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名稱:太甲 伺服器及顏色: 3服紫 類型:武 性別:男 生命值:3800 武力:74 智力:68 防禦:42 敏捷:53 運勢:70 敘述:商太宗太甲,姓子,名曰至,是商朝第四位國王。太甲是商湯之孫,太丁之子。太甲在位初年,任用伊尹為相,商朝比較強盛。可是太甲三年時,太甲開始按 照自己性子辦事,以殘暴的手段對付百姓、奴隸,伊尹便把他放逐到桐宮。根據《史記》所記載,3年後,伊尹見太甲改過自新,便鄭重的將政權交給他。太甲復位 後,沈痛接受教訓,成為了一個勤政愛民、勵精圖治的聖君。太甲廟號為太宗
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名稱:沃丁 伺服器及顏色:5、6服綠 類型:文 性別:男 生命值:493 武力:33 智力:20 防禦:12 敏捷:44 運勢:83 敘述:沃丁亦稱羌丁,姓子名絢,是中國商朝的一位君王。他是太甲之子,太丁之孫。沃丁在父王太甲去世後繼位,在位期間,輔政功臣伊尹去世。沃丁死後,弟太庚繼位。
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ヨクテイ(沃丁) 中国殷王朝の帝王。 関連: タイコウ(7) (太甲、父)
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タイテイ(太丁) 中国帝王の系譜に登場する人物。 関連: トウオウ (湯王、父) タイコウ(7) (太甲、息子)
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タイコウ(7)(太甲) 中国殷王朝の帝王。 関連: タイテイ (太丁、父) ヨクテイ (沃丁、息子) タイコウ(8) (太庚、息子)
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タイコウ(8)(太庚) 中国殷王朝の帝王。 関連: タイコウ(7) (太甲、父) ショウコウ(6) (小甲、息子) ヨウキ(4) (雍己、息子) タイボ (太戊、息子)
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登録日:2024/01/08 Mon 20 00 00 更新日:2024/01/26 Fri 12 48 07NEW! 所要時間:約 20 分で読めます ▽タグ一覧 キングメーカー 中国史 仲虺 伊尹 伊摯 儒家 儒教 商 夏 夏末殷初 孟子 孫子 桀王 殷 湯王 竹書紀年 謀反 道家 道教 韓非子 伊(い)尹(いん)とは、中国史の人物。 湯王(とうおう)に仕え、殷王朝の建国に携わった名臣として知られる。 なお殷は商という名でも知られる。実のところ中国では今も昔も「商」表記が一般的なのだが、本稿では殷で統一する。 姓は姒(じ)、氏は伊(い)、名は摯(し)。 「尹」というのは官職名で、個人の名前ではない。 また「阿(あ)衡(こう)」という官職につけられたため、これを別名とされる。 湯王に「伊尹」に任命されるまでは伊摯(いし)というべきだが、本稿では断りない限り、一般に知られる「伊尹」の名で記述する。 【来歴】 ◇出生 夏王朝末期から殷王朝初期に掛けての人物。 中国ではとりあえず紀元前1649年の出生だとしているが、もちろん「大体それぐらい」という意味である。 『列子』によると、伊尹は空桑に生まれたという。現在の河南省・洛陽市の伊水県あたりと言われる。 『墨子』の尚賢篇では、伊尹の素性は有莘(ゆうしん)氏という諸侯の娘に仕えていた下僕であったという。 『水経注疏』の伊水篇にはこんな伝説がある。 「伊尹の母親は伊水のほとりに住んでいた。息子を妊娠していたとき、夢に伊水の神が現れて『臼に水があふれていれば洪水の兆候であるから東に逃げろ』と告げた。 果たして彼女は臼に水があふれているのを見た。彼女は隣人たちに洪水が来ると告げながら逃げたが、洪水はあっという間に村を飲み込んだ。 