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岩村明憲(いわむら あきのり) 背番号48 1979年2月9日生まれ 愛媛県宇和島市出身 右投左打 中学時代は二塁手。宇和島東高時代はBIGさんとバッテリーを組んでいた。ちなみにBIGさんが投手で岩村が捕手。 その後、1996年ドラフト2位でヤクルトに指名され入団。 実兄の岩村敬士もかつて大阪近鉄でプレーしていた元プロ野球選手。 プロ入り2年目の1998年に一軍デビュー、翌1999年に一軍定着。打率.294、11本塁打を記録してブレイクを果たすと、2000年には自身初の規定打席到達とゴールデングラブ賞を受賞。 背番号1を池山から譲り受けた2001年は日本一に大きく貢献。さらに2002年にはベストナインに初選出されるなど名実ともにチームの顔になっていく。 2003年こそケガで60試合出場にとどまるも、2004年以降もレギュラーとしてチームに貢献。2006年の第1回WBCにはゴリ、宮本さん、青木とともに日本代表として参加。世界一に貢献する。 オフシーズンにポスティングシステムを行使してメジャー挑戦。タンパベイ・デビルレイズに入団する。 メジャー移籍1年目の2007年はシーズン直後にDL入りするものの若いチームの精神的支柱として活躍を見せる。 2008年はセカンドにコンバートされ、シーズンに入ると安定した守備を見せる。ここでも精神的支柱としてチームをポストシーズン、さらにワールドシリーズ出場に導く。 2009年は前回に続きWBC日本代表に選出。正二塁手としてチームを引っ張り、ここでも世界一に貢献。 シーズンでは好調な打撃を見せたが、クロスプレーでひざを負傷。オフに交換トレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。 しかしパイレーツに移籍した2010年は打撃不振に苦しみ9月に解雇される。その後オークランド・アスレチックスに移籍するもここでも目立った成績は残せず解雇される。 オフに東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。 同じく日本球界に復帰した松井稼頭央とともに主力として期待されたが、攻守ともに精彩を欠いて期待に沿う活躍ができず。翌2012年も期待を下回る成績に終わり、オフに戦力外通告を受ける。 東北楽天時代の詳しい動向についてはわしせんwikiを参照されたし。 2012年オフに東京ヤクルトに移籍。実に7年ぶりの古巣復帰となった。 2013年、オープン戦中に「(楽天が自分を)手放して痛かったなと思ってほしい」と発言。その言葉通り開幕一軍を勝ち取ると、5月までに東北楽天での2年間(ちなみに1本)を超える3本の本塁打を放つ。
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岩村明憲 1979年2月9日生まれ 愛媛県宇和島市出身 右投左打 2回のWBCを経験した元大リーガー。 CSでWBCの再放送があると、岩村のかっこいい姿に色々な意味で涙する住民多数。 第2回大会では内野陣のリーダーとして、セカンドで堅実な守備とここぞという時に打撃で侍ジャパンに貢献。 宇和島東高校出身でBIGさんの後輩。当時エースピッチャーだったBIGさんとバッテリーを組んだこともある。 1997年にヤクルトへ入団。走・攻・守三拍子揃った三塁手として活躍し、池山隆寛からMr.スワローズの証、背番号「1」を受け継いだ。 2006年オフ、ポスティングでタンパペイ・デビルレイズ(当時)へ移籍する。BIGさんが(一応)三塁を守れるのは、当時岩村の穴を埋めるために、コンバートしたから。 暗黒だったレイズを、2008年に初の地区優勝、惜しくも敗退したがワールドシリーズへ導く立役者となる。岩村が受けた激しいスライディングが元で、退場者11名を出す大乱闘になったことがある。 一時、レイズで監督をはじめ選手にモヒカンが流行ったのは実質的にチームリーダーであった岩村の影響である。 レイズ時代、ヤンキースの選手だったラズナーと対戦したこともある。結果は2打数1安打1三振。 2009年オフ、ピッツバーグ・パイレーツへトレード。岩村の特長である左方向への強い打球がなくなるなど、深刻な打撃不振に陥り、9月に戦力外となってしまう。 