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韓国 / 試し腹 / 韓国人の性的暴行 / 韓国人の遠征売春 ーーー イ・スンヒョン ● 韓国の性文化〔Google検索〕 ■ 韓国で女性ら700人が売春の合法化求め集会 「Yahoo!news-TBSnews(2015.9.24)」より / 韓国で売春の合法化を求める女性らおよそ700人が集まり、集会を開きました。 「売春禁止法を廃止しろ!」 「廃止しろ!廃止しろ!」 2004年に「売春禁止法」が施行された韓国ですが、売春は後を絶たず、度々、摘発が行われています。捕まった女性や客、斡旋業者は通常は罰金刑ですが、繰り返せば懲役刑になることもあります。 これに対し女性らは、「売春禁止」は憲法の定める「職業選択の自由」に反すると主張しています。 「(売春は)食べて生きていくための職業なのです」(集会参加者) 「今から新しい仕事を探すのは難しいです」(集会参加者) こうした集会は4年前にも開かれましたが、今回は、憲法裁判所が彼女らの主張を取り上げ、「売春禁止」が違憲かどうか年内に判断することになりました。 “売春は職業なのか?” 彼女たちの訴えが認められる可能性は低いとみられますが、何より、売春をやめても生活できる環境づくりが求められています。 ★ 韓国売春婦の海外流出が止まらない! “韓流ブーム”マカオで「一晩21万円」の荒稼ぎ!? 「日刊サイゾー(2015.1.26)」より / 韓国売春婦の“海外進出”が止まらない。1月18日、マカオで初めて韓国売春婦とブローカーが立件された。今回拘束された韓国人ブローカーらは昨年4~11月、中国人男性らが宿泊するホテル客室に韓国売春婦3~5人を連れていき、売春を斡旋していたという。 彼らが斡旋した韓国女性の多くは20代で、ネット上に掲載された求人広告を見てマカオに向かったそうだ。そこに書かれていた“誘い文句”はこうだ。 「マカオで働く利点。韓国と距離が近いです。お金の計算が確実です(この部分は重要ですよね)。宿泊場所はきれいで、洗濯や買い物は家政婦が手伝います」 実際に韓国売春婦たちは、マカオで高級アパートに宿泊。ターゲットは金持ちの中国人男性で、安くて一晩85万ウォン(約8万5,000円)、最高で210万ウォン(約21万円)も受け取っていたそうだ。 日本ではすっかり冷え込んだ印象だが、中国では今が韓流ブーム。そのため、韓国売春婦は高く“売れる”という。警察関係者も「韓流ブームによって、中国人の間で韓国人女性の人気が高い。マカオはアメリカ、オーストラリアに比べて距離が近いだけでなく、性売買の代金が高いため、短期間で稼ぐことができる」と韓国メディアに語っている。 ちなみに、先述した求人広告には、中国人男性の好む女性像についても書かれていた。 +続き 「マカオで働くお姉さんは、まず背が一番大切です。168cm以上の方。見た目はかわいいほどいいですが、笑顔が素敵な人もいいです。スラリとしていながら、ボリューム感のある、グラマラスな体形が好まれます」 そもそも韓国では、2004年に「性売買特別法」が施行されて以降、国内の風俗店に対する厳しい取り締まりが続いている。その反動から韓国性産業の舞台は、国内から海外へ移っていった。韓国売春婦の主戦場は日本、フィリピン、アメリカ、オーストラリアなど。当然、韓国国内でも「恥ずかしい韓流」などと批判的な世論が高まり、海外進出を問題視する声は日に日に大きくなっている。 しかし彼女たちの海外進出は、どうにも歯止めがきかないようだ。海外性産業に関連する検挙者数は年々増加。韓国警察庁の資料によれば、09年当時128人だった検挙者数は、13年に496人と、4年間で4倍近く膨れ上がった。 さらに問題として指摘されているのは、海外進出している韓国女性たちの職業だ。風俗嬢だけでなく、一般女性たちの参入が増えているという。例えば、数年前、オーストラリアで韓国女性の売春を斡旋していたブローカーが検挙された事件があった。韓国警察が摘発した女性たちの身元を調査してみると、大学生や会社員、休学中の学生などが多く含まれていたという。身元がバレやすい国内に比べると、海外での売春は抵抗が少ないのかもしれない。 舞台をマカオへと広げた韓国売春婦たち。このまま海外進出が続くようだと、韓国の評判は、ますます地に落ちていくことになりそうだ。 ■ 日本を性奴隷で批判する国が、自国の売春防止法に疑問を呈す滑稽さ 「私的憂国の書(2014.9.24)」より / (※ 前半の引用記事略、詳細はブログ記事で) 確か、日本の過去を「性奴隷」などと批判しているのは、この国ではなかったか。2013年5月、稲田行政改革相(当時)が、「慰安婦制度自体が悲しいことだが、戦時中は合法であったのもまた事実だ」と語ったところ、南鮮外交部は公式コメントとして、「『戦時性暴力が合法』という発言は女性の尊厳と人権を著しく冒涜し、反人道的犯罪を擁護する常識以下の発言だ。日本の指導者らは帝国主義の過去の過ちを反省し、時代錯誤的な言行をしてはならない」とまで豪語していた。南鮮では、こと日本に対しては、史観が史実を凌駕する。日本の過去は国民感情が許さないということだろうが、自分の足元の恥ずべき部分は手前勝手に棚上げできるのだ、この国は。 (※ 中略) / 南鮮では、過去に、「売春させろデモ」というのがあった(上画像)。南鮮のGDPの約5%を占めるといわれる売春産業。ハンギョレ21の2011年のスクープでは、年間売春件数が4605万件、売春従事者は14万2000人余いるとされ、2010年には観光産業のために「フリーセックス特区を」という主張まで表れる始末である。売春は、南鮮社会とは切っても切れない産業なのだ。コラムにある「性売買女性の「海外進出」の急増」について言えば、我が国のその当事者(被害者)である。 東亜日報は、南鮮三大紙のひとつと言われ、「大韓民国成立後は、政論を売り物にした高級志向の政府批判紙として再発足し、韓国の朝日新聞と評された(以上、Wikipedia)」そうなのだが、その所謂クオリティペーパーが「国家が「ベッドビジネス」にまで干渉することが正しいことかどうかは議論の的だ」と書くのだから、卒倒しそうになる。 (※ 以下略、詳細はブログ記事で) ■ 朝鮮と売春 「酒たまねぎや(平16.4.6)」より / またまた、朝鮮の報道より http //japanese.joins.com/html/2004/0405/20040405210406100.html 遊楽女が集団居住する集娼村には、公娼街と私娼街がある。 略) こうした文化が日本統治時代に韓半島に入り、米軍政が廃止する時(1947年)まで全国各地で公娼が維持された。 まるで、我が国が公娼制度を持ち込んだもので、それまでは朝鮮には売春制度が無かったというような書き方ですが、アホをいうなといいたいものです! 世界最古の職業のひとつといわれる売春については、たしかに我が国でも吉原などの公娼街がありましたが、昭和31年に売春禁止法が成立して33年に施行されたことにより、それ以降は公娼街は無くなりました。公娼街はなくなりましたが、現在でも東京の吉原、新宿、池袋といろいろな所に、ソープランドという名前で、女性が売春を商売としている所がいくつもあります。日本をはじめ世界各国に売春があるのが現実です。 朝鮮人は過去に我が国が朝鮮の生娘をさらって、「従軍慰安婦」にしたといいます。じゃあ、朝鮮には売春婦はいなかったのか。とんでもない話で、いわゆる妓生(キーセン)とよばれる売春婦は新羅時代からあり、高麗時代の初期には「官婢」つまり国に所属していた奴隷の「売春婦」として制度化されていました。そして、全国から生娘をあつめて「貢女」として支配していた元に捧げられ、用済みになると返されたが、これを「帰順女」呼んで蔑んだ。 李氏朝鮮時代はもちろん日本統治時代にも、平壌などでは朝鮮人が管理していた「妓生養成所」が置かれていた。 「慰安婦」は新聞などでも朝鮮人によって募集されたが、ほとんどが「妓生」から慰安婦となったのである。つまり、職業として「妓生」から「慰安婦」に移行し、売春を生業としていたのです。 (※ 以下略、詳細はサイト記事で) .
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編集 少は、小なり。小故に少府と称す。(応劭) 少府は、朝廷の職官である。九卿の一つに数えられ、現代の大臣に相当する。前漢においては、天子及び宗室を養う、言わば帝室財政を司り、それによって賄われる諸々の衣、食、医や庶務、側近の官署を置いた。 後漢に到ると、財政機能は失われ、側近の官は天子の直属に近くなり、衣食等を司るのみとなる。 目次 目次 歴史 位 職掌 属吏丞 員吏 属官(職属・両漢)太医(前漢) (後漢) 太官(前漢) (後漢) 守宮 上林宛(前漢) (後漢) 若盧獄 属官(後漢に置かれる)鴻徳苑 属官(後漢・文属)侍中 鉤盾果園 永安宮 鴻池 南園 顯陽苑 濯龍園 直里園 胡熟 中蔵府 御府 内者 尚方 祠祀 尚書 符節 御史中丞 蘭臺令史 中常侍 黄門 永巷 掖庭 属官(前漢のみ)湯官 導官 楽府 考工室 左弋 居室 甘泉居室 左司空 右司空 東織 西織 東園匠 胞人 都水 均官 中書謁者令 宦者 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 故の秦官。漢もそれを継ぐ。 王莽新は改めて共工。 中興して名を少府に復す。天子の私用の財源(禁銭)の管理は大司農に移される。 位 (前漢) 卿、一人。秩中二千石。 (後漢) 九卿、一人。秩中二千石。 職掌 (前漢) 山海池澤の税を掌り、以て天子の奉養銭を給共する。その銭を曰く禁銭。以て私養に給し、別れてより藏を為す。古くはみな小府と作る。少は、小なり、故に少府と称す。大司農は軍国の用を給し、少府は以て天子を養うなり。 (後漢) 光武帝、禁銭を大司農に属す。 中服、御諸物を掌る。衣服・宝貨・珍膳の属。 或いは云う、田租・芻稾は以て經用(常用)に供し、凶年、山澤魚塩市の税、少府以て私用に給すなりと。 属吏 丞 (前漢) 六人、秩千石。 (後漢) 一人、 比千石。 員吏 (後漢) 三十四人。 その一人は四科、一人は二百石、五人は百石、四人は斗食、三人は佐、六人は騎吏、十三人は学事、一人は官医。 属官(職属・両漢) 以下四署は、前漢・後漢の双方で少府に直属する。 太医 (前漢) 太医令 一人。 太医丞 一人。 (後漢) 諸医を掌る。 太医令 六百石。 薬丞 一人。 薬を主る 方丞 一人。 藥方を主る。 員吏 十九人。 員医 二百九十三人。 太官 (前漢) 膳食を主る。 太官令 太官丞 七人。 献丞 貢献物を主る。(張延寿伝) (後漢) 御飲食を掌る。 太官令 一人、六百石。(別説に秩千石とも) 太官左丞 一人、秩四百石。 飲食を主る。 太官甘丞 一人、秩四百石。 膳具を主る。また別説に諸甘肥を掌る。 湯官丞 一人、秩四百石。 酒を主る。前漢の湯官令か。 太官果丞 一人、秩四百石。 果を主る。 また一説に、別に外に在って諸果、菜茹を掌るともいう。 員吏 六十九人。 衛士 三十八人。 守宮 守宮令 一人、六百石。 御紙筆墨、及び尚書財用諸物、及び封泥を主る。 守宮丞 一人。 守宮外官丞 二百石。 公府の吏府である(公府の府吏?)。 員吏 六十九人。 上林宛 (前漢) 池監 十人。 別説に籞所の数五とも言う。詳らかではない。 中興して省く。 (後漢) 苑中の禽獣を主る。民居、頗る有り、皆これを主る。その獣を捕え、太官に送る。 上林苑令 一人、秩六百石。 上林苑丞 一人。 上林苑尉 一人。 員吏 五十八人。 若盧獄 (前漢) 兵器を藏し、弩射を主る。詔獄の一つ。庫兵を治め、将相大臣を鞫(きた)むことを主る。 黄門内に寺があり。蠶室を有す。 若盧獄令 若盧獄丞 一人。 若盧郎中 二十人。 (後漢) 中興後省くも、和帝永初九年、また置く。 一説に黄門北寺獄と同一のものとも言う。竇武伝では両者は都内獄と並んで別のものとされる。 また一説に洛陽に二獄有り、一つは若盧、親戚婦女を受けると主るという。 属官(後漢に置かれる) 鴻徳苑 桓帝が置く。少府の属かは不明だが、職は上林苑と相似か。 鴻徳苑令 属官(後漢・文属) 後漢において、ただ文書上のみ少府に属す。 侍中 前漢に於いては加官であり、皇帝に親近する中朝官で、九卿には属さなかった。 (後漢) 無員、秩比二千石。(別説に秩千石)。 『周礼』の太僕は、漢の侍中のごとく、という。 左右に侍し、衆事を贊導し、顧問応対を掌る。 駕の出に法り、則ち多識者一人が参乗し、余はみな乗輿車の後に騎在す。 もとは僕射が一人有り、中興して転じて祭酒と為し、或いは置かず。 鉤盾 (前漢) 近苑囿を主る。 鉤盾令 一人。 鉤盾丞 一人(五人とも)。 鉤盾尉。 二人。 鉤盾僕射 署長 中黄門 (後漢) 諸近池・苑囿・遊觀の処を典す。 鉤盾令 宦者。一人、六百石。 鉤盾丞 一人、三百石。 吏從官 四十人、 員吏 四十八人。 苑中丞 一人、二百石。 苑中離宮を主る。 有署 一人 果園 果丞 一人、二百石。 果園を主る。 永安宮 北宮東北の別小宮の名。園觀を有す。 永安丞 一人、三百石。 鴻池 鴻池、池名。雒陽東二十里に在。 鴻池丞 一人、二百石。 南園 雒水南に在。 南園丞 一人、二百石。 顯陽苑 桓帝延熹二年、置く。 顯陽苑丞 有り。 濯龍園 園の名、北宮に近し。 濯龍監 一人、秩六百石。 直里園 園の名、雒陽城の西南角に在。 直里監 一人、秩四百石。 胡熟 園名か。不詳。 胡熟監 一人。 中蔵府 中興後置く。 中の幣、帛、金銀、諸貨物を掌る。 中蔵府令 一人、六百石。 中蔵府丞 一人。 員吏 十三人。 吏従官 六人。 御府 (前漢) 天子の衣服を主る。 御府令 一人。 御府丞 一人。 御府僕射 署長 中黄門 (後漢) 官婢の作る中衣服、及び補浣の属を典ず。 御府令 宦者。一人、六百石。 御府丞(右丞?) 宦者。一人。 織室丞 宦者。一人。 員吏 七人 吏從官 三十人。 内者 (前漢) 内者令 一人。 内者丞 一人。 内者僕射 署長 中黄門 (後漢) 宮中の布張、諸衣褻物を掌る。 内者令 一人、六百石。 左丞 一人。 右丞 一人。 録事(禄士?) 一人。 員吏 十九人。 尚方 (前漢) 禁の器物を作るを主る。 尚方令 一人。 尚方丞 一人。 尚方僕射 署長 中黄門 (後漢) 上の手工の御刀剣、諸好器物を作るを掌る。 尚方令 一人、六百石。 尚方丞 一人。 員吏 十三人 吏従官 六人。 祠祀 (後漢) 中の諸小祠祀を典ず。 祠祀令 宦者。一人、六百石。 祠祀丞 一人。 従官吏 八人。 騶僕射 一人。 家巫 八人。 尚書 (後漢) 尚書令 一人、千石。 凡そ選署し、及び尚書、曹文書の衆事を奏下することを掌る。 故は公がこれを為し、朝会で下陛奏事する。増秩二千石、故の銅印墨綬を佩くより。 尚書僕射 一人、六百石。 尚書事を署す。令の不在にして則ち衆事を奏下す。封門を主り、廩仮銭穀を授けることを掌る。 献帝、左、右僕射を分け置く。建安四年、榮邵を以って尚書左僕射に為すとの記事が見える。 尚書 六人、六百石。 武帝は、初め尚書四人を置き、分けて四曹と為す。 成帝、尚書を復して三公曹を加え、五人と為す。別説に、加えたのは僕射一人だとも云う。 世祖光武帝、分けて六曹と為し、令一人、僕射一人と合わせてこれを八座と謂う。 三公曹尚書 (前漢) 成帝が立てる。 断獄を主る。 (後漢) 二人。 三公の文書を典す。吏曹尚書を主る。 天下歳尽きれば、集課の事を典す。 常侍曹尚書 (前漢) 公卿の事を主す。 別説で、丞相、御史の事を主るとも、常侍、黄門、御史の事を主るとも。 吏曹尚書 (後漢) 世祖、常侍曹尚書を更名す。 選挙・齋祀を典じ、三公曹に属す。 霊帝末,梁鵠を選部尚書に為すという記事が有る。 二千石曹尚書 (前漢) 郡国、二千石の事を主る。また刺史を主るとも云う。 (後漢) 中都官の水火、盜賊、辭訟、罪眚を掌る。 民曹尚書(前漢では戶曹尚書?) 凡そ吏の上書の事を主る。 功作を繕い治め、監池、苑、囿、盜賊の事を典す。 客曹尚書(前漢では主客尚書?) (前漢) 外国、四夷狄の事を主る。 後に南主客曹尚書と北主客曹尚書に分ける。 (後漢) 天子が猟、駕にいづれば、、御府曹郎これに属す。 尚書左丞 一人、四百石。 文書の期会を掌録する。 吏民の章報及び騶伯史を主る。 臺中の綱紀を総典し,統べざる所無し。 尚書右丞 一人、四百石。 印綬を仮し署し、及び紙筆墨の諸財を庫蔵に用いる。 右丞と僕射は、廩借銭穀を授けることを対掌する。 尚書侍郎 三十六人、四百石。一曹ごとに六人有り。 文書を作り起草を主る。 尚書郎 故事には、尚書郎は、令史を以って久しくこれの欠を補う。世祖、改めて孝廉を用い郎と為すことを始める。 尚書郎は、初め三署に従い臺試に詣で、初めて上臺し守尚書郎を称す、中に歳満みちて尚書郎を称し、三年、侍郎を称す。 客曹郎 羌胡の事を治めるを主る。(その治績が)劇なれば二千石、或いは刺史に遷り、その公なれば遷って県令と為る。秩満ちれば占県より去る。詔書あれば銭三万と三臺祖銭を賜い、余官は則ち否。治めること厳かにして一月、公卿、陵廟に準謁して発する。 令史 十八人、二百石。 書を主す。 一曹に三人有り。後(恐らくは和帝永元三年七月)に増やして曹に三人、合わせて二十一人となる。 蘭臺、符節の書簡の精練した能吏から選び為す。 功滿ち未だ嘗て禁を犯さぬ者、以て小県,墨綬に補す。 符節 (前漢) 符節令 一人。 符節丞 一人。 (後漢) 符節臺の率を為し、符節の事を主る。凡そ使を遣わし授節を掌る。 符節令 一人、六百石。 尚符璽郎中 四人。 古くは二人が中に在り、璽及び虎符、竹符の半を主る。 法律に明らかな郎を得るに当たる。 『周礼』掌節に「虎節、龍節が有り、みな金なり。漢の銅虎符、則ちその制なり。」 『周礼』又曰く:「英簜を以てこれに輔す。」干寶曰:「英は、刻書也。蕩は、竹箭也。刻而して書、その使する所の事、以て三節の信を助ける、則ち漢の竹使符者、また則た故事に於いて取る也。」 符節令史 二百石。 書を掌る。 御史中丞 (後漢) 一人、千石。 前漢には御史大夫の属。 中興後、少府に属す。 御史を監し、密かに非法を挙げる。 献帝建安、御史大夫を復し、長史一人を置くも、中丞を領さず。 治書侍御史 二人、六百石。 法律に明るき者を選びこれに為す。凡そ天下諸讞(裁判)の疑事、法律を以ってその是非に当たることを掌る。 侍御史 十五人、六百石。 非法を察挙するを掌る。公卿・羣吏の奏事を受け、違失が有ればこれを挙劾す。凡そ郊廟の祠及び大朝会、大封拜にては、則ち二人が威儀を監し、違失有れば則ち劾奏す。 また、二人が更直(当直)する。 省中に執法し皆百官を糾察し、州郡を督す。 公法府の掾属の高第をこれに補す。初め守を称し、満歳で真を拜す。出でては治劇なれば刺史、二千石と為り、平なれば令に遷補す。 尚書、御史臺、皆、官蒼頭を以て吏と為し、賦舎(賊舍?)を主る。凡そその門戸を守るなり。 蘭臺令史 六人、百石。 書、劾、奏、及び印を掌り、文書を主る。 中常侍 (後漢) 無員、秩千石。後に増秩比二千石。 宦者、左右に侍し、内宮に従いて入り、內衆事を贊導して、顧問応対するを掌る。 黄門 (前漢) 黄門令 黄門丞 一人。 黄門僕射 署長 中黄門 (後漢) 黄門令 宦者、一人、六百石。 省中の諸宦者を主る。禁門を曰く黄闥、中人を以てこれを主らせる、故に號して曰く黄門令。 黄門丞 宦者。一人。 黄門従丞 宦者。一人。 出入の従を主る。 員吏 十八人。 給事黄門侍郎 無員。六百石。 左右に侍従し、給事中を掌る。中外を関通す。及び諸王が殿上(中)に朝見すれば、王を引いて座に就かしめる。 日暮に入り対し、青瑣門に拜す、名を曰く夕郎。 青瑣門は南宮に在す。青瑣とは、戸邊が青鏤也。一曰く、天子門内には眉が有り、格再重、裏青画を曰く瑣。 少帝中平六年、宦人の誅を以て侍中侍郎と改める。士人を置き、禁闈に出入したため。機事頗る露わとなる。王允の奏によりその出入を尚書に比し、賓客を通さず。 小黄門 宦者、無員。六百石。 左右に侍し、尚書の事を受け、上が内宮に在れば、中外を関通し、及び中宮已下の衆事を掌る。諸公主及び王太妃らが疾苦有れば、則ち使してこれを問う。 黄門署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 画室署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 玉堂署長 宦者。一人、四百石。黄綬。 丙署長 宦者。七人。四百石。黄綬。 以上の署長、おのおの中宮の別処を主る。 中黄門冗従僕射 宦者。一人、六百石。 中黄門の冗従を主る。居して則ち宿衛し、門戸を直守す。出れば則ち騎従し乗輿車を夾む。 宂(冗)は、散なり。散従の官である。 中黄門 (前漢) 奄人(宦者)。禁中に居り、黄門の内に在りて給事する者なり。 (後漢) 宦者、無員、比百石。後に増、比三百石。 禁中の給事を掌る。 永巷 (前漢) 武帝太初元年に、更名して掖廷。 永巷令 永巷丞 一人? 永巷僕射 署長 中黄門 (後漢) 掖廷とは別に置く。官婢、侍、吏を典ず。 永巷令 宦舎、六百石。 右丞 一人。 暴室丞 一人。 員吏 六人。 吏従官 三十四人。 掖庭 (前漢) 武帝太初元年、永巷より更名する。 掖庭令 掖庭丞 八人。 掖庭僕射 署長 中黄門 (後漢) 後宮の貴人、采女の事を掌る。 掖庭令 宦者。一人、六百石。 掖庭左丞 一人 掖庭右丞 一人 暴室丞 一人。 中婦人の疾病者がこの室の治に就くことを主る。その皇后、貴人が罪有れば、またこの室に就く。 吏従官 百六十七人。 待詔 五人。 員吏 十人。 属官(前漢のみ) 前漢にて少府に属しながら、後漢に省、または他へ移動となった部署。 湯官 (前漢) 餅餌を主る。 湯官令 一人。 湯官丞 一人。 (後漢) 太官の下に移り、ただ丞のみと為る。 導官 (前漢) 擇米を主る。 導官令 一人。 導官丞 一人。 (後漢) 中興後、少府の属には無し。大司農の属に導官令が置かれる。 楽府 哀帝綏和二年、省く。 後漢には置かれず。 楽府令 楽府丞 三人。 考工室 作器械を作るを主る。「冬官、考工と為す。」 武帝太初元年、更名して考工。 中興して太僕に転ず。 考工室令 一人。 考工室丞 一人。 左弋 弋射を掌る。 左弋は、地名。 武帝太初元年、更名して佽飛と為す。 中興して省く。 左弋令 一人。 左弋丞 九人。 左弋尉 二人。 居室 武帝太初元年、更名して保宮と為す。 後漢には名が見られず。 居室令 一人。 居室丞 一人。 甘泉居室 武帝太初元年、更名して昆臺と為す。 中興して省く。 甘泉居室令 一人。 甘泉居室丞 五人。 左司空 後漢には名が見られず。 左司空令 一人。 左司空丞 一人。 右司空 後漢には名が見られず。 右司空令 一人。 右司空丞 一人。 東織 成帝河平元年、省く。 東織令 一人。 東織丞 一人。 西織 成帝河平元年、東織を省くに伴い、更名して織室と為る。 中興して御府令の下に移り、ただ丞のみとなる。 西織令 一人。 西織丞 一人。 東園匠 陵内の器物を作るを主る。それは凶器である故に、秘器と称す。 将作大匠下の東園より木材を得る。 後漢には官名が見られず、『礼儀志』下の大喪には「守宮令が東園匠を兼ね」とする。 東園匠令 一人。 東園匠丞 一人。 胞人 胞は庖に同じ。 宰割者(犠牲の肉を切る者)を主掌する。 後漢にて省く。 胞人長 一人。 胞人丞 一人。 都水 『三輔黃圖』は云う、「三輔、みな都水を有すなり」と。 都水長 一人。 都水丞 一人 均官 太僕にも同名の官があり。 均官長 一人。 均官丞 一人。 中書謁者令 漢初、中人には中謁者令があり、武帝が中書謁者令と改め、宦人を当てる。 成帝建始四年、中書の事から宦人を罷め、中謁者令に復し、僕射を省く。 丞 一人。 中書謁者僕射 署長 中黄門 (後漢) 中謁者があるが、祭礼と天子の使者としてのみ名が見える。おそらくは少府に属さず。令長は見られず、僕射がある。 宦者 中興して省く。 宦者令 一人。 宦者丞 七人。 宦者僕射 署長 中黄門 所属項目(タグ) 九卿 卿 少府 禁銭 職官 関連項目・人物 耿紀 待詔 少府 詳説 編集 -
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資治通鑑巻第三十三 漢紀二十五 孝成皇帝下 綏和二年(甲寅、前七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 1. 2二月,壬子,丞相方進薨。 時熒惑守心,丞相府議曹平陵李尋奏記方進,言:「災變迫切,大責日加,安得但保斥逐之戮!闔府三百餘人,唯君侯擇其中,與盡節轉凶。」方進憂之,不知所出。會郎賁麗善爲星,言大臣宜當之。上乃召見方進。還歸,未及引決,上遂賜冊,責讓以政事不治,災害並臻,百姓窮困,曰:「欲退君位,尚未忍,使尚書令賜君上尊酒十石,養牛一,君審處焉!」方進即日自殺。上秘之,遣九卿冊贈印綬,賜乘輿秘器、少府供張,柱檻皆衣素。天子親臨吊者數至,禮賜異於它相故事。 臣光曰:晏嬰有言:「天命不慆,不貳其命。」禍福之至,安可移乎!昔楚昭王、宋景公不忍移災於卿佐,曰:「移腹心之疾,寘諸股肱,何益也!」藉其災可移,仁君猶不肯爲,況不可乎!使方進罪不至死而誅之,以當大變,是誣天也;方進有罪當刑,隱其誅而厚其葬,是誣人也;孝成欲誣天、人而卒無所益,可謂不知命矣。 2. 3三月,上行幸河東,祠后土。 3. 4丙戌,帝崩于未央宮。 帝素強無疾病。是時,楚思王衍、梁王立來朝,明旦,當辭去,上宿供張白虎殿;又欲拜左將軍孔光爲丞相,已刻侯印,書贊。昏夜,平善,郷晨,傅褲襪欲起,因失衣,不能言,晝漏上十刻而崩,民間讙嘩,咸歸罪趙昭儀。皇太后詔大司馬莽雜與御史、丞相、廷尉治,問皇帝起居發病状;趙昭儀自殺。 班彪贊曰:臣姑充後宮爲婕妤,父子、昆弟侍帷幄,數爲臣言:「成帝善修容儀,升車正立,不内顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆有天子之容者矣。博覽古今,容受直辭,公卿奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛乎酒色,趙氏亂内,外家擅朝,言之可爲於邑!」建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂簒位,蓋其威福所由來者漸矣! 4. 5是日,孔光於大行前拜受丞相、博山侯印綬。 5. 6富平侯張放聞帝崩,思慕哭泣而死。 荀悅論曰:放非不愛上,忠不存焉。故愛而不忠,仁之賊也! 6. 7皇太后詔南、北郊長安如故。 7. 8夏,四月,丙午,太子即皇帝位,謁高廟;尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。大赦天下。 哀帝初立,躬行儉約,省減諸用,政事由己出,朝廷翕然望至治焉。 8. 9己卯,葬教成皇帝于延陵。 9. 10太皇太后令傅太后、丁姫十日一至未央宮。 有詔問丞相、大司空:「定陶共王太后宜當何居?」丞相孔光素聞傅太后爲人剛暴,長於權謀,自帝在襁褓,而養長教道至於成人,帝之立又有力;光心恐傅太后與政事,不欲與帝旦夕相近,即議以爲:「定陶太后宜改築宮。」大司空何武曰:「可居北宮。」上從武言。北宮有紫房復道通未央宮,傅太后果從復道朝夕至帝所,求欲稱尊號,貴寵其親屬,使上不得由直道行。高昌侯董宏希指,上書言:「秦莊襄王母本夏氏,而爲華陽夫人所子,及即位後,倶稱太后。宜立定陶共王后爲帝太后。」事下有司,大司馬王莽,左將軍、關内侯、領尚書事師丹劾奏宏:「知皇太后至尊之號,天下一統,而稱引亡秦以爲比喩,詿誤聖朝,非所宜言,大不道!」上新立,謙讓,納用莽、丹言,免宏爲庶人。傅太后大怒,要上,欲必稱尊號。上乃白太皇太后,令下詔尊定陶恭王爲恭皇。 10. 11五月,丙戌,立皇后傅氏,傅太后從弟晏之子也。 11. 12詔曰:「春秋,母以子貴。宜尊定陶太后曰恭皇太后,丁姫曰恭皇后,各置左右詹事,食邑如長信宮、中宮。」追尊傅父爲崇祖侯,丁父爲褒德侯;封舅丁明爲陽安侯,舅子滿爲平周侯,皇后父晏爲孔郷侯,皇太后弟、侍中、光祿大夫趙欽爲新城侯。太皇太后詔大司馬莽就第,避帝外家;莽上疏乞骸骨。帝遣尚書令詔起莽,又遣丞相孔光、大司空何武、左將軍師丹、衞尉傅喜白太皇太后曰:「皇帝聞太后詔,甚悲!大司馬即不起,皇帝即不敢聽政!」太后乃復令莽視事。 12. 13成帝之世,鄭聲尤甚,黄門名倡丙強、景武之屬富顯於世,貴戚至與人主爭女樂。帝自爲定陶王時疾之,又性不好音,六月,詔曰:「孔子不云乎:『放鄭聲,鄭聲淫。』其罷樂府官;郊祭樂及古兵法武樂在經,非鄭、衞之樂者,條奏別屬他官。」凡所罷省過半。然百姓漸漬日久,又不制雅樂有以相變,豪富吏民湛沔自若。 13. 14王莽薦中壘校尉劉歆有材行,爲侍中,稍遷光祿大夫,貴幸;更名秀。上復令秀典領五經,卒父前業;秀於是總羣書而奏其七略,有輯略、有六藝略、有諸子略、有詩賦略、有兵書略、有術數略、有方技略。凡書六略,三十八種,五百九十六家、萬三千二百六十九卷。其敘諸子,分爲九流:曰儒,曰道,曰陰陽,曰法,曰名,曰墨,曰從橫,曰雜,曰農,以爲:「九家皆起於王道既微,諸侯力政,時君世主好惡殊方,是以九家之術蜂出並作,各引一端,崇其所善,以此馳説,取合諸侯,其言雖殊,譬猶水火相滅,亦相生也;仁之與義,敬之與和,相反而皆相成也。易曰:『天下同歸而殊塗,一致而百慮。』今異家者推所長,窮知究慮以明其指,雖有蔽短,合其要歸,亦六經之支與流裔;使其人遭明王聖主,得其所折中,皆股肱之材已。仲尼有言:『禮失而求諸野。』方今去聖久遠,道術缺廢,無所更索,彼九家者,不猶愈於野乎!若能修六藝之術而觀此九家之言,捨短取長,則可以通萬方之略矣。」 14. 15河間惠王良能修獻王之行,母太后薨,服喪如禮;詔益封萬戸,以爲宗室儀表。 15. 16初,董仲舒説武帝,以「秦用商鞅之法,除井田,民得賣買,富者田連阡陌,貧者亡立錐之地,邑有人君之尊,里有公侯之富,小民安得不困!古井田法雖難卒行,宜少近古,限民名田以贍不足,塞並兼之路;去奴婢,除專殺之威;薄賦斂,省繇役,以寬民力,然後可善治也!」及上即位,師丹復建言:「今累世承平,豪富吏民訾數巨萬,而貧弱愈困,宜略爲限。」天子下其議,丞相光、大司空武奏請:「自諸侯王、列侯、公主名田各有限;關内侯、吏、民名田皆毋過三十頃;奴婢毋過三十人。期盡三年。犯者沒入宮。」時田宅、奴婢賈爲減賤,貴戚近習皆不便也,詔書:「且須後。」遂寢不行。又詔齊三服官:「諸官織綺繡,難成、害女紅之物,皆止,無作輸。除任子令及誹謗詆欺法。掖廷宮人年三十以下,出嫁之;官奴婢五十以上,免爲庶人,益吏三百石以下俸。」 16. 17上置酒未央宮,内者令爲傅太后張幄,坐於太皇太后坐旁。大司馬莽按行,責内者令曰:「定陶太后,藩妾,何以得與至尊並!」徹去,更設坐。傅太后聞之,大怒,不肯會,重怨恚莽;莽復乞骸骨。秋,七月,丁卯,上賜莽黄金五百斤,安車駟馬,罷就第。公卿大夫多稱之者,上乃加恩寵,置中黄門,爲莽家給使,十日一賜餐。又下詔益封曲陽侯根,安陽侯舜,新都侯莽,丞相光,大司空武邑戸各有差。以莽爲特進、給事中、朝朔望,見禮如三公。又還紅陽侯立於京師。 傅太后從弟右將軍喜,好學問,有志行。王莽既罷退,衆庶歸望於喜。初,上之官爵外親也,喜獨執謙稱疾;傅太后始與政事,數諫之;由是傅太后不欲令喜輔政。庚午,以左將軍師丹爲大司馬,封高郷亭侯;賜喜黄金百斤,上右將軍印綬,以光祿大夫養病;以光祿勳淮陽彭宣爲右將軍。大司空何武、尚書令唐林皆上書言:「喜行義修潔,忠誠憂國,内輔之臣也。今以寢病一旦遣歸,衆庶失望,皆曰:『傅氏賢子,以論議不合於定陶太后,故退,』百寮莫不爲國恨之。忠臣,社稷之衞。魯以季友治亂,楚以子玉輕重,魏以無忌折衝,項以范增存亡。百萬之衆,不如一賢,故秦行千金以間廉頗,漢散黄金以疏亞父。喜立於朝,陛下之光輝,傅氏之廢興也。」上亦自重之,故尋復進用焉。 17. 18建平侯杜業上書詆曲陽侯王根、高陽侯薛宣、安昌侯張禹而薦朱博。帝少而聞知王氏驕盛,心不能善,以初立,故且優之。後月餘,司隸校尉解光奏:「曲陽侯,先帝山陵未成,公聘取故掖庭女樂五官殷嚴、王飛君等置酒歌舞,及根兄子成都侯況,亦聘取故掖庭貴人以爲妻,皆無人臣禮,大不敬,不道!」於是天子曰:「先帝遇根、況父子,至厚也,今乃背恩忘義!」以根嘗建社稷之策,遣就國,免況爲庶人,歸故郡。根及況父商所薦舉爲官者皆罷。 18. 19九月,庚申,地震,自京師到北邊郡國三十餘處,壞城郭,凡壓殺四百餘人。上以災異問待詔李尋,對曰:「夫日者,衆陽之長,人君之表也。君不修道,則日失其度,晻昧亡光。間者日尤不精,光明侵奪失色,邪氣珥,蜺數作。小臣不知内事,竊以日視陛下,志操衰於始初多矣。唯陛下執乾剛之德,強志守度,毋聽女謁、邪臣之態;諸保阿、乳母甘言悲辭之托,斷而勿聽。勉強大誼,絶小不忍;良有不得已,可賜以貨財,不可私以官位,誠皇天之禁也。 臣聞月者,衆陰之長,妃後、大臣、諸侯之象也。間者月數爲變,此爲母后與政亂朝,陰陽倶傷,兩不相便;外臣不知朝事,竊信天文,即如此,近臣已不足杖矣。唯陛下親求賢士,無強所惡,以崇社稷,尊強本朝! 臣聞五行以水爲本,水爲準平,王道公正修明,則百川理,落脈通;偏黨失綱,則湧溢爲敗。今汝、穎漂湧,與雨水並爲民害,此詩所謂『百川沸騰』,咎在皇甫卿士之屬。唯陛下少抑外親大臣! 臣聞地道柔靜,陰之常義也。間者關東地數震,宜務崇陽抑陰以救其咎,固志建威,閉絶私路,拔進英雋,退不任職,以強本朝!夫本強則精神折衝;本弱則招殃致凶,爲邪謀所陵。聞往者淮南王作謀之時,其所難者獨有汲黯,以爲公孫弘等不足言也。弘,漢之名相,於今亡比,而尚見輕,何況亡弘之屬乎!故曰朝廷亡人,則爲賊亂所輕,其道自然也。」 19. 20騎都尉平當使領河堤,奏:「九河今皆窴滅。按經義,治水有決河深川而無堤防壅塞之文。河從魏郡以東北多溢決,水跡難以分明,四海之衆不可誣。宜博求能浚川疏河者。」上從之。 待詔賈讓奏言:「治河有上、中、下策。古者立國居民,疆理土地,必遺川澤之分,度水勢所不及。大川無防,小水得入,陂障卑下,以爲汚澤,使秋水多得其所休息,左右游波寬緩而不迫。夫土之有川,猶人之有口也,治土而防其川,猶止兒啼而塞其口,豈不遽止,然其死可立而待也。故曰:『善爲川者決之使道,善爲民者宣之使言。』蓋堤防之作,近起戰國,雍防百川,各以自利。齊與趙、魏以河爲竟,趙、魏瀕山,齊地卑下,作堤去河二十五里,河水東抵齊堤則西泛趙、魏;趙、魏亦爲堤,去河二十五里,雖非其正,水尚有所遊蕩。時至而去,則填淤肥美,民耕田之;或久無害,稍築宮宅,遂成聚落;大水時至,漂沒,則更起堤防以自救,稍去其城郭,排水澤而居之,湛溺自其宜也。今堤防,狹者去水數百歩,遠者數里,於故大堤之内復有數重,民居其間,此皆前世所排也。河從河内黎陽至魏郡昭陽,東西互有石堤,激水使還,百餘里間,河再西三東,迫厄如此,不得安息。 今行上策,徙冀州之民當水衝者,決黎陽遮害亭,放河使北入海;河西薄大山,東薄金堤,勢不能遠氾濫,期月自定。難者將曰:『若如此,敗壞城郭、田廬、塚墓以萬數,百姓怨恨。』昔大禹治水,山陵當路者毀之,故鑿龍門,辟伊闕,析厎柱,破碣石,墮斷天地之性,此乃人功所造,何足言也!今瀕河十郡,治堤歳費且萬萬;及其大決,所殘無數。如出數年治河之費以業所徙之民,遵古聖之法,定山川之位,使神人各處其所而不相姦;且以大漢方制萬里,豈其與水爭咫尺之地哉!此功一立,河定民安,千載無患,故謂之上策。 若乃多穿漕渠於冀州地,使民得以漑田,分殺水怒,雖非聖人法,然也救敗術也。可從淇口以東爲石堤,多張水門。恐議者疑河大川難禁制,滎陽漕渠足以卜之。冀州渠首盡,當仰此水門,諸渠皆往往股引取之:旱則開東方下水門,漑冀州;水則開西方高門,分河流,民田適治,河堤亦成。此誠富國安民、興利除害,支數百歳,故謂之中策。 若乃繕完故堤,增卑倍薄,勞費無已,數逢其害,此最下策也。」 20. 21孔光、何武奏:「迭毀之次當以時定,請與羣臣雜議。」於是光祿勳彭宣等五十三人皆以爲:「孝武皇帝雖有功烈,親盡宜毀。」太僕王舜、中壘校尉劉歆議曰:「禮,天子七廟。七者其正法數,可常數者也。宗不在此數中,宗變也。苟有功德則宗之,不可預爲設數。臣愚以爲孝武皇帝功烈如彼,孝宣皇帝崇立之如此,不宜毀。」上覽其議,制曰:「太僕舜、中壘校尉歆議可。」 21. 22何武後母在蜀郡,遣吏歸迎;會成帝崩,吏恐道路有盜賊,後母留止。左右或譏武事親不篤,帝亦欲改易大臣,冬,十月,策免武,以列侯歸國。癸酉,以師丹爲大司空。丹見上多所匡改成帝之政,乃上書言:「古者諒暗不言,聽於塚宰,三年無改於父之道。前大行屍柩在堂,而官爵臣等以及親屬,赫然皆貴寵,封舅爲陽安侯,皇后尊號未定,豫封父爲孔郷侯;出侍中王邑、射聲校尉王邯等。詔書比下,變動政事,卒暴無漸。臣縱不能明陳大義,復曾不能牢讓爵位,相隨空受封侯,增益陛下之過。間者郡國多地動水出,流殺人民,日月不明,五星失行,此皆舉錯失中,號令不定,法度失理,陰陽溷濁之應也。 臣伏惟人情無子,年雖六七十,猶博取而廣求。孝成皇帝深見天命,燭知至德,以壯年克己,立陛下爲嗣。先帝暴棄天下,而陛下繼體,四海安寧,百姓不懼,此先帝聖德,當合天人之功也。臣聞『天威不違顏咫尺』,願陛下深思先帝所以建立陛下之意,且克己躬行,以觀羣下之從化。天下者,陛下之家也,胏附何患不富貴,不宜倉卒若是,其不久長矣!」丹書數十上,多切直之言。 傅太后從弟子遷在左右,尤傾邪,上惡之,免官,遣歸故郡。傅太后怒;上不得已,復留遷。丞相光與大司空丹奏言:「詔書前後相反,天下疑惑,無所取信。臣請歸遷故郡,以銷姦黨。」卒不得遣,復爲侍中,其逼於傅太后,皆此類也。 22. 23議郎耿育上書冤訟陳湯曰:「甘延壽、陳湯,爲聖漢揚鉤深致遠之威,雪國家累年之恥,討絶域不羈之君,繋萬里難制之虜,豈有比哉!先帝嘉之,仍下明詔,宣著其功,改年垂暦,傳之無窮。應是,南郡獻白虎,邊垂無警備。會先帝寢疾,然猶垂竟不忘,數使尚書責問丞相,趣立其功;獨丞相匡衡排而不予,封延壽、湯數百戸,此功臣戰士所以失望也。孝成皇帝承建業之基,乘征伐之威,兵革不動,國家無事,而大臣傾邪,欲專主威,排妒有功,使湯塊然被冤拘囚,不能自明,卒以無罪老棄。敦煌正當西域通道,令威名折衝之臣,旋踵及身,復爲郅支遺虜所笑,誠可悲也!至今奉使外蠻者,未嘗不陳郅支之誅以揚漢國之盛。夫援人之功以懼敵,棄人之身以快讒,豈不痛哉!且安不忘危,盛必慮衰,今國家素無文帝累年節儉富饒之畜,又無武帝薦延梟俊禽敵之臣,獨有一陳湯耳!假使異世不及陛下,尚望國家追録其功,封表其墓,以勸後進也。湯幸得身當聖世,功曾未久,反聽邪臣鞭逐斥遠,使亡逃分竄,死無處所。遠覽之士,莫不計度,以爲湯功累世不可及,而湯過人情所有,湯尚如此,雖復破絶筋骨,暴露形骸,猶複製於脣舌,爲嫉妒之臣所繫虜耳。此臣所以爲國家尤戚戚也。」書奏,天子還湯,卒於長安。 23. 孝哀皇帝上 建平元年(乙卯、前六) 1春,正月,隕石于北地十六。 1. 2赦天下。 2. 3司隸校尉解光奏言:「臣聞許美人及故中宮史曹宮皆御幸孝成皇帝,産子。子隱不見。臣遣吏驗問,皆得其状:元延元年,宮有身;其十月,宮乳掖庭牛官令捨。中黄門田客持詔記與掖庭獄丞籍武,令收置暴室獄,『毋問兒男、女,誰兒也!』宮曰:『善臧我兒胞,丞知是何等兒也!』後三日,客持詔記與武,問:『兒死未?』武對:『未死。』客曰:『上與昭儀大怒,奈何不殺!』武叩頭啼曰:『不殺兒,自知當死;殺之,亦死!』即因客奏封事曰:『陛下未有繼嗣,子無貴賤,唯留意!』奏入,客復特詔記取兒,付中黄門王舜。舜受詔,内兒殿中,爲擇乳母,告『善養兒,且有賞,毋令漏洩!』舜擇官婢張棄爲乳母。後三日,客復持詔記並藥以飲宮。宮曰:『果也欲姊弟擅天下!我兒,男也,額上有壯發,類孝元皇帝。今兒安在?危殺之矣!奈何令長信得聞之?』遂飲藥死。棄所養兒十一日,宮長李南以詔書取兒去,不知所置。 許美人元延二年懷子,十一月乳。昭儀謂成帝曰:『常紿我言從中宮來。即從中宮來,許美人兒何從生中!許氏竟當復立邪!』懟,以手自搗,以頭撃壁戸柱,從床上自投地,啼泣不肯食,曰:『今當安置我,我欲歸耳!』帝曰:『今故告之,反怒爲,殊不可曉也!』帝亦不食。昭儀曰:『陛下自知是,不食何爲!陛下嘗自言:「約不負女!」今美人有子,竟負約,謂何?』帝曰:『約以趙氏,故不立許氏,使天下無出趙氏上者,毋憂也!』後詔使中黄門靳嚴從許美人取兒去,盛以葦篋,置飾室簾南去。帝與昭儀坐,使御者於客子解篋緘,未已,帝使客子及御者皆出,自閉戸,獨與昭儀在。須臾開戸,呼客子使緘封篋,及詔記令中黄門呉恭持以與籍武曰:『告武,篋中有死兒,埋屏處,勿令人知!』武穿獄樓垣下爲坎,埋其中。 其他飲藥傷墮者無數事,皆在四月丙辰赦令前。臣謹案:永光三年,男子忠等發長陵傅夫人塚。事更大赦,孝元皇帝下詔曰:『此朕所不當得赦也。』窮治,盡伏辜。天下以爲當。趙昭儀傾亂聖朝,親滅繼嗣,親屬當伏天誅。而同産親屬皆在尊貴之位,迫近帷幄,羣下寒心,請事窮竟!」丞相以下議正法,帝於是免新成侯趙欽、欽兄子成陽侯訢皆爲庶人,將家屬徙遼西郡。 議郎耿育上疏言:「臣聞繼嗣失統,廢適立庶,聖人法禁,古今至戒。然太伯見暦知適,逡循固讓,委身呉、粤,權變所設,不計常法,致位王季,以崇聖嗣,卒有天下,子孫承業七八百載,功冠三王,道德最備,是以尊號追及太王。故世必有非常之變,然後乃有非常之謀。孝成皇帝自知繼嗣不以時立,念雖末有皇子,萬歳之後未能持國,權柄之重,制於女主,女主驕盛則耆欲無極,少主幼弱則大臣不使,世無周公抱負之輔,恐危社稷,傾亂天下。知陛下有賢聖通明之德,仁孝子愛之恩,懷獨見之明,内斷於身,故廢後宮就館之漸,絶微嗣禍亂之根,乃欲致位陛下以安宗廟。愚臣既不能深援安危,定金匱之計,又不知推演聖德,述先帝之志,乃反覆校省内,暴露私燕,誣汚先帝傾惑之過,成結寵妾□石媢之誅,甚失賢聖遠見之明,逆負先帝憂國之意!夫論大德不拘俗,立大功不合衆,此乃孝成皇帝至思所以萬萬於衆臣,陛下聖德盛茂所以符合於皇天也,豈當世庸庸斗筲之臣所能及哉!且褒廣將順君父之美,匡救銷滅既往之過,古今通義也。事不當時固爭,防禍於未然,各隨指阿從以求容媚;晏駕之後,尊號已定,萬事已訖,乃探追不及之事,訐揚幽昧之過,此臣所深痛也!願下有司議,即如臣言,宜宣佈天下,使咸曉知先帝聖意所起。不然,空使謗議上及山陵,下流後世,遠聞百蠻,近布海内,甚非先帝托後之意也。蓋孝子,善述父之志,善成人之事,唯陛下省察!」帝亦以爲太子頗得趙太后力,遂不竟其事。傅太后恩趙太后,趙太后亦歸心,故太皇太后及王氏皆怨之。 3. 4丁酉,光祿大夫傅喜爲大司馬,封高武侯。 4. 5秋,九月,甲辰,隕石于虞二。 5. 6郎中令泠褒、黄門郎段猶等復奏言:「定陶共皇太后、共皇后,皆不宜復引定陶藩國之名,以冠大號;車馬、衣服宜皆稱皇之意,置吏二千石以下,各供厥職;又宜爲共皇立廟京師。」上復下其議,羣下多順指言:「母以子貴,宜立尊號以厚孝道。」唯丞相光、大司馬喜、大司空丹以爲不可。丹曰:「聖王制禮,取法於天地。尊卑者,所以正天地之位,不可亂也。今定陶共皇太后、共皇后以『定陶共』爲號者,母從子,妻從夫之義也。欲立官置吏,車服與太皇太后並,非所以明『尊無二上』之義也。定陶共皇號謚已前定,義不得復改。禮:『父爲士,子爲天子,祭以天子,其屍服以士服』,子無爵父之義,尊父母也。爲人後者爲之子,故爲所後服斬衰三年,而降其父母期,明尊本祖而重正統也。孝成皇帝聖恩深遠,故爲共王立後,奉承祭祀,令共皇長爲一國太祖,萬世不毀,恩義已備。陛下既繼體先帝,持重大宗,承宗廟、天地、社稷之祀,義不可復奉定陶共皇祭入其廟。今欲立廟於京師,而使臣下祭之,是無主也。又,親盡當毀。空去一國太祖不墮之祀,而就無主當毀不正之禮,非所以尊厚共皇也。」丹由是浸不合上意。 會有上書言:「古者以龜、貝爲貨,今以錢易之,民以故貧,宜可改幣。」上以問丹,丹對言可改。章下有司議,皆以爲行錢以來久,難卒變易。丹老人,忘其前語,復從公卿議。又丹使吏書奏,吏私寫其草。丁、傅子弟聞之,使人上書告「丹上封事,行道人遍持其書。」上以問將軍、中朝臣,皆對曰:「忠臣不顯諫。大臣奏事,不宜漏洩,宜不廷尉治。」事下廷尉,劾丹大不敬,事未決,給事中、博士申咸、炔欽上書言:「丹經行無比,自近世大臣能若丹者少。發憤懣,奏封事,不及深思遠慮,使主簿書,漏洩之過不在丹,以此貶黜,恐不厭衆心。」上貶咸、欽秩各二等。遂策免丹曰:「朕惟君位尊任重,懷諼迷國,進退違命,反覆異言,甚爲君恥之!以君嘗托傅位,未忍考於理,其上大司空、高樂侯印綬,罷歸!」 尚書令唐林上疏曰:「竊見免大司空丹策書,泰深痛切!君子作文,爲賢者諱。丹,經爲世儒宗,德爲國黄耇,親傅聖躬,位在三公;所坐者微,海内未見其大過。事既以往,免爵太重;京師識者咸以爲宜復丹爵邑,使奉朝請。唯陛下裁覽衆心,有以尉復師傅之臣!」上從林言,下詔,賜丹爵關内侯。 上用杜業之言,召見朱博,起家復爲光祿大夫;遷京兆尹。冬,十月,壬午,以博爲大司空。 6. 7中山王箕子,幼有眚病,祖母馮太后自養視,數禱祠解。上遣中郎謁者張由將醫治之。由素有狂易病,病發,怒去,西歸長安。尚書簿責由擅去状,由恐,因誣言中山太后祝詛上及傅太后。傅太后與馮太后並事元帝,追怨之,因是遣御史丁玄案驗;數十日,無所得。更使中謁者令史立治之;立受傅太后指,冀得封侯,治馮太后女弟習及弟婦君之,死者數十人,誣奏云:「祝詛,謀殺上,立中山王。」責問馮太后,無服辭。立曰:「熊之上殿何其勇,今何怯也!」太后還謂左右:「此乃中語,前世事,吏何用知之?欲陷我效也!」乃飲藥自殺。宜郷侯參、君之、習夫及子當相坐者,或自殺,或伏法,凡死者十七人。衆莫不憐之。 司隸孫寶奏請覆治馮氏獄,傅太后大怒曰:「帝置司隸,主使察我!馮氏反事明白,故欲擿抉以揚我惡,我當坐之!」上乃順指,下寶獄。尚書僕射唐林爭之,上以林朋黨比周,左遷敦煌魚澤障候。大司馬傅喜、光祿大夫龔勝固爭,上爲言太后,出寶,復官。張由以先告,賜爵關内侯;史立遷中太僕。 7.
