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451 :一:2007/10/03(水) 19 01 08 O また私の母は統合失調症であった 彼女と向き合った日々ほど私の思想を影響し決定づけたものはない そういえば智恵子抄の智恵子も分裂症だ ま、たまたまかな 452 :考える名無しさん:2007/10/03(水) 20 22 44 0 あれ、おわり? 453 :考える名無しさん:2007/10/04(木) 02 06 55 0 447 そういう青春真っ盛りな意気込みだけははそのままで、 そういう青春真っ盛りな思いつきは 大人になっても引きずったりしないように、 思想を創っていくことができたら、それは素晴らしいことですね。 448 もちろん誰でも自分の都合のいいように世界を解釈するもんで、 哲学史は解釈相互間の闘争の場のようなものなのだともいえるし、 影響力のある哲学者ほど自分の理念のもとにあらゆる物を解釈しているものですが、 その解釈作用をする理念が、強度があったり、創造的であったり、深く生を認識していたりしてこそ、 他の解釈を押しのけて新しい哲学として影響力をもつわけであって、 そうでもない状態の自分の哲学的な基盤を疑わずに信用しすぎて、 その基盤のもとにしかあらゆるものを解釈できない、何もかもを壱思想的にしか吸収できない傾向が強くなってしまえば、 哲学的基盤、自分の思想は豊かにならない、他の人の哲学から大事なものを吸収できない、 自分が認識しているだけのことしか自分は認識していないのであって自分が認識していないことを哲学者はたくさん認識しているということを忘れてしまう、 そういうことになってしまいそうだから、その壱思想というものに憑かれたままでは よくないのではないかな、という感想があったわけです。 同じ壱という一なるものに関する思想をあらゆる考えを抽象していって抽象化論理化していくにしても、 いろいろな多くの認識を手に入れた上でしたほうが、ずっとその思想は豊かになるでしょう。 勝手な批評、気を悪くされていたら申し訳ないです。 自分の思想という内側にあるものへの内向と、他の哲学者やその他世界に存在するいろいろな思想や芸術への外向の、 呼吸のようなリズムが、思想を豊かにしていくように思われます。 454 :一:2007/10/04(木) 17 17 46 O まあこれまでもそうだったように私の思想は今後も微妙に変化していくだろう 私は思想が完成したとは思ってないし、それにしがみつく気もないから ただ いろんな家具や調度品や芸術品の置かれた洋間のような豊満な思想よりも 畳と襖しかないガランとした空間に掛軸が掛かってるだけの和室のような思想に近付いていく気がする まあこれはどっちが正しいかじゃなく趣味の問題だわな 455 :考える名無しさん:2007/10/05(金) 19 04 22 0 age 456 :一:2007/10/05(金) 19 05 26 O まあでも例えば 料理の道を極めようと思ったら旨さとはこういうもんだとかいう思い込みを捨てて 初心に帰ってあれこれ食べてみるべきだろうし 俺もそんな風にして日々起こる事に接していきたいと思うよ それが、こだわらない自由人なんであって壱思想的生き方なのさ 457 :考える名無しさん:2007/10/05(金) 21 04 26 0 易や風水にもつながりそうだな 458 :一:2007/10/05(金) 23 06 07 O そういうのは全然詳しくないけど「気」というのは壱に近い気はするな 元気って言葉が俺は好きでね いろんな気のもともとの気 元気は無邪気で無尽蔵であり疲れを知らない そういうものが私の本体 そう思うと辛いときでもほんとに元気が出て来るのは不思議だ 459 :一:2007/10/05(金) 23 16 55 O 何かしら元気を阻害するものはできるだけ捨てていくべきだし ちゃんとしたメシを食ってちゃんと寝ることが何よりも大事だと思う今日この頃です 460 :一:2007/10/05(金) 23 28 10 O だから猪木さんが 元気ですか~っ!と叫び 馬鹿になれ とことん馬鹿になればほんとの自分が見えてくると語るのも 深いな~と思うな ほんとの自分とは元気そのものなのだ 461 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 01 31 47 0 いろいろと認識も深まるでしょう、そうしたらいいのに、て思ってみたので御座居升た。 新しい認識、新しい感覚、新しい直観を求めた方がいいように思われ升。 ↑に萌えてる僕は負け組みですね・・・ 462 :一:2007/10/06(土) 02 35 39 0 その元気が私の心臓を動かし肺を動かしている 私の細胞一つ一つを動かしているのも元気である 元気こそ私の主人公であり私自身なのだ 元気としての私は宇宙ができたころから存在していて 未来永劫存在しなくなることはない そして常にあらゆる空間に元気としての私は満ちている だからその元気があなたの心臓も動かしている ということは結局私とはあなたでありあなたとは私である 463 :一:2007/10/06(土) 02 38 41 0 461 大丈夫だよ俺も少し萌えてたしw 464 :一:2007/10/06(土) 13 11 02 O 精神も肉体もぐにゃぐにゃにやらかくしとくのが元気をスムーズに流すのにいい 硬さ、凝り、こだわり、わだかまりは元気の流れを阻害する ヨガや気功も元気を滞りなく流すために身体を整える努力といえる 465 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 15 00 04 0 壱とは生命そのものという感じかな 466 :一:2007/10/06(土) 16 38 21 O んーそうだね近いかな より正確に言うと壱とは生命そのものの原動力みたいなもの ありとあらゆる現象の原動力が壱 だから天体の運行の原動力も壱 だから壱は生命にその対象を限定していない 467 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 17 32 22 0 原動力かぁ。 原動力の原理ってどんなん かな? 468 :一:2007/10/06(土) 17 48 06 O 宇宙が超巨大なドミノ倒しだとしたら その最初の一個を倒した力のことを私は原動力と呼ぶ 469 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 18 38 02 0 だからー、その原動力に原理はないの?と聞いたんだけど 470 :一:2007/10/06(土) 19 03 25 O そら失礼しますた 原理って言葉で君が意味したいことがまだつかめないけど 宇宙の最初のドミノを倒すってのは一回限りのことで再現することはできない 原理とは普通何回もある現象を観察して見出だすことのできる、 こうなったら必ずこうなるというような法則のようなものだと思うけど そういう意味でいえば壱に原理があるかはわからないな 壱に原理を見出だすには宇宙を何回か一番最初から始めさせて観察する必要があるだろうから 471 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 21 42 34 0 そだね。 すんまそんw 壱からあらゆる原理が発生しているということか。 ついでに、前に君が紹介してくれたOSHOって本探した んだけど、これ書店に置いてなかった。図書館にもなかった。 アマゾンで注文中。読んでみようと思う。 図書館にI AM THATという題名のインドの本があった んだけど、これも同じ部類かな? 仏教哲学は、どういった本? 472 :考える名無しさん:2007/10/06(土) 21 45 48 0 もの こと の理を説明してみてくらさい イデアについて説明してみてくらさい 老子の道について説明してみてくらさい 473 :一:2007/10/07(日) 00 36 47 0 471 I AM THATは読んだこと無いけどざっとググって読んでみた感じでは 壱思想とある部分似たようなこと言ってるっぽいね よかったら読んでみてよ 仏教思想は俺もよく知らんけど 禅だったらOshoの「究極の旅」はおもしろかったかな でも彼の本はほんとにインド思想や仏教思想を勉強したいならおすすめしない 一般的な教養として読みたいならその専門スレの人に聞いてみるがよろし Oshoの本は勉強になるというよりはおもしろくて何か癒されるって感じかな 474 :一:2007/10/07(日) 00 42 28 0 472 ものの理ってのはいわゆる物理のことかな 物体のふるまいにおける法則といったところか ことの理ってのはなんだろね 形而上的なことにおける法則とか原理原則みたいな感じかね イデアや道に関してはその専用スレで聞いてみるとよろし 475 :一:2007/10/07(日) 01 10 34 0 ただ原理だとか法則とかいうのも 人間が四次元の思考の枠組を持つからその帰結として存在し発見されるのであって 宇宙人が十次元の枠組を持ってたらまた全然違う法則があるだろうし 魚や昆虫にはまた全然違った法則があるだろうし 我々の発見した法則というのが宇宙のデフォルトということはない だから極言すれば人間がいなければ我々に知られてるどんな物理法則も存在しない なぜなら人間がいなくなればこの世界をこのように把握する存在はいなくなるから 我々の見ている世界は純粋現象Xの一つの相にすぎない 我々の発見した原理や法則はその一つの相における原理や法則にすぎない 476 :一:2007/10/07(日) 09 45 42 O だから人間の意識下においてはどんな物理法則もカンケーない なのでUFOや幽霊のような物理法則を無視した現象が時々知覚されるのだ それもまた宇宙の一つの相 477 :一:2007/10/07(日) 13 13 17 O いろんな芸術のインスピレーションの源泉も 意識下での宇宙把握にあるのかもね 天才と狂気は紙一重だと言われるのも 478 :考える名無しさん:2007/10/07(日) 20 46 18 0 一は(和風)ポストユンギアンなのかい? 