オークランド・アスレチックスが獲得したが、目立った成績を残せず解雇。 高年棒も移籍先を探すにはネックとなったことから、日本球界復帰となった。 2010年11月14日、楽天が獲得したことが発表される。背番号は「1」。塩川、涙目…。 契約前、星野監督から電話で「お前と野球がしたかったんや」と包み込むような声で言われたらしい。 同じメジャー帰りの松井稼頭央とはAKB(Akinori Kazuo Brothers)を結成。命名の理由はおそらく、岩村が記者に「(松井を)兄貴のように慕っています」と言ったから。 盛り上げ役を買って出てでもいるのか、わしせん民の心をぐっとつかむようなことをよく口にしてくれる。 また開幕前からメディアへの露出が非常に多い。スポーツ紙の取材はもちろん、「run for money 逃走中」(フジ)にも出演。残念ながらあっさりバテて捕まってしまう。 なぜか長野でのひじりーと千尋たん(檻)のイベントにゲストで登場している。この日岩村と初対面のひじりーはガチガチだったらしい。長野とは縁も所縁もない岩村がどうして参加したのかはいまもって謎。 ごつい体格と日に灼けた外見がルイーズと似ている。スレでは「左のルイーズ」と呼ばれることも。 ニコ生のキャンプ中継では、「岩村、痩せろ」とコメントがついた。だがこのとき、ルイーズ以上の扇風機になろうとは誰が予想しただろうか……。 ヤクルト時代の2003年ごろから強烈なメジャー志向を表していたらしい。そのためか当時から英語がペラペラ。外国人選手とも仲が良かったそうだ。なお、スペイン語もいけるらしく、レイズ時代はコミュニケーションで困ることはなかった。 英語を社内公用語とする楽天本社の納会に参加した際には、流暢なあいさつを披露した。一方、まさおは「Nice to see you. I m Masahiro Tanaka... あとは日本語でいいですか?」とギプアップ。半袖にいたっては「Hi!」「Do my best!」で乗り切っていた。 伝説の怪童、中西太を打撃の師と仰いでいる。ブログのタイトル「AKI何苦楚魂」も中西の座右の銘が由来。 ヤクルト時代は広角に打てるバッティングで三振とヒットを量産していた。MLB移籍後は、トップバッターとして起用されたこともあり、出塁を重視したスタイルに。 自ら認めるほどのスロースターター。OP戦ではその貫禄に住民を大いに心配させた。 震災で開幕が延期されたが、開幕戦で2安打を放った以降はスロースタートどころかそれ以前の問題。 打棒も不調なら守備もエラーが頻発と、1ヶ月もしないうちにわしせん民がキレはじめる。 左投手相手のスライダー、カーブに背を向けて見逃し三振に倒れるなど住民が呆れる様な打撃を見せる。 あまりに打てない守れないなので、「ノリさんの方がマシ」「元背番号1のほうが使い道があるぞ」という声すら出た。 とある試合にて、解説の駒田が「岩村に復調の気配がある」と発言。実際に打球が前へ飛ぶようになっていたので期待するわしせん民もいた。――が、結局どん底は変わらず。とうとう二軍へ落とされた。 6月28日に1軍登録。今までも夏は活躍してきたことが多い。今までの分の返上、頑張れ。すると登録された翌日のソフトバンク戦で抑えの馬原から左中間へまさかのサヨナラ打を打った。住民総土下座。 ヒロインで「朝、テレビの占いで1位だったので、それを意識して打席に立った」と語る。 おそらくみずがめ座が1位だったフジの「めざましテレビ」。 「うれしいサプライズ演出を受け感激。願っていた以上の展開に心ウキウキ。アドバイス:ダメもとで行動する」 予言?! 8月14日の試合中、サードに来たファウルボールのゴロを何とトンネルした。それを見逃さなかったファンは強烈な野次を発した。 結局、その後にケガで再び二軍落ちし、そのままシーズン終了。打率.183、HR0、打点9。さらに肝心な場面でのエラーなど期待を大きく裏切る結果となり、完璧に「ダメジャー」の烙印を押される。 シーズン終了後の秋季キャンプではおっさんと共に自主参加。 写真や映像で姿を見せるたび、痩せた痩せないでわしせん民がよく騒いでいる。本人は痩せたことを自覚しているらしく、つば九郎にも自慢していた。 ところがどっこい、2012年もOP戦は絶不調。HRを打った試合でエラーをすることも。さらに練習中に肉離れで開幕絶望に。 