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検証33:物部守屋 守屋は記紀などに容貌に関しての記述がないため、どのような顔をしていたのかわかっていない。 (1)と(2)は横顔の比較である。 守屋の容貌に関する史実にない類似点は以下の通り。 髪型と髪色(白髪アップ、線によって白髪を表現しているのがまったく同じ) まゆ毛(長めで、キツくていつも怒っているような眉) 鼻(とがっていてデカイ) ほほ、ほほの下(ほほが出ており、ほほの下がこけている) あごや骨格がまったく同じ 目(三白眼でやや釣り目、黒目は上のほうになっていることが多い) 設定年齢(初老、馬子よりも年上のようだ。) 体型が馬子に比べてやせている また(2)-(3)は、台詞の比較である。 仏教流布に反論する際のセリフがまったく同じである。 仏もちゃんと祭らないといけないと言われ、「それは詭弁だ」を「それは馬鹿げた理屈!」に変えているが、ほぼ同じ反応をしている。 日本書紀などの歴史資料には、「馬子は、私が疱になったのは仏をないがしろにしたせいだと言ったが俳仏派の守屋は反論した」とあるだけで、そのやりとりまでは描かれていない。 ※物部守屋の容姿に関しては、日本画家の安田靫彦の「守屋大連」※をモデルにしているという説がある。山岸、池田、両氏が共に安田画伯の物部像をモデルにしたために似ている、という可能性もある。 ※「守屋大連」安田靫彦 守屋の顔の比較、特に表情や、効果に注目していただきたい。 (4)、(5)は斜め下から、上にむかって睨みつけるような表情の守屋である。 黒目が少なく、その黒目も上の方にあり、ほほはこけ、怖い。 馬子は山岸版でも池田版でも、たまに可愛い表情を見せたりキャラクター化(三等身化、ポチャっと可愛い仕種)をしているのだが、守屋にいたってはそのような場面などなく、このように老獪で何かを企む姿の描写が多い。 (6)、(7)、(8)は正面を向いた守屋である。特に(6)、(7)は穴穂部を大王に推すシーンで、身を乗り出すようにして力説する守屋の表情がそっくりである。 また下の二つはどちらも矢が刺さって死ぬシーンだ。 守屋は、記紀によると木の上で指揮を取っていたところ矢が刺さって死ぬのだが、その表情や漫画効果がまったく同じである。 フラッシュによって、「死ぬ瞬間」を切り取るようなコマで、それは顔のアップ、その表情は白目をむき、いかめしい守屋の顔がいっそう恐ろしい表情になり、怨念が残りそうなその表情が印象に残る。 後に、山岸版でも池田版でも、このように死んだ守屋達は怨霊となって現れるのも同じである。 検証32:穴穂部を心配する間人媛 検証33 検証34:穴穂部の強姦未遂事件
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主に安田をうまく扱うときに使う語録 * 安田コノヤロー、早く○○○持って来いコノヤロー * 安田!ダッシュ!ダッシュ! * おい!言ってやれ安田! * 安田君、がんばったね! * 安田くんって、太陽のにおいがするね * 安田がなんでいるの? * 安田君どいて!そいつ殺せない! * そんな安田君には甘いモノをあげよう * 俺たちは安田に賭ける! * 安田!学校休め! * 安田「○○○っですか?」 答者「YES!YES!YES!」 * それでも、安田なら・・・ 安田ならきっとなんとかしてくれる! * 安田君って、笑い飯の浮浪者のほうに似てるよね~ * 安田かわいい * 安田あっち行けよ・・・ * スコアトップ取ったよ!やったね安君! * すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を(安田への殺意 * 安田wwwwwお前の席ねーからwwww * 四の五の言わずに働け安田! * 安田ー!早く来てくれー! * 安田学園に100%絶対に合格 * 安田がいないと試合に勝てない現実 * yasuda is japanese cool beauty! * 今日は深く吸いすぎたかな?安田くん * 安田!