした奇跡が起きているということが、あなたがたにとってどれだけの福音であり、どれだけの驚くべきことであるかということを知りなさい。これが真実であるならば、あなたがたはおちおちはしてはいられないのです。大変なことが起きているのです。飛行機に乗り、船に乗り、電車に乗ってでも、この奇跡に眼前で接しなければならないという強烈な熱意が湧(わ)いてこなければ、これはうそであります。ほんとうに道を求めているとはいえません。 数千年に一度の奇跡が、今起きているということです。こうした大きな神理の太陽が今昇らんとしているということです。この太陽に気づかねばならない。この太陽の大きさに気づかねばならない。この太陽の光の量に気づかねばならない。その大いなる力に気づかねばならない。 こうした太陽が今昇っているということを、強く強く警告し、同時代人への戒(いましめ)として、私の本章の話は終えたいと思う。
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目次 1.新しき潮流 2.新文明の息吹 3.宗教改革の時代 4.根本の精神 5.未来史の展望 6.我が再誕の予言 (一九八七年十一月十六日の霊示) 1.新しき潮流 さて、私(わたくし)は、今後の時代を取り巻く環境、および、その中を流れていくであろう精神について、話をしていきたいと思う。 まず、この霊示を送っている現在、今、現時点に立って、これからの世界を眺めてみると、いくつかの潮流というものが目に見えてくる。その潮流とは何かということを、明らかにしていきたいと思う。 まず、最初の大きな潮流としては、唯物(ゆいぶつ)主義の流れ、ここ一世紀、あるいは二世紀の間に現われてきていた唯物主義の流れというのが、今、袋小路(ふくろこうじ)の中へ入っていこうとしておるということです。すなわち、この流れは大きな潮流をなすことができなくて、湾内をグルグルと回り始めているということです。それは、唯物主義というイデオロギー理論が、行き詰まっているというのみでなく、科学の中においても、唯物主義の科学というものが、行き詰まっているということである。すなわち、今後の大きな潮流とになり得ない、この唯物主義のイデオロギーが、一つの逆流現象であったということが、今後、だんだんに明らかとなっていくであろう。そのように私は思います。 そして、これに代わって新たに流れていくものは一体何かというと、これが、霊的世界観の流れであるうと思う。今後は、あなた方が意図しようがしまいが、気づこうが気づくまいが、さまざまな角度で、さまざまな方面から、霊的な文明を創っていくための大きな流れというのが起こってくる。潮の流れというものがいろんな面から入ってくるであろう。 それは、一つの宗教的な面だけではない。哲学的な面からも、経済学的な面からも、政治的な面からも、あるいは他の芸術面からも、文化面からも、医学面からも、科学面からも、この霊的な側面というものが、明らかになっていくであろうと思う。 たとえば、現代医学というものは、主として西洋医学を中心に成り立っているが、この西洋医学の基礎にあるものは、人間を物質としてとらえている、そうしたものであって、人間の本体である霊というものを無視した理論となっている。しかし、これからは、霊肉のこの両者が、研究の対象となっていくのが以後、医学の進んでゆく道である。 さすれば、この道は、宗教の世界とも通じるものがあり、宗教でもあり、医学でもあるというような方向へとなっていくであろう。また、それは、新たな教育の流れの中にも流れてくるであろう。教育の流れの中にも、霊的なるものを目覚めさせるものが出てくるであろう。また、それのみでなく、哲学の流れの中においてもそうだ。知的に物事が語られておったものが、今後は霊的実証論と相まって、さまざまなことが説かれていくようになるであろう。また、政治の中においてもそうである。霊的なる価値というものが、認められるような流れが出てくるであろう。経済の中においても然(しか)り。霊的な価値を内に含まない経済理論は、やがて衰退していくであろう。 こういうふうに、すべてのものの流れの中に、霊的なるものの値打、霊的なるものの存在というちのを認める、そうした大きな潮流というのが、今、二十世紀の末に端を発して、今後、五世紀、十世紀と、うねりを起こしていくだろうと思う。 