約 16,947 件
https://w.atwiki.jp/dunpoo/pages/803.html
1956年? から 1958年? へ 1957年 岸内閣始動 1957年 岸内閣始動 石橋の後継首班には岸が指名された。岸は、全閣僚を留任させ、石井光次郎を副総理に招き党内融和を図った。3月の党大会では、対抗馬松村謙三を471票対32票で破り総裁に選ばれた。 岸政権が最初に手がけたのは、防衛力の強化であった。防衛二法(自衛隊法・防衛庁設置法)を改正して自衛隊員1万人の増員を決め、前年7月に設置された国防会議を招集して「国防の基本方針」と「防衛力整備目標」(いわゆる一次防)を策定した。 続いて岸は、戦後首相として初めてアジア諸国の歴訪を行った。5月、ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾を訪れ、主として原水爆実験禁止とアジア開発基金構想を含む経済協力について各国首脳と意見を交わした。 6月には、アメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官と会談した。岸は、安保条約の改定を提起した。この件については、鳩山内閣のときに重光外相が持ち出したことがあったが、そのときは、日本の自主防衛努力が足りない、という理由で米国に一蹴されていた。岸は、日本の自衛体制が一応整備されたことを説明し、同条約の不平等性や不備な点の改定を求めた。米国は、安保条約に関して生じる問題を検討する委員会を政府間で設置することを認めた。また、岸首相は、小笠原・沖縄の施政権返還も求めたが、米側は、両島における日本の「潜在主権」を認めたものの返還は時期尚早として拒否した。共同声明では、「大統領と総理大臣は、日米関係が共通の利益と信頼に確固たる基礎を置く新しい時代に入りつつあることを確信している」と歌われた。 訪米を終えた岸は7月、石井副総裁以外の全ての閣僚を入れ替える内閣改造を行った。外相には民間から日商会頭の藤山愛一郎を迎えた。蔵相・一万田尚登、経企庁長官・河野一郎。このとき弱冠39歳の田中角栄が郵政相として初入閣した。党役員の入れ替えも行い、河島正次郎幹事長を初め岸直系を配した。 訪米時に合意した日米安保協議の合同委員会は8月に設置された。 11月、岸は再びアジア歴訪の旅に出て、南ベトナム、カンボジア、ラオス、マラヤ、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの9か国を回った。賠償問題や経済協力が首脳会談でのテーマであったが、具体的な成果は特になかった。
https://w.atwiki.jp/dunpoo/pages/807.html
★1957年 から ★1959年? へ 1958年 話し合い解散 1958年 勤評反対闘争 1958年 警職法 1958年 レバノン危機 1958年 アルジェリアの解放戦争 1958年 話し合い解散 58年4月、社会党は内閣不信任案を上程した。採決直前に解散という筋書きが自社の間でできていた。5月22日に行われた総選挙は、自社二大政党下の最初の総選挙であったが、特別な争点のない選挙であった。結果は自民287、社会166、共産1。社会党は得票率35.1%で、大きく得票を伸ばしたものの、伸び悩みという見方がされた(結局社会党は、これ以降の総選挙でこの166議席を上回ることはなかった)。 総選挙後発足した第二次岸内閣は、反主流・吉田系の池田勇人を国務相に取り込み、政治基盤を強化した。 9月、藤山外相がアメリカのダレス国務長官と会談し、日米安保改定交渉で合意した。しかし、自民党内の調整は難航した。吉田元首相が反対だったからである。藤山は何度も大磯に足を運び、吉田を説得した。 1958年 勤評反対闘争 鳩山内閣時代の56年10月、それまで公選制であった教育委員が任命制に変わった。これを契機に、文部省は、都道府県教委に教員の勤務評定を強く要求するようになった。日教組はこれに対する全国的抗議運動を展開したが、58年には、京都以外の全都道府県で勤評が強行され、日教組側は全国で解雇70人を含む6万人の被処分者を出して敗退した。 1958年 警職法 58年10月、岸内閣は突然、警察官職務執行法改正案を上程した。「公共の安全と秩序の維持」を重視し、警察官の権限を拡大、職務質問や予防的な保護・警告・措置を容易にしようというものであった。自民党は、勤評闘争を例にあげ、「集団的不法暴力事件の防止」が必要であると訴えた。安保改定に対する反対運動を抑止するところに本意があった。 社会党を中心に、総評、全労会議、新産別、中立労連、各種婦人団体、青年団体などが参加した警職法改悪反対国民会議が結成され、「デートもできない警職法」というスローガンでデモ・ストなどの反対闘争が全国的に展開された。岸は強硬で、会期延長を強行採決したが、これに世論は沸騰し、直後の一斉ストには400万人が動員され、国会はデモに包囲された。大衆運動と世論をバックに社会党は登院を拒否し、国会は空転した。岸は結局社会党委員長との会談で、法案の廃案を認めざるを得なかった。 年末、この警職法騒動の責任を追及し、自民党反主流派の3閣僚が辞任した。岸の党内基盤はにわかに揺らぎ始めた。 1958年 レバノン危機 5月、レバノンのシャムーン政権が、国内の暴動拡大に外部からの支援があるとして、米英仏に軍事介入を要請してきた。米国は当初、国連安保理における解決を優先させた。 7月、イラクでカセムを中心とする軍部によるクーデタが成功し、親米のファイサル国王政権に代わって新ナセル派将校団が政権をとった。 アメリカは、ナセル主義の波及に危機感を強め、混乱するレバノンに海兵隊を派遣、ベイルートに駐留させた。外交交渉が成功したことと、アラブ諸国に受けのいいシャハブ将軍が治安を回復したため、米軍は年内に撤退した。 このアメリカのレバノン出兵は、前年に出されたアイゼンハワー・ドクトリンと軌を一にするもので、新興国家内の民族主義的運動を共産主義勢力の間接侵略ととらえ、放置すると、ドミノのように周辺国に波及するとする考え方によるものであった。しかしレバノン国連監視団報告書は、間接侵略の証拠はないと否定していた。 1958年 アルジェリアの解放戦争 地中海を隔ててフランスと向き合うモロッコ・アルジェリア・チュニジアは、1930年以来フランスの植民地であったが、1956年、モロッコとチュニジアが独立を果たした。しかし、石油資源が豊かである上に、フランス人入植者が人口の1割を占めるアルジェリアに対しては、フランス本国でも独立に反対する声が強かった。 FNLによる解放闘争は熾烈になり、内戦の様相を呈してきた。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/755.html