母親は空桑(地名ではなく、中に空洞のある桑の大木)に変化して、命と引き換えにその子を守った。 洪水が終わったあとに、有莘氏の女がこの桑の木のなかから赤子を見つけて拾った。その子はやがて料理人に養われ、成長するに及んで賢能と人徳を磨いていった。 殷は彼を尹に任命し、そこから伊尹といわれた」 別の説では、父親は屠殺と料理を専門職とする奴隷、母親は桑の葉を摘んで養蚕業を行う奴隷だったという。 父親のことに言及されるのは珍しいようだ。 この『水経注疏』の話はいかにも神話じみているが、とにかく出生が伊水流域であること、そして有莘国の料理人に養われる身となったことだけは確からしい。 やがて農耕に励みながらも、尭舜の道を楽しんで実践していたという。 また農業をする傍らで料理人の養父から料理の技術を教わった。もともとの勤勉さから、こちらの道も急速に飲み込んでいった。 長じては有莘国の君主・有莘氏からも見込まれ、料理人として仕えた。 ◇殷の湯王 ところで、当時は禹を始祖とする夏王朝の末期である。君主は桀王(けつおう)。名は履癸(りき)。 なお桀王の名前に関してだが、周代初期まで中国の君主は「十干王号」を用いた。そのため「桀王」という名は後世の諡号で、当時の彼は「履癸」が王号であったとみられる。また癸は十干の一つであるため、本名は「履」一字であろう。 当時はいわゆる封建制で、夏王朝を盟主として多数の諸侯国が同盟を組んでいた。有莘氏もそうした諸侯の一つである。 しかし、夏王朝はいつの頃からか勢力を減衰させており、諸侯の反乱が相次いでいた。 (この時代、遠くエーゲ海のサントリーニ島で大規模な火山噴火が起き、地球全土で大規模な気候変動が起きた。史書にも記述されている桀王在位時の天候不順や不作はこれが原因とも言われる) これに代わって勢力を伸張させ、新たな盟主として期待を寄せられつつあったのが、大邑商(しょう)の大乙(たいいつ)、後世に言う殷の湯王(とうおう)である。 伊尹はやがて湯王に仕える。 甲骨文のなかには「大乙と伊尹を併せ祀る」との記載もあり、王と併称されるほどの存在だった模様。 (余談ながら、殷代の甲骨文字や金文字では大乙は湯ではなく「唐」となっているらしい) この湯王に仕える過程は、『史記・殷本紀』には二つの説話が記録されている。 ひとつは、有莘氏の姫の下僕として仕えたという話。 もともと湯王に仕えたいという思いは伊尹にあったが、当時の身分制はほぼ絶対のものであり、春秋戦国時代のように「剣一本をひっさげて門戸を叩く」というわけにはいかなかった。 おりしも、有莘氏は姫を湯王に嫁がせるという政略結婚を進めていた。伊尹はこれを知ると、その姫に料理役の下僕として仕えた。 そしてその姫が湯王に嫁ぐと、伊尹は料理道具一式を携えて同行。滋味にすぐれた料理を出し、湯王が感心したところで徐々に王に接近した。 やがて湯王は、この料理人がただの料理人ではなく賢人であると知ると、彼を抜擢した。 こちらは、伊尹のほうから湯王に接近しようとしている。 『墨子』や『韓非子』はこの説に基づく記述をしている。 もうひとつは、湯王が伊尹を有莘氏から身請けしたという話。 湯王はかねてより伊尹が賢人であることを知り、なんとか味方に加えたいと願っていた。 そこで、有莘氏の領内にいた伊尹に何度も使者を送って宝物を差し出し、こちらに来てくれるよう懇願。 伊尹は五回も断った末にとうとう湯王に仕え、素王(王者の徳を持ちながら、王とならない賢人)や九主(三皇五帝のような過去の賢帝)の話を伝えて、湯王に王者のあり方を伝授した。 しかし、こちらの話では伊尹は湯王のもとを去り、いったん夏王朝に仕えた。 やがて桀王統治下の夏王朝はもう長くないと悟り、再び湯王の元に戻って、改めて殷に仕えた。 こちらでは、湯王の側から伊尹を招聘している。 『孟子』万章篇ではこの説が詳しく説明されている(*1)。 また『孫子』用間篇ではいちど伊尹が夏に仕えたことについて「湯王の密命でスパイとして赴任した」としている。 いずれにせよ、伊尹は湯王に仕えると、その参謀・軍師的立ち位置として活動を開始した。 儒家(孟子)は「尭舜の道を湯王に教えた」というものの、実際は夏王朝攻略の方略を湯王と練ったと言うことだろう。 