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資治通鑑巻第三十四 漢紀二十六 孝哀皇帝中 建平二年(丙辰、前五) 1春,正月,有星孛于牽牛。 1. 2丁、傅宗族驕奢,皆嫉傅喜之恭儉。又,傅太后欲求稱尊號,與成帝母齊尊;喜與孔光、師丹共執以爲不可。上重違大臣正議,又内迫傅太后,依違者連歳。傅太后大怒,上不得已,先免師丹以感動喜。喜終不順。朱博與孔郷侯傅晏連結,共謀成尊號事,數燕見,奏封事,毀短喜及孔光。丁丑,上遂策免喜,以侯就第。 御史大夫官既罷,議者多以爲古今異制,漢自天子之號下至佐史,皆不同於古,而獨改三公,職事難分明,無益於治亂。於是朱博奏言:「故事:選郡國守相高第爲中二千石,選中二千石爲御史大夫,任職者爲丞相;位次有序,所以尊聖德,重國相也。今中二千石未更御史大夫而爲丞相,權輕,非所以重國政也。臣愚以爲大司空官可罷,復置御史大夫,遵奉舊制。臣願盡力以御史大夫爲百僚率!」上從之。夏,四月,戊午,更拜博爲御史大夫。又以丁太后兄陽安侯明爲大司馬、衞將軍,置官屬;大司馬冠號如故事。 2. 3傅太后又自詔丞相、御史大夫曰:「高武侯喜附下罔上,與故大司空丹同心背畔,放命圮族,不宜奉朝請,其遣就國。」 3. 4丞相孔光,自先帝時議繼嗣,有持異之隙,又重忤傅太后指。由是傅氏在位者與朱博爲表裏,共毀譖光。乙亥,策免光爲庶人。以御史大夫朱博爲丞相,封陽郷侯;少府趙玄爲御史大夫。臨延登受策,有大聲如鐘鳴,殿中郎吏陛者皆聞焉。 上以問黄門侍郎蜀郡揚雄及李尋。尋對曰:「此洪範所謂鼓妖者也。師法,以爲人君不聰,爲衆所惑,空名得進,則有聲無形,不知所從生。其傳曰:『歳、月、日之中,則正卿受之。』今以四月日加辰、巳有異,是爲中焉。正卿,謂執政大臣也。宜退丞相、御史,以應天變。然雖不退,不出期年,其人自蒙其咎。」揚雄亦以爲:「鼓妖,聽失之象也。朱博爲人強毅,多權謀,宜將不宜相,恐有凶惡亟疾之怒。」上不聽。 朱博既爲丞相,上遂用其議,下詔曰:「定陶共皇之號,不宜復稱定陶。尊共皇太后曰帝太太后,稱永信宮;共皇后曰帝太后,稱中安宮;爲共皇立寢廟於京師,比宣帝父悼皇考制度。」於是四太后各置少府、太僕,秩皆中二千石。傅太后既尊後。尤驕,與太皇太后語,至謂之「嫗」。時丁、傅以一二年間暴興尤盛,爲公卿列侯者甚衆。然帝不甚假以權勢,不如王氏在成帝世也。 4. 5丞相博、御史大夫玄奏言:「前高昌侯宏,首建尊號之議,而爲關内侯師丹所劾奏,免爲庶人。時天下衰粗,委政於丹,丹不深惟褒廣尊號之義,而妄稱説,抑貶尊號,虧損孝道,不忠莫大焉!陛下仁聖,昭然定尊號,宏以忠孝復封高昌侯;丹惡逆暴著,雖蒙赦令,不宜有爵邑,請免爲庶人。」奏可。又奏:「新都侯王莽前爲大司馬,不廣尊尊之義,抑貶尊號,虧損孝道,當伏顯戮。幸蒙赦令,不宜有爵土,請免爲庶人。」上曰:「以莽與太皇太后有屬,勿免,遣就國。」及平阿侯仁臧匿趙昭儀親屬,皆遣就國。 天下多冤王氏者。諫大夫楊宣上封事言:「孝成皇帝深惟宗廟之重,稱述陛下至德以承天序,聖策深遠,恩德至厚。惟念先帝之意,豈不欲以陛下自代,奉承東宮哉!太皇太后春秋七十,數更憂傷,敕令親屬引領以避丁、傅,行道之人爲之隕涕,況於陛下!時登高遠望,獨不慚於延陵乎!」帝深感其言,復封成都侯商中子邑爲成都侯。 5. 6朱博又奏言:「漢家故事,置部刺史,秩卑而賞厚,咸勸功樂進。前罷刺史,更置州牧,秩眞二千石,位次九卿;九卿缺,以高第補;其中材則苟自守而已。恐功效陵夷,姦軌不禁。臣請罷州牧,置刺史如故。」上從之。 6. 7六月,庚申,帝太后丁氏崩,詔歸葬定陶共皇之園,發陳留、濟陰近郡國五萬人穿復土。 7. 8初,成帝時,齊人甘忠可詐造天官暦、包元太平經十二卷,言漢家逢天地之大終,當更受命於天,以教渤海夏賀良等。中壘校尉劉向奏忠可假鬼神,罔上惑衆;下獄,治服;未斷,病死。賀良等復私以相教。上即位,司隸校尉解光、騎都尉李尋白賀良等,皆待詔黄門。數召見,陳説「漢暦中衰,當更受命。成帝不應天命,故絶嗣。今陛下久疾,變異屢數,天所以譴告人也。宜急改元易號,乃得延年益壽,皇子生,災異息矣。得道不得行,咎殃且無不有,洪水將出,災火且起,滌蕩民人。」上久寢疾,冀其有益,遂從賀良等議,詔大赦天下,以建平二年爲太初元年,號曰「陳聖劉太平皇帝」,漏刻以百二十爲度。 8. 9秋,七月,以渭城西北原上永陵亭部爲初陵,勿徙郡國民。 9. 10上既改號月餘,寢疾自若。夏賀良等復欲妄變政事,大臣爭以爲不可許。賀良等奏言:「大臣皆不知天命,宜退丞相、御史,以解光、李尋輔政。」上以其言無驗,八月,詔曰:「待詔賀良等建言改元易號,增益漏刻,可以永安國家。朕信道不篤,過聽其言,冀爲百姓獲福,卒無嘉應。夫過而不改,是謂過矣!六月甲子詔書,非赦令,皆蠲除之。賀良等反道惑衆,姦態當窮竟。」皆下獄,伏誅。尋及解光減死一等,徙敦煌郡。 10. 11上以寢疾,盡復前世所嘗興諸神祠凡七百餘所,一歳三萬七千祠云。 11. 12傅太后怨傅喜不已,使孔郷侯晏風丞相朱博令奏免喜侯。博與御史大夫趙玄議之,玄言:「事已前決,得無不宜?」博曰:「已許孔郷侯矣。匹夫相要,尚相得死,何況至尊!博唯有死耳!」玄即許可。博惡獨斥奏喜,以故大司空汜郷侯何武前亦坐過免就國,事與喜相似,即並奏:「喜、武前在位,皆無益於治,雖已退免,爵土之封,非所當也。皆請免爲庶人。」上知傅太后素嘗怨喜,疑博、玄承指,即召玄詣尚書問状,玄辭服。有詔:「左將軍彭宣與中朝者雜問」,宣等奏劾「博、玄、晏皆不道,不敬,請召詣廷尉詔獄」。上減玄死罪三等;削晏戸四分之一;假謁者節召丞相詣廷尉,博自殺,國除。 12. 13九月,以光祿勳平當爲御史大夫;冬,十月,甲寅,遷爲丞相;以冬月故,且賜爵關内侯。以京兆尹平陵王喜爲御史大夫。 13. 14上欲令丁、傅處爪牙官,是歳,策免左將軍淮陽彭宣,以關内侯歸家,而以光祿勳丁望代爲左將軍。 14. 15烏孫卑爰疐侵盜匈奴西界,單于遣兵撃之,殺數百人,略千餘人,驅牛畜去。卑爰疐恐,遣子趨逯爲質匈奴,單于受,以状聞。漢遣使者責讓單于,告令還歸卑爰疐質子。單于受詔遣歸。 15. 三年(丁巳、前四) 1春,正月,立廣德夷王弟廣漢爲廣平王。 1. 2癸卯,帝太太后所居桂宮正殿火。 2. 3上使使者召丞相平當,欲封之。當病篤,不應召。室家或謂當:「不可強起受侯印爲子孫邪?」當日:「吾居大位,已負素餐責矣。起受侯印,還臥而死,死有餘罪。今不起者,所以爲子孫也!」遂上書乞骸骨,上不許。三月,己酉,當薨。 3. 4有星孛于河鼓。 4. 5夏,四月,丁酉,王嘉爲丞相,河南太守王崇爲御史大夫。崇,京兆尹駿之子也。嘉以時政苛急,郡國守相數有變動,乃上疏曰:「臣聞聖王之功在於得人。孔子曰:『材難,不其然與!』故繼世立諸侯,像賢也。雖不能盡賢,天子爲擇臣、立命卿以輔之。居是國也,累世尊重,然後士民之衆附焉。是以教化行而治功立。今之郡守重於古諸侯,往者致選賢材,賢材難得,拔擢可用者,或起於囚徒。昔魏尚坐事繋,文帝感馮唐之言,遺使持節赦其罪,拜爲雲中太守,匈奴忌之。武帝擢韓安國於徒中,拜爲梁内史,骨肉以安。張敞爲京兆尹,有罪當免,黠吏知而犯敞,敞收殺之,其家自冤,使者覆獄,劾敞賊殺人,上逮捕不下,會免;亡命十數日,宣帝征敞拜爲冀州刺史,卒獲其用。前世非私此三人,貪其材器有益於公家也。孝文時,吏居官者或長子孫,以官爲氏,倉氏、庫氏則倉庫吏之後也;其二千石長吏亦安官樂職,然後上下相望,莫有苟且之意。其後稍稍變易,公卿以下傳相促急,又數改更政事,司隸、部刺史舉劾苛細,發揚陰私,吏或居官數月而退,送故迎新,交錯道路。中材苟容求全,下材懷危内顧,壹切營私者多。二千石益輕賤,吏民慢易之,或持其微過,增加成罪,言於刺史、司隸,或上書告之。衆庶知其易危,小失意則有離畔之心。前山陽亡徒蘇令等縱橫,吏士臨難,莫肯伏節死義,以守、相威權素奪也。孝成皇帝悔之,下詔書,二千石不爲故縱,遣使者賜金,尉厚其意,誠以爲國家有急,取辦於二千石;二千石尊重難危,乃能使下。孝宣皇帝愛其善治民之吏,有章劾事留中,會赦壹解。故事:尚書希下章,爲煩擾百姓,證驗繋治,或死獄中,章文必有『敢告之』字乃下。唯陛下留神於擇賢,記善忘過,容忍臣子,勿責以備。二千石、部刺史、三輔縣令有材任職者,人情不能不有過差,宜可闊略,令盡力者有所勸。此方今急務,國家之利也。前蘇令發,欲遣大夫使逐問状,時見大夫無可使者,召盩厔令尹逢,拜爲諫大夫遣之。今諸大夫有材能者甚少,宜豫畜養可成就者,則士赴難不愛其死。臨事倉卒乃求,非所以明朝廷也。」嘉因薦儒者公孫光、滿昌及能吏蕭咸、薛修等,皆故二千石有名稱者,天子納而用之。 5. 6六月,立魯頃王子部郷侯閔爲王。 6. 7上以寢疾未定,冬,十一月,壬子,令太皇太后下詔復甘泉泰畤、汾陰后土祠,罷南、北郊。上亦不能親至甘泉、河東,遣有司行事而禮祠焉。 7. 8無鹽危山土自起覆草,如馳道状;又,瓠山石轉立。東平王雲及後謁自之石所祭,治石像瓠山立石,束倍草,並祠之。河内息夫躬、長安孫寵相與謀共告之,曰:「此取封侯之計也。」乃與中郎谷師譚共因中常侍宋弘上變事,告焉。是時上被疾,多所惡,事下有司,逮王后謁下獄驗治;服「祠祭詛祝上,爲雲求爲天子,以爲石立,宣帝起之表也。」有司請誅王,有詔,廢徙房陵。雲自殺,謁並舅伍宏及成帝舅安成共侯夫人放,皆棄市。事連御史大夫王崇,左遷大司農。擢寵爲南陽太守,譚穎川都尉,弘、躬皆光祿大夫、左曹、給事中。 8. 四年(戊午、前三) 1春,正月,大旱。 1. 2關東民無故驚走,持稿或槁一枚,轉相付與,曰行西王母籌,道中相過逢,多至千數,或被發徒跣,或夜折關,或踰牆入,或乘車騎奔馳,以置驛傳行,經暦郡國二十六至京師,不可禁止。民又聚會里巷阡陌,設張博具,歌舞祠西王母,至秋乃止。 2. 3上欲封傅太后從父弟侍中、光祿大夫商,尚書僕射平陵鄭崇諫曰:「孝成皇帝封親舅五侯,天爲赤黄,晝昏,日中有黑氣。孔郷侯,皇后父,高武侯以三公封,尚有因縁。今無故欲復封商,壞亂制度,逆天人之心,非傅氏之福也!臣願以身命當國咎!」崇因持詔書案起。傅太后大怒曰:「何有爲天子乃反爲一臣所顓制邪!」二月,癸卯,上遂下詔封商爲汝昌侯。 3. 4駙馬都尉、侍中雲陽董賢得幸於上,出則參乘,入御左右,賞賜累巨萬,貴震朝廷。常與上臥起。嘗晝寢,偏藉上袖,上欲起,賢未覺,不欲動賢,乃斷袖而起。又詔賢妻得通引籍殿中,止賢廬。又召賢女弟以爲昭儀,位次皇后。昭儀及賢與妻旦夕上下,並侍左右。以賢父恭爲少府,賜爵關内侯。詔將作大匠爲賢起大第北闕下,重殿,洞門,土木之功,窮極技巧。賜武庫禁兵,上方珍寶。其選物上弟盡在董氏,而乘輿所服乃其副也。及至東園秘器、珠襦、玉柙,豫以賜賢,無不備具。又令將作爲賢起塚塋義陵旁,内爲便房,剛柏題湊,外爲徼道,周垣數里,門闕罘罳甚盛。 鄭崇以賢貴寵過度諫上,由是重得罪,數以職事見責;發疾頸癰,欲乞骸骨,不敢。尚書令趙昌佞諂,素害崇;知見疏,因奏「崇與宗族通,疑有姦,請治。」上責崇曰:「君門如市人,何以欲禁切主上?」崇對曰:「臣門如市,臣心如水。願得考覆!」上怒,下崇獄。司隸孫寶上書曰:「按尚書令昌奏僕射崇獄,覆治,榜掠將死,卒無一辭,道路稱冤。疑昌與崇内有纖介,浸潤相陷。自禁門樞機近臣,蒙受冤譖,虧損國家,爲謗不小。臣請治昌以解衆心。」書奏,上下詔曰:「司隸寶附下罔上,以春月作詆欺,遂其姦心,蓋國之賊也。免寶爲庶人。」崇竟死獄中。 4. 5三月,諸吏、散騎、光祿勳賈延爲御史大夫。 5. 6上欲侯董賢而未有縁,侍中傅嘉勸上定息夫躬、孫寵告東平本章,掇去宋弘,更言因董賢以聞,欲以其功侯之,皆先賜爵關内侯。頃之,上欲封賢等而心憚王嘉,乃先使孔郷侯晏持詔書示丞相、御史。於是嘉與御史大夫賈延上封事言:「竊見董賢等三人始賜爵,衆庶匈匈,咸曰賢貴,其餘並蒙恩,至今流言未解。陛下仁恩於賢等不已,宜暴賢等本奏語言,延問公卿、大夫、博士、議郎,考合古今,明正其義,然後乃加爵土;不然,恐大失衆心,海内引領而議。暴評其事,必有言當封者,在陛下所從;天下雖不説,咎有所分,不獨在陛下。前定陵侯淳於長初封,其事亦議,大司農谷永以長當封;衆人歸咎於永,先帝不獨蒙其譏。臣嘉,臣延,材駑不稱,死有餘責,知順指不迕,可得容身須臾。所以不敢者,思報厚恩也。」上不得已,且爲之止。 6. 7夏,六月,尊帝太太后爲皇太太后。 7. 8秋,八月,辛卯,上下詔切責公卿曰:「昔楚有子玉得臣,晉文爲之側席而坐;近事,汲黯折淮南之謀。今東平王雲等至有圖弑天子逆亂之謀者,是公卿股肱莫能悉心、務聰明以銷厭未萌故也。賴宗廟之靈,侍中、駙馬都尉賢等發覺以聞,咸伏厥辜。書不云乎:『用德章厥善。』其封賢爲高安侯,南陽太守寵爲方陽侯,左曹、光祿大夫躬爲宜陵侯,賜右師譚爵關内侯。」又封傅太后同母弟鄭惲子業爲陽信侯。息夫躬既親近,數進見言事,議論無所避,上疏暦詆公卿大臣。衆畏其口,見之仄目。 8. 9上使中黄門發武庫兵,前後十輩,送董賢及上乳母王阿捨。執金吾毋將隆奏言:「武庫兵器,天下公用。國家武備,繕治造作,皆度大司農錢。大司農錢,自乘輿不以給共養;共養勞賜,一出少府。蓋不以本臧給末用,不以民力共浮費,別公私,示正路也。古者諸侯、方伯得顓征伐,乃賜斧鉞,漢家邊吏職任距寇,亦賜武庫兵,皆任事然後蒙之。春秋之誼,家不臧甲,所以抑臣威,損私力也。今賢等便僻弄臣,私恩微妾,而以天下公用給其私門,契國威器,共其家備,民力分於弄臣,武兵設於微妾,建立非宜,以廣驕僭,非所以示四方也。孔子曰:『奚取於三家之堂!』臣請收還武庫。」上不説。頃之,傅太后使謁者賤買執金吾官婢八人,隆奏言:「買賤,請更平直。」上於是制詔丞相、御史:「隆位九卿,既無以匡朝廷之不逮,而反奏請與永信宮爭貴賤之賈,傷化失俗。以隆前有安國之言,左遷爲沛郡都尉。」初,成帝末,隆爲諫大夫,嘗奏封事言:「古者選諸侯入爲公卿,以褒功德,宜征定陶王使在國邸,以填萬方。」故上思其言而宥之。 9. 10諫大夫渤海鮑宣上書曰:「竊見孝成皇帝時,外親持權,人人牽引所私以充塞朝廷,妨賢人路,濁亂天下,奢泰亡度,窮困百姓,是以日食且十,彗星四起。危亡之征,陛下所親見也;今奈何反覆劇於前乎! 今民有七亡:陰陽不和,水旱爲災,一亡也;縣官重責,更賦租税,二亡也;貪吏並公,受取不已,三亡也;豪強大姓,蠶食亡厭,四亡也;苛吏繇役,失農桑時,五亡也;部落鼓鳴,男女遮列,六亡也;盜賊劫略,取民財物,七亡也。七亡尚可,又有七死:酷吏毆殺,一死也;治獄深刻,二死也;冤陷亡辜,三死也;盜賊橫發,四死也;怨讎相殘,五死也;歳惡飢餓,六死也;時氣疾疫,七死也。民有七亡而無一得,慾望國安,誠難;民有七死而無一生,慾望刑措,誠難。此非公卿、守相貪殘成化之所致邪? 羣臣幸得居尊官,食重祿,豈有肯加惻隱於細民,助陛下流教化者邪?志但在營私家,稱賓客,爲姦利而已。以苟容曲從爲賢,以拱默尸祿爲智,謂如臣宣等爲愚。陛下擢臣巖穴,誠翼有益豪毛,豈徒欲使臣美食大官、重高門之地哉! 天下,乃皇天之天下也。陛下上爲皇天子,下爲黎庶父母,爲天牧養元元,視之當如一,合尸鳩之詩。今貧民菜食不厭,衣又穿空,父子、夫婦不能相保,誠可爲酸鼻。陛下不救,將安所歸命乎!奈何獨私養外親與幸臣董賢,多賞賜,以大萬數,使奴從、賓客,漿酒藿肉,蒼頭廬兒,皆用致富,非天意也。 及汝昌侯傅商,亡功而封。夫官爵非陛下之官爵,乃天下之官爵也。陛下取非其官,官非其人,而望天説民服,豈不難哉!方陽侯孫寵,宜陵侯息夫躬,辯足以移衆,強可用獨立,姦人之雄,惑世尤劇者也,宜以時罷退。及外親幼童未通經術者,皆宜令休,就師傅。急征故大司馬傅喜,使領外親。故大司空何武、師丹,故丞相孔光,故左將軍彭宣,經皆更博士,位皆暦三公;龔勝爲司直,郡國皆愼選舉;可大委任也。陛下前以小不忍退武等,海内失望。陛下尚能容亡功德者甚衆,曾不能忍武等邪?治天下者,當用天下之心爲心,不得自專快意而已也。」宣語雖刻切,上以宣名儒,優容之。 10. 11匈奴單于上書願朝五年。時帝被疾,或言:「匈奴從上游來厭人;自黄龍、竟寧時,單于朝中國,輒有大故。」上由是難之,以問公卿,亦以爲虚費府帑,可且勿許。單于使辭去,未發,黄門郎揚雄上書諫曰:「臣聞六經之治,貴於未亂;兵家之勝,貴於未戰;二者皆微,然而大事之本,不可不察也。今單于上書求朝,國家不許而辭之,臣愚以爲漢與匈奴從此隙矣。匈奴本五帝所不能臣,三王所不能制,其不可使隙明甚。臣不敢遠稱,請引秦以來明之: 以秦始皇之強,蒙恬之威,然不敢窺西河,乃築長城以界之。會漢初興,以高祖之威靈,三十萬衆困於平城,時奇譎之士、石畫之臣甚衆,卒其所以脱者,世莫得而言也。又高皇后時,匈奴悖慢,大臣權書遺之,然後得解。及孝文時,匈奴侵暴北邊,候騎至雍甘泉,京師大駭,發三將軍屯細柳、棘門、霸上以備之,數月乃罷。孝武即位,設馬邑之權,欲誘匈奴,徒費財勞師,一虜不可得見,況單于之面乎!其後深惟社稷之計,規恢萬載之策,乃大興師數十萬,使衞靑、霍去病操兵,前後十餘年,於是浮西河,絶大幕,破寘顏,襲王庭,窮極其地,追奔逐北,封狼居胥山,禪於姑衍,以臨翰海,虜名王、貴人以百數。自是之後,匈奴震怖,益求和親,然而未肯稱臣也。 且夫前世豈樂傾無量之費,役無罪之人,快心狼望之北哉?以爲不壹勞者不久佚,不暫費者不永寧,是以忍百萬之師以摧餓虎之喙,運府庫之財填盧山之壑而不悔也。至本始之初,匈奴有桀心,欲掠烏孫,侵公主,乃發五將之師十五萬騎以撃之,時鮮有所獲,徒奮揚威武,明漢兵若雷風耳!雖空行空反,尚誅兩將軍,故北狄不服,中國未得高枕安寢也。逮至元康、神爵之間,大化神明,鴻恩溥洽,而匈奴内亂,五單于爭立,日逐、呼韓邪攜國歸死,扶伏稱臣,然尚羈縻之,計不顓制。自此之後,欲朝者不距,不欲者不強。何者?外國天性忿鷙,形容魁健,負力怙氣,難化以善,易肄以惡,其強難詘,其和難得。故未服之時,勞師遠攻,傾國殫貨,伏屍流血,破堅拔敵,如彼之難也;既服之後,慰薦撫循,交接賂遺,威儀俯仰,如此之備也。往時嘗屠大宛之城,蹈烏桓之壘,探姑繒之壁,藉蕩姐之場,艾朝鮮之旃,拔兩越之旗,近不過旬月之役,遠不離二時之勞,固已犁其庭,掃其閭,郡縣而置之,雲徹席捲,後無餘災。唯北狄爲不然,眞中國之堅敵也,三垂比之縣矣;前世重之茲甚,未易可輕也。 今單于歸義,懷款誠之心,欲離其庭,陳見於前,此乃上世之遺策,神靈之所想望,國家雖費,不得已者也。奈何距以來厭之辭,疏以無日之期,消往昔之恩,開將來之隙?夫疑而隙之,使有恨心,負前言,縁往辭,歸怨於漢,因以自絶,終無北面之心,威之不可,諭之不能,焉得不爲大憂乎!夫明者視於無形,聰者聽於無聲,誠先於未然,即兵革不用而憂患不生。不然,壹有隙之後,雖智者勞心於内,辯者轂撃於外,猶不若未然之時也。且往者圖西域,制車師,置城郭都護三十六國,費歳以大萬計者,豈爲康居、烏孫能踰白龍堆而寇西邊哉?乃以制匈奴也。夫百年勞之,一日失之,費十而愛一,臣竊爲國不安也。唯陛下少留意於未亂、未戰,以遏邊萌之禍!」書奏,天子寤焉,召還匈奴使者,更報單于書而許之。賜雄帛五十匹,黄金十斤。單于未發,會病,復遣使願朝明年;上許之。 11. 12董賢貴幸日盛,丁、傅害其寵,孔郷侯晏與息夫躬謀欲求居位輔政。會單于以病未朝,躬因是而上奏,以爲:「單于當以十一月入塞,後以病爲解,疑有他變。烏孫兩昆彌弱,卑爰疐強盛,東結單于,遣子往侍,恐其合勢以並烏孫;烏孫並,則匈奴盛而西域危矣。可令降胡詐爲卑爰疐使者來上書,欲因天子威告單于歸臣侍子,因下其章,令匈奴客聞焉;則是所謂『上兵伐謀,其次伐交』者也。」 書奏,上引見躬,召公卿、將軍大議。左將軍公孫祿以爲:「中國常以威信懷伏夷狄,躬欲逆詐,進不信之謀,不可許。且匈奴賴先帝之德,保塞稱蕃。今單于以疾病不任奉朝賀,遣使自陳,不失臣子之禮。臣祿自保沒身不見匈奴爲邊竟憂也!」躬掎祿曰:「臣爲國家計,冀先謀將然,豫圖未形,爲萬世慮。而祿欲以其犬馬齒保目所見。臣與祿異議,未可同日語也!」上曰:「善!」乃罷羣臣,獨與躬議。 躬因建言:「災異屢見,恐必有非常之變,可遣大將軍行邊兵,敕武備,斬一郡守以立威,震四夷,因以厭應變異。」上然之,以問丞相嘉,對曰:「臣聞動民以行不以言,應天以實不以文。下民微細,猶不可詐,況於上天神明而可欺哉!天之見異,所以敕戒人君,欲令覺悟反正,推誠行善,民心説而天意得矣!辯士見一端,或妄以意傅著星暦,虚造匈奴、烏孫、西羌之難,謀動干戈,設爲權變,非應天之道也。守相有罪,車馳詣闕,交臂就死,恐懼如此,而談説者欲動安之危,辯口快耳,其實未可從。夫議政者,苦其諂諛、傾險、辯惠、深刻也。昔秦繆公不從百里奚、蹇叔之言,以敗其師,其悔過自責,疾詿誤之臣,思黄發之言,名垂於後世。唯陛下觀覽古戒,反覆參考,無以先入之語爲主!」上不聽。 12.
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資治通鑑巻第十五 漢紀七 太宗孝文皇帝下 前十一年(壬申、前一六九) 1冬,十一月,上行幸代。春,正月,自代還。 1. 2夏,六月,梁懷王揖薨,無子。賈誼復上疏曰:「陛下即不定製,如今之勢,不過一傳、再傳,諸侯猶且人恣而不制,豪植而大強,漢法不得行矣。陛下所以爲藩扞及皇太子之所恃者,唯淮陽、代二國耳。代,北邊匈奴,與強敵爲鄰,能自完則足矣;而淮陽之比大諸侯,廑如黑子之著面,適足以餌大國,而不足以有所禁御。方今制在陛下,制國而令子適足以爲餌,豈可謂工哉!臣之愚計,願舉淮南地以益淮陽,而爲梁王立後,割淮陽北邊二、三列城與東郡以益梁。不可者,可徙代王而都睢陽。梁起於新郪而北著之河,淮陽包陳而南揵之江,則大諸侯之有異心者破膽而不敢謀。梁足以扞齊、趙,淮陽足以禁呉、楚,陛下高枕,終無山東之憂矣,此二世之利也。當今恬然,適遇諸侯之皆少;數歳之後,陛下且見之矣。夫秦日夜苦心勞力以除六國之禍;今陛下力制天下,頤指如意,高拱以成六國之禍,難以言智,苟身無事,畜亂,宿祝,孰視而不定;萬年之後,傳之老母、弱子,將使不寧,不可謂仁。」帝於是從誼計,徙淮陽王武爲梁王,北界泰山,西至高陽,得大縣四十餘城。後歳餘,賈誼亦死,死時年三十三矣。 2. 3徙城陽王喜爲淮南王。 3. 4匈奴寇狄道。 時匈奴數爲邊患,太子家令穎川晁錯上言兵事曰:「兵法曰:『有必勝之將,無必勝之民。』由此觀之,安邊境,立功名,在於良將,不可不擇也。 臣又聞,用兵臨戰合刃之急者三:一曰得地形,二曰卒服習,三曰器用利。兵法:歩兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋、劍楯之地,各有所宜;不得其宜者,或十不當一。士不選練,卒不服習,起居不精,動靜不集,趨利弗及,避難不畢,前撃後解,與金鼓之指相失,此不習勒卒之過也,百不當十。兵不完利,與空手同;甲不堅密,與袒裼同;弩不可以及遠,與短兵同;射不能中,與無矢同;中不能入,與無鏃同;此將不省兵之禍也,五不當一。故兵法曰:『器械不利,以其卒予敵也;卒不可用,以其將予敵也;將不知兵,以其主予敵也;君不擇將,以其國予敵也。』四者,兵之至要也。 臣又聞:小大異形,強弱異勢,險易異備。夫卑身以事強,小國之形也;合小以攻大,敵國之形也;以蠻夷攻蠻夷,中國之形也。今匈奴地形、技藝與中國異,上下山阪,出入溪澗,中國之馬弗與也;險道傾仄,且馳且射,中國之騎弗與也;風雨罷勞,飢渇不困,中國之人弗與也;此匈奴之長技也。若夫平原、易地、輕車、突騎,則匈奴之衆易撓亂也;勁弩、長戟、射疏、及遠,則匈奴之弓弗能格也;堅甲、利刃,長短相雜,游弩往來,什伍倶前,則匈奴之兵弗能當也;材官騶發,矢道同的,則匈奴之革笥、木薦弗能支也;下馬地斗,劍戟相接,去就相薄,則匈奴之足弗能給也;此中國之長技也。以此觀之,匈奴之長技三,中國之長技五。陛下又興數十萬之衆以誅數萬之匈奴,衆寡之計,以一撃十之術也。 雖然,兵,兇器;戰,危事也。故以大爲小,以強爲弱,在俛仰之間耳。夫以人之死爭勝,跌而不振,則悔之無及也。帝王之道,出於萬全。今降胡、義渠、蠻夷之屬來歸誼者,其衆數千,飲食、長技與匈奴同。可賜之堅甲、絮衣、勁弓、利矢,益以邊郡之良騎,令明將能知其習俗、和輯其心者,以陛下之明約將之。即有險阻,以此當之;平地通道,則以輕車、材官制之;兩軍相爲表里,各用其長技,衡加之以衆,此萬全之術也。」 帝嘉之,賜錯書,寵答焉。 錯又上言曰:「臣聞秦起兵而攻胡、粤者,非以衞邊地而救民死也,貪戻而欲廣大也,故功未立而天下亂。且夫起兵而不知其勢,戰則爲人禽,屯則卒積死。夫胡、貉之人,其性耐寒;揚、粤之人,其性耐暑。秦之戍卒不耐其水土,戍者死於邊,輸者僨於道。秦民見行,如往棄市,因以謫發之,名曰『謫戍』;先發吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,又後以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左。發之不順,行者憤怨,有萬死之害而亡銖兩之報,死事之後,不得一算之復,天下明知禍烈及己也。陳勝行戍,至於大澤,爲天下先倡,天下從之如流水者,秦以威劫而行之之敝也。 胡人衣食之業,不著於地,其勢易以擾亂邊境,往來轉徙,時至時去。此胡人之生業,而中國之所以離南□也。今胡人數轉牧、行獵於塞下,以候備塞之卒,卒少則入。陛下不救,則邊民絶望而有降敵之心;救之,少發則不足,多發,遠縣才至,則胡又已去。聚而不罷,爲費甚大;罷之,則胡復入。如此連年,則中國貧苦而民不安矣。陛下幸憂邊境,遣將吏發卒以治塞,甚大惠也。然今遠方之卒守塞,一歳而更,不知胡人之能。不如選常居者家室田作,且以備之,以便爲之高城深塹;要害之處,通川之道,調立城邑,毋下千家。先爲室屋,具田器,乃募民,免罪,拜爵,復其家,予冬夏衣、稟食,能自給而止。塞下之民,祿利不厚,不可使久居危難之地。胡人入驅而能止其所驅者,以其半予之,縣官爲贖。其民如是,則邑里相救助,赴胡不避死。非以德上也,欲全親戚而利其財也;此與東方之戍卒不習地勢而心畏胡者功相萬也。以陛下之時,徙民實邊,使遠方無屯戍之事;塞下之民,父子相保,無繋虜之患;利施後世,名稱聖明,其與秦之行怨民,相去遠矣。」 上從其言,募民徙塞下。 錯復言:「陛下幸募民徙以實塞下,使屯戍之事益省,輸將之費益寡,甚大惠也。下吏誠能稱厚惠,奉明法,存恤所徙之老弱,善遇其壯士,和輯其心而勿侵刻,使先至者安樂而不思故郷,則貧民相慕而勸往矣。臣聞古之徙民者,相其陰陽之和,嘗其水泉之味,然後營邑、立城、制里、割宅,先爲築室家,置器物焉。民至有所居,作有所用。此民所以輕去故郷而勸之新邑也。爲置醫、巫以救疾病,以修祭祀,男女有昏,生死相恤,墳墓相從,種樹畜長,室屋完安。此所以使民樂其處而有長居之心也。 臣又聞古之制邊縣以備敵也,使五家爲伍,伍有長;十長一里,里有假士;四里一連,連有假五百;十連一邑,邑有假候。皆擇其邑之賢材有護、習地形、知民心者。居則習民於射法,出則教民於應敵。故卒伍成於内,則軍政定於外。服習以成,勿令遷徙,幼則同游,長則共事。夜戰聲相知,則足以相救;晝戰目相見,則足以相識;歡愛之心,足以相死。如此而勸以厚賞,威以重罰,則前死不還踵矣。所徙之民非壯有材者,但費衣糧,不可用也;雖有材力,不得良吏,猶亡功也。 陛下絶匈奴不與和親,臣竊意其冬來南也;壹大治,則終身創矣。欲立威者,始於折膠;來而不能困,使得氣去,後未易服也。」 錯爲人峭直刻深,以其辯得幸太子,太子家號曰「智囊」。 4. 十二年(癸酉、前一六八) 1冬,十二月,河決酸棗,東潰金堤,東郡大興卒塞之。 1. 2春,三月,除關,無用傳。 2. 3晁錯言於上曰:「聖王在上而民不凍飢者,非能耕而食之,織而衣之也,爲開其資財之道也。故堯有九年之水,湯有七年之旱,而國亡捐瘠者,以畜積多而備先具也。今海内爲一,土地、人民之衆不減湯、禹,加以無天災數年之水旱,而畜積未及者,何也?地有遺利,民有餘力;生谷之土未盡墾,山澤之利未盡出,游食之民未盡歸農也。 夫寒之於衣,不待輕暖;飢之於食,不待甘旨;飢寒至身,不顧廉恥。人情,一日不再食則飢,終歳不製衣則寒。夫腹飢不得食,膚寒不得衣,雖慈母不能保其子,君安能以有其民哉!明主知其然也,故務民於農桑,薄賦斂,廣畜積,以實倉廩,備水旱,故民可得而有也。民者,在上所以牧之;民之趨利,如水走下,四方無擇也。 夫珠、玉、金、銀,飢不可食,寒不可衣;然而衆貴之者,以上用之故也。其爲物輕微易藏,在於把握,可以周海内而無飢寒之患。此令臣輕背其主,而民易去其郷,盜賊有所勸,亡逃者得輕資也。粟、米、布、帛,生於地,長於時,聚於力,非可一日成也;數石之重,中人弗勝,不爲姦邪所利,一日弗得而飢寒至。是故明君貴五穀而賤金玉。 今農夫五口之家,其服役者不下二人,其能耕者不過百畮,百畮之收不過百石。春耕,夏耘,秋獲,冬藏,伐薪樵,治官府,給繇役;春不得避風塵,夏不得避暑熱,秋不得避陰雨,冬不得避寒凍,四時之間亡日休息;又私自送往迎來、吊死問疾、養孤長幼在其中。勤苦如此,尚復被水旱之災,急政暴賦,賦斂不時,朝令而暮改。有者半賈而賣,無者取倍稱之息,於是有賣田宅、鬻妻子以償責者矣。而商賈大者積貯倍息,小者坐列販賣,操其奇贏,日游都市,乘上之急,所賣必倍。故其男不耕耘,女不蠶織,衣必文采,食必粱肉;無農夫之苦,有仟伯之得。因其富厚,交通王侯,力過吏勢,以利相傾;千里游敖,冠蓋相望,乘堅、策肥,履絲、曳縞。此商人所以兼併農人,農人所以流亡者也。方今之務,莫若使民務農而已矣。欲民務農,在於貴粟。貴粟之道,在於使民以粟爲賞罰。今募天下入粟縣官,得以拜爵,得以除罪。如此,富人有爵,農民有錢,粟有所渫。夫能入粟以受爵,皆有餘者也。取於有餘以供上用,則貧民之賦可損,所謂損有餘,補不足,令出而民利者也。今令民有車騎馬一匹者,復卒三人;車騎者,天下武備也,故爲復卒。神農之教曰:『有石城十仞,湯池百歩,帶甲百萬,而無粟,弗能守也。』以是觀之,粟者,王者大用,政之本務。令民入粟受爵至五大夫以上,乃復一人耳,此其與騎馬之功相去遠矣。爵者,上之所擅,出於口而無窮;粟者,民之所種,生於地而不乏。夫得高爵與免罪,人之所甚欲也;使天下人入粟於邊以受爵、免罪,不過三歳,塞下之粟必多矣。」 帝從之,令民入粟邊,拜爵各以多少級數爲差。 錯復奏言:「陛下幸使天下入粟塞下以拜爵,甚大惠也。竊恐塞卒之食不足用,大渫天下粟。邊食足以支五歳,可令入粟郡縣矣;郡縣足支一歳以上,可時赦,勿收農民租。如此,德澤加於萬民,民愈勤農,大富樂矣。」 上復從其言,詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟,歳一不登,民有飢色;是從事焉尚寡而吏未加務。吾詔書數下,歳勸民種樹而功未興,是吏奉吾詔不勤而勸民不明也。且吾農民甚苦而吏莫之省,將何以功焉!其賜農民今年租税之半。」 3. 十三年(甲戌、前一六七) 1春,二月,甲寅,詔日;「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以供祭服;其具禮儀。」 1. 2初,秦時祝官有祕祝,即有災祥,輒移過於下。夏,詔曰:「蓋聞天道,禍自怨起而福繇德興,百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過於下,以彰吾之不德,朕甚弗取。其除之!」 2. 3齊太倉令淳於意有罪,當刑,詔獄逮繋長安。其少女緹縈上書曰:「妾父爲吏,齊中皆稱其廉平;今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道無繇也。妾願沒入爲官婢,以贖父刑罪,使得自新。」 天子憐悲其意,五月,詔曰:「詩曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行爲善而道無繇至,朕甚憐之!夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈爲民父母之意哉!其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不記逃,有年而免。具爲令!」丞相張蒼、御史大夫馮敬奏請定律曰:「諸當髡者爲城旦、舂;當黥者髡鉗爲城旦、舂;當劓者笞三百;當斬左止者笞五百;當斬右止及殺人先自告及吏坐受賕、枉法、守縣官財物而即盜之、已論而復有笞罪皆棄市。罪人獄已決爲城旦、舂者,各有歳數以免。」制曰:「可。」是時,上既躬修玄默,而將相皆舊功臣,少文多質。懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失,化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歳增,戸口浸息。風流篤厚,禁罔疏闊,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風焉。 3. 4六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租税之賦,是爲本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租税。」 4. 十四年(乙亥、前一六六) 1冬,匈奴老上單于十四萬騎入朝那、蕭關,殺北地都尉卬,虜人民畜産甚多;遂至彭陽,使奇兵入燒回中宮,候騎至雍甘泉。帝以中尉周舍、郎中令張武爲將軍,發車千乘、騎卒十萬軍長安旁,以備胡寇;而拜昌侯盧卿爲上郡將軍,甯侯魏□爲北地將軍,隆慮侯周灶爲隴西將軍,屯三郡。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒,自欲征匈奴。羣臣諫,不聽;皇太后固要,上乃止。於是以東陽侯張相如爲大將軍,成侯董赤、内史欒布皆爲將軍,撃匈奴。單于留塞内月餘,乃去。漢逐出塞即還,不能有所殺。 1. 2上輦過郎署,問郎署長馮唐曰:「父家安在?」對曰:「臣大父趙人,父徙代。」上曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數爲我言趙將李齊之賢,戰於巨鹿下。今吾毎飯意未嘗不在巨鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之爲將也。」上搏髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧爲將!吾豈憂匈奴哉!」唐曰:「陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也。」上怒,起,入禁中,良久,召唐,讓曰:「公奈何衆辱我,獨無間處乎!」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」上方以胡寇爲意,乃卒復問唐曰:「公何以知吾不能用廉頗、李牧也?」唐對曰:「臣聞上古王者之遣將也,跪而推轂,曰:『閫以内者,寡人制之;閫以外者,將軍制之。』軍功爵賞皆決於外,歸而奏之,此非虚言也。臣大父言:李牧爲趙將,居邊,軍市之租,皆自用饗士;賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其智能;選車千三百乘,彀騎萬三千,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑強秦,南支韓、魏。當是之時,趙幾霸。其後會趙王遷立,用郭開讒,卒誅李牧,令顏聚代之;是以兵破士北,爲秦所禽滅。今臣竊聞魏尚爲雲中守,其軍市租盡以饗士卒,私養錢五日一椎牛,自饗賓客、軍吏、舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。虜曾一入,尚率車騎撃之,所殺甚衆。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍、伍符!終日力戰,斬首捕虜,上功幕府,一言不相應,文吏以法繩之,其賞不行,而吏奉法必用。臣愚以爲陛下賞太輕,罰太重。且雲中守魏尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。由此言之,陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也!」上説。是日,令唐持節赦魏尚,復以爲雲中守,而拜唐爲車騎都尉。 2. 3春,詔廣增諸祀壇場、珪幣,且曰:「吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不爲百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專饗獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈!」 3. 4是歳,河間文王辟強薨。 4. 5初,丞相張蒼以爲漢得水德,魯人公孫臣以爲漢當土德,其應,黄龍見;蒼以爲非是,罷之。 5. 十五年(丙子、前一六五) 1春,黄龍見成紀。帝召公孫臣,拜爲博士,與諸生申明土德,草改暦、服色事。張蒼由此自絀。 1. 2夏,四月,上始幸雍,郊見五帝,赦天下。 2. 3九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良、能直言極諫者,上親策之。太子家令晁錯對策高第,擢爲中大夫。錯又上言宜削諸侯及法令可更定者書凡三十篇。上雖不盡聽,然奇其材。 3. 4是歳,齊文王則、河間哀王福皆薨,無子,國除。 4. 5趙人新垣平以望氣見上,言長安東北有神氣,成五采,於是作渭陽五帝廟。 5. 十六年(丁丑、前一六四) 1夏,四月,上郊祀上帝於渭陽五帝廟。於是貴新垣平至上大夫,賜累千金;而使博士、諸生刺六經中作王制,謀議巡狩、封禪事。又於長門道北立五帝壇。 1. 2徙淮南王喜復爲城陽王,又分齊爲六國;丙寅,立齊悼惠王子在者六人:楊虚侯將閭爲齊王,安都侯志爲濟北王,武成侯賢爲菑川王,白石侯雄渠爲膠東王,平昌侯卬爲膠西王,扐侯辟光爲濟南王。淮南厲王子在者三人:阜陵安爲淮南王,安陽侯勃爲衡山王,陽周侯賜爲廬江王。 2. 3秋,九月,新垣平使人持玉杯上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已,視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言:「臣侯日再中。」居頃之,日卻,復中。於是始更以十七年爲元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中。今河決,通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎!兆見,不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。 3. 後元年(戊寅、前一六三) 1冬,十月,人有上書告新垣平「所言諧詐也」;下吏治,誅夷平。是後,上亦怠於改正、服、鬼神之事,而渭陽、長門五帝,使祠官領,以時致禮,不往焉。 1. 2春,三月,孝惠皇后張氏薨。 2. 3詔曰:「間者數年不登,又有水旱、疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎:意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或廢,無用之事或多與?何其民食之寡乏也?夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,爲酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者衆與?細大之義,吾未得其中,其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之。有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱!」 3. 二年(己卯、前一六二) 1夏,上行幸雍棫陽宮。 1. 2六月,代孝王參薨。 2. 3匈奴連歳入邊,殺略人民、畜産甚多;雲中、遼東最甚,郡萬餘人。上患之,乃使使遺匈奴書。單于亦使當戸報謝,復與匈奴和親。 3. 4八月,戊戌,丞相張蒼免。帝以皇后弟竇廣國賢,有行,欲相之,曰:「恐天下以吾私廣國,久念不可。」而高帝時大臣,餘見無可者。御史大夫梁國申屠嘉,故以材官蹶張從高帝,封關内侯;庚午,以嘉爲丞相,封故安侯。嘉爲人廉直,門不受私謁。是時,太中大夫鄧通方愛幸,賞賜累巨萬。帝嘗燕飲通家,其寵幸無比。嘉嘗入朝,而通居上旁,有怠慢之禮,嘉奏事畢,因言曰:「陛下幸愛羣臣,則富貴之;至於朝廷之禮,不可以不肅。」上曰:「君勿言,吾私之。」罷朝,坐府中,嘉爲檄召通詣丞相府,不來,且斬通。通恐,入言上;上曰:「汝第往,吾今使人召若。」通詣丞相,免冠、徒跣,頓首謝嘉。嘉坐自如,弗爲禮,責曰:「夫朝廷者,高帝之朝廷也。通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。吏!今行斬之!」通頓首,首盡出血,不解。上度丞相已困通,使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之!」鄧通既至,爲上泣曰:「丞相幾殺臣!」 4. 三年(庚辰、前一六一) 1春,二月,上行幸代。 1. 2是歳,匈奴老上單于死,子軍臣單于立。 2. 四年(辛巳、前一六〇) 1夏,四月,丙寅晦,日有食之。 1. 2五月,赦天下。 2. 3上行幸雍。 3. 五年(壬午、前一五九) 1春,正月,上行幸隴西;三月,行幸雍;秋,七月,行幸代。 1. 六年(癸未、前一五八) 1冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中,所殺略甚衆,烽火通於甘泉、長安。以中大夫令免爲車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意爲將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河内太守周亞夫爲將軍,次細柳;宗正劉禮爲將軍,次霸上,祝茲侯徐厲爲將軍,次棘門;以備胡。上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,鋭兵刃,彀弓弩持滿,天子先驅至,不得入。先驅曰:「天子且至!」軍門都尉曰;「將軍令曰:『軍中聞將軍令,不聞天子之詔!』」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入營勞軍。」亞夫乃傳言「開壁門」。壁門士請車騎曰:「將軍約:軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介冑之士不拜,請以軍禮見。」天子爲動,改容,式車,使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,羣臣皆驚。上曰:「嗟乎,此眞將軍矣!曩者霸上、棘門軍若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯耶!」稱善者久之。月餘,漢後至邊,匈奴亦遠塞,漢兵亦罷。乃拜周亞夫爲中尉。 1. 2夏,四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢;弛山澤,減諸服御,損郎吏員;發倉庾以振民;民得賣爵。 2. 七年(甲申、前一五七) 1夏,六月,已亥,帝崩于未央宮。遺詔曰:「朕聞之:蓋天下萬物之萌生,靡有不死。死者,天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,咸嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無在佐百姓;今崩,又使重服久臨以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絶鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身托於天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方内安寧,靡有兵革。朕既不敏,常畏過行以羞先帝之遺德,惟年之久長,懼於不終。今乃幸以天年得復供養於高廟,其奚哀念之有!其令天下吏民:令到,出臨三日,皆釋服;毋禁取婦、嫁女、祠祀、飲酒、食肉,自當給喪事服臨者,皆無跣;絰帶毋過三寸;毋布車及兵器;毋發民哭臨宮殿中;殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷;非旦夕臨時,禁毋得擅哭臨;已下棺,服大功十五日,小功十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。佈告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,毋有所改。歸夫以下至少使。」乙巳,葬霸陵。 帝即位二十三年,宮室、苑囿、車騎、服御,無所增益;有不便,輒馳以利民。嘗欲作露台,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之産也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台爲!」身衣弋綈;所幸愼夫人,衣不曳地;帷帳無文繡;以示敦樸,爲天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金、銀、銅、錫爲飾,因其山,不起墳。呉王詐病不朝,賜以幾杖。羣臣袁盎等諫説雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜以愧其心;專務以德化民。是以海内安寧,家給人足,後世鮮能及之。 1. 2丁未,太子即皇帝位,尊皇太后薄氏曰太皇太后,皇后曰皇太后。 2. 3九月,有星孛于西方。 3. 4是歳,長沙王呉著薨,無子,國除。 初,高祖賢文王芮,制誥御史:「長沙王忠,其令著令。」至孝惠、高后時,封芮庶子二人爲列侯,傳國數世絶。 4. 孝景皇帝上 元年(乙酉、前一五六) 1冬,十月,丞相嘉等奏:「功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟,宜爲帝者太祖之廟;孝文皇帝廟,宜爲帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟,郡國諸侯宜各爲孝文皇帝立太宗之廟。」制曰:「可。」 1. 2夏,四月,乙卯,赦天下。 2. 3遣御史大夫靑至代下與匈奴和親。 3. 4五月,復收民田半租,三十而税一。 4. 5初,文帝除肉刑,外有輕刑之名,内實殺人;斬右止者又當死;斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。是歳,下詔曰:「加笞、重罪無異;幸而不死,不可爲人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」 5. 6以太中大夫周仁爲郎中令,張歐爲廷尉,楚元王子平陸侯禮爲宗正,中大夫晁錯爲左内史。仁始爲太子舍人,以廉謹得幸。張歐亦事帝於太子宮,雖治刑名家,爲人長者,帝由是重之,用爲九卿。歐爲吏未嘗言按人,專以誠長者處官;官屬以爲長者,亦不敢大欺。 6. 二年(丙戌、前一五五) 1冬,十二月,有星孛于西南。 1. 2令天下男子年二十始傅。 2. 3春,三月,甲寅,立皇子德爲河間王,閼爲臨江王,餘爲淮陽王,非爲汝南王,彭祖爲廣川王,發爲長沙王。 3. 4夏,四月,壬午,太皇太后薄氏崩。 4. 5六月,丞相申屠嘉薨。時内史晁錯數請間言事,輒聽,寵幸傾九卿,法令多所更定。丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯爲内史,東出不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣也。嘉聞錯穿宗廟垣,爲奏,請誅錯。客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸上。至朝,嘉請誅内史錯。上曰:「錯所穿非眞廟垣,乃外□耎垣,故冗官居其中;且又我使爲之,錯無罪。」丞相嘉謝。罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯乃請之,爲錯所賣。」至舍,因歐血而死。錯以此愈貴。 5. 6秋,與匈奴和親。 6. 7八月,丁未,以御史大夫開封侯陶靑爲丞相。丁巳,以内史晁錯爲御史大夫。 7. 8彗星出東北。 8. 9秋,衡山雨雹,大者五寸,深者二尺。 9. 10熒惑逆行守北辰,月出北辰間;歳星逆行天廷中。 10. 11梁孝王以竇太后少子故,有寵,王四十餘城,居天下膏腴地。賞賜不可勝道,府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。築東苑,方三百餘里,廣睢陽城七十里,大治宮室,爲覆道,自宮連屬於平台三十餘里。招延四方豪俊之士,如呉人枚乘、嚴忌,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽,蜀人司馬相如之屬皆從之游。毎入朝,上使使持節以乘輿駟馬迎梁王於關下。既至,寵幸無比,入則侍上同輦,出則同車,射獵上林中。因上疏請留,且半歳。梁侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。 11.
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資治通鑑巻第三十五 漢紀二十七 孝哀皇帝下 元壽元年(己未、前二) 1春,正月,辛丑朔,詔將軍、中二千石舉明習兵法者各一人,因就拜孔郷侯傅晏爲大司馬、衞將軍,陽安侯丁明爲大司馬、票騎將軍。 1.春、正月、???、将軍に命令し、二千石の中から兵法に明らかで慣れた者各一人を挙げさせ、よって孔郷侯傅晏を大司馬、衛将軍、陽安侯丁明を大司馬、票騎将軍に就かせる。 2是日,日有食之。上詔公卿大夫悉心陳過失;又令舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。 丞相嘉奏封事曰:「孝元皇帝奉承大業,温恭少欲,都内錢四十萬萬。嘗幸上林,後宮馮貴人從臨獸圈,猛獸驚出,貴人前當之,元帝嘉美其義,賜錢五萬。掖庭見親,有加賞賜,屬其人勿衆謝。示平惡偏,重失人心,賞賜節約。是時外戚貲千萬者少耳,故少府、水衡見錢多也。雖遭初元、永光凶年饑饉,加以西羌之變,外奉師旅,内振貧民,終無傾危之憂,以府臧内充實也。孝成皇帝時,諫臣多言燕出之害,及女寵專愛,耽於酒色,損德傷年,其言甚切,然終不怨怒也。寵臣淳於長、張放、史育,育數貶退,家貲不滿千萬,放斥逐就國,長榜死於獄,不以私愛害公義,故雖多内譏,朝廷安平,傳業陛下。 2、??、日食あり。公卿大夫の悉心陳が過失を申し上げ;又賢良で方正の才能の直言者を各1名挙げるよう命令した。天下に大赦した。 2a陛下在國之時,好詩、書,上儉節,征來,所過道上稱誦德美,此天下所以回心也。初即位,易帷帳,去錦繡,乘輿席縁綈繒而已。共皇寢廟比當作,憂閔元元,惟用度不足,以義割恩,輒且止息,今始作治。而駙馬都尉董賢亦起官寺上林中,又爲賢治大第,開門郷北闕,引王渠灌園池,使者護作,賞賜吏卒,甚於治宗廟。賢母病,長安廚給祠具,道中過者皆飲食。爲賢治器,器成,奏御乃行,或物好,特賜其工。自貢獻宗廟、三宮,猶不至此。賢家有賓婚及見親,諸官並共,賜及倉頭、奴婢人十萬錢。使者護視、發取市物,百賈震動,道路讙嘩,羣臣惶惑。詔書罷苑,而以賜賢二千餘頃,均田之制從此墮壞。奢僭放縱,變亂陰陽,災異衆多,百姓訛言,持籌相驚,天惑其意,不能自止。陛下素仁智愼事,今而有此大譏。 2b 孔子曰:『危而不持,顛而不扶,則將安用彼相矣!』臣嘉幸得備位,竊内悲傷不能通愚忠之信;身死有益於國,不敢自惜。唯陛下愼己之所獨郷,察衆人之所共疑!往者寵臣鄧通、韓嫣,驕貴失度,逸豫無厭,小人不勝情慾,卒陷罪辜,亂國亡軀,不終其祿,所謂『愛之適足以害之』者也!宜深覽前世,以節賢寵,全安其命。」上由是於嘉浸不説。 2c 前涼州刺史杜鄴以方正對策曰:「臣聞陽尊陰卑,天之道也。是以男雖賤,各爲其家陽,女雖貴,猶爲其國陰。故禮明三從之義,雖有文母之德,必繋於子。昔鄭伯隨姜氏之欲,終有叔段簒國之禍;周襄王内迫惠後之難,而遭居鄭之危。漢興,呂太后權私親屬,幾危社稷。竊見陛下約儉正身,欲與天下更始,然嘉瑞未應,而日食、地震。案春秋災異,以指象爲言語。日食,明陽爲陰所臨。坤以法地,爲土,爲母,以安靜爲德;震,不陰之效也。占像甚明,臣敢不直言其事!昔曾子問從令之義,孔子曰:『是何言與!』善閔子騫守禮不苟從親,所行無非理者,故無可間也。今諸外家昆弟,無賢不肖,並侍帷幄,布在列位,或典兵衞,或將軍屯,寵意並於一家,積貴之勢,世所希見、所希聞也。至乃並置大司馬、將軍之官,皇甫雖盛,三桓雖隆,魯爲作三軍,無以甚此!當拜之日,晻然日食。不在前後,臨事而發者,明陛下謙遜無專,承指非一,所言輒聽,所欲輒隨,有罪惡者不坐辜罰,無功能者畢受官爵,流漸積畏,過在於是,欲令昭昭以覺聖朝。昔詩人所刺,春秋所譏,指象如此,殆不在它。由後視前,忿邑非之。逮身所行,不自鏡見,則以爲可,計之過者。願陛下加致精誠,思承始初,事稽諸古,以厭下心,則黎庶羣生無不説喜,上帝百神收還威怒,禎祥福祿,何嫌不報!」 2d 上又徴孔光詣公車,問以日食事,拜爲光祿大夫,秩中二千石,給事中,位次丞相。 初,王莽既就國,杜門自守。其中子獲殺奴,莽切責獲,令自殺。在國三歳,吏民上書冤訟莽者百數。至是,賢良周護、宋崇等對策,復深訟莽功德。上於是征莽及平阿侯仁還京師,侍太后。 2. 3董賢因日食之變以沮傅晏、息夫躬之策,辛卯,上收晏印綬,罷就第。 3. 4丁巳,皇太太后傅氏崩,合葬渭陵,稱孝元傅皇后。 4. 5丞相、御史奏息夫躬、孫寵等罪過,上乃免躬、寵官,遣就國;又罷侍中、諸曹、黄門郎數十人。 鮑宣上書曰:「陛下父事天,母事地,子養黎民。即位已來,父虧明,母震動,子訛言相驚恐。今日食於三始,誠可畏懼。小民正朔日尚恐毀敗器物,何況於日虧乎!陛下深内自責,避正殿,舉直言,求過失,罷退外親及旁仄素餐之人,征拜孔光爲光祿大夫,發覺孫寵、息夫躬過惡,免官遣就國,衆庶歙然,莫不説喜。天人同心,人心説則天意解矣。乃二月丙戌,白虹干日,連陰不雨,此天下憂結未解,民有怨望未塞者也。侍中、駙馬都尉董賢,本無葭莩之親,但以令色、諛言自進,賞賜無度,竭盡府臧,併合三第,尚以爲小,復壞暴室。賢父、子坐使天子使者,將作治第,行夜吏卒皆得賞賜,上塚有會,輒太官爲供。海内貢獻,當養一君,今反盡之賢家,豈天意與民意邪!天不可久負,厚之如此,反所以害之也!誠欲哀賢,宜爲謝過天地,解讎海内,免遣就國,收乘輿器物還之縣官,如此,可以父子終其性命;不者,海内之所仇,未有得久安者也。孫寵、息夫躬不宜居國,可皆免,以視天下。復征何武、師丹、彭宣、傅喜,曠然使民易視,以應天心,建立大政,興太平之端。」上感大異,納宣言,征何武、彭宣;拜鮑宣爲司隸。 5. 6上託傅太后遺詔,令太皇太后下丞相、御史,益封董賢二千戸,賜孔郷侯、汝昌侯、陽新侯國。王嘉封還詔書,因奏封事諫曰:「臣聞爵祿、土地,天之有也。書云:『天命有德,五服五章哉!』王者代天爵人,尤宜愼之。裂地而封,不得其宜,則衆庶不服,感動陰陽,其害疾自深。今聖體久不平,此臣嘉所内懼也。高安侯賢,佞幸之臣,陛下傾爵位以貴之,單貨財以富之,損至尊以寵之,主威已黜,府臧已竭,唯恐不足。財皆民力所爲,孝文皇帝欲起露台,重百金之費,克己不作。今賢散公賦以施私惠,一家至受千金,往古以來,貴臣未嘗有此,流聞四方,皆同怨之。里諺曰:『千人所指,無病而死,』臣常爲之寒心。今太皇太后以永信太后遺詔詔丞相、御史,益賢戸,賜三侯國,臣嘉竊惑。山崩、地動、日食於三朝,皆陰侵陽之戒也。前賢已再封,晏、商再易邑,業縁私橫求,恩已過厚,求索自恣,不知厭足,甚傷尊尊之義,不可以示天下,爲害痛矣!臣驕侵罔,陰陽失節,氣感相動,害及身體。陛下寢疾久不平,繼嗣未立,宜思正萬事,順天人之心,以求福祐,奈何輕身肆意,不念高祖之勤苦,垂立制度,欲傳之於無窮哉!臣謹封上詔書,不敢露見。非愛死而不自法,恐天下聞之,故不敢自劾。」 初,廷尉梁相治東平王雲獄,時冬月未盡二旬,而相心疑雲冤獄,有飾辭,奏欲傳之長安,更下公卿覆治。尚書令鞫譚、僕射宗伯鳳以爲可許。天子以爲相等皆見上體不平,外内顧望,操持兩心,幸雲踰冬,無討賊疾惡主讎之意,免相等皆爲庶人。後數月,大赦,嘉薦「相等皆有材行,聖王有計功除過,臣竊爲朝廷惜此三人。」書奏,上不能平。後二十餘日,嘉封還益董賢戸事,上乃發怒,召嘉詣尚書,責問以「相等前坐不忠,罪惡著聞,君時輒已自劾;今又稱譽,云『爲朝廷惜之』,何也?」嘉免冠謝罪。 事下將軍中朝者,光祿大夫孔光等劾「嘉迷國罔上,不道,請謁者召嘉詣廷尉詔獄。」議郎龔等以爲「嘉言事前後相違,宜奪爵土,免爲庶人。」永信少府猛等以爲「嘉罪名雖應法,大臣括發關械,裸躬就笞,非所以重國,褒宗廟也。」上不聽,三月,詔「假謁者節,召丞相詣廷尉詔獄。」 使者既到,府掾、史涕泣,共和藥進嘉,嘉不肯服。主簿曰:「將相不對理陳冤,相踵以爲故事,君侯宜引決。」使者危坐府門上,主簿復前進藥。嘉引藥杯以撃地,謂官屬曰:「丞相幸得備位三公,奉職負國,當伏刑都市,以示萬衆。丞相豈兒女子邪!何謂咀藥而死!」嘉遂裝,出見使者,再拜受詔;乘吏小車,去蓋,不冠,隨使者詣廷尉。廷尉收嘉丞相、新甫侯印綬,縛嘉載致都船詔獄。上聞嘉生自詣吏,大怒,使將軍以下與五二千石雜治。吏詰問嘉,嘉對曰:「案事者思得實。竊見相等前治東平王獄,不以雲爲不當死,欲關公卿,示重愼,誠不見其外内顧望,阿附爲雲驗,復幸得蒙大赦。相等皆良善吏,臣竊爲國惜賢,不私此三人。」獄吏曰:「苟如此,則君何以爲罪?猶當有以負國,不空入獄矣。」吏稍侵辱嘉,嘉喟然仰天歎曰:「幸得充備宰相,不能進賢、退不肖,以是負國,死有餘責。」吏問賢、不肖主名。嘉曰:「賢:故丞相孔光、故大司空何武,不能進;惡:高安侯董賢父子,佞邪亂朝,而不能退。罪當死,死無所恨!」嘉繋獄二十餘日,不食,歐血而死。 已而上覽其對,思嘉言,會御史大夫賈延免,夏,五月,乙卯,以孔光爲御史大夫。秋,七月,丙午,以光爲丞相,復故國博山侯;又以汜郷侯何武爲御史大夫。上乃知孔光前免非其罪,以過近臣毀短光者,曰:「傅嘉前爲侍中,毀譖仁賢,誣訴大臣,令俊艾者久失其位,其免嘉爲庶人,歸故郡。」 6. 7八月,何武徙爲前將軍。辛卯,光祿大夫彭宣爲御史大夫。 7. 8司隸鮑宣坐摧辱宰相,拒閉使者,無人臣禮,減死髡鉗。 8. 9大司馬丁明素重王嘉,以其死而憐之;九月,乙卯,冊免明,使就第。 9. 10冬,十一月,壬午,以故定陶太傅、光祿大夫韋賞爲大司馬、車騎將軍。己丑,賞卒。 10. 11十二月,庚子,以侍中、駙馬都尉董賢爲大司馬、衞將軍,冊曰:「建爾於公,以爲漢輔!往悉爾心,匡正庶事,允執其中!」是時賢年二十二,雖爲三公,常給事中,領尚書,百官因賢奏事。以父衞尉恭不宜在卿位,徙爲光祿大夫、秩中二千石;弟寬信代賢爲駙馬都尉。董氏親屬皆侍中、諸曹、奉朝請,寵在丁、傅之右矣。 初,丞相孔光爲御史大夫,賢父恭爲御史,事光。及賢爲大司馬,與光並爲三公。上故令賢私過光。光雅恭謹,知上欲尊寵賢。及聞賢當來也,光警戒衣冠出門待,望見賢車乃卻入,賢至中門,光入閣,既下車,乃出,拜謁、送迎其謹,不敢以賓客鈞敵之禮。上聞之,喜,立拜光兩兄子爲諫大夫、常侍。賢由是權與人主侔矣。 是時,成帝外家王氏衰廢,唯平阿侯譚子去疾爲侍中,弟閎爲中常侍。閎妻父中郎將蕭咸,前將軍望之子也,賢父恭慕之,欲爲子寬信求咸女爲婦,使閎言之。咸惶恐不敢當,私謂閎曰:「董公爲大司馬,冊文言『允執其中』,此乃堯禪舜之文,非三公故事,長者見者莫不心懼。此豈家人子所能堪邪!」閎性有知略,聞咸言,心亦悟;乃還報恭,深達咸自謙薄之意。恭歎曰:「我家何用負天下,而爲人所畏如是!」意不説。後上置酒麒麟殿,賢父子、親屬宴飲,侍中、中常侍皆在側,上有酒所,從容視賢,笑曰:「吾欲法堯禪舜,何如?」王閎進曰:「天下乃高皇帝天下,非陛下之有也!陛下承宗廟,當傳子孫於亡窮,統業至重,天子亡戲言!」上默然不説,左右皆恐。於是遣閎出歸郎署。 久之,太皇太后爲閎謝,復召閎還。閎遂上書諫曰:「臣聞王者立三公,法三光,居之者當得賢人。易曰:『鼎折足,覆公餗,』喩三公非其人也。昔孝文皇帝幸鄧通,不過中大夫;武皇帝幸韓嫣,常賜而已,皆不在大位。今大司馬、衞將軍董賢,無功於漢朝,又無肺腑之連,復無名跡高行以矯世,升擢數年,列備鼎足,典衞禁兵,無功封爵,父子、兄弟橫蒙拔擢,賞賜空竭帑藏,萬民喧嘩,偶言道路,誠不當天心也!昔褒神蚖變化爲人,實生褒姒,亂周國,恐陛下有過失之譏,賢有小人不知進退之禍,非所以垂法後世也!」上雖不從閎言,多其年少志強,亦不罪也。 11. 二年(庚申、前一) 1春,正月,匈奴單于及烏孫大昆彌伊秩靡皆來朝,漢以爲榮。是時西域凡五十國,自譯長至將、相、侯、王皆佩漢印綬,凡三百七十六人;而康居、大月氏、安息、罽賓、烏弋之屬,皆以絶遠,不在數中,其來貢獻,則相與報,不督録總領也。自黄龍以來,單于毎入朝,其賞賜錦繡、繒絮,輒加厚於前,以慰接之。單于宴見,羣臣在前,單于怪董賢年少,以問譯。上令譯報曰:「大司馬年少,以大賢居位。」單于乃起,拜賀漢得賢臣。是時上以大歳厭勝所在,捨單于上林苑蒲陶宮,告之以加敬於單于;單于知之,不悅。 1. 2夏,四月,壬辰晦,日有食之。 2. 3五月,甲子,正三公官分職。大司馬、衞將軍董賢爲大司馬;丞相孔光爲大司徒;御史大夫彭宣爲大司空,封長平侯。 3. 4六月,戊午,帝崩于未央宮。 帝睹孝成之世祿去王室,及即位,屢誅大臣,欲強主威以則武、宣。然而寵信讒諂,憎疾忠直,漢業由是遂衰。 太皇太后聞帝崩,即日駕之未央宮,收取璽綬。太后召大司馬賢,引見東箱,問以喪事調度。賢内憂,不能對,免冠謝。太后曰:「新都侯莽,前以大司馬奉送先帝大行,曉習故事,吾令莽佐君。」賢頓首:「幸甚!」太后遣使者馳召莽。詔尚書,諸發兵符節、百官奏事、中黄門、期門兵皆屬莽。莽以太后指,使尚書劾賢帝病不親醫藥,禁止賢不得入宮殿司馬中;賢不知所爲,詣闕免冠徒跣謝。己未,莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰:「賢年少,未更事理,爲大司馬,不合衆心,其收大司馬印綬,罷歸第!」即日,賢與妻皆自殺;家惶恐,夜葬。莽疑其詐死。有司奏請發賢棺,至獄診視,因埋獄中。太皇太后詔「公卿舉可大司馬者」。莽故大司馬,辭位避丁、傅,衆庶稱以爲賢,又太皇太后近親,自大司徒孔光以下,舉朝皆舉莽。獨前將軍何武、左將軍公孫祿二人相與謀,以爲「往時惠、昭之世,外戚呂、霍、上官持權,幾危社稷;今孝成、孝哀比世無嗣,方當選立近親幼主,不宜令外戚大臣持權。親疏相錯,爲國計便。」於是武舉公孫祿可大司馬,而祿亦舉武。庚申,太皇太后自用莽爲大司馬、領尚書事。 太皇太后與莽議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太皇太后所信愛也,莽白以舜爲車騎將軍。秋,七月,遣舜與大鴻臚左咸使持節迎中山王箕子以爲嗣。 莽又白太皇太后,詔有司以皇太后前與女弟昭儀專寵錮寢,殘滅繼嗣,貶爲孝成皇后,徙居北宮。又以定陶共王太后與孔郷侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,徙孝哀皇后退就桂宮,傅氏、丁氏皆免官爵歸故郡,傅晏將妻子徙合浦。獨下詔褒揚傅喜曰:「高武侯喜,姿性端愨,論議忠直,雖與故定陶太后有屬,終不順指從邪,介然守節,以故斥逐就國。傳不雲乎:『歳寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安,位特進,奉朝請。」喜雖外見褒賞,孤立憂懼;後復遣就國,以壽終。莽又貶傅太后號爲定陶共王母,丁太后號曰丁姫。莽又奏董賢父子驕恣奢僭,請收沒入財物縣官,諸以賢爲官者皆免。父恭、弟寬信與家屬徙合浦,母別歸故郡巨鹿。長安中小民歡嘩,郷其第哭,幾獲盜之。縣官斥賣董氏財,凡四十三萬萬。賢所厚吏沛硃詡自劾去大司馬府,買棺衣,收賢屍葬之。莽聞之,以它罪撃殺詡。莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯爲侍中、奉車都尉。諸素所不説者,莽皆傅致其罪,爲請奏草,令邯持與光,以太后指風光。光素畏愼,不敢不上之;莽白太后,輒可其奏。於是劾奏何武、公孫祿互相稱舉,皆免官,武就國。又奏董宏子高昌侯武父爲佞邪,奪爵。又奏南郡太守毋將隆前爲冀州牧,治中山馮太后獄,冤陷無辜,關内侯張由誣告骨肉,中太僕史立、泰山太守丁玄陷人入大辟,河内太守趙昌譖害鄭崇,幸逢赦令,皆不宜處位在中土,免爲庶人,徙合浦。中山之獄,本立、玄自典考之,但與隆連名奏事;莽少時慕與隆交,隆不甚附,故因事擠之。 紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父内敬憚之,畏立從容言太后,令己不得肆意,復令光奏立罪惡:「前知定陵侯淳於長犯大逆罪,多受其賂,爲言誤朝。後白以官婢楊寄私子爲皇子,衆言曰:『呂氏少帝復出。』紛紛爲天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼。力用公正先天下,尚恐不從;今以私恩逆大臣議,如此,羣下傾邪,亂從此起。宜可且遣就國,安後復徴召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。 於是附順莽者拔擢,忤恨者誅滅,以王舜、王邑爲腹心,甄豐、甄邯主撃斷,平晏領機事,劉秀典文章,孫建爲爪牙。豐子尋、秀子棻、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。莽色厲而言方,欲有所爲,微見風采,黨與承其指意而顯奏之。莽稽首涕泣,固推讓,上以惑太后,下用示信於衆庶焉。 4. 5八月,莽復白太皇太后,廢孝成皇后、孝哀皇后爲庶人,就其園。是日,皆自殺。 5. 6大司空彭宣以王莽專權,乃上書言:「三公鼎足承君;一足不任,則覆亂美實。臣資性淺薄,年齒老眊,數伏疾病,昏亂遺忘,願上大司空、長平侯印綬,乞骸骨歸郷里,俟寘溝壑。」莽白太后策免宣,使就國。莽恨宣求退,故不賜黄金、安車、駟馬。宣居國數年,薨。 班固贊曰:薛廣德保縣車之榮,平當逡巡有恥,彭宣見險而止,異乎苟患失之者矣! 6. 7戊午,右將軍王崇爲大司空,光祿勳東海馬宮爲右將軍,左曹、中郎將甄豐爲光祿勳。 7. 8九月,辛酉,中山王即皇帝位,大赦天下。 平帝年九歳,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。莽權日盛,孔光憂懼,不知所出,上書乞骸骨;莽白太后,帝幼少,宜置師傅,徙光爲帝太傅,位四輔,給事中,領宿衞、供養,行内署門戸,省服御食物。以馬宮爲大司徒,甄豐爲右將軍。 8. 9冬,十月,壬寅,葬孝哀皇帝於義陵。 9. 孝平皇帝上 元始元年(辛酉、一) 1春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。於是羣臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周,莽宜賜號曰安漢公,益戸疇爵邑。太后詔尚書具其事。莽上書言:「臣與孔光、王舜、甄豐、甄邯共定策;今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰:「『無偏無黨,王道蕩蕩。』君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚,君其勿辭!」莽復上書固讓數四,稱疾不起。左右白太后,「宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。」二月,丙辰,太后下詔;「以太傅、博山侯光爲太師,車騎將軍、安陽侯舜爲太保,皆益封萬戸。左將軍、光祿勳豐爲少傅,封廣陽侯。皆授四輔之職。侍中、奉車都尉邯封承陽侯。」四人既受賞,莽尚未起。羣臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞,明重元功,無使百僚元元失望!」太后乃下詔:「以大司馬、新都侯莽爲太傅,干四輔之事,號曰安漢公,益封二萬八千戸。」於是莽爲惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」羣臣復爭,太后詔曰:「公自期百姓家給,是以聽之,其令公奉賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽復讓不受,而建言褒賞宗室羣臣。立故東平王雲太子開明爲王;又以故東平思王孫成都爲中山王,奉孝王后;封宣帝耳孫信等三十六人皆爲列侯;太僕王惲等二十五人皆賜爵關内侯。又令諸侯王公、列侯、關内侯無子而有孫若同産子者,皆得以爲嗣;宗室屬未盡而以罪絶者,復其屬;天下令比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。下及庶民鰥寡,恩澤之政,無所不施。 莽既媚説吏民,又欲專斷,知太后老,厭政,乃風公卿奏言:「往者吏以功次遷至二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又,太后春秋高,不宜親省小事。」令太后下詔曰:「自今以來,唯封爵乃以聞,他事安漢公、四輔平決。州牧、二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入,至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱否。」於是莽人人延問,密緻恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。 1. 2置羲和官,秩二千石。 2. 3夏,五月,丁巳朔,日有食之。大赦天下。公卿以下舉敦厚能直言者各一人。 3. 4王莽恐帝外家衞氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗爲成帝后,宜明一統之義,以戒前事,爲後代法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衞姫爲中山孝王后。賜帝舅衞寶、寶弟玄爵關内侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。 扶風功曹申屠剛以直言對策曰:「臣聞成王幼少,周公攝政,聽言下賢,均權布寵,動順天地,舉措不失;然近則召公不説,遠則四國流言。今聖主始免襁褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚,親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。宜亟遣使者征中山太后,置之別宮,令時朝見,又召馮、衞二族,裁與冗職,使得執戟親奉宿衞,以抑患禍之端。上安社稷,下全保傅。」莽令太后下詔曰:「剛所言僻經妄説,違背大義。」罷歸田里。 4. 5丙午,封魯頃公之八世孫公子寬爲褒魯侯,奉周公祀;封褒成君孔霸曾孫均爲褒成侯,奉孔子祀。 5. 6詔:「天下女徒已論,歸家,出雇山錢,月三百。復貞婦,郷一人。大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。」 6. 7秋,九月,赦天下徒。 7. 二年(壬戌、二) 1春,黄支國獻犀牛。黄支在南海中,去京師三萬里。王莽欲耀威德,故厚遺其王,令遣使貢獻。 1. 2越巂郡上黄龍游江中。太師光、大司徒宮等咸稱「莽功德比周公,宜告祠宗廟。」大司農孫寶曰:「周公上聖,召公大賢,尚猶有不相説,著於經典,兩不相損。今風雨未時,百姓不足,毎有一事,羣臣同聲,得無非其美者?」時大臣皆失色。甄邯即時承製罷議者。會寶遣吏迎母,母道病,留弟家,獨遣妻子。司直陳崇劾奏寶,事下三公即訊。寶對曰:「年七十,悖眊,恩衰共養,營妻子,如章。」寶坐免,終於家。 2. 3帝更名衎。 3. 4三月,癸酉,大司空王崇謝病免,以避王莽。 4. 5夏,四月,丁酉,左將軍甄豐爲大司空,右將軍孫建爲左將軍,光祿勳甄邯爲右將軍。 5. 6立代孝王玄孫之子如意爲廣宗王,江都易王孫盱台侯宮爲廣川王,廣川惠王曾孫倫爲廣德王。紹封漢興以來大功臣之後周共等皆爲列侯及關内侯,凡百一十七人。 6. 7郡國大旱,蝗,靑州尤甚,民流亡。王莽白太后,宜衣繒練,頗損膳,以示天下。莽因上書願出錢百萬,獻田三十頃,付大司農助給貧民。於是公卿皆慕效焉,凡獻田宅者二百三十人,以口賦貧民。又起五里於長安城中,宅二百區,以居貧民。莽帥羣臣奏太后,言:「幸賴陛下德澤,間者風雨時,甘露降,神芝生,蓂莢、硃草、嘉禾,休征同時並至。願陛下遵帝王之常服,復太官之法膳,使臣子各得盡歡心,備共養!」莽又令太后下詔,不許。毎有水旱,莽輒素食,左右以白太后,太后遣使者詔莽曰:「聞公菜食,憂民深矣。今秋幸孰,公以時食肉,愛身爲國!」 7. 8六月,隕石于鉅鹿二。 8. 9光祿大夫楚國龔勝、太中大夫琅邪邴漢以王莽專政,皆乞骸骨。莽令太后策詔之曰:「朕愍以官職之事煩大夫,大夫其修身守道,以終高年。」皆加優禮而遣之。 9. 10梅福知王莽必簒漢祚,一朝棄妻子去,不知所之。其後,人有見福於會稽者,變姓名爲呉市門卒云。 10. 11秋,九月,戊申晦,日有食之,赦天下徒。 11. 12遣執金吾候陳茂諭説江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。 12. 13王莽欲悅太后以威德至盛,異於前,乃風單于令遣王昭君女須卜居次雲入侍太后,所以賞賜之甚厚。 13. 14車師後王國有新道通玉門關,往來差近,戊己校尉徐普欲開之。車師後王姑句以當道供給使者,心不便也。普欲分明其界,然後奏之,召姑句使證之;不肯,繋之。其妻股紫陬謂姑句曰:「前車師前王爲都護司馬所殺,今久繋必死,不如降匈奴!」即馳突出高昌壁,入匈奴。又去胡來王唐兜與赤水羌數相寇,不勝,告急都護,都護但欽不以時救助。唐兜困急,怨欽,東守玉門關;玉門關不内,即將妻子、人民千餘人亡降匈奴。單于受,置左谷蠡地,遣使上書言状,曰:「臣謹已受。」詔遣中郎將韓隆等使匈奴,責讓單于;單于叩頭謝罪,執二虜還付使者。詔使中郎將王萌待於西域惡都奴界上。單于遣使送,因請其罪;使者以聞。莽不聽,詔會西域諸國王,陳軍斬姑句、唐兜以示之。乃造設四條,中國人亡入匈奴者,烏孫亡降匈奴者,西域諸國佩中國印綬降匈奴者,烏桓降匈奴者,皆不得受。遣中郎將王駿、王昌、副校尉甄阜、王尋使匈奴,班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行;因收故宣帝所爲約束封函還。時莽奏令中國不得有二名,因使使者以風單于,宜上書慕化,爲一名,漢必加厚賞。單于從之,上書言:「幸得備籓臣,竊樂太平聖制。臣故名囊知牙斯,今謹更名曰知。」莽大説,白太后,遣使者答諭,厚賞賜焉。 14. 15莽欲以女配帝爲皇后以固其權,奏言:「皇帝即位三年,長秋宮未建,掖廷媵未充。乃者國家之難,本從無嗣,配取不正,請考論五經,定取後禮,正十二女之義,以廣繼嗣,博采二王后及周公、孔子世、列侯在長安者適子女。」事下有司,上衆女名,王氏女多在選中者,莽恐其與己女爭,即上言:「身無德,子材下,不宜與衆女並采。」太后以爲至誠,乃下詔曰:「王氏女,朕之外家,其勿采。」庶民、諸生、郎吏以上守闕上書者日千餘人,公卿大夫或詣廷中,或伏省戸下,咸言:「安漢公盛勳堂堂若此,今當立後,獨奈何廢公女,天下安所歸命!願得公女爲天下母!」莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生,而上書者愈甚。太后不得已,聽公卿采莽女。莽復自白:「宜博選衆女。」公卿爭曰:「不宜采諸女以貳正統。」莽乃白:「願見女。」 15.
