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アイテム名:ブドウジュース 説明:ブドウの果汁を瓶に詰めた物。飲みやすいので、ただ食べるより回復量が増える。 重量:10 入手経路: 料理:ブドウ1個 青色の液体1個 名前 コメント
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慶長16年に会津地方を震源とした大きな地震が発生しました。 大日本地震史料に記録が残っているので、その内容を引用したいと思います。 慶長16年8月21日(西暦1611年9月27日)岩代岩代国会津、地大に震ひ、寺院・家中・民家の倒潰算なく、山崩れて河流を塞止め、湖を生ず 当代記 八月廿一日、奥州會津邊大地震、石垣悉崩、塀櫓以下悉落、殿守破傾、瓦以下落、人馬多死、近邊山崩、川の流を留、依之知行二萬石餘湖水となる、他国此地震無之、中にも柳津本堂倒、在家多ころび、山崩、是は偏飛騨守佛神を蔑如し、任我意、其天罰の謂と云々 会津四家合考 慶長十六年辛亥八月廿一日、辰刻会津大地震、会津川下流山崩塞焉、故浲水汎濫、而欲浸耶麻、蜷川秀行長臣岡半兵衛、野野左近、籍于郡中集役夫、下流而不日通焉、水盡涸、然下濕之地、餘水相湛爲湖、称曰山崎湖、自寛永末年之頃、漸々水涸、皆爲菑畬矣、此地震楊津堂崩入河、並塔寺観音堂崩倒 續年日記 慶長十六年辛亥八月廿一日、辰刻大地震、別て会津は天地開闢以来の大地震也、城下は不及曰、大寺柳津塔寺、新宮如法寺、法用寺等と寺院佛閣、神社堂塔震倒、或は大破、其外城石垣崩埋、堀家中の家土蔵門戸倒、町家民家夥倒、会津川下流山崩川を塞ぐ、水湛事三日三夜、郡中村々家に水附浮流事夥、依之秀行の長臣岡半兵衛、野々左近、其外大勢出で、郡中の人足数萬人集て、爲堀けれ共無甲斐、此時山崎之湖水出来る、其餘截川塞渓成沼、或は川旱潟と成り、山亦成川所多し、於会津太平邑五分一邑程窪村泥潟山邑二つ栗村小杉山黒澤麻生大栗山砂子原牧澤湯八木澤大嶺小野川小中津川下中津川大蘆虵喰沼山沼平山口水引粟生澤楢原大内氣多宮蕪中の沼、此時出来たる也、熱鹽温泉湖没、又名入邑の内高清水戸板平の山夥崩て塞、只見川三日不流、水上に湛事宮崎村迄溜る、其崩塞たる所、川中に大石共不流して在、川中後高瀬と名、魚を取、依て寛永五年に役銀二匁宛永代定役と成、亦利田瀧坂も如此魚を取る、亦瀧谷邑岩谷岩城山三分二崩塞川、七日水不流、砂子原小鹽澤迄湛、此時今の村居に砂上り、成平地故、民家移す 柳津圓藏寺雑記 [史料編纂掛岩代採訪本。寺は岩代国河沼郡柳津村にあり] 慶長十六年辛亥八月廿一日(戊子)辰之下刻、郡中大地□(震々)就中、此地岩巒崩裂し而、佛殿函丈僧房民家悉く倒覆す、人も亦多く壓死す、洪水渺瀰于山中、及水之涸、凡歴代之経籍寶器等、悉漂流也 駿府記 慶長十六年八月廿五日、去十三日、会津大地震、蒲生飛騨守秀之(行)城郭、石壁以下悉震崩云々 武徳編年集成 慶長十六年八月廿二日、奥州会津大地震、巳の刻猪苗代四萬石の地陥り湖となる、死歿する男女三千七百餘、[是多々美川埋る故也、会津風土記に見ゆる] 〇駿府記十三日に作り、編年集成廿二日に係ぐるは、共に誤れり 新編会津風土記 河沼郡 塔寺村八幡宮 慶長十六年八月廿一日、大地震して、未社鳥居廻廓舞殿釣殿観音堂二王門の類、一時に頽顛し、只本社のみ残りしを、同十七年蒲生氏に請、士民を勧め、僅にかたばかりの営をなす[前後略] 同郡 柳津村虚空蔵堂別當円蔵寺 慶長十六年地震暴水ありて、屋宇漂流し、此寺も災に罹り、多く経巻什寶を失へり、其翌十七年春、又大地震ありて、寺の後山崩れ、僧房を破り、看寺の僧二人を壓殺す ※新編会津風土記からの参考文は割愛 言緒卿記 十一月二日丁酉、天晴、八月九日に会津の柳津大地振、堂舎佛閣盡破滅之由、於御城、[駿府]新庄宮内法印雑談有之了[本書及び下の慶長日件録に八月九日とあるは傳聞の誤ならん] 蒲生記 八月廿二(一)日、会津大地震動して、辰巳の刻に、北方の在郷とも、一つの湖とこそ成にけれ、恐しかりし事共也 異本塔寺長帳 慶長十六年辛亥、八月廿一日辰刻、大地震、別て、会津は、天地開闢以来の大地震也、城下は不及曰、大寺、柳津、塔寺、新宮、如法寺、法用寺等と寺院佛閣、神社堂塔震倒、或は大破、其外、城石垣崩埋堀、家中の家土蔵門戸倒、町屋民家夥倒、会津川下流、山崩川を塞ぎ、水湛事三日三夜、郡中村々家に水附、浮流事夥、依之、秀行の朝臣岡半兵衛、町野左近、其外大勢出て、郡中の人足数万人、集て爲堀けれ共無甲斐、此時山崎之湖出来る、其餘截川塞渓成沼、或は川旱潟と成り、山亦成川所多し、於会津、大平邑、五分一邑、程窪村、泥潟山邑、二ツ栗村、小杉山、黒澤、麻生、大栗山、砂子原、牧澤、湯八木澤、大嶺、小野川、小中津川、下中津川、大蘆、蛇喰、沼山、沼平、山口、水引、粟生澤、楢原、大内、氣多宮、蕪中ノ沼、此時出来たる也、熱塩温泉湖没、また、名入邑の内高清水、戸板、平ノ山夥崩て、塞只見川、三日不流、水上に湛事、宮崎邑迄溜る、其崩塞たる所、川中に、大石共不流して在川中、後名高瀬、魚を取、依て寛永五年に、役銀二匁宛、永代定役と成、亦利田滝坂も如此魚を取る、又瀧谷邑岩城山に三分二崩塞川、七日水不流、砂子原、小鹽澤迄湛、此時今の村居に砂上り、成平地故、民家移す 新編会津風土記 ※略 セバスチヤン・ビスカイノ金銀島探検報告 土曜日若松市に著せり、此地を領する王は飛騨殿[蒲生秀行]にして皇帝の長女の婿なり、[中略]王は附近の河及び湖の出水せる爲め、その城及び市街大害を被り、又前月大地震ありて、其城及び二万戸以上の家屋破損し、今修理中なる由を語り、地震の原因を尋ねたれば、大使は天に在る神が天地及び人類を造り其意に任せ空氣をして地を振動せしめ、国王以下地上の住民をして造物主を思い出し自己の悪行を改めしむる事を説きたり 会津舊事雑考 〇八月廿一日辰刻大地震会津川下流山崩塡塞焉故浲水汎濫欲浸四郡秀行長臣岡半兵衛町野左近集郡中役夫令疏下流湛者三日而通然下濕之地餘水相湛爲山崎湖漸漸水涸自覚永末年概爲甾畬、 此時山崩截川塞渓爲沼者太平五分一[耶麻郡]程窪泥浮山二栗小杉山[稲川荘]蛇喰(じやばみ)[小俣]等之所也、 楊津舞台崩堕河及び塔寺観音堂新宮拝殿亦倒[中略] 〇七月二十一日[慶長十八年]野澤組如法寺修復檀那岡半兵衛也去年去年地震皆損也 野志 九月、奥羽二州、地陥水涌、死者八千人[實録、一。校正王代統忠、一覧同し] 新宮雑葉記[会津] 同[慶長]十六辛亥年八月二十一日巳ノ刻大地震、是より用越不止、此時新宮神社佛閣倒て只三所の神殿計り残、此後三所の本社前殿之外無造営、是時山崎前大川地形動上て流水湛、四方七里に横流す新湖となり、青木聖徳寺観音堂湖水の中に至越国道墜て坂下に募、同年十月秀行新宮の来由を糺して社供を寄附し給ふ 新宮雑葉記[岩代国耶麻郡慶徳村字新宮] 頃しも慶長辛亥仲秋二十五日大地震し、数日の間更に不止、十三間の拝殿を始め四所の明神五所の新勸請十五本地堂一萬宮の南殿八所の廓閣瀧ノ宮稲荷八幡ノ両宮小守勝手の奥之院三多計明神大山袛羽山神社神蔵天満天神之宮居四天王の東門金剛力士の南門に大黒天の北の門補陀楽寺の千手堂文殊堂十王堂三所の宮の本地堂護摩堂東浄堂西惠(?)堂荘厳堂其外僧坊三十餘院皆破壌低倒し、只三所の高閣のみ残れり、見る人肝を痛ましめ聞人神を濡さずと云ことなし 新宮雑葉記 其後又濁川の水上大平の山慶長十六年八月の地震に抜け落て沼と成れり 山崎新湖 参考大日本地震史料. 上巻(震災予防調査会 編)[明治37年(1904年)] 大日本地震史料 増訂. 第1巻(349コマ目)(文部省震災予防評議会 編)[昭和16-18年(1941-1943年)] 会津地震(Wikipedia) 他慶長16年 (1611年) 会津地震による地変 と地震断層(PDF)(J-Stage)
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歴代の会津の領主(藩主)と関連した出来事を簡単にまとめます。 和暦 西暦 領主藩主 その他 崇神天皇10年 ? 四道将軍の大彦命・武渟川別命親子が会津の地で合流。 景行天皇27年 ? 武内宿禰が日高見の国(磐城・陸前)を見つけたと上奏 景行天皇40年 ? 日本武尊の東征 欽明天皇元年 540年 梁の青岩(青厳)が渡来、高寺山で庵を結ぶ 欽明天皇13年 552年 伊佐須美神社、明神ヶ岳より高田南原へと遷る 舒明天皇6年 634年 恵隆が渡来、高寺の庵を恵隆寺と名付ける 斉明天4年 658年 連空(蓮空)、恵隆寺に石塔山の山号を授ける 養老4年 720年 得道上人、雀林村に法用寺を建立 神亀元年 724年 按察使・大野東人が多賀城(柵)を築城、陸奥国府が置かれる 天平3年 731年 会津地方を大会津国(郡)と呼ぶようになる 神護景雲3年 769年 道嶋宿禰嶋足により丈部(はせつかべ)庭虫らが丈部から阿倍会津臣に改姓。同時期に会津壮麻呂も丈部から改姓か? 宝亀6年 775年 勝負沢の戦い。高寺が一時滅亡(所説あり) 延暦8年 789年 巣伏の戦い。会津壮麻呂、阿弖流為の率いる軍勢に敗れ戦死 延暦23年 804年 利仁が高寺の再興に着手 大同元年 806年 磐梯山噴火 大同2年 807年 徳一(一説には空海)、恵日寺を開く 大同4年 809年 藤倉村に地蔵堂を建立。二階堂と呼称 弘仁2年 811年 (空海)蚕養国神社を建立 承和7年 840年 耶麻郡の大領に丈部人麻呂の名あり 延喜2年 902年 藤原定国、陸奥出羽按察使就任。後に会津の句を残す 康保元年 964年 空也上人、堂島村冬木沢に八葉寺を創建 萬壽3年 1026年 小平潟天神勧請(現在の猪苗代湖の天神浜) 天喜5年 1057年 源義家、北会津郡一箕村と河沼郡塔寺村に八幡宮を創建 寛治4年 1090年 北会津郡門田村一ノ堰に地蔵堂を創建 承安2年 1172年 越後の城資永、恵日寺の乗丹坊へ小川荘を贈る 養和元年 1181年 源平合戦に巻き込まれる。恵日寺の乗丹坊、横田河原の戦いで戦死 寿永元年 1182年 この頃より高寺と恵日寺の諍いが始まる 文治5年 1189年 奥州合戦。奥州藤原氏の滅亡 建久元年 1190年 高寺の滅亡(高寺おろし) 建久2年 1191年 佐原義連 佐原盛連 承安4年(1174年)-天福元年(1233年) ※諸説あり 葦名光盛 承久元年(1204年)-弘長3年(1263年) ※諸説あり 葦名泰盛 嘉禎元年(1235年)-正和5年(1314年) ※諸説あり 葦名盛宗 文永8年(1271年)-暦応元年(1338年) 16歳で家督継 ※諸説あり 葦名盛員 弘安8年(1285年)-建武2年(1335年) ※諸説あり 建武2年 1335年 葦名直盛 元寇に参戦。