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当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。 ◆ ◇ ◆ 御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝えられております。 ◆ ◇ ◆ 社伝によると当社は当初は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。一六代仁徳天皇が勅願所となされてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇後参拝の砌り、親しく若松一株御手植を賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。 ◆ ◇ ◆ 大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。 ◆ ◇ ◆ 平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、 一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初島領家職 熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上郷 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田鼻 松下田鼻 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 上の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文章「寺領知行地注文」に記されておりますが、 その所領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。 ◆ ◇ ◆ かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石を寄進し次で慶長なって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して 崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。 ◆ ◇ ◆ 昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新に発足し、今日に至っております。 ◆ ◇ ◆ 猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、 修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る粱塵秘抄に「四方の霊験者は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸穏、駿河の富士山、 伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。
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校注国歌体系崇徳院御製の解題 年号の後ろの()内にある四桁の漢数字は皇紀 文中二か所の引用は底本では前後の行をあけずに一字下げ 解題 崇德院御製 敷島の大和歌は、人の心を種として神代から起り、金甌無缺の我が歷史と俱に榮えて、皇室と關係の極めて深いものとなつて來た。後には「これのみぞ人の國より傳はらで神代をうけし敷島の道」とまで、尊嚴なものに言ひなされて居る。されば皇室は常に歌道の先驅となり、又中心とならせられた觀がある。故に、往古、記錄不備の爲に御製を傳へなかつた遺憾な時代もあるが、御歷代の天皇は何れも皆和歌に堪能におはしまさぬはなかつた。今日存する御集乃至撰集、記錄等に見る御製は、言はずしてそれを物語つて居る。かくて當時は勿論、後世からも等しく歌聖と仰ぎ奉る方は決して少なくない。就中、崇德、後鳥羽、土御門、順德、後醍醐帝の如きは、一天萬乘の御身を以て、播遷蒙塵の厄に逢ひ給ひて、爲に自ら其の御製にも感慨淋漓として人の心肝に迫るものが多い。 崇德天皇は鳥羽帝の長皇子、御諱は顯仁と申し奉る。元永二年(一七七八)五月二十八日御誕生、御母は待賢門院である。保安四年(一七八三)正月二十八日立つて皇太子となり、同日たゞちに御卽位になつた。 天皇は聰明に亙わせられ、殊に和歌をお好みになつた。未だいと幼くおはしました比既に、 こゝをこそ雲の上とは思ひつれ高くも月の澄みのぼるかな の御製があつた。朝夕は御側に侍ふ人々に隱し題、卽ち物の名を詠みこむ歌を詠ましめ、時には鋺《かなまり》を擊つて其の響の中に詠めと仰せられる樣な事もあつた。又は題を出して目の前ですぐにお詠ませになる事もあつた。大藏卿行宗が、水草隔舟と言ふ事を、 なには江のしげき葦閒を漕ぐ舟の棹の音にぞ行くかたを知る と詠んだのもその一例である。和歌の會を常に好んでお開きになつた。然し歌合はなさらなかつたと言ふ事である。 御在位の閒は、古の跡を起し、絶えた事を續がんの御志は深くおはしましたが、尋常の瑣事すらも心の儘に振舞ひ給ふ事を得なかつた。嘗て和歌の御相手として、朝夕御側去らず侍ふ大藏卿藤原行宗を三位にしようと思召して、德大寺實定につけて、鳥羽院へ次の一首を奉らせ給うた事がある。 我が宿に一本立てる翁草あはれいかゞと思はざるべき 院政時代には法皇の勢力が絶對であつたから止むを得ない。 保延五年(一七九九)皇弟體仁親王が皇太子にお立ちになつた。美福門院の所生で、未だ生後三ヶ月に滿たないので、襁褓の中におはしました。ついで永治元年(一八〇一)十二月、本よりの御意志ではなかつたが、ひとへに法皇の御計らひによつて急に皇太子に御讓位になつた。その皇太子が近衞天皇である。天皇は久壽二年(一八一五)七月未だ御世嗣もなく、寶算僅かに十七歳を以て崩御になつた。此に於て、崇德上皇は勿論、輿論も亦、上皇の御子重仁親王こそやがて位を踐み給ふべきものと信じて居た。 然るに美福門院は、近衞天皇の御早世を上皇の御呪詛と信じ、法皇に説いて重仁親王の御卽位を妨害した。 時鳥夜半に鳴くこそあはれなれ闇に惑うふはなれ獨りかは 蟲のごと聲立てぬべき世の中に思ひ咽びて過ぐる頃かな などは常時、御憤慨の御衷情を御詠みになつたものであらう。關白藤原忠通の言も亦甚だ上皇に不利であつた。邪曲は公を害し方正は容れられない。 我が心誰にか言はむ伊勢の蜑の釣のうけ引く人し無ければ 憂愁幽思、遂にこの詠があつたものと拜察する。時は非である、遂に上皇の同母弟雅仁親王が高松殿に御踐祚あつて後白河天皇とならせられた。上皇の悲憤、果たして如何であらう。 保元元年(一八一六)七月、法皇の昇遐に遭うて、上皇は倉皇鳥羽院に馳せ、急いで門に入らうとなされた。其の時藤原惟方は門に在つて、遺詔と稱して拒んで上皇を入れ奉らない。上皇は怒つて還り、藤原賴長に仰せられた。「我菲德と雖も先帝の嫡子として萬乘の位を忝くし、今、上皇の尊に居る。皇統の係る所は重仁にあらずして誰ぞ。先帝はこれを省み給はず。文に匪ず武に匪ざるの小子を立て給ひぬ。父子憂を抱いて徒に歳月を經、今先帝は崩御し給ふ。大事を擧ぐるに何の憚りかあらん。」と。賴長はこれに贊して遂に保元の亂となつた。 しかし上皇の軍は悉く不利であつた。上皇は如意獄に潛匿し、夜に入つて平家弘、其の子光弘に扶けられ、知足院の僧坊に入つて剃髮し給ふに至つた。 思ひきや身を浮雲となしはてて嵐の風にまかすべしとは 憂き事はまどろむ程は忘られてさむれば夢の心地こそすれ は其の時のものである。それから仁和寺に入らせられた。仁和寺の覺醒法親王は上皇の御弟である。乃ち法親王は狀を以て御白河帝に奏せられたが、上皇は遂に讃岐に遷され奉る事となつてしまつた。 都には今宵許りぞ住の江のきし道おりぬいかで罪見し 既に剃髮までしたのにまだ罪は消えずにある事と歎かせ給うたものである。やがて源重成に警衞せられ、七月二十三日京を發して八月十日讃岐の松山に御著きになつた。 こゝも亦あらぬ雲居となりにけり空行く月の影にまかせて は、當時の御詠。御所は松山の近く直島に在つたが、後に志度の鼓が岡に移された。都に還り給ふ一縷の御望みもない。只管後世菩提の爲にと三年閒に五部の大乘經を書寫し給ひその奧ごとに、 濱千鳥跡は都に通へども身は松山にねをのみぞ泣く と記し、仁和寺の覺醒法親王を介して鳥羽帝の御陵に納めたいと御奏請になつた。法親王および關白忠通は御白河帝に奏請したけれども、許し給はぬのみか退け還された。 上皇は痛くお憤りになつて、「先非を悔い惡心懺悔の爲、此の經を書寫し奉るに、それをだに都に置かれざるは今生の怨のみにあらず、後生までの敵なり。」と宣ひ、下を噛み切り、其の血を以て軸每に、「謹みて五部の大乘經を三惡道に廻向す。ねがはくは大魔王となつて天下を惱亂せん。」と御誓文をお記しになつた。それからは髮も剃らず、爪も切らず、煤けた柹の衣を著、長頭巾をつけて、憔悴忿悶の中に長寬二年(一八二四)八月二十六日果敢なく配所に崩じ給うた。御齡四十六。白峯に荼毘に附し奉つた。世に讃岐院と申して居る。後、治承元年(一八三七)七月詔して崇德院と改め稱し奉る事になつた。 其の後、災變や逆亂が荐に起る。壽永三年(一八四四)四月十五日、御白河法皇は竊かに思ふ所あつて、保元の古戰場なる山城の愛宕郡粟田鄕に神殿を造り、崇德院と稱して尊崇なさつた。建久三年(一八五二)十一月粟田宮と改稱し、八月二十六日を祭日とした事もあつたが、後世は廢絶してしまつた。西行の撰集抄卷一は白峯の有樣を次の如く記して居る。 白峯と言ふ處に尋ね侍りしに、松の一村繁れるほとりに釘貫しまはしたり。是れなん御墓にやと今更掻きくらされて物も覺えず。……貝鐘の聲もせず。法華三昧勤むる僧一人もなき處に、只峯の松風のみはげしきのみにて、鳥だにも翔らぬ有樣を見奉るに、そゞろに淚を落し侍りき。 現存する上皇の御詠としては、撰集及び今鏡、保元物語等に散見するもの凡そ六十首の外、久安百首中の御製百首がある。本館はその兩者を合はせて崇德天皇御製とした。 久安百首は、右衞門督公能、參議教長、左京大夫顯輔、丹後守明顯廣(後に俊成と改めた)、その他待賢門院の女房黨合はせて十三人と共に、お詠みになつた百首である。題は近衞帝の康治年中(千八百二-一八〇三)に賜ひ、各詠進し畢つたのが久安六年(一八一〇)であつた。故に久安百首と稱して居る。更に仁平三年頃(一八一三)上皇の仰せを報じ、俊成が部類を整へて一旦奏覽に入れたけれども、隆季朝臣の歌をも入れる樣にと仰せられてお返しになつた。其の閒に保元の亂があつて、遂に再び奏覽に入れ奉らなかつたものである。 因みに言ふ。和田英松博士の皇室御撰解題、崇德天皇の條に次の記載がある。 住吉の社に奉らせ給へる御百首ありて、風雅和歌集春部に二首載せ、また今撰集に崇德院御百首として擧げたるものの中、春一首、秋一首、戀一首は、この久安百首にも見えざるもののみなれば、此の外にも百首の御製ありしものと見えたり。 これは全然誤りである。今、蛇足に失する憾みはあるが誤りを明らかにして置かう。 風雅和歌集春上には次の如く記してある。 住吉社に奉りける百首歌の中に若菜を 皇太后宮大夫俊成 いざや子等若菜摘みてむ根芹生ふる淺澤小野は里遠くとも おなじ心を 崇德院御製 春來れば雪解《ゆきげ》の澤に袖垂れてまだうら若き若菜をぞ摘む 右の「おなじ心を」の意は「若菜を」だけの意味で、「住吉社云々」には聊かも關係がない。それは風雅集中の「同じ心を」の如き他題に就いて考究すれば明らかである例せば秋上に、 堀川院百首歌に、鹿を 基俊 風寒みはだれ霜降る秋の夜は山下とよみ鹿ぞ鳴くなる おなじ心を 大納言成道 夜もすがら妻とふ鹿を聞くからに我さへあやないこそ寐られね この「おなじ心を」は「鹿を」の意味である。成道のは決して堀河院百首のものではない。かかる書き樣は風雅集中に少なくないのである。卽ち皇室御撰解題は誤つて居る。崇德上皇に住吉百首などはない。 なほ春下に「花の御歌の中に、崇德院御歌」として一首見えて居るが、是は久安百首以外の時のものであらう。 又、今撰集春に「百首歌よませたまひけるに、讃岐院」とあるは只一首で、久安百首に見えて居る。秋に「百首歌よませ給ひける中に鷹を、讃岐院」とあるは同じく只一首で、久安百首の秋に見えて居る。戀に「百首歌よませ給ひける、讃岐院」は「武藏鐙」と「いかで/\」の二首で共に久安百首に見えている。故に皇室御撰解題は誤つて居るであらうと思ふ。 次に院政時代の世相及び崇德上皇の御歌を觀察しよう。 院政の兆は既に後三條帝の時に顯はれて居た。後三條帝は嚴明剛毅の御氣質を以て權門、外戚の權をお抑へになつたが、崩御は餘りに早くて院政の御志を遂げ給はなかつた。次の帝、白河帝は三條帝の長皇子、剛毅果敢の點は父帝に似させ給うたが聊か感情的におはします點もあつた。 御在世中には法勝寺、圓勝寺、最勝寺、尊勝寺等を建て、又佛畫、佛像、大塔小塔、數を盡して供養し給うた。從つて僧兵の驕暴も甚しく、「鴨川の水、雙六の賽、山法師」を意の如くならぬ者として、北面の武士をお警護にお任じになつた。貴族階級の閒へ武士階級が擡頭した事は、やがて社會の重心が移動する機會を促進した。行き詰つた藤原氏は自ら破綻への道を取つて進む事になつた。 信仰の方面を眺めても、淨土欣求の意識はあるが、現世の安穩を祈る意志も強く働いて居る。其處に法華の信仰と彌陀淨土の信仰がある。この兩者は一見可なりの距離を有して居る樣に見えるが、當代の人々は殆どそれを感じなかつた。窮極は彌陀淨土の往生を願ふとしても、觀音、藥師、彌勒に對する信仰を振り捨てない。さうして現世には出來るだけ功德を積むものとして法華經を受持し書寫したのである。換言すれば、信仰に對しては何等知的な批判を下して居なかつた。これらの信仰は又和歌の上にも反映して居る。後拾遺集に釋教の部が設けられたのも時代の要求であらう。法華二十八品に對する和歌の多いのもそれである。 又堀河帝の頃は、政事は悉く院から出て、朝廷には閑日月が多かつた。從つて太郞百首、次郞百首を始め、艷書合、雙紙合、前栽合、花合、菖蒲合、草合、石合等の如き風流韻事が非常に多かつた。殊に帝は笙及び橫笛の妙手におはしまし、就中橫笛は、其の技ほとんど神に迫るものがあつたといふ。神樂の曲の今に傳はるものには、帝の御説に負ふところ少なくないと傳へられて居る。 音樂も亦今樣朗詠と提携し、和歌、佛教等と融合して和讃の類の著しい發達を促している。 一般に社會は華奢に流れて頽廢的傾向を見逃す事が出來なかつた。烏帽子に額をつけ、衣紋に稜ある強裝束は鳥羽法皇の御制定である。法皇は、容儀を重んじ給ふの叡慮からお始めになつたものであらうが、容儀を重んずる事は華麗と混同し易い。遂に一般の風が華奢に赴いてしまつたのである。保安五年(一七八四)閏二月、白河の花御覽の際の御幸の樣の美々しさは、今鏡の「白河の花の宴」[#底本「ヲ脱ス]に詳しく記して居る。 此の頃の敕撰集として、金葉、詞花二集の出た事、及びそれ/″\に對する世評、論議等は既に各の條下に述べた。一般に歌界には、頽廢的傾向を帶びた時世の常として、懷古的の思想が一部に動いて居た。それがやがて古典運動となり、萬葉集の硏究を誘發して居る。同時に又行き詰つた局面を轉廻しようとする溌溂たる思想も兆して居た。卽ち歌界に於ては古典主義と浪漫主義の運動となつて現はれて居る。藤原基俊などが前者であるならば、源俊賴の如きは後者の何れも巨擘でなければならぬ。當時はまだ兩主義の極端な人もあつたが、兩者を兼ねた歌人が多かつた。方に古今集より新古今集に至る過渡時代たる事を明瞭に示して居る。 然らば崇德上皇の御歌は如何であらうか。均しく時代思想の反映を見逃すわけには行かない。卽ち先づ法華經の歌が少なくない。 數ふれば十市の里に衰へて五十路餘りの年を經にける は信解品中の、「久しく他國に住して或は十、二十より五十に至る。」の心である。 醉の閒に情かけたる白玉を知らではかなく惑ふべしやは は五百弟子品の、「人あり、親友の家に至つて酒に醉うて臥せり。此の時に親友……無價の寶珠を以てその衣の裏に繫け之れを與へて去りぬ。其の人醉ひ臥してすべて覺知せず。……衣食の爲の故に勤力求索する事甚だ大いに艱難なり。」の心である。 此の外、客觀的敍景に屬するものは殆ど無い。敍景はあつても其處には主觀が色濃くにじみ出て居る。從つて歌の中に理屈が交つて來る。 春過ぎば岸の山吹殘らじを賴むかげとて蛙鳴くなり これが又、やがて技巧の聰明さとなつて働いて來る。崇德上皇の御歌にはその類のものが少なくない。 嵐吹く岸の柳のいなむしろおりしく波にまかせてぞ見る ことわりや嵐の山に咲く花は心長閑に匀はざるらむ くらま山の木の下かげの岩つゝじ只これのみや光なるらむ 特徵はこの點に存在する。こゝにはまだ俊賴一派の新派の風潮を見ることは少ないが、洗練せられた古典派である事を認められる。しかし客觀的敍景へ轉換して行く物も見えて居るのは、時代の大勢に影響せられた結果であらう。 飽かず見る竹のうら葉の白雪に尾羽打ち振るなすだく村鳥 入日さす豐旗雲にわきかねの高閒の山の嶺のもみぢ葉 これらの歌から更に、 雁がねのかき連ねたる玉章をたえ/″\に消つ今朝の朝霧 玉よする浦わの風に空はれて光をかはす秋の夜の月 の如き歌となつて居る。この種のものが名詞止になつて居る點も注意すべきであるが、この種のものの數は多くない。 格調の點から見れば殆ど第五句が終止となつていて、三句切れと、まれに二句切れの古調がある。名詞止も多少見えて來た。これらは浪漫主義一派卽ち新派の歌の一特色であつた。 この外に上皇は萬葉集をお讀みになつたらしく察知せらる。 都出でていくかになりぬ東路の野原篠原露もしみゝに 入日さす豐旗雲にわきかねつ高閒の山の嶺のもみぢ葉 の、「しみゝ」や「豐旗雲」乃至は「荻の葉向けの片より」「白すげの眞野の萩原」などの語彙は萬葉集から將來し給うたものの樣に思はれる。 要するに洗練せられた技巧を以て、從來の所謂舊派の舊套を脱して新派へと步み寄りつゝ、溌溂たる御歌をお殘しになつたものと言へよう。
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洛陽往来書記録について 洛陽往来書記録は、仙台藩士・佐竹義根(1689-1767)と土御門泰邦(1711-1784)及び家司らとの間で交わされた書状の綴りです。 2001年に宮城県岩出山町(現・大崎市)で見つかりました。 岩出山町史史料集第三集「名取春仲と門人たち」(2002)を基にしています。 元文四年同五年 土御門家御家司郎迄指出候書翰類写 土御門陰陽頭様御家司郎江左之趣被仰通被下及奉頼候御事 謹而申達候、抑僕等天学之宗源所ハ 陰陽頭様ニ御座候子細者 将軍家天文生渋川助左衛門殿ハ、僕 道之祖父ニ御座候、助左衛門殿嘗語、神道ハ立二天文道安倍姓之流一、垂加所レ学、経晃ニ所ヲレ習為レ本、諸家ニ所レ聞為レ末、有職所伝羽翼之掟ニ御座候而、助左衛門殿、従 安家所二受継一之天文暦術及神道兵学之秘伝ハ遠藤小五郎一人ニ被授尽候而、無二闕減一候、是以先年、従 三位様御免状被下候天文生ニ而、仙台中将家士ニ候処 享保十九年病死 、其秘伝従ニ小五郎方一渋川図書殿一式相授候処 享保十二年 頓死、時ニ養嫡六蔵殿八歳、右小五郎ハ極老故ニ道之断絶を相歎、六蔵殿江為復伝之右秘伝不残御相伝相済候処、僕儀生質多病近年倍虚弱ニ相成、剰此夏より罹二重病一当時既死亡ニ相迫候キ、渋川家より被 授置候 安家之御秘伝、至僕可致断絶段歎入、セめて口授一通を残置度門人遠藤喜四郎・高野兵蔵ニ口授不残授置候条、于今落命仕候共於二此儀ニ一ハ安堵仕候、 安家渋川之御秘伝許相許候節者、奉窺候上ニ相授候御掟ニ候処、既残命不定之体ニ候故、時宣之権衡を相背御掟ヲ候段ハ多罪之至恐入奉存候、仰願ハ愚心之体ヲ御憐愍被下候ハヽ此旨御家司衆迄被相達宣被下御沙汰畢竟奉願候、誠恐頓首 仙台中将家 佐竹九吉 十二月朔日 謹而申達候、享保十一年 三位様武江御参向之刻、図書師江御対顔御入魂被成下、御密事等 被相議、僕儀をも 被仰談御機嫌伺之儀共被及御相談候段、図書師委細申聞承知難有儀共御座候条、早速御礼申上御機嫌奉伺候筈ニ申上候処、故障有之、其後時節ヲ相伺候内、漸々大病ニ迫り、深願空相成背本意無拠仕合奉存候 一 御家司衆之内ニ渋川家之品、不被成御存も候半歟と、春海実記入御覧候、右実記ハ図書師先祖之覚書或ハ聞伝以書綴候処、雲上之事ニ者書誤等可有御座歟、僕ハ両師に所聞を以脱漏を補候迄候間差誤最難遁、其誤を門人等ニ伝候時ハ 安家之御為迄無拠奉存候処、両師者死亡外ニ可相糺者無之候条 乍恐 陰陽頭様ニ而実否正邪御添削 被成下、序文被遊下候様奉願度奉存候、此以私事ニ候ハヽ難申上儀ニ候処、此末渋川家江復伝候儀も有之、畢竟 朝廷 将軍家之公事ニ相願候条、彼是以不顧憚奉願候、右之子細之分聞召以御執成如願於 被成下ハ生涯之至慶、後学之大幸、且許多(ソコバク)御大恩と奉存候、誠恐頓首 元文四年也 十二月朔日 佐竹九吉 義根 覚 図書師病死之後、黄赤師より道之断絶を相歎候余僕ニ一書を教示、且、赤師僕ニ与置候伝授之免状写共二通乍恐奉入御覧度候、入門之始ハ此道を以終身之楽と存出精相学候処、於僕此道可及断絶歟と且夕不安心ニ而、多病之上不治之難病を添候同然、イツカ渋川家江復伝安堵仕度而已念願ニ御座候、彼是御取合僕苦心之体御憐察被不度候 黄赤師一書写 本朝天文暦術御伝書之口訣、其外神道兵法之神秘無残所、土守霊社渋川助左衛門源春海都翁より御伝授被成下候、然処、御家嫡図書殿昔尹御病死之段、霊社御末期ニ被為及道ト御家之断絶を深御憂被遊、御秘伝ハ不及申御伝書又ハ御家御大切之御書籍御宝物之分一式愚夫可被預置御候而、道之儀并御家再興之儀を繰々被相頼置候、御心底骨髄ニ徹シ難有且ハ無拠奉存、身命を拗致勤学専道と御家との再興二昼夜心力ヲ苦メ、御家再興難成候ハヽせめてハ道々断絶なき様ニ仕、御遺戒之御寸志をも奉継度愚夫門人入間川市十郎重恒俊秀豪傑之士ニ而、道を可興隆之器ニ相当候に付、霊社より御伝授被成下候秘伝悉伝置候処、不意ニ右門殿敬尹御養嫡ニ相済危キ御継興渋川図書殿敬也ニ被為成候儀、私ならぬ義とも天之命とも霊社之光徳とも可申成、如此之儀者霊社之御遺戒ニも相叶、本望至慶 国之至幸 家之至慶不過之奉存暫ク致安心候処、此度図書殿御死去悼入絶言語、天より道ヲ断絶被成、霊社より家断滅可被成時運ニ相当候歟、自他之悼国家之憂不過之候、然共 天ノ命霊社之徳いまた不竭果候ハヽ、争道断滅ニ可及成実ニ天誅ニサエ無之候ハヽ、時有て道之再程有間敷候キ、国之ためニ身命を抛チ候事弟子之職分貴殿之任職ニ相当候間、猶更心力を尽し勤学候而霊社之神慮、愚夫が微志を能々預憐察、此末六蔵殿を人たヽせ、預置候御家之伝授等不残相譲り、永ク御家之道無断絶様ニ頼置候、然ハ前々春水殿敬也より被願置候御遺志茂相立、第一ハ 霊社江之至孝 天下江之可為至忠候、猶更書余ハ可及口談候、以上 遠藤七左衛門 盛俊 享保十一(ママ)丁未四月十一日 長倉九吉源義海殿 写 渋川土守霊社天文道三天九道北辰之極秘之口伝 右秘訣、渋川六蔵殿御成長御器量ニ御至被成候ハヽ御伝授可被致候、然ラハ則ハ図書殿より貴殿江之遺状ニも可相叶候、右御口授無之時ハ司天文と難申候 七左衛門伝 戸板善太郎 九吉伝 遠藤喜四郎 右其器ニ至候節口授可致候 万般慎而不可有怠者也 遠藤七左衛門 享保十七年十月六日 悔軒一葉 長倉 九吉殿 右二通ハ、先達渋川六蔵殿江茂指進、相入御覧置候、恐惶頓首 佐竹九吉 十二月朔日 義根 覚 佐竹九吉統伝を継候門人 遠藤喜四郎信近 生来真実明達之質ニ而、厚ク道ヲ尊、博ク書誦、義理明ニ天学敏ク、第一御家道深切ニ相学ヒ活道を自得仕、神道兵学之奥義を熟味、此度三箇之秘訣を伝授、且工夫発明も多、誠ニ絶類之天文者ニ可相成候処、近キ頃難治之重病ニ相成候、然共存命候ハヽ一方之御用ニ可相立一人ニ候得共、惜成早世可仕と歎敷奉存候 遠藤喜四郎統伝を継候門人 高野兵蔵兼良 生来温実明敏之質ニ而、道尊ヒ行を敬テ暦術之学ヒ委天文之理通、神道兵法之奥義を熟味、此度三箇秘訣を伝授、且発明著述も有之、第一 本朝天学ノ活真道を自得仕リ御家道を深切ニ尊信仕リ十一曜推歩之術も得心仕候、此末執行工夫之功を積候ハヽ、小五郎ニハ優リ可申候、いつれ天下之天文者ニ相成べき末頼母敷者と奉存候 渋川正伝 遠藤小五郎統伝を継候門人 戸板善太郎保右(佑) 幼稚より算術を好ミ、年十六、七ニ而算数之奥義を極メ、暦術を学ヒ、十一曜推歩之秘伝を明七曜暦ヲ作リ毎年 中将方江指出候、当時渋川門流ニ於テ一人之暦者ト奉存候、勿論天文之学ニ委ク博ク書を好キ義理敏候得共、 本朝之天学ハ、天道人教之根元に而活神道たる真理とくと翫味不致候哉、御家道を深切ニ熟得不申様ニ被存候、仍三箇之秘訣未申聞候、此末執行工夫之功を積候ハヽ小五郎ニハ劣リ申間敷成、何 天下之天文者ニ可相成絶類之者と奉存候、神道兵法ハ一切不相学候、右三人ハ 安家之正嫡にて 土守社之統系を相継候者共ニ候故言上仕置候、 土守社以来之統系左ニ相記候、恐惶頓首 十二月朔日 佐竹九吉 義根 天文道統系 泰福卿統伝 司天文渋川助左衛門源春海 土守社―――――――――――――――┐ 号ニ都翁一 | ┌――――――――――――――――――――┘ | | 嫡伝司天文 ├─渋川図書昔尹春江先於父而卒ス | |嫡伝司天文 春水 ├─渋川図書敬也―――――――――――――┐ | 右門敬尹之家嗣初称入間川市十郎重恒 | | 号黄白と初仙台中将吉村ノ家士後蒙 | | 台命為敬尹ノ嗣学於衛久師而受其 | | 伝 | |┌―――――――――――――――――――┘ ||天文生 |└佐竹九吉源義根――――――――――――┐ | 仙台家士初学於衛久師後継敬也師 | | 之統伝 | |┌―――――――――――――――――――┘ |└遠藤喜四郎藤信近春龍―――――――――┐ | 仙台家士初学於衛久師継ニ義根之 | | 統伝一 | |┌―――――――――――――――――――┘ |└高野兵蔵藤兼良春麟 | 仙台家士初学於衛久師継信近之 | 統伝 | └─遠藤小五郎藤衛久黄赤―――――――――┐ 後七左衛門盛俊老号ニ一葉軒一 | 仙台家士以君命学於 霊社而受 | 其伝 | ┌―――――――――――――――――――┘ └戸板善太郎多々良保右(佑)黄海 仙台家士継衛久師之統伝 元文未 佐竹九吉 十二月朔日 同上 元文五年 元文五年申七月十三日 陰陽頭様(泰邦)より去冬之御返答書被下置候 以後指上候愚翰 謹而致言上候、 陰陽頭様より御返答書被下置、種々御深切之上意共被成下候御礼者以別書申上候、扨又心底ニ難有奉存候段悉難書尽無拠気毒ニ御座候条、せめて其大凡計も申上度不序前後乍恐如斯御座候 一、御返答書恭敬而数篇奉沈淪候処、僕体之名相達 