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か 名前 読み 蒯越 かいえつ かいえつ 字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・蒯通の子孫。蒯良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、蒯越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。 建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。蒯越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は蒯越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。 建安19年(214年)に死去。 蒯良 かいりょう かいりょう 字は子柔。荊州南郡中盧侯国の人。同郷同姓の蒯越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。 劉表が荊州刺史として赴任した際、蒯越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談される。これに蒯良は「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は蒯良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」としたが、蒯越の進言の方をとり、荊州を統一した。 『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、その後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。 賈逵 かき かき 本名は衢、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。 司徒曹操の招きを受け、司空の掾(属官)となり、議郎となって司隷の軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操により弘農太守の代理に任命され、曹操と対面した。曹操は賈逵を気に入り、太守が皆賈逵のようであれば心配ごとはない、とまで言った。 曹丕が魏王になると、賈逵は鄴の令となり、やがて魏郡の太守に昇進した。曹丕が遠征した際は丞相主簿祭酒に任命され随行し、厳しく軍律を履行し、譙についたときに豫州刺史に任命された。賈逵は豫州の治政が緩んでいたのを見て、官吏の綱紀粛正につとめ、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。関内侯に封じられた。 豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と防備の充実に励んだ。中でも特筆すべきは二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれている。 その後、病気にかかって危篤に陥り急死した。粛侯と諡された。 華歆 かきん かきん 字は子魚。諡は敬。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。『三国志』魏志に伝がある。 華歆の政治は簡潔で公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた揚州刺史の劉繇が没すると、その家臣達は華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に任命されることは良くないとしてこれを拒絶したという。 孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知って隠士のかぶる頭巾をかぶって降伏し、孫策も華歆の声望を知っていたため彼を上客として礼遇した(具体的な経緯については『呉歴』、『譜叙』、『江表伝』)。孫策が死ぬと、孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から呼び出された。孫権は引きとめたが、華歆は孫権と曹操との国交がようやく出来たばかりだから孫権のために働かさせてくれるよう頼み込んだため、孫権は喜んで中央へ赴かさせた。出発のときは数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別にしるしを付けておき、いよいよ出発するときになって、賓客達にすべて送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆した。 曹操が孫権を征伐するときには華歆が軍師に求められた。建安21年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕(文帝)が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕が皇帝として即位すると司徒に叙せられた。 華歆は魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝はこれを賞した。 太和5年(231年)に病死し敬侯と諡された。『魏書』によると75歳であったという 賈詡 かく かく 字は文和。武威郡姑臧県の人。董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍した。 董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。献帝が長安から出ると李傕に印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨は内心で賈詡に実権を奪われることを恐れており、これを察した賈詡は、南陽にいる張繍の招きに応じ、彼に仕えることにした。 197年(建安2年)、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。この際、曹操は張繍の義理の族母(おば)を妾にし、更に張繍を暗殺しようとした。これを察知した張繍は反乱を決意した。張繍は賈詡の計略に従い、完全武装の張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらい、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた。 199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繍に使者をよこして味方に引き入れようとした。張繍がこれに応じようとすると、賈詡は袁紹からの使者を追い返し、張繍に曹操に降るよう進言した。張繍が「袁紹の方が曹操より強大だし、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ、味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操ならば個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。 曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。 220年(建安25年)、曹丕が曹操の後を継いで魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命された。曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝に即位した後も、筆頭の重臣として厚遇された。 223年(黄初4年)、77歳で病死した。 郭嘉 かくか かくか 字は奉孝。郭奕の父、頴川の人。 郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが、仕官せずに去っていった。その後、郭嘉と同じく頴川の出身だった荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。貞侯と謚された。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったが。郭嘉はわしと軍略を論じるときは、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼のことを忘れることができようか」と嘆いた。『傅子』によれば、その死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」とも言った。 郭汜 かくし かくし 郭阿多との記述もあり、幼名か字が阿多である。郭多とも郭氾とも言われることもある。董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。 192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。 裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、敗れたとされる。 献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった。」 194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。 同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争っているのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、献帝を捕らえる事は出来なかった。 その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。 郭図 かくと かくと 字は公則。豫州潁川郡の人。 建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張する。袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。 建安5年(200年)10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。一方、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃のことを讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた。 建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴した。これに対して郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が三男の袁尚を推戴し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。 次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。 曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返す。しかし、それが原因で曹操は袁譚を盟約違反と非難し、両軍は再び交戦した。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 夏侯玄 かこうげん かこうげん 字は太初。夏侯尚の子。 20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、明帝の不興を買って羽林監に左遷された。 正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。 249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。 中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。 夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという。 華陀 かだ かだ 本籍は沛国譙県(現在の河南省永城市)で、ペルシア系。字は元化(元方)。「華陀」とも書く。「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。本名は不明。 徐州で学問し、経書を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者とも言われている。 その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って、二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず、夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。 韓浩 かんこう かんこう 字は元嗣。養子は韓栄。司隷河内郡の人。 後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守であった王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じく韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。 武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。 建安20年(215年)、漢中の張魯討伐に従軍し、張魯を破った後、漢中を統括する司令官として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。 その功で近衛隊の指揮者となり、列侯に封じられた。のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだ。彼には子がなかったので、一族の韓栄が養子として後を継いだ。 簡雍 かんよう かんよう 元の本姓は“耿”だったが、幽州では“簡”と発音されていたので、改姓した[1]。 同郷出身の劉備とは若い頃からの旧知の仲であった。早い時期から常に劉備に随伴してともに各地を転々とした。劉備が荊州に入ると孫乾、糜竺とともに従事中郎となり、話し相手になったり使者を務めたりした。 劉備が益州に入ると、劉璋にその人柄を愛された。後に、劉備と劉璋が対立すると、成都で抵抗する劉璋への降伏勧告の使者となった。劉璋は説得に応じ、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に臣従した。 益州に入った劉備から昭徳将軍に任命され、糜竺の次で孫乾と並ぶ待遇を受けたという。 簡雍は傲慢で無頓着な性格で、劉備が出席する席でもだらしない振る舞いを止めず、諸葛亮達に対しても遠慮をせず、自分だけ長椅子を占領した上で寝そべったまま談笑をしたりした。一方で、機智に富んだ性格でもあり、劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、ユーモアを交えてこれを諌め、劉備を笑わせるとともに、禁令を止めさせている。 簡雍の没した時期は不明だが、219年に劉備を漢中王に推挙した群臣達の中にも、220年に劉備を皇帝に擁立した群臣達の中にも簡雍の名は見えない。 劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。 闞沢 かんたく かんたく 字は徳潤。会稽郡山陰県の人。『三国志』呉志に伝がある。 農民の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、一冊の本を書き写したときにはその内容のすべてを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。暦にも通じ、著書に『乾象暦注』がある。 孫権とは学問についてざっくばらんに語り合う仲であり、孫権に『過秦論』を読むようすすめたこともある。孫権は闞沢に子の孫和の勉強を見るよう依頼しており(「呉主五子伝」)、242年に孫和が太子になると、薛綜達と共にその教育係(太子太傅)となった。243年に死去。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかった。 謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこともせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかった(「薛綜伝」)。政治においては礼や律、和を重んじ、呂壱のような奸臣や不正を働いた役人にも厳罰で臨むことに反対した。 甘夫人 かんふじん かんふじん 劉備の側室。父母は不明。沛国の人。劉禅の母。 194年、劉備が予州刺史として小沛に移住したころ、妻とした。当時の正妻は糜夫人(糜竺・糜芳の妹)であり、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。 207年、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。208年、曹操の軍勢が南下して、劉備を追撃し当陽の長坂で追いつくと、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。そのとき武将の趙雲が劉禅を抱き、甘夫人を保護したため難を免れた。しかし甘夫人は間もなく亡くなり、南郡に埋葬された。 222年、甘夫人に皇思夫人と諡して、蜀に移葬することになった。しかし柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し、甘夫人の子である劉禅が即位したため、丞相の諸葛亮は、太常の頼恭らと諡号を検討して、甘夫人に昭烈皇后と諡し劉備と恵陵に合葬した。 なお厳密には、「昭烈」は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて「昭烈帝の皇后」という格式を表すものである。このため、自身に「穆」と諡された呉夫人は、『蜀書』において「穆皇后」と表記され、自身に諡のない甘夫人は「甘皇后」と表記されるのである。 管輅 かんろ かんろ 字は公明。平原の人。 管輅は占いによって先を見通す能力があったと言われ、そのことは『三国志』「方技伝」において記録されている。 管輅は幼少期から星を見るのが好きで、成人してからは易経などの勉学に励んだ。そのため、占師として不思議な能力が身についたと言われている。だが、素性の怪しい者と平気で付き合う一面があったため、彼を慕う人物は少なかった。ただし、彼はいつも素直な心で人に接したため、決して嫌われていたわけではなかったという。また、犯罪が起こると犯人を言い当てたため、やがて彼の回りから犯罪が絶えたという。さらに、射覆(器の中に物を入れて中身を当てさせる遊び)をするとほとんど間違いなく中身を言い当てた。 248年12月28日、曹爽の側近として羽振りをきかせていた何晏に招待された。何晏は三公に出世できるかと質問し、さらに「蠅が数十匹、鼻の頭にたかって、追っても逃げていかないという夢を見たが、何を意味しているのだろう」と問うた。管輅は「鼻はあなたの地位を表すものです。ところが、そこに蠅という醜悪なものが、寄ってまいりました。これは、険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り傲るものは滅びるという徴です」と警告した。 帰宅してから舅にこのことを話すと、舅は発言が明け透け過ぎると責めた。管輅は「死人と話をしているのに、何を恐れる必要がありましょうや」と言ったので、舅は怒り、気が狂ったのではないかと思った。ところが、年が明けて十日もしないうちに何晏たちが司馬懿に殺されたので、舅も敬服したという。『管輅別伝』によると、管輅は何晏について「彼はちっぽけな巧みさを才能にしていた」と評している。 正元2年(255年)、管辰は「大将軍(司馬昭)はあなたに厚意を持っていますから、富貴な身分が望めますね」と言った。しかし、管輅は自分の寿命が47歳か48歳のころに尽きるであろうと予言した。そして予言通り、翌256年2月、48歳のときに病死している(但し、管輅伝の本文中には「私の運勢は寅にあり、…」とも記述されており、その通りであるならば管輅は建安15年(210年)生まれであり、享年は47になると裴松之は注で述べている)。 姜維 きょうい きょうい 字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。 228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価している。汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。 253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。 姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。 262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。 降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。 橋玄 きょうげん きょうげん 字は公祖。梁国睢陽県の人。 時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。 周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。この一件で橋玄は世に名を著した。 桓帝の末期、大将軍と三公府の推挙によって度遼将軍・仮黄鉞となった。任地に至ると、諸将を率いて高句麗の伯固らを討ち破って敗走させた。三年の在職の間に辺境は安静となった。 霊帝の時代になると呼び戻されて河南尹となり、その後は九卿・三公を歴任した。光和元年(178年)、太尉となって数か月で病のために免じられ、太中大夫を拝命して自宅で医者に掛かった。光和6年(183年)に死去。享年75歳。橋玄は剛直性急で大仰な礼儀を用いなかったが、下位の士人には恭謙で、宗族の中に橋玄の地位を利用して高位に昇った者はいなかった。橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。世論はこれを称賛した。 橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。 橋瑁 きょうぼう きょうぼう 字は元偉。豫州梁国睢陽県の出身。文献によっては喬瑁と記されていることもある。『後漢書』、『三国志』にその名が散見される。 武帝紀の引く『英雄記』によると、太尉であった橋玄の一族とされるが、子の世代にあたる人物であるというのみで、続柄は明らかではない。兗州刺史を務めたことがあり、威厳と恩情を兼ね備えていたとされる。やがて東郡太守となる。 永漢元年(189年、大将軍何進は十常侍と対立すると、各地の軍を呼び寄せようとし、橋瑁にもその命令が下り、橋瑁は成皋の地に軍を駐屯させた(『後漢書』)。 何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。初平元年(190年)、董卓に反対する関東の諸侯が挙兵する(反董卓連合)と、橋瑁は孔伷や劉岱、張邈、張超、袁遺と共に参戦している。もっとも、臧洪伝によると、当初挙兵したのは橋瑁達である。 袁紹を盟主として仰いだが董卓が長安に遷都して以降は事態は進展がなく、橋瑁は酸棗に劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操と共に駐屯していた。曹操は、酸棗に駐屯する諸侯が酒宴ばかり開いて董卓と積極的に戦おうとしないことを憂い、進軍計画を立てた上で、戦をするようすすめたが、諸侯はそれに応じなかった。 やがて酸棗の軍勢は兵糧が尽きて散逸し、橋瑁は劉岱と対立し殺害された。 許靖 きょせい きょせい 字は文休。汝南平陽の人。月旦評という人物評で有名な許劭(許子将)は従弟にあたる。蜀書に独立した伝がある。若くして従弟の許劭とともに人物評価について高い評判を得ていた。許劭とは仲が良くなかった。 董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、一族で陳国の相であった許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。 袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した。交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。 214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた。 劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。 220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。劉備が皇帝になると司徒に任命された。 その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。 魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。 また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。 許攸 きょゆう 字は子遠。荊州南陽郡の人。 弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。 建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。袁紹を見限り、曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落した。 虞翻 ぐほん 耿紀 こうき 黄月英 こうげつえい 黄権 こうけん 黄皓 こうこう 孔秀 こうしゅう 黄承彦 こうしょうげん 公孫淵 こうそんえん 孔融 こうゆう 顧雍 こよう
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十八史略 漢の太祖劉邦 2009-09-15 17 05 15 | Weblog 西漢 漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。 漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ 鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。 晦冥 2009-09-17 13 43 14 | Weblog 前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。 晦 かい ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち ②くらいこと「-冥」 ③くらますこと「-渋」「韜-」 冥 めい(呉音はミョウ) ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」 ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」 ③奥深いこと「-想」 ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン) ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。 ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり 十八史略 大丈夫當如此矣 2009-09-17 13 49 17 | Weblog 願わくは箕帚の妾と為さん 及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。 單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。 壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。 單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。 壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。 単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。 泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。 単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う 十八史略 劉氏の冠 2009-09-19 08 50 01 | Weblog 劉氏の冠 秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。 秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。 秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。 劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。 厭当 押さえつけて防ぐこと 十八史略 劉季兵を沛に起こす。 2009-09-22 16 57 35 | Weblog 劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。 劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。 十八史略 劉季兵を沛に起こす 2009-09-24 14 40 26 | Weblog 彼岸過ぎての麦の肥 土用過ぎての稲の肥 三十過ぎての男に意見 以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。 では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。 驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。 白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを 剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。 十八史略 法三章のみ 2009-09-26 09 20 40 | Weblog 白文 楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。 訓読文 楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。 通釈 楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。 謂って曰く 方針を発表する 覇上 陜西省にある、覇水のほとり 十八史略 2009-09-29 17 02 48 | Weblog 項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。 項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。 項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。 十八史略 張良と項伯 2009-10-01 17 42 25 | Weblog 羽季父項伯、素善張良。夜馳至沛公軍、告良呼與倶去。良曰、臣從沛公、有急亡不義。入具告、因要伯入見。沛公奉巵酒爲壽、約爲婚姻。曰、吾入關、秋毫不敢有所近。籍吏民、封府庫、而待將軍。所以守關者、備他盗也。願伯具言臣之不敢倍。伯許諾曰、且日不可不蚤自來謝。伯去具以告羽、且曰、人有大功、撃之不義。不如因善遇之。 羽の季父項伯、素より張良と善し。夜馳せて沛公の軍に至り、良に告げ呼んで与に倶に去らんとす。良曰く、臣、沛公に従い、急有って亡(に)ぐるは不義なり、と。入って具(つぶさ)に告げ、因(よ)って伯を要して入り見(まみ)えしむ。沛公巵酒(ししゅ)を奉じて寿を為し、約して婚姻を為す。曰く、吾、関に入って、秋毫も敢えて近づくる所有らず。吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。関を守る所以の者は、他の盗に備うるなり。願わくは伯、具に臣の徳に倍(そむ)かざるを言え、と。伯、許諾して曰く、旦日蚤(はや)く自ら来たって謝せざる可からず、と。伯去って具に以て羽に告げ、且つ曰く、人大功有り、之を撃つは不義なり。因って善く之を遇するに如かず、と。 通釈は次回にしてください。 十八史略 張良と項伯 通釈 2009-10-06 10 26 51 | Weblog 項羽の叔父項伯は、かねてから張良と親しかった。その夜馬を駆って沛公の軍に至り、張良に急を告げて共に逃げるよう勧めた。張良は「私は沛公に臣として従う身、危急が迫ったからと逃げ去るのは道義に反します」と承知せず、帷幕に入り沛公に仔細を告げた。やがて張良は項伯を沛公に会見させた。 沛公は大杯を捧げて項伯の長命を寿ぎ、子の婚姻を約束した。その上で、「自分は関中に入ってからは、毛ほども私欲を近づけたことはございません。役人や民の数を記帳し、庫を封印して項羽将軍をお待ちしておりました。函谷関を閉じていた訳は、よその盗賊に備えていたからです。あなたにどうかお願いします、私が将軍の徳にそむく気持ちの毛頭ないことをお伝えください」と言った。項伯は承知して「明朝早くご自身が謝罪に出向かわなければなりません」と言って覇上を去った。戻った項伯は詳しく項羽に事情を報告し、そして言うには「このように大功ある人を撃つことは道義に反します、篤く対応して心服させるに越したことはありません」と。 秋毫 秋に抜け代わる獣の毛は細いので、ごく僅かなこと。 十八史略 鴻門の会 2009-10-08 08 20 15 | Weblog 鴻門の会 沛公旦從百餘騎、見羽鴻門。謝曰、臣與將軍、戮力而攻秦。將軍戰河北、臣戰河南。不自意、先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有隙。羽曰、此沛公左司馬曹無傷之言。羽留沛公與飮。范數目羽、擧所佩玉玦者三。羽不應。出使項莊入、前爲壽、請以劒舞、因撃沛公。項伯亦抜劒起舞、常以身翼蔽沛公。莊不得撃。張良出告樊噲以事急。 沛公旦(あした)に百余騎を従えて、羽を鴻門に見る。謝して曰く、臣、将軍と力を戮(あわせ)て秦を攻む。将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。自ら意(おも)わざりき、先ず関に入って秦を破り、復将軍に此に見(まみ)ゆるを得んとは。今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と隙有らしむ、と。羽曰く、此れ沛公の左司馬曹無傷の言なり、と。羽、沛公を留めて与に飲む。范数々(しばしば)羽に目もく)し、佩(お) ぶるところの玉玦(ぎょっけつ)を挙ぐるもの三たび。羽、応ぜず。出でて、項荘をして入り、前(すす)んで寿を為し、剣を以って舞わんと請い、因って沛公を撃たしむ。項伯も亦剣を抜いて起って舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。荘、撃つことを得ず。張良出でて樊噲(はんかい)に告ぐるに事の急なるを以てす。 十八史略 鴻門の会 2009-10-10 16 26 21 | Weblog 通釈文 沛公は翌朝、百余騎の部下を従えて鴻門に行って項羽と会見した。先ず謝罪して言うには「私は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦われ、私は河南で戦いました。まさか自分が先に関中に入って秦を滅ぼし、再び将軍とこの地でお会いできるとは思っても見ませんでした。ただつまらぬ者が将軍と私を仲違いさせようとしたようです」と。項羽は「そなたの部下の左司馬、曹無傷から聞いたことだ」と言った。 項羽は沛公を留めて酒盛りをした。席上范はしばしば項羽に目くばせして、腰に佩びていた玉玦(ぎょっけつ)を三度も挙げて決行を促したが、項羽は応じなかった。范は席を外し、項荘を席に入らせて沛公の前に進んで健康を祝し、剣舞を披露したいと申し出て、沛公を撃たせようとした。それを見て項伯もまた剣を抜いて起ち、常に沛公を庇い舞ったので項荘は撃つことができなかった。張良は外に出て、樊噲(はんかい)に事の差し迫っていることを知らせた。 玉玦 玉製の腰につける装飾品、玦は決に通じる。 項荘 項羽の従弟 翼蔽 親鳥が翼でひなをかばうように守る事。 十八史略 樊噲 2009-10-13 09 10 45 | Weblog 樊噲目を瞋(いから)して項羽を視る 噲擁盾直入、瞋目視羽。頭髪上指、目眦盡裂。羽曰、壯士、賜之巵酒則與斗巵酒。賜之彘肩。則生彘肩。噲立飮、抜劒切肉啗之。羽曰、能復飮乎。噲曰、臣死且不避。巵酒安足辭。沛公先破秦入咸陽。勞苦而功高如此、未有封爵之賞。而將軍聽細人之説、欲誅有功之人。此亡秦之續耳。切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲從良坐。 噲、盾を擁して直ちに入り、目を瞋(いから)して羽を視る。頭髪上指(じょうし)し、目眦(まなじり)尽く裂く。羽曰く、壮士なり、之に巵酒(ししゅ)を賜え、と。則ち斗巵酒を与う。之に彘肩(ていけん)を賜えと。則ち生彘肩なり。噲立って飲み、剣を抜き、肉を切って之を啗(くら)う。羽曰く、能(よ)く復た飲むか、と。噲曰く、臣、死すら且つ避けず。巵酒安(いずく)んぞ辞するに足らんや。沛公先づ秦を破って咸陽に入る。労苦して功高きこと此の如くなるに、未だ封爵の賞有らず。而も将軍、細人の説を聴き、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。切(ひそ)かに将軍の為に取らざるなり、と。羽曰く坐せよ、と。噲、良に従って坐す。 十八史略 樊かい 2009-10-15 08 39 15 | Weblog 先ずお詫びを 前回の白文を読み返していたらとんでもないミスを発見しましたので訂正をいたします。 最初の行の終わりから四字目、則の前に句点 。を付けて下さい。次に最終行の、羽曰、坐のあと噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。までが重複していました。 では通釈を・・ 樊噲は盾を抱えたまま宴席に入り、目をつりあげて項羽を睨みつけた。頭髪は天を衝き、まなじりは裂けていた。項羽は壮士なり、大杯を与えよ、と言って一斗の酒を勧めた。項羽はまた豚の肩肉を与えよと言った。それで生の豚肉が出された。樊噲は立ったまま酒を飲み干し、剣を抜き肉をきって食った。項羽がまだ飲めるかと聞くと、樊噲は「私めは死ぬことさえもなんとも思っておりません、一杯の酒ぐらいなんで厭いましょう。恐れながら申し上げます、我が主人は真っ先に秦を破って咸陽に入りました、苦労をして大功をたてられたのに、まだ領地も爵位もありません。それどころか、小人の言葉を取り上げて、手柄のある人を殺そうとしておられます。これでは秦の二の舞でございます。ひそかに将軍のため思うのでございます」と申し上げた。項羽は「まあ坐れ」といった。樊噲は張良の次の席に坐った。 目眦 まなじり 斗巵酒 一斗(約一升)入る酒つぼ 彘肩(ていけん)彘は子豚 十八史略 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 2009-10-20 08 37 18 | Weblog 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。 使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。 須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。 沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。 10/20 間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。 一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。 須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-22 09 10 48 | Weblog 沐猴にして冠す 居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。 居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-24 09 01 59 | Weblog 居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。 十八史略 項羽西楚の覇王となる 2009-10-27 09 20 04 | Weblog 巴・蜀も亦關中の地なり 羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。 羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり 巴蜀も亦関中の地なり 2009-10-29 08 39 32 | Weblog 項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。 十八史略 韓信と漂母 2009-10-31 09 03 45 | Weblog 韓信と漂母 漢元年、五星聚東井。 初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。 漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。 初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。 漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。 それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。 五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。 東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性 韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。 王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200910 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200911/1 十八史略 韓信胯をくぐる 2009-11-03 20 52 39 | Weblog 韓信の胯くぐり 淮陰屠中少年、有侮信者。因衆辱之曰、若雖長大好帶劔、中情怯耳。脳死刺我。不能出我胯下。信熟視之、俛出胯下蒲伏。一市人皆笑信怯。 淮陰の屠中の少年に、信を侮る者有り。衆に因(よ)って之を辱かしめて曰く、若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖(いえど)も、中情は怯なるのみ。能く死せば我を刺せ。能(あた)わずんば我が胯下(こか)を出でよ、と。信、之を熟視し、俛(ふ)して胯下より出でて蒲伏(ほふく)す。一市の人、皆、信が怯(きょう)を笑う。 その後淮陰の場の若者で、韓信を見くびる者があった。仲間が多いのを嵩にかかって、恥をかかそうとこう言った。「お前さん、図体ばかりでかくて、剣なぞぶらさげているが本当は臆病者だろう、なんならこの俺を刺してみろよ、どうだ出来るか、出来なきゃおれの股の下をくぐれ」と。韓信はじっと若者を視ていたが、うつぶして股の下から腹ばい出た。町中の人は、韓信を嘲り笑った。 蒲伏 匍匐に同じ 十八史略 國士無雙Ⅰ 2009-11-05 09 23 33 | Weblog 蕭何、韓信を追う 項梁渡淮、信從之。又數以策干項羽。不用。亡歸漢、爲治粟都尉。數與蕭何話。何奇之。王至南鄭。將士皆謳歌思歸、多道亡。信度、何已數言、王不用。即亡去。何自追之。人曰、丞相何亡。王怒、如失左右手。 項梁淮(わい)を渡るとき、信、之に従う。又しばしば策を以て項羽に干(もと)む。用いられず。亡(に)げて漢に帰(き)し、治粟都尉(ちぞくとい)と為る。数々(しばしば) 蕭何と語る。何、之を奇とす。王、南鄭(なんてい)に至る。将士、皆謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡(に)ぐ。信度(はか)るに、何(か)、已(すで)に数々(しばしば)言いしも、王用いざるなりと。即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡ぐ、と。王怒る、左右の手を失うが如し。 項梁が秦との戦で淮(わい)水を渡る時、韓信は従軍した。又たびたび項羽に献策したが用いられなかった。そこで逃げ出して漢王につき、糧食をつかさどる治粟都尉(ちぞくとい)という官に就いた。しばしば蕭何と語った。蕭何は韓信の非凡を知った。漢王は関中の都南鄭に赴任したが部下の将士たちは故郷をたたえる歌をうたい、帰りたいと多く逃げ去った。韓信は蕭何がたびたび自分を推挙しているのに漢王はとりたててくれないと、たちまち逃げ出した。蕭何は何とか引き止めようと自ら後を追った。ある人が丞相の蕭何までも逃げました、と王に告げた。漢王は怒った、と同時に両腕をもがれたかのように落胆した。 十八史略 国士無双2 2009-11-07 08 42 19 | Weblog 國士無雙2 何來謁。王罵曰、若亡何也。何曰、追韓信。王曰、諸將亡以十數。公無所追。追信詐也。何曰、諸將易得耳。信國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無可與計事者。王曰、吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎。何曰、計必東、能用信。信即留。不然信終亡耳。 何(か)来たり謁す。王罵(ののし)って曰く、若(なんじ)、亡(に)げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追う、と。王曰く、諸将の亡ぐるもの十を数う。公追う所無し。信を追うとは詐(いつわ)りならん、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を爭わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る可き者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ。安(いづ)くんぞ能(よ)く鬱鬱として久しく此(ここ)に居らん乎(や)と。何曰く、必ず東せんと計らば、能く信を用いよ。信即ち留まらん。然(しか)らずんば信終(つい)に亡げんのみ、と。 蕭何が帰って王に謁見すると、王が罵って言うに「お前までにげるとは何事か」と。蕭何は答えて「韓信を追ったのです」と言った。王は「将のにげたものは、何十人と居るのに、今まで一人も追いかけたことがない、なのに韓信だけを追うとは合点がゆかぬ、嘘であろう」と。蕭何は「他の将はいくらでも補充出来ますが、韓信は二人と得られぬ国士です、漢王がいつまでも漢中の王でいたいと思われるならば、韓信を引き留めることに苦心することはありませんが、是非にも天下を争おうとお考えなら、韓信でなければともに大事を計る者は居りません」王は「わしも東に向って、天下を争う心算でいる。だれがこんな所で鬱うつとしておられようか」何は「是非とも東に出ようとのお考えならば、心して韓信を重用することです。そうすれば信はここに留まりましょう、でなければ結局信は逃げてしまいますよ」と言った。 以十數 十の単位で数えることが出来る。つまり ン十人の意。 無所事信 事はコトトスと読み、努め励むこと。全てにレ点がつく。 非信無可與計事者 非②信①無⑧可⑥與③計⑤事④者⑦の順に読む 十八史略 韓信大将軍となる 2009-11-10 08 46 48 | Weblog 全国吟剣詩舞道大会が8日無事終了しました。今年は天気に恵まれ助かりました。 終了後広島の中村さんほかお客様をお迎えして懇親の席を設けました。とても楽しいひと時でしたが、少々しゃべり過ぎました、寡黙堂の看板を返上しなければと考えています。では十八史略のつづきです。 王曰、吾爲公以爲將。何曰、不留也。王曰、以爲大將。何曰、幸甚。王素慢無禮。拝大將如呼小児。此信所以去。乃設壇場、具禮。諸將皆喜、人人自以爲得大將。至拝乃韓信也。一軍皆驚。 王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり。王素(もと)より慢(まん)にして礼無し。大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以(ゆえん)なり、と。乃ち壇場を設け、礼を具(そな)う。諸将皆喜び、人々自から以為(おも)えらく、大将を得んと。拝するに至って乃ち韓信なり。一軍皆驚く。 漢王が言うに「貴公の顔を立てて韓信を将に取り立てよう」と。蕭何は「それでは留まらないでしょう」と答えた。王は「それでは大将にしよう」何は「それは幸いに存じます。ところで大王には平素から人を見下して、礼に欠けるところがございます。大将を任命されるにも子供を呼びつけるようですが、それこそ韓信が逃げ出す理由です」と。そこで王は大将軍任命の式場を設け、威儀を整えた。将軍達は皆喜び、各々自分こそ大将では、と内心思っていた。 いよいよ任命の段になって指名されたのは韓信だったので将軍達をはじめ一同大いに驚いた。 十八史略 韓信三王を滅ぼす 2009-11-12 13 31 04 | Weblog 中野の杉山公園は只今改修中です。残念なのはフェンスにつるを張っていた、テイカカズラと真っ赤な実をつけるヒヨドリジョウゴが抜かれてしまった事です。 王遂用信計、部署諸將、留蕭何、収巴・蜀租、給軍粮食。信引兵從故道出、襲雍王章邯。邯敗死。塞王司馬欣・翟王菫翳皆降。 王遂に信の計を用いて、諸将を部署し、蕭何を留めて巴・蜀の租(そ)を収め、軍の粮食(りょうしょく)を給せしむ。信、兵を引いて故道より出で、雍王章邯(ようおうしょうかん)を襲う。邯敗死す。塞王司馬欣(さいおうしばきん)・翟王菫翳(てきおうとうえい)皆降る 漢王は遂に韓信の計を用い、諸将をそれぞれ配置した。蕭何は関中に留めて、巴・蜀の租税を取り立て、軍の糧食の手当とした。韓信は兵を率いて故道県から打って出て雍王章邯を敗死させた。塞王司馬欣と翟王菫翳はともに降伏した。 雍王章邯・塞王司馬欣・翟王菫翳は秦の降将で漢の地を扼するため項羽が王にした三人(巴・蜀も亦関中なり参照) 十八史略 嗟乎、使平得宰天下 2009-11-17 09 09 50 | Weblog 漢二年、項籍弑義帝於江中。 初陽武人陳平、家貧、好讀書。里中の社、平爲宰、分肉甚均。父老曰、善、陳孺子之爲宰。平曰、嗟乎、使平得宰天下、亦如此肉矣。初事魏王咎、不用。去事項羽、得罪亡。因魏無知求見漢王。拝爲都尉參乘典護軍。 漢の二年、項籍、義帝を江中に弑す。 初め陽武の人陳平、家貧にして、書を読むことを好む。里中の社に、平、宰(さい)と為り、肉を分つこと甚だ均し。父老の曰く、善し、陳孺子の宰たること、と。平曰く、嗟乎(ああ)、平をして天下に宰たるを得しめば、亦此の肉の如くならん、と。 初め魏王咎(きゅう)に事(つか)えて、用いられず。去って項羽に事え、罪を得て亡(に)ぐ。魏無知に因(よ)って漢王に見(まみ)えんことを求む。拝して都尉参乗典護軍と為す。 漢の二年、項籍が義帝を揚子江で殺す。 さかのぼって、陽武の人で陳平というものが居た。家は貧しかったが書を読むのが好きだった。村の社の祭日に陳平が差配して、祭りの後の肉の分配に大変公平だったので、村の老人たちは「まことに善かった。陳君のきりもりは」と言うと、陳平が言うには「ああ、もし私に天下の切り盛りをさせてくれたなら、この肉のように公平に裁いてみせるのに」と。 初め陳平は魏王の咎につかえたが、用いられなかった。去って項羽につかえたが罪を犯して逃げ出した。魏無知の紹介によって漢王に謁見を求めた。漢王は都尉参乗典護軍に任じた。 十八史略 陳平 2009-11-19 09 02 55 | 十八史略 陳平 周勃言於王曰、平雖美如冠玉、其中未必有也。臣聞、平居家盗其嫂、事魏不容、亡歸楚、又不容、亡歸漢。今大王令護軍、受諸將金。願王察之。王讓魏無知。無知曰、臣所言者能也。大王所問者行也。今有尾生・孝己之行、而無成敗之數、大王何暇用之乎。王拝平護軍中尉、盡護諸將。諸將乃不敢復言。 周勃、王に言いて曰く、平は美なること冠玉の如しと雖も、其の中、未だ必ずしも有らざるなり。臣聞く、平、家に居っては其の嫂(あによめ)を盗み、魏に事(つか)えては容れられず、亡(に)げて楚に帰し、又容れられず、亡げて漢に帰すと。今、大王、軍を護(ご)せしめしに、諸将の金を受けたり。願わくは王之を察せよ、と。王、魏無知を讓(せ)む。無知の曰く、臣の言う所の者は能なり。大王の問う所の者は行いなり。今尾生(びせい)・孝己(こうき)の行い有りとも、成敗の数に益無くんば、大王何の暇(いとま)あってか之を用いんや、と。 王、平を護軍中尉に拝し、尽く諸将を護せしむ。諸将乃ち敢えて復言わず。 十八史略 陳平2 2009-11-21 09 48 19 | 十八史略 昨夜早く目覚めたのでNHKラジオをつけたら深夜便の歌が流れた。 いい歌だなーとしみじみ聞き入った、大川栄策の声で題名は「昭和ロマン第二章」と言っていました。 では前回の通釈です。 周勃が王に向って言うには「陳平は風采の立派なことは玉(ぎょく)で飾った冠のようですが、その中身は必ずしも伴っているとは言えません。私の聞くところでは陳平がまだ官につかず家にいるとき、あによめと関係をもち、魏に仕えて用いられず、逃げて楚に身を寄せたが容れられずして、また逃げてわが漢にたどり着いた、ということです。今、大王はこのような人物に軍を監督せられましたから、あやつは諸将から賄賂を受けています。どうかよくよくお考えください」と。そこで王は魏無知を責めた。無知が申すのに「私がお引き合わせしたのは、彼の能力を見ていただきたいのです。大王の問うところは品行のことです。今日、尾生や孝己のような立派な行いがあったとして、天下の帰趨になんらの益もなければ、大王にはどうしてそんな意見を用いられるいとまがおありでしょうか」と。 王は陳平を護軍中尉に任じて、すべて諸将を監督させた。そこでもう陳平のことを言う者が居なくなった。 護 もともと統率する、監督するの意がある。 譲む 譲はゆずる、の意の他に責める意味がある。 尾生 女と橋の下で逢う約束を守って、増水した川でおぼれたばか正直な男。 孝己 一夜に五度も親の安否を気づかったといわれる、殷の高宗の子。 拝 官を授ける、また授かるのどちらにも使う。ここでは前者。 十八詩略 徳に順うものは昌え、逆らうものは亡ぶ 2009-11-24 13 34 36 | 十八史略 大川栄策の昭和ロマン第二章は「昭和浪漫第二章」でした。 漢王至洛陽。新城三老菫公遮説曰、順徳者昌、逆者亡。兵出無名。事故不成。明其爲賊、敵乃可服。項羽無道、放弑其主。天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力。大王宜率三軍之衆、爲之素服、以告諸侯而伐之。於是漢王爲義帝發喪、告諸侯曰、天下共立義帝。今項羽放弑之。寡人悉發關中兵、収三河之士、南浮江漢而下、願從諸侯王、撃楚之弑義帝者。 漢王、洛陽に至る。新城の三老菫公(とうこう)、遮(さえぎ)り説いて曰く、徳に順(したが)うものは昌(さか)え、徳に逆らう者は亡ぶ。兵、出づるに名無し。事、故に成らず。其の賊たるを明かにせば、敵乃ち服す可し。項羽無道にして、其の主を放弑(ほうし)す。天下の賊なり。夫(そ)れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず。大王宜しく三軍の衆を率い、之が為に素服し、以って諸侯に告げて之を伐つべし、と。是に於いて漢王、義帝の為に喪を発し、諸侯に告げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽之を放弑す。寡人悉く関中の兵を発し、三河(さんか)の士を収め、南のかた江漢に浮かんで下り、願わくは諸侯王に従い、楚の義帝を弑(しい)する者を撃たん、と。 十八史略 2009-11-26 08 32 31 | 十八史略 順徳者昌、逆者亡 通釈です 漢王はすでに、洛陽に至った。新城というところの三老の役をしていた菫(とう)なにがしという者が、道を遮り、漢王に説いて言うには「道徳に従って行動する者が栄え、道徳に逆らう者は亡びるものです。兵を出すのに名目が無ければ、事は成就しません。もし相手が逆賊であることを明らかにすれば、敵は屈服するものです。項羽は道徳にそむいて、主君である義帝を追放したうえ殺してしまいました。まさに天下の逆賊です。 そもそも仁を行うには勇は不用です、義を行うには力を必要としません。大王には宜しく三軍の兵を率いて、義帝のために喪服を着て、諸侯に項羽の非道を告げて、これを討伐されるべきです」と。 そこで漢王は義帝のために喪を発して諸侯に告げてこう言った「さきに諸侯相ともに義帝を立てて天子に戴いた。ところが項羽は義帝を追放して、殺してしまった。よって私は関中の兵を出し、河南、河東、河内の兵を集め、南方の江水、漢水を舟で下る、どうか諸侯、私に従って欲しい。義帝を殺した楚の賊を撃ち懲らしたいのだ」と。 三老 官名、その地の長老で教化をつかさどった。 三軍 周代の兵制で天子は六軍、諸侯の大国が三軍を出した。三万七千五百人の兵。 素服 白地の服、喪の時に用いた。 十八史略 2009-11-28 08 42 52 | 十八史略 漢王率五諸侯兵五十六萬、伐楚入彭城、収其寶貨・美人、置酒高會。項羽方撃齊。聞之、自以精兵三萬還撃漢、大破漢軍於睢水上。死者二十萬人。水爲之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起、折木發屋、揚沙石、晝晦。王乃得與數十騎遁。審食其從太公・呂氏行、遇楚軍、爲楚所獲。常置軍中爲質。漢王至滎陽。諸敗軍皆會蕭何亦發關中老弱悉詣滎陽。漢軍復大振。 漢王、五諸侯の兵五十六萬を率い、楚を伐って彭城(ぼうじょう)に入り、其の宝貨・美人を収めて、置酒高会(ちしゅこうかい)す。項羽方(まさ)に齊を撃つ。之を聞き、自ら精兵三万を以(ひき)いて還って漢を撃ち、大いに漢軍を睢水(すいすい)の上(ほとり)に破る。死する者二十万人。水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝(そう)。会ゝ(たまたま)大風、西北より起こり、木を折り屋を発(あば)き、沙石を揚げ、昼晦(くら)し。王乃ち数十騎と遁(のが)るるを得たり。審食其(しんいき) 太公・呂氏に従って間行し、楚軍に遭い、楚の得る所と為る。常に軍中に置いて質(ち)と為す。漢王、滎陽(けいよう)に至る。諸敗軍皆会す。蕭何も亦関中の老弱を発し、悉(ことごと)く滎陽に詣(いた)らしむ。漢軍復た大いに振るう。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200912/2 十八史略 死者二十万人水之が為に流れず 2009-12-01 08 57 02 | Weblog 漢王は、五諸侯の兵五十六萬を率いて楚をうって彭城に攻め入り、宝貨、美人を奪って酒宴を開いた。項羽はちょうど斉を攻めていた時で、急を聞きすぐさま自身で三万の選りすぐった兵を率いて戻り、漢軍を睢水のほとりに大敗させた。死者二十万人、その死体で睢水の流れも止まるほどであった。項羽は彭城の漢王を三重に取り囲んだ。おりしも大風が西北より吹き起こり、木を折り屋根を剥いで砂石を飛ばして昼にもかかわらず、あたりは暗くなった。天の助けとばかり漢王は数十騎の部下と逃げおおせた。審食其という者が漢王の父と夫人の呂氏の共をして、間道を抜けて逃げようとしたが、楚軍に遭って捕らえられてしまった。項羽は二人を常に陣中に置き人質とした。漢王が滎陽まで来たとき、ちりぢりになっていた部下達も集まった。そのうえ蕭何もまた関中の老人から年少者までも徴用して滎陽にかけつけた。漢軍は再び勢力を盛り返した。 五諸侯 常山王張耳・河南王申陽・韓王鄭昌・魏王豹・殷王邛(きょう)の五侯 置酒高会 置酒は酒宴さかもり、高会は盛大に会合する。 三匝 匝は取り巻く、三めぐり 十八史略 是れ口尚乳臭なり 2009-12-03 16 58 10 | 十八史略 蕭何守關中、立宗廟・社稷・縣邑、事便宜施行、計關中戸口、轉漕調兵、未嘗乏絶。 魏王豹叛。漢王遣韓信撃之。豹以柏直爲大將。王曰、是口尚乳臭。安能當韓信。信伏兵、從夏陽以木罌渡軍、襲安邑虜豹。信既定魏、請兵三萬人、願以北擧燕・趙、東撃齊、南絶楚糧道、西與大王會滎陽。王遣張耳與倶。 蕭何、関中を守り、宗廟・社稷・県邑を立て、事、便宜に施行して、関中の戸口を計り、転漕、兵を調し、未だ嘗て亡絶せず。 魏王豹叛す。漢王、韓信を遣わして之を撃たしむ。豹、柏直を以って大将と為す。王曰く、是れ口尚乳臭なり。安くんぞ能く韓信に当たらん、と。信、兵を伏せ、夏陽より木罌(ぼくおう)を以て軍を渡し、安邑を襲って豹を虜にす。信、既に魏を定め、兵三万人を請い、願わくは、以って北のかた、燕・趙を挙げ、東のかた、齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽に会せんという。王、張耳を遣わして與に倶にせしむ。 十八史略 是口尚乳臭 2009-12-08 15 54 53 | 十八史略 蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。 魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。 宗廟 先祖のみたまや 社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと 木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。 十八史略 陳餘、奇計を用いず 2009-12-10 11 32 56 | 十八史略 三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。 餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。 三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。 餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。 十八史略 陳餘奇計を用いず 2009-12-12 10 21 47 | 十八史略 漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。 ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-15 12 04 59 | Weblog 背水の陣(一) 未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。 