開幕は2軍だったが、1軍に故障者が続出したり、2軍でそこそこの成績を残していたので6月に1軍からお呼びがかかる。 打率が低迷していたが、外野によく飛ぶようになり一部住民からは「去年の凡退よりはまとも」という声が相次ぐ。監督も期待の表れなのか、定期的に出場させていた。 7月あたりから好調になり始め、マルチ安打も続いた。7月7日には楽天入団初のHRを放ち、住民の手のひら返しを炸裂させてくれた。ちなみに7月7日の試合はプロ初の4番として出場。燕時代も機会がなかったのは、恐らくペタジーニやラミレスがいたからであろう。 その後は、打率は.200前後と停滞気味なものの、四球での出塁が多く出塁率が3割に乗り、打率を考えるとかなり高めに推移する。 しかし、怪我で再び離脱しジ・エンド。割といい出塁率だけでは評価されず、銀次、枡田の台頭もあり、戦力外通告を受ける。 結局先輩の宮出同様、東京ヤクルトへの復帰が決まった。まあ、よかったよかった。 2012年7月に行われた緊急入団会見ヒーローインタビューの模様。楽天ファンの涙を誘った。 2015年福島ホープス選手兼任監督
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プロフィール 選手名 -岩村 明憲(いわむら あきのり) 背番号 - ヤクルト時代 48(98年~00年)→1(99年~06年)→48(13年~) レイズ時代 1(07年~09年) パイレーツ時代 3(10年) アスレチックス時代 1(10年) 楽天時代 1(11年~12年) 出身地 - 愛媛県宇和島市 身長/体重 - 176㎝/80㎏ 投打 - 右投左打 球歴 - 宇和島東高-ヤクルト/東京ヤクルト(96年ドラフト2位)-デビルレイズ/レイズ-パイレーツ-アスレチックス-東北楽天-東京ヤクルト 顔文字 - ( ゚∀゚) 実況板でのあだ名 - 岩村さん、赤、上村さん 関連用語 - 岩村軍団、ショートに打たせてくださいよ、宇和島人 入団前 愛媛県の強豪、宇和島東高で1年先輩の宮出と共に活躍。「四国の怪童」との異名をとり、ある日の県予選で1番バッターで出場したらプレーボールでいきなり敬遠された事もあるらしい。 高校全日本では4番にも座っている。フィリピン遠征ではリサール・メモリアルスタジアムでホームランを放ち、球場フェンスに「Iwamura Akinori」の名前が刻まれている。この画像は岩村公式HPで閲覧可能となっていた。 一時期捕手をしており、当時宇和島東のエースだった宮出とバッテリーも組んでいる。 ヤクルト時代 1年目から戸田で活躍。3年目の00年にサードのレギュラーを獲得し、ゴールデングラブ賞も受賞する。 01年からはかつて若松元監督や池山が背負っていたミスタースワローズの代名詞である背番号1を継承。2年連続のゴールデングラブ受賞。打撃面でもラミレスと恐怖の下位打線を結成してチームの日本一に大きく貢献する。 02年はフル出場+3割20本の成績を残し3年連続でゴールデングラブ、そして初のベストナインにも輝く。 03年は開幕戦でいきなり右手首を故障し長期離脱。結果的にこの離脱はこの年から加入した鈴木健の大活躍のきっかけとなる。終盤に復帰しセンターを守ったりもしていた。 04年は鈴木健、ラミレスと共にしりとりクリーンナップを結成。ペタジーニに並ぶ球団記録シーズン44本(ヤクルトの日本人選手としては新記録)のHRを放ち4度目のゴールデングラブを獲得。 05年は2年連続で3割、30本、100打点の活躍で5度目のゴールデングラブも獲得した。 06年は開幕前のWBC日本代表にも選出。シーズンでは不動の3番打者に座り、打点が多少少ないものの、打率、本塁打は流石の成績。8月には月間12本塁打を放ち、リグスと並んで月間本塁打球団記録12本(92年のハウエルが保持)を達成。06年9月25日の中日戦で3年連続30本塁打を達成。なおこの記録はマニエル、池山、ペタジーニ、ラミレスに続く球団史上5人目の大記録。スワローズの日本人選手としては2人目。 06年オフにポスティングシステムによる移籍でデビルレイズへ移籍。以前からの目標であったメジャーへの挑戦を叶えた。 岩村選手からファンのみなさんへ最後のメッセージ(公式サイトより・リンク切れ) 「10年間、この神宮でファンのみなさん、チームメイト、監督・コーチ、スタッフ、球団関係者、みなさんに支えられて自分の野球スタイルを築くことができました。 