御耳サへ不軽義ニ候処、無比類上意共被成下候段、第一ハ霊社両師之威光、次ニハ年来正路ニ御家道相学候陰徳終ニ通徹仕、不寄存御大恩御感美相蒙候儀と骨ニ染ミ難有仕合奉存候、誠ニ冥加至極、生涯難忘御仁徳甚難有而已、以筆舌可申尽様無御座、唯々敬感仕候外無他事、 道之儀ニ無之争カ如斯之大幸至慶可相蒙哉と魂ニ徹シ、感涙仕計ニ御座候 一、御返答書参着、則病状を離沐浴仕敬而拝見仕リ、霊社并師霊(遠藤・敬也)江相告、門人及愚母八十・妻子にも拝聞為仕候、此度之御仁心ハ僕か不死之祈薬ニ相成、露命相助候吉瑞と尚更難有奉存候 一、渋川家之儀如尊命ニ而歎敷奉存候、第一暦術漸衰へ候間、近年中改暦之儀不被 仰出候ハヽ、天下之煩ニ可相成と乍恐御同意不安心ニ奉存候、六蔵殿当廿五歳之由、遊芸ニハ委、家業ハ疎候由、去冬より節気之推歩被 習始候時誠ニ難敷、乍恐僕心底御賢察被成下度奉存候 一、如上意天学之沈淪痛入絶言語候、就中田舎之天学ハ恰モ浮屠社家ニ相類シ、或ハ卜占・祈祷を業ニ仕、死生禍福を談候類、是を天学者共陰陽師共申習候故、天文を学候者をハ下賎・卑列之学と存シ、天道を祀り、人倫を明メ、家を斉へ、国を治メ候大根之学問とハ不相心得、畢竟辺地之識間故と奉存候 一、当国ニも神道流行候内実之唯一家源ハ無之神儒習合をも唯一ト申、儒理ヲ以神道を説候も家源ト覚候学風故、僕かことき一家孤立之御掟を守候をハ偏学異教之天文者ト嘲り、或偽作之神道・兵学を立候と被毀候処、此度之 御感書被成下候上ハ為正伝之儀明白ニ相顕候条、右之毀嘲ハ漸々可相止ト重畳難有奉存候、扨又、僕義多年諸家之神道・兵法を学試候内 安家・橘家之如キハ無之就中 安家之神道・兵学ハ唯一家源之活神道・活兵法と奉存候 霊社も終ニ安家之道ニ御止リ候も、乍恐 御尤と感心仕候 右之外委曲言上仕度品々御座候得共、病中労倦多、尤執筆不如意御座候、非礼ニ御座候条 御宥許被成下候様、万般御執繕宜ク被下御披露候奉頼存候、誠恐頓首 七月十五日 佐竹九吉 小泉陰陽少属様 謹而致言上候、御直弟ニ被成下御免状頂戴之後ハ、最早無恐憚之条懇望之者ニハ御家道為釈聞候而、正道活理之天文学たる訣普貴賎心得候様仕度、且 安家之神道・兵法ハ先師共甚恐入堅守て容易不致開講、僕なと一両輩ニ相限候故於僕も隨其旨候処、此末真切懇望有之候ハヽ撰其器、指南開講可仕候哉奉伺候、然者 安家之神道・兵法、自然と当国ニ相残、第一 安家ニ如斯道有之訳貴賎広可相心得と奉存候 一、自関東至奥羽正伝之天学者未承、諸国ニも亦無之由ニ候、僕義不学無徳候得共、渋川家江返伝之為ニ両師より正伝之秘訳被許置候を執守迄ニ而発明著述も無御座候得共、 本朝之天文道ハ唐土外国之天学ト違ヒ、諾冉之神意より出候所之真之天道学ニ而、実 日神之活神道切ニ儒教・神学之大根元高意味ハ僅ニ得心仕、逐年尊信も深感興も亦厚ク相成候キ、喜四郎・兵蔵ハ篤実・博識候間為執行ノ指南開講仕候様、猶又相蒙御免許度奉伺候、恐惶頓首 七月十五日 佐竹九吉 小泉陰陽少属様 義根 謹而致言上候、御免状被下置候義、 渋川家江御通達可被成下候得共、とても急速ニ被仰遣被下置度奉願候子細ハ御首尾合無之候、以前僕より申遣候ハヽ、師家江無相談私ニ御直弟ニ願申上御免状迄致頂戴候段、師家を軽シ掟を背候なとと憤を発シ、若歟中将方江何と歟被申越候時ハ、不失之罪を可蒙ル歟、扨又、僕御直弟之儀者、 安家渋川之正伝受継候品被為及聞召御感之余格別之御沙汰を以右之通被成下候キ、於渋川家最無憤筈ニ候処、其旨不被存候而ハ不意之咎メも亦難計、左候得者、御前江奉対至而無拠儀ニ御座候、仍江戸江被仰下候以後僕方より申遣候ハヽ首尾宜相調候、何篇無鬱恨様仕度乍恐奉願候、恐惶頓首 七月十五日 佐竹九吉義根 小泉陰陽少属様 謹而奉伺候、僕併小五郎門弟之内より御機嫌奉伺度由、真切ニ申出候ハヽ、以副翰各様迄可申達候哉、近国ニ候ハヽ其時々奉伺義も候処、遠国候故往来大凡百余日相成候条、右之通被成下度奉伺候、最モ御道学尊位之者候ハヽ不撰貴賎申上度奉存候条宜被不御沙汰候奉頼候、恐惶頓首 七月十五日 佐竹九吉 小泉陰陽少属様 義根 右四通壱封京都江為指登候事 元文五年九月 佐竹新三郎から柴田蔵人あて 元文四年冬、京都江申上候四通之御返答書、六月より八月迄、左之通数通被下置候ニ付、九月中相達候事 拙者父同氏九吉儀、 安家之天文暦術・神道・兵学之御秘伝、渋川図書殿より御伝授被成置候品々図書殿より委細 土御門様江被仰上被下候刻、御機嫌伺をも仕ル筈被成下候処、何角相怠候ニ付、当春御家司衆江右之訳并図書殿述作之書物御添削奉願度品々暦内意候処、不図相達 御耳 御返答書被下置 御自筆之御書物被借下、此度 御直弟之御免状迄被下置、種々御丁寧之 上意共被成下、重畳至極難有仕合奉存候、九吉儀御直弟之願申上ル義不罷成御掟ニ候処、格別之思召ヲ以、 阿なた様より右之通被成下候段、不存寄仕合冥加之至奉存候、九吉儀、元来自分稽古之儀故諸事遠慮仕リ、前々より申上候品も無御座候処、此度之儀ハ別段之訳ニ御座候条、恐多遠慮至極ニ奉存候得共、別紙五通指添相達置申候、以上 元文五年 佐竹九吉名代 九月二十五日 佐竹新三郎 蔵人殿 同氏九吉儀、遠藤七左衛門方より伝授相請候処、図書殿御直弟ニ被成下御家之秘訣書一式被許下、渋川家之嫡伝相続ニ被定置、且又、御家督六蔵殿江ハ九吉方より返伝仕筈ニ御座候、九吉儀、図書殿より御伝授被極下候段ハ先年七左衛門申上置候、扨又、図書殿ニ而御国江之御奉公ニ天文道永伝之者を 御国ニ二家被相残度御志ニ而、九吉を右之通被成下、図書殿伝授一家・七左衛門伝授一家ト永伝二家被相定、末永ク御家ニ天文者二人宛相立候而も 公方様 土御門様方無御障様ニ被成置候由、併於他図ハ不罷成訳と御話候由、仍御国ニ永伝之者二家有之段、九吉方より 土御門様江も当夏委細申上置、前廉六蔵殿江茂申達候間、是又相達申候 附、戸板善太郎義ハ、七左衛門伝授相継キ候弟子ニ罷成候、図書殿より七左衛門弟子遠藤喜四郎を九吉伝授相継候弟子ニ被成下候、此段も六蔵殿 土御門様江も申上候、以上 佐竹九吉名代 佐竹新三郎 九月廿五日 (元文5年)六月の書状 当六月 土御門様より小泉陰陽少属を以、被仰下候御返答書 写 土御門陰陽頭殿従家司共、佐竹九吉江返答書 一、安家之門弟天文生渋川助左衛門孫弟子佐竹九吉、従遠藤小五郎伝授継候段委細口上之趣令承知候、千万深切之存念殊勝之義ニ存候、其分 陰陽頭殿江及言上候処、甚タ御欣然之事ニ候、殊更病衰之由不便被思召候間、御直弟之免状可被下御沙汰ニ候、祝着可有之候、将又関東渋川氏之代々早世共有之、天文術も及衰廃、漸ク猪飼豊治郎扶助之子細ニ候、其外諸国共近年天文学沈淪ニ而、異学而已流行之事於 陰陽頭殿閔然之事ニ候処、九吉儀ハ正伝を受継候段、珍愛之至ニ 思召候 右六月廿日 陰陽少属を以被 仰下候 口状 御紙面之趣令言上候処、遠国ニもヶ様之思ヒ立殊勝ニ思召候、尤、安家之正伝相継キ誠ニ珍重ニ思召候、深切之心底甚御感心被 遊候、大病之由ニ候間、御返答早速承知為致安堵候様ニとの仰ニ御座候、以上 (元文五年)閏七月、土御門泰邦の口上書 閏七月 土御門様より御奉書并陰陽少属を以被 仰下御口上書 為御請細状及披露候、抑直弟御免許之状可有頂戴之旨、尤之儀ニ思召候、近キに被下候間安堵可有之条、陰陽頭殿仰ニ候、謹言 閏月廿八日 小泉陰陽少属 佐竹九吉殿 判 口上 貴殿慎深ク候而、今日迄謾他江伝授も無之段、尤 思召候、併是ハ却而時節不相応之事ニ候、天下学問之道行、 安家之伝繁栄之時者弥慎候事、天道之所致ニ候得共、当時及衰微異学我を侵候時節ニ候得者、一向説開申候社可然義ニ候間、自今ハ無遠慮被開講、随分門人を取立、一人ニ而も多ク導、一時ニ而も早ク道開候様可被致候、是即 天下江之御奉公ト申者ニ候、自分御直弟之上者何方江何之遠慮も無之事ニ候、ケ様之 思召故於当家ニも 陰陽頭殿御直ニ毎月六ヶ度之御講談有之、天文志、五行志、神代巻、古語拾遺、中臣其外天文暦術書、并軍配兵学之儀、御直ニ被講候、泰福卿薨去以後久敷道学廃有之候処、 陰陽頭殿甚気之毒ニ被思召、日夜如斯被行候故歟、近年少々本ニ復候様子ニ相成、御門下漸及繁昌、御道学ヤヽ相開ヶ候得共、猶又天下道学聞正伝相行候様ニと日夜思置候処、いまた御時運不至候哉思召之様ニも不参、御残念之御事而已候 天経或問 国史大伝 本朝天文志 長暦重訂 天人経 文武正傳 右、近年御撰集之書ニ候、貴殿ニも存知之通安家之学ハ一家孤立之御伝ニ候得共、他之力を御仮被成候儀者堅相成不申候事故、陰陽頭殿只一人之学力ニ而文章御著述密々閑所ニ御入候内、日々御工夫之事ニ候、其上朝廷之御用御一人役之儀故是又無御寸隙候、如斯之御勤行ニ候故御精力も御疲候か、去年以来甚御多病御心細思召候段常々仰ニ而、御門弟一統・御家中一統甚恐入居候、御行年漸三十被為成候得共、御容貌ハ三十六、七共御見被成候、御生質御下戸ニ而御酒一滴も不被上為指御遊等も無之故、弥御欝滞之御症と医師共も申上御服薬之御事ニ候、 当渋川氏業績、貴殿御紙面之趣言上申候得者、近頃御浦山敷思召候、併生涯左様ニ而も相済間敷義との仰ニ御座候 閏七月廿八日 御細書共一々及言上候処、近頃殊勝之心底御満足之御機嫌ニ付、謹而欣悦可被成候 一、天経或問正義 巻之一 壱冊 陰陽頭殿御撰集則御自筆ニ而、標題ハ坊城大納言俊将卿之御筆ニ候、右被借遣候間謹而拝見可有之候、尤、被写候而早速返上可被成候、全部可被遣候得共、遠路之義大騒ニ候条、先一巻被遣候、追々可被遣候 一、国史大伝御撰集 本朝天文志御述作被成候、御清書以来不被成候、猶追而之便可被遣候、以上 閏七月二十八日 小泉陰陽少属 佐竹九吉様 (元文五年)八月の書簡 八月七日陰陽少属書翰 一筆致啓達候、秋冷相催候、御気分打談可為御快然珍重存候、然者今度格別之御沙汰を以、早速 御免状被下置候段、珍重之至存候、殊更先日被仰聞候御書面ニ、一刻ニも早 御免状拝見有之度由遂披露候処陰陽頭殿ニも難黙止思召之故、速時ニ免状被出候、其旨御承知可有之候 一、渋川氏江返伝之儀、今暫御指控可然候、万一渋川氏より催促も有之候ハヽ其節返伝可被成候、尤、此方江茂其旨御申越可然候、猶期後喜之時候、謹言 小泉陰陽少属 八月七日 判 佐竹九吉様 八月七日陰陽少属より之副状 今度 御直筆之事令其沙汰候処、御免許被下之条、仍執達如件 元文五年八月七日 小泉陰陽少属 佐竹九吉殿 八月七日 御免状壱通 御直筆箱入 右数通御請、元文五年七月中申上候事 * 一、十月十二日、左之通可申渡旨石見処より申来候段、布施孫右衛門殿御宅ニ而被仰渡之 柴田蔵人組 佐竹九吉 安家之天文暦術・神道・兵学之御秘伝、渋川図書殿より不残御伝授之品、委細図書殿より 土御門殿江被仰進置、此度 土御門殿より御直弟之御免状迄被下置候、品々写指出候相達御耳候処、能伝授仕神妙之由 御意之事 一、六月十五日、於泉田杢殿御宅、左之通承知仕候様可申渡旨、孫兵衛殿より申来候段被仰渡之写 一筆致啓達候、然ハ御家中佐竹九吉ハ、土御門家之正伝受継候者ニ而、則直弟ニ御座候、近年諸国共当家之学問及沈淪歎敷候間、九吉儀出精指南開講、無懈怠様可然御下知可被下候、此旨 陰陽頭頼入被存候、恐惶頓首 四月廿三日 白井弾正 仙台 御奉行中 一、達 父同氏九吉方江従 土御門様左之写之通被仰下候、御内談之儀ニハ御座候得共、 御前之御名をも被仰上儀、且又、御家之職人細工物 天子様御手自御もてあそび被遊候義ハ、不軽儀ニ奉存候条旁以御内々相達置申候、以上 寛保二年 佐竹九吉名代 六月廿二日 佐竹一覚 蔵人殿 一、陰陽頭様より御奉書を以、左之通被仰下候 写 陰陽頭殿先頃御参 内、種々御用被 仰付 御側江被為召 御密事被 仰付、剰何か珍敷器物所持候哉と勅ニ付、二、三色所持之内、別而よろしき器御座候由被 仰上候得者、何ト申器ニ哉と勅ニ付、簡漏儀ト申物之由被 仰上候得ハ、可相入 御覧由被 仰付、則直々御持参被相入 天覧候処禁裏ニ被留置 御手自御寵翫被遊候上、ケ様之器何方より求候哉と 勅ニ付、陸奥守家来佐竹九吉ト申者私直弟ニ御座候、此九吉門弟定四郎と申者陸奥守職人ニ候処製作仕るを、去々年歟為指僉候、段々ためし試候処一切ちかい無御座能かなひ候器ニ御座候、田舎ニもケ様之細工仕り神妙之由被仰上候、凡下体之名等達 天聴候儀前代無之事難有思召候、其方ハ不及申、定四郎迄冥加至極難有事ニ候、此旨承知難有可奉存由仰に御座候 小泉陰陽少属 写 簡漏儀、以来ハ簡辰儀ト可改称之旨、陰陽頭殿仰ニ御座候、此旨定四郎ニ可被仰付候、恐惶講之 二月廿八日 小泉陰陽少属 佐竹九吉様 元文四年より寛保二年迄 土御門様より被下候、御自筆御書写 六月十八日密書七月廿九日相達之条、於書斉隠便開封委細令披見候、随而返答如此に候而先 御用相済候処、又々七、八日已前より感冒・疝積等指発頭痛熱甚漸、従昨夕聊快候条、いまた残少手重ク気遑して書面不任所存候得共、師弟之間無遠慮と揮腐毫候也、尤推閲可給候 一、改暦之儀ニ付、委細来翰之趣意尤ニ存候、予心閣にも雲霞の如思案工夫共有之候、兎角時の至ニ候を楽ニ待侘候事に候 一、予身上に付様々諷諌之事共千万深切之至欣然不過之候、聞及之通只孤なる身ニ候得ハ、他人之諷諌のミを便に晨昏を送り候事に候故、二品公之御貴光を以譜代之家臣并面々大方予ニ随従候故、毎々間断なく諌を呉候得共、いまた汝之来書の如キ高談ハ無之候、尤信を専にする朋友、又門弟たる堂上の面々も折節ハ遠慮なく切磋琢磨に行績を討論し、道理を議し候得共、亦いまた汝之来翰の如クならす、嗟乎、白刃蹈へし、中庸よくすへからすと言り、今汝之教訓ハ実に我 神道日徳之火訓并中庸第一の教也、彼曲玉の奥秘におよび、周易変爻之伝授に至ル、予能々可用之条安堵可有之候 一、来書ニ被申聞候通、当世濁腐之中ニ候得ハ、只旦夕薄氷を蹈心地して危而已也、其委細ハ先ツ当時堂上たる輩、家業一々 御吟味之時節ニ候処、他家之面々いつれも家業ニ秀たる人依無之、毎々 上より御咎メ共蒙候者而己候処予ハ冥加ニ叶い 霊社之御加護を以今日 迄仕損なく、ことに近年ハ他に無之御褒美を予一人毎度拝領の事故、以之外そねミ数種之計略を廻し、年寄に付縁を求て有もあられぬ曲事・疑説を作りて公武江密々申込、予伐令陥淪之工夫而已ありて、予小人の心中つねに迫り、戦慄舌を震し患やむ時なく、魘夢眠を驚之病さる時なく、只予か覚なき悪説之風聞こそ、雖然り 公ニハ御膝下之事故讒言をハ曽て御承引無之、却而 御憐愍之種共扨々と 君之御憐のかさなるほと身の苦ハいやまさり、嗟乎、唯すましきハ官官の道にて、得かたきは人中の楽なりと存候 一、予儒学之儀ハ十四歳より清家江入門して、幸二其頃の清家三位尚賢卿近代の大儒にて、当時其右に出る者なかりしほとの人也、予此先生之寵憐を得て論孟孝経学庸尚書礼毛詩不残伝授有之、被薨候時易伝許可相済、只今にては京都ニ三人、田舎ニ四人之外ハ同門之者も無之候、就夫予易伝済候ニ付当清家之男子江復伝候、依之篤実之堂上三輩達而被相頼、予か門二入て被受儒教候、仍、予月に六ヶ日ツヽ令講釈候故甚信仰之人おほく、山崎又ハ仁斉之徒の門人より門を変して来て教を請る者有之仕合、扨々こまり入候、是に付てハ又儒家之堂上とも甚そねミ出し、色々の事を申にくむ、嗟乎、止ント、それとも彼篤実之門弟中深切に礼を尽し法を守りて不離故止事ヲエス、一日々々ト儒者まねにて居候、和歌三神之奥秘、筒守之伝ハ予か家伝に在事故に歌人面々何となく予ヲいやがり、さりとてハ迷惑至極之仕合ニ候、如此之事にてとふても心気やすからざる故か、不断病身労鬱かからぬ体に候、尤食事ハ日三合余を度とし、閨楽ハ月三交を節として、随分養生之覚悟ニ候得共最早苦ミに忍かね候、密書諷諌之段呉々も令大悦候也 泰邦 九吉殿へ 御自筆 一、写 去月十八日就漏尅制作之儀蒙 勅命候、元郭大史水銀之制尅勝万世候事共委細 禁中江言上之処、重ク 勅命有之、泰邦ハ有器之間今般新ニ水漏を制シ、大キサ不レ盈二三尺一、よく密合候工夫可有之由被 仰下候、臣短才雖難応 勅命候ニ偏以 神明擁護之カ可遂制作歟との 勅答申上、即日より工夫諸工等を召集メ漸此二、三日過半出来、誠以希代之事ニ候、近年以来段々首尾宜キ事共ニ候間、万事可遂本望ヲと欣然之事ニ候、彼是ニ付而も汝之上京待侘而已ニ候也 五月廿六日 九吉殿へ 禁中大切之御占被 仰付候、前代未聞之手柄依之、急度御褒美頂戴之難有蒙ムリ二 勅命一誠以歓然之至、汝も亦可為喜候也 一、写 御自筆 其後ハ久々雁使踈候、愈無異珍重存候、当方無変異候、然レハ去年十二月異星西方ニ出現候付日々参 内無寸隙候キ、就夫も段々申談度義計ニ候得共、其方上京之儀も運不至候而術無之気毒ニ存ル事ニ候分野ハ何被考候哉 一、去年被登候自明鐘之図一覧候、尤表ハ件の図にて相知候得共、内之工夫肝要之事ニ候故見申度候、予も一昨年大病後格別保養を加候故歟去冬已来ハ甚タ堅固ニ相成、只今ニ而者万事之工夫も相成候様ニ候故、件之自鳴鐘をも取扱ニ可見成と存候也、 七月七日 泰邦 九吉殿へ 尚々七曜暦并蝕算等推歩之術、渋川いかやうの致方ニ候哉、此方のと引合見申度候間貴殿方ニもし有之候ハヽ見申度候 高野兵蔵・戸板善太郎、暦術も亦諷諫之事神妙之儀ニ候、思慮有之候間、追付天下之御用ニ可相立候 寛延四年辛未五月 土御門様江申上候書翰 一、四月七日之御奉書を以 御許状五月八日相達、恭敬拝見候、 三位様益御機嫌能被為有御座候旨、恐悦之至奉存候、良久 御容体詳審ニ不奉承知、乍恐御なつかしく按上候内、今度 御事中及権四郎ニ委細申聞欣躍之至奉存候 一、改暦御勤行之御沙汰御座候段 被仰下、権四郎にも御丁寧之上意之趣謹而奉承知、実ニ珍奇之御用被遊御蒙候段、不軽御儀殊ニ貞享中 神星社御勤行之御通ニ候得共、尚又、御本望之至可被 思召僕体迄恐悦至極奉祝上候、併御成就迄之間昼夜旦夕之御心苦いかはりニ可被遊御座候、乍恐奉遠察候 御用御勤行中 御心身之御いたわり御大切被成置候様、乍御陰奉祈願候 一、御用ニ付、僕拾余年来存含候荒増別封中ニ委細奉上候、万分之御一助ニも相成候得者本望至極奉存候 一、去春僕被召登候儀権四郎方迄被仰下候由、役人共方ニ而相障候旨申上段此度権四郎申聞承之候、畢竟節之至さると可申哉、不運と可申哉、不及是非儀無拠歎入奉存候 一、春中言上仕候、五月朔日之食ハ暦ト天ト能かなひ申候、僕所見ハ二分ニ被存候、京都ハ如何と奉存候、委細別封中ニ言上仕候、七曜暦写奉入 尊覧候、当十月之月食如何可在御座候哉、所見等之儀冬中可奉言上候 一、渋川土守社実記指上候、何歟改暦御用御考ニ可相成様と奉入尊覧候 右之條々、以御序宜被下御披露候奉願存候、誠恐謹言 五月廿八日 佐竹 九吉 小泉陰陽大属様 広庭 図書 様 恭謹言上仕候、僕門人共伝授許可之事奉伺候ニ付、此度 御許状被下置重畳至極難有難仕合奉存候、実以僕ハ勿論、門弟共迄身余たる御恩恵之程難致忘却事而已、門人共勤学之励ニ相成尚更難有次弟奉存候、此末伝授相満候者ハ、随 尊命早速御礼申上候様訖度定置候、右之御請御礼之義、以御序宜被下御披露候奉願存候、恐惶頓首、謹言 五月廿八日 佐竹九吉 小泉陰陽大属様 広庭 図書 様 天文自鳴鐘之儀、左之通 言上之 一、遠藤権四郎下ニ定四郎製造申付為指登候様被 仰下処、定四郎今月八日致病死候ニ付、嗣子丈太夫ニ申付候処、 若年之儀鋳製指上候段無覚束由申聞候、依之伊達将監先年定四郎製作申付致秘持候ニ付、将監方へ申遣候処、別書写之通申候、然者江戸往来数十日可相及、且従江戸如何可申来哉難計候、文面之通ニ而者十ニ八、九ハ不相成義と甚残念之至、筆舌難申上奉存候 一、先年申上置候通定四郎製造之自鳴鐘、享保十一年春定四郎江戸江持参仕、猪飼豊治郎依懇望進置候、今以猪飼氏家可有御座候条被 仰遣候様可被遊候、右之外寺社奉行黒田豊前守殿より御所望ニ付製造指上置候、右両家之内ニ被 仰遣候ハヽ一方ハ可相調歟ニ奉存候、無手寄僕方よりハ難申遣、頗残念之至奉存候、恐惶頓首 五月廿八日 佐竹九吉 伊達将監方より返翰写 一、当月始遠藤権四郎下着之所、従 土御門御家慈延新製之時鳴鐘為相登候様ニと申来候ニ付、過ル慈延被仰渡候所即日病死、依之嗣子被 仰付候得者、未製造故鋳立指上兼候旨申出犇ト御行当 御用相欠候義、別而無御拠候間、当家ニ秘持之時鳴鐘、洛陽江為御登被成度品々御紙面之趣具致承知候、任貴意可御用立候処品々有之、 屋形様江相入 御覧被相返候、以後尚更秘蔵致置訳有之候、然所天下江授時之改暦 御用ニ相入候儀ニ候間、承合候方江問合候而返答次第追而自是可及御挨拶候、江戸江申登候事ニ候間、遠便之遅引之処可被得御容許候、早速任貴意不御用立、乍残念不及是非義ニ候 五月廿七日 春敬子 春山大雅翁 玉下 朔食之事申上候 一、春中奉言上候通当月朔食拝試候処、僕高野兵蔵所見ハ二分余、伊達将監推歩三分、戸板善太郎推歩之七曜暦為御校正奉入 尊覧候 一、先年より言上仕置候通、僕多病老衰故暦推歩不仕候、将監・善太郎・梶田玄程抔推歩仕、就中善太郎ハ依主命毎年七曜暦推歩仕中将方江差出候、右七曜暦ト頒暦ト節気・日月食・刻分等近年差見得候内、当朔食ハ大差ニ御座候、是ハ幸徳井・渋川両家ハ何暦法ニ御座候哉、将監・善太郎推歩ハ全貞享暦書之法術ニ而、新術等ハ不相交候、頒暦之推歩貞享暦書之法術ニ候ハヽ、朔食有之筈之処、朔食無之候者本朝暦元宿度之歩法差候歟、新術等有之儀歟ト疑敷奉存候、当朔食之考違者上古之例ニ候ハヽ刑を不教事ト歎入奉存候 附、右之通ニ候条、先以 御試ニ貞享暦法ヲ精詳ニ推歩被仰付候ハヽ当方之暦術ト自然ト合算相成候義と奉存候、若其上ニも差出候ハヽ幾重ニも御吟味被遊候様可有御座候、既ニ当朔食も天ト暦ト府合仕候上ハ、全貞享暦法可然歟ニ奉存候間、とても当十月十六日望食之合不合を 御試被遊候事歟、 御公道御正路之御沙汰たるへきと乍恐奉存候 一、二十年来之暦ニ差出候ハ全貞享暦法之差トハ不奉存候、△△氏之暦術不精審故と奉存候、品ハ貞享暦法之推歩ニ候ハヽ当朔食ハ頒暦ニ有之筈ニ候処無御儀ハ貞享暦術之推歩ニ無之実証ニ奉存候、又貞享暦法之推歩ト申候ハヽ暦元宿度之考麁末故ニ可有御座、抑 土守社和漢古今未曾有之暦法を被定、此暦法ニ而万代不易之秘伝ヲ貞享暦書中ニ被記置候上、尚更 神星ト被相議、於梅小路三ヶ年之間御測量有之、右暦法ハ天ト暦ト密合毫末之差なく、万世ニいたりて暦法を不相易之奇術たるを以改暦 宣下有之、剰貞享暦之 勅題被下置候儀ハ、天下ニ所普知、尤実記ニ詳ニ御座候、扨 土守社ニ北辰三天九道之極秘有之、就中北辰伝ハ最上之口訣ニ而小五郎外ハ無免許候、此伝中暦術之北辰有之、是則暦法之真根大柱ニ相成ル秘訣、此口授なき時ハ暦元宿度之真正を難得求、尤暦年大差出候ニ付 朝廷之御用ニ候条可進免許旨、△△氏江小五郎申遣候処不肯候ニ付、此末必大差可有之と歎候処、如按当朔食有之終ニ渋川家之恥ニ相成、於僕至極難入血涙之至奉存候 附、右主意ニ付先年も粗奉言上候通、十ヶ年来補暦之心付密々申上候処、御前ニおいても疾被為附 思召、改暦之儀被仰下候得共、僕不幸ニ而拝 顔難相成書面ニハ不被申尽、兎角節之至を待居候処、此度朔食を拝候段遺恨之至奉存候、扨又、前々申上候通、六蔵道学出精を数年申勉候ほと小五郎僕等を遠ク置外ニ教戒者も無之、自然ト家道も麁末ニ相成貞享改暦之子細不奉存、若此度ハ悉西川氏之指揮而已ト奉存候、尤土守社改暦之由来覚候者小五郎始皆死亡、其門葉之僕義ハ存命迄ニ而御用難相立、且又勘気中実ニ日陰者ニ候得ハ去者之 御召ニも上京不仕義、数十年御道学ニ浴シ、剰 御直弟ニ被成下、詮も無之生涯死後之遺恨ニ奉存候、心任ニ相成身ニ候ハヽ疾走登 御吟味之次弟をも拝聞仕候ハヽ、たとへ刑罪ニ被行候共 朝廷天下之為ニ捨身候ハ本望奉存候、乍恐、愚意江御憐愍被成下候ハヽ尚更難有仕合奉存候 朝廷御政教之第一急要先務ニ相成候、頒暦ニ差錯有之サヘ不軽可為越度処、朔食之考落ハ痛入絶言語候義、上古之例候ハヽ幸徳井・渋川ハ刑ヲ蒙り候罪人と甚なけき奉存候、不図申氏か説を存出御故書付奉入 御覧候 暦官職業掌笈天文凡応象緯節気都テ要ス、仮ノ細ニ推算以敬承スルヲ天道若是推算不精占候差借シ、或失二テ太早一纔先了スレハ時候其罪当レ赦無赦、或ハ失二干太遅一蹉二過了スレハ時候一甚罪也、当無レ赦凡此皆不レ敬二天道一不レ恭二君命一故ニ先王必誅而不レ赦也、夫レ占歩差借スル者、猶不レ免二干誅一今義和乃チ昏迷メ天象而於二日食一若ナレハレ 罔(ナキカ)二聞知一則其罪又豈可赦乎 是ハ夏書胤征之説トヤラ云也 上古之法暦、及占歩差錯之罪、甚タ厳重なる事ニ御座候、胤后義和ヲ征伐被成候ニ日食を不考之罪を稠敷、御責候も右之訳と奉存候、彼是取集按程染々無拠、両氏ハ瑕瑾を永世ニ残タルト申御座候、誠以おそれつゝしむべき事ニ而改暦之御吟味もひゝき候儀と、乍恐書上仕候、頓首 五月廿八日 佐竹源義根 写 漸向春暖、弥御清康候哉承度候、然ハ御家士佐竹九吉・戸板善太郎儀ニ付、委細別紙ヲ以得候意趣御許容給候ハヽ可為大幸候、恐々謹言 正月二十五日 土御門治部卿 仙台中将殿 泰邦 貞享暦経数年候ニ付差錯致出来、依之去ル延享三寅年従公儀、渋川六蔵・西川忠治郎両人ニ被仰付改暦測量之御沙汰被相始候、寛延二巳年下官従将軍家蒙仰、右測量之新暦法可致校正之旨ニ有之候、依翌午年渋川・西川以下諸役人従関東被指登、猶下官方校正之測量令勤仕候、去年二月迄新暦書出来則及校正候所、西川忠次郎暦方甚敷相違故新暦一向御用ニ相立不申年来之測量無量之次第ニ相成候、右之趣於 公儀御判断之上去年四月改而被仰出、新暦測量之大成之上可及改暦候処 公儀厳命与所ニ候、依而去年四月以来渋川図書・山路弥左衛門并竹銭山城守家中浅井村右衛門・薩州家中磯永孫四郎、次ニ従ニ公儀一下役四人も被相添、下官・家来取合拾四人勤仕事ニ候、然処、改暦之時節も指急キ申度存念ニ付、昼夜励敷勤仕候事故人数今両三人茂不足ニ有之候、仍而佐竹九吉戸・板善太郎等御存知之通従来下官門人ニ候条為指登右御用ニ相懸申度候、然所九吉儀ハ年来病気之趣も承ニ付為指登給候儀難申候、仍而、戸板善太郎壱人御指登給候ハヽ可為大幸候、尤、此段於御許容、猶更之旨 公儀も今書上御用ニ相懸ケ可申候、右孫四郎・村右衛門等も右之趣報計来候、何分領掌給候ハヽ可忝候 一、佐竹九吉上京相成不申候共、於其御地北極出地ヲ相測候程之儀ハ可罷成哉と存候、左候ハヽ猶於其御地右御用申付置候、此儀共猶追々可得御意候、已上 宝暦四年 正月廿五日
