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安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行、みずほ銀行)に改組する。 安田銀行は、諸官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり、無利子で官金を引き受け運用し業務を拡大した。 財閥としての飛躍 明治20年に安田保善社(現安田不動産)を設立して財閥の要とし、銀行業以外への拡張を開始、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫にまで手を広げた。 明治26年に帝国海上保険を設立し、損保業務の充実をはかり、翌27年に共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石を期した。同年には海運会社安田運搬事務所を設立している。 明治29年には不動産業務の東京建物を設立し、翌30年に国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立した。 明治32年には拡大した事業を統括するために安田商事を設立し統率をとり、同年紡績業務として西成紡績所を設置した。 明治37年、関西の松本財閥破綻処理を政府に要請されるも、不採算と判断し拒絶するが、「天皇の意向」と政府に言い含められ、強引に引き受けさせられる。 松本財閥の基幹銀行である百三十銀行の建て直しに際しては、日銀の特別貸付を受けたため国民の非難を受けたが、安田財閥の利益は殆ど無かった実情がある。 硫黄鉱山の硫黄採掘は集治監の囚人が酷使され多くの犠牲者を出した。 安田財閥の発展を見るとき、安田善次郎の同郷の人である浅野総一郎(浅野財閥創始者)を無くして語ることはできない。無一文から立ち上がった浅野総一郎に対する善次郎の助力は並外れており、浅野財閥自体が安田財閥の事業部門であるかの如く、鶴見埋立匿名組合(後の東亜建設工業)による京浜地区浚渫埋立事業や、浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)や日本鋼管(現JFEスチール)への出資など、数々の事業に対する投資を惜しまなかった。安田善次郎は卓越した金銭感覚と、成功しない事業と断定した者に対する厳しさから「天下一のしまり屋」として知られており、浅野に対する投資は他の一般投資とは一線を画していた。 善次郎からの脱却 明治42年、安田善次郎が一線を退き、番頭であり次女の婿である安田善三郎(伊臣貞一)が経営を主導する。 そして明治44年に安田銀行と安田商事を合併、株式会社安田銀行とし、銀行の近代化を図る。 しかし、大正8年に善次郎と善三郎の経営に対する確執(日本鋼管に対する支配強化を主張する善三郎と、浅野総一郎を尊重する善次郎)から、安田善三郎が安田家を去る。事態の収拾をはかるため善次郎が安田家内で理事職を分担し、集団指導態勢を敷く。 大正10年に安田善次郎が凶刃に倒れ、安田家の混乱が起こるが、長男の安田善之助が二代目善次郎を襲名し、番頭に日銀大阪支店の結城豊太郎を抜擢。結城豊太郎は安田財閥の組織変革と人材の刷新を断行し安田銀行とその傘下15行を揺るぎない組織に仕立てたが、昭和4年にまたもや安田家との確執から結城豊太郎が解任され、台湾銀行頭取の森広蔵を番頭に抜擢する。 一族支配から企業集団へ 戦後の昭和21年、GHQによる「財閥解体」により安田保善社が財閥本社に認定され解散。安田家に対しては財閥家族として認定し、資産凍結とともに持ち株の放出を命じ、更に関連会社役員への就職制限までも行われた。 しかし、日本の主権回復後、安田家は安田関連会社への就職制限を解かれ、安田銀行の後身である富士銀行を中核とする芙蓉グループを形成した。安田財閥は企業集団としての復活はみたが、同族経営による支配体制ではなくなった。 旧財閥系列の系譜をくむ主要企業 旧安田財閥系列 みずほフィナンシャルグループ(旧富士銀行) みずほ銀行 みずほコーポレート銀行 みずほ信託銀行(旧安田信託銀行) 東京建物 安田不動産 明治安田生命保険(旧安田生命) 昭栄 損害保険ジャパン(旧安田火災) 東京海上ホールディングス 東京海上日動火災保険(旧日動火災) 沖電気工業 帝国繊維 日本精工(安田製釘所から独立、この為) 安田工業 安田倉庫 千葉興業銀行 四国銀行 大垣共立銀行 旧浅野財閥系列 太平洋セメント(旧日本セメント) エーアンドエーマテリアル 東亜建設工業 JFEホールディングス(旧日本鋼管) エクサ JFEスチール 大陽日酸(旧日本酸素) その他、戦時中に旧安田銀行の軍需指定を受けた主要融資先 日産系列 ニチレイ(旧日本冷蔵) 日本油脂(安田財閥色強し) 日産自動車 かつて安田系だった企業 小湊鐵道(小湊鉄道) 元安田財閥系、戦後京成電鉄傘下に入るも諸事情により資本独立、同じ安田系の九十九里鉄道と株式持合いへ。 昭和海運 日本油槽船(旧安田・旧富士銀系)と日産汽船(旧日産・旧興銀系、旧富士銀とも親密)とが対等合併して誕生。平成のバブル崩壊により経営悪化、準主力行である旧興銀の介入により日本郵船へ吸収合併。 日之出汽船 現在の日之出郵船。元浅野財閥系で戦後は旧安田系へ傾斜。上記会社と同様バブル崩壊により昭和海運傘下へ。現在は日本郵船の完全子会社。 旧安田系国立銀行(ナンバー銀行) 第三国立銀行(東京) 第六国立銀行(福島) 第九国立銀行(熊本) 第二十二国立銀行(岡山) 第三十六国立銀行(八王子) 第四十四国立銀行(東京) 第五十八国立銀行(大阪) 第八十二国立銀行(鳥取) 第八十四国立銀行(石川) 第八十七国立銀行(大橋) 第百三国立銀行(山口) 第百十八国立銀行(東京) 第百三十六国立銀行(愛知) 関連項目 安田講堂 保善高等学校 安田学園中学校・高等学校 安善駅 芙蓉グループ みずほグループ みずほフィナンシャルグループ 富士銀行 ホテルニュー函館(旧安田銀行函館支店) 函館大手ハウス・カフェ「テュ・プランド・デュ・テ」(旧浅野セメント函館営業所) 俺の空 (漫画作品。作中には安田財閥という名が出てくるが、本稿とは無関係なフィクションである。) オノ・ヨーコ(元ザ・ビートルズのジョン・レノンの妻。安田善次郎の曾孫。) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月1日 (土) 14 08。