内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 1889年10月25日 544 薩摩藩鹿児島県 後に元老 薩摩閥在任中単独辞任 ― (三條實美)(さんじょう さねとみ) (黒田内閣)1889年10月25日- 1889年12月24日 (内大臣三條實美が内閣総理大臣兼任) 大日本帝国憲法下 3 3 山縣有朋やまがた ありとも 第一次山縣内閣1889年12月24日- 1891年5月6日 499 長州藩山口県 松下村塾出身陸軍軍人後に元老 長州閥 4 4 松方正義まつかた まさよし 第一次松方内閣1891年5月6日- 1892年8月8日 461 薩摩藩鹿児島県 後に元老 薩摩閥 5 伊藤博文 第二次伊藤内閣1892年8月8日- 1896年8月31日 1,485 (略) (略) 在任中単独辞任 ― (黒田清隆) (第二次伊藤内閣)1896年8月31日- 1896年9月18日 (枢密院議長黒田清隆が内閣総理大臣臨時兼任) 6 松方正義 第二次松方内閣1896年9月18日- 1898年1月12日 482通算943 (略) (略) 7 伊藤博文 第三次伊藤内閣1898年1月12日- 1898年6月30日 170 (略) (略) 8 5 大隈重信おおくま しげのぶ 第一次大隈内閣1898年6月30日- 1898年11月8日 132 佐賀藩佐賀県 佐賀藩蘭学寮出身 肥前閥憲政党総裁最初の政党内閣 9 山縣有朋 第二次山縣内閣1898年11月8日- 1900年10月19日 711通算1,210 (略) (略) 10 伊藤博文 第四次伊藤内閣1900年10月19日- 1901年5月10日 204通算2,720 (略) (略) 立憲政友会総裁在任中単独辞任 ― (西園寺公望)(さいおんじ きんもち) (第四次伊藤内閣)1901年5月10日- 1901年6月2日 (枢密院議長西園寺公望が内閣総理大臣臨時兼任) 11 6 桂太郎かつら たろう 第一次桂内閣1901年6月2日- 1906年1月7日 1,681 長州藩山口県 陸軍軍人台湾総督後に内大臣、元老 長州閥(予備役陸軍大将) 12 7 西園寺公望 第一次西園寺内閣1906年1月7日- 1908年7月14日 920 京京都府 ソルボンヌ大学パリ講和会議全権特使後に元老 立憲政友会総裁 13 桂太郎 第二次桂内閣1908年7月14日- 1911年8月30日 1,143 (略) (略) 14 西園寺公望 第二次西園寺内閣1911年8月30日- 1912年12月21日 480通算1,400 (略) (略) 大正 15 桂太郎 第三次桂内閣1912年12月21日- 1913年2月20日 62通算2,886 (略) (略) 16 8 山本權兵衞やまもと ごんべえ 第一次山本内閣1913年2月20日- 1914年4月16日 421 薩摩藩鹿児島県 海軍兵学寮卒海軍軍人 薩摩閥(予備役海軍大将) 17 大隈重信 第二次大隈内閣1914年4月16日- 1916年10月9日 908通算1,040 (略) (略) 18 9 寺内正毅てらうち まさたけ 寺内内閣1916年10月9日- 1918年9月29日 721 長州藩山口県 陸軍軍人 長州閥朝鮮総督現役陸軍大将 19 10 原敬はら たかし 原内閣1918年9月29日- 1921年11月4日 1,133 盛岡藩岩手県 司法省法学校中退郵便報知新聞社記者外務官僚 立憲政友会総裁衆議院議員在任中暗殺 ― (内田康哉)(うちだ こうさい) (原内閣)1921年11月4日- 1921年11月13日 (外務大臣内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任) 20 11 高橋是清たかはし これきよ 高橋内閣1921年11月13日- 1922年6月12日 212 仙台藩東京府 ヘボン塾現・明治学院大学日銀総裁 立憲政友会総裁衆議院議員 21 12 加藤友三郎かとう ともさぶろう 加藤友三郎内閣1922年6月12日- 1923年8月24日 440 広島藩広島県 海軍兵学寮卒海軍軍人ワシントン海軍軍縮会議主席全権 (予備役海軍大将)在任中に病死 ― (内田康哉) (加藤友三郎内閣)1923年8月24日- 1923年9月2日 (外務大臣内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任) 22 山本權兵衞 第二次山本内閣1923年9月2日- 1924年1月7日 128通算549 (略) (略) 23 13 清浦奎吾きようら けいご 清浦内閣1924年1月7日- 1924年6月11日 157 熊本藩熊本県 咸宜園出身司法官僚 貴族院議員 24 14 加藤高明かとう たかあき 加藤高明内閣1924年6月11日- 1926年1月28日 597 尾張藩愛知県 東京大学法学部卒業三菱役員外務官僚 憲政会総裁衆議院議員憲政会・政友会・革新倶楽部連立(1925年8月2日以降憲政会単独)在任中に病死 ― (若槻禮次郎)(わかつき れいじろう) (加藤高明内閣)1926年1月28日- 1926年1月30日 (内務大臣若槻禮次郎が内閣総理大臣臨時兼任) 25 15 若槻禮次郎 第一次若槻内閣1926年1月30日- 1927年4月20日 446 松江藩島根県 帝国大学法科卒業大蔵官僚衆議院議員ロンドン海軍軍縮会議主席全権 憲政会総裁 昭和 26 16 田中義一たなか ぎいち 田中義一内閣1927年4月20日- 1929年7月2日 805 長州藩山口県 陸軍大学校卒業陸軍軍人 立憲政友会総裁(予備役陸軍大将) 27 17 濱口雄幸はまぐち おさち 濱口内閣1929年7月2日- 1931年4月14日 652 土佐藩高知県 東京帝国大学法科卒業大蔵官僚衆議院議員 立憲民政党総裁在任中狙撃され、外務大臣 幣原喜重郎が1930年11月14日から翌年3月10日まで116日間にわたって臨時代理 28 若槻禮次郎 第二次若槻内閣1931年4月14日- 1931年12月13日 244通算690 (略) (略) 立憲民政党総裁 29 18 犬養毅いぬかい つよし 犬養内閣1931年12月13日- 1932年5月16日† 156 庭瀬藩岡山県 慶應義塾中退新聞記者衆議院議員 立憲政友会総裁在任中襲撃(五・一五事件)† 総理死亡は5月15日午後11時26分 ― (高橋是清) (犬養内閣)1932年5月16日- 1932年5月26日 (大蔵大臣高橋是清が内閣総理大臣臨時兼任) 30 19 齋藤實さいとう まこと 齋藤内閣1932年5月26日- 1934年7月8日 774 仙台藩(水沢藩)/岩手県 海軍兵学校卒海軍軍人朝鮮総督(2期)ジューヴ海軍軍縮会議主席全権 (予備役海軍大将) 31 20 岡田啓介おかだ けいすけ 岡田内閣1934年7月8日- 1936年3月9日 611 越前藩福井県 海軍大学校卒業海軍軍人 (予備役海軍大将)在任中襲撃(二・二六事件)内務大臣後藤文夫が臨時代理 32 21 廣田弘毅ひろた こうき 廣田内閣1936年3月9日- 1937年2月2日 331 福岡県 東京帝国大学法学部政治学科卒業外務官僚 33 22 林銑十郎はやし せんじゅうろう 林内閣1937年2月2日- 1937年6月4日 123 石川県 陸軍大学校卒業陸軍軍人 (予備役陸軍大将) 34 23 近衞文麿このえ ふみまろ 第一次近衞内閣1937年6月4日- 1939年1月5日 581 東京府東京都 京都帝国大学法学部卒業公家華族貴族院議長 35 24 平沼騏一郎ひらぬま きいちろう 平沼内閣1939年1月5日- 1939年8月30日 238 津山藩岡山県 帝国大学法科卒業司法官僚大審院長枢密院議長 36 25 阿部信行あべ のぶゆき 阿部内閣1939年8月30日- 1940年1月16日 140 石川県 陸軍大学校卒業陸軍軍人後に朝鮮総督 (予備役陸軍大将) 37 26 米内光政よない みつまさ 米内内閣1940年1月16日- 1940年7月22日 189 岩手県 海軍大学校海軍軍人連合艦隊司令長官 (予備役海軍大将) 38 近衞文麿 第二次近衞内閣1940年7月22日- 1941年7月18日 362 (略) (略) 39 第三次近衞内閣1941年7月18日- 1941年10月18日 93通算1,035 40 27 東條英機とうじょう ひでき 東條内閣1941年10月18日- 1944年7月22日 1,009 岩手県 ref name= TOKYO 出生地は東京府/東京都 陸軍大学校卒業陸軍軍人 現役陸軍大将 41 28 小磯國昭こいそ くにあき 小磯内閣1944年7月22日- 1945年4月7日 260 栃木県 陸軍大学校卒業陸軍軍人朝鮮総督 (予備役陸軍大将)→ 現役復帰 42 29 鈴木貫太郎すずき かんたろう 鈴木貫太郎内閣1945年4月7日- 1945年8月17日 133 関宿藩千葉県出生地は泉州/大阪府 海軍大学校卒業海軍軍人連合艦隊司令長官侍従長枢密院議長 (予備役海軍大将) 43 30 東久邇宮稔彦王ひがしくにのみやなるひこおう 東久邇宮内閣1945年8月17日- 1945年10月9日 54 京都府 皇族陸軍大学校卒業陸軍軍人 1945年8月15日より連合軍の占領下(9月6日主権放棄) 44 31 幣原喜重郎しではら きじゅうろう 幣原内閣1945年10月9日- 1946年5月22日 226 大阪府 帝国大学法科大学卒業外務官僚貴族院議員内閣総理大臣臨時代理 元外務大臣進歩・自由連立連合軍の占領下 45 32 吉田茂よしだ しげる 第一次吉田内閣1946年5月22日- 1947年5月24日 368 東京府東京都選挙区は高知県 東京帝国大学法科大学政治科卒業外務官僚貴族院議員 日本自由党総裁自由・進歩連立連合軍の占領下 日本国憲法下 46 33 片山哲かたやま てつ 片山内閣1947年5月24日- 1948年3月10日 292 和歌山県選挙区は神奈川県 東京帝国大学法学部独法科卒業弁護士 日本社会党委員長社会・民主・国協連立連合軍の占領下 47 34 芦田均あしだ ひとし 芦田内閣1948年3月10日- 1948年10月15日 220 京都府 東京帝国大学法学部仏法科卒業外務官僚 民主党総裁民主・社会・国協連立連合軍の占領下 48 吉田茂 第二次吉田内閣1948年10月15日- 1949年2月16日 125 (略) (略) 民主自由党総裁連合軍の占領下 49 第三次吉田内閣改造内閣 一改造内閣 二改造内閣 三1949年2月16日- 1952年10月30日 1,353 連合軍の占領下(1952年4月28日主権回復) 50 第四次吉田内閣1952年10月30日- 1953年5月21日 204 自由党総裁 51 第五次吉田内閣1953年5月21日- 1954年12月10日 569通算2,616 52 35 鳩山一郎はとやま いちろう 第一次鳩山内閣1954年12月10日- 1955年3月19日 100 東京府東京都 東京帝国大学法学部英法科卒業東京市議会議員弁護士 日本民主党総裁 53 第二次鳩山内閣1955年3月19日- 1955年11月22日 249 54 第三次鳩山内閣1955年11月22日- 1956年12月23日 398通算745 自民党総裁 55 36 石橋湛山いしばし たんざん 石橋内閣1956年12月23日- 1957年2月25日 65 山梨県出生地は東京府/東京都、選挙区は静岡県 早稲田大学大学部文学科卒業現在の早稲田大学文学部東洋経済新報社社長 自民党総裁発足直後に脳梗塞で執務不能、外務大臣岸信介が臨時代理 56 37 岸信介きし のぶすけ 第一次岸内閣改造内閣1957年2月25日- 1958年6月12日 473 山口県 東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業商工官僚 自民党総裁 57 第二次岸内閣改造内閣1958年6月12日- 1960年7月19日 769通算1,241 58 38 池田勇人いけだ はやと 第一次池田内閣1960年7月19日- 1960年12月8日 143 広島県 京都帝国大学法学部卒業大蔵官僚 自民党総裁 59 第二次池田内閣改造内閣 一改造内閣 二改造内閣 三1960年12月8日- 1963年12月9日 1,097 60 第三次池田内閣改造内閣1963年12月9日- 1964年11月9日 337通算1,575 61 39 佐藤榮作さとう えいさく 第一次佐藤内閣改造内閣 一改造内閣 二改造内閣 三1964年11月9日- 1967年2月17日 831 山口県 東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業運輸官僚 自民党総裁 62 第二次佐藤内閣改造内閣 一改造内閣 二1967年2月17日- 1970年1月14日 1,063 63 第三次佐藤内閣改造内閣1970年1月14日- 1972年7月7日 906通算2,798 64 40 田中角榮たなか かくえい 第一次田中角栄内閣1972年7月7日- 1972年12月22日 169 新潟県 中央工学校卒業会社社長 自民党総裁 65 第二次田中角栄内閣改造内閣 一改造内閣 二1972年12月22日- 1974年12月9日 718通算886 66 41 三木武夫みき たけお 三木内閣改造内閣1974年12月9日- 1976年12月24日 747 徳島県 明治大学法学部卒業職歴無 自民党総裁 67 42 福田赳夫ふくだ たけお 福田赳夫内閣改造内閣1976年12月24日- 1978年12月7日 