中先代の乱で一時期鎌倉を掌握 貞和6年 1350年 塔寺八幡宮長帳 記録始まる 葦名詮盛 葦名盛政 永享6年 1434年 葦名盛久 文安元年 1444年 葦名盛信 宝徳3年 1451年 葦名盛詮 文正元年 1466年 葦名盛高 永正14年 1518年 葦名盛滋 永正18年 1521年 葦名盛舜 天文5年 1536年 白髭の水 天文10年 1541年 葦名盛氏 天正3年 1575年 葦名盛隆 天正12年 1584年 亀王丸 天正15年 1587年 葦名義広 天正17年 1589年 伊達政宗 天正巳丑の乱 天正18年 1590年 蒲生氏郷 天正19年 1590年 蒲生氏郷 文禄4年 1595年 太閤検地 慶長3年 1598年 上杉景勝 慶長5 1600年 慶長出羽合戦(北の関ケ原) 慶長6年 1601年 蒲生秀行 慶長16年 1611年 会津地震。山崎新湖出現 慶長17年 1612年 蒲生忠郷 寛永4年 1627年 加藤嘉明 寛永8年 1631年 加藤明成 9月に洪水発生。山崎新湖の水量元に戻る 寛永20年 1643年 保科正之 寛文2年 1662年 会津四家合考 完成(編 保科正之/向井吉重) 寛文6年 1666年 会津風土記 完成(編 友松氏興) 寛文9年 1669年 保科正経 寛文12年 1672年 会津旧事雑考 完成(編 保科正之/向井吉重)。山崎新湖の水まだ残る 天和元年 1681年 松平正容 享保16年 1731年 松平容貞 寛延3年 1750年 松平容頌 天明2年~ 1782年 天明の大飢饉。~天明8年(1788年)まで 寛政元年 1789年 会津鑑 完成(編 会津藩編集方) 文化2年 1805年 松平容住 文化3年 1806年 松平容衆 文政5年 1808年 松平容敬 文化6年 1809年 新編会津風土記 完成(編 田中玄宰) 嘉永5年 1852年 松平容保 文久2年 1862年 京都守護職 就任 慶応4年 1868年 戊辰戦争 明治21年 1888年 磐梯山噴火(岩崩れにより桧原湖・小野川湖・秋元湖等を生成)
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陸奥国 会津郡 大塩組 大日本地誌大系第31巻 145コマ目 ※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記45」より塩井之図 大塩組は会津・大沼二郡に跨る。 本郡に属するもの此に出す。 塩沢村 蒲生村端村:八木沢 寄岩村 十島村
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蘆名時代黒川城市図 会津鶴ヶ城縮図 福島県若松市全図 ※若松市郷土誌(国立国会図書館)より 会津地方の古地図をご紹介。 天保国絵図 陸奥国会津(国立公文書館) 天保9年(1838年)の会津地方の絵図 まだ見つけたばっかりで内容を精査していませんが、かなり古い地図です。 状態も綺麗で拡大すれば内容も確認できます。 大日本国郡名所 奥州会津郡若松(国立国会図書館) 明治元年(1868年)の会津地方の絵地図。 戊辰戦争前に発行されたものと考えると感慨深いです。 調べものするには向かないです・・・。 磐城岩代両国全図(福島県立図書館) 明治11年(1878年)に福島県地理課が発行した福島県全体の地図。 とにかく大きい。山川の名前はほぼ網羅している事と、大きい町や集落名はほとんど載っています。 問題は大きすぎて調べものするときに大変な事です。 岩代国会津明細図(古典籍総合データベース) 早稲田大学が公開している古文書のスキャンイメージです。 上の磐城岩代国両国全図とほぼ同じものです。 明治5[1872]年製で写本との記載があります。 分割スキャン版は細かい字でも読めるものになっています。 福島県管内全図(福島県立図書館) 明治20年(1887年)に福島県農商課が発行した福島県全体の地図。 磐城岩代両国全図に比べると小さい分書いてある内容も少ないですが、全体を把握する分には十分です。 ※明治21年(1888年) 磐梯山噴火 会津史. 巻之1-2(国立国会図書館) 明治28~30年(1895~1897年)に池内清治郎という方が発行した資料本。 その中に福島県の地図があります。 資料自体は貴重なものですが、地図の内容は文字が潰れてよめません。 地図はP.12以降に載っています。 地方分轄地図(国立国会図書館) 明治32年(1899年)に金港堂から出版された日本地図。 日本全体の地図のため、細かい内容までは記載されていません。 福島県はP.19に載っています。 袖珍日本新地図(国立国会図書館) 明治42年(1908年)7月に富山房から出版された日本地図。 これも日本全体の地図のため、細かい内容までは記載されていません。 福島県はP.16に載っています。 