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基礎データ ブランド名 山梨学院大学 会社名 学校法人山梨学院 電話番号 Fax番号 メール https //www.ygu.ac.jp/common/ygu_inquire.html 企業分類 大学 現在の問合せ結果 × 現在のコメント メール返信なし 最終更新日 2010/02/03 特記事項 学校法人山梨学院山梨学院大学 山梨学院大学大学院 山梨学院大学短期大学 山梨学院大学附属高等学校 山梨学院大学附属中学校 山梨学院大学附属小学校 山梨学院大学附属幼稚園 基礎データ特記事項 山梨学院大学2008年11月11日(11月23日号)のサンデー毎日に広告あり 2009年11月24日の毎日朝刊に広告あり 他、広告あり 2010/02/01 ×(メール返信なし) 関連ページ 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 山梨学院大学 2008年11月11日(11月23日号)のサンデー毎日に広告あり 2009年11月24日の毎日朝刊に広告あり 他、 広告あり 2010/02/01 ×(メール返信なし) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事175 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1264862540/71 71 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2010/02/01(月) 15 57 01 ID ZAGKTwsu0 174 :松崎名無しげる :10/02/01 15 18 06 ID rl/oBfRN メールのお返事ですv 山梨学院大学→メール返信なし 関連ページ 検索 2008年11月11日(11月23日号)のサンデー毎日 広告一覧 2009年11月10日(11月22日号)のサンデー毎日 広告一覧 2009年11月24日の毎日朝刊 広告一覧 2009年2月10日(2月22日号)のサンデー毎日 広告一覧 2009年7月10日の毎日朝刊 広告一覧 2010年2月09日(2月21日号)のサンデー毎日 広告一覧 2010年5月31日(6月12日号)のサンデー毎日特別増刊(高校の実力 完全版) 広告一覧 2011年5月31日(6月18日号)のサンデー毎日特別増刊(高校の実力 完全版) 広告一覧 2011年9月30日(10月15日号)のサンデー毎日臨時増刊(大学入試に勝つ!) 広告一覧 2012年5月31日(6月16日号)のサンデー毎日特別増刊(高校の実力 完全版) 広告一覧 山梨学院大学 教育機関等への問合せ結果
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山梨学院の女子校らしい。詳しいことは作者も分からない。 今まで団体戦の出場はなかったが、今年はメンバーが五人揃いエントリーできた。 個人の強さはなかなかだが、団体で見てみるとそこまで圧倒的ではない。 プロ雀士・武田玄虎の妹が主将を務める。 先鋒:武田 玄音(たけだ くろね)/三年生 単体では圧倒的すぎる雀力を持つロリ。実は武田信玄の子孫。姉がプロ雀士で、高校時代には全国制覇も果たしている。 出身 山梨 容姿 ころたんレベルのちびっこ 性格 自分を武田信玄の生まれ変わりだと信じている 口調は~のじゃ 能力 【集いし宿命《ギャザーオブデスティニー》】 一局ごとにマンズ・ピンズ・ソーズ・字牌のいずれかにツモが偏る 得意 染め手 次鋒:塩谷 梨夏(えんや りか)/一年生 山女の不運キャラその一。先鋒のつけた大量リードを守れるはずが、とあるアルビノさんに負かされた。 出身 山梨 容姿 サイドテール 性格 常識人 オカルトには否定的だが現象は認める 能力 【凍域《フリーズサンクチュアリ》】 対局中におけるすべての上がりが満貫以下になる 得意 タンヤオ オカルトに否定的の癖にオカルト持ち 能力は自身にも適応され、跳萬以上をテンパイして喜んでいても絶対にあがれない 自身がオカルト持ちだと言う自覚はない 中堅:白辺 音(しらべ おと)/二年生 山女の不運キャラその二。次鋒の失点を取り返すはずが、作者のミスで和了点数が激減し、その後全く和了れなくなった。 出身 静岡 容姿 白い髪のセミロング、透き通るような碧い目 おもち大 両腕とも包帯をグルグル巻きにしている 性格 気弱で自分の意見が言え無い、被虐体質 能力 【数合わせ】数牌が集まる 得意 タンヤオ 副将:大羽一葉(おおはね かずは)/一年生 作者のお気に入りキャラ。 出身 山梨 容姿 ツインテールロリメガネ 性格 何事にも一生懸命で背伸びしたがるアホの子 能力 【九十九神】99%の確率で配牌が九種九牌になる 得意 なし 大将:丑寅辰美(うしとら たつみ)/二年生 出身 山梨 容姿 長身のカッコイイ系 性格 一見クールな感じだが言動はポンコツ 能力 手牌の中の危険牌がうっすらと光って見えることがある 得意 危険牌を抱えながらのチートイ
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県岐阜商VS山梨学院大付 Result 試合開始14 49 試合終了16 39 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E 山梨学院大付 0 0 2 0 0 0 0 4 0 6 7 5 県岐阜商 7 1 1 0 4 1 0 0 × 14 18 3 勝利投手:山田 智弘(県岐阜商) 敗戦投手:山田 祐也(山梨学院大付) 本塁打:山田 智弘(県岐阜商)【大会第11号】 井貝 星良(県岐阜商)【大会第12号】 山梨学院大付スコア 守備 選手名(○…背番号) 打 安 1 2 3 4 5 6 7 8 9 2B 青山 祐己④ 4 1 投ゴ 四球 投ゴ 二邪飛 遊ゴ安 PR 渡辺 晶也⑯ 0 0 SS 鈴木 悠介⑥ 4 0 三ゴ 二失 見逃 死球 二併 1B 山田 凌③ 5 2 空振 中ゴ安 三ゴ 右直安 中飛 3B 羽田 翔 4 1 空振 左ゴ安 遊ゴ 一邪飛 LF 小林 夏樹⑦ 4 1 一邪飛 三ゴ 空振 右飛3 CF 松浦 航平⑧ 4 0 三ゴ 投失 遊ゴ 三失 RF 細谷 竜児⑨ 4 1 遊ゴ 中飛 三ゴ 左飛2 C 杉田 康太郎② 1 1 遊ゴ安 死球 PH 岩島 範和⑬ 1 0 空振 C 相馬 彰吾⑫ 0 0 死球 P 山田 祐也① 1 0 空振 PH 角田 皓太⑮ 1 0 空振 P 中根 龍也⑪ 2 0 空振 空振 投順 選手 投球回 対戦打者 被安打 奪三振 四死球 自責点 1 山田 祐也 3 23 9 3 4 8 2 中根 龍也 5 24 9 5 0 3 県岐阜商スコア 守備 選手名(○…背番号) 打 安 1 1 2 3 4 5 6 7 8 9 CF 松田 智宏⑧ 3 2 四球 死球 投犠野 投ゴ安 一ゴ 左飛2 2B 藤田 知晃④ 5 3 中直安 投ゴ 四球 左ゴ安 中直安 空振 1B 泉田 純弥③ 4 0 一ゴ 空振 空振 捕邪飛 PH 横山 貴大⑬ 1 0 遊飛 1B 出口 裕大⑭ 0 0 3B 井貝 星良⑤ 4 2 死球 右飛2 遊ゴ 右飛本 投ゴ LF 江崎 秋馬⑦ 5 1 右直2 投ゴ 空振 遊失 空振 LF 古川 隼也⑰ 0 0 RF 児玉 健一郎⑨ 5 3 三ゴ安 左飛安 空振 三ゴ安 見逃 P 山田 智弘① 3 2 左飛本 右飛2 右飛 中犠飛 PH C 大橋 敏行⑫ 1 0 三ゴ SS 福田 晃規⑯ 2 1 中飛2 中飛 PH SS 酒井田 照人⑥ 3 3 左直安 中飛安 中飛2 C 平林 一浩② 4 1 右ゴ安 右失 空振 遊失 P 桜田 陽介⑩ 0 0 P 松田 侑樹⑪ 1 0 投ゴ 投順 選手 投球回 対戦打者 被安打 奪三振 四死球 自責点 1 山田 智弘 7 27 3 8 2 0 2 桜田 陽介 0(2/3) 8 3 0 2 2 3 松田 侑樹 1(1/3) 4 1 1 0 0
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2022年ドラフト候補 外野手 176cm 78kg 右投左打 2004年度生(H3年) 1年夏に3番打者として甲子園交流試合出場。1年秋以降はセンターに回った。バッティング技術に優れる (2 06-より岩田選手打席) 指名者コメント一覧2022年度第1回、ロッテ:育成1位(21/03/13) URL一覧ドラフト候補の動画とみんなの評価 高校野球ドットコム 球歴 一球速報(打撃成績) twitterバッティング動画 指名者コメント一覧 2022年度 第1回、ロッテ:育成1位(21/03/13) 右左の外野手とはいえ本指名はされるやろと思っていた世代屈指の打者 山梨学院で1年夏から中軸を担う打撃技術は半端な代物ではない ただサイズも走力も長打力もプロ入りするには現時点では物足りないのも事実 肩は強いらしいが 3年次までに圧倒的な打棒を見せつけてプロ入りしてほしい URL一覧 ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=27282 高校野球ドットコム https //www.hb-nippon.com/player/21698 球歴 https //www.kyureki.com/player/167962/ 一球速報(打撃成績) https //baseball.omyutech.com/playerTop.action?playerId=1638757 teamId=15731 twitterバッティング動画 https //twitter.com/SenbatsuLIVE/status/1505724248735711235 2022センバツ登録選手 2022選手権登録選手 2022高校生外野手 2022高校生野手 山梨県(高校球児) 名前 コメント
