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前半は岩倉具視参照 官歴 ※日付は明治4年までは旧暦。 天保9年(1838年) 10月28日、従五位下叙位。 12月11日、元服し、昇殿を許される。 天保12年(1841年)6月4日、従五位上昇叙。 弘化2年(1845年)2月18日、正五位下昇叙。 嘉永7年1854年) 3月20日、侍従任官。 6月10日、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 万延元年(1860年)12月29日、右近衛権少将に転任。 万延2年(1861年)1月5日、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 文久2年(1862年) 5月15日、左近衛権中将に転任。 8月20日、左近衛権中将辞任し、蟄居。 8月22日、落餝。法名:友山 慶応3年(1867年) 12月9日、明治政府参与兼務。 12月27日、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年(1868年) 1月9日、明治政府(以下、この年のみ政府と略し表記)。副総裁兼任。 1月27日、政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務。 2月2日、従三位昇叙し、右兵衛督に任官(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)。 2月20日、政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職。 閏4月20日、政府副総裁辞職。 閏4月21日、政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相兼務。 明治2年(1869年) 1月7日、輔相辞職。 1月25日、正二位に昇叙し、権大納言に転任。上局議定元の如し。 7月8日、制度改正により、上局議定より大納言に異動。 11月23日、兵部省御用掛兼務。 明治4年(1871年) 7月14日、制度改正により大納言から外務卿に異動。 10月8日、右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動。 11月12日、横浜出航。 明治6年(1873年) 9月13日、横浜帰航。 10月20日、太政大臣代理兼任。但し、同日のみ。 明治9年(1876年) 4月19日、華族会館長兼帯。 5月18日、従一位昇叙。 5月26日、華族督部長兼務。 12月29日、勲一等旭日大綬章受章。 明治15年(1882年) 11月1日、大勲位菊花大綬章受章。 11月15日、華族督部長職廃止に伴い止む。 12月4日、華族会館長辞職。 明治16年(1883年) 4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。 7月20日、死去。 7月23日、贈太政大臣。 7月25日、国葬。 明治18年(1885年)7月20日、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 京都・洛北の実相院近く(現・京都市左京区岩倉上蔵町)にあり、今は住宅や病院に囲まれている。数えの38歳で辞官・落飾した岩倉具視は地元の大工から古家を譲り受け、文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)11月までの5年余り住んだ。幽居中とはいえ活発に政治活動を続けた具視はここでも浪士らにつけ狙われた。 建物は質素な平屋建て二棟で、うち南側(表側)の1棟は移住後の元治元年(1864年)に、増加する来客に対応するため増築したもの。具視死去後の明治35年(1902年)に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたがほぼ当時のまま残され、その後昭和7年(1932年)に国の史跡に指定されている。 現在は「財団法人岩倉公旧跡保存会」の手で管理され、有料で公開されている。敷地内には「対岳文庫」と名付けられた小さな博物館もあり、遺品等の収蔵品のごく一部は陳列されている。この収蔵品のうちの1011点は平成12年(2000年)に国の重要文化財に指定されている。 旧居内に上がって室内を見学することもできるが、あまり室内の清掃を行っていないため足裏が少し汚れることを了承のうえ見学すべきである。 500円紙幣 昭和26年(1951年)発行開始の日本銀行券B五百円券、および昭和44年(1969年)発行開始のC五百円券に岩倉の肖像が採用された。C五百円券は500円硬貨の登場(昭和57年(1982年))後も、昭和60年(1985年)まで製造されていた。 系譜 岩倉氏 岩倉氏の本姓は村上源氏 村上天皇…(略)…具慶=具視━┳増子 ┏具栄━┳具忠 ┃ ┣=具定━┳周子 ┣具実 ┗具房 ┃具綱 ↑ ┣具張━╋具方 ┣具義 | ┣具幸 ┣初子 ┣具定―┘ ┣豊子 ┣雅子 ┣具経 ┣米子 ┣靖子 ┣極子 ┣具高 ┗凞子 ┣多治子 ┣具顕━┳具憲━━瑞江 ┣静子 ┣花子 ┗具子━━加山雄三━┳池端信宏 ┣寛子 ┣季子 ┣山下徹大 ┗道倶 ┗良具 ┣梓真悠子 ┗池端えみ 子孫 子 南岩倉具義(長男。分家・南岩倉男爵家を創設。) 岩倉具定(次男。学習院院長・宮内大臣などを務める) 岩倉具経(三男。分家・岩倉男爵家(具経流)を創設。宮中顧問官) 岩倉道倶(四男。分家・岩倉男爵家(道倶流)を創設。貴族院議員) 戸田極子(長女。陸奥亮子とともに「鹿鳴館の華」とよばれた美人) 孫 岩倉具張(具定の長男。公爵、貴族院議員) 有馬頼寧(政治家。農林大臣・日本中央競馬会理事長を務めた) 依仁親王妃周子(かねこ)(具定の長女。東伏見宮妃) 鮫島具重(具経の四男。海軍中将) 曾孫 岩倉具栄(具張の長男。英文学者。法政大学教授、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)総長) 岩倉具実(具張の次男。言語学者。同志社大学教授) 岩倉靖子(具張の三女。非合法時代の共産主義運動に参加して検挙された。釈放後、自死) 有馬頼義(直木賞作家) 森有正(哲学者) 岩倉具憲(パシフィックホテル社長) 小桜葉子(本名(旧姓)岩倉具子。女優) 岩倉瑞江(婦人服ブランド「スポーティフ」を経営) 玄孫 岩倉具忠(具栄の長男。イタリア文学者。京都大学教授) 岩倉具房(具栄の次男。株式会社ウテナ代表取締役社長) 亀井久興(衆議院議員。国民新党幹事長) 加山雄三(歌手・俳優) 喜多嶋修(音楽プロデューサー) 来孫 亀井亜紀子(参議院議員。国民新党副幹事長・女性局長) 喜多嶋舞(女優) 山下徹大(俳優) 昆孫 岩倉正和(弁護士。西村あさひ法律事務所のパートナー弁護士) その他 岩倉具博(元ジャニーズJr.、通字を受け継いでいるので直系である可能性はあるが、詳細は不明) 演じた俳優 二谷英明(『竜馬がゆく』 1968年・NHK大河ドラマ) 林昭夫(『勝海舟』 1974年・NHK大河ドラマ) 西本裕行(『花神』 1977年・NHK大河ドラマ) 鈴木瑞穂(『竜馬がゆく』 1982年・テレビ東京12時間超ワイドドラマ) 島田順司(『大奥』・1983年、フジテレビ) 佐藤慶(『田原坂』 1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャル) 小林稔侍(『翔ぶが如く』 1990年・NHK大河ドラマ) 原田大二郎(『勝海舟』 1990年・日本テレビ年末時代劇スペシャル) 寺脇康文(『徳川慶喜』 1998年・NHK大河ドラマ) 木下ほうか(『竜馬がゆく』 2004年・テレビ東京新春ワイド時代劇) 中村有志(『新選組!』 2004年・NHK大河ドラマ) 片岡鶴太郎(『篤姫』 2008年・NHK大河ドラマ) 脚注 関連項目 岩倉家 岩倉高等学校 - 東京都台東区上野、鉄道界の恩人と賞された岩倉の遺徳にちなんで命名 村上源氏 - 岩倉氏の本姓 源氏 岩倉使節団 参考文献 佐々木克『岩倉具視』吉川弘文館 ISBN 4-642-06285-8 外部リンク Template commonscat? 岩倉具視の肖像 (国立国会図書館) 早稲田大学 - 大隈をめぐる人々 - 岩倉具視 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月25日 (火) 09 03。