479 :考える名無しさん:2007/10/07(日) 21 53 57 0 本紹介してもらったもんだけど、 早速読んでみるわ。 それと、また間違えたw 仏教哲学じゃなくて、禅関係でおすすめ本なんかある? と書いたつもりが、、、、 480 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 00 07 41 0 人の認識の枠を超えた話は全部戯言 遊びとしては楽しいね かわいいね 481 :一:2007/10/08(月) 01 04 30 0 478 なんなんだろうね 好きなようにレッテル付けてくれたらいいよ 俺は何だとも思ってない 酔っぱらいの戯言でも結構 実際そんなもんさ 480 照れるじゃないかw 482 :一:2007/10/08(月) 03 40 41 O 私は認識できないことでもそれを想定して仮説を立てることができる それができてしまう限り私はそれをやめるわけにいかない なぜなら私は認識できる枠内の材料だけで自分の存在のあり様を 自分に納得させることがどうしてもできないから 483 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 06 48 32 0 認識できる枠内の材料だけで自分の存在のあり様を 自分に納得させることがどうしてもできないから それを想定して仮説を立てることができる ↑って書き方はおかしいのかな? 484 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 08 23 32 0 自分に納得させることができない・・・ 能力不足を補うための想像に頼った考え それが思想なのかもしれないな 思想を持つのは弱さの現われ、か 485 :一:2007/10/08(月) 09 43 41 O どんな科学者でもまず直感から仮説を立てる そしてそれが既知のものと整合性を持つかどうかを検証していく なぜ仮説を立てるかというと既知のものではどうしても納得できないから 486 :一:2007/10/08(月) 14 50 38 O 既知のものから未知のものを類推することが思考するということで 絶対に答えの出ないような問題を粘り強く考えることを愛することこそ本来の哲学 だから簡単に納得したり諦めたりしない人、 人がさっさと通り過ぎるとこでつまずき続けるような人が思想を持つ 487 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 18 36 07 0 あんこう鍋、美味しうございます 488 :一:2007/10/08(月) 19 39 57 O そりゃようござんした もうそんな季節なんですなあ 肝は召し上がられました? 489 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 19 44 21 0 肝は油分多いから少ししかたべてないよ 490 :一:2007/10/08(月) 19 53 58 O そりゃヘルシーでますます結構なこってす 491 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 20 02 17 0 「壱」と「一」の中の人って一人なの? 492 :一:2007/10/08(月) 20 28 20 O 一人だよ 493 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 20 33 30 0 別で「釣り(および指示)」とかしてないの? 494 :一:2007/10/08(月) 20 40 13 O してないよ 495 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 21 10 33 0 自然界はアートだな~ 色もそう 形もそう 配置もそう すんばらし 鍋の季節か~おいらはキムチ鍋が一番好きさ~ 496 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 21 18 59 0 はにゃー 497 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 22 45 02 0 不安や心配ってなんだろう? 498 :考える名無しさん:2007/10/08(月) 22 55 13 0 497 おせてくらさいな 499 :一:2007/10/09(火) 01 48 01 0 495 最近美しいと思った自然って何? それの何がどう美しかった? 497 最近不安や心配を感じたことって何? それの何がどう心配だった? 500 :一:2007/10/09(火) 02 42 45 O 一口に美しいと言ってもいろいろあるわな 俺の場合だったらこないだ釣ったソウダガツオが美しかったなー ソウダって鱗があんまなくて表面がツルツルの銀色の魚なんだけど 釣り上げたとき朝日が反射してキラキラ輝いてほんとキレイだった 人間は基本的にキラキラ輝くものを美しく感じ有り難がる習性がある 古代の人が鏡に神秘的な魅力を感じていたのも同じ習性からだろう この習性の源泉は太陽崇拝にあると思う 古代の人にとっては雨や嵐のあとの日光は実に有り難く神聖なものだっただろう その名残として光るものを好む習性が残ってるんじゃないかな