こうした新しき潮流には、もう一つの特徴がある。その特徴とは一体何であるかというと、結局のところ、一つの世界観を打ち出すことになるという側面があるということだ。かつて、ケプラーとか、ガリレオとかの時に、地動説(ちどうせつ)というのが唱えられて、新たな世界観が呈示(ていじ)されたことがある。それとまったく同じことが、もっと大きな規模において、起きていくのである。 すなわち、この三次元というのがすべてではなくて、この世界以外の世界がある。地球や月や太陽を超えた世界があるということが、はっきりとわかるようになってくるということだ。四次元以降の世界があり、その世界こそが、我らが本当の世界と呼んでいる世界だということが、やがてはっきりとしてくる。 こうした新たな世界観を呈示する過程においては、さまざまな衝撃や、さまざまな疑問、疑惑、そうしたものが出てくるであろうけれども、やがて地動説が確立していったように、こうした世界観というのがはっきりとした形で、打ち出されていくであろう。 そして、その世界観は、かつて、オカルトの世界において摩訶(まか)不思議なものとして語られていたようなものではなく、もっと明瞭に、もっと白日(はつじつ)のもとに、晒されるようになってくるであろう。そうした、明瞭な世界観の呈示というものがなされていくであろう。これも新たな潮流である。こういうふうに言えると思う。 いま一つの潮流とは何かというと、これは、人生の目的というものに対する再考というものが、始まるということである。人生の目的に対する再考とは一体何であるかというと、それは、今までは、たとえば、金銭が目的であるとか、社会的な成功が目的であるとか、こうしたものを目的として人びとが営んでおった生活が、これからはまた、別な面から再検討されるようになる。そうしたものではなくて、人と人との触れ合い、家族、親子、兄弟、あるいは友人、こうした者とどれだけ多くの豊かな触れ合いをもちながら生きていくことが、豊かな人生と言い得るか。こうしたことが研究の対象となってくるであろう。課題の対象となってくるであろう。 したがって、人びとの求めるものは、決して収入や地位ではなくて、より愛に溢れた人生ということになるであろう。やがて、いくら収入が多くとも、いくら肩書きがよくとも、愛のない人生を生きたならば、それは、何の意味もないと言われるようになってくるであろう。愛ある人生を生きる、心の中に潤いのある人生を生きるということの価値が、再認識されてゆくようになっていくに違いない。 そうした時代こそが、私たちの期待しているものでもあり、また、その期待のごとく、やがて展開されていくであろう世界観でもある。こういうことが、言えるのではないであろうか。 2.新文明の息吹 さて、そうした潮流の流れの中で、新しい文明の息吹、新文明の息吹というのは、どのように起きてくるであろうか。それについて語ってみたいと思う。 新文明の息吹は、一つは、心の中における改革から始まってゆくであろう。心の内なる改革、人間の中にある改革、心の可能性に対する百八十度の転換、価値転換ということが、その出発点となるであろう。 すなわち、今まで心の中の領域というものは、無造作に、野放しになり続けてきたということだ。 人間は行動の面に関しては、さまざまな規制を受けたり、さまざまな批評を受けたりして、生きてきたけれども、心の用い方と、心の中の有り様に関しては、ずいぶん長い間、その人個人の自由に任されていた領域がある。 しかし、これからはそうした時代ではない。その心の中身こそが広大無辺な世界であって、そして開拓の可能性のある世界であるということが、言えるようになってくるであろうと思う。心の中の可能性、そして、その心の開拓、ニュー・フロンティアの発掘、こうしたことが、今後の大きな課題となる。すなわち、人間は、自分の心の中にどれだけの世界を発見できたか、そして、心の中に発見した世界に、一体どれだけのものを創り得たか、その中にどれだけの種を蒔き得たか、こうしたことを学ぶようになってくるのである。 生きている人間が、耕(たがや)せる畑は少ないかもしれない。しかし、心の中の畑は、広大無辺である。