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財閥(ざいばつ)とは、財閥解体以前の非常に大きい独占的な資本家または企業の事であるが、一般的には、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸会社(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占めると定義される。また別名ではコンツェルンとも呼ばれる。 なお、近代以前には財閥という言葉は、多数の豪商を生み出した地域に付けられる事もあった。例:甲州財閥、阪神財閥 日本の財閥 日本では第二次世界大戦前に三井・三菱・住友・安田などの財閥があったが、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により分散させられた(財閥解体)。海外ではZaibatsuとも呼ばれる。 四大財閥 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 上記の3つを特に三大財閥と呼ぶ。 安田財閥(金融財閥) 江戸時代成立の財閥 鴻池財閥(江戸時代日本最大の財閥) 住友財閥 四大財閥以外の明治成立の財閥 渋沢財閥 浅野財閥 大倉財閥 古河財閥 川崎財閥(川崎八右衛門系)(関東) 藤田財閥 大正財閥 野村財閥 久原財閥 鈴木財閥 根津財閥 川崎財閥(川崎正蔵系)(関西) 昭和期の新興コンツェルン 上記の財閥と異なり、創業者には技術者出身が多い。このため、重工業中心で「芋づる」方式と呼ばれる、企業間において関連性の強い生産関係を持つ。既存の財閥では貧弱な化学産業を中心に発展していった。海外での市場を狙い、日産コンツェルンは満州で、日窒コンツェルンは朝鮮で鉱山などの事業を展開し、現地社会にも強い影響を残した。また、理研コンツェルンは理化学研究所の活動資金調達のために成立したユニークなコンツェルンであり、同属支配が行なわれず、「農村工業化」などを打ち出して新潟県柏崎市などで地方の工業化につとめた。 逆に、既成財閥に較べて金融部門が弱いため、第二次世界大戦中には経済統制と既成財閥系の銀行団によって侵食されて、財閥解体前に実態を失ったコンツェルンも多かった。 なお、経営政策の面では、理研コンツェルンを除いて既存の財閥同様に同族運営がなされており、その点で「新興財閥」という言い方もある。 理研コンツェルン 日産コンツェルン 森コンツェルン 日窒コンツェルン 日曹コンツェルン その他の財閥 新興コンツェルン以外で、昭和初期~第二次世界大戦中に発展した中堅財閥。これらは原安三郎が率い朝鮮で事業を展開した中外コンツェルンや沖縄・大東諸島においてプランテーション・鉱山事業をおこなった大日本製糖を中心とした藤山コンツェルン、マレーシア・シンガポールを拠点として鉱山・海運・化学事業を手がけた石原産業など、おもに朝鮮や南方における諸事業を展開して成長した。ただし、既成財閥に較べて有力な金融機関や持株会社を持たず、新興コンツェルンに較べて技術力や事業の連関性が劣っていたため、いずれも中小規模に留まった。 中島飛行機は第二次世界大戦中に急速に発達した財閥で、軍用機の生産から鉱山・貿易・水産などの非飛行機部門にも進出した。なお、南満州鉄道も多角化を推進した事から財閥の一つとする場合もある。 中島飛行機(財閥解体後、主要5社が合同し、富士産業・現富士重工業を設立) 石原産業 藤山コンツェルン(大日本製糖) 中外コンツェルン(旧朝鮮紡織、日本化薬、中外鉱業等) 横河グループ - 財閥としての色彩は薄かった。 中央財閥と地方財閥 一般的には、東京、横浜、大阪、神戸の四都市に本社をおく財閥を中央財閥、その他を地方財閥と定義されるが、西宮に本社を持つ辰馬財閥のようにその規模や活動範囲からみても中央財閥としての風格を持つものもあるため、全国的規模の企業活動を行っていた財閥を中央財閥、各地域に限定された企業活動を行っていた財閥を地方財閥と分類することができる。また大阪・神戸周辺には中堅・零細の財閥が集中していた事から阪神財閥と総称する。明治以前から主力事業が存続し、片倉財閥の様に製糸業に注力するなど、一つの事業に集中して投資し、芋づる式に発展する場合が多い。規模は様々であり、零細な事例では企業を保有せず、株式投資事業や不動産賃貸事業のみで存続する場合(呉錦堂財閥、小曽根財閥など)もあり、いわゆる投資家や地主との線引きは曖昧である。また、江戸時代に有力な商人であったが、明治期以降は具体的な財閥を形成していなかった鴻池家もこの地方財閥に入れる事がある。 財閥解体には繋がらなかった場合も多く、存続企業としては松坂屋、旧東海銀行(→UFJ銀行→現三菱東京UFJ銀行)(ともに伊藤財閥)、キッコーマン(茂木財閥)などがある。 