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唐書巻五十八 志第四十八 芸文二 乙部史録、其類十三:一曰正史類、二曰編年類、三曰偽史類、四曰雜史類、五曰起居注類、六曰故事類、七曰職官類、八曰雜伝記類、九曰儀注類、十曰刑法類、十一曰目録類、十二曰譜牒類、十三曰地理類。凡著録五百七十一家、八百五十七部、一万六千八百七十四巻。不著録三百五十八家、一万二千三百二十七巻。 司馬遷『史記』一百三十巻 裴駰集解『史記』八十巻 徐広『史記音義』十三巻 鄒誕生『史記音』三巻 班固『漢書』一百一十五巻 服虔『漢書音訓』一巻 應劭『漢書集解音義』二十四巻 諸葛亮『論前漢事』一巻 又『音』一巻 孟康『漢書音義』九巻 晋灼『漢書集注』十四巻 又『音義』十七巻 韋昭『漢書音義』七巻 崔浩『漢書音義』二巻 孔氏『漢書音義鈔』二巻孔文祥。 劉嗣等『漢書音義』二十六巻 夏侯泳『漢書音』二巻 包愷『漢書音』十二巻 蕭該『漢書音』十二巻 陰景倫『漢書律暦志音義』一巻 項岱『漢書敍伝』八巻 劉宝『漢書駁義』二巻 陸澄『漢書新注』一巻 韋稜『漢書続訓』二巻 姚察『漢書訓纂』三十巻 顔游秦『漢書決疑』十二巻 僧務静『漢書正義』三十巻 李喜『漢書辨惑』三十巻 『漢書正名氏義』十二巻 『漢書英華』八巻 劉珍等『東観漢記』一百二十六巻 又『録』一巻 謝承『後漢書』一百三十巻 又『録』一巻 薛瑩『後漢記』一百巻 司馬彪『続漢書』八十三巻 又『録』一巻 劉義慶『後漢書』五十八巻 華嶠『後漢書』三十一巻 謝沈『後漢書』一百二巻 又『外伝』十巻 袁山松『後漢書』一百一巻 又『録』一巻 范曄『後漢書』九十二巻 又『論賛』五巻 劉昭補注『後漢書』五十八巻 張瑩『漢南紀』五十八巻 劉熙注范曄『後漢書』一百二十二巻 蕭該『後漢書音』三巻 劉芳『後漢書音』一巻 臧兢『後漢書音』三巻 王沈『魏書』四十七巻 陳寿『魏国志』三十巻 『蜀国志』十五巻 『呉国志』二十一巻並裴松之注。 韋昭『呉書』五十五巻 王隠『晋書』八十九巻 虞預『晋書』五十八巻 朱鳳『晋書』十四巻 謝霊運『晋書』三十五巻 又『録』一巻 臧榮緒『晋書』一百一十巻 干宝『晋書』二十二巻 蕭子雲『晋書』九巻 何法盛『晋中興書』八十巻 徐爰『宋書』四十二巻 孫厳『宋書』五十八巻 沈約『宋書』一百巻 王智深『宋書』三十巻 魏收『後魏書』一百三十巻 魏澹『後魏書』一百七巻 李徳林『北斉末修書』二十四巻 王劭『斉志』十七巻 又『隋書』八十巻 蕭子顕『斉書』六十巻 劉陟『斉書』十三巻 謝昊・姚察『梁書』三十四巻 顧野王陳書』二巻 傅縡『陳書』三巻 許子儒注『史記』一百三十巻 又『音』三巻字文挙、叔牙子也。証聖天官侍郎・潁川県男。 劉伯荘『史記音義』二十巻 『御銓定漢書』八十七巻高宗與郝処俊等撰。 顧胤『漢書古今集義』二十巻 顔師古注『漢書』一百二十巻 章懐太子賢注『後漢書』一百巻賢命劉訥言・格希玄等注。 韋機『後漢書音義』二十七巻 『晋書』一百三十巻房玄齢・褚遂良・許敬宗・来済・陸元仕・劉子翼・令狐徳棻・李義府・薛元超・上官儀・崔行功・李淳風・辛丘馭・劉引之・陽仁卿・李延寿・張文恭・敬播・李安期・李懐儼・趙弘智等修、而名為御撰。 姚思廉『梁書』五十六巻 『陳書』三十六巻皆魏徴等同撰。 張大素『後魏書』一百巻 又『北斉書』二十巻 『隋書』三十二巻 李百薬『北斉書』五十巻 令狐徳棻『後周書』五十巻 『隋書』八十五巻 『志』三十巻顔師古・孔穎達・于志寧・李淳風・韋安化・李延寿與徳棻・敬播・趙弘智・魏徴等撰。 王元感注『史記』一百三十巻 徐堅注『史記』一百三十巻 李鎮注『史記』一百三十巻開元十七年上、授門下典儀。 又『義林』二十巻 陳伯宣注『史記』一百三十巻貞元中上。 韓琬続『史記』一百三十巻 司馬貞『史記索隠』三十巻開元潤州別駕。 劉伯荘又撰『史記地名』二十巻 『漢書音義』二十巻 張守節『史記正義』三十巻 竇群『史記名臣疏』三十四巻 敬播注『漢書』四十巻 又『漢書音義』十二巻 元懐景『漢書議苑』巻亡。開元右庶子、武陵県男。謚曰文。 姚珽『漢書紹訓』四十巻 沈遵『漢書問答』五巻 李善『漢書辨惑』二十巻 徐堅『晋書』一百一十巻 高希嶠注『晋書』一百三十巻開元二十年上、授清池主簿。 何超『晋書音義』三巻処士。 『武徳貞観両朝史』八十巻長孫无忌・令狐徳棻・顧胤等撰。 呉兢又『斉史』十巻 『梁史』十巻 『陳史』五巻 『周史』十巻 『隋史』二十巻 『唐書』一百巻 又一百三十巻兢・韋述・柳芳・令狐峘・于休烈等撰。 『国史』一百六巻 又一百一十三巻 裴安時『史記纂訓』二十巻 又『元魏書』三十巻字適之、大中江陵少尹。 凡集史五家、六部、一千二百二十二巻。高峻以下不著録三家、四百四十巻。 梁武帝『通史』六百二巻 李延寿『南史』八十巻 又『北史』一百巻 高氏『小史』一百二十巻高峻、初六十巻、其子迥釐益之。峻、元和中人。 劉氏『洞史』二十巻劉権、忠州刺史晏曾孫。 姚康復『統史』三百巻大中太子詹事。 右正史類七十家、九十部、四千八十五巻。失姓名二家、王元感以下不著録二十三家、一千七百九十巻。総七十三家、六十九部。 『紀年』十四巻汲書。 荀悦『漢紀』三十巻 応劭等注荀悅『漢紀』三十巻 崔浩『漢紀音義』三巻 侯瑾『漢皇徳紀』三十巻 張璠『後漢紀』三十巻 袁宏『後漢紀』三十巻 張緬『後漢略』二十七巻 劉艾『漢霊献二帝紀』六巻 袁曄『漢献帝春秋』十巻 楽資『山陽公載記』十巻 習鑿歯『漢晋春秋』五十四巻 『魏武本紀』四巻 孫盛『魏武春秋』二十巻 又『晋陽秋』二十二巻 魏澹『魏紀』十二巻 梁祚『魏書国紀』十巻 環済『呉紀』十巻 陸機『晋帝紀』四巻 干宝『晋紀』二十二巻 劉協注干宝『晋紀』六十巻 劉謙之『晋紀』二十巻 曹嘉之『晋紀』十巻 徐広『晋紀』四十五巻 鄧粲『晋紀』十一巻 又『晋陽秋』三十二巻 檀道鸞『晋春秋』二十巻 蕭景暢『晋史草』三十巻 郭季産『晋続紀』五巻 『晋録』五巻 王智深『宋紀』三十巻 裴子野『宋略』二十巻 鮑衡卿『宋春秋』二十巻 王琰『宋春秋』二十巻 沈約『斉紀』二十巻 呉均『斉春秋』三十巻 謝昊『梁典』三十九巻 劉璠『梁典』三十巻 何之元『梁典』三十巻 蕭韶『梁太清紀』十巻 『皇帝紀』七巻 『梁末代記』一巻 臧厳『栖鳳春秋』五巻 姚最『梁昭後略』十巻 『北斉記』二十巻 王劭『北斉志』十七巻 趙毅『隋大業略記』三巻 杜延業『晋春秋略』二十巻 張大素『隋後略』十巻 柳芳『唐暦』四十巻 『続唐暦』二十二巻韋澳・蒋偕・李荀・張彦遠・崔瑄撰、崔龜従監修。 呉兢『唐春秋』三十巻 韋述『唐春秋』三十巻 陸長源『唐春秋』六十巻 陳嶽『唐統紀』一百巻 焦璐『唐朝年代記』十巻徐州従事、龐勛乱遇害。 李仁実『通暦』七巻 馬『通暦』十巻 王氏『五位図』十巻王起。 『広五運図』巻亡。 苗台符『古今通要』四巻宣・懿時人。 賈欽文『古今年代暦』一巻大中時人。 曹圭『五運録』十二巻 張敦素『建元暦』二巻 劉軻『帝王暦数』一巻字希仁、元和末進士第、洺州刺史。 封演『古今年號録』一巻天宝末進士第。 韋美『嘉号録』一巻中和中進士。 柳璨『正閏位暦』三巻 李匡文『両漢至唐年紀』一巻昭宗時宗正少卿。 右編年類四十一家、四十八部、九百四十七巻。失姓名四家、柳芳以下不著録十九家、三百五十五巻。 常璩『華陽国志』十三巻 又『漢之書』十巻 『蜀李書』九巻 和包『漢趙紀』十四巻 田融『趙石記』二十巻 又『二石記』二十巻 『苻朝雜記』一巻 王度・隨翽『二石偽事』六巻 『二石書』十巻 范亨『燕書』二十巻 王景暉『南燕録』六巻 張詮『南燕書』十巻 高閭『燕志』十巻 段亀龍『涼記』十巻 『西河記』二巻 張諮『涼記』十巻 劉昞『涼書』十巻 又『燉煌実録』二十巻 裴景仁『秦記』十一巻杜恵明注。 『拓抜涼録』十巻 『桓玄偽事』二巻 『鄴洛鼎峙記』十巻 守節先生『天啓紀』十巻 崔鴻『十六国春秋』一百二十巻 蕭方『三十国春秋』三十巻 李『戦国春秋』二十巻 蔡允恭『後梁春秋』十巻 武敏之『三十国春秋』一百巻 右偽史類一十七家、二十七部、五百四十二巻。失姓名三家。 『古文鎖語』四巻 『汲周書』十巻 子貢『越絶書』十六巻 孔晁注『周書』八巻 何承天『春秋前伝』十巻 又『春秋前伝雑語』十巻 楽資『春秋後伝』三十巻 孟儀注『周載』三十巻 趙曄『呉越春秋』十二巻 楊方『呉越春秋削煩』五巻 『呉越記』六巻 劉向『戦国策』三十二巻 高誘注『戦国策』三十二巻 延篤『戦国策論』一巻 陸賈『楚漢春秋』九巻 衛颯『史記要伝』十巻 張瑩『史記正伝』九巻 譙周『古史考』二十五巻 王粲『漢書英雄記』十巻 葛洪『史記鈔』十四巻 又『漢書鈔』三十巻 『後漢書鈔』三十巻 張緬『後漢書略』二十五巻 又『晋書鈔』三十巻 范曄『後漢書纘』十三巻 孔衍『春秋時国語』十巻 又『春秋後国語』十巻 『漢尚書』十巻 『漢春秋』十巻 『後漢尚書』六巻 『後漢春秋』六巻 『後魏尚書』十四巻 『後魏春秋』九巻 王越客『後漢文武釈論』二十巻 袁希之『漢表』十巻 張温『三史要略』三十巻 阮孝緒『正史削繁』十四巻 王延秀『史要』二十八巻 蕭肅『合史』二十巻 又『録』一巻 王蔑『史漢要集』二巻 司馬彪『九州春秋』九巻 『後漢雑事』十巻 魚豢『魏略』五十巻 孫寿『魏陽秋異同』八巻 『魏武本紀年暦』五巻 王隠『刪補蜀記』七巻 張勃『呉録』三十巻 李『左史』六巻 胡沖『呉朝人士品秩状』八巻 又『呉暦』六巻 虞禹『呉士人行状名品』二巻 虞溥『江表伝』五巻 徐衆『三国評』三巻 王濤『三国志序評』三巻 傅暢『晋諸公讃』二十二巻 『晋暦』二巻 荀綽『晋後略』五巻 賈匪之『漢魏晋帝要紀』三巻 郭頒『魏晋代説』十巻 謝綽『宋拾遺録』十巻 孔思尚『宋斉語録』十巻 陰僧仁『梁撮要』三十巻 宋孝王『関東風俗伝』六十三巻 来奧『帝王本紀』十巻 環済『帝王略要』十二巻 劉滔『先聖本紀』十巻 楊曄『華夷帝王紀』三十七巻 張愔等『帝系譜』二巻 韋昭『洞紀』四巻 皇甫謐『帝王代紀』十巻 又『年暦』六巻 何茂林『続帝王代紀』十巻 『帝王代紀』十六巻 『暦紀』十巻 姚恭年『暦帝紀』二十六巻 吉文甫『十五代略』十巻 『代譜』四十八巻周武帝敕撰。 諸葛耽『帝録』十巻 庾和之『歴代記』三十巻 熊襄『十代記』十巻 盧元福『帝王編年録』五十一巻 又『共和以来甲乙紀年』二巻 趙弘礼『王業暦』二巻 周樹『洞暦記』九巻 徐整『三五暦紀』二巻 又『通暦』二巻 『雑暦』五巻 孔衍『国志暦』五巻 『長暦』十四巻 『千年暦』二巻 許氏『千歳暦』三巻 陶弘景『帝王年暦』五巻 羊瑗『分王年暦』五巻 王嘉『拾遺録』三巻 又『拾遺記』十巻蕭綺録。 周祇『崇安記』二巻 王韶之『崇安記』十巻 鮑衡卿『乗輿飛龍記』二巻 蕭大円『淮海乱離志』四巻 李仁実『通暦』七巻 裴矩『隋開業平陳記』十二巻 褚无量『帝王紀録』三巻 皇甫遵『呉越春秋伝』十巻 盧彦卿『後魏紀』三十三巻 劉允済『魯後春秋』二十巻 丘悅『三国典略』三十巻 元行沖『魏典』三十巻 員半千『三国春秋』二十巻 李筌『閫外春秋』十巻 李吉甫『六代略』三十巻 張絢『古五代新記』二巻 許嵩『建康実録』二十巻 『柳氏自備』三十巻柳仲郢。 鄭暐『史儁』十巻 呂才『隋記』二十巻 丘啓期『隋記』十巻開元管城尉。 杜宝『大業雑記』十巻 杜儒童『隋季革命記』五巻武后時人。 『劉氏行年記』二十巻劉仁軌。 崔良佐『三国春秋』巻亡。良佐、深州安平人、日用従子。居共白鹿山、門人謚曰貞文孝父。 裴遵度『王政記』 楊岑『皇王宝運録』並巻亡。岑、憲宗時人。 『功臣録』三十巻 『唐潁稽典』一百三十巻開元中、潁罷臨汾尉、上之。張説奏留史館修史、兼集賢待制。 王彦威『唐典』七十巻 呉兢『唐書備闕記』十巻 『続皇王宝運録』十巻韋昭度・楊渉撰。 韓祐『続古今人表』十巻開元十七年上、授太常寺太祝。 張薦『宰輔伝略』巻亡。 蒋乂『大唐宰輔録』七十巻 又『凌煙功臣』・『秦府十八学士』・『史臣』等伝四十巻 凌璠『唐録政要』十二巻昭宗時江都尉。 南卓『唐朝綱領図』一巻字昭嗣、大中黔南観察使。 薛璫『唐聖運図』二巻 劉肅『大唐新語』十三巻元和中江都主簿。 李肇『国史補』三巻翰林学士、坐薦柏耆、自中書舎人左遷将作少監。 林恩『補国史』十巻僖宗時進士。 『伝載』一巻 『史遺』一巻 温大雅『今上王業記』六巻 李延寿『太宗政典』三十巻 呉兢『太宗勲史』一巻 又『貞観政要』十巻 李康明『皇政録』十巻 鄭処誨『明皇雑録』二巻 鄭棨『開天伝信記』一巻 温畬『天宝乱離西幸記』一巻 宋巨『明皇幸蜀記』一巻 姚汝能『安禄山事迹』三巻華陰尉。 包諝『河洛春秋』二巻安禄山・史思明事。 徐岱『奉天記』一巻徳宗西狩事。 崔光庭『徳宗幸奉天録』一巻 趙元一『奉天録』四巻 張読『建中西狩録』十巻字聖用、僖宗時吏部侍郎。 袁皓『興元聖功録』三巻 谷況『燕南記』三巻張孝忠事。 路隋『平淮西記』一巻 杜信『史略』三十巻 又『閑居録』三十巻 鄭澥『涼国公平蔡録』一巻字蘊士、李愬山南東道掌書記、開州刺史。 薛図存『河南記』一巻李師道事。 李潜用『乙卯記』一巻李訓・鄭注事。 『大和摧兇記』一巻 『野史甘露記』二巻 『開成紀事』二巻 李石『開成承詔録』二巻 李徳裕『次柳氏旧聞』一巻 又『文武両朝献替記』三巻 『会昌伐叛記』一巻 『上党紀叛』一巻劉従諫事。 韓昱『壺関録』三巻 裴廷裕『東観奏記』三巻大順中、詔修宣・懿・僖実録、以日暦注記亡缺、因摭宣宗政事奏記於監修国史杜讓能。廷裕、字膺余、昭宗時翰林学士・左散騎常侍、貶湖南、卒。 令狐澄『貞陵遺事』二巻綯子也。乾符中書舎人。 柳玭『続貞陵遺事』一巻 鄭言『平剡録』一巻裘甫事。言、字垂之、浙西観察使王式従事、咸通翰林学士・戸部侍郎。 張雲『咸通解圍録』一巻字景之、一字瑞卿、起居舎人。 鄭樵『彭門紀乱』三巻龐勛事。 王坤『驚聴録』一巻黄巣事。 郭廷誨『広陵妖乱志』三巻高駢事。 乾寧『会稽録』一巻董昌事。 韓偓『金鑾密記』五巻 王振『汴水滔天録』一巻昭宗時拾遺。 公沙仲穆『大和野史』十巻起大和、盡龍紀。 右雑史類八十八家、一百七部、一千八百二十八巻。失姓名八家、元行沖以下不著録六十八家、八百六十一巻。 郭璞『穆天子伝』六巻 『漢献帝起居注』五巻 李軌『晋泰始起居注』二十巻 又『晋咸寧起居注』二十二巻 『晋太康起居注』二十二巻 『晋永平起居注』八巻 『晋咸和起居注』十八巻 『晋咸康起居注』二十二巻 劉道薈『晋起居注』三百二十巻 『晋建武大興永昌起居注』二十二巻 『晋建元起居注』四巻 『晋永和起居注』二十四巻 『晋升平起居注』十巻 『晋隆和興寧起居注』五巻 『晋太和起居注』六巻 『晋咸安起居注』三巻 『晋寧康起居注』六巻 『晋太元起居注』五十二巻 『晋崇寧起居注』十巻 『晋元興起居注』九巻 『晋義熙起居注』三十四巻 『晋元熙起居注』二巻 何始真『晋起居鈔』五十一巻 『晋起居注鈔』二十四巻 『宋永初起居注』六巻 『宋景平起居注』三巻 『宋元嘉起居注』七十一巻 『宋孝建起居注』十七巻 『宋大明起居注』十五巻 『後魏起居注』二百七十六巻 『斉永明起居注』二十五巻 『梁大同七年起居注』十巻 『陳起居注』四十一巻 『隋開皇元年起居注』六巻 王逡之『三代起居注鈔』十五巻 『流別起居注』四十七巻 温大雅『大唐創業起居注』三巻 『開元起居注』三千六百八十二巻失撰人名。 姚『修時政記』四十巻 凡実録二十八部、三百四十五巻。劉知幾以下不著録四百五十七巻。 周興嗣『梁皇帝実録』二巻 謝昊『梁皇帝実録』五巻 『梁太清実録』十巻 『高祖実録』二十巻敬播撰、房玄齢監修、許敬宗刪改。 『今上実録』二十巻敬播・顧胤撰、房玄齢監修。 長孫无忌『貞観実録』四十巻 許敬宗『皇帝実録』三十巻 『高宗後修実録』三十巻初、令狐徳棻撰、止乾封、劉知幾・呉兢続成。 韋述『高宗実録』三十巻 武后『高宗実録』一百巻 『則天皇后実録』二十巻魏元忠・武三思・祝欽明・徐彦伯・柳沖・韋承慶・崔融・岑羲・徐堅撰、劉知幾・呉兢刪正。 宗秦客『聖母神皇実録』十八巻 呉兢『中宗実録』二十巻 劉知幾『太上皇実録』十巻 呉兢『睿宗実録』五巻 張説『今上実録』二十巻説與唐潁撰、次玄宗開元初事。 『開元実録』四十七巻失撰人名。 『玄宗実録』一百巻令狐峘撰、元載監修。 『肅宗実録』三十巻元載監修。 令狐峘『代宗実録』四十巻 沈既済『建中実録』十巻 『徳宗実録』五十巻蒋乂・樊紳・林宝・韋処厚・獨孤郁撰、裴監修。 『順宗実録』五巻韓愈・沈伝師、宇文籍撰、李吉甫監修。 『憲宗実録』四十巻沈伝師・鄭澣・宇文籍・蒋係・李漢・陳夷行・蘇景胤撰、杜元穎・韋処厚・路隋監修。景胤、弁子也、中書舎人。 『穆宗実録』二十巻蘇景胤・王彦威・楊漢公・蘇滌・裴休撰、路隋監修。滌、字玄獻、冕子也、荊南節度使・吏部尚書。 『敬宗実録』十巻陳商・鄭亞撰、李讓夷監修。商、字述聖、礼部侍郎・秘書監。 文宗実録四十巻盧耽・蒋偕・王渢・盧告・牛叢撰、魏監修。耽、字子厳、一字子重、歴西川節度使・同中書門下平章事。渢、字中徳、歴東都留守。告、字子有、弘宣子也、歴吏部侍郎。 『武宗実録』三十巻韋保衡監修。 凡詔令一家、一十一部、三百五巻。失姓名十家、温彦博以下不著録十一家、二百二十二巻。 『晋雑詔書』一百巻 又二十八巻 又六十六巻 『晋詔書黄素制』五巻 『晋定品雑制』一巻 『晋太元副詔』二十一巻 『晋崇安元興大亨副詔』八巻 『晋義熙詔』二十二巻 『宋永初詔』六巻 『宋元嘉詔』二十一巻 『宋幹詔集区別』二十七巻 温彦博『古今詔集』三十巻 李義府『古今詔集』一百巻 薛克構『聖朝詔集』三十巻 『唐徳音録』三十巻 『太平内制』五巻 『明皇制詔録』一巻 『元和制集』十巻 王起『写宣』十巻 馬文敏『王言会最』五巻 『唐旧制編録』六巻費氏集。 『擬状注制』十巻 右起居注類六家、三十八部、一千二百七十二巻。失姓名二十六家、開元起居注以下不著録三家、三千七百二十五巻。総七家、七十七部。 『秦漢以来旧事』八巻 『漢武帝故事』二巻 韋氏『三輔旧事』一巻 葛洪『西京雑記』二巻 『建武故事』三巻 『永平故事』二巻 応劭『漢朝駁』三十巻 『漢諸王奏事』十巻 『漢魏呉蜀旧事』八巻 『魏名臣奏事』三十巻 『魏台訪議』三巻 『魏廷尉決事』十巻 『南台奏事』九巻 『晋太始太康故事』八巻 孔愉『晋建武咸和咸康故事』四巻 『晋建武以来故事』三巻 『晋氏故事』三巻 『晋朝雑事』二巻 『晋故事』四十三巻 『晋諸雑故事』二十二巻 『晋雑議』十巻 『晋要事』三巻 『晋宋旧事』一百三十巻 車灌『晋修復山陵故事』五巻 盧綝『晋八王故事』十二巻 又『晋四王起事』四巻 張敞『晋東宮旧事』十巻 范汪『尚書大事』二十一巻 『華林故事名』一巻 劉道薈『先朝故事』二十巻 『交州雑故事』九巻 『中興伐逆事』二巻 温子昇『魏永安故事』三巻 蕭大円『梁魏旧事』三十巻 僧亡名『天正旧事』三巻 応詹『江南故事』三巻 『大司馬陶公故事』三巻 『郗太尉為尚書令故事』三巻 王愆期『救襄陽上都府事』一巻 『春坊旧事』三巻 武后『述聖紀』一巻 杜正倫『春坊要録』四巻 王方慶『南宮故事』十二巻 裴矩『鄴都故事』十巻 馬『唐年小録』八巻 張斉賢『孝和中興故事』三巻 盧若虚『南宮故事』三十巻 令狐徳棻『凌煙閣功臣故事』四巻 敬播『文貞公伝事』四巻 劉禕之『文貞公故事』六巻 張大業『魏文貞故事』八巻 王方慶『文貞公事録』一巻 李仁実『衛公平突厥故事』二巻 謝偃『英公故事』四巻 劉禕之『英国貞武公故事』四巻 陳諫等『彭城公故事』一巻劉晏。 『張九齢事迹』一巻 『李渤事迹』一巻 『杜悰事迹』一巻 『呉湘事迹』一巻 丘據『相国涼公録』一巻李抱玉事。據、諫議大夫。 右故事類十七家、四十三部、四百九十六巻。失姓名二十五家、裴矩以下不著録十六家、九十巻。 王隆『漢官解詁』三巻胡広注。 応劭『漢官』五巻 『漢官儀』十巻 蔡質『漢官典儀』一巻 丁孚『漢官儀式選用』一巻 荀攸等『魏官儀』一巻 傅暢『晋公卿礼秩故事』九巻 『百官名』十四巻 干宝『司徒儀注』五巻 陸機『晋恵帝百官名』三巻 『晋官属名』四巻 『晋過江人士目』一巻 衛禹『晋永嘉流士』二巻 『登城三戦簿』三巻 范曄『百官階次』一巻 荀欽明『宋百官階次』三巻 『宋百官春秋』六巻 『魏官品令』一巻 王珪之『斉職官儀』五十巻 徐勉『梁選簿』三巻 沈約『梁新定官品』十六巻 『梁百官人名』十五巻 『陳将軍簿』一巻 『太建十一年百官簿状』二巻 郎楚之『隋官序録』十二巻 王道秀『百官春秋』十三巻 郭演『職令古今百官注』十巻 陶彦藻『職官要録』三十六巻 『職員旧事』三十巻 王方慶『宮卿旧事』一巻 『六典』三十巻開元十年、起居舎人陸堅被詔集賢院修「六典」、玄宗手写六條、曰理典・教典・礼典・政典・刑典・事典。張説知院、委徐堅、経歳無規制、乃命毋煚・余欽・咸廙業・孫季良・韋述参撰。始以令式象周礼六官為制。蕭嵩知院、加劉鄭蘭・蕭晟・盧若虚。張九齢知院、加陸善経。李林甫代九齢、加苑咸。二十六年書成。 王方慶又『撰尚書考功簿』五巻 又『尚書考功状績簿』十巻 『尚書科配簿』五巻 『五省遷除』二十巻 裴行倹『選譜』十巻 『唐循資格』一巻天宝中定。 沈既済『選挙志』十巻 梁載言『具員故事』十巻 又具員事迹』十巻 杜英師『職該』二巻 任戩『官品纂要』十巻 温大雅『大丞相唐王官属記』二巻 杜易簡『御史台雑注』五巻 韓琬『御史台記』十二巻 韋述『御史台記』十巻 又『集賢注記』三巻 李構『御史台故事』三巻 劉貺『天官旧事』一巻 柳芳『大唐宰相表』三巻 馬宇『鳳池録』五十巻 賀蘭正元『輔佐記』十巻 又『挙選衡鑑』三巻昭義判官、貞元十三年上。 韋琯『国相事状』七巻憲宗時人。 張之緒『文昌損益』二巻徳宗時人。 李肇『翰林志』一巻 李吉甫『元和国計簿』十巻 又『元和百司挙要』一巻 王涯『唐循資格』五巻 韋処厚『大和国計』二十巻 王彦威『占額図』一巻 孫結『大唐国照図』一巻文宗時人。 『大唐国要図』五巻左僕射賈耽纂、監察御史褚璆重修。 『翰林内誌』一巻 楊鉅『翰林学士院旧規』一巻字文碩、收子也。昭宗時翰林学士・吏部侍郎。 右職官類十九家、二十六部、二百六十二巻。失姓名十家、六典以下不著録二十九家、二百八十巻。 →巻五十八 志第四十八つづき
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手野総合博物館 手野総合博物館は、もともと手野家、砂賀家の所蔵品の保管庫であった。 それを一般に公開し、また研究施設としたことが始まりである。 現在は、一般財団法人手野財団が設置している私立博物館である。 ただし、海外館群については国外にあるということ、図書館部門については図書館法の所管であると手野総合博物館、私立博物館として扱われていない。 このことから、国内に存在する手野総合博物館のうち、図書館部門のみ特異な地位となっているが、一体として取り扱うこととなっている。 目次 概要 各部門 組織 文化財 入館料 休館日 歴史 概要 手野総合博物館は、手野公園内にある博物館である。 本館、新館、新々館、旧館、別館、天文台、図書館、動物園、水族館、植物園、寄附館、軍事館、海上軍事館、航空軍事館、記念船、記念鉄道、記念館、海外館群などがある。 また、関係者のみが立ち入りができる建物として、収蔵館、研究館がある。 手野総合博物館は、廊下でつながっている本館、新館、新々館、旧館、別館の5つを五大館と称している。 この五大館以外は廊下ではつながっておらず、少なくとも一度は外に出る必要がある。 図書館は、本館、別館、第一新館、第二新館、閉鎖図書館、家紋探題がある。 うち、家紋探題以外は廊下でつながっており、家紋探題以外を図書館群と称している。 海外館群は、アメリカ合衆国テックカバナーにあるテック・カバナー館、英国スコットランドの旧アマーダン州内にあるグッディ館の2つを合わせた言い方である。 五大館、図書館群、天文台、動物園、水族館、植物園、寄附館、軍事館陸上部門、一部の記念館については、手野公園内にある。 軍事館海上部門は大阪湾夢洲、軍事館航空部門と宇宙部門は手野空港、記念船は世界中に、さらに記念鉄道は手野公園から手野市街にかけて、さらにテック・カバナー館、グッディ館がそれぞれのところにある。 本館 手野総合博物館本館は、1881年に建築された春雷会収蔵庫がもととなっている。 地上6階地下1階の本館は、春雷会が江戸時代さらにその以前に保管していた文化財や資料を保管、展示、研究するための知の殿堂として建てられた。 コ型をしており、下層の屋根部分の一部をバルコニーとしている段構造をしているため、最上階の面積は1階の面積と比べておおよそ3分の2程度になっている。 焼煉瓦で作られたものではあるが、濃尾地震の際に一部損壊となり、収蔵品のうち半数が修復が必要な状況となった。 このため、耐震工事が行われた結果、煉瓦の一部は漆喰や鉄板によって囲まれたこととなった。 しかし、大きくは変わらず、現在でもその威容をみることができる。 収蔵品の大半は1929年に国宝保存法に基づく旧国宝に指定され、1950年には文化財保護法による重要文化財となった。 一部の文化財は後に国宝とされた。 本館は1996年に登録有形文化財、1999年に重要文化財に指定された。 新館 手野総合博物館新館は、1936年に設計され、1939年に完成した、地上4階地下2階、帝冠様式の建物である。 当時は寄附を受けた文化財や収蔵品の展示、特別展示会の会場として使われた。 明治以来に手野財閥が作成した物品も収蔵されており、手野財団、手野グループの歴史を知るための施設となっている。 ロ型をしている建物であり、本館とは廊下で接続され、そのため新館独自の出入り口は関係者以外立入禁止ということになっている。 廊下は1950年から1955年にかけて造られ、地上1階地下1階によって本館と接続されている。 また本館へ向かう途中から新々館へ向かうための廊下がある。 新々館 手野総合博物館新々館は、2001年に手野グループ21世紀事業の一環として落成した。 廊下によって、新館と本館の間から、あるいは別館と旧館の間から新々館に向かうことができる。 手野総合博物館の収蔵品の中でも、最も貴重なものが展示、収蔵されている。 新々館のみ高度な耐震構造となっており、耐震・制震・免震の3つを組み合わされた建物構造となっている。 旧館 手野総合博物館旧館は、1120年に建立された愛雲寺(あいうんでら)と呼ばれる、郁芳家氏寺の元本堂である。 戦国時代に寺が全焼したものの、その一部は残り、砂賀家屋敷として購入された。 なお、この購入代金により愛雲寺は再興されたが、元本堂は戻ることはなかった。 1800年までに現在の手野市にあたる金元藩の藩邸の一部として、行政の中心として使われた。 手野総合博物館が設立される際、その展示スペースとして使用するために手野公園内に移築。 以後、手野総合博物館旧館として使用され続けている。 別館 手野総合博物館別館は、1791年に建築された手野家俚伝文庫がもととなっている。 明治維新後、春雷会を経て手野財閥の保有となり、手野財団の保有となった。 なお、内部に収蔵されていた手野文庫の収蔵品については、一部の資料を除き、図書館部門に移管され、そちらで保管されている。 別館は地上2階、地下2階で、大きな蔵のような形をしている。 新々館とのみ地下2階にある廊下で接続されている。 この廊下は途中で旧館の地下1階へ向かっており、さらに新々館1階へつながっている。 別館は1930年に国宝保存法による旧国宝に指定された。 1950年に文化財保護法が制定されると重要文化財とされ、1983年に国宝に指定された。 