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401 :一:2007/09/28(金) 10 33 22 0 カンジーザイさんはある日 肉体や精神は壱による現象にすぎないことに気付いて何か楽な気分になった 肉体や物質は壱による物質的な現象で 思考や感覚や意志は壱による非物質的な現象だ 万物は壱による現象であり常に転変生滅を繰り返すが 壱は不生不滅、不垢不浄、不増不減 そして壱としての私には肉体も意識も感覚もない だから迷ったり老いて死んだりすることはないし 修行したり勉強したりもしない そういう壱としての私が自分の本体だと気付いたら 何かにこだわったり何かを怖がったりするのがバカバカしくなっちゃった そんな彼のお気に入りの呪文を紹介しよう でもそんなのカンケーねえ、、あーそんなのカンケーねえ ハイ、オッパッピー チントンシャンテントン、チントンシャンテントン まあこんなのが般若心経の壱思想的解釈かな 402 :一:2007/09/28(金) 10 37 24 0 393 無駄かどうかは何をもって有用とするかで変わるわな ひまつぶしとしてなら無駄じゃないさ 403 :一:2007/09/28(金) 10 41 08 0 395 それは君が生まれたばっかの赤ん坊のときに見ていた世界だろね 404 :一:2007/09/28(金) 15 48 27 O 例えば昆虫とか魚にとっての世界は 今俺らが見てる世界とは全然違うものだろう 世界は見られるものによってその姿を変えるが そのうちどれが正しくてどれが間違いだということはない 405 :一:2007/09/28(金) 16 02 45 O そして 誰も見ることのない世界はどんな感じなんだろう? っていう問いには答えることができない 問いが論理矛盾を起こしてるからね 何かを答えたらそれはもう誰も見てない世界じゃなくなっちゃうじゃん だからそれは想定不可能だ 406 :考える名無しさん:2007/09/28(金) 22 42 17 0 一は書籍や情報等から学習し至った経緯があるように見えるんだな。 407 :一:2007/09/28(金) 23 43 14 0 そりゃ俺も人生経験だけからこの思想を持つに至った訳じゃない いろいろ本も読んだしネットとかで得た情報にも影響されてるよ 408 :考える名無しさん:2007/09/29(土) 11 00 35 0 見識の代わりに知識を持ち出し過ぎる自称インテリゲンチャ達の打たれ弱さを生暖かく見守る休日いと楽し。 409 :一:2007/09/29(土) 12 00 16 O 俺もそういう感じの理知的な女がふと見せる弱さとか好きだよ 410 :考える名無しさん:2007/09/29(土) 18 55 43 0 http //4d4u.net/2chBBS/test/read.cgi/4444#10 411 :一:2007/09/30(日) 03 15 01 0 おもろいスレだね 頭がこんがらがってくるけどな でもそのスレの1が気づいたことってのは何となくわかる気もする ちょっと長くてややこしくなると思うけど何とか説明してみるね まずこないだも書いたけど 俺らは時間と空間という世界を把握するための枠組を持っている そしてその枠組を度外視して思考することは普通できない 世界には縦横高さの広がりのある空間があり 且つ時間が流れているようにしか認識できない でも昆虫とか魚にとっては 同じ世界が俺らとは全く違う枠組でもって把握されているだろう アメーバとか単細胞生物にとっての世界はもっと違うだろう もし宇宙人がいたら彼らにはまた全然違う世界が広がっているだろう でもそれぞれの世界のうちで どれが正しくてどれが間違っているということはない 人間の見てるこの世界や宇宙がデフォルトなんてことはない それぞれがそれぞれの枠組でもって宇宙を把握している 412 :一:2007/09/30(日) 03 16 15 0 さてここで誰も見ていない宇宙というものがあると仮定して それを壱による純粋現象Xと名付けてみる すると人間の見てる宇宙や世界というのは 純粋現象Xの一つの側面ということになる 純粋現象Xを空間と時間という四次元で把握したものが 今俺らの見ている宇宙であり世界である だからそれは決して純粋現象X自体を把握しているわけじゃない その一つの相とでもいうべきものを把握している 例えば宇宙人が十次元把握できる枠組を持ってたとしたら 彼らには世界は十の次元を持つものとして現れてるだろう それがどんなものかはわからんが 413 :一:2007/09/30(日) 03 35 18 0 で、その四次元スレの初代1が発見したものをとりあえずYと呼ぶ 