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総評 三国司の一角、姉小路の家名を僭称。知名度だけは大大名並、みんな大好き姉小路家は小国大名の筆頭格。ここで勝ったら一人前。 流石にシリーズを通して弱小大名の代名詞と言われるだけあって、難易度はどのシナリオを選択しても高い。国力・兵数の貧しさは全国屈指。 領国は全シナリオ通して飛騨1ヶ国。 人材は一門衆のみ(外戚含む)。姉小路頼綱は北陸地方ではかなり優秀だが、相対的には質・量共に頼りない。政治面は姉小路良頼・頼綱・信綱の姉小路三代が中心人物。武将偏差値がそれほど高くない北陸地方では平均的とも言える。戦闘面は姉小路頼綱が引っ張る。兵科適正と戦術を考慮すれば父であり大名である姉小路良頼も自ら軍を率いる事になるか。浪人には期待出来ない。美濃や越後から勇猛な武将が移動してくる場合もあるが、相性の関係上登用は難しいだろう。 固定戦術は移動系、特殊系、攻撃系が各1つずつ。バランスと使い勝手は非常に良い。「看破」の存在は姉小路家に対する天の配剤か。奇襲と後退の繰り返しは姉小路家の主な攻撃手段であり、生命線である。「鎮静」はどの様な状況でも有効。夜間の相手側戦術は「看破」で対応可能なので、日中の交戦時が主な使用時期となる。「弓構」があるにはあるが、「火矢」並びに「斉射」は無いのでパンチ力不足は否めない。敵総大将を遠距離からチクチクと削るのは立派な戦術活用方。 飛騨の文化効果は「築城コマンドの効果上昇」、技法は「馬術」。 最大石高、初期文化値共にかなり低い。文化効果も有難味は薄く、こだわりがなければ優先すべき土地とは言い難い。金山は有り。東西は日本アルプスに阻まれ交通路は南北にしかない。地の利はあるが、飛騨に籠もって地盤を固めようとするとジリ貧になる事はCPUが証明済み。打って出て活路を開きたい。当然その道は血路だが。 隣接国は最少の2ヶ国。隣接大名家はシナリオ1・2の状態で神保家と斎藤家。シナリオ3では上杉家と織田家、シナリオ4では柴田家と織田信孝家にそれぞれ変化する。 外交関係はシナリオ1では神保家・斎藤家との友好が高く、深谷上杉家との友好がやや低い。斎藤家と同盟を結んでいるが、これはあってない様なもの。シナリオ2では神保家との良好な関係は継続。斎藤家との友好はフラットな状態になり、同盟も破棄されている。シナリオ3では浅井家との友好がやや高い。一方で隣接する上杉家・織田家との友好は低下。特に上杉家とは険悪な間柄となる。同盟関係は無し。シナリオ4では友好の高い大名家も低い大名家も特に無し。柴田家とは同盟を締結している。 ちなみに家紋は「丸に剣花菱」。 固定戦術 看破 鎮静 弓構 注目武将 姉小路 良頼‐政治61 戦闘61 教養54 魅力65 足軽C 騎馬D 鉄砲D 天性:勇将 姉小路の名跡を息子に継がせ後世の印象値を高めたのが最大の功績。三木良頼ではこうはいかない。中納言位への憧れは相当なもの。 名前負けしているわけではないが、少々インパクトに欠ける能力値。特徴らしい特徴がないところが最大の特徴。 姉小路 頼綱‐政治66 戦闘67 教養60 魅力70 足軽C 騎馬B 鉄砲D 天性:勇将 国人衆、息子と弟、宿敵江馬氏を制し飛騨のほぼ全域を支配するも瞬く間に全てを失う。対抗者を打ち倒して得た基盤は脆かったか。 全てにおいて父を越える姉小路家の俊英。戦闘67騎馬適正Bを武器に全てのシナリオで主力となる。ならざるを得ないのが実情。 敵大名としての特徴 全シナリオで飛騨に籠もり沈黙を保つ。しかし富国策も実を結ばないようで、比較的早期に滅ぼされやすい。相手はシナリオによって異なるが、斎藤家、織田家、上杉家などが有力候補。有能な浪人を召し抱える事もまずなく、プレイヤーにとってもCPUにとっても非常に与し易い相手。近隣大名を選択しない限りは直接戦う機会はほとんど無いだろう。 合戦を行う際に気を付ける点は特に無し。敢えて挙げるならば兵数が少ない場合が多いので、こちらも出兵数を調整して籠城戦を回避すべきといったところか。北陸地方は降雪の影響を受けやすい。移動力の低下・士気の低下とあまり良い事はないので、開戦時期は冬季を避けるべき。 シナリオ別攻略 ・シナリオ1 武将は2人。 当面の敵は北陸諸大名となる。まずは徴兵と訓練を繰り返す。行動力や資金との兼ね合い上、兵数は80程度を目標に。 攻略目標は越中一択。越中攻略後は能登に進軍する。いずれも本願寺家に共闘を依頼するのを忘れずに。 神保・畠山家系の武将とは相性が決して良くないが、城主用に最低でも1人は登用したいところ。 加賀攻略戦が最大の山場。飛騨・能登は捨てる覚悟で戦力を越中に集中、「看破」に活路を見出そう。 なお、開始翌年に姉小路信綱が元服。父・頼綱との年齢差は1才。いくら生年不詳とはいえ違和感は残るが、人手不足の姉小路家にとっては有難い話。 ・シナリオ2 武将は5人。 三木顕綱・三木国綱が家臣に加わるも、正直な所アテにはならず。 シナリオ1同様にまずは越中に的を絞る。越中攻略後、能登に侵攻するまでは同じ要領で良いだろう。 問題はその後。加賀の備えは薄くなっていて攻略はそう難しくないが、優秀な武将を迎える機会を失ったとも言える。 合戦手腕に自信があるなら越後攻略に全力を傾けたい。上杉謙信以下を家臣に加えられれば怖いもの無しとなる。ただし相性は良くない。 堅実路線ならば加賀→越前と軍を進め、近畿・中国地方を目指そう。飛騨・越中・能登は織田家にくれてやってもよい。 ・シナリオ3 武将は5人。 浅井家との友好が上昇している。共に美濃を攻めよということか。 だがちょっと待って欲しい。仮に美濃を攻略したとして、先の展望は開けるのか。 答えは否。勢力滅亡まで持っていかない限り姉小路最大の課題である人材不足の解決には繋がらない。織田家相手に現有戦力では到底実現不可能。 よってここも越中侵攻を基本線としたい。上杉家も強敵だが、織田家主力とやり合い続けるよりは余程マシ。潜る死線は少ないほうが良い。 越中→加賀→越前と強敵から逃げるように進軍、そのまま西国に進路をとりたい。実際に領国を放棄しながらの強行軍になるだろう。能登は無視。 越前攻略以降は武将の登用も可能になる。依然として武将の質には不安が残るだろうが、丹後・丹波辺りまで攻略したら腰を据えて内政に力を注ごう。 ・シナリオ4 武将は3人。 姉小路良頼と姉小路信綱が世を去る。姉小路の将来は父を失い、子を誅した頼綱の双肩にかかっている。 前シナリオまでとは打って変わり、美濃が最初の攻略目標となる。 美濃攻略後は信濃に侵攻、真田家を配下に加えるのが理想だが、尾張攻めが現実的な選択肢か。 いずれにせよ当面の相手は徳川家となる。捕えた武将が登用に応じる事はまず無いため、いっその事処断するのも一つの手。 武将数が不足しがちなため越中が上杉家の手に落ちた時点で飛騨放棄もやむなし。美濃は死守するようにしたい。 兎にも角にも武将の登用が難しい。真田十勇士のメンバーとは相性が良いため、流れてきたら確実に登用を試みたい。 ~全ての中小国大名に捧げる序盤の切り抜け方~ せっかくの姉小路家なので、全ての中小国大名に共通する進め方を記してみようと思います。なお、まったり派の方には向かないと思います。 まずは米を売ろう 開始直後にすること、それは余剰米を金に代えることです。米は80も残せば十分です。 米相場は高ければ高いほど良いです。出来れば2.0以上の状態で開始したいところです。 ついでに、兵相場についても。これは当然低ければ低いほうが良いです。こちらは3.5以下で開始できるに越したことはないです。 「米は高く、兵は安く」。このような相場が維持されれば天下への道は一気に見通しがよくなります。 次に徴兵と訓練をしよう チュートリアルでは「内政資金の調達が…」と言っていますが、それは大国の話。小国には内政を行う時間も余裕も行動力もありません。資金は全て軍事費に回します。 総兵数が100もあればまずは安心ですが、そこまで増やさなくとも序盤は大丈夫です。 徴兵と並行して訓練を行います。烏合の衆では意味がありません。全力で訓練して早期に100にしましょう。 治安の低下も気になるところですが、軍備が優先です。民の怨嗟に満ちた声が聞こえてきますが、涙を飲んでもらいましょう。 以上のことを全てこなすのに、姉小路家では半年程かかります。他の小国大名も似たようなものでしょう。場合によっては治安を一回行う必要があるかもしれません。 最初の相手は同じ小国を 兵数と訓練が目標値に達したら、すぐに戦を仕掛けます。 同類相食むようですが、まずは周辺でもっとも与し易いと思われる国を攻めます。侵略ではなく強制的な勢力統合だと思えば問題ありません。 部隊は少数精鋭で DS2はシステム上、少数部隊を複数編成するよりも大部隊1つのほうが効率のよい戦闘が行えます(特に序盤は)。 兵科適正も考慮した上で最強と思われる武将に全てを託しましょう。 とはいえ、天性を揃えることによる上乗せ効果も欲しい。そのため他の武将は兵数1で出陣し即時退却します。これは能力値に関わり無くこなせる重要な仕事です。 共闘軍を得よう 攻め込む際に重要な点です。同盟の有無に関わらず必ず共闘を申し込みましょう。「敵の敵は味方」論は結構通用します。 籠城戦は百害あって一理なし。確実に避けましょう。正規軍・共闘軍の合計兵数が攻略対象国の兵数と同等になるよう調整すれば大丈夫です。 代わりに戦ってもらおう これはかなり重要です。非同盟国の共闘軍はあまり積極的に動きませんが、敵部隊が近付けば戦ってくれます。上手く敵部隊を誘導しましょう。 共闘軍には全部隊退却するまで頑張ってもらいます。そうすれば合戦の途中放棄とみなされ、謝礼を払わずに済みます。 相争ってもらう事によって、後ほどその勢力に攻め込む際の障害(敵兵数)も減ります。これは卑怯ではありません。生き残るための策です。 首尾よく攻略できれば、複数領国経営となり小国大名の地位とはおさらばです。ここまでを開始1年以内には済ませたいところ。余裕があればもう1ヶ国くらいは領国を増やせるでしょう。 姉小路家の場合は能登までは1年以内にいけます。というか、いかないとこの後の展開に支障をきたします。 領国は広がったものの、有能な武将がいない。そんな展開になっていませんか?3ヶ国領有の姉小路家は正にその状態です。 ではどうするか。どうしようもありません。矛盾するようですが、良将は合戦でスカウトするのが近道です。以下は能力に勝る相手との戦い方です。 基本は物量作戦 能力で劣るならば、数で押し切る。やはりこれが基本でしょう。数とは武将数ではなく兵数です。 ある程度までは兵相場を無視してでもひたすら徴兵しましょう。兵糧収支ぎりぎりはもちろん、場合によっては赤字覚悟の勢いで構いません。 なお、軍資金は米売買で稼ぎましょう。米相場を睨みながら売買を繰り返し、少しずつでも金を増やしていきます。 この米転がしに1ヶ国の行動力を全てつぎ込む場合もあるかと思いますが、そんなものです。 一度に大軍勢では攻めない 物量作戦といっても、籠城戦は好ましくありません。複数回に分けた合戦を行うということです。 合戦では相手主力とはぶつからず与し易い部隊のみ叩く。戦術を使い切ったら速やかに撤退する。一度の合戦で決着をつけようと思わないことが肝心です。 長期的展望で合戦を描く。これは能力に劣る勢力の特権でもあります。存分に楽しみましょう。 後方国はなにをするか ここまでの流れで、内政に関した記述は特にありません。何故か。それは行わないからです。そんな時間も余裕も行動力もありません。 担当大名によっては他勢力と接していない領国を手に入れている場合もあるでしょう。つい内政を進めたくなりますが、そこはぐっと我慢。軍拡路線を突き進みましょう。 徴兵→治安→輸送の繰り返しです。金が尽きかけの場合は訓練も行います。兵站というよりも、兵そのものを切らさないように心掛けましょう。 前線国はなにをするか 攻略対象に接した国、というよりも軍事拠点となっている国ではなにをするのか。簡単です。合戦を仕掛けます。 勢力内で最も政治の高い武将を城主に、戦闘の高い武将を2人置き、訓練→訓練→共闘の流れを作ります。 後ろは顧みない なんやかんやで安全期間が過ぎ、合戦を仕掛けられる場合もあるでしょう。到底かなわない相手に攻め込まれた、そんな場合は諦めも肝心です。 仮に粘って相手に損害を与えても、こちらの被害を回復するために使用する資金や行動力を考慮すれば費用対効果は低いはずです。 見事合戦で勝利を収め、有能な武将を登用出来れば完全に中小国大名は卒業。あとは彼らを中心に据えていかようにも進行可能です。 実は最強の戦略は… 徴兵を繰り返すことの最大のメリットは戦場にはありません。軍備は外交の場においてこそ真の力を発揮します。勧告が有効になってくるのです。 勧告は相手勢力との兵数差が大きい程成功の可能性が高まります。成功すればその勢力の兵もそのまま吸収、更に勧告しやすくなるという雪ダルマ式な点も見逃せません。 戦わずして勝つ、この最上の戦略を最終目標として粛々と徴兵に勤しみましょう。 いかがでしたか。この方法が少しでも参考になれば幸いです。