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自作 アルファベット3文字でYGUとも略される、歌手の斉藤和義、漫画家の高橋しんらの出身校である私立大学で、 特に2区の区間記録保持者メクボ・ジョブ・モグス、3区の区間記録保持者オンディバ・コスマスなど、 箱根駅伝に於けるケニア人留学生の活躍で知られるのはどこ? (2016年10月2日 2016年9月のQui2投稿問題まとめ。 ) タグ:社会 Quizwiki 索引 ま~英数 高橋しん
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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』 平成19年12月25日 教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会 http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授沖縄戦に関する私見 四 沖縄戦時の政軍関係1 総力戦体制と防諜・間諜指導 2 「秘密戦ニ関スル書類」と住民対策 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1) 大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 平成19年12月1日 沖縄戦に関する私見 山梨学院大学我部政男 平成19年11月14日付けの私への書簡について、以下のようにご返事をします。 この問題への解答は、私の場合、正直なところ心の中に両面が存在するように思います。一面はすごく簡単で、これまでに沖縄戦に関して書いた二の論文の内容を参考に繰り返し自説を述べればいいという面であります。他のもう一方の側面は、心理的に不明確な苦渋の選択を強いるようなものであります。 私の沖縄戦についての研究状況は、今なお不十分さ未熟さの段階にとどまっており、自らを沖縄戦研究者であると詐称するつもりもありません。これらのことをあえて承知し、自己認識した上で、しかし、意見を求められるというせっかく与えられた機会ですので、私なりの返事を認めるつもりで、以下論じることにします。 沖縄戦についての私の今の見解は、過去に私が書いた二の論文にほぼ完全に表明されていると考えております。したがって、基本的に新しい意見や見解を付け加えることはありません。二の論文を正確に精読していただければ、素直に理解できるはずであります。 はじめに、二の論文の所在を明らかにしておくことにします。不思議とこの二の論文とも、科学研究費補助金の交付を受けた研究成果の報告であります。 ① 「沖縄:戦中・戦後の政治社会の変容-戦後地方政治の連続と非連続」(天川晃・増田弘編『地域から見直す占領改革』山川出版、2001) ②「戦時体制化の沖縄戦-軍官民一体化論と秘密戦を中心にー」(『沖縄戦と米国の沖縄占領に関する総合的研究』基盤研究A、課題番号14202010 研究成果報告書) 二の論文を書き終えた今、考えることが一つあります。 沖縄戦研究には、多様な側面が存在します。それらを総合的に把握し、判断することが要求されます。 沖縄戦の研究は、確かに大きな進展を遂げてきています。沖縄の住民の戦争体験の収録は、研究者や地域自治体の精力的な活動によって沖縄の戦後の歴史に残る大きな成果をあげています。これらは、オーラルヒストリーの手法による戦争の体験や記憶を記録化する事業で、戦争の実態の側面を鋭く抉り出す役割を果たすことになるであろうと考えます。住民の戦争体験の正確な継承は、沖縄戦における最も重要な側面であることには、かわりはないと思います。同時に戦争の実態を解明するには、より多方面の関係資料の調査・収集が実施されなくてはならないと考えております。しかし、そのことは、十分になされているとは、言いがたい。このことは、今後の大きな課題であろうと私は思います。 文部科学省より、例えば、沖縄戦における「集団自決」、太平洋戦争における沖縄戦の位置づけ等に関しての私の見解を問われたが、それら依頼のすべての項目に関して、学術的に答えることは、今の私にはとうてい不可能であります。しかし、明確なことは、以下に明示するように「集団自決」の起こった歴史的な事実の背景に「軍官民一体化」論理が存在していたことであります。戦時におけるこの国民意識の存在の意義から「集団自決」の発生を考えることが、私には、ごく自然なように思われます。 研究の成果の質量ともに多様な側面の最先端の良質の部分が教科書の叙述に採用されることは、理想的なことだと思います。しかし、教科書の叙述のように僅か数行の幅に収めることは、大きな緊張の伴う精神作業のように思います。幅広い見識が要求されましょう。 沖縄戦末期にいわゆる集団自決が、事実として起こっております。その歴史的な事実を因果関係において説明する方法として提示されているのが、「軍命令」であります。 私の考えでは「軍命令」は、先に提示した「軍官民一体化」論理の範疇に入るものだと考えます。 多くの人が承認するように、歴史は、資料に基づいて考察し解明され、そして叙述される行為でありましょう。 比較的多くの人の同意を得るためにも、沖縄戦に関しても同様に広く関係資料を調査・収集しなくてはなりません。改めて、沖縄戦に関する資料の調査・収集を、私は強く希望しておきたいと思います。以下の叙述は、先の論文②から、該当個所を引用しておきました。参考にしていただきたいと思います。 四 沖縄戦時の政軍関係 1 総力戦体制と防諜・間諜指導 この第4章から第6章までの第2部では、比較的に沖縄戦に焦点を絞り分析を深めることにする。もちろん第1部の戦時体制化で取り上げた治安対策のスパイ問題が沖縄の地域でどのように展開したかが中心的な課題である。 これまで、戦後60年の間に沖縄戦に関する見解は、どのように示され解釈されてきたであろうか。沖縄戦も地域としては沖縄に限られているが、広くは、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争の一部であることは、断わるまでもないことである(1)。この第2部で沖縄戦の全体像を総体として、提示することはできないが、その1つとしてすでに提起されている見解から切り口を見つけることにする。およそその典型的で代表的な見方の一が、防衛庁戦史の戦史等で表明している、「沖縄作戦」と称する見解であろう。すべての日本人、研究者が、同様に沖縄作戦史観の立場をとっているというわけではないが、おそらく、日本国家の見方もほぼそれに近いのではなかろうかと思われる。因みに、その一つをここに引いておく。 「沖縄作戦は、大東亜戦争の末期、沖縄本島を中心に日米両軍が文字どおり死闘を繰り返した、最後はあの国土防衛作戦である。日本軍は、米軍が沖縄諸島に進攻基地を推進しようと来攻する戦機をとらえ、その戦力を撃破して戦意を挫き、もって戦争目的の達成をはかろうとした。一方、米軍にとって本作戦は、沖縄本島に日本本土進攻の拠点を設け、その直後に予定する本土攻略戦の試金石ともなるものであって、日米両軍にとり重大な意義を有する作戦であった。圧倒的な物量を誇る米軍に対し、日本軍は、沖縄県民と真に一体となり、死力を尽くして長期持久作戦を遂行した。遂に敗れたとはいえ、この軍官民一体の敢闘は、米軍に多大の出血を強要してその心胆を寒からしめ、もってその本土攻撃を慎重にさせ、わが本土決戦作戦準備に貴重な日時を与えた。特に可憐な男女中学生を含む県民の敢闘は、当時国民に深い感銘を与えたのであり、長く戦史にとどめらるべきものであろう」(2) この見方に関して、今日の時点での評価や見解は、大きく別れることはともかくとして、過去の歴史のある側面、たとえば、戦争を指導した人々に焦点を当てて考え、歴史の文脈のなかで大掴みにいえば、この見解にも肯定すべき面のあることも認めないわけにはいかない。 先の第1章から第3章までの第1部のところで詳細に分析したように、「軍官民一体化」論の立場からすれば、この考えは戦時の国民意識の指導原理がそのまま戦後に引き継がれた見方であることが判明するはずである。批判的な見方をすれば、戦時中の「軍官民一体化」論の亡霊が、戦後もその負傷したまま生き延びているようなものである。 しかし、戦争に動員された人々の立場からすれば、明らかにすべきは、「日本軍は、沖縄県民と真に一体となり、死力を尽くして長期持久作戦を遂行した」という文言のところをどのようなレヴェルで肯定するかということに関ってくるようにも思われる。言葉の「真の一体化」を単に歴史的な事実の側面のみならず、この場合、一体化に向けて作用した国家権力(天皇、政府、軍部)の意思をも明らかにする必要があるように思われる。その点で先の沖縄作戦史観からの見解だけが、支配的で正当性を持つともかぎらないことは言うまでのない(3)。本論文では、国家の側からの行政的な同一化・戦力化政策に焦点を定めながら、戦時行政で重視される治安維持の側面を防諜・間諜の視点から住民の戦力化のテーマに接近し、問題点を捉え直してみることにする。この点は、第1部のところで明らかにした論点を踏まえ、その論理が地域としての沖縄にどのように作用したかということに関心が集中してくるのである。 