また湯王には以前から仲虺(ちゅうき)という賢臣もおり、伊尹と仲虺が両翼となって湯王を補佐したという。 (仲虺は薛を領邦にしたという。また『尚書』には「仲虺作誥」なる文があった) ◇夏殷易姓革命 時に夏王朝は、三代前の甲孔の時代から諸侯への統制が乱れて兵乱が多発していた。 また当代の桀王(履癸)も、有施氏を討伐してその娘末喜(ばっき)を王妃とすると彼女のため宮殿を建てる、諫言を試みた臣下の関龍逢を斬り殺す、討伐した諸侯・岷山(びんざん)氏の娘を強引に奪って愛妾にする、それで寵愛の薄れた末喜を追放する、参勤した湯王を捕らえて監禁するなど、各諸侯の反感を買っていた。 なお、『竹書紀年』によると末喜は桀王から追放されて憤慨し、伊尹と同盟したという。 『史記』や『列女伝』を筆頭に、一般に末喜は桀王の寵愛を一身に受け、ともに快楽と堕落の限りを尽くしていたと言われるのだが、『竹書紀年』では少し違った趣で描かれている。 『韓非子』難四篇にも「桀王は岷山氏の娘を求めて攻め込んだ」という話が書かれており(末喜追放のことは書かれていないが)、春秋戦国時代後期にはそういう話も知られていた模様。 また末喜が追放されたのは洛水地域だったと言うが、伊尹の故郷・伊水は洛水のすぐ近く。 『孟子』や『孫子』用間篇などに記載された「伊尹は桀王のところにスパイに赴いた」というのはこのあたりの消息かも知れない。 やはり春秋戦国時代に編纂された『国語』には「伊水と洛水が涸れて夏が滅んだ」という記述もあり、伊尹と末喜(およびこの二人を中心とする勢力)の同盟は夏王朝にとってかなりの脅威となったようだ。 湯王は夏王朝転覆のため、まず夏王朝の首都・斟鄩(しんじん)(現在の二里頭遺跡)と街道でつながっている亳(はく)(現在の二里岡遺跡)という場所に本拠を移す。 続いて、各地の諸侯から信頼を受けるべく、近隣諸侯で神々・祖先霊への祭礼を欠いていた葛氏を討伐した。 この葛氏は、宗廟の祖先や神々の祭祀を怠ったばかりか、話を聞いた湯が「祭礼のための供物にされたし」と葛に送った家畜を自分が食らってしまった。さらに、湯が再び家畜を送ると、その使者に立った子供まで殺害した。これで、とうとう湯は葛を討伐した、という。 もっともこのあたりはプロパガンダだと思われるが、「祭礼を怠る者や兵乱を起こす者を討伐して、各地の諸侯に『秩序をもたらす新たな盟主』としての存在感を示す」というのは実際に湯王もやっただろうと思われる。 やがて湯王は、桀王・夏王朝への貢納や入朝を停止。これは湯王への本格的な反抗であった。 桀王は王者としての威厳を示すべく、各地の諸侯を糾合してこれを討伐。 この時は九つの諸侯が夏サイドに合流したため、不利を悟った湯王が降伏してわびを入れた。 が、一年後には再び湯王が反乱。 しかもこの時には、先の戦いで桀王側についた諸侯のうち顧氏・韋氏・昆吾(こんご)氏の三つを、拡充した戦力で打破していた。 昆吾氏については、桀王の失政に乗じて夏王朝への反乱を起こしたが、湯王は「夏王朝傘下の筆頭諸侯として、夏王に代わって」これを討伐したという。 桀王は湯王を討伐するべく、再び諸侯に派兵を発令するが、今度は諸侯が集まらなかった。 夏王軍と殷王軍は鳴条で激突。今度は、兵力が不足した夏軍を、湯王を中心とする連合軍が打ち破った。 敗走した桀王は都からも落ち、南巣(安徽省の巣湖市・居巣区)に逃げ込んで余生を送ったと言われる。「鳴条で戦死した」とも言われるが、少数のようだ。 いずれにせよ、中国の諸侯の盟主としての夏王朝はここに滅亡し、以後は殷王朝が中国の支配者として、長期政権を築く。 ただ、湯王は戦後処理の一環として夏の子孫(というか亡命した桀王本人?)をどこかの諸侯に封じた。その子孫は殷末まで続き、周公旦の封建で杞国に封じられた。「杞憂」という言葉はこの杞国の話である。 ◇伊尹と太甲 さて、桀王にとって代わった湯王(大乙)は、伊尹を尹に封じた。伊摯が正確に「伊尹」と呼ばれるのはこの時からである。 この「尹」については各文献や学者でいろいろと言われているが、要するに伊水一帯を治める諸侯にして殷王朝の傘下諸侯の筆頭、といったところだろう。 