714 群馬県 東京帝国大学法学部卒業大蔵官僚 自民党総裁 68 43 大平正芳おおひら まさよし 第一次大平内閣1978年12月7日- 1979年11月9日 338 香川県 東京商科大学現在の一橋大学卒業大蔵官僚 自民党総裁 69 第二次大平内閣1979年11月9日- 1980年6月12日 217通算554 在任中心筋梗塞で急死 ― (伊東正義)(いとう まさよし) (第二次大平内閣)1980年6月12日- 1980年7月17日 (内閣官房長官伊東正義が内閣総理大臣臨時代理) 70 44 鈴木善幸すずき ぜんこう 鈴木善幸内閣改造内閣1980年7月17日- 1982年11月27日 864 岩手県 水産講習所卒業現在の東京海洋大学漁協役員 自民党総裁 71 45 中曾根康弘なかそね やすひろ 第一次中曽根内閣1982年11月27日- 1983年12月27日 396 群馬県 東京帝国大学法学部政治学科卒業内務官僚 自民党総裁 72 第二次中曽根内閣改造内閣 一改造内閣 二1983年12月27日- 1986年7月22日 939 自民・新自由クラブ連立 73 第三次中曽根内閣1986年7月22日- 1987年11月6日 473通算1,806 自民単独 74 46 竹下登たけした のぼる 竹下内閣改造内閣1987年11月6日- 1989年6月3日 576 島根県 早稲田大学商学部卒業中学校教師島根県議会議員 自民党総裁 平成 (以下省略) 記録 在職日数の多い総理大臣 通算在職日数 桂太郎: 2886日(第11、13、15代) 佐藤栄作: 2798日(第61、62、63代) 伊藤博文: 2720日(第1、5、7、10代) 吉田茂: 2616日(第45、48、49、50、51代) 小泉純一郎: 1980日(第87、88、89代) 連続在職日数 佐藤栄作: 2798日(第61、62、63代) 吉田茂: 2248日(第48、49、50、51代) 小泉純一郎: 1980日(第87、88、89代) 中曽根康弘: 1806日(第71、72、73代) 桂太郎: 1681日(第11代) 一代当たりの在職日数 第1次桂内閣: 1681日 第2次伊藤内閣: 1485日 第3次吉田内閣: 1355日 第2次桂内閣: 1143日 原内閣: 1133日 在職日数の少ない総理大臣 東久邇宮稔彦王: 54日 羽田孜: 64日 石橋湛山: 65日 宇野宗佑: 69日 林銑十郎: 123日 就任年齢の低い総理大臣 伊藤博文: 44歳 近衞文麿: 45歳 黒田清隆: 47歳 山縣有朋: 51歳 安倍晋三: 52歳(戦後最年少) 就任年齢の高い総理大臣 鈴木貫太郎: 77歳 犬養毅: 76歳 清浦奎吾: 73歳9ヵ月 齋藤實: 73歳5ヵ月 幣原喜重郎: 73歳1ヵ月(戦後最年長) 都道府県別の総理大臣輩出数 山口県:8人(伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三) 岩手県:5人(原敬、斎藤実、米内光政、東條英機、鈴木善幸) 群馬県:4人(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫)(戦後では最多の輩出県) 東京都、石川県、京都府、岡山県、広島県、鹿児島県:各3人 その他の記録 内閣総理大臣の各種記録を参照。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 関連項目 内閣総理大臣 日本国歴代内閣 外部リンク 内閣総理大臣一覧(首相官邸) 山口県出身の宰相(山口県観光情報) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月16日 (金) 13 54。
https://w.atwiki.jp/free_nippon/pages/245.html
若い人は知らないだろうが、昭和の頃の日本には新左翼運動という物が存在した。 平たく言えば過激派。東大安田講堂で火炎瓶を投げたり、成田空港で警官隊に鉄パイプを振りかざした連中。その多くは当時の大学生である。 有名な所で、 中核派(革命的共産主義者同盟) 戦旗共産同(全国社会主義者学生同盟 俗に言うBUND(ブント) 革マル派(革命的共産主義者同盟) 日本共産党の学生組織である民青同盟も広義にはこれに含まれる。 余談だが日本共産党で議員バッチを付けてヘーワを守れ!えらそうに演説している連中は学生時代に民青同盟の幹部だった人間が殆どである。 こんな歌を当時の現場を見た方から教えて頂いた 迷子の迷子の民青同♪ あなたの思想はなんですか?♪ 中核の言うことはわからない♪ BUNDの言うこともわからない♪ ランランララン ランランララン♪ 歌ってばかりいる民青同♪ 犬の機動隊入って来ちゃって♪ ワンワンワワン ワンワンワワン♪ 当時の私はまだ子供だから実情は良く知らない。 しかし共産党の学生&青年組織の民青同盟がどんな行動を取っていたのか この歌から何となく解ってしまう。 他にも浅間山荘大虐殺事件を起こした連合赤軍派 日航機ハイジャックにテルアビブ空港銃乱射事件を起こした日本赤軍 この二つは元々戦旗共産同からの分派 今も武力的に対立している中核派と革マル派は元々は革命的共産主義者同盟 みな喧嘩別れである。非常にややこしくて解り難い。 彼らは昭和三十四年。当時の岸内閣での日米安保条約締結に対し、 「平和を壊すな!憲法九条護れ!」と大発生した。 そのくせ、些細な思想や運動方針の相違で激しくいがみ合い、挙げ句に内ゲバ闘争と称し仲間同士で凄惨な殺し合いも続けて来たのである。 やがて、その暴力紛争で袂を別ったセクトはそれぞれの戦闘能力を誇るが如く、日本国憲法には革命権が保障されている等と手前勝手な無茶苦茶な屁理屈を振りかざし 「連続企業爆破事件」「ハイジャック」「空港テロ」「警視総監夫人爆殺テロ」「浅間山荘大虐殺」 等の身勝手で残忍な事件を起こしてきたのである。 彼らの多くは当時の大学生 そして卒業と同時に足を洗うも、この様な事件に関与した学生を受け入れる企業がある筈が無く、或る者はチェックの緩かった公務員や教員 或る者は法曹界 そして或る者は同じくチェックの緩かった新聞社・テレビ局等と言ったマスメディア界に進んだ。 今日これらの業界に籍を置いていた60後半から70歳代に頭がおかしな者が多いというのはこうした背景があるからである。 勿論就職を断念し、職業的革命家等というフリーターで生きてきた者も多数居る。 現在再び息を吹き返してきた「平和運動」或いは「脱原発環境運動」といった旗を掲げている一見平和そうな団体は今から4~50年前に学生による暴力テロ運動を引き起こしてきた過激派が背後で糸を引いていることに注意して欲しい。 彼らが堅気の企業からは敬遠されてしまう理由は暴力で世の中を変えてしまう行動を是とし続けているからである。 それらと関わり合いが有ることが判明した時点で真っ当な企業であれば採用を見送るのは自明の理であろう。暴力団の鉄砲玉だった若者に仕事をさせるのと同じである。 お客にいきなり鉄パイプで殴りかかり浅間山に死体を隠さないまでも、就職してもこれらの平和を掲げたテロリストと繋がりが断ち切れないで居て、給料の何割かを 上納していてそれを資金として再び何かの事件を引き起こせばこの若者を雇った企業としては取り返しの付かないダメージを受けることになる。 どんなに綺麗事を掲げていても曾ての暴力革命を是とする殺人テロリストの集団である。 泣くのは君たち若者だ。よく考えて欲しい。 -