以下に1の述べるYの特徴を並べてみる ・Yは言葉で説明できない ・Yは1と0で説明できることではない ・Yを把握するには1だけあればいい ・Yは一歳くらいの頃には誰にでも見えていたが今は普通見えない ・Yは五感で認識するというより直感するもの 414 :一:2007/09/30(日) 03 45 39 0 以上を要約すると Yとは普通の人間の思考の枠組で認識できたり記述できたりするものではない つまりYは時間と空間という思考の枠組で規定することができない ところでYは一歳くらいの子には普通に見えるという それはちょうど時間や空間の枠組がまだしっかりと獲得できない時期だ つまり私の予想では Yとは時間や空間という思考の枠組ができる前に見えてた世界なのだと思う 415 :一:2007/09/30(日) 03 51 00 0 なぜ年をとるとYが見えなくなるかというと 時間と空間という枠組が強化され そのようにしか世界を認識できなくなるからだ しかしその枠組を獲得する前に持っていた枠組は消えたわけじゃない ただ普段は意識下に押し込められているだけ だからふとした瞬間に時空という枠組が外れると より原始的な枠組によって世界が立ち現れることになり 結果としてYが直感される 416 :一:2007/09/30(日) 03 55 00 0 んーまだちょっとうまく説明できた気がしないし 興味深いテーマでもあるので また明日考えてみる 417 :一:2007/09/30(日) 17 38 44 0 この例に限らず世間でいうオカルト体験なんかも 415のような仕組みで体験されてるのかもね 俺らは受精卵から胎児になるまでに魚みたいな形になったりする これは進化の仮定を辿り直してるように見える 受精卵は受精卵なりの世界を把握する枠組があっただろうし 魚みたいだった頃はそれなりの枠組があっただろう そしてそれらの枠組は成長に応じて意識下に畳み込まれていく 壱思想では我々の意識上の部分は存在の一部分にすぎないとする 意識化の部分には言葉を持たず思考もしないワイルドな君がいる 意識下には進化の過程における君の歴史全てが畳み込まれてる 魚だった頃の君もいるし猿だった頃の君もいる そしてそれらは死んだわけじゃなく常に生きている ただ意識下に押し込められてるだけ というか意識からは普通は気づかないだけ 君の意識や人格とは君という巨大な氷山のほんの一角にすぎない 418 :一:2007/09/30(日) 17 56 57 O 考えてみれば音楽を聞いて心が揺さぶられるのも不思議なオカルト体験だ あれも言語を獲得したことによって不要となり意識下に畳み込まれた感覚の発露なのかもしれない 419 :考える名無しさん:2007/09/30(日) 19 33 04 0 面白くなってまいりました http //aurasoul.vis.ne.jp/_esy/694.html これはどう? 420 :一:2007/09/30(日) 20 18 31 O んー特に気になるとこはなかったけど 二元論てことでいえば壱思想は力と物質の二元論といえるかな 421 :考える名無しさん:2007/10/01(月) 01 08 15 0 君の意識や人格とは君という巨大な氷山のほんの一角にすぎない キャハハ フッル www 422 :一:2007/10/01(月) 01 52 06 O まあ当たり前といえば当たり前だわな これからもとんでもない新発見なんかは出てこないよ多分 ちなみに老子はこんなこと言ってる 人は道のことを聞くとたいがい笑う しかし笑われなけりゃそれは道じゃない 423 :考える名無しさん:2007/10/01(月) 02 55 17 0 一の表出を笑った覚えはあっても、「道」を笑ったおぼえはないyo。 424 :一:2007/10/01(月) 03 42 05 O 笑うってのも不思議な行動だよね 当たり前のことをさも俺が発見したみたいに言いやがってちゃんちゃらおかしいぜ そう思ったとき何で人は笑うんだろう? 態度と内容が不釣り合いだからかな? 不調和とかズレとかは確かに笑いを誘うことがある しかし不調和が不快感をもたらすこともある じゃ笑いと不快感を分ける要素ってなんだろう? 425 :一:2007/10/01(月) 16 02 00 O 壱思想では生は笑うべきものとされる なぜなら生は真剣に取り組むに値しないと考えるから 真剣に生と向き合う人にとっては生は笑えないし笑えと言われるのは不快だろう 何かしら自分がこだわって大事に思ってるものの秩序や調和が乱されると人は不快を感じる でもそのズレが突拍子もなかったりして 何かに真剣になったりこだわることそのものがバカバカしくなると人は笑い出す こだわりから解放されると人は笑う それはとても気持ちのいい爽快な笑いだ でも笑いにもいろいろあるね 気持ち悪い笑いもある それを分ける要素ってなんだろう? 