この広大無辺な心という、肥沃(ひよく)なる土地をいかに耕すか。いかに耕して、それにいかなる種を蒔(ま)くか。いかなる種を蒔いて、いかに育てるか。いかに育てて、それをどのように刈り入れるか。こうしたことが、根本の問題となってくる。 したがって、新文明の有り様は、心の開拓ということをなくしては、決してあリ得ないということだ。心の世界の開拓、それをいかに肥沃にし、豊かにし、実り多いものにするか、これが、新しい文明の息吹(いぶき)そのものであるということを知らねばならん。したがって、文明改革の先頭に立つものは、まず、心の問題というものを前面に掲げねばならん。心とは何なのか、その可能性とはどれだけのものなのか。 現在では、精神医学者であるとか、そうしたごく少数の人にしか、心の問題というのは取り扱われていないと思う。あるいは、文学のテーマの一つにしか過ぎないかもしれぬ。しかしながら、心の中にはすべてがある。 心の中には、あらゆる人間的感情や、あらゆる精神の有り様や、また、心の奥底にはすべての世界観、すべての世界の実像、四次元以降の世界、九次元、十次元までの世界まで通じるものがあるのである、ここに、新たな発見がある。 よって、二十一世紀以降の文明を予見するとするならば、心の時代ということが明らかに言える。それは、単なる触れ合いであるとか、フィーリングであるとか、そうしたことではない。本格的に心というものを開拓する時代が来るということだ。 新文明の息吹(いぶき)の第二は、やはり、科学の一層の進展ということに、触れざるを得ないであろうと思う。 二十一世紀の科学は、まだ、今後発達する科学の全貌からみるならば、二割、三割程度にしか達していないと言えるであろう。 これからは、もっと、もっと進歩する。そして、科学の進歩する領域というのは一体どのようなものかというと、あなた方が心の中に、こういうふうになれば、使利になると思うようなことが、すべて実現していくような世界となるであろうと思う。 たとえば、あなた方は、鳥や蝶(ちょう)を見ておって、自由に空を飛べたらいいなと思うであろう。そういう思いが、現在のたとえば飛行機を生み出したであろう。しかし、飛行機に乗るということは、空港までの所要時間を要し、非常な困難を伴うものである。しかし、人間には空を自由に飛びたいという気持がある。この、自由に空を飛びたいという気持は、やがて、かなえられるようになるのである。それぞれの人間が、特殊な装置によって、自由自在に空を飛べるようになっていくであろう。それはおそらく、ベルトに取り付けられた、重力制御装置によって、そうしたことが可能になっていくであろう。そうした世界が、やがて開けてくるであろう。 また、通信網はさらに発達をし、海外にいる者と、国内にいる者とは、ごく隣近所として話ができるような形になっていくであろう。日本という国を取り出してみるならば、日本の国の端(はし)から端まで行くのに、ごくごく短時間で動けるようになるであろう。十五分もあれば北海道から九州に動けるように、やがてなってくるであろう。また、海の中からさまざまな幸というものを取り出すことができるようになってくるであろう。ロボットというものも大量に出現し、人間の代替(だいたい)的な作業を請(う)け負(お)っていくようになるであろう。そうした科学の時代が、やがて訪れるようになるであろう。 そして、宇宙空間への飛行ということも、やがて日常茶飯事(さはんじ)となってくるであろう。人びとの関心は、心の内なる宇宙と、さらに、この三次元の宇宙と、二つの宇宙に向っていくようになるのである。 また、これからの時代には、他の惑星の人間たち、生物たち、こうしたものとの交渉というのが非常に煩瑣(はんさ)になってくるであろう。そうして、地上の人間は、自分たちが気がついていないような、新たなそうした価値観というものを見い出していくであろう。今まで考えられなかったような、人間の生き方というものを発見するようになるであろう。 また、自分たちとは違った行動様式があるものと接することによって、第三者の立場から見た、自分たちのあり方というものが、わかるであろう。やがて、そうした宇宙人との交流を通じて、地上に戦争ということのもたらす悲惨さと、その無意味さということを地上人類の人たちは、悟っていくようになるであろう。 