阪神財閥 石原財閥(大阪府、鉱業) 弘世財閥(大阪府、鉄道、金融、保険業)(弘世助三郎) 安宅財閥(大阪府、商事)(安宅弥吉) 広海財閥(大阪府、貿易、海運業) 岸本財閥(大阪府、貿易、海運業) 久原財閥(大阪府、鉱業) 伊藤忠財閥(大阪府、金融業、保険、紡績、貿易) 岩井財閥(大阪府、貿易)(岩井勝次郎) 武田財閥(大阪府、製薬)(武田長兵衛) 山口財閥(大阪府、金融業) 藤田財閥(大阪府、鉱業) 寺田財閥(大阪府、紡績、電力、鉄道) 村井財閥(大阪府、金融、鉱業、煙草、他)(村井吉兵衛) 大原財閥(大阪府、金融、紡績、電力)(大原孫三郎) 広岡財閥(大阪府、金融) 兼松財閥(兵庫県、商事) 北川財閥(兵庫県、商事) 鈴木財閥(兵庫県、商事) 乾財閥(兵庫県、金融、醸造業、海運業)(乾新兵衛) 小曽根財閥(兵庫県、多角的投資) 呉錦堂財閥(兵庫県、多角的投資) 山邑財閥(兵庫県、醸造業) 嘉納財閥(兵庫県、廻船業、醸造業) 川西財閥(兵庫県、鉄道、金融、紡績、航空機)(川西清兵衛) 範多財閥(兵庫県、造船、鉱業、煉瓦、肥料、煙草、精米、損害保険) 辰馬財閥(兵庫県、醸造業、海運業、保険業) 牛尾財閥(兵庫県、電気、瓦斯、金融業) 伊藤財閥(兵庫県、多角的投資)(伊藤長次郎家) 内田財閥(兵庫県、海運業)(内田信也) 山下財閥(兵庫県、海運業、保険業、造船業)(山下亀三郎) 勝田財閥(兵庫県、海運業)(勝田銀次郎) 八馬財閥(兵庫県、金融業/醸造業/海運業) 岡崎財閥(兵庫県、金融業/保険業/海運業) その他の地方財閥 大川財閥(大川平三郎)… 製紙業 津島財閥(青森県、銀行業) 茂木財閥(千葉県、醸造業) 片倉財閥(長野県、製糸業) 鈴与財閥(静岡県、海運業) 伊藤財閥(愛知県、百貨店経営/銀行業)(伊藤次郎左衞門家) 森村財閥(愛知県、窯業/商事) 麻生財閥(福岡県、セメント製造他)(筑豊御三家) 安川財閥(福岡県、鉱業/重電機製造)(筑豊御三家) 貝島財閥(福岡県、鉱業)(筑豊御三家) 豊田財閥(愛知県、輸送機器製造) 服部財閥(東京都・長野県、精密機器製造) が挙げられる。 十五大財閥 四大財閥に、GHQによる財閥解体指令を受けた11財閥を加えたものを、特に十五大財閥と呼ぶ。その多くは解散し、6大銀行グループに取り込まれていった。 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 鮎川財閥 浅野財閥 古河財閥 安田財閥 大倉財閥 中島財閥 野村財閥 GHQは以上を10大財閥と指定した。 渋沢財閥 川崎財閥(川崎正蔵系) 理研コンツェルン 日窒コンツェルン 日曹コンツェルン GHQは以上を15大財閥と指定した。 日本国外の財閥 現代グループ(韓) 三星グループ(韓) LGグループ(韓) ロスチャイルド(英) シティバンク(アメリカ合衆国) JPモルガン・チェース(米) ゼネラル・エレクトリック(米)…多種多様な事業を行う複合企業 ロックフェラー(米) デュポン(米) クーン・ローブ(米)…現在はリーマンブラザーズ ビルラ(印) タタ(印) サバンジュ(土) ゾルル(土) CPグループ(タイ王国) 長江実業グループ(中華人民共和国・香港) 光大銀行集団(中華人民共和国) オリガルヒ(ロシア) 関連項目 日本の企業グループ一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月16日 (日) 04 18。
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軍閥系 日本の軍隊、憲兵組織などである。傭兵は旧暴力団に当たる。 大日本帝国軍 自衛隊・自衛軍 警察庁 海上保安庁 検察庁 傭兵 財閥系 日本には現状、財閥が解体されてもなお、今でも拡散企業として根強く残る。なお、所属企業は財閥によって異なる。()は創業者。 三菱財閥グループ(岩崎 弥太郎) 住友財閥(住友政友) 桜田財閥(櫻田 武) 三井財閥(三井高利) 浅野財閥(浅野 総一郎) 鴻池財閥(鴻池 新六) 佐川財閥(佐川 清) 安田財閥(安田 善次郎) 古河財閥(古河 市兵衛) 市川財閥(市川 浩一) 松下財閥(松下 幸之助) 大倉財閥(大倉 喜八郎) 鈴木財閥(鈴木 岩治郎) 中島財閥(中島 知久平) 鮎川財閥(鮎川 義介) 金子財閥(金子 晴友) 大田財閥(大田 幸雄) 野村財閥(野村 徳七) 上野財閥(上野 弘行) 柴崎財閥(柴崎 幸三郎) 徳永財閥(徳永 吉兵衛) 國締財閥(梶谷 楠正) 渋沢財閥(渋沢 栄一) 日本の政党 日本の政党は昭和から変わらず帝国主義の保守派と革新派の2つだけである。 昭和 立憲政友会 東方会 立憲帝政党 東洋自由党 帝国党 革新党 大政翼賛会 浦和戦友会 平成 立憲帝国党 政戦傑勇党 覇煌英民党 黒羽一成会 皇成日本党 凱日聖鳳党 令和 立憲帝国皇道党 皇政臣民宣道党 暁月鳳日真光党 国民斬傑勇新党 幕府 鎌倉幕府 室町幕府 徳川幕府 広島幕府
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1978年 監督:吉田喜重 あらすじ 大正十年の夏も終りに近いある日、小さな風呂敷包みを持った女が、北一輝のもとを訪れた。 朝日平吾の姉と名乗る女は、風呂敷包みに入っている血染めの衣を一輝に渡した。それは、安田財閥の当主・善次郎を刺殺し、その場で自殺した平吾の着ていたものであった。平吾の遺書を読む西田税、その遺書には明きらかに、北一輝の「日本改造法案」の影響が読みとれた。 一輝はその衣を、銀行へ持って行き、現われた頭取に、平吾がこの衣を自分のもとに届けた心情を語った。そんな一輝に頭取は金の入った包みを差し出した。 昭和初期、陛下のため殉国捨身の奉公を願う一人の兵士がいた。「改造法案」はその兵士にとって、正にバイブルだった。