https://w.atwiki.jp/babel3128/pages/13.html
1 2 3 4 5 6 7 8 9 ジェットコースターの日 昭和30年日本初の本格的なジェットコースターが後楽園遊園地に設置されました 10 納豆の日 7/10の語呂あわせで納豆の日です。 昭和56年に関西納豆工業共同組合が関西地域限定の記念日として制定しました。 その後平成4年に全国納豆共同組合連合会が改めて全国の記念日として制定しまし た。 ぶなピーの誕生日 ホクト産業のホワイトぶなシメジ ぶなピーの誕生日です 11 めんの日 数字の1が並ぶこの日は、細く長いめんのイメージにぴったりと、全国製麺協同組合連合会が平成11年11月11日に制定しました。1年間の中のシンボル的な記念日(11月11日)とともに、毎月11日も、めん類への関心を持ってもらう日にしようと全国製麺協同組合連合会が制定、11日は「いい」と読めることも理由のひとつです。 12 日本標準時制定記念日 1886年(明治19年)の今日、東経135度を日本の標準時とし、1888年(明治21年)の1月1日よりこれを実施するとの勅令が公布されたことに由来する。これによって兵庫県明石市の正午が全国どこでも正午となった。子午線標識は、1928年(昭和3年)に建造された。 洋食器の日 ひかわ銅剣の日 育児の日 13 盆迎え火 家を浄めるとともに先祖の霊に家のありかを知らせるのが目的の迎え火。苧殻(おがら)を門口で燃やし精霊が来臨するのを助けるものです。13日の夕方に行うのが習わしです。 ナイスの日 オカルト記念日 14 ゼリーの日 ゼラチンで作ったゼリーの美味しさ、作る楽しさをより多くの人に知ってもらおうと日本ゼラチン工業組合が制定しました。日付は「ゼラチンの日」である7月14日。また、この時期がゼラチンゼリーの消費が高まることもその理由のひとつです。 内視鏡の日 ゼラチンの日 検疫記念日 パリ祭 15 16 駅弁記念日 1885年(明治18年)の今日、日本鉄道・宇都宮駅で、にぎりめし2個にたくあんを添え、竹の皮に包んで5銭で売り出したのが駅弁の始まりとされていることに由来します。当時はうな丼1杯10銭だったとか。 17 国産なす消費拡大の日 冬春なす主産県協議会が2004年2月9日に制定したものです。4月17日の「なすび記念日」の17日を、毎月なすの消費を増やす日にしようというものです。 確かに今一番なすが旬の時期です。しっかりナスを食べましょう。 18 光化学スモッグの日 1970年(昭和45年)の今日、東京・杉並区の高校で、グラウンドにいた生徒が次々と倒れました。東京都公害研究所は原因を光化学スモッグによるものと推定、光化学スモッグ予報を出すこととな成りました 19 女性大臣の日 1960(昭和35)年、日本初の女性大臣が誕生しました。 岸内閣の後を受けて池田勇人内閣が発足し、中山マサ衆議院議員が厚生大臣として入閣しました。 私が生まれる前から女性大臣がいたんですね。知りませんでした。 20 ハンバーガーの日 日本マクドナルドが1996(平成8)年に制定。 1971(昭和46)年、東京・銀座の三越内に日本マクドナルドの1号店が開店しました。 この日、1万人以上の客がつめかけ、1日で100万円以上の売り上げを記録しました 21 海の日 1876年(明治9年)の7月20日、明治天皇が東北巡行を終え、船で横浜に着いたことから設けられた「海の記念日」。その後、1996年(平成8年)に「海の日」として国民の祝日になるが、現在その日付は7月の第3月曜日と法律により改正されています。 22 天ぷらの日 夏の暑さにバテないために、大暑の日に天ぷらを食べて元気に過ごそうというものです。 大暑 23 乳酸菌の日 に良い乳酸菌を活用した商品をアピールする日にと、カゴメ株式会社が制定しました 米騒動の日 24 劇画の日 1964(昭和39)年、青林堂が劇画雑誌「ガロ」を創刊したのがこの日です。 白土三平の「カムイ伝」をはじめ、水木しげる、つげ義春などが登場し、大人向けの劇画ブームの火付け役になりました。 キャラボの日 25 かき氷の日 かき氷のことを夏氷(なつごおり)と呼び、その語呂合わせと、日本最高気温を記録したとされる日(1933年7月25日)にちなんで、冷たいかき氷にふさわしい日として日本かき氷協会が制定しました。 味の素の日 26 ポツダム宣言記念日 1945(昭和20)年、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ・イギリス・中国の三国の首脳が戦争終結・日本の無条件降伏等について7月17日から会談し、この日「ポツダム宣言」を発表しました。 幽霊の日 27 スイカの日 スイカの縞模様を綱に見立て、27を「つ(2)な(7)」(綱)とよむ語呂合せから スイカの消費拡大を願って、スイカ生産者のグループが制定しました。 28 菜っ葉の日 月28日の7.2.8をナッパと読んで菜っ葉の日。 キャベツ、ハクサイ、ホウレンソウ、レタスなどの葉ものの野菜を食べて 夏バテを防ごうというものです。 29 アマチュア無線の日 日本アマチュア無線連盟が1973(昭和48)年に制定。 アマチュア無線の健全な発達と知識の普及を目的とした記念日です。 肉の日 30 プロレス記念日 1953(昭和28)年、力道山が中心となり日本プロレスリング協会が結成されました。 31 パラグライダー記念日 1988(昭和63)年、北九州市で第1回パラグライダー選手権が開かれました。
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/6689.html