春秋戦国時代の楚の宰相を「令尹(れいいん)」というので、諸侯にして宰相的な存在、江戸幕府で言うところの老中(*2)のようなものであったと推定される。 湯王もやがて死没するが、当時の王権は兄弟相続だったので、その王位は湯の弟である外丙へ、また外丙の死後は末弟の仲壬へと受け継がれていった。 仲壬の死後、湯王の嫡孫・太甲が即位する。息子ではなく孫なのは、湯王の長男だった太丁は父より先に死去していたからだ。 しかし太甲は、湯王が定めて叔父たちが受け継いできた礼法を破る振舞いに多く及んでいた。 これに怒った伊尹は、湯王の霊廟があった桐という地に太甲を幽閉して、「伊訓」「肆命」「徂后」などの書物を書き送って、教育をし直したという。 またその間の政治は、伊尹が摂政として天下の政務を差配した。 幸い、太甲は自分のかつての行いを改悛し、伊尹の訓戒を修めて仁義に復したというので、伊尹も彼の監禁を解き、太甲を改めて殷王に復位させた。 伊尹が太甲に代わって統治していたのは三年だったという。 太甲の没後は、王位は息子の沃丁に受け継がれる。 伊尹は沃丁の八年に死没した。湯(太乙)、外丙、仲壬、太甲、沃丁の五代の王に五十余年に渡って仕え、没したときの年齢は百歳だったという。 ただ、このあたりは『孟子』にて、弟子たちの「過去の偉人にはこれこれと言った儒教的徳目に合わない伝説もありますが」という質問に対して、孟子が「いやそうではない、本当はこれこれこういう話の方が正しい、そういった非儒教的な伝説は俗説だ」と反論する場面である。 要するに「儒教の理想にあわせた偉人伝」を語っている場面での「伊尹の摂政」であるため、実際にそこまで浮世離れした美談であったとは少し信じがたい。没年がちょうど百歳というのも出来すぎである。 実際、『竹書紀年』では孟子のいうような美談ではなく「伊尹は太甲を放逐したあと自らが王位に就き、七年間にわたって君臨した。しかし太甲は七年をかけて勢力を回復し、ついに伊尹を殺害して王位を奪還した」「ただし伊尹の遺児である伊陟・伊奮には、伊家を復興・継承させた」とする。 こちらも、決して無条件に信用できるものではない。この直後には「周公旦も同様に甥の成王を放逐して、自ら王位に就いたが、やがて成王によって巻き返されたのだ」としており、伊尹と周公旦を被らせている。 しかし、もしそれが事実なら、周公旦が殺されもせず、本人も息子たちも諸侯として取り潰しもされていないのは不自然である(*3)。伊尹は『竹書紀年』では殺害されたことになっているのでなおさらだ。 要するに『孟子』も『竹書紀年』も、自説にあわせて伊尹(や周公旦)の伝説を書き起こしているわけで、そっくりそのまま真実だとは肯んじがたいところである。 殷代の資料はよく分かっていない部分も多く、なおさらである。 (例えば周公旦なら、周公旦の子孫である周公や魯侯の存在は文献のみならず出土資料からも明らかなのだが、伊尹の資料となるとそうはいかない) ただ、どの言及でも「伊尹が太甲に対して監禁する行いがあった」という点では一致している。 そういった伝説の根拠となる事象はあったのだろう。 ◇没後 伊尹が百歳で死ぬと、あとは息子の伊陟・伊奮が継いだ。 殷の王位は、沃丁の死後は弟の太庚が継承。 太庚死後は、太庚の長男の小甲、次男の雍己、三男の太戊へと兄弟相続した。 伊陟は、太戊の代に政策の諮問を受けたことが『史記』に記されている。 沃丁と太庚は湯王の曾孫で、その太庚の子が太戊なので、湯王からすると玄孫に当たる。 伊尹が仕えてから五代目の子孫に仕えたのが伊尹の息子、とは少し考えづらいので、伊陟は伊尹の孫ぐらいかも知れない。 ◇出土資料 甲骨文字の資料では、殷代末期の甲骨文に伊尹の存在が見られるという。 それによると、殷では末期でも伊尹を祀っており、生贄として捧げる家畜は殷の歴代王と同じ数が用意されていたとのことで、これは最大級の敬意が払われていたとみて良いだろう。 とすると『竹書紀年』の記述はやはり信用しがたいところか。『孟子』もそのまま鵜呑みにできるわけではないが…… 発掘資料によると、夏王朝の都・斟鄩(しんじん)の跡地とみられる望京楼遺跡にて、大規模な戦闘の痕跡が見つかっている。 