426 :一:2007/10/01(月) 16 56 18 O 愛想笑いとか鼻で笑うとかは 自分がバカバカしくなるというよりは相手をバカにする笑いだわな いじめたり悪だくみしてるときの笑いもそうだろう 気持ち悪い笑いは他者を馬鹿にするから起こり 気持ちいい笑いは自分を馬鹿にするから起こる 馬鹿にするベクトルの違いが気持ちいいか悪いかを決めてるんじゃないか 427 :一:2007/10/01(月) 17 02 06 O でもじゃあ赤ん坊はなんで笑うんだろね ただ単純に目が合っただけで笑っちゃうこととかもある ああいう笑いはなんなんだろう? 428 :考える名無しさん:2007/10/01(月) 18 51 31 0 壱思想では生は笑うべきものとされる 美しいものを見たときの言葉にできない畏怖 異性を好きになったときの神秘的な感情 失恋したときの救われざる永遠の悲しみ 聖なるものに対する根源的な好奇心 自分が命をもっているということにたいする恐怖 生きている大自然に対する絶大な驚嘆 こういうものを感じているとき、もしくは感じたけいけんがあるなら以後ずっと、 決して、生は笑うべきもじゃなくなると思いますよ。生は驚くべき畏怖の対象になる。 生自体が笑うべきというより、一般的な範疇での生の営みが笑うべきといったほうがよくはなくて? 笑い笑いばっかで、命に関するものまで笑うくらいなら、べつに哲学する必要もないんじゃなくて? 宇宙や命に対する形而上的な畏敬の念こそが、哲学を動かしているものだと思われます。 そういうものを知らない人が、壱を悟って、生が笑うべき対象だとかいって、いろいろと自分の思想を公開されたところで、 別に他人からみれば何の魅力もないです。 哲学者も神秘主義者も、命の本質に対して真剣に洞察をいれているからこそ、本当の一なるものに対する形而上的認識に届くのだと思われますよ。 苦脳こそが人を神聖にすると説いた偉大な哲人は、生きることそのものが盲目的なものだという諦念に辿りつきましたが、 スレの最初から意味もない鬱や苦しみは愚かなことだとか言って、生は笑うべきで真剣に取り組むべきものでもないとか言われても、 本当に真剣に苦しみながら哲学的に生を洞察した偉人と比べたら、まるで茶番でしかないんです。 とくに深い思想にたどり着いたわけでもないのに、勝手に生一般を笑ってしまってるようでしたら、 本当に意味のない思想だと思いますよ。ただ過去の思想の同語反復のようにしか思われません。魅力は感じません。 命に対する畏怖や生きなければならないという苦痛を忘れてしまったら、思想は過去の偉人の言説の同語反復かただの言葉の羅列になるでしょう 429 :一:2007/10/01(月) 19 49 14 O 何か予想もしてなかったようなことに出くわすと人間は笑ってしまう 赤ん坊にとっては毎日が想定外だろうしそれで笑っちゃうのかもね それは頭脳が劇的に変化するのを和らげるクッションのようは機能なのかもしれない 俺が人生を笑っちゃうのも笑わないと気が狂うからかもな 忘れる機能と笑う機能は脳を正常に維持するためにもともと備わってるものなのかもね 430 :一:2007/10/02(火) 04 54 03 0 428 んーまあ気になるとこを要約さしてもらうと ・形而上的な存在に畏怖や驚嘆を感じると生は驚くべき畏怖の対象になる ・驚くべき畏怖の対象は笑うべき対象ではない ・命に関するものまで笑うくらいなら哲学する必要はない ・形而上的な畏敬の念が哲学の原動力である ・苦悩こそが人を神聖にすると偉大な哲人は説いた ・苦悩のない思想は茶番である そんなとこかな 431 :一:2007/10/02(火) 05 21 55 0 まず哲学についてだけど 哲学とは何かというのはまあ人それぞれいろんな定義があるんだろうけど そもそもphilosophyっていう言葉はギリシャ語で 「知を愛する」とか「知の友達」みたいな意味で 対話なんかしながらいろんなことを考えることを愛するってこと それが哲学だと私は思ってます 確かに近代の西洋の哲学者は苦悩した人が多いだろうけど 苦悩する哲学だけが本物であとは茶番だってのは違うと思うな 近代の西洋の哲学者がみんな苦悩したのはキリスト教と哲学が どうしても相反するからだと思うよ ちなみにプラトンは「国家」でこんなこと言ってる 人生には真剣になるべきことは何一つない 432 :一:2007/10/02(火) 05 41 14 0 哲学の原動力についてはそんなに異論はないな 君の言うように 言葉にできないような感動や驚嘆や畏怖の情から 形而上的な思考は生まれるし、それは思考の原動力ともなる そこまではわかるけど だから生は畏怖すべきで笑うべきでないってのはちと飛躍があるんでない? まあ要は尺度が違うんだな多分 俺は生を軽く感じるけど君にとっては生は軽くない 俺にとってこの生や人格は全俺のうちのごくごく一部だから軽い けど君にとってはそうじゃないから軽くないんだろう そうじゃない人に無理に生を笑えとは言わないよ 苦悩したきゃ苦悩したらいいさ 433 :一:2007/10/02(火) 05 49 34 0 だから壱思想的にはどんな人生を送っても偉大も卑小もない 苦悩して真剣に真理を追求しようが 一生遊び呆けて人に迷惑かけ続けようが そんなの俺らの存在の巨大さに比べたら誤差の範囲だから 434 :一:2007/10/02(火) 