彼は“ある行動"の参加を許されたが、彼に連絡がないまま、計画は失敗に終った。兵士は連絡の来なかった理由を一輝に質問した。 個人テロ的革命に否定的だった一輝は、西田に命じ、この計画から陸軍側の将校を引き上げさせたのだった。「決行は5月15日だ」一輝は兵士に言った。この兵士に下された命令は、五月十五日、変電所を爆破することであった。だが、変電所に入ってはみたものの、命令を実行できなかった兵士は、妻と共に一輝の家を訪れた。失敗を詫びる兵士を前にして、一輝は自分の思想が、次第に大きく広がっていくのに恐怖に近いものを感じていた。 その時、西田が撃たれた。一輝の思想の理解できぬ青年たちにとって、西田は裏切り者の一輝の身代わりであった。 時代はさらに逼迫していく。満州事変以後、アジアに新しい秩序は確立されず、政党政治の腐敗堕落、巷間には失業者があふれ、暗い世相が充ち満ちていた……。さまざまな政治的矛盾を一挙に解決すべく、青年将校たちは「改造法案」に、最も忠実な、天皇の軍隊を使った日本における、最初にして最後のクーデターを計画した。 雪が音もなく降りしきる、昭和十一年二月二十六日の早朝、近衛歩兵連隊約千四百名の決起によって維新は開始された。雪の首都に分散した軍隊は次ぎ次ぎと政府要人を襲撃。ついに戒厳令が布かれた……。 やがて、クーデター未遂後、北一輝と西田税は、陰の指導者として処刑されたのである。
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東京大学 本郷キャンパス とうきょうだいがく ほんごうキャンパス 東京都文京区にある東京大学のキャンパス。 所在地 東京都文京区本郷七丁目 地図 より大きな地図で 東京の歴史的建造物 を表示 東京大学の主な三つのキャンパス(本郷、駒場、柏)の一つ。 東京大学の本部が置かれている。 道路を挟み、本郷キャンパス(狭義)、弥生キャンパス、浅野キャンパスに分かれている。 江戸時代には、大部分が加賀藩上屋敷だった場所。 東京大学医学部の前身である、東京医学校が、1876年に移転したことが始まり。 歴史的建造物が多く残っている。 正門 竣工:1912年 設計:伊東忠太 国登録有形文化財。 赤門 旧前田家上屋敷御守殿門 重要文化財 大講堂(安田講堂) 竣工:1925年(大正14年)7月 設計:内田祥三、岸田日出刀 施工:清水組 構造:鉄筋コンクリート造 階数:4階、塔屋付 建築面積:1818m2 国登録有形文化財 安田財閥の安田善次郎からの寄付により、1921年(大正10年)に起工し、1923年(大正12年)の関東大震災による工事中断を経て完成した。 総合図書館 竣工:1928年(昭和3年)12月1日 設計:内田祥三 1892年完成の煉瓦造図書館が、関東大震災で焼失したため、ロックフェラー財団の寄付によって建てられた。 広報センター 竣工:1926年 設計:岸田日出刀 東京都選定歴史的建造物 法文1号館 竣工:1935年 設計:内田祥三 国登録有形文化財 法文2号館 竣工:1938年 設計:内田祥三 国登録有形文化財 安田講堂を突き当たりとする通りを挟んで、1号館・2号館が左右対称になっている。 通りに直角にアーケードがあり、列柱に彫刻が刻まれている。 法学部3号館 竣工:1927年 設計:内田祥三、清水幸重 参考リンク 関連項目 文京区 この項目のタグ 2009年 2009年4月 2009年4月4日 2016年 2016年9月 2016年9月22日 国登録有形文化財 大正時代 学校建築 文京区 昭和初期 東京都 歴史 歴史的建造物 タグ「文京区」「歴史」がついた項目 吉祥寺(文京区) / 求道会館 / 京華女子中学・高等学校校舎 / 小石川後楽園 / 小石川植物園 / 講安寺 / 講談社旧本館 / 金刀比羅宮東京分社 / 駒込富士神社 / さかえビル / 進開屋 / 水神社 / 椿山荘 / 東京大学赤門 / 東京大学本郷キャンパス / 西片町教会 / 根津神社 / 鳩山会館 / 肥後細川庭園 / 聖橋 / 本郷中央教会 / 湯島聖堂 / 湯島天神 / 弓町本郷教会 / 六義園 / 隆慶橋 タグ「学校建築」がついた項目 安積歴史博物館 / 内子町児童館 / 開明学校 / 数馬分校記念館 / 北里記念医学図書館 / 旧大沢学舎 / 旧学習院初等科正堂 / 旧第四高等中学校本館 / 旧山形師範学校 / 旧開智学校 / 旧東京音楽学校奏楽堂 / 旧東京市立愛宕高等小学校 / 旧松本高等学校 / 旧睦沢学校校舎 / 九里学園高等学校 / 慶應義塾大学信濃町キャンパス / 京華女子中学・高等学校校舎 / 旧坂本小学校 / 札幌市時計台 / 泰明小学校 / 高輪台小学校 / 東京大学医科学研究所 / 東京大学千葉演習林天津事務所 / 東京大学本郷キャンパス / 東北学院大学土樋キャンパス / 東北大学片平キャンパス / 常盤小学校 / 白雲館 / 八幡小学校 / 明治学院大学白金キャンパス / 横瀬小学校 / 早稲田小学校 / 早稲田大学早稲田キャンパス