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{{政治家 |各国語表記 = いわくら ともみ |画像 = Tomomi Iwakura 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1825年10月26日(旧暦)1825年9月15日 |出生地 = 京都 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正一位・大勲位 |配偶者 = 野口槇子 |国旗 = 日本 |職名 = 第2代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1871年7月14日 (旧暦) |退任日 = 1871年11月4日 (旧暦) |退任理由 = |元首職 = 天皇 |元首 = 明治天皇 }} 岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。源通親の子孫。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。正一位・大勲位。 経歴 幼少期 公卿・堀河康親の次男として京都に生まれる。幼いころの幼名は周丸であったが、同じ公家の子女達の間では「岩吉」(庶民の子供によく見られた名前)と呼ばれていた。容姿や言動が公家らしいおっとりさがなく、異彩を放っていたためという。幼いころから朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。 天保9年(1838年)8月8日、満13歳のときに岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい、「岩倉具視」となった。10月28日に叙爵。12月11日に元服するとともに昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し100俵の役料を受けた。 岩倉家の家格は、村上源氏久我家の江戸時代の分家であるので、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる下級の公家である。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元として免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も特になかったので家計は、大多数の公家同様常に裕福ではなかったというただし石高的には岩倉家と同程度の家が大多数であり、それ以下の石高の家もたくさんあった。 青年期 嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。 岩倉は早速、朝廷改革の意見書を政通に提出。朝廷の積立金を学習院の拡大・改革に使い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は武家社会以上に激しい身分制社会であり(武家社会では有能な官僚であれば下級武士でも身分違いの役職に任じられた例もしばしばみられた)、家格のみで官位の昇進のスピードまで固定されていた。通常朝廷政務にあたっていたのも天皇・摂関・清華家など朝議出席メンバーのわずか十数名。岩倉をはじめとする大多数の下級公家には朝議に出席できる見込みはほとんどなかったから、まずはこの体制の打破が急務と考えた。これを聞いた政通はもっともというように頷いたが、即答は避けたという(『岩倉公実記』)。 八十八卿列参事件 安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。 岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条関白は病と称して参内を辞退したが、岩倉は諦めず御所を出るとすぐに九条邸に赴き、関白との面会を申し込んだ。九条家の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう関白は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉が漸く九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。 3月20日、堀田は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とはもちろん岩倉具視ら反対派公卿のことであり、要するに岩倉たちの反対によって勅許は与えられないということであった。堀田は「もはや正気の沙汰とは思えない」と嘆きながら手ぶらで江戸へ引き上げることとなった。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。 岩倉は列参から2日後の3月14日には政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。その内容は、 日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった) 条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策 などを記している。しかし一方で単純攘夷は否定し、 相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。 米国は将来的には同盟国になる可能性がある。 国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。 として、そのため伊達や島津などの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。 安政の大獄 ところが安政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒した。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々と不平等条約を締結。さらに「勅許なき条約は無効である」と井伊に抗議していた前水戸藩主徳川斉昭や福井藩主松平慶永らを7月5日に謹慎処分に処した。孝明天皇は8月8日に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下すに至った(戊午の密勅)。これを受けて井伊は勅令を出させた犯人として10月18日に水戸藩士鵜飼吉左衛門を打ち首にしたのをはじめ、尊攘派や一橋派に対する大弾圧安政の大獄を発動。 この頃の岩倉は対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた ref name=iwakurakoujikki 岩倉公実記。そのため京都所司代・酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。この後、公家からも隠居・蟄居処分にされる者が出ており結果的には会談の成果はなかったが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。 和宮降嫁 安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した。4月12日には四老中連署で孝明天皇の妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より関白九条尚忠に提出された。九条から奏上をうけた孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王に嫁がせることが決まっているとして拒否。さらに和宮自身も「蛮夷来集」する関東へは行きたくないと言っているなどとして条約破棄を暗に求める返事をした。 岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。これは岩倉がいきなり天皇に提出した意見書ではなく、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものである ref name=iwakurakoujikki/ 。 この上申書の中で岩倉は、今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気づいており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威もなんとか粉飾しようという狙いがある、と分析。外圧にさらされる皇国の危機を救うためには幕府に委任している政権を収復させて朝廷の下でもう一度人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。急げば内乱となり外国の思うつぼである。そのため今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。したがって今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。 孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条関白を通じて京都所司代に伝えた。幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だと知りつつ、ついに7月4日、四老中連署により「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」と確約するにいたった。 文久元年(1861年)10月20日、和宮が桂御所を出て江戸へ下向。岩倉もこれに随行することとなった。東久世通禧の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したという。また出発前には孝明天皇が随行する岩倉と千種有文を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。すなわち岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することとなった。下級公家の岩倉が軽んじられず老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であったという。 11月26日、岩倉は江戸城で久世広周や安藤信正といった老中と面会。ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うている。老中らは下々のねつ造であると回答したが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えた。しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍家茂の直筆で提出せよと命じた。家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局3日後将軍家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられた。もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためであった。家茂が岩倉に提出した誓書は以下の通り。 「先年来、度々容易ならざる讒説、叡言に達し、今後御譲位など重き内勅の趣、老中より具に承り驚愕せしめ候、家茂をはじめ諸臣に至迄、決して右様の心底無之条、叡慮を安めらるべく候、委細は老中より千種・岩倉え可申入候、誠惶謹言 十二月十三日 家茂 謹上」 12月14日、岩倉は意気揚々と江戸をたち、24日には京都へと戻った。しかし先立つ11日に実母末子(勧修寺経逸の娘)が死去したため、喪に服するため参内を遠慮し、将軍誓書はかわりに千種有文が12月25日に孝明天皇に提出している。孝明天皇はこれに大変喜び、岩倉の復帰後の2月11日には岩倉を召して「勲功の段感悦す」とまでいってその功労をねぎらった。 失脚 文久元年(1861年)には長州藩主毛利慶親が議奏の正親町三条実愛を通じて『航海遠略策』を孝明天皇に献策した。朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受け、天皇は長州藩この書を幕府にも伝え公武周旋にあたるよう命じた。幕府にとっても悪い策ではなかったので12月30日には徳川家茂からも毛利慶親の江戸出府を待って長州藩に公武周旋役を任せる内定が下った。 そして文久2年(1862年)4月7日には孝明天皇が諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこなう誓書を公表。もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさないなら朕みずからが公家と大名を率いて親征を実施し破約攘夷を行う、とまで宣言。 さらに4月10日には先の長州藩への公武周旋任命に危機感を募らせた薩摩藩の島津久光が和宮降嫁や安政の大獄の弾圧のせいで天朝が危機に瀕しているとして入京してきた。久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は完全に有名無実化した。その後、天皇は安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命じ、幕府はこれを受けて7月に徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職として復帰させることを余儀なくされた。7月6日には長州藩京屋敷において毛利慶親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると家臣たちに言い渡した。 こうしためまぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井と親しくしていたことなどから尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。公卿正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出するにいたる。いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆らわず辞官して出家。朝廷を去った。 蟄居時代 しかし土佐藩士武市半平太ら攘夷強行論者は岩倉の処断が甘いと主張し、遠島に処されるべきだったとまで書く。さらに岩倉は京都から退去しなければ首を四条河原に晒すといった天誅の予告文まで受けた。そのため邸で蟄居するわけにもいかなくなり、まず西加茂の霊源寺岩倉家の始祖岩倉具堯の子の開基による寺に身を隠した。岩倉は僧体になって霊源寺へ逃げ込んだ9月13日の日記に「無念切歯に絶えず」と書いている。翌日の日記にも「無念の次第やるかたなし」「今度の事件、実に夢とも現とも申し難き次第、如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」と悔しさをつづり続けている。9月15日、父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺に移り住んだ。9月26日、関白近衛忠煕は九条・久我・岩倉らは洛中に住んではならぬと追放令を発令。岩倉が移住先に困っていたところ、10月4日に長男の具綱が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたのでそこへ移った。以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月までこの地で5年間も蟄居生活を送ることとなる。 元治元年(1864年)7月19日に禁門の変(蛤御門の変)が発生し、京都の攘夷強行論者が一掃され、岩倉の冤罪が証明されたが、赦免はなく、引き続き岩倉村で暮らした。