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岡豊同盟 岡豊同盟(おこうどうめい)とは永禄7年5月に締結された、姉小路家と長宗我部家の同盟である。 概要 永禄7年3月15日、姉小路・三好間の同盟関係は正式に破棄された。これを受けて、雑賀城の戦いにおける三好の敗残兵が筒井城付近を通行していた際、武田信虎が手勢を率いてこれを掃討している。つい先日までの盟友に対するこの豹変には、抗議や意趣返しがあっても不思議ではなかったが、三好からはこの件で何一つ反応らしきものは生じなかった。これは、既に両者の関係は冷え切っており、敗残兵とはいえ敵軍が領国を侵していれば排除するのは当然という認識であったからだ、という説が有力である。室町幕府ひいては足利家による権力を否定する方針を固めた姉小路家と、堺公方を擁しつつ室町公方との距離感を測ってきた三好家との間に妥協点は存在せず、両者の関係が破綻するのは当然であった。 新たな盟友を求めた姉小路家は長宗我部家へ盛んに使者を送って交渉を繰返し、同年5月25日、長続連による交渉の末、両者の間で起請文が交わされ、同盟が締結される。姉小路家は滝川雄利を人質として土佐に送った上、技術交流はもちろん技術支援にも積極的であり、一方の長宗我部家もその滅亡までこの同盟を違えることがなかった。 同盟成立の経緯 【武田信虎による三好の残党駆逐】 破約したとはいえ、当時の情報伝達速度では、大名級はともかく、庶民の間では同盟が継続しているのかいないのか、知らない者が多かった。そのため、三好の敗残兵は落ち武者狩りを受けることなく、時に民家に宿を借りながら大和の山中を移動していた。 これを聞いた信虎は即座に掃討を指示、手勢を率いて三好勢の居場所へ向かい、休息している集落へ夜襲同然の攻撃をかけ、三好の敗残兵を追い散らしたという。信虎は、「夜襲の成功は敵を油断させた村人の功績である」と褒美を与えて引き揚げた。褒美をもらったとはいえ集落を荒らしたのは主に信虎勢であり、敵と知らずに善意で泊めているつもりの村人も多かったことから、当初からこの掃討には非難が多かった。しかし 「武田様は、わしらが敵を匿った罪を問われぬように、あえて乱暴なふりをして禍根を断ってくだされたのじゃ」 と感謝する者もいた。 以後、三好と姉小路は和泉や瀬戸内をめぐって争うが、大和は姉小路の版図にありつづけたことから、三好の敗残兵を助けたという事実があり、内通の嫌疑がかけられれば集落は周囲から迫害され、さりとて親三好派が助けてくれる位置でもなく、危機に陥ったことは疑いない。 信虎がそこまで集落の将来を案じたかは不明だが、乱世では即断即決が熟慮に勝ることが多いと知る練達者らしい行動といえる。 【両家を取り巻く状況】 周知のように姉小路家はこの後倒幕に動くが、山城を支配下に入れ、畿内平定に動くとすれば、東の武田・上杉・北条、西の毛利・本願寺・三好らとの敵対が決定的となることは明らかであった。この時期の姉小路家は、これら全てを排除するにはまだ力不足であった。倒幕を成就すれば、直接領土を接する勢力とは、たとえ同盟したとしても関係を維持することは困難であり、隣接勢力ははじめから候補に入っていなかったようである。 当時、姉小路家の技術官僚は主力である鉄砲兵装や、騎馬隊対策の技術研究に忙殺されていた。育ちつつあった民政に長けた官僚集団も膨張する領内の掌握と領民の慰撫に追いまくられており、技術官僚の手伝いをする余裕は無かった。姉小路は徒歩兵装が貧弱であり、この点を補強できる技術力を持った諸侯との盟約を求めていた。長宗我部家は、一領具足という簡素ながら機能的な装備の歩兵集団を主力としており、格好の相手であった。次点は龍造寺あたりであっただろうが、こちらは畿内から距離がありすぎるため、技術交流するにも、後の包囲網勢力を背後から脅かすにも不便であった。 一方、長宗我部家は四国の覇権をめぐり三好・毛利と争っていたため、それらの後方を扼してくれる姉小路家との利害は一致しているかに見えるが、三好はともかく、毛利と姉小路は領土が離れており、将来、毛利と敵対する尼子が姉小路との戦いで弱体化し、姉小路が毛利と長期間開戦しないようなことがあれば、逆に状況が悪化する危険もあった。長宗我部としては、姉小路との盟約か、毛利・三好のどちらか(恐らくは戦った期間の短い毛利であろう)と休戦し、他方を攻撃するか、どちらが有利かという選択肢があった。となれば必然、毛利派と姉小路派の家中対立があったはずである。 【交渉開始と人質要求】 長宗我部当主の国親は、忍従の末に再興を果たした苦労人だけあって慎重で、この盟約の締結を3度にわたって見送っている。交渉は全て姉小路側から打診しており、一度目の交渉では、国親は何と姉小路家嫡子の頼綱を人質に要求したとされている。大身である姉小路が小身の長宗我部に盟を持ちかけているにもかかわらず過大な要求を受け、使者であった越中衆筆頭・小島職鎮は唖然としたものの、国親の態度は横柄でも軽薄でもなかったと伝わる。 国親がもうけた簡素な酒宴でもてなされ、帰途についた職鎮からは、良頼に「脈あり」との報告がなされた。要するに国親は「家中をまとめるのに時間がかかるから、また後日に参られよ」ということを伝えたかったのであるが、それを口にしてしまえば家中の反姉小路派との関係が完全に決裂してしまう上、実は二つ返事で受諾するつもりだったという話が流布すれば、周囲からも明らかに従属同盟と見なされることになる。そこで、跡取りを人質に要求するという大きな態度を見せることで、土佐の諸豪族に「長宗我部は上方から(既に本拠は観音寺に移っていたこと、公家衆との関係が深いこと、三木から姉小路に改姓したことから、西日本の諸勢力からは姉小路家は飛騨の豪族というよりは畿内の勢力とみられていた)の要求には屈しない」という姿勢を示すことができ、使者の職鎮も、あまりに無茶な要求を受けたからには、任務失敗の言い訳が十分に立つのである。 良頼は失敗を謝す職鎮を許し、土佐の情勢を細かく報告して今後の糧とするように命じた。 【紅美鈴の指名と融和期間】 二度目、三度目の交渉では不思議なことがあった。国親は頼綱を人質に要求した件を取り下げ、代わりに紅美鈴を要求したのである。美鈴は朝倉から姉小路に仕え直すも、まださほどの勇名を馳せてはおらず、当然ながら土佐での知名度も低かった。頼綱を要求した時に較べて、態度の軟化を見せようとしたとしても、この指名は奇妙である。これには ・長宗我部は元の姓は秦と称し、始皇帝の末裔を自称したこともあり、大陸との縁があったことから、大陸風の名前を持つ紅美鈴を選ぼうとした、という説。 ・家中をまとめる時間を稼ぐための、冗談であったという説。 ・親睦を深めるための親善大使的な存在として、女性である美鈴を本気で受け入れ、利用するつもりがあったという説 などがある。 前田玄以は唐突な指名に驚いたが、異能の者を含む女性を人質にという要求は容れるべからず、という外交方針が姉小路良頼から内々に示されていたこともあり、国親に再考を要請した。美鈴は姉小路に仕えて日が浅く、また武家の慣習に従わせにくい異能の者であることから人質には向かない、と説いたが、国親は聞き入れず、美鈴にこだわったという。 この指名には長宗我部家中、というより土佐の諸豪族の間で反響が大きく、「紅美鈴とはいったい何者だ」と調べる動きが広まったとされる。そんな中、博麗霊夢が土佐を訪れ、交渉にあたった。細部の折衝は霊夢の従者と長宗我部家中の者に任せ、霊夢と国親の交渉はもっぱら人質の人選が話題であったという。 霊夢は人選を変えさせるため、美鈴の性格や能力が人質に向かないと説得し―そのせいで美鈴への悪口が話題の中心となってしまったようであるが―彼女の知る逸話を披露した。時に霊夢自身の武勇譚があり、時に愉快な漫談を交えての物語を国親は絶賛し、数日の交渉期間で、同席者がどんどん増えていったという。当時、国親の三男親泰を養子に迎えていた香宗我部親秀は、親泰の代理として同席しようと廊下を歩いていた。すると使用人が立ち聞きしようとしていたのを発見したので制止したところ、その使用人は、てっきり交渉は既に終わり、宴席になったとばかり思っていたと言ったという話が、親秀の甥である中山田泰吉の日記によって残っている。盟約が成立しなかったのが不思議なほど笑い声の絶えない席でありながら、その実、人質の人選については何一つ歩み寄りがみられないという奇妙な一幕であった。 このやり取りが岡豊城から漏れ―国親らが故意に流布させたことも大いに考えられるが―美鈴は武功にこそ恵まれていないものの、事実として相当な女傑であり、陰湿なところの無い人物であったから、土佐の男たちには良い印象を与え、姉小路との盟約の話題に対する感情も、警戒心が和らぎ好意的な方向に向かったという。 これが国親や元親ら長宗我部一党の策であったとすれば、長宗我部は中央に対するかなりの情報網を持っていたことになる。三好の間者を買収するなりしていたのかも知れないが、憶測の域を出ない。両家の勢力比から言って、半ば従属同盟的な関係となるのは明らかであったから、小勢力である長宗我部には食い物にされるのではないかという恐怖がつきまとう。前田玄以は後日、「長宗我部家とすれば、こういった時は普通、盟約にまつわる細かな利害に過敏になるものであるが、争点を人質という点に固着させることで、その他の実務的な折衝を円滑に進めることができた。国親公と元親殿を中心とした長宗我部家中の対応は用意周到をきわめ、まことに優れていた」と評し、外交僧として参考にするところ大であった、としている。 しかしそれにしても、異能の者には陽気な気質の者が多く、土佐人の気質に合う女性も少なからずいたはずであるが、なぜ国親が美鈴に白羽の矢を立てたのかという点は不明である。せめて征夷大将軍足利義輝との一騎打ちで名を上げた後であったならば、まだわかるのであるが・・・。ある論評では国親あるいは元親の兄弟たちの性癖を挙げているが、邪推に近く、根拠のある史料は見当たらない。 【合意への根回しと神仏の加護】 この盟約は四度にわたる交渉を経て締結されたが、かなり早い時期から、両家は盟約を締結するという路線では一致していたという解釈がある。宗教的な観察を加えれば、二度目の使者の前田玄以は僧侶、三度目の使者の博麗霊夢は巫女である。神仏の後ろ盾があると粗略にはされにくく、敵対していても危害は加えられにくい(当時の人々は、多かれ少なかれ祟りを恐れたため、異宗派であっても単身・丸腰の僧侶や神職に刃を向けることは稀であった)。この間の両家は交渉の進行そのものよりも、両家の友好を深め、盟約成立後も土佐の諸豪族が長宗我部から離反することなく、逆に味方する者が増えるような根回しを優先していたらしい節がある。であれば、使者の人選は姉小路家だけの判断ではなく両家の合意の上であったとも考えられる。敵であり瀬戸内の制海権を持つ三好をはさんでいるにもかかわらず、使者を容易に行き来させていることから、この間の外交活動に土佐水軍衆の協力があったことが示唆される。最終的な人質が元僧侶の滝川雄利となったことからも、神仏の権威をも借りつつ人心を和らげていく意図があったのであろう。 同盟の影響 倒幕と、その後は周囲の諸侯を併呑していく意志を固めた姉小路家にとっては、この盟約に不利益な点は無かったが、長宗我部にとっては強力な後ろ盾を得る代わりに、反姉小路勢力との妥協点が無くなり劣勢となった場合でも講和の余地が消える賭けであった。 こういった利害の点でやや不均衡があったため、双方が利を取れるように様々な工夫がなされている。