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川崎大師(川崎宿) まだ情報持ってるわけではないので暫定的に。 前からちゃんとやらないと、と思ってるのに進んでなくて…。 馬車鉄道から電気鉄道に転換することすら揉めていた東京市内を尻目にさくっと先に電気鉄道が通る。 名目が真面目に「川崎大師参拝のため」となってます。 今のいわゆる京急・大師線。 京都、名古屋、続いての電気鉄道なので、他の路線がなくなってしまいまして、現存最古の電化鉄道。 ただ、どうもこの直後、というかまとめて箱根登山鉄道の前身、江ノ電の前身にも許可が出たんだよねー、と東京市電関係の本でさらっと書いてあって、え、どういう文脈?? と首を傾げたものの、それぞれちょっとずつスタイルが違うので開業とか電化転換の時期そのものが近いわけでもなくて他でそういうまとめられ方見たことないんだよなぁ。 神奈川の電化鉄道って意味でまとめられてるのはちょっと近いんだろうか。 どの道、10年くらい揉めてた東京市内よりは早いんですけどね…あんたもあんたで揉めすぎだよ。 あれこれひょっとして、京急でまとめるべきかせめて…。 参拝鉄道というところに特別な意味があった可能性というのはあるみたいです。 が、なんか今となるとよくわからない。 ていうかよく考えたらそもそも川崎大師に行きたーいってことで川崎宿も作られてるので伝統なんだろうか。 神社仏閣は江戸の頃は庶民にとってのアミューズメントパークなんだって☆ 聖なる部分は多分遠くからでも文献でもわかると思うんですが、そうでもないみたいな娯楽部分は行ったほうがいいんだ。 関東での「初詣」の代表選手みたいなところがあったらしいです。 (最近たまに見ますが、近代までそもそも初詣なんていう習慣はなかったんだってね。) その理由みたいな部分はよくわからないながら、いくつかの好条件が重なったこともあって、明治神宮が作られるくらいまではほとんど独走みたいな状態に見えるなぁ。まあ初期の頃は恵方に因んで、とか言ってたらしいんですが、そのうち関西のほうで争いすぎてどこでもええやん!! みたいなことになったっぽ。 関東ではそこまで酷くないけどね。 ちなみに関西で思い切り仕切ってたのは阪神さんとこでした。成功しすぎて神社さん側だったかキレてたわ。 そういや安田財閥系ってことで一時縁があったんじゃなかったっけ、京浜さんとことは。 ああまあ、そうだよなぁ、それで「大師電気鉄道」までならともかく東海道線と平行する京浜電気鉄道とか作ることがおいおい許可されてったんだもんなぁ、少なくとも前提として人の流動がなきゃ私鉄側だって作りたいって発想になんないよね。 電車と川崎大師が上手いこと分離出来てないよ…あとで構造考え直します。
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三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。 岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された。 財閥の起源 三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。 土佐藩は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷で始めた九十九商会の監督を弥太郎に1870年(明治3年)に任じた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に明治10年の西南戦争のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。 商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨らに肩入れして対抗していた)。 だが、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がった。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が暗殺され(明治11年)、明治14年には大隈重信が失脚する。勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出た。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭とって三井、渋沢、大倉らの財界人を結集して設立した半官半民の共同運輸会社だった。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、明治16年4月から2年間も続き、運賃の値段が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。 こうしたさなか、幕末、維新の激動のなかを風雲児として駆け抜けた弥太郎が病死する。死後、三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(明治18年9月、資本金1,100万円、うち岩崎家出資金500万円)させて、この死闘に終止符をうった。 弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった。この後、三菱総帥の地位は、明治26年に三菱合資会社を設立した時点で、兄弥太郎の長男・久弥が継ぎ、さらに大正5年弥之助の長男・小弥太に引き継がれ終戦を迎えることになる。 このように三菱財閥は弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。 三菱商会 その後、三菱商会は本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名を重ね、主力事業である海運業においては外国勢力や中小の船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得た。しかし三菱の独占と専横を快く思わない渋沢栄一や井上馨らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、政府の出資も得、三井などの反三菱勢力も結集して1882年7月に共同運輸会社が設立、翌1883年営業を開始した。三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。 