すでに前章でも検討してきたように、沖縄も日本国の一部を形成しているので、大きな流れの態勢はほぼ固まっているように思われる。少し遅れた出発ではあったが、治安立法の法体系は、沖縄地域にも網の目をかぶせていた。機密保護法やスパイ問題が、どう展開したのか少し細部に立ち入って見ることにする。 ところで、前章(第1章から第3章まで)で論じ分析した件とも関連するが、スパイ問題は、もっとも直裁に沖縄戦に切り込める糸口のように思える。 これまでは、沖縄戦中に隠微で多様に繰り広げられる防諜・間諜についての視点で書かれた論文は予想よりもはるかに少なく、わずかに玉木真哲「戦時沖縄の防諜について-沖縄守備第32軍の防諜策を中心に-」(『沖縄文化研究』13号1987年)(4)と松岡ひとみ「秘密戦における軍民間の相互作用と接点-沖縄戦の情報に関する一考察」(『沖縄関係学研究論集』第4号1998年)等の研究がある(5)。防諜・間諜に関して重要な史料として注目されてきた「秘密戦ニ関スル書類」を活用している。 最近は、藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』(青木書店2001)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(筑摩書房1999)、林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店2001)等すぐれた研究書が発刊されつつある(6)。 殊に、纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(7)のなかの「沖縄戦と秘密戦」の個所は、正確ですぐれた分析で傾聴に値する。もちろん、『本部町史、資料編1』(本部町教育委員会編、1979・9)(8)に収録された「秘密戦ニ関スル書類」も丹念に検討している。これらの成果も部分的に取り入れ参考にしつつ、叙述を進めることにしよう。 沖縄戦は日米戦争の色彩が濃厚であることには変わりはないが、その特質としてあげられている防諜、間諜、謀略がいかに展開されたかについても関心を示すことが重要であろう。関心事の集中する「沖縄人スパイ」説から入ることにする。あくまでも説であり、噂や風聞に過ぎないが、研究のスタートもこのレヴェルから出発するしかない。 戦後の第八十九回帝国議会貴族院に、最後の沖縄出身の男爵伊江朝助議員が残っていた。伊江の発言として次のことが貴族院の速記録に残されている(9)。 「沖縄終戦ノ三日前ニ、盛脇(森脇カ)ト云フ陸軍ノ中尉ガ牛島司令官ノ命ヲ受ケテ沖縄カラ脱出シタ、其ノ道案内ヲシタ者ガ海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男、此ノ男ハ沖縄出身デ、大学ノ学生デアリマシタケレドモ、召集サレマシテ海軍ニ入ッタ男デアリマス。是ガ万難ヲ冒シテ盛脇ト云フ中尉ヲ連レテ脱出シテ、奄美大島ノ徳之島迄行ッタ、盛脇中尉ハ非常ニ感謝シテ居ッタノデアリマスガ、徳之島ニ上陸スルト盛脇中尉ハ、今回ノ沖縄戦線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ、其ノ上地二等兵曹ハ非常ニ憤慨シマシテ、刺違ヘテ、ヤラウト云フ考ヲ起シタ、然ルニ考ヘテ見ルト、司令官ノ命令デ脱出シテ大使命ヲ持ッテ居ルカラト云フノデ其ノ儘ニシテ居ッタ、サウシテ此ノ人ガ九州地方ヲ廻ッテ、九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖縄戦ハ沖縄県人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖縄五万ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアルノデアリマス、我々カラ考ヘマスト、非常ニ残念ニ思フノデアリマス」(衆議院議員選挙法改正法律案特別委員会議事速記録第2号) 日本の敗戦という社会の虚脱状況の中で沖縄人の裏切り行為が、戦争に負けた理由だとする軍人の沖縄県人スパイ観の情報に接し、伊江は非常に残念であり、帝国臣民の名誉にかけても憤慨にたえない。この件につき、国務大臣をはじめ、国民に問いただす発言になっている。この速記録によれば、沖縄人スパイ説は戦時から戦後に引き継がれ、その情報の流れは戦時に九州各地に疎開しそのまま置き去りにされた人々の上にも重くのしかかっていた。その沖縄人スパイ観の起源は、意識や感情に作用していて歴史をさかのぼれば、容易に発見できようが、やはり直接的には戦時に必要に応じ再生産されたと見るのが、適切であろう。遠因はさかのぼれば、際限なくきりがない。しかし、ここでは、明治期までさかのぼり、意識のあり方として、先に明治の山県有朋らの考えを検討してみた。しかし、その考えが直接的に戦時期に連動するわけではない。そこには多くの媒介項や留保事項がなければならないはずである。 ところで、不思議なことに、この伊江の発言の内容と次に示した森脇の証言は基本的な行動の点では一致している。伊江発言を裏付ける文書の存在がいささか興味を引く史料である。 元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」が、防衛研究所図書館に所蔵されている(10)。その稿本の扉にこう説明してある。「本人は陸軍歩兵学校教官として該地巡回教育の途上沖縄において戦闘の渦中に投じて、32軍司令部付きに命課され、独立混成第44旅団司令部において勤務して作成に従事した。本記事は司令部より戦訓報告のため大本営へ派遣され脱出記事である」と。その第一巻のなかの6月8日の条に次のような箇所がある。少し長い引用になるがいとわず引いておく。 「洞窟の中を歩いて見ると、以前の顔ぶれが揃っていた。変に思って聞いて見ると、昨日2組出発したが敵のスパイらしいが崖の上で発火信号したため、敵の掃海艇に攻撃せられ、陸軍切込隊は全員行方不明、海軍の組は一名を失っただけで舟をやられて辛うじて流れて帰って来たとのことであった。海軍の兵曹長が今晩スパイを斬って来ると張り切っているそうだ。夕刻になって伊良波が帰ってきた。軍命令は貰って来ていた。「軍命令なくして戦線離脱すべからず軍占領地区内にあるくり舟は軍命令なくしては一艘たりとも使用すべからず、所在部隊は軍命令により森脇中尉に能う限りの協力をせよ」という趣旨のものであった。既に軍の秩序は麻の如く乱れ、その統制は全く行われていない。人は軍律よりも自己の生命の危険に戦いている。この時期に一片の軍命令が何程の効果を発揮し得るだろうか。私は迷ったまま、黙っていた。日暮時兵曹長が「今からスパイを斬って来ます」と言って来た。私は「御苦労さん、拳銃を貸そうか」と言ったが、「何、これさえあれば沢山ですよ」と軍刀を見せ乍ながら出て行った暫くたつと「やはり借りて行った方がよかったですな。手負ひだけど一人逃がしてしまったよ」と残念そうに行って来た。スパイはハイカラな服装をした男一人と女二人で先ず男に一太刀あびせ次に女二人を斬ったが女を斬っている隙に男が拳銃を撃ち乍ら逃げてしなったのだということであった。然し、もう妨害は出来ないだろうと思って安心した。」 スパイ殺害事件に関する当事者による貴重な証言で、信頼にたる資料である。戦時期の沖縄の治安状況を明らかにすることは、現在でもなお困難な状況にある。事実関係を明らかにする研究史料が圧倒的に少ないという障害が横たわっている。それを補完する意味で、国家の側から出てくる言論統制の目的をもって配布された文書に注目する必要があるのかもしれない。しかし、その手法を採ると沖縄の状況を特化させる。この方法が、全体的な状況のなかに沖縄を溶解してしまう可能性もある。そこで、中間的な手法を試みる。前者のごく基本的な方法は、すでに第1部の第2章で示しておいた。 戦時においては、国民的なレヴェルにおいてすでに昭和16年にスパイ活動を防止する目的で国防保安法が施行されており、国民の間に防諜思想の普及をはかる立場から防諜週間を設けるなどのキャンペーンも行われている。防諜対策という国の政策は、国民のなかに相互監視の体制を作り出していくことであり、また、国民のなかに敵国に対する敵愾心を奮い立たせつつ、必然的に猜疑心を醸成させていく心理作戦である(11)。この防諜思想の普及は実態として、多様な展開をとりながら、沖縄社会の治安状況とも絡みつつ深く広く浸透していく。 治安立法である軍事機密保護法、国防保安法の制定後、沖縄社会はどのような変化が見られたのか。その反応は、防諜週間の実施という行事として早く現れている。防諜思想の普及とその徹底が目的であるが、行動の主体は、やはり沖縄県特高課であった。その他に市町村、警察署、学校、警防団、連隊区、憲兵等が参加している。 軍の情報の強力な協力宣伝機関の一翼を担っていた新聞の社説も 「国家総力戦に於て最も緊切なるものは思想戦である。国民の精神思想が脆弱であれば、敵国又は第三国の宣伝謀略に乗せられて敗戦の憂目をみる外はない。国民が国策の針路を十分に理解体得し毅然たる決意強固なる信念の下に翼賛の実を挙げるべく努力する」(12) と、このことが大切だと思想戦の重要性を説く。政府の意図した言論統制が功を奏しつつあった。 沖縄守備隊第32軍の沖縄戦時のスパイ観については「沖縄戦防衛庁文書」(13)の中に多く散見できる。その軍部の住民に対する基本的な見方は、「秘密戦ニ関スル書類」(「返還文書」返青13-12)(14)で提示したのと内容的にほとんど同じであり、共通している。すなわち、沖縄住民に対するスパイ視する意識や考えは、常時社会の雰囲気の中に重く顕在していたと考えられる。