宇和島から大都会・東京に出てきて、第2の故郷は、この神宮のサードベースの横だと思っています。 この10年、ファンの方々から叱咤激励をしてもらい、ここまで成長することができました。これからはヤクルトOBとしてアメリカで全力でプレーしていきたい。 ヤクルトのユニフォームを脱ぐことを選びましたが、この決断をまだ理解されてない方には、向こうで納得、理解できるプレーをして見せたいと思います。 朝のテレビ中継などで、一日でも早く、一日でも多く活躍できるよう頑張ります。ボクもアメリカからヤクルトの動向を気にしています。 みなさんも岩村を忘れずに応援してください」 メジャー時代 デビルレイズではヤクルト時代と同じく背番号1を背負い、1番サードとして活躍。シーズン開幕まもなく右わき腹痛で故障者リスト入りしてしまうが、その後は順調に行き、最終的に打率.285、三塁打リーグ2位とルーキーシーズンとしてはまずまずの打撃成績を残し、三塁守備ではメジャートップの守備率を記録した。 08年には球団名が「タンパベイ・デビルレイズ」から「タンパベイ・レイズ」と変更され、新生レイズの1番打者として活躍。デビルレイズといえば万年最下位の弱小チームであったが、松坂、岡島が所属するレッドソックス、松井秀、井川が所属するヤンキースという強豪を抑え、ア・リーグ東地区でチーム創設初の地区優勝を果たした。 09年5月に守備でランナーと交錯し、じん帯を部分断裂。当初はシーズン絶望とされていたが、ケガが想定よりは重くなく3ヶ月間の離脱ののち復帰した。 09年11月にジェシー・チャベス投手とのトレードでパイレーツに移籍することが決まった。 10年はパイレーツでレギュラーとして54試合に出場するが、40打席連続ノーヒットなどの打撃不振から戦力外通告を受けマイナー降格となった。9月に解雇され、アスレチックスに移籍。アスレチックスでの出場は10試合で、10月に解雇された。 東北楽天時代 2011年シーズンに星野仙一監督が就任すると「お前と野球がしたい」の口説き文句で東北楽天に移籍ヤクルトファンの一部からはがっかりする声があがり、フロントを批判する風潮もあった。 ただ、シーズンが始まると東日本大震災の復興の象徴となりたいという願いも虚しく極度の不振に陥り、攻守ともに精彩を欠いている。 膝の故障による影響か、体型の肥大化による動きのキレの悪さは素人目にも明らかであり(2月のキャンプインから程なくして、チーム内では岩村の動きの悪さが“評判”になっていたらしい)ヤクルトフロントと星野の先見性に関する評価が逆転してしまった 12年は26試合の出場にとどまり、10月に戦力外通告された。 ヤクルト復帰 戦力外通告後からヤクルト復帰の可能性が報道されており、12月に復帰が正式に決定。背番号は入団当初に付けていた「48」となった。 三振王 上記の様に素晴らしい活躍を見せているが、岩村を語るには「三振」がかかせない。 パワーヒッターに三振は付き物というが岩村の場合尋常ではない。レギュラー定着時からコンスタントに100三振し、04年には173三振というプロ野球史上日本人最多シーズン三振という数字をたたき出した。 05年も146三振をし堂々2年連続でセリーグ三振王になる。 このような事から実況板住民も日常化している岩村の三振にはあまり怒らず、貫禄という言葉で片付けられてしまっている。 ところでこんなに三振して何故打率3割なのかと言うとそれは帳尻永遠の謎である。 05年から左投手を苦手とする現象が露骨に現れ、06年はトップクラスの左投手が出るとほぼ確実に凡退していた。 メジャー志向 強烈なメジャー志向の持ち主でもある。英語もペラペラであり、チーム内でもラミレスを始めとした外国人選手と仲が良い。シーズンオフにアメリカのラミレスの家まで遊びに行くほどである。 03年頃から球団にメジャー直訴→日本一+大活躍が条件→できませんを繰り返していた。 04年シーズンではこれまであまりしなかった盗塁をすると宣言していたが8盗塁。しかしオフに開催された日米野球ではここぞとばかりに盗塁しまくりメジャースカウトに実力をアピール。これには実況板住民も苦笑するしかなかった。 06年オフにメジャー挑戦を改めて表明。球団もポスティングシステムによる移籍を容認し、移籍金5億3000万でデビルレイズに落札された。契約時のアメリカ版Yahoo!ニュースでは今江(ロッテ)と間違えられている。 