続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなったが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となった。さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、1885年に共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立された。三菱は中心事業である海運業を一時的に失ったが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなった。 1885年の弥太郎死去後、その弟・弥之助が後を継いだ。岩崎弥之助は三菱社と改名し1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。 炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。 1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。 1916(大正5)年に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。 1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。 スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名だが、これは土佐藩藩主山内家の家紋の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものであった。戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中では唯一創業者の姓を冠さないものとなったが、これは新政権の明治政府に奉公するという岩崎の気持ちを表したものだったといわれる。 財閥解体後の三菱 戦後、連合国の方針に基づく財閥解体政策によって三菱本社、三菱商事は解散。三菱重工業、三菱化成が三分割に追い込まれた。死の床にあった小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来なかった。当時の模様を三菱合資会社社長の久弥は「すっかり裸になった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残った。自分はこれまで長子以外は一族親戚の者も三菱本社に参加させなかったのに(11人もの指名を受けるとは)ヒドイものだ」(岩崎久弥伝)と憤懣やるかたない心情を吐露している。しかも下谷の茅町にあった本邸はアメリカ軍に接収され、ついで財産税のために手放したため、久弥は一時その一室を間借りしていた。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在価値に換算して推定120兆円と考えられている。 しかし、1954(昭和29)年に三菱商事が再合同、また、同年には三大財閥中2番目に三菱主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした三菱金曜会が始められ、10年後の1964(昭和39)年には三菱重工業も再合同するなど再びグループ化した。金曜会は、戦前の三菱本社を頂点とした三菱財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成である。ちなみ、住友グループは1949年(正式には、1951年4月)に白水会が設立され、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立している。 三菱グループは、特に戦後の日本の高度経済成長期に、高度成長を担った重化学工業分野に中核有力企業が多いという強みが大いに発揮し、戦後も引き続き、日本を代表する企業グループの一つとして、発展した。 現在(財閥解体後~現在) Template 独自研究? 21世紀現在の三菱グループ(金曜会)には三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行の「三菱グループ御三家」を筆頭に、多数の日本を代表する企業が連名している。その中には三菱自動車工業や明治安田生命保険のように社会問題を発生させた企業もあり、今後、ますますコンプライアンス遵守に向けての真摯な取り組みが求められている。 一部の企業における自衛隊への納入実績の大きさなどから、かつての国防国策会社としてのイメージが現在でも残っている。高度経済成長からバブル崩壊期までは、例えば、グループの製品を優先的に購入する、グループ内の問題の負担を各社で負担する、など、グループ同士での結束が他の財閥系グループと比べ大変強い面があった。「「三菱」と名の付く会社の宴会では、キリンビールを出すのが慣例である」との飲食店業界でのジンクスもあった程である。 しかし、バブル崩壊、経済のグローバル化以降は、金融自由化の波の中、グループ間の結束力は外部から思われているほど強くはなくなってきている。むしろ、あまり表に出てこない新財閥グループの方がグループ企業間の結束が強いと見るべきである。従来は川上製品に強く、川下製品に弱いとされてきたイメージがあったが、そのイメージを払拭すべく、各企業は製品開発および市場開拓に励んでいる。 また、グループ内企業の社員に毎月配布されている広報誌「マンスリーみつびし」は、2007年7月号において通算500号に達した。 関連項目 三菱グループ 岩崎家 三菱UFJフィナンシャル・グループ 三菱商事 三菱自動車工業 三菱ふそうトラック・バス 三菱マテリアル 興人 宇宙通信 外部リンク 三菱グループポータルサイト 三菱金曜会の公式サイト 三菱広報委員会の公式サイト 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 19 37。