こうして、新たな人びととの接触というのが始まることによって、地球人の感覚というものが、トータルで見直される時が来るようになるであろう。そしてその時は、人類が一つにまとまっていく時であろうと思う。今、世界各国がさまざまに分かれて、いろんな主義主張のもとに生きているけれども、やがてこれが一つのものとまとまり、日本の国内がさまざまな県として、自治権を与えられているように、世界連邦となって、その中で仲よく住むようになっていくであろう。 やがて、そういう時代が来るであろう。それを私は、つい目の前に追っている世界のように感ずるのである。 このような、人類が一つ、地球が一つとなって、他の惑星の人びととも交流するような時代というのは、そう遠い将来のことではない。ほんの、ここ百年、二百年の内に起きてくることとなるであろう。 3.宗教改革の時代 さて、このような文明、新文明のあり方というものを考えるときに、その前提として考えておかねばならないことがある。それが何かというと、宗教改革ということです。新しき心の時代と、新しき全人類的なまとまりというものを持ち来たらすための、その前提条件として不可欠であることが、宗教改革ということである。 この宗教改革は、内部において、二段の構造を持つものとなる。第一段階の構造は、宗教を認める者と認めない者との間に起きるものである。すなわち、現時点においては、宗教的なるものを認めない者の方が多数を占めているようにみえるけれども、宗教を認める者、信じる者が、信じない者を制圧し、やがて、多数派を取る時代が来るということだ。 現在の日本で、何割の人が神を信じているであろうか。三割であろうか、四割であろうか、五割であろうか。それは定(さだ)かではない。現代の日本人の内の一体何割が霊を信じているであろうか。二割であろうか。三割であろうか。少なくとも五割は超えていないはずだ。しかし、やがて、そうしたものを、神や霊を信じる人たちが、大多数を形成する時代が来る。八割、九割の人たちが信じるような世界が来る。それが、宗教の内と外を分ける大きな最初の変動の要素となってくるであろう。 第二段階目のその変動の要素は、宗数内部における大改革ということになるであろう。宗教内部の大改革とは一体何であるか。今まで、さまざまな宗教が並び立っておる。並び立って競争している。どの宗教も、我こそは正しいと言って競争しているけれども、この宗教の中において、一つの統一ある原理が、見い出されるようになってくるであろう。 政党にも多数派の見解があるがごとく、学説にも多数説があるがごとく、やがてこの宗教の世界においても、多数説というのが通用するようになってくるであろう。その共通の基盤というのができてくるであろう。コモンセンスというのができてくるであろう。やがて、そういう時代が来る。そして、その多数の理論、大部分が認めるような理論というのが、基礎がしっかりしたものとして、固まっていくようになるであろう。 こうして、内部の改革というのが行なわれてくる。すなわち、それぞれの人間が得手勝手(えてかって)にやっておった宗教というものが、一つの統一の原理のもとに、一つの大きな黄金の原理のもとに、まとまりを創っていくということである。 まあ、これは当然のことであって、宗教以外の世界においては当然の世界である。経済の原理というものが、たとえば、ある会社にだけ作用して、他の会社には作用しないということはあり得ない。経済原理というものは、Aの会社にもBの会社にも、Cの会社にも共通に働いている。ところが宗教の原理だけが、Aの団体には通用しても、Bには通用しない。そうしたことが、まかリ通っておる。こうしたことは、やがて許されなくなってくるのである。そして、はっきりとした方針、はっきりとした基礎部分、こうしたものができるのである。これが、宗教改革の第二段階目である。 この、認めない者から認める者が増えていく時代、そして、認める者の中で内部改革が起こって、そしてその中の多数の見解、最大多数の見解というのが統一されてゆく、こうしたことである。 したがって、あなた方を今後待っている仕事も、この二つの焦点(しょうてん)をもっている、と言うことができるであろう。