例えば「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」(球軍会報)(15)などは、異常な緊張関係の中での軍の自信の喪失と住民への猜疑心を露呈したものであった。沖縄社会で日常的に話されていた琉球沖縄方言が、「スパイ言語」とみなされ使用禁止されたのである。東京語をモデルにした標準語を日常的にコミュニケーションの手段として使用することが、国民国家の形成に他ならなかった。その間隙にあって、その余波を受けずに生活を送ることの可能であった閉鎖的な地域社会のいわゆる老世代にとっては、自己のことば生活手段としての地方的な文化すなわち、琉球沖縄方言による表現手段の剥奪であり、内容とはかかわらないいわば言論の弾圧であったに等しい状況であったといえよう。軍の説く国家の側からの軍民一体論の幻想が、現実の地域社会に直面する時、例えば敵国アメリカの軍隊が上陸を敢行した時点で、日本軍がどのような行動に出るかは、十分に予想できたと思われる。国家の側のとりわけ軍部の創り出した自己同一の信念が揺さぶられる時、軍は信頼すべき者とみなされていた県民への仕打ちが、何でありえたのかについて次に見ることになろう。 想起してみるに、この緊張状況は、植民地支配地域では日常的に作りだされていた。同一化策による言語の使用、治安立法等を見れば明らかである。植民地支配を強権的な政治手段で見るならば、戦時における人民支配のあり方と共通する側面が多い。植民地を所有する国家は、戦時において国内もまた植民地的な政治状況に変容する必然性を有していたことになるであろう。そのことの持つ論理の思想史的な意味を解明しなくてはならない。 2 「秘密戦ニ関スル書類」と住民対策 この文書史料はアメリカ政府からのいわゆる返還文書の一部で、原本は、現在国立公文書館に所蔵されている。史料の系列の流れから言えば、防衛庁戦史室の沖縄戦関係文書の一部であるように推察される(16)。これらの史料を分析することは、謀略を任務とする特務機関の事例研究にもなるであろう。 この史料は、1944年(昭和19)11月から翌年3月の5ヶ月間にわたる独立混成第44旅団(旅団長鈴木繁二少将)の下にある球7071部隊(第2歩兵隊、宇土武彦大佐)の書類で、主に球1616部隊(第32軍司令部)との往復書簡、書類と第2歩兵隊の書類が中心で、鉛筆書、ペン書、ガリ版刷の公私文書等を含んでいる。したがって、それらの書簡は、軍司令部情報主任薬丸兼少佐と第二歩兵隊防諜謀略主任熊田正行中尉、同諜報宣伝主任山本緑中尉、第三遊撃隊の遊撃秘密戦主任村上治夫大尉との間で交わされた連絡事項が多い。もちろん書類には宇土武彦大佐も目を通して署名を残している。大掴みにいえば、この史料は、三つの内容に分類できる。①陸軍、海軍、政府(特に内務省)関係、②第32軍司令部と第2歩兵隊、③第2歩兵隊と秘密戦機関=国士隊、の3つの側面で構成されている。 ところで、軍は防諜、間諜、謀略についてどのような具体策を持っていたであろうか。以下において「秘密戦ニ関スル書類」の内容を検討することにする。 1944年(昭和19)11月18日、極秘「報道宣伝防諜等ニ関スル県民指導要綱」が、球第1616部隊(第32軍司令部)作成されている。そのもとの骨子は、同年の10月6日の、「決戦輿論指導方策要綱」に基づいている。「決戦輿論指導方策要綱」は先に第2章第2節の「機密保護対策の強化」ところで触れておいた。この例からも判るように政府の意思は通達として沖縄にも伝えられていた。全く同じ文章ではないが、現地の状況に適合するように改められている。 「第1方針」のところにその目的が明確に示されている。 「皇国ノ使命及ビ大東亜戦争ノ目的ヲ深刻ニ銘肝セシメ我カ国ノ存亡ハ東亜諸民族ノ生死興亡ノ岐ルル所以ヲ認識セシメ真ニ六十万県民ノ総蹶起ヲ促シ以テ総力戦態勢ヘノ移行ヲ急速ニ推進シ軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現シ如何ナル難局ニ遭遇スルモ毅然トシテ必勝道ニ邁進シルニ至ラシム」 方針は、あくまでも原則的なことを述べている。「60万県民」と記述するあたりが地域的な適合性であろう。内容はすなわち、精神主義的な一体感の醸成であり、常に意識として幻想的な「軍官民共生共死」という運命共同体を感知させることにある。すなわち玉砕意識の共有化をめざしたのであろう。国家による上からの一体感を創り出すべく努力している。いわゆる非常時に国家権力側の創出する同一化意識、すなわち指導上のアイデンティティー形成による同化策であった。その方針を広く住民の中に浸透させ、機能させていくには、関係機関の縦横の協力が必要になってくる。実行と取締りは、沖縄憲兵隊の役目で「本要綱ニ基ク実行ノ指導取締ニ任ズ」と規定されていた。頂点にあって全体の統轄は、当然のことながら第32軍の任務であるが、各兵団、各守備隊、憲兵隊、在郷軍人会、県当局等が、それぞれに担当して実行にあたることになっていた。 特に、軍の側から沖縄県当局の実行すべき項目として 「二、軍ハ本件ノ特性特ニ内地防衛ノ最前線ナルニ鑑ミ森厳ナル軍紀ヲ確立シ皇軍タルノ実ヲ現示シ以テ県民ヲシテ積極的ニ軍ニ協力スルト共ニ絶対ニ軍ニ信頼シ如何ナル事態ニ遭遇スルモ動揺混乱スル事ナク冷静沈着事ヲ処シ各職域奉公ニ邁進セシム。 三、県当局ノ治政ヲ極力援助シ県民ヲシテ尊厳ニシテ悠久ナル国体観念ノ下神州不ヲ確信シ必勝ノ信念ヲ堅持セシムルト共ニ克ク時局ヲ認識シ個人生活ハ国家ト共ニ在スルコトヲ知ラシメ総テヲ戦争完遂ノ一途ニ集中シ以テ敵愾心ヲ旺盛ナラシメ奉公心ヲ昂揚セシム。 四、常ニ民側ノ真相特ニ其ノ思想動向ヲ判断シ我ガ報道宣伝ノ効果、敵側諜報宣伝、謀略ノ企図及内容ノ探査等敵策動ノ関スル情報収集ニ努メ敵ノ謀略並ニ宣伝行為ノ封殺ニ遺憾ナカラシム。 時に報道機関、マスコミに対しては、 (一)戦時執務要領ニ準拠スル外軍防衛ニ基キ軍ノ行動ニ即応セシムルヲ第一トス。 (二)報道宣伝ハ自主的計画的ニシテ全機関ハ軍ノ完全ナル統制ノ下ニ実施ス。 (四)常ニ戦局ノ推移民心ノ動向ヲ察シ機先ヲ制シ好機ニ投ジ重要事項ハ反復宣伝ヲ実施ス。 この会員には、軍、警察特高関係者の他に沖縄新報社社長、同盟通信那覇支局長、毎日新聞那覇支局長、朝日新聞那覇支局長、放送局長の名が連ねている。 ところで、秘密戦とは何を意味していたか。先ずはその規定を探ることにする。 「国頭支隊秘密戦大綱」なかでは、 ①「本綱中ノ宣伝、防謀、遊撃秘密戦ハ謀報謀略ト共ニ之ヲ秘密戦ト呼称ス」、 ②「秘密戦ハ国家総力戦タル今日武力戦ニ即応不可欠ノ勤務トナリ作戦ヨリ戦闘ヘト全面的乃至終期的役割ヲ要請サレアリ」と。 防諜は、敵との交戦前(対内諜報)と攻撃開始前後とに区別される。交戦前は、「住民ノ思想動向特ニ敵性分子ノ有無」に向けられるが、開戦後の宣伝戦は、「軍官民ノ戦意ヲ昂揚シ戦力ノ培養維持ヲ策ス」となっている。さらに続けて「作戦準備期間ハ報道宣伝ニ努メ戦闘中ハ謀略宣伝ヲ併用ス」となっており、場合によっては、状況を転換させる目的のために作為的に新状況を創作することも考えていた。 ところで、(三)国士隊はいかなる隊なのか。国士隊は宣伝、諜報、防諜、謀略を任務とする秘密機関で、北部地区の国頭地方で1945年(昭和20)の3月に各町村の有力者、実力者、学校長、翼賛会員等を集めて結成された。その国士隊に関する軍側の評価を見てみよう。 「当日会同セル会員一六名ハ悉ク感激シ一死報国ノ念ニ燃ユル決意看取セラルルモ仲宗根源和ヲ除ク全員ハ当地区ニ於ケル所謂人格者知名士型ノ士ニシテ斯種任務ニ嘗テ服務シタル体験ナク且ツ組織的ニ斯種教育ヲ受ケタル者ナク機密保持並服従精神薄弱ナル脆弱面アリト思料セラルル点アルモ任務ノ重大性ヲ鼓吹、感激心ヲ昂揚持続セシムレバ或程度ノ活動ハ期待セラルルモノト思料ス」 軍当局の所見も地域の情報に熟知しており、なかなか冷静で観察も細かい。仲宗根源和を除くとした理由について、こう続けて述べる「仲宗根源和ハ元日本共産党ニ関連シ相当深刻ナル左翼的イデオロギーノ抱持者ナルモ現在ハ斯種運動ヨリ遠ザカレル者ニシテムシロ本人ノ感激心ヲ唆リタラバ予期以上ノ成果ヲ収ムルニ非ズヤト思料セラルル」と。個人の内面に関わる情報も的確に把握している軍部の情報量の豊富さに改めて感嘆する。 国士隊の勤務に関して、「防諜ハ本来敵ノ謀報宣伝謀略ノ防止破摧ニアルモ本島ノ如ク民度低ク且島嶼ナルニ於テハ寧ロ消極的即チ軍事始メ国内諸策ノ漏洩防止ニ重点ヲ指向シ戦局ノ推移ニ呼応シ積極謀略ニ転換スルヲ要ス」とあるように、住民が軍に忠誠を尽くすことを期待しての戦略であったことが理解できよう。当初より防諜(スパイ取り締り)が最大の目的であり、その方針であることがこれらの史料からも窺える。 一 謀略ハ大掛リ而モ綿密周到ナル準備ニ依リ確実ナル基礎ヲ作リタル後実施スルニ非ザレバ顕著ナル成果ヲ期待シ得ザルヲ以テ専ラ軍ノ行フ謀略ニ追随スルノ準備ニ止メ要スレバ局部的現実的謀略ヲ策ス。 二 謀略実施ハ宣伝機関トノ関係不可分ナルヲ考慮シ平素之ガ素地ノ培養ニ務ム。 となっている。正確な情報収集の重要性の認識、住民の内面のコントロールすなわち、心の中まで支配・統制し、軍の目指す方向に指導することであり、住民が軍を信頼し信じ切ることを強要し、必要に応じ時に脅迫もした。 国士隊の「国頭支隊秘密戦大綱」には、次のように記されている。 部隊の中では、特に謀報を担当する隊員が配置されていた。その隊員は、次に掲げるような担当地区の一般住民の民心の動向に特に細心な注意をすべきであると。 