男も結構いいもんだぞ * 安田先輩またお寝んねスかwwwwwwwww * 私、安田君の事好き・・・かな・・・ * 高田!間違った!安田! * カミサマ、ホトケサマ、ヤスダサマ~ * 非常に貴重な安田の産卵シーン * おーい安田~!野球しようぜー! * 和菓子の老舗、やすだ(創業明治16年) * やすださん~なにやってはるんすかぁ~ * 安田は太陽のkomachi!エーンジェール! * やすだ・・・フォースを感じるのだ・・・ * 安田ッ!おまえの命がけの行動ッ!ぼくは敬意を表するッ! * 安田は・・・・・・・二度刺すっ・・・・・! * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
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全盛期の安田伝説 500kill0desは当たり前 初回単機突撃で100kill0des 安田にとってのHSはエイムミス 初回先頭単騎オールラウンド勝利も当たり前 ポイント差500から、チームメイト全員負傷の状況から一人で逆転 一回のショトで3HS ナイフで10kill マウスを握るだけで相手プレオヤーが泣いて謝った、心臓発作を起こすプレイヤーも あまりに殺しすぎるのでカウンタが壊れる そのカウンタも殺す 相手プレイヤーを一睨みしただけで相手プレイヤーの意識が飛んでいく 試合の無い移動日でも500kill0des マウスを使わずに完全勝利 自分の撃った弾を自分で食らい、1killget オールラウンド勝利なんてザラ、2周することも 閃光グレネードを食らいもHSで1kill 観客の韓国人のヤジに反論しながらHS グッとガッツポーズしただけで5点くらい入った ナイフスイングでハリケーンが起きたことは有名 湾岸戦争が始まったきっかけは安田のCSS、全プレイヤーナイフキル 戦闘機を自動小銃で楽々撃ち落す 自分の弾に飛び乗ってエリア外まで行くというプレイヤースキル
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安田の名言集 『SAのナイフ戦なら結構強いよ―――』 『俺を護衛してくれ』 『俺は天使と話せる』 『俺には守護天使が付いてる、絶対誰にも負けない』 『俺が膝を着くときは、女へのプロポーズと神に祈る時だけだ』 『GN R(Guns N Roses)はマジで神だと思う、やつらの歌は俺のソウルにビンビン届いてくる。俺は天使と話せるまじで』 『このゲームはつまらない、俺が勝てないから』 『今日は調子が悪かっただけ、120%のときはやばい最強クランのベルベットも倒した』 『肩とかにタトゥーとか、あれ鬼かっこいい!原宿とかでやってるやつがいるけど全然似合わない』 【参考画像】 ska0721_uljp00006.jpg
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安田の名言集 『SAのナイフ戦なら結構強いよ―――』 『俺を護衛してくれ』 『俺は天使と話させる』 『俺には守護天使が付いてる、絶対誰にも負けない』 『俺が膝を着くときは、女へのプロポーズと神に祈る時だけだ』
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「ミノ食べたぁ?」 2011年12月17日(土)関ジャニ∞五大ドームTOUR Eight×Eighter おもんなかったらドームすいません 東京公演 昨日のコンサート終わりに丸ちゃんと雛ちゃんが焼肉に行った話をしていて裕ちんが「2人でいるときどんな話するん?」という質問をした直後、空気を読まずいきなり安田様がぶっこんできた質問です。 安田氏にとっては2人がどんな話をしたのかよりも愛するミノを2人が食べたのか気になった模様(ノ∀`;) 安田の中でのランク↓ ミノ>>>>>>(超えられない壁)>>>>雛丸トーク内容 「オレの足そんな長い無いわ!」 