一つは、無神諭者たち、あるいは、霊的実相の世界を信じない者たちを信じさせるがための行動、活動、仕事ということが大切となる。もう一つは、神を認め、霊を認める者たちの異なる見解というものを、統一していくための原理を創ってゆく必要があるということだ。このニつが、あなた方にとって、大切な行動原理となっていくであろう。 すなわち、まず、霊的な世界観を広めるという必要がある。そのためには、一体どうしたらいいのであろうか。やはり、あの世の世界が現にあるということの証明というものが、必要となってくるであろう。そのための証明とは一体何であるか。私は今、このような形で地上に、かつてなかったような霊示を送っているわけであるけれども、こうした霊示集を世に問うということも、大きな証明であると思う。 こうした証明はかつてなされたことがない。そして、我らが直接語り、その語った言葉が、数万、数十万の人びとに読まれるというのは、一つの大きな奇跡であるうと思う。こうした霊的現象の奇跡が、現に起きる以上、これを続々と続けていくということが、何にもまして大切なことであろう思う。 私(わたくし)の霊集というものも、一集、二集に止(とど)まらず、五集、十集と出していき、人びとにやがて読まれていくような、そうした世界となってよい。そうした者が、数多く、霊言、霊示集を出していくことが、あの世の世界の実証になるであろうと思う。こうしたことにおいて、仕事において、限りはないと思う。あくまでも限りはない。どんどん、どんどんと積み重ねていくということが大事であろうと思う。 さすれば、常識の枠(わく)を打ち破らねばならん。一年に一冊の書物を出せばよいのではない。何十冊も、何百冊も、続々と本を出し続け、日本全国の人びとが、それを読むところまでいかねばならん。いや、日本だけではない。海外の人びとまでもが、それを読むようにならねばならん。そうした大きな時代的な雰囲気(ふんいき)、ブームというものを創ってゆかねばならん。そのための作業をし続けねばならん。そうしたことが、限りなく大切なことのように私は思われる。そういうことで、霊的実証というのを積み重ねていく、この必要がある。これが、一般人に対する行動原理であろうと思う。 もう一つの宗教人に対する行動原理、これもまた、大切なものであろうと思う。それは、多くの教えの中にある、共通なるものをまず見いだしていくという努力である。これが何にもまして大事だ。それぞれのものが、それぞれに言い合っておるだけではなくて、その中に流れている共通のものは何か。一本の黄金の糸とは一体何であるのか。これを取り出し、これを見つけ出していくということが、大事ではないのか。 第二は、そうした共通のものに反するもの、反する教えの有り様、これが、存在が許されるものか、改変を余儀(よぎ)なくされるものか、こうしたものの検討が必要であろう。 また、もう一つは、神理の教えの中の高低ということ、教えの高い低いということが、明らかにされていく必要があるであろう。それは、たとえば、学問において、小学校の学問があるように、中学校の学問があるように、そして高校や大学の学問があるように、神理の領域においても、その程度の差があるべきである。どのような教えが初級レベルの神理であるのか。どのような教えが中級レベルの神理であるのか。どのような教えが上級レベルの神理であるのか。こうしたことが、大事となってくる。 この、教えの上下を明らかにするという作業が大事これがなければ、一般の人びとも学んでいく方法がない。学んでいくすべがないのである。どれが入門であり、どれが終了であるのか。どれが初級であり、ど鉄が上級であるのか。こうした神理の多層化、多重化というものに対する検討というものがなければ、そうしたことは、非常に入りにくいものとなってくるのである。 今の宗教を見ていると、それぞれのものが割拠(かっきょ)しておって、それぞれに自分のものを最高のものだと言っているだけであって、本当の真理のレベルとしてどのようなものであるか、ということの差異が明らかになっていない。これを明らかにしていく作業が、必要だううと思う。 今、現代の社会を見ても、経済世界においては、会社にも一流会社と二流会社があるであろう。