姉小路としても長宗我部が強力な足軽兵団や水軍衆を維持し続けることが技術面から言っても有利であったから、大身側ながらも人質を出して土佐の国人達に対等同盟であると印象付けたり、技術支援を積極的に行うなどした。長宗我部は四国方面の戦いを続ける一方、姉小路は武田・上杉・北条の畿内侵入を防ぎつつ、山陰の諸侯を降して毛利との接敵を目指した。 この同盟の結果、山名、尼子といった西国の中堅大名は後の姉小路包囲網に参加するほか無くなったが、過去の経緯から毛利による支援は全く期待できず、互いを支えあうものの、姉小路に飲み込まれていくことになる。 その後の経緯 長宗我部は毛利・三好の攻勢をその後5年間にわたって支え、最後の一城まで戦い続けた。謀略の天才である毛利元就からさまざまな破約の誘惑を受けても断り、姉小路との信義を貫いた長宗我部一党の実直さは諸国に知れわたった。 一方、姉小路としてはどこかの段階で讃岐方面の三好軍を叩き、長宗我部を救援し、その恩義とそれまでの友誼をもって、土佐衆を一領具足もろとも自軍に取り込む計画があったらしい。そうなれば、越前衆や近江衆と同様の家臣団としての知遇を受けたと思われる。この同盟直前の雑賀城の戦いなどにおける三好衆の無様な戦いぶりを見て、讃岐進出は十分可能であると姉小路陣営は考えていたようである。 しかし、明智筒の技術奪取、鉄甲船の発明などにより、三好家の讃岐―淡路戦線は思いのほか強固となっていた。讃岐が堅守されてしまうと、水軍を持たない姉小路は土佐を直接救援することはできず、土佐水軍の規模では、数名の使者ならばまだしも、姉小路の援軍を乗せて淡路・塩飽水軍衆を突破して土佐・阿波に送り届けることは不可能であって、唯一の盟邦の滅亡を防ぐことができなかった。 これは姉小路にとって痛恨事であり、本州における領土をことごとく喪失した毛利が得た最大の戦果であった。滅亡の報に接し、西国方面から東海道攻略に移っていた頼綱はしばし絶句した後、長宗我部一党の安否を気遣うなどしたが、詳細は長宗我部氏滅亡の項に譲る。
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姉小路包囲網 永禄9年3月に打倒姉小路家を目的として組まれた諸国連合の名称である。足利義秋によって提唱され、武田、上杉両家が中心となって形成した。 経緯及び概要 当時、姉小路家が足利将軍家を滅ぼして日本全国へ力を伸ばしつつあった。 武田家は姉小路家を警戒し、美濃稲葉山城に大軍をおくってこれを征服しようとしたが美濃防衛戦において大敗した。 上杉家もまた警戒して輪島港へ大軍をおくったがこれも輪島港防衛戦において敗退した。 西国諸国は次々に姉小路家に制圧されておりこれに抗する術はなく、上杉、武田両家も単独で姉小路家と戦うことに困難を感じていた。 そのような情勢の中、三好家において保護されていた前の将軍足利義輝弟義秋は武田家に奉戴され、 征夷大将軍を自称、各国に姉小路包囲網を築くよう提唱して諸大名宛に檄文を送った。 ここにおいて姉小路包囲網は成立し、以降、各国の大名は姉小路家の勢力伸張に対して連帯して敵対した。 足利義秋の檄文に応じて包囲網を築いたのは、武田家、上杉家、北条家、三好家、山名家、尼子家、毛利家など国もちの名だたる大名である。 足利義秋の檄文 足利義秋は各国に姉小路良頼を討つよう要請する檄文を送った。三好長慶に送られた檄文は以下である。 良頼、順逆も弁まへず主従の義に背き、大逆を成す候間、誅罰に及び候。良頼悪逆の条々別紙に相見え候。此旨尤と思ひて、 重代の御恩忘れられず候はば、此の節きつと誅罰すべきよし、長慶に対し申し遣はし候。なほ、眞木島玄蕃頭申すべく候なり。 (花押) (意訳:姉小路良頼は順逆もわきまえずに主従の義に背いて大逆を成した故、誅罰することとにした。 良頼が行った悪逆の内容については別紙にある。このことをもっともと思い、また先祖からの将軍家に対する恩を忘れていないならば、 これを機に誅罰するように、長慶に申し遣わしておく。また、使者の槇島昭光からも申し伝えるであろう。) このように、良頼を逆臣とよび、足利家の恩を忘れていないなら姉小路を討てという内容である。 これに加えて三好家には武田信玄、上杉謙信、使者の槇島昭光の添え状も送られている。 檄文の文中にある別紙には以下のような内容の良頼が行ったとされる悪逆が7か条で述べられている。 一、将軍家に対して軍を起こしたこと。 二、室町御所において略奪に及んだこと。 三、兄の足利義輝を幽閉し、退位を強制したこと。 四、朝廷において君側の奸を利用して専横を極めていること。 五、また、自身と部下で朝廷位をほしいままにしていること。 六、帝や公家、寺社の領地からの収益の殆どを横取りしていること。 七、婦女の甘言を喜んで重い租税をかけて私服を肥やし、虐民していること。 一と三についてはほぼ事実である。 二の略奪については、姉小路家が山城国の統治のために室町御所を占領して公的な資産をおさえたこと、 将軍家の個人資産については義輝に返却したが戦後の混乱もあって紛失した器物が多かったこと、こういった経緯を略奪とよんだと思われる。 四の君側の奸とは近衛前久を初めとする姉小路派の公家のことである。 戦後に佐幕派の公家の一部が罷免されていることをさしていると思われる。また、君側の奸を除くというのは檄文の常套文句である。 五は姉小路派の公家が奏上して、良頼が従五位下侍従の位を任ぜられ昇殿を許されたこと、部下達にも位を与えていることを指す。 基本的には各国の大名も同じことをしているのだが、従五位下叙任及び昇殿を許されるということは当時の武士としてはかなり異例の出世であったので、そういったことからの非難であろう。 六についてはほぼ事実無根であるが、本願寺と戦っている間その座における権益を差し止めていたことはあった。このことからの誤聞であろう。 七については姉小路家には多くの異能の者が属しており、その全員が女性であった。 彼女らはそれなりに重く用いられており、これは雌鶏が時を告げてはならないという古来からの考え方に反している。 この考え方から良頼を、女性の言に従って国を滅ぼした古代の悪王になぞらえて過大に表現したものと見られる。 これら7か条を挙げた後「幕府をも転覆せしめ 京の都を牛耳る姉小路の無道 今こそ、ただすべし」という言葉で結んでいる。 このように姉小路家の行動が過大かつ悪意的に表現されているが、これは当時の檄文の形式にのっとったものだからである。 各国の反応 上杉謙信は将軍家への義理を優先させ、仇敵であり数年来幾度となく戦ってきた武田信玄と講和を結び真っ先に包囲網への参加を表明した。 各国の大名は文の内容を完全に信じたというわけではないが、将軍の権威に加えて武田上杉の実力、 さらに自身の国が姉小路家の脅威にさらされていることに鑑み、包囲網への参加が得策と考える者が多かった。 姉小路家と国境を接している家は全てが参加、国境を接していない家も興味を示す者もいた。 軍備状況を見ると、武田・上杉は前年の姉小路領の侵攻により多くの兵力を損耗したもののいずれも広大な領地を持ち、 かつ互いの領地を侵される危険がなくなったため、姉小路領に接する信濃・南越後への兵力動員が可能となっている。 それはいずれも前回の侵攻と同規模の兵力であることで証明されている。 ※前回の侵攻では武田・約12万、上杉7万3千である。武田が失った兵力は事実上尾張軍のみである。 北条は尾張を武田から奪ったものの、駿河・相模を失い勢力を後退させている。 包囲網参加により背後をつかれることだけは無くなったため、武田が美濃へ侵攻し双方が損耗したところ漁夫の利を得る算段であろう。 ただし、以上の勢力は殆どの兵力を出撃させているため、敗北した場合再侵攻は困難、逆襲によって領地を失う可能性もある。 山名は三好からの後詰めを期待しての参加ではあるが、既に姫路城落城は落城寸前であり、これに寄与する部分は無い。 三好は落城後の姫路城、もしくは堺港を標的とすると思われる。特に宇多津港には鉄鋼船が配備されており、畿内への復権を狙っている。 ただし、阿波は姉小路の同盟である長宗我部が狙っているため、大規模出撃には至らない可能性がある。 尼子は若狭敦賀港を標的としているが、山名との同盟による義理参加であるため大規模出撃の可能性は低い。 毛利は三好との同盟による義理参加である。三好領が侵された場合のみ出撃すると思われる。 東北勢は武田・上杉が姉小路に意識を集中させているため、しばらくは安全だろう。 しかし、両勢力がさらに拡大しようとする可能性は大であるため、彼らが飲み込まれるのは結局時間の問題であろう。 九州に関しては今回の包囲網との関わりが薄く、大友は島津と対しつつ龍造寺に続き有馬攻略へ。島津は大友と戦いながら、四国を窺う可能性が高い。 各国の動員兵力 武田総計13万2000 信濃深志城兵 武田信玄:騎馬隊22000 高坂昌信:騎馬隊11000 太田資正:騎馬隊5500 諏訪勝頼;騎馬隊20000 北畠晴具:騎馬隊8000 原虎胤 :足軽隊6000 真田昌幸:足軽隊9000 真田幸隆:弓隊9000 武田信繁:破城槌隊14000 松平元康:破城槌隊15500 上杉総計8万4500 南越後春日山城兵 柿崎景家:騎馬隊9500(参軍四季映姫・ヤマザナドゥ) 斎藤朝信:騎馬隊9000 新発田重家:騎馬隊8500 氏家守棟:騎馬隊7000 本庄繁長:騎馬隊9000 村上義清:騎馬隊9500 小野塚小町:騎馬隊8500 石川数正:弓隊7000 南越後柏崎港守備兵 延沢満延:騎馬隊8500 中条藤資:騎馬隊8000 北条総計6万2000 尾張清洲城兵 北条氏康:足軽隊17000 北条氏照:足軽隊9000 北条氏邦:足軽隊8500 魂魄妖夢:足軽隊7500 伊勢霧山御所城兵 北条幻庵:10000 平岩親吉:5000 大道寺政繁:5000 姉小路 越中富山城兵約7万 守将:朝倉宗滴、鈴木重秀、小島職鎮 美濃稲葉山城兵約11万 守将:武田信虎、蜂須賀正勝、羽柴秀吉 大和筒井城兵約3万5000 守将:松永久秀、滝川一益、下間頼廉 他、越中にアリス・マーガトロイド、レティ・ホワイトロック、美濃に霧雨魔理沙、博麗霊夢、八雲紫を派遣。筒井城から南近江観音寺城へ筒井順慶が兵15000を輸送。竹中重治が美濃大垣城に駐屯。 各勢力とも城にわずかな兵のみを残すという全力出撃である。 姉小路家領国民の反応 多くの領民は無関心であり古くからの支配地である飛騨、美濃、越中では特に動乱は起きないものと予想されていた。 しかし、越中富山城周辺において一部の農民が蜂起。城に向かって火を放とうと動き出した模様である。 これは謙信による扇動があったとの見方が強まっている。 その他の国では国衆が団結しており、加賀、摂津及び各領内の一向宗門徒にも本願寺からの門徒に対する檄文がでていたので問題はなかった。 丹後に関しては戦後の余燼が残っており多少の不安はあるが、姉小路軍が駐屯しているので蜂起するにも出来ない状況である。 今後、越中の農民の様に姉小路家の統治に不満を持つ小勢力が包囲網側にそそのかされて蜂起する可能性はあるが、大規模な反乱にはいたらないであろう。 ただ、万が一姉小路家が敗れた場合にはその支配体制が緩むことは十分に考えられるので油断できない状況に変わりはない。