15 40 23 O だから壱思想的には 苦悩し真剣に真理を追求した人を人々が偉人だといって称賛するその光景こそが茶番で その彼のしかめっ面が実に笑えるということになる これは俺が正しくて君が間違ってるというような問題じゃない ただ単に視点が違うだけ この視点に立つことが正しいとも思わない 人生いろいろ 視点もいろいろ 435 :一:2007/10/02(火) 16 49 53 O だからこのスレも茶番 書き込んでる俺も茶番 壱思想がそもそも茶番 俺は俺も世界も笑う 壱思想は壱思想自体を笑う 436 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 19 43 18 0 インド哲学でオススメ書籍おせーて。 437 :一:2007/10/02(火) 20 54 00 O Osho「存在の詩」かな わかりやすいよ 438 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 21 29 18 0 あれ、おわっちゃうの? 439 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 21 36 09 0 430- 434 苦悩、真剣さ、命にたいする畏敬、が欠けてるから茶番だ、 と言いたかったわけじゃなくて。 貴方、独断的にいろいろと笑いの対象にしたり、 自分の立脚している思想体系のもとにいろいろ判断したりしているだけで、 ていうかそうだから、 全然、深みまで潜れていないのよ。 だから、そう簡単に決め付けてしまわないで、たとえばもっと苦の煉獄や笑えない恐ろしいものを直視してみた方が、 いろいろと認識も深まるでしょう、そうしたらいいのに、て思ってみたので御座居升た。 認識の深さなんて、人間の心に底がないのと同じで、いくらでも突き詰めれば深まるはずなのに。 別に当たり前のことを言っているだけしか思えなくて、スレ丸ごと思想を語るつもりなんだったらってちょっと期待してたもんだから。 体験的にも理性的にも深く哲学をやってるていうのは、とても感じましたが。 生命感に満ち溢れる認識、個性的な斬新な認識、というのがあまり感じられなくて、哲学史の同語反復のように思われました。 262に非言語的な領域を自分として見る、というのがありますが、たとえばそこで言及されているユングにとっては子供のころから感じていた当たり前のことですよ。 一なるものへの認識は、完全に内向的、求心的な認識だから、外へ、つまり新しい認識へ向かわない。だから外の人がどういう認識をもっていたかということに関して盲目になる。 著名な哲学者や神主義者は、自分なんかよりもはるかに凄いことを認識している、それを自分も認識したい、そういう畏敬に近い構えがないと何も進まないと思われます。 貴方が、壱という一なるものを悟ったところで、それをもっと広く生に対する認識へつなげなければもったいない。 それで壱へ求心しているあいだは、自分の理念に基づいてしかものを見れない。だから、関係ない、意味ない、笑うべき、とかで簡単に片付けてしまう。 知識はたくさんお持ちみたいですが、何かしらその知識の可能性を無駄にしてしまっている。 壱思想という思想によって簡単にその知識の意義が決定されてしまっているから。 440 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 21 36 42 0 ヨガの僧になりたい、ここに書かれていることとは比較にならないほどの恐ろしく内向的で体験的体感的な認識へ将来達したいつもりなら、 別に壱に今以上に憑かれたままでいいと思いますが。 壱思想を豊かにしたかったら、一度、壱、一なるもの、根源的一者、ショーペンハウアーの意志、そういう全体であり一である類のものに憑かれないで、思考をもっと外向させ、 新しい認識、新しい感覚、新しい直観を求めた方がいいように思われ升。 形而上的なもの一なるものを形而下的に体感的に認識するのも大事だと思うけど、 たとえばニーチェが芸術に触れて感性を豊かにしていったように、一度哲学以外のものに深く触れては?など勝手に思いました。 なにか足りないといえば、やはり感性が足りない。哲学好きの男性であれば仕方ないことですが。 でもせっかくいろいろ考えてるのに、そのせいで認識の視野が壱点に絞られてしまっているみたいでもったいない。 感性がもっと深まれば、思春期の青臭い自意識の葛藤のような何処の教養小説にも書いてあるようなことを遥かに超えた、 美、苦悩、聖なるもの領域を体験できると思われます。 自分のもう完結してしまっている思想体系だけが、ほとんど貴方の思考の基準を決めてしまっていて、 あらゆる感じうる認識しうる感覚や概念が鉄も金も石も何でも混ざってる砂だとしたら、 きっと貴方の理念が磁石になっていて、鉄しか感じられていない認識できていない、 せっかくいろいろなこと知ってるし考えているのにただ笑って済ませてしまうのはもったいない、 このスレたまに見てたけど、そういう印象がしました。勝手な批評、横槍長文失礼。 