見つかる遺骨の多くは切断や打撲のあとが見られ、建物もほとんどが破壊された状態で見つかるという。やはり当時も「戦争」と言うにふさわしい規模の戦いがあったようである。 【評価】 伊尹は後世、王業を支える名臣として知られるようになった。 例えば『孫子』や『韓非子』では太公望らとともに君主をよく補佐する名臣として伊尹の名を挙げている。 しかし一方で主君である太甲を監禁・放逐したエピソードから、『竹書紀年』に記されたように「大逆の臣下」「臣下が君主に危害を加える例」としても記憶されていた。こちらは周公旦とは大違いである。 前漢の権臣・霍光(かくこう)が、一度は昌邑王劉賀を帝位につけながら、わずか27日で「素行不良」といいながら廃し、代わりに宣帝を即位させたこととあわせて、こうした「君主の素行不良を口実に臣下が君主の首をすげ替える、大逆の行い」を「伊霍之事」といった。 『三国志』で少帝廃立と献帝即位を画策する董卓に対して、盧植(ろしょく)がこの故事を引き合いにして反発したという記述がある。 (ニュアンス的には「伊尹と霍光だから君主の廃立というものができたのだが、董卓ではムリ」というもので、伊尹を直接に大逆の臣下とそしっているわけではないが……) 『竹書紀年』が発掘されたのは呉が滅亡する直前の279年だったので、 盧植はともかく 陳寿は恐らくこの『竹書紀年』を読んでいただろう。発掘前にこのことが人口に膾炙していたかは不明だが(*4)、当時はかなりセンセーショナルな話題となったであろう。 【伝説】 ◇散逸した文献 古代に登場した伝説的な人物であるため、彼にまつわる、または彼の名にあやかった文書・書籍は非常に多い。 さらに殷王朝初期の人物ということで、様々な分野で「始祖」として扱われているのも特徴的。 『漢書・芸文誌』では、伊尹の情報をまとめた「伊尹五十一篇」や「伊尹説二十七篇」などがあったという。残念ながら現在は伝わらない。 この「伊尹五十一篇」は道家の項目に筆頭として記されていたことから、後世伊尹は道家思想の系譜に分類された。 「伊尹説二十七篇」は小説家(*5)の項目だが、ここでもやはり筆頭に置かれている。 『漢書・芸文誌』に三十二巻あったという医書『湯液経法』は伊尹の著書という伝説であり、医学の祖としても扱われている模様。 『湯液経法』自体は唐代には散逸したものの、一部医書に引用された文章でそうしたことが記録されている。 多くの古典で、伊尹は料理人として人生をスタートさせたと言われている。 おかげで後世の料理人から、厨房の祖として祀られるようになった。 夏王朝を殷王朝が滅ぼした際の詳しい記録は、もちろん残っていない。だから伊尹がどの程度軍事知識を持っていたかは不明である。 しかしいずれにせよ、夏王朝に勝利した側の重要人物であることは確かなので、兵法家の始祖としても扱われている。 上述した「伊尹五十一篇」や「伊尹説二十七篇」についても、班固の注釈によると、兵法について多く記してあったといい、春秋戦国時代にはそういう認識であったようだ。 まあ「兵法家の始祖」の位置は一般には武成王こと太公望が置かれがちだけど。 【余談】 日本史にも伊尹にまつわる人物は登場している。 藤原家で初めて「関白」という称号を冠した藤原基経は伊尹の官職「阿衡」に由来する「阿衡事件」を起こして藤原氏の権勢を天下に示したことで知られる。 また藤原伊尹という、その名もずばり伊尹に由来する人物もいる。 追記・修正は三年間にわたって引きこもった人物にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 漫画版の封神演義の影響で殷周革命についてはある程度知っているけど夏殷革命はほぼ知識ゼロなので勉強になりました -- 名無しさん (2024-01-10 05 14 36) 名前 コメント
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名稱:大庚 伺服器及顏色:4、5服綠 類型:文 性別:男 生命值:460 武力:33 智力:22 防禦:10 敏捷:41(42) 運勢:83 敘述:大庚誤稱小