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投稿者:たこすけ ◆So3fZ8IS7I 投稿日:2006/12/17(日) 名前:姉小路頼綱 年齢:35歳 略歴:「信長の●望シリーズ」の一部作品ではゲーム開始早々滅ぼされる事で有名な飛騨国の大名。当時の飛騨国は織田家や上杉家、武田家等の大勢力に囲まれ、表裏比興の者と言われてもおかしくない(実際言われていたのは真田昌幸だが)状況だった。それでも上杉家と手を結ぶと次第に勢力を付け始める。やがて上杉家当主の謙信が没すると、今度は尾張美濃の織田家と手を結び、さらに力をつける。そして、本能寺の変が起きた頃、ついに飛騨一国を完全に支配するようになる。 その後、羽柴秀吉とは手を結ばず、半秀吉戦線に加わった。しかし、秀吉と親しい金森長近に侵攻され降伏。その後、一命だけは助けられ、京に幽閉される。そのまま病死。 因みに、頼綱の妻は斉藤道三の娘だというからかなりの奸雄だったらしい。 容姿:身長は160cm程度だが、猫背が入っている為、実際よりも低く見える。目、眉とも付け上がり、口には某探偵アニメのへっぽこ探偵に似たちょび髭。「近所の嫌われものおじさん」と思っていただければ幸い。無双の師将タイプみたいに頭には烏帽子をかぶり、公家のよう。 友好関係: →上杉謙信・・・我が姉小路家が生き残る為には従属するのも致し方あるまい。でも、ただそれだけのことである。 →織田信長・・・我が姉小路家を生き残らせてくれるだ~いじな後ろ盾。死なせるわけにはいかぬ。 →羽柴秀吉・・・信長が生きていたときはかのような下賎の者、致し方なく話してやってただけである。信長が死んだ後となっては何の用も無い。 →明智光秀、柴田勝家、徳川家康・・・羽柴に屈せぬ者達はここにもおったか。いずれはお味方いたすつもりぞ。 →佐々成政・・・利用価値抜きに信頼している男。唯一の親友でもある。 性格:人は利用する物としか考えない(史実、そういう人物だったそうです)。謙信も、信長も一時の仲。姉小路家を将軍家以外では何においても誇り高きものと考える。言い換えれば、殆どの人間を見下していると言っていいまた、物事を他人のせいにする傾向もある。もうもはや悪の代名詞。 武装:孫六兼定作の名刀。 能力:エンパで言うならば凡庸タイプ。 固有技能『虎視耽々』攻撃をガードした時に無双ゲージが増加する 特殊技1『激励』側に居る味方軍のいずれかの能力を一定時間UP「一応は味方じゃ・・・勝ってもらわねば困るからな・・・」 特殊技2『表裏比興者もどきの意地』敵の能力を一定時間DOWN「敵にこれ以上勢いをつけられてはわしらが堪らんわ・・・」 キャラクター選択時「姉小路家は賢き家ぞ!」 無双奥義「わしがぁ!」(発動時『巧』の文字)「姉小路頼綱よ!!」 無双秘奥義「利用できれば・・・」(発動時『奸』の文字)「無駄にはせぬ!」 敵将撃破「敵将、わしに心奪われたわ!」 敵将撃破誉め「わしの為にもっと働けぃ!」 100人撃破「ん?わしについてこれる奴らはおらぬか、つまらぬ・・・」 千人斬り「もはや誰も利用する必要あるまいぞ!」 千人斬り誉め「わ、わしはき、貴殿に付いて行くぞ!今決めたわ!!」 苦戦「使えぬ・・・こたびの味方は実に使えぬ!」 孤立注意「貴様が勝手に死ぬのは良いが、わしにまで迷惑をかけるとは何事か!」 救援感謝「ふむ、まだ利用価値はありそうだな・・・」 邂逅A「ほう・・・利用できそうな顔つきをしとるではないか・・・」 邂逅B「その気迫・・・わしに味方すればいっそう恐ろしき物になるぞ!」 逃亡A「利用する相手を間違えたか・・・!くそ!!」 逃亡B「このようになるなら始めから貴殿と手を組むべきであった!すべて後の祭りよ・・・」 敗北「なぜこのわしが死なねばならぬ・・・死なねばならぬのは・・・わしじゃない・・・は・・・ず・・・」 勝利1「これからも色々と頼むぞ、○○(謙信、信長、勝家、家康のいずれか)殿!」 勝利2「何はともあれ勝てたのじゃ!そなた達の損害なぞ知ったこっちゃないがな!」 勝利3「こたびの味方は危うかったわ・・・はぁ・・・」
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第二次姉小路包囲網 永禄11年9月に打倒姉小路家を目的として組まれた諸国連合の名称である。足利義昭によって提唱され、武田、上杉両家が中心となって形成した。 経緯及び概要 永禄九年の姉小路包囲網は目的を果たせぬまま永禄十一年に瓦解し、その直後の第二次稲葉山会戦は武田家にとって歴史的大敗となってしまった。 この状況を最も憂いたのは足利義昭である。 武田家がもはや単独で姉小路家と戦えない以上、今後武田が姉小路と結び、 上杉領に攻め入ってその功績をもって姉小路家に有利な条件で恭順することはありうる。 上杉家も姉小路家と同盟し、奥羽攻略の後に関東管領の大義名分をもって疲弊した関東へ姉小路家と共に攻め入ることは十分にありうる事態であった。 義昭はそのような状況を防ぐために先手を打つ形で第二次姉小路包囲網を提唱したのである。 武田家としては多くの兵を失った直後で、広大な領土を治める大義名分である将軍を失えば領内の動揺が避けられないことから参加を余儀なくされた。 その後の上杉家の快諾によって包囲網は再び形成されたのである。 足利義昭の檄文に応じて包囲網を築いたのは、武田家、上杉家、北条家、三好家、毛利家などである。 全体の状況 今や姉小路は、北陸・畿内・中国を中心に二十五ヶ国 (飛騨・美濃・越中・加賀・能登・越前・近江・伊賀・大和・山城・摂津・和泉・河内・紀伊・丹波・丹後・若狭・播磨・因幡・但馬・出雲・伯耆・石見・周防・安芸・備後) を領する最大勢力であり、名実ともに最も天下に近い位置にいる。 これに対して包囲網側の最大勢力は十六ヶ国を領する武田家 (甲斐・信濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸・磐城)、 次いで六ヶ国(越後・岩代・羽前・羽後・陸前・陸中)の上杉家、 以下五ヶ国の三好家(讃岐・備前・備中・美作・阿波)、 四ヶ国の北条家(伊豆・遠江・伊勢・志摩)、 三ヶ国の毛利家(長門・土佐・伊予)と続き、合計三十二ヶ国(重複を除く)となる。 領国数の上だけならば反姉小路陣営が優勢に見えるが、奥州や四国の生産力は畿内ほど高くないことを勘案すると、 上杉の切り取り確実と見られる陸奥・蝦夷を加えたとしても決して圧倒的な優位とは言えないであろう。 また、技術面においても姉小路が誇る鉄砲戦術に確実に対抗しうると見られるのは、 伊達家を吸収することで石垣・三層天守といった優れた築城技術を取り込んだ上杉家くらいのものである。 かつて無敵を誇った武田騎馬隊の神通力も決して衰えたわけではないが、 過去数次に渡る合戦を通じて姉小路側も対抗手段を編み出しており、絶対的な優勢条件ではなくなっている。 このほか姉小路の鉄砲戦術に比肩するのは、竹束を装備した毛利弓隊と、 諜報によって新式鉄砲の自国生産に成功した三好鉄砲隊くらいのものだが、 両家とも生産力の点では姉小路には遠く及ばず、兵力差で押し切られる可能性が高い。 足利義昭の檄文 義昭が氏康に送った御内書(命令文)は以下である。 度ゝ申出候勢越甲和融事、対両国申遣之処、請之趣宜候、 然者雖有存分、此節閣是非令同心、妖婦、逆徒討伐之儀馳走之段、被頼思食候、 妖婦之事、別紙相見候、 御太刀一腰助長、御腹巻一領紫肩紅三物、遣之候、 猶晴信可申候也、 (花押) 相模守とのへ 意訳 度々申し上げていた伊勢北条、越後上杉、甲斐武田の和議の事を両国に下知したところ、 承諾する旨を返答して参りました。 ですので、思うところはあると思いますが、これを機に和議を同意していただき、 妖婦、逆徒を討伐するために奔走していただく事、お願いいたします。妖婦のことについては別紙にあります。 また、助長の太刀一腰、紫で肩紅三の腹巻鎧一領をそちらへ遣わしました。 更に信玄が(書状にて)が申し上げるでしょう。 足利義昭 相模守(北条氏康)殿へ この御内書本文だけでは妖婦が誰を指すのかが分からないが、これは別紙にて博麗・霧雨・八雲、八意の四人である事が分かっている。 さらにこの御内書以外にも信玄の添え状、飯河信堅及び槇島昭光連著の添え状があった。 また、使者の智光院が義昭の言葉として述べた事柄も記録されている。 (詳細は第一次包囲網との相違点の【3】檄文による姉小路家中の切り崩しと「異能狙い」 にて後述) 第一次包囲網との相違点 【1】西国方面の縦深の消失 前回の包囲網においては、毛利・山名・尼子といった西国の諸大名が、姉小路領を東西から挟撃して戦力の集中を阻む重要な役割を果たしてきた。 しかし、今回の包囲網形成までの間に山名と尼子は姉小路に降伏して姿を消し、 毛利もまた郡山、山口といった主要な拠点を喪失して、事実上四国に押し込まれる形となってしまっている。 そのため、反姉小路陣営が山陰~山陽に保持する主だった拠点は、三好領の岡山のみという状況である。 残る下関、能島、下津井の各拠点は、城砦というよりは水軍の策源地としての港湾拠点であり、陸上からの侵攻に対する防備はほとんど為されていない。 また、大友・島津といった九州の諸大名は包囲網には参加していないため、 この正面の反姉小路勢力は事実上四国のみを策源地として姉小路に対抗するほかなくなっている。 瀬戸内海の制海権については、建艦技術に一日の長がある毛利・三好方が辛うじて保持しているが、 四国の中央部を領する長宗我部家は姉小路と同盟を結んでおり、 両家にしてみれば西国有数の歩兵技術水準を誇る強国に後背を扼される格好となっている。 すなわち、姉小路の圧迫に対して反攻に転じるための戦力を涵養すべき後背地が、最前線となってしまったのだ。 この縦深の浅さは、反姉小路勢力にとっては致命的な戦略上の弱点となっている。 【2】東国方面の戦力消耗 今回もまた包囲網の中核を成している武田であるが その主力兵団は直前の第三次稲葉山出兵における壊滅的な損害から回復していない。 これは、同じく包囲網の一翼を担う上杉家が奥州の仕置を完了しておらず 対姉小路戦線に全力を指向できないことを考えると、致命的な事態と言える。 実際、これに乗じて松永弾正率いる大和衆が伊勢亀山に兵力を集結させ、東海道沿いを関東方面へと打通する構えを見せている。 先年の根こそぎ動員の結果、この方面の武田軍に大和衆の進撃を阻止する力は残っていないと見られ、 勢い次第では東征軍は、松永の戦略目標と見られる駿遠三のみならず伊豆・相模までも切り取ってしまうだろう。 また、伊勢を領する北条家は第二次稲葉山出兵における国力の消耗から未だに立ち直ることができず、完全動員体制を取れる状況にはない。 大和衆の東征が始まれば、彼らの領国はその矢面に立たされることが確実な情勢であり、 緒戦の損害次第では北条家は単独で包囲網から脱落して姉小路に屈服する可能性もある。 【3】檄文による姉小路家中の切り崩しと「異能狙い」 上述の不利を挽回すべく今回足利義昭がとった方策は、姉小路にとっては「搦め手」とも呼べる方面からの揺さぶりである。 これまでの姉小路の隆盛は、いわゆる「異能」と呼ばれる女性達の助力によるところが大きいことがそれなりに知られているが、 義昭は檄文の中で一貫して彼女達を「妖しの者」「姦婦」と罵っており、 特に出雲守護の博麗、丹後守護の霧雨、かつて幕府侍所所司の地位にあった八雲、 そして一時期の姉小路良頼の側近であり、現在大和衆の軍監を務める八意の四人については、 完全に名指しで「国を専断し、人の世を滅ぼさんとする妖異の化生」として幕府の名の下に全国の武士に宛てて追討を命じており、 これらの者を討ち取らば、出自や仕える主君に関わらず(つまり現在姉小路家中に身を置く者でさえも、ということである) 幕府において重く用いると宣言し、その武功は後の世に至るまで称えられるべきものであると結んでいる。 なお、上記の四人のうち博麗・霧雨・八雲の三人が槍玉に挙げられている理由については、 彼女達は過去または現在において幕府の職を与えられており、 異能の者がそのような地位を占めることには以前より各方面から反発があったことに乗じたものと見られる。 残る八意が名指しされているのは、 彼女こそが目下包囲網勢力にとって最大の脅威となっている大和衆の要であると義昭が見抜いていたことによるものであろう (もっとも、義昭が身を寄せていた武田家中や上杉家中においても異能の者が武将として加わっていたのだが、 彼女達はあくまで客分として扱われており、姉小路のように家中で要職に上るようなことは少なかった)。 そして興味深いのは、前回の包囲網が形成された際には逆賊の首魁として第一の追討対象とされていた姉小路良頼本人については、 家中の異能の者を追放した上で、畿内において切り取った領土(これは山城・摂津・和泉・河内・大和・紀伊・近江・伊賀・丹波・丹後・若狭の十一ヶ国であろう)と 不正に朝廷より任じられた官位を返上すると共に将軍家に対して謝罪と臣下の礼を取って隠居すれば、 嫡男の頼綱ともども罪を赦免すると述べていることである。 既に姉小路が北陸および中国において強大な勢力圏を獲得していることを考慮すると、 これはある意味で姉小路の覇権を一部追認するものとも言え、 この時点で義昭は、ここまで強大化した姉小路を武力によって完全に取り潰すことは困難であると認識していたとも取れる。 一方で義昭は、姉小路家中の有力な将帥に対しても個別に決起・離反および異能追討を呼びかける檄文や密書を送っており、 朝倉(宗滴)・細川・明智・松永といった重臣宛に発行された文書の一部が後世に伝わっている。 