未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。 韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。 平旦 夜明け 殊死 決死 鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること 佯 見せかける、ふりをする 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-17 12 50 51 | 十八史略 陥之死地而後生 趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。 趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。 趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。 韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。 倍 背に同じ、背にする 十八史略 黥布 2009-12-19 08 47 28 | 十八史略 随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。 随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。 随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。 黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。 畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反 十八史略 豎儒幾ど乃公の事を敗らんとす 2009-12-22 16 12 58 | 十八史略 酈食其説漢王、立六國後。王曰、趣刻印。張良來謁。王方食。具告良。良曰、請借前箸、爲大王籌之。遂發八難。其七曰、天下游士、離親戚、棄墳墓、從大王游者、徒欲望尺寸之地。今復立六國後、游士各歸事其主。大王誰與取天下乎。且楚惟無彊。六國復撓而從之、大王焉得而臣之乎。誠用客謀、大事去矣。漢王輟食吐哺、罵曰、豎儒幾敗乃公事。令趣銷印。 酈食其(れいいき)漢王に説く、六国(りっこく)の後を立てんと。王曰く、趣(すみや)かに印を刻せよ、と。張良来たり謁す。王方(まさ)に食す。具(つぶさ)に良に告ぐ。良曰く、請う、前箸(ぜんちょ)を借りて、大王の為に之を籌せん、と。遂に八難を発す。其の七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄てて、大王に従い游ぶ者は、徒(いたずら)に尺寸(せきすん)の地を望まんと欲す。今復六国の後を立てば、游士各ゝ帰って其の主に事(つか)えん。大王誰と与に天下を取らんや。且つ楚より惟(こ)れ彊(つよ)きは無し。六国復撓(たわ)んで之に従わば、大王焉(いず)くんぞ得て之を臣とせんや。誠に客の謀(はかりごと)を用いなば、大事去らん、と。漢王、食を輟(や)めて哺を吐き、罵って曰く、豎儒(じゅじゅ)、幾(ほとん)ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす、と。趣かに印を銷(しょう)せしむ 十八史略 ほとんど乃公の事を敗らんとす 2009-12-24 17 17 48 | 十八史略 通釈文 酈食其は漢王に六国の跡目を立てて諸侯にするよう説くと、漢王は「ではすぐに印章を作らせよ。」と言った。張良が来て王に謁した。王は食事中であったが、委細を張良に話した。張良は「お手近の箸をお借りして大王の為にはかりごとを献じましょう」と言って八つの懸案を提示した。その七番目には「今、天下の遊説の士が親戚と別れ、先祖のまつりを置いて大王に従っているのは、ただただ、僅かな土地を望んでいるからでございます。今また六国の跡目を立てれば、遊説者たちは帰ってその諸侯に仕えるでしょう。そうなったら大王は誰と組んで天下を取るおつもりですか。その上、今楚より強い国はありません。六国がまた屈服して楚に従ったら、大王はどうやって臣従させることが出来ましょう。この客人のはかりごとを用いたならば大王の大事も潰(つい)えることになりましょう」漢王は食事を止め、口中の食物を吐き出して、「くされ儒者めがあやうくわしの大事業を潰すところであったわい」と罵って六国の印を鋳潰させた。 六国 楚・韓・魏・燕・趙・齊。 趣 おもむき のほかに、すみやかにの意味がある。籌 はかりごと 輟食てつしょく 食事を途中で止める 乃公 乃はなんじ、公は君、汝の君主とは、臣下にむかって自分のことを尊大に言う。乃公出でずんば(このおれさまが出ないで、他の誰にできようか) 十八史略 骸骨を請う 2009-12-26 08 48 27 | 十八史略 骸骨を請う 楚圍漢王於滎陽。漢王謂陳平曰、天下紛々。何時定乎。平曰、項王骨鯁之臣、亜父輩數人耳。行以疑其心、破楚必矣。王與平黄金四萬斤、不問其出入。平多縦反。羽大疑亜父。請骸骨歸。疽發背死。 楚、漢王を滎陽(けいよう)に囲む。漢王、陳平に謂って曰く、天下紛々たり、何れの時か定まらん、と。平曰く、項王骨鯁(こっこう)の臣、亜父の輩数人耳(のみ)。間を行うて以て其の心を疑わしめば、楚を破ること必(ひっ)せり、と。王、平に黄金四萬斤を与え、其の出入を問わず。平、多く反間を縦(はな)つ。羽、大いに亜父を疑う。骸骨を請うて帰る。疽背に発して死す。 楚が漢王を滎陽に囲んだ。漢王は陳平に「天下乱れて紛々、いつになったら平定するのだろうか」と言った。陳平は答えた「項羽の剛毅直言の臣は亜父范増たち数人に過ぎません。間者を放って彼等の間で疑心を起こさせたら、楚を破ること必定でございます」と。漢王は陳平に黄金四万斤を与えて、その出入りを問わなかった。平は多くの間者を放ったので、項羽は大いに范増を疑った。范増は暇を請い国に帰ったが腫れ物が背中にできて死んだ。 骨鯁の臣 直言の臣、鯁は骨が喉につかえることから君主の機嫌をそこねることを敢えて進言する臣。 骸骨を請う 主君に辞職を願う 仕官して捧げたわが身の残骸を乞い受ける 十八史略 紀信、楚をあざむく 2009-12-29 11 04 09 | 十八史略 紀信、楚をあざむく 楚圍漢王急。紀信曰、事急矣。請誑楚。乃乗漢王車、出東門。曰、食盡漢王出降。楚人皆之城東観。漢王乃得出西門去。項羽焼殺紀信。 楚、漢王を囲むこと益々急なり。紀信曰く、事急なり、請う楚を誑(あざむ)かんと。乃ち漢王の車に乗り、東門より出づ。曰く、食尽き漢王出で降る、と。楚人、皆城東に之(ゆ)いて観る。漢王乃ち西門より出でて去ることを得たり。項羽、紀信を焼殺す。 楚は一層厳しく漢王を取り囲んだ。紀信が漢王に「事は差し迫っております、ここはひとつ楚軍をだましてやりましょう」と申し出て、漢王の車に乗って滎陽城の東門から出て、「食糧が尽きたから降伏する」と呼ばわった。楚軍は東門につめかけて見物した。その隙に漢王はまんまと西門から脱出した。怒った項羽は紀信を焼き殺した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001/2 十八史略 王、韓信の兵を奪う 2010-01-05 08 36 14 | 十八史略 新年おめでとうございます。 今年も多難な一年となることが予想されますが、2200年ほど前の中国では変わらぬ戦乱の世はつづきます。 漢王軍成皐。羽圍之。王逃去、北渡河、晨入趙壁、奪韓信軍、令信収趙兵撃齊。 酈食其説王、収滎陽、據敖倉粟、塞成皐之險。王從之。 漢王成皐(せいこう)に軍す。羽之を囲む。王逃れ去り、北のかた河を渡り、晨(あした)に趙の壁に入り、韓信の軍を奪い、信をして趙兵を収めて齊を撃たしむ。 酈食其(れいいき)王に説き、滎陽(けいよう)を収め、敖倉(ごうそう)の粟(ぞく)に據(よ)って成皐の険を塞(ふさ)がんとす。王之に従う。 漢王は成皐に布陣した。項羽がこれを囲んだので漢王は逃げて北の黄河を渡り、早朝趙の城内に入り、そこに陣を布いていた韓信の兵を手中にし、韓信には趙の兵を集めて斉を攻撃させた。 酈食其が王に説いて、滎陽城を手に入れて、敖倉山の食糧に頼って、成皐の要所を固めようと言った。王はこの説に従った。 韓信の兵を奪い 漢王といえども兵符が無ければ兵を自由にできなかったので、早朝、韓信の眠っているうちに兵符を奪った。 十八史略 一豎儒の功に如(し)かざるか 2010-01-07 17 43 23 | 十八史略 酈食其爲漢王、説齊王下之。蒯徹説韓信曰、將軍撃齊。而漢獨發使下之。寧有詔止將軍止乎。酈生伏軾、掉三寸舌、下七十余城。將軍爲將數歳、反不如一豎儒之功乎。 四年.信襲破齊。齊王烹食其而走。 酈食其(れきいき)漢王の為に、斉王に説いて之を下す。 蒯徹(かいてつ)、韓信に説いて曰く、将軍斉を撃つ。而(しか)るに漢独り間使を発して之を下せり。寧ろ詔(みことのり)有って将軍を止めしか。酈生(れきせい)軾に伏して三寸の舌を掉(ふる)い、七十余城を下せり。将軍、将たること数歳、反(かえ)って一豎儒(じゅじゅ)の功に如(し)かざるか、と。 四年、信襲うて斉を破る。斉王、食其(いき)を烹(に)て走る。 酈食其は漢王の為に、斉王に説いて降伏させた。 蒯徹という者が韓信に説いて言った。「将軍が斉を攻撃しようとしておられるのに、漢王は密使を送って降伏させてしまいました。それより何より漢王から将軍に、止まるようにと詔勅がありましたか?あの酈食其は車の横木に寄りかかったままで舌先三寸、斉の七十余城を降しました。将軍は将として数年、一介の青二才儒者に及ばないのでしょうか」と。 四年、韓信は斉を急襲して撃ち破った。斉王は酈食其を煮殺して逃げた 十八史略 我に一杯の羹を分かて 2010-01-09 11 04 30 | 十八史略 漢與楚皆軍廣武。羽爲高俎、置太公其上、告漢王曰、不急下、吾烹太公。王曰、吾與若倶北面事懐王、約爲兄弟。吾翁即若翁。必欲烹而翁、幸分我一杯羹。 羽願與王挑戰。王曰、吾寧鬭智。不鬭力。因數羽十罪。羽大怒、伏弩射王傷胸。 漢と楚皆広武に軍す。羽、高俎(こうそ)を為(つく)り、其の上に太公を置き、漢王に告げて曰く、急に下らずんば、吾太公を烹(に)ん、と。王曰く、吾と若(なんじ)と倶(とも)に北面して懐王に事(つか)え、約して兄弟(けいてい)と為る。吾が翁は即ち若(なんじ)が翁なり。必ず而が翁を烹(に)んと欲せば、幸いに我に一杯の羹(あつもの)を分かて、と。 羽、王と挑戦せんと願う。王曰く、吾寧ろ智を闘わさん。力を闘わさず、と。因(よ)って羽の十罪を数う。羽、大いに怒り、弩を伏せ王を射て胸を傷つく。 漢と楚の軍はみな広武に布陣していた。項羽は高い俎板をつくり、かねて捕えていた漢王の父の太公をその上に据え、漢王に言った「急いで降参しなければ、釜茹でにするぞ」と。漢王は「私とお前とはともに北面して懐王に仕え、約束して兄弟になった。私の父はすなわちお前の父だ、是非にもお前の父を煮るというなら、一杯の肉汁を分けて貰いたいものだ」とやりかえした。 つぎに項羽は、漢王と一騎打ちをしかけたが、王は「私は、智恵比べなら応ずるが、力比べはごめん被る」と答えた。そのうえで項羽の十か条の罪状を数え上げた。項羽は怒って、いしゆみを密かに射かけ漢王の胸を傷つけた。 幸い我に一杯の・・ 幸 ねがうの意 十八史略 韓信龍且を破る 2010-01-12 09 20 01 | 十八史略 韓信、濰水を決壊す 楚使龍且救齊。龍且曰、韓信易與耳。寄食於漂母、無資身之策、受辱於股下、無兼人之勇。進與信夾濰水而陣。信夜使人嚢沙壅水上流、旦渡撃且、佯敗還走。且追之。信使決水。且軍大半不得渡。急撃殺且 楚、龍且(りょうしょ)をして斉を救わしむ。龍且曰く、韓信与(くみ)し易きのみ。漂母に寄食して、身を資(たす)くるの策無く、辱めを股下に受けて、人に兼ぬるの勇無し、と。進んで濰水(いすい)を夾(はさ)んで陣す。信、夜人をして沙を嚢(ふくろ)にして水の上流を壅(ふさ)がしめ、旦(あした)に渡って且を撃ち、佯(いつわ)り敗れて還り走る。且、之を追う。信、水を決せしむ。且の軍大半渡るを得ず。急に撃って且を殺す。 楚の項羽は龍且を将として斉を救わせた。龍且は言った「韓信は恐れるに足りません。洗濯ばあさんに食わせて貰って身を立てる術もなく、人の股をくぐる恥を受けても平気で、人にすぐれた勇気も持ち合わせていない」と。進んで濰水を挟んで韓信と対陣した。韓信は夜ひそかに人をやって砂を袋に入れて上流を堰きとめさせ、翌早朝、川を渡って龍且を撃ち、負けた振りをして逃げた。龍且はそれとは知らず追撃する。韓信が堰を切ったので、龍且の軍勢は大半が渡ることが出来ない。そこを急襲して龍且を討ち取った。 人に兼ぬるの勇 人に勝る勇気 十八史略 韓信仮に齊王たらんとす 2010-01-14 09 32 06 | 十八史略 信使人言之漢王,請爲請假王以鎮齊。漢王大怒罵之。張良・陳平躡足附耳語。王悟、復罵曰、大丈夫、定諸侯、即爲眞王耳。何以假爲。遣印立信爲齊王。 信、人をして之を漢王に言わしめ、仮王と為り以て斉を鎮せんと請う。漢王大いに怒って之を罵る。張良・陳平、足を躡(ふ)み、耳に附けて語る。王悟り、復た罵って曰く、大丈夫、諸侯を定めば即ち真王たらんのみ。何ぞ仮を以て為さん、と。印を遣わし、信を立てて斉王と為す。 韓信は使者を遣わして、戦勝を伝え、なお自分が仮に斉王となって斉の地を安堵したい旨請うた。漢王は大いに怒って罵った。張良と陳平とが韓信を敵にすることを恐れ、王の足を踏んで、耳に口を寄せて許してやりなさいと囁いたので、漢王はハッと気がつき、また罵って言った。「大丈夫たる者が、諸侯を平定したら真の王になるだけのことではないか、仮になどと言うことはない」と。早速印章を遣わして斉王に立てた。 十八史略 韓信節を枉げず 2010-01-16 13 06 04 | Weblog 項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。 漢立黥布、爲淮南王。 項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。 漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。 項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。 漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001 十八史略 虎を養うて患を遺す 2010-01-19 21 29 46 | 十八史略 養虎自遺患也 項王少助食盡。韓信又進兵撃之。羽乃與漢約、中分天下、鴻溝以西爲漢、以東爲楚。歸太公・呂后、解而東歸。漢王亦欲西歸。張良・陳平曰、漢有天下大半。楚兵饑疲。今釋不撃、此養虎自遺患也。王從之。 項王、助け少なく、食尽く。韓信、又兵を進めて之を撃つ。羽、乃ち漢と約す、天下を中分し、鴻溝(こうこう)以西を漢と為し、以東を楚と為さんと。太公・呂后を帰し、解いて東に帰る。漢王も亦西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、漢天下の大半を有(たも)つ。楚の兵飢疲す。今釈(ゆる)して撃たずんば、此れ虎を養うて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり、と。王、之に従う。 項王は援兵少なく食糧も尽きてきた。さらに韓信もまた兵を進めてこれを攻めた。項羽はしかたなく漢と約束して鴻溝で二分し、西方を漢の領土とし東を楚の領土とした。そして人質にしていた太公と呂后を帰して、戦闘態勢を解いて東に帰った。漢王もまた西に帰還しようとしたところ、張良と陳平が止めて言った。「漢は天下の大半を領有しており、楚の兵は飢え疲れはてています。ここでこのままゆるして撃たなければ、虎を育てて患いを遺すというものです」と。漢王はこの進言に従った。 十八史略 四面楚歌 2010-01-21 15 39 41 | Weblog 四面皆楚歌 五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。 五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。 漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 2010-01-23 11 28 53 | 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 起飮帳中、命虞美人起舞。悲歌慷慨泣數行下。其歌曰、力抜山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。騅者羽平日所乘駿馬也。左右皆泣、莫敢仰視。 起って帳中に飲し、虞美人に命じて起って舞わしむ。悲歌慷慨、泣(なみだ)数行下る。その歌に曰く、 力山を抜き、気は世を蓋う。 時、利あらず 騅(すい)逝かず 騅逝かざるを奈何(いかん)せん 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん 騅とは羽が平日乗るところの駿馬なり。左右皆泣き、敢えて仰ぎ視るもの莫(な)し。 やがて立ち上がって陣中のとばりの中で酒を酌み交わし、虞美人に舞わせた。歌は悲壮に、嘆きは増して、さすがの項羽も涙が幾筋も頬をつたわった。その歌は、 力は山をも引き抜き、気概は天下をも蓋う 天の時は味方せず、愛馬の騅も前に進まぬ 騅の進まぬをいかんせん ああそれよりも 虞よ虞よなんじをいかんせん 左右の臣は皆泣き、項羽の顔を仰ぎ視る者は誰一人居なかった。 兮 調子を整えるために置く助字 音はケイ 奈何 如何におなじ 虞美人 項羽の愛妾、ひなげしにその名をとどめる 十八史略 此れ天我を亡ぼすなり 2010-01-26 17 51 07 | 十八史略 今年に入ってどうも体調が芳しくない。予定を早めて女子医大の南先生に診てもらうことにした。 羽乃夜從八百餘騎、潰圍南出、渡淮、迷失道、陥大澤中。漢追及之。至東城。乃有二十八騎。羽謂其騎曰、吾起兵八歳、七十餘戰、未嘗敗也。今卒困此。此天亡我。非戰之罪。今日固決死。願爲諸君決戰、必潰圍斬將、令諸君知之。皆如其言。於是欲東渡烏江。 羽乃(すなわ)ち世八百余騎を従え、囲みを潰(ついや)して南に出で、淮(わい)を渡り、迷うて道を失い、大沢(だいたく)の中に陥る。漢追うて之に及ぶ。東城に至る。乃ち二十八騎有り。羽、その騎に謂って曰く、吾、兵を起こしてより八歳、七十余戦、未だ嘗て破れざるなり。今卒(つい)に此に困しむ。此れ天我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ず。今日固(もと)より死を決す。願わくは諸君の為に決戦し、必ず囲みを潰(ついや)し将を斬り、諸君をして之を知らしめんと。皆其の言の如くす。是に於いて東のかた烏江を渡らんと欲す。 項羽は夜になるや八百余騎を従えて、敵の包囲を突き破って南に逃れたが、淮水を渡ったところで道に迷い、湿地帯に踏み込んでしまった。漢軍に追いつかれ、また逃げ延びて東城(安徽省の地名)にたどりついたときは、二十八騎になっていた。羽は彼等に向って「わしは兵を挙げて八年、七十余たび戦ったが敗れたことがなかった。今ここで追い詰められてしまったのは、天がわしを亡ぼすのであって、戦の上手下手ではない。もちろん今日生き残れるはずもないが、諸君の目の前で決戦して囲みを破って、敵将を斬りその証をたてたいと思う」と。そしてすべてその通りやってのけた。こうして項羽は東にのがれ烏江を渡ろうとした 十八史略 我何の面目あって復た見ん 2010-01-28 15 29 41 | 十八史略 亭長艤船待。曰、江東雖小、亦足以王。願急渡。羽曰、藉與江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。縱江東父兄、憐而王我、我何面目復見。獨不愧於心乎。乃刎而死。 亭長船を艤(ぎ)して待つ。曰く、江東、小なりと雖も、亦以て王たるに足る。願わくは急に渡れと。羽曰く、籍、江東の子弟八千人と、江を渡って西す。今一人の還るもの無し。縦(たとい)江東の父兄、憐れんで我を王とすとも、我、何の面目あって復見ん。独り心に愧(は)ぢざらんや、と。乃ち刎(くびは)ねて死す。 烏江の亭長が船出の用意を整えて待っていた。そして「江東は小なりとはいえ、それでも王として治めるには充分です。どうか急いで渡ってください」と言った。項羽はハッと気付き「わしはかつて江東の子弟八千と共に、この長江を渡って西に向ったが、今一人として連れ還るものもない。たとい父兄がわしに同情して王にしてくれてもなんの面目あって顔を合わすことができよう。わしとて心に羞じずにおられようか」と自ら首をかき切って死んだ。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201002/2 十八史略 漢の高祖 2010-02-02 09 20 31 | 十八史略 楚地悉定。獨魯不下。王欲屠之。至城下、猶聞絃踊之聲。爲其守禮義之國、爲主死節、持羽頭示之。乃降。王還、馳入齊王信壁、奪其軍、立信爲楚王、彭越爲梁王。漢王即皇帝位。 楚の地悉(ことごと)く定まる。独り魯のみ下らず。王之を屠(ほふ)らんと欲し、城下に至れば猶絃踊(げんしょう)の声を聞く。其の礼義を守るの国にして、主の為に節に死するが為に、羽の頭を持して之に示す。乃(すなわ)ち降る。王還り、馳せて齊王信の壁に入り、其の軍を奪い、信を立てて楚王と為し、彭越(ほうえつ)を梁王と為す。漢王、皇帝の位に即(つ)く かくして楚の地はすべて平定したが、ただ魯だけが降らない。漢王は根絶やしにしようと城下にせまると、城内からは楽器にあわせて詩を歌う声が聞こえてくる。漢王は、魯が礼節を守る国で、旧主項羽へ忠節をたてて死ぬ覚悟と見たので、項羽の首を持ってきて魯の人々に示した。それでようやく降伏した。漢王は軍を返し急遽斉王韓信の城壁に入ってその軍隊を自分のものにした。やがて韓信を楚王にし、彭越を梁王にした。そして漢王は皇帝の位に就いた(前202)高租である 主の為に節に死する 項羽はかつて魯公に封ぜられた 十八史略 吾の天下を得たる所以は何ぞ 2010-02-04 16 54 20 | 十八史略 置酒洛陽南宮。上曰、徹侯諸將、皆言、吾所以得天下者何、項氏所以失天下者何。高起・王陵對曰、陛下使人攻城掠地、因而與之、與天下同其利。項羽不然。有効者害之、賢者疑之、戰勝而不予人功、得地而不與人利。 洛陽の南宮に置酒(ちしゅ)す。上(しょう)曰く、徹侯(てっこう)諸将、皆言え、吾の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ、項氏の天下を失いし所以は何ぞ、と。高起・王陵対(こた)えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしむれば、因って之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず。功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝って人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。 洛陽の南宮で宴会を催した時、高祖が言った、「列侯・諸将たちよ、皆言ってみよ。予が天下を得たわけは何か、項羽が天下を失った理由は何であるか」と。すると高起と王陵が対(こた)えて言った、「陛下は部下に城を攻め、土地を取らせられますと、功によって部下に与えて、天下の人と利益を共にされました。項羽はそうではありません。功ある者は痛めつけ、賢者は疑ってかかりました。戦争に勝っても、部下に功賞を与えず、土地を得ても人に与えませんでした。それで天下を失ったのです」と。 徹侯 秦代の爵位、後に通侯、列侯といった 十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う 2010-02-06 10 19 41 | Weblog 上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。 上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。 十八史略 2010-02-09 16 47 13 | 十八史略 高祖は言った。「貴公らはその一面を知って、他の面を知らない。そもそも帷幕の中で作戦をめぐらし、千里も離れて勝利を導くは子房(張良)に及ばない。国家を安定させ人民をいつくしみ食糧を確保し補給を絶やさぬ能力は蕭何にかなわない。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る腕前は、韓信に及ばぬ。この三人は傑出した者たちだ。わしはこの三人をよく使いこなした。これがわしが天下を取ったわけだ。ところが項羽には一人范がいたが、使いこなすことができなかった。これがあやつがわしにしてやられたゆえんだ」と。群臣みな感じいった。 籌 はかる 数をかぞえる竹の棒から、はかりごと、計略 餽餉 食糧 人傑 能力の衆人にすぐれた人。 十八史略 田横自頸す 2010-02-13 11 04 01 | 十八史略 故齊田横、與其徒五百餘人入海島。上召之曰、横來。大者王。小者侯。不來、且擧兵誅。横與二客乘傳、至洛陽尸郷自剄。以王禮葬之。二客自剄客從之。五百人在島中者、聞之自殺。 故(もと)の斉の田横(でんこう)其の徒五百人と海島に入る。上(しょう)之を召して曰く、横来たれ。大なる者は王とせん。小なる者は侯とせん。来たらずんば、且(まさ)に兵を挙げて誅(ちゅう)せんとす、と。横、二客(じかく)と伝に乗り、洛陽の尸郷(しきょう)に至って自剄(じけい)す。王の礼を以て之を葬る。二客自剄して之に従う。五百人島中に在る者、之を聞いて自殺す。 もと斉の田横は、その徒党五百人余りと海上の島に逃れて立てこもった。高祖はこれを召すべく、「田横よ来い。重くは王に、軽くとも侯に取り立てよう。もし来なければ、兵を派遣して誅するぞ」と使者に伝えさせた。田横は二人の客と共に、宿継ぎをしながら洛陽に向かい、すぐ手前の尸郷まで来たところで、みずから首をはねた。高祖は王の礼をもって田横を葬った。二人の客もみずから首をきって後を追った。島に残っていた五百人もこれを聞いてすべて自決して殉じた。 十八史略 季布髠鉗(こんけん)して奴と為り朱家に売る 2010-02-16 17 58 57 | 十八史略 初季布爲項羽將、數窘帝。羽滅、帝購求布。敢匿者罪三族。布乃髠鉗爲奴、自賣於魯朱家。朱家心知其布也、之洛陽見滕公曰、季布何罪。臣各爲其主耳。以布之賢、漢求之急、不北走胡、南走越耳。此棄壯士資敵國也。 滕公言於上。乃赦布、召拝郎中。 初め季布、項羽の将と為り、数々(しばしば)帝を窘(くる)しむ。羽滅んで、帝、布を購求す。敢えて匿(かく)す者は三族を罪せんと。布乃ち髠鉗(こんけん)して奴(ど)と為り、自ら魯の朱家に売る。朱家、心に其の布なるを知るや、洛陽に之(ゆ)き滕公(とうこう)に見(まみ)えて曰く、季布、何の罪かある。臣は各々其の主の為にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なるときは、北のかた胡に走らずんば、南のかた越に走らんのみ。此れ壮士を棄てて敵国を資(たす)くるなり、と。滕公、上(しょう)に言う。乃ち布を赦し、召して郎中に拝す。 以前季布は項羽の将軍として度々高祖を苦しめた。そこで項羽が滅びると、賞金を懸けて捜し求め、もしかくまう者があったら、本人はもとより父母、妻の一族までも罰するぞと布告した。季布は髪を剃り首枷(かせ)をはめて自ら奴隷に身を落として魯の朱家に売った。朱は季布の正体を感づくと、洛陽に赴き、滕公(夏公嬰)に会見してこう言った。「季布に何の罪がありましょう、臣下はそれぞれの主君のために力を尽くすのがつとめ、ここで季布ほどの賢人を厳しく探索したなら、北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。これこそ壮士を見捨てて敵国を利することになりましょう」と。滕公はそれを高祖に申し上げた。高祖は早速季布を赦し、召して郎中に任じた。 窘(くる)しむ 閉じ込める、苦しめる。 購求 懸賞金をかけて捜し求める。 髠鉗(こんけん) 頭髪を剃り、鉄枷を首に施すこと。 郎中 宮中の宿直の役。 十八史略 丁公、臣と為って不忠なり 2010-02-18 18 04 57 | 十八史略 丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。 丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。 丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。 丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに 厄 阨に同じ、苦しみ困ること。 十八史略 西安遷都 2010-02-23 17 40 14 | 十八史略 齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。 斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。 斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。 案 安堵におなじ、その所に落ち着いている 亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ 十八史略 赤松子に従って遊ばん 2010-02-25 18 13 35 | 十八史略 留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。 留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。 留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。 赤松子 上古の仙人の名 十八史略 張良、橋上に老人と会う 2010-02-27 11 29 45 | 十八史略 孺子教うべし 良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。 良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。 張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201003/2 十八史略 張良太公望の兵書を授かる 2010-03-02 18 03 14 | 十八史略 及往、老人又先在。怒復約五日。良半夜往。老人至。乃喜、授以一編書。曰、讀此可爲帝者師。異日見濟北穀城山下黄石、即我也。旦視之、乃太公兵法。良異之、晝夜習讀。既佐上定天下。封功臣、使良自擇齊三萬戸。良曰、臣始與陛下遇於留。此天以臣授陛下。封留足矣。後經穀城、果得黄石焉。奉祠之。 往くに及んで、老人又先ず在り。怒って復五日を約す。良半夜に往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに一編の書を以ってす。曰く、此れを読まば帝者の師と為るべし。異日、濟北(さいほく)の穀城(こくじょう)山下の黄石を見ば、即ち我なり、と。旦(あした)に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良、之を異とし、昼夜習読す。既にして上(しょう)を佐(たす)けて天下を定む。功臣を封ずるとき、良をして自ら斉の三万戸を択ばしむ。良曰く、臣始め陛下と留に遇(あ)う。此れ天、臣を以って陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば足れり、と。後、穀城を経しに、果して黄石を得たり。之を奉祠す。 五日後に行ってみると老人が先に来ていて叱り付け、さらに五日後に行くことを約束した。張良は今度は遅れまいと夜中から待った。やがて老人が来て、会うと喜んで一編の書を授けてこう告げた「これを読めば帝王の軍師となれよう。後日、済北の穀城山下で黄色の石を見かけたらそれがわしじゃ」と。朝になってその書を見ると太公望の兵法書であった。張良はこれを奇遇と喜び、昼夜の別なく読み習ったのであった。 やがて張良は高祖をたすけて天下を平定し、功臣を封ずるとき、高祖は斉のうちで三万戸の領地を選び取らせようとしたところ張良はこう言って辞退した「私は陛下に留でお目にかかりました。それは天が私を陛下に授けたものと思っております。ですから留の地をいただければ充分でございます。」 その後穀城山を通ったとき、果して黄石をみつけたので、祠に祀ったのであった。 十八史略 狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる 2010-03-04 18 08 33 | 十八史略 六年、人有上書告楚王韓信反。諸將曰、發兵坑孺子耳。上問陳平。平危之曰、古有巡守會諸侯。陛下第出僞遊雲夢、會諸侯於陳、因禽之、一力士之事耳。上從之、告諸侯、會陳、吾將遊雲夢。至陳。信上謁。命武士縛信、載後車。信曰、果若人言。狡兎死走狗烹、飛鳥盡良弓蔵。敵國破謀臣亡。天下已定。臣固當烹。遂械繋以歸。赦爲淮陰侯。 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已(すで)に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文は次回に 十八史略 狡兎死して走狗烹らる 2010-03-06 09 09 57 | Weblog 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文 漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」 とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。 十八史略 善く将に将たり 2010-03-09 13 56 03 | 十八史略 多々益々辦(べん)ず 上嘗從容問信諸將能將兵多少。上曰、如我能將幾何。信曰、陛下不過十萬。上曰、於君如何。曰、臣多多益辦。上笑曰、多多益辦、何以爲我禽。曰、陛下不能將兵、而善將將。此信所以爲陛下禽。且陛下所謂天授、力也。 上(しょう)嘗て従容(しょうよう)として信に諸将の能(よ)く兵に将たるの多少を問う。上曰く、我の如きは能く幾何(いくばく)に将たらんか、と。信曰く、陛下は十万に将たるに過ぎず、と。上曰く、君に於いては如何(いかん)、と。曰く、臣は多々益々辦(べん)ず、と。上笑って曰く、多々益々辦ぜば、何を以って我が禽(とりこ)に為れる、と。曰く、陛下は兵に将たること能(あた)わざれども、而(しか)も善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以(ゆえん)なり。且つ陛下は所謂(いわゆる)天授にして、人力に非ざるなり、と。 高祖はあるとき、くつろいだ様子で韓信に将軍達がそれぞれどの位の兵を統率する能力があるだろうかと聞いたことがあった。そして最後に高祖は「わしはどれほどの兵を使いこなせるだろうか」と問うた。すると韓信は「陛下は十万位いでしょう」と答えた。高祖は「ではお前はどうだ」と尋ねると、「私は多ければ多いほど指揮がさえます」と事もなげに言った。高祖は笑って「多ければ多いほどうまくやれると言うそなたがなぜわしの虜になったのだ?」韓信は「陛下は兵に将たるには向きませんが、将に将たる才がおありになります。これが私が虜になった所以です。その上、陛下は天から授かった人に君たる運勢をお持ちです。人の力では及びもつきません。」と。 辦 つとめる。処理する。さばく。 よく似た字がありますので参考のため列挙しました。 辨(弁)わかつ 弁別。わきまえる 分別。つぐなう 弁償。用にあてる弁当。 辧(弁)辨の本字。 辯(弁)言うこと、言い開きすること 弁護士の弁 瓣(弁)はなびら、花弁。瓜の種の周りのやわらかな部分 辮 編む 辮髪(べんぱつ)中国清朝の男子の髪型。(蒼穹の昴でおなじみ) 十八史略 狗の功と人の功 2010-03-11 18 14 31 | 十八史略 剖符封功臣。酇侯蕭何、食邑獨多。功臣皆曰、臣等被堅執鋭、多者百餘戰、少者數十合。蕭何未嘗有汗馬之勞、徒持文墨議論、顧反居臣等上何也。上曰、諸君知獵乎。逐殺獸者狗也。發縱指示者人也。諸君徒能得走獸耳。功狗也。至如蕭何、功人也。羣臣皆莫敢言。 符を剖(さ)き功臣を封ず。酇侯(さんこう)蕭何、食邑(しょくゆう)独り多し。功臣皆曰く、臣等、堅を被(き)鋭を執(と)り、多き者は百余戦、少なき者も数十合。 蕭何は、未だ嘗て汗馬の労あらず、徒(た)だ文墨(ぶんぼく)を持して議論し、顧反して臣等の上に居るは何ぞや、と。上曰く、諸君、猟を知れるか。獣を逐殺する者は狗なり。発従(はっしょう)して指示する者は人なり。諸君は徒(ただ)能く走獣を得たるのみ。功は狗なり。蕭何の如きに至っては、功は人なり、と。群臣、皆敢えて言う者莫(な)し。 高祖は割符を分け授けて功績のあった家臣に領地を与えた。その中で酇侯の蕭何だけ特に多かったから、他の功臣は皆「我々は身に堅いよろいをつけ、矛や刀を執って、多い者は百余回、少ない者でも数十合の戦をしています。ところが蕭何は一度も馬に鞭をあてた事も無く、ただ筆と墨を持って議論していただけではありませんか。それが却って自分たちより上というのはどういうことでしょうか。」と言った。すると高祖は「諸君は猟を知っているか。獣を追いかけて殺すのは犬であり、犬の綱を解いて指図するのは人間の役である。諸君はただ獣を捕えただけであるから、いわば犬の功である。蕭何は諸君を指図したのだから、その功は人の功である」と言った。これには群臣誰一人一言もなかった。 剖符 符を割くこと その一片を与えて証とする 酇侯 湖北省の地名蕭何が封じられた。 汗馬の労 馬が汗をかくほどの骨折り、実戦の苦労。 顧反(こはん) かえって。 発縦 犬を繋いだ綱を解き放つこと 十八史略 雍齒すら且つ侯たり 2010-03-16 14 29 30 | 十八史略 上已封大功臣。餘爭功不決。上從複道上望見、諸將往坐沙中、相與語。上問張良。良曰、陛下以此屬取天下。今所封皆故人親愛、所誅皆平生仇怨。此屬畏不能盡封、又恐見疑平生過失及誅。故相聚謀反耳。 上(しょう)、すでに大功臣を封(ほう)ず。余(よ)は功を争うて決せず。上、複道の上より望み見るに、諸将、往々沙中に坐して、相与(とも)に語る。上、張良に問う。良曰く、陛下、此の属を以って天下を取る。今、封ずる所は、皆故人親愛にして、誅する所は、皆平生の仇怨(きゅうえん)なり。此の属、尽くは封ぜらるる能わざるをおそれ、又平生の過失を疑われて誅に及ばんことを恐る。故に相聚(あつ)まって反を謀(はか)るのみ、と。 高祖はすでに大きな功労を立てた者にだけは領地を与たえ終ったが、残りの者は功績の大小を言いつのって決まらなかった。高祖が二重廊下の上から見下ろすと、諸将があちこちと砂の上に座って何やら話し合っている。張良に尋ねると「陛下はあの者たちの力によって天下を取られましたが、今のところ領地を与えられた者は、皆古くからの知り合いか、目をかけられた者たちです。また、誅殺された者は、皆陛下が常日頃憎んでいた者ばかりです。ですからあの連中は皆が皆領地をもらえないのではないかと心配し、一方わずかの落ち度でも、疑われて殺されるかと恐れているのです。それでああして集まって、いっそ謀反を起こそうかと相談しているのです」と答えた。つづく 十八史略 つづき 2010-03-18 17 40 51 | 十八史略 承前 上曰、奈何。良曰、陛下平生所憎、羣臣所共知、誰最甚者。上曰、雍齒。良曰、急先封齒。於是封齒爲什方侯。而急趣丞相・御史、定功行封。羣臣皆喜曰、雍齒且侯、吾屬無患矣。詔定元功十八人位次、賜丞相何、劔履上殿、入朝不趨。 尊太公爲太上皇。 上曰く、奈何(いかん)せん、と。良曰く、陛下平生憎む所にして、群臣の共に知るところは、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒(ようし)なり、と。良曰く、急に先ず齒を封ぜよ、と。是に於いて齒を封じて什方侯と為す。而(しか)して急に丞相・御史を趣(うなが)して、功を定め封を行う。群臣皆喜んで曰く、雍齒すら且つ侯たり、吾が属、患い無けん、と。 詔(みことのり)して元功十八人の位次(いじ)を定め、丞相何に賜い、剣履(けんり)して殿(でん)に上り、入朝して趨(はし)らざらしむ。 太公を尊んで太上皇と為す。 高祖は「どうすればよかろう」と尋ねると、張良は「陛下が平生憎んでおられて、なおかつ群臣がそれを知っている、その最たる者は誰でしょうか」高祖は「雍齒だろう」張良は「では真っ先に雍齒に領地をお与えください」そこで雍齒を什方(じゅうほう)侯に取り立てた。そうしておいて丞相や御史を督促して、諸将の功績を定めて領地を決めることにした。群臣は皆喜んで言った。「あの疎まれていた雍齒すら侯に取り立てられたのだから、我々は何の心配も無いだろう」と。 詔(みことのり)によって大功ある者十八人の席次を定め、丞相の蕭何には剣をつけ履(くつ)をはいて殿上にのぼることを許し、朝廷に入っても小走りしなくとも良いという恩典を賜った。 高祖は父の太公を尊んで太上皇(たいじょうこう)という尊号を奉った。 元功 元は頭、最上、第一の意味がある。 十八史略 叔孫通 2010-03-20 10 35 35 | 十八史略 與に成を守るべし 帝懲秦苛法、爲簡易。羣臣飮酒争功、酔或妄呼、抜劍撃柱。叔孫通説上曰、儒者難與進取、可與守成。願懲魯諸生、共起朝儀。上從之。魯有兩生。不肯行曰、禮樂積、而後可興也。通與所徴及上左右、與弟子百餘人、爲緜蕝野外習之。 帝、秦の苛法に懲りて簡易を為す。群臣酒を飲んで功を争い、酔うて或いは妄呼(もうこ)し、剣を抜いて柱を撃つ。叔孫通(しゅくそんとう)、上(しょう)に説いて曰く、儒者は与(とも)に進んで取り難く、ともに成を守るべし。願はくは魯の諸生を徴(ちょう)して、共に朝儀を起こさん、と。上之に従う。魯に両生有り。行くを肯(がえ)んぜずして曰く、礼楽は徳を積んで、後に興すべきなり、と。通(とう)、徴(め)す所のもの及び上の左右と、弟子(ていし)百余人と、緜蕝(めんぜつ)を野外に為(つく)って之を習わす。ー通釈は次回にー 十八史略 2010-03-23 08 20 26 | 十八史略 高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。 緜蕝(めんぜつ) 緜は木綿糸、蕝は茅 十八史略 叔孫通太常となる 2010-03-25 17 48 27 | 十八史略 七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 十八史略 叔孫通 太常となる 2010-03-27 13 49 23 | 十八史略 前回のつづき 読み下し文から 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。 法酒 儀礼の酒 諠譁 騒がしいこと、喧嘩 太常 神祇官、 十八史略 陳平匈奴と和睦す 2010-03-30 18 25 02 | 十八史略 匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。 九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。 匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。 九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。 匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。 九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。 梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族 梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。 梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。 十八史略 安くんぞ詩書を事とせん 2010-04-08 15 38 05 | 十八史略 前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、 帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。 遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。 陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。 高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。 南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。 乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。 十八史略 陸賈新語 2010-04-10 12 16 57 | 十八史略 承前 賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。 賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。 つづき 陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。 新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語) 十八史略 大風起こって雲飛揚す 2010-04-13 18 21 26 | 十八史略 淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。 十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、 大風起雲飛揚。 威加海内兮歸故郷。 安得猛士兮守四方。 令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。 淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。 十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、 大風起って雲飛揚(ひよう)す。 威、海内に加わって故郷に帰る。 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。 沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。 淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。 十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。 かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。 過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。 太牢 たいそう立派なご馳走。 十八史略 高祖、太子盈を廃せんと欲す 2010-04-20 16 33 42 | 十八史略 初戚姫有寵。生趙王如意。呂后見疏。太子仁弱。上以如意類己、欲廃太子而立之。羣臣争之、皆不能得。呂后使人彊要張良畫計。良曰、此難以口舌争也。顧上所不能致者四人。東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生。以上嫚侮士故、逃匿山中、義不爲漢臣。上高此四人。今令太子爲書卑詞、安車固請、宜来。至以爲客、時從入朝、令上見之、則一助也。 初め戚姫(せきき) 寵(ちょう)有り。趙王如意(じょい)を生む。呂后疏(うと)んぜらる。太子仁弱(じんじゃく)なり。上(しょう)、如意の己に類するを以って、太子を廃して之を立てんと欲す。群臣之を争えども、皆得ること能(あた)わず。呂后、人をして張良を彊要(きょうよう)して画計せしむ。良曰く、此れ口舌(こうぜつ)を以って争いがたきなり。顧(おも)うに上(しょう)の致すこと能わざる所の者四人あり。東園公・綺里季(きりき)・夏黄(かこう)公・甪里(ろくり)先生と曰う。上、士を嫚侮(まんぶ)する故を以って、逃れて山中に匿(かく)れ、義として漢の臣と為らず。上、此の四人を高しとす。今、太子をして書を為(つく)り詞(ことば)を卑(ひく)うし、安車(あんしゃ)もて固く請わしめば、宜しく来るべし。至らば以って客と為し、時々に従えて入朝し、上をして之を見しめば、則ち一助なり、と。 初め戚姫が帝に寵愛されて、趙王如意(じょい)を生んだので、呂后は疎んぜられた。そのうえ呂后の生んだ太子(盈)は慈悲深くはあったが身体が弱かった。帝は如意の気性が自分に似ていたので、盈を廃して如意を立てようとした。群臣は諌めたけれども、どれも聞き入れられなかった。そこで呂后は使者を張良に遣わして強いて太子の安泰を画策させた。張良はこれに答えて、「これは口先で諌めてもどうなるものでもありません。それがしが思うに、帝が招聘(しょうへい)しようとしてもどうにもならない人物が四人居ります、東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生といいますが、彼等は帝が士をあなどり軽んずるのを見て山中に隠れ、義を貫いて臣になりません。帝はこの四人を見識の高い者だと思っておられます。今太子が手紙を書き、言葉を丁寧にして、乗り心地の良い車で是非にと請えば、彼等はきっと太子のもとにやって来るでしょう。参りましたならば、彼等を賓客として遇し、折にふれて伴って帝のお目にかけるようになされますならば、一つの助けになりましょう」と言った。 彊要 強要と同じ。 嫚侮 嫚も侮もあなどる、ばかにすること。 甪里先生 角里とも書く。 十八史略 羽翼已に成れり。動かし難し 2010-04-24 08 35 45 | 十八史略 呂后使人奉太子書招之。四人至。帝撃布還、愈欲易太子。後置酒。太子侍。良所招四人者從。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。上怪問之。四人前對、各言姓名。上大驚曰、吾求公數歳、公避逃我。今何自從吾兒游乎。 四人曰、陛下輕士善罵。臣等義不辱。今聞太子仁孝・恭敬愛士、天下莫不延頸願爲太子死者。故臣等來耳。上曰、煩公。幸卒調護。四人出。上召戚夫人、指示之曰、我欲易之、彼四人者、輔之。羽翼已成。難動矣。 呂后人をして太子の書を奉じて之を招かしむ。四人至る。帝、布を撃って還り、愈々太子を易(か)えんと欲す。後、置酒(ちしゅ)す。太子侍す。良の招く所の四人の者従う。年皆八十余、鬚眉皓白(しゅびこうはく)、衣冠甚だ偉なり。上(しょう)、怪しんで之を問う。四人前(すす)んで対(こた)え、各々姓名を言う。上、大いに驚いて曰く、吾、公を求むること数歳なれども、公、我を避逃(ひとう)せり。今何に自(よ)って吾が児に従って游(あそ)ぶかと。 四人曰く、陛下士を軽んじて善く罵(ののし)る。臣等、義として辱(はず)かしめられず。今、太子、仁孝・恭敬にして士を愛し、天下頸(くび)を延べて太子の為に死するを願わざる者莫(な)しと聞く。故に臣等来れるのみ、と。上曰く、公を煩わさん。幸に卒(つい)に調護せよ、と。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示(しし)して曰く、我之を易えんと欲すれども、彼(か)の四人の者之を輔(たす)く。羽翼已に成れり。動かし難し、と。 呂后は使者をつかわして太子の書状を奉じて四人を招かせた。四人は都にやって来た。高祖は黥布を伐って帰り、いよいよ太子を易えようと思った。 その後宮中で酒宴が開かれた。太子も侍(はべ)っていたが、張良の献策で招かれた四人も付き従っていた。年齢は皆八十以上、ひげも眉も真っ白で衣冠をつけた姿がたいへん立派であった。帝は不思議に思い、名を尋ねると四人とも前に出て姓名を名乗った。帝は大いに驚き「余は貴公たちを何年も求めたが、その度に避け、逃げた。それが今どうして吾が子に従って客となっておられるのか」と問うた。四人は口をそろえて「陛下は士を軽んじてよく罵倒なさいます。臣らは義を重んじておりますゆえ辱めを受けてまで仕える気はございません。ところが太子は慈悲深く、孝心がお有りで、うやうやしく敬(つつし)んでよく士を愛されますので、天下の人びとで太子のために首をさし延ばして死ぬことを厭わない者はないと聞きおよんでいます。私どもが来たのはそのためでございます」と答えた。帝は「貴公たちの力を借りよう、どうかわが子を助けもり立てて下されよ」と頼んだ。帝は戚夫人を呼び、四人を指し示して「わしは太子を替えようと思ったがあの四人の者が太子を補佐している、ひな鳥に羽や翼が備わったも同然、もう動かすことは出来なくなった」と言った。 十八史略 乃(なんじ)の知る所に非ざるなり 2010-04-27 11 52 44 | 十八史略 蕭何以長安地陿、上林中多空地棄、請令民得入田。上大怒、下何廷尉、械繋之、數日而赦之。 上撃布中流矢、疾甚。呂后問、陛下百歳後、蕭相國死。誰可代之。曰、曹參。其次。曰、王陵。然少戇。陳平可以助之。平智有餘。然難獨任。周勃重厚少文、可令爲太尉。安劉氏者必勃也。復問其次。上曰、此後亦非乃所知也。 蕭何、長安の地陿(せま)くして、上林の中(うち)に空地の棄てられたるもの多きを以って、民をして入って田(でん)することを得しめんと請う。上大いに怒り何を廷尉に下(くだ)して、之を械繋(かいけい)せしが、数日にして之を赦(ゆる)せり。 上、布を撃つや流矢に中(あた)って疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后問う、陛下百歳の後、蕭相國死せば、誰か之に代るべき、と。曰く、曹參なり、と。其の次は。曰く、王陵なり、然れども少しく戇(とう)なり。陳平以って之を助くべし。平の智は余りあり。然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なく、太尉(たいい)たらしむべし。劉氏を安んぜん者は必ず勃ならん、と。復其の次を問う。上曰く、此の後は亦乃(なんじ)の知る所に非ざるなり。 蕭何が、長安の地は狭いのに、帝の御料場の中には空地のままうち棄てられたままになっている所があるので、民が林に入って耕作できるように願い出た。帝は大変怒って、蕭何を獄吏の手に下して、手かせをして牢に繋いだが数日経って赦した。 帝は黥布を征伐した時、流れ矢にあたったが、其の傷がもとで病が重くなった。そこで呂后が問うた「陛下に万一の事態が起こったとき、相国の蕭何がもし死んだら誰を代りに任用したらよろしうございましょう」帝は「曹参がよい」と答えた。更に「その次は」と問うと「王陵である、が少し愚直であるから陳平に補佐させるようにせよ。陳平は知略は充分にあるが一人では任せがたい。周勃は重厚な人物であるが、飾り気がないから太尉とするがよい。将来劉氏を安泰に保つ者は周勃であろう」と言った。呂后がまたその次を問うと、帝は「それから先のことはそなたの知ったことではなかろう」と言った。 上林 天子の庭園、狩猟などを行った。 田 耕すこと 廷尉 刑罰をつかさどる官名 械繋 械は手かせ足かせ 戇 愚直、がんこ 文少なく 文は模様、飾り 太尉 軍事長官、丞相に次ぐ位 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/103 十八史略 人豚 2010-04-29 12 36 49 | 十八史略 上崩。葬長陵。爲漢王者四年、爲帝者八年、凡十二年。太子盈立。是爲孝惠皇帝。 孝惠皇帝名盈。母呂太后。即位之元年、呂后鴆殺趙王如意、斷戚夫人手足、去眼耳、飮瘖藥、使居廁中。命曰人彘、召帝觀之。帝驚大哭、因病,歳餘不能起。 上(しょう)崩ず。長陵に葬る。漢王たること四年、帝たること八年、凡(すべ)て十二年なり。太子盈立つ。是を孝惠皇帝と為す。 孝惠皇帝名は盈(えい)、母は呂太后なり。位に即くの元年、呂后、趙王如意(じょい)を鴆殺(ちんさつ)し、戚夫人の手足(しゅそく)を断ち、眼を去り、耳を(ふす)べ、瘖薬(いんやく)を飲ましめ、厠中(しちゅう)に居(お)らしむ。命じて人彘(じんてい)と曰い、帝を召して之を観(み)しむ。帝驚いて大いに哭し、因(よ)って病み、歳余起(た)つこと能(あた)わず。 高祖が崩御し(前195年)、長陵に葬られた。漢王であること四年、天子であること八年、あわせて十二年間であった。二代皇帝に太子の盈が就いた。これを孝恵皇帝(恵帝)といった。 孝恵皇帝、名は盈という、母は呂太后である。即位の年、呂后は趙王如意を鴆毒(ちんどく)で殺し、戚夫人の手足を斬り、眼球をえぐり取り、耳を燻(いぶ)してふさぎ、瘖薬を飲ませて声を奪ったうえで厠(かわや)に閉じ込めた。これを「ひとぶた」と呼ばせて、恵帝にこれを見せた。恵帝は驚いて声をあげて哭(な)き叫んだ。とうとうこれがもとで病気になり、一年余りも起き上がれなかった。 鴆毒 マムシを食った鴆という鳥の羽を浸した酒という 瘖薬 ひとを唖にする薬 人彘 彘は猪子 十八史略 蕭何卒し曹参代って相国となる。 2010-05-01 09 27 21 | 十八史略 二年、蕭何卒。齊相曹參、令舎人趣爲裝。吾且入相。使者果召參。代何爲相國、一遵何約束。百姓歌之曰、 蕭何爲相、 較若畫一。 曹參代之、 守而勿失、 載其淨、 民以寧壹。 五年、曹參卒。 六年、王陵、爲右丞相、陳平爲左丞相。張良卒。周勃爲太尉。 二年、蕭何卒す。齊の相曹參、舎人をして趣(すみや)かに装を為さしむ。吾且(まさ)に入って相たらんとす、と。使者果たして参を召す。何に代って相国と為り、一(いつ)に何の約束に遵(したが)う。百姓(ひゃくせい)之を歌って曰く、 蕭何、相(しょう)と為り、 較(こう)として一を画(かく)するが若(ごと)し 曹参之に代り、 守って失うこと勿(な)く 載(こと)其れ清浄にして、 民以って寧壱(ねいいつ)なり 五年、曹参卒す。 六年、王陵、右丞相と為り、陳平、左丞相と為る。張良卒す。周勃、太尉と為る。 恵帝の二年に蕭何が死んだ。この時斉の大臣の曹参は、召使いに急いで旅装を命じた。そして自分はこれから朝廷に入って宰相になるのだといったが、果たしてその通り、使者が来て曹参を召した。入朝した曹参は蕭何に代って宰相になり、蕭何のとりきめに従った。人々はこれを讃えて歌って言うには、 蕭何さまの、まつりごと、その法すっきり一の文字 曹参さまがひきついで、なに変わることなきありがたさ すべてが清廉潔白で、おかげでわしらは安泰じゃ 五年にその曹参が死んだ。 六年に王陵が右丞相となり、陳平が左丞相となった。 同年張良が死に、周勃が太尉となった。 十八史略 劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て 2010-05-07 11 22 11 | 十八史略 太后、朝に臨み制を称す 帝在位七年崩。無子。呂太后、取他人子、以爲太子。至是即位。太后臨朝稱制。 元年、太后議立諸呂爲王。王陵曰、高帝刑白馬、盟曰、非劉氏而王、天下共撃之。平・勃以爲可。陵罷相。遂王呂氏。 四年、太后廢少帝幽殺之、立恆山王義爲帝。改名弘。亦名佗人子、爲惠帝子者也。 帝、位に在ること七年にして崩ず。子無し。呂太后、他人の子を取って、以って太子と為す。是(ここ)に至って位に即(つ)く。太后、朝に臨み制を称す。 元年、太后、諸呂を立てて王と為さんと議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑(けい)し、盟(ちか)って曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て、と。平・勃以って可と為す。陵、相を罷(や)む。遂に呂氏を王とす。 四年、太后、少帝を廃して之を幽殺し、恒山王、義を立てて帝と為す。名を弘(こう)と改む。亦佗人の子を名づけて、恵帝の子と為しし者なり。 恵帝は在位七年で崩御した。帝に子は無かった。呂太后は他人の子を奪って太子としていたが、恵帝が亡くなったので、この太子が位についた(少帝恭という)そして呂太后は朝廷にあって自身の命令を制と称して天子のみことのりと同列にしてしまった。 少帝の元年、太后が一族の呂氏の面々を王に就かせようと朝議に諮った。右丞相王陵が敢然と「高祖皇帝は白馬をいけにえに捧げて、わが劉氏でない者が王となったなら、天下こぞってこれを撃つべしと、盟いを立てられました」と反対した。しかし陳平と周勃が賛成したので王陵は宰相を辞め、結局呂氏が王になった。 四年、呂后は少帝を廃して幽閉したうえで殺し、恒山王の義を立て名を弘と改めて帝とした(少帝弘)。これも他人の子を恵帝の子としておいたものである。 白馬を刑し 刑は殺すこと、いけにえにしてその血をすすって誓いをたてる。 少帝を廃し 呂后は太子恭の実母を殺して奪った。それを知った少帝が呂后を恨むようになったからという。 十八史略 朕は献を受けざるなり 2010-05-13 10 41 25 | 十八史略 孝文皇帝名恆、母薄氏。夢龍據胸、遂生帝。帝立、尊爲皇太后。 元年、陳平爲左丞相、周勃爲右丞相。 時有獻千里馬者。帝曰、鸞旗在前、屬車在後、吉行日五十里、師行日三十里。朕乗千里馬、獨先安之。於是還其馬、與道里費、而下詔曰、朕不受獻也。其令四方毋來獻。 孝文皇帝名は恒(こう)、母は薄氏(はくし)なり。龍胸に拠(よ)ると夢みて、遂に帝を生む。帝立ち、尊んで皇太后と為す。 元年、陳平左丞相と為り、周勃右丞相と為る。 時に千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、鸞旗(らんき)前に在り、属車後ろに在って、吉行(きっこう)には日に五十里、師行には日に三十里なり。朕、千里の馬に乗るとも、独り先だって安(いづ)くにか之(ゆ)かん、と。是(ここ)に於いて其の馬を還(かえ)し、道里の費を与え、而(しか)して詔(みことのり)を下して曰く、朕は献を受けざるなり。其れ四方をして来献すること毋(な)からしめよ、と。 孝文皇帝名は恒といい、母は薄氏である。龍が胸に棲む夢をみて身ごもり、文帝を生んだ。帝は位につくと、母をうやまって皇太后と称した。 元年に、陳平は左丞相となり、周勃が右丞相となった。 ときに、一日に千里をも走るという名馬を献上する者がいた。しかし文帝は「天子の旗を前に、供奉(ぐぶ)の車を従えて、巡狩(じゅんしゅ)には一日五十里、征伐のときには一日三十里進む決まりであるのに、千里の馬に乗ったところでわし一人が一体どこに行こうというのか」と言った。そこでその馬と道中の費用を渡して返した。そうしてみことのりを下した。「朕は一切献上を受けぬ、国中に来献することの無いようはからえ」と。 鸞旗 天子の旗、鸞は瑞鳥で鳳凰に似る。 吉行 狩など、平和の時に出かける。師行の師はいくさ 十八史略 惶愧して汗出で背を沾す 2010-05-18 09 46 26 | 十八史略 周勃職を免ぜらる 帝明修國家事。朝而問右丞相勃曰、天下一歳決獄幾何。勃謝不知。又問、一歳錢穀出入幾何。勃又謝不知。惶愧汗出沾背。上問左丞相平。平曰、有主者。即問決獄責廷尉。問錢穀責治粟内史。上曰、君所主者何事。平謝曰、陛下使待罪宰相。宰相者、上佐天子、理陰陽、順四時、下遂萬物の宜、外鎭撫四夷、内親附百姓、使卿大夫各得其職焉。帝稱善。勃大慚、謝病免。 帝益々国家の事を明修す。朝(ちょう)にて右丞相勃に問うて曰く、天下一歳の決獄(けつごく)幾何(いくばく)ぞ、と。勃知らずと謝す。又問う、一歳の銭穀の出入幾何ぞ、と。勃又知らずと謝す。惶愧(こうき)して汗出で背を沾(うるお)す。上(しょう)、左丞相平に問う。平曰く、主者(しゅしゃ)有り。即(も)し決獄を問うには廷尉を責められよ。銭穀を問うには治粟内史(ちぞくないし)を責められよ、と。上曰く、君の主(つかさど)る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上(かみ)、天子を佐(たす)け、陰陽を理し、四時(しじ)を順にし、下(しも)万物の宜(よろ)しきを遂げ、外、四夷(しい)を鎮撫し、内、百姓(ひゃくせい)を親附(しんぷ)し、卿大夫をして各々其の職を得しむるものなり、と。