ここを編集 各部門 部門名 (詳細) 内容 博物館部門 手野市の歴史、美術、交通など手野グループの技術など 美術館部門 明治以降を主とする日本人による油絵、日本が、水彩画、水墨画など 天文台部門 手野天文台を運営 図書館部門 手野図書館 手野学園図書館を兼務蔵書数230万冊、内閉架40万 砂賀文庫 平安後期から現代までの砂賀家の貴重書など、蒐集図書館 手野文庫 手野家の貴重書、手野グループの文書など 家紋探題 砂賀家による家紋の調査、審議、系図などのための機関 動物園部門 動物園 世界中の動物を集め展示海洋、水棲については水族館にて展示 水族館 世界中の海洋生物、水棲生物を集め展示それら以外の動物については動物園にて展示 植物園 世界中の植物を集め展示動物園、水族館で使用する植物は植物園において収集する 寄附館部門 手野家、砂賀家以外からの寄付を展示する博物館資金や物品寄付の芳名板もここに常設される 軍事館部門 陸上部門 手野武装警備を中心とする、戦前から現在に至るまでの陸上兵器などの展示 海上部門 手野武装警備を中心とする、戦前から現在に至るまでの海上兵器などの展示 航空部門 手野武装警備、手野航空を中心とする、戦前から現在に至るまでの航空兵器などの展示 宇宙部門 手野武装警備、手野重工業を中心とする、現在に至るまでの人工衛星、宇宙兵器などの展示 記念館部門 記念船部門 手野船舶等の記念船あるいは記念艦等を公開及び展示一部の船並びに艦については航行可能な状態とされ、展示航海することがある 記念鉄道部門 手野鉄道等の保存車両等を公開及び展示大半の車両については走行可能な状態で保存され、展示走行することがある 記念館部門 手野不動産等が保有する建物等を公開及び展示一部の日を除き、室内の一部を公開及び展示しており、一部の建物については宿泊を受け付けている 顕彰館 手野財団賞を受賞した個人、および法人の検証を行う施設 海外館部門 テック・カバナー館 米国マサチューセッツ州プリマス郡カバナーに所在テック・カバナー家にまつわるものの他、アメリカの総合博物館として機能している グッディ館 英国スコットランド地方のアマーダンに所在グッディ家にまつわるものの他、イギリスの総合博物館として機能している 博物館部門 博物館部門は、美術品を除く、手野市の歴史、文化、自然に焦点を当て、古代から現代にいたるまでの系統展示を行っている。 また、必要により特定のテーマの特別展を実施している。 ここを編集 美術館部門 美術館部門は、手野グループが所有している美術品をはじめとし、手野市や姉妹都市の作家らによる美術品や工芸品を展示している。 また、必要により特定のテーマの特別展を実施している。 天文台部門 天文台部門は、手野天文台を運営し、太陰太陽暦による暦の調製を行っている。 手野天文台は手野公園内にある手野山8合目にあり、手野大型天文台、手野中型天文台、手野小型天文台の3つの望遠鏡から成る各天文台からできている。 手野大型天文台 手野大型天文台は、望遠鏡2つに観測室、資料展示室などがある。 資料展示を始めとし、定期的に見学会を開いているのは、天文台部門の中では手野大型天文台のみである。 手野中型天文台 手野中型天文台は、望遠鏡1つに観測室などがある。 なお、手野中型天文台は原則として公開されていない。 手野小型天文台 手野小型天文台は、電波望遠鏡による観測を行うことができる。 なお、非定期に手野小型天文台は見学会を開いている。 図書館部門 図書館部門は、手野図書館、砂賀文庫、手野文庫、家紋探題の4つがある。 なお、手野市図書館とは異なる組織である。 手野図書館 手野図書館は、図書館部門の本体となっている施設である。 手野図書館に収められている蔵書は、年々増え続けているが、2019年4月1日時点で、開架図書295万、閉架図書17万ある。 ただし、この冊数には、砂賀文庫、手野文庫、家紋探題のそれぞれの冊数も含められている。 手野図書館は、図書本館、図書別館、図書第一新館、図書第二新館、閉鎖図書館から成り、閉鎖図書館に砂賀文庫並びに手野文庫が収められている。 ただし、閉架図書については図書本館、図書第二新館、並びに閉鎖図書館に分けて管理される。 図書本館は地上3階建て、図書別館は地上5階建て、図書第一新館は地上8階建て、図書第二新館は地上7階地下4階建て、閉鎖図書館は地上4階地下5階建てとなっている。 閉架図書は貸出不可であるが、開架図書はあらかじめ貸出カードを作成することにより図書貸出を行うことができる。 ただし、1人当たり10冊まで、最大2週間となる。 貸出カードは、手野市内に居住するか、あるいは通勤、もしくは通学している者が作成できる。 例外として、手野市が図書貸出に関する協定を結んでいる市町村の住民についても貸出カードを作成し、図書貸出を行うことができる。 閉架図書については、閲覧には閲覧用紙に住所、氏名、電話番号などを記入し、さらに身分証明書を提示する必要がある。 さらに、別に指定している閉架図書については、職員立会、もしくは専用室での閲覧となることがある。 寄附によって収蔵された図書類については、原則として閉架図書として扱われるが、寄付の際に開架図書として扱うように申請することにより、開架図書類として一般の利用に供されることができる。 砂賀文庫 砂賀文庫は、砂賀家が代々伝えてきた文書類の総称である。 以前は砂賀藩における半公設図書館として機能していたものであるが、明治以後、藩校が廃止されると同時に砂賀財閥の傘下の私設図書館となり、さらに戦後に手野グループがその全ての寄附を受け設立された。 旧来は砂賀町に存していたが、1970年代以降に閉鎖図書館が設置されるに伴って、ほぼすべての蔵書が手野図書館閉鎖図書館内に移管された。 手野文庫 手野文庫は、手野家が代々伝えてきた文書類の総称である。 手野家が代々蒐集してきた文書類を、手野財閥の成立とほぼ同時に私設図書館として、さらに戦後に砂賀文庫と合同して手野図書館の一部門として再発足した。 1970年代に閉鎖図書館が設置されるに伴って、手野図書館のそれぞれに分けられて保管されていた手野文庫の文書類は一カ所にまとめられた。 家紋探題 家紋探題は、砂賀藩において1707年から始まった砂賀家中団の証書である鉄小物の証書たる腰章に必要となる家紋を確定させるための機関である。 腰章とは、腰帯に佩び、その者の証としたためで、正式には鉄証書(くろがねしょうしょ)あるいは鉄証(くろがねのあかし)と呼ぶ。 家紋探題が図書部門に分類されているのは、その鉄小物は全て鉄証書冊子に記されており、現在では砂賀町指定文化財となっているためとされる。 また、現在でも機能している機関であり、江戸時代から同じ記録を作成している。 この鉄証書冊子には鉄証書の通し番号、作成年月日、作成時の砂賀家当主の名前、作成先の相手の名前、作成時点の官位官職、その他が書かれいる。 家紋探題はこれ以外にも、砂賀藩、金元藩の藩士その他職員の家紋の調査も行っており、同一の家紋を使っている場合には家紋に手を加える権限も与えられていた。 動物園部門 動物園部門は、動物園、水族館、植物園の3つがある。 動物園と植物園は隣接しているが、水族館のみ手野公園より少し離れた淀川沿いに立地している。 動物園 動物園は動物部門の中核と位置づけられている。 手野市にある唯一の動物園であり、他の動物園と協力し、種の保存や繁殖などの研究、動態展示、その他を通じて市民一般が学習できるようにしている。 なお、水生生物あるいは両生類の飼育、展示については水族館が担っているため、動物園にはいない。 水族館 水族館は淀川沿いにある。 手野市にある唯一の水族館であり、他の水族館と協力し、種の保存や繁殖などの研究、動態展示、その他を通じて市民一般が学習できるようにしている。 なお、飼育、展示しているのは水生生物あるいは両生類のみである。 主として陸上で生活する生物については、動物園において市域、展示を行う。 植物園 植物園は動物園に隣接して設けられている。 特に手野市内の植生を中心に展示しており、他の植物園と協力し、種の保存などの研究、一般展示、その他を通じて市民一般が学習できるようにしている。 なお、動物園あるいは水族館に対して、その食事用その他のために、植物を提供することがある。 ここを編集 寄附館部門 寄附館部門は、手野公園内にある寄附館を所管している。 寄附館は、手野総合博物館へ寄附をうけた収蔵品を保管、展示、研究、補修などをしている。 玄関に寄附銘板が設置されており、年月日と寄付者の名前が顕彰される。 なお、寄付金銘板もあり、こちらは寄附の金額と寄付者の名前が顕彰される。 ただし、銘板顕彰は、断ることができる。 銘板は10年間は顕彰のため掲示され、それ以後は一定の金額以上の者のみが永久顕彰となり、その金額以下は10年で撤去される。 ただし、最初の年から10年間の間に基準の金額以上となった場合、永久顕彰へと切り替えられる。 寄附は金銭のみの場合は銘板のみとなる。 収蔵品を寄付する場合には、その収蔵品の説明に寄付者の名称を記すことができる。 なお、収蔵品は常に展示されることはなく、おおよそ3か月ごとに入れ替え作業がある。 収蔵品が図書類の場合は、寄附館で受付をしたのち、新規収蔵品として展示が終了後に図書館部門において永続管理される。 寄附館では、収蔵品を分類し、それぞれの部屋ごとに定められたテーマに沿って展示される。 なお、新規収蔵品に限定し、1か月間展示するスペースがある。 軍事館部門 軍事館部門は、陸上部門、海上部門、航空部門、宇宙部門の4部門に分けられている。 陸上部門 軍事館陸上部門は、手野公園内にある。 軍事館部門のうち、手野公園内にあるのは陸上部門の建物のみである。 陸上部門では戦前から戦後にかけての戦車、小火器、重火器の3つの分野に大別したテーマ別展示を行っている。 特に目玉となるのは重火器分野として展示されている国指定重要文化財のカノン砲である。 海上部門 軍事館海上部門は、大阪湾南港にある。 夢洲の半分を占める敷地に、3つの建物がある。 メインとなるのは大阪港手野桟橋に係留されている記念艦「戦艦翠玉」である。 なお戦艦翠玉は国指定重要文化財であり、動態展示とされているために常時観覧することができるとはかぎらない。 航空部門 軍事館航空部門は、宇宙部門とともに手野空港にある。 宇宙部門 軍事館宇宙部門は、航空部門とともに手野空港にある。 記念館部門 記念館部門は記念船部門、記念鉄道部門、記念館部門の3つ、および手野財団賞関連の顕彰館がある。 記念船部門 記念船部門では、手野グループが有してきた艦船舶のうち、春雷会により選別された艦船舶が展示されている。 一部の艦船舶については、岸壁に固定化する工事を行っており動かすことができない場合がある。 記念鉄道部門 記念鉄道部門は、手野グループあるいは他社が保有し、あるいは製造し、もしくは運行してきた鉄道車両を静態あるいは動態にて保存している。 手野公園内の鉄道においては動態保存している車両に実際に乗ることもできる。 また、手野鉄道の一部の駅において静態保存している車両もあるが、その管理を行っているのは手野総合博物館である。 記念館部門 記念館部門は、手野グループに関連する人物を記念し、その関連の展示を行っている。 春雷会や手野産業の各幹部、手野グループの所属企業のうち手野グループ社長会に属している企業の社長などの来歴などが展示されている。 また、戦前の手野武装社、戦後の手野武装警備の幹部名簿や職員名簿の一部も閲覧できるようになっている。 顕彰館 顕彰館は記念館部門の中でも特異な地位を占めている。 顕彰館では、手野財団賞を受けた個人ならびに法人を顕彰するために設置された。 元々は手野財団賞によって、高松市にある手野球場殿堂資料館、手野市内にある手野サッカー殿堂展示館にそれぞれ展示されており、期間限定で手野公会堂内に顕彰がなされることとなっていた。 2001年1月1日をもって、これらをすべて統合し、手野財団が直営とする顕彰館を設立し、すべての手野財団賞を受賞した個人、ならびに顕彰館にその業績を公開することを承認した法人を顕彰することを目的として設立された。 なお、これらのことから、独立した1部門とすることも考えられたが、最終的には記念館部門の1つとなることとなった。 海外館部門 海外館部門はテック・カバナー館、グッディ館の2つがある。 テック・カバナー館 テック・カバナー館は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州カバナーに位置する自然博物館である。 なお、併設される形で、テック・カバナー総合軍事会社総合軍事博物館がある。 これらは手野総合博物館とは相互協力の関係にあるものの、もともと所有品を公開するという意思が少なかったため、大正時代に手野財閥が小規模な陳列館をつくったものが嚆矢となっている。 その後、整備をされつつ、大規模な自然博物館として成立した。 総合軍事博物館は、主にテック・カバナー総合軍事会社が製造、販売している武装品を展示している。 第1次世界大戦、第2次世界大戦の2時代が主な展示対象とされている。 テック・カバナー総合軍事会社の装備品は、1800年代の創業当時からの制服や階級章といった展示もある。 グッディ館 グッディ館は、英国スコットランド地方ダンディ州アマーダンにある科学博物館である。 産業革命以前からのグッディ子爵の歴史や、スコットランド地域の展示が行われている。 なお、グッディ館の庭園は、16世紀ごろの英国貴族の庭園そのままである。 建物もグッディ子爵が14世紀ごろに建てた別荘の一つをそのまま使っている。 なお、2020年1月をもって、グッディ子爵はアマーダン公爵に叙されたが、名称はそのままグッディ館のままとなっている。 ここを編集 組織 手野総合博物館は、管掌範囲が広大になっているため、部門、細分部門、各館、その他といった分類がなされている。 それぞれの部門長がおり、部門長の互選により博物館長が選任される。 また、博物館長の指名により副館長が2名、部門長の内より選任される。 館長 副館長 部門長 副部門長学芸員長各部署長 上席学芸員専門学芸員 職員学芸員 準職員学芸員補 図書部門長 副図書部門長司書長各部署長 上席司書専門司書 職員司書 準職員司書補 庶務部長 庶務課 総務係 会計係 団体係 寄付係 人事課 人事係 警備係 学芸員係 なお、部門が多岐にわたっているために、4つのグループが構成されている。 グループ内に複数部門がある場合は、属する部門長のうち1名をグループ長とし、副館長輔佐とする。 但し、そのグループ内に副館長あるいは館長がいる場合は、そのグループには副館長輔佐はおかない。 グループは、以下のように設けられる。 第1グループ 博物館部門 美術館部門 天文台部門 動物園部門 第2グループ 図書館部門 第3グループ 寄附館部門 軍事館部門 記念館部門 第4グループ 海外館部門 文化財 手野総合博物館に所蔵されている文化財については、それぞれ各部門ごとに管理されることとなっている。 なお、海外館部門については国内法の所管とならないため、ここには記さない。 文化財は、国指定による国宝、重要文化財、特別史跡、史跡、名勝、重要美術品があり、大阪府指定による有形文化財、有形民俗文化財、史跡、名称、登録文化財、規則指定重要美術品がある。 その他手野市が指定する文化財がある。 文化財は法令により建造物、絵画、彫刻、工芸品、書籍、典籍、古文書、考古資料、歴史資料、その他と分類されており、手野総合博物館においては各部門ごとに、その管理を行っている。 また、手野総合博物館が管理、運営している史跡、登録有形文化財、その他文化財においても、その分類に応じて各部門が管理を行う。 博物館部門 美術館部門 図書館部門 動物園部門 寄附館部門 軍事館部門 記念館部門 博物館部門 博物館部門が所蔵している文化財は数多くあるため、国宝並びに重要文化財を紹介する。 三十三面真千手観世音菩薩立像 国宝(工芸品)、1930年旧国宝指定、1950年国宝指定 手野市金元寺に伝わる、元は愛雲時の本尊として祀られていた3体の十一面千手観音菩薩である それぞれ大手が42本、その隙間に958本の小手がある 大手は手の甲に、小手は手のひらにそれぞれ目が掘られており、さらに大手38本はそれぞれ持物を持っている 残り4本はそれぞれ合掌手と宝鉢手をしており、1体で文字通りの千手観音となっている 3体合わせて観音菩薩の33の姿を現しているとされる 金元寺梵鐘 国宝(工芸品)、1930年旧国宝指定、1950年重要文化財指定、2001年国宝指定 手野市金元寺の寺宝として伝わる梵鐘である 全体が黄銅でできており、全面に観音経と南無観世音菩薩と刻まれている 重要文化財指定されるまで実際に撞かれていたため、一部が摩耗している 1100年に鋳造され、その願主として郁芳家当主の銘が刻まれている なお伝承によれば鋳造している最中に観音菩薩が現れ、梵鐘に入り込んだとあり、このことから観音梵鐘と称されることもある 十一面観音立像 重要文化財(工芸品)、1930年旧国宝指定、1950年重要文化財指定 伽羅を用いた30cm程度の大きさの十一面観音立像である 元々は金元寺に納められたが、戦国時代ごろに大凡寺に納められ、以来大凡寺の所蔵となっている 香木を用いた仏像の作例はあるが、伽羅を用いたものは少ない 作例は国宝である愛雲寺本尊の十一面千手観音菩薩に類似しているが、手は4本のみとなっている 青銅観世音菩薩立像 国宝(工芸品)、1931年旧国宝指定、1950年重要文化財指定 手野市金元寺に収蔵されている観音菩薩立像である 全身が青銅でできており、鋳造され、一部は鋳造後に篆刻されている また背面に文字が刻まれており、それによって康和2年に郁芳家当主が願主となり、鋳造させたことが分かる 愛雲寺に奉納されたのち、一時期大凡寺に収蔵され、さらに金元寺に収蔵など、幾度となくその所蔵先が入れ替わっている 最終的に金元寺のところに安置されることとなったのは江戸時代に入ってからである 貴賓客用馬車 重要文化財(工芸品)、1933年旧国宝指定、1950年重要文化財指定 手野財閥が気賓客を出迎えるために整備した貴賓客用馬車一式である 明治時代初期にラングマン大公国より技師を呼び国内で調達したもので、現在も使用することができる なお使用の際には文化庁の許可が必要となっているが、希望する者は後を絶たない 手野市3号古墳出土品 重要文化財(考古資料)、1960年重要文化財指定 1931年に手野市(当時は手野町)で発掘された3号古墳の出土品である 弥生時代中期ごろのものと推定される鉄器類や土器、武具の一括指定を受けている これらのうち、鉄器は当時、非常に貴重なものであるとされ、埋葬者がこの周辺ではかなりの高位者であったとされる 但し、埋葬者は不明であり、さらに複数人が埋葬されているため、統治者の一族の墓ではないかとされる 袈裟襷文様銅鐸 重要文化財(考古資料)、1983年重要文化財指定 1922年に手野市(当時は大凡町)で発掘された出土品のうち、銅鐸である 弥生時代中期から後期にかけてのものと推定される 大きさは90センチメートル程度であり、比較的大型である また銅鐸の内部に舌がのこされていたものの、摩耗した形跡がないため、実際に使用されていたかどうかは不明である 美術館部門 美術館部門が所蔵している文化財は数多くあるため、国宝並びに重要文化財を紹介する。 また、重要美術品に認定されている文化財についても併せて紹介する。 太刀 銘初砂(はつすな) 国宝(美術品)、1939年旧国宝指定、1950年重要文化財指定、2010年国宝指定 1200年代初頭に砂賀家に招聘された大和流刀工である鉄流が、招聘後初めて作刀した太刀である 当時の砂賀当主のために造られた太刀であり、一族の護り刀として重用された 以後、当主が交代するたびに造られ続けており、その伝統は今も続いている 太刀 銘一太刀(はじめのたち) 重要美術品、1935年認定 室町末期に鉄(くろがね)氏によって作刀された その年の最初に作られた、あるいは作刀者の最高傑作だという意味などがあるとされる 漆鉄棒采配 重要美術品、1940年認定 図書館部門 図書館部門が所蔵している文化財のうち、国宝並びに重要文化財を紹介する。 日本書紀 国宝(書跡・典籍)、1960年国宝指定 1000年ごろに郁芳家として写本を行った際のものと推定されている 全24巻並びに附1巻の合計25巻 古事記 国宝(書跡・典籍)、1983年国宝指定 1000年ごろに郁芳家として写本を行った際のものと推定されている 全4巻、上中下の各巻のうち、下つ巻を2つに分け合計4巻としている 八代和歌集 国宝(書跡・典籍)、1940年旧国宝指定、1950年国宝指定 勅撰和歌集のうち古今、御撰、拾遺、御拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の8つの勅撰和歌集の写本である それぞれ15~40巻ごとにまとめられている 仮名序、真名序はそれぞれの和歌集の冒頭にまとめられており、他の写本類には掲載されていない和歌集においても仮名序がある 美作国風土記 国宝(書跡・典籍)、1930年旧国宝指定、1950年国宝指定 旧風土記のうち唯一の完本写本である 郁芳家が950年ごろに現在の砂賀町を統治するようになると同じころに写されたとされる 後に代官として派遣する砂賀家初代当主である砂賀行内が引き継ぎ、以後は砂賀家の所有となる 郁芳文書 国宝(古文書)、1971年重要文化財指定、2001年国宝指定 西暦1000年ごろに当主となった郁芳為貞によりはじめられた郁芳家当主による日記集である 各日の日付、出来事、天候、雑記や仕事の愚痴、他人との話のやり取りがそれぞれ記載されているほか、鶯の初鳴き、梅と桜の初咲、紅葉の日などが記されている また所領の話が月に1~2回程度記される 為貞が始めて以来、今に至るまで郁芳家当主は同じ内容の日記を書き続けている 砂賀藩明法集録 国宝(古文書)、1965年重要文化財指定、2017年国宝指定 砂賀藩に伝わっていた明法道による判例集である 1338年に守護として砂賀家が成立してから行われてきたほぼすべての民事裁判、刑事裁判の判決集として作成されている 民事裁判の場合はその争いの内容、原告と被告の住所、名前、その判決が記される 刑事裁判の場合はその罪状の内容、被告人の住所、名前、その判決が記される 毎年1月1日から12月31日までを一帙とし、これを10併せて一巻としている 室町時代から江戸時代に至るまでの民衆争議の貴重な資料である 手野家俚伝文書 国宝(古文書)、1968年重要文化財指定、2020年国宝指定 手野総合博物館別館のもととなっている俚伝文庫に所蔵されていた文書集である 金元藩式目録 重要文化財(古文書)、1965年重要文化財指定 金元藩に伝わっていた式目の記録である 鉄砂鍛剣文書(くろすなたんけんもんじょ) 重要文化財(古文書)、1955年重要文化財指定 国宝である太刀銘初砂以来、鉄砂一族が鍛造し続けたほぼすべての刀剣類の記録類である 鉄砂(くろすな)とは鉄(くろがね)一族のうち、砂賀家に招聘された者であり、苗字書出により砂の字を与えられ成立した 砂賀家当主は常に鉄砂が作刀を担当し、他の者については重要人物であれば鉄砂が、他の者については鉄がそれぞれ作刀などを担当することになっていた 文書には、日付、刀の大要、銘などが記載されており、鉄砂あるいは鉄の一族が作刀した刀剣類については調査するための一次資料となっている なお、重要文化財に指定されているのは明治改元(1868年10月23日)以前のものが対象となっており、以後の同一文書については重要文化財の指定から外されている 大納言補任状 重要文化財(古文書)、2015年重要文化財指定 郁芳家当主が大納言に補任された際に、それぞれ詔書が作成され、それをまとめたものである 重要文化財となったのはその詔書が全て宸筆により作成されたという点である なぜ宸筆なのかは定かではない 現在、宸筆とされるものが少ない天皇までも含めるため、貴重な資料となっている 動物園部門 動物園部門は天然記念物の研究、飼育、保護などを行っており、これらに併せて展示を行っている。 また、手野財団が管理をしている史跡や名勝といった記念物についても、動物園部門が管理を行っている。 ここでは、飼育している国指定天然記念物あるいは特別天然記念物を記す。 金元馬 1968年天然記念物指定 日本在来馬として最大、大型馬に分類される馬である 旧山砂賀家住宅 1949年史跡指定 1771年に5代目山砂賀の弟が大坂へと来て絹布を販売し、その財で建てた住宅である 金元藩の代官としての地位もあるが陣屋は別にあったため、単なる住宅として建てられた 書院造と寝殿造の折衷形であり、砂賀造と呼ぶこともある 旧手野家住宅が近接しているがこちらは史跡の指定を受けていない テノホタル 1950年天然記念物指定、2010年特別天然記念物指定 天神梅 2010年天然記念物指定 愛雲桜 2010年天然記念物指定 寄附館部門 寄付館部門が所蔵している文化財は数多くあるため、国宝並びに重要文化財を紹介する。 軍事館部門 軍事館部門について文化財とされているものは少ないが、一部の所蔵品については国宝、重要文化財あるいは重要美術品などの指定や認定を受けている。 鉄甲冑(くろがねかっちゅう) 国宝(工芸品)、1950年重要文化財指定、2000年国宝指定 鉄一族により作成された試製甲冑である 刀として鍛造したが使用されなかった金属を用いて鉄板とし、それらをつなぎ合わせることによって作成されたプレートアーマーである 総重量は50kgにも及び、実戦使用されることはなかったため完品として現在に引き継がれている なお、使用者としては当時の砂賀家当主を想定したようで、彼に合わせた設計となっている カノン砲 重要文化財(歴史資料)、1979年重要文化財指定 戦国時代中期に種子島経由で輸入されたらしいカノン砲である 由来書きによれば堺の商人が金元藩に売りに来たという、それを購入し金元陣屋に備えたものである 実戦で使用されたかどうかは不明であるが、弾数や当時の火薬の量から推定するに、おそらく使われたことはないだろうという話である なお金元藩から砂賀藩へとこのカノン砲の話が持っていかれたものの、砂賀藩では特にこの砲の量産や研究などを行わせることはなかった 記念館部門 記念館部門のうち、文化財として特に著名なのは記念船、記念鉄道の各部門の所蔵品である。 戦艦「TG-BMS-S05-002翠玉」 重要文化財(歴史資料)、2011年重要文化財指定、指定名称は戦艦翠玉である 戦前手野武装社が建造した戦艦のうち現存動態可能なもののうち最古のものである 翠玉は固有名詞、その前の番号は手野武装社並びに手野武装警備が定めている公式の記名法である なお、翠玉とはエメラルドのことを指す 現在では、大阪府大阪港手野桟橋に係留されているが、動態保存のため、記念日や祭典の際には移動することができる 手野鉄道甲種4号車両 重要文化財(歴史資料)、2003年重要文化財指定 戦前、初めて手野鉄道として製造を行った鉄道車両である 甲種とは旅客車両、4号とはその大きさを表している なお最小の1号から最大の5号まであった 明治39年に建造され、昭和33年に引退するまでの間、旅客を運び続けた 手野鉄道丙種丸特車両 重要文化財(工芸品)、1971年重要文化財指定 1911年に建造された貴賓客用車両である グッディ子爵より紹介を受けた技師の指揮により建造された 甲種4号車両とは異なり、明治から大正時代にかけてのモダニズム様式を採用した工芸品としての価値が極めて高いと判断された その結果重要文化財としての分類は歴史資料ではなく工芸品である なお、指定名称中「丸特」とあるのは〇に特という字が入った形をしている 入館料 手野総合博物館については、入館料がそれぞれ設定されている。 また、セットで安くなる入館料の組み合わせがある。 なお、手野公園内にある保存鉄道を使用する際の場合のみ運賃と表記される。 団体は20名以上の場合に、予め申請することによって適用される入館料である。 前売りなどの割引入館券を用いる場合は、一般に表示される金額から1割引きとし、100円未満は切り捨てとする。計算の結果、100円を下回る場合は無料とする。 大学生、高校生、中学生、小学生については学生証、生徒証、あるいは児童証などを提示しなければ大人の入館料が適用される。 なお、手野学園に所属する学生、生徒、あるいは児童については、常に団体の入館料が適用される。 海外館部門については、入館料ではなく、施設維持協力金として徴収している。また、テック・カバナー館については米ドル、グッディ館については英ポンドとなっている。 特別展を行う場合、以下の入館料に1000円までの金額が加算される。 部門名 一般 団体 大人(円) 大学生高校生(円)中学生 小学生以下(円) 大人(円) 大学生高校生(円)中学生 小学生以下(円) 博物館部門 1000 500 無料 800 無料 美術館部門 1000 500 無料 500 無料 天文台部門 500 200 無料 200 無料 図書館部門 無料 動物園 2500 1500 500 2000 1000 無料 水族館 2500 2000 1000 2000 1500 500 植物園 1000 500 無料 500 250 無料 軍事館部門 3000 2000 1000 1500 700 300 記念船部門 2000 1000 無料 1400 600 無料 記念鉄道部門 200 記念館部門 無料 テック・カバナー館(ドル) 10 無料 6 無料 グッディ館(ポンド) 8 無料 5 無料 休館日 手野総合博物館は、共通の休館日とともに、各施設ごとに設定されている休館日がある。 休館日以外にも、時間を短縮して営業する短縮営業日が各館ごとに設定されることもある。 なお、海外館については、展示品入れ替えの時期を除いて、原則年中無休である。 共通休館日 手野総合博物館の共通休館日としては、年末年始の日付がある。 年末年始としては、12月30日から1月4日までが設定されているが、場合によっては12月31日から1月1日となることがある。 また、毎月第2水曜日は共通休館日となる。ただし、当日が祝日の場合はその翌平日が休館日となる。 施設別休館日 手野総合博物館の各施設によっては、休館日が設定されていることがある。 休館日は建物ごとや部門ごとに設定されている。 博物館部門並びに美術館部門のうち特別展を行う部分については、展示品の入れ替え作業のため、特別展の前後については休館となる。 天文台部門については、雨天については天文台の望遠鏡の観測を休止することがある。 軍事館部門並びに記念館部門については、整備が必要なことがあり、そのために休館あるいは展示休止を行うことがある。 歴史 ここを編集