441 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 22 05 42 0 439 自分信じすぎ 442 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 22 46 43 0 441がそもそも、うんこやな 443 :考える名無しさん:2007/10/02(火) 22 51 28 0 あほか 444 :一:2007/10/02(火) 22 58 42 0 439-440 ははw 俺の人生の心配してくれてるわけね そりゃご親切なこってす ありがとさん 芸術や美については今まであまり書かなかったけど そのうち流れが来たら書こうと思うのでお楽しみに ちなみに君が尊敬してるかはわかんないけどデカルトさんは 森で迷子になったときはとりあえず一方向に進むべきだと言った どういう意味だと思う? 私は壱という極星を目指してひたすら歩くのみ 445 :一:2007/10/03(水) 00 01 55 O ちなみに私は哲学や思想よりも音楽が一番好きでね 音楽にかけてる時間の方がはるかに多いよ 446 :考える名無しさん:2007/10/03(水) 00 33 41 0 >哲学や思想よりも音楽が一番好きでね いわゆる体験的に哲学をする人にとっては、音こそが最高の意識の媒体だと感じる人が多いですね。 脳内をサイケデリックにさせる感覚は、聴覚の次は、五感の中では視覚ではなく意外に嗅覚だということを、香水マニアからきいたことがあります。 >俺の人生の心配してくれてるわけね >そりゃご親切なこってす >ありがとさん いえそういうわけではなくて 現時点で当スレにある言葉からわかる範囲での思考を辿ってみると、 なんとなくそういう気がした、それでどうしようもなく胸が騒いでしまった、というだけのことです。 貴方の対象に対する接し方は、対象のうちの自分が立脚している壱思想という理念が感知した部分・本質的だと思った部分だけ 抜き出して対象のその他の面には触れる前からその対象がそういうものだと決めている、だから、 対象の、拡張するとこの世界の、生(なま)の姿は、ひどく求心的な理念によってあらかじめ姿が変えられている、 そういうふうに感じました。壱思想を優先しすぎて対象にはごく一部しか触れていないというような。 生を笑うというのであれば、生のもっとぎりぎりの生の姿を見てから笑う方が、いい笑いではないかと。 そういう種類の疑問があったわけでして。 笑い、というのはうまく利用すればいわば真実と現実の妥協弁のようになると思われますが、 下手に笑うと、下品になったり、苦々しくなったり、自嘲染みてきたりして、ただ笑われるだけの道化を演じてしまうという危険もあると思います。 まあどういう思想をもつかは人それぞれですか何も口出しする権利はないのですが、 ただ、そのデカルトのお話のような星として空にあるものではなくて、地下のしかも地球の中心に壱が居そうな気がします、変なところに迷い込まないよう、お気をつけて。 447 :一:2007/10/03(水) 04 22 57 0 聴覚が最高で次が嗅覚 俺は聴覚より鬼頭の触覚の方が脳内麻薬が出やすいかな 壱思想は生そのもののごく一部にしか触れていない もっと生に深く接してからでなくては生を笑うべきではない 俺さ、高校生の頃さ、何かっつーとすぐ先生に突っかかるような すげー生意気で嫌な生徒だったんだけど 特に漢文の先生が気に入らなくてさ、期末テストのとき一個も解答しないで 漢文の勉強なんて意味ないと思いますとかもっと他に教えることあるだろとか そういう文句ばっか書いて提出したことがあんだけど 返ってきたテストには赤ペンで0点て書いてあってその下に 「やることやってから言いなさい」って書いてあったんだよね 何かそんなこと思い出しちゃったなw 448 :一:2007/10/03(水) 05 13 28 0 まあその先生と君の言ってることは一緒だと言いたい訳じゃないけどさ まあ言いたい事はわかる気がするよ 確かにこのスレを俺が他人として読んだら いろんな過去の思想を適当につぎはぎにして作った理念とやらで 勝手に都合良く世界を理解してるようにしか見えないかもしれない でもさあ・・・ そんなもんなんじゃないかなあ所詮人間の思想なんて 君の尊敬する人だって結局は自分の都合いいように世界を理解してるのさ 世界そのものをあらゆる角度から理解できる人なんていないよ そりゃ程度の差は多少あるかもしれないけどそんなのドングリの背比べだろ 449 :一:2007/10/03(水) 06 05 20 O ちなみに私の思想形成には両親の死を看取ったことが大きく関わっている それが君に生のぎりぎりの姿を見たと認めてもらえるかわかんないけどさ そんなのもそのうちそんな流れになれば書くことがあるだろうからお楽しみに 450 :考える名無しさん:2007/10/03(水) 17 12 53 0 両親亡くしてるのか。大変だったな、、、。
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