すなわち ①「反軍、反官分子ノ有無」、 ②「外国帰朝者特ニ第二世、第三世ニシテ反軍反官的言動ヲ為ス者ナキヤ」、 ③「反戦厭戦気運醸成ノ有無、若シ有ラバ其ノ由因」、 ④「敵侵攻ニ対スル部民(民衆)ノ決意ノ程度」、 ⑤「一般部民(民衆)ノ不平不満言動ノ有無、若シ有ラバ其ノ有因」 ⑥「一般部民(民衆)ノ衣食住需給ノ状態」等「ヲ隠密裡ニ調査シ報告スルコト」、 この取り締まることのみならず、防諜については①「一般部民ノ防諜観念ノ昂揚ニ努ムルコト」②「徒ニ民心ヲ不安動揺セシムル言動(流言蜚語)ノ未然防止ニ努メルト共ニ流言発生ノ際ハ之ガ根拠ヲ探索スルコト」を指導すべき点も強調している。 しかし、これら「秘密戦ニ関スル書類」①、②、③の各資料は、国家総動員法で方向づけられた総力戦体制、国内のあらゆる力を戦争に動員するという戦争を指導した日本の支配体制の政策の展開という一本の太い線で貫かれている。戦争遂行政策すなわち国民の戦力化への道は、この史料で見る限りにおいても、沖縄地域ではきわめて、典型的に機能し、浸透していったことを示している。 防衛庁戦史室の「陣中日誌―輜重兵第24連隊第5中隊の記録-」(17)によって、軍の住民対策をみておこう。国内の中で軍隊の駐屯する地域と駐屯しない地域とでは、状況は大きく異なる。沖縄地方のように表面的ではあるが、軍民一体の態なしているところでは、全国的に見て防諜・間諜の在り方もそれなりに差異が存在したはずである。 きわめて重要な視点であるが、第32軍の住民対策には、当初から矛盾した二つの課題を抱え込んでいた。最初の一つは、県民・住民の協力をいかに調達するかということであり、他の一つは軍事機密をいかに保持するかということである。この二つは戦争遂行にとって軍部が最も気を配り、重視し意を注いだ点であった。 しかし、軍部は住民の「皇民意識ノ徹底セザル」ことを理由に不信を投げかけていた。信用できない住民を戦力化して活用しなければならない軍部は、軍事機密のもれることを極力警戒しつつ、住民の協力を引きだそうとした。そのために起きた軍と住民との摩擦が「スパイ嫌疑」であった。いかに住民が皇民(国民意識、公民意識)意識に徹底し、戦時の戦争体制に全面的に協力したとしても、政治権力の構造的側面から見れば,民と軍との間には越えがたい一線が深い渓谷のように連なっていた。実際に軍部の体質はそのことを隠そうとはしていない。軍部が、軍事機密を守るために、はりめぐらした防諜,間諜の網の目はそれを示している。例えばその一つに軍人に対し「兵ノ一般民ニ接触シ紊リニ談話スルコトヲ禁ズ、指導ヲ誤リ軍ノ威信ヲ損ジ、又防諜上適当ナラズ」と訓令していることから頷ける。 軍にとって、軍事機密の洩れるのを防ぐために、地方民すなわち住民との接触や交渉を可能なかぎり避けるように努力しながら、その対象である住民の自発的な努力なしには、戦争推進体制の確立もできないというジレンマに立たされていた。軍がその解決策として考案したのが、南方諸島で実施した「兵補制度」にならった「防衛隊」の構想であった。「地方民力ノ強力ナル戦力強化ニ就テ」では軍の本音と内心が図らずも顔を出してしまっている。 すなわち、沖縄での日米の対決に際して、 「最大ノ難事ハ作業力ノ供給ナリ、防諜上許シ得ル範囲内ニ於テ、此地方民力ヲ活用スルコトニ関シテハ、上司ニ於テモ夙ニ著目サレ、既ニ実施中ノ所ナルモ、一刻ヲ争フ現戦局化、皇民意識ノ徹底セザル本島人ヲ思フトキ更ニ其ノ民力ノ供給ヲ強力ニ一元的ナラシムルト共ニ、ソノ指導ニ於テハ軍隊的ナラシメ強力ナル精神指導機関ヲ特設シ以テ旺盛ナル皇民意識ノ下、積極溌剌タル御奉公ヲ感激ノ中ニナス如ク指導スル」 と述べている。精神指導機関を特設するというのは、特務機関を作ることを意味している。 指令官牛島満も訓辞の中で、地方官民の自発的な協力を期待した(独立混成第15連隊、陣中日誌)。自発的な協力は、適当な指導によって引き出される協力のことである。 しかし、軍部は基本的な立場としては沖縄住民すなわち民間人を十分には信頼してはいなかった。沖縄地域すなわち「管下ハ所謂〈デマ〉多キ土地柄ニシテ又管下全般ニ亘リ軍旗保護法ニ依ル特殊地域ト指定セラレアル等防諜上極メテ警戒ヲ要スル地域ナル)(「石兵団会報綴」、球15576部隊)(18)ことも忘れなかった。この地域と住民に対する認識は、軍部の民間人への伝統的な見解であることが理解できよう。 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 戻る
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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』 平成19年12月25日 教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会 http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき)五 沖縄守備軍第32軍と軍備配置 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1) 大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 五 沖縄守備軍第32軍と軍備配置 1944年(昭和19)3月、奄美大島、沖縄本島、宮古・八重山、沖大東島を含む南西諸島方面の国防・防衛を強化するために、大本営直轄の沖縄守備軍第32軍が創設され大本営の直轄となった(19)。新設軍の作戦準備は、航空を主とし、地上を従とする方針であった。米軍沖縄上陸の約1年前のできごとである。創設後、参謀本部の現地調査の完了後、直ちに軍隊の配備が開始され、9月までに、迅速な対応のもとにほぼ移動を完了している。それ以前は、地上兵力皆無の静かでのどかな牧歌的な地方であった。 軍の具体的な任務は、南西諸島全域にわたり多数の飛行場を急ぎ完成することであった。中部太平洋のマリアナ諸島との中継基地として沖縄の飛行場は必要であった。また南方資源地域との連絡も、将来海上交通が困難になることがあっても、島々の飛行場を連結利用すれば十分に活用できるとの考えもあった(20)。しかし、その作戦は予想した通りには展開しなかった。堅固を誇ったマリアナ線も激闘が始まり、アメリカ軍の手中に墜ちてしまう。軍命をかけた戦いは、東条ラインを通り越してサイパン島へと徐々に北上してきた。大本営は、サイパン島奪還作戦のため中国東北部の満州から第9師団戦車第27連隊を抜き取り沖縄地域に派遣した。 沖縄に配備された寄せ集めの軍部の名称は、次の通りである。 第32軍司令部 軍司令官牛島満中将、参謀長長勇、高級参謀八原博通 第9師団 師団長原守中将金沢師団(配備、沖縄本島後に台湾移動)、 第62師団 師団長藤岡武雄中将石部隊(配備、沖縄本島)、 第24師団 師団長雨宮巽中将、山部隊(配備、沖縄本島)、 第28師団 能見敏郎中将(配備、宮古島)、 独立混成第21連隊、井上大佐(徳之島) 独立混成第44旅団 旅団長鈴木繁二少将(配備、沖縄本島)、 独立混成第45旅団(配備、石垣島)、 独立混成第59旅団 旅団長多賀哲四少将郎(配備、宮古島)、 独立混成第60旅団 旅団長安藤忠一郎少将(配備、宮古島)、 海軍陸戦隊 大田実海軍少将 総勢約6万7000名の編成となっている。後に、第9師団の台湾移駐の変更、その穴埋めとして第84師団の派遣が決まっていたが、それも中止となる。再編成の末、戦力補充のため沖縄現地の召集が行われ、最終的には、10万以上に達している。 第32軍の初代軍司令官には、かつて第56師団長としてビルマ戦に参加の後、陸大教官になった渡辺正夫中将が任命される。3月に着任し、各地の講演会で、全県民、軍と運命を共にし、玉砕の覚悟を説いた。この玉砕志向の悲壮感に満ちた言説は、結果として戦争の恐怖と敗戦への諦観を抱かせることになり、県民の必勝不敗の信念に動揺を与えるものだとして厳しく非難される。渡辺正夫中将は過労も重なり病床に伏す身となり、沖縄を去るはめになった(21)。渡辺正夫中将の言説に言う玉砕は、必勝不敗の信念と矛盾拮抗する概念ではなく、純粋に結合する概念として捉えられていた。しかしそれを受けとめる県民の発想のなかには、玉砕は敗北であり、必勝不敗はあくまでも勝利で、本来両者は交わることのない両極端の位置にあると即時的に認識されていた。多分に玉砕の捉え方にも軍人と民間人との間では、大きな相違があった。玉砕は占領した各地で無数に起こりうる現象なのか、それとも日本国内で一度だけ起こり得ることなのかをめぐっては、軍人と民間人とでは認識に差異があっても不思議ではなかった。しかし、戦時が長期化してくる時期になると県民の意識も変容し、徐々に渡辺正夫中将のかつて発想した方向に旋廻を遂げていく。次の島田叡知事の着任の頃には、県民も島田も共に渡辺の説いたかつての玉砕意識を受け入れる方向に大きく傾斜しつつあった。 後任には陸軍士官学校長の牛島満中将が着任する。シベリア出兵にも参加したことのある牛島は、沖縄決戦をどう位置づけていたであろうか。大本営の方針でもあろうが、その沖縄認識は、ある程度終戦の状況を予想させ彷彿させるであろう。 牛島「軍ノ屯スル南西ノ地タル正ニ其ノ運命ヲ決スベキ決戦会場タルノ公算極メテ大ニシテ実ニ皇国ノ興廃ヲ雙肩ニ負荷シアル」(22)との沖縄決戦を位置づけ深く自覚していた。少なくとも牛島は、皇国日本の運命は沖縄決戦の在り方で決定づけられるという認識を強く持っていた。そのために採り得るあらゆる手段が考え出されたのであろう。 牛島は着任挨拶で全軍の将兵に対し次のように訓辞した(23)。 