2011年12月17日(土)関ジャニ∞五大ドームTOUR Eight×Eighter おもんなかったらドームすいません 東京公演 裕ちん「安田どこさわってんねん」と言われて答えた一言 えっ?答えがおかしいよね安田さん(ノ∀`;) 安田さん的にはこういう思考だったのだと思います。 (ヤдス)。。。(腹部を触っていたでも、裕ちんの所からは子安田を触っているように見えたのか?でも違うよ俺足長くないから子安田(こうた)じゃないから言わなきゃ!) アレだよね?安田語録の何割かはヤスくんの頭の回転が速すぎるせいだよね?2個、3個進んだ事を返答してしまうんですね(ノ∀`;) ちなみに丸ちゃんは「大丈夫やでヤスおれわかるから」と言っていました。山田めっ!!! 「昼は魚で夜は鳥の役をやりたい」 2011.12.15 レコメン 舞台でどんな役をしてみたいか話していた関ジャニ∞メンバーたち その中で安田さんがやりたい役は上記になります。 \(^o^)/もうなにがなんだか 「センターはおれだおれだおれだーーーー!!あ(汗)、やすだやすだやすだっ!!」 2012年8月5日第5ステージ「一番運があるのは俺だ!ジャンケン選抜」 「おれだおれだおれだーーー!!」と他のメンバー(主に丸ちゃん)が言っているのに対して、安田は「やすだやすだやすだーーー」と上手いこと言うことに1回目は成功。 しかし、決勝にて見事に天然っぷりを発揮。 普通に「おれだ」と言ってしまい、途中で気付いて「やすだ」と言いなおす安田君。 相変わらずの天然チンパンジー゚+。 .゚(*゚Д゚*)キタコレ゚. 。+゚
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「地面が話しかけてきてくれた」 2008.9.11 「レコメン」村上さんよりタレコミ これは言い間違いなんかじゃないんだぜ☆ マジなんだぜ? 沖縄が好きなヤスダさん。なんで沖縄が好きなん?と問いかけた村上さんに対して言った言葉は「大地が問いかけてきてくれるから」 ちなみに地面はこう言ったそうです。 (地д面)お前はお前らしくやったらええねん! ちなみにレコメンではその後、なんで関西弁やねん!とツッコまれていました( ´ー`)y-~~ (´・д・`)うん…言いたい事はなんとなく分かるの。沖縄の自然ってすごいよね…圧倒されるよね?でもなんか面白い☆それがヤスダクオリティ
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▲【成人女性の壁】 ◆85(脆弱の壁) >トモカネ(友兼)>キュゥべえ>天照 天津>野田ミキ>ユミ=委員長 =すぺりおる☆シンドリッタ=HN「くじゃっく☆」≧浜寺 菘=奈真美>光莉 >安田 利香=おっぱいべろんちょ=お妙≧李・咏梅>マイク・カーペンター ▼【老人の壁】 【作品属性】脳内+前作流用 【作品名】いろんな街でいろんな者がいろんな姿で笑ってる あらゆる箇所を旅をする釣り人の日記 他多数 【メンバーリスト】いろんな街でいろんな者がいろんな姿で笑ってる あらゆる箇所を旅をする釣り人の日記のメンバーリスト。 【名前】安田 利香 【属性】主人公の妹 【大きさ】【攻撃力】【防御力】【素早さ】女子中学生並み 【特殊能力】無い。 【長所】登場場面は多いよ。 【短所】頭が弱い。 867 名前:格無しさん 投稿日:2006/06/26(月) 19 32 18 安田 利香・・・かなりトロいという塚木三尉の上。
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安田朗 ディメンションゼロのイラストを手がけるイラストレーターの一人。 ∀ガンダムやストリートファイターⅡのキャラクターデザインで有名。 ドラゴンマガジンに連載されているD0小説の挿絵を担当している。 作品一覧 サードセンチュリー ベーシックパック 高鳴る鼓動ペンラム 外部リンク akiman's blog(安田朗氏のブログ)