このメジャー志向の為か、実況板では岩村の事をA・イワムラ(アレックス・ロドリゲス=Aロッドが元ネタと思われる)とさも外国人であるかの様に言われる事がある。メジャー移籍後の実況板では「レイズのサードが欲しい」「あのイワムラって選手良いね」というネタも出ている。 その他 藤井と仲が悪いというネタが存在する。発端は岩村と藤井がある試合でお立ち台に上がった際、岩村がヒーローインタビューを終えると藤井を待たずにさっさとクラブハウスへ帰ってしまったという話である。(この事件は実際あったかどうか不明)加えて、ウッズの暴行事件に際して移籍選手である鈴木健などはすぐに仲裁に入ったのに岩村はマウンドに駆けつけることもなく、事後のブログで「投手はなぜ逃げなかったのでしょうか」と、藤井をあえて「投手」と呼び、チームメイトを気遣う様子もほとんどなかったこともヤクルトファンの間で話題となった軽い感じの藤井と基本的に真面目な岩村ではソリが合わないだろうというイメージもこのネタの浸透に一役買っていると思われる。 04年の川崎(元ヤクルト、当時中日)引退試合の際、3番として出場した岩村は1回表に川崎から三振を喫す。この試合ではヤクルト側の配慮もあり、1番、2番に90年代ヤクルト黄金期を川崎と共に支えた古田、宮本を起用。この両者を三振に打ち取った後岩村と対戦。川崎と縁の深い古田、宮本が配慮して三振するというのは分かるが、特に縁のない岩村までが三振したのは川崎への配慮ではなく岩村だけガチの三振だったというネタとなっている(岩村さんだけはガチ)。もちろん岩村も引退する川崎に配慮しての三振であっただろうが、岩村は極端に三振の多い打者という背景がある為にこういったネタが生まれたと考えられる。 メジャー移籍時、「アメリカでもヤクルトのラーメンを食べたい」という発言を伝え聞いたヤクルト本社から「麺許皆伝」というヤクルト本社製ラーメンを送られた。 過去にはセカンドゴロ(二塁ゴロ)の多さからアヒャ村ニゴ憲と呼ばれる事もあった。 外部リンク TOPGUN#1 岩村明憲Official Site 10年3月31日閉鎖(Sports@nifty PCサイトサービス終了によりリンク切れ)http //gun1.nifty.com/index.htm AA ヽ ナ ヽ( ゚∀゚)_ ニ ( 1 ) ク / ソ 年度別成績 年度チーム試合打数得点安打二塁打三塁打本塁打打点四死球三振盗塁打率 1998ヤクルト13000000020.000 1999ヤクルト832522874114113519467.294 2000ヤクルト1304366712113918664310313.278 2001ヤクルト1365207914924418813511115.287 2002ヤクルト140510671633522371611145.320 2003ヤクルト60232436162123523555.263 2004ヤクルト1385339916019044103741738.300 2005ヤクルト1445488317531430102651466.319 2006東京ヤクルト145546841702723277761288.311 2007デビルレイズ1234918214021107345911412.285 2008レイズ15262791172309648771318.274 2009レイズ69231286716212225449.290 2010パイレーツ541651830612926313.182 2010アスレチックス10313410045100.129 2011東北楽天77175932600918410.183 2012東北楽天2667914601511100.209 NPB通算1080382256811191782718958442092967.293 MLB通算408154522241374221611719233032.267 タイトル セントラル・リーグベストナイン三塁手部門:2回(02年・06年) セントラル・リーグゴールデングラブ賞三塁手部門:6回(00年~02年・04年~06年) セントラル・リーグ月間MVP打者部門:1回(04年8月度) 日本シリーズ優秀選手賞:1回(01年) 代表歴 WBC日本代表(06年、09年) IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表(99年) これまでのアクセス数 - 本日のアクセス数 - 昨日のアクセス数 -