とはいえ、朝倉は「武士は勝つことこそ本分。公方様は勝っておられぬではないか」と取りつくしまもなく、 細川は書面に目を通しもせずに火鉢で焼き捨て、病床にて面会謝絶の明智に宛てた書状は腹心の斎藤に握りつぶされ、 松永にいたっては密書を届けに向かった間者がそのまま消息を絶ってしまったという。 このように、今回の義昭の戦術は、姉小路の力の源泉となっている異能の者と、 それ以外の覇業の原動力とを分断して各個に切り崩す謀略戦の形をとっている。 これを裏付けるかのように、三好・毛利両家の手の者を通じて、異能本人に対する直接の調略が行われた形跡がある。 これが成功した場合、姉小路家中における異能に対する反感が(特に新参の外様衆の間で) 大きな高まりを見せることは確実であり、それが異能排斥の動きへと発展する可能性は極めて高い。 また、義昭は近年九州や畿内を中心として急速に信徒を増やしつつある伴天連に対しても檄文を発している。 この中で義昭は天主教の教義を引き合いに出し、異能の者達が揮うとされている不可思議な力は、彼らの忌み嫌う「悪魔の業」に当たると述べている。 さらに義昭は、今回の包囲網形成に賛同して決起し異能討伐に参加することこそが、彼らの奉ずる天主様の教えに沿う行いであろうと続けている。 これは反姉小路陣営が伴天連に好意的であることを意味するものではない(むしろ、包囲網側にこそ天主教に敵対的な考えの持ち主は多いとさえ言える)。 あくまでも敵の敵となりうる勢力を味方に引き入れんが為の方便と見るべきだろう。 今のところ、伴天連は開明的な穏健派として知られる指導者のトーレス師によってよく統率されており、表立って檄文に反応する動きは見られていない。 しかし、今後伴天連の指導者が彼らの教義に厳格な人物に交代するようなことがあれば、 姉小路は一向一揆などよりも遥かに始末の悪い対宗教戦争に踏み込むことを強いられるかもしれない。 最悪の場合、南蛮勢力を糾合した宗教的討伐軍(すなわち三百年ぶりの十字軍)が日域に送り込まれる可能性すら考えられる。 もっとも、これは杞憂であろう。親伴天連的な大名である大友家が島津に押されている上、 トーレス自身の働きかけと硝石の確保のための貿易関係から姉小路は比較的伴天連には寛容である(一向宗との兼ね合いから多少の制限はあるが)。 彼らの本国であるイスパニアの経済状況からして討伐軍の派遣は博打に近く、実現は極めて怪しい。 加えて姉小路家という事実上の権力者と元将軍家の一門にすぎない義昭とを天秤にかければどちらを重視するかは明らかである。 【4】反姉小路勢力の海上における優位性の揺らぎ 前述したように、瀬戸内海の制海権は三好、毛利が今もなお維持している。 だが、姉小路家の西進によって本州の出撃拠点を次々と失っている現在、その優位性は大きな揺らぎを見せている。 出撃拠点を喪失した部隊は四国東部沿岸、下関、瀬戸内海の島々に拠点を移したが、 補給面と人材面の問題、また人間自体の限界などから、活動不可能地域、いわゆるシースポットが急速な広まりを見せている。 瀬戸内海で最大の勢力を誇る三好はその海上戦力の大半を岡山城を中心とした備前、 備中の本州と阿波、讃岐の四国間への輸送へ振り分けている為、その保有戦力に反して大規模な作戦行動が不可能になっている。 毛利も姉小路の侵攻を受け、陸上兵力の不足を補う為に練達した船乗りを始めとした水軍所属者をも陸上戦闘に投入し、結果的に著しい水軍力の低下をもたらした。 戦力低下と同時に本州の産業基盤と造船設備を失った為、その再建には多大な労力と時間が必要になってしまった。 水軍力の低下は既に表面化しており、それまでは毛利水軍が海上の物見櫓とまで呼んでいた水軍による豊後水道での検閲、監視活動が鈍化しつつある。 毛利は往来する船舶量、時には舟艇による九州、土佐への小規模な威力偵察によって敵国の情報を探り、攻勢の時期を予測し作戦計画を立てていたが、 水軍力の低下は同時にこういった諜報力の低下をも意味している。 陸、海両軍が更なる打撃を被った場合、毛利の命運は決すると言っても過言ではない。 姉小路家が渡洋侵攻への関心、技術を持たず、更には東方での攻勢にでようとしている現在、 毛利は戦力の回復をはかる時間はあるだろうが、かつての栄華を誇った毛利水軍の復興が可能かと問われれば、首を傾けざるを得ないのが実情である。 中部以東の勢力、武田、上杉といった部隊も陸上戦力を中心とした勢力であることからその保有する海上戦力は極めて脆弱である。 上杉家はかつて弾幕要塞回避のため、あえて海上侵攻での能登上陸を試みたが、 上陸前に姉小路の火煎に絡めとられ、全く勝負にならなかった経験から、水軍そのものに懐疑的な考えを見せていた。 武田家も状況は似たようなもので、吸収した里見家の人材を中心とした小規模な部隊を維持するにすぎなく、 壊滅的打撃を被った陸上部隊の再建の為、そのわずかな部隊すら抽出する有様であった。 例外的に北条家はその低下した国力に見合わない水軍力を保有していた。 増強はもちろんのこと、維持するのさえも多額の資金が必要な水軍を北条家が維持している目的は、栄養源の確保にあった。 実質上、北条家唯一の支配下である伊勢は、比較的経済力の豊かな北部は武田と姉小路の板挟みの関係から、 常に謀略戦、あるいは一部の悪質な兵による田狩り、誘拐騒ぎが起こっており、額面通りの生産を上げることは困難になっていた。 伊勢中部から南部にかけての石高は、かつての武蔵、相模、伊豆の合計に比べ、生産力で大きく劣っており、 また、元々北条家の治めていた地域とは異なり、反北条を掲げる諸勢力も少なくなく、その国力を制限する一翼を担っていた。 北条家が選んだ道は海で魚介類などを捕ることによる、タンパク源の確保(この時代にタンパク質の概念自体は存在しなかったが)にあった。 限られた土地で可能な限りの兵を養うための苦肉の策であり、唯一の道であった。 従ってその戦力はほとんどが漁船、あるいは小型の護衛船であり、その実情は貧弱な物でしかなかった。 このように反姉小路勢力の最後の優位ともいえる海上戦力も、実情は非常に危ういものだった。 ただ一つの幸いは姉小路家に水軍知識の豊富なものがおらず、他国の水軍の状況を正確に理解できなかったことである。 実際、輪島港防衛戦を見るように、陸上から鉄砲を撃ちかけるという形をとっており、一部の者が水上に出たことでその部隊が壊滅させられている。
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[部分編集] (信長の野望 武将風雲録)姉小路の野望 使用ゲーム 信長の野望・武将風雲録 シナリオ・担当勢力 シナリオ2(1571年) 姉小路家 登録武将 なし 紙芝居・ストーリー なし 投稿時期 2007年6月8日~6月14日(完結、全12回) 投稿者名 yks32 関連タグ 【姉小路の野望】 リスト なし 備考 次作→(太閤立志伝V)姉小路の野望 解説 高難易度大名として知られる姉小路でのプレイ。 最終回(12回目)はいきなり「その53」だったりと、ツッコミどころは多い。 痩せた国土に苛斂誅求、ODA頼みという、「北朝鮮」ならぬ「飛騨朝鮮」プレイは大いに受けた。 ちょっと天下統一してみる(義総の野望)と並ぶ、初期の動画作品であり、 「てれってー」「モロッコ」などの弾幕文化の発祥の地でもある。 動画削除されとる・・・ -- 名無しさん (2021-12-29 10 50 34) 名前 コメント
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☆このページでは、霧雨の野望における姉小路頼綱 (三木自綱)について詳細に解説しています。 史実での姉小路頼綱 (三木自綱)について詳しく知りたい方はwikipediaなどの姉小路頼綱 (三木自綱)を調べてください 姉小路頼綱 (三木自綱)(あねがこうじ よりつな、天文9年(1540年) - ?) 「いい笑顔で人を篭絡し天下へ手を伸ばす程度の人物」 姉小路家(三木家)一門。天下統一を目指すいい笑顔の若者。 Act53現在、飛騨守護でありこの時代の風習から言っても姉小路家跡取りと言ってよい。多くの戦場で父の良頼の名代として前線で戦っている。この動画の主人公の一人といっても良いかもしれない。 なかなかの好人物であり、朝倉宗滴との会話から分かる通り向上心もある。 しかしその笑顔とは違い、単純な「いいひと」ではなくアリスや咲夜の扱いといい、なかなか抜け目がない。 このあたりは史実で謀略によって飛騨一国を纏め上げた手腕が反映されている。さらっと毒を吐くことも。 戦国武将で初めて空を飛んだ人間である。その際、魔理沙に密着していたと思われるがその笑顔に免じて許してあげる。 Act77で明智、斎藤、浅井ら三将が西国から離脱したことに伴い、陣頭指揮を執ることに。 全くの余談であるが戦国BASARA3において敵キャラとして出演を果たしている。 武将紹介登場:予告編 ☆出生・家族構成 1540年に姉小路良頼(三木嗣頼)の長男として生まれる。 弟に三木顕綱。 妻は斎藤道三の娘。なので斎藤義龍とは義理の兄弟だったりする。 戦国の婚姻関係は複雑怪奇也。 ☆官位・役職 飛騨守護(1562年3月・Act29~) 山城守護(1565年6月・Act54~) 侍従(1566年6月・Act70~) 右京大夫(1568年9月・決戦1~) ☆参加合戦 稲葉山城決戦、大聖寺城の戦い、筒井城防衛戦、洛南会戦、生野の戦い 革新能力 統率70 武勇60 知略77 政治66 義理47 足軽C 騎馬B 弓C 鉄砲D 計略B 兵器B 水軍D 築城C 内政D 戦法:先駆け、罵声、鼓舞、威圧、混乱 (Act48現在) うp主解説 後の姉小路頼綱。父の遺志を継ぎ、飛騨一国に覇を唱えた英傑。余談だが彼の妻は斎藤道三の娘で、よって信長とは義理の兄弟に当たる。飛騨一国を統一しただけの事はあり、能力値と適正はそれなりに高い。まさに三木家の希望、エースである。 緑の人解説 織田家に隣接しつつも自領を保つ本能寺の隙を窺い飛騨を統一するが、羽柴家臣金森長近に降伏、京に幽閉された。史実では謀略に長け親族やギリヨン江馬輝盛を殺し、後に一族は亡くなるか流浪の運命を辿る。当動画では幻想郷他によって変わった環境が、陰惨な宿命と性格を爽やかな物に変えつつある。
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霧雨の野望年表 霧雨の野望での歴史です。 登録タグ 技術開発 家宝 合戦 遠征 滅亡 降伏 包囲網 同盟 独立 内紛 官位 改名 1555年 (弘治1年) 6月?日 改名 松平元信→松平元康 今川家一門となる 10月?日 合戦 桶狭間の戦い 織田家が今川家に勝利 今川義元討ち死 Act1 11月10日 滅亡 武田家が太田家を滅ぼす 12月?日 遠征 三木家(飛騨)が越中(神保家)に侵攻 1556年 (弘治2年) 1月?日 合戦 三木10000(姉小路良頼(三木嗣頼))vs神保5500(神保氏張)で野戦三木家が勝利 2月?日 合戦 富山城の戦い 三木9568vs神保6400で攻城戦三木家が勝利(1556年5月20日富山城落城) Act2 3月?日 独立 松平家が今川家から独立 5月20日 滅亡 三木家が神保家を滅ぼす ?月?日 滅亡 長尾家が最上家を滅ぼす 1557年 (弘治3年) 6月5日 技術 三木家が長弓を取得 6月末日 遠征 三木家(飛騨)が美濃(斎藤家)に侵攻(第一次) 7月15日 合戦 飛騨川の戦い 三木13500(総大将・三木自綱)vs斎藤8000(総大将・遠山景任)野戦 Act5-6 8月5日 合戦 奇襲部隊3000(斎藤義龍) 奇襲失敗三木13000vs斎藤3000(同年9月三木家野戦勝利) 9月?日 官位 三木嗣頼が飛騨守護に就任 11月?日 内紛 織田信長が弟信勝を謀殺 11月20日 遠征 三木家(飛騨)が美濃(斎藤家)に侵攻(第二次)浅井家増援のため撤退 1558年 (弘治4年、永禄元年) 3月?