最近會津旅行地圖(国立国会図書館) 明治41年(1908年)8月に鈴木屋書店から出版された旅行地図。 旅行地図だけあって道は詳しい。今の地図にない峠道の記載もある。 地図は大きく細かい地名まで記入されているが、ややぼやけて読めない所があるのは残念。 会津鶴ヶ城蒲生若松城下明細図(古文書データベース) 明治44[1911]年加藤商店出版。 若松城下の地図です。通りの名前も記載されています。 ポケツト大日本分県地図 最新調査. 福島県之部(国立国会図書館) 大正14年(1925年)8月に雄文館から出版されたハンディサイズ旅行地図。 郡毎に分けて地図がかかれています。細かい内容までは記載されていませんが、分かりやすい地図かと。 田子倉ダムと奥只見ダムできたのが昭和35年(1960年)。 それ以前の地図をご紹介しました。 他 会津銀山街道地図(福島県庁) 現代の地図で『掲載日:2018年1月22日』と書かれています。 若松~只見町までの銀山街道のルートが記載してあります。 白河・会津街道(会津若松市) 滝沢峠~黒森峠までのルートを記載した地図(PDF)へのリンクがあります。 掲載日が2019年11月26日と割と最近です。 ただ、地図自体が非常に見にくいんですよ。 いろいろ記入してある文字も潰れていますし…。 ちょっと残念です。 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 「1888 磐梯山噴火」(内閣府) 明治21年(1888年)に磐梯山が噴火した翌年に作成された日本初の災害報告書を元にした資料です。 いくつかPDFファイルがありますが、「口絵」のPDF内に『農商務省地質局発行の磐梯山之図(明治21年印行)』の災害地図が載っています。
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大日本地誌大系第31巻 7コマ目 ※国立公文書館「新編会津風土記45」より 続日本紀・元正天皇養老二年(718年)五月『常陸国の石城(いわき)・標葉(しねは)・行方(なめがた)・宇太(うた)・白理(はくり)・菊田(きくた)六郷を割ち石城国を置く。白河(しらかわ)・石背(いわせ)・会津(あいづ)・安積(あさか)・信夫(しのぶ)五郡を割て石背国を置く。常陸国多阿郡の郷二百一十烟(えん)を割て名て菊田郡と曰。石背国に属す焉(えん)』とある。この郡の国史に見えたる初なり。 これより先已(すで)にこの郡を建て相津の地に置し郡なる故(ゆえ)名け、常陸国に属し石背国を置れし時割て石背国に属し、石背国廃して後陸奥(むつ)国に属せしにや詳ならず(*1)。 耶麻・大沼・河沼この郡より分かれし後も三郡に比するに猶大なる故にや俗に大会津郡と称す(*2)。 寛永の頃(1624年~1645年)より会津郡の称を失い誤て大沼郡と称す。中にも小出・弥五島・松川・楢原・田島・河島・高野・熨斗戸・古町・和田・黒谷・大塩組の地は郡名を失う。 寛文中(1661年~1673年)肥後守正之この誤を正し始て古名に復せり。 東は岩瀬郡に交わり二岐嶽(ふたまたがたけ)・小嶽山(こたけやま)を界とし下野国那須郡・塩屋郡に隣り、小嶽山・大峠(おほとうげ)・山王峠(さんわうとうげ)を界とす。 西は上野国利根郡に接し藤原峠(ふちはらとうげ)を界とし越後国魚沼郡に並び藤原峠・枝折峠(しちりとうげ)・大鳥嶽(おおとりがたけ)・朝草山(あさくさやま)と界とす。 南は下野国都賀郡に隣り帝釈山(たいしゃくやま)・長田代山(ながたしろやま)・赤安山(あかやすやま)を界とし上野国利根郡に隣り赤安山・小瀬峠(おぜとうげ)と界とす。 北は大沼郡に隣り畳子沢(たたこさわ)・松坂峠(まつさかとうげ)・船鼻山(ふねがはなやま)・関山峠(せきやまとうげ)を界とす。 また 辰巳(南東)の方は下野国都賀郡に並び荒貝嶽(あらかいがたけ)・枯木峠(かれきとうげ)を界とす。 未申(南西)の方は上野国利根郡に接す至佛山(しふつやま)を界とす。 戌亥(北西)の方は越後国蒲原郡に隣り赤芝山(あかしはやま)を界とす。 丑寅(北東)の方は屈曲して安積・大沼2郡に挿入し府城その中にあり。東は安積郡に交わり久我山(くかやま)・黒森峠(くろもりとうげ)・布引山(ぬのひきやま)を界とす。西は大沼郡に連なり藤倉山を界とす。また丑寅の方は安積・耶麻2郡に績ぎ猪苗代湖(いなはしろこ)に至る。 東西22里余(東は岩瀬郡の界五輪峯より・西は越後国魚沼郡の界朝草峠に至る)。 南北16里余(南は上野国利根郡の界小瀬峠より・北は大沼郡の界松坂峠に至る)。 この郡は四方に高山連なり平地少なく民居大抵山間に住す。 その田は中の下その畠は下の上なり。 暑は晩(おそ)く寒は早くして甚だ強し。 大凡(おおよそ)10月より雪積もり3月まで消えず。冬月疾風あれば吹雪大いに起こり平野昿野(こうや)にて迷仆する者往々あり。是を吹倒(ふきたふれ)とて甚だ恐れ、風雪の日は門戸を出る者稀なり。また雪車(そり)を以って牛馬に代わって諸物を運転す。 滝沢・高久・中荒井・橋爪・南青木の組々は平衍(へいえん)にして田園多く鶴沼黒川の流れその土を潤す。共に府城の四面を環れり。 気候全く府下に齊(ひと)し。