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内野/G/一/二/三 右投げ/左打ち/176cm/84kg 愛媛/E/COST:28 メジャー帰りのチームリーダー 3年連続3割30本塁打の記録を引っさげアメリカに渡ったパワータイプの内野手。 メジャーでも若いチームをリーダーとして牽引し、アメリカンリーグ制覇に貢献した。 元々、積極的に狙っていく打者だったが、じっくり球を見極めるスタイルもアメリカで身に付け、その進化はまだまだ止まらない。 ステータス 期数 打撃 防御 パワ 走力 肩力 更新 1 10 7 10 9 7 up100311 2 11 7 10 9 7 up110401 3 11 8 11 9 7 up110322 4 11 8 11 9 7 up110403 5 11 8 11 9 7 up110406 6 10 7 10 9 7 up110508 7 7 5 7 7 5 up111107 8 5 3 5 5 3 up110704 9 3 2 3 3 2 up111107 10 1 1 1 1 1 up110611 守備適性 ※四段階表示、モバプロ画面で濃いオレンジが4、チョイ薄めが3、濁ったオレンジが2、グレーが1にしています。 1 1 1 1 4 4 2 1 打順適性 1番 2番 3番 4番 5番 6番 7番 8番 9番 3 3 3 2 3 3 2 2 2 特性/球種 キャプテンシー チームプレイ○ 広角打法 選球眼 大振り 更新日:2011-11-07
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元東京ヤクルトスワローズ、現在はメジャーリーグタンパベイ・レイズ。 ヤクルト時代は三塁手だったがレイズでは器用さを見込まれ チーム事情もあり二塁手にコンバート。 戸惑いながらも上手くこないしている。 おかげで「日本人は器用だね」と外人に思い込まれている。 ヤクルト時代はどちらかというと中距離バッターだったが レイズではリードオフマンで定着し活躍。 レイズ大躍進に貢献した。
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基本プロフィール 生年月日 1979年2月9日 職業 元野球選手 クロノスプロフィール 総参戦回数 1 賞金獲得回数 0 復活回数 0 逃走時間 1時間11分23秒 逃走率 79.31% 逃走ポイント 8万5660 各回成績 逃走中 出演回 逃走時間 逃走率 逃走ポイント 順位 備考 卑弥呼伝説 71分23秒/90分 79.31% 85660 7位/16人 略歴 1995年に全日本高校選抜の4番を務め、1996年にヤクルトスワローズに入団。2006年・2009年にはWBC日本代表に選出され世界一を獲得した。 2007年からは大リーグのレイズに移籍し活躍。その後パイレーツ→アスレチックスと渡り2011年からは楽天で日本球界に復帰。古巣ヤクルトに戻った後、2015年からは独立リーグの福島レッドホープスに選手兼任監督として活動。2017年に現役引退後も監督を務めている。 レイズ初年度ではルーキーとして歴代最高の出塁率を記録、また、出塁率と長打率に球場の特性が補正された「OPS+」でも日本人内野手歴代2位を記録するなどミート・パワーともに優れており、守備では2007年にリーグ1位を記録。走塁も3度に渡り2桁盗塁を記録した。 クロノス略歴 逃走中1回。「卑弥呼伝説」に出場。 これまで元プロ野球選手は多く参戦経験があるが、出演時点で現役選手は氏が初となる。 オープニングゲームは2番手で挑戦。「投げ慣れている」と言われるも「ボールの方が良い」「逃げる準備だけしといてください」と弱気な中、出目は「4」でクリア。 賞金単価減額ミッションではワラを持つ住人を見つけるが、ワラを分けてもらえず貢献ならず。 ハンター消滅ミッションでも村人たちに大臣の場所を聞き内かくに向かう中、「野球の時とは違う緊張感ですか?」と聞かれ「全然違うよこんなの。こんなん味わんやろ。」とツッコみ、「野球と逃走中、どっちの方が気分的に楽ですか?」と聞かれ、「強いて言うならば盗塁するときのスリルぐらいかな」と語る中で正面からハンターに見つかり逃走。