第一「森厳ナル軍紀ノ下鉄石ノ団結ヲ固成スヘシ」、 第二「敢闘精神ヲ発揚スヘシ」、 第三「速カニ戦備ヲ整ヘ且訓練ニ徹底シ断シテ不覚ヲ取ルヘカラス」、 第四「海軍航空及船舶ト緊密ナル共同連繋ヲ保持スヘシ」、 第五「現地自活ニ徹スヘシ」「現地物資ヲ活用シ、一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スベシ」 第六「地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如ク指導スヘシ」、之カ為懇ニ地方官民ヲ指導シ喜ンデ軍ノ作戦準備ニ協力セシムルト共ニ敵ノ来攻ニ方リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍セサルノミナラス進ンテ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ 第七「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」(「沖縄方面陸軍作戦」) 1944年(昭和19)、軍の大部隊の配備は、沖縄社会に大きな影響を与えることになる。沖縄住民は、これまで軍隊との直接の接触や交流を持った経験がほとんどなかっただけに、さまざまな波紋や反響を引きおこしている。これは戦後に編集された防衛庁の史料であるが、「日本兵は住民の住宅に雑居するに至り、結局島民の生活に割り込む結果となって、物資不足に悩む未亡人や若い娘たちの間に忌まわしい問題を惹起し、道義の頽廃が目立って増え、軍横暴の声となり島民の反感を買った例が散見される」(24)と述べて、沖縄作戦史観と異なる見解が示されている(「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」陸上自衛隊幹部学校編)。しかし軍官民一体化史観を放棄したわけではない。 戦時の迷彩色一つに塗りつぶされた世相には、本音を押し殺したようにどれも同じ「建て前論」だけが横行した。その傾向は、社会全体に確実に加速された。しかし、現実の状況をそのままリアルに観ている人いた。以下に紹介するのは、志気昂揚の戦争協力だけを謳歌しているだけではない。その逆の場合もありえたのである(25)。 細川護貞著『情報天皇に達せず』の1944年12月の箇所に同様な意味の記述が見られる。 「昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より四時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃機銃掃射を受けたり。而して人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は一機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里先の山中に避難を命じられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有様にて、今に至るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるる等、恰も占領地に在るが如き振舞にて、軍紀は全く乱れ居り、指揮官は長某にて張鼓峯の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦ひをするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと暴言し居る由。島南に入口集り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて、自活不可能なりと。しかも着のみ着のままにて、未だに内地よりも補給すること能はず、舟と云ふ舟は全部撃沈せられ居れりと。来襲鉄器は一千機、島民は極度の恐怖に襲はれ居り、未だ山中穴居を為すもの等ありと。又最近の軍の動向は、レイテに於ても全く自信なく、又内地を各軍管区に分け、夫夫の司令官が知事を兼ねるが如き方法をとらんとしつつあり。又海岸線には防備なく、全部山岳地帯に立てこもる積りの如しと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あり竹の戦車等作りありたりと」(26) 細川レポートは、東京にいても必要に応じ沖縄に関するほぼ正確な情報収集は可能であることを物語っている。適当な関係者を探り当てさえできれば、ごく一部の限られた人たちではあったが、より正確度の高い情報にアクセスできた。日記の記述が指摘するように軍隊と島民=住民は雑居し、婦女子を凌辱するなどの行為もあり、「恰も占領地に在るが如き振舞」で、統制がとれず軍紀は乱れていた。軍隊は占領地や植民地を駐屯し移動してきただけに、沖縄においても同様な行動をとったことは、十分に頷ける。 軍部と住民との関係を出来るだけ公平に客観的に見ていくには、民間人の発言や記録のみならず軍内部の公式の記録も参考史料として見て行かなくてはならない。この件に関し比較的まとまりのある軍部の記録は、「石兵団会報」(27)であろう。 石兵団とは、第62師団のことで、通称石部隊と称されている。史料の内容は、軍の内務班の日常生活が活写されている。すなわち、軍隊内部での教育、訓練、兵士の日常の実態、上層部からの注意事項、命令、伝達が判るようになっている。「石兵団会報」には、若い兵士の性を管理する「慰安婦」に関する詳細な史料も含まれている(28)。 ①「憲兵隊ヨリ通報ニヨレバ空襲後、盗難事件頻発シアリ。軍人ニシテ空家ニ立入リ、物品ヲ持出ス者アリト注意ヲ要ス。又避難民ニシテ食糧、衣類等盗ム者アリト各集積所、倉庫等ハ監視ヲ厳ナラシムルコト。」 ②「空襲後那覇宿営部隊ハ各空家ニ宿営シアルモ、無断借用シ、或ハ釘付セル戸ヲ引脱シ、使用アリ。又家中ノ物品ヲ勝手ニ持出シ使用シアル部隊アリ。民間ニオイテハ「占領地ニ非ズ無断立入リ禁ズ」等ノ立札ヲ掲ゲアリ。注意ヲ要ス」「混雑ニ紛レ、鶏、豚等ヲ無断捕獲シ、食用ニ供シアル部隊アリ。民間ヨリ苦情アリタルヲ以テ注意ノコト。」「性的犯行ノ発生ニ鑑ミ各部隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度。」 ③「某隊ニ於テ、家畜ヲ調査シ、将来全部軍ニ於テ徴発スベキ旨ヲ漏シ為ニ、民間ニ於テハ子豚迄殺シ、食用ニ供シアリト各隊ハ注意シ、地方人ニ不用意ナル言動ヲナサザルコト。」 ④「地方住民ト混在同居シテ居ル部隊アルモ、之ハ厳禁ス。衛生上、防諜上、風紀上非違誘発ノ算大ナリ。」 ⑤「官品ノ盗難、糧秣ノ窃盗頻発シアルモ、犯行者ハ地方人ニ非ズシテ、軍人軍属ニ多キヲ以テ各隊ハ注意ノコト。右ハ刑法触ルルモニナリ。」 ⑥「農作物ヲ荒ス者多シ、地方側ヨリ苦情申出デアルヲ以テ注意ノコト。暴風雨ニヨリ農作物ニ相当ノ被害アリテ、農民ハ非常ニ困却シアルヲ以テ注意ノコト。」 ⑦「防諜ニ就テハ各隊厳ニ注意セラレ度部外関係ハ憲兵隊ニ於テ対策ヲ講ズルヲ以テ部内関係ハ特ニ厳ニシ、通信検問ハ厳重ニ実施ノコト。」 ⑧「地方人ノ通信ニハ軍ニ対スル不満ヲ述ベアル向アリ。一例左ノ如シ。「私ノ家ヲ軍隊ニ貸シタル所、戸板、不要ノ柱等ヲ薪ニ使用シ錠ヲカケタル場所ヲ開キ物品ヲ勝手ニ使用シ、アチラコチラ勝手ニ壊シタリシタ上移動ニ当リテハ家賃モ支払ハズニ行キマシタ」等民間ノ軍ニ対スル不満ノ一端ヲ知ルベク各隊ハヨク注意ノコト」(29) 現地の「石兵団会報」の記録は、細川レポートの記述内容を完全に裏付ける。軍と民は、非対称的な権力関係にあることはいうまでもないが、軍の独断的な振る舞いは、民の軍に対する信頼をますます減少させる結果となっている。戦争における国家の側の説く「軍民一体論」の真相が、ここにも実像として描き出されている。 1945年6月12日、第八十七回帝国議会貴族院の「戦時緊急措置法案」の必要の説明に立った国務大臣(陸軍大臣)阿南惟幾は(30)、アメリカを主力とする連合軍が急テンポで日本本土に押し寄せる緊迫した状況を述べている。軍の最高責任者の国会での発言であるので注目しておく。阿南の意図は、非常時に際してすべての権力を軍が掌握したいとのことである。ここに長々と引用してある理由は、沖縄戦の正確な情報が陸軍大臣である阿南の下に届いていたという事実である。実際のところ、沖縄の戦闘は、終わりを告げようとしていた。その翌日、14日には、海軍の大田実少将の率いる地上部隊は、敵アメリカ軍への突撃を敢行し自滅した。大田と幕僚らは地下の陣地で、自決した。その10日後に、牛島中将も割腹自決をし、沖縄戦は終わっている。阿南の胸中には、その次は本土決戦だという情報を暗示する必要があったのかもしれない。 「沖縄作戦ノ状況ハ現在既ニ首里、那覇ノ線ヲ撤シマシテ、後方糸満ノ大体東西ノ要地ヲ占領シ、茲ニ戦線ヲ整理シマシテ、飽ク迄組織アル所ノ抵抗ヲ続行中デゴザイマス、而シテ昨今陸軍トシマシテハ、出来ルダケノ努力ヲ致シマシテ、物量ヲ陸上友軍ノ輸送ヲシテ居ル訳デゴザイマスガ、敵ノ妨害、地形ノ困難、地形ノ困難トハ飛行場ガ既ニ大部分敵ニ取ラレテ居リマスノデ、是等ノ関係上、物量ノ輸入ハ非常ニ困難ヲ極メテ居リマスガ、万難ヲ排シテ実行中デアリマス、従ッテ此ノ戦況ノ推移如何ニ拘ラズ、今後敵ハ決戦ヲ急グ余リニ、沖縄ノ戦局ニ拘泥スルコトナク、或ハ本土ニ対シ上陸ヲ企図シ来リ、一挙決戦ヲ求メテ、戦争ヲ終局ニ導カムトスルノ企図ガアルノデハナイカト予想セラルルノデアリマス、而シテ其ノ侵寇方面ハ何処カ、斯ウ申シマスト、是ハ今日言明ヲ致スコトヲ避ケタイト思フノデゴザイマスガ、大体御想像ニ難クナイト思フノデゴザイマシテ、敵ト致シマシテハ我ガ本土ノ一角ニ兎モ角モ足ヲ掛ケルコトヲ急グト云フ状況デアルコトガ、戦況ノ急迫ヲ証明シテ居ルト思フノデアリマス、第二ニ其ノ時期ハ何時カ、斯ウ云フコトニナリマスガ、其ノ時期モ只今申述ベマシタ如ク、沖縄ノ戦況ノ如何ニ拘ラズ、決戦ヲ急グト云フ判断カラ申シマスト、其ノ時期ハ必ズシモ遠クナイ、或ハ非常ニ早ク来ルノデハナイカト云フ判断モ為シ得ルノデアリマス、従ッテ軍ト致シマシテハ、極メテ早期ニ来テモ、之ニ応ズルノ準備ヲシナケレバナラヌノデゴザイマス(31) 鈴木内閣の陸軍大臣阿南惟幾は、遠からず沖縄決戦も終盤を迎える。