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きのふはけふの物語 一 きのふはけふの物語(四七頁) 「昨日は今日の昔」の諺は、松江重頼の「毛吹草」の「世話付古語」の部に見えているし、「慶長見聞録」にも「昨日は今日の昔、今日は明日の昔」などとあるから、近世初期には広く行われていたらしい。もと、「明日もあらぽ今日をもかくや思ひ出ん昨日の暮ぞ昔なりける」(新勅撰集、十七、源光行)のごとく、わずか昨日の事でも、今日から見ればすでに昔であるの意。この諺をふまえて、昔話、説話の話し始めの形式、「むかし…」「今は昔…」や、さらにはこれを題名にした「今昔物語」という代表的説話集を連想させて、説話集たることを示したもの。なかなか気の利いた題名のつけ方である。 二 むかし天下を治め給ふ人の(四七頁) 天皇を知らないなど、江戸時代の武士とちがって、いかにも、無智・無頼な武士、足軽連中の話で、応仁の乱以降、戦国時代の雰囲気をよく反映している。また、本書の読者は数百年の王城の地に住む京都の知識人が主であったから(殊に古活字本時代には)、天皇を知らない人がいることだけでも、天明期以降の笑話に見られる江戸っ子自慢に似た京都人の一種の優越意識を刺戟し、滑稽を感じたことであろう。その点、笑話の時代性、地域性をあらわしてもいる。なお、この話、及び次の話は、戯言養気集や醒睡笑など他の説話集にはないが、昨日は今日の物語では、古活字、整版、写本等すべての諸本の巻頭におかれている。昨日は今日の物語の代表的な話となっていたのであろう。 三 織田の信長公…(四七頁) この話、下に信長を上様といい、一渓道三が登城する(刈本等)とあるから、その成立は、信長が足利将軍義昭を逐って名実共に天下の実権を握った天正元年(一五七三)七月以降、本能寺の変で斃れる同十年六月までのことであろう。 四 一渓道三(四七頁) 一渓は字。名は正盛(一説正慶)。雖知苦斎・盍静翁と称した。永正四年(一五〇七)、堀部左門親真の子として京都柳原に誕生。幼にして父母に死別し、十歳で禅宗の僧となり、のち関東に下って足利学校で漢籍を学ぶ。この間、田代三喜より李・朱の医学を学び、十余年の研究ののち、天文十四年京都に帰り、翌年還俗して医者となった。京都で二十余年医療を行い、名医の誉が高く、将軍足利義輝・細川勝元・毛利元就・三好長慶・松永久秀及び、織田・豊臣・徳川三氏などから、常に厚遇された。また啓迪院という塾をひらいて門下に俊才を輩出した。文禄三年(一五九四)正月四日没。享年八十八。のち正二位法印を贈られる。子孫累世道三を称し、医学界に勢力があり、またその号、享徳院・翠竹院も、女婿正純・嫡孫守伯に授けられた(今大路系譜・曲直瀬家譜・本朝医考)。一渓道三はかかる当代一の名医であり、また信長とも親しかったから、恐らくこの話は創作でなく、実話なのであろう。従って、滑稽味が少なく、教訓色が濃い。いわゆる当時のお咄衆、話しの者の「咄」の型や味わいを最もよく反映していると思われる。 五 おりふし御前にありて(四七頁) この箇所、「一けい道三御道しやうあり、御尤の儀にては候へとも」(山本)、「一けい道三御登城あり、御尤の儀にては候へとも」(刈本)、「一けい道三御とうしやうあり、御尤の儀にては候へ共」(金本)、「一けい道三御とうしやうあり、御ふくりう御尤にては候へとも」(学本)、「一けい道三御まへに有相、御尤の儀にて候へ共」(多本)、「一けい道三、御とうじやうあり。御尤の儀にては候へとも」(整版八行本・九行本)と、他本いずれも「御登城」とある。「おりふし」がなく、「御前にありて」が「御登城あり」となったり、更に学習院本には「御ふくりう」の語が補われていたりする。以下も、諸本により、こ の程度の字句、乃至は文章の異同、変改はしばしばある。しかし、話の進め方、構造など、本質的な異同、改変がない時、或いは本文解釈上の疑義を解くのに役立つ場合以外は、あまりに専門的な本文校合の問題になるから、煩をさけて一々注記しない。 六 瓢簟から駒の出でたる絵(四八頁) 中世末から近世初期には既にかなり広く行われた諺だったらしく、画題にもしばしば用いられたのであろう。「毛吹草」(寛永十年刊)にも「瓢箪の駒も出べき春野かな 良伝」以下数句見え、高瀬梅盛の「狂歌鼻笛集」(寛文三年刊)にも一項を設けて、石田未得以下の五首を載せている。或は水戸の初代の儒官で林羅山の弟子、人見卜幽も、「東見記」に「張果自2瓢中1出v駒事、在2印目江録1」などと、わざわざ出典を抜書している。 七 天火・地火(四八頁) 天火日は、運歩色葉集にも「天火日、…造作種蒔忌v之」とあり、広く行われていた忌日の迷信であった。陰陽家の言い出したもので、この日は天上に火気甚だしく、かつ五行の気相互に妬殺する凶日として、棟上・家根葺・竃造り・種蒔き等に忌むべき日とされる。天火日は正・五・九月の子の日、二・六・十月の卯の日、三・七・十一月の午の日、四・八・十二月の酉の日で、つまり、天火、地火は、五行説でいう火の一種で、火を陰火、陽火にわけ、これを、天火、地火、人火とし、さらに、天之火四、地之火五、人之火三にわけるのである。また、地火日は、天火日ほど、問題にされないが、右の五行説によって、地上に燃える一切の火をいうから、天火に準じ、種蒔や、礎をすえ柱を建てたりするのを忌むべしとされた。「本綱云、火者五行之一、有v気而無v質、造化両間生2殺万物1。蓋五行皆一、惟火有v二、二者陰火・陽火也、其綱凡三、三者天火・地火・人火也、其目凡十有二、所謂十二者、天之火四、地之火五、人之火三也」(和漢三才図会、火類、陽火、陰火)。 八 薄殿、松の木殿、竹の内殿、藪殿、葉室殿、柳原殿、菊亭殿、竹屋殿(四九頁) 薄殿 本姓橘氏。その先は敏達天皇の皇子難波王より出る。系譜は、難波王…以長・以政・以経・以良・以隆・以材・以季・以基・以盛・以量・以緒、以継と辿れるが、その伝はほとんど不明。だが、以量は応仁二年、父以盛出家の後、従三位刑部卿に進み、橘氏の氏長者となっている(明応五年五月五日没、五十二歳)。また、唐橋在数の男で、以量の養子となって薄家をついだ以緒も、橘氏の氏長者となっている(弘治元年 五月二十八日没、六十二歳)。かく、橘氏の唯一の後崙ではあったが、代々六位の蔵人として、家格、勢力に乏しかった。ただ、「鹿苑日録」やこの頃の公家の日記記録にはその名が見える。だが、山科言継の次男諸光(以継)が同家をついだが、天正十三年十一月、牛公事の件により豊臣秀吉に生害させられ、薄家は絶えた。従って、徳川時代の「国花万葉記」「人倫訓蒙図彙」のごとき、公家名を載せた一般啓蒙書にはこの家は見えない。なお、薄家が秀吉の怒りにより断絶させられた事件についで、細川幽斎は、「薄といへる公家、牛のいひことにより、誅せられければ かりことの外に出つゝも小車のうしにくはるゝすゝき殿かな」と詠じている。それで、家格も低く、家も絶えたが、この事件により、当時人の噂に上ったりなどして、比較的知られていたのであろう。なお、以量・以緒共に、「慶安手鑑」にその手蹟が載るから、やはり橘逸勢を出した家柄でもあり、事実能筆でもあって、徳川初期には能筆の公家として、多少声名があったと思われる。 松の木殿 藤原氏の支流。松木氏。中御門家の一流。藤原北家、関白道長二男、従一位右大臣頼宗が祖。のち、持明院・園家の別流が出る。五摂家・清華につぐ、羽林家二十五家の一。嘉応二年に没した宗能以後は官は権大納言・権中納言程度で、大臣に進んだ者はないが、伝統ある名家で、室町末期から徳川初期にかけ、宗房(満)・宗通・宗則・宗信とつづき、歌会や連歌会に名を列ねている。なお、この家は、筆道及び楽道を掌り、明治になり伯爵となる。 竹内殿 清和源氏の一支流。新羅三郎義光の男、竹内盛義が祖。もと村上源氏の嫡流久我家の諸大夫で、家格は悪かったが、永禄三年正月、竹内季治の代足利将軍の執奏により、始めて堂上に加えられ、大膳大夫、正三位に進む。元亀二年江州で没。五十四歳。のちも、長治・孝治と近世初期に続く。明治には子爵となる。 藪殿 姓藤原。古く天文二年、高倉範久(前権大納言正二位四辻季経四男)が、中絶していた元少納言範音の家を再興したが、同十五年、参議伊予権守の時、五月五日、五十四歳で没。またまた再絶。それを、権大納言四辻公遠の末子(一説二、三、八男とも)嗣良(承応二年四月十七日没、六十一歳)が嗣ぎ中興した。寛永五年、従三位の非参議に進んだ。はじめは高倉を名乗っていたが、寛永十四年十二月二十七日、高倉を改めて藪と号し、閑院家に属したというが、公卿補任では、寛永五年公卿になった時から藪の名があるから、元和から寛永初年のころ藪家を名乗ったか。子、嗣孝以下徳川初期にも続く。家格は羽林家、明治以後子爵となる。だが、右よりすれば、藪の名は寛永初期ごろから始まり、この話もそのころ成立か。 葉室殿 藤原北家の流である勧修寺家から古く分れた一流。葉室顕隆が祖。顕隆は同じ勧修寺家の一流甘露寺為房の二男。権中納言正三位、参議に進む。大治四年没、五十八歳。以降代々続く。「人倫訓蒙図彙」には名家十二家の一とする。 柳原殿 藤原北家の一流日野家より出る。祖は権大納言俊光四男の権大納言資明。文和二年七月二十七日没、五十七歳。以降代々続き、天正六年に八十四歳で没した資定、その子淳光(慶長二年、五十七歳で没)など能書で、「慶安手鑑」に見える。明治に伯爵となる。 菊亭殿 姓は藤原。閑院家の分流。師輔の十一男公季から出、公季五代公実の次男通季の時、西園寺を称し、その五代の孫実兼の四男兼季が今出川に住み氏とした。また、菊花を愛し多く庭に植え、家を菊亭と称した。右大臣に進み菊亭右大臣といわれる。暦応二年正月十六日没、五十九歳。これを家祖とし明治まで存続、侯爵となる。清華七家の一で、大臣・大将を極官とする。ことに菊亭晴季(一六〇五−一六八三)は豊臣秀吉と親交があり、娘は秀次の妻であったため、豊臣時代一時栄えたが、秀次の事件に連座して配流されたり、いろいろ人の噂に上った人物であった。 竹屋殿 藤原氏の一支流。日野家の一門。権大納言広橋仲光の子、従四位兼俊が家祖。四代目の光継後、六十三年の間中絶、慶長十年広橋総光の次男光長(万治二年二月二十一日没、六十四歳)が再興。以後明治まで続き子爵となる。「人倫訓蒙図彙」にも名家十二家の一として掲げる。慶長以降中興の家だが、光長が活躍したので有名になった。 以上により、天正十三年に断絶した薄家はとにかく、寛永初年に称された「藪殿」、慶長十年以降再興された「竹屋殿」があるよりすれば、この話の成立は寛永初年ごろか。 なお、醒睡笑(広)に次の類話がある。話は大むね同じで、菊亭・竹屋の二家がないだけだが、話の進め方は異るし、わざと文章、語り口を変えたようにも思われないから、当時一般に行われていた話をそれぞれ別に採録したか、或いは異る原拠によるものであろう。なお、以下醒睡笑の引用はすべて東大国語研究室本により、甚だしい誤脱だけを()で補った。また醒睡笑の各話冒頭には「一」が記してあるが、これはすべて省略した。 名字の讚歎する時、ある者のいふ、「昔より今に公家には草や木の名をつき給ふ事也」「なにと」「すゝき殿、松の木殿、竹の内殿、藪殿、葉室殿、柳原殿など」「いや、まだある」「誰ぞ」ととへば、「とうざ(さ)んせう殿」とて(巻二、名つけ親方)。 九 とうさんせう(四九頁) 藤宰相を、無学なので、文字を知らず、山椒と耳から聞き誤まったのである。鈴木棠三氏は、「醒睡笑」の補注で、「「武者物語」(明暦三年刊)に、侍の子も町人百姓の中で育つと、ことばもいやしくなる。たとえば「さいしやう殿をば、さんしやう殿といひ、みんぶ殿を、にんぶ殿といひ」うんぬんとあるから、当時のなまりとして普通だったことが分る」という。なお、整版本には、続いて、「これは、とうさいしやうを、さんせうとおぼえられて」の付加がある。なお、唐山椒をかけたとする説もあるが、唐山椒の語は当時の書に見かけないから、ただ山椒をかけたとした方が穏当であろう。 一〇 草履取をおかうとて…(四九頁) 醒睡笑に、同じ筋の話があるが、文辞に異同があって、直接の書承関係は認め難い。 京にて傍輩の中間行(合ひ)、「そちは今誰のもとに奉公をするぞ」「三条のお奈良屋にゐるは」、おの字をつけていふをにくみ、「おならやはの、くさい事をいふ」「それならば、そちはなにとて我ゐどころをばとふたそよ」(巻八、秀句)。 一一 六角堂(四九頁) 何故、下人を雇うのに六角堂まで行ったのか不詳。六角堂は今日では花道の家元池の坊で有名だが、古く今昔物語、巻十六に「隠形男、依六角堂観音助顕身語第卅二」なる六角堂観音の利生譚も見え、有名だったらしい。そんな関係で、この頃もここに参詣人が多く集まったり、露店なども出たりして、人が多く集まる場所であったのであろう。後のように、一季半季の奉公人の雇傭時期は勿論、これを周旋する口入屋などがない時代だから、かかる群衆の集まる場所へ行き、下人を雇ったりする風があったのであろう。とにかく、六角堂が群衆が集まる場所でなければ、この話に六角堂を設定した意味がないし、当時の読者も変に思ったはずである。 一二 有人、寺へ参る。長老御らんじて…(五〇頁) 醒睡笑(狭)に次の類話がある。 東の奥より都にのぼりたる人あり。さる古寺に立寄、院主に参会し、物語など時過けるまゝ、菓子持出て小性をよび、「いかにもお茶をもみぢにたてよ」とありしを、客、「なにたる子細にや」ととふ。「たゞこうようにといふ事也」と。あな、おもしろのことの葉やとおぼえつゝ、本国に帰り、態ちかづきの友をよびふるまい、かねてより小性にいひおしへ、「お茶をもみぢにたて申せ」とあり。人々、さすがに此度上洛のしるしありとかんじ、事のおもむきをうかゞひたれば、「こくよくたて申せといふ事だよ」と。あながちのその人のとがにはあらず。物毎たゞ国の風による(巻五、人はそだち)。 こちらは東国の話になっているが、関東では上方のように、ウ音便を盛んに使うことはないので、「濃う能う」を「濃く能く」と誤ったという失敗が自然である。もと、やはり東国の話であろう。また、末尾に注釈的な文句がついている点も、昨日は今日の物語より古体を存している。 一三 風呂屋に、孝行風呂といふがあり(五〇頁) 醒睡笑に次の類話がある。これも直接の書承関係は認められない。以下も殆んど然りだから、今後は一々言及しない。 下京にかう<風呂とてありし。「此名はなにの子細によぶぞや」と不審しけり。「さる事有。ふかうにおよばぬといふ事なり」とかたれば、おもしろき事におもひゐたりしが、さる処にて、「この風呂のいはれいかゞ」などいふを聞て、「それこそしりたる者がない。ふくにおよばぬ」と申されし(巻五、人はそだち)。 一四 山寺法師、さる御ちごにほれて(五一頁) 醒睡笑に類話。 貧々と世をふる僧の、思ひに堪かね、児を請じ、大唐米の飯を出せり。「是はめづらしき物や」などゝほむる人もありけり。亭坊のいはるゝやう、「せめての御馳走に米をそめさせたる」とあれば、彼児、箸をもちなをし、「さうかして、大唐めしのやうな」と(巻六、児の噂)。 一五 三位まかりいで(五一頁) この「三位」は、この本文からすれば、貧僧をさす方が自然だが、「三位」は多く稚児の後見役を呼ぶ場合が多い。しかも、刈本・山本などの本文によれば、「三位」は貧僧ととるより、稚児について来た僧で、二人の仲をとりなすつもりで、「まかりいでて」こう言ったとした方が自然な感じがする。なお、醒睡笑の次の話によれば、真言・天台などの大寺の僧ばかりでなく、これと縁の深い修験道で、田舎の山伏の弟子などにさえも、治部卿などと名乗った者がいたらしい。 佐渡に本覚坊といふ山伏あり。治部卿とて弟子をもちしが、ある年名代と号し嶺入させけり。雲に臥岩を枕の難行事をはり、本国に帰りぬ。師の本覚対面の時、治部卿申けるやう、「今度は先達憐愍をくはへられ、名を替、大夫になされて候」とかたりければ、「なにと、大夫となつた。曲事なり。われさへさやうに大なる名をばつかぬに、中<のことや。さりながら本山にてつきたる名をよばぬも又いかゞなる条、たゞ中夫になれ」とそなをしける(巻二、名つけ親方)。 一六 物ごとに心をつくる人(五一頁〉 この話、戯言養気集・醒睡笑に類話があるが、話は筋の進め方も文体も前者に近い。これは本書が、醒睡笑より戯言養気集に近い例証の一となろう。なお、戯言養気集の原本は上巻は佚亡して伝わらないが、下巻は天理図書館にあるので、以下引用はこれによる。これにも甚だしい誤りは()で補正した。 まつだけ年をへて松になる故事 よく物に心得たる人云やうは、「竹のこなど、むざとくはう事では御座なひ。なぜになれば二とせの内には用木になり候程に」と云たれば、かたへの人聞て、「尤なる被v仰やうぢや。あの松だけをも、いたづらにたべんもおしき事にてある。十五六年もしたらば大木にならんほどに」と云た(上巻)。 振舞の汁に、大に見事なる笋出たり。人みな「大竹にならんものを、むさとくひすてんはおしいひ」など沙汰しければ、さるうつけ、「いや竹は大事もない。大木になり、ひき物につかふべき松茸をさへくふほどに」。 落行河の末もしられず 笋は本よりふしのあらはれて (巻二、腔) 一七 ゐ中よりはじめて京へ上りたる人(五二頁) 醒睡笑に類話がある。 田舎より主従二人始て上洛し、京の町に逗留せし。休息の後、見物に出る。下人にむかひ、「都はいつれも同様なる家作なり。よく<目じるしをせよ」とをしゆる。「心得たり」と領状せしが、晩にのぞみ宿をしらず。主、腹をたてしかる。返事に、「いや門の柱に唾にて書付を、たしかに仕しが、消て見え候はず。其上に猶念を入れ、屋ねの上に鳶の二つありしを目付にしたりしが、それもいな事で見えぬ」と (巻一、鈍副子)。 また、関敬吾氏の「日本昔話集成」第三部笑話1に、「三〇九B 唾の目標」として、長野県北安曇郡美麻村での採集、分布が報告されている。かかる愚人譚は民話化し、各地に広く流布していたのであろう。 一八 不断光院(五二頁) 清誉は和歌・連歌にすぐれ、既に「弘治三年千句」に大覚寺義俊・三条西公条・元理・宗養・紹巴・松永貞徳の父永種等と一座しており、また永禄七年の石山千句にも紹巴・元理・心前等と一座している。この時の巻頭の発句は近衛稙家が詠んでいる。連歌師でない連歌作者としては一流の力量をもち、近衛・三条西など公卿との雅交も密であった。なお、不断光院は近衛家の桜御所の内にあったので、その院主清誉も近衛家即ち、陽明御所をめぐる活撥な文学サークルの一人となり、しばしば同家の雅会に参加したらしい。山州名跡志、巻二十一「洛陽寺院」には、「上立売南新町西、近衛殿桜御所の内に所v建内道場也。古此辺に有2十二光院1。是則阿弥陀仏十二光明の称号の義なり。所謂安楽光院・無量光院・無怠光院等也」とある。 一九 近衛殿(五二頁) 醒睡笑には、次のごとく信尹とするが、不断光院を清誉とすれぽ、清誉の没した時でさえ数え年十八歳だから、年齢的にやや無理である。信尹は逸話の多い人物だから、これに仮託されたか。狂歌にも大分異同がある。 不断光院の住持、近衛殿へ参られし時、三方をゆるすとあれば、其後常に三方にて斎非時を給はれり。此由三藐院殿聞召給ひ、 かり初にゆるすといひし三方を不断くはふは無益なりけり (巻一、鈍副子) 二〇 むかし、近衛殿を…(五三頁) 文禄三年、近衛信尹が豊臣秀吉にその青年客気の言動を咎められて薩摩に流された事件(駒井日記等)。松永貞徳の戴恩記には、これを翌年、関白秀次の事件に連座した時のこととして載せているが、これは貞徳の記憶誤り。なお、末尾の歌は、戴恩記では、雄長老(英甫永雄、細川幽斎の甥で建仁寺の住職などを勤め、同寺の十如院に隠退。狂歌の名手)の詠としており、また文辞も、「道すがら車にはあらで大臣をのするかごしまになふ棒の津」と多少の異同がある。 二一 近衛殿(五三頁) 近衛信尹(一五六五−一六一四)。旧名信基、また信輔、三藐院と号した。前久の子。当時の勢力者織田信長に愛され、また五摂家の嫡子としてわずか十六歳の天正八年十一月内大臣となった。多芸多才かつ覇気にとんだので、秀吉により薩摩に流されたり、父前久と不和だったり、事件や噂が多い人物であった。慶長十九年十一月没、年五十。書道には殊にすぐれ、近衛流を創め、また画事にも巧みであった。 二二 山ほとゝぎすさそひがほなる(五三頁) 世阿弥作の謡曲「采女」(三番目物)の後段に、奈良の帝の寵の衰えたのを悲しみ、猿沢の池に投身した采女の亡霊が、旅の僧の回向により成仏し、舞う場面に出て来る文句をそのままとっている。謡曲は今日の流行歌のごとく、広く一般に行われていたから、すぐ紹巴も気がついて、謡曲そのままだから、いかにも紹巴らしく、わざと「めいよ小鼓に手をうつような」と意地悪くからかったのである。 「曲水の宴の有りし時、御土器度々廻り、「有明の月更けて」「山時鳥誘ひ顔なるに」、叡慮を受けて遊楽の、月に鳴け、シテワカ謡月に鳴け、同じ雲居の時鳥、地謡天つ空音の万代までに」(謡、采女)。 二三 きやうがく坊(五三頁) 諸本により、教月坊としたり一定しないが、暁月坊とするのが普通である。中世の中頃、既に一種の伝説的人物になっており頓才機智が豊かで狂歌の名手とされ、定家の子といわれていた。中世に既に「蟻虱百首」の詠があったと伝えられており、近世中期には「酒百首」なる狂歌百首が刊行された。最近福田秀一氏の「暁月房為守の経歴と作品」(国語と国文学、昭三四年九月)により、為守が定家の孫であり、その経歴や作品が明かにされ、更に「狂歌師暁月房私見」(文学・語学、二〇号)、「暁月房為守とその「狂歌酒百首」補説」(文学・語学、三六号)の論考も発表された。しかし、「蟻虱百首」は未だ発見されず、「酒百首」も作者の真偽不明。とにかく、定家の孫の為守という実在の人物としては、別にとりたてて云々すべき和歌史的・狂歌史的意義はないが、中世から近世にかけての伝説的な狂歌作者として受取られ、その詠とされる種々の狂歌が人口に膾炙していた点では、狂歌史上注目される。醒睡笑に次の類話がある。 教月坊、例の狂歌を持せ、定家のもとへ、 教月がしはすのはてのそら印地年うちこさん石一つたべ よねを五斗参らせられし、 定家がちからの程を見せんとて石ひきわけてなからこそやれ (巻五、姥心) 二四 秀句すきたる人あり(五四頁) 醒睡笑に類話がある。 医者にむかつて、「白朮(びゃくじゅつ)とはなにを申や」「をけらといふ草なり」と。こびたる事におもひ、客をまうけたる席に、中間かの草をゑんのはしに持出、「白朮をほりて参りた」といはせ、「そこにをけら」といふてくすめり。近比蚊虻(もんもう)なる人感にたへ、帰りて中間にをしへおき、態(わざと)人をよびふるまいけるに、中間が打わすれ、「をけらをほりて参りた」と。亭主よふいふかほにて、「そこに白朮せよ」と(巻三、文字知顔)。 二五 法花宗の一致と勝劣と…(五四頁) 醒睡笑に類話がある。醒睡笑では、次のごとく場所も具体的に「伊勢の桑名」とあり、描写も詳しくなっている。 伊勢の桑名にて、法花宗門の中、一致・勝劣の諍論出来、所をさし日を定、双方対談の上に、とやありけん、頭をくはせ、くんづころんづ臈次なかりつるが、勝劣方の僧、一致方の坊主のふぐりをしたゝかにしめければ、その痛堪がたきなど沙汰する刻、 法門のその勝劣はしらねどもきんをしむるはいつちめいわく (巻一、落書) 一般に、醒睡笑の話と戯言養気集や昨日は今日の物語の話などと共通するとき、醒睡笑では、場所・人名などの固有名詞が、「ある所」「ある人」という具合にぼかされる場合が多いが、これはその点珍らしい例外の一である。 