日 改名 三木嗣頼→姉小路良頼三木自綱→姉小路頼綱 3月25日 遠征 三木家(飛騨)が美濃(斎藤家)に侵攻(第三次) 5月10日 合戦 稲葉山城決戦 三木14400(総大将・姉小路良綱)vs斎藤8445で攻城戦 三木家勝利(同年8月27日稲葉山城落城) Act8 6月20日 滅亡 武田家が長野家を滅ぼす 8月10日 遠征 本願寺家(加賀)が越中(姉小路家)に侵攻 8月30日 滅亡 姉小路家が斎藤家を滅ぼす 9月20日 合戦 本願寺家11000(総大将・下間頼廉)vs姉小路11000(内3100迎撃)で攻城戦本願寺家撃退(同年10月5日) Act10 12月?日 改名 武田晴信→武田信玄 1559年 (永禄2年) 2月20日 技術 姉小路家が鉄砲学舎を取得 3月1日 滅亡 織田家が北畠家を滅ぼす 3月15日 同盟 姉小路家と三好家が同盟 3月15日 滅亡 山名家が一色家を滅ぼす 6月?日 独立 宇喜多家が浦上家を乗っ取り独立 7月30日 技術 姉小路家が鉄砲鍛冶を取得 8月15日 滅亡 三好家が宇喜多家を滅ぼす 9月5日 遠征 姉小路家(越中)が能登(畠山家)へ侵攻 9月5日 滅亡 長尾家が蘆名家を滅ぼす 10月20日 合戦 七尾城下の合戦 姉小路10000(竹中重治、明智光秀)vs畠山16500(総大将・畠山義続)で野戦姉小路勝利→攻城戦へ移行姉小路9000vs畠山6800(1560年2月10日七尾城落城) Act15-16 11月20日 技術 姉小路家が御殿を獲得 1560年 (永禄3年) 1月?日 改名 木下秀吉→羽柴秀吉 1月20日 遠征 長尾家(南越後)が越中(姉小路家)へ侵攻 1月25日 技術 姉小路家が遠矢を獲得 2月5日 滅亡 武田家が足利家(古河公方)を滅ぼす 2月15日 合戦 越中防衛戦~殺し間へようこそ 姉小路7000(斎藤義龍、博麗霊夢)奇襲部隊3000(竹中重治)vs長尾先鋒8000(長尾景信)撃退姉小路6000(竹中重治、霧雨魔理沙)奇襲部隊3000(斎藤義龍)vs長尾家本隊13000(宇佐美定満、チルノ)防衛成功・姉小路家勝利(同年3月20日 Act17 4月1日 遠征 姉小路家(越中)が加賀(本願寺家)へ侵攻輪島港(畠山家)へ侵攻(二面作戦) 5月1日 合戦 輪島港の戦い 姉小路8000(稲葉良通、原長頼)vs畠山2050で攻城戦姉小路家勝利(同年7月5日輪島港落城) Act19-20 5月25日 滅亡 大友家が大内家を滅ぼす 6月10日 合戦 御山御坊の戦い 14000(斎藤義龍、竹中重治)vs本願寺5015で攻城戦姉小路家勝利(同年7月30日落城) Act19-20 7月5日 滅亡 姉小路家が畠山家を滅ぼす 9月5日 遠征 姉小路家(美濃)が北近江(浅井家)へ侵攻 9月25日 滅亡 島津家が肝付家を滅ぼす武田家が里見家を滅ぼす 10月1日 技術 姉小路家が早合を獲得 10月20日 合戦 姉川の戦い 姉小路11000(竹中重治、霧雨魔理沙)vs浅井18000(浅井久政、磯野員昌)で野戦 姉小路家勝利 Act22 11月1日 滅亡 北条家が今川家を滅ぼす 12月1日 家宝 姉小路家が遠江鹿毛を獲得 12月1日 技術 姉小路家が棟門を獲得 12月30日 遠征 姉小路家(美濃)が北近江へ侵攻(第二次) 1561年 (永禄4年) 2月10日 合戦 小谷城の戦い 姉小路10000(竹中重治)vs浅井12000(浅井長政)で攻城戦姉小路家勝利(同年6月1日小谷城落城) Act23 3月?日 官位 長尾景虎が関東管領に就任 3月?日 改名 長尾景虎→上杉謙信 3月30日 滅亡 織田家が筒井家を滅ぼす 6月1日 滅亡 姉小路家が浅井家を滅ぼす 7月5日 合戦 大聖寺城の戦い 姉小路13253(竹中重治、姉小路頼綱)vs朝倉8810(朝倉宗滴)+13000(アリス、朝倉景鏡)で攻城戦姉小路家勝利(同年10月10日大聖寺城落城) Act24-25 7月20日 滅亡 大友家が伊東家を滅ぼす 8月20日 技術 姉小路家が散弾を獲得 9月?日 官位 姉小路良頼が能登守護を獲得 9月15日 滅亡 長宗我部家が河野家を滅ぼす 11月15日 合戦 一乗谷城の戦い 姉小路17586(斎藤義龍、明智光秀)vs朝倉6660で攻城戦姉小路家勝利(同年12月30日一乗谷城落城) Act26 12月?日 官位 姉小路良頼が左衛門少尉に叙任 12月30日 滅亡 武田家が松平家を滅ぼす 1562年 (永禄5年) 1月?日 技術 姉小路家が鉄砲櫓を獲得 1月?日 降伏 朝倉家が姉小路家に降伏 5月?日 改名 大友 義鎮→大友宗麟 6月15日 合戦 姉小路28000(武田信虎、朝倉宗滴、明智光秀)vs六角10000(六角承禎、吉田重政)で野戦 姉小路家勝利 Act30 6月25日 合戦 観音寺城の戦い 姉小路26884(武田信虎、朝倉宗滴、明智光秀)vs六角5751で攻城戦 Act30 7月?日 降伏 六角家が姉小路家に降伏 8月5日 技術 姉小路家が灰吹法を獲得 9月1日 家宝 姉小路家が霞流砲術書を獲得 9月15日 遠征 武田家5万(三河)が尾張(織田家)に侵攻 9月15日 遠征 北条家3万(遠江)が伊勢志摩(織田家)に侵攻 12月10日 遠征 姉小路家(南近江)が大和(織田家)に侵攻 1563年 (永禄6年) 1月5日 合戦 筒井城の戦い 姉小路29000(竹中重治、浅井長政、朝倉宗滴)vs織田7800で攻城戦姉小路家勝利(同年1月25日筒井城落城) Act32 3月1日 家宝 姉小路家が大釘後立兜を獲得 4月1日 遠征 姉小路家(大和)が摂津(本願寺家)に侵攻 4月30日 合戦 姉小路19000(竹中重治、浅井長政)vs本願寺11000(本願寺顕如、服部友貞)+増援13000(本願寺教如、下間頼輝)で野戦 姉小路家勝利(同年6月20日) Act34-35 5月5日 技術 姉小路家が連式銃を獲得 6月?日 家宝 姉小路家が大芦毛を獲得 6月25日 合戦 堺港争奪戦 姉小路9000(浅井長政)+後詰9500(朝倉宗滴)vs本願寺9300で攻城戦姉小路家勝利(同年8月15日堺港陥落) Act35 7月10日 滅亡 武田家が佐竹家を滅ぼす 7月20日 滅亡 上杉家が安東家を滅ぼす 8月20日 遠征 姉小路家(河内)が和泉(織田家)へ侵攻 9月5日 合戦 岸和田城の戦い 姉小路9500(朝倉宗滴、浅井長政)vs織田4234で攻城戦姉小路家勝利(同年10月5日岸和田城落城) Act36 10月?日 包囲網 武田包囲網完成 参加勢力 姉小路、上杉、宇都宮、相馬、伊達 10月?日 官位 姉小路良頼が右京大進に叙任 10月5日 滅亡 姉小路家が織田家を滅ぼす 10月?日 遠征 三好家(讃岐)が紀伊(鈴木家)に侵攻(姉小路領内通過) 11月25日 遠征 姉小路家(大和)が紀伊(鈴木家)に侵攻 12月?日 家宝 姉小路家が古事記を獲得 12月?日 官位 姉小路良頼が美濃守護に就任 1564年 (永禄7年) 1月15日 合戦 雑賀城の戦い 姉小路12000(竹中重治、斎藤義龍)+三好13000vs鈴木13000で攻城戦姉小路家勝利(同年3月15日雑賀城落城) Act41-43 2月5日 合戦 筒井城防衛戦 姉小路(総勢23405)前衛16000(武田信虎、浅井長政)弾幕部隊500(姉小路頼綱他)遊撃部隊8000(朝倉宗滴)vs北条34000(北条氏康、他)で野戦防衛成功・姉小路家勝利(同年3月5日) Act42-43 2月15日 技術 姉小路家が元込銃を獲得 3月?日 家宝 姉小路家が紹鴎茄子を獲得 3月?日 官位 姉小路良頼が加賀守護に就任 4月5日 降伏 鈴木家が姉小路家に降伏 5月25日 同盟 姉小路家と長宗我部家が同盟 6月?日 家宝 姉小路家が乙御前釜を獲得 6月?日 官位 姉小路良頼が大和守護に就任 6月5日 遠征 姉小路家(山城・勝竜寺)が山城(足利家)へ侵攻 6月10日 滅亡 武田家が相馬家を滅ぼす 6月20日 合戦 洛南会戦 姉小路(総勢41000)前衛28500(竹中重治、朝倉宗滴)後衛9000(鈴木重秀、斎藤義龍明智光秀) 本隊3000(姉小路頼綱)vs足利(総勢64435)迎撃44000(足利義輝、八雲藍、北畠具教)+13000(細川藤孝、足利義秋)姉小路家勝利(同年9月15日落城) Act47-48 7月?日 内紛 宇佐美定満と長尾政景が溺死 7月?日 改名 長尾顕景→上杉景勝 8月20日 技術 姉小路家が火薬改良を獲得 9月?日 官位 姉小路良頼が治部大丞に叙任姉小路良頼が河内守護に就任 9月15日 滅亡 姉小路家が足利家(将軍)を滅ぼす 11月5日 遠征 姉小路家(山城・勝竜寺)が摂津(本願寺家)へ侵攻 12月?日 官位 姉小路良頼が民部大丞に叙任姉小路良頼が近江守護を自称 12月?日 改名 北畠具藤→長野具藤 12月25日 合戦 石山御坊の戦い 姉小路25578(蓬莱山輝夜、朝倉宗滴、鈴木重秀)vs本願寺10643+波多野28500(波多野晴通、宗高、秀治)で攻城戦姉小路家勝利(1565年3月25日本願寺家降伏) Act51-53 12月25日 遠征 姉小路家(山城)が丹波(波多野家)へ侵攻 1565年 (永禄8年) 2月10日 合戦 八上城の戦い 姉小路11692(明智光秀、浅井長政)vs波多野12000(迎撃8500波多野宗高)で攻城戦姉小路家勝利(同年4月30日八上城落城) 波多野宗高討死 Act52-53 3月?日 官位 姉小路良頼が兵部大丞に叙任姉小路良頼が越前守護を自称 3月25日 降伏 本願寺家が姉小路家に降伏 3月25日 滅亡 山名家が赤松家を滅ぼす 4月1日 技術 上杉家が軍神を獲得 4月1日 技術 島津家が猿叫を獲得 4月30日 滅亡 姉小路家が波多野家を滅ぼす 5月20日 合戦 姉小路5000(武田信虎)小牧山城を攻撃部隊壊滅により撤退 Act54 6月?日 官位 姉小路良頼が中務大丞に叙任姉小路良頼が山城守護を自称 6月15日 遠征 武田家(尾張・信濃)美濃(姉小路家)へ侵攻 6月20日 合戦 美濃防衛戦~弾幕結界 姉小路(稲葉山城総勢62300)迎撃:武田信虎9500弾幕:霧雨魔理沙15000計略:博麗霊夢5000vs武田尾張軍総勢85156総大将・武田勝頼 (高坂昌信内藤昌豊、真田信綱、上泉信綱原虎胤、榊原康政、秋山信友)+信濃軍39000 総大将・武田義信(真田昌幸、佐竹義重、木曾義在)7月20日 武田軍が土竜攻めを実行追加弾幕部隊10000(羽柴秀吉、武田信虎)8月5日 逆襲開始姉小路28000(武田信虎、羽柴秀吉、博麗霊夢)8月25日 武田軍壊滅 Act56-58 7月10日 技術 姉小路家が半鐘を獲得 8月25日 滅亡 大友家が阿蘇家を滅ぼす 8月30日 合戦 小牧山の戦い 姉小路27000(武田信虎、羽柴秀吉、博麗霊夢)vs武田7858で攻城戦姉小路家勝利(9月25日小牧山城落城) Act58 9月?日 包囲網 武田包囲網解散 参加残勢力:姉小路、上杉、宇都宮、伊達 9月?日 家宝 姉小路家が弱法師を獲得 9月?日 官位 姉小路良綱が摂津守護を自称 9月5日 滅亡 武田家が宇都宮家を滅ぼす 9月?日 改名 武田勝頼→諏訪勝頼 9月?日 技術 三好家が"明智筒"を獲得(早合、散弾、連式銃、元込銃) 作者イベント Act59 10月?日 状況 1565年10月現在の状況 10月1日 遠征 姉小路家(若狭・丹波)が丹後(山名家)に侵攻 10月20日 合戦 弓木城の戦い 姉小路35871(十六夜咲夜、斎藤義龍、明智光秀斎藤利三、八意永琳)vs山名12354で攻城戦姉小路勝利(11月20日弓木城落城) Act60 10月30日 技術 姉小路家が騎馬学舎を獲得 11月1日 遠征 上杉家(越後)が能登(姉小路家)へ侵攻 12月?日 官位 姉小路良綱が侍従に叙任姉小路良綱が越中守護を自称 12月15日 滅亡 大友家が龍造寺家を滅ぼす 12月20日 合戦 輪島港防衛戦 姉小路21397(鈴木重秀、佐々成政、小島職鎮鈴木重意、鈴木重泰)vs上杉45000(上杉景勝、斎藤朝信、色部勝長直江景綱、水原親憲)+援軍18000(安田景元、太田景資、富田氏実)で海戦上杉撤退により姉小路勝利(1月30日) 本庄実乃討死 Act61-62 1566年 (永禄9年) 1月25日 遠征 姉小路家(摂津)が播磨(山名家)へ侵攻 2月10日 合戦 姫路城の戦い 姉小路45985(浅井長政、斎藤義龍、明智光秀蓬莱山輝夜、斎藤利三、磯野員昌)vs山名31019(吉岡定勝、南条宗勝、垣屋続成延原景能)で野戦→攻城戦姉小路勝利(3月15日姫路城落城) Act62-64 2月20日 技術 姉小路家が牧場を獲得 3月?