帝、善しと称す。勃大いに慚(は)じ、病と謝して免ぜらる。 文帝は益々国のまつりごとに通暁しようと務めた。ある時、朝廷で右丞相の周勃に下問した。「一年に裁判の数はいかほどか」と。周勃は「存じません」と恐縮して答えた。帝は又、「一年に金銭・穀物の出入りはいかほどか」と問うた。周勃は又「存じません」と答えたが、恐れ恥じ入って冷や汗で背中がぐっしょりになった。帝は左丞相の陳平に同じことを問うた。陳平が答えて「それぞれ管掌というものがあります。裁判についてのご下問は廷尉に糺して下さい。また金銭、穀物のことは治粟内史にお尋ねください」と言った。帝は「それではそちは何を司っておるのか」と訊くと、陳平は「私は宰相として至りませず、陛下から罰せられるのを待っている身でありますが、そもそも宰相の職務は上は天子を補佐し、陰陽を整え、春夏秋冬を順調ならしめ、下は万物のよろしきを得て、外は四方の蛮夷を鎮め、内は人民を親しみなつかせ、卿大夫にはそれぞれふさわしい職務を得させること、でございます」と申し上げた。帝は「もっともである」といわれた。周勃は大いに恥じいって、病と申し出て、職を免ぜられた。 決獄 嫌疑のある事件を決裁すること。 惶愧 惶はおそれる、愧ははじる。 廷尉 裁判を掌る長官。 治粟内史 銭穀を掌る長官。 陛下、罪を宰相に待たしむ 宰相の重責ありながら何の功績もなく、ただ陛下から罪の来るのを待っているの意、宰相の謙辞。 陰陽を理し、四時を順にし 正しく政治を行えば天変地異が無く、四時が順調に推移するという思想があったから。 十八史略 廷尉は天下の平なり 2010-05-20 08 16 47 | 十八史略 河南守呉公、治平爲天下第一。召爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼。年二十餘。一歳中、超遷爲大中大夫。 陳平卒。 二年、賜天下今年田租之半。 三年、張釋之爲廷尉。上行中渭橋。有一人、橋下走。乘輿馬驚。捕屬廷尉。釋之奏、犯蹕當罰金。上怒。釋之曰、法如是。更重之、是法不信於民。廷尉天下之平也。一傾、天下用法、皆爲之輕重。民安所措手足乎。上良久曰、廷尉當、是也。 河南の守(しゅ)呉公、治平天下第一たり。召して廷尉と為す。呉公、洛陽の人賈誼(かぎ)を薦(すす)む。年二十余。一歳のうち、超遷(ちょうせん)して大中大夫と為る。 陳平、卒す。 二年、天下に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 三年、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為る。上(しょう)中渭橋(ちゅういきょう)を行く。一人(いちにん)有り、橋下より走る。乗輿(じょうよ)の馬驚く。捕えて廷尉に属す。釈之奏す、蹕(ひつ)を犯すは罰金に当(とう)す、と。上怒る。釈之曰く、法是(かく)の如し。更に之を重くせば、是れ法、民に信ならず。廷尉は天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用うるもの、皆之が為に軽重(けいじゅう)せん。民安(いづ)くにか手足(しゅそく)を措(お)く所あらんや、と。上、良々(やや)久しうして曰く、廷尉の当、是なり、と。 河南の大守呉公は、政治の公平なこと天下第一であったので召して廷尉とした。呉公は洛陽の人賈誼を推薦した。賈誼はその時二十歳あまりであったが、一年のうちに、一足飛びに出世して大中大夫となった。 この年、陳平が死んだ。 文帝の二年、天下中に今年の年貢の半分が免除された。 三年、張釋之が廷尉になった。ある日、文帝が中渭橋を通りかかると、橋の下から走り出した者がいて、帝の馬が驚いて棹立ちになった。すぐさま捕えて廷尉に引き渡した。釈之が「行幸を騒がせたのは罰金に相当いたします」と奏上した。帝は処分の軽さに立腹したが、釈之はひるまず「法ではそのように決まっております。もしこれより重く致しますと、法が民に信用されなくなります。廷尉の職は天下の公平を司ることにあります。一たび傾きますと天下の法に携わる者が、これにならって、勝手に軽重を決めるでしょう。そうなれば民はどうして手足を伸ばせましょうか」と申し上げた。帝はしばらく思案の後、口を開いた「廷尉の処置はもっともである」と。 超遷 飛び越えて昇進すること。 大中大夫 論議を掌る官。 蹕 天子の行列のさきばらい、行きは警といい、帰りを蹕という。 十八史略 一尺の布も尚縫うべし 2010-05-25 16 27 10 | 十八史略 六年、淮南王長謀反、廢徙死。民有歌之者。曰、一尺布尚可縫。一斗粟尚可舂。兄弟二人不相容。帝聞而病之、後封其四子爲侯。 匈奴冒頓死。 先是、上議以賈誼位公卿。大臣多短之。上以爲長沙王大傅。徙梁王大傅。上疏曰、方今時埶、可爲痛哭者一。可爲流涕者二。可爲長大息者六。 十年、帝舅薄昭、殺漢使者。帝不忍誅、使公卿羣臣往哭之。昭自殺。 六年、淮南(わいなん)の王(れいおう)長、謀反(ぼうはん)し、廃徒(はいし)せられて死す。民之を歌う者あり、曰く、 一尺(せき)の布も尚縫うべし。 一斗の粟(ぞく)もなお舂(うすづ)くべし。 兄弟(けいてい)二人(ににん)相容れず。と 帝聞いて之を病(うれ)え、後其の四子(しし)を封(ほう)じて侯と為せり。 匈奴の冒頓(ぼくとつ)死す。 是より先、上(しょう)、賈誼(かぎ)を以って公卿(こうきょう)に位せしめんと議す。大臣多く之を短(そし)る。上以って長沙王の大傅(たいふ)と為す。梁王の大傅に徒(うつ)る。上疏(じょうそ)して曰く、方今(ほうこん)の時埶(じせい)、為(ため)に痛哭すべき者一。為に流涕すべき者二。為に長大息すべき者六あり、と。 十年、帝の舅(きゅう)薄昭、漢の使者を殺す。帝、誅するに忍びず、公卿羣臣をして往(ゆ)いて之を哭せしむ。昭自殺す。 六年に文帝の弟で淮南の王(れいおう)長が謀反を企てたが発覚して、王位を廃され、他所に移される途中で死んだ。痛ましく思った民の歌が広まった。 わずかな布も縫って仲良く着られる。僅かな粟も搗いて一緒に食べられる。なのにどうして兄弟二人許し合えぬ。 文帝はこの歌を聞いてひどく気に病み、王の四人の遺児を侯に封じた。 この年、匈奴の冒頓が死んだ。 これより以前、帝は賈誼を公卿に取り立てようと朝議にかけたが、大臣の多くは短所をあげて非難した。そのため帝は賈誼を長沙王の大傅にしたが、間もなく梁王の大傅に移した。ある時、賈誼は上疏して「現今の時勢を見ますに、悲しみ嘆くべきものが一つ、涙を流すべきものが二つ、ため息をつくものが六つあります。」と申しあげた。 十年に、文帝の叔父の薄昭が朝廷の使者を殺した。帝は薄昭を誅殺するに忍びず公卿、群臣を薄昭の邸で使者の死を悲しみ泣かせた。薄昭は罪が軽くないことを悟って自殺した。 大傅 王を補佐、養育する役。 上疏 天子に奉る意見書 一尺の布・・・頼山陽の静御前の詩にみえる 十八史略 以って父の刑を贖(あがな)わしめよ 2010-05-29 15 48 09 | 十八史略 十二年、賜民今年田租半。 十三年、太倉令淳于意、有罪當刑。少女緹縈上書曰、死者不可復生。刑者不可復屬、願没入爲官婢、以贖父刑。上憐其意、詔除肉刑。 是歳、除田租税 十六年、方士新垣平爲上大夫。 後元年、平以詐伏誅。 十二年、民に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 十三年、太倉の令淳于意(じゅんうい)、罪有って刑に当る。少女緹縈(ていえい)上書して曰く、死者は復(また)生く可からず。刑者は復属す可からず、願わくは没入して官婢と為し、以って父の刑を贖(あがな)わしめよ、と。上(しょう)其の意を憐れみ、詔(みことのり)して肉刑を除く。 十六年、方士新垣平(しんえんぺい)上大夫と為る。 後の元年、平、詐(さ)を以って誅に伏す。 十二年、民に今年の田租の半分を免除した。 十三年、太倉令の淳于意が肉体の一部を切る肉刑に相当する罪を犯した。娘の緹縈が上書して言うには「死んだ者は生き返りません、肉体を切られた者は再び元に戻せません。どうか私の身体をお取り上げになって召使にすることで、父の刑をあがなうことをお許し下さい」と。帝は少女の心根を憐れみ、詔を下して以後肉刑を廃止した。 十六年、方士の新垣平なる者が一計を案じて上大夫となった。 のちの元年、新垣平のいつわりが露見して殺された。 太倉の令 朝廷の米倉を管理する長官。 肉刑 刺青、鼻そぎ、足切、宮刑など。 方士 仙術を行う者。 後の元年 新垣平の計略によって瑞兆が顕われたことを喜んだ文帝が十七年を後の元年とした。 十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ 2010-06-01 10 10 51 | 十八史略 将軍の令を聞いて天子の詔を聞かず 六年、匈奴寇上郡・雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上・棘門軍兒戲耳。 六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備えしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。大将以下、騎して送迎す。已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。乃ち言を伝えて門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。群臣皆驚く。上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。 文帝の後の六年に匈奴が上郡や雲中を侵した。文帝は詔を下して、将軍の周亜夫は細柳に駐屯し、劉禮は覇上に、徐は棘門に宿営して匈奴に備えさせた。文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴いた。馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下、騎馬で送迎した。その後細柳に行くと門を入ることが出来ない。先駆の者が「天子さまがお着きになる開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」と。帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせた。そして将軍の命によって門を開かせたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言った。帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげた。群臣は皆あきれたが、帝はすっかり感服して、「これこそ真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言った。 寇 倭寇、元寇の寇、領土を侵すこと。上郡 陜西省の地名。 雲中 山西省の地名。周亞夫 周勃の子。 細柳・覇上・棘門 陜西省の地名長安近郊。 屯・次 ともに留まって守備をすること。 且に 将に同じ、再読文字「まさに・・・す」と読む。 轡(ひ)を按(あん)じ くつわを引いて馬をおさえること。 向者 二字でさきと読む向は以前のこと、者は「・・・は」覇上と棘門を指す 十八史略 風流篤厚 2010-06-03 18 01 50 | 十八史略 文帝崩ず 七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。 七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。 後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。 太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。 弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること 十八史略 孝景皇帝 2010-06-05 09 30 46 | 十八史略 孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。 帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請 言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。 初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。 孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。 帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。 初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず 十八史略 孝景皇帝 2010-06-08 08 33 24 | 十八史略 孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。 景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。 以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。 内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ 十八史略 呉楚七国の乱 2010-06-10 08 26 59 | 十八史略 及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。 帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。 景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。 十八史略 周亜夫、血を吐きて死す。 2010-06-12 14 18 58 | 十八史略 初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。 初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。 鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。 緩急 危急の場合 太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。 鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと 以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。 ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。 一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ 十八史略 2010-06-15 08 32 52 | 十八史略 自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。 漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、 黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。 漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく 黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。 廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉 十八史略 物盛んにして衰うる 2010-06-17 08 42 38 | 十八史略 爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。 吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。 帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。 官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。 すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。 景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。 重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。 十八史略 始めて改元して建元という 2010-06-19 08 05 52 | 十八史略 孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。 擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。 孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。 賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。 孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。 武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。 十八史略 董仲舒の対 2010-06-22 17 56 07 | 十八史略 又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。 又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。 また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく 極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。 十八史略 董仲舒の対 2 2010-06-24 17 29 44 | 十八史略 今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。 十八史略董仲舒の続きです。 陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。 陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。 陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。 漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。 然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。 更張 張り替えること。 更化 改め変えること。 十八史略 董仲舒の対 3 2010-06-26 11 52 01 | 十八史略 太學 又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。 又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。 又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。 董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」 又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。 太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること 十八史略 董仲舒の対 4 2010-06-29 13 47 59 | 十八史略 又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。 又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。 また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。 春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。 十八史略 力行如何(いかん)を顧みるのみ 2010-07-01 14 04 46 | 十八史略 上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。 三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。 帝始爲微行、起上林苑。 五年、置五經博士。 六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。 元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。 上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。 三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。 帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。 五年、五経博士を置く。 六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。 元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。 武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。 三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。 武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。 五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。 六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。 年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。 安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。 十八史略 武帝神仙を求む。 2010-07-06 13 35 20 | 十八史略 二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。 二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。 元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。 丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者 十八史略 司馬相如 2010-07-08 13 50 35 | 十八史略 上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。 唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。 又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。 上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。 唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。 又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。 武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。 唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。 また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。 大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。 十八史略 曲学阿世 2010-07-10 15 53 05 | 十八史略 曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ 徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。 六年、初算商車。 吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。 六年、初めて商車を算す。 武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。 元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。 菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問 十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや 2010-07-13 08 27 32 | 十八史略 匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。 元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。 匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。 元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。 匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。 元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。 この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。 上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。 十八史略 張騫を西域に遣わす 2010-07-15 11 51 44 | 十八史略 五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。 匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。 六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。 元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。 五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。 匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。 還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。 六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。 元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。 元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。 匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。 衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。 匈奴が代郡に攻め入った。 六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。 元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。 代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族 十八史略 霍去病、西域を平ぐ 2010-07-17 12 16 10 | 十八史略 二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。 匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。 三年、匈奴入右北平・定襄。 四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。 二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。 匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。 三年、匈奴、右北平・定襄に入る。 四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。 元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。 匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。 三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。 元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。 十八史略 衛青と霍去病 2010-07-20 18 17 08 | 十八史略 元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。 西域始通。置酒泉・武威郡。 五年、遣將軍路博等撃南越。 方士五利將軍欒大、以詐誅。 六年、討西羌平之。 南越平。置九郡。 元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。 西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。 五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。 方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。 六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。 南越平らぐ。九郡を置く 元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。 西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。 五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。 六年、西羌国を討伐してこれを平定した。 南越も平定したので、九郡を置いた。 文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。 衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没 霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/98 十八史略 泰山に封じ、粛然山に禅す。 2010-07-22 10 16 14 | 十八史略 元封元年、帝出長城、登單于臺、遣使告單于曰、南越王頭、已懸於漢北闕下。今單于能戰、天子自將待邊。 帝如緱氏、登中嶽、遂東巡海上、求神仙、封泰山、禪粛然、復東北至碣石而還。 滇王降。置益州郡。 三年、撃楼蘭虜其王、撃車師破之。 朝鮮降。置樂浪・臨屯・玄莬・眞蕃郡。 匈奴寇邊。遣兵屯朔方。 五年、南巡江漢、至泰山増封。 六年、撃昆明。 元封元年、帝、長城を出で、単于台に登り、使いを遣わし単于に告げて曰く、南越王の頭(こうべ)はすでに漢の北闕(ほっけつ)の下(もと)に懸かれり。今、単于能(よ)く戦わば、天子自ら将として辺に待たん、と。 帝、緱氏(こうし)に如(ゆ)き、中嶽に登り、遂に東のかた海上を巡り、神仙を求め、泰山に封じ、粛然(しゅくぜん)に禅し、復東北して碣石(けっせき)に至って還る。 滇王(てんおう)降る。益州郡を置く。 三年、楼蘭を撃って其の王を虜にし、車師を撃って之を破る。 朝鮮降る。楽浪・臨屯(りんとん)・玄莬(げんと)・眞蕃郡(しんばんぐん)を置く。 匈奴、辺に寇す。兵を遣わして朔方に屯せしむ。 五年、南のかた江漢を巡(めぐ)り、泰山に至って封(ほう)を増す。 六年、昆明を撃つ。 元封元年に、武帝は長城を越えて冒頓単于の築いた台に登り、使者を遣わして、単于に告げて、「南越王の頭(こうべ)は漢宮の北門に懸かっている。それでも汝が漢と戦うというのなら、わしが自ら大将軍となって国境で待っていてやるが、どうだ」と威した。 武帝は緱氏県に行き、嵩山(すうざん)に登り、更に東の海上を巡り神仙を捜し求めた。それから泰山に登り、天を祀る封の儀式を、麓の粛然山で地を祀る禅の儀式を執り行って、さらに東北に行き、碣石山に至って帰還した。 滇王が降伏したので、益州郡を置いた。 元封三年に楼蘭国に攻め入り、王を虜にした。さらに車師国を撃ち破った。 朝鮮が降伏したので、楽浪・臨屯・玄莬・眞蕃の四郡を置いた。 匈奴は辺境を侵犯したので、兵を派遣して朔方郡に駐屯させた。 五年に、南の揚子江、漢水の地方を巡幸し、泰山に登って、土檀を増築して祀った。 六年に、昆明を攻めた。 北闕 漢の未央宮では北門を正門とした。 緱氏 河南省の県。 中岳 五岳の一、嵩高山、太室山とも。 粛然 泰山の麓にある山の名。 封と禅 封は土を盛って天をまつり、禅は地を清めて山川をまつること。 碣石山 河北省にある山名。 楼蘭・車師 ともに新疆地区にあった国名。 昆明 雲南地方の族名。 十八史略 太初暦を制定す 2010-07-27 14 12 53 | 十八史略 太初元年、帝如泰山。十一月甲子、朔旦冬至、作太初暦、以正月爲歳首。 遣李廣利伐大宛。不克。 遣趙破奴撃匈奴。敗没。 三年、匈奴大入、破塞外城障。 大發兵、從李廣利伐宛。宛降。得善馬數十匹。 四年、匈奴單于、使使來獻。 太初(たいしょ)元年、帝泰山に如(ゆ)く。十一月甲子、朔旦(さくたん)冬至、太初暦を作り、正月を以って歳首と為す。 李廣利(りこうり)を遣わして大宛(だいえん)を伐たしむ。克(か)たず。 趙破奴(ちょうはど)を遣わして匈奴を伐たしむ。敗没す。 三年、匈奴大いに入って、塞外の城障(じょうしょう)を破る。 大いに兵を発し、李廣利に従って宛を伐たしむ。宛降る。善馬数十匹を得たり。 四年、匈奴の単于、使いをして来献せしむ。 太初元年(前104年)、武帝は泰山に行き、封の儀式を行った。この年の十一月甲子の日は一日(ついたち)で冬至でもあったので、暦法を改めて太初暦を制定して、この日を正月元日とし、歳のはじめとした。 李広利を派遣して大宛国を撃たせたが、勝つことができなかった。 趙破奴を派遣して匈奴を撃たせたが、敗れて趙破奴は捕虜になった。 三年に、匈奴が大挙して侵入し砦の外の城壁を破った。 大部隊を動員して李広利の指揮で宛の討伐に向わせた。宛は降伏し、駿馬数十匹を得て帰った。 太初四年に匈奴の単于が使者を送って、貢物を献上した。 甲子 干支のそれぞれ第一番目、きのえね。ちなみにこの年は丁丑直近では1997年で35回還暦を迎えたことになる。 朔旦 一日の朝。 大宛国 西域の代表国、イラン系の国で汗血馬の産地。 敗没 戦に敗れて捕虜になること。 十八史略 蘇武 2010-07-29 10 35 32 | 十八史略 天漢元年、遣中郎將蘇武使匈奴。單于欲降之、幽武置大窖中、絶不飮食。武齧雪與旃毛、并咽之。數日不死。匈奴以爲神、徙武北海上、無人處。使牧羝曰、羝乳乃得歸。 二年、遣李廣利撃匈奴。別將李陵敗降虜。 上以法制御下、好尊用酷吏。東方盗賊滋起。遣使者、衣繍衣、持斧督捕、得斬二千石以下。 四年、李廣利撃匈奴。不利。 太始三年、帝東巡瑯琊、浮海而還。 四年、東巡祀明堂、修封禪。 天漢元年、中郎將蘇武(そぶ)を遣わし匈奴に使いせしむ。単于(ぜんう)之を降(くだ)さんと欲し、武を幽(ゆう)して大窖(たいこう)中に置き、絶えて飲食せしめず。武、雪と旃毛(せんもう)とを齧(か)み、併せて之を咽(の)む。数日死せず。匈奴以って神(しん)と為し、武を北海の上(ほとり)、無人の処に徙(うつ)す。羝(てい)を牧せしめて曰く、羝、乳(にゅう)せば乃(すなわ)ち帰るを得ん、と。 二年、李廣利を遣わして匈奴を撃たしむ。別将李陵敗れて虜(りょ)に降る。 上(しょう)、法制を以って下(しも)を御し、好んで酷吏を尊用す。東方に盗賊滋々(しばしば)起こる。使者を遣わして、繍衣(しゅうい)を衣(き)、斧(ふ)を持して督捕(とくほ)せしめ、二千石以下を斬ることを得しむ。 四年、李広利匈奴を撃つ。利あらず。 太始三年、帝、東のかた瑯琊を巡り、海に浮んで還る。 四年、東巡して明堂を祀り、封禅を修(しゅう)す。 天漢元年、中郎将の蘇武を匈奴に使いとして遣わした。単于は蘇武を虜にして匈奴に仕えさせようとしたが拒絶したので、あなぐらに幽閉し、飲食を絶った。蘇武は織物の毛と雪とをあわせて呑み下して、数日生き延びた。匈奴たちは、その生命力を神がかりであるとして、蘇武を北海の無人の岸辺に移し、牡羊を飼わせて、もし子を産んだら還してやろう。と言った。 天漢二年に李広利を遣わして匈奴を撃たせた。そのとき別軍の将の李陵は敗れて降伏した。 武帝は、法や制度で人民を統治し、冷徹な役人を好んで重く用いた。しかし東方では盗賊が多く出没した。そこで武帝は、使者を送り、その使者に立派な刺繍の衣を着せ、斧を持たせて、賊を取り締まり、捕えさせた。地方長官以下で、悪事を働く者を独断で処刑できるようにした。 四年に、李広利が匈奴を攻めたが、失敗に終った。 太始三年になると武帝は東方の瑯琊郡を巡り、海路船で帰った。 四年に、東方を巡視して、泰山の明堂で諸侯を引見して、天を祀り、地を祓って封禅の儀式を行った。 中郎將 帝を護衛する武官の長。 蘇武 匈奴に捕えられ19年節を守って降らず、昭帝の時代に還った。 北海 バイカル湖。 衣繍衣持斧 天子の代理であることを示すため錦の刺繍の服を着せ、天子が出征の将軍に持たせる斧を授けた。 二千石以下 郡の太守の年俸に等しい。 十八史略 巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る 2010-08-17 13 40 24 | 十八史略 目まぐるしく元号が交替したので、ここで一度整理をしてみます。武帝が始めて年号を制定した建元から昭帝即位までの年号を西暦に対比して掲げてみます。 建元元年 前140年 2150年前 元光 前134年 2144年前 元朔 前128年 2138年前 元狩 前122年 2132年前 元鼎 前116年 2126年前 元封 前110年 2120年前 太初 前104年 2114年前 天漢 前100年 2114年前 太始 前96年 2106年前 征和 前92年 2102年前 後元 前88年 2098年前 征和二年、巫蠱事作。帝如甘泉、以江充爲使者、治巫蠱獄。掘太子宮云、得木人尤多。太子據懼、使客佯爲使者、収捕充斬之、白母衞皇后、發中厩車、載射士、出武庫兵、發長樂宮衞卒。 征和二年、巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る。帝、甘泉に如(ゆ)き、江充を以って使者と為し、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘って云う、木人を得ること尤(もっと)も多し、と。太子據(きょ) 懼(おそ)れ、客をして佯(いつわ)って使者と為し、充を収捕して之を斬らしめ、母衛皇后に白(もう)し、中厩の車を発し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を発す。 征和二年に巫蠱の事件が起こった。帝は甘泉宮に保養に行っていたので、江充を使者に遣わして事件の処断を任せた。かねてより太子と不仲の江充は太子の宮殿を掘り返したら、多くの呪詛の木人が出て来ましたと、嘘の報告をした。 太子の據は江充のわなに陥ったことを知り、恐れて食客の一人を武帝の使者と偽って、江充を捕えて切り殺した。そして母の衛皇后にいきさつを告げて宮中の厩から、兵車を引き出し、射手を乗り込ませ、武器庫から武器を持ち出して長楽宮の護衛兵を出動させた。 十八史略 巫蠱の事 2010-08-19 09 52 19 | 十八史略 上從甘泉宮來、詔發三輔兵。丞相劉屈氂將之。太子亦矯制發兵、逢丞相軍。兵合戰五日、死者數萬。皇后自殺、太子亡至湖、自經死。後有高廟寢郎、田千秋。上書言、有白頭翁、教臣云、子弄父兵、罪當笞。上悟曰、此高廟神靈、告我也。知太子無罪。作歸來望思之臺於湖。天下聞而悲之。 上(しょう)、甘泉宮より来たり、みことのりして三輔の兵を発す。丞相劉屈氂(りゅうくつり)之に将たり。太子も亦制を矯(いつわ)り兵を発し、丞相の軍に逢う。兵、合戦すること五日、死する者数万なり。皇后自殺し、太子亡(に)げて湖(こ)に至り、自頸して死す。 後、高廟の寢郎、田千秋というもの有り。上書して言う、白頭翁有り、臣に教えて云わく、子、父の兵を弄するは、罪笞(ち)に当(とう)す、と。上、悟って曰く、此れ高廟の神霊、我に告ぐるなり。太子の罪無きを知る、と。帰来望思の台を湖に作る。天下、聞いて之を悲しむ。 武帝は急ぎ甘泉宮より戻り、詔勅を発して三輔の兵を出動させた。丞相の劉屈氂が率いた。太子もまた帝の詔勅といつわって兵を繰り出し丞相の軍と対峙した。合戦は五日に及び、死者数万人にも及んだ。太子は敗れ、母の衛皇后は自殺、太子は逃げて湖県に行き、そこで首をくくって死んだ。 後に、高祖の御霊屋(みたまや)の司で田千秋という者が、武帝に書をたてまつって言うには「白頭の翁が現れまして臣に向って、子たる者が、父の兵を勝手に動かすのは笞打ちの刑に相当するのみである。と告げました」と。 武帝はそこで「高祖の霊が我に太子には罪がないことを示されたに違いない」と気づき、湖県に帰来望思台を作った。人々はこれを聞いて大いに悲しんだ。 巫蠱 巫は巫女、蠱は人を惑わし害すること。 三輔の兵 都長安の周囲三郡の兵。 湖 河南省湖県 十八史略 武帝霍光に後を託す。 2010-08-21 09 29 39 | 十八史略 三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。 四年、罷方士候神人者。 以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。 後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。 三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。 四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。 田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。 後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。 征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。 四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。 田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。 後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。 輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟 十八史略 武帝の事跡(一) 2010-08-24 16 29 37 | 十八史略 上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。 上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。 武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。 平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。 十八史略 武帝の事跡二 2010-08-26 14 59 40 | 十八史略 漢、幾んど秦たるを免れず 以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。 方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。 方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。 均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。 十八史略 武帝の事跡 2010-08-28 13 55 24 | 十八史略 丞相連(しき)りに誅を以って死す。 所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。 用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。 武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。 十八史略 武帝の事跡四 2010-08-31 17 35 03 | 十八史略 汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。 汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。 群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。 切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。 十八史略 武帝の事跡 汲黯 2010-09-02 13 32 29 | 十八史略 黯の如きは冠せざれば見ざるなり 淮南王安謀反。曰、漢廷大臣、獨汲黯好直諌、守節死義。如丞相弘等、説之如發蒙耳。黯嘗拝淮陽守。曰、臣病、不能任郡事。願爲郎中、出入禁闥、補過拾遺。上曰、君薄淮陽邪。吾今召君矣。顧淮陽吏民不相得。徒得君之重、臥而治之。至淮陽、十歳竟卒。黯甚爲上所重。大將軍衞雖貴、上或踞廁見之。如黯不冠、不見也。 淮南王(わいなんおう)安、反を謀(はか)る。曰く、「漢廷の大臣、独り汲黯(きゅうあん)、直諌を好み、節を守って義に死す。丞相弘等の如きは、之を説くこと蒙を発(ひら)くがごとき耳(のみ)」と。黯、嘗て淮陽(わいよう)の守に拝せらる。曰く、臣病んで郡事に任ずる能(あた)わず。願わくは郎中と為り、禁闥(きんたつ)に出入し、過を補い遺(い)を拾わん、と。上曰く、君、淮陽を薄(うす)んずるか。吾今、君を召さん。顧(おも)うに淮陽の吏民、相得ず。徒(ただ)君の重きを得て、臥して之を治めんと。淮陽に至り、十歳にして竟(つい)に卒(しゅっ)す。黯、甚(はなは)だ上の重んずる所と為る。大将軍衞、貴しと雖も、上、或いは廁(しょく)に踞(きょ)して之を見る。黯の如きは、冠せざれば見ざるなり。 淮南王の安が謀反を企ててこう言った。「漢の朝廷の重臣の中で、汲黯だけが憚ることなく天子を諌め、節義を守るために命を投げ出す人物だ。丞相の公孫弘などの連中は、いかようにも言いくるめられる。まるで何かの蓋をつまんで取るようなものだ」と。 汲黯は嘗て、河南の淮陽の太守に任命されたとき、「私めは病気がちで、お役目を果たすことが出来そうもありません。できることなら郎中にしていただいて、宮中に出入りし、陛下の過失をおぎない、お見落としを拾っていきたいと思います」と申し上げた。武帝は「そなたは淮陽を軽んじていないか。どうにもいやだと言うなら、すぐにも呼び戻してやるから暫く行ってくれ。役人と人民との間がうまくいっていない、そなたの徳の重みで寝たままで良いから治めてくれ」と言った。汲黯は結局淮陽に赴任し、十年後、ついにその地で歿した。 汲黯は、武帝にたいそう信任された。大将軍の衛青さえ、武帝は時として寝台に腰掛けたまま引見することがあったが、汲黯に対してだけは、冠をつけなければ決して会わなかった。 淮南王安 高祖の孫、謀反したが自殺した。 蒙を発く おおいを取り去る。 禁闥 禁は禁裏、闥は小門。 拾遺 もれているものを拾い補うこと、あるいは君主の過失をいさめる官名。 踞廁 廁は普通シ、かわやを指すが、ここではショクで寝台の側。 十八史略 東方朔 2010-09-07 16 44 32 | 十八史略 上、招選天下材智士、俊異者、寵用之。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍等、在左右。相如特以詩賦得幸。朔・皋不根持論、好詼諧。上以俳優畜之。朔嘗語上前侏儒、以爲上欲殺之。侏儒泣請命。上問朔。朔曰、侏儒飽欲死、臣朔饑欲死。伏日賜肉晏。朔先斫肉持歸。上召問、令自責。朔曰、受賜不待詔、何無禮也。抜劔斫肉、何壯也。斫之不多、何廉也。歸遺細君、又何仁也。然朔亦時直諌、有所補。 上、天下材智の士、俊異の者を招選(しょうせん)して、之を寵用す。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如(しばしょうじょ)・東方朔(とうほうさく)・枚皋(ばいこう)・終軍等左右に在り。相如は特に詩賦(しふ)を以って幸を得たり。朔・皋は持論を根(こん)とせず、詼諧(かいかい)を好む。上、俳優を以って之を畜(やしな)う。朔、嘗て上の前の侏儒に語り、以って上之を殺さんと欲すと為す。侏儒泣いて命を請う。上、朔に問う。朔曰く、侏儒は飽(あ)いて死せんと欲し、臣朔は饑えて死せんと欲す、と。伏日に肉を賜うこと晏(おそ)し。朔、先ず肉を斫(き)って持ち帰る。上、召して問い、自ら責めしむ。朔曰く、賜(たまもの)を受けて詔を待たず、何ぞ礼無きや。剣を抜いて肉を斫る、何ぞ壮なるや。之を斫って多からず、何ぞ廉(れん)なるや。帰って細君に遺(おく)る、又何ぞ仁なるや、と。然れども朔も亦時に直諌(ちょっかん)して、補益(ほえき)するする所有り。 武帝は天下の逸材智者、異能の士を選び招き、寵愛して用いた。荘助・朱買臣・ 吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが側近に仕えた。司馬相如は詩賦によって目をかけられていた。東方朔・枚皋はこれといった見識はなく、諧謔、滑稽の才によって、役者、芸人として禄を得ていた。あるとき東方朔は武帝の前に仕えている小人に「帝はお前の命を所望しているようだ」と耳うちした。小人は驚いて泣いて助命を請うた。武帝は訳が解らず、東方朔に尋ねた。朔はすかさず、「こびとは賜りものがあまりに多いので食べ過ぎて死にそうだと訴えているのです。ところで私めは飢えて死にそうなのでございます」と答えた。 盛夏三伏の日には諸役人に肉を下賜するならわしがあったが、このときは遅くなった。朔は真っ先に肉を切って持ち帰ってしまった。武帝は東方朔を呼び、、どう責めを負うつもりかと、詰問した。朔はすまして「賜りものを頂くのにお言葉も待たぬとは何と無礼な。剣を抜いて肉を切る、なんという勇ましさじゃ。肉を切っても多く取らぬとは何と無欲なことか。しかも持って帰って細君に渡すとはなんと仁者じゃ」と言った。 しかし朔もまた時に帝に直言して、過ちを補いたすけたことがあった。 侏儒 こびと 十八史略 武帝の事績(七) 2010-09-09 15 47 31 | 十八史略 神仙 自李少君以來、求神仙不已。文成誅而五利至。五利以文成爲言。上曰、文成食馬肝死耳。及五利又誅、公孫卿等、尤見聽信。末年、帝乃悟曰、天下豈有仙人、盡妖妄耳。節食服藥、差可少病而已。 李少君より以来、神仙を求めて已(や)まず。文成誅せられて五利至る。五利文成を以って言を為す。上曰く、文成は馬肝(ばかん)を食(くら)いて死せしのみ、と。五利又誅せらるるに及び、公孫卿等、尤も聴信(ちょうしん)せらる。末年、帝乃ち悟って曰く、天下豈仙人有らんや、尽く妖妄(ようもう)のみ。食を節し薬を服せば、差(やや)病を少うすべきのみ、と。 方士の李少君の説を信じてからこのかた、武帝は神仙を求めてやまなかった。文成将軍李少君は帝を詐(いつわ)ったとして殺された。五利将軍欒大(らんだい)が後をうけて朝廷に入ったが文成将軍の前例に恐れをなして、神仙の術を言わなかった。そこで武帝は文成将軍は馬の肝にあたって死んだのだと言いくるめて、促がした。やがて五利将軍も誅殺されてしまった。その後公孫卿等の言説が信用された。晩年になって、武帝はやっと醒めて「この世に仙人などいない、みなまやかしに過ぎぬ、食物を控えめに、薬を用いれば少しは病が少なくなるばかりだ」と言った。 十八史略 武帝の事績 三代の風あり 2010-09-12 07 51 03 | 十八史略 武帝崩ず 漢興、雖自惠帝已除挾書之禁、文帝已廣游學の路、然儒學終末盡盛。至帝世、董仲舒・公孫弘、皆以春秋進兒寛亦以經術飾吏事。後又有孔安國等出。表章六經、實自帝始。數獲瑞。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆爲樂章、薦之郊廟。文章亦帝世始盛。人以爲有三代之風焉。 帝壽七十而崩。葬茂陵。太子立。是爲孝昭皇帝。 漢興り、恵帝より已(すで)に挟書之禁を除き、文帝已に游学の路を広むと雖も、然れども儒学終に未だ尽くは盛んならず。帝の世に至り、董仲舒・公孫弘、皆春秋を以って進み、兒寛(げいかん)も亦経術を以って吏事を飾る。後又、孔安国等の出づる有り。六経(りくけい)を表章するは、実に帝より始まる。数々祥瑞を獲(え)たり。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆楽章を為(つく)って、之を郊廟に薦(すす)む。文章も亦帝の世に至って始めて盛んなり。人以って三代の風有りと為す。帝、寿七十にして崩ず。茂陵(もりょう)に葬る。太子立つ。是を孝昭皇帝と為す。 武帝の事績(八) 漢が興ってから恵帝の時になって蔵書の禁が解かれ、文帝の時に自由に遊学する道が開けたが儒学はいまだ十分に盛んになるにはいたらなかった。武帝の世になってから董仲舒・公孫弘は「春秋」に精通しているというので官位を与えられ、兒寛も経書の学術を以って職務を輝かせた。後にはまた孔安国が出て、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を天下に明らかにしたのは実に武帝の時に始まったのである。また度々瑞祥があらわれた。白い麒麟、赤い雁、霊芝、宝鼎、これ等は皆音楽をつくって、天や祖先の祭りに奏した。文章も武帝の時に盛んになった。そこで人々は武帝の世を、夏・殷・周の遺風があると讃えた。帝は齢七十で崩じ茂陵に葬られた。あとを継いで太子が即位した。孝昭皇帝(昭帝)という。 挟書之禁 秦の焚書を引き継いだもので書をわきばさむこと禁ずるの意、禁書の制。 孔安国 孔子の子孫で、おたまじゃくしの様な蝌蚪(かと)文字を研究し解読した。 表章 世に出して広く知らせること。 十八史略 昭帝立つ 2010-09-14 09 11 37 | 十八史略 孝昭皇帝名弗陵。母鉤弋夫人、趙氏。娠十四月而生。武帝、命其門曰堯母門。年七歳、體壯大多知。武帝欲立之。察羣臣、惟霍光忠厚、可任大事。使黄門畫周公負成王朝諸侯、以賜光。譴責鉤弋夫人賜死。曰、古、國家所以亂、由主少母壯、驕淫自恣也。明年武帝崩。遂即位。燕王旦、以長不得立謀反。赦弗治。黨與伏誅。 孝昭皇帝名は弗陵(ふつりょう)。母は鉤弋(こうよく)夫人、趙氏なり。娠(はら)んで十四月(げつ)にして生まる。武帝其の門に命じて堯母門(ぎょうぼもん)と曰う。年七歳、体壮大にして多知なり。武帝之を立てんと欲す。群臣を察するに、惟(た)だ霍光(かくこう)のみ忠厚にして、大事を任ず可し。黄門をして周公、成王を負(お)って諸侯を朝(ちょう)せしむるを画き、以って光に賜わしむ。鉤弋夫人を譴責(けんせき)して死を賜う。曰く、いにしえ、国家の乱るる所以は、主少(わか)く母壮(そう)にして驕淫自恣(きょういんじし)なるに由(よ)る、と。明年武帝崩ず。遂に位に即く。燕王旦、長にして立つを得ざるを以って反を謀(はか)る。赦して治(ち)せず。党与誅に伏す。 孝昭皇帝、名は弗陵という。母は鉤弋夫人、趙氏である。懐妊して十四ヶ月で生まれたので、武帝はやはり十四ヶ月で生まれた堯帝にあやかって、その宮殿の門を堯母門と名づけた。弗陵は年七歳で身体は大きく、知能も優れていたので、武帝は弗陵を後継ぎに立てようとした。群臣をじっと観察してみると霍光のみ忠実で情に厚いとみて、太子の補佐の大任を果たさせようとした。侍従に、幼い成王が周公旦に背負われて諸侯の拝謁をうけている絵を描かせて、それを霍光に下賜して意を伝えた。その後、鉤弋夫人の過失をせめて、死を命じた。側近には「昔から国の乱れは君主が幼少、その母が若く、驕りと不品行でわがままなことで起こるものだ」ともらした。 その翌年武帝は崩じ、弗陵が位についた。燕王の旦が年長にも拘わらず帝位につくことができなかったので謀反を企てた。しかし昭帝は、旦を赦して罪に問わず、与(くみ)した者たちを誅殺した。 十八史略 雁書 2010-09-16 15 06 32 | 十八史略 前回漏れたので、遅れ馳せながら付け加えます。赦弗治 赦して治せず 弗は不に同じ、治は取り調べる意。 蘇武帰還す 始元六年、蘇武還自匈奴。武初徒北海上、堀野鼠、去草實而食之、臥起持漢節。李陵謂武曰、人生如朝露。何自苦如此。陵與衞律降匈奴、皆富貴。律亦屢勸武降。終不肯。漢使者至匈奴。匈奴詭言、武已死。漢使知之、言、天子射上林中、得鴈。足有帛書。言、武在大澤中。匈奴不能隠。乃遣武還。武留匈奴十九年。始以強壯出。及還、須髪盡白。拝爲典屬國。 始元六年、蘇武匈奴より還る。武、初め北海の上(ほとり)に徒(うつ)り、野鼠を掘り、草実を去(おさ)めて、之を食らい、臥起(がき)に漢の節を持す。李陵、武に謂って曰く、人生朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き、と。陵と衛律(えいりつ)とは匈奴に降(くだ)って、皆富貴なり。律も亦屡しば武に降(こう)を勧む。終に肯(がえ)んぜず。漢の使者、匈奴に至る。匈奴詭(いつわ)り言う、武、已に死す、と。漢の使之を知り、言う、天子、上林の中に射て、雁を得たり。足に帛書有り。言く、武は大澤の中(うち)に在り、と。匈奴隠すこと能わず。乃(すなわ)ち武を遣(や)って還す。武、匈奴に留まること十九年。始め強壮を以って出ず。還るに及んで須髪尽く白し。拝して典属国と為す。 始元六年に蘇武が匈奴より還って来た。蘇武はバイカル湖のほとりに流されたが、野鼠を捕り、草の実を貯めてこれを食い、寝起きするに漢の符節を身から離さなかった。さきに匈奴に降った李陵が蘇武に向って「人の一生は朝の露のようにはかないもの、どうして自らこんなに苦しんでいるのだ」と言った。李陵と衛律とは匈奴に降服して、富貴に暮らしていた。衛律もたびたび蘇武に降服を勧めたが最後まで承知しなかった。 その後、漢の使者が匈奴に来て蘇武の返還をせまった折、匈奴は偽って蘇武はもう死んだと告げた。漢の使者は偽りを見抜き、「近頃、天子が上林で狩をしていたとき、雁を射止められたところ足に手紙がつけてあり、武は大きな沢のほとりにいる。と書いてあったぞ、どう説明するのだ」と迫った。匈奴は隠しきれず、蘇武を還した。匈奴の地に留まること十九年、漢を出るときは頑強で壮んであったが、帰ったときは鬚も髪も真っ白になっていた。漢は蘇武を典属国の長官に任命した。 草実を去(おさ)め 去はしまうの意。 節 使者の印しとして天子が授けた旗。 帛書 帛は絹、これに書かれた手紙。須髪 須は鬚、あごひげ。 典属国 降服した異民族のことを司る官。 十八史略 霍光排斥の陰謀 2010-09-18 12 00 54 | 十八史略 左将軍上官桀子安、爲霍光婿。生女。立爲皇后。桀與安自以、后之祖・父、乃不若光以外祖專制朝事。桀與光爭權。時鄂國蓋長公主、爲所愛丁外人求封侯。不許。怨光。燕王旦自以帝兄常怨望。御史大夫桑弘羊爲子弟求官。不得。亦怨望。於是皆與旦通謀、詐令人爲旦上書言、光出都肄郎・羽林、道上稱蹕擅調莫府校尉、專權自恣。疑有非常。候光出沐日奏之。桀欲從中下其事、弘羊當與大臣共執退光。 左将軍上官桀(けつ)の子安(あん)は、霍光の婿たり。女を生む。立って皇后と為る。桀と安と自ら以(おも)えらく、后の祖・父なるに、乃ち光の外祖を以って朝事を専制するに若かず、と。桀、光と権を争う。時に鄂国(がくこく)蓋(こう)長公主(ちょうこうしゅ)は、愛するところの丁外人の為に封侯を求む。許されず。光を怨む。燕王旦は自ら帝の兄を以って常に怨望(えんぼう)す。御史大夫桑弘羊は子弟の為に官を求む。得ず。亦怨望す。 是に於いて皆旦と謀(はかりごと)を通じ詐(いつわ)って、人をして旦の為に書を上(たてまつ)らしめて言う、光、出でて郎・羽林を都肄(とい)せしとき、道上に蹕(ひつ)を称し、擅(ほしいまま)に莫府(ばくふ)の校尉(こうい)を調益(ちょうえき)し、権を専(もっぱら)にして自らほしいままにす。疑うらくは非常有らん、と。光の出沐(しゅつもく)の日を候(うかが)うて之を奏す。桀、中(うち)より其の事を下し、弘羊をして大臣と共に、執(と)って光を退くるに当らしめんと欲す。 左将軍上官桀の子の安は、霍光の婿となり、娘が生まれた。やがて娘は昭帝の皇后となった。桀と安が思うに、皇后の祖父でありまた父である我等が、皇后の外祖父で、朝事を専らにしている霍光に及ばぬ、と不満に思っていた。それで桀は次第に霍光と権力を争うようになった。この頃、昭帝の一番上の姉で、鄂国の蓋侯夫人は寵愛する丁外人を諸侯に取り立ててくれるよう頼んだが、許されず霍光を怨んでいた。燕王旦は自分が昭帝の兄であるのに天子になれなかったので、かねてから怨んでいた。また御史大夫の桑弘羊も自分の子供のために官職を与えられるよう頼んだが、得られず、これまた怨んでいた。 ここに至ってみな燕王旦と通じて、ある者をして旦の名で上書して「霍光は都を出て、郎軍や羽林軍を調練するとき、街道で天子と同じ格の先払いをさせ、勝手に幕府の将校を増やし選び権勢をもっぱらにし、ほしいままに振舞っております。あるいは重大な事態に至るやもしれません」と言わせた。この上奏文は霍光が参朝しない日をうかがって差し出された。上官桀は宮中にいてこの件を直ちに審議に付し、桑弘羊には大臣と共に強く主張して霍光を失脚させる役目を担わせる計画だった。 都肄 都は試みる、肄は習うで演習。 郎・羽林 郎は侍従武官、羽林は近衛兵。 蹕 天子の行列の先払い。 出沐日 休日、沐浴するために役所を出て休日としたから。 十八史略 昭帝霍光の窮地を救う 2010-09-23 10 43 21 | 十八史略 書奏。帝不肯下。明旦、光聞之、止畫室中不入。上問、大將軍安在。桀曰、以燕王告其罪、不敢入。詔召大將軍。光入。免冠頓首謝。上曰、將軍之廣明都郎、屬耳。調校尉以來、未能十日。燕王何以得知之。且將軍爲非、不須校尉。是時元鳳元年、帝年十四。尚書左右皆驚。而上書果亡。捕之甚急。 書奏す。帝肯(あえ)て下さず。明旦、光之を聞き、画室中に止まって入らず。上(しょう)問う、大将軍安(いづ)くにか在る、と。