あるいは三流会社というのがあるであろう。それは、いろんなもので決まっていくであろう。その内部の人材で決まることもあれば、その会社の陣容の大きさ、規模の大きさで決まることもあれば、会社の売り上げ高で決まることもあり、会社の収益で決まることもあるであろう。しかしながら、何らかの規準でもって、その中に、よい会社とそうでない会社を分ける規準があるはずである。 同じように、神理の団体においても、そうした物事の考え方が、通用する時代がこれから来るであろうと思う。非常に優(すぐ)れた団体、まずまず優れた団体、まずまずの団体、あるいは見劣(みおと)りのする団体、はるかに見劣リのする団体、こうしたものが明瞭に、くっきりと、浮き出されていく時代が来るであろう。また、そうでなければならない。このように私は考える。これが、来たるべき宗教改革の時代のあり方であるうと思う。 4.根本の精神 新しき潮流、新文明の息吹(いぶき)、宗教改革の時代と、これからの新時代についての話をいろいろとしてきたけれども、ここで、根本の精神ということに立脚して、話をしていきたい。 我われは今、霊天上界にあって、今後来たるべき時代をどういうように創っていくかということに関して、日夜、話をしており、日夜、具体的実践活動に取り組んでいる者である。その我らが、話をし合って、取り決めている考え方というのがある。精神というのがある 今後の時代は、こうした精神でもって運営していこうという考えがある。その精神とは何かというと、三つの柱で創られていると言えよう。 根本の精神の第一は、人間神の子の思想の普及ということである。まず我われは、これを全面に押し出すこととした。これからの時代には、人間神の子という思想を全面に押し出していく。これに納得をしてもらう。こういうことが、大事であるうと思う。 第二の桂としては、愛というちのを再興(さいこう)することである。再興とは、再(ふたた)び興(おこ)すということだ。これから、愛の時代というものをもう一度創っていく。これが、大事な課題と言えよう。愛の時代とは何か。愛とは何か。それは、愛とは人と人を結びつける力である。 人と人とを結びつけて育(はぐく)んでいく力である。すなわち、お互いに手を取り合うことによって、その力を、その値打(ねうち)を二倍、三倍にしていくことである。これが愛である。 こうした、愛の再興、これを根本の精神として据えた。愛の時代をもう一度創り出す。これが愛の社会であり、これが愛の世界であり、これが愛の歴史であるということを明瞭に打ち出せるような、そうした時代を創ってゆく。これが、私たちの基本の精神である。 根本の精神の第三番目は、これは、経済原理の再構築ということだ。今後、経済の問題は、さらに深まり、さらに多様な方向性というものを見い出してゆくであろうが、この中において、一本の値打、価値というものが、貫(つらぬ)いていく時代が来る。この経済原理の再認識、新たなる経済理論とは、すなわち、それは経済理論の中には、この世的なる結果の理論というものが、封じ込められていると思う。経済の理論は、結局のところ、この世的なる繁栄の理論であり、いかにこの世的に発展、繁栄していくかということが、理論的に説明されているものであろうと思う。その、この世的に繁栄、発展していく理論が、その中に、神理というものを織(お)り込んでいく時代、これが予定されているのである。 つまり、神理経済学の時代というものの到来、神の経済学というものの到来、そうした経済世界の到来、これが新たなる精神として考えられているということだ。 以上の三つの精神は、その基本において、全く同しものを意味しているかもしれない。すなわち、人間神の子の思想、愛の復権、そして経済の中の神理の確立。こうした問題、この三本柱、人間が神の子であり、そして愛の復権こそが大事であり、そして、経済の中に神理が見い出されていき、ますます社会が発展する中に、人類の発展もあるという、そういう世界観、これが求められているのである。この三つが、これから少なくとも、数百年後をリードしていく、時代精神となっていくであろう。 その時代精神に奉仕(ほうし)するために、さまざまに人の活躍というのがあるであろう。その活躍は、一つには宗教家の活躍であり、二つには経済人たちの活躍であり、三つには教育家たちの活躍であろう。