芒種(6月6日頃)の前後に苗を植え、寒露(10月8日頃)の頃に晩稲(おくて)を刈る。 原組は山中にて湖浜(こひん)に臨み雪深く寒気稍(やや)強し。 小出・弥五島・松川・楢原・高野・田島・河島・熨斗戸の組々は山中なる故、寒暖遅速有て花候農務上の諸組より稍(やや)遅し。 和泉田・古町・黒谷・大塩4組は本郡の西偏にて尤も深山幽谷なり。 9月中旬より雪降り1丈5~6尺積もり、4月上旬に漸く消え梅・桜・桃同時に花咲く。 春耕は平衍(へいえん)の地よりは20日計遅き処あれども秋収は大抵同時なり。 この郡の習俗は、村中にて家屋を営めば木を伐り縄を綯て営作を助け、屋上に修めるには芦萱を贈(おく)り、農月には互いに力を通じ、時候に遅るることなからしめ、疾病あれば親隣代って田を打ち苗を取る。 婚姻の明日、新婦始て茶をたて舅姑に進む。是を舅姑に事えるの初とす。 昔は婿始て舅の家に至る時水を灌くことあり。今は絶てなし。 嫁娶の後3年の間は媒妁に茶と餅とを饋(おく)りて歳首を賀す。産婦ある時兒を洗う者にも3年の間餅を饋(おく)る。 葬は土葬して墓を築く。正之入国(1643年)の頃までは小出・弥五島・松川・楢原・高野・田島・河島・熨斗戸八組のみ火葬せず。その余は火化多くして土葬少なくなりしに、正之屢(しばしば)火化の不幸に近きことを諭さしめてこの俗漸く改めり。 近隣に死人あれば3日髪と衣とを洗わず、小兒死すれば同年の兒童ある家にて耳塞餅(みみふさぎもち)とて餅を製し兒童の耳を覆いその後水中に流す。 農務の始は正月11日を用いる所多し。この日馬把(うまくは)に付ける縄をない初めその後農器を修理す。 この月初めて山に入り木を伐るに、紙に白米昆布を包み木の枝に付けて山神を祭る。 農月種子蒔の時、余米(よまい)を焼米とし田神に供す。鳥口(とりのくち)とてこの米少許を苗代の水口に散すれば諸鳥種子を損せずという。 田植畢(お)えて吉日を選び田神を祭る。酒少許を馬把に灌ぎ酒食をそなへ相集まりて宴飲す。是を早苗破(さなふり)と云う。 秋月早稲(わせ)場に登る時また焼米を作って田神に供う。 収穫の後刈上餅(かりあげもち)とて餅を製して田神を祭り、農業を助ける者を請し奴婢を饗す。 10月吉辰を選び蜡祭(ささい)の遺意にならい、代官東黒川蚕養国神社・南青木組御山村八幡宮・高久組高久村八幡宮を祭り稲荷神を配し祭る。農事に功有りて余沢(よたく)人に及ぶ者は皆享に興る(*3)。 祭畢(お)えて代官所にて酒饌(しゅせん)を倶え70以上の農民を饗す。郷頭一人を主人とし90以上を上賓とし(90以上の者なければ村役人を勤めし者の70以上なるを用ゆ)、その次を次賓とし、その次は衆賓とす。主人禮服(らいふく)を着て賓を門外へ迎え帰る時門外に造る。その後安否を問う賓又来て門外に謝す。 旱歳には高山深淵にゆき、鐘鼓を鳴らし高聲に雨を乞う。大風あれば村々の神社に参籠(さんろう)して晴を祈り、又風神雷神を祭る。田圃に虫付は虫造とて紙と小旗を作り、竹竿に付けて人多く集まり村々の界を送出し、小旗を水中に投ず。 二百十日には年毎に大風田圃を傷うとて前夜より村々にて神社に参籠す。 正月14日を望の年越とも女の年取ともいう。昔は15日なりしに蒲生秀行の時より改めてこの日を用ゆという。この日若木の枝に団子を飾り諸神に供し年穀の豊饌を祈る。この夜かぜとり来る(共に府下に詳なり)。 15日早朝より諸鳥を追う。この日鳥を追えば秋稼を損せずという。又雪上に田圃の形を作り諸穀の稈を植ゆ。この日風あれば諸木多く実を結ぶといい伝う。この月より福よし田植躍(たうえおどり)村々に廻る(共に府下に詳なり)。 2月8日竹器の目ある者を竿上に懸け、11日つぼ団子を製す(共に府下に詳なり)。 7月7日衣服を竹竿にかけ七夕に借すという。兒童大豆の圃中を奔走しその後水邊に行って遊泳す。是を眠流(ねむたながし)という。 10月10日虫供養とて農月殺せし諸虫の為に佛名を唱う。又この日を菜年越(なのとしこし)という。蔓(つる)・菁(かぶ)・蘿(つた)・蔔(ふく)を食わず。 12月朔日餅を製して水神を祭れば水難に逢わずという。是を川びたり餅と称う。 節分の夜儺豆(なまめ)を拾い月数に像り、灰上に並べ熳火に焼き白黒を見て一歳の雨晴れを占う。白者は晴れ多く黒者は雨多しといい伝う。 郷名 倭名鈔に出る所 伴伴 多具(たく) 長江(なかえ)今荘名に残れり 倉精 菱方(ひしかた)安積郡福良組を菱潟荘と称す。因て菱方は安積郡の郷なるを誤てこの郡に出せるならんという説あり。もしくは昔はこの郡の境内にて後転態して安積郡となりしにや。寛元4年(1246年)満月という僧福良組伏龍寺の縁起を書して浅香郡菱縣荘といえり。この頃既に安積郡に属す。 大島(おほしま)橋爪組の村名に残れり 屋代(やしろ) 大江(おほえ)今河沼郡牛沢組に大江村あり。河沼郡はもとこの郡の内なり。 餘戸 今称する所 10 黒川(くろかは)この郷の諸村多く市廛となりし故(ゆえ)今わずかに残れりという。 湯原(ゆのはら) 九九布(くくふ) 楢原(ならはら) 田島(たしま)高野組下塩沢村鷲神社永享4年(1432年)の鰐口に『奥州長江荘田島郷』と彫付けあり。 針生(はりふ) 関本(せきもと) 立岩(たていは)熨斗戸組森戸村の西に立岩とて高15丈計の岩あり。