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文章に上達するのには、どう云ふのが名文であり、どう云ふのが惡文であるかを知らなければなりません。しかしながら、文章のよしあしは「曰く云ひ難し」でありまして、唯今も述べましたやうに理窟を超越したものでありますから、讀者自身が感覺を以て感じ分けるよリ外に、他から教へやうはないのであります。假りに私が、名文とは如何なるものぞの質問に張ひて答へるとしましたら、 長く記憶に留まるやうな深い印象を與へるもの 何度も繰リ返して讀めば讀むほど滋味の出るもの と、先づさう申すでありませうが、此の答案は實は答案になつてをりません。「深い印象を與へるもの」「滋味の出るもの」と申しましても、その印象や滋味を感得する感覺を持つてゐない人には、さつぱり名文の正體が明かにならないからであります。 簡素な國文の形式に復れと印しましても、無闇に、言葉を省いたらよい譯ではありません。文法に囚はれるなと申しても、故意に不規則な云ひ方をし、格やテンスを無視したものがよいとは限りません。時に依り、題材に依つては、精密な表現を必要とし、西洋流の言葉使ひをもしなければならないのでありまして、豫め「かうであらねばならぬ」「あつてはならぬ」と、一律に極めてしまふことは危險であります。つまり、「名文とは斯く/\の條件を備へたものである」と云ふ標準がないのでありますから、文法的に正しい名文、文法の桁を外れた名文、簡素な名文、豐麗な名文、流暢な名文、佶屈《きつくつ》な名文と、各種各樣の名文があるのでありまして、かう云ふ國語を持つたわれ/\は、最も獨創的な文體を編み出すことも出來、又、下手をすれば支離滅裂な惡文家に墮する恐れもある。而も名文と悪文との差は紙一と重でありまして、西鶴や近松のやうな獨創性のない者が彼等の文章の癖を眞似ると、多くの場合物笑ひの種になるやうな惡文が出來上るのであります。 行すゑのしらぬ浮世、うつり替るこそ變化《へんげ》のつねにおもひながら、去年もはや暮て、初霞の朝|長閑《のどか》に、四隣《しりん》の梢も蠢《うごき》、よろづ温和にして心もいさましげなるこそ、しばらく此所《このところ》をも去て世の有樣をも窺ひ獪身の修行にもせんと思ひ、さしも捨がたき窟《いはや》の中を立出《たちいで》、志《こゝろざ》して行國《ゆくくに》もなく心にまかせ歩行《あゆみゆく》に時は花咲比《はなさくころ》、樽に青氈《せいせん》かつがせさ瓦へに席を付《つけ》て、男女《なんによ》老少あらそひこぞり、櫻が下に座の設して遊ぶに、此景たゞに見てのみやあらん、花のおもはん事もはつかしなンど、詩にごゝろざしをのべ、歌に思ひを吐《はき》、楊弓に興じ、圍碁にあらそふ、思ひーの成業歌舞《せいげふかぶ》音曲《おんぎよく》も耳に滿て、其樣言葉にのぶべくもあらず、又ある松の木隱《こがくれ》に、その體《てい》うるはしき男の色ある女に、湯單包《ゆたんつゝみ》をもたせ、棲浪のきよげなる岩間つたへに青苔の席をたつねて來りしが、とある所に座して、竹筒より酒を出《いだ》し、醉をすゝめて花見るさま也、時へて後|彼女《かのをんな》にもたせし包物を明て、ちいさき舂《うす》、ほそやか成《なる》杵を取出して二人の手してしらげゝるが、また水を汲《くみ》、火をきりなンどして、あたりの散葉《ちりば》拾ふて、炊揚《たきあげ》つゝ、たはふれ笑ひ、たのしげに食ふ、(西鶴著艶隱者卷之三「都のつれ夫婦」) 斯くの如き文章は、何とも云へない色氣に富んでをりますが、又此のくらゐ癖のある文章も少い。これを秋成のものに比べてみますと、言葉の略しかた、文字の使ひざま、その他すべての點に亙つて、一層文法の桁を外れてゐる。實に西鶴の文章は、僅か五六行を讀んでも容易に西鶴の筆であることが鑑定出來るくらゐ、特色が濃いのでありますが、正直のところ、西鶴であるから此れを名文と云ひ得るのであつて、一歩を誤れば非常な惡文となりかねない。而もその一歩の差と云ふものが到底口では説明出來ないのでありまして、矢張皆さんが、めい/\自分で感得するより仕方がない。又、次に掲げるのは森鴎外の「即興詩人」の一節でありまして、西鶴とは全然別種の、素直な、癖のない書き方でありますが、斯くの如きものも正しく名文の一つであります。 忽ちフラスカアチの農家の婦人の裝したる媼《おうな》ありて、我前に立ち現れぬ。