日 包囲網 姉小路包囲網 参加勢力:武田、上杉、三好、山名、北条、尼子、毛利 3月?日 改名 足利義秋→足利義昭 3月1日 遠征 北条家(伊勢)が大和(姉小路家)へ侵攻 3月10日 遠征 武田家(信濃)が美濃(姉小路家)へ侵攻 3月10日 遠征 上杉家(南越後)が越中(姉小路家)へ侵攻 3月15日 遠征 北条家(尾張)が美濃(姉小路家)へ侵攻 4月5日 合戦 稲葉山会戦 姉小路131219(八雲紫、小野寺輝道、武田信虎羽柴秀吉、細川藤孝、羽柴秀長丹羽長秀、籾井教業博麗霊夢、霧雨魔理沙、竹中重治)vs武田132000(武田信玄、高坂昌信、太田資正諏訪勝頼、北畠晴具、原虎胤真田昌幸、真田幸隆、武田信繁松平元康)+北条62000(北条氏康、北条氏照、北条氏邦魂魄妖夢)北条壊滅、武田撤退(5月5日) Act67-69 4月5日 合戦 第二次越中防衛戦 姉小路65695(柴田勝家、人形遣アリス、白岩レティ)vs上杉84500(柿崎景家、斎藤朝信、新発田重家氏家守棟、本庄繁長、村上義清小野塚小町、石川数正)上杉撤退(5月5日) Act67-69 4月5日 遠征 山名家(因幡)が播磨(姉小路家)へ侵攻 4月10日 技術 姉小路家が草鞋を獲得 4月10日 遠征 三好家(備前)が播磨(姉小路家)へ侵攻 5月5日 遠征 姉小路家(大和)が伊勢(北条家)へ侵攻 5月10日 合戦 播磨防衛戦 姉小路52069迎撃21000(斎藤義龍、明石全登)vs三好29500(三好長康、安宅冬康、十河一在)で防衛戦三好撤退により姉小路勝利(6月15日) Act69-70 5月25日 合戦 亀山城の戦い 姉小路28000(松永久秀、下間頼廉、滝川一益)vs北条7052で攻城戦姉小路勝利(6月20日亀山城落城) Act69-70 6月?日 官位 姉小路良綱が中務少輔に叙任姉小路良綱が播磨守護を自称 6月5日 遠征 姉小路家(美濃)が尾張家(北条)へ侵攻 6月20日 合戦 清洲城の戦い 姉小路55500(武田信虎、霧雨魔理沙、赤井直正松永久秀、下間頼廉)vs北条7159で攻城戦姉小路勝利(8月5日清洲城落城) Act70 6月20日 技術 姉小路家が蹄鉄を獲得 7月10日 遠征 武田(信濃)の岩村(美濃)に築城隊が出撃(8月5日支城築城) 8月?日 技術 北条家が真田丸を除く全築城技術を獲得山名家が固有を除く全足軽技術を獲得山名家が伊吹萃陣(三河魂互換)を獲得武田家が三層天守・鉄城門・真田丸を獲得 作者イベント 8月20日 遠征 姉小路家(丹後・播磨)が因幡(山名家)へ侵攻 9月?日 家宝 姉小路家が歯朶具足を獲得 9月?日 官位 姉小路良綱が紀伊守護を自称 9月5日 合戦 生野の戦い 姉小路55000(浅井長政、明智光秀、本願寺顕如斎藤義龍、磯野員昌、姉小路頼綱)vs山名49500(山名豊国、一色義道、吉岡定勝山名祐豊、伊吹萃香、南条宗勝)で野戦11月1日援軍として尼子29500(尼子晴久、立原久綱、市川経好田北鎮周、宇山久兼)(11月5日此隈城落城)攻城戦へ移行 Act72-74 11月10日 遠征 武田家(三河)が尾張(姉小路家)へ侵攻 11月5日 合戦 尾張撤退戦 姉小路52154(武田信虎)vs武田163500(武田信玄、諏訪勝頼、武田義信武田信繁、初鹿野昌次、高坂正信原虎胤、成田長泰、秋山信友木曾義康、太田資正、内藤昌豊大久保忠世、長野業盛)で撤退戦(12月20日清洲城陥落) Act74-75 12月?日 家宝 姉小路家が田付流砲術書を獲得 12月?日 官位 姉小路良綱が丹後守護を自称 12月10日 技術 姉小路家が金砕棒を獲得 12月10日 技術 島津家が鉄盾を獲得 1567年 (永禄10年) 1月?日 降伏 山名家が姉小路家に降伏 1月?日 状況 1567年1月の状況 作者イベント 2月10日 技術 姉小路家が旗指物を獲得 3月?日 家宝 姉小路家が論語を獲得 3月?日 官位 姉小路良綱が但馬守護を自称 3月5日 滅亡 上杉家が伊達家を滅ぼす 3月5日 遠征 姉小路家(但馬因幡)が出雲石見(尼子家)へ侵攻 4月10日 合戦 月山富田城の戦い 姉小路47646(姉小路頼綱、斎藤利三、磯野員昌明石全登、三木顕綱)vs尼子33860(尼子晴久、尼子義久、佐世清宗)野戦→攻城戦に移行(6月5日月山富田城陥落) Act79 6月?日 家宝 姉小路家が梅松論を獲得 6月10日 遠征 毛利家(安芸、長門)が出雲石見(姉小路家)へ侵攻 6月25日 降伏 尼子家が姉小路家に降伏 6月30日 技術 武田家が赤備えを獲得 7月10日 合戦 石見防衛戦 姉小路50323(姉小路頼綱、斎藤利三、磯野員昌明石全登、別所就治)vs毛利47000(毛利元清、平岡房実、花房正幸長船貞親、島清興、福原貞俊)で野戦毛利軍壊滅(8月10日) Act80-81 8月10日 滅亡 上杉家が斯波家を滅ぼす 8月15日 技術 姉小路家が馬上槍を獲得 8月25日 遠征 姉小路家(石見)が安芸(毛利家)へ侵攻 9月?日 家宝 姉小路家が太平記を獲得 9月?日 官位 姉小路良綱が出雲守護を自称 9月5日 遠征 上杉家(南越後)が能登(姉小路家)へ侵攻 9月10日 技術 姉小路家が足軽学舎を獲得 9月25日 滅亡 毛利家が西園寺家を滅ぼす 10月5日 合戦 第二次輪島港防衛戦 姉小路30307(伊吹萃香、黒田孝高、鈴木重秀レティ・ホワイトロック、佐々成政鈴木重意、鈴木重泰)vs上杉47000(北条景広、延沢満延、新発田重家水原親憲、直江景綱、斎藤朝信)で防衛戦上杉軍撤退(10月20日) Act82 10月5日 合戦 吉田郡山城の戦い 姉小路52919(姉小路頼綱、磯野員昌、明石全登別所就治、一色義道)vs毛利22429三好26500(三好義興、三好政勝、十河存保、三好政康)で攻城戦吉田郡山城陥落(11月10日) Act82 11月?日 技術 上杉家が築城技術を獲得(鉄城門、二の丸、石垣、四層天守) 作者イベント Act83 11月20日 遠征 姉小路家(石見・安芸)が石見(毛利家)へ侵攻 12月?日 家宝 姉小路家が舟戦以律抄を獲得 12月?日 官位 姉小路良綱が安芸守護を自称 12月25日 合戦 浜田城の戦い 姉小路33500(磯野員昌、三木顕綱明石全登)vs毛利12772(島清興、毛利清元)で攻城戦浜田城陥落(2月20日) Act84 1568年 (永禄11年) 3月?日 包囲網 姉小路包囲網終了 残存勢力:武田、上杉、三好、北条、毛利 3月?日 官位 姉小路良綱が左京大夫に叙任 3月5日 滅亡 島津家が相良家を滅ぼす 3月5日 技術 姉小路家が馬鎧を獲得 3月10日 遠征 武田家(美濃・尾張)が美濃(姉小路家)へ侵攻 3月15日 合戦 第二次稲葉山会戦 姉小路142914(八雲紫、羽柴秀吉、十六夜咲夜赤井直正、小野寺輝道、細川藤孝籾井教業、羽柴秀長、丹羽長秀滝川益重、荒木氏綱、淡河定範武田信虎、斎藤義龍)vs武田277232(諏訪勝頼、武田義信、武田信繁高坂昌信、太田資正、藤原妹紅小幡憲重、原虎胤、小幡信貞長野業盛、鳥居元忠、大関高増芳賀高定、服部正成、矢沢頼綱長野業正、本田忠勝、飯富昌景馬場信房、正木時茂、沼田祐光多田満頼、渡辺守綱、武田信玄佐竹義重、松平元康)で防衛戦武田軍壊滅・姉小路家勝利(5月30日) Act86-89 3月25日 滅亡 大友家が有馬家を滅ぼす 5月1日 滅亡 毛利家が一条家を滅ぼす 5月5日 遠征 姉小路家(周防・長門)が周防(毛利家)へ侵攻 6月?日 家宝 姉小路家が陰流之私を獲得 6月5日 合戦 山口館の戦い 姉小路47500(姉小路頼綱、博麗霊夢、霧雨魔理沙磯野員昌、明石全登、斎藤利三)vs毛利31226(小早川隆景、島清興、因幡てゐ、長船貞親)で攻城戦山口館落城(9月1日 Act91-93 9月?日 包囲網 第二次姉小路包囲網 参加勢力:武田、上杉、三好、北条、毛利 9月?日 官位 姉小路良綱が右京大夫に叙任 9月?日 状況 1568年9月現在の状況 決戦編Opening 9月1日 遠征 姉小路家(美濃)が尾張(武田家)へ侵攻 9月5日 遠征 上杉家(南越後)が越中(姉小路家)へ侵攻 9月10日 遠征 三好家(備中備前)が安芸備後(姉小路家)へ侵攻 9月15日 遠征 武田家(美濃・岩村城)が美濃(姉小路家)へ侵攻 9月20日 合戦 尾張攻略戦 姉小路145500(松永久秀、下間頼廉、八意永琳滝川一益、八雲紫、竹中重治斎藤義龍、十六夜咲夜、武田信虎明智光秀、姉小路頼綱、博麗霊夢斎藤利三)vs武田141333(諏訪勝頼、武田信繁、武田義信真田昌幸、上泉信綱、正木時茂大久保忠世、田村隆顕、小幡憲重飯富昌景、馬場信房、太田資正大関高増)11月15日小牧山城陥落、12月15日清洲城陥落 決戦1-3 9月20日 遠征 上杉家(南越後)が能登(姉小路家)へ侵攻 10月1日 遠征 三好家(阿波讃岐)が和泉河内(姉小路家)へ侵攻 10月5日 遠征 北条家(伊勢志摩)が大和(姉小路家)へ侵攻 10月5日 合戦 第三次越中防衛戦 姉小路57622(朝倉宗滴、柴田勝家、伊吹萃香本願寺顕如、鈴木重秀、アリス・マーガトロイド佐々成政レティ・ホワイトロック、磯野員昌鈴木重意、海北綱親、朝倉景鏡原長頼)vs上杉65500(上杉景勝、四季映姫、村上義清斎藤朝信、中条藤資、氏家守棟本庄繁長)10月20日上杉撤退 決戦2 11月10日 遠征 姉小路家(越中)が南越後(上杉家)へ侵攻 11月?日 合戦 堺撤退戦 姉小路0(将不在)三好5489で撤退戦(11月28日堺港陥落) 決戦3 12月?日 家宝 姉小路家が長烏帽子形兜を獲得 12月?日 官位 姉小路良綱が周防守護を自称 12月15日 技術 姉小路家が耳覆いを獲得 12月25日 遠征 武田家(美濃岩村城)が美濃(姉小路家)へ侵攻 12月25日 合戦 糸魚川の戦い 姉小路88327 (柴田勝家、伊吹萃香、朝倉宗滴鈴木重秀、磯野員昌、本願寺顕如佐々成政、十六夜咲夜、浅井長政)vs上杉69000(上杉景勝、柿崎景家、本庄繁長村上義清、水原親憲、延沢満延新発田重家)で野戦2月25日双方撤退 決戦4-5 1569年 (永禄12年) 1月10日 合戦 第二次美濃防衛戦 姉小路72154(霧雨魔理沙、博麗霊夢、八雲紫明智光秀、竹中重治)vs武田150000(武田信玄、高坂昌信、榊原康正太田資正、藤原妹紅、沼田祐光内藤昌豊、諏訪勝頼、武田信繁武田義信、長野業正)で防衛戦3月20日武田撤退 決戦4-6 3月?日 家宝 姉小路家が助光銘薙刀を獲得 3月5日 遠征 三好家(阿波讃岐)が和泉河内(姉小路家)へ侵攻(5月1日岸和田城陥落) 3月5日 遠征 姉小路家(越中)が南越後(上杉家)へ侵攻 3月15日 滅亡 毛利家が長宗我部家を滅ぼす 3月25日 合戦 南越後攻略戦 姉小路75692(朝倉宗滴、柴田勝家、本願寺顕如、鈴木重秀、十六夜咲夜、伊吹萃香、浅井長政)vs上杉50000程度(上杉景勝、柿崎景家、村上義清)で野戦&攻城戦7月20日春日山城陥落 決戦6-7 5月?日 家宝 姉小路家が八条流幸秀論を獲得 7月15日 滅亡 上杉家が南部家を滅ぼす 7月25日 遠征 姉小路家(南越後)が南越後柏崎・上野(上杉家)、信濃(武田家)へ侵攻 8月10日 合戦 柏崎港の戦い 姉小路vs上杉で攻城戦9月20日柏崎港陥落 決戦8 9月?日 官位 姉小路良頼が中納言に叙任 9月5日 遠征 毛利家(北伊予)が安芸備後(姉小路家)へ侵攻 9月25日 遠征 武田家(美濃・岩村)が信濃・海津(姉小路家)へ侵攻 10月5日 遠征 姉小路家(南越後)が北越後(上杉家)へ侵攻 11月5日 降伏 蠣崎家が上杉家に降伏 11月5日 遠征 姉小路家(美濃)が美濃・岩村(武田家)へ侵攻 11月15日 合戦 新発田城の戦い 姉小路家36000 (朝倉宗滴、紅美鈴、鈴木重秀原長頼、本願寺顕如、アリス・マーガトロイド浅井長政、小島職鎮)vs上杉家6515(四季映姫・ヤマザナドゥ)で攻城戦永禄12年11月30日新発田城陥落 決戦10-11 11月15日 合戦 岩村城の戦い 姉小路家90500(八雲紫、竹中重治、十六夜咲夜レミリア・スカーレット、羽柴秀吉、斎藤龍興赤井直正、籾井教業、橙八雲藍、荒木氏綱、前田利益丹羽長秀、羽柴秀長、小野寺輝道vs武田家89500(武田義信、上泉信綱、小幡信貞原虎胤、相馬義胤、山上照久大関高増、保科正俊、佐竹義重)で攻城戦永禄13年1月5日岩村城陥落 決戦10-11 12月?