郷名これに因れりという。また湯原以下を俗に南山(みなみのやま)七郷という。 伊南(いな) 伊北(いほく)和泉田組梁取村成法寺の佛像に『奥州伊北郷梁取村成法寺應長元年七月廿八日』と書付あり(應長元年:1311年)。 荘名 門田(もんでん)後光巌院貞治の頃(1362年~1368年)の頃より門田ということ見ゆ(平井次郎三郎明秀が府下寶相寺の寄付状等に)。荘名なりや否ならず。府下高巖寺所蔵葦名盛舜大永2年(1522年)の寄付状に『門田荘東黒川』とあり。 長江(なかえ)長江はもと郷名なり。後に荘となりしと見えて。後花園院永享4年(1432年)に長江荘と記せし鰐口あり(高野組下塩沢村鷲神社にあり)。また寛文の頃(1661年~1673年)までは熨斗戸組木賊村熊野宮にも長江荘と彫付けたる鰐口ありしという。 組名 滝沢組、原組、高久組、中荒井組、橋爪組、南青木組、小出組、弥五島組、松川組、楢原組、田島組、河島組、高野組、熨斗戸組、古町組、和泉田組、黒谷組、大塩組 山川 布引山(ぬのびきやま) 南青木組二幣地村の東南にあり。 頂まで1里余、延亘すること9里計。 東北は安積郡に属す。 黒川・原川の水源にて鶴沼川またその南麓を廻れり。 山深く木立茂り山竹多し。村民、筍を採る者往々帰路を失う故(ゆえ)所々に火を焼置て山に入る。 この山、猪苗代湖の北の諸村より望めば、東西に長く布を引くが如き佳景(かけい)なり。 本郡・安積郡数ヶ村入逢(にゅうあい)の山なり。 兼載の歌に『三年へてをりをり見たる布引を今日をたちそめていつか来て見む』 二岐嶽(ふたまたがたけ) 松川組水門村の東にあり。 頂まで27町計。2峯あり。 東は岩瀬郡に属し、北は弥五島組芦原村に属す。 山北に白川領岩瀬郡湯本村に越る路あり。 大戸嶽(おほとがたけ) 南青木組闇川村の南にあり。 高70丈余。 布引山の西に並び、南は小出組・弥五島組諸村に属す。 雑樹茂れり。 山頂に蟻戸渡(ありのとわたり)という処あり。極めて嶮絶(けんぜつ)なり。 ざらめきという処より雲母土を産す。光彩すくなし。 小野嶽(おのがたけ) 小出組小野村の西北にあり。 頂まで1里計。大戸嶽に西に並べり。 小出組・楢原組・数村に亘り松・楓多し。 昔、足借山(あしがらやま)と称せし者是なり絶頂を堂平(だうだひら)と称す。 小野明神の鎮座ありし処とて社跡猶(なお)存せり。また、昔この山中に住居せし人ありしにや。長者屋敷牛道なと称ふる旧跡残れり(小出組小野村の条下に詳なり)。 今は木立深くしてたやすく登ること能はず。只、小出組沼尾村より少しく通路あり。 船鼻山(ふねがはなやま) 高野組高野村の西にあり。 登ること1里計、形船を覆すが如し。 西は金井沢村に属し、北は大沼郡に属す。 山北に船鼻峠とて大沼郡野尻組大芦村に行く路あり。 荒貝嶽(あらかひがたけ) 熨斗戸組岩下村の東南にあり。 頂まで20町計。 北は本郡河島組滝原村に属し、東は下野国塩屋郡河島組芹沢村属し、太郎嶽という峯を以て界とす。 田代山(たしろやま) 熨斗戸組木賊村の東南にあり。 登ること2里計、山中に広き原あり。その中に田畝の遺形ありという。 東は水引村に属し、東南は下野国都賀郡に属し峯を界とす。 帝釈山(たいしゃくやま) 木賊村の南にあり。 登ること2里計。 西は古町組檜枝岐村に属し、南は下野国都賀郡に属し峯を界とす。 頂に大なる岩あり。土人、駒神堂権現と称し年々参詣して隕霜五稼(ごか)を害すること無ならんことを祇誓す。 山中に「ツカ」黒檜「サハラ」の木多し。 駒嶽(こまがたけ) 古町組檜枝岐村の西北にあり。 頂まで1里余。5峯あり。 南北に綿延(めんえん)することを得ず、檜枝岐・大沼・小立岩3ヶ所に属す。 黒檜・姫松・雑木茂り、夏秋の間残雪駒の形をなす処あり。故にこの名あり。 朝日山(あさひやま) 黒谷組黒谷村の南にあり。 頂まで1里24町余、駒岳の北に続く。 半腹より上は山石多く草木生せず。四時(しじ)雪消えず。 伊北郷の諸村は深山中に住する故(ゆえ)、晏て後始て日を見る。 只、この山のみ詰朝(きっちょう)に日を見る故に名とす。 黒谷・石伏・楢戸・田子倉4ヶ村に属す。 朝草山(あさくさやま)(鬼面山) 鬼面山(おにがつらやま)ともいう。 黒谷組田子倉村の西にあり。 頂まで2里余。 伊北郷第一の高山にて躋攀(せいはん)すべからず。 四時雪を戴き、半山は草木地に蟠(めぐ)れり。 「ノコギリハ」という処あり。峯尖鋸歯(きょし)の如く、その勢恐るべし。 遠方より望めば極めて奇観(きかん)なり。 田子倉・叶津両村に属す。西は越後国魚沼郡に属し峯を界とす。 山中に2つの沼あり。1つは強清水沼(こわしみづぬま)という。周160間。1つは小三本沼(こさんほぬま)という。周280間。 田子倉村よりこの山の南の腰を超えて魚沼郡大白川新田村に出るを六十里越という。叶津村より北の腰を越えて蒲原郡芦平村に出るを八十里越という。共に難所にて牛馬の往来なし。 白峰(しらふ) 檜枝岐村の西にあり。 寛永の頃(1624年~1645年)より銀坑を開き、出ること多く、諸国より人多く集まり小屋千軒に及びしに、寶永3年(1706年)に廃す。その後坑を開て鉛をとりしが、数年ならずしてまた廃す。