宗教家と、経済人と、そして教育者、この三者が力を合わせて、新たなる時代を創っていかねばならない。そうした時代が、もうそこまで来ている。 5.未来史の展望 さて、こうしたことを前提として、人類の未来史というものを、展望していこうと思う。 この霊言集を収録している現在は、一九八七年の十一月である。今後、どのような時代が、人類を待ち受けているのであろうか。巷(ちまた)によく言われているような、人類の危機が来るのであろうか。それとも来ないのであろうか。あるいは、その危機のあとに、どんな時代が来るのであろうか。そうしたことを、地上のあなた方は、心配しているに違いないと思う。 人類の未来史には、甲乙(こうおつ)がある。すなわち、優れている部分と、そうでない部分があるということだ。繁栄の世界と、没落の世界があるということだ。これは否定ができない。なぜならば、そうした繁栄と没落を通して、新たなる時代が開けていっているからである。 まず、日本という国を取ってみたときに、この国の将来は一体どのようになるのであろうか。この国の将来というものを眺めて見るときに、もちろん、途中さまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)はあるであろうが、これからの百年間は、おそらく、黄金の時代であるということが言えるであろうと思う。それは、神理というものが声高らかに叫(さけ)ばれ、そして、その神理の号令のもとに、国民が一致団結して、黄金の時代を創ろうとする世界が開けてくる。 そういう時代になる。これを言うことができるであろう。 日本という国は、ここ百年間、人類の手本となるであろう。そして、その文化の高みが、他の諸国の人びとの心を潤(うるお)していくようになるであろう。これからの末末史は、人類の未来史は、日本という国のあり方を見れば、わかるようになってくるであろう。ここ百年間の黄金の時代の到来、これを私は告げておきたいと思う。 他の諸国にあっては、どうであろうか。アメリカという国には、すでに没落の気配が漂(ただよ)っていると思われる。そうした不吉(ふきつ)な影が忍び寄っている。わずかまだ、歴史において、四百年ぐらいの国であるにもかかわらず、その繁栄の影にかげりがある。やがて、このかげりというものが明らかになっていくであろう。アメリカという国は、経済的なる破綻(はたん)をやがて起こすようになっていくであろう。また、大いなる、軍事的なる脅威に、脅(おびや)かされるようになってくるであろう。 また、ヨーロッパという国々がある。このヨーロッパの国々においては、今、さまざまな形で文化が栄えているけれども、この文化というものも、やがて次第にかげりが出てくるであろう。特に、そのかげりというものは、南、すなわちヨーロッパの南部において、そうした形が出てくるであろう。 また、ソ連の領域においては、今後、さまざまな物事が起きていくことであろう。それは、一部では戦争というものも起きてくるであろうし、また、他の部分としては、旱魃(かんばつ)、農作物の被害、天変地異(てんぺんちい)、あるいは大地の一部の陥没、こうしたことに見舞われるうになるであろう。こういうことを言うことができるであろうと私は思う。 また、これ以外のアジアの世界においてはどうであろうか、アジアの中では、最大の人口を誇っているのは中国とインドである。中国という国には、今後、また大きな革命が起き、新たな時代、新たな文明の時代というものが、訪れてくるであろう。そのように思われる。 インドという国は、伝統があり、宗教の宝庫とも言えるような、アジアの精神の起源のところであるけれども、このインドにも、遅々(ちち)とした形ではあるけれども、新たな発展の構図というものが見えてくるであろう。資本主義の原理は、インドの中にもやがて、根強く栄えるようになってくるであろう。そうして、彼らの文化様式も、大いに近代化してくるであろう。 一方、今後の繁栄というものは、東南アジアを中心としてますます栄えていくであろう。東南アジアからオーストラリアの世界、このあたりが、これからの二十一世紀以降の、世界の繁栄の中心となっていくであろう。こうしたことが言えるであろう。 