二六 一致と勝劣と(五四頁) 一致派は、法華経後半の十四品(本門)は前半の十四品(迹門)と理が一致すると説く。これが主流派で勢力が強かった。勝劣派は、本門は迹門の理に劣ると、両者の優劣を説くもので、日蓮の高弟日興が唱えはじめ、京都にも日朗の門人日像が伝導した。「当宗宗派は一致勝劣の義あり。当国中一致は多く勝劣は少し。…夫、此名目ある事其大旨を云ふに、法華経中二十八品に、本門迹門と云事あり。始十四品を迹とし、後十四品を本とす。今一致と云は、本迹異なりといへども、理旦一にして実相円融の妙と談ずる故に、本迹一致と称す。勝劣とは出世の仏に迹化本化二仏あり。経にも亦権実あり。所謂四十余年の経は、権教後八箇年法華は実経、仏も亦本仏久遠古仏也。爾前経には釈尊久遠実成の古仏なる事を不v顕。故如何となれば、説教たゞ方便にして未実地を不v顕。然るを今法華に至て過去の本地を顕し、開三顕一とて、五十年の説経三乗の法只今の一乗妙なりと教るを以て、衆生成仏直因と訣せり。其久遠実成は第十六寿量品を見す故に、此品を採て一派を興じ、此品を以て本門とし、迹は劣り、本は勝れたりと、一部中にして勝劣を立るを以て勝劣と云なり」(山州名跡志、巻四)。 二七 ある人にわかに数寄に行とて(五四頁) 戯言養気集に類話がある。この方は日時や人名も入って、具体的になっている。またお伽衆のした話の形をそのまま残して、末尾に、「評して云」云々と、教訓が付け加えられている。昨日は今日の物語や醒睡笑は、その成立の時期は戯言養気集と年代的にはさして隔りがないが、この両書では既にかかる古体を脱して、教訓が省かれ、純粋の笑話になっている。 しんぽちいの故事 ある人、正月七日の事なるに、すきやにかまをしかけ、りん<とたぎるを聞て、福田助十郎と云人のかたへ、一ぷく申さうと、文をやりければ、助十かみをそりて参らではとて、たれかれをよべども、「今日は遊び日にて有とて、皆く出て候」と言ひしかばハいかゞせんと思ひいたる所へ、だんな坊主、年玉なんどさゝげまいられければ、福田悦て、「さてもよき所へ御出有物かな。即頼申」とて、かみをあらひ、一しきこねてかゝる。此僧坊主あたま計そりつけたるゆへにや有けん、かたこびんよりめき<とそりおとしければ、「これは<」ときもをつぶし、以外腹を立、「是非もなき御さいばんにて侍る」と、のゝしりしかば、「いな事を承る。何とも御このみもおはさぬ間、とんせいなされ候かと存、仕て候」とて腹を立、そりさしていなんと云しを引とめ、「此上はそり度やうに御そり候へ」と申しければ、則新しほつけになしけり。正月なるにより、是を新発意のはじめとす。評して云、人をふかう思ひ入し事有時は、たれもかくあらんとおもひ、くはしく云ことはらで、度々あやまちに至る事有。此助十郎も、いそぎかみをそり、はんなりとすきにあはん事をのみ思ひ、「さかやきを」と、このまざりしゆへ、存じもよらぬとんせい者になりにけり(上巻)。 二八 ある人、寺へまいり(五六頁) 戯言養気集に次の類話がある。「嵯峨辺」としたところ、わずかながらもやはり具体的になっている。殊に嵯峨あたりは、竹林、大竹藪が多いので、自然な感じが出ている。 悪をなせば自然にあらはるゝ部 ある人、五月のころ、寺へ参候て、「長老さまは」とゝへば、「嵯峨辺へ」とまぎらかしつゝ、「まづおちやをまいつて御かへりあれ」と、新発意つねよりは事かはりして茶を立申ける間、二三ぷく物し、「さぞ竹の子はへ申つらう」とて、やぶをさして行を、「なふ<、これめづらしく侍る。物申さう」とよび帰せ共、少しも聞入ずして猶のぞきまはりければ、藪の中に長老さま、雁のけをむしつて御座有。此人見ぬふりをして「御見まひ申候」といへば、長老きもをつぶし、「さても<やぶの中まで、きどくなる御尋ね、さらば<や」とおほせられ、よそ目して御座ある。だんな殿も、よきころのくせものにて、「何事をあそばし候」と申せば、「此鳥のけを枕の中へ入れ候へば、頭痛の薬ぢやとて、たのもしきかたより給はり候間、かくのごとくいたせども、終にしつけぬ事にて、何共手間が入申」と仰せければ、「其は安き程の事にて候。こなたへ下され候へ」と申に任せ、即「よきやうにしたゝめられ給ひ候へ」とて、御渡しあれば、ちやく<とひんむしり、けをば和尚さまへしんじ候て、「けのあとは定て御用にも有まじく候あひだ、はいりやう申候。又頓て参らん」とて帰ける。よびもどし、「なふ、其鳥のなをば何と云ぞ」と仰ければ、「羽ある時は雁、かくむしられてはをしどり。さらば<」とてかへりけり。これらほど気の薬な、うまひ事はおりなひ(上巻)。 二九 又、さる寺へ参りければ(五六頁) 戯言養気集に次の類話が載る。 福人のだんな寺へ参、かね打ならし、ざしきになほり、「たれもをりなひか<」と、高声に申しかば、長老さま、いそぎ御出あるとて、ころもすそにはやしたるからさけが付た。み給ふて、ちんぜらるゝやうは、「我々が用ゐ申と、おぼしめし候はん事、返々も口おしう存ずる。仏祖も御せうらんあれ、これは女どもが薬つかひに」と云もはてず、かほをあかうしてうろたへられた。評して云、何事もありのまゝにあらまほし。ことをたくみにかざるときは、何様きずが出来候て、そしりともなり、又心の中にて、いやしまるゝ事ともなるほどに(上巻)。 また、醒睡笑にも次のごとく載るが、ここでは主人公を老比丘とし、落ちも、あわてた老比丘が干鮭を池に放せと、昨日は今日の物語より、大分話がこまかくなり、技巧が加えられている。 つねに人みな、「干鮭は身をあたゝめてよき薬」などいふを聞て、「われも養生にくひたき事や」とおもひ、老比丘、うつけたる中間にむかひ、「薬にちといる事あり。からざけといふ物をかふてきたれ」とて、代を三百わたしけり.すなはちかいもとめて来りぬ。折節あしく、客のある座敷へ、くだんのうつけ、によつとさし出しけるに、老比丘せき面し、「其からざけを、すぐに泉水へはなせ」と申されたり(巻三、自堕落)。 三〇 ある比丘尼御所、御知行所へ…(五七頁) 戯言養気集に類話が載る。 知ざるをとはずしてめんぼくをうしなふ事 寺りやうたんと有びくに寺にて、春半の事なるに、百しやうどもに、「ふろをたひて入参らせよ」と仰せられしかば、地下中のわかき者ども寄つどひ、右(石)ふろをたき入申。老人のおぽほさまよろこび出て、「てうづのこをお三方にすへて参らせよ」とおほせしかば、善門「かしこまつて御座ある。やがて調申候はん」と云て、まかりたち、其事知さうなる人を集め、とひ候へども、覚へ忘れたるなんど云、はかのゆかぬを、こざかしきものさし出、「とかうせば御上りなされ候べし」と腹立して、「そふじやを以、先に仰出され候物どもは、三好家の乱に取れ候てより終にもとめ申候はぬ」と云しかば、「あゝきやうこつや。こもじの事にて侍る物を」とて引こみ給ひき。評して云、義をおもふ人と利のみ思ひぬ人のきやうがいと、右のおぼゝさま、百しやうとのあいさつと、少似た気味がある。なぜになれば、そりが合ぬ所有をみるにつけても(上巻)。 醒睡笑にも類話が載るが、「知らざるをとはずして云々」の小題が省かれ、戯言養気集よりはすっきりしたかたちになっているし、主人公も田舎武士にかえられていて、話が面白くなっている。 山中に殿あり。国なかにてさもとらしき武家より嫂をよぶに、おつぼねの、中居の、おはしたのなど、あり<とともし、祝言の事すめり。二日三日たてども、終に行水とも風呂とも沙汰せず。物まかなへる形(刑)部(げうぶ)左衛門といふをよび出し、御つぼね、「ちと、御洗足をお出しあれ」と申されしかば、形部、「かしこまり候、其由申きけん」とて座を立、年寄衆に、「皆よられよ。つぼねよりおほせられ分候」とふれたり。「何事ぞ」とあつまりたる座にて、「別の事になし。お洗足といふ物を出せとなり。此返事いかゞせん」と、談合さま%\なりしあげくに、一のおとないひけるやう、「一乱にうせたと申されよ」「此義天下一の思案」といって、つぼねへ、「御洗足を出せと候へども、一乱にうせて御座ない」と。つぼねきゝもあへず、「あゝけうこつや」と申されけり。形部けつ(う)こつといふも聞しらねば、又むつかしき事やと思ひ、「いや、けうこつもおせんそくと一度にうせておりない」と(巻五、人はそだち)。 三一 光源院殿の御時…(五七頁) 光源院は、我が儘な将軍で、新刀を試すために、刀に黒い紙をまいて辻斬りをしたりするような人物で、悪将軍の名があった。だから、この僧の還俗のごとき、我が儘をおし通すことが、実際に多かったのであろう。なお光源院は、将軍義晴の子。初名義藤。天文十五年将軍となったが、実権を管領や三好長慶に奪われて苦しんだ。長慶死後永禄七年、三好義継及びその被官松永久秀の手から政権奪還を企てたが、そのため翌年五月十九日、久秀らに襲われて自殺。年三十(一五三六−一五六五)。 戯言養気集に類話が載るが、側近の名も入り、具体的である。この話を実際に見聞した人、乃至はそれに近い人が語ったかたちそのままに近いのであろう。これがやがて、人名もさしさわりがあって省かれたり、また時代が下るに従って耳遠い人名ともなったりするので、やがて個人名が省かれ、一般的な咄となる。既に昨日は今日の物語では、かかる一般化が進み、普通の笑話に近づいている。 こゝにしゆせう第一なる上人とさたありし出家有。光源院殿、御意に入参らせ、つね%丶御ときに参けるが、朝夕の御相伴もむつかしくおぼしめし、「らくだ申されよかし」と、上野中務大輔義信をもつて仰られし時、「御諚尤忝事に御座候といへども、八つ九つのころより、出家のすがたに身をやつし、なんぎやうくぎやういたし、いま六十にあまり、上人がうまで思ひのまゝにたつし、今さら何のゐんぐはに落候はんや、けんよも御座なひ。返く御めんなされ候やうに御とりなし頼申」との事なれば、上下をしなべて、かんじ給ひけり。将軍かさねて、「ねがはくは、くるしうもなひ事ぢや程に、分別あれかし」と被回仰しかば、「とかく立仏を居ぼとけにも、だんなはからいと、むかしよりのことはざにも申伝へ候へば、力及ばざる義也」とて、ちやくとおちられけり。折ふし七月の事なりけるに、大なるさばをすへければ、上人かんじつゝ、「扨くこれは遠来の名物、忝」とのじぎなり。「智者は我道ならぬ事をも知とは云ども、あまりこうしや過たる事ぢや」とて、目引はな引笑ひ申処に、剰、「とてもの御ねんごろに、愚僧が子にてあるものをもめし出され候やうにたのみ奉り存ずる」と申さるゝによつて、御礼を請させられ候へば、四十に近きひげ男なり。将軍さまも又御前の人<もけうさめがほに成て、「いやはや<」とて大わらひになった。評して云、かなしひかな、人を知事の不明なる事。なかなひかな、実をてらふ事(上巻)。 醒睡笑に載る話は、ある大名と落堕した者との話になって、昨日は今日の物語より更に一般化した形になっている。 大名の家に奉公の望をかけたるが、漸調ひぬれば、奏者について出仕をとげし次而に、せがれを御目にかけたきむねを申ふくむる。即つれて礼義すみけり。時に主たる人、「そちはちかき比の落堕といふが、成人の子はなにと、養子か」ととはれて、「いや、喝食でのせがれ」と申あぐる(巻三、自堕落)。 三二 お乳(五八頁) お乳の人を「おちい」と呼ぶことについては、「片言」にも見える。「御乳の人といふべきを、ちい、おちいなどいふこと如何。されどもみどり子のいひよきまゝに云なれ来りたること成べければ、改むるに及ばざるか」(巻三)。 三三 さる寺の蓮池にて…(五八頁) 戯言養気集・醒睡笑に類話が見えるが、ここでも戯言養気集では、場所を加賀国伝灯寺とするなど、原話のかたちに近いようである。 久蔵主が故事 加賀国伝灯寺の門前にして、いとあきらかなる月の夜に、あみがさをきて、どぢやうをふむ有。其所の奉行めひたる人見付つゝ、「此せつしやうきんだんの所にをひて、月夜にどぢやうをふむぞ」ととがむれば、「正真の俗人で御座有。少も御かまひなされそ」とて、かひうつぶひて物しける間、「名をなのれ。もしなのらずんぼ一矢もつてまひらふ」といひて、つるをとをしたれば、是におどろき、「俗人の名、久蔵主」とこたへた(下巻)。 醒睡笑では、次のように一般的な話に変化している。 いもほり僧のありつるが、秋も最中の月澄に、百性出て田をもりゐたり。夜ふけ物をとせぬみぎり、笠をき、しろき帷子をはしをりたる男、さうけと小桶とをもちて来りぬ。百性ふしんなる物におもひとがめければ、彼男いふ、「俗人の鰌(どぢやう)すくふに、なにのくせごとがあらふぞ」と(巻三、自堕落)。 三四 関白秀次公の御時…(五九頁) 戯言養気集に類話が載るが、夜食の話の後に、更に盛阿弥の話を付加してある。ぬしやの盛阿弥所へ、駒井中務少輔・吉田益庵なんどふるまひに参られし所に、昼のころ、自ぢうばこを持出、「夜食を一つ申さう」とて、ひらひたを見ればもちなり。又ある時、関白秀次公、尾張の国はいりやうなされ、清す城におはしまし候を、京よりをのく見まひ申、一礼事おはつて、みな物かげに引へたり。やゝ有て、たれかれとめし出され、あとに盛阿弥計のこりしを、「それなるはたれぞ己と仰られしかば、「貴老で御座有」とて出た。中々大笑になり、かへつてしほらしう物あつた。或日、此ぬし屋は秀吉将軍御なんぎの御ちんを度々みまひ申たりし時、「天下大平に治めなば、なんぢに京中のぬしのとうりゃうをおほせ付られ候はん」との御やくそくにより、事外とみさかへしかば、「貴老次第御茶申さうと」文にしありしを、盛阿弥のから名とおもひ侍りしなり(下巻)。 醒睡笑では、足利時代の盛阿弥のことは既に一般の人に、耳遠くなったためか、彼の話ではなくなっている。 小豆餅のあたたかなるを、夜咄のもてなしにいだす。其席に、おく山の老ありし。中老ほどの人餅を見るく、「とかく夜食はおほくくふが毒にてある」よしいふをきゝ、「さては餅の事ぞ」とおもひ、彼山賤在所にて、昼の雑掌に大豆の粉をそへ餅をいだす時、「かまへてみなおきゝあれ。さる人のいはれしが、此夜食はおほくくふが毒にて候」と(巻三、不文字)。 三五 盛阿弥(五九頁) 姓氏不詳。名は紹甫。秀吉より天下一の称を賜わる。子孫三世みな盛阿弥と称する(工芸鏡、塗師伝)。将軍や大名衆の所に出入していたのだから、かなり腕のよい塗師(この頃から漆蒔絵の技術が発達して漆塗が流行)だったようである。しかし、技芸にはすぐれていても奇行が多く、間がぬけていて、憎めない愛すべき人柄(戯言養気集)で、当時の人々の間に、よくその奇行、逸話が話柄とされていたらしい。 三六 物事にこばしだてなる人…(五九頁) 戯言養気集では、次の29話と一緒になっている。戯言養気集の話を昨日は今日の物語の筆者が二話に分けたとも考えられるが、醒睡笑には28話のみ、寒川入道筆記には29話のみが載ることよりすれぽ、やはり戯言養気集が、当時行われていた二話を一話にまとめたと考えてよかろう。 なりふりにも似ずして、こびたがるものあり。れき<夜ばなしのざしきにて、夜半のかねを聞て、「いざ<皆<御かへりあれ。はや遠寺の晩鐘がなる」と云た。右の人の方へ薩摩へ下る人、いとまごひに参りたれば、「さて<遠国へ御大義にて物ある。自筆に御下か、又あなたよりのまかなひか」と被申候間、「御心安かれ、むかひ舟が、ふしみまで上りゐたる」と申時、「車力」と云、「かた%\能御仕合ぢゃ。頓て帰朝あれ」と也。評して云、よき人をば小人いやがり讒しけるを、君主用ゐて打きり、其職を小人に云つけられ、大なる損をなされ候は、五六石もなりししぶ柿をきつて、即その木のほをつぎたるにおなじ。噫、こびたがる者は、内に智恵ともしきによるか(下巻)。 醒睡笑には、 「八景のうちに遠寺の晩鐘とは、村里とをき山寺に、入あひの鐘のこゑ、つく%・きくもおもしろや」などいふを、こびたる事と思ひゐしが、ある時客に寺へ行、夕陽西にかたぶく比より碁をうち始、火をともせどもたつ事をわすれたるに、「初夜の鐘もはやとくなりぬる」とはいはいで、「もはやみなおたちあれかし。遠寺の晩鐘もとくなつた」と(巻三、不文字)。 なお、片言にも似た話が載るが、これは遠寺の晩鐘を題材にしているだけで、趣向は全く異っている。 一、ことふりたる物語なれど、むかし<有所に、八景をゑがきし屏風のありしを、人<見て誉侍ける中に、ある人、遠寺の晩鐘といふべきを、げんじのぼんしやうといはれければ、そばより又こざかしき人のさし出て、「こなたに侍るは平家の落雁なり」と、口とく対句にかたことしければ、人<興じけりといふ物語を又ぎきに聞て、評判しけるは、「かのこざかしかりし人の後に云るは、平砂の落雁にてこそ有べけれ。平家のといへるこそ猶かたことにて侍れ。いかでこざかしき人とはいふべきぞ」といへりしこそ、笑止におかしかりけれ(第五)。 三七 ある人の所へ、西国へ下とて(五九頁) 戯言養気集の話は前注参照。寒川入道筆記は、これが更に二話に分かれている。文盲なくせに気取ったことをいいたがる人は、いつの時代にもいたらしい。 一、われら九州へ下りさまに、去人のもとへいとま請にゆきて、しか%\といふたれば、亭主出合て、「扨々遠国、殊海上御太儀じや」と云、「自筆に御くだりか」ととふ程に、「心安思召候へ、迎舟が伏見までまいつて候」と云へば、「扨は心安存候。総別あの舟の車力が造作な物じやによき御事や」。 一、右同前の様成人の方へ、筑紫へ下りがけにいとまごひにゆきたれば、文盲者出合て、「いつ比迄の御逗留ぞ」ととふ程に、「一両月の間」と申候へば、「随分いそぎ御帰朝候へ」と申された。をかしさはかぎりなし。 三八 有夜、秀吉公、夜食に…(六〇頁) 学本は「ある人四方はいを見物に参り」として、「うすゞみにかくまゆしろきそばかほをよく<みれば御門なりけり」とある。 戯言養気集には、狂歌の次に蜂屋頼隆が秀吉に検地を取止めるよう進言した長い話が載り、更にその検地帳まで長々と載せている。いかにもお伽衆の作った話らしい。もちろん、この検地帳は、笑話としては無意味冗長な蛇足だから、本書では、諸本すべてこれを省いている。 検地わびことの事 有夜秀吉公御前にして、御とぎ衆へ、そばがきのれうりをおほせつけられしかば、長岡玄旨 うすゞみにつくれるまゆのそばかほをよく<みればみかどなりけり と侍られければ、事の外御きげんよろしくなりぬ。蜂屋出羽守よきしほあひと思ひ、けんち御ゆるし候やうにとの事を一つ書にして、 一、今度御検地、上下共に痛申事大かたならず候。万のいたみ連々に積りもて行、発しては本へ帰るやうに覚へ申候事。 一、士民にかぎらず、はいとくの地をかゝへ持候へば、老後のたのしみ、其中に有て、人心清らかに、へつらふ心もうすくあるべき事候。 御ゆるしなく候はゞ人の気味、年々にいやしくなり、至誠の者御座有まじき事。 一、是非ともにけんちなされ候はんならば、せめてやしき分をば御ゆるし候てよろしく御座候はん事。 右の一書を以て諫申ければ、秀吉公 蜂屋出羽検地ゆるせとさしていへどそらうそぶひて聞ぬ関白 との給ひて、いかゞあらんとの御だんかうありしが、終には好方のつよきにひかれてやまず。 前関白秀吉公御検地帳 〇五畿内 二十二万五千三百石 山城 四十四万九千石 大和 二十四万二千百石 河内 十四万千五百十石 和泉 三十五万六千百石 摂津 (以下、東海道十五力国・東山道八力国・北陸道七ヵ国・山陰道八カ国・山陽道八ヵ国・南海道六ヵ国・西海道十一ヵ国の厖大な検地帳が載り、更に検地についての評言まで加えられている。) かかる厖大な検地帳や検地についての評言が加わっているところ、戯言養気集がお伽衆の手に成ったかという推定を強める。 なお、池辺義象氏の「細川幽斎」には、次のごとく、内裏での話となっている。狂歌の意味よりすればこの方が自然だが、何に拠ったか。 「ある時、内裏にて、そばねりを賜はりければ、 うすゞみをつくりし人のそのかたちよくく見ればみかどなりけり」。 三九 小ちご、里より御帰りありて…(六〇頁) 戯言養気集では、続いて消化剤など飲まないようにとある。 世中おもてうらなる事有。ざとうの坊の心よきと、大ちこの利はつなるがある。ひゑの山にての事なるに、小児をりんばうへしやうだいし、もちを出し候へば、事外物かずを遊ばしかへり給ふて、なんぎなされ候声、いとおびたゝし。則大児参られ、「なふ<何と御座有」と申されければ、「無理な事にあひ、もちを過し、胸がやくるやうに御座ある」と仰候へば、「あこも参、類火にあひなん物を」とくやまれ、「かまひてく消食丸などきこしめし給ふな。頓てけんに御つきあらんほどに」(上巻)。 醒睡笑では反対に大児が餅を食べ過ぎたことになっている。 今朝とくから北谷へ大児のよばれておはしたるが、春の日のながきも、あそぶ時にはみじかくおぼゆるはつねのならひ、夢ばかりに事さり、夕陽西に入あひのなる比、わがすむ坊にかへり、おきてみつねてみつ、くるしさうにいたはられけるを、小児みかね、「そなたの煩はこゝちいかゞある」ととはれし。「たゞけふのもてなしの餅をくひ過して、むねのやくるがくるしい」といはれしを、「われもちとそのるいくわにあふて見たいよ」と。余義もないのぞみですよ(巻六、児の噂)。 四〇 一見卒塔婆、永離三悪道…(六〇頁) 卒都婆小町などにも引かれているので、古くからよく唱えられた四句偈らしいが、出典不詳。卒塔婆建立の功徳を説いた「造塔功徳経」「造塔延命経」にも見えぬし、「浄土三部経」にも見当らない。織田得能の仏教大辞典にいうごとく、かかる経文はなく、後の人が作って、経文同様に唱えられるようになったらしい。 四一 情がこわうて(六一頁) 日蓮宗徒の強情なことは、「情強宗門」(じょうごわしゅうもん)などと言われ(狂、宗論)るほど有名であった。「ほつけ衆門に衣をほし置て 法(のり)のこはさよじやうのこはさよ」(犬筑波集)、「じやうごはになるな鶯ほう法花経」(犬子集)、「それほどじやうがこわくては、はやほつけであらふといふた」(私可多咄、三)。 四二 秉払に、西国の僧、東国僧に問うて云…(六一頁) 戯言養気集には、問答の後に、その説明も載っている。 西国よりひんぽつに上りぬる僧、心のまゝに万相調、下り用意せし処に、関東の僧問、「筑前・筑後あつてちく中なきはいな事ぢや」と、ほんしやりととひ侍る時、「されば候。上野・下野のごとし。昔日本三十三ケ国なりしを、六十六にわりなほしぬる時、其国長く候へば中の字をくはへたる事ありとみえたり。備中・越中のごとし」と答へた。評して曰、これはがくもん上をばはなれ、そさうなる事を以てつまんで見たか(下巻)。 四三 五百八十年(六三頁) 結婚など末長くつれ添う時に、縁起の数として用いられたらしく、室町末期の文献にしばしば見える。「五百八十年も連れ添ひませう」(狂、かくすい聟)、「五百八十年・万万年も、御福貴・御繁昌の御座敷でござるよ」(狂、居杭)。また、室町末古写本の「石原流口伝献立の事」の祝儀の飾りにも、三方の上に餅を五百八十飾って盛るとし、その図まで載っている。なお、これは江戸にも行われたらしく、御当代記、貞享二年二月二十二日の、将軍の娘鶴姫が、紀州家へ輿入する時の記事に、二、廿三日、紀の国御三ッ目の御祝行、五百八十の餅、大さ八寸四方、こうもり高のぞなへ四十八づつ入たる箱十二、内へ大豆の粉を奉書の紙にて砂金づつみにして水引にてゆふ」と見える。なおまた、けいせい反魂香にも「今日は五日め、五百八十の餅をついて、里帰りと言ふこと、縁辺の式法なれども」とある。女が嫁入してのち、三日或いは五日目に、末長きを祝って五百八十箇の餅を作る風習が、少くとも徳川中期ごろまで行われていたことがわかる。 四四 三井寺の法印…(六四頁) 戯言養気集には武士と児たちの歌とし、終りに武士の歌と、更に例によって評言を付している。 うたの事 ある山寺の児たちにあはんとて、武士衆登山有けるに、二たび物おもふといふだいにて歌あり。 春は花秋はもみぢを散さじととしに二たび物思ふなり 大ちご 朝めしと又夕食にはづれじと日々に二たび物をこそおもへ 小ちご かくて武士衆へも所望ありけれぽ、取あへず、 国を望み国を取ては乱さじとさらに二たび物おもふかな 評して云、かなしひかな、二たび物を思はざりしゆへに、うき事をのみ万人につたふ(上巻)。 醒睡笑では、最初の一首のみ同じで、更に二首を付す。しかし笑話一般の読者には、和歌は既にあまり興味がなくなってきているので、本書では省いたのであろう。この点「醒睡笑の方が編者策伝の古典的教養や趣味を反映し、古典的な古体を示しているわけである。 山の一院に児三人あり。一人は公家にておはせし。坊主、「年に二度物思ふ」といふ題を出せり。 はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな 一人の小児は侍にてありし。「よるは二度物思」といふ題なり。 宵は待あかつき人のかへるさに夜は二度物思ふかな いまひとりの児は中方の子也。「月に二度物思」といふ題にて、 大師講地蔵講にもよばれねば月に二たび物思ふかな (巻五、人はそだち) 四五 ちご、法師よりあひ…(六四頁) 戯言養気集では、「横川の中将」なる固有名詞が見えるが、本書と醒睡笑ではこれが省かれて、一般的な話になっている。 ちご、法師よりあひ、寒夜をなぐさまんとにや、でんがくをさんせうからにして、あぶりけるが、「いざみつはねたる事を云くはん」とて、うんりんゐんの、こんげんたんの、なんばんじんの、せんさんびんのとて、めき<としやうぐはんすれど、小児計一も得いはず。やう<のこりすくなになれば、思ひ出したる事有とて、きほひかゝりつゝ、「でんがんくん」と云もあへず、五くし六くし引たくり、くはれたれば、横川の中将殿けうさめがほに成て、「一段たつしやに御座ある」といはれた(上巻)。 豆腐二、三で(て)うを田楽にせしが、人おほなり。「いざむつかしき三字はねたる事をいひてくはん」と義せり。雲林院、根元丹、せんさんびん、さま%\いひつゝとりて、みなになるまゝ、小児たへかねて、「茶うすん」といひさまに、二つ三つとり事は(巻六、若道不知)。 四六 又、ある夜、田楽をして…(六四頁) 戯言養気集に類話があるが、話もやや異ると共に、侍従殿云々とした部分が加わる。しかし、この場合、かえって話にリアリティが加わって、本書より面白くなっている。 又ある時でんがくあり。今度はしゆうくにて物せんとて、 清盛ひさうの長刀 大ちこ なぞ< しつくしまでたまはつた 仏のあたま 侍従 何ぞ< みくし いしやの本尊 小児 なぞ< 八くし 侍従殿少腹立して、 とか 小ちごさまは、物かずをすかせらるゝ」と申された(上巻)。 また醒睡笑では、比叡山北谷持法坊と、特定の場所における老僧と児の話となり、本書や戯言養気集に見えない後話がついて、話としてはまとまりもよく、完成した形になっている。 比叡山北谷持法坊に、児あまたあり。冬の夜、豆腐一二てうをもとめ、田楽にする。老僧いひ出されけるは、「をの<しうくをいふてくふべし」と。大児やがて、「われは仏のつぶりと申さむ」、みくしとりてのく。又ひとりは「八日の仏」とてやくしとりたり。後に小児屏風のかげより出るをみれぽ、髪をはつとみだし、たすきをかけ、左右の手にて目口をひろげ、「われは鬼也。みなくわふ」と、ありたけとりたれば、詮方なさに坊主はふるきてぬぐひを頭にかぶり、手を指出し、「乞食に参りた。