しかし薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになり、慶応元年(1865年)の秋ごろからは岩倉も『叢裡鳴虫』をはじめ政治意見書を再び書くようになり、朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を行うようになった。また、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更した。 慶応2年(1866年)6月7日からはじまった第二次長州征伐は長州軍の決死の反攻で幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には広島藩主浅野長訓、岡山藩主池田茂政、徳島藩主蜂須賀斉裕ら外様雄藩が孝明天皇に征長軍解体の建白書を提出。20日には薩摩藩からも解兵の建白書が出された。さらに同日には征長軍の大将徳川家茂が薨去した。しかし孝明天皇・中川宮朝彦親王・二条斉敬ら朝廷首脳はなおも征長軍の続行を主張する。 岩倉も薩摩藩と同様、解兵および長州藩との和解に賛成であり、かつての勤王の功績を重んじて禁門の変は寛大な処置で許すべきと主張した。そして朝廷首脳部、特に中川宮を徳川慶喜と松平容保の報告を鵜呑みにして天下の大勢を見ない人物と評して激しく批判した。岩倉は朝廷の悪執政を正すため再び列参を画策。この意見に中御門経之が賛同し、薩摩藩の井上石見と藤井良節らが工作に当たったただし協力していた藩士が少なからずいたというだけで薩摩藩そのものが協力していたかどうかは不明。少なくとも薩摩藩首脳の大久保利通はこの計画を懐疑的に見ていた。。 8月30日、朝廷改革(中川宮・二条斉敬ら奸臣の追放、反幕府派近衛忠煕の関白再任、鷹司はじめ幽閉状態の公卿たちを赦免して朝議に復帰させることなど)を掲げて中御門経之はじめ二十二卿が連なって参内した(岩倉は参内禁止中)。これをみて中川宮・二条斉敬はともに職を辞した。天皇は却下したが、二人はかつての九条のような吊るしあげを食らうと考えたのか無理やり辞職してしまった。天皇は突然大臣を一気に2人も失ったことに激怒し、中御門ら列参に参加した公卿らに閉門を命じた。 なお長州との戦争自体は、8月1日に幕府軍が小倉での戦いに敗戦、8月16日徳川慶喜が参内して戦況報告し、もはや万策尽きて勝機が無くなったことを朝廷首脳部に報告したため、やむなく解兵され、8月20日に家茂薨去が公表され、9月2日に長州藩と幕府が休戦協定を結んで終了している。 12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御。政治混乱期の突然の崩御であったためこの崩御には古くから毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが、俗説の域を出ていない原口清の『孝明天皇は毒殺されたのか』によると孝明天皇の死因が天然痘であることは病理学的にも明白で毒殺はあり得ないとしており、この著作の登場以降、多くの歴史学者がこれを支持するようになり、現在では否定説が通説である。。 慶応3年(1867年)1月9日、明治天皇が15歳にして即位。摂政には二条斉敬が就任し、再び中川宮との二頭体制となった。新帝即位に伴う大赦により1月15日と25日に文久3年(1863年)の政変・禁門の変にかかわった者が赦免され、関白九条尚忠はこの際に赦免されたが、岩倉・久我・千種・富小路ら列参関係の公卿は赦免されず、11月に赦免された。なおこの間、10月14日に二条城で大政奉還が行われ、翌15日には二条斉敬から徳川慶喜にたいして奉還の勅許が与えられ、公式には朝廷に政権が返上された。 王政復古 年少の天皇、慶喜の言いなりの朝廷首脳部、徳川家の所領を背景に引き続き実質的権力を握ることになるであろう慶喜から実権を奪うため、岩倉は薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加。 慶応3年(1867年)12月8日から翌9日にかけて中川宮・二条斉敬ら朝廷首脳部、有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王・仁和寺宮嘉彰親王ら皇族、 島津茂久、山内容堂、松平春嶽、徳川慶勝、浅野茂勲ら大名を交えた朝議がおこなわれた(事前に岩倉たちの計画をつかんでいた慶喜は病と称して欠席)。 12月9日(1868年1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上した。王政復古自体はもはや決まりきったことであったが、新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となる。最終的には有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを参与とする新政府が樹立される。 慶喜の処遇についても容堂や春嶽から意見が出され、小御所において岩倉や大久保と再び激論となった。しかし最後には岩倉らが春嶽・容堂を論破して慶喜に辞官納地返上を命じることが決まる(小御所会議)。 春嶽と徳川慶勝(議定)が使者として慶喜のもとへ派遣され、新政府の決定を慶喜に通告した。通告を受けて慶喜は辞官と領地の返納を謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて「幕府」の旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じ、13日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大阪城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁に報告する。しかし大阪城に入ったあとも慶喜からは連絡がなかった。 23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りが始まったと判断し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。この命令を受けて慶喜は承知の誓書を政府に提出した。また28日には岩倉が参与から議定へと昇進。名実ともに朝廷首脳部の一人となった。 しかし明治元年(1868年)に入り、慶喜が突然薩摩征伐を名目に事実上京都占領を目的とした出兵を開始した(鳥羽伏見の戦い)。新政府に緊張が走り、1月3日に緊急会議が招集された。参与の大久保は旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、議定の春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定となったばかりの岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。 新政府は徳川慶喜征討軍の大将軍に嘉彰親王を任じ、親王は錦旗を掲げて東寺に進軍。ここを徳川追討の本陣に定めた。錦旗の登場に各藩次々と政府に応援を派遣し、旧幕府軍は家康から「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」とまで言わせた徳川家の友邦、津藩の藤堂家からさえも寝返られて砲撃を受け潰走した。6日夜、徳川慶喜は敗北を悟り、側近数名とともにひそかに江戸へ逃れた。予想以上の成果であり、徳川征伐に反対した春嶽の政府内での発言力は弱まり、賛成した岩倉の発言力が大きく増すこととなった。 1月7日、在京の諸大名が小御所へ集められ、岩倉具視はその場で大名たちに「帰国したい者は帰国せよ。大阪に行きたい者は行け。勤王の意思がある者はその旨明日までに誓書にせよ」と一喝。諸大名たちは岩倉の迫力に震えあがり、全員が誓書を提出した。 1月10日、曖昧になっていた徳川領の問題は、今回の反逆によって没収を明確に宣言され、そのすべてが天朝の御料となることが布告された。さらに1月17日、政府の首脳部が分担方式の内閣制となり、総裁を首班にして内国事務、外国事務、陸海軍事務、会計事務、刑法事務、制度事務、神祇事務の七閣僚が置かれることとなった。岩倉は海陸軍事務と会計事務という最も重要なセクションを任された。