桀曰く、燕王、其の罪を告ぐるを以って、敢えて入らず、と。詔(みことのり)して大将軍を召す。光入る。冠を免(ぬ)ぎ頓首して謝す。上曰く、将軍、廣明に之(ゆ)いて郎を都(と)せしは属(このごろ)のみ。校尉を調して以来、未だ十日なる能(あた)わず。燕王何を以って之を知るを得ん。且つ将軍非を為さんとせば、校尉を須(ま)たざらん、と。是の時元鳳元年(前80年)にして帝年十四なり。尚書左右皆驚く。而して書を上(たてまつる)者果たして亡(に)ぐ。之を捕うること甚だ急なり。 訴状が奏上されたが、昭帝は自分の手元に留めおいた。翌朝霍光がこの事を聞くと画室に籠って入廷しなかった。帝が「大将軍はどこにいるか」と問うと、桀が答えて「燕王が光の罪を奏上したので入るのを憚っているのでしょう」と。昭帝はみことのりを下して大将軍を召した。霍光は参内すると冠をぬぎ、額を地につけて詫びた。昭帝は告げた「将軍が広明亭に行って郎軍を調練したのは、まだ最近のことだ。将校を選任してからは十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう、それにもし将軍が何か事を起こそうと思ったとしても、将校などあてにするはずがなかろう」と。この時は元鳳元年、昭帝はまだ十四歳であった。尚書や左右の側近は皆帝の聡明さに驚いた。そして上書した者は姿をくらました。帝は逮捕せよと厳しく命じた。 十八史略 2010-09-25 10 37 27 | 十八史略 桀等懼白上、小事不足遂。上不聽。後、桀黨有譖光者。上輒怒曰、大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身。敢有毀者坐之。自是無敢復言。桀等謀令長公主置酒請光、伏兵挌殺之、因廢帝而立旦。安又謀誘旦、至誅之、廢帝而立桀。會有知其謀者、以聞。捕桀・安・弘羊等、并宗族盡誅之。蓋主與旦皆自殺。 桀等懼れて上(しょう)に白(もう)す、小事遂ぐるに足らず、と。上聴かず。後、桀の党に光を譖(しん)する者有り。上、輒(すなわ)ち怒って曰く、大将軍は忠臣、先帝の属(しょく)して以って朕が身を輔(たす)けしむる所なり。敢えて毀(そし)る者有らば之を坐せしめん、と。是より敢えて復言うもの無し。桀等、長公主をして酒を置いて光を請わしめ、兵を伏せて之を挌殺(かくさつ)し、因(よ)って帝を廃して旦を立てんと謀(はか)る。安、又、旦を誘(いざな)い、至らば之を誅し、帝を廃して桀を立てんと謀る。会々(たまたま)其の謀を知る者有り、以って聞(ぶん)す。桀・安・弘羊等を捕え、宗族を併せて尽く之を誅す。蓋主(こうしゅ)と旦と皆自殺す。 上官桀等は企みの露見を恐れて、昭帝に「些細なことです、厳しく追及することでもないでしょう」と申し上げたが、帝は承知しなかった。その後桀の仲間から霍光を讒言する者があった。昭帝は怒って、「大将軍は忠臣ゆえ、先帝が朕を補佐するよう遺言しておかれたものだ、それでもそしるならば罪に問うであろう」と言った。以後霍光をそしる者はなくなった。桀等は次に長公主に、酒宴を開いて霍光を招待させ、兵を伏せておいて打ち殺し、それに乗じて昭帝を廃し、旦を立てようと謀った。上官安はさらに旦をも招きよせてこれを殺し、父の桀を立てようと謀った。たまたまそのたくらみを知った者がいて、昭帝の耳に入れたので、帝は上官桀・安父子と桑弘羊らを捕え、その一族をも尽く誅殺した。蓋公主と燕王旦はともに自害した。 坐 罰する、連座の坐 十八史略 昭帝崩ず 2010-09-28 12 54 11 | 十八史略 四年、傅介子使西域、誘樓蘭王刺殺之、馳傳詣闕。以其爲匈奴反也。 元平元年、帝年二十一而崩。在位十四年。改元者三、曰始元・元鳳・元平。霍光爲政、與民休息、天下無事。昌邑王賀、哀王髆之子、武帝孫也。光迎賀入即位。尊皇后爲皇太后。賀淫戲無度。光奏廢之、迎立武帝曾孫。是爲中宗孝宣皇帝。 四年、傅介子(ふかいし)、西域に使いし、楼蘭王を誘(いざな)うて之を刺殺し、伝を馳せて闕(けつ)に詣(いた)る。其の匈奴の為に反間するを以ってなり。 元平元年、帝、二十一にして崩ず。在位十四年。改元すること三、始元・元鳳・元平と曰(い)う。霍光、政を為し、民と休息し、天下無事なり。昌邑王(しょうゆうおう)賀は哀王髆(はく)の子にして、武帝の孫なり。光、賀を迎え、入れて位に即(つ)かしむ。皇后を尊んで皇太后と為す。賀、淫戲(いんぎ)度無し。光、奏して之を廃し、武帝の曾孫を迎立(げいりつ)す。是を中宗孝宣皇帝と為す。 元鳳四年(前77年)に、傅介子という者が、西域に使者となって行き、楼蘭王を誘い出して刺殺し、駅馬を乗り継いで朝廷に駆けつけた。楼蘭王が匈奴と通じて離間をはかったからである。 元平元年(前74年)、昭帝が二十一歳で崩御した。帝位に在ること十四年改元すること三度、すなわち、始元・元鳳・元平である。その間、霍光が政務をとり、人々とやすらぎを共にしたので、天下は平らかであった。 昌邑王の賀は哀王髆の子で武帝の孫であった。霍光はその賀を朝廷に迎え入れて、即位させた。そして昭帝の皇后を皇太后として尊んだ。ところが賀は女色に耽ってとめどが無かったので、霍光は皇太后に奏上して、賀を廃し、武帝の曾孫を迎えて立てた。これが中宗孝宣皇帝(宣帝)である。 伝 駅伝。 闕 宮城の門。 反間 敵国同士の仲をさく計略をめぐらすこと 十八史略 獄中に天子の気あり 2010-09-30 15 38 39 | 十八史略 無辜なるも尚不可なり況や皇曾孫をや 孝宣皇帝初名病已。後改名詢。武帝之曾孫也。初戻太子據、納史良娣、生史皇孫進。進生病已。數月遭巫蠱事、皆繋獄。望氣者言。長安獄中、有天子氣。武帝遣使、令盡殺獄中人。丙吉時治獄。拒不納。曰、侘人無辜尚不可。況皇曾孫乎。使者還報。武帝曰、天也。 孝宣皇帝、初め名は病已(へいい)。後名を詢(じゅん)と改む。武帝の曾孫(そうそん)なり。初め戻太子拠(きょ)、史良娣(りょうてい)を納れ、史皇孫進を生む。進、病已を生む。数月にして巫蠱(ふこ)の事に遭い、皆獄に繋がる。気を望む者言う、「長安の獄中に、天子の気有り」と。武帝、使を遣わして、尽く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治む。拒んで納れず。曰く、「侘人(たにん)の無辜(むこ)なるも尚不可なり。況(いわん)や皇曾孫をや」と。使者還り報ず。武帝曰く、「天なり」と。 孝宣皇帝、もとの名は病已、後に詢と改めた。武帝のひ孫である。かつて武帝の太子であった戻太子拠が史氏のむすめを良娣として納れて、皇孫史進を生ませた。その子が病已である。病已の生後数ヶ月に巫蠱の事件に出遭い、連坐して係累すべて牢獄に繋がれた。 雲気を眺めて吉凶を占う者が、「長安の獄中に天子の雲気が見えます」と言った。武帝は使者を遣わして、獄中の者をことごとく殺させようとした。この時丙吉という者が牢獄を取り締まっていたが、使者を拒んで聞き入れず、「たとい誰であろうと、無実の人を殺すことはできません。まして帝の曾孫などもってのほかです」と言った。使者が還ってこの事を告げると武帝は「天命というべきか」と言っただけであった。 良娣 女官の官名、太子妃に次ぐ側室。 戻太子 宣帝が即位後に贈った諡(おくりな) 侘人 他人に同じ。 無辜 辜は罪。 十八史略 2010-10-07 08 06 29 | 十八史略 地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。 膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。 魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。 地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。 膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。 魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。 地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。 膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。 魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。 治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。 十八史略 霍氏滅ぶ。 2010-11-18 16 15 50 | 十八史略 四年、霍氏謀反、伏誅。夷其族。告者皆封列侯。初霍氏奢縦。茂陵徐福上疏言、宜以時抑制、無使至亡。書三上。不聽。至是人爲徐生上書曰、客有過主人。見其竈直突、傍有積薪、謂主人、更爲曲突、速徒其薪。主人不應。俄失火。郷里共救之、幸而得息。殺牛置酒、謝其郷人。人謂主人曰、郷使聽客之言、不費牛酒、終無火患。今論功而賞、曲突徒薪無恩澤、焦頭燗額爲上客邪。上乃賜福帛、以爲郎。 四年、霍氏謀反し、誅に伏(ふく)す。その族を夷(たい)らぐ。告ぐる者、皆列侯に封ぜらる。初め霍氏、奢縦(しゃしょう)なり。茂陵の徐福、上疏(じょうそ)して言う、「宜しく時を以って抑制し、亡に至らしむること無かるべし」と。書三たび上(たてまつ)る。聴かず。是に至って人、徐生の為に上書して曰く、「客、主人を過(よぎ)るもの有り。その竈(かまど)の直突にして、傍らに積薪(せきしん)有るを見、主人に謂う、更めて曲突(きょくとつ)を為(つく)り、速やかにその薪を徒(うつ)せと。主人応ぜず。俄(にわ)かに火を失す。郷里共に之を救い、幸いにして息(や)むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、その郷人に謝す。人、主人に謂って曰く、郷(さき)に客の言を聴(き)かしめば、牛酒を費やさず、終(つい)に火の患無かりしならん。今、功を論じて賞するに、曲突薪を徒せというものに恩沢無くして、頭を焦がし額を燗(ただ)らすものを上客となすかと」と。上乃ち福に帛(はく)を賜い、以って郎と為す。 地節四年に、霍氏一族が謀反をはかり、誅せられて皆殺しにされた。謀反を告発した者を皆列侯に封じた。以前より霍氏一門はおごりたかぶっていたので、茂陵の徐福というものが「今のうちに霍氏を抑えつけて、滅亡にまで至らないようにするべきでしょう」と書をたてまつった。上書は三度に及んだが、聴き入れられなかった。こうして霍氏の謀反が誅せられるに及んで、ある人が徐福の為にこう上書した「ある家を訪れたものが、竈の煙突がまっすぐで、傍に薪が積んであるのを見て主人に、新たに曲がった煙突に造り直し、薪を他所に移さないと火事になりますよ。と忠告したところ、主人は応じませんでした。やがてその竈から失火しましたが、村人たちの協力を得て消し止めることができた。主人は喜んで牛を殺し、酒を用意して村人たちに振るまい、感謝しました。ある人が主人に向って“先に客人の忠告を聴き入れていれば、牛や酒の用意も、火事の災いも無かったでしょう。ところが今、謝礼をする段になって、煙突を曲げなさい、薪を移しなさいと言ったものには何の音沙汰もなく、頭を焦がし、額を爛れさせた者だけをありがたがるとはどうしたことでしょう”と申したそうでございます」と。宣帝はその意を悟って徐福に絹を下賜し、さらに郎官に取り立てた。 曲突 火の粉がすくないからか。 過る おとずれるの意。 郷に 以前の意。 十八史略 霍氏の禍い驂乗にきざす 2010-11-24 08 47 45 | 十八史略 帝初立謁高廟、霍光驂乗。上嚴憚之。若有芒刺在背。後、張安世代光參乗。上從容肆體、甚安近焉。故俗傳、霍氏之禍、萌於驂乗。 帝、初めて立って高廟に謁するや、霍光驂乗(さんじょう)す。上(しょう)之を厳憚(げんたん)す。芒刺(ぼうし)の背に在るが若(ごと)し。後、張安世光に代って参乗す。上、従容肆体(しょうようしたい)甚だ安近す。故に俗伝う、霍氏の禍い驂乗に萌(きざ)す、と。 宣帝が即位した初め、高祖の廟に参拝のとき、霍光が陪乗したが、帝は心休まらず、まるで背中に棘がささったようであった。後に張安世光に代って陪乗するようになると、くつろいでなごやかに、近づき易くなった。それで世間では「霍氏一門の禍は、陪乗のときにきざしていたのだ」とうわさしあった。 十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(1) 2010-11-25 08 30 44 | 十八史略 北海太守朱邑、以治行第一、入爲大司農、渤海太守龔遂入爲水衡都尉。先是渤海歳饑、盗起。選遂爲太守召見問、何以治盗。遂對曰、海濱遐遠、不沾聖化。其民飢寒、而吏不恤。使陛下赤子、盗弄兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪。將安之也。上曰、選用賢良、固欲安之。遂曰、治亂民、如治亂縄。不可急也。願無拘臣以文法、得便宜從事。上許焉。 北海の太守朱邑、治行第一を以って、入(い)って大司農(だいしのう)と為り、渤海の太守龔遂(きょうすい)、入って水衡都尉(すいこうとい)と為る。是より先、渤海(ぼっかい)歳饑(う)え、盗起こる。遂を選んで太守と為す。召見(しょうけん)して問う、何を以って盗を治むると。遂対(こた)えて曰く、海浜、遐遠(かえん)にして、聖化に沾(うるお)わず。其の民飢寒(きかん)して、吏(り) 恤(あわれ)まず。陛下の赤子(せきし)をして、兵を潢池(こうち)の中に盗弄(とうろう)せしむるのみ。今臣をして之に勝たしめんと欲するか、将(はた)之を安(やす)んぜんかと。上曰く、賢良を選用するは、固(もと)より之を安んぜんと欲するなり、と。遂曰く、乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは臣を拘するに文法を以ってすること無く、便宜事に従うを得しめよ、と。上、焉(これ)を許す。 北海郡(山東省)の太守の朱邑は、治績徳行とも第一であるとして、朝廷に入って大司農となり、渤海(河北省)の太守龔遂は、朝廷に入って水衡都尉になった。これというのは、渤海郡は年々飢饉に見舞われ盗賊が増えたので宣帝は龔遂を選んで太守に任命した。そこで遂を召して聞いた「どうやって盗賊を取り締まるつもりか」と。すると遂は「渤海は海辺の僻地で陛下の徳に浴しておりません。民が飢えても役人が救おうともせず、いわば陛下の赤子が溜池の中で刃物を振り回すようにしむけているようなものです。陛下は私に武力で鎮圧するのをお望みでしょうか、それとも安撫するのをお望みでしょうか」と問うた。宣帝は「わざわざ優れた人材を登用するのは安撫することを望めばこそだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのはもつれた縄を解くようなもので、性急であってはなりません。どうか私を煩わしい法規でしばることなく、一存で取り計らえるようにしていただきたい」と申し上げた。宣帝はこれを許した。 水衡都尉 河川の水路灌漑、宮中の御苑を管理する官。 遐遠 遐も遠もとおいこと。兵 武器。 潢池 水溜り、渤海湾にたとえる。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/93 十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人 2010-11-30 17 06 11 | 十八史略 趙廣漢腰斬さる 元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。 元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。 是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。 京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。 以下次回に 元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。 広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。 十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず 2011-01-11 08 31 51 | 十八史略 以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。 尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。 尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。 右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。 邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。 十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり 2011-01-13 17 50 58 | 十八史略 二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。 今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。 二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。 今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 2011-01-15 13 38 26 | 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。 ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。 右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。 論語 季氏篇 2011-01-15 13 40 51 | 十八史略 論語 季氏篇 ―前略―丘は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患うと。蓋し均しきときはまずしきこと無く、和すれば寡きこと無く、安んずれば傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざるときは則ち文徳を修めて以ってこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離折(ぶんぽうりせき)すれどもまもること能わず。而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり 私はこう聞いている。「国を保ち家をまもる者は人民の少ないことを心配せずに平等でないことを心配し、貧しいことを心配しないで、安らかでないことを心配する」と。均しいときは貧しいということが無く、平和であれば、人が少ないと気にかけることも無い。安らかであれば国も家も傾くことが無いのである。であるから遠くの属国が服従しないときは、徳を以って来朝するように仕向け、来たときには安らかに接するべきである。いま、由(字は子路、姓は仲、名が由)と求(字は子由、姓が冉、名が求)は夫子(季孫氏)を補佐する身でありながら顓臾が服さないときも来朝させることができず、魯国が分裂の危機にあっても守ることができない、その上兵を出そうとさえしている。私が恐れているのは季孫氏の危機は遠い属国にあるのではなく、本当は身近な垣根の内側にあるのだ。 十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う 2011-01-18 08 23 43 | 十八史略 子孫の為に産業を立てず。 三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。 三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。 元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。 二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。 太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。 十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し 2011-01-20 08 27 30 | 十八史略 神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。 二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。 神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。 二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。 神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。 神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。 先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職
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上自西漢-太祖高皇帝-一八五 十八史略卷之二〓大風之歌ら歌うて曰く、大風起分雲飛揚。威加海內兮歸故〓。安得猛士はいちうしふかたう分守四方。と。沛中の子弟をして、之を習歌せしめ、沛を以て湯もいふ沐の邑となす。せききてうてうわうによいりよこううと始め、戚姫寵あり。趙王如意を生む。呂后、疏んぜらる。太子、じんじやくじやうおのれはい仁弱なり。上、如意が己に類するを以て、太子を廢して、之を立てぐんしんあらそみなうあたりよこうむと欲す。群臣、之を爭へども、皆得る能はず。呂后、人をして、ちやうりやうきやうえうわくけいこうぜつ張良を彊要して、畫計せしむ。良曰く、是れ口舌を以て爭ひ難きいたとうゑんこうきなり。忖ふに、上の致す能はざる所の者四人、曰く、東園公、綺里かくわうこうかくりせんせいまんぶことさらのが季、夏黃公、角里先生。上の士を嫚侮するを以て、故に、山中に逃かんたかれ匿れ、義として、漢の臣とならず。上、この四人を高しとす。今しよつくことばひくあんしやかたよろ太子をして、書を爲り、詞を卑うし、安車、固く請はしむれば、宜きたかくときしたがにふてうしく來るべし。至らば、以て客となし、時に從へて入朝し、上をしじよて之を見せしむれば則ち一助なりと。呂后、人をして、太子の書をまねうかついよい奉じて、之を招かしむ。四人至る。帝、布を擊つて還り、愈よ太子かのちちしゆたいしヒまいを易へむと欲す。後に置酒するや、太子侍す。良の招く所の四人のものしたがしゆびこうはくい7わんはなはるじやうあやし者從ふ。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上、怪んで之をすゝこたおってせいめいいおどろ問ふ。四人前んで對へ各姓名を言ふ。上、大に驚いて曰く、吾、すうさいひとうよこしたが公を求むる數歲、公、我を避逃す。今、何に自つて、吾が兒に從つあそへいかかろよのゝして遊ぶや。四人曰く、陛下、士を輕んじ、善く罵る。臣等、義としにづかじんかうきようけいて、辱しめられず。今、太子の仁孝恭敬にして、士を愛し、天下、西漢-太祖高皇帝-一八七 十八史略卷之二天頸を延べて太子の爲に死を願はざる者なきを聞き、故に臣等來るのみ。上曰く、公を煩はさむ、幸に卒に調護せよと。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示して曰く、我之を易へむと欲するも彼の四人の者、之を輔く。羽翼旣に成る、動かし難しと。蕭何、長安地陋く、上林中に空地の棄てられしもの多きを以て、評具護膚、明明人民をして、入つて田するを得せしめむを請ふ。上、大に怒つて、何上海市药物学院を廷尉に下して之を械繫す。數日にして之を赦す。く布を擊ちし時、)上流矢に中り、病甚し。呂后問ふ。陛下百歲の後蕭相國死せば誰か之に代るべき。曰く、曹參。其次は。べあ創曰く、いる下しりめたと王陵。然れども、少しく戇なり、陳平以て之を助くべし。平智餘あるも獨り任じ難し。周勃重厚にして文少し、大尉たらしむべし。14劉氏を安んずる者は、必ず勃ならむと。復た其次を問ふ。上曰く、其後は、亦た乃の知る所に非ざるなりと。上崩ず。長陵に葬る。漢王たりしこと四年、帝たりしこと八年、凡そ十二年。太子盈立つ、之を孝惠皇帝となす。評女呂人の歷朝一【孝惠皇帝】名は盈、母は呂太后。卽位の元年、ゐ呂后、趙王如意を者な·唯鴆殺し、戚夫人の手足を斷ち、眼を去り耳を燻べ、痞藥を飮ましめ、だ色手机取る〓中に居らしむ。命づけて人〓といひ、べき帝を召して之を觀せしむ。帝、驚いて大に哭し、因つて病み、歲餘起つ能はず。二年、蕭何卒す。齊相曹參、舍人をして、趣に裝を爲さしめ、西漢-太祖高皇帝-孝惠皇帝-一八九 十八史略卷之二一九〇吾、入つて相たらむといふ。使者果して參を召し、何に代つて相國となす。一に何の約束に遵ふ。百姓、之を歌うて曰く、蕭何爲相。較若畫一。曹參代之。守而勿失。載其〓淨。民以寧一と。五年。曹参卒す。六年。王陵、右丞相となり、陳平、左丞相となる。張良卒す。周勃、大尉となる。帝、在位七年にして崩ず。子なし、呂后、他人の子を取り、以て太子となし、是に至つて、卽位す。太后、朝に臨んで、制を稱す。元年。太后、諸呂を立てて王となさむことを議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑して、盟つて曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下之〓を擊てと。平、勃以て可となす。陵相を罷む。遂に呂氏を王とす。四年。太后、少帝を廢して、之を幽殺し、恆山王義を立てて帝となし、名を弘と改む。亦た佗人の子を名づけて、惠帝の子となせしものなり八年、太后崩ず。諸呂、亂を爲さむと欲す。時に、呂祿、北軍に將たり、呂產、南軍に將たり。大尉勃、兵を主る能はず。平、勃酈寄をして祿に說き、印を解き、兵を以て勃に授けしむ。勃、軍門右祖左祖し入り、令して曰く、呂氏の爲にする者は右袒せよ、劉氏の爲にす西漢-孝惠皇帝-九九 十八史略卷之二一九二る者は左袒せよと。軍中、皆、左袒す。朱虛侯劉章を召して、卒千こと〓餘人を與へ呂產を擊つて之を殺し、分部して悉く諸呂を捕へ少長となく、皆、之を斬る。諸大臣、代王恆を迎へ立つ王、西郷して讓るもの三たび、南〓して讓るもの再び、遂に位に卽く。子弘等を殺し、天下に赦す。之を太宗孝文皇帝となす。【孝文皇帝】名は恆、母は薄氏。龍.胸に據るを夢み、遂に帝を生む。尊んで皇太后となす。元年。陳平、左丞相たり、周勃、右丞相たり。時に千里の馬を獻ずる者あり、帝曰く、鸞旗前に在り、屬車後に評言天干干し千嵐んでくの帝在り。吉行には日に五十里、師行には日に三十里。朕千里の馬に名 にりにか、乘りて、獨り先づ、安くにか之かんと。是に於て、其馬を還し、道のれ之づ言眞か安に君是か先里の費を與ふ。而して、詔を下して曰く、朕、獻を受けざるなり。其れ、四方をして來り獻ずるなからしめよと。評帝、益す國家の事に明習す。朝して、右丞相勃に問うて曰く、と平文と周り示の格式陳B3 bo第十七天下一歲の決獄幾何ぞと。勃知らずと謝す。又問ふ、一歳の錢穀を所唆す3人生出入幾何ぞと。勃、又知らずと謝す。惶愧して汗出でて背を沾す。上、左丞相平に問ふ。平曰く、主者あり。若し決獄を問へば、廷尉を責めよ。錢穀を問へば、治粟内史を責めよ。上曰く、君の主る所のものは何事ぞ。平謝して曰く、陛下、臣を宰相に待たしむ。宰相西漢-孝文皇帝-一九三 十八史略卷之二一番は、上、天子を佐け、陰陽を理め、四時を順にし、下、萬物の宜し、きを遂げ、外、四夷を鎭撫し、内、百姓を親附し、卿大夫をして、大各其職を得しむと。童、善と稱す。勃大に慙ぢ、病を謝して免ず。;)い河南の守吳公、治平、天下第一たり。召して廷尉となす。吳公、賈誼洛陽の人賈誼を薦む。年二十餘。一歲中超遷して大中大夫となる。陳平卒す。二年。天下に今年の田租の半を賜ふ。三年。張釋之、廷尉となる上中渭橋を行く。一人あり、橋下に走る。乘輿の馬驚く。捕へて廷尉に屬す。釋之、奏す。蹕を犯すは、罰金に當すと。上怒る。釋之曰く、法、此の如し。更に之を重言の延張平價多様下くすれば、是れ、法、民に信ならず。廷尉は、天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用ゆる、皆之が爲に輕重せむ。民安んぞ手足を措く所あらむやと。上、良や久しうして曰く、廷尉の當、是なりと。其後、人、高廟の玉環を盗む者あり。得たり。廷尉に下して、治せしむ。釋之、奏す、棄市に當すと。上、大に怒つて曰く、人、先帝に·の器を盜む、吾之を族に致さむと欲す。然るを、廷尉、法を以て、之を奏す。吾が宗廟に共奉する所以の意に非ざるなり。釋之曰く、宗廟の器を盜んで、之を族せば、假りに、愚民長陵一抔の土を取らば、何を以て、其れに法を加へむやと。帝、之を許す。六年。淮南の属王長謀反す。廢徒せられて死す。民、之を歌ふ者西漢-孝文皇帝-一九五 十八史略卷之二〓あり。曰く、一尺布尙可縫一斗粟尙可春。兄弟二人不相容。と。帝、聞いて、之を病み、後、其四子を封じて候となす。匈奴の冒頓死す。是より先、上、議して、賈誼を以て、公卿に位せむとす。大臣、多く之を短る。上、以て長沙王の大傅となし、梁王の大傅に徒る。せ、買誼上疏上疏して曰く、方今の事勢、爲に痛哭すべきもの一、爲に流涕すべきもの二、爲に長太息すべきもの六と。十年。帝の舅薄昭、漢の使者を殺す。童、誅するに忍びず。公卿群臣をして、往いて之を哭せしむ。昭.自殺す。十二年。民に今年の田租の半を賜ふ。ほ十三年。大倉の令淳于意。罪あり、刑に當す。少女緹榮上書して曰く、死者は復た生くべからず、刑者は復た屬ぐべからず。願はくは、沒入して官婢となり、以て父の刑を贖はむと。上其意を憐み、詔して、肉刑を除く。び此の歲、田の租稅を免ず。方士用ゐら十六年。方士新垣平、上大夫となる。ぞ後元年。平、詐を以て誅に伏す。六年。匈奴、上郡雲中に寇す。將軍周亞夫に詔して細柳に屯せしむ。劉禮は霸上に次し、徐厲は棘門に次し、以て胡に備ふ上、自ら軍を勞して、霸上及び棘門の軍に至る。直に馳せ入る。大將以下、西漢-孝文皇帝一九七 十八史略卷之二天は騎して。送迎す。旣にして、細柳に之く。入るを得ず。先驅曰く、評國家大臣天子、軍門に至らむとす。都尉曰く、軍中には、將軍の令を聞く、武人の典型天子の詔を聞かずと。上、乃ち使を使し、節を持し、將軍亞夫に詔し、乃ち言を傳へて、門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、將軍約すらく、軍中驅馳するを得ずと。上、乃ち轡を按じて徐行し、營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上曰く、嗟乎、是れ眞の將軍なり。さきの霸上棘門の軍は、兒戯のみと。七年。帝崩ず。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、增益する所なし。嘗て、露臺を作らむと欲し、匠を召して、之を計らしむ。直百金上曰く、中人十家の產なり、何ぞ臺を以て爲さむと。身に弋評君なり漢祚孝文は仁綿を衣、ご幸する所の愼夫人、衣、地を曳かず、朴を示して、天下のす文大せ四を克べの本る百し德蓋も年〓先となる。吳王、朝せず、賜ふに凡杖を以てす。張武、賂の金錢をの其とにし歸孝受く。更に賞賜を加へ、以て其心を愧ぢしむ。專ら德を以て民を化す。當時の公卿大夫、風流篤厚にして、人の過を言ふを恥ぢ、上下俗を成す。之を以て海內安寧、家給し、人足り、後世及ぶなし。霸陵に葬る。太子卽位す、之を孝景皇帝となす。【孝景皇帝】名は啓。卽位の元年、丞相申屠嘉、奏す。功は、高皇帝より大なるはなし、宜しく、帝者太祖の廟となすべし。德は、孝文皇帝より盛なるはなし、宜しく、帝者太宗の廟となすべしと。制して曰く、可と。西漢-孝文皇帝-孝景皇帝一九九 十八史略卷之二二〇〇p.帝、太子たりし時、量錯、家令たり。幸を得たり。太子の家、號して智囊といふ。帝卽位するや、錯、內史となり、數ば閒を請うて事を言ひ、輒ち聽かる。寵.九卿を傾け、法令、更定する所多し。初め、孝文の時、吳王溥の太子、入つて見え、皇太子に侍して飮評產品酒今をするを得たり。博して道を爭ひ、不恭なり。皇太子、博局を引いて時にはい軌を一にす之を提殺す。澳、疾と稱して朝せず。錯數ば吳の過、削るべきを言ふ。文帝、忍びず、帝位に卽くに及び、錯曰く、吳王、天下の亡부人を誘ひ、亂を作さむことを謀る。今、之を削るも亦た反し、削らわざはひせうざるも亦た反せむ。之を削れば、反すること亟。にして、禍小ならむ。削らざれば、反すること遲くして禍大ならむと。上、公卿列侯宗室をして、雜議せしむ。敢て難ずるなし。量錯、又言ふ、楚趙罪あり、一郡を削らむ。膠西姦あり、六郡を削らむと。吳の會稽豫章七國叛すを削るに及び書至る。吳王、遂に反す。膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙、皆、先に吳の約あり。是に至つて、同じく反す。齊王、先に諾して、後に悔ゆ。初め、文帝旦に崩ぜむとするや、太子を戒めて曰く、若し緩急あらば、周亞天、眞に將に任ずべしと。七國の反するに及び、亞夫を大尉に拜し、三十六將軍に將として、往いて吳楚を擊たしむ。量錯、え素より袁盎と善からず。盎言ふ、獨り、錯を斬つて諸侯の故地を復〓するあれば、兵、刄に血ぬることなくして罷むべしと。錯是に於西漢-孝景皇帝-二〇一 十八史略卷之二二〇二て、東市に腰斬せられ、父母妻子同產少長となく、皆棄市せらる。周亞父、大に吳楚を破り、諸反、皆平らぐ。亞父、後に相となり、是れ鞅評上の意に忤ひ、罷む。上曰く、第周いうもに父終し軍功し全か一亞條侯に封ぜらる。諫を以て、inて惜を而ずり哉せ鞅として、少主の臣に非ずと、卒に人に誣告せられ、獄に下り、血を嘔いて死す。漢興つてより、繁苛を掃除し、民と休息す。孝文、加ふるに、恭俗を儉を以てす。帝の業を遵ぐに至り、五六十載の間、風を移し、易ふ。黎民醇厚、國家無事。人給し、家足る。都鄙の廩庾皆滿ち、府庫は貲財を餘す。京師の錢、鉅萬を累ね、貫朽ちて、校すべから〓あひよす。太倉の粟陳陳相因り、充溢して、外に露積し、紅腐勝げて食ふべからず。吏たる者は、子孫を長じ、官に居る者は、以て姓號となひと〓〓じはす。故に倉氏、庫氏あり、人人自愛して、法を犯すを重かる。而〓も、罔疏にして民富み、或は驕溢に至り、兼〓の徒〓曲を武斷し、宗室有土公卿以下、奢侈度なし。物盛にして衰ふるは、素より、其變なり。帝崩ず、在位十七年。中元、後元あり。太子立つ、之を世宗孝武皇帝となす。【孝武皇帝】名は徹。卽位の元年、始めて、改元して建元といふ。年號の始年に號あるは、是に始まる。評董仲舒の賢良方正直言極諫の士を擧げて、親ら之を策問す。廣川の董仲明治三十七年料金免除の舒對して曰く、事は强勉に在るのみ。强勉して學問すれば、聞見博漢-孝景皇帝-孝武皇帝二〇三 十八史略卷之二二〇四くして、智益す明かに、强勉して道を行へば、德日に起つて大に功ありと。又曰く、人君は心を正し、以て朝廷を正し、朝廷を正し、以て百官を正し、百官を正し、以て萬民を正し、萬民を正し、以て四方を正し、四方正しくして、遠近正に一ならざるなく、而かも、邪氣の其間に奸するなし。之を以て、陰陽調ひ、風雨時あり、群生和し、萬民殖し、諸福の物之を致すべく、祥畢く至らざるなし、而して、王道畢る。陛下、行高くして恩厚く、知明かにして意美、民を愛して士を好む。然り而して、〓化立たず、萬民正しからず。例へば、琴瑟調はざる甚しき者は、必ず解いて之を更張し、乃ち鼓すべきなり。政を爲して行はれざること、甚しき者は、必ず變じて之を更化し、乃ち理むべきなり。漢天下を得てより以來、常に治を欲す。而して、今に至つて善く治すべからざるものは、當に更化すべくして、而かも更化せざればなりと。又曰く、士を養ふは、太學より大なるはなし。太學は賢士の關る所なり、〓化の本原なり。願はくは、太學を興し、明師を置き、以て天下の士を食はむと。又曰く、郡守縣令は、民の師帥、承流して、宣化せしむる所なり。宜しく、列侯郡守をして、各、其吏民の賢なる者を擇んで、歲毎に各三人を貢せしむべしと。又曰く、春秋は一統を大にするもの、天地の常經、古今の通誼なり。今、師毎に道を異にし、人每に論を異にす。臣愚、以爲へらく、諸の六藝の科、孔子の術に非ざるもの西漢-孝武皇帝-二〇五 十八史略卷之二二〇六は、皆其道を絕ち、然る後に、統紀一にすべく、法度明かにすべく、而して、民、從ふ所を知らむと。上、其對を善とし、以て江都の相となす。上使者を使し、安車蒲輪、束帛加壁を奉じて、魯の申公を迎へ正しむ。旣に至るや、治亂の事を問ふ公、年八十餘、對へて曰く、申公進言治を爲すは、多言に在らず、力行如何を顧みるのみと。三年闘越東〓を擊つ使を遣し、兵を發して、之を救ひ、其衆を江淮の間に徒す。だ帝、始めて微行をなし、上林苑を起す。五年五經博士を置くびん三つ六年。聞越、南越を擊つ。王恢等を遣して、之を擊たしむ。げんくわうぐわんねん元光元年始めて、郡國に令して、孝廉各一人を擧ぐ。上方士李少君十二年。方士李少君、上に見ゆ善く巧發奇中をなす。言ふ、竈を祠れば、物を致し、丹砂化して黄金となすべく、蓬萊の仙者、見るべし、之を見て以て封禪すれば、死せずと。上、之を信じ、始めて、;親ら竈を祠り、方士を遣し、海に入つて、蓬萊、安期生の屬を求めしむ。海上、燕齊、迂怪の士多く更る來つて神事を言ふ上大行王恢の議を用ゐ、恢等を遣し、兵に將として、馬邑の旁谷中に匿れ、聶壹をして匈奴を誘うて、塞に入れて之を擊たしむ。き單于、覺つて去る。是より、和親を絕ち、當路の塞を攻む。西漢-孝武皇帝-二〇七 十八史略卷之二二〇八唐蒙、上書して、南夷に通ぜむことを請ふ。蒙を中郞將に拜し、千人に將として、夜郞に入る。夜郞侯、約を聽く。以て犍爲郡となす。又、司馬相如を拜して中郞將となし、西夷に通ず。印筰、冉馳に郡縣を置く。西は沫若水に至り、南は特牁に至つて、微となす。吏民の、當世の務に明かに、先聖の術を習ふものを徴し、縣次とに續食して、計と偕にせしむ。菑川の公孫弘、對策して曰く、人生、上に和德あれば、百姓下に和合す。故に、心和すれば氣和し、氣和すれば形 和し、形 和すれば聲和し、聲和すれば天地の和應ずと策奏す。擢んでて第一となし、金馬門に待詔せしむ。齊人轅固、年九十餘、亦た賢良を以て徵さる。弘、目を仄てて之に事ふ。曲學阿世固曰く、公孫子、正學を務めよと。以て曲學以て世に阿るなきを云ふなり。六年。始めて、商車を算す。匈奴、上谷に寇す。將軍衞靑等を遣し、擊つて、之を卻く。元朔元年主父偃、上書して、匈奴を伐つを諫む。嚴安、亦た上書す。及び徐樂、亦た上書して云ふ、陛下、何を威してか成らざらぞむ、何を征してか服せざらむと。書奏す。上召し見て曰く、公等皆安くに在りしか、何ぞ相見るの晩きやと。皆、郞中に拜す。此の秋匈奴入寇し、二年、又入寇す。衞靑等を遣して、之を擊ち、遂西漢-孝武皇帝-二〇九 十八史略卷之二二一〇に河南の地を取り、朔方郡を置く。五年。公孫弘、丞相となり、平津候に封ぜらる。上、方に功業を興す。弘、是に於て、東閣を開いて、以て賢人を延く。匈奴、朔方に寇す。衞靑を遣し、六將軍を率ゐて之を擊たしむ。還る。靑を以て大將軍となす。匈奴、代に入る。六年。春、衞靑等六將軍を遣して、匈奴を擊たしむ。夏、再び遣るはくばうこうちやうけん元狩元年博望候張騫を遣して、西域に使し、滇國に通ず。二年。霍去病を以て、驃騎將軍となし、擊つて、匈奴を敗り、焉支祁連山を過ぎて還る。匈奴の渾邪王降る。五屬國を置いて、以て其衆を處らしむ。三年匈奴、右北平、定襄に入る。四年衞靑、霍去病を遣して、匈奴を擊たしむ。去病、狼居胥山を封じて還る元鼎二年方士文成將軍李少翁、詐を以て誅せらる。西域、始めて通ず。酒泉、武威の郡を置く五年。將軍路博德等を遣して、南越を擊たしむ。方士五利將軍欒大、詐を以て誅せらる。六年。西羌を討つて、之を平らぐ。西漢-孝武皇帝-二一一 十八史略卷之二二一二南越平らぐ、九郡を置く。E元封元年帝、長城を出でて、單于臺に上り、使を遣して、單于に〓げしめて曰く、南越王の頭、旣に漢の北關の下に懸れり。今、單于能く戰はば、天子自ら將として、邊に待たむと。帝、縦氏に如き、中嶽に登り、遂に東、海上を巡り、泰山に封じか、肅然に禪し、復た東北して、碣石に至つて還る。えきしうぐん一滇王降る、益州郡を置く。三年樓蘭を擊つて、其王を虜にし、車師を擊つて、之を敗る。朝鮮降る。樂浪、臨屯、玄菟、眞番の郡を置く。匈奴、邊に寇す。兵を遣して、朔方に屯す。五年。南、江漢を巡り、泰山に至り、封を增す。六年。昆明を擊つ太初元年帝、泰山に如く。十一月甲子朔旦、冬至、太初層をり正月を以て歲首となす。李廣利を遣して、大宛を伐つ。克たず。趙破奴を遣して、匈奴を擊たしむ。三年。匈奴大に入つて、塞外の城障を破る。大に兵を發し、李廣利に從つて、宛を伐たしむ。宛、降る。善馬數十匹を得たり。四年。匈奴の單于、使を使して來り獻ず。西漢-孝武皇帝-二一三 十八史略卷之二二一四蘇武天漢元年中郎將蘇武を遣はし匈奴に使せしむ。單于、之を降さむと欲し、大窖の中に置き、絕えて飮食せしめず、武、雪と旃毛とを齧んで、〓せて之を咽み、數日死せず、匈奴以て神となす。武を北海上、無人の處に徒し、抵を牧はしめ、曰く、抵乳せば、乃ち歸るを得せしめむと。二年李廣利を遣して、匈奴を擊たしむ。別將李陵、敗れて虜に降る上法制を以て下を御し、好んで、酷吏を尊用す。東方、盜賊、÷滋、起る。使者を遣し、繡衣を衣、斧を持して、督捕せしめ、二千石以下を斬るを得せしむ。四年。李廣利、匈奴を擊つて利あらず。太始三年帝、東瑯琊を巡り、海に浮んで還る四年。東巡して、明堂を祀り、封禪を修す。征和二年巫蠱の事作る。帝、甘泉に如き、江充を以て使者となし、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘つて云ふ、木人を得ること尤も多しと。太子據、懼れ、客をして、佯つて使者たらしめ、充を母衞皇后に白し、收捕して、之を斬り、中厩の車を發し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を發す。上、甘泉より來り、詔して、三輔の兵を發す。丞相劉屈釐、是に將たり。太子も亦制を矯めて兵を發し、丞相の軍に逢ひ、兵、合戰すること五日、死西漢-孝武皇帝-二一五 十八史略卷之二二二六くわうごうじさつたいしにこじけいする者數萬。皇后自殺す。太子亡げて、湖に至つて、自經して死かうべうしんらうでんせんしうはくとうをうす。後に、高廟の寢郞田千秋といふ者あり。上書して言ふ白頭翁しんをしろうむちうあり、臣に〓へて云ふ、子、父の兵を弄す、當に答つべしと。上、さとしんれい悟つて曰く、是れ、高廟の神靈、我に告ぐるなり、太子の罪なきをきらいばうしだいかなし望思之臺知ると。歸來望思の臺を廟に作る。天下、聞いて、之を悲む。けうどごげんしゆせんあだりくわうり三年。匈奴、五原、酒泉に寇す。李廣利を遣して、之を擊つ。廣くだ利匈奴に降る。はうししんじんこう四年。方士の神人を候する者を罷む。でんせんしうしやうふみんこうりんだいとんでんや輪臺之詔田千秋を以て相となし、富民侯に封ず。輪臺の屯田を議するを罷みことのりきわうくわいのめ詔を下して、深く旣往の悔を陳ぶ。こうげん二年2じやうさくきうみゆきやまひあつくわくくわうだいしばだいしやう孝た絕武を後九上、五柞宮に幸す。病篤し、霍光を以て、大司馬大將櫛皇どた亦且む其英大略主ゝのぐんゐせうたすかい軍となし、遺詔を受けて、太子を輔けしむ。上、在位五十四年、改風帝もり歷つる版沐に世 朝大の圖憐し放經のてのれ冠るく廣げんけんげんげんさくげんしゆげんてい元するもの十有一。曰く、建元、元光、元朔、元狩、元鼎、元封、ゆうざいたいりやくぶんけいほう太初、天漢、太始、征和、後元。上、雄材大略、文景豐富の後を受きうきよくかうていへいじやううれひのこせいじやうこうけ、武事を窮極す。嘗て謂ふ、高帝、平城の憂を遺す、齊の襄公訓鍊あだえしばしけうどせいかん九世の讐を復するが如くならむを思ふと。數ば匈奴を征し、漢の兵を世ず情恣故·ずりのて察て縱端漢せ下自せい3のがばくなんわうていうひら勢を盡す。匈奴、遠く遁れ、幕南に王庭なし。地を斥き、郡縣を立け運却じゆかうじやうせいゐきせいなんいてうせん啓衰て、受降城を置く西域に通じ、西南夷に通じ、東朝鮮を擊ち、えつきづうぐんりよとしごと內は土木どことじやうふん南粤を伐ち、軍旅歲毎に起る。を事とし、上苑を築いて南しよくはくれうだいしようろどうばん山に屬し、柏梁臺を建て、承露銅盤を作る、高さ二十丈、大さ七西漢-孝武皇帝-二一七 十八史略卷之二二一八ゐぜんにんしやうはうしこうそんけいろうきよ圍、上に仙人掌あり。方士公孫卿、神仙は樓居を好むと言ひしを以ひれんけいくわんつうてんけいだいしゆざんけんしやうきうて、蜚廉桂館、通天莖臺を作り、首山の宮を作り、建章宮を作るほうかくこけんたいえきちぜんだいほうらいはう千門萬戶。東は鳳閣、西は虎圈、北は太液池。中に漸臺、蓬萊、方ぎよくだうしんめいだい丈?えいしうれうへきもんめいくわうきう瀛洲、壺梁あり。南は玉堂、壁門、神明臺を立つ。明光宮を作しびきはしばしじゆんかうししたつとほうぜんしうこくる皆、修靡を極む數ば巡幸して、祠祀を崇び封禪を修す。國ないきふしやくきふうろくひへいはくきんつくさうこうやうこうきん內給せず、武功の爵級を賣り、鹿皮幣白金を造る。桑弘羊、孔僅のときんゆへいじゆんはふつくおこたすえんくわんおしう徒、均輸平準法を作り、利を興し、以て費を佐く。鹽官を置き、舟しやさんびんせんせうぜんたうおこりんだい車を算し、緡錢を造る。天下、蕭然たり。末年、盜起る輪臺の一せうなかかんはとしんじようしやう詔微つせば、漢幾んど秦たるを免れず。用ゆる所の丞相惟だでんふんもつばじやうけいぢよ蚜に謂つてり田蚡のみ、稍や專らにす。上、嘗て、曰く、卿吏を除っする、盡くるや未だしや、吾も亦た吏を除せむと欲すと。後は皆位みこうそんこうちうに充つるのみ。公孫弘の後、國家多事、丞相、しきりに、誅を以てこうそんがていきうあ、死す。公孫賀、相に拜せられ、涕泣して、肯て拜せざるに至る、亦こくりちやうたうてううとしうぎしようわうおんじよとた罪を以て死す。酷吏、張湯、趙禹、杜周、義縱、王溫舒の徒、皆けいはふしゆんようたうら嘗て刑法を峻用す。然れども、湯等、罪あれば亦た貸さざるなり。ぼくしきげいくわんぞくきふあんげん汲點嚴を以其閒、ト式兒寬の屬、亦た長者を以て用ゐらる。汲黯、獨り嚴をて憚らるはゞかせつかんしゆせいじやう以て憚らる。切諌して內に留まるを得ず、東海の守となり、〓淨をかふないぐわけい好み、閤內に臥して出でず、然かも、郡中大に治まる。入つて九卿ぶんがくあんとなる。上、方に文學を招く。嘗て曰く、吾、云々せむと欲す。黯いはたよくじんぎほどこいかんたうぐう曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す、奈何ぞ唐虞の治に西漢-孝武皇帝-二一九 十八史略卷之二〓三〇效はむと欲するかと。上、怒つて朝を罷む。曰く、甚しい哉、汲黯の態なるやと。他日、又曰く、古しへ社稷の臣あり。黯之に近しと。淮南王安、反を謀る。曰く、漢廷の大臣、獨り、汲黯、直諫を好む、節を守り、義に死せむ。丞相弘の如きは、之を說くこと、蒙を發くが如きのみと。黯嘗て、淮陽の守に拜せらる。曰く、臣病む、郡事に任ずる能はず。願はくは郞中となり、禁闔に出入し、過 を補ひ、遺ちたるを拾はむ。上曰く、君、淮陽を薄しとするか。吾、今、君を召す。おもふに、淮陽の吏民、相得ず、惟だ君の重きを得て、臥して之を治めよと。淮陽に至り、十歲、竟に卒す。黯甚だ上に重んぜらる大將軍衞靑、貴と雖も、上、或は厠に踞して之を見る。黯の如きは冠せざれば見ざるなり。上、天下材智の士、吾俊異の者を招選して、之を寵用す。莊助、朱買臣、丘、壽王、司馬ばいくわうしうぐんら相如、東方朔、枚皐、終軍等、左右に在り。相如、特に詞賦を以て幸を得たり。朔皐は、持論を根とせず、該諧を好む。上、俳優を以てま、之を畜ふ。朔嘗て、上の前の侏儒に語る。以爲へらく、上之を殺さむと欲すと。侏儒、泣いて命を請ふ。上、朔に問ふ。朔曰く、侏儒飽いて死なむと欲す、臣朔饑ゑて死なむと欲すと。伏日に肉を賜ふこと晏し。朔先づ肉を斫つて持して歸る。上、召して問ひ、自ら責めしむ。朔曰く、賜を受くるに詔を待たず、何ぞ無禮なるや。劍を拔いて、肉を斫る、何ぞ壯なるや。之を斫つて多からず、何ぞ西漢-孝武皇帝- 十八史略卷之二さいくんおくじんれん朔、亦廉なるや。歸つて細君に遣る、何ぞ仁なるやと。然れども、ちよくかんりせうくんしんせんた時に直諫して補益する所あり。李少君より以來、神仙を求めて已ぶんせいちうりいた上まず、文成誅せられて、五利至る。五利、文成を以て言となす。はかんくら曰く、文成、馬肝を食うて死するのみと、五利、又誅せらるるに及こうそんけいらもつとちやうしんまつねんすなはさとてんかび、公孫卿等、尤も聽信せらる末年、帝、乃ち悟つて曰く、天下せついくふあえうはうやや病評天下豈仙豈に仙人あらむや、盡く妖妄のみ、食を節し、藥を服せば、人あらんやかんおこけいていけうしよえのぞ少かるべきのみと。漢興つて、惠帝、旣に挾書の禁を除き、文帝、いうがくひろじゆがくつひと〓〓さかん旣に遊學の路を廣むと雖も、然れども、儒學、終に未だ盡く盛なとうちうじよこうそんこうしゆんじうげいらず。帝の世に至つて、董仲舒、公孫弘、皆、春秋を以て進み、兒けいじゆつりかざまたこうあんこくらくわん六寛.亦た經術を以て吏事を飾る。後、又孔安國等、出づるあり。けいへうしやうじつていはじしばしずゐしやう經を表章すること、はくりんしゆがんしはうはうてい實に帝より始まる。がくしやうつく數ば瑞祥を得たり。かうべう白麟、芝房、すぶんしやう朱鴈、寶鼎、皆、樂章を爲り、之を郊廟に薦む文章も、亦だいぶじゆた帝の世に至つて始めて盛なり。ほうれうはふむ人以て三代の風ありとなす。かうせうくわうてい帝、壽七十にして崩ず。茂陵に葬る。太子立つ、之を孝昭皇帝となす。ふつれううよく六じんてうしはら【孝昭皇帝】名は弗陵、母は釣弋夫人趙氏、うま娠んで十四月にして生ぶていなげうぼもん武帝、さうだいる。たち其門に命づけて、堯母門といふ。年七歲、體壯大にぐんしん多知なり。武帝、たくわくくわうして、ちうこうたいじにん之を立てむと欲す。群臣を察するに、唯だ霍光忠厚くわうもんしうこうせいわう霍光、忠厚、大事に任ずべし。お黃門をして、周公、成王を負う評武帝鈎弋てうゑがくわうたまて、諸侯に朝せしむるを畫いて、こうよくふじんけん以て光に賜はしむ。鈎七夫人を譴理賜夫たら人に辯死非一をせきたまいにこくかみだゆゑん死を賜うて曰く、しゆせう責し、はゝさう古しへ、國家の亂るる所以、主少、母壯に西漢-孝武皇帝-孝昭皇帝-二二三 二二四十八史略卷之二遂に卽驕淫自ら恣にするに由るなりと。明年、武帝崩ず。人之あ然情をるれして、ずはに之でに殺がど非す故も反を謀る。赦して治位す。燕王旦、長にして立つを得ざるを以て、せず。黨與誅に伏す。野始元六年、蘇武、匈奴より還る。武、初め、北海の上に徒り、ら李陵、武臥起、漢の節を持す。鼠を掘り、草實を去へて、之を食ふ。に謂つて曰く、人生は朝露の如し、何ぞ自ら苦むこと此の如きと。亦た屢ば武に降を陵、衞律と與に匈奴に降つて、皆、富貴。律も、す、匈奴、詭つて、武、勸む。終に肯んぜず。漢の使者、匈奴に至る。旣に死したりといふ。漢使、之を知り、言ふ、天子、上林中に射て匈奴、膓を得たり、足に帛書あり、云ふ、武、大澤の中に在りと。か.隱す能はず、乃ち武をして還らしむ。武、匈奴に留まること十九年、しゆはつこと〓〓初め强壯を以て出で、還るに及びて、須髮盡く白し。拜して典屬ミ國となす。左將軍上官桀の子安、電光の婿たり。女を生む。立ちて皇后となる。桀と安と、自ら后の祖父たるを以て、乃ち光が外祖を以て朝事を專制するに若はず。桀と光と權を爭ふ。時に鄂國蓋長公主、愛する所の丁外人の爲に封侯を求め、許されず、光を怨む。燕王旦、自ら帝の兄を以て、常に怨望す。御史大夫桑弘羊、子弟の爲、に官を求めしが得ず、亦た怨望す。是に於て、皆、旦と謀を通じ、詐つて、人をして、旦の爲に上書せしむ。言ふ。光出でて郞羽林を西漢ー孝昭皇帝ー二三五 十八史略卷之二三六都肆し、道上に蹕と稱し、擅 に莫府の校尉を調益し、權を專にして、自ら恣にす。疑ふらくは、非常あらむと。光の出沐の日を候うて之を奏し、桀中より其事を下し、弘羊、當に大臣と共に執つあ、て光を退かしめんと欲す。書奏す。帝、肯て下さず。明旦、光評明治三十七年四月二日發行霍名光之を聞き、畫室中に止まつて入らず。上問ふ、大將軍、安くに在然燕王、其罪を告ぐるを以て、敢て入らずと。詔し成むふぞらのれる桀曰く、の得完何あ帝て、大將軍を召す。光入り、冠を免いで、頓首して謝す。上曰く、將軍、廣明に之いて、郞を都するは、屬のみ。校尉を調して以來、以王未だ十日なる能はず。燕王、何を以て之を知るを得む。且つ將軍、正式見る公とかつ所に以如非を爲せば、尉校を須ゐずと。この時、元鳳元年、帝、年十四。尙し)昭帝年僅か書、左右、皆驚く。而して、上書せし者、果して亡ぐ。之を捕ふる十ばく父若のをに克な皇し明鑑しら帝在あ別てにる邪四上に白す、忠こと甚だ急桀等懼れ、小事なり、遂ぐるに足らずと。しの位りす去、聽かず。後に、桀の黨、光を譖する者あり。上、輙ち怒つて曰せた祚め如乃く大將軍は忠臣、先帝の屬する所、以て朕の身を輔く、敢て毀るく漢りり中し興必主者あれば、之を坐せむと。是より、敢て復た言ふなし。桀等、謀り長公主をして、置酒して、光を請はしめ、兵を伏せて、之を格殺し、因つて、帝を廢して旦を立てむと欲す。安、又謀つて、旦を誘うて至らしめて、之を誅し、帝を廢して、桀を立てむとす。會ま、其謀を知る者あり、以聞す。桀.安、弘羊等を捕へ宗族を〓せミて、盡く之を誅す。蓋主旦と皆自殺す。西漢-孝昭皇帝-二二七 十八史略卷之二元四年、傅介子、西域に使し、樓蘭主を誘うて、之を刺殺し、傳を馳せて、闕に詣る。其匈奴の爲に反閒するを以てなり。元平元年帝、二十一にして崩ず。在位十四年。元を改むる三。曰く、始元、元鳳、元平。電光、政を爲し、民と休息し、天下無事。昌邑王賀は、哀王博の子、武帝の孫なり。光、賀を迎へて、入つて位に卽かしめ、皇后を尊んで皇太后となす。賀、淫戯度なし。光、奏して、之を廢し、武帝の會孫を迎立す、之を中宗孝宣皇帝となす。【孝宣皇帝】初名は病己。後改めて詢と名づく。武帝の曾孫なり。初め、戾太子據、史良娣を納れて、史皇孫進を生み、進病己を生む。數月にして、巫蠱の事に遭ひ、皆、獄に繫がる。氣を望む者言こと〓〓ふ長安獄中に天子の氣ありと武帝、使を遣し、盡く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治す。拒んで納れず。曰く、佗人の無辜も尙ほ不可なり。況んや、皇曾孫をやと。使者還つて報ず。武帝曰く、天なりと。長ずるに及びて、高材にして學を好み、亦た游俠を得失を知る。喜び、具さに間里の姦邪、吏治の昭帝の元鳳中、泰山に大石あり、自ら起立す。上林に僵樹あり、復た起つ。蠶其葉を食うて曰く、公孫病己、立たむと。賀の廢せらるるに及び、病己年十八。光等奏す、病己、躬、節儉慈仁にして、人を愛す、以て孝昭の後を嗣ぐべしと。迎へ入れて位に卽かしむ。旣に立つて六年、霍光西漢-孝宣皇帝-二二九 十八史略卷之二二三〇卒す。始めて政を親らす。評酸更地節三年路溫舒、上書して言ふ、秦に十失あり。其一、尙ほ存を蹂躙す人 /治獄の吏、inミの弊古る今易す。是なり。俗語に曰く、地を畫して獄となすも、入ららず恐ベミき哉ざらむを議し、木に刻して吏となすも、對せざらむを期すと。是れ悲痛の辭なり。願はくは、法制を省いて、刑罪を寛にせよ、則ち太ハ平興すべしと。上、爲に廷尉平を置き獄刑號して平となす。膠東の相王成、勞來怠らず。治に異績あり。爵、關內侯を賜ふ。魏相、丞相となり、丙吉、御史太夫となる。;四年。霍氏、謀反し、誅に伏す。其族を夷し、告ぐる者、皆、列侯に封ぜらる。初め、霍氏奢縱なり。茂陵の人徐福上疏して言ふ、宜しく、時を以て、抑制して、亡に至らしむる無かれと。書三たび 評ふ直る徐 明る所福しのの上說曲疏上る、聽かず。是に至り、人徐生の爲に上書して曰く、客、主味突す人に過るあり。其竈の直突にして、傍に積薪あるを見、主人に謂ふ、更めて、曲突となし、速に其新を徒せと。主人、應ぜず。俄に失火まあり。〓里共に之を救ひ、幸にして、息むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、其〓人に謝す。人主人に謂つて曰く、さきに客の言を聽かしめば、牛酒を費さず、終に火患なからむと。今、功を論じて賞するに、曲突にして薪を徒せとする者には恩澤なく、頭を焦し額をさ爛す者を上客となすかと。上乃ち、福に帛を賜ひ、以て郞となす。帝の初めて立つて、高廟に謁するや、霍光、驂乘す。上、之を嚴西漢-孝宣皇帝-二三一 十八史略卷之二三憚して、芒刺の背に在るが如し。後に張安世、光に代つて驂乘するや、上、從容肆體、甚だ安近す。故に俗に傳ふ、霍氏の禍は驂乘に萌すと。たいしゆ〓〓いふ北海の太守朱邑、治行第一を以て、入つて、大司農となる。渤海の太守襲遂、入つて、水衡都尉となる。是より先、渤海歲饑ゑ、盜評の說用意周龔遂治邊起る。遂を選んで、太守となす。召し見て問ふ、何を以て、盜を治到といふ可むと。遂、對へて曰く、海濱遐遠、聖化に活はず。其民飢寒、然も吏恤まず。陛下の赤子をして、兵を潰池の中に盜弄せしむるのみ今、臣をして之に勝たしめむと欲するか將た之を安んぜしむるか。上曰く、賢良を選用す。素より、之を安んぜむと欲す。遂曰く、亂民を治むるは、亂繩を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは、臣を拘するに文法を以てする勿れ、便宜を得て事に從はむと。上、許す。傳に乘じて、渤海の界に至るや、郡兵を發して迎ふ。遂、皆遣し還し、書を移して、捕を罷め、諸の田器を持する者を良民となし、兵を持する者を盜となす。遂、單車にして府に至る。盜聞いて、卽時に解散す。民、刀劍を持する者あれば、劍を賣つて牛を買ひ、刀を賣つて犢を買はしむ。曰く、何すれぞ。牛を帶び犢を佩ぶるやと。勞來巡行す。郡中、皆、蓄積あり。獄訟止息す。是に至り、召されて入る。評宣帝の時け、てう良吏輩出す元康元年京兆の尹趙廣漢を殺す。初め、廣漢、頴川の太守とな西漢-孝宣皇帝-二三三 十八史略卷之二三四廣漢は其一る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、飾項筩を爲り、吏民の投書人なりを受け、相告評せしむ。姦黨散落し、盜賊發するを得ず。之に由り、入つて、京兆の尹となる。尤も善く鉤距を爲し以て其情を得。さ閭里銖兩の奸も皆知る。姦を發し、伏を摘する。神の如し。京兆、政、〓し。長老傳ふ。漢興つてより、京兆を治むる者、能く及ぶなしと。是に至つて、人、上書して言ふ、廣漢、私怨を以て、人を論殺すと。廷尉に下す。吏民、闕を守つて、號泣する者數萬人。竟に坐して要斬せらる。廣漢、廉明にして、豪强を威制し、小民職を得たり。百姓追思して之を歌ふ。す尹翁歸を以て、右扶風となす。翁歸、初め、東海の太守となり、法過ぎて、廷尉于定國に辭す。定國、邑子を託せむと欲す。語ることあ、終日竟に敢て見せしめず。曰く、是れ賢將なり。汝、事に任へざるなり又子すに私を以てすべからずと。治郡の高第を以て、遂に入つて治す。常に三輔の最となる。評魏相名言二年。上匈奴の衰弱に因り、兵を出して、其右地を擊ち、復た義兵、應兵、忿兵、貪兵驕兵の別、西域を擾さざらしめむと欲す。魏相、諫めて曰く、亂を救ひ暴をすな三り思誅する、之を義兵といふ。兵義なるものは王たり。敵己に加へ、已むを得ずして起つもの、之を應兵といふ兵應ずるものは勝つ。小故を爭ひ恨み、憤怒に忍びざるもの、之を忿兵といふ。兵忿るものは敗る。人の土地貨寶を利するもの、之を貪兵といふ兵貪るも西漢-孝宣皇帝-二三五 十八史略卷之二二三六たのしゆうほこるしのは破る。國家の大を恃み、人民の衆を矜つて、威を敵に見めさむけうへいへいおごつつけうどんんと欲するもの、之を驕兵といふ。兵驕るものは滅す。匈奴、未だ邊きやうをかだしんぐ境を犯せしことあらず。今、兵を興して其地に入らむと欲す。臣愚にして此兵、何の名たるを知らざるなり。今年、計るに、子弟、父ぜうへんさ兄を殺し、妻、夫を殺せし者、二百二十二人。是れ小變に非ず。左いううれすなはせんかいいかりゑんい右憂へず、乃ち兵を發して、纎芥の忿を遠夷に報いむと欲す。殆んこうしいはゆるそんうれひせんゆせうしやうど孔子の所謂、吾恐る、季孫の憂は、顳史に在らずして、蕭牆の內じやうしやうに在るものなりと。上相の言に從ふ。がいたいしたいふそくわう兄の子太子少傅疏受と共に、たいしせうふそじゆじやうそ三年。太子太傅疏廣、上疏して、骸こつゆるかしこうけいこじん÷だうまうとうもん祖道宴骨を乞ふ。之を許し、黄金を加賜し、公卿故人、祖道を設け、東門ぐわいきようちやうくるますうひやくりやうだうろみけん外に供張す。送る者、車數百兩道路觀る者、皆曰く、賢なるきようぐぞくじんこきうひんかく哉、二大夫と。旣に蹄るや、日に金を賣つて共具し、族人故舊賓客をあひともごらくさんげふ請うて、相與に娛樂し、子孫の爲に產業を立てず。曰く、賢にして財そのこゝろざしそんそのあやまちまか多ければ、其志を損し、愚にして財多ければ、其過を益す。且つそとみしゆううらみそのあやまちま夫れ、富は衆の怨なり。吾、其過を益して怨を生ずるを欲せずと。しんしやくぐわんねんせんれいしよきやうそむじやうこうしやうぐんてうじうこく神爵元年先零、諸美と與に畔く。上後將軍趙充國に問はしたれこたらうしんむ、誰か將たるべき者ぞと充國、年七十餘、對へて曰く、老臣にまきやうりよはかまさいくにん踰ゆるなしと。復た問ふ、將軍、羌虜を度ること如何。當に幾人をはるかはかきんじやう用ゆべき。充國曰く、兵は遙に度り難し。願はくは、金城に至り趙充國屯田はうりやくたてまついたとんでんそうたてまつ三計圖して、方略を上らむと。乃ち金城に詣り、屯田の奏を上る。西漢-孝宣皇帝-二三七 十八史略卷之二二三八いと願はくは、騎兵を罷め、歩兵萬餘を留め、分つて要害の處に屯し、田せむと。條して兵を出さず、留まつて便宜十二事。奏、上る毎に、輒ち公卿に下して議せしむ。初めは其計を是とする者什に三、中ごろは什に五、最後には什に八。魏相、其計に任じ、必ず用ゆべ、しといふ。上、之に從ふ。二年。史隸校尉蓋寛饒、封事を上る。上、以て怨謗となし、吏に下す。寬饒、自到す。三年。丞相魏相、薨ず。故事に、上書する者、皆、二封を爲り、其一に署して副といふ尙書を領する者、先づ副封を發き、言ふ所善からざれば、屏去して奏せず霍光の薨ぜしより、相卽ち白二して、副封を去り、以て雍蔽を防ぐ、相となるに及びて、好んで、漢の故事及び便宜章奏するところを觀、數漢興つてより以來、便宜の行事、及び賢臣、賈誼、晁錯、董仲舒等の言ふ所を條し、請うて之を施行す。掾史に敕して、事を郡國に案ぜしむ。及び休〓ほして、家より還つて府に至れば、輒ち四方の異聞を白し、或は逆賊風雨の災異にして、郡、上らざるあれば、相、輒ち之を奏言す。わ御史大夫丙吉と共に、心を同じうして、政を輔く。上、皆之を重くわんだい評魏相丙吉んず。是に至つて、吉、代つて丞相となる。吉、寛大を尙び、禮讓漢代の名相はあ、を好む。嘗て、出で、群鬭死傷に逢ふも問はず。牛の喘ぐに逢うて、牛を逐ふこと幾里なるかを問はしむ。或ひと、吉の問を失するを西漢-孝宣皇帝-二三九 十八史略卷之二二四〇譏る吉曰く、民の鬭ふは、京兆の當に禁ずべき所なり。宰相は、細事を親らせず。當に問ふべき所に非ざるなり。春に方つて、未だあ、熱すべからず。恐らくは、牛、暑きが故に喘ぐならむ。是れ時氣節を失するなり。三公は、陰陽を調ふ職として、當に憂ふべしと。人、以て大體を知るとなす。五鳳元年左馮翊韓延壽を殺す。延壽、吏となり、古しへの〓化を好む。潁川の太守より入つて、馮翊となる。民に昆弟相訟ふるあ〓〓り、延壽、閤を閉ぢて、過を思ふ。訟ふる者、各 悔い復た爭はず。郡中翕然として、相敕厲す。恩信周偏にして、復た詞訟あるなし。吏民、其至誠を推して、欺給するに忍びず。是に至つて、事に坐して、棄市せらる。百姓、流涕せざるなし。評吏道の極意黃霸の言大三年。丙吉、薨ず。黃霸丞相となる霸、嘗て、頴川の太守となり、吏民、神明欺くべからずと稱す。〓化を力め誅罰を後にす。長史許丞、老いて、聾を病む。督郵白して、之を遂はむと欲す。霸曰く、許丞は廉吏、老いたりと雖も、尙ほ能く拜起す、重聽するも 何ぞ傷まむ。數ば長吏を易ふれば、故を送り、新を迎ふるの費、及び姦吏因緣して簿書を絕ち、財物を盜み公私の費耗、甚だ多からむ。易ふる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず。或は其故に如かず、徒に相益して、亂を爲さんのみ。凡そ治道は、其太甚しき者を去るのみと。霸外寬內明を以て、吏民の心を得たり。