その背はあやしき迄|直《すぐ》なり。その顏の色の目立ちて黒く見ゆるは、頭より肩に垂れたる、長き白紗《はくさ》のためにや。膚《はだへ》の皺は繁くして、縮めたる網の如し。黒き瞳は眶《まぶち》を填《う》めむ程なり。この媼は初め微笑《ほゝゑ》みつ瓦我を見しが、俄に色を正して、我面を打ちまもりたるさま、傍《かたはら》なる木に寄せ掛けたる木乃伊《みいら》にはあらずやと、疑はる。暫しありていふやう。花はそちが手にありて美しくそなるべき。彼の目には福《さいはひ》の星ありといふ。我は編みかけたる環飾《わかざり》を、我が唇におし當てたるまゝ、驚きて彼の方を見居たり。媼またいはく、その月桂《ラウレオ》の葉は、美しけれど毒あり。飾に編むは好し。唇にな當てそといふ。此時アンジエリカ籬《まがき》の後より出でゝいふやう。賢き老媼《おうな》、フラスカアチのフルヰヤ。そなたも明日《あす》の祭の料にとて、環飾編まむとするか。さらずば日のカムパニヤのあなたに入りてより、常ならぬ花束を作らむとするかといふ。嬬はかく問はれても、顧みもせで我面のみ打ち目守《まも》り、詞を續ぎていふやう。賢き目《まみ》なり。日の金牛宮を過ぐるとき誕《うま》れぬ。名も財《たから》も牛の角にかゝりたりといふ。此時母上も歩み寄りてのたまふやう。吾子が受領すべきは、緇《くろ》き衣と大なる帽となり、かくて後は、護摩焚きて紳に仕ふべきか、棘《いばら》の道を走るべきか。それはかれが運命に任せてむ、とのたまふ。媼は聞きて、我を僧とすべしといふ意《こゝろ》ぞ、とは心得たりと覺えられき。 西鶴の文を朦朧派とすれば、此れは平明派であります。隅から隅まで、はつきり行き屆いてゐて、一點曖昧なところがなく、文字の使ひ方も正確なら、文法にも誤りがない。が、かう云ふ文章を下手な者が模倣すれば、平凡で、味もそつけもないものになる。癖のある文章は却つてその癖が取り易く、巧味も眼につき易いのでありますが、平明なものは一見奇とすべき所がないので、眞似がしにくゝ、何處に味があるのかも、初心の者には分りにくい。徳川時代では貝原益軒の「養生訓」とか新井白石の「折たく柴の記」とか云ふものが、此の平明派に屬するのでありまして、教科書などに拔萃してありますけれども、あゝ云ふ文章は、一つはその人の頭腦や、學識や、精神の光でありますから、そこまで味到しない者にはその風格が理解出來ないのであります。 要するに、文章の味と云ふものは、藝の味、食物の味などゝ同じでありまして、それを鑑賞するのには、學問や理論は餘り助けになりません。たとへば舞臺に於ける俳優の演技を見て、巧いか拙いかが分る人は、學者と限つたことはありません。それには矢張演藝に對する感覺の鋭いことが必要で、百の美學や演劇術を研究するよりも、カンが第一であります。又もし、鯛のうまみを味はふのには、鯛と云ふ魚を科學的に分析しなければならぬと申しましたら、きつと皆さんはお笑ひになるでありませう。事實、味覺のやうなものになると、賢愚、老幼、學者、無學者に拘らないのでありますが、文章とても、それを味ふには感覺に依るところが多大であります。然るに感覺と云ふものは、生れつき鋭い人と鈍い人とがある。味覺、聽覺などは取り分けさうでありまして、音樂の天才などゝ云はれる人は、誰に教はらないでも、或る一つの音を聽いてその音色を味ひ、音程を聽き分ける、又舌の發達した人は、全く原型を失ふまでに加工した料理を食べても、何と何を材料に使つてあるかを云ひ當てる。その他、匂ひに對する感覺の鋭い人、色彩に對する感覺の鏡い人等があるやうに、文章も亦、生れつきその方の感覺の秀でた人がありまして、文法や修辭學を知らないでも、自然と妙味を會得してゐる。よく學校の生徒の中で、外の學課はあまり成績が芳しくなく、理解力等も一般より劣つてゐながら、和歌や俳句の講義をさせると先生も及ばぬ洞察力を閃めかし、又文字を教へたり文章を暗誦させたりすると、異常な記憶力を示す少年がをりますが、かう云ふのがつまりそれで、文章に對する感覺だけが先天的に備はつてゐるのであります。しかしながら、これは生れつきの能力であるから、後天的には如何ともし難いものかと云ふのに、決してさうではありません。