そうなれば本土上陸は必死である。本土決戦となれば、いつ、どこでというのが国民の最大の関心事である。この関心の核心を慎重に回避しつつ、もしもそうなれば状況は深刻である。とても議会を開いてものごとを決めるということは時間的にも余裕がない。その最悪の事態に備えるべく、全国家権力を軍が掌握したというのが阿南の意図であった。しかし、時期の全体の流れは、国体護持を含む和平工作の路線であった。 (以下略) 注 (1)細谷千博他編『太平洋戦争』(東京大学出版会、1993年7月)収録の中村隆英「太平洋戦争と日本社会の変貌」、マリウス・B・ジャンセン「二〇世紀における太平洋戦争の意味」は、沖縄戦を考える上でも示唆に富む論文と言えよう。 以下の件は注(1)とは関係なく、単なる思い付きであるが、論文作成の過程で、本文記述と注の表記をどのようにするか大いに迷うことがしばしばある。叙述のなかでも本文に残すべきかそれとも注の個所にまわして記述すべきか、これまでも判断に苦慮してきた事実がある。論旨にある明快を持たせるために、煩雑になりそうな部分を避けるために、注のところに移動するのだとよく言われる。しかし本論文の作成では、従来の伝統的な判断に縛られず、ある程度、自由にしかも気楽に判断した。 注は単なる出典の明示にとどまらず、問題の裾野を広げる荒野のような領域であろうと解している。本文と注の領域には明確な境界は存在しないのかもしれない。しかし、実際には両者は厳然と存在する。その境界線を自由に往来することが可能なのか。関心を誘う魅力的なテーマである。古典研究の注釈論とは異なった、学術論文の注記の仕方をどのように行うのか、またどう解釈するのかを、改めて検討してみる必要があるように感じる。 (2)『沖縄作戦』陸幹校(旧陸大)戦史室教官執筆陸戦史集九原書房はしがき6ページ。 (3)沖縄戦に関する文献は相当な量に達するはずである。その関係史料は、現に発掘進行中であり増えることは確実である。これまでの蓄積を見るには、吉浜忍「沖縄戦後史にみる沖縄戦関係刊行物の傾向」(『史料編集室紀要』第25号)が参考になる。また研究動向を知るには、『沖縄戦研究』Ⅰ(沖縄県教育委員会、1987年10月)、『沖縄戦研究』Ⅱ(1999年2月5日)、『沖縄県公文書館研究紀要』等が参考になろう。最近の紀要のなかで、仲本和彦「米国の沖縄統治に関する米国政府公文書の紹介」(2001)仲本和彦「米国の沖縄統治に関する米国政府公文書の紹介Ⅱ-沖縄戦関連文書を中心に-」(2002)大いに参考になるであろう。沖縄戦に関する多くの出版物のなかで、例としてここでは、以下の文献を紹介しておく。沖縄タイムス社編『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』朝日新聞社(1950)、仲宗根政善『沖縄の悲劇―姫百合の塔をめぐる人々の手記』華頂書房(1951)大田昌秀『沖縄のこころ』岩波書店(1971)、大田昌秀『総史沖縄戦』岩波書店(1982)、安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』晩聲社(1989)、『沖縄県史』「沖縄戦記録1」(1971)、『沖縄県史』「沖縄戦記録2」(1974)、嶋津与志『沖縄戦を考える』ひるぎ社(1983)、石原昌家『虐殺の島―皇軍と臣民の末路』晩聲社(1978)、藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』青木書店(2001)、大城将保『沖縄戦―民衆の眼でとらえる戦争―』高文研(1985)等をあげておくに留める。戦時記録として、少し先の編纂では、伊江村教育委員会編『証言資料集成、伊江島の戦中・戦後体験記録―イーハッチャー魂で苦難を超えて―』(1999)、最近のでは、沖縄県読谷村役場『読谷村史第5巻資料編4 戦時記録上下』(2004)等がある。『沖縄県公文書館研究紀要』(2002)に発表された源河葉子「沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:米国側資料に見る撮影・利用の概要」も参考になる。 (4)玉木真哲「沖縄戦史研究序説―沖縄戦防衛庁文書陣中日誌―」(『沖縄史料編集所紀要』第九号、1984年)。玉木真哲「戦時沖縄の防衛隊に関する一考察―基礎資料の紹介と本島南部についてー」(『琉球の歴史と文化―山本弘文博士還暦記念論集―』本邦書籍、1985年)。玉木真哲「スパイ防止法」とその土壌―沖縄戦における防諜からみてー(『新沖縄文学』69号1986年)、玉木真哲「沖縄戦像再構成の一課題―若干の資料紹介を混じえてー(『球陽論叢』島尻勝太郎他古希記念論集1986年)。玉木真哲「スパイ防止法とその土壌」(『新沖縄文学』69号沖縄タイムス1986年)。玉木真哲「戦時防諜のかなたー太平洋戦争下の沖縄-」(『琉球・沖縄-その歴史と日本史像-』地方史研究協議会編、雄山閣) (5)松岡ひとみ「秘密戦における軍民間の相互作用の接点―沖縄戦における情報の一考察―(『沖縄関係学論集』第4号1998)。 (6)藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき―』(青木書店2001)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』(筑摩書房1999)。林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店2001)。 (7)纐纈厚『侵略戦争―歴史的事実と歴史認識―』のなかの「沖縄戦と秘密戦」のところは、正確ですぐれた分析で傾聴に値する。 (8)『本部町史、資料編1』(本部町教育委員会編、1979・9)に収録された「秘密戦ニ関スル書類」。この収録にとって、ほぼ完全な形で刊行される。 (9)「第八十九回帝国議会貴族院衆議院議員選挙法改正法律案特別委員会議事速記録第2号」(『沖縄県議会史』第8巻・資料編5、沖縄県議会、1986年、収録)。敗戦直後で、沖縄人スパイ説の提起する問題の深さについて、十分な理解を深めるには至らなかった。 (10)元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」(全3巻、請求番号、沖台、沖縄一54~156)が、防衛研究所図書館に所蔵されている。 (11)石川準吉『国家総動員史』資料編(第5巻、第8、防諜関係資料、国家総動員史刊行会、1977)1391~1450ページの、1、国防秘密保護に関する各国の法令、2、出版及著作関係法令集、3、防諜講演資料、4、国防保安法解説等に詳しい。特務機関の解明もあわせて重要な課題となろう。 (12)「社説具体的実践に俟つ」(『沖縄新聞』1941年5月5日)。 (13)『防衛庁沖縄戦関係文書』の文書と目録の詳細については、我部政男『近代日本と沖縄』(一三書房、1981年)収録の「沖縄戦関係文書について」参照。文書に関しては、宮里政玄・我部政男監修『CD-ROM版写真|記録・沖縄戦全資料』(日本図書センター、1999年)参照。目録には、我部政男「日本・沖縄近代史関係史料マイクロフイルム目録」(『社会科学研究』21号、山梨学院大学社会科学研究所、1996年)、『CD-ROM版写真|記録・沖縄戦全資料』の目録(日本図書センター、1999年)参照。 (14)『秘密戦ニ関スル書類』(国立公文書館蔵)は、沖縄戦の言論・思想統制の実態解明には不可欠な史料である。原本の存在は、『北の丸―国立公文書館報―』第2号(昭和49年3月)で「被接収公文書=返還文書」として公開されたことで明らかになった。しかし、その存在は1996年に鹿野政直「アメリカ国会図書館収蔵の日本関係文書について」(『史観』第73冊)の指摘もあり、それ以前に遡る。日本国への返還される以前は、米国議会図書館に所蔵されていた。マイクロフイルム化された時は「内務省警察局発禁の新聞、小冊子、ビラの類」の中に整理分類されている。フイルムは、一般にも販売され京都大学人文研究所、早稲田大学図書館、東京空襲を記録する会等をはじめ国内の機関でも購入しており、広く普及している。『秘密戦ニ関スル書類』は、1975年11月4日から9日まで『沖縄タイムス』に初めて紹介された。ただし、一部人名が個人情報との関わりで削除されるなど不完全で、全文の完全な印刷翻刻は、『(沖縄県)本部町史』資料編一で1979年に実現する。また、大城将保編解説で『秘密戦に関する書類』(15年戦争極秘資料集③)として、不二出版社から影印判で復刻される。『秘密戦ニ関スル書類』は、先に返還され防衛庁の戦史室に保管されている沖縄戦関係文書群と同じ系列の史料である。 (15)『防衛庁沖縄戦関係文書』。「球日命第104号、球軍日日命令」「天ノ巌戸戦闘指令所取り締ニ関スル規定」。 (16)『秘密戦ニ関スル書類』(国立公文書館蔵)参照。 (17)『防衛庁沖縄戦関係文書』独立混成第15連隊「陣中日誌」参照。 (18)「石兵団会報綴」、球15576部隊『防衛庁沖縄戦関係文書』。『石兵団会報』この史料を私は、「沖縄戦における軍隊と住民―防衛庁戦史室蔵沖縄戦史料―」沖縄タイムスの1977年6月25日から7月12日まで13回連載する。(我部政男『沖縄史料学の方法』新泉社、1988年1月、参照)。『浦添市史』戦争体験記録、第五巻資料編、1984年にも同史料が、収録されている。前掲書の吉見義明「沖縄、敗戦前後」でもこの史料は取り上げている。