治、天下第西漢-孝宣皇帝-一四、 十八史略卷之二三評地方長官一となす。是に至りて、吉に代る。霸の材、治民に長ず。相たるに大阪市立大学中学校及びて、功名、郡を治むる時より損す。處に般才人な考のなとミず四年。大史農耿壽昌、白す。邊郡をして、皆、倉を築かしめ、穀"大盛大賤しければ、價を增して耀し、穀貴ければ、價を減じて糶し、以て常平倉民を利せむと。名づけて常平倉といふ。前の光祿勳楊憚を殺す憚廉潔にして私なし。人、上書して、憚妖惡の言を爲すと告ぐ。免じて庶人となす。憚、家居し、產を治めて、自ら娯む。其友、孫會宗、之を戒む。憚、報じて曰く、過大にして行虧く。當に農夫となつて、以て世を沒すべし。田家作苦、歲時伏臘、羊を烹、羔を無し、斗酒自ら勞す。酒後に耳熱し、天を仰ぎ、缶を拊つて鳴鳴と呼ぶ。其詩に曰く、田 彼南山。蕪穢不治。種一頃豆。落而爲 其。人生行樂耳。須富貴何時。と淫荒度なきも、其不可を知らずと。人、上書して〓ぐ、憚、驕奢にして悔いずと。廷尉に下して案ず。會宗に與へし所の書を得たり。帝、見て之を惡む。大逆無道を以て要斬す。評甘露元年公卿奏す、京兆尹張敞は、憚の黨友なり。宜しく、位ざ亦惜完以ひ人ど兆張る止むふて易のもな敵所むべし終し怨其りはかをき得り是を職然名得もずをを買司れ京なに處らしむべからずと。上、敞の材を惜んで、其奏を寢む。敞、掾、をき得り是を職絮舜をして案驗する所あらしむ。舜、私に歸つて曰く、五日の京兆のみ、安んぞ能く復た事を案ぜむやと。敞舜の語を聞き、卽ち收めて、獄に繋ぎ、竟に、それを死に致す。後、舜の家に〓げらる。西漢-孝宣皇帝-三 十八史略卷之二一四、敞上書し、闕下より亡命すること歲餘。京師枹鼓、數ば警む。上、敞の能を思ひ、復た之を召し用ゆ。黃霸、卒す。于定國、丞相となる。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦あり。寡居して嫁せず以て其姑を養ふ。姑年老い、婦の嫁を妨ぐるを以て、自經して死す。姑の女、婦迫つて其母を死させしむと告ぐ。婦辯ずる能はず。自ら誣伏す。于公、之を爭へども得る能はず。孝婦死す。東海枯旱すること三年後の太守來る。ミ公其故を言ふ。太守、孝婦の家を祭る。遂に雨降る。于公、獄を5治めて、陰德あり。門間を高大にし、駟馬の車を容るべからしむ。曰く、吾が後世、必ず興る者あらむと。子定國、地節元年を以て、廷尉となる。朝廷、是を稱して曰く、張釋之、廷尉となつて、天下評ら民鏡をて寃民なし。于定國、廷尉となつて、民自ら寃とせずと。是に至り御自ら獄るせんの味噌らし史大夫より霸に代る。匈奴亂る。五單于立つを爭ふ。呼韓邪單于、上書す、願はくは、た塞を欵いて、藩臣と稱せむと甘露三年、來朝す。詔して、客禮を以て之を待ち、諸侯王の上に位せしむ。国;只上、戎狄の賓服せしを以て、肱股の美を思ひ、乃ち其人を麒麟閣に圖畫す。惟だ霍光のみは名いはず、大司馬大將軍博陸候姓霍氏といふ。其次は、張安世、韓增、趙充國、魏 相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武、凡て十一人。皆、功德あつて、名を西漢-孝宣皇帝-二四五 十八史略卷之二二四六たうせい當世に知らる。かいげんほんしちせつげんかうしんしやくほう評宣帝中宗帝、在位、改元するもの七、曰く本始、地節、元康、神爵、五鳳、名に背かれうはふむりよえんおこずのかんろくわうりう、ほうと甘露、黄龍、凡そ二十五年崩ず。杜陵に葬る。帝、閭閻より起り、かんなんれいせいちすうきしうみつひんしきび民事の艱難を知り、属精治を爲す樞機周密にして、品式備具すしししゆしやうすなはそのでんり刺史守相を拜するに、輒ち親ら見問す。常に曰く、民の、其田里にたんそくしうこんニミルゑんうつたへをさ安んじ歎息愁恨の聲なき所以のものは、政平かに、訟理まればなりやうおた千石かと。り我と此を共にする者は、其れ惟だ良二以爲へらく、評二千宣考石帝と論のす大良しばしへんえきたみやすちべにし參太守は吏民の本、すなは數ば變易すれば、ヒしよべんれい民安からず。ちつ故に、きん二千石、たまこうけい治理の效あれば、輒ち重書を以て勉勵し、秩を增し、金を賜ふ公卿かもろへうえらかんせいりやうり缺くれば、諸の表する所を選び、次を以て用ゆ漢世の良吏、是にさかんしんしやうひつぱつめいじつそうかく於て盛なりとなす。信賞必罰、名實を綜核し、政事文學法理の士、みそののうくはそのしよくかなそのげふやすけうど咸な其能を精しくし、吏、其職に稱ひ、民、其業に安んず。匈奴のすゐらんさうちばうおそんかたるほくいのぜんう衰亂に遭値し、亡を推し、存を固くし、威を北夷に信ぶ。單于、義したけいしゆはんこうそそうひかこうえいたちうを慕ひ、稽首して藩と稱す。功、祖宗に光り、業、後裔に垂る中こうかうそうしうせんひとかう興德を高宗、周宣に伴しうすといぶべし。太子、位に卽く。之を孝げんくわうてい元皇帝となす。せきじうじんじゆせん評漢祚衰ふ元帝文弱【孝元皇帝】名は奭。初め太子たりし時、柔仁にして儒を好む。宣ていぶんばふけいはふたゞ帝の用ゆる所、多く文法の吏にして、刑法を以て下を繩すを見。嘗えんしようよういへいかけい七..はなはふかよろて燕する時、從容として謂ふ、陛下刑を持すること太だ深し。宜しじゆせいなかんかおのづかせいどく儒生を用ゆべしと。宣帝、色を作して曰く、漢家自ら制度あり。本西漢-孝宣皇帝-孝元皇帝-三四 十八史略卷之二受評時と併家と霸、とをすに法宣い知蓋在覇帝ふるしり王漢王の道を以て之を雜ゆ。奈何ぞ、純ら德〓に任して、周政をのに法用用ゐむや。且つ、俗儒は、時宜に達せず。好んで、古しへを是とし、し言務な務を今を非とし、人をして、名實に眩して、守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らむやと。乃ち歎じて白く、我が家を亂る者は太子なりと。宣帝、少にして、太子の母家許氏に依る。許后、霍氏の毒を以て死す。故に、太子を廢するに忍びず。是に至りて位に卽く初元元年皇后王氏を立つ二年。蕭望之、周堪及び宗正、劉更生を獄に下し、皆免じて庶人と評政ら内容ら内茶とな專なす。時に、史高外屬を以て、尙書の事を領し、望之、堪、之に漠さ中帝言れ適宜すの豫副たり。二人は、帝の師傅。數ば治亂を言ひ、正事を陳す。更生を給事中に選し、侍中金敞と竝に左右に拾遺たり。四人、心を同じうして謀議す。史高は、位に充つるのみ。之に由つて望之と隙あり。中書令弘恭、僕射石顯、宣帝の時より、久しく樞機を典る。帝の位に卽くに及びて、多疾なり。顯の中人にして外黨なきを以て、遂に宦官事を用ふるの始委するに政事を以てし、事、大小となく、顯に因つて白決す。貴幸朝を傾け、百僚、皆、顯に敬事す。顯巧慧にして、事に習ひ、能く 深く人主の微指を得。内、深賊にして、詭辯を持し、以て人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚、許、史の放縱なるを患ひ、又恭顯の權を專らにするを疾んで建白す、以爲へらく、中書は政の本、國家の樞機、宜しく通明公正を以て之を處すべし。武帝、後庭に遊宴す、西漢-孝元皇帝-二四九 十八史略卷之二二五〇くわん〓〓故に宦者を用ゆ、古制に非ざるなり。宜しく、中書の宦官を罷め、古しへの刑人を近づけざるの義に應ずべしと。上從ふ能はず。恭顯、奏す。望之、堪、更生、朋黨相稱譽し、數ば大臣を譖詐し、親戚を毀離し、以て專ら權勢を擅にして、不忠を爲さむと欲し、上を誣ひて不道なり。請ふ、謁者をして、召して、廷尉に致さしめミむと。時に、上始めて位に卽き、召して、廷尉に致すとは、獄に送ることなるを省せず、其奏を可とす。後に。上、堪更生を召テす。曰く、獄に榮けりら。上、大に驚いて曰く、惟だ廷尉の問ふのみに非ざるかと。出でて、事を視せしむ。恭顯、高をして上に說かしめ竟に罷免す。後、上、復た堪、更生を徵して中郎となし、且つ望之を以て相となさむと欲す。恭、顯許、史、皆目を側つ。望之が素より高節にして、詘辱せられざるを知り建白す。望之、過を悔いた罪に服せず。深く怨望を懷き、自ら以へらく、師傅に託して、終に坐せられず、頗る望之を獄に屈せしめ、其快快の心を塞ぐに非ざれば、聖朝以て恩厚を施すなからむと。上曰く、太傅、素より剛あ、安んぞ、肯て吏に就かむ。顯等曰く、人命は至重、望之の坐する所は語言の薄過なり。必ず憂ふる所なしと。謁者をして、望之を召さしめ、因つて、急に執金吾の軍騎を發し、馳せて、其第を圍む。望之、鴆を飮んで自殺す石〓顯え弘恭、死す。中書令となる。西漢-孝元皇帝-二五一 十八史略卷之二111.けうどしつしぜんうかうきよ五年。匈奴の郅支單于、漢の使者を殺して、西、康居に走る。えいくわうぐわんねんけうどかんやぜんうてい永光元年匈奴の呼韓邪單于、北より庭に歸す。けんせうぐんたいしゆけいばうばうえきせうえんじゆ建昭二年。魏郡の太守京房を殺す。房、易を焦延壽に學ぶ。延壽けいせいらう嘗て曰く、我が道を得て、以て身を亡ぼす者は、京生ならむと。郞さいいけんえんけんこといとなり、屢ば災異を言うて驗あり嘗て、宴見して事を言ひ、意せきけんさそういだめミ石顯を指す。顯、奏して、之を出し、尋いで、徵して、獄に下してきし棄市す。我ちいけんゐけんひゞさかんちうしよぼくやらうれうせうふごろくじうそうたういう評帝家傾く內官橫暴顯威權日に盛なり。中書僕射牢梁、少府五鹿充宗と結んで黨友もろ〓〓ふてうゐとなる諸の附倚する者、寵位を得たり。民、之を歌うて曰く、牢邪石邪。五鹿客邪。印何纍纍。綬若若邪。と。せいゐきふくかうゐちんたうせいつはかんえんじゆ三年。西域の副校尉陳湯、とコしつしぜんうかうきよしふげき制を矯つて兵を發し、都護甘延壽と共くび郅支單于を康居に襲撃して、つたに、かうがいか之を斬る。四年春、首を傳へて、京に至る藁街に懸くること十日。きやうねいぐわんねんこかんやぜんうらいてうねがかんせい王嫡字昭君竟寧元年呼韓邪單于、來朝す。願はくは、漢に婿たらむと。こうきうわうしやうあざなせうくんたま後宮の王嬌、字は昭君を以て之に賜ふ。かいげんしよげんえいくわうけんせう帝在位十六年。きやうねい改元するもの四。初元、永光、建昭、竟寧帝じゆじゆつよろこるげんせいきやうかうしやういへどしやうげふ儒術を喜び、てい韋玄成、匡衡を得て相となすと雖も、相業なし。帝、いたづらいだんかんげふおとろかうせいくわうてい徒に優遊不斷、漢業衰ふ太子位に卽く。之を孝成皇帝となす。がうかふくわん【孝成皇帝】名は驚けいしよ母は王氏。帝を甲觀に生む。少にして、經書しゆがくかうえんらくげんていときを好み、其後、酒樂を幸して燕樂すほと元帝の時、太子となつて、幾西漢-孝元皇帝-孝成皇帝-二五三 十八史略卷之二二五四はいしたんせいほていきふかんしんど廢せられむとす。史丹、靑蒲に伏して、涕泣して諫止す。是にくらゐくわうたいごうげんきうわうほう至つて、位に卽く。王氏を尊んで、皇太后となし、元舅、王鳳を以評る治禍武王人氏す政之にをはせうしよりやう因專すにて大司馬大將軍となし、けんしぐわんねんせきけん尙書の事を領せしむ。めん建始元年。石顯、罪を以て免じ歸る道にして死す。きうわうすうあんせいこうたんしやうりつこんほうじしやくくわん舅王崇を封じて、安成侯となし、譚商立根逢、時に爵關だいこうくわうむよもふさ内侯を賜ふ。黄霧四に塞がる。ハンねんしよきう河平二年悉く諸舅を封じて、列侯となす。やうさくねんわうほうわういんわうたん陽朔三年。王鳳、卒す。王音、大司馬となり、王譚、城門の兵をりやう領す。こうかねんわうたんわうしやうじやうもんりやう鴻嘉四年。王譚、卒す。王商、城門の兵を領す。えいしぐわんねんたいこうまうしんと王莽こう永始元年太后の弟の子莽を封じて、新都侯となす。くわうごうてうしひえんぢよていがふとくせふよ皇后趙氏を立つ。名は飛燕、女弟合德を婕好となす。わういんわうしやう二年。王音、卒す。王商、大司馬となるもとなんしやうゐばいふくはうこんくんめいをかしゆゐ故の南昌の尉梅福、上書して曰く、うばぐわいせき方今、へいか君命犯されて、そのかたちさつ主威奪はれ、外戚の權、そのかげ日に益す以て盛なり。けんしいらいにつしよくぢしん陛下、しゆんじう其形を察せず、願は其景を察せよ。すゐさいくはひすういんさかん建始以來、やうび日食地震、きんてつため春秋に三倍し、と水災ともに比數するなし。けいたてまつ陰盛にはう陽微に、金鐵爲に飛ぶ。是れ何の景ぞやと。書、上れども、報ぜず。わうしやうわうこん四年。王商、卒す。王根、大司馬となる。評腐儒張禹あんしやうこうちやううしごとていぎあづか漢の事を誤安昌侯張禹、帝の師傅を以て、大政ある每に必ず定議に與る。西漢-孝成皇帝-〓 十八史略卷之二〓朱雲時に吏民多く上書して言ふ、災異は王氏專政の致す所なりと。上の所謂尙方エリーノ斬馬の劍をるに禹の第に至り、左右を辟け、親ら以て禹に示す。禹自ら、年老い、(おつけつ者な子孫の弱きを見、王氏に怨まれむことを恐れ、上に謂つて曰く、春秋の日食地震は、或は諸侯相殺し、夷秋中國を侵せしが爲ならむ。災變の意、深遠にして見がたし。故に、聖人、命を言ふこと罕に、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の屬より聞くを得ず。何ぞ況んや淺見鄙儒の言ふ所をや。新學小生、道を亂し、人を誤る、宜しく信用なかるべしと。上、雅に禹を信愛す。之に由つて王氏を疑はず故の槐里の令朱雲、上書して見るを求め、願はくは、尙方斬ほ馬の劍を以て、侫臣一人の頭を斷て以て其餘を厲まさむと。上問ふ。誰ぞや。對へて曰く、安昌侯張禹と。上、大に怒つて曰く、小臣、下に居り、師傅を廷辱す。罪、死すとも赦さずと。御史雲を率ゐて下らむとす。雲、殿檻を攀ぢ檻折る。雲、呼んで曰く、臣、T、龍逢。比干に從つて遊ぶを得ば、足れり。未だ聖朝如何を知らざるのさしやうぐんしんけいきたみと。左將軍辛慶忌、頭を叩き、血を流して之を爭ふ上の意、乃ち解く檻を治むべきに及びて、上曰く、易ふる勿れ。因つて、之を輯めて、以て直臣を旌せと。綏和元年王根、病んで免ず。王莽、大司馬となる。二年帶、崩ず。在位二十六年。改元するもの七。曰く、建始河平陽朔、鴻嘉、永始、元延、綏和帝威儀あり、朝に臨んで西漢-孝成皇帝-毫 十八史略卷之二〓神の如し。然れども、酒色に荒み、政、外家に在り。張禹、薛宣、翟方進、相となり、漢業愈よ衰ふ。太子、位に卽く。之を孝哀皇帝となす。【孝哀皇帝】名は欣、定陶恭王康の子、元帝の孫なり。祖母は傅氏。母は丁氏。成帝、子なし。故に立てて太子となす。是に至つて、卽位す。丁傅、事を用ゆ。大司馬莽を罷めて第に就かしむ。建平元年夏賀良の言を用ゆ。漢歷、中頃衰ふ當に天命を更め受くべく、宜しく、急に元を改め號を易ふべしと。乃ち太初と改元し、陳聖劉太平皇帝と更め號す。尋いで、改元更號の事を罷め、夏賀良等を誅ず。帝、董賢を幸す。元壽元年賢を以て大司馬となす。二年、帝崩ず。賢自殺す。帝、在位七年。改元するもの二。曰く建平、元壽。太皇太后、王ちうざんわう莽を以て大司馬となし、尙書の事を領せしむ。中山王を迎へて、位に卽かしむ。之を孝平皇帝となす。【孝平皇帝】名は箕子。後、名を布と更む。中山孝王興の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立つて嗣となる。太皇太后、朝に臨み、大司馬莽、政を乗る。百官、己を總べて、以て聽く。元始元年、莽を安漢公と爲す。四年。莽の女を聘して皇后となし、安漢公に號宰衡を加へ、諸侯西漢-孝哀皇帝-孝平皇帝ー堯 十八史略卷之二총う王の上に位す。たいしこうくわうせいあいいらいわざはひ五年。太師孔光、卒す。成哀以來、光等、三公となり、漢の禍をやうせいてんねいふうまうしよう養成し、證侫風を成し、上書して莽を顔する者四十八萬人に至る。しやく莽に九錫を加ふらふじつせうしゆたてまつどくお臘日、莽、椒酒を帝に上り、毒を置く、帝、崩ず、在位六年改げんしげんそんえいめ元するもの一、曰く、元始。太皇太后、詔して、宣帝の玄孫嬰を徵じゆしキうせつゐして、皇太子となし、號して、孺子嬰といふ莽、攝に居て、祚をふさんかくわうていせつくわうてい踐み、贊して假皇帝といひ、民臣は、之を攝皇帝といふ。きよせつぐわんねんりうそう【孺子嬰】嗣たるの初、之を王莽の居攝元年となす。劉崇、兵を起まうがして、莽を討つ。克たずして死す。たいしゆてきぎもとじようしやうはうしん二年。東郡の太守翟義、故の丞相方進の子なり。兵を起して、莽を討つ。克たずして死す。recordentまうしんてんししん王莽集位明治三十七莽、眞天子の位に卽き、國を新と號す。漢の太皇太后あらたしんしつぶんぽたかくわうたいごうわうまうわうまんを更め號して、新室文母太皇太后といふ王莽は、王曼の子なり。1)評孝元皇后の兄弟八人。獨り、曼、公に自早く死して侯たらず。くん莽、幼にし周詩しやうぐんしび言日)王莽て孤なり。群兄弟、皆將軍たり。五侯の子時の修靡に乘じて恭謙下士上はせかしよくいついうあひたかせつきようけんきんしん時、若使當輿馬聲色を以て佚游相高ぶる。莽、節を折つて、恭儉をなし、勤身無形電話はくがとひさじゆせいえいしゆんしよふつかつぶさ新鮮鐵道博學被服、儒生の如く、外は英俊に交り、内は諸父に事へ曲に誰知れいいしんとこうしやくゐますまたつとせつさういよいけんきよよりう禮意あり。新都侯に封ぜらる。爵位益す尊く、節操愈よ謙虛譽隆からそのしよふかたむかんせいあいていほうへいていげいりつ治、其諸父を傾け、遂に漢政を得たり。哀帝崩じて平帝を迎立し、西漢-攝子嬰-六 十八史略卷之二云五年にして、帝を弑し、位を攝する三年。竟に位を簒し、國を新と號す。始建國元年孺子嬰を廢して、定安公となす。二年漢の太皇太后王氏崩ず。だp天鳳四年。〓州、盜起る新市の人王匡之が帥たり。馬武、王綠林の賊常·成丹、往いて之に從ひ、綠林山中に藏る。五年。莽の大夫揚雄、死す。雄字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以て、郞となり、黄門に給事たり。三世、官を徒さず。莽の簒するに及び、耆老久次を以て、轉じて、大夫となる。嘗て、太玄、x法言を作る。卒章に莽の功德を稱して、伊周に比し、又劇秦美新の文を作り以て莽を頌す。劉棻、嘗て、雄に從つて奇字を學ぶ。藁事に坐して、誅せらる辭雄に連及す。時に、雄、書を天祿閣上に校す。使者、來つて、之を收めむと欲す。雄、閣上より投下す。莽詔して、問ふなからしむ。是に至つて死す。瑯邪の樊崇、東海の〓子都等の兵起る。地皇三年崇の兵、自ら赤眉と號す。綠林の兵、分れて、下江、新市の兵となる。〓州、平林の兵起るび弟秀劉續劉秀漢の宗室、劉續及共に春陵に起る。新市、平林の兵、皆之に附く。明年、諸將共に、劉玄を立てて、皇帝となす。玄は春陵西漢-焉子嬰-云 十八史略卷之二云の戴侯買の後、續秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始將軍と號す諸將、其懦弱を貪つて、之を立つ南面して立ち、群臣を朝せしむるに、手を以て席を刮し、羞愧して汗を流し、言ふ能はず大赦して、更始と改元し、宛に都す。更始元年劉秀、大に莽の兵を昆陽に破る。隗囂成紀の隗囂の兵起る。公孫述公孫述、兵を成都に起す。更始、將を遣して、武關を破る。析人鄧曄、兵を起して、長安にrn迎へ入る。衆兵莽を誅し、首を傳へて更始に詣る。莽、未だ簒せざる時、官名、及び十二州の界を更定し、罷置改易し、天下多事なな3り錯刀契刀大錢等の貨を更造す。旣に、位を簒するや、劉の字、卯金刀なるを以て、剛卯金刀の利を禁じ、錯月、契刀、五銖錢等を罷む。天下の田を更名して、王田といひ、買賣するを得ず。男口八に盈たずして、田一井に過ぐれば、餘田を分つて、九族、〓里に予ふ故に田なき者、田を受く。五均、司市、錢府の官を立て、民を)ノして、各業とする所を以つて、貢となさしめ、寶貨を更作し、金銀龜貝、錢布、五物、六名、二十八品あり。百姓潰亂寶貨行はれず。乃ち小錢大錢を行ふ。數ば更變して、信ならず盜鑄し、及び私に五銖錢を挾む者は、罪に抵る。是に於て、農商業を失ひ、食貨共に廢し、民、市道に涕泣するに至る。後、又、貨布貨泉を改西漢-孺子嬰-二六五 十八史略卷之二二六六む。一度、錢を易ふる每に、民、又、大に鑄錢法を陷犯し、檻車鎖頸傳へて長安に詣るもの、十萬を以て數ふ。死什に六七。制度を改易し、政令煩多、四方囂然として謳吟し、漢を思ふこと久し。歲旱して蝗あり。人相食み、遠近兵起る。莽五石の銅を以て、威斗を鑄、北斗の狀の如くし、以て衆兵を厭勝せむと欲し、出入に、人をして之を負うて行かしむ。漢兵の宮に入るに及び、猶ほ席を旋いらし、斗柄に隨つて坐して曰く、天、德を予に生ず。漢兵、其れ予を如何と。首を漸臺に斬る。軍人、其身を分ち、節解して、之を變す。簒より亡に至るまで、改元するもの三。曰く、始建國天鳳地皇、凡そ十五年。莽、首を傳へて、宛に至る。更始宛より都を洛陽に遷す。父老、司隸校尉の官屬を見、或は涕を垂れて曰く、圖らざりき。今日、復た漢官の威儀を見むとはと。更始元年。都を長安に遷す。赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。旣にして、赤眉に降り、爲に殺さる。立つてより亡ぶるに至るまで凡そ三年。前數月、大司馬秀、旣に河北に卽位す。之を世祖光武皇帝となす。西漢-孺子嬰-二六七 譯新十八史略卷之三西紀自二五至二二〇東漢【世祖光武皇帝】名は秀、字は文 叔、長沙の定王發の後なり。景帝、發を生み、發、春陵の節侯買を生む。侯たること再三世、封を徙し、南陽の白水〓を以て春陵となし、宗族、往いて家す買の少子外、外、囘を生み、囘、南頓の令欽を生み、欽.秀を南頓に生む嘉禾一莖九穂の瑞あり、故に名づく。是より先、望氣の者あり、春陵を望んで曰く、氣佳なる哉、鬱鬱葱葱然たりと。王莽、貨を改東漢-世祖光武皇帝-二六九 十八史略卷之三三·三はくすゐしん〓〓めて、貨泉といふ。人其字を以て、白水眞人といふ。秀、竟に白評高帝は隆水より起り、隆準にして日角あり、尙書を受けて、大義に通ず。嘗準龍顏光武は隆準日て、蔡少公を過ぐ、少公、圖識を學ぶ言ふ、劉秀、當に天子たる相角ある兩り似者貌頗たべしと。或ひと曰く、國師公劉秀か秀、戯れて曰く、何に由つて、る處Bi僕に非ざるを知らむやと。新市、平林の兵起るに及び南陽騒動す。宛人李通、秀を迎へて、兵を起す。秀の兄續、字は伯升、慷慨大節〓あり常に憤憤として、社稷を復せむと欲す。平居、家人の生業を事とせず。身を傾け、產を破り、天下の雄俊に交結す。是に於て、親客を分遣して、諸縣の兵を發せしめ、續自ら春陵の子弟を發す。皆恐懼して亡げ匿る。曰く、伯升、我を殺すと。秀が絳衣大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、謹厚なる者も亦た復た之を爲すと。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招說す。新市、平林、下江の兵、皆、來り會す。兵、統一するところなく、劉氏を立てて、人望に從はむと欲す。下江の將王常、續を立てむと欲す。新市、平林の將帥、其威明を憚つて、遂に更始を立て、續を以て大司徒と秀を將軍となす。なし、秀、昆陽、定陵、〓を徇へて、皆、之を下莽、す。王邑、王尋を遣し、大に兵を發して、山東を平げしむ。長巨無霸を以て壘となし、人虎豹犀象の屬を驅り、以て兵勢を助け、百餘萬と號す。旌旗、千里絕えず。諸將、兵の盛なるを見て、皆、走つて昆陽に入り、散じ去らむと欲す。秀、郵定陵に至り盡東漢-世祖光武皇帝-モ 十八史略卷之三三しよえいぜんほうじんいく諸營の兵を發し、自ら步騎千餘に將として前鋒となる。尋、邑こしざんしゆすうきふ兵數千を遣して合戰せしむ。秀、之を奔らしむ。斬首數十級。諸將おそいさ曰く、劉將軍、平生、小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ敵敵評大てれ秀勇勇大小謂見怯劉あやししりぞしよぶり所ををなむ怪むべきなりと。尋、邑の兵、却く諸部、共に之に乘じ、かんししきりすしに勝つて遂に前む。一、百に當らざるなし。秀、敢死の者三千人とくづ其中堅を衝く、尋、邑の陣、亂る。漢兵、銳に乘じて、之を崩し、こさうちうぐわいいきほひ遂に尋を昆陽に殺す。城中の守者、まう亦た鼓譟して出で、つひ中外勢をあひふさ合し、呼聲、天地を動かす。莽の兵、大に潰え、走る者相踐み、伏あめふしひやくよだいらいふううをくぐわと虎戸百餘里。みなこせん大雷風雨に遇ひ、しせんできし屋瓦飛び、雨下ること注ぐが如し。くわんちうしんきよう豹皆股戰す。滍川に溺死する者數萬關中、之を聞いて震恐す。きやうおうぼくしゆ海內の豪傑響應し、皆、莽の牧守を殺し、自ら將軍と稱し、漢のじゆんげつえんけいてい年號を用ゐ、旬月にして天下に遍し。續の兄弟、威名日に盛なりかうししうiiたちんせき更始、續を殺す。てい秀敢て喪に服せず、飮食言笑す。惟だ枕席に涕きかうしはぶしんこう泣する處あるのみ。更始慙ぢ、秀を大將軍に拜し、武信侯に封ずいくばくだいしは未だとな幾ならずして、秀を以て大司馬の事を行はしめ、河北を徇へ莽の苛政を除くまうしむ。とううさく鄧禹過ぐる所、南陽の鄧禹、策を杖いて秀を追げふほうはいもつぱ牛仔干頭ひ鄴に及ぶ。秀曰く、我、封拜を專らにするを得たり。生、遠く來ういはねがたる、寧ろ、仕へむと欲するか禹曰く、願はざるなり。但だ願はくめいこうゐうそのせきすんいたは明公の威德、四海に加はり、再、其尺寸を效すを得て、功名をちくはくたかうしじやうさいたいげふた竹帛に垂れむのみ。更始は常才、帝王は大業、任ふる所に非ず。明東漢-世祖光武皇帝-二七三 十八史略卷之三二七四公、英雄を延攬し、務めて民心を悅ばすに如くはなし。高祖の業を立て、萬民の命を救はば、天下は定むるに足らざるなりと。秀、大に悅び、禹をして、常に中に宿止せしめ、共に計議を定む。邯鄲の詐つて成帝の子子與と稱し、ト者王郞ト者王郞、邯鄲に入つて、帝と稱し、幽冀を徇下し、州郡響應す。秀、北、薊を徇ふ。上谷の太守耿況の子弇、馳せて盧奴に至つで上謁す。秀曰く、是れ我が北道の主人なりと。薊城反して、王郞に應ず。秀趣に城を出で、晨夜、南に馳て、馮異せ、蕪畫亭に至る。馮異、豆粥を上る饒陽に至つて食に乏し。下曲陽に至り、王郞の兵、後に在りと聞き、滹沱河に至る。候吏還白す、つて河水流漸す、船なければ濟るべからずと。秀王霸をして之を視せしむ。霸、衆を驚かさむことを恐れ、還つて、卽ち詭つすて曰く、氷堅くして渡るべしと。遂に前んで河に至る。氷、亦た合す。卽ち渡る。未だ畢らず、數騎にして氷解く。南宮に至り、大風雨に遇ひ、道傍の空舍に入る。馮異、薪を抱き、鄧禹、火を蒸く。秀、竈に對して衣を燎る異、復た麥飯を進む。下博城の西に至り、惶惑して、之く所を知らず。白衣の老人あり、指して曰く、努力せよ。信都は長安の爲に城守す、此を去ること八十里と。秀、卽ち馳せて、之に赴く。時に、郡縣皆旣に王郞に降る。獨り信都の太守任光、和戎の太守邳形肯んぜず。光、出でて、秀の至るを聞き、大に喜ぶ形も、亦た來り會す。旁縣を發し、精兵を得、檄を移し東漢-世祖光武皇帝-二七五 十八史略卷之三〓〓て、王郞を討つ。郡縣亦た響應す。秀、兵を引いて、廣阿を拔く。上興地の圖を披き、鄧禹に指示して曰く、天下の郡縣、斯くの如し。今、始めて其一を得たり。子、前に定むるに足らずと言ひしは何ぞや。禹曰く、方今、海內殺亂、人、明君を思ふこと、猶ほ赤子の慈母を慕ふが如し。古しへの興るものは、德の厚薄に在つて、大小に評鄧馬銘る國は在在謂漁陽の兵を以て、右すをと不者所在らざるなりと。耿弇、上谷、行く郡縣を定め、宇文明な者家蓋大德りのにし小厚座存志也薄秀に廣阿に會し、進んで、部鄲を拔いて、王郞を斬る。吏民の郞と交るの書數千章を得たり。秀諸將を會して、之を燒いて曰く、反側子をして自ら安んぜしむと。秀、吏卒を部分するや、皆言ぶ、けんたい大樹將軍願はくは、大樹將軍に屬せむと。馮異を謂ふなり。人と爲り、謙退にして伐らず。諸將、功を論ずる毎に、異、常に樹下に屏く、故に此號あり。更始、使を遣して、秀を立てて蕭王となし、兵を罷めしむ耿弇、王に說き、辭するに河北未だ平がざるを以てして、徵に就かざらしむ。王、銅馬諸賊を擊ち、悉く破つて之を降す。諸將、未だ降者を信ぜず。降者、亦た自ら安んぜず王、敕して、各營にる、歸つて、兵を勒せしめ、自ら輕騎に乘じて、諸部を案行す。降者、相語つて曰く、蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。安んぞ、死評輕す諸光る部武はをのた騎悉く以て諸將に分配し、行に術も雄謂案を效さざるを得むやと。南、河内を徇ふ。ふ所心英收攬赤眉、西、長安を攻む。王、將軍鄧禹等の兵をして關に入らしむ。なてり人す民にし術衆、寇恂を薦め、文武備具して、民を牧し衆を御するの才ありとい東漢-世祖光武皇帝-三七 十八史略卷之三天| -英のみふ。河內を守らしむ。王、自ら兵を引いて、燕趙を徇へ尤來、大的〓。 〓〓。 大正術た槍等の諸賊を擊つて、盡く之を破る。王、還つて、中山に至る。諸らず將、尊號を上る。許さず。南平棘に至つて固く請ふ。又許さず。耿純曰く、士大夫、親戚を捐て、土壤を棄てて、大王に矢石の間に從ふは、素より龍鱗を攀ぢ、風翼に附いて其志す所を成さむと欲するのみ。今、時を留めて、衆に逆ふ、恐らくは、望絕え、計窮まらば去歸の思あらむ。大衆一度散ずれば、復た合すべきこと難しと。馮異、亦た言ふ、宜しく衆議に從ふべしと。會ま、儒生强華、關中より赤伏符を奉じて來る。曰く、劉秀、兵を發して、不道を捕ふ。四夷雲集龍、野に鬭ふ。四七の際、火を主となすと。群臣、因つて復た請ふ。乃ち皇帝の位に部南に卽き、建武と改元す。선이赤眉の樊崇等宗室劉盆子を立てて帝となす。時に軍中に在りて、羊を牧するを主り、被髮徒跣、敝衣〓汗、衆の拜するを見れば、恐畏して、啼かむと欲す。賊長安に入る。更始、走る。帝、詔を下し、封じて淮陽王となす。宛人卓茂、嘗て、密の令となる。〓化大に行はれ、道遺ちたるを拾はず。卽位、上、先づ茂を訪求し、以て太傅となして褒德侯に封ず車駕、洛陽に入る。遂に之に都す。東漢-世祖光武皇帝-二七九 十八史略卷之三二八〇關中、未だ定まらず。鄧禹、衆を引いて西す。百萬と號す。至る處、車を停め、節を駐め、百姓を勞來す。垂髫戴白、車下に滿つ。名、關西に震ふ枸邑に至る。久しく、兵を進めず。赤眉、大に掠めて出づ。再、乃ち長安に入る。赤眉、復た入る。再.戰つて利あからずして走る。徵されて京師に還る。馮異をして、關に入らしむ。功無きを慚ぢ、再、異を要して、共に赤眉を攻めて、大に囘溪に戰つて敗績す。散卒を收めて、壁を堅うす。既にして、大に赤眉を崤底に破る。重書、異を勞して曰く、初め、翅を囘溪に垂るると雖も上可謂失之東終に能く翼を瀧池に奮ふ、之を東隅に失して、之を桑楡に收むとい隅、收之桑る、楡ふべしと。赤眉の餘衆、東宜陽に向ふ。上軍を勒して、之を待つ。樊崇、劉盆子、丞相徐宣等を以て、肉袒して降る。上、軍馬を陳し、盆子の君臣をして、之を觀しめ、謂つて曰く、降を悔ゆる;無きを得むや。眞叩頭して曰く、虎口を去つて慈母に歸す誠歡かう··鐵中之錚錚庸中之佼佼誠喜、限なし。上曰く、卿は、謂ゆる鐵中の錚錚、庸中の佼佼たるものなりと。各、田宅を賜ふ。唯陽の人、劉永を斬つて降る。劉永、更始の時に在つて、立つて梁王となる。更始亡ぶるや、永、帝と稱す。是に至つて敗る5M漁陽の太守彭寵の奴、寵を斬つて以て降る。初め、上、王郎を討つ時、寵.突騎を發し、粮を轉じて絕たず、自ら其功を負んで、意評遼東の家望甚だ高く、滿つる能はず。幽州の牧朱浮、書を與へて曰く、遼東東漢-世祖光武皇帝-元 十八史略卷之三二八二ゐのこきさけんに豕あり、子を生む、白頭なり。將に之を獻ぜむとす。道にして、たちを 失に謂覺せず、所ぐんしみなしろしえつれうとうし野して着て師 192しを大群豕に遇ふ、皆白し。子の功を以て、朝廷に謁せば、遼東の豕ならふ者てうめうたがむと。上、寵を徴す。寵自ら疑ひ、遂に反す。是に至つて敗る。りうえいたせいわうちやうほくだとうらいたいしゆ劉永立てし所の齊王張歩降る。上、初め、步を以て東萊太守となしやうぐんかうかんしばしす。旣にして、永の命を受けて、齊に王たり。將軍耿弇、屢ば戰つしゆくあせいなんりんして大に之を破る。祝阿、齊南、臨舊を拔く。車駕、臨舊に至つて、ねぎらなんやうたいさく軍を勞ふ。弇に謂つて曰く、將軍、前に南陽に在り大策を建つ。お(あがたつひ嘗て以爲へらく、落落合ひ難しと。志在るものは、事、竟に成るなせいちことんりと。歩、敗る齊地悉く平らぐしやうぐんごかんらうかいせいわうとうけんおよはんしやうほうら將軍吳漢等、擊つて、劉永立つる所の海西王董憲及び叛將龐萠等こうわいさんとうたくわいがうこうそんじゆつを斬る。江淮山東、悉く平らぐ。時に惟だ隗囂、公孫述、未だ平がまさず。上、苦を兵間に積む。諸將に謂つて曰く、しばらく、當に此兩どぐわいお子を度外に置くべきのみと。へういちやうあんにふてう馮異、長安より入朝す。上、公卿に謂つて曰く、是れ我が兵を起しゆぼけいぎよくみことのりせし時の主簿なり、吾が爲に荊棘を披いて、關中を定むと。詔しいらうさうそつぶるていとうしゆくこだかばくはんこういて、異を勞して曰く、倉卒、蕪〓亭の豆粥、濾沱河の麥飯、厚意、はう久しく報ぜずと。けんぶねんくわいがう建武八年。上、自ら將として、隗囂を征す。えいせんか、しつきんごかうじゆん寇恂潁川、盜起る。上、還つて、執金吾寇恂に謂つて曰く、頴川は京はくきんま師に迫近す。獨り卿、能く之を平げむのみ。九卿より復た出づる東漢-世祖光武皇帝-二八三 十八史略卷之三二八四さこと〓〓可ならむかと。恂上に勸めて、親征せしむ。賊悉く降る。恂竟に郡に拜せず。百姓道を遮つて曰く、願はくは、寇君を借ること一年ならむと。乃ち恂を留めて、鎭撫せしむ。大軍戰はずして還る。建武九年。隗囂、死す。囂、更始の初年、兵を起してより、建武評應述援隗とか再最描心る亂の冪公復孫馬興をのけ答間往の初めに至るまで、天水に據り、自ら西州上將軍と號す。後、嘗台灣獨家居委て、馬援を遣して、成都に往いて、公孫述を觀せしむ。援述と舊あり、當に手を握つて歡、平生の如くなるべしと謂へり。時に、述、すざ三る讀のみし所飽旣に帝と稱する四年。援旣に至る。盛に陸衞を陳して、以て援を延く。援、其屬に謂つて曰く、天下雌雄未だ定まらず公孫、哺を吐いて國士を迎へず、反つて、邊幅を修飾す、偶人の形の如し。是れと何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らむやと。因つて辭して歸る。囂井底の蛙に謂つて曰く、子陽は井底の蛙のみ然も、妄りに自ら尊大にす。如かず、意を東方に專らにせむにはと。置、乃ち援をして、書を洛陽に奉ぜしむ初め到るや、良や久しうして引き入る。上、殿庶の下より岸情して迎へ、笑て曰く、卿二帝の間に敖遊す。今、卿を見るに、人をして、大に慚ぢしむ。援頓首して曰く、當今但だ、君、臣を擇ぶのみに非ず、臣、亦た君を擇ぶ臣、公孫述と同縣、少にして相善し。臣、前に蜀に至る。述陛戟して後に臣を進む。臣今、遠く來る。陛下、何ぞ刺客姦人に非ざるを知つて、然も簡易なること、是の如き。帝笑つて曰く、卿は刺客に非ずおもふに說客東漢-世祖光武皇帝-二八五 十八史略卷之三云云ならむのみ。援曰く、天下反覆、名字を盜む者、勝げて數ふべからず。今、陛下を見るに、恢廓大度、符を高祖に同じうす。乃ち帝王自ら眞あるを知るなりと。援歸る。書東方の事を問ふ。援曰く上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き、誠を見はして、隱伏する所なく、闇達にして大節多く、略ば高祖と同じく、評祖と馬可祖の味と高經學博覽にして、政事文辯、前世比なし。囂曰く、卿高帝に如何不可もなし。と謂ふか。援曰く、如かざるなり高帝は可もなく、と名を人しをる上手圓の上多者のみ知今上、吏事を好み、動くこと法度の如くし、又飮酒を喜ばずと。囂懌ばずして曰く、卿の言の如くなれば、反つて、復た勝れるかと。子をして入つて侍せしむ。未だ幾ならずして反す。復た、嘗て班彪に問ふに、戰國從橫の事を以てす。彪、王命論を作つて之を諷す。囂聽かず。馬援、行在に詣る。上、復た游說せしめ、仍つて、自ら囂に書を賜ふ。費、竟に公孫述に臣たり。述囂を立てて、朔寧王となす。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚めて山谷と上なし、形勢を指畫し、軍の從る所の徑道を開示す。上曰く、虜吾が目中に在りと。遂に軍を進む。囂西城に走り、餓を病み恚憤こと〓〓して卒す。子純、降る。隴右悉く平らぐふも十二年。公孫述、亡ぶ。述は、茂陵の人、更始の時より、蜀に據つて、帝と稱し、國を成と號す。上、旣に隴右を平らぐ。曰く、人隴を得て蜀を望むは自ら足らざるに苦む。旣に隴を得て復た蜀を望むと。大司馬吳漢東漢-世祖光武皇帝-二八七 十八史略卷之三六八等をして、兵に將として、征南大將軍零彭に會して蜀を伐たしむ彭、〓門に在つて、戰艦を裝ふ。漢、之を罷めむと欲す。彭可かず上·彭に報じて曰く、大司馬、步騎を用ゆるに習うて、水戰をおせん!曉らず、〓門の事、一に惟だ征南公を重しとなすのみと。彭の戰船並に進み、向ふ所前なし。述盜をして、彭を刺さしむ。吳漢、繼いで進み、成都に至つて、撃つて、述を殺す。蜀地、悉く平らぐ。凉州の牧竇融河西、武威、張掖、酒泉、燉煌、金城、五郡の太守を以て入朝す。融建武の初より、河西に據り後、使をして、書を奉ぜしむ。上、以て牧と爲し、重書を賜うて曰く、議者、必ず任囂が尉化に〓へて七郡を制するの計あらむと。書至る河西、皆驚き、以爲へらく、天子、明、萬里の外を見ると。上、隗囂を征するや融、五郡の兵を率ゐて、大軍と會す。蜀、平らぐ。詔を奉じて朝に歸す冀州の牧に拜せらる。大将軍の印を賜坦む。に十八年代王盧芳、匈奴に死す。芳は安定の人。詐つて、武帝の曾孫劉文伯と稱す。建武の初より、安定に據る。匈奴、之を迎へ、立てて漢帝となす。數は邊郡の寇患をなす。後、來り降り、代に王たり。復た反して、匈奴に奔り、病を以て死す。二十二年匈奴、和親を求む。上使を遣して、之を許す。呼韓邪單于、成帝の時に死せしより、其後、累世、貴、漢に仕ふ。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒つて中國に二名なしと謂ひ、單于に諷し東漢-世祖光武皇帝-二八九 十八史略卷之三二九〇て名を改めしむ。莽、漢を簒し、漢の賜ひし所の單子の重を易へて章といふ。單于、怨恨して、數ば邊に寇す。建武以來、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後、又、數ば烏桓、鮮卑と兵を連ねて入寇す。是に至つて、始めて、和を請ふ。西域、都護を請ふ、許さず。遂に匈奴に附く。是より先、莎車王けんぜん〓〓賢都善王安、皆使を遣して奉獻す。賢の使、再び至る。上賢に都護の印綬を賜ふ邊郡の守、上言す、假すに、大權を以てすべからずと。詔して、收め還し、更めて大將軍の印を賜ふ。賢、恨む。猶は詐つて大都護と稱す。諸國悉く賢に服屬す。質、驕橫。西域を兼併せむと欲す。諸國懼る。凡そ十八國、子を遣して入侍せしめ願はくば、漢の都護を得むといふ。上厚く賜うて、其侍子を還さしむ。是に至つて、復た請ふ。上、復た之を却く二十四年匈奴、南邊の八部、日逐王比を立てて南單子となす。た漢塞を欵いて內附す。是に於て、分れて、南北匈奴となる。二二五五。貊人鮮卑、烏桓並に入朝す。3)二十六年南單于の庭を立て、使匈奴中郞將を置き、以て之を領せしめ、南單于を徒して、西河の美稷に居らしむ。二十七年。北匈奴、亦た使を遣して和親を求む。明年、又請ふ、之を許す。評高祖立國精神、王中元二年。上、崩ず。上兵を起せし時、年二十八、卽位の年三東漢-世祖光武皇帝-二九一 十八史略卷之三二九二上がにに紀ど,5,る進すのをとてを本代と治柔は而霸道な國道主し道を以し光混と十一。第五倫、詔書を讀む毎に、歎じて曰く、是れ聖主なり、一見てて武ゆして決せむと手書、方國に賜ふに、一札十行、細書文を成す。政體を明愼し、權綱を總攬し、時を量り、力を度る。大ゝるるれしは東しのに時本擧として過事なし。嘗て、南陽に幸し、置酒して宗室を會す。諸母相與に語つて曰通 有 べ べ た た 文 亦 法 と 館 )く,文叔、平日、人と欵曲せず、惟だ直だ柔なるのみ乃ち能く此の如しと。上、之を聞いて笑つて曰く、吾、天下を理むる、亦た柔道を以て之を行はむと欲すと。上、兵間に在つて、久しく武事を厭ふ。蜀、平らいで後、警急に非ざれば、未だ嘗て軍旅を言はず。)の恪北匈奴、衰困す。减宮、馬武、上書して、攻めて之を滅さむことを柔能じ 333に勝ち)つ能請ひ、劍を鳴らし、掌を抵つて、志を伊吾の北に馳す。よ書を報くぬさうじ、告ぐるに黄石公の包桑記を以てす。曰く、柔、能く剛に勝ち弱能く强に勝つと。之より、諸將、敢て兵を言ふなし。玉門關を閉ぢて、西域を謝絕し、功臣を保全し、復た任ずるに兵事を以てせ列侯を以て第に就かしむ。す。皆、吏事を以て三公を責め、亦た功臣を以て吏事に任ぜず。諸將、皆、功名を以て自ら終る。祭遵先つて死す。上、之を念うて己まず、來歙、要求、鋒鏑に死す。之をさ郞むこと甚だ厚し。吳漢、賈復、帝の世に終る。漢、軍に在つて、評當世世祖戰、或は利あらざるも、意氣自若たり。上、歎じて曰く、吳公、差も敵の所謂やてき一國內的や人意を强うす、隱として一敵國の如しと。師を出す毎に朝に詔機人間のでのを受けて、夕に道に就く。卒するに及び、上、臨んで言はむと欲す東漢-世祖光武皇帝-二九三 十八史略卷之三二九四る所を問ふ。漢曰く、臣愚、願はくは、陛下、愼んで赦すことなかざをらむのみと。復は、兵を起せし時より督たり。上曰く、賈督、千里を折衝するの威ありと。嘗て、戰つて傷を被る。上、驚いて曰く、吾、嘗て、其敵を輕んずるを戒む。果して然り。吾が名將を失ふ。聞く、其婦孕むるありと。子を生まむか、我が女之に嫁せしめむ。女を生まむか、我が子、之を娶らむと。其群臣を撫する、毎に此の如し。惟だ馬援死するの日、恩意頗る終へず援、嘗て曰く、大丈上夫當に馬革を以て屍を裏むべし。安んぞ、能く兒女の手に死なむやと。交趾反す。援伏波將軍を以て、之を討平す。武陵蠻反す。援、又行くを請ふ帝、其老ひたるを愍む。援甲を被り、馬に上上り、鞍に據つて顧眄し、以て用ゆべきを示す。上、笑つて曰く、矍鑠たる哉此翁やと。卽ち之を遣る。之より先、上の婿梁松、嘗て、援を候して牀下に拜す。援自ら父の友なるを以て答へず。松不ひ平なり。援、交趾に在り、嘗て、書を遣つて、其兄の子を戒めて曰く吾、汝曹、人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くならむことを欲す。耳には聞くべく口には言ふべからず。好んで人の長短を議論し、政法を是非する、子孫に此行在るを願はざるなり。龍伯高は、敦厚周愼、謙約節儉、吾、之を愛し、之を重んず。願はくは、汝曹、之に效へ。杜季良は、豪俠にして義を好み、人の憂を憂ひ人の樂を樂み、父の喪に客を致すや、數郡 畢く至る、吾、之東漢-世祖光武皇帝-二九五 十八史略卷之三二九六を愛し、之を重んず。汝曹の之に效ふを願はざるなり。伯高に效う鵠を刻して成らざるて得ざるも猶ほ謹敕の士とならむ、謂ゆる、大竹成線 電車 大阪すつらをにるして成てざ畫類も季良に效うて得ざれば、陷つて天下の輕狗れいす尙も、尙ほ鶩に類するなり。ら反つて狗に類するなりにばて類反成薄子とならむ。謂ゆる、虎を畫いて成らず、保を告し、と季良は杜保。保の仇人、上書して、援の書を以て證となす。保、坐して、官を免ず。松、保と遊ぶに坐して、幾んど罪を得むとし、愈よ援を恨む。是に至つて、援の軍、壺頭に至つて利あらず、軍中に卒す。松、構へて、之を陷れ、新息侯の印綬を收む。援、前に交趾に在つて、常に薏苡を餌す。身を輕くして瘴氣に勝つを以てなり。軍還る時、之を一車に載す。後に之を追讚する者あり、以爲へらく、明珠文犀なりと。上、益す怒る。朱勃、上書して、其寃を訟ふるを得て、乃ち稍や解く。上贓罪に於て貸す所なし。大司徒歐陽歙、嘗て、贓を犯す。歙の受くる所の尙書の弟子千餘人、闕を守つて求哀す。竟に免れず、獄に死す。用ゆる所の群臣、宋弘等の如き、皆、重厚正直。上の姉、湖陽公主、嘗て寡居す。意、弘に在り。弘、入つて見ゆ。主屏後に坐す。上曰く諺富んでは交を易へ、に言ふ、貴くしては妻を易ふと。人情か弘曰貧賤の交は忘るべ貧賤の交は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと。上、主ず、ず登精のを顧みて曰く、事諧はずと。主、蒼頭、人を殺して主の家に匿る下妻るあり。吏、得ること能はず。洛陽の令董宣、主の出行を候ふ。奴東漢-世祖光武皇帝-二九七 十八史略卷之三〓驂乘す。叱して、車より下して之を格殺す。主、入つて訴ふ。上大に怒り、宣を召して、之を捶殺せむと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縱さば、何を以て天下を治めむ。臣、捶を須たず。請ふ、自殺たせむと。卽ち頭を以て楹を叩き、血を流して面に被る。上小黃門をして、頭を叩へて、主に謝せしむ。宣兩手、地に據つて、終に肯んぜず。上、敕す、强項令出でよと。錢三十萬を賜ふ。當時州牧郡守縣州牧郡守縣令、皆、良吏たり郭仮、潁川に守たり。帝城に近し、令皆良吏上、之を勞して曰く、河、九里を潤す。京師福を蒙ると。杜詩、南陽に守たり、郡人之が爲に語して曰く、前に召父在り、後に杜母在りと。張堪漁陽に守たり。人之が爲に語して曰く、桑に附枝なく麥穗兩岐、樂支るべからずと。劉昆、江陵に令となる。火あ評劉の一叩頭して之に向へば、風を反して火を滅す。に條之個民 、のり。後に、弘農に守た語〓を然み」今り虎、北、河を渡る。上、問ふ、何の德政を行うて是に至る。昆の旨の座右進む曰く、偶然のみ。上曰く、長者の言なりと。命じて之を策に書せしむ。尤も高節を重んず。處士周黨を召す。至る。屈せず、伏して謁四重五十五せず、或ひと奏して、之を詆る。上曰く、古しへより、明王聖主は、西武士山必ず不賓の士ありと。帛を賜うて之を罷む。處士嚴光、上と共に、嘗て游學す。物色して、之を齊國に得たり。羊裘を披いて澤中に釣る。徵されて至る。亦た屈せず。上、光と臥す。足を以て、帝の腹に加ふ。明日、太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なりと。上東漢-世祖光武皇帝-二九九 十八史略卷之三三〇〇曰く、朕、故人嚴子陵と共に臥するのみと。諫議大夫に拜せらる。肯て受けず。去つて畊釣し、富春山中に隱れて終る。漢世、〓節の士多きこと、之より始まる。天下、未だ平ならざるに方つて、上既に文治に志あり。首として、大學を起し、古典を稽式し、禮樂を修明す。晩歲、明堂、靈臺、辟雍を起つ燦然たる文物述ぶべし。毎旦、朝を視、日昃いて、乃ち罷む。公卿郞將を引いて經理を講論し、夜分に乃ち寐ぬ。皇太子、聞に乘じて諫めて曰く、陛下禹湯の明あるも、黃老養性の道を失ふ。上曰く、我自ら此を樂む、疲るとなさざるなりと。在位三十三年、身、太平を致す。改元するもの二、曰く、建武、中元。書、六十二。太子立つ。之を顯宗孝明皇帝となす。【孝明皇帝】初名は陽、母は陰氏、光武、微なりし時、嘗て曰く、仕宦すれば、當に執金吾となるべし。妻を娶らば、當に陰麗華を得べしと。後、竟に之を得たり。陽を生む。幼にして、穎悟。光武、州郡に詔して、墾田戶口を檢覈す。諸郡、各、人を遣して、事を奏す。陳留の吏牘を見るに、上に書あり。之を視るに云ふ穎川弘農は、問ふべし、河南、南陽は、問ふべからずと。光武、吏に由を詰る。惟だ街上に於て、之を得たりと言ふのみ。光武、怒る。陽年十二、幄後に在り。曰く、吏、郡敕を受け、墾田を以て、相方べむと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝〓、近親多し。東漢-孝明皇帝-三〇一 十八史略卷之三三〇二せいじゆんなじ田宅、制に踰ゆ、準となすべからずと。以て、吏を詰る。吏首じざくわくくわうごうはいいんきじんめて服す。光武、大に之を奇とす。郭皇后、廢せられ、陰貴人、さう立つて后となる。陽を皇太子となし莊と改名す。是に至て卽位す。へきようのぞやうらうれいきう永平二年。辟雍に臨んで、養老の禮を行ふ。李躬を以て三老となくわんえいらうかうたんし、桓榮を五更となし、三老は東面し、五更は南面す。上、親ら袒せいさしやうとしやくいんして、牲を割き、醬を執つて饋し、爵を執つて醋す。禮畢つて、榮のぼくわんたい及び弟子を引いて、堂に升らしむ。諸儒、經を執つて問難す。冠帶しんめぐくわんちやうおくまんけい縉紳の人、橋門を圓りて觀聽する者、億萬計。うんだいおう三年。中興の功臣二十八將を南宮の雲臺に圖畫し、二十八宿に應とうはせいごかんわうれうかさちんしゆんかうかんず。鄧禹を首となし、次は馬成、吳漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、ともかうじゆんふしゆんしんはうけんじんへういわうは杜茂、しゆいうじんくわうさいじゆん寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王霸、朱祐、任光祭遵ちうけいたんばんしうがいえんひ李忠、からてうきりうしよくかうじゆん景丹、ざうきうはぶ萬修、盖延、形邳、銚期、劉植、耿純減宮、馬武、はえん劉隆。あづ惟だ、馬援のみは、皇后の父たるを以て與からず。とうへいわうさう十一年。東平王蒼、へうきしやうぐん來朝す。蒼、上の卽位の初より、驃騎將軍と1なり、五年にして、國に歸る。是に至つて、入朝す。上、問ふ、家をきういはに處つて、何を以て樂となす。蒼曰く、善を爲すこと最も樂しと。ませいゐきとぼきかうゐ十七年。かうへい復た西域都護、けうど戊己校尉を置く。初め、耿秉、匈奴を伐たむことを請ふ。ひ謂ふ、う宜しく、武帝が西域に通じて匈奴の右臂を斷ちしが如くなるべしと。とうこ上、之に從ひ、乗と竇固とを以て都尉とりやうしうたむろかははんてうなし、凉州に屯す。固、假司馬班超を西域に使せしむ。超、部善に東漢-孝明皇帝-三〇三 十八史略卷之三三〇四至る。王、之を禮すること、甚だ備はれり。匈奴の使來るや、頓かか虎穴に入らに、疎僻なり。超、吏士三十六人を會して曰く、虎穴に入らざればざれば虎子を得ず虎子を得ずと。虜營に走つて、其使及び從士三十餘級を斬る。都善の一國、震怖す。超告ぐるに、威德を以てし、復た虜と通ずるなからしむ。超、復た于寅に使す。其王、亦た虜使を斬つて、以て降る。是に於て、諸國、皆、子をして入侍せしめ、西域復た通ず。是に至つて、竇固等、車師を擊つて還り、陳睦を以て都護となし、及び耿恭を以て戊校尉となし。關龕を己校尉となし、分つて西域に屯せしむ。十八年。北匈奴、戊校尉耿恭を攻む、初め、上卽位の明年、南單于比死す。弟莫立つ。上、使をして、重緩を授けしむ。北匈奴、邊に寇す。南單于、擊つて、之を卻く。漢、北匈奴と交使す。南單干、怨んで、畔かむと欲し、密に人をして與に交通せしむ。漢度遼將軍を五京に置いて、以て之を防ぐ。旣にして、漢北匈奴を擊つ北匈奴、亦た邊に寇す。是に至つて、恭を金蒲城に攻む。恭、毒藥を以て、矢に傅け、匈奴に語つて曰く、漢家の箭は神なり、中事る者は異ありと。虜創を視れば、皆沸く。大に驚く。恭、暴風雨に乘じて、之を擊つ。殺傷甚だ衆し。匈奴、震怖して曰く、漢兵は神なり、眞に畏るべしと。乃ち解いて去る。上崩ず。在位十八年。改元するもの一曰く永平。壽四十八。上東漢-孝明皇帝-三〇五 十八史略卷之三三〇六評孝明偏察性偏察、好んで耳目を以て、隱發して、明となす。公卿大臣、數ば小慧隱發以爲す名て得たりと君に詆毀せられ、近臣尙書以下提曳せらるるに至る。嘗て、郞藥崧を怒あらずり、杖を以て、之を撞く。崧、走つて、床下に入る。上、怒ること天子穆穆諸甚しく、疾く言つて曰く、郞出でよ、郞出でよ。崧曰く、天子穆穆侯皇皇たり、諸侯皇皇たり、未だ人君自ら立つて郞を撞くを聞かずと。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉して更變するなし。后妃の家、侯に封ぜられ、政に預るを得ず。館陶公主、子の爲に郞を求む。上曰く、郞官は、上、列宿に應じ、出でては百里に宰たり苟くも其人に非ざれば、民、其 殃を受けむと。許さず當時、吏、其人を得て、民、其業を樂み、遠近畏服し、戶口滋殖す。太子立つ、是を肅宗孝章皇帝となす。【孝章皇帝】名は恒、母は賈氏。馬皇后、之を養ひ、立つてい太子となる。是に至つて卽位す。西域、都護を攻沒す北匈奴、己校尉を圍み、又、耿恭を圍む。詔して、兵を遣り都護及び戊己校の尉官を罷む。惟だ、班超上疏して、兵を請ひ、遂に西域を平げむと欲す。上、功の成るべきを知つて、之に從ふ。北匈奴の五十八部、來り降る。時に、北匈奴、衰耗し、黨衆離畔す。南部、其前を攻め、丁零、其後に寇し、鮮卑、其左を擊ち、西域其右を攻め、復た自立する能はず。乃ち、遠く引いて去る。鮮東漢-孝章皇帝-三〇七 十八史略卷之三三〇八卑、北單于を斬る。故に、部衆、來り降る者あり。上崩ず。在位十三年。改元するもの三、曰く建初、元和、章和壽三十一。上、明帝察察の後を繼で、人の苛切を厭ふを知り、事寛厚に從ひ、之に交ゆるに禮樂を以てす。嘗て、貢擧法を議す。韋彪、議して曰く、國、賢を簡ぶを以て務となす。賢は、孝行を以て忠臣氏求む首となす。忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於てすと。上、之を然認證ず孝子の門に於りとす。廬江の毛義、行義を以て稱せらる。張奉之を候す。府檄孝て子すき毛義適ま至り、義を以て安陽の令に守たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜顏色に動く奉、心に之を賤む。後に、義の母死するや、徵辟皆、至らず。奉、乃ち歎じて曰く、往日の喜は、親の爲に届す評元孝前漢は四孝るなりと。上、詔を下して、之を褒寵す。州郡、人を得たり。廉范十明漢太年孝は平の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて、以て民に便す。民、之を歌うて章光あ武七孝東約曰く、廉叔度、來何暮、不禁火、民安作、昔無襦、今五袴、と。漢の祚太以長平あしり所玆に當時、皆以て、徭を平かにし、賦を簡にす。忠恕の長者、政を爲し、上の世を終るまで、民、其慶に賴る。太子立つ、是を孝和皇帝となす。【孝和皇帝】名は肇、母は梁氏、竇太后之を子とし、年十歲にして卽位す。竇后、朝に臨み、竇憲、外戚を以て侍中たり、事を用ゆ。罪あり、出でて北匈奴を擊つて、以て自ら贖はむことを求む。后石にしし之に從ひ、大に匈奴を破り、燕然山に登り功を勒して東漢-孝章皇帝-孝和皇帝ー三〇九 十八史略卷之三三一〇還る。入つて、大將軍となる。四年、父子兄弟、並に卿校となり、朝廷に充滿す。逆謀あり。上、之を知り、遂に宦者鄭衆と議を定め、兵を勒し、憲の印綬を收め、迫つて自殺せしむ。衆を以て、大宦官權を用ゆるの始長秋となし、常に與に政を議す。宦官、權を用ゆる之より始まる是より先、漢兵、北單于を擊つ。走つて死す。漢其弟を立つ。後に叛す。追うて斬つて、之を滅す。鮮卑徙つて、北匈奴の地に據る。之より、漸く盛なり。評將の典型班超は武班超を徵して、京師に還らしむ。卒す。超、書生より起り、筆を投じて、萬里外に封侯たるの志あり。相者あり謂つて曰く、生、燕頷虎頭、飛んで肉を食ふ、萬里侯の相なりと。假司馬より、西域に入り、章帝の時、西域の將兵の長史となる。上、超を以て西域の都護となす。諸國を平定す。西域に在ること三十年。功を以て、定遠侯に封ぜらる。是に至つて、年老いたるを以て、歸るを乞ひ、願はくは、生きて玉門關に入らむといふ。上之を許す任尙、代つて都護となる。〓を請ふ。超曰く、君、性嚴急なり。水〓けれ「評言東起こ)け訓ば、大魚なし。宜しく、蕩佚簡易なるべしと。尙、私に人に謂つて水れば大魚な-宜しく曰く、我班君、當に奇策あるべしと。今、言ふ所は平平たるのみ蕩迭簡易な)と尙、後、果して、邊和を失ふ。超の言の如し。後人味ふべ上在位十八年、崩ず。改元するもの二、曰く、永元、元興。太子立つ是を孝殤皇帝となす。東漢-孝和皇帝- 孝殤皇帝ー三二 十八史略卷之三三一二【孝殤皇帝】名は隆、生れて百餘日にして卽位す。延平と改元す。在位八閱月にして崩ず。時に、皇太后鄧氏、朝に臨み、郵隱と共に策を定め、嗣を立つ、是を孝安皇帝となす。【孝安皇帝】名は祐、〓河王慶の子、章帝の孫なり。未だ冠せず、迎へられて位に卽く。鄧后、尙ほ朝に臨む。鄧隱、大將軍となる。時に、邊軍多事。鄧隱、凉州を棄てて力を北邊に併さむと欲す。郞中虞調、以て不可となす。曰く、關西將を出し、關東相を出す。烈士武夫、多く凉州より出づと。衆皆、調の議に從ふ。隨謝を惡んで、之を陷れむと欲す。朝歌の賊、長吏を攻め殺して、州郡制する能はざるに會し、詡を以て、朝歌の長となす。故舊之を弔ふ(電話本局二四〇九)翻曰く、盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つなしと。官に至る順番地下ば傷け、其後の為に及び、壯士を募る。攻劫するものを上となし、人を偸盜するもの之に次ぐ。百餘人を收め得て、賊中に入らしめ、誘うて、劫掠せしめ、兵を伏せて、數百人を殺す。又、ひそかに、貧人の能く縫ふ者を遣して、賊衣を傭作せしめ、絲線を以て其裾を縫ひ、市里に出づる者あれば、卽ち之を禽にす。賊駭き散ず。縣境、皆平らぐ。太后、謝が將帥の略あるを知り、以て武都の太守となす。叛羌數千、謝を遮る。認.停まつて進まず。兵を請ひ、到るを須つて、乃ち發せむと宣言す。美、之を聞いて、旁縣に分鈔す。認、其散ずるに因つて、道を進む。軍士をして、各、兩竈を作らしめ、日東漢-孝殤皇帝-孝安皇帝-三一三 十八史略卷之三三一四に之を增倍す。或ひと曰く、孫牘は竈を減ず。然るに、君之を增す。兵法に、日に行くこと三十里に過ぎず。然るに、今、日に二百里ならむとするは何ぞや。翻曰く、虜の衆は多く、吾が兵は少し徐に行けば、及ばれ易く、速に進めば、彼測らず。虜吾が竈の日に增すを見れば、郡兵來り迎へしと謂はむ衆多くして、行くこと速評なれば、必ず我を追ふに憚らむ。孫臏は、弱を示す、吾、今强を示示孫るる論用す示虞し廣べこにに兵し謝ては成きとああ法ては成〓は成强功運功をしああ法てはす、勢同じからざるなりと。旣に到る。郡兵三千にして美は萬餘。赤亭を攻圍すること數十日。調、命ず、强弩を發する勿れ、ひそからりり知ざ理に小弩を發せよと羌、力弱くして到る能はずと謂ひ、兵を并せてをな急に攻む。是に於て、二十の强弩をして、共に一人を射らしむ。發すれば、中らざるなし。美、大に驚く。認、因つて、城を出でて奮擊す。明日、悉く其兵を陳し、東郭門より出でて、北郭門に入らしめ、衣服を貿易して、囘轉すること數周美、其數を知らず相さ恐動す。認、ひそかに淺水に於て、伏を設け、其走路を候ふ。美、果して大に奔る。因つて、掩擊して、大に之を破る。賊之に由つて敗散す。太后、崩ず。鄧隱、罷められて自殺す。汝南の太守王襲、才を好み、士を愛す。袁聞を以て功曹となし、黃憲陳蕃等を引進す。憲の父は牛醫、憲、年十四。潁川の荀淑く逆旅に遇ひ、竦然之を異として曰く、子は吾の師表なりと。聞を見東漢-孝安皇帝-三一五 十八史略卷之三三一六て曰く、子の國に顏子あり。聞曰く、吾が叔度を見たるかと。戴良才高し。憲を見て歸る毎に、惘然自失するが若し。其母曰く、汝、復た牛醫の兒より來るかと。陳蕃等、相謂つて曰く、時月の間も、太原の廓泰黄生を見ざれば、鄙吝の萌、復た心に存すと。太原の郭泰、闘を過ぐるに宿せず。憲に從つて、日を累ぬ。曰く、奉高の器は、之を沈5hわ?濫に譬ふ。〓しと雖も、挹み易し。叔度は、汪汪として、千頃の波のむねに、之を〓ませども〓まず、之を撓せども濁らず、量るべからざるなりと。憲初め孝廉に擧げられ又公府に辟さる。人、其仕を勸む。しばらく、京師に至つて卽ち還り、年四十八にして終る。太尉楊震自殺す太尉楊震、自殺す。震は關西の人、時人之を稱して曰く、關西の孔子は楊伯起と。生徒に〓授す。堂下に三〓を得たり。都講以爲へらく、三公の象ありと。取つて、以て進めて曰く、先生、之より升らむと。後、嘗て、郡守となる。屬邑の令、金を懷にして、之に遣天知る者あり。曰く、暮夜知る者なし。天知る、とぞ我知震曰く、子知る子ター何る地地知る、知る)我知る、る、何ぞ知るなしといはむと。令、慚ぢて退く三公とない知はるんなるに及びて、時に宦者及び上の乳母王聖事を用ゐ、皆、請託あり。震、從はず。又數ば近習を以て言となし、共に之を構へ、策して、印綬を收む。遂に死す。葬るの日、名士皆來り會す。大鳥あり、高さ丈餘、墓前に至つて俯仰し、流涕して去る。上、少にして聰明と號す。旣に位に卽いて、失政多し。在位十九東漢-孝安皇帝-三一七 十八史略卷之三三一八年にして崩ず。改元するもの五、曰く、永初、元初、永寧、建光、延光。太子、前に近習に譜せられ、坐して廢して濟陰王となる。閣皇后、朝に臨み、閻顯と共に、章帝の孫北〓侯懿を迎へて位を嗣がしむ。宦者孫程等、顯を誅し、闇后を遷して、濟陰王を迎立す、之を孝順皇帝となす。【孝順皇帝】名は保、孫程等の立つる所となる。宦官、功を以て侯に封ぜられし者十九人。尙書令左雄、奏して、郡國に令して孝廉を擧げしめ、年四十以上を限る。諸生、章句に通じ、文吏賤奏を能くすれば、乃ち選に應6 iずるを得。其茂材異等ある、顏淵、子奇の若きは、年齒に拘らざらしむ。雄公直精明にして、能く眞僞を審覈し、志を決して、之を行ふ。少年を擧げて至る者あり。雄之を詰つて曰く、顏囘は、一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾を知るかと。之を頃くして、中外、謬擧に坐して黜免せらるる者、十餘人。惟だ、汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十餘人、郞中に拜せらるるを得たり皇后の父梁商を以て大將軍となす。商、死す、其子冀を以て大將軍となし、不疑を河南の尹となし、使者八人を遣して、州郡を分行豺狼道に當安せしむ。張綱、獨り、其車輪を洛陽の都亭に埋めて曰く、豺狼、道問んはぞ·銀座社んに當る。安んぞ狐狸を問はむと。冀と不疑とが君を無みするの心を東漢-孝順皇帝-三一九 十八史略卷之三100効奏すること十五事。上、綱の言直なるを知れども用ゆる能はず、冀、之を中傷せむと欲す。廣陵の賊張嬰、揚徐の間を寇亂すること十餘年。乃ち、綱を以て、廣陵の太守となす。綱單車にして、徑に嬰の壘門に至り、請うて、與に相見て、之を譬曉す。嬰等、萬餘人降る。綱、壘に入つて宴し、散遣して、之く所に任かす。南州、ぶ晏然たり。郡に在つて卒す。嬰等、之が爲に服を制し、喪を行ふ。良吏蘇章時に二千石、長吏、政を能くする者あり。冀州の刺史蘇章、故人、〓河太守となるあり。章、部を行り、爲に酒を設けて、甚だ歡ぶ。守、喜んで曰く、人、皆、一天あり。我獨り二天ありと。章曰く、今日、蘇孺文、故人と飮する者は、私恩なり。明日、冀州刺史として、事を案ずるは、公法なりと。遂に、其姦贓の罪を擧正す。上在位二十年。崩ず。改元するもの五、曰く永建、陽嘉、永和、漢安、建康太子立つ、之を孝冲皇帝となす。【孝冲皇帝】名は炳、年二歲にして卽位す。三閱月にして崩ず。改元するもの一、曰く承嘉梁太后、渤海孝王の子を迎へ立つ、是を孝質皇帝となす。【孝質皇帝】名は繼、章帝の曾孫なり。年八歲にして卽位す。少にして、聰慧なり。嘗て、朝會に因つて、梁冀を目して曰く、是れ跋跋扈將軍扈將軍なりと。冀深く之を惡み、左右をして、餅中に於て毒を進めしむ。遂に崩ず。在位一年。改元するもの一、曰く、本初。冀東漢-孝順皇帝-孝冲皇帝-孝質皇帝-三 十八史略卷之三三二二蠡吾侯を迎立す、之を孝桓皇帝となす。【孝桓皇帝】名は志、章帝の曾孫なり。年十五にして卽位す。梁冀定策の功を以て、封を益す。又、其子弟を封じて皆侯とす。李固、杜喬、〓河王蒜を立てむと欲す。是に至つて、蒜、貶せられて候となり、自殺す。固、喬、獄に下つて死す。前の朗陵侯の相穎川の荀淑、少くして博學、高行あり。李固李膺等之を師宗とす。朗陵に相たるや、治、神君と稱す。子八人、時人、稱して八龍となす。其六を爽といふ、字は慈明。人言ふ。荀氏の八龍、慈明、無雙なりと。縣令、其里を命づけて陽里といふ爽、嘗て、李膺に謁し、因つて、之が爲に御す。旣に還つて、喜んで曰く、今日、乃ち李君に御するを得たりと。同郡の陳寔、淑と名を齊しうす。嘗て、淑に詣る。長子紀、字は元方、車を御し、次子諶、字は季方、驂乘し、孫群、字は長 文、尙ほ幼、車中に抱淑の家に至るや、八龍更迭して、左右に侍し、淑の孫或、字は文若、尙ほ幼、膝上に抱置す。太史奏す、德星見はる、五百里内、賢人の聚まるあらむと、寔嘗て、大丘の長となり、德を修めて〓淨なり吏民是を追思す。紀諶の子、其父の優劣を其祖に問ふ。寔難爲兄難曰く、元方は兄たり難し、季方は弟たり難しと。爲弟評一崔寔の政詔して、獨行の士を擧ぐ。涿郡の崔寔、公車に至り、對策せず以て殘を練かんとするして、退いて政論を著す。略に曰く、聖人は、能く世と推移す。俗東漢-孝桓皇帝-三二三 三二四十八史略卷之三んおけつじようやくらんしんしよざは、苦んで變を知らず、以爲へらく、結繩の約は、亂秦の〓を治をる治刑もめ以はををにと疾梁以しすを肉をててる治し大とる以は平罰のんてけいばつううまひへいじやうむべく、于羽の舞は平城の圍を解くべしと。夫れ、刑罰は亂を治むとくけうれうにくざんやくせき殘を除くむるの藥石なり、德〓は平を興すの梁肉なり。德〓を以て、味るの供藥求ふのな養石は、是れ梁肉を以て疾を治むるなり。刑罰を以て、平を治むるは、にすもておんたいおほぎよべ所りすきようやう是れ藥石を以て供養するなり。そのくつわ數世より以來、ぼとはし政くわうろけんけい恩貸多く、まさ馭は3そのたづな方に勤其轡を委て、馬は其衝を駘ぎ、けん四牡橫に犇り、あ皇路險傾すくわらんなせつそうけんしう節奏を拑し、軸を韃し、以て之を救はむとす、豈に和鸞を鳴らし、いうしいとま右趾をを〓むるに暇あらむや。むかし、文帝、肉刑を除くと雖も、きしうたわうしたう文帝、斬るに當するを棄市し、答るる者は、往往死に至る。是れ、ちうちやうとうげん其嚴を以て平を致す、寛を以つ平を致すに非ざるなりと。仲長統、つううつ書を見て曰く、凡そ、人主たらん者、宜しく、一通を寫して、之をざそくお座側に置くべしと。しゆぼくしうししいんと朱穆、冀州の刺史となる。