稀には感覺的素質が甚だしく缺けてゐて、いくら修練を重ねても一向發達しない人もありますけれども、多くは心がけと修養次第で、生れつき鈍い感覺をも鋭く研くことが出來る。而も研けば研く程、發達するのが常であります。 そこで、感覺を研くのにはどうすればよいかと云ふと、 出來るだけ多くのものを、繰リ返して讀むこと が第一であります。次に 實際に自分で作つてみること が第二であります。 右の第一の條件は、敢て文章に限つたことではありません。總べて感覺と云ふものは、何度も繰リ返して感じるうちに鋭敏になるのであります。たとへば三味線を彈くのには、三つの糸の調子を整へる、一の糸の音と、二の糸の音と、三の糸の音とが調和するやうに糸を張ることが必要でありまして、生來聽覺の鋭い人は、教はらずとも出來るのでありますが、大抵の初心者には、それが出來ない。つまり調子が合つてゐるかゐないかゞ聽き分けられない。そこで習ひ始めの時分は、師匠に調子を合はせて貰つて弾くのでありますが、だんだん三味線の音を聞き馴れるうちに、音の高低とか調和とか云ふことが分つて來て、一年ぐらゐ立つと、自分で調子を合はすことが出來るやうになる。と云ふのは、毎日々々同じ糸の音色を繰り返して聞くために、音に對する感覺が知らず識らず鋭敏になる──耳が肥えて來る──のであります。ですから師匠も、さう云ふ風にして弟子が自然と會得する時期が來るまでは、默つて調子を合はせてやるだけで、理論めいたことは云ひません。云つても何の役にも立たず、却つて邪魔になることを知つてゐるからです。昔からよく、舞や三味線の稽古をするには大人になつてからでは遲い、十歳未滿、四つか五つ頃からがよいと云はれるのは、全く此のためでありまして、大人は小兒ほど無心になれないものですから、兎角何事にも理窟を云ふ、地道に練習しようとしないで、理論で早く覺えようとする、それが上達の妨げになるのであります。 斯樣に申しましたならば、文章に對する感覺を研くのには、昔の寺子屋式の教授法が最も適してゐる所以が、お分りになつたでありませう。講釋をせずに、繰り返し繰り返し音讀せしめる、或は暗誦せしめると云ふ方法は、まことに氣の長い、のろくさいやり方のやうでありますが、實は此れが何より有効なのであります。が、さう云つても今日の時勢にそれをそのまゝ實行することは困難でありませうから、せめて皆さんはその趣意を以て、古來の名文と云はれるものを、出來るだけ多く、さうして繰り返し讀むことです。多く讀むことも必要でありますが、無闇に慾張つて亂讀をせず、一つものを繰り返し/\、暗誦することが出來るくらゐに讀む。偶〻意味の分らない個所があつても、あまりそれにごだはらないで、漠然と分つた程度にして置いて讀む。さうするうちには次第に感覺が研かれて來て、名文の味ひが會得されるやうになり、それと同時に、意味の不明であつた個所も、夜がほの/゛\と明けるやうに釋然として來る。即ち感覺に導かれて、文章道の奧義に悟入するのであります。 しかし、感覺を鋭敏にするのには、他人の作つた文章を讀む傍、時々自分でも作つてみるに越したことはありません。尤も、文筆を以て世に立たうとする者は、是非共多く讀むと共に多く作ることを練習しなければなりませんが、私の云ふのはさうでなく、鑑賞者の側に立つ人と雖も、鑑賞眼を一層確かにするためには、矢張自分で實際に作つてみる必要がある、と申すのであります。たとへば、前に擧げた三味線の例で申しますと、自分であの樂器を手に取つたことのない人には、中々三味線の上手下手は分りにくい。何度も繰り返して聞くやうにすれば分って來ることは來ますけれども、そこまで耳が肥えるのには餘程の年數がかゝるのでありまして、進歩の度が遲い。然るにたとひ一年でも半年でも、自分で三味線を習つてみると、音に對する感覺がめき/\と發達して來て、鑑賞力が一度に進歩するのであります。舞踊などでも恐らくはさうでありまして、全然舞を知らない人が舞の上手下手を見分ける迄になりますのは、容易なことではありませんけれども、自分で習ふと、他人の巧い拙いが見えるやうになる。