会報の揃いは、今のところ未確認である。 (19)『沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研究所戦史室朝雲新聞社昭和48年参照。 (20)『沖縄方面陸軍作戦』。秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1991・10・15)参照。秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会(1981・11・30)参照。 (21)浦崎純『消えた沖縄県』沖縄遺族連合会青年部、沖縄時事出版社、(1965年)。 (22)『沖縄方面陸軍作戦』84ページ。 (23)『沖縄方面陸軍作戦』85ページ。 (24)(『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』陸上自衛隊幹部学校)。 (25)戦時中弾圧の対象になった戦争反対勢力についても明らかにする必要がある。本論文とは、別の課題として考えている。 (26)細川護貞『情報天皇に達せず』下巻、磯部書房、1953年、327ページ。吉見義明「沖縄、敗戦前後」(岩波講座『日本通史』第19巻近代4、岩波書店、1995年3月9)でもこの史料は取り上げられている。 (27)『石兵団会報』注(18)参照。 (28)沖縄の慰安婦関係の資料群である。注(18)を参照。沖縄の慰安婦については、高里鈴代「強制従軍「慰安婦」」(『なは・女のあしあと那覇女性史(近代編)』那覇市総務部女性室1998)がある。高里鈴代も『石兵団会報』、山部隊の「内務規定」を資料として分析の対象としている。 (29)『石兵団会報』参照。 (30)『沖縄方面陸軍作戦』。秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1991・10・15)参照。秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会(1981・11・30)参照。 (31)「第八十七回帝国議会貴族院戦時緊急措置法案特別委員会議事速記録第一号」(『沖縄県議会史』第8巻・資料編5、沖縄県議会、1986年、収録)908ページ。『帝国議会衆議院秘密会議事録集』(2000)参照。 高良倉吉琉球大学教授 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 戻る
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2025年ドラフト候補 投手 180cm 80kg 左投左打 大社高 2003年度生(1年) 球の出どころがわかりづらい投球フォームから130キロ台前半の直球、決め球のスライダーやカーブなどを投げ込む。3年夏の県大会で準優勝に導いた 指名者コメント一覧2021年度合議制第2回、巨人:6位(21/10/02) URL一覧中日スポーツ ドラフト候補の動画とみんなの評価 球歴 山梨学院大公式HP 高校野球ドットコム(高校時代) 指名者コメント一覧 2021年度 合議制第2回、巨人:6位(21/10/02) 高卒左腕。 リリースの滑らかさと出処の見づらさのバランスがいいフォーム。 隠し球候補だったが、本来指名したかった高卒左腕が全て消えたためどうせならと急遽育成から繰り上げてねじ込んだ。 URL一覧 中日スポーツ https //www.chunichi.co.jp/chuspo_sports_sokuho/npb/draft?sj_page=playerinfo_3366 ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=26911 球歴 https //www.kyureki.com/player/183361/ 山梨学院大公式HP - 高校野球ドットコム(高校時代) https //www.hb-nippon.com/player/22851 2021プロ志望届提出者 2025大学生投手 関甲新学生 名前 コメント
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2023年ドラフト候補 外野手 184cm 82kg 右投右打 山梨学院 2001年度生(新4年) 勝負強さと長打力を兼ね備え、3年秋には5本塁打19打点。俊足も魅力で、3年春には12盗塁 (31 50-より宮崎選手打席) 指名者コメント一覧2023年度第2回、横浜:4位(22/10/22) 第3回、阪神:3位(22/12/23) 第4回、横浜:2位(23/03/04) 第5回、日本ハム:3位(23/04/01) 第6回、広島:4位(23/04/29) 第7回、楽天:3位(23/05/04) 第8回、ソフトバンク:育成1位(23/06/02) 第9回、日本ハム:3位(23/06/24) 第10回、横浜:3位(23/07/01) 第11回、ロッテ:2位(23/07/07) 第12回、西武:1位(23/07/08) URL一覧ドラフト候補の動画とみんなの評価 球歴 一球速報(打撃成績) 高校野球ドットコム(高校時代) 指名者コメント一覧 2023年度 第2回、横浜:4位(22/10/22) 関甲新リーグで秋HR5本と打ちまくっている外野手 上武大や白鷗大相手でも打っているのは好印象で、今年19盗塁1盗塁死と走れるのも魅力 第3回、阪神:3位(22/12/23) 関甲新リーグでは秋季には驚異の打率6割で最多安打・最多本塁打・打点王・盗塁王に輝くなど無双状態。 大学代表選考会の50m走では参加選手の中で最速の5秒91を記録するなど身体能力抜群。 第4回、横浜:2位(23/03/04) 三拍子揃ったアスリートタイプ 高掴みかもしれないけど今年はこのタイプの外野手あんまりいない、ような気がする 第5回、日本ハム:3位(23/04/01) 三拍子揃った山梨学院大学の外野手 日ハムはこういうの好きそう 第6回、広島:4位(23/04/29) コメントなし 第7回、楽天:3位(23/05/04) 5ツールプレーヤーの卵 足が早くて体格が良い選手は貴重よ 第8回、ソフトバンク:育成1位(23/06/02) 模擬でまさか残ってるとは枠あんまり指名しないけどたまには 身体能力だけでもまぁ支配下レベルやと思う 第9回、日本ハム:3位(23/06/24) コメントなし 第10回、横浜:3位(23/07/01) 桑原が30歳、神里は劣化、関根もバテてきて蝦名も伸び悩み、梶原勝又では心許ないので獲得。模擬ドラでの宮崎の評価が分からないのでこの折り返しで指名してみた。 大学日本代表トップの50mタイムをはじめ、走攻守の身体能力の高さに期待。 第11回、ロッテ:2位(23/07/07) 今年1番右打ちセンター、荻野の後継者 第12回、西武:1位(23/07/08) コメントなし URL一覧 ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=23955 球歴 https //www.kyureki.com/player/171043/ 一球速報(打撃成績) https //baseball.omyutech.com/playerTop.action?teamId=62411 playerId=1115999 高校野球ドットコム(高校時代) https //www.hb-nippon.com/player/18302 2023大学生外野手 2023大学生野手 関甲新学生 名前 コメント
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2023年ドラフト候補 内野手 172cm 72kg 右投右打 2005年度生(新H3年) 1年秋の関東大会は初戦で2安打。握り替えの早い遊撃守備に定評があり、強豪校で1年秋から定位置を確保 (1 56-より進藤選手打席) 指名者コメント一覧2023年度第1回、ロッテ:育成5位(21/12/12) 第3回、ロッテ:育成2位(22/12/23) URL一覧ドラフトレポート 選手査定ノート ドラフト候補の動画とみんなの評価 高校野球ドットコム 球歴 一球速報(打撃成績) 指名者コメント一覧 2023年度 第1回、ロッテ:育成5位(21/12/12) 守備で話題の172㎝遊撃手 確かに見るからに上手いが複数試合見てるわけでもないのでワイ的には何とも 中学時代は打撃の方で注目されてたらしいが、正直まだまだなので今後に期待 第3回、ロッテ:育成2位(22/12/23) コメントなし URL一覧 ドラフトレポート https //draftrepo.blog47.fc2.com/blog-entry-5859.html 選手査定ノート http //playersnote.blog.fc2.com/blog-entry-8001.html ドラフト候補の動画とみんなの評価 https //player.draft-kaigi.jp/PlayerInfo.php?PlayerId=30679 高校野球ドットコム https //www.hb-nippon.com/player/22994 球歴 https //www.kyureki.com/player/238186/ 一球速報(打撃成績) https //baseball.omyutech.com/playerTop.action?playerId=2211215 teamId=15731 2022センバツ登録選手 2022選手権登録選手 2023センバツ登録選手 2023高校生内野手 2023高校生野手 山梨県(高校球児) 名前 コメント