令長、風を望み、印を解いて去る者數いたとんをそうがいくわんじやきさうぎよくかふ十人到るに及びて、貪汚を奏効す。宦者父を歸葬するに、玉匣もちあんけんそのくわんひらを用ゆる者あり。穆案驗し、其棺を剖いて、之を出す。上、聞いめていゐいただいがくせいりうたうらて、大に怒り、穆を徵して、廷尉に詣らしむ。大學生劉陶等、數千うつたちうくわんこくへいせつぢ人上書して、穆を訟ふ、謂ふ、中官、國柄を竊持し、手に玉爵をにぎてんけんさかうぜんかへりつく握り、口に天憲を街む。穆、獨り、亢然として顧みず、心を竭し、いだぼく憂を懷いて、上の爲に深く計る。臣、願はくは穆の罪に代らむと。またじやうそりよう上之を赦す。陶、又上疏して、穆及び李膺を以て、王室を輔けむ東漢-孝桓皇帝-三二五 十八史略卷之三三二六ことを乞ふ。書、奏すれども、省せず。梁冀、凶恣日に積む。外戚を以て、事を用ゆるもの二十年。威內外に行はれ、天子、手を拱するのみ。上、宦者單超等と謀り、兵を勤して、冀の印綬を收む。冀自殺す。梁氏、少長となく、皆棄市せらる。超等五人、皆、侯たり。冀の誅せられしより、天下、異政を想望す。黃瑀、首として大尉となる。陳蕃、處士徐穉、姜肱等を薦む。穉字は孺子、豫章の人。陳蕃守たりし時、特に一榻を設けて、穉を待ち、去れば之を縣く。稱、対諸公の辟に應ぜず。然れども、其死を聞けば、輙ち笈を負うて、赴ついて弔ひ、豫め一雞を炙り、酒を以て綿に漬し、暴乾して、之を裏み、家隧の外に至り、水を以て綿に漬し、白茆、飯を藉き、雞を以て前に置き、祭り畢れば、謁を留め、喪主を見ずして行く。肱は彭城の人、二弟、仲海、季江と倶に孝友なり。常に被を共にす。嘗て主盜に遇ふ。兄弟死を爭ふ。盜兩つながら之を釋す。稱肱徵さる。皆、至らず。黃瑀、卒す。四方の名士、葬に會する者七千人。穉、至る。爵を進めて哀哭し、生芻を墓前に置いて去る。諸名士曰く是れ必ず南州の高士徐孺子ならむと。陳留の茆容をして、之を追はしめ、國事を問ふ。答へず。太原の郭泰曰く、孺子、國事を答評當世其愚及ぶべへず。是れ其愚及ぶべからざるなりと。泰初め、洛陽に游ぶ。李者保して在贋與に友たり。膺、嘗て、郷里に歸る。送車數千兩贋、惟り泰東漢-孝桓皇帝-三二七 十八史略卷之三三八と舟を同じうして濟る。衆賓、之を望む者神仙の如しといふ容、年四十餘、野に畊す。雨に遇うて、樹下に避く。衆皆、箕踞す5す容、獨り、危坐して、愈よ恭し。泰見て之を異とし、遂に、勸め鉅鹿の孟敏て學ばしむ。鉅鹿の孟〓、甑を荷うて地に墜す。顧みずして去る。泰、見て之を問ふ、曰く、甑。旣に破る、之を視るも、何の益あらさ、上むと。泰亦た勸めて學ばしむ。自餘、泰の奬進に因つて、名を成す者、甚だ衆し。泰、有道に擧げらる。就かず。曰く、吾、夜は乾天の廢する所。支ふべか象を觀、晝は人事を察す、らざるなりと陳留の仇香、名は覽、年四十にして、蒲亭の長となる民に陳元といふ者あり、母元の不孝を告ぐ。香、親ら其家に至り、爲に人倫れいわうくわんを陳ぶるや、感悟して、卒に孝子となる。孝城の令王奐香を署して主籍となす。謂つて曰く、陳元、罰せずして、之を化す、鷹鶴の志を少くなきを得むや。香曰く、以爲へらく、鷹鶴は鸞鳳に若かずと奐曰く、根棘は鸞風の種む所に非ず、百里は大實の路に非ずと。乃ち、香に資して太學に入らしむ。常に自ら守る。泰房に就て、之を見るや、起つて床下に拜して曰く、君は泰の師なりと。徵辟に應ぜずして卒す。黃瑀より以來、三公、楊秉、劉寵の如き、皆人望あり。寵、嘗て會稽に守たり。郡大に治まる。徵さる。五六の老叟あり。山谷の間より出で、人每に百錢を賣して曰く、明府車を下つて以來、狗東漢-孝桓皇帝-三二九 十八史略卷之三三三〇夜吠えず、民、吏を見ず。今、當に棄て去らるべしと聞く。故に自何ぞ能く公の言に及ばむや、ら扶けて奉送す。寵曰く、吾が政、父老を勤苦すと。人每に、一大錢を選んで、之を受く。後、入つて、司空となる。秉、朝に立つて正直。河南の尹となる。時に嘗て宦官に忤ふを以て罪を得たり。後、大尉となつて、以て卒す。陳蕃、秉に繼いで大尉となる。數ば李膺を言ひ、以て司隷校尉となす。宦官之を畏れ、皆、鞠躬、氣を屏け、敢て宮省を出でず。時に、朝廷、綱紀頽弛す。麿獨り、風裁を持し、聲名を以て自ら尙ぶ。士、其登龍門容接を被る者あれば、名づけて、登龍門といふ劉寛を以て、尙書令となす。寛.嘗て三郡に歷典し、仁恕多し。吏民、過あれば、蒲鞭を以て之を罰す。初め、上、候たりし時、學を甘陵の周福に受く。位に卽くに及びて、擢でて、尙書となす。時に、同郡の房植、名あり。〓人、謠うて曰く、天下の規矩は房伯武、師に因つて印を獲たるは周仲進と二家の賓客、互に相譏揣して、隙を成す。之に由つて、甘陵に南北黨人の議部あり。黨人の議、是に始まる。汝南の太守宗資、范滂を以て功曹となし、南陽の太守成増、岑旺を以て功曹となし、皆、善を褒して惡を疾むこと讐の如し。違を糾す。滂、尤も剛勁、二郡、謠うて曰く汝南の太守は范孟博、南陽の宗資、畫諾を主る。南陽の太守は岑公孝。弘農の成増は但だ坐嘯すと。太學の諸生三萬餘人、郭泰東漢-孝桓皇帝-풀 十八史略卷之三三三二)賈彪、之が冠となり、陳蕃、李膺と更る相推重す。學中、語つて曰 天下の摸階は李元禮、强禦を畏れざるは陳仲擧と。是に於て、中外風を承け、競うて、臧否を以て相尙ぶ。會ま、成増、太原の守くわん〓〓劉項と與に、赦後に於て、宦官の黨を案殺す。徵して獄に下し、將に棄市せられむとす。山陽の守翟超張儉を以て、督郵となす。宦官の制を踰えたる家宅を破る。東海の相黃浮、亦た宦官の家屬、法を犯せる者を收めて、之を殺す。宦官、寃を訴ふ。皆、罪を得たり。蕃、屢ば之を爭ふ。上、聽かず。宦官、人をして上書せしめ、李膺が太學の遊ををひ、與に部黨をなし、朝廷を誹訓し、風俗を疑亂するを告ぐ。上、震怒し、郡國に下して、黨人を逮捕す。案、ら、三府を經。蕃、郤けて肯て署せず。上、愈よ怒り、膺等を北寺の獄に下す。辭杜密、陳寔、范滂等、二百餘人に連る。使者、追捕四出、蕃又極諫す。上、策して、之を免ず朝廷震慄、敢て復た黨人の爲に言ふ者なし。賈彪曰く、吾、西行せずむば、大難解けずと。乃ち洛陽に入り、皇后の父竇武に說き、上疏して、之を解く。膺等の獄辭、又多く宦官の子弟を引く。宦官、乃ち懼れ、上に白して、黨人二百餘人を赦して、貨、田里に歸らしめ、名を三府に書して、終身禁錮す。上、在位二十一年、改元するもの七、曰く建和、和平、元嘉、永興、永壽、延熹、永康。崩ず。竇皇后、解瀆亭侯を迎立す。之を孝靈皇帝となす。東漢-孝桓皇帝-三三三 十八史略卷之三三三評【孝靈皇帝】名は宏、章帝の玄孫なり。年十二にして卽位す。竇太る亡位冲帝所をすに以東以早是し後漢なめれて皆はりた衰卽幼和一一冲に后、朝に臨む。竇武、大將軍となり、陳蕃、太傅となる。天下の名賢を徴し、李膺、杜密等、皆、朝に列し、天下太平を想望す。蕃、ミ武、與に議し、宦官、國柄を操弄して、海內を濁亂するを以て、奏して、曹節、主甫等を誅せむとす。謀、泄る。宦者、夜、所親を召さし、血を〓つて、共に盟ひ、帝を請うて、前殿に御せしめ、詔板を作り、王甫を黄門令に拜し、其黨をして、節を持して、武等を收めしめ、誣ゆるに、大逆を以てし、先づ陳蕃を執へて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟す。太后を南宮に遷す。李膺、初め、廢錮すと雖も、士大夫、皆、其道を高しとして、朝廷を汚穢とし、更る相標榜して、稱號を爲り、竇武、陳蕃、劉淑を以て三君となす、言ふは、一世の宗とする所なり。李膺、荀昱、杜密、王暢、劉祐、魏朗.趙典、朱寓を八俊となす。言ふは人英なり。郭泰、范滂、尹勳、巴肅、宗慈、夏馥、蔡衍、羊陟を八顧となす、言ふは、能く德行を以て人を引くなり。張儉、翟超、岑晊、菀康、劉表、陳翔、孔昱1檀敷を八及となす、言ふは、能く人を導いて追宗せらるるなり。度尙、張邈、王孝、劉儒、胡母班、秦周、蕃嚮、王章を八厨となす、言ふは、能く利を以て人を救ふなり。陳蕃、竇武が事を用ゆるに及び、復た膺等を擧拔す。陳竇死し、膺等、復た廢鋼す。曹節、有司に諷して、諸の鈎黨を奏せしむ。膺.詔獄に詣つて考死す。滂、捕東漢-孝靈皇帝- IIIII 十八史略卷之三三三六にに就くや、母、與に訣れて曰く、汝、今李杜と名を齊しうするを得たり、死すとも、何ぞ憾みむと。滂、跪いて〓を受け、再拜して辭し、其子に謂つて曰く、汝をして、惡を爲さしめむとすれば、惡は爲すべからず。汝をして、善を爲さしめむとすれば、我、惡を爲さずと。聞く者、之が爲に流涕す。黨人死する者百人、其死徒廢鋼せ註て然と保は郭難し殄は世れい身所泰を邦濟もべ名明如人の云をた瘁ずをどふの謂のられし者、又六七百人。郭泰私に痛んで曰く、詩に云ふ、哲に亡ぶる。邦國殄瘁すと。漢室滅せむ。但だ、未だ鳥を瞻るに、爰に以し手止まる。誰の屋に子てするかを知らざるのみと。泰好んで、減否すふ能げんかくろん國の坐視と雖も、然も、危言覈論を爲さず、故に濁世に處して、禍 及ばず。ず批免諸儒に詔して、五經の文字を正さしむ。蔡邕に命じて古文、篆、(隸の三體を爲り、之を書して、石に刻し、太學門外に立つ。上、文學を好み、諸生の文武を能くする者を引き、並に鴻都門下に待制せしめ、太學を置立す。諸生、皆、斗管の小人なり、君子、之を恥づ。評買ふ番長18.7中人其を西邸を開いて、官を賣る。各、賈あり。崔烈、五百萬を以て、司銅が肉飯 200云々さんの徒を得たり。其子に問ふに、外議如何を以てす。子曰く、人、其銅さが肉臭を嫌ふのみと。張角鉅鹿の張角、妖術を以て〓授し、太平道と號し、符水、病を療す。弟子を遣して、四方に遊ばしめ、轉た相証誘す。十餘年間、徒衆數十萬。三十六方を置く、大方は萬餘、小方は六七千、各、渠帥を立東漢-孝靈皇帝-三三七 十八史略卷之三三三八黃巾て、一時與に起り、皆、黃巾を著け、所在燔劫す。旬月の間、天下曹操響應す。皇甫嵩等をして、黃巾を討たしむ。〓、沛國の曹操と軍を合せて、賊を破る。操の父嵩。宦者曹騰の養子となる。或は云ふ、じ夏侯氏の子なりと。操少にして機警、權數あり。任使放蕩にして、行業を治めず。汝南の許劭、從兄靖と共に、高名あり。共に〓月且評黨人物を覈論す。毎月、輙ち其題品を更む。故に汝南の俗月旦評あり。操往いて、劭に問うて曰く、我は如何なる人ぞと。劭、答評獨立派能人よす。之を劫す。乃ち曰く、子は治世の能臣、亂世の姦雄なりと。にい世世ふののし雄臣と亂べ姦操喜んで去る。是に至つて、賊を討つを以て起る。皇甫嵩、張角を討つ。角死す。嵩其弟と戰ひ、破つて之を斬る。上崩ず、在位二十二年。改元するもの四、曰く、建寧、熹平、光和中平。子辨立つ何太后、朝に臨む。后の兄大將軍何進、尙書くわん〓〓の事を錄す。袁紹、進に勸めて宦官を誅せしむ。太后、未だ肯んぜず。紹等、畫策し、四方の猛將を召し、兵を引いて、京に向はし董卓め、太后を脅し、遂に將軍董卓の兵を召す。卓、未だ至らず。進ん)室官に殺さる。紹兵を勤して、諸宦官を捕へ少長となく、皆之を殺す。凡そ二千餘人。鬚なくして、誤つて、死する者あり。卓、至る。亂の由を問ふ。辨年十四、語.了すべからず。陳留王、答へて、遺すなし。卓、廢立を欲す。紹、可かず。卓、怒る。紹出奔す。卓、遂に辨を廢す。陳留王立つ之を孝獻皇帝となす。東漢-孝靈皇帝-三元 十八史略卷之三三時○【孝獻皇帝】名は協、九歳にして董卓に立てらる。關東の州郡、兵を起して、卓を討ち、袁紹を推して、盟主となす。卓、洛陽の宮廟う)孫堅を燒いて、都を長安に遷す。長沙の太守、富春の孫堅、兵を起して、卓を討ち、南陽に至る。衆數萬。袁術と兵を合す。術、紹と同祖、皆、故の大尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗の公族に異なり。紹、壯健にして、威容あり。士を愛す。士輻輳す。術、亦た俠氣あり。是に至つて、皆起る。堅擊つて、卓の兵を敗荊州をる。術堅をして、圖らしむ。劉表の將黃祖の步兵に射られて死す。呂布司徒王允等、密に謀つて、卓を誅せむとす。中郞將呂布、膂力人흔に過ぐ。卓、之を信愛す。嘗て、少しく卓の意を失ふ。卓、手づから戟を布に擲つ布、避けて、免るるを得たり。允、布に結んで、內應を爲さしめ、卓の入朝するとき、勇士を北抜門に伏せて、之を刺す。卓、車より墮ち、大に呂布を呼ぶ。布曰く、詔あり、賊臣を誅すと。聲に應じて、矛を持して卓を刺し、趣に之を斬る。是よりきん〓〓き先、卓、塲を郿に築き、穀を積んで、三十年の儲をなし、金銀綺錦上奇玩、積んで丘山の如し。自ら云ふ、事成らば、天下に據らむ。成以て老いむと。らざれば、此を守つて是に至つて、屍を市に暴す。吏、"卓、素より肥えたり。大性を作つて、臍中に置いて之を燒く。光、曙に達するもの數日。卓の黨、兵を擧げて、闕を犯し、王允を東漢-孝獻皇帝-〓 十八史略卷之三三四二殺す。呂布去る。ちうざんせいわうしよう劉備涿郡の劉備、字は玄德。其先は、景帝より出づ。中山靖王勝の後關羽なり。大志あり、語言少く、喜怒色に形はれず。河東の關羽、涿郡張飛の張飛、備と相善し。備の起るや、二人、之に從ふ。孫策、孫權孫堅の子策、弟權と富春に留まり、舒に遷る。堅死する時、策年十七、往いて袁術に見え、其父の餘兵を得たり。策十餘歳の時、周瑜旣に交結して、名を知らる。舒人周瑜、策と同年、亦た英達夙成是に至つて、策に從つて起る。策東江を渡つて、轉鬪するや向ふ所、敢て其鋒に當る者なし。百姓、孫郞の至るを聞いて、皆魂魄を失ふ。至る所、一も犯す所なし、民、皆大に悅ぶ。初め、曹操、卓を討つ時より、榮陽に戰ひ、還つて河內を領し、尋いで、東郡の太守を領し、東武陽を治す。既にして、衰州に入つて、之に據り、自ら刺史を領し、使を遣して上書す。以て衰州の牧となす。上、洛陽に還る。操入朝し、上を許に遷す。操擊つて、呂布を殺す。初め、布、關中より袁術に出奔す。旣にして、又、操に攻められ、走つて劉備に歸し、旣にして、又、備はを襲うて、下邳に據る。備走つて、操に歸す。操備をして、沛に屯せしむ。布、陳登をして、操に見えしめ、徐州の牧たらむことを求む。得ず。登、還つて、布に謂つて曰く、登、曹公に見えて言ふ、將軍を養ふは、虎を養ふが如く、當に其肉に飽かしむべし、飽東漢-孝獻皇帝-三四三 十八史略卷之三三四四かざれば、人を噬まむと。公曰く、然らず、譬へば、鷹を養ふが如く饑うれば人に附き、飽けば屬り去らむと。布、復た備を攻む。備、走つて、復た操に歸す。操、布を擊つて、下邳に至る。布、屢ば戰つて皆敗れ、困迫して降る。操之を縛して曰く、虎を縛するは、急ならざるを得ずと。卒に之を縊殺す。備操に從つて、許に還る。袁術、初め、南陽に據る。旣にして、壽春に據る。識言に、漢に代るものは塗に當つて高しといへるを以て、自ら名字之に應ずといひ、遂に帝と稱す。淫侈甚し。旣にして、資實空虛、自立する能はす。袁紹に奔らむと欲す。操劉備をして、之を邀へしむ。術、走り還り、血を歐いて死す。孫策、旣に江東を定め、許を襲はむと欲す。未だ發せず。もと殺す所の吳郡の守許貢の奴、其出獵に因つて、伏して、之を射る。創評べる互孫兄江東の衆しとに氏甚し弟權を呼んで、代つて其衆を領せしめて曰く、相ふ識弟いじを擧げて、機を兩陣の間に決し、天下と衡を爭ふは、卿我に如かず。賢に任じ、能を使ひ、各其心を盡し、以て江東を保つは、我、卿に如かずと。卒す。年二十六。袁紹、冀州に據り、精兵十萬、騎一萬を簡んで、許を攻めむと欲す。沮授、諫めて曰く、曹操、天子を奉じ、以て天下に令す。今、兵を擧げて、南に向はば、義に於て違はむ。ひそかに、公の爲に、東漢-孝獻皇帝-三四五 十八史略卷之三三四六之を懼ると。紹、聽かず。操紹と官渡に相拒ぎ、襲うて、紹の輜重を破る。紹の軍、大に潰え、慚憤血を歐いて死す。車騎將軍董承密詔を受くと稱し、劉備と共に曹操を誅せむと大下の英雄す。操一日、從容として、備に謂つて曰く、今、天下の英雄、惟使君と操とみだ使君と操とのみと。備方に食し、七筋を失ふ。雷震に値ひ、詭つて曰く、聖人云ふ、迅雷風烈、必ず變ずと。まことに、以あるなりと。備旣に遺されて、袁術を邀ふ。因つて、徐州に之き、兵を起して、操を討つ。操之を擊つ。備先づ冀州に走り、兵を領して汝南に至り、汝南より〓州に奔り、劉表に歸す。嘗て、表の坐に於て、起つて〓に至り、慨然として、涕を流す。表、怪んで之を問iふ備曰く、當時、身、鞍を離れず、髀肉、皆消ゆ。今、復た騎せ髀裡肉生ずず、髀裏肉生ず。日月流るるが如く、老、將に至らむとして、功業諸葛亮建たず、之を以て悲しむのみと。瑯琊の諸葛亮襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲、樂毅に比す。備、士を司馬徽に問ふ。徽曰く伏龍鳳雛時務を識るは、俊傑に在り。此間、伏龍、鳳雛あり、諸葛孔明、龐士元なりと。徐庶、亦た備に謂つて曰く、諸葛孔明は臥龍なりと。き備、三度往いて、乃ち亮を見るを得たり。策を問ふ。亮曰く、操te百萬の衆を擁し、天子を挾み諸侯に令す、是れ誠に與に鋒を爭ふべからず。孫權、江東に據有し、國險にして民附く、與に援となすべくして圖るべからず。〓州は武を用ゆるの國、益州は險塞、沃野千東漢-孝獻皇帝-三四七 十八史略卷之三憂里、天府の土なり。若し〓益を跨有し、其巖阻を保てば、天下變ある時、〓州の軍は宛洛に向ひ、益州の衆は秦川に出でん。孰れか、上簞食壺漿、以て將軍を迎へざらむや。備曰く、善しと。亮と情好日る孤はの如のに密なり。曰く、孤の孔明あるは、猶ほ魚の水あるが如きなりと。あるが士元、名は統、龐德公の從子なり。德公、素より重名あり。亮其家に至る每に、獨り、床下に拜す。曹操、劉表を擊つ。表、卒す。子琮、〓州を擧げて操に降る。劉備.江陵に走る。操之を追ふ。備夏口に走る。操軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮備に謂つて曰く、請ふ、救を孫將軍に求めむと。亮權を見て之に說く權大に悅ぶ。操權に書を遺つて曰く、今、水軍八十萬の衆を治す。將軍と吳に會獵せむと。權、以て群下に示す。色を失はざるなし。張昭、之を迎へむを請ふ。魯魯肅肅以て不可となし、權に勸めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、請ふ、數萬の精兵を得て、進んで夏口に往き、保して、將軍の爲に之を破らむと。權、刀を拔き、前の奏案を斬つて曰く、諸將吏、敢て操を迎へよといふ者は、此案に同じからむと。遂に瑜を以て、三と萬人を督せしめ、備と力を併せて操を逆へ進んで、赤壁に遇ふ。評定天赤ま下壁り三のし分戰まは瑜の部將黃蓋曰く、操の軍、方に進む、船艦首尾相接す。燒いて走所古古沈く詩あ戟日人らすべきなりと。乃ち蒙衝鬪艦十艘を取つて、燥荻枯紫を載せ、油折そ沙鐵半銷を其中に灌ぎ、帷幔に裏み、上に旌旗を建て、豫め走舸を備へて、東漢-孝獻皇帝-三四九 十八史略卷之三三五〇用雜誌其尾に繋ぎ、先づ書を以て操に遣り、詐つて降らむと欲すとなす。自郞東焼 肉 大 190前雀與朝銅不春周深鎖時に東南風急なり。蓋、十艘を以て、最も前に著け、中江に帆を擧牧)依二然喬杜形 村げ、餘船次を以て倶に進む。操の軍、皆、指して、蓋降るといふ。10月)此萬一浪明巳場片三郞江無長壁扼山荊前襄南故去ること二里餘。同時に火を發す。火烈しくして風猛、船往くこと東魏烏日河國秋去地鵲えん〓〓箭の如く、北船を焚き盡し、烟焔天に漲る。人馬溺燒して死するも人有大に壞陳今山分千の甚だ衆し。瑜等、輕銳を率ゐ、〓鼓して大に進む。北軍、)經百る。操走り還る。後に屢ば兵を權に加ふれども、志を得ず。操跡邊人歎息して曰く、子を生まば、孫仲謀の如くなるべし。前の劉景升の(趙翼)圓貳人三當國學 (電話軍)兒子は、豚犬のみと。薄皮終劉備、〓州、江南の諸郡を徇ふ。周瑜、權に上疏して曰く、備〓賊池上梟雄の姿あり、而して、關羽、張飛あり、熊虎の將なり。此三人を龍水竟得夜烏不紛漁流雲蛟秋江·自聚めて、疆場に在らしむれば、恐らくは、蛟龍、雲雨を得て、終に猶猶聲蕭我照渺客來〓聞鵠共紛燈池中の物に非ざるなり。宜しく、備を徒して吳に置くべしと。權寒吹靜從はず。瑜、方に北方を圖らむと議す。會ま病んで卒す。魯肅、代袁枚)さ、つて其衆を領す。肅、權に勸め、〓州を以て、劉備に借さしむ。呂あ下らの家賃た蒙に吳權之に從ふ。權の將呂蒙、初め學ばず。權蒙に勸めて、書を讀ましむ魯肅、後、蒙と論議す。大に驚いて曰く、卿は復た吳下の 阿蒙に非ず。蒙曰く、士別れて三日なれば、卽ち當に目を刮つて待つべしと。寵統劉備、初め、龐統を用ゐて、耒陽の令となす。治まらず。魯肅、東漢-孝獻皇帝-三五一 十八史略卷之三三五二備に書を遣つて曰く、士元は百里の才に非ず、治中別駕たらしむれば、乃ち驥足を展ぶるを得べきのみと。備之を用ゆ。益州を取るを勸む。備關羽を留めて、〓州を守らしめ、兵を引いて流を泝り、巴より蜀に入り、劉璋を襲ひ、成都に入る。備既に益州を得たり。孫權、人をして、備に從つて、〓州を求めしむ。備肯て還さず。旣にして、〓州を分つ。備蜀より漢中を取り、自立して、漢中王となる。漢中の將關羽、江陵より出でて、樊城を攻む。許より以南、徃徃司馬懿はるかに羽に應じ、威、華夏に震ふ。曹操、許都を徒して、以て其鋒を避けむと議するに至る。司馬懿曰く、備と權と、外親しくして內疎なり。關羽志を得る、權必ず願はざるなり。人をして、權に勸めて、其後を躡ましめ、江南を割いて、以て權に封ずるを許さしむべしと。操之に從ふ。時に、魯肅、既に死し、呂蒙、之に代樊をり、亦た權に勸めて、羽を圖る。操の師、救ひ、權の將陸遜、大又羽の後を襲ふ。羽、狼狽して走り還る。權の軍、羽を獲て、之を斬り、遂に〓州を定む。初め、曹操、兗州の牧より、入つて丞相となり、冀州の牧を領,し、魏公に封ぜらる。銅雀臺を鄴に作る。旣にして、爵を進めて王子丕を以て、となり、天子の車服を用ゐ、出入に警蹕す。王太子となす。操、卒す。丕、立つ。自ら丞相冀州の牧となる。魏の群臣、言東漢-孝獻皇帝-三五三 十八史略卷之三三五四ふ、魏當に漢に代るべしと。조、遂に帝に迫つて位を禪らしめ、評難波の2帝を以て、山陽公となす。帝、在位改元するもの三、曰く、初平、其ぶる在根相帝り本文明に興平、建安。元年より二十五年に至るまで、皆、曹操政を爲すの時以而鉄レート纖ぎ宦官進なり。共に三十一年。位を禪つて、又十四年にして卒す。漢は、高出權臣橫暴快餐で祖、元年、王となり、五年、帝となりしより、是に至つて、二十四最大誘因減たの世、四百二十六年。西紀自二二〇漢至二六五附魏吳二僭國按ずるに、曾氏云ふ。天下一統に非ざるものは、もと各自一·國に編集すべし。又初學の讀者、其時代の先後に迷はむことを恐る。今、但だ、一國の源流相接するものを以て、提頭となし、同時の國を其間に附すと。然れども、曾氏は、陳壽の舊に仍り、た魏を以て帝と稱して、漢吳を附す。刻旣に朱子綱目の義例に遵つて、少微通鑑を改正す。今、復た此書を正し、漢を以て、統を接すといふ。【昭烈皇帝】諱は備、字は玄德、漢の景帝の子、中山靖王勝の後。大志あり、言語少く、喜怒形はれず。身の丈七尺五寸、手を垂るれば、膝を下り、顧みて自ら其耳を見る。蜀中、傳へて言ふ、曹丕簒立し、帝、旣に害に遭ふと。是に於て、三國-漢-昭烈皇帝-三五五 十八史略卷之三三五六ぐ漢中王、喪を發し、服を制し、諡して孝愍皇帝といふ。夏四月、帝、位に武擔の南に卽き、大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相となし、許靖を司徒となす。宗廟を立て、高皇帝以下を袷祭す。夫人吳氏を立てて皇后となし、子禪を皇太子と爲す。魏王、名は丕、姓は曹氏、沛國譙の人なり。父操、魏王たり。丕位を嗣ぐ。始めて、九品、人を官にするの法を立て、州郡、皆、九品の中正を置き、人物を區別し其高下を第す。조、旣に漢を簒し、自立して帝となり、操を追尊して太祖武皇帝となし黃初と改元す。帝、關羽の歿せしを恥ぢ、自ら將として孫權を伐つ。權和を求むれども許さず。權使を魏に遣す。魏權を封じて、吳王となす。かっ、魏王、吳使趙咨に問うて曰く、吳王、頗る學を知れりや。咨曰く、評趙に春て謂如眞し所ん外我が出て使吳王、賢に任じ、能を使ひ、志、經略に存し、餘閒あつて書史を博者辱也しはあ···覽すと雖も、書生の尋章摘句に效はず。魏王曰く、呉、魏を難かるじか咨曰く、帶甲百萬江漢を池となす、何の難ることか之あらむ。曰く、吳、大夫の如き者幾人。咨曰く、聰明特達の者、八九十人。臣の比の如きは、車に載せ、斗にて量るも、勝げて算ふべからずと。帝、巫峡より夷陵に至るまで、數十屯を立て、吳軍と相拒ぐこと累月、吳の將陸遜、其四十餘營を連破す、帝、夜、遁る。三國-漢-昭烈皇帝-三五七 十八史略卷之三〓魏王、吳の侍子を責む。至らず。怒つて之を伐つ。吳王、黃武と改元し、江に臨んで拒守す。三年。夏四月、帝崩ず。在位三年、改元するもの一、曰く章武。證して、昭烈皇帝といふ太子禪、卽位し、亮を封じて武〓侯となす。太子、旣に立つ、是を後皇帝となす。【後皇帝】名は禪、字は公嗣、昭烈皇帝の子なり。年十七にして卽評情義昭烈客廳中遺詔位し、建興と改元す。丞相諸葛亮、遺詔を受けて政を輔く。昭烈、人製作品川終に臨んで、亮に謂つて曰く、君の才、曹丕に十倍す。必ず能く國家を安んじ、終に大事を定めむ。嗣子、輔くべくむば之を輔けよ。若し其れ不可なれば、君、自ら取るべし。亮.涕泣して曰く、臣、い敢て股肱の力を竭し、忠貞の節を效し、其れに繼ぐに死を以てせざらむやと。亮、乃ち官職を約し、法制を修め、〓を下して曰く、夫れ參署は、衆思を集め、忠益を廣むるなり。若し小嫌を遠ざけ、相さ違覆するを難からば、曠しくして闕損せむと。亮、乃ち鄧芝を遣し吳に使して好を修めしむ。芝、吳王に見えて曰く、蜀に重險の固あり、吳に三江の阻あり、共に屑齒をなさば、進んでは、天下を兼〓鼎足の計すべく、退いては、鼎足して立つべしと。吳、遂に魏に絕つて、專ら漢と和す。魏主、舟師を以て吳を擊つ。吳、艦を江に列ね、江水盛長す。魏主臨望して、歎じて曰く、我、武夫千群ありと雖も、施す所なきな三國-漢-後皇帝-三五九 十八史略卷之三三六〇りと。是に於て、師を還す。南夷、漢に畔く。丞相亮、徃いて、之を平らぐ。孟獲といふ者あり、素より、夷漢の服する所たり。亮、生き乍ら、獲を致し、營七縱七禽陣を觀しめ、縱して更に戰はしむ。七縱七禽、猶は獲を遣る。獲去らずして曰く、公は天威なり、南人復た反せずと。魏主、又舟師を以て吳に臨み、波濤の淘湧するを見て、歎じて曰く、暖房、まことに、天、南北を限る所以なりと。魏主丕、殂す。僭位七年改元するもの一、曰く黃初。證して文皇帝といふ子叡立つ。是を明帝となす。叡の母、誅せらる。조、嘗て叡と共に出でて獵し、子母の鹿を見、既に其母を射、叡をして其子を射らしむ。叡、泣いて曰く、陛下、旣に、其母を殺す、臣、其子を殺すに忍びずと。조、惻然たり。是に及びて、嗣となつて卽位す。處士管寧、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏之を徵す。乃ち海に浮んで、西に歸る。官に拜すれども受けず。漢の丞相亮、諸軍を率ゐて、北、魏を伐つ。發するに臨んで、前出師表上疏して曰く、今、天下三分、益州疲弊せり。是れ危急存亡の秋なり宜しく、聖聽を開張して、忠諫の路を塞ぐべからず。宮中府中は、倶に一體たり。陟罰、减否、宜しく異同あるべからず。若し、三國-漢-後皇帝- 1/21 十八史略卷之三三六二姦を作し、科を犯し、及び忠善の者あれば、宜しく、有司に付し、其刑賞を論じて、以て平明の治を昭にすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、是れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、是れ後漢の傾頽せし所以なり。臣、もと布衣、南陽に躬耕し、性命を亂世に苟全し、·聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙を以てせず、猥りに自ら枉屈して、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮ふに當世の事を以てす。之に由つて感激し、先帝に許すに、驅馳を以てす。先帝、臣の謹愼を知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以てせり命を受けてより以來夙夜に憂懼し、付託の效あらず、以て先帝の明を傷けむことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入る。今、南方、旣に定まり、兵用既に足る。當に三軍を奬率し評上海市建材工程有限公司出て、北、中原を定め、漢室を興復して、舊都に還すべし。是れ、臣が孔明先帝に報じて、陛下に忠なる所以の職分なりと。遂に漢中に屯す。初め、國民大學明年、大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整齊、號令明肅魏昭烈旣に崩じ、數歲寂然として聞く無きを以て、略ぼ備ふる所なし。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於て、天水、安定等の郡、皆、亮に應じ、關 中響震す。魏主、長安に如き、張部をして、之を拒がしむ。亮、馬駸をして、諸軍を督せしめ、街亭に戰ふ。嚴亮の節度に違ふ。部大いに之を破る。亮、乃ち漢中に還後出師表る。旣にして、復た漢帝に言つて曰く、漢と賊とは兩立せず、王業三國-漢-後皇帝-三六三 十八史略卷之三三六四偏安せず。臣、鞠躬、力を盡し、死して後に已まむ。成敗利鈍に至つては、臣の能く逆め観る所に非ざるなりと。兵を引いて、散關より出で、陳倉を圍みしが克たず。吳王孫權、自ら武昌に皇帝と稱し、父堅を追尊して武烈皇帝となし、兄策を長沙桓王となす。既にして、都を建業に遷す。蜀漢の丞相亮、又、魏を伐つて祁山を圍む。魏司馬懿をして、あ、諸軍を督して、亮を拒がしむ。懿、肯て戰はず、賈翻曰く、公、蜀を畏るること虎の如し、天下の笑を如何と。懿乃ち張郃をして亮に向はしむ。亮、逆へ戰ふ。魏兵、大に敗る。亮、糧盡くるを以て軍を退く。郃之を追ひ、亮と戰ひ、伏弩に中つて死す。亮還つさて農を勸め、武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息ひ、士を休め、三年にして後に、之を用ゆ。衆十萬を悉くして、又斜谷ニ口より魏を伐ち、進んで、渭南に軍す。魏の大將軍司馬懿、兵を引いて拒守す。亮前に、數ば出でしが、皆、運糧繼がず、己が志を伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分ちて屯田し、耕者は渭濱居民の間に雜り、然も百姓安堵し、軍に私なし。亮數ば懿に戰を挑む。巾幗婦人の懿、出でず。乃ち遺るに巾幗、婦人の服を以てす。亮の使者、懿の服を〓る軍に至る。懿其寢食及び事の煩簡を問うて、戎事に及ばず。使者曰く、諸葛公、夙に興き、夜に寢ね、罪二十以上は、皆親ら覽る。瞰食する所は、數升に至らずと。懿人に〓げて曰く、食少く事煩三國-漢-三國漢-三六五 十八史略卷之三三六六孔明秋風五し、其れ能く久しからむやと。亮、病篤し。大星あり、赤くして芒丈忠孔原千亮、長史楊儀、評最而臣明卒す。雄先出あもしのはあり、亮の營中に墜つ。未だ幾ならずして、師り悲て典を生死滿長未日壯其型古奔〓軍を整へて還る。百姓、て、懿に〓ぐ。懿之を追ふ。姜維、死詩かへ儀をして、旗を反し、鼓を鳴らし、將に懿に向はむとするが若くせ走けせ襟使捷く英身淚死しむ。懿敢て逼らず。百姓之が爲に諺して曰く、死せる諸葛、生せらるるす仲諸葛達ける仲達を走らすと。懿笑つて曰く、吾、能く生を料るも、死を料る能はずと。亮、嘗て兵法を推演して、八陣の圖を作る。是に至つて、懿其營壘を案行し、歎じて曰く、天下の奇材なりと。亮政を爲すに私なし。馬騣、素より亮に知らる。敗軍に及びて、流涕ひして之を斬り、然も其後を郞む。李平廖立、皆、亮に廢せらる。亮の喪を聞くに及びて、皆、歎息流涕し、卒に病を發して死するに至る。史に稱す、亮、誠心を開き、公道を布き、刑法峻と雖も、然も、怨む者なし。眞に治を識るの良材なりと。然れども、其材、國を治むるに長じて、將略は所長に非ずといふは非なり。初め、丞ヘ相亮、嘗て、帝に表して曰く、臣、成都に桑八百株、薄田十五頃あり、子弟の衣食、自ら餘あり、別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。評忠武公眞に純忠眞武臣死するの日、內に餘帛あり、外に贏財あり。以て陛下に負むかしめずと。是に至つて卒するや、其言の如し。忠武と諡す。국魏主、性、土功を好む。之より先、旣に許昌宮を治す。後、又洛陽宮を作り、長安の鐘篇、彙駝、銅人、承露盤を洛陽に徒す。盤三國-漢-後皇帝-三六七 十八史略卷之三奏折れ、聲數十里に聞こゆ。銅人、重くして、致すべからず。乃ち、大に銅を發して、銅人二を鑄て、司馬門外に列坐せしめ、號して、翁仲といひ、土山を芳林園に起し、雅木善草を植る、禽獸を捕へて、其中に致す。諫むる者、皆、納れず。魏主、疾あり。司馬懿を召して、入朝せしめ、曹爽を以て大將軍となす。魏主叡、殂す。在位十四年。改元するもの三、曰く太和、靑龍、景初。子芳立つ之を、廢帝邵陵の属公となす。芳、八歲にして、位に卽く。司馬懿、曹爽、遺詔を受けて、政を輔く。懿太赤傅となる。漢は、丞相亮既に亡せしより、蔣琬政を爲す。楊敏、琬を毀つて曰く、事を作すこと憤憤たり、前人に及ばずと。或ひと敏を推評蔣治せむを請ふ。琬曰く、吾、實に前人に如かず、すらがれ學いにて琬もざ前却ぶふ如自淡のる人てべ所から然推すべきなしと。り示劣れ是にと人しら前とか琬卒す。費褘、董允、政を爲し、公亮にして、忠を盡す。允、卒す。なをに彼し大ず姜維、費禕と並に政を爲す。魏の曹爽、驕奢にして度なし。司馬懿、之を殺す。懿魏の丞相となる。九錫を加ふれども、受けず。爽の黨夏侯霸、蜀に奔る。姜維、之に問うて曰く、懿政を得たり、復た征伐の志ありや否や。霸曰く、彼家門を營立す、未だ外事に遑らず。鍾士季といふ者あり、少と雖も、若し朝政を管すれば、吳蜀の憂なりと。魏の司馬懿卒す。其子師を以て撫軍大將軍となし、尙書の事を錄三國-漢-後皇帝-三六九 十八史略卷之三三七〇せしむ。吳王、殂す。證して、大皇帝といふ。子亮立つ。漢の費禕、汎愛にして疑はず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用ゐ、數ば兵を出して魏を攻む。魏の李豐、數ば魏主に召さる。司馬師、其己を議するを知つて、之を殺す。魏主、不平なり。左右、師を誅するを勸む。魏主、敢て發せず。師魏主を廢す。僭位十六年、改元するもの二、曰く、正始嘉平。師高貴郷公を迎立す、之を廢帝となす。名は髦、文帝の孫、明帝の姪、年十四にして卽位す。楊州の都督母丘儉、刺吏文欽、兵を起して、司馬師を討つ。師擊つて之を敗る。師卒す。弟昭、大將となり、尙書の事を錄す。既にして、大都督となり、黃鉞を假る。揚州の都督諸葛誕、兵を起して、昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相國となり、晉公に封ぜらる。九錫を加ふれども、受けず。吳主亮、政を親らす。數ば中書に出でて、大帝の時の舊事を視る嘗て、生梅を食うて、蜜を索む。蜜中に鼠矢あり。藏吏を召して問うて曰く、黃門、爾より蜜を求めたるか。吏曰く、さきに求むぐれども、敢て與へずと。黃門、服せず。鼠矢を破らしむ。矢、中燥く、因つて、大に笑つて曰く、若し、矢、先より蜜中に在らば、中外共に濕はむ。今、外濕うて內燥く、必ず黃門の所爲ならむと。之三國-漢-後皇帝-三七一 十八史略卷之三三七二を詰れば、果して服す。左右驚慄す。大將軍孫綝、其難問する所多きを以て、疾と稱して朝せず。兵を以て、宮を圍み、亮を廢して會稽王となし、瑯琊王休を迎へ立つ。休、立つ。絲を以て、丞相となす。継又新君に無禮なり、遂に誅せらる。魏主髦、威權日に去るを見て、其怒に勝へず。曰く司馬昭の心、路人も知司馬昭の心路人も知る所なりと。殿中の宿衞、蒼頭、官僮を率ゐ、鼓譟して出せい、所なりでて昭を誅せむと欲す。昭の黨、賈充、入つて魏主と戰ふ成濟、戈を抽いて、魏主を刺して、車下に殞つ。追廢して、庶人となす。僭位七年。改元するもの二、曰く、正元、甘露。司馬昭、常道〓公璜を迎へ立つ、之を魏の元皇帝と爲す。常道〓公元皇帝、初名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして位に卽く。奐と改名す。姜維屢ば魏を伐つ漢の姜維、屢ば魏を伐つ。司馬昭、之を患ひ、鄧支、鍾會を遣鄧艾鍾會ミし、兵に將として、入つて寇せしむ。會は、斜谷、駱谷、子午谷より、漢中に趨き、艾は、狄道より、甘松、沓中に趨き、以て姜維を綴す。維會既に漢中に入りしと聞き、兵を引いて、沓中より還る。艾、追躡して、大に戰ふ。維、敗走し、還つて、劍閣を守り、以て會を拒ぐ。艾、進んで、陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿つて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈を以て、自ら裏み、推轉して下る。將士、皆、木を攀ぢ、崖に緣り、魚貫して進む。江油に至る。書を以て、漢將諸葛瞻を誘ふ。瞻其國-漢-後皇帝-三七三 十八史略卷之三三七四使を斬り、陣を綿竹に列して、以て待つ。敗績す。漢の將軍諸葛瞻評諸葛氏後之に死す。瞻の子尙曰く、父子、國の重恩を荷ふ、早く黃皓を斬らありといふべしず、國を敗り、民を殄せしむ。用つて生くるも、何をか爲さむと。馬に策ち、陳を冒して死す。評後主は凡漢人、魏兵の卒に至るを意はずして、城守を爲さず。乃ち使を遣庸懦弱國を失ふ故あるし、璽綬を奉じて、艾に詣つて降る。皇子北地王諶、怒つて曰く、かな若し、理窮まり、力屈して、禍敗將に及ばむとすれば、便ち父子君臣城を枕にして一戰し、同じく社稷に死し、以て先帝に見えて可なテるべきなり。奈何ぞ降らむやと。帝聽かず。護、昭烈の廟に哭し、先づ妻子を殺し、然る後に自殺す。艾、成都に至る。帝、出でて降る。魏封じて、安樂公となす。帝、在位四十一年、改元するもの四、曰く、建興、延熙、景耀、炎興右、高帝の元年乙未より、後帝禪の炎興癸未に至るまで、凡そ二十六帝、通じて、四百六十九年にして漢亡ぶ。吳主休殂す。證して、景皇帝といふ。兄の子鳥程侯皓立つ。魏の司馬昭、之より先、旣に九錫を受く。旣にして、爵を進めて晉王となる。昭、卒す。子炎、嗣ぐ。魏主奐、僭位六年、改元するもの二、曰く、景元、咸熙。炎、魏主に迫つて、位を禪らしめ、封じて、陳留王となす。後、卒す。晉人、之を證して元といふ。魏は、曹丕より是に至るまで、凡そ五世四十六年にして亡ぶ。三國-漢-後皇帝-三七五 十八史略卷之三云漢亡びてより後、又、。甲申を歷、正統を闕くこと一年。西紀自二六西晉五至三一六だ【西晉世祖武皇帝】姓は司馬、名は炎。河內の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晉王となり、議して、世子を立つ。議者、炎の髪立つて地に委し、手垂るれば膝を過ぎ、人臣の相に非ざるを以て、遂に立つ。旣にして、嗣いで王となり、帝位に卽くや、懿を追尊して宣皇帝となし、師を景皇帝となし、昭を文皇帝となし、大いに宗室を封そ、羊祐ず。晉、吳を滅するの志あり、羊祐を以て〓州の事を都督せしむ。陸抗吳、陸抗を以て、諸軍を都督せしむ。祐、抗と境を對し、使命常にP通ず。抗祐に酒を遺る。祐、之を飮んで疑はず。抗疾む。祐、之に成藥を與ふ。抗卽ち之を服して曰く、豈に人を鴆する羊叔子あらむやと。祐務めて、德政を修め、以て吳人を懷け、兵を交ふる毎に、日を刻して、方に戰ひ、掩襲せず、抗亦た、其邊戌に〓げて、各、分界を保するのみ、細利を求むるなからしむ。時に、吳主皓、德政を修めずして、兼井せむと欲し、術士をして、天下を取青蓋管 に;たべ洛し陽じつるるを筮せしむ。對へて曰く、庚子の歲、靑蓋、當に洛陽に入るべしすと蓋し、璧を衝むを謂ふ。然れども、皓、悟らず。諸將の謀を用ゐて數ば晉の邊を侵盜す。抗諫むれども聽かず。抗卒す。祐吳を伐つを請ふ。議者、多くは同せず。祐歎じて曰く、天下、意西晉-世祖武皇帝-三七七 十八史略卷之三三七八の如くならざる事、十常に七八と。惟だ杜預、張華其計を賛す。祐病む。入朝して、面陳せむことを求む。晉帝、祐をして、臥しながら諸將を護せしめむと欲す。祐曰く、吳を取るは、臣の行を必せず。但だ吳を平らぐるの後、當に聖慮を勞すべきのみと。祐、卒上す。杜預を以て鎭南大將軍となし、〓州の軍事を督せしむ。吳主皓淫虐、日に甚し。預表して、速に之を征せむことを請ふ表、至(る。張華適ま帝と基す。秤を推し、手を歛めて其決を賛す。帝、山濤之を許す。山濤、人に〓げて曰く、聖人に非ざるよりは、外、寧ければ、必ず内憂あり。吳を釋して、外懼となす、豈に算に非ざらむやと。時に、濤、吏部尙書たり。濤むかし、魏晉の間に在り、嵇 康、阮籍、籍の兄の子咸、向秀、王戎、劉伶と相友たり。竹林の七竹林七賢賢と號し、皆老莊虛無の學を崇尙し、禮法を輕蔑し、縱酒昏酣、世事を遺落す。士大夫、皆、之を慕效し、之を放達といふ。惟だ、濤は仍ほ意を世事に留め、是に至つて、選を典り、人物を頸拔し、(各、題目を爲つて、之を奏す。時人、之を稱して、山公の啓事となす上晉大擧して、吳を伐つ。杜預、江陵より出で、王澹、巴蜀を下る。吳人、江磧要害の處に於て、並に鐵鎻を以て、江を橫つて、之を截り、又、鐵錐を作り、長さ丈餘、暗に江中に置き、丹艦を逆拒す。濟大筏を作り、水に善き者をして、筏を以て先づ行かしめ、西晉-世祖武皇帝-三七九 十八史略卷之三三八〇錐に遇へば、輒ち筏を著けて去る。又、大炬を作り、灌ぐに麻油を以てし、鎻に遇へば之を燒く。須史に融液して斷絕す。是に於て船い礙る所なし、遂に先づ上流諸郡に克つ。預人を遣し、奇兵を率ゐて、夜、渡らしむ。吳將、懼れて曰く、北來諸軍、乃ち之を飛渡するなりと。預兵を分つて、濬と合し、武昌を攻めて、之を降す。預謂ふ、兵威、旣に振ふ、たとへば、破竹の如し、數節の後は、刄を迎へて解け、復た手を著くる所なきなりと。遂に群師に方略を指授し、徑に建業に詣る。濬の戎卒八萬、舟を方ぶること百里、帆を擧げて、直に建業を指し、鼓譟して、石頭城に入る。吳主皓、面縛し、輿襯して降る。歸命侯に封じ、遂に庚子入洛の識に符す。大帝より、是に至るまで四世、帝と稱するもの、凡そ五十二年にして亡ぶ。先に、孫策、江東を定めてより以來、通じて八十餘年。晉魏に代つて十有六年、太康元年に至つて、吳を滅し、又十年にして、帝崩ず。帝、初めて、卽位するや、嘗て、雉頭裘を太極殿前に焚き、以て儉を示す。旣にして修縱、後宮數千、常に羊車に乘こる。宮人、竹葉を門に挿み、鹽を酒いで、以て之を待ち、羊車の至とる所、卽ち留まつて酣宴す。群臣と語るに、未だ嘗て經國の遠謀あこと〓らず。吳、旣に平らいでより、天下無事なりと謂ひ、盡く州郡の武備を去る。山濤、獨り、之を憂ふ。漢魏以來、羌胡鮮卑の降る者、多く塞內諸郡に處る。郭欽、嘗て上疏して謂ふ、宜しく、吳を平ら西晉-世祖武皇帝-気 十八史略卷之三三八二評天詐漸く内郡の雜胡を邊地に徒し、四夷出入の防を以曹亦りて操に司下術ぐるの威を及ぼし、を をせんわうくわうふ、取馬氏峻にして、先王荒服の制を明かにすべしと。帝、聽かず、卒に天下傚ふりも祖而之薄帝としの患となる。帝在位、改元するもの三、曰く、泰始、咸寧、太康。稱てす炎よる世德固太子立つ、之を孝惠皇帝となす。し所安全の山集結稷る所なせりざ【孝惠皇帝】名は衷。太子たりし時、妃賈氏を納る。充の女なり。權詐多し。衞瓘、嘗て武帝に侍し、陽つて醉うて、前に跪き、手を以て床を撫して曰く、此座、惜むべしと。武帝悟り、尙書か〓しの疑事を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大に懼れ、外人を倩ひ、草を具して代つて對へ、太子をして自ら寫さしむ。武帝悅び、廢せられざるを得たり。是に至つて卽位す。賈氏、皇后となつて、政に預る。皇太后楊氏は、乃ち帝の母楊后の從妹なり。父駿、太傅たり、賈氏、駿を殺して、太后を廢し、太宰汝南王亮を殺し、太保衞瓘を殺し、楚王緯を殺し、衆望を以て張華裴頒、王戎を用ゐて機要を管せしむ。華、忠を帝室に盡す。后、凶險なりと雖も、猶ほ敬重するを知る。領と心を同じうして、政を輔く。數年の間、暗主上に在りと雖も、然も、朝野安靜なり。戎は、時と浮沈して、匡救する所なく、性、復た貪吝。田園、天下に遍く牙籌を執つて晝夜會計す。家に好李あり、人の其種を得むことを恐れ、常に其核に鑽す。凡そ賞拔する所、專ら虛名を事とす。阮咸の子瞻、嘗て、戎に見ゆ。戎曰く、聖人は名〓を貴び、老莊は自然を明かにす、其西晉-孝惠皇帝-三八三 十八史略卷之三三八四旨異同あるか。瞻曰く、將た同じきなからむやと。戎、咨嗟稍や久し、遂に之を辟す。時に三語掾と號す。此時、王衍、樂廣、皆〓評其正直著機種ときん談を善くす。衍、神情明秀。少時、山濤、之を見て曰く、何物の老嫗か、寧馨兒を生む。然れども、天下の蒼生を誤る者は、未だ必ず寧馨兒しも此人に非ずむばあらざるなりと。衍の弟澄及び阮咸、咸の從子修、胡母輔之、謝〓、畢卓等、皆、任放を以て達となし、醉裸、以て非となさず。比舍の郞の釀、熟す。卓、夜、甕間に至つて盜飮し、守者に縛せらる。旦に之を視れば、畢吏部なり。樂廣、聞いて笑つて曰く、名〓の中、自ら樂地あり、何ぞ必ずしも、乃ち爾らむと。初め、魏の時、何晏等、論を立て、以へらく、天地萬物、無をに評を毒す〓談社會以て本となすと。衍等、之を愛重す。裴顧、崇有論を著せども、救ふ能はず。太子適は賈后の生む所に非ず。后、廢して之を殺す。征西大將軍八王の亂趙王倫、詔を矯つて、兵を勒して宮に入り、后を廢して之を殺し、張華、裴顧を殺す。倫、相國となる。淮南王允、兵を率ゐて、倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇を殺す。崇、愛妾綠珠あり。倫の嬖人孫秀、之を求むれども與へず。秀、崇を誣ひ、允を奉じて亂を爲すといひ、之を收む。崇曰く、奴輩、吾が財を利するのみ。收むる者曰く、財の禍たるを知れば、何ぞ早く之を散せざると。遂に殺さる。倫自ら九錫を加へ、帝に逼つて位を讓らしむ。黨與、西晉-孝惠皇帝-三八五 十八史略卷之三三八六皆、卿相となり、奴卒も亦た爵位を加ふ。朝會する每に、貂蟬貂足らず狗尾續く座に盈つ。時人語して曰く、貂足らず狗尾續ぐと。齊王間、許昌を鎭し、成都王頴、鄴を鎭し、河間王顒、關中を鎭す。各、兵を擧げて、倫を討つ。倫、誅に伏す。岡、政を輔く。驕奢にして、政を擅にす。〓長沙王又をして、之を殺さしむ。頴亦た功を恃んで驕奢。旣にして、〓と兵を擧げて反す。父、帝を奉じて、頴と戰ふ頴の將陸機、戰敗れて收めらる。歎じて曰く、華帝の鶴唳、復た聞くべけむやと。弟雲と共に、皆頴に殺さる。機雲は、皆、陸抗の子なり。頴兵を進めて、京師に入り、丞相となる。旣にして、鄴に還る。〓頴を表して、皇太弟となす。東海王越、帝命を奉じてに侍中〓絡頴を征す。頴、兵を遣して、蕩陰に拒戰す。乘興、敗績す。侍中嵇紹身を以て帝を衞つて殺され、血、帝衣に濺ぐ。頴帝を迎へて鄴に入る。左右、帝衣を浣はむと欲す。帝曰く、稀侍中の血、浣ふ勿れと。頴帝を奉じて、洛に歸る。願の將張方、洛に在り。帝を長安に遷す。〓太弟頴を廢し、更めて豫章王熾を立てて太弟となす。東海王越、兵を發して、西、長安に入り、帝を奉じて、洛に還る。越を以て、政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に據る。旣にして、長安に走り、又、武關より新野に走り、遂に、北、河を濟り、故の將士を收む。頓丘の太守の執ふる所となる。時に、范陽王虓、鄴に據る。頴を城に送る。未だ幾な西晉-孝惠皇帝-三八七 十八史略卷之三三八八らずして殺さる。帝、麵を食ひ、毒に中つて崩ず。或は曰く、東海王越、之を鴆す評主昏國亂るなりと。帝、昏愚。天下大に饑ゆるや、帝曰く、何ぞ肉麋を食はざると。華林園に蛙鳴を聞く。帝曰く、かの鳴く者は、官の爲にするか私の爲にするか。左右、之に戯れて曰く、官地に在る者は官の爲にし、私地に在る者は私の爲にすと。賈氏の政を專らにするに方つて、時人、將に亂れむとするを知る。索靖、洛陽宮門の銅駝を必ず汝が荊指して、歎じて曰く、必ず、汝が〓棘の中に在るを見むのみと、趙棘の中に在るを見ん王倫の亂後、諸王、迭に相殘滅し、天下大に亂る。劉淵劉淵、左國城に興る。淵は、故の南匈奴の後なり。匈奴は、漢魏より以來、中國に臣たり。其先世、自ら漢の甥なるを以て、漢姓を冐す父豹、左部の帥たり、淵を產む。幼にして雋異。博く經史を習ふ。嘗て曰く、吾、隨陸が武なくして高帝に遇へども封侯の業を建つる能はず、終灌が文なくして文帝に過へども座序の〓を興す能はざるを恥づ、豈に惜からずやと。是に於て武事を兼學す。姿貌魁偉。初め、侍子となつて、洛に在り。豹、死す。武帝、淵を以て、代つて、五部の帥となし、旣にして、北部都尉となる。五部の豪傑多く之に歸す。帝の世に及びて、以て五部の大都督となす。成都王穎、表して、左賢王となす。嘗て、兵に將として、鄴に在らしむ。劉聰淵の子聰、亦た驍勇人に絕え、博く經史に渉る。善く文を屬し、弓西晉-孝惠皇帝-三八九 十八史略卷之三〓三百斤を彎く。淵の從祖宣曰く、漢亡びてより以來、我が單于、徒に虛號あつて、復た尺土なし。自餘の王侯、降つて、編戶に同じ。今、吾が衆、衰へたりと雖も、猶ほ二萬あり、奈何ぞ、手を歛めてご役を受け、奄として百年を過ごさむや。司馬氏、骨肉相殘ひ、四海ざ鼎沸。左賢王、英武世に超ゆ、呼韓邪の業を復する、是れ其時なりと。乃ち相與に謀つて、之を推す。淵、頴に說き、歸つて、五部を帥ゐて來り助けむことを請ふ。旣に、左國城に至るや、宣等、推して、大單于となす。二旬の間、衆五萬、離石に都す。胡晉の之に歸する者、愈よ衆し。乃ち國號を建てて漢といひ、漢王と稱す。淵劉曜族子曜あり。生まれて、眉白く、目に赤光あり。幼にして聰慧、膽量あり。亦た好んで書を讀み、文を屬し、射は能く鐵七寸を洞す。是に至つて淵の將となる。ミ巴西の氏李特、初め、流民を以て蜀に入る。旬月、衆二萬、廣漢つ折に據り、進んで成都を攻め、刺史羅尙の敗る所となる。其首を斬らる。弟流、代つて其衆を領し、勢、復た盛なり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尙を走らして、成都に入る。是に至つて、成都王と稱す。鮮卑の慕容廆、武帝の時より、旣に寇を爲す。旣にして降る。以て鮮卑の都督となす。魔皝を生む。遼東より徒つて、徒河に居り、又た大棘城に徒る。帝の世に及んで、慕容部、愈よ盛なり。西晉-孝惠皇帝-元 十八史略卷之三三九二鮮卑の索頭拓跋氏、之より先、質子、晉に在るものあり。武帝、遣歸す。旣にして、拓跋力微、又、其子をして入貢せしむ。力微、死して、子悉祿官、立つ。帝の世に及びて、索頭、國を分つて三部となし、一は上谷の北に居り、祿官自ら之を統べ、一は代郡參合陂の北に居り、兄の子猗色をして之を統べしめ、一は定襄の盛樂故城に居る、猗也の弟 〓虛虛をして之を統べしむ。晉人の附く者稍や衆し、猗缶、漠を度つて北巡し、西、諸國を略す。降附するもの、三に十餘國。拓跋氏の盛なる、是に始まる。夷狄、華を亂るの禍、皆、藁を漢魏晉の間に萠し、帝の世に至つて、中國の大亂に乘じて、始よbめて四に起る。帝在位十七年、改元するもの五、曰く元康、永康、太安、永興、光熙。太弟立つ、之を孝懷皇帝となす。【孝懷皇帝】名は熾。惠帝の十五年に當り、武帝の子二十五人、兄弟相屠るの餘、存する者三人のみ。熾は其一なり。素より學を好む。故に立つて太弟となり、是に至つて卽位す。成都王李雄、帝と稱し、國を成と號す。石勒漢主劉淵、帝と稱し、徒つて平陽に都す。其子聰及び石勒等を遣ろ、して、晉の内郡を攻めしめ、以て洛陽に至る。勒は、武郷の羯人なり。之より先、嘗て、洛陽に至り、上東門に倚つて長嘯す。王衍、其異あるを識る、後、寇を爲し、旣にして漢に從ふ。西晉-孝惠皇帝-孝懷皇帝-三九三 十八史略卷之三三九四漢主淵卒す。子和立つ。聰弑して、之に代る。太傅東海王越、兵を遣して、入つて宿衞し、仍つて使を遣し、羽檄を以て、天下の兵を徵して、入つて援けしむ。越自ら兵を帥ゐて、石勒を討ち、軍に卒す。勒の兵、越の軍を敗り、太尉王衍等を執ふ。衍、自ら言ふ、少より宦情なく、世事に預らずと。勒曰く吾、天下を行ること多し、未だ此輩の人を見ず、尙ほ存すべきbか或ひと曰く、彼は皆、晉の王公、終に吾が用を爲さず。勒曰く、然りと雖も、必ず、加ふるに、鋒刄を以てすべからずと、夜、人をして、墻を排して、之を殺さしむ。漢主聰、呼延晏を遣し、兵に將として、洛陽を攻めしむ。劉曜、王彌、石勒、皆會す。遂に洛陽を陷れ、帝を執へて、平陽に送る。尋いで殺さる。帝在位六年、改元するもの一、曰く、永嘉。秦王、長安に立つ、之を孝愍皇帝となす。I【孝愍皇帝】名は業、吳王晏の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽、旣に陷るや、荀藩、王を奉じて、許昌に趨る。時に年十二。旣にして、索絲、迎へて、雍州に入る。刺史賈疋等、奉じて、皇太子となし、行臺を建つ。盜疋を殺す。麴允、雍州を領す。懷帝の凶問至る、王長安に卽位す。石勒、石虎を遣して、鄴を攻め、陷れて之に據る。西晉-孝懷皇帝-孝愍皇帝ー三九五 十八史略卷之三三九六大衣服務管理評西漢、屢ば長安に寇す。麴允、索絲、屢ば之を敗る。未だ幾ならず帝の王の)して、漢兵、しきりに諸郡を陷れて長安に逼り、先づ外城を陷る。胡十麴允、索絲、退いて小城を守り、內外斷絕、城中饑ゆること甚し。我收不能とな帝、出でて降る。漢將劉曜、平陽に送る。聰群臣を享し、帝に命じ、靑衣を著けて、酒を行ひ、爵を洗はしめ、又、蓋を執らしむ。後、害に遇ふ。帝、在位四年、改元するもの一、曰く、建興。西晉は、武帝より、是に至るまで、凡そ四世、五十二年。瑯琊王、建業に立つ、之を中宗元皇帝となす。評譯十八史略卷之四正西紀自三一六至四二〇東晉【中宗元皇帝】名は睿、瑯琊王仙の孫なり宣帝懿、仙を生み、仙觀を生む。或は曰く、睿の母、實は瑯琊の小吏牛金と通じて、睿を生むと。觀に嗣いで王となる。惠懷に於いては、再從兄弟たり。懷帝の時、睿、安東將軍となり、揚州軍事に都督たり建業に鎭す王導睿、王導を以て謀主となし、事每に咨ふ。睿、名論素より輕し。呉人初め附かず導勸めて、諸名勝を用ひしむ。顧榮、賀循、紀瞻東督-中宗元學帝-三九七 十八史略卷之四灵等、掾屬となり、新舊を撫綏す。江東心を歸す。後、又、庾亮、卡壺等百餘人を得たり、之を百六掾といふ桓彜亂を避け、江を過ぎ周顗て、睿の微弱なるを見て、之を憂ふ旣にして導を見、退いて周顫に謂つて曰く、江左に管夷吾あり、吾憂なしと。諸名士、新亭に遊宴するや、顫中坐にして歎じて曰く、風景殊ならず、目を擧ぐれば、江河の異ありと。因つて、相視て、涕を流す。導曰く、當に力を王室に戮せ、共に神州を復すべし、何ぞ楚囚と作つて、對泣す祖逖るに至らむやと。愍帝睿を以て、左丞相となす。洛陽の祖逖、少よ劉琨り大志あり。嘗て、劉現と同じく寢ぬ。中夜、鷄聲を聞き、現を蹴つて、起して曰く、是れ惡聲に非ざるなりと。因つて起つて舞ふ。是に及びて、南に渡り、兵を睿に請ふ。賓、素より北伐の志なし、逃を以て豫州の刺史となし、兵千人を與へ鎧仗を給せず。逃江を渡り、中流にして、楫を擊つて誓つて曰く、祖逖、中原を〓むる能はずして、復た濟らば、此江の如きあらむと。愍帝、又、睿を以て、丞相となし、中外の諸軍事を都督せしむ。長安、陷る。睿師を出して露次し、檄を移して北征す。實は、行かず。群臣、勸めて晉王の位に卽かしめ、明年、遂に皇帝の位に卽く。太尉劉現、死す。初め、琨祖逖と名を齊しうす。琨人に謂つ著先鞭て曰く、常に恐らくは、祖生が、吾に先つて鞭を著けむことをと。懷愍の時、〓州刺史となる。琨軍を出す。長史、叛いて、石勒に東晉-中宗元皇帝-三九九 十八史略卷之四四〇〇降る。幽州の刺史段匹彈、時に薊城に在り、人をして、現を邀へしむ。琨衆を率ゐて、薊に奔り、匹彈と血を歌つて同盟し、晉室を翼戴す。薊を襲ひ取らむと欲する者あり。書を遺つて、現に請うて內應を爲さむとす。書、邏騎に獲らる。然も、張實は知らざるなり竟に匹彈に縊らる。漢主劉聰、卒す。子粲、立つ。其臣、〓準、弑して、之に代る。石勒、準を討つ。劉曜、自立し、勒を封じて、趙公となす。曜、疑ふ勤自ら趙王と稱す。曜、亦た號を改めて趙となす。勒を後趙となす。略陽臨渭の氏會蒲洪、驍勇にして、權略あり。群氏畏れて、之に服す。劉聰、嘗て、拜して將軍となす。受けず。懷帝の世に在つて、自ら略陽公と稱す。是に至つて、趙主曜に降る。上晉の豫州の刺史祖逖、卒す、初め、逖譙城を取り、進んで、雍丘に屯す。後趙の鎭戍、逖に歸する者、甚だ多し。逖將士と甘苦すハを同じうし、勸めて、農桑を課し、新附を撫納す。帝、戴淵を以てと、將軍となし、來つて、諸軍事を督せしむ。巡、己〓棘を剪つて、河南の地を收む、而るに、淵、雍容として、一旦來つて之を統ぶるあう〓を以て、意.甚だ快快たり。又、王敦が朝廷と隙を構へて、將に內難あらむとするを聞き、大功の遂げざるを知り、感激して、病を發して卒す。豫州の士女、父母を喪ふが如し。東晉-中宗元皇帝-四〇一 十八史略卷之四四〇二鮮卑の慕容廆、之より先、嘗て使を晉に遣して、帝命を受けて、平州刺史となる。是に至つて、以て平州の牧、遼東公となす。初め、拓跋祿官死す。猗盧、三部を總攝す。劉現、猗盧と結んで兄弟となる。懷帝の時、表して、大單于となし、代公に封ぜられ、部落を帥ゐて、雲中より雁門に入る。琨與ふる」に、陛北の地を以てす。之に由つて、益す盛なり。嘗て、現の援となつて、大に劉曜の兵を晉陽に破る。猗盧、成樂に城いて、北都となし、平城を南都となす。愍帝、猗盧の爵を進めて王となし、官職を置き、代、常山の二郡を食ましむ。猗盧、少子を愛し、立てゝ嗣となさむと欲して其長子六修を出し、六修をして其弟を拜せしむ、從はずして去る。大に怒つて、之を討つ。兵、敗れて、弑に遇ふ。猗也の子普根、六修を討滅して自立す。尋いで卒す。國人猗虚が弟の子欝律を立つ是に至つて、猗色の妻、欝律を殺して、其子賀偏を立つ。欝律の子什翼犍、襁褓に在り、母、之を袴下に匿して殺されざるを得たり反王教反す晉の〓州の刺史王敦、す。初め、帝の江東に鎭するや、敦從弟導と共に、心を同じうして翼戴し、心を推して之に任じ、敦は征討を總べ、導は機政を專にして、群從子弟顯要に布列す。時人、語して曰く、王と馬と、共に天下を共にすと。敦先に揚州の刺史諸軍を都督し、を領し、征討進んで、鎭東大將軍都督江揚〓湘交廣六州諸軍事江州刺史となり、尋いで〓州を領し、功を恃んで驕恣東晉-中宗元皇帝-四〇三 十八史略卷之四四〇四なり。帝、畏れて之を惡む。乃ち劉隗、刁協を引いて腹心となし、漸く王氏の權を抑損す。導も亦た漸く疎外せらる。敦の參軍錢鳳等敦の異志あ凶狡なり。るを知つて、陰に爲に畫策す。是に至つて、敦遂に兵を武昌に擧げ、劉隗、刁協を誅するを以て名となす。隗、協、帝に勸めて、盡く王氏を誅せむとす。帝許さず。導宗評族を率ゐて、毎旦、臺に至つて罪を待つ。周顫、將に入らむとす能德は王周ず導額し勝人知のむ手間る陰じの得手導、是を呼んで曰く、伯仁、百口を以て、卿を累はさむと。顫顧のた百所みず、入つて帝に見え、導の忠誠を言ひ、申救甚だ至る。帝、其言を納る。顫、醉うて出づ導又呼ぶ。顫與に言はず、左右を顧みて曰く、今年諸賊奴を殺し、金印、斗の如く大なるを取つて、肘後に懸けむと。旣にして、出で、又表を上つて、導の罪なきを明惣かにす。導、知らずして、之を恨む。帝、召して導を見る。導、稽山のだ首して曰く、亂臣賊子、何の代か之なからむ。意はざりき、今、近く臣の族に出でむとはと。帝、跣して其手を執つて曰く、茂弘、方上やに卿に寄するに百里の命を以てすと。以て前鋒大都督となす。敦石頭城に至つて、之に據る。曰く、吾、復た盛德の事を爲すを得ずか、と協、隗等、道を分つて、出でて戰ひ、大に敗れて還る。帝、百官をして、石頭に詣つて敦を見せしむ。敦、周顫を殺す。導、救は吾と七ヘこやまたは由も殺ず。後、中書の故事を料檢し、顎の表を見、之を執つて流涕して日て死すく吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁、我に由つて死す。幽冥の間、東晉-中宗元皇帝-四〇五 十八史略卷之四四〇六この良友に負くと。敦、朝せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾を成して崩ず。在位六年。改元するもの三、曰く建武、大興、永昌太子立つ、之を肅宗明皇帝となす。【肅宗明皇帝】名は紹、幼にして聰慧、嘗て、使者あり、長安より長安近きか日近きか來る。元帝、紹に問うて曰く、長安、近きか、日近きか。紹曰く、長安近し。但だ人の長安より來るを聞く、人の日邊より來るを聞かずと。元帝、其對を奇とす。一日、群臣と語つて、之に及ぶ。復た以て紹に問ふ紹曰く、日近し。元帝愕然として曰く、何ぞ間者の言に異なるか紹曰く、頭を擧ぐれば日を見る、長安を見ずと元帝、益す之を奇とす。長ずるに及びて仁孝、文辭を喜び武藝を善くす。賢を好み、士を禮し、規諫を受く。庾亮、溫嶠等と布衣の交をなす。敦石頭に在り、其勇略あるを以て、誣ゆるに不孝を以てして、之を廢せむと欲す。嶠等の衆論に賴つて、其謀を沮む。是に至つて位に卽く。敦、位を簒せむことを謀り、屯を姑熟に移し、自ら揚州の牧を領す。王導を以て司徒となし、大都督を加へ諸軍を督して敦を討つ。復た反し、敦、兵を發して病む。郭璞をして、之を筮せしむ。璞曰く明公事を起せば、禍必ず久しからず。敦大に怒つて曰く、加拿大利害けぞ)卿の壽幾何ぞ。璞曰く、命、今日の日中に盡きむと。敦之を斬る。日、命今日と中に盡きむ帝、自ら出でて、敦の軍を覘ふ。敦、書日、其營を環るを夢む。東晉-肅宗明皇帝-四〇七 十八史略卷之四四〇八驚悟して曰く、黃鬚鮮卑の兒來るかと。帝の母は鮮卑の出なり。亟に、人をして、之を追はしむ、及ばず。帝、諸軍を帥ゐて、出でてつ南皇堂に屯し、夜、壯士を募つて、水を渡り、敦の兄王含の軍を掩うて大に之を破る。敦含の敗を聞いて曰く、我が兄は老婢のみ、門戶衰へ世事去ると。因つて、勢を作し、起つて自ら行かむと欲す。困乏して、復た臥す。尋いで卒す。敦の黨、悉く平らぐ。敦のau評王丼屍を發いて之を斬る。有司、王氏の兄弟を罪せむことを奏す詔を と事人親大を義滅す間して曰く、司徒導、大義を以て親を滅す、將に十世まで之を宥さむ最難のたと欲すと。悉く問ふ所なし陶侃陶侃を以て剃湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして、孤貧なり。孝廉范達、之を過ぐ。侃の母湛氏、髪を截つて、賣つて酒食を爲る。達、侃を薦め、遂に名を知らる。初め、〓州都督劉弘に用ゐられ、義陽の叛蠻張昌を討ち、又江東の叛將陳敏を討ち破り又湘州の劇賊杜發を擊ち破る。江夏の太守より〓州の刺史とな之を疾んり、王敦、で、廣州刺史に左遷す。侃州に在つて、朝に百甓を齋外に運び、暮に齋内に運ぶ。人其故を問ふ。答へて曰く吾、方に力を中原に致さむとす、故に勞を習ふのみと。是に至つて復た〓州に鎭す。士女相慶す。侃性聰敏恭勤嘗て曰く、大禹は聖人なり、乃ち寸陰を惜む。衆人は當に分陰を惜むべしと。諸參佐こと〓〓の酒器、蒲博の具を取つて、悉く江に投じて曰く、樗蒲は牧猪奴の東營-肅宗明皇帝-四〇九 十八史略卷之四四一〇戯のみと。嘗て、船を造るや、竹頭木屑を籍して、之を掌らしむ。後、正會に雪霽れて地濕ふや、木屑を以て地に布く。後、征蜀六の師あるに及び、侃の竹頭を得て、釘を作つて船を裝す。其綜理微密なること、之に類す。帝崩ず、在位三年。改元するもの一、曰く太寧。太子立つ、之を顯宗成皇帝といふ。【顯宗成皇帝】名は衍、母は庾氏、五歲にして卽位す。司徒導、帝の舅中書令庾亮と共に政を輔く、太后、朝に臨む歷陽の內史蘇峻、反す。峻さきに臨淮に守たり。王敦、再び闕を犯せし時に、入衞して功あり。威望漸く著はる。歷陽に在るに及びて、卒銳に、器精なり。志、朝廷を輕んじて、亡命を招納す。庾亮石頭城を修め、以て之に備へ建請して、峻を徴して大司農となす。峻、兵を擧げて、姑孰を陷る。尙書令卡壺、軍を督して、峻と力戰して死す。二子之に隨ひ、亦た敵に赴いて死す。母、其屍性能力を示す。を撫して曰く、父は忠臣たり、子は孝子たり、何ぞ恨まむやと。庾獨立大學亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃、溫嶠、入つて、峻を討つて之を斬る。後趙主石勒、大に趙兵を破り、趙主劉曜を獲たり。曜勒と、しきりに攻戰し、互に勝負あり。曜、後趙の金塘城を攻む。勤、自ら1/將として、之を救ひ、大に洛陽に戰ふ。趙兵、大に潰ゆ。曜、醉う東晉-顯宗成皇帝-四一一 十八史略卷之四四三る)、て、馬より墮ち、勒に獲られ、歸つて之を殺す。前趙亡ぶ溫嶠音の驃騎將軍溫嶠、卒す。嶠、始め、劉現に遣はされて、江東に使す。母、欲せず。嶠、裾を絕つて去る。旣に至つて、復た北に歸るを得ず、終身以て恨となす。嶠.心を晉室に盡し、敦峻の平らぐ皆嶠の力なり。後趙の石勒、天王と稱し、尋いで、帝と稱す。嘗て、大に群臣を問うて曰く、朕は古しへの何の王に方ぶべきか評或ひと曰る人 大阪石物な見胡人中人傑には饗するや、る?く漢高よりも過ぎたり。勤笑つて曰く、人、豈に自ら知らざらき月り多味其所且むや卿の言、太だ過ぎたり。若し高帝に遇はば、當に北面して之に事ふべく、韓、彭と肩を比べむのみ。若し光武に遇はば、中原に並驅すべく、未だ鹿の誰の手に死するを知らず。大丈夫、事を行ふ、5.當に〓碼落落、日月の皎然たるが如くなるべく、終に曹孟德、司馬仲達が人の孤兒、寡婦を欺いて、狐媚以て天下を取るに效はざるなりと。勤學ばずと雖も、好んで、人に書を讀ましめて之を聽き、時に其意を以て得失を論ず、聞く者悅服す。嘗て、漢書を讀むを聽き、鄙食其が勸めて、六國の後を立つるに至り、驚いて曰く、この大法當に失すべし。何を以て、遂に天下を得たると。張良の諫めしを聞くに及びて、乃ち曰く、賴に此あるのみと。後、使を遣して好を晉に修む。晉、其幣を焚く。勤卒す。子、弘立つ。自音の大尉陶侃卒す。'保八州に都督たり。威名赫然。或は謂ふ。東晉-顯宗成皇帝-四一三
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