→白峯銀山 黒檜松樹茂り黄連を産す(加藤氏の時、寛永19年越後国魚沼郡高田領と境を争い官に訴えしに、正保3年に大鳥嶽より南は小瀬沼只見川の中央を以って境とし、上野国利根郡及び魚沼郡の支配の地となる。この山及び枝折峠・藤原峠・至佛山・小瀬峠この地にあり) 枝折峠(しちりとうげ) 白峰の西にあり。 魚沼郡と峯と界とす。 藤原峠(ふぢはらとうげ) 枝折峠の南にあり。 利根郡魚沼郡と峯を界とす。 至佛山(しぶつやま) 藤原峠の南にあり。 山勢けはしく削り成すが如し。四時雪あり。 利根郡と峯を界とす。 小瀬峠 →小瀬 黒川(湯川) 俗に湯川という。 布引山より南青木組二幣地村に流れ出て、湯本村を経て府城の南より西を廻り、高久組に入り平沢村の西にて応湖川来り注ぎ、界沢村より河沼郡笈川組に入り、湯本村温泉この川に入る。故(ゆえ)湯川の名あり。 湯本村より水上は断崖絶壁の間を流れ、水清く奇石にして別境に入るが如し。紅葉の事遊観するに宜し。 この川、元は府城の北を流る。應永26年(1419年)に水道変じて今の地に遷る。 郭内車川その故路なりとぞ。 広15間計、大抵南より北に流る。 この川に産する魚は鰥(やまへ)、杜父魚(かじか)、鮠(はえ)、「ボヤ」、蜂魚(はちうお)、また石蝦蟆(いしかへる)多し。 鶴沼川(つるぬまかわ)(大川) 俗に大川という。 水源1つあり。1流は岩瀬郡鶴沼より流れ出てこの郡に入り、布引山の南を経て弥五島組に入る。(もう)1流は河島組糸沢村山王峠より出て荒貝川に合し、中荒井村より田島組に入り丹藤村の西にて檜沢村と合し、長野村より松川・楢原両組に入り、塔岪(たうのへつり)を経て小出組に入り、小塩村より南青木組に入り、大沼郡の東側を流れ飯寺村より高久・中荒井両組に入り、中荒井組真渡村より河沼郡坂下組にはいる。 この川昔は岩崎(大沼郡橋爪組本郷村)の北麓より西に流れ、橋爪村(大沼郡橋爪組)の東に至り、転じて北に流れ、大島村(本郷橋爪組)・安田村(大沼郡高田組)の間を流れ、河沼郡に入る。因って南関山峠(せきやまとうげ)より北河沼郡の境までこの川を以って会津・大沼二郡の界とせしに、天文5年(1536年)6月28日の洪水(この時白髭の老人屋棟に騎りて流れ去りし故(ゆえ)白髭洪水と云う。今に至るまで称して洪水の極とす)に岩崎の麓より決して北に流れて今の水道となり、故道は塞て陸となり、寛永の初め田圃を開く。因って今は岩崎より下流は大沼郡の界にあらず。 この川、広平の地を流れ処々に井出をせき田地に灌ぐ。然れども水勢つよく洪水の時往々田圃を害する故、両岸に土堤を築き多く柳を栽て水害に備う。 河原広く7、8町の間平砂にして水道常なし。 岩魚(いはな)、鰥(やまへ)、杜父魚(かじか)、鮠(はえ)、鱒(ます)を産す。年魚(あゆ)、「サケ」上がる。 大抵南より北に流る。 只見川(ただみかわ) 水源は小瀬沼より出て、古町組檜枝岐村の山中を流るること10里計、只見村の東にて檜枝岐川と合し、叶津村の北にて叶津川流れ入り、大塩組に入り蒲生村の南にて蒲生川来注ぎ、塩沢村にて塩沢川・畳子沢(たたこさわ)流れ入り、大沼郡大塩組に入る。 大抵南より北に流る。 広70間計。 産最中は岩魚(いはな)、鰥(やまへ)、鮠(はえ)、杜父魚(かじか)、鱒(ます)。 檜枝岐川(ひのえまたかわ) 檜枝岐村の山中より流れ出て落合村の東にて立岩川来注ぎ、宮床村より和泉田組に入り二軒在家村の東にて塩岐川(しおのまたかわ)流れ入り、小林村のにて布沢川(ふさはかわ)来注ぎ、黒谷川に入り黒谷村の東にて黒谷川流れ入り、黒沢村の西南にて只見川と合す。 大抵南より北に流る。 広60間。 産魚只見川に同じ。 ※藤原峠が現在の地名に見つからない 原野 小瀬平 →小瀬 水利 黒川堰(くろかはせき) 南青木組院内村の南にて黒川を引き、南青木組及び東黒川・高久組諸村の田地に灌ぎ、凡76町余の養水となる。 門田堰(もんてんせき) 南青木組上雨屋村の西にて鶴沼川を引き、南青木組諸村及び東西黒川の田地に灌ぎ、凡203町余の養水となる。 思鑿堰(おもひほりせき) 大沼郡橋爪組の東にて鶴沼川を引き、橋爪・中荒井両村の田地に灌ぎ、凡479町余の養水となる。 補足:郷名について 『倭名抄(*4)に出る所 伴伴 多具(たく) 長江(ながえ)(今荘名に残れり) 倉精』と記述があるのですが、つまり長江という名以外今は残っていないという事です。国立公文書館で公開されている新編会津風土記25のP.12を見て頂ければ分かりやすいです。ちなみに大日本地名辞典(下巻)によれば、「伴々」は伴部(ともべ)郷、「多具(たく)」 は高久を指すとの事です。残念ながら「倉精」はよくわかりませんでした。 補足2 『会津坂下町史 3(歴史編)』の「6 地名の移り変わり」に倭名鈔の地名と現在地について記載がありましたので引用します 大江郷 坂下大江付近 余戸(あまるへ)郷 柳津郷戸付近 菱形郷 福良付近 伴部(ともべ)郷 若松付近 長井郷 大戸・本郷・南会津 屋代(やしろ)郷 高田付近 大島郷 河東島付近から湯川村 倉精(くらはし)郷 藤倉倉道付近旧倉橋村 多具(たぐ)郷 大島郷の南高久付近