名目上の行政の責任者は総裁であるが、その地位にある熾仁親王は自ら政治的権力を振るうことを嫌がったので、議定や参与たちの会議によって決したことをほとんどを裁可した。よってこの人事をもって日本に実質的に岩倉を首班とする政権が誕生したといえる。 日本政府首脳へ 閏4月21日には政府機構の再編が行われ、アメリカ合衆国の政治制度が参考にされ、行政部・立法部・司法部にわかれた三権分立型政府へ移行した。岩倉はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任。三条実美とともに二人体制での就任だったが、三条は徳川家の処分の全権を任されて西郷隆盛を従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質的な首班であった。岩倉は就任早々宮中改革として公家に学問の時間を与えるため、公家の宿直(御所での24時間勤仕)の制度を廃止。また御所内の庶務にかかる人数も大幅に削減した。これらが旧公家層の非難の的になっているが御一新(明治維新)のためやり遂げねばならないと江戸にいる三条にあてた手紙につづっている。 上野戦争後、江戸が平定されると江戸市民から天皇江戸行幸の期待が高まり、8月には明治天皇が東京(江戸を改称)を行幸することが発表された。岩倉以下、中山忠能(議定)、木戸孝允(参与)、伊達宗城(議定)ら政府閣僚メンバーも天皇に供奉した。10月13日、東京城(旧江戸城)へ天皇が入城し、ここを新皇居と定めた。しかし京都市民の感情に配慮して明治2年(1869年)1月に明治天皇は京都に還幸している。岩倉も供奉して京都へ戻ったが、岩倉は京都に戻った後に突然病を理由に補相の辞職を求めた。大久保や木戸は慰留したが、岩倉の意思は固く1月17日には辞職してしまった。 版籍奉還と廃藩置県 岩倉の辞任後、政府では版籍奉還が検討されるようになった。岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、この中で藩主達は中央政府から任命された行政官(知事)ということにし、当分は知事に領地を管理させる。しかし支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させ、藩政と家政も明確に区分させ、混同させないようにすべきとした ref name=iwakurakoujikki/ 。 6月の版籍奉還後、再び行政組織の再編があり、古代の官制「省」を模した体制となった。すなわち政府首班を左右大臣・大納言・参議で構成し、その下の行政組織として民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省の六省がおかれた。三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。参議には大久保利通・前原一誠・副島種臣ら旧武士階級が就任した。政治家たる旧公家と官僚たる旧武士層がより一体化し、版籍奉還に対応できる強力な中央集権国家を企図した体制であった。 明治3年(1870年)、岩倉は意見書「建国策」を記した。そこでは、 国家経論の根本を定む可き事 政府の歳入歳出を明かにして其計算を国民に知らしむ可き事 群県の体を大成せんために暫時其方針を示す可き事 士族及び卒に農工商の業に就くことを勧誘す可き事 藩知事れん下(東京)に在住せしむ可き事 天下の民治の規則を一定して民部省の総括に帰せしむ可き事、天下の財源を一定して大蔵省の総括に帰せしむ可き事 天下の兵制を一定して兵部省の総括に帰せしむ可き事 天下の刑罰及び人民訴訟の法を一定して刑部省の総括に帰せしむ可き事 天下に中小学校を設置して大学に隷属せしむ可き事 などの項目を掲げて、これらが封建主義でない近代国家の原則であるとし、すなわち民政・財源・兵制・訴訟法・教育の全国統一化を主張している。 明治4年(1871年)2月、三条邸に岩倉・大久保・西郷・木戸・板垣ら政府首脳が集まり、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる必要があるということで一致。薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8000人の親兵が急遽組織された。7月14日には明治天皇が全知事を皇居に呼び出し、廃藩置県を宣告した。政府の予想に反してすべての知事が賛同し、懸念された抵抗や反抗はまったく見られず、この日藩はひとつ残らず日本から消滅した。所領を失った「大名」たちは全員東京へ召集され、華族としての責務を果たしていくことになる。日本は一つの国家、一人の元首のもとで近代統一国家としてスタートを切ることとなった。 岩倉使節団 廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。 外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。かつて井伊直弼が結んだ不平等条約日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。しかし今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まった。大隈重信らは国書の原案で延期の期限を3年としたが、岩倉は無期限とすべきとしたので国書には期限は設けられなかった。 使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文らを副使として伴い、明治4年(1871年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった。 この旅の中で岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。アメリカの近代国家ぶりは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。さらにその原因は鉄道にあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。岩倉が帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わったのもそのためである。またイギリスでは日本では考えられない工業技術に圧倒された。もはや条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。 ちなみに、岩倉はこれまで髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。 「征韓論」論争 明治6年(1873年)8月、岩倉不在の留守政府では西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否する李氏朝鮮に軍(一説に平和的使者)を派遣して開国させるべきだと主張してこれに三条が閣議決定を与えていた。三条が閣議決定を明治天皇に奏上しようとしたが、天皇は岩倉の帰国を待ってより熟議したうえで奏上に来るよう命じた。 岩倉は9月に横浜に到着。この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した。朝鮮を敵に回すことは清も敵に回すことであり、今の日本には勝ち目はないと考えた。海軍卿の勝海舟も「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示した。また大蔵卿の大久保利通も「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対した。 しかし閣議は主席の三条のどっちつかずの態度もあって議論が紛糾した。西郷も岩倉も否決された時は辞職を願い出る構えを見せたため、三条は進退きわまり、10月19日に錯乱状態になり寝込んでしまった。翌日、右大臣の岩倉が代わって太政大臣代理となり、10月22日にはその権限を持って西郷隆盛の意見を退け征韓論をお流れとした。不服とした西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へと帰国していった。