林の中を逃げるが、流石は現役野球選手の脚力で撒くことに成功。が、「きっつ!」とその過酷さに息切れ。 伊達みきおからの卑弥呼救出依頼のメールには「行きましょう。卑弥呼様助けたい。」と向かう事を決意。吉村崇・木下隆行と共にハンゾを説得し連れていくことに。続々と逃走者が合流するも、ハンターを発見しハンゾから離れここでも貢献ならず。 「僕の売れる所って言ったらやるときやるって事なんで…」と自分のセールスポイントを考え、「ハンターより実は俺の方が足が速かったという…」というビジョンを考える中でハンターに見つかり逃走。真っすぐで撒き場所の無いまさに長距離の体力勝負となるが、坂道で「キツイ!」と漏らすなど限界に。40秒近い超ロングランを見せるものの最後は体力切れで確保。「しんど…速っ…」とハンターのスピードと底なしの体力に屈した。 ▽タグ一覧 スポーツ選手 卑弥呼伝説 野球選手
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岩村明憲 spanclass プラグインエラー class名は半角英数字で入力してください。 SS 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- LvMax 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- S17 巧 364 長 390 走 344 送 461 守 432 精 435 総 2426 LvMax 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- G 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- LvMax 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- 備考:適正最大値(SS)…○○ 打順 C/A/B 投打 右/左 編集
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内野/G/二/三 右投げ/左打ち/176cm/84kg 愛媛/E/COST:19 メジャー帰りのチームリーダー 3年連続3割30本塁打の記録を引っさげアメリカに渡ったパワータイプの内野手。 メジャーでも若いチームをリーダーとして牽引し、アメリカンリーグ制覇に貢献した。 元々、積極的に狙っていく打者だったが、じっくり球を見極めるスタイルもアメリカで身に付け、その進化はまだまだ止まらない。 ステータス 期数 打撃 守備 パワ 走力 肩力 更新 1 10 9 9 7 7 up120318 2 10 9 9 8 7 up120318 3 10 9 11 8 7 up120318 4 10 9 10 7 7 up120324 5 10 9 10 7 7 up120325 6 9 8 9 6 6 up120403 7 7 6 7 4 4 up120414 8 5 4 5 2 2 up120414 9 3 2 3 1 1 up120414 10 2 1 2 1 1 up120414 守備適性 ※四段階表示、モバプロ画面で濃いオレンジが4、チョイ薄めが3、濁ったオレンジが2、グレーが1にしています。 1 1 1 1 4 4 2 1 打順適性 1番 2番 3番 4番 5番 6番 7番 8番 9番 4 4 4 3 4 4 3 3 3 特性/球種 キャプテンシー チームプレイ○ 広角打法 選球眼 大振り 更新日:2012-04-14 名前 コメント
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チーム名が「デビルレイズ」から「レイズ」へと変更となり、チームの変革の年を迎え、岩村自身もサードからセカンドにコンバートされた。また、チームのために自身のバッティングスタイル、積極果敢な走塁など自身のプレースタイルを変え、若手に守備を教えたり、ミーティングで発言するなど若手中心のチームを引っ張り、レイズをワールドシリーズ出場まで導いた。 シーズン成績 打率.274 HR6 打点48 盗塁8
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