又料理などでも、自分で原料を買ひ出しに行き、親しく庖丁を取り煮焚《にたき》をした方が、唯食べてばかりゐるよりも、遙かに味覺の發達を促進するに違ひない。それから、これは私が安田靫彦畫伯から聞いた話でありますが、或る時畫伯が云はれるのには、世の中には美術批評家と云ふものがあつて、毎年展覽會の季節になると、出品書について彼れ此れと批評を下し、新聞や雜誌等へ意見を發表する、しかし畫伯が長年の經驗に依れば、それらの批評は畫家の限から見ると孰れも肯綮に當つてゐない、褒めてあるものも貶《けな》してあるものも、皆的を外れてゐるので、畫家を心から敬服せしめ、或は啓發するに足りない、それに反して同じ畫家仲間の批評は、流石に斯の道に苦勞してゐる人々の言であるから、しろうとには見得ない弱所を突き、長所を舉げてあるので、傾聴に値ひするものが多いと云ふのでありました。劇評家についても此れと同じことが云へるのでありまして、藝のほんたうのよしあしは、舞臺の數を踏んでゐる俳優こそ、誰よりもよく知つてゐるでありませう、私は、自分の劇を上演する時に一流の歌舞伎俳優と屡〻語り合つたことがありますが、彼等の多くは高等教育を受けてゐない人々で、近代美學の理論などは教はつたこともないのですけれども、批評家の云ふ理窟ぐらゐはいつの間にか體得してをり、脚本に對する理解の行き屆いてゐるのには、毎々感服いたしました。彼等の頭は組織的な學問を覺え込むのには適してゐないのでありますが、感覺の修練を積んでをりますが故に、劇と云ふものゝ神髓を嗅ぎつけることが出來るのであります。が、學校を出たばかりの人々、若い劇評家などは、此の點の修行が足りませんから、藝のよしあしが分らず、從つて芝居が分らないのであります。何となれば、演劇を理解するのには、舞豪に於ける俳優の一擧手一投足、セリフ廻し等の巧拙を理解することから始まるのでありまして、さう云ふ感覺的要素を離れて、演劇は存在しないからであります。さればまだしも、都會に育つた婦女子や市井の通人たちの方が、幼少の頃から何囘となく芝居を見、名優の技藝に接して、感覺を研いてをりますので、往々くろうとを頷かせるやうな穿った批評を下すことがあるのであります。 ですが、皆さんのうちには或は疑問を抱かれる方がありませう。と申しますのは、總べて感覺は主觀的なものでありますが故に、甲の感じ方と乙の感じ方と全然一致することはめつたにあり得ない。好き嫌ひは誰にでもあるのでありまして、甲は淡白な味を貴び、乙は濃厚な味を賞でる。甲と乙とが孰れ劣らぬ味覺を持つてをりましても、甲が珍味と感ずるものを乙が左程に感じなかつたり、又はまづいと感じたりする場合がある。桜りに甲と乙とが同樣に「うまい」と感じたとしましても、甲の主觀が感じてゐる「うまさ」と、乙の主觀が感じてゐる「うまさ」と、果して同一のものなりや否やは、これを證明する手段がない。されば、もし文章を鑑賞するのに感覺を以てする時は、結局名文も惡文も、個人の主欟を離れては存在しなくなるではないか、と、さう云ふ不審が生じるのであります。 いかにも此れは一應尤もな説でありますが、左樣な疑ひを抱く人に對しては、私は下のやうな事實を舉げてお答へしたいのであります。それは何かと申しますのに、私の友人に大藏省に勤めてゐる役人がありますが、その人から聞いた話に、毎年大藏省では日本の各地で釀造される酒を集めて品評を下し、味ひの優劣に從つて等級をつける、その採點の方法は、專門の鑑定家たちが大勢集まつて一つ/\風味を試してみた上で投票するのださうでありますが、何十種、何百種とある酒のことでありますから、隨分意見が別れさうでありますのに、事實はさうでないと申します。各鑑定家の味覺と嗅覺とは、それらの澤山な酒の中から最も品質の醇良な一等酒を選び出すのに、多くはぴつたり一致する、投票の結果を披露してみると、甲の鑑定家が最高點を與へた酒に、乙も丙も最高點を與へてゐる、決してしろうと同士のやうに、まち/\にはならないさうであります、此の事實は何を意味するかと云ふのに、感覺の研かれてゐない人々の間でこそ「うまい」「まづい」は一致しないやうでありますが、洗練された感覺を持つ人々の間では、さう感じ方が違ふものではない、即ち感覺と云ふものは、一定の錬磨を經た後には、各人が同一の對象に對して同樣に感じるやうに作られてゐる、と云ふことであります。