この項、福島原発事故 関連ブログ&サイト記事 も参照。 ■ 東電福島原発の真相 「「ジャーナリスト同盟」通信(2013.9.22)」より / <東電福島原発の真相> 3・11から2・5年以上も経過した。この史上最大・最悪の事件捜査をしなかった政府・検察庁の責任は、永久に問われ続けるだろう。真相は地震による原発崩壊、まぎれもない人災であることも判明したというのに、地元住民の刑事告訴に東京地検は不起訴という暴挙で応じた。東京五輪決定に合わせた政治的反映である。安倍内閣の意向を反映した捜査当局だったのである。このことは検察不祥事に新たな1ページを重ねた。今後とも責任を問われ続けるだろう。最高裁事務総局にコントロールされている検察審査会が、次なる国民監視の対象となる。本日、放射能問題の専門家が伝言してきた。そっくり紹介したい。「東電が地震による崩壊を認めた」ことが記事になった、というのだ。不起訴を待って新聞にこっそり載せたものか。政府・東電・新聞はグルなのであることを、改めて裏付けている。 http //iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-6563.html <新聞・当局はグル> 一番大事な場面で日本の新聞テレビは「国民に奉仕する義務」を放棄してしまう。60年安保の時もそうだった。岸内閣誕生時もそうだった、と三木武夫が証言している。 国民の生命財産が危機的な状況下で、不思議と新聞テレビは体制に従属して崩壊してしまう。今の安倍内閣を米連邦議会調査局の報告書は、安倍晋三を国粋主義者と分析しているのだが、そのことさえも日本の新聞テレビは封じ込めて、国民に伝えない。 日本を沈没させている元凶は、ナベツネを頂点とする新聞テレビなのである。以下に専門家の伝言を紹介しよう。国民はいつまで愚民に甘んじるのであろうか。魯迅のいない日本なのである。魯迅を誕生させない日本の管理社会に危機が潜んでいる。 <専門家の伝言> 福島第1原発 ベント筒の柱破断 震災の揺れ原因で 毎日新聞 2013年09月19日 東京朝刊 http //mainichi.jp/feature/20110311/news/20130919ddm001040055000c.html 311直後に、良識ある技術者(下記)の面々が、(弱小やネット)メディアや(衆参)院内勉強会にて、フクシマの状況分析や対応などについて発言を繰り返しています。 後藤政志(元東芝原子炉(格納容器)設計エンジニア) 田中三彦(元バブコック日立エンジニア・格納室設計者) 他 マスゴミが取り上げない状況が続いていましたが、 ついに毎日新聞が取り上げたのは、 のど元過ぎれば熱さを忘れる(東京五輪騒ぎ)、 人の噂も七十五日(2年半経過)、 だから気が付かないと考えたのでしょうか。 良識ある技術者(GEなどの米人、上記日本人)は当初より、 津波ではなく地震で配管系がやられて(まず)制御不能になり、 次に津波で電源損失し制御不能が重なった、 と言っています。 (経歴) 後藤 政志(ごとう まさし、1949年 - )は、日本の技術者。元東芝・原子炉格納容器設計者、元船舶・海洋構造物設計技師、工学博士。NPO APAST理事長、筆名柴田宏行。 東京生まれ、静岡県富士宮市で育つ。沼津工業高等専門学校機械工学科卒業。1973年、広島大学工学部船舶工学科卒業[1]。 1973年から、三井海洋開発で海洋構造物を設計。 1989年、東芝に入社。原子炉格納容器の圧力と温度に対する強度設計を研究。2002年までに東京電力柏崎刈羽原子力発電所の3号機、6号機、中部電力浜岡原子力発電所の3号機、4号機、東北電力女川原子力発電所の3号機の設計に携わる。 この間、原子炉格納容器の安全性は技術で担保しきれないのではとの疑念を生じるようになり、2007年7月16日の新潟県中越沖地震に伴う柏崎刈羽原子力発電所の一連の事故のときに、これは決定的にだめだ、技術者として黙ってはいられない、と思った。東芝在職中、柴田宏行名で原子力技術を批判する論文を発表した。 2009年、東芝を定年退職。 芝浦工業大学、早稲田大学-東京都市大学大学院共同原子力専攻、國學院大学で非常勤講師。 2011年3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故の翌日、田中三彦らとともに記者会見し、炉心溶融の危険性をいち早く指摘した[3]。以来、原子炉格納容器設計者の観点から、福島第一原子力発電所事故の分析を行っている。2011年5月23日、参議院行政監視委員会に参考人として出席。 小倉志郎(おぐら・しろう)氏略歴 1941年東京生。慶大工学部卒、同大学院機械工学修士。 日本原子力事業(後に東芝が吸収合併)に入社。35年間、原発の開発・建設・運転の全過程に従う。退職後、匿名論文「原発を並べて自衛戦争はできない」 http //chikyuza.net/n/archives/8887執筆を機に、平和・反原発運動へのコミットを深める。「3.11」以後は、講演会などに多忙な日々を送る。「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人。 田中 三彦(たなか みつひこ、1943年 - )は、翻訳家、科学評論家。元原子炉製造技術者。 栃木県生まれ。1968年東京工業大学工学部生産機械工学科卒業。同年バブコック日立入社、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わる。1977年退社。サイエンスライターとして、翻訳・科学評論を執筆。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。 福島第1原発 ベント筒の柱破断 震災の揺れ原因で 毎日新聞 2013年09月19日 東京朝刊 http //mainichi.jp/feature/20110311/news/20130919ddm001040055000c.html 東京電力は18日、福島第1原発1、2号機の排気筒の支柱の鋼材8カ所に、破断などの損傷を確認したと発表した。東日本大震災の揺れで壊れたとみている。排気筒は事故後、1、2号機の原子炉格納容器の圧力を下げるベント(排気)に使われた。最も高い耐震性能が求められる重要施設の損傷で、他原発の再稼働審査に影響する可能性もある。 東電によると、排気筒は1、2号機共用で高さは約120メートル。望遠カメラを使って調べた結果、支える鋼材の接合部440カ所のうち、高さ約66メートル部分の8カ所にひびが入り、ずれるなどの破損が見つかった。現在、排気筒は使っていない。大震災後の余震にも耐えたことから「現時点で倒壊の危険性は低い」としている。 一方、東電は同日、汚染水約300トンが漏れた地上タンクの解体を始めたと発表した。国際評価尺度で「レベル3(重大な異常事象)」と評価されたトラブルの原因究明に向け、週内にも解体作業を終了させる。タンクは海から西へ約500メートル離れた「H4」エリアにあり、鋼板をボルトでつなぎ合わせた組み立て式(高さ11メートル、直径12メートル、使用容量1000トン)。 2013年9月22日8時30分記 .