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基本情報 島名前:東武スカイツリーライン 所有者名:東武鉄道 概要 2012年4月頃?(ターン不明)に島を発見する。 島名・所有者名は東京スカイツリー開業を機に名称を変更した東武スカイツリーライン(旧名:東武伊勢崎線)より。 沿線住民として、東武スカイツリーラインという名前のダサさ・・・もとい!「☆カッコよさ☆」を広めることが目的だった。 島の開発に励んだ後に芙蓉懇談会を結成。当時圧倒的勢力であったPBに対抗しうる勢力を目指して精力的に活動する。 同盟の名称と公式略称「F会」は東武鉄道が所属する企業グループより命名。(ちなみに旧安田財閥系だったりする。) 芙蓉懇談会は10島前後の参加者を集め、PBには及ばないが2位勢力を築くことに成功、東武鉄道も一定の影響力を持つようになる。 しかし、新同盟Veni Vidi Viciがリニアモーターカーの如く急成長し、芙蓉懇談会を抜き去る。芙蓉懇談会も結局は終始2位同盟の地位に甘んずることになった。 そしてVeni Vidi Viciの統一戦争が勃発。7島(?)による集中攻撃の前に半日持たず撃沈され、廃線(敗戦)に追い込まれた。 島 分散型。形は某A島と某B島をかけ合わせたものを目指してたら結局某A島とソックリさんになってしまったというオチ。 人物 割と慎重派だったようだ。同盟運営は無難にこなしていたが、最終局面ではそれが災いしたのかもしれない。 軍事 空母中心。艦隊の練度も4000ptとそれなりに強かった。 艦隊名称は東武スカイツリーラインにちなんだものであった。 初期:特急列車名 きぬ艦隊・・・浅草と鬼怒川温泉方面を結ぶ主力艦隊。 けごん艦隊・・・浅草と日光を結ぶ、きぬと並ぶ主力艦隊。だが、現実世界では本数が少ないためか影が薄い。 りょうもう艦隊・・・浅草と群馬県の両毛地方を結ぶ準主力艦隊。観光というよりはビジネス色が強い。足回りや座席の一部は1960年(!)〜1972年に作られた電車のお古だったりする。 きりふり艦隊・・・けごん/きぬを補完する列車。だが使われる車両がショボイ(コラ)ため、がっかり特急とも呼ばれたり。駆逐艦・巡洋艦で構成され、現実世界同様渋い役回りをこなす。 後期:列車種別名 Section Semi-Express艦隊・・・区間準急。ラッシュ以外に運行され、他の速達列車を補完。 Semi-Express艦隊・・・準急。ラッシュ時に運行され、地下鉄との直通運転で大手町・渋谷まで運んでくれる主力艦隊。 Section Express艦隊・・・区間急行。ラッシュ時に運行され、浅草から群馬・栃木を結ぶ主力艦隊。 Express艦隊・・・急行。全時間帯で運行され10両編成なので、真の主力艦隊!!・・・のはずが、なぜか駆逐艦・巡洋艦が配備されて地味な仕事をこなすことに・・・ 内政 特筆することは無いが、手堅い運営だったようだ。 ただし、艦隊の強化を空母で行っていた時期があり、その頃は度々「運賃」の名のもとにお金を恵んでもらっていた。 なお、現実世界では「スカイツリー債」が発行されているが、中にはスカイツリー債を騙った詐欺も発生しているようなので注意されたし。 コメント (同盟マークを付け忘れてますよ~…) -- ああああ (2012-11-01 22 29 26) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ssssjima/pages/38.html
基本情報 島名前:東武スカイツリーライン 所有者名:東武鉄道 概要 2012年4月頃?(ターン不明)に島を発見する。 島名・所有者名は東京スカイツリー開業を機に名称を変更した東武スカイツリーライン(旧名:東武伊勢崎線)より。 沿線住民として、東武スカイツリーラインという名前のダサさ・・・もとい!「☆カッコよさ☆」を広めることが目的だった。 島の開発に励んだ後に芙蓉懇談会を結成。当時圧倒的勢力であったPBに対抗しうる勢力を目指して精力的に活動する。 同盟の名称と公式略称「F会」は東武鉄道が所属する企業グループより命名。(ちなみに旧安田財閥系だったりする。) 芙蓉懇談会は10島前後の参加者を集め、PBには及ばないが2位勢力を築くことに成功、東武鉄道も一定の影響力を持つようになる。 しかし、新同盟Veni Vidi Viciがリニアモーターカーの如く急成長し、芙蓉懇談会を抜き去る。芙蓉懇談会も結局は終始2位同盟の地位に甘んずることになった。 そしてVeni Vidi Viciの統一戦争が勃発。7島(?)による集中攻撃の前に半日持たず撃沈され、廃線(敗戦)に追い込まれた。 島 分散型。形は某A島と某B島をかけ合わせたものを目指してたら結局某A島とソックリさんになってしまったというオチ。 人物 割と慎重派だったようだ。同盟運営は無難にこなしていたが、最終局面ではそれが災いしたのかもしれない。 軍事 空母中心。艦隊の練度も4000ptとそれなりに強かった。 艦隊名称は東武スカイツリーラインにちなんだものであった。 初期:特急列車名 きぬ艦隊・・・浅草と鬼怒川温泉方面を結ぶ主力艦隊。 けごん艦隊・・・浅草と日光を結ぶ、きぬと並ぶ主力艦隊。だが、現実世界では本数が少ないためか影が薄い。 