一つあておもらしかしあれ」と。老僧のはたらき三国一(巻六、児の噂)。 四七 清盛の長刀 なんぞ(六四頁) 清盛があまり横暴無道なので、今まで庇護してくれていた厳島大明神からさえ見放され、やがて平家が没落することを暗示した插話だが、普通の平家物語の本文には見えない。しかし、その異本(本大系、平家物語上、校異補記、巻五、九参照)には、「巻五 物怪之沙汰」の所に次のごとくある。「それにふしきなりし事には清盛公いまた安芸守たりし時しんはいのつゐてにれいむをかうふて厳島の大明神よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたすたてられたりしかある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ」。なお、この話によれば、平家物語のこの一異本は織豊期から近世初期には、かなり一般に語られていた一証となる。 なお、厳島神社と平清盛とは縁が深い。即ち、厳島神社は、広島県佐伯郡宮島町にあり、市杵島姫命一座を祀る。延喜式に伊都伎島神社とみえる。創立年代未詳であるが、推古天皇の御宇、宗像大神を勧請したという。結局、宗像神社と同じく、海上交通の守り神だったので、瀬戸内海方面を勢力権としていた平家一門が、これに深く帰依することとなったらしい。平家物語によれば、平清盛の一族が殊に本社を崇め、治承二年六月中宮御懐妊の時には清盛はわざわざ奉幣して、皇子が生まれるようにと祈願し、月ごとに厳島に参詣した。治承四年九月には後白河法皇も清盛のために本社に行幸されている。これは、清盛がまだ安芸守の時厳島明神夢に長刀を授けて、「汝これを以て朝廷を護り奉れ、もし不徳の行為ある時には子孫が絶えよう」と教えられた因縁による。だが、清盛は勢力を得るに及んで非行が多く、ついに一族悉く滅亡し、まことに神のお告げのごとくであったという(平家物語)。 四八 一夜の間に鼠が巣をかけ(六五頁) 平家物語、巻五「物怪之沙汰」のはじめに見える次の話をいう。「福原へ都をうつされて後、平家の人々夢見もあしう、つねは心さはぎのみして、変化の物どもおほかりけり。…其外に、一の厩にたててとねりあまたつけられ、あさゆふひまなくなでかはれける馬の尾に、一夜のうちにねずみ巣をくひ、子をぞうんだりける。「これたゞ事にあらず」とて、七人の陰陽師にうらなはせられければ、「おもき御つゝしみ」とそ申ける。この御馬は、相模国の住人大庭三郎景親が、東八ヶ国一の馬とて、入道相国にまいらせたり。くろき馬の額しろかりけり。名をば望月とぞつけられたる。陰陽頭安倍の泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、竜の御馬の尾に鼠すをくひ、子をうんだりけるには、異国の凶賊蜂起したりけるとそ、日本記にはみえたる」。 四九 もの忌みする人、下人をよびよせ(六五頁) 戯言養気集・醒睡笑では、いずれも「なげきをする」話の前に、「餅を焼き申そう」と言って、主人を立腹させたことになっている。話の系統からすれば、戯言養気集−醒睡笑で、本書はこれと異る系統になるわけである。 物いまひの部 ある人、下人をめしよせ、「明日は元日にて有ぞ。わか水をむかへよ。式(或)は御いはひのおかゞみふくためよなんど云物ぢやぞ。かまひてぬかるな<」とをしへけり。扨朝とくおきて、「かの事申、だんな殿のきげんよくせん」と思ひ候へ共、打忘て、「坊さま<、もちださしませ。やき申さう」と云たれば、以外腹立して、まくらを取てなげつけ、いきまきてみえしに、あまつさへ、「こゝなお坊主のなげきはやい」といふた(上巻)。 醒睡笑では、戯言養気集より大分文体が新しくなっている。間のぬけた仲間を、わざわざ奥州者と設定したのも、前者の古拙を脱し、新しい進展が見られる。 陸奥の者を中間に置たり。亭主大晦日に、「明天早朝には、何事をも祝言計いふべし。あやまつて不吉の儀いはぬやうに」とそをしへける。件の男手水をつかひさし、「餅ぶんだしなされよ。やき申さう」といふ。亭大に腹をたて、いろりのきはにありし木をうちつけたり。中間かさねて、「爰な旦那のなげきしなさるゝはの」(巻一、祝過るもいなもの)。 五〇 若水をむかへよ(六五頁) 元旦に若水を祝う風習は、中古から宮中にあり、のちには一般にもこの行事が行われた。この水で歳神への供え物や家族の食物を炊き、口を清めたり茶をたてたりする。こうすれば年中の邪気を払うという。なお、この話にあるように、若水を汲むにはいろいろの作法・風習があり、井戸水を汲上げる時には、縁起を祝って「福どんぶり、徳どんぶり」「福くむ、徳くむ、さいわいくむ」とか、めでたい言葉を長くつらねたりする風習があった(西角井正慶「年中行事辞典」)。 五一 御ちごさまは大上戸ぢや…(六五頁) 戯言養気集に、殆んど同文で載る。 ちごの事 ある人、「お児さまは、むまれつひた大上ごぢや」と申たれば、「いやそれほどにもおりなひ。但しちぶさにも、さけをぬらねば、のみかねたるなど、ちいが申た」(上巻)。 五二 しやうじ一大事、味嚼で御座候(六六頁) 醒睡笑に、前半の話はないが、次のごとく見える。 弘法大師入唐の時、僧来て問、「如何なるか、是しやうじ一大事」。大師答云、「味噌よく」(巻六、児の噂)。 しかし、これでは単に話柄となっても、笑話にはならない。その点、本書の方が、笑話としての構成がしっかりして、笑話として完成しているといえよう。 五三 生じのしたて(六六頁) 「精進(しゃじん)といふべきを、しやうじといふはくるしからずと云り。然れども生死(いきしに)の声に紛るゝゆへにしやうじんといひ来れる歟。されども下略なれば、はねずとも苦しかるまじ。その所によるべきこと葉歟」(片言、巻一)。 五四 此貝は、目の薬ぢやと申が(六七頁) 鮑は本草では石決明といい、よく眼疾を癒し千里の光を得るから「決明」という、とある。わが国でも古くから眼の薬とされたらしく、「食v之心目聰了」(和名抄)と見える。下って「類船集」にも、鮑の付合として「目薬」をあげている。 五五 御前なる額を見て(六八頁) 住職にも問合せたが、現在は誓願寺に「南無阿弥陀仏」の額がないというし、その話も聞いたことがないという。しかし本書の頃には、堂内に一遍上人筆といわれる「南無阿弥陀仏」の額が飾られていて、かなり知られていたらしい。「山州名跡志」には次のごとく見えている。「○誓願寺 在2京極三条南六角通東1。…堂同額(当寺再興大施主、大相国北御方、佐々木京極女、為二世安楽也) 大覚寺空性法親王筆 ○堂内額 南無阿弥陀仏一遍上人筆(額由縁在縁起。又在謡曲、所知世也)」(巻之二十、洛陽寺院、誓願寺)。 即ち、謡曲「誓願寺」に、和泉式部の霊が出て、一遍上人に、誓願寺という額を除け、上人自筆で六字の名号を書いて額とせよといい、その通りにすると、異香薫じ花が降ったという話がある。かかる謡曲があることよりすれば、室町の中期から山州名跡志の出来た江戸初期、つまり本書の出来たころには、誓願寺には、南無阿弥陀仏の額があったはずである。また、空性上人筆の額はこの話の頃まだなかったのであろう。 「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け、上人の御手跡にて、六字の名号になして給はり候へ」「これは不思議なる事を承り候ものかな。昔より誓願寺と打ちたる額を除け、六字の名号になすべき事、思ひもよらぬ事にて候」「いやこれも御本尊の御告と思し召せ」「そも御本尊の御告とは、御身はいづくに住む人ぞ」「わらはが住家はあの石塔にて候」「不思議やなあの石塔は、和泉式部の御墓とこそ聞きつるに、御住家とは不審なり」…仏説に任せ誓願寺と打ちたる額を除け、六字の名号を書きつけて、仏前に移し奉れば、不思議や異香薫じつゝ、不思議や異香薫じつゝ、花降り下り音楽の声する事のあらたさよ。これにつけても称名の心一つを頼みつゝ、鐘うち鳴らし同音に「南無阿弥陀仏弥陀如来」「あらありがたの額の名号やな。末世の衆生済度のため、仏の御名を現はして、仏前にうつすありがたさよ。われも仮なる夢の世に、和泉式部といはれし身の、仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり」(謡、誓願寺)。 五六 子昂が石摺(六八頁) 趙子昂の字は、本書が行われたころから江戸時代にかけて、わが国でも高く評価されていた。また、中国の名筆の石摺は、書道の手本として珍重された。「槐記」にも次のような記事が載る。「筆意ヲ得ント欲シテ、石摺等ノ跡ヲ見テハ、筆意ハ得ラレソモナキモノニ非ズヤト存ズ。板行・石摺ヲ習フハ、形ヲ習フニ非ヤト申シ上グ。仰ニ、イカニモ筆道ヲ知ラズ、筆意ノ合点ナシニ、板行ノモノヤ石摺ヲ習フハ、形ニナル。筆意ヲ得テ、子昂ハコゝノ筆意ヲ得テ書タリ、其昌ハ彼ノ骨子ヲ得テ書タリト合点シテ、板行デモ石摺デモ見レバ、明ニ弁へ知ラルゝ、ソコヲ習ヘバ好シ。正筆也トテモ、ソコナシニナラヘバ、形ヲ似スル外習フベキ様ナシ」(槐記、享保十二年、閏正月二十八日)。 五七 昨日、日吉大夫勧進能に…(六八頁) 戯言養気集・醒睡笑も本書の話と近く、共に日吉太夫の能になっている。ただ、さすがに文体には新旧の差がはっきりしている。 「昨日、日吉が能に、すみだ川をしたりければ、しばいの心ありし人おほく鳴たるが、取分こしかたなど思ひ出てよとみえ侍りつるも有し」となり。かたへの人聴て、我も今日は見物し、なかんとていそぎ参りけるに、をきなせんざいふ過て、さんばさ(う)出たれば、さめ%\と啼出た。あたりの人の「何事にやなき給ふぞ」と云たれば、「あのすみたがほを見て、たれがなかぬものがおちやらふか」とて、しく<と又鳴た(上巻)。 「昨日、日吉太夫墨田河をして皆になかせたは」とかたるを聞、つゐに能といふ物を見た事もなき者、あけの日早朝に行しが、翁、せんざいふをしまひ、さんばさうの時さめ%\となく。見る人「是は何事にや」と問に、「あの墨田河があはれさになく」といひしは(巻四、そでない合点)。 なお、日吉太夫は日吉空庵か。空庵は将軍足利義昭。信長、秀吉時代に活躍。しばしば勧進能をしたという(近代四座役者目録)。 五八 勧進能(六八頁) 雍州府志に、「凡そ勧進能と称するは、中古以来沙門堂塔建立の時、芝居を構へ、必ず観世大夫を請して、猿楽を催ふす。其の始北山鞍馬寺に僧あり。青松院法師善成と号す。云云。鞍馬寺を再興せんが為に、観世大夫を只洲河原に請して之を催ふす。是れ勧進能之始なり。勧進とは人を勧めて善に赴かしむるの謂なり」という。しかし、勧進能の起源は更に古く、「花営三代記」に、これより四十余年前の応永二十八年に勧進田楽のあったことが見えている。また、平家勧進などもあり、もとは社寺の建立や修理の費用を集めるのが目的だったが、やがては入場料をとる興行すべてを勧進ということになったらしい。ここでも特別に社寺のための興行でなく、芝居、即ち見物席の広場を作って入場料をとった演能であろう。もっとも江戸時代になると、諸制度が整備して、勧進能については、種々やかましい規則が出来るようになった。 五九 御ちごさまのお里が不弁さに…(六八頁) 醒睡笑に類話がある。 まことわびしき親をもちたる児のありつるを、小師の坊あはれみて、「是のお児はおいとしやな。里が無力なれば、ちともはれがましき事といふには、なにかかりめされぬ物はない。おぬしの物とては唯一いろある、しじ計じやの」といひける時、「いや、それも人が見ては、「お児のしじにはころ過た。そなたのではあるまい」といふほどに、あこが物とおもはぬ」と(巻六、児の噂)。 六〇 天竜寺の策彦和尚へ、信長公…(六九頁) 戯言養気集には次のごとく、はじめに当時名僧として名高かった貞安との問答、終りにいかにもお伽衆の話らしい信長の家臣評が加わる。また、年代が天正八年と明記されているところ、この話が信長の近くにいたお伽衆によって作られた原型、乃至はそれに近い型を伝えていることを推測させる。 大小のちこ利どんの事 天正八年の春、貞安、あづち山へ出仕申されしかば、信長公おねんごろ有て後、御ふしんなされけるは、「世間おほく小児をば、りこんに、大ちごはおろかに云ならはし候。大ちごも小児の成上りなり。ちいさき時さへりこんならば、大になる程、猶<りはつにこそなるべけれ。いな事ぢや」とのおほせなり。貞安、「御尤の御ふしんにて候。大ちごはぬるし、やうたうにちかうなるゆへにや」との返答なり。又嵯峨の策彦和尚へ御ふしんなされしかば、「愚僧も、さやうに存候。大かたすいりやう申候に、小ちごの間は、いまだ里心御座候故、武家のりはつ、さいかく、身にも心にもつきそふておはしまし候ゆへならんか。ひたもの寺じみてのちには、長袖のぬるきたちふるまひを、みなれ聞なれ、をのづから心おとりし侍るか」とこたへ申されければ、事外御ゑつきにて、「一段尤の返答ぢや。出家にも、それ%\のたちが有」とて、評しておほせけるは、「一、佐久間が家来の者は、大りやく、しとやかに分別も有そう也。一、滝川家来の者は、土(士)風きらよく、丈夫にあるべきやう也。一、柴田家来のものは、どこかも、むたいにおし破りさうなり。とかく人は、かしこきになれずは、中々よきしなは出まじき物なり。又其国の風あり。その時の風あり」とのたまひし(上巻)。 天竜寺は五山の第一の大寺。天竜寺船を出したり、室町後期には殊に勢力が盛んであった。従って、その住職となった策彦は、禅僧としては最高の地位にあった。 策彦(一五〇一-一五七九)は、名は周良、丹波の人、鹿苑寺の心翁等安に師事、天文六年大内義興の命で入明、同十六年再び遣明使、明の世宗に優遇される。帰来後天竜寺妙智院に住し、信長のため明の風俗をしばしば説き、その諮問に答えた。また信玄の請により恵林寺にも転住、再び妙智院に帰り、天正七年没、七十九歳。初度集・再度集・謙斎詩集等の著があり、当時第一の詩僧でもあった。 六一 婿入(七一頁) 古く行われた婿入婚の名残りで、中世以来、嫁入婚の流行によって衰えたが、この頃も未だ婿が嫁の里に行く礼式は行われていたようである。「婿入之事、むかしは三つ目の祝ひ過ぎて、婿舅の方へ行きし也。…近代は婚姻より前に婿入りをする事になりぬ」(礼容筆粋、婚礼之次第)。 六二 六斎念仏(七二頁) 和歌・和讚・念仏などを節面白くとなえ、拍子にあわせて熱狂的に躍る躍り念仏。中世初頭以来、京都を中心にして広く行われた。「毎月斎日ごとに、太鼓・鐘をたたき念仏唱へ、衆生を勧め給ひて、往生する人のある時は太鼓・鐘をたたきて念仏を申し、有縁無縁の弔ひをなし給ふなり。是れに依りて俗呼びて六斎念仏といひ伝へたり」(空也上人絵詞伝、下)。 六三 有若衆に貧僧がうちこうで(七二頁) 醒睡笑に類話。他の話よりも、この話では両書かなり近い型になっている。 貧なる僧の打ほれて知音する若衆に、大名の執心せられ、定家の色紙を出されたれば、坊主もまけじとおもひ、弘法大師の筆といふなる心経をやりぬ。重て大名より、刀脇差を金づくりにして送られしを見て、坊主のよめる、, 何事も人にまけじと思へども金刀に手をぞつきける(巻六、悋気) 六四 山寺の沙弥が御ちご様へ…(七三頁) 戯言養気集に類話。 山寺の下ほうし、「お児さまへおそれながら、御無心申たき事御入候」よし云しかば、情をかけよとの事なるべしとおぼしめし、「さても<やさしき事を申物かな。何時なりともやすき程のことなり」と仰ければ、「かたじけなく存候」とて、ほゝゑみけり。有とき院主、里坊へ御下候へば、かの者ぢうばこを持てしかゝり、「御やくそくにまかせ申上候。めんざうにあるみそを、これに一ぱいをしつけて御ぬすみ候てくだされ候へ」申た(上巻)。 六五 餅や饅頭に核があらばよからう(七四頁) 醒睡笑に類話。 大児と小児とひたひをよせあはせ、おかしき物がたりしてあそばれけるついで、大児くちずさびに、「餅はくふ時さねがなふて、おもしろひ物じや」と有しを、「いや、たゞわれは餅にさねがあれかしと思ふよ。うへてをきてならせてくひたい」(巻六、児の噂)。 六六 そこつなる若衆、餅をまいるとて…(七四頁) 戯言養気集に類話。前半がややくどくなっているのが、昨日は今日の物語においては、さすがにすっきりした形に整理されている。 もちよく身をせむる事 大ちごさま、三位殿にのたまひける、「今日は一だんなるき日にて有やうなるが、さもあらぬや」とつきなくおほせければ、心へたる人にて、もちたんととりよせ、ひそかに物しければ、あまりふためいて、物かずをめされけるほどに、のどにつまり、きち<とめされけり、一山のしゆう見まひ、せうしがりて、日本一のまじなひてをやとひ、此よしかくと申せば、即まじなふに、りうごのごとくになりしもち、二けん計さきへとんで出しかば、皆<「めでたひ事ぢや。さりとては、じやうず程有」とかんじけるに、大児、心もいまだつくやつかざるほどなりしに、「おなじくは内へまじなひ入たらば、日本をおきぬ、三国一であらふ」とおほせられた(上巻)。 醒睡笑では、策伝の弄文の癖がついあらわれたのか、全文七五調で綴っている。 児たまさかの里くだり、ころしも秋のなかばとて、民のかまどはにぎはへる、煙たつ田のもみをひき、米をしろめてつきうすや、誰もしるこの餅のをと、きねの神垣へだてなく、なみゐて是を賞翫す。笑止は児の餅にむせ、目口をはだけ悶ゆれば、父母は歎に沈つゝ、せんかた涙なりつるに、山伏かけでとをりあふ。たのみて祈念するほどに、栗ほど餅が喉よりも、ひよつといづればいろなをり、心安さに児のいふ、「とても行者の寄(奇)特ならば、いのり出せし其餅を、ま一度いのり入給へ」(巻六、児の噂)。 六七 りうこのごとく(七四頁) 竜虎が相争い、くんずほぐれつ勢いよく格闘する様をいうと思うが、或いは戯言養気集に「りうご」とあるから、輪鼓(りうご)のごとくか。輪鼓は、平安朝時代の散楽の曲芸の名称で、後には田楽などにも用いられた。輪鼓とは、普通の鼓の胴の中のくびれた形をいう名称で、独楽の一種にかような形をしたものがあり、その中くびれの箇所に紐を巻きつけて回転させ、或いはこれを空中へ投上げてまた紐で受取り、絶えず中くびれの所を紐で受取るようにしてみせた曲芸。すれば、この曲芸で空中に投げ出される輪鼓のごとくにの意か。 六八 有若衆の念者と寝て、暁方に…(七四頁) 戯言養気集では児と和尚の話になり、また熨斗付でなくて小袖と餅をねだるなど、多少の異同があるが、筋の運び方は全く同じ。 おちごさま、山上一のとある二和尚とね給ひて、大いきをつゞけさまに十計つき、「いや<」と仰けるを、「なふ<何事ぞ<」とほうゐん申され候へば、「はもじなる夢をみて」と計ありしを、「先御かたり候へかし」と仰せければ、「小袖を二つ三つ御きせ候て、その後もちを事外しゐさせられ候つるを、つよくしんしやく申たるやうに覚えて、ゆめさめたる」とのたまひけるを、「そふじて春のゆめは、あひかぬる物じや。御心やすかれ」と申された(上巻)。 醒睡笑には、やはり若衆が夢にかこつけて物をねだる話があるが、落ちが異なる。 若衆あり。念者にむかひて、「今夜の夢に鶏のひよこを一つ、金にてつくり、われにたびたると見た」とぞかたられける。「さて<、われもたゞいまの夢に、其ごとくなる物を参らせたれば、いやといふて、それよりやがてお返しありたと見たことよ」(巻二、吝太郎)。 六九 顔色をとろへ、いかにもらう<としたる人…(七五頁) 戯言養気集では、竹田法印でなくて、当時第一の名医として名高かった一渓道三になっており、更に道三の言葉が付加されている。 めづらしき所望 いし道三一渓へ、がん色をとろへたる人来て、「御無心の事に候へども、きこんのおつる薬を、たんと下され候やうに」と申ける時、道三聞給ふて、「これはさてめづらしき所望でおりやる。見かけとは、はらりとちがふた義を承」と仰られしかば、「いや我等の用にては御座なひ。女どもにたべさせたく存候」と申たれば、「何方もさやうにあるや」と大わらひになつた(下巻)。 醒睡笑では特定の名医の名は出て来ず、京の町であった一般的な話となっている。 京の町を「気力の毒かはふく」といふてありく男のすがたを見れば、いかにもやせおとろへ、いろせう<と労療気なり。おかしきものにおもひ、ある処へ「薬をうらん」とよび入、「そなたの風情には、ちがふたる望なり」ととふ時、「さる事有。我等はそなたの御覧ずるにまぎれなし。それがしつれたるをんなどもの気力あまりよく候まゝ、一ぷくのませたふてたつぬる」とそ申ける(巻六、恋のみち)。 七〇 竹田法眼(七五頁) 竹田氏は室町時代における医者の名家であった。初代昌慶は、太政大臣西園寺公経の子。兄が采邑竹田に配流されていたのに従い、この地にいたので、竹田氏を称した。京に帰ってから、軍に従い武勇があったが、儒を学び、また医学を修めて、剃髪、実乗僧都と号した。三十二歳で渡明、金翁道士に医を学び、牛黄円等の秘方秘決をうける。名を明室と改め、道士の女と結婚、二子をうく。明の太祖の后の難産を救い、一服の薬で皇子を生ませ、安国王の称を贈られた。帰朝後、後円融院の病を癒し、のち法印に進む。三子、直慶・善慶・昭慶がおり、善慶は後小松天皇、昭慶は将軍足利義政の病を平癒したので、名医の誉高く、共に法印に進む。京都三条御倉町に地を賜り、住す。天授六年五月二十五日没。子孫道を伝え、世に重んぜられた。この子孫の一族であろう(寛永系図伝・竹田系譜等)。 七一 ある人、十二三なる子を寵愛して…(七六頁) 戯言養気集に類話。ここでは、一般の人の話が、やはり特定の上京の扇やの子お福とし、謡も異なっているが、筋の運びなど全く同じ。 上京の扇やの何とやらん云人、十一、二なる子をひそうして、朝夕うたひををしへけるが、「やがて十月に、寺の百はたごくひにつれてゆかふぞ。よく覚えて、うたへよく」と云ふくめけり。かくて十月にもなりしかば、寺より「十三日には御ちがひなく、いつれも<のこらず御参候へ」との御ゑいかうのふれ有けれぽ、お福をよびつけ、「明日は寺へつれて参り候はん。うたひをよく覚えたるか。かまひてよき時分ににらまふ程に、其時ちやくとうたひ出せ」とくれ%・云ふくめけり。さて十三日に皆<つれだち参ければ、方々のつきあひにて、次第をゝつてなをり候に、先おさなき衆へぜんをすゆれば、かのお福、につことわらふて、「なふとゝ、百はたごとは此事か」と申けり。おや、なんぎして、きつとにらみ候へば、扇をつ取かしこまつて、「いはうなり、心ぞしるき、くもりなき」とうたひ出た(上巻)。 七二 又ある者申やう…(七七頁) 醒睡笑にほとんど同文が載るが、さすがに策伝の文章らしく、「つかせらるる」が「こそつかせ給へ」と、正規の係り結びを使っている。 傍より申けるは、「お公家衆は、鳥獣の名をこそつかせ給へ。まづ烏丸殿、鷲尾殿、鷹司殿、猪熊殿」といひければ、又そばの者、「まだある」「たれそや」「万里(まで)のこうじ殿の」(巻二、名つけ親方)。 七三 烏丸殿、鷲の尾殿、鷹司殿、猪熊殿、…までのこうち殿(七七頁) 烏丸殿藤原氏の一流。日野家の一門。日野資康の三男豊光(正長三年没、五十二歳)が創立。家格はさしてよくなかったが、本書の出来た織豊期から近世初期にかけ、光広(寛永十五年没、六十歳)が出て、官は正二位権大納言に昇り、名家に列せられた。光広は中興の祖というべき人物で、多才多芸、筆跡も巧みだが、殊に和歌は細川幽斎に学び、当時屈指の堂上歌人(家集、黄葉和歌集)として喧伝された。性、奔放豪宕、官女との恋愛事件で勅勘をうけ流されたり、公家でありながら、本阿弥光悦と路上で大喧嘩をするなど(言経卿記)、すこぶる逸話にとみ、当時有名な人物であった。更に孫資慶は後水尾天皇から古今伝授を受け、家集に秀和和歌集があり、その曾孫光栄(ひで)(家集、栄葉和歌集)と有力な歌人を出し、歌道の家として栄えた。明治維新にも活躍し、東京府初代の知事を勤め、伯爵となった。 鷲の尾殿 藤原氏。魚名の家で四条家の一門。権大納言四条隆親の子、権中納言隆良(永仁四年没)が家祖。隆良が京都の東山鷲尾の地(今の高台寺のあたり)に邸宅を構えたので称号となる。家格は高くなかったが子孫相継いで明治に至り、伯爵となった。また鷲尾松月堂古流の插花の祖。 鷹司殿 藤原氏の一家。猪熊関白家実の四男摂政関白兼平(永仁二年没、六十七歳)が家祖。その邸宅が鷹司室町にあったので鷹司を称し今日に至る。五摂家の一として、平安時代以来公卿中に重きをなしていた。 猪熊殿 本姓卜部。天児屋根命の裔で、景行天皇の朝にト部の姓を賜わる。古代から亀卜神職を家職とし明治に至る。猪熊はこのト部家の一支族。兼国二十六代の裔兼充(享保元年没、五十七歳)の時、藤井と改める。卜部姓四家のうち、吉田・萩原・錦織に次ぎ、家格は低い。なお、猪熊殿を藤原家実、即ち猪熊関白とする説もあるが、これは時代が溯りすぎるし、さして有名でもないので、ここではやはり右の猪熊家をさすと考えてよかろう。 万里小路殿 藤原氏。勧修寺家の一支流。甘露寺資経の三男、左京大夫吉田資通(嘉元四年没、八十二歳)が家祖。資通の子宣房、孫藤房が後醍醐天皇の忠臣だったのは有名。子孫相続き家格はよくなかったが、徳川時代には名家の一に列せられた。 なお、公家や京の町の名の訛には、片言に「一、富小路をとびのこうしはくるしかるまじけれど、押小路をうしこうしはわうし」、「浮世鏡第三」に「一、とびのこじ殿 富小路殿」などと見えている。 七四 中むかしの事にや、信濃国にて(七七頁) 醒睡笑に似た話が載る。しかし、昨日は今日の物語の話の方が、山奥の田舎者たる信濃の人とし、魚を尾張の熱田に買いに行かせたところ、リアリティが加わって、面白い話になっている。 山ふかくすむ者、二人つれだち国中に出けり。振舞の膳部に、にしのつぼいりをすゆる。めづらしき物かなとて、ふたりながら、かのにしがらを懐中してかへりぬ。一人は「へふ(く脱力)りといふ物」と、一人は「まどひきといふ物」とあらそひ、「とうげの若太夫こそ、かゝる物をば見知らんず」とてさし出したれば、よく見しりたるかほに、造作もなく、「へふぐりでもまどひきでもなし。にかはづけといふ物候よ」(巻四、いやな批判)。 七五 地震ゆり候明る日…(八三頁) 醒睡笑に類話があるが、昨日は今日の物語の方は、本願寺の門跡にしたので、最後の揶揄がきいている。 三人行合て、一人がいふ、「さて<、昨日のなゆは」。又一人いふ、「なゆではない、じゆしんがほんじや」。今一人が、「なゆやらじゆしんやらしらぬが、世はねつするかとおもふた」(巻三、不文字)。 七六 大ちご小ちご、富士の山に雪の有を御覧じ…(八三頁) 醒睡笑では当時の読者(大部分は京都周辺)に身近な三上山とし、また琵琶湖をとろろ汁に見たてている。 大児のいへるやう、「あの三上山が飯ならば、何とあらふの」とありしに、小児端的の返答に、「水海がとろゝ汁ならばねられもせんや」と(巻六、児の噂)。 七七 童を風の子と申は…(八四頁) 醒睡笑に類話。当時このような謎々が流行していた。