西郷派の板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らも辞職した。 これ以降、征韓論を支持する不平士族から政府への不満が噴出し、明治7年(1874年)1月14日夜8時過ぎには赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉が不平士族の暴漢武市熊吉(高知県士族)に襲撃される事件が発生(喰違の変)。岩倉は負傷したが命に別条はなかった。さらに2月1日には佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱(佐賀の乱)が発生する。そして明治10年(1877年)には西郷を担いだ西南戦争が勃発することになる。 華族問題 明治9年(1876年)4月19日に岩倉は、華族会館の館長となる。しかし明治初期の華族達は、具体的に何をする者達なのか明確にされなかったこともあって、後と比べると独立性が強く、特に大名出身者と公家出身者でたびたび衝突をおこすような有様だった。だが、岩倉の頭にあった華族とは欧米型の貴族であって、つまりその使命とは皇室を支えることにのみあるものであった。したがって昔の枠組みによる下らない対立は無駄であることを全華族に分からせる必要があった。 そこで岩倉は強烈な華族統制政策をとるようになった。まず会館に部長局を設置し、全華族をその下に組み込んで出身別に6部にわけてそれぞれ部長を設けるなどして組織化をはかって華族統制を強めた。また華族懲戒令(太政官達)を定めて、華族の品位を汚したものは処罰することとした。この法令による処罰は犯罪はもちろんとしてスキャンダルや家財の浪費も対象となった。また一方で明治10年(1877年)には華族の金禄公債を資本金にして華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行を創設し、華族の財産の保護にもあたった。華族に連帯感を持たせるためだったのだが、結果としてはこの銀行の保護を頻繁に受けたのは経済的に貧しい旧公家華族であり、また館長たる岩倉自身も元公家という経歴であるから、公家贔屓な政策と武家出身の華族から不満が続出するようになり、ついに明治10年7月には、松平慶永・伊達宗城・毛利元徳・島津忠義ら有力武家華族が連署で部長局(すなわち岩倉)による華族統制の廃止を求める要望書が提出してくる。 岩倉は逆らわず、要求通り、11月15日に部長局を廃止。12月4日には館長も辞職する。しかし転んでもただでは起きない岩倉は、この際に宮内省の中に華族局をもうけさせてここに華族の統制を譲り渡した。つまり華族は岩倉個人の管轄下から政府宮内省の管轄下へと移されていったことになる。以降も政府を通じて華族統制につとめつつ、最終的には帝国議会の貴族院が開かれたことで自然に華族の役割もはっきりして旧武家も旧公家も同質化していき、華族間の対立は解消されていくことになる。 立憲問題 明治8年(1875年)4月14日、明治天皇が「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書を出した(立憲政体の詔書)。三条実美や木戸孝允・板垣退助(木戸の推挙で再び政府に復帰していた)が奏上したのだが、岩倉はこれに対して国体一変の恐れがあるとして詔書に反対の立場であった。詔書が出されたことに抗議の意を示すため、4月21日に三条に辞表を提出。さらに三条が却下したのを見ると、岩倉は病気として政府に出仕することを拒否するようになってしまった。大久保利通が再三にわたり、もう一度出仕してほしいと依頼してきたので、10月から一応出仕はすることとなったが、岩倉はなお立憲に反対であった。 しかし明治13年(1880年)頃から自由民権運動が高まり、憲法制定論議が加速し、さらに明治14年(1881年)6月下旬には法務官僚井上毅から具申を受けたことで、岩倉もいよいよ考えを変えて、憲法制定の必要性を痛感するようになった。問題は誰に憲法制定を任せるかであった。 これに先立つ明治11年(1878年)には内務卿の大久保利通が不平士族の暴漢に襲撃されて死去している(紀尾井坂の変)。以降大久保に代わって岩倉を支えていたのは、伊藤博文(工部卿)と大隈重信(大蔵卿)であったから考えられるのはこの二人のどちらかであった。 急進派の大隈はイギリス流の議院内閣制の憲法を主張。たいして漸進派の伊藤はドイツ憲法を模範として議院内閣制はとらず君主大権を温存する憲法を主張した。最終的に岩倉が憲法制定をまかせたのは伊藤であった。このあと伊藤は北海道開拓使官有物払下げ問題が起こる中、民権運動と大隈重信を結びつけて解任を計画するようになる。この間、岩倉は休養を取って有馬温泉にいたが、東京に戻った翌日の明治13年10月7日に伊藤が岩倉邸に訪れて、大隈解任と国会開設の勅諭の了承を求めた。岩倉はこれを了承し、12日に大隈を罷免する(明治十四年の政変)。こうして明治15年(1882年)3月14日、伊藤が憲法調査のためヨーロッパ各国へと派遣されることとなったのであった。 死去 だが岩倉自身は、伊藤博文の帰国、そしてその成果である大日本帝国憲法の制定を見ることはできなかった。 明治16年(1883年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。岩倉は、5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、ここでますます症状が悪化してしまった。これを聞いた明治天皇は、勅命を出して東京大学医学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツ医師を京都に派遣した。岩倉は船で東京へ戻されたが、ベルツからは癌告知を受けた(岩倉は史上初めて「癌告知」を受けた日本人)。複数回の明治天皇の見舞いを受けたが回復せず、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日、立憲政体樹立を目前にして死去することとなる。享年59。7月25日に国葬が執り行われた。岩倉は日本政府による最初の国葬者である。墓所は東京都品川区の海晏寺。 後半は岩倉具視-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月25日 (火) 09 03。
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概要 cv;TAKAO 公卿。シルクハットを被り、英国風の紳士服に身を包んだ男。 朝廷以前の世界の復古を目的として活動している。 能力 赫眼 装備 金属杖……仕込み銃となっている。 演算装置……羽の意匠がある碩学機械と思われる演算装置。左手に装着して暗密天颶を操る。 翠玉の首飾り……りんのものとは異なる首飾り。 本編での活躍 原作小説版での活躍 京都の五条大橋に現れた暗密天颶の制御を乗っ取り、伊庭八郎からりんを奪い去る。 三条河原の旅籠にて吉田稔麿を葬った後、伊庭八郎がりん奪還に動くと考え鞍馬寺本尊で暗密天颶と共に待ち受けるが、 いくつかの要因で暗密天颶は本来の性能を発揮できない状況にあり、 また伊庭八郎が《夜明け》より暗密天颶の情報を得ていたため攻撃が読まれてしまい、 暗密天颶もろとも電磁射出刀の雷刃に撃ち抜かれ死亡する。 備考 元ネタ 幕末の公卿であり維新の十傑の一人。 孝明天皇の侍従として優れた政治力を発揮するが 公武合体派として天皇家と将軍家の結婚を推進したため尊皇攘夷派に佐幕派と疑われ失脚する。 失脚後も多くの人物に意見を求められ、後に倒幕派へと立場を変える。 明治維新後は外務卿となり不平等条約改正や西洋の諸制度研究のために 岩倉使節団として大久保利通や伊藤博文らと共にアメリカやヨーロッパに派遣され 日本の文明開化に貢献した。 登場作品 瞬旭のティルヒア 関連人物 土御門藤子 名前 コメント 合計: - 今日: - 昨日: -