りょうもう艦隊・・・浅草と群馬県の両毛地方を結ぶ準主力艦隊。観光というよりはビジネス色が強い。足回りや座席の一部は1960年(!)〜1972年に作られた電車のお古だったりする。 きりふり艦隊・・・けごん/きぬを補完する列車。だが使われる車両がショボイ(コラ)ため、がっかり特急とも呼ばれたり。駆逐艦・巡洋艦で構成され、現実世界同様渋い役回りをこなす。 後期:列車種別名 Section Semi-Express艦隊・・・区間準急。ラッシュ以外に運行され、他の速達列車を補完。 Semi-Express艦隊・・・準急。ラッシュ時に運行され、地下鉄との直通運転で大手町・渋谷まで運んでくれる主力艦隊。 Section Express艦隊・・・区間急行。ラッシュ時に運行され、浅草から群馬・栃木を結ぶ主力艦隊。 Express艦隊・・・急行。全時間帯で運行され10両編成なので、真の主力艦隊!!・・・のはずが、なぜか駆逐艦・巡洋艦が配備されて地味な仕事をこなすことに・・・ 内政 特筆することは無いが、手堅い運営だったようだ。 ただし、艦隊の強化を空母で行っていた時期があり、その頃は度々「運賃」の名のもとにお金を恵んでもらっていた。 なお、現実世界では「スカイツリー債」が発行されているが、中にはスカイツリー債を騙った詐欺も発生しているようなので注意されたし。 コメント (同盟マークを付け忘れてますよ~…) -- ああああ (2012-11-01 22 29 26) 名前 コメント
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維新公債(明治) という呼び名を拝借してきたんですがこの呼び方でいいんだろうか…。 大雑把に明治22年までに発行された明治政府による公債が10種類とのことで記録しておきます。 (外債はちょっと心当たりあるけど整理公債ってなんじゃらほい? この10種類とは別になってる。) 藩債整理公債新・旧、秩禄、金禄、旧神官配当禄、金札引換、金札引換無記名。 ここまでが動乱の直接の処理のため。 藩債整理公債が明治6年3月、新旧合計2339万円。 金札(太政官札)引換公債、666万9000円。 秩禄公債が明治7年11月、1932万6000円。 金禄公債が明治9年8月、1億7381万円。 この中でこの辺が発行額が多かったらしくて、民間銀行が関わることもあったようです(ていうか安田財閥の本で見たんだけどねこの詳細)。 で、上とちょっと違う性質のものが起業、中山道鉄道、海軍。 この起業公債と中山道鉄道公債はどうも国内のインフラ整備として使われたみたいです、起業公債の足りない分を中山道鉄道公債で補ったっぽい。<起業公債事業 海軍公債もあるいは同じ性質なのかもなぁ、横須賀線がなんか違う感じに作られてた記憶あるし。 (ここに横須賀鎮台っていう初期の軍事拠点の一つがあって他の路線とは全く違うタイミングで作ってたんだよね、今後確認するつもりなので信じないでね。) てか、金禄の文字ぽちぽち間違えてたやっべぇww 秩禄公債と金禄公債は武士階級の解体のために作られた一時金制度のようです。 要するに秩禄ってのが江戸時代の士族&華族への家禄(支配する土地を持つ権利や世襲の給料を貰う権利みたいなやつ、給料は米で支給)と維新功労者への褒章を合わせたもの、なんだって。 て、この時点で戦争の後処理っぽい概念だなぁw 秩禄公債(明治6年)と金禄公債(明治9年)がどう違うものかずっとわからなかったんですが、ああ、秩禄公債は家禄の返還をした士族に支給されてて、金禄公債が全ての士族に強制的に奉還させたものへの保障だったんですね。 (士族の定義はいろいろあると思うけど、まあ土地or給料貰う権利だから有価証券と引き換えになるよな。) 旧神官配当禄(明治11年)と共に要するに失業&退職手当みたいなものと表現されていましたが。 新・旧公債は各藩の財政を引き継ぎのために発行したもので明治以前の負債が旧、明治以降が新だってさ。 太政官札ってのは慶応4年から明治2年までに発行されていた不換紙幣ですね、あんまり質が良くなくて、明治2年の通称・ゲルマン紙幣(明治通宝、ドイツで刷って貰ったようです、ちょっと耐久性弱め)まで安定しなかったんじゃなかったっけ。 この中でどうも、金禄公債が最大のものだったようですね。 まあ士族身分の一斉開放だもんなぁ。 (秩禄公債とは全く人数や桁が違ったみたいだし。) どうも秩禄公債の時点でだいぶ値崩れしたり身を持ち崩すなんてことになっていたので、そのためにいくつか制限付けていたようですが。説明されているのを読む限りでは政治の問題というよりは、経済or金融的事情って感じ。 国立銀行の資本金の払い込みに使われたってのはわりとあちこちで聞くよね。 あと外債が明治3年に九分利付外国公債。 これは鉄道史では最初期のエピソードとして有名な英人ネルソン・レーが勝手に公債にしてしまったという鉄道敷設目的のものです。 (秘密裏に資金調達してくれる、という名目で高利を受け入れていたんですが、公債にするのならば直接やったほうがいい、ということで話が拗れました)(一応レーには個人資産家の心当たりはあったみたい。) 同じく英国のオリエンタル銀行が間に入ってレーとの契約は破棄してくれたよー、公債は続行。 明治6年に七分利付外国公債、両方ともロンドンにて募集発行されましたが。 どうもこちらは秩禄公債のための資金集めで「用途がよくわからん」とあちらの経済誌で言われてたそうです。 鉄道資金の時もなぁ、鉄道ならなんとかって話だけど流用しようって腹だったみたいだしなぁ。 てか、変な山師に引っ掛かったって言われてましたが(約束は破られたけど犯罪ってほどでもない)、もともと付き合いのあったオリエンタル銀行を通した借款だとそんな使い方するのは無理だったって判断してた可能性もあるのかも…。