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陸奥国 会津郡 橋爪組 大日本地誌大系第31巻 48コマ目 橋爪村は会津・大沼二郡に跨る。 本郡に属するものをここに出す。 上米塚村端村:出新田(でしんでん)、宗頥(そうい)町 上荒井村 下野村端村:出新田 金屋村端村:西後庵(にしごあん) 北後庵村 新在家村 西麻生村端村:古屋敷、出新田 柏原村 下米塚村端村:出新田 両堂村 西後庵新田村小名:北新田 大島村端村:出新田 下小松村小名:四壇 端村:松野 付録:上荒井新田村 参考 北会津村誌 北会津の昔ばなしと伝説
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陸奥国 会津郡 高久(たかく)組 大日本地誌大系第31巻 26コマ目、33コマ目 この地府城の西北を続き本郡の東北端にあり。 東は滝沢組・河沼郡代田組に隣り、西は中荒井組・河沼郡坂下組に交わり、南は南青木組に接し、北は河沼郡笈川組に界ふ。 東西1里余(東は代田組倉道村の界より、西は中荒井組真渡村の界に至る)。 南北1里32町余(南は南青木組飯寺村の界より、北は笈川組米丸村の界に至る)。 村里皆広平の地にあり、黒川・鶴沼川その田地を潤し五穀乏しからず。 されども洪水の患あり。 また山林遠く薪樵(しんしょう)の便宜(むべ)からず。 黒川を限り東にある諸村を東郷と称へ西にある諸村を西郷を称ふ。 東郷は田畝(でんぽ)多く、西郷は菜園多し。 中にも西柳原・深川・幕内等の村々は最も府下に近く、その地多くは菜疏を種て鬻(ひさ)ぎ出し、高瀬・神指・横沼等の村々よりは木綿を織り出し生計の資とす。 諸村皆郷名を失う。共に門田荘と称す。 高久組 上村高久村 横沼村 神指村(上神指、東神指、下神指)端村:横沼、榎壇(えのきだん)新(しん)田 高瀬村端村:新田 如来堂村 小見村 鍛冶屋敷村 深川村 幕内村 西柳原村 西城戸村 天満村 東城戸村 高久組 下村平沢村端村:新田 中地村 上吉田村 下吉田村 下高野村 鶴沼村 上高野村 沼木村端村:中沼木、下沼木 中明村端村:屋敷 藤室村 上荒久田村 下荒久田村端村:新田 中前田村 木流村(橋本木流、西木流、平塚木流)小名:上沼 端村:屋敷 東森台村 中森台村 界沢村端村:西舘(廃) 参考 永和の暮らしと歴史(会津若松市)
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陸奥国 会津郡 高久組 小見(おみ)村 大日本地誌大系第31巻 30コマ目 もとは村より申酉(西南西~西の間)の方1町にあり。何の頃にか今の地に移しき。 府城の北西に当り行程27町。 家数22軒、東西1町20間・南北1町30間。 四方田圃(たんぼ)にて西は筒沼川に近し。 東1町40間天満村の界に至る。その村まで3町。 西4町本郡中荒井組蟹川村の界に至る。その村まで13町。 南2町12間西柳原村の界に至る。その村は辰巳に当り12町40間。 北4町如来堂村の界に至る。その村まで4町50間。 山川 鶴沼川 蟹川村の境内より来り北に流るること2町余また蟹川村の界に至る。 土産 煙草 気味強からずして殊に佳なり。 水利 小見堰 鍛冶屋敷村の方より来り田地を潤し如来堂村の方に注ぐ。 神社 稲荷神社 祭神 稲荷神? 相殿 伊勢宮 明神 若宮八幡 鎮座 不明 村中にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。 古蹟 壇 村南2町10間にあり。 高9尺方4間。字を「壇のうら」と唱ふ。 ここより東1町計に(天満村の境内なり)珠数塚石佛という処あり。相伝て、昔阿弥陀寺という浄土宗寺ありし処という。今枯骨(ここつ)(*1)の如きもの或は金滓子を掘得することありとぞ。 Google Map小見村社稲荷神社 蛇足:花春酒造 檀のうらがあった場所(?)には今は花春酒造の工場があります。 花春酒造の創業は享保3年(1718年)で、新編会津風土記の編纂時期より古いです。 会社のHPから一部引用 享保3年(1718年) 大内氏の子孫で弊社の創業者の宮森久右衛門は、鶴ヶ城外堀東門天寧寺口に酒造業を興し、屋号を「井筒屋」、酒銘を「天正宗」と致しました。 天明8年(1788年) 会津藩家老 田中玄宰による藩政改革で殖産興業が奨励され、会津の伝統産業の礎が築かれました。酒の醸造方法も改良がなされて、より良質の酒が造られると、会津が酒どころとして知られていきました。 慶応4年(1868年) 鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発、京都守護職を務めた会津藩主 松平容保を討たんと新政府軍が押し寄せ、会津領内も戦場となりました。城下は炎に包まれ、井筒屋も焼失してしまいました。 人々が敗戦と戦禍に打ちひしがれる中、五代目井筒屋久右衛門はいち早く蔵を再建し酒造に着手、人々の心に「花のような明るさと、春のような和やかさ」を取り戻すべく、酒銘を、漢詩「花開酒国春」にちなみ「花春」と改めました。 元は天寧寺町(現花春町)にあり、現在の場所に移転したのは平成17年(2005年)になってからです。 花春の歩み(花春酒造公式HP) 花春酒造(Google Map)