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鮟倉 具視(あんぐら ともみ) 登場作品 りんたろう R(全て漫画版) 鮟倉 具視(あんぐら ともみ) 基本設定 作中での活躍ロボトルでの振る舞い りんたろう達への妨害・加害(未遂)行為 関連人物 基本設定 漫画版にのみ登場する、鮟倉家次男。 小学生とは思えない巨体、デブ。 後年のコクリュウ、ラナンキュラにも匹敵する外道で卑怯なやつで、漫画メダロッターりんたろう!シリーズにおいての敵。 使用する機体はイエロータートル。 名前の元ネタは鮟鱇(アンコウ)と、幕末期の公家にして、明治維新以降に政治家としても活躍した岩倉具視であろう。 また、非合法という意味で使われる、英単語undergroundから派生したカタカナ語アングラも含まれると思われる。 正しく彼と一族郎党の振る舞いは、このアングラそのものといえよう。 作中での活躍 第九回メダロッター甲子園大会で豚勝小学校チーム代表として登場。 実は刃助・瑠璃代と同じ亀山幼稚園出身で、瑠璃代の取り合いでハスケと過去に争っていた。 この時に子分に刃助を肥溜めに落とさせて以来、ハスケをウンコヤローと罵倒する。 そして相手は瑠璃代率いる亀山小学校女子メダロット部なのだが、試合前からすでに瑠璃代ともめていた。 ロボトルでの振る舞い 彼の戦いぶりは 仲間含めた3体で1体のメダロットを取り囲んでタコ殴りにして真っ二つに引きちぎる、 亀山女メダ部部長瑠璃代のオリビアを爪で胸部を貫き、機能停止寸前に追い詰め、 「おヨメさんになったらゆるしてあげるでブーよ?」と瑠璃代を脅し、拒否したら メダルごと粉砕するというまったくもって極悪非道なものであった。 よくメダロットの方も命令拒否しなかったものだ。 当然この行為を許さない刃助とりんたろうは、乱入し勝負を挑む。 しかしどうしても瑠璃代を渡そうとしない彼は、試合前に子分を使って裏で刃助を出場不可にしようと手を回す。 しかしその企みは失敗に終わる。 改めて刃助とりんたろうと勝負しようとするが、この際に同じチームのリバーソーサーをこともあろうに破壊して、コレで2対2とのたまう非道に及ぶ。 この行いによって、りんたろうを額の絆創膏が剥がれてしまうほどに大激怒させてしまう。 リバーソーサーをあっという間に機能停止させられながらも、イエロータートルの脚部をリバーソーサーのものと交換。 脚部を高速回転させて竜巻を生み出す、トータルネードを披露して刃助とりんたろうを窮地に立たせる。 具視のパートナーメダロットが鮫型でなくて良かった。 だが瑠璃代のアドバイスによって、刃助とりんたろうに逆転されてしまう。 具視に勝利した後りんたろうは、イエロータートルのメダルをメダルは大切に、と返している。 だがこの行為で、具視が改心することはなかった。 りんたろう達への妨害・加害(未遂)行為 メダロッター甲子園での敗北以降、具視はりんたろうをとにかく目の敵とする。 亀山小と小鰭以蔵率いる天丼小との試合前に、りんたろうの愛機カンタロスを盗み出した。 さらにメダロット社の専務である父具兵衛の力を使って、カンタロスと同タイプのKBT型を大阪中のおもちゃ屋から買い占めて、りんたろうが試合を出来なくする妨害行為を行った。 大会が終わっても、先祖の初代具視が作り出した「蒸気式ロボブー天号」を持ち出して りんたろうを殺そうとするなど、やりたい放題である。 この時は亀山小や新ダメロット部部室も破壊した。 メダロッターりんたろう!メダロットR終盤では、ベイアニットを操ってヒカルの前に立ちはだかる。 関連人物 メダロット界の華麗ならざる一族 鮟倉一族 漫画版の世界観における社会悪 具視の宿敵達 りんたろう ダメロット部エース、辛酸をなめさせられた宿敵 鮫島刃助 ダメロット部部長、幼稚園時代からの恋敵のウンコヤロー 具視の思い人 瑠璃代 お嫁さんにしたいが相手にされていない メダロット界のヒール ヴィクトル アニメ版のロボトル世界チャンピオン。暗い過去を背負ったヒールだが、後に更生 メダロッター残酷列伝 鮟倉具視 ロボトルスタイルが残虐非道な悪徳メダロッター コクリュウ デスメダロット社技術開発部顧問、目的のためなら手段は問わない ラナンキュラ メダルの破壊をためらわない、愛知らぬ可憐な悪魔
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岩倉たえをお気に入りに追加 岩倉たえのリンク #bf Amazon.co.jp ウィジェット 岩倉たえの報道 長濱ねる 蛙亭・イワクラを「魅力がたくさんあってステキな人」『セブンルール』3週連続お笑いSPを放送! (2021年12月7日) - エキサイトニュース 「わかやま しごと・くらし体験」で古座川町に滞在し、出会い、はたらき、気づいた28歳の私の解。 - greenz.jp <青天を衝け>大物が次々と! 岩倉具視、岩崎弥太郎、五代友厚までもが…(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース ヒロインは福原遥 NHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』の主役に決定 - KAI-YOU 「打倒慶喜」果たした岩倉具視が最期に悔やんだ事(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 「ヤモリ」の陰口に岩倉具視が見せた「衝撃の逆襲」 - 東洋経済オンライン 岩倉たえとは 岩倉たえの75%はスライムで出来ています。岩倉たえの18%は果物で出来ています。岩倉たえの7%は宇宙の意思で出来ています。 岩倉たえ@ウィキペディア 岩倉たえ Amazon.co.jp ウィジェット 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 岩倉たえ このページについて このページは岩倉たえのインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される岩倉たえに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
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thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治6年(1873年)である。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節の帰国後に明治6年の政変に至る。 元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定であったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。政府のトップが長期間政府を離れ外遊するというのは異例であるが、直に西洋文明や思想に触れたという経験が彼らに与えた影響は評価される。留学生も帰国後に政治、経済、教育、文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延期、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉」と狂歌の題材にされた。 使節団のほとんどは断髪・洋装であったが、岩倉は髷と和服という姿で渡洋した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためであったがアメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。後は洋装に改めた。 目的 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉 西洋文明の調査 派遣使節団 使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれた。 岩倉具視:特命全権大使 木戸孝允(桂小五郎):副使 大久保利通:副使 伊藤博文:副使 山口尚芳:副使 田辺太一:一等書記官 福地源一郎:一等書記官 安藤太郎:四等書記官 池田政懋:四等書記官 久米邦武:大使随行 中山信彬:大使随行 内海忠勝:大使随行 野村靖:大使随行 五辻安仲:大使随行 田中光顕:理事官 東久世通禧:理事官 山田顕義:理事官 佐佐木高行:理事官 田中不二麿:理事官 肥田為良:理事官 村田新八:随行 原田一道:随行 中江兆民:イギリス留学 鍋島直大:イギリス留学 前田利嗣:イギリス留学 毛利元敏:イギリス留学 前田利同:イギリス・フランス留学 金子堅太郎:アメリカ留学 團琢磨:アメリカ留学 牧野伸顕:アメリカ留学 黒田長知:アメリカ留学 鳥居忠文:アメリカ留学 津田梅子:アメリカ留学 山川捨松:アメリカ留学 永井繁子:アメリカ留学 吉川重吉:アメリカ留学 木戸孝正:アメリカ留学 平田東助:ドイツ留学 長與專齋:ドイツ・オランダ留学 大村純熈:留学 朝永甚次郎:留学 長岡治三郎:留学 新島襄:通訳 ほか。 