日 家宝 姉小路家が呑取を獲得 1570年 (永禄13年、元亀元年) 1月10日 遠征 姉小路家(尾張)が三河(武田家)へ侵攻 2月5日 合戦 知立合戦 姉小路vs武田で野戦 決戦13- 3月?日 官位 姉小路良頼が大納言に叙任 コメント(最新の8件を表示) とりあえず更新してみました。南越後より上越のがいいのかな? -- (有線) 2010-01-02 19 12 03 個人的には上越の方が良いですね。 -- (名無しさん) 2010-01-13 22 45 54 申し訳ないです。 数日悩んだ結果他に意見が無かったので、南越後攻略戦というページが糸魚川合戦のときに作成されていたのを再利用する形に。 一度ページを作ると消すのは管理人さんのお手間を取らすことになるので、 年表はこのままの形で上越も詳細内で併記という形にしておきます。 -- (有線) 2010-01-14 22 45 38 すみません。南越後のを再利用して頂いてありがとうございます。 内容、とても興味深く、おもしろかったです。 -- (奥由) 2010-01-23 00 55 02 8月20日、海津城陥落・真田幸隆捕縛・9月5日沼田城陥落。この二つは柏崎港戦のところにまとめてもいいかなと そしてチート祖父はなにしてたんだ。 -- (城島) 2010-03-11 19 45 08 仕事の都合上、長い間放置して申し訳ありません。 久々にメールを確認しまして登録しておきました。 -- (⑨) 2010-03-16 22 40 12 これからまたしばらく不在となります。すいませんがよろしくお願いします。 -- (⑨) 2010-03-16 22 41 12 管理人様、登録承認本当にありがとうございました。 一応、現状ではwikiは回っているので、大丈夫です。 いつもありがとうございます。 -- (有線) 2010-03-17 05 13 09 名前 コメント すべてのコメントを見る
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稲葉山城決戦 稲葉山城決戦(いなばやまじょうけっせん)とは弘治4年5月20日に稲葉山城において飛騨の大名姉小路良頼(三木嗣頼)と 美濃の大名斉藤義龍の間で行われた合戦。稲葉山城の戦い、金華山合戦とも呼ばれる。 姉小路家による美濃攻略第三次遠征にあたる。 参加兵力及び戦力評価 姉小路桜洞城兵 攻略部隊:足軽隊16000:姉小路良頼(三木嗣頼)、博麗霊夢、霧雨魔理沙 (城に取り付いた時点で14400まで損耗) 斎藤稲葉山城兵総勢8445 兵力差はほぼ倍であり、城壁突破までにどれだけ兵が残されるかが勝敗を分ける。姉小路が上回っていれば姉小路の勝利、下回れば敗北となる。 概要 姉小路良頼が美濃攻略を目的として突如稲葉山城を急襲した。斉藤義龍は先の飛騨川の戦いによって多数の兵を失っており野戦で迎撃することが出来ず、稲葉山城に篭城した。 稲葉山城は井戸がなく長期戦での篭城には不向きな城であり、第二次美濃遠征時と違い、浅井家の援軍が期待できないにも関わらず、義龍を中心に士気も高く姉小路の攻撃に対して激しく抵抗した。 これは斎藤義龍、明智光秀らの采配によるところが大きい。 また、姉小路家も連年の出兵により兵糧が不足しがちであったため、苦戦を強いられた。 しかしながら、小島職鎮や二木重吉の機転によって兵糧を買い集めることができたため、結局は圧倒的多数であった姉小路側が勝利し、浅井家の援軍を待たずして稲葉山城は落城した。 この戦いは姉小路家にとって決して楽な戦いではなかったようで、連年の出兵もあって兵士の厭戦気分が高まっていたとの資料もある。 それでも勝利を得ることが出来たのは後方からの物資の輸送や兵士の士気を高めるための方策を実行しつづけた姉小路頼綱を中心とした官僚団の後方支援によるところが大きかった。 合戦の影響 この戦いで姉小路良頼は美濃国を手に入れた。美濃は広大な土地で稲作も盛んであり、さらに多くの兵を養うことが出来るようになった。 また、都市の規模も大きく、公家町もあったことから朝廷工作が行いやすくなった。 しかし、何よりも重要なことは美濃の優秀な家臣団を吸収できたことであり、その後の姉小路家を支える中心的な役割を担う家臣団、美濃衆を組織できたことであった。 これらのことで、姉小路家はさらに勢力を伸ばし、列強の一角と呼ばれるに至った。 姉小路家が美濃攻略を急いだ理由 美濃城決戦が行われた時期は姉小路家は富山城の戦い、飛騨川の戦いと連続して兵を他国に送った後であり、国力がかなり疲弊していた。 なぜ、そのような時期に無理に出兵をしたのかについては以下のような説が有力である。 美濃側は飛騨川の戦いで兵力の多くを失っていた。 尾張の織田家と斉藤家の関係が悪く、織田家が北畠家を攻略した後に美濃に攻め込む可能性が高かった。 例え織田家に滅ぼされなくても時間が経てば優秀な家臣を多く抱える斉藤家が復興するのは目に見えていた。 越後の長尾家が力を伸ばしてきており、近い将来越中に攻め込んできて姉小路家が美濃を攻略できなくなる恐れがあった 以上の理由から姉小路家が美濃を攻略する時はこのときしかないと良頼が考えたとする説である。 この説が正しいかどうかは別として、結果的には美濃を攻略するタイミングとしてはこのときしかなかったと思われる。 逸話 この戦いの後に斉藤義龍本人の他に多くの家臣が姉小路家に下った。姉小路良頼は彼らの扱いについては後々まで非常に気を配ったようである。 美濃は肥沃な濃尾平野の過半を抱える大穀倉地帯であり、美濃一国で飛騨・越中をあわせた石高を越えてしまう。 姉小路家としては美濃衆を直臣にして義龍に権力が集中しないようにすることが不可欠であった。それを成す方法として一つには義龍を殺害することがあった。 しかし、姉小路氏の美濃攻略には大義名分が薄く、義龍殺害に反感を持たれて多くの美濃諸豪の支持が得られない可能性が大きかった。 できれば美濃衆に反感をもたれぬよう、全面的に義龍が協力してくれることが望ましかった。 戦後の酒宴で義龍の全面的な協力と臣従の約束を取り付けたことが序盤の姉小路家躍進の最大の功績であったといわれる。 ちなみに義龍が美濃守護として美濃にある程度の支配権を認められるのは永禄七年のことである。 多くの美濃の諸臣が臣従を誓う中、それに反して他国へ逃亡する者が出た。その最も有名な者は西美濃三人衆の一人である安藤守就である。 彼は姉小路氏の地盤の弱さを不安視して姉小路氏に仕えず、他国に流浪した。しかし、寄食していた山名家が滅ぼされた後に姉小路氏に戻ることとなった。 次に有名な者は遠山景任である。彼は岩村の領主であり、一族あわせて東美濃を支配していた。東美濃は領地が飛騨に接している事から姉小路氏が三木氏を名乗っていた先代の三木直頼から因縁があり、講和をした時期もあったものの基本的には常に争っていた。 威徳寺合戦では遠山景任の叔父の遠山直廉が三木良頼の伏兵にあって戦死しており、また、三木氏の防衛拠点の一つであった威徳寺がこの合戦で焼かれたことでますます対立を深めていた。 飛騨川の合戦でも景任は東濃諸豪を率いる主力として出陣している。稲葉山城決戦で敗れた後も姉小路氏に降るを良しとせず、流浪の道を選んだ。 八年後のことになるが、武田家が岩村に城を築くことができたのは景任不在の東濃の地盤が弱かったからであるといわれている。
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雑賀城の戦い 雑賀城の戦い(さいかじょうのたたかい)とは当時紀伊の代表者で、雑賀衆棟梁である鈴木重意と姉小路家と三好家との間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・筒井城兵 第一部隊:騎馬隊6000:竹中重治、アリス・マーガトロイド、ルーミア 第二部隊:騎馬隊6000:斎藤義龍、十六夜咲夜、霧雨魔理沙 鈴木・雑賀城兵総勢3445 守将:鈴木重意 援軍:10000:森田浄雲、寒川元隣 迎撃部隊:5000:鈴木重兼 第二部隊:5000 ?(鈴木重秀か?) 三好・総勢23500(阿波讃岐) 第一部隊:弓隊5000:三好長慶 第二部隊:5000:十河一在 第三部隊:6500:三好長逸 第四部隊:7000:三好義興 ほぼ姉小路が漁夫の利を得る形となっている。 三好は長距離行軍のため士気減退、しかも各隊の連携も悪く単独での落城は不可能。 鈴木は先の筒井城攻撃のため兵力を損耗、熊野港から援軍を行っているが総勢2.5倍の敵兵力を撃退するのは困難であろう。 概要 三好長慶は雑賀衆を攻撃するために姉小路家にが、総大将三好長慶の指揮で混乱が起きるどころか即座に反撃、竹中隊に城の櫓からの攻撃と三好軍の攻撃が集中して不利な状況が作られた。 しかし、その隙に斉藤義龍隊が一機に雑賀城を攻め落とし占領してしまった。 城を落された後も城の外にいた雑賀衆と三好軍は抵抗したが、拠点を奪われた雑賀衆と後方への連絡の絶たれた三好軍では流石に長く抗戦できずに敗走、雑賀衆は熊野港に十分な余力を残していたが姉小路家の降伏勧告をうけ降伏。雑賀衆は姉小路家に吸収された。 三好家の遠征の理由 三好家は姉小路家に道を借りて陸路にて雑賀城へ遠征している。これは非常に無理のある行軍である。 海路で熊野港を落して熊野港から雑賀城を狙うという方法もあったのにこのような無理な行軍を行ったのは何故だろうか、という疑問が生まれる。これを説明するのに以下のような説がある。 三好が庇護している織田信長に鉄砲隊の重要性を吹き込まれ長慶が雑賀衆を手に入れたいと思った為。 熊野港の守りは堅く、油断しているであろう雑賀城を攻撃する方がたやすいと希望的観測をした為。 熊野港を落せば北条家領伊勢と領土を接することになり、熊野港を維持するのは難しい為。 近畿の大部分を押さえている姉小路家に対して、一つの拠点を押さえておきたかった為。 しかし、仮に雑賀城を落せたとしても孤立した城を維持することは事実上不可能であるし(姉小路家ですら戦後に紀伊の維持の難しさから放棄している)、雑賀衆を手に入れるどころではないだろう。 この行軍はどう考えても愚策であり、三好長慶が心身に異常をきたしていた証左であると考えられてきた。 しかし、後に姉小路家の最新式の鉄砲『明智筒』の技術が盗まれ、三好家でも製造されていることから、この戦いと何らかの関係があるのではないかという説が出てきている。 雑賀衆の鉄砲隊について 雑賀衆は日本に鉄砲が伝来してよりすぐに射法と製造方法を学び取り、強力な鉄砲隊を持っていた。姉小路軍の鉄砲隊は鉄砲の数と質では圧倒的に勝っていたが、鉄砲隊の練度という点では劣っていたとされる。 その鉄砲隊の練度は鉄砲による「武将の狙撃」を史上初めて戦術に組み込んだほどであったという。多勢に無勢で敗れたとはいえ、この戦いでも雑賀の鉄砲隊は活躍した。 姉小路家の三好攻撃について この戦いの途中で三好と姉小路家との同盟期間が切れ、姉小路家は三好家の不意を突く形でその側背を攻撃している。 この策の立案は松永久秀とも竹中重治とも言われているがよくわかっていない。ただ姉小路良頼には両者の連名で献策されたといわれている。 この作戦行動には微妙な外交問題が関わるために前線は竹中重治、後方支援に松永久秀という形になっている。 この作戦の効果は三好家の近畿への影響力は弱めたこと、雑賀城を容易に落すことができたことであると言われている。 この戦いの影響 三好家は二万三千の兵を失って近畿への影響力が弱められた。そして姉小路家との関係は修復不可能なまでに悪化した。 対する姉小路家は優秀な鉄砲隊を持つ雑賀衆を吸収して、鉄砲隊がより強化された。ただし、紀伊国については維持の難しさから放棄している。 逸話 この戦いの最中鈴木重秀と霧雨魔理沙との間で一騎打ちが行われたと言われている。 実際には交戦の最中の出来事で、馬が行き交い矢が飛び交う中で行われた戦いであるため、純粋な一騎打ちと言えるかどうかは微妙ではある。 ただ、二人が弾を撃ちあっている様は美しく、周りの者が戦いの最中にもかかわらず魅入ってしまったといわれている。 その戦いは激しく、撃っては避け、撃ちながら避けを繰り返し、お互いの体に弾が掠めあうほどであったという。 結果の方は分かっていないが、戦後互いに無傷であったと言われるから勝負がつかなかったと思われる。 BGM "Cradle - 東方幻樂祀典 -"より東方妖々夢 "遠野幻想物語"