さうして又、それ故にこそ感覺を研くことが必要になつて來るのであります。 唯しかしながら、文章は酒や料理のやうに内容の單純なものではありませんから、人に依つて多少好む所を異にし、一方に偏《かたよ》ると云ふやうな事實が、專門家の間に於いても全くないことはありません。たとへば森鴎外は、あのやうな大文豪で、而も學者でありましたけれども、どう云ふものか源氏物語の文章にはあまり感服してゐませんでした。その證據には、嘗て與謝野氏夫婦の口譯源氏物語に序文を書いて、「私は源氏の文章を讀む毎に、常に幾分の困難を覺える。少くともあの文章は、私の頭にはすら/\と這入りにくい。あれが果して名文であらうか」と云ふ意味を、婉曲に述べてゐるのであります。ところで、源氏のやうな國文學の聖典とも目すべき書物に對して、斯くの如き冐瀆の言を爲す者は鴎外一人であるかと云ふのに、中々さうではありません。一體、源氏と云ふ書は、古來取り分けて毀譽褒貶が喧しいのでありまして、これと並稱されてゐる枕草紙は、大體に於いて批評が一定し、惡口を云ふ者はありませんけれども、源氏の方は、内容も文章も共に見るに足らないとか、支離滅裂であるとか、睡氣を催す書だとか云つて、露骨な惡評を下す者が昔から今に絶えないのであります。さうして、それらの人々に限つて、和文趣味よりは漢文趣味を好み、流麗な文體よりは簡潔な文體を愛する傾きがあるのであります。 蓋し、我が國の古典文學のうちでは、源氏が最も代表的なものでありますが故に、國語の長所を剩すところなく發揚してゐると同時に、その短所をも數多く備へてをりますので、男性的な、テキパキした、韻《ひゞき》のよい漢文の口調を愛する人には、あの文章が何となく齒切れの惡い、だら/\したものゝやうに思はれ、何事もはつきりとは云はずに、ぼんやりぼかしてあるやうな表現法が、物足らなく感ぜられるのでありませう。そこで、私は下のやうなことが云へるかと思ひます。同じ酒好きの仲間でも、甘ロを好む者と、辛ロを好む者とがある、左樣に文章道に於いても、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別される、即ちそこが源氏物語の評價の別れる所であると。此の區別は今日の口語體の文學にも存在するのでありまして、言文一致の文章と雖も、仔細に吟味してみると、和文のやさしさを傳へてゐるものと、漢文のカッチリした味を傳へてゐるものとがある。その顯著な例を舉げますならば、泉鏡花、上田敏、鈴木三重吉、里見弴、久保田万太郎、宇野浩二等の諸家は前者に屬し、夏目漱石、志賀直哉、菊池寛、直木三十五等の諸家は後者に屬します。尤も、和文のうちにも大鏡や、神皇正統記や、折焚く柴の記のやうな簡潔雄健な系統がありますので、これを朦朧派と明晰派と云ふ風に申してもよいし、だら/\派とテキパキ派とも申せませうし、或は又、流麗派と質實派、女性派と男性派、情緒派と理性派、などゝ、いろいろに呼べるのでありまして、一番手ツ取リ早く申せば、源氏物語派と、非源氏物語派になるのであります。で、これは感覺の相違と云ふよりは、何かもう少し體質的な原因が潜んでゐさうに思はれますが、兎に角、文藝の道に精進してゐる人々でも、調べてみると、大概幾分かは孰方かに偏つてをります。斯く申す私なども、酒は辛口を好みますが、文章は甘口、先づ源氏物語派の方でありまして、若い時分には漢文風な書き方にも興味を感じましたものゝ、だん/\年を取つて自分の本質をはつきり自覺するに從ひ、次第に偏り方が極端になつて行くのを、如何とも爲し難いのであります。 斯樣に申しましても、感受性は出來るだけ廣く、深く、公平であるに越したことはありませんから、強ひて偏ることは戒めなければなりませんが、しかし皆さんも、多く讀み、多く作つて行くうちに、自然自分の傾向に氣付かれる折があるかも知れません。さうして、さう云ふ場合には、成るべく自分の性に合つた文體を選び、その方面で上達を期するやうにされるのが得策であります。