関連文献 久米邦武編著 『米欧回覧実記』 明治11年(5冊組で全100巻、博聞社 1878年) 復刻版 『特命全権大使米欧回覧実記』全5巻 (宗高書房 1975年) 田中彰校注 『米欧回覧実記』全5巻 岩波文庫 1977-82年、のち単行本・岩波書店、1985年 久米邦武編著、水沢周訳注 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』全5巻 慶應義塾大学出版会 2005年、のち同出版会で選書版、2008年 久米美術館編 『岩倉使節団関係 久米邦武文書3』 吉川弘文館、2001年 久米美術館編 『久米邦武と「米欧回覧実記」展 銅版画集』 1985年 久米美術館編 『「銅鐫にみる文明のフォルムー『米欧回覧実記』挿絵銅版画とその時代展」資料集 』 2006年 田中彰 『岩倉使節団の歴史的研究』岩波書店 2002年 イアン・ニッシュ編 、麻田貞雄ほか訳 『欧米から見た岩倉使節団』 <MINERVA日本史ライブラリー12> ミネルヴァ書房 2002年 芳賀徹編 『岩倉使節団の比較文化史的研究』 思文閣出版 2003年 米欧回覧の会編 『岩倉使節団の再発見』 思文閣出版、2003年 田中彰/高田誠二編著 『「米欧回覧実記」の学際的研究』 北海道大学図書刊行会、1993年 西川長夫/松宮秀治編 『「米欧回覧実記」を読む 1870年代の世界と日本』 法律文化社 1995年 高田誠二 『維新の科学精神 「米欧回覧実記」の見た産業技術』 朝日選書 1995年 岩倉翔子編著 『岩倉使節団とイタリア』 京都大学学術出版会 1997年 〔読みやすい書籍〕 田中彰 『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(講談社現代新書 1977年、岩波現代文庫、2002年) 『明治維新と西洋文明 岩倉使節団は何を見たか』(岩波新書 2003年) 『「脱亜」の明治維新 岩倉使節団を追う旅から』(NHKブックス 日本放送出版協会 1984年、オンデマンド版 2003年) 宮永孝 『アメリカの岩倉使節団』(ちくまライブラリー20 筑摩書房 1992年) 『白い崖の国をたずねて 岩倉使節団の旅 木戸孝允のみたイギリス』(集英社 1997年) 萩原延壽 『岩倉使節団』<遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄9> 朝日新聞出版 2000年、のち朝日文庫 2008年 泉三郎 『誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語』(PHP 2008年) 『岩倉使節団という冒険』(文春新書 2004年) 『堂々たる日本人―この国のかたちを創った岩倉使節団「米欧回覧」の旅』 祥伝社 1996年、祥伝社黄金文庫、2004年 『写真・絵図で甦る堂々たる日本人 この国のかたちを創った岩倉使節団「米欧回覧」の旅』 祥伝社 2001年 関連項目 日本史の出来事一覧 明治の人物一覧 殖産興業 富国強兵 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月25日 (水) 22 02。
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岩倉使節団 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。 追記・修正お願いします。 というのは嘘で例のアレ界隈においては、糖質youtuber"aiueo700"の家にけんましたり、動画を見たりする集団のことを示す 。 妖怪惑星クラリスのキャラクター、ホー律事務所フクロスが発する台詞「俺はお前が俺を見たのを見たぞ」は、この"aiueo700"が発したセリフである。 コメント コメント
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超難関戦場一覧 +テンプレ用 戦場情報 エリア 必要兵糧 制限 妨害 S武将 報酬銀 初回制覇報酬 報酬武将 報酬銀 報酬書 報酬鍵 ☆エリア 電26/駆39/慎75 R1名 奇襲 R徳川家康 銀40×1-5 R岩倉具視 R三条夫人 銀1853 書10%*1 陣武将 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 一陣 (電) 二陣 (電) 三陣 (電) 四陣 (電) 本陣 道中 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 0-1 0-1 1-2 1-2 2-3 2-3 3-4 3-4 4-L 4-L +テンプレ用 戦場情報 エリア 必要兵糧 制限 妨害 S武将 報酬銀 初回制覇報酬 報酬武将 報酬銀 報酬書 報酬鍵 ☆エリア 電26/駆39/慎75 R1名 奇襲 R徳川家康 銀40×1-5 R岩倉具視 R三条夫人 銀1853 書10%*1 陣武将 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 一陣 (電) 二陣 (電) 三陣 (電) 四陣 (電) 本陣 道中 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 0-1 0-1 1-2 1-2 2-3 2-3 3-4 3-4 4-L 4-L 合計: - 今日: - 昨日: - +テンプレ用 戦場情報 エリア 必要兵糧 制限 妨害 S武将 報酬銀 初回制覇報酬 報酬武将 報酬銀 報酬書 報酬鍵 ☆エリア 電26/駆39/慎75 R1名 奇襲 R徳川家康 銀40×1-5 R岩倉具視 R三条夫人 銀1853 書10%*1 陣武将 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 一陣 (電) 二陣 (電) 三陣 (電) 四陣 (電) 本陣 道中 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 0-1 0-1 1-2 1-2 2-3 2-3 3-4 3-4 4-L 4-L
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曜日限定戦場一覧 +テンプレ用 戦場情報 エリア 必要兵糧 制限 妨害 S武将 報酬銀 初回制覇報酬 報酬武将 報酬銀 報酬書 報酬鍵 ☆エリア 電26/駆39/慎75 R1名 奇襲 R徳川家康 銀40×1-5 R岩倉具視 R三条夫人 銀1853 書10%*1 陣武将 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 一陣 (電) 二陣 (電) 三陣 (電) 四陣 (電) 本陣 道中 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 0-1 0-1 1-2 1-2 2-3 2-3 3-4 3-4 4-L 4-L +テンプレ用 戦場情報 エリア 必要兵糧 制限 妨害 S武将 報酬銀 初回制覇報酬 報酬武将 報酬銀 報酬書 報酬鍵 ☆エリア 電26/駆39/慎75 R1名 奇襲 R徳川家康 銀40×1-5 R岩倉具視 R三条夫人 銀1853 書10%*1 陣武将 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 一陣 (電) 二陣 (電) 三陣 (電) 四陣 (電) 本陣 道中 出現範囲 兵種 レア度 武将名 LV 兵数 攻撃 特技 備考 0-1 0-1 1-2 1-2 2-3 2-3 3-4 3-4 4-L 4-L 合計: - 今日: - 昨日: -