大まかな形で言うとするならば、今、現時点において栄えている国は、やがて滅び去っていき、今、第三世界と言われている国が、やがて勃興(ぼっこう)していくということだ。こうしたことを言うことができるであろう。 また、アフリカという国は、さまざまな試練を受けるであろう。その中において、壊滅的なる被害を受けるところもあるが、また、奇跡的回復を記録するような、文化的な高みを創っていく国もあるであろう。 西アジアの世界では、西南アジアにおいては今後、戦乱が勃発(ぼっぱつ)し、さまざまなる不幸が現われてくるであろう。そしてそれは、世界の諸悪の中心のごとく見えることも、やがてあるであろう。しかし、やがてそうした世界は、過ぎ去っていくことであろう。そして、また平和が訪れるであろう。 これが私(わたくし)の見た、今後の世界図である。さまざまのことが今後、起きていくであろう。しかし、いつ、どの時点で、何か起こるかということを、私は明確に述べることはしない。それは、人類にとっての課題であるからだ。未来ということは、知らなくてよいのである。末末ということは、予想はある程度あっても、現実のこととしては知らない方がよいのである。末末というものを知らずして、日々、日々を着実に生きていく人生こそが大事なのである。 あくまでも、この三次元という世界は、仮(かり)の世界であり、人びとは、魂の修行という目的でもって、生きているということを知らねばならん。そうした世界であるということを知らねばならん。さすれば、これから先に、どのような不幸が来ても、どのような変革が来ても、どのような革命が訪れても、それで心を動かしてはならない。 あくまでも、この世は仮の世界であり、どのように悲惨にみえたり、どのような大混乱にみえることが起きたとしても、それらもすべて、魂の糧(かて)として用意されていることだと思いなさい。そうした環境の中で、最良のものを選び取っていきなさい。最悪の環境の中でも、最良の心を築いていきなさい。そのことが、何にもまして大事なのである。 6.我が再誕の予言 今まで、ここ百年、二百年という歴史を中心に、未来史の展望を語ってきた。さて、私(わたくし)も聖書の中において、やがて再臨するということを予言している。そして、この再臨が、果たされることになると思う。 私がこのように霊示集を送っているということも、これも一つの再臨かもしれないけれども、そうしたことではなくて、本格的に私が地上に肉体を持って生まれるということが、やがてあると思われる。それは、さほど先のことではない。これから、四百年ぐらい先のことになると思う。場所は、まだ明確ではない。ただ、おそらく、現在西側と言われている世界の、ある国に、生まれることとなるであろう。 その国に生まれて、私はまた、大いなる愛の世界を広めていこう思う。あなた方の仕事というものを、今世紀における仕事というものを基礎として、これを旧約聖書として、私はまた、新たなる聖書を、新約聖書を人びとに広げていこうと思う。新たなる福音(ふくいん)を広げていこうと思う。その時に、科学は進み、経済は進み、国々はまた、違った繁栄を見せているであろう。その中において、私は新たな心の世界を説いていこうと思う。新たなる世界観と、新たなる価値観を説いていこうと思う。 そして、私(わたくし)が再臨したということを明かすがために、私は必ず、また、愛が大事であるということを説こう。愛こそが、人類の出発点であるということを説こう。愛の素晴らしさを説こう。今から四百年後に、愛を再び説く人が現われたら、それが我が再臨である。 人びとよ、我が再臨の時に生まれ合わせることを希望せよ。我が声を再び聞く者は幸いである、我がもとに再び集まる者は幸いである。我と共にまた、教えを述べ伝える者は幸いである。心貧しくあっても、我と共に生きることができる者は幸いである。神の心を伝えんがために、また、多くの同志が集(つど)い来ることは、何にもまして素晴らしいことである。 やがてまた、お会いすることがあるであろう。その時まで、私もまた、日々己(おのれ)を磨き、精進していくこととしよう。地上にあるみなさんも、その時を目指して、自らを見つめ、自らを磨いていっていただきたい。それをお願いして、本章を閉じることとしよう。