謎ばかりを集めた、後奈良院御撰と伝える「何曾」という本もあり、また、寒川入道筆記には、謎ばかり百九条も集めた「謎詰之事」もあり、昨日は今日の物語、醒睡笑をはじめ、当時の諸書にもしばしば載る。 「「わらんべは風の子」と、しか(知る)しらず世にいふは何事ぞ」「ふうふのあひだのなれば也」(巻一、謂被謂物之由来)。 七八 むかし、嵯峨の天皇の時、「無悪善」といふ落書をたてた(八四頁) この話、次にあげるように、江談抄以下諸書に載り、それぞれの書によって、話の進め方、文体が異なるが、宇治拾遺物語が最も本書の形に近いようである。やや長文で煩わしいが、諸書の話を年代順にならべ、話の変化してゆく過程を追ってみよう。 嵯峨天皇御時、無悪善ト云落書、世間ニ多々也。篁読云、无悪【サガナクハ】善【ヨカリナマシ】ト読云々。天皇聞v之給テ、篁所為也ト被v仰テ蒙v罪トスル之処、篁申云、更不v可v作事也。才学之道、然者自今以後可2絶申1云々。天皇尤以道理也。然者此文可v続ト被v仰令v書給。 十廿卅五十海岸香。〈有v怨落書也。〉 二冂口月ハ三中トホス。〈市中用2小斗1。〉 唐ノケサウ文谷傍有欠。〈欲2日本返事1。〉 木頭切月中破。〈不用。〉 一伏三仰不来待書暗降雨慕漏寝(ツキヨニハコヌヒトマタルカキクモリアメモフラナソコヒツゝモネン)。〈如v此読云々。〉 粟天八一沼。〈加坂都。〉 或令為市ニハ有砂々々。 又左繩足出。〈志女砥与布。〉 (江談抄、三、嵯峨天皇御時落書多々事) 今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏にふだをたてたりけるに、無悪善と書きたりけり。帝、篁に、「よめ」とおほせられたりければ、「よみはよみ候ひなん。されど恐にて候へば、え申さぶらはじ」と奏しければ、「たゞ申せ」と、たびたび仰られければ、「さがなくてよからんと申て候ぞ。されば、君をのろひ参らせて候なり」と申ければ、「おのれはなちては、たれか書かん」と仰られければ、「さればこそ、申さぶらはじとは申て候つれ」と申に、御門「さて、なにも書きたらん物は、よみてんや」と、おほせられければ、「何にても、よみさぶらひなん」と申ければ、かた仮名のねもじを十二書かせて、給て、「よめ」とおほせられければ、「ねこの子のこねこ、しゝの子のこじゝ」とよみたりければ、御門ほゝゑませ給て、ことなくてやみにけり(宇治拾遺物語、三、小野篁広才事)。 嵯峨帝御とき、無悪善と書ける落書有けり。野相公に見せらるゝに、「さがなくてよし」とよめり。悪は、さがと云よみの有故に、御かどの御気色あしくて、「扨は臣が所為か」と仰られければ、「か様の御うたがひ侍には、智臣朝にすゝみ難や」と申ければ、御かど、二伏三仰不来待、書暗降雨恋筒寝」とかゝせ給て、「是をよめ」と給はせけり。「月夜には来ぬ人またるかきくらし雨もふらなむこひつゝもねむ」とよめりければ、御気色直りにけりとなむ。「落し文は、読ところに咎有」と云こと、是より始るとかや。童部のうつむきさいと云物に、一つふして、三仰けるを、月夜と云也。抑、此歌古今集に、よみ人しらずとて入り。嵯峨帝より後人よみたらば、此儀にかなはず。若御かど始て作出給へるを、彼集に入たるにや。又前代より人のよみおける古歌歟、不審なり(十訓抄、七、無悪善の落書、一伏三仰の詩歌)。 嵯峨帝御時、無悪善とかける落書有けり。野相公に見せらるゝに、さがなくてよけむとよめり。悪はさがとよむゆへ也。御門御気色あしくて、扨は臣が所為かと仰られければ、か様の御疑侍らむには、智臣朝にすゝみがたくやと申ければ、一伏三仰不来人待書暗雨降恋筒寝とかゝせ給て、是をよめとて給はせけり。「月夜には来ぬ人またる掻曇り雨もふらなん恋つゝもねん」とよめりければ、御気色直りにけりとなん。落ぶみはよむ所にとがありと云事はこれより初るとかや。わらべのうつむきさいと云物、一ふして三あふげるを月夜といふ也。此歌は古今集に読人不知の歌也(東斎随筆、人事類)。 七九 ある人、いかにもうつけたる若党を…(八四頁) 寒川入道筆記に類話が載るが、文体はいかにも古拙で、語り口も不器用である。 一、高知行とる人の内の者に一段と文盲ナル人あり。乍去無油断奉公人たるに依て、人が馳走する□間、よき数寄しやの所に茶にようだ。 会過て主のもとへゆく。則会席の体を主のとはれたれば、「其にわかう様やかみ様の御座候程に申スまひ」ト斟酌せらる。「くるしからぬ、はや申され候へ」とせつかれた。「さらば申さう。汁は一段と見事なか、わらび」と申さるゝ。「さて其わらびが爰のさし合か」「中々」「なぜに」ととはるれば、「先づわらびのわは、わかう様のわの字。らはとの様のらの字。びはかみさまの彼びのちジヤ」ト。いらぬ事に気をつけたの。 八〇 曾呂利と申者(八五頁) 曾呂利新左衛門の伝は殆んどわからない。 頭注に若干補えば、のち剃髪して坂内宗拾といったとか、香道を志野宗心に、かつ茶事を武野紹鴎に学び、豊臣秀吉に眤近して、その寵を受けたという。当時、茶道や香道が流行し、ことに堺では、千利休・津田宗及らを輩出し、その流行が甚しかったから、曾呂利にもかかる事実があったかもしれぬ。また、なぜ曾呂利という名がついたかについては、物類称呼に、次の話が載る。「天正文禄の頃曾呂利新左衛門と云者有。泉務境の住にて鞘師也。細工の名誉を得たり。刀の鞘口にそろりと納るをもつて異名とす。太閤秀吉公朝鮮征伐のをりから、一首の落首をぞたてける 太閤が一石米を買ひかねてけふもごとかいあすも御渡海」(巻五)。 とにかく実在の人物だが、沼の藤六・暁月坊・一休などと同様、早くからその伝が不詳となり、頓智の名手として諸種の話が仮託されたらしい。これは、ほぼ同じ頃の雄長老などもまた然りで、建仁寺の住職をつとめ、当代屈指の学僧として名高かったにかかわらず、死後半世紀もたたぬうちに、次第に、その伝は勿論、英甫永雄の諱や道号さえ忘れられてゆき、単に狂歌の名手、雄長老、幽長老として記憶され、逸話や奇行、狂歌などが仮託、付会されるようになった。 そんなわけで、この話なども、次頁(八六頁)頭注に言ったごとく、雄長老百首狂歌の「夢」と全く同趣である。或いはこの狂歌から本書の笑話が作られ、曾呂利新左衛門に仮託されたのかもしれぬ。寛文十二年刊の浅井了意作の「狂歌咄」なども、のちに曾呂利の一篇を冒頭に加えて、「曾呂利狂歌咄」と改題して刊行されている。その一篇は曾呂利の話としては最もよくまとまっているので、やや長文だが、次に掲げる。 往古より一芸にすぐれし者は、用ひられずといふ事なし。昔太閤秀吉公の御時、御側さらずの御伽に、曾呂利といふ者あり。此者の本名は新左衛門というて、泉州堺南の庄目口町の内に、浄土宗の寺内を借りて居住せし刀の鞘師なり。細工に名誉を得て、小口より刀をさし入るに、そろりと鞘口よくあふゆゑに、異名を曾呂利といひけるが、秀吉公へ召出され、細工を承るに、おどけ者にて軽口を申せし故、御機嫌にあづかり出頭せしなり。然るに、秀吉公の御秘蔵の松枯れければ、尊慮にかけられ、御機嫌すぐれざるところへ、曾呂利まかりいで、「御秘蔵の松枯るゝとは、限もなき目出度御事、御小姓衆御硯、御祝儀に一首仕らん」と、さら<と書きて照覧に入奉りける、 御秘蔵のとこよの松は枯れにけり己がよはひを君にゆづりて 秀吉公御感ありて、「よくこそ祝うたり。曾呂利に金とらせよ」とありければ、曾呂利承り、「あり難き仕合、然し只今御金を拝領仕るよりは、日毎に君の御耳を嗅がせて下され候はゞ、御金に勝り有難からん」と申上ぐれば、太閤をかしく思召して、「それこそ安き事、毎日嗅げよ」と仰下されけれぽ、曾呂利よろこび、諸大名御登城御目見を見かけては、其まゝ太閤の御耳を嗅ぎければ、大名衆、我身の事を囁き申上ぐるやと、心もとなく思召して、曾呂利に我も<と諂ひ、内証より金銀を送られければ、俄に有徳になれり。或時御茶事有りて、御茶菓子に黒胡麻のあんをおきたるお餅出でければ、「此餅にて、曾呂利狂歌」と御上意ありければ、餅飲みこむや否や、 黒ごまのかけて出たる餅なれば食ふ人ごとにあらむまといふ 秀吉公をはじめ、一座の歴々興ぜさせ給ひけり。またある御夜食に蕎麦がきを御好みなされ、御相伴衆へも下さりける。曾呂利も末座にありけるが、蓋をあけてとりあへず、 うす墨につくりしまゆのそば顔をよく<見れば三角なりけり 名月の夜、御近習のともがら御勝手に居て、曾呂利が御前より下りけるを招かれ、「其方に今宵、例の狂歌を望みなば、さだめて名にしおふ月なれば、よき狂歌ども兼てよりこしらへおきぬらん、それは何程秀逸にても、はらみ句なればのぞみになし。はらみ句といふ題にて、名月の発句せよ」と、難題を言ひかけられしかば、曾呂利やがて、 はらみ句やさんご夜中の子望月 其外、紙袋を米蔵にきぜての狂歌、木釜のはなしにて、流石の秀吉公に手をとらせ奉りしなどの古き咄、皆人知れる事なれば、いふに及ばず。名誉なる狂歌咄の上手なり。かくて心地わづらひて、今はの時、太閤よりかたじけなくも上使をたまはり、「何事にても望はなきか」との御上意あれば、「別に望も御座なく候。冥途に御座ある御一門様方へ、若御書にても遣され候はゞ、片便宜にては候へども、届け申上ぐべし」と、事きれるまで、おどけ申しけるとなん。咄のみにあらず、詩歌にも携り、優しかりし男にて、今に名誉を残せり。 これらの話が、いずれも曾呂利についての事実談とはかぎらないようである。例えば、「うすゞみ」の狂歌の話は、上30話(六〇頁)では、細川幽斎の狂歌としている。他にもかかる仮託の記事が多いことであろう。 八一 変成男子の法(八八頁) 法華経第十二、提婆品に、竜女が文殊菩薩の大乗の教を聞き、垢穢多く、かつ五障をもつので成仏出来ぬ女の身ながら、三千大千世界の価値のある一宝珠を仏にささげ、仏はこれを納受して、竜女は忽ち「変成男子」つまり男となって正覚成仏したことをいう。 「又聞成2菩提1、唯仏当2証知1、我闡2大乗教1、度2脱苦衆生1、爾時舎利弗、語2竜女1言、汝謂3不v久得2無上道1、是事難レ信、所以者何、女身垢穢、非2是法器1、云何能得2無上菩提1、仏道懸膿、経2無量劫1、勤苦積v行、具修2諸度1、然後乃成。又女人身、猶有2五障刈一者不v得v作2梵天王1、二者席釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身。云何女身速得2成仏1、爾時竜女、有2一宝珠1、価直三千大千世界。持以上v仏、仏即受v之。竜女謂2智積菩薩尊者舎利弗1言、我献2宝珠1、世尊納受。是事疾不。答曰、甚疾。女言、以2汝神力1、観2我成仏1、復速2於此1。幻当時衆会、皆見下竜女忽然之間、変成2男子1、具2菩薩行1、即往2南方無垢世界1、坐2宝蓮華1、成2等正覚1、三十二相、八十種好、普為2十方一切衆生1、演中説妙法上」。 八二 ある人、わづらひさん%・なりければ…(八九頁) 新撰狂歌集に、次のごとく、仮名と漢字が異るだけで、一字一句同文の詞書と狂歌が載る。昨日は今日の物語の九行整版本を作る時、新撰狂歌集からこの咄を書き抜いたものか。或いは、共通の出典があって、それぞれ忠実に転載したのか。 有人わづらひさん%\なりければ、くすし来り一脈とりてくすりをあたへ、色々のどくだちをかきつけけるに、一儀の事は親類もみる事ありとて書付ざれば、くるしからずとてつゝしぎざるゆへ、以の外さいほつす。くすし来りて、さたのかぎりとしかりければ、 どくだちのうちならばこそあしからめそゝは何かはくるしかるべき (上巻) 八三 有人、石山寺ゑ参詣して…(九一頁) 醒睡笑に類話。この方がやや詳しく丁寧な叙述である。 京より、いたらぬ者どもつれだち、石山でらに参り、縁起を所望してよませきゝ、「抑此石山寺は、前に湖水あり、うしろに山あり、峰に塔あり、谷に塔あり、二王門あり」。既によみはてぬる時、一人が申けるは、「誰人の建立とこそ存つるに、扨は飛鳥井殿のたてさせ給ひて候よのう」「其願主は、なにの合点よりいふそや」「其事よ。縁起の次第が、いづれのことばにも、なにあり、かあり、ありくとよまれたほどに、さうかとおもふて」(巻三、不文字)。 なお、石山寺は、古くからもっとも尊崇された観音の霊所で、王朝の物語などにもしばしば出てくる。一時は寺領一万二千石を有するほど勢力が盛んであったが、天正のころ荒廃していた。それを秀吉の妻淀君が寺領を寄付し堂宇を再建、徳川氏も慶長十八年寺領を寄付したりして、本書の出来るころ目ざましく復興した。この話もかかる石山寺の再興を背景としているのであろう。この石山寺の話が戯言養気集に載らず、醒睡笑と昨日は今日の物語にあるのも、そのためであろうか。 八四 飛鳥井(九一頁) 藤原氏の一系。鎌倉時代のはじめ、難波頼経の子雅経が飛鳥井氏を称した。雅経は新古今時代の代表的な歌人の一人であった。子孫も代々和歌・書道・蹴鞠にすぐれ、これを家の業とし、しばしば天皇の師範ともなった。その書は飛鳥井流として有名。明治には子爵に列せられた。蹴鞠は、難波家と共に師範家として勢力を振ったが、飛鳥井家の方が代々和歌や書道などにすぐれた人物をしていたので、蹴鞠の面でも難波家を圧倒して有名であった。「飛鳥井、難波ハ兄弟同宗之家ニテ、元来、飛鳥井ハ難波之別流ニ候。蹴鞠之事、難波刑部卿頼輔卿ト申人ヨリ、其孫刑部卿宗長卿、参議雅経卿ト申両人江相伝有v之。宗長卿ハ難波家ヲ相続シ、雅経卿ハ則飛鳥井家之元祖ニテ、是ヨリ飛鳥井家起リ候。右宗長雅経両卿ヨリ、両家共、代代相承家業ト相成、勿論、両家ヨリ御師範ニモ被v参候事ニ候」(諸家家業記)。 八五 わたましの連歌に…(九一責) 醒睡笑(狭)によく似た形で見える。 移徙の連歌に、 春の日は軒端につきてまはるらむ といふ句を出せり。宗匠、「けせ<」といはるゝ。執筆、「墨がくろふてけされぬ」といふ時、右の作者、「なにとやうにもけせ。又つけう程に」(巻七、いひ損はなをらぬ)。 八六 うつけたる物のより相…(九二頁) 醒睡笑(狭)に同趣の話が見える。 一天に雲尽て、星まんくとかゞやく夜、あたりの友をさそひ、端居してなぐさむ。口すさびに、「明星ほど大なるほしは、はてしもなふあるは」といふ。「しても、われが屋ねの上のはちいさい」と(巻六、詮ない秘密)。 八七 気の短き者のよりあひて…(九三頁) 戯言養気集に類話があるが、さらに、要件のみを最小限の短い文章でいう書簡を付している。 みじかき部 有人わきざしをかうて、知音のものにいふやうは、「これくのほりだしをして物ある。中々うちのまねは、おなりやるまひ」と云時、「ねすんは何程の物ぢや」と問しかば、「三百八寸で侍る」と答へた。摂津有岡の城をとりまきし在番衆のかたより、国本への文に、 態一筆火之用心お松やさすな馬こやせかしく (下巻) これは、のちの「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」などの原型としてよかろう。 醒睡笑では、今までの行き方と異なり、戯言養気集や昨日は今日の物語で一般的な話を、特定の人物、即ち、当時名医として名高かった曲直瀬道三の話としている。 翠竹院道三のもとへ、脇指を持来りて、うらんといふ時、「此ねすんはいかほどぞ」とありしに、売主、「三百八寸」と返答せしも(巻八、頓作)。 八八 脇差(九三頁) 大刀に対する小刀をいうのは江戸時代になってからで、古くはあいくちのような懐中刀であった。本書の場合においては、すでに小刀をいうか。貞丈雑記によれば、「古の脇差は長さ、柄とともに八、九寸ばかり。鍔なく、柄まかず、今あひくちといふ物也。鞘のこじりを丸くし、懐中して衣服にかゝらぬ様」にした刀で、懐の中で脇へ差すので、この名があるという。「今は寸尺を長くし、鍔を入れ、柄を巻て、打刀と同じ拵、懐の外へ出す」。こうなったのは足利末、戦国時代からという(武家名目抄)。 八九 南禅寺(九三頁) 臨済宗本山、京都市左京区南禅寺町。五山の第一。弘安年中亀山上皇が普門無関に下宮を下賜されて創建、義満の時に五山の首班となる。戦国時代に荒廃したが、天正・文禄のころ玄圃霊三が出て復興、更に崇伝が家康に近づき僧録司となり、勢力を得、慶長十六年皇居造営の時には、清涼殿を下賜され、幕府よりも伏見・桃山の別殿を寄付された。寛永五年には藤堂高虎も山門を寄付している。即ち本書成立のころ、戦国の荒廃から目ざましく復興したので、この話も「ある禅寺」などとせずにわざわざ南禅寺に設定したのであろう。なお、学習院本では「むらさきのゝ大徳寺」となっているが、これも室町末から茶道と結びついて有名だった禅寺。 九〇 両きん山寺(九三頁) 径山寺と金山寺をいう。径山寺は中国五山の一。中国浙江省余杭県の西北にある径山の山麓にあり、臨済宗の専門道場。正しくは能仁興聖万寿寺という。唐の代宗の時、道欽(国一禅師)がここに入り、名高くなり、その後、圜悟の弟子大慧禅師が入寺するに及んで、寺勢大いに興り、来る者千七百に上ったという。その後何度か火災にあったが、無準が不撓不屈の努力によって再興し、堂室数百を数え、名僧が多くここに集まった。径山というのは、天目山頂に到る小径があるための俗称。 金山寺は中国江蘇省丹徒県にある江天寺の通称。堂塔伽藍が揚子江岸に聳え、名勝の一となり、詩歌にもしばしば歌われる。古く沢山寺、また竜遊寺などとよばれ、金山寺は元代以後の通名。南朝梁以来の古刹で、わが国五山の僧なども修行のためこの寺に遊んだという。とにかく、共に、わが国においても中国の禅宗の寺として広く知られていたので、両者を区別して、前者をこみちきんざん、後者をかねきんざんといい、両者を合せて、両きんざんという。「これは唐土金山(かねきんざん)の麓、楊子の里に高風と申す民にて候」(謡、猩々)。 九一 金蔵主、茶巾、布巾、浄巾の、つきむの、頭巾(九三頁) 「蔵主」は、もと禅宗で経蔵を司る重い僧役だが、一般に禅宗の僧の称に用いる。「茶巾」は、茶器を拭う布、茶布巾。「茶巾算」(下学集)。なお、禅宗と茶道とは関係が深いが、点茶の時、茶碗を拭うに用いる布巾を特にいうこともある。これは曲尺で長さ一尺、巾五寸が通常。朝鮮の照布が最上で、近江上布がこれに次ぎ、一般には奈良晒を用いる。「布巾(ふいきん)」は、ふきんの訛。食器用の布。なお、この訛は、方言として現在も山梨県・三重県阿山郡・山口県・大分県・熊本県の一部・延岡市・天草島などで行われているという(分類方言辞典)。「浄巾」は、手巾と同じ。「旧説曰、浄巾、即手巾也。日用軌範ノ抽脱ニ云、以2浄巾1搭2左手1」(禅林象器箋)。「手巾」は、てぬぐい、てふきの類。「漢王莽之斥2逐王閥1也、闕伏泣、元后親以2手巾1拭v之、於v是始見2手巾之目1」(事物紀元)。なお、頭巾は、禅宗の僧が、よく用いた。 九二 上京小川に、いがらし日蓮宗の信者あり(九三頁) 醒睡笑に話は同じような筋だが、反対に、日蓮宗の寺へ来た強情な念仏宗の信者の話が載る。当宗の寺へ、檀那のもとより、「此者を目代にして庫裏に置つかはれ候へ」と、年五十計なる男をあてがへり。理知幾に重宝なるが、朝暮高声に念仏す。坊主心うき事に思ひ、教化すれども更に同心せず。しいていふ、「汝経をいたゞきたらば、信心ふかき者と披露し、給分の外に合力を得させん」とすゝむる時、あらかじめ領状しけり。かくて十月十三日、御影供に諸檀那みなあつまれる座敷へかれをよび出し、件の趣をひろめ、受法さするに、彼男、「其事なり。いろ〳〵いやといへども、種々教訓のゆへ、経を頂て候。さりながら、いたゞきたる経をへちまともおもふにこそ」と。ありがたいといふておらゐで。情のこはさはどちらもまけまい(巻七、思の色を外にいふ)。 九三 三玄院の国師(九三頁) 現在、三玄院は、大徳寺法堂の西方にある塔頭であるが、もとはさらに西方で、総見院の南方に当る。天正十四年(一五八六)、石田三成・浅野幸長・森可成などの施財を以て創建し、春屋和尚を開祖とする。表門はもと石田三成邸宅の門で明治の初年まであったという。なお、三玄院には、利休の弟子剣仲(紹智)が寓居しており、またその境内の墓地には、春屋和尚・石田三成・古田織部などの墓がある(佐藤虎雄「紫野大徳寺」)。春屋宗園は、大徳寺百十一世、朗源天真禅師と呼ぽれ、朝廷から大宝円鑑国師の国師号を下賜された高僧。国師は、禅宗の高僧に朝廷から下される称号。慶長十六年三月九日寂、八十三歳(大徳寺住持歴代)。三玄院も春屋も天正から慶長末年にかけて有名だったわけである。 九四 又ある人、下人をよび…(九四頁) 戯言養気集に類話があるが、昨日は今日の物語に比べると、いかにも古体を存している。 清水寺に住老僧、下小ぽうしに、「あすは元日に有ほどに、茶は大ぶく、もちのにたるをばかんといへ。かまひて万意得申候へ」とをしへければ、「畏て物ある。御心安かれ」と申せし時、「さてもわどのは物によく心得たるものちや。あづきもちをたべよ」と有ければ、十計にやいた。かくて夜も明ければ、ちやのゆの所に、わか水しかけ、りん〳〵とたぎれば、「法印さま〳〵、おちやたうもよく御座ある。いそぎおひるなれ。申〳〵、まだお枕は上らぬか」と云てをこひた。評して云、しゐて福をもとむる者は、色こそかわれ、此なげきにあひぬる事あり。あゝ天理に合する福有ものを(上巻)。 九五 野宮の森のこがらし秋ふけぬ(九五頁) 世阿弥作の謡曲「野の宮」(三番目物)に、旅の僧が野の宮に行くと、源氏物語の六条御息所の亡霊が現われ、葵の上との加茂の車争いの恨みを語るが、その亡霊が現われるところにある文句を、そのまま用いている。「花に馴れ来し野の宮の、〳〵、秋よりのちは如何ならん。をりしもあれ物の寂しき秋暮れて、猶しをりゆく袖の露、身を砕くなる夕まぐれ、心の色はおのづから、千草の花に移ろひて、衰ふる身のならひかな。人こそ知らね今日ごとに、昔の跡に立ち帰り、野の宮の、森の木枯秋ふけて、〳〵、身にしむ色の消えかへり、思へば古を、何と忍ぶの草衣、きてしもあらぬ仮の世に、行き帰るこそ恨みなれ、〳〵」(謡、野宮)。かくて、亡霊は、娘の斎宮と共に伊勢へ下る。ここでは、謡曲の文句をそのまま取ったことを気づいた紹巴が、皮肉に、斎宮が伊勢神宮へ行ったのち、野の宮のあとが留守になるから、「ついでに錠をさせ」と言ったのであろう。 九六 連歌師のあたりに…(九五頁) 醒睡笑に類話。こちらの話の方が大分手がこんでいるが、それだけに、完成したかたちになっている。 連歌に身をやつし、心をそめ、臥にもおくるにも、此事のみなりつる人の栖なる軒の下に、夜小便する音しけり。彼亭主とがめていへるやう、「夜分に居所へきたつて水辺をくだすは、人倫か生類か。植(へ)物をもつて打擲せよ」(巻七、思の色を外にいふ)。 九七 ある人、子を寺へあげ…(九五頁) 醒睡笑に類話があり、少年は久松という、いかにも里の少年らしい名となっている。また末尾に狂歌二首がついている。これは古体を存するとすべきか、策伝の和歌・狂歌に対する強い愛好癖が然らしめたのか。 久松といふ子を、山寺にのぼせをきたり。親見舞とて寺にいたり、一夜のほどとまりたるに、久松によりそふ老僧もわかきも、「すばり〳〵」といふもあり、「あかすばり」といふ人もあり。彼親父、 一円此道にうとし。不審はれぬまゝ、そとむすこにたづねけり。久松さかしく、「此寺の習に、下戸をばすばりといふてせゝる」とかたる。親聞、「げにも〳〵。下戸は酒にあふてから、くちがすばるほどに」とて、大に同心したり。ある時、夫婦つれだち寺に来る。ふるまいあり。酒のみぎり後見の法師出、「久松殿母義は、一つまいらぬや」ととひければ、男のいふ、「私は御存知のごとくすばりでは御座ない。をんなどもは、一ゑんのあかすぼりにて候」と申た。 よしくもれくもれ(衍力)くもらば月の名やたゝんわが身ひとりの秋ならばこそ よしすばれすばらば若衆なやたゝんわが身ひとりのすきならばこそ(巻六、若道不知) なお、醒睡笑には、同じく右の話に似た次の話も載る。幸菊といふひとり子を寺にのぼせ、物ならはせけるが、久しくあはぬなつかしさに、親、雑賞をかまへ師のもとに行。わかき坊主の幸菊にむかひ、「小穴〳〵」といふ。又よの人も、「小穴」とよぶ。「そも奇異のこと葉や」と思ひ、ちかづけてとひければ、これも、「此寺に下戸のからなを小穴といふ」とこたふ。「さもあらん」とがてんし、かさねて夫婦つれだち、寺に参しとき、女房に酒をしいぬれば、よくしりたるかほに、親いふ、「我らは一ゑんの小穴にて候。子もちはちと広穴なり、しいたまへ」と申た(巻六、若道不知)。 九八 連歌すきたる医者の所へ、薬取りにゆく…(九六頁) 犬筑波集に、殆んど同じ話が、詞書つきの句として載っている。「いみじき連歌すきなる薬師有けり。昨日の御薬とて取にまふできたりけれど、聞いれざりければ、内より包て書付て遣はすべきよし申ければ、せめられて 生姜三へぎにかへる鴈がね とかきてつかはしけり」(潁原本)。「又、連歌数寄なる薬師ありけり。昨日の御薬たまはり候へども、みちにてあまりに申ける程に、もどりて包に書付に申けるは 生姜三へぎに帰る雁がね」(松羅館旧蔵本)。 九九 帰るかりがね(九七頁) 崑山集、春の部に、「しやうが三へぎといふ文字か帰る雁 貞徳」とあり、これを崑山集の難書、馬鹿集で、次のように難じている。「しやうが三へぎといふ文字の帰雁 まへがき、くすし玄冶法印にてとあり。一句の仕立、きのふはけふの物語とかやいへる物に、連歌すきたる医者の所へくすり取に行、折ふし一順をみゐられけるが、心得たるとて薬を合、銘をかくとて、一つゝみに水てんもくに一はい乍入、しやうが三へぎにかへるかりがね、とかゝれたといへり。もし此心をもちゐられける歟。しからばかく亡却千万なる故事を位立て、玄冶のためには、おかしくめいぼくなき事歟。右三句は長頭丸作也」(二巻)。結局、貞徳が昨日は今日の物語の句を盗んで自作したと攻撃しているわけである。なお、右の記事について、既に潁原退蔵博士は気がついていたが、「たゞし昨日は今日の物語の流布本・古活字本等にこの話見えず」(「校本犬筑波集」頭注)という。この話の載る金・神・竜本や多本を目睹されてなかったからであろう。 一〇〇 連歌にては、人を殺すまい(九七頁) 戯言養気集に、結末は異るが、同じく紹巴と名医曲直瀬道三との相似た話が見えるが、これは笑話というより、いかにもお伽衆の話らしく、不器用ながら、実際の見聞談らしい実感がある。 古道三一渓、いしよかうしやく、聴聞の人、毎朝百人計有。其中にとしごろ十五、六、七、八なる人おほかりしを、ぜうは法橋見給ひて、涙ぐませ給ふ事しばしありてやみぬ。その後道三にあひ給ふて、「扨くそなたの門弟しうの内、二十にもたらざるしう多く、ぶんかうをひつさげ〳〵出入し侍るを見れば、なみだ計ぢや」と申され候へば、「さればその事にて物ある。今のわかき衆は、りこんさいかくに御座ある」と答へられし時、「いや、さうではなく候。あのおさなきものどもが、いくらの人をくすしころさうと痛入啼るゝ」と也。翠竹院けうをさまひて、「其方の芸をうら山しく存ずる。なぜなれば、そもじ程のれんがにてさへ、人をしころひたと云さたはないほどに」(上巻)。 (以下、準備中)
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