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/516.html
M-Tea* vol.7 no.45 現代の詐術 坂口安吾 2015.5.30 第七巻 第四五号 現代の詐術 坂口安吾 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第七巻 第四五号 ダウンロードサイトへジャンプ】 (1.8MB) 月末最終号:無料 p.116 / *99 出版 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ PDF 形式。Mac OS X 10.4・Acorbat Reader 5.0、Windows 7・Adobe Reader X および SONY Reader(PRS-T2)にて確認済み。 ※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、転載・印刷・翻訳などの二次利用は自由です。 (c) Copyright is public domain in Japan, 2015. PDF マガジン 週刊ミルクティー* まったく戦争というやつは、人間ばかりじゃない。学問だの教養だの、一切合財、カミシモをぬがせてしまう。サムライも戦争になるとカミシモをぬぐけれども、サムライというヨタモノと違って、学問などというものはヨタモノではない、生まれながらの紳士だと考えていたから、カミシモをぬぐはずはないと安直に思っていた。これが、つまり平時の心、昔の人はうまいことを言った。タタミ水錬というのである。私のようなのがタタミ水錬で、カミシモを疑うことを知らない、戦争を知らないからで、知らない、ということは、情けないことだ。 (略)だから読者諸君、銘記したまえ。戦争以来、日本は目下、中世なのである。つまりわれわれは父祖伝来ゆずり伝えたカミシモをつけ、もう電燈もガスも鉄道もある。道義も人情も仁愛もある。法律もあり統制された秩序もある。だから中世じゃない、こう考えて、そのカミシモを疑うことを知らなかった。 このカミシモが今日まで伝承完成するに千年ほども時間がかかっているのだから、これはもうカラダの一部分だというぐらいに誰しも考えていたのであったが、アニはからんや、戦争が二、三年つづくと、千年の時間がアッサリ消えて元に戻り、われわれはもうカミシモを身につけていないことに気がついたわけだ。 ※ #ref(7_45.rm) (朗読:RealMedia 形式 xxxKB、x xx) ※ お休みしまーす。 坂口安吾 さかぐち あんご 1906-1955(明治39.10.20-昭和30.2.17) 小説家。本名、炳五。新潟県生れ。東洋大卒。「風博士」などのファルス、「吹雪物語」など観念的な作風で知られ、第二次大戦後、在来の形式道徳に反抗して「堕落論」を唱えた。作「白痴」、評論「日本文化私観」など。 ◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、Wikipedia(「日本語・オフライン版-2009.2.4」『iP』2009.4月号付録 DVD-ROM。 底本 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房 1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「個性 第一巻第一号」思索社 1947(昭和22)年12月15日発行 初出:「個性 第一巻第一号」思索社 1947(昭和22)年12月15日発行 http //www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42811.html NDC 分類:914(日本文学 / 評論.エッセイ.随筆) http //yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html 難字、求めよ 職業組合 アパパイ 八方に 世耕事件 → 参照:世耕弘一か 世耕弘一 せこう こういち 1893-1965 昭和期の政治家、学校経営者。近畿大学初代総長。隠退蔵物資摘発をおこなう。(人レ)/政治家。和歌山県生まれ。昭和24年に近畿大学を創設し初代総長兼理事長に就任した。衆議院議員当選8回。その間同21年吉田内閣の内務政務次官、34年、岸内閣の国務大臣(経済企画庁長官、科学技術庁長官、原子力委員長)を歴任した。特に内務政務次官在職中、隠退蔵物資等処理委員会副委員長に任ぜられ、隠匿物資摘発にからみ、いわゆる「世耕旋風」を巻き起こした。(日本人名) 糖蜜問題 デン 殿、か。 手金サギ 盗姦殺人 強姦? キンシ 公定価 [こうていか] 公定価格に同じか。 末世の相 道義タイハイ 軍服事件 国民儀礼 矢島松朗 矢島作郎(さくろう)か? 四王天というユダヤ退治の中将 ユダヤ博士 小平 → 小平義雄か 小平義雄 こだいら よしお 1905-1949 いわゆる『小平事件』の連続強姦殺人犯として知られる、日本のシリアルキラー。栃木県都賀郡日光町(現日光市)生まれ。1945年から1946年まで10人の女性を強姦し殺害した事を自供し逮捕。ただし、うち3件は裁判では証拠不十分で無罪。1948年、最高裁で死刑が確定。(Wikipedia) 樋口 片山氏 → 片山哲か 片山哲 かたやま てつ 1887-1978 政治家。和歌山県生れ。東大卒。弁護士として無産運動に参加。第二次大戦後、日本社会党委員長。1947~48年連立内閣の首相。 璽光尊 じこうそん 1903-1984 昭和期の宗教家。新宗教璽宇教祖。しばしば神がかりに陥り世を救う神勅を示す。(人レ)/璽宇(じう)教教祖。岡山県御津郡の農家に生まれる。本名長岡良子(ながこ)。日中戦争中、大本教系の宗教団体菊花会の影響を強く受けたといわれ、敗戦直前の1945(昭和20)6月に「世を救う神、璽(たま)の光、救世の仏」との神示を受けたという。同年10月、世直しを宣言し、翌46年に金沢に本部を置いて天災地変を予言し、一躍入信者が続出した。食管法違反で検挙されたが、金沢医大で妄想性痴呆症と鑑定され、釈放された。その後マッカーサー、皇族等へ璽宇皇居への「参内」を命ずる神示を送るなど、その言動は当時のジャーナリズムをにぎわした。その後同教は閉鎖性を強め、ほとんど布教せず、本部を横浜市港区下永谷町に置いて、信仰生活を送っている。(日本大百科) ◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)、『日本人名大事典』(平凡社)、『日本大百科全書』(小学館、1989.3)、Wikipedia(「日本語・オフライン版-2009.2.4」『iP』2009.4月号付録 DVD-ROM。 スリーパーズ日記* ぽめ日記をふりかえって読んでみると、この五月下旬、図書館で常連のつきまといストーカーに悩まされていた記述が頻発。 暑さが原因で自宅のPC作業を敬遠してたことがミルクティー*出版滞りの主原因にはちがいないが、それにつづいて生活の不安定、Nexus 7 購入、『本の未来』総索引の用意……。そこへきての常連つきまといストーカーなもんだから、絶対的精神不安定。 精神的によわっちい、といわれればそれまでだが。 29日、口永良部島、新岳噴火。 小笠原沖でM8.5。 神奈川など震度5強。 全国で揺れ。津波なし。 2015.5.30 公開予定 2015.8.29 公開 しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - あー、サムネイルのリサイズ忘れたー。。。 -- しだ (2015-08-29 01 44 44) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/hokkaido4500km/pages/75.html
【尻岸内停留所】【しりきしない】 所属:函館バス 周遊指定地:恵山道立自然公園 旧恵山町中心部に相当する。 函館駅からは実に2時間以上かかる。 周遊指定地目当てであれば鹿部出張所に行く方が良いだろう。 営業時間データ 営業時間 入場券 スタンプ 初回回収時追加時間 売店営業時間 駅弁 蕎麦屋 タクシー営業 自販機 無人(待合所あり) × × - × × × 6 00~21 00 × 街データ 商店1 商店2 食堂 銭湯・温泉 貸洗濯機場 ホテル・旅館 水補給 9 00~17 00 × 10 30~19 00 × × 1,950円(基本料金) × 徒歩・タクシーデータ 行先 距離 徒歩所要時間 徒歩は危険 タクシー所要時間 タクシー運賃 戸井 14.0km 201分(3時間21分) 安全 31分 830円 椴法華 7.3km 105分(1時間45分) 安全 17分 440円 駅弁一覧 なし 販売されているきっぷ なし 隣の駅 函館バス ←戸井停留所 椴法華停留所→
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/476.html
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 野村 吉三郎 | 各国語表記 = | 生年月日 = 1877年12月16日 | 没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 画像 = Kichisaburo Nomura as Foreign Minister 1939 cropped.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = 阿部内閣の外務大臣に迎えられ記者団を前に抱負を語る野村(1939年9月26日) | 渾名 = | 生誕地 = 和歌山県 | 死没地 = | 所属政体 = Template JPN? | 所属組織 = 大日本帝国海軍 | 軍歴 = 1898 - 1937 | 最終階級 = 海軍大将 | 指揮 = 第三艦隊司令長官呉鎮守府司令長官横須賀鎮守府司令長官 | 部隊 = | 戦闘 = | 戦功 = | 賞罰 = 従二位勲一等旭日桐花大綬章 | 除隊後 = 学習院院長外務大臣(阿部内閣)駐米大使(日米開戦時)参議院議員(戦後) | 廟 = }} 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、明治10年(1877年)12月16日 - 昭和39年(1964年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。 駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。 経歴 海軍軍人時代 明治28年(1895年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業。以後海軍軍人としての経歴を歩む。 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、明治34年(1901年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリア、ドイツ駐在を経て、駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。海軍大学校は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト(米海軍次官 1913−20年)ら海外の政治家とも親交があった。やがて大正15年(1926年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。 昭和7年(1932年)、第三艦隊司令長官として上海事変に参加している折に、朝鮮人尹奉吉によるテロ事件にあって右目を失明する。一命を取り留めて海軍大将昇進および勲一等旭日大綬章を受章、昭和12年(1937年)海軍を退役して学習院院長となる。 日米交渉とその決裂 野村は国際法の権威であったことから、昭和14年(1939年)9月25日、阿部内閣において外務大臣に抜擢される。また昭和16年(1941年)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、ルーズベルトとは旧知の間柄ということが期待されて駐米大使に起用された。しかし日本の南部仏印進駐によってアメリカとの関係が一層悪化すると、日本政府は前駐独大使で外務官僚の来栖三郎を異例の「二人目の大使」としてワシントンに派遣、両大使でアメリカのハル国務長官と戦争回避のための交渉を行った。外交経験の少ない野村を来栖に補佐させようとしたこの人事は逆にアメリカ側の不信を招く結果となり、交渉は難航した。 野村はかねてから「アメリカの挑発がない限り、日本は戦争を起こさない」と言明していたが、中国からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、重慶国民党政府以外の否認を求めるハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は、米英等を相手とする第二次世界大戦に突入することを決定し、マレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃で開戦した(なお対米宣戦布告が遅れた問題については「真珠湾攻撃と宣戦布告遅延問題」を参照のこと)。 昭和17年(1942年)に日米間の交換船で帰国、その後枢密顧問官に転じた。 戦後 終戦後の昭和21年(1946年)8月に、野村は公職追放となるが、ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は積極的に野村に近づき、定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。メンバーの一人であるウィリアム・R・キャッスルは、野村を「日本を正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と評した。 昭和28年(1953年)同郷の松下幸之助に請われ、松下の資本傘下となった日本ビクターの社長に就任。空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカRCAと技術支援契約を結び再建の道筋をつける。 追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の創設に関わる。これが縁で昭和29年(1954年)に参議院選挙に出馬、参議院議員となる。自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から見送りになった。その後の運用では旧軍・自衛隊の士官経験者の防衛庁長官も誕生しているが(山下元利・中谷元など)、そのような前例が出来ていない時期だったことと、野村が軍人としてあまりにも大物過ぎたことが影響したとされる。 年譜 明治31年(1898年)12月13日 - 海軍兵学校卒業(26期)。 明治33年(1900年)1月12日 - 任海軍少尉。 明治34年(1901年)10月1日 - 任海軍中尉。 明治36年(1903年)9月26日 - 任海軍大尉。 明治37年(1904年)10月19日 - 巡洋艦「済遠」航海長。 明治38年(1905年) 1月12日 - 「京城丸」航海長。 6月14日 - 防護巡洋艦「高千穂」航海長。 11月21日 - 海軍兵学校航海術教官。 明治39年(1906年)10月25日 - 巡洋艦「橋立」航海長。 明治30年(1907年)12月18日 - 巡洋艦「千歳」航海長。 明治41年(1908年) 3月3日 - オーストリア駐在。 9月25日 - 任海軍少佐。 明治43年(1910年)5月23日 - ドイツ駐在。 明治44年(1911年)9月13日 - 防護巡洋艦「音羽」副長。 大正2年(1913年) 2月26日 - 海軍省副官。海軍大臣秘書官。 12月1日 - 任海軍中佐。 大正3年(1914年)2月11日 - 在アメリカ合衆国大使館付武官。 大正6年(1917年)4月1日 - 任海軍大佐。 大正7年(1918年)10月18日 - 巡洋艦「八雲」艦長。 大正8年(1919年) 2月5日 - 講和全権委員随員。 11月12日 - 免講和全権委員随員。 大正10年(1921年)8月17日 - ワシントン会議随員。 大正11年(1922年)6月1日 - 任海軍少将。 大正12年(1923年)9月15日 - 第一遣外艦隊司令官 大正14年(1925年)9月18日 - 海軍省教育局長。 大正15年(1926年) 7月26日 - 軍令部次長。 12月1日 - 任海軍中将。 昭和4年(1929年)2月1日 - 練習艦隊司令官。 昭和5年(1930年)6月11日 - 呉鎮守府司令長官。 昭和6年(1931年)12月1日 - 横須賀鎮守府司令長官。 昭和7年(1932年) 2月2日 - 第三艦隊司令長官。上海事変に従軍。 4月29日 - 上海天長節爆弾事件に遭い、右眼を失明。 6月24日 - 勅語を賜る。 6月28日 - 軍事参議官。 10月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 昭和8年(1933年) 3月1日 - 任海軍大将。 11月15日 - 軍事参議官。 昭和9年(1934年) 2月7日 - 勲一等旭日大綬章。 4月29日 - 功二級。 昭和12年(1937年)4月6日 - 予備役編入。学習院長。 昭和14年(1939年)9月25日 - 阿部内閣において第61代外務大臣に就任(~1940年1月16日)。 昭和15年(1940年) 7月13日 - 勲一等瑞宝章。 11月27日 - 駐アメリカ合衆国特命全権大使。 昭和19年(1944年)5月18日 - 枢密顧問官(~1946年6月13日)。 昭和21年(1946年)8月 - 公職追放。 昭和28年(1953年) - 日本ビクター社長。 昭和29年(1954年) - 参議院議員。 昭和39年(1964年)5月8日 - 死去。勲一等旭日桐花大綬章。 文献 著書 『米国に使して』 岩波書店 昭和21年 のち復刊 著書 続篇『アメリカと明日の日本』 初版:読売新聞社 1947年 復刊、吉村道男監修 日本外交史人物叢書21巻/ゆまに書房 2002年 豊田穣 『悲運の大使野村吉三郎』 講談社 1992年 講談社文庫 1995年 尾塩尚 『駐米大使野村吉三郎の無念 日米開戦を回避できなかった男たち』 日本経済新聞出版社 1994年 関連項目 Template Commons? 岩畔豪雄 海上警備隊 日本ビクター - 同郷の知人松下幸之助の要請を受けて、1953年から同社社長を務める。松下によると野村は「美空ひばりを知らなかった」とか。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月18日 (木) 00 31。
https://w.atwiki.jp/post_map/pages/3162.html
函館中央(尻岸内)郵便局 郵便番号:〒041-04・〒041-05(元は古武井郵便局が集配)・〒041-06(元は椴法華郵便局が集配) 集配地域:函館(はこだて)市の旧・亀田(かめだ)郡恵山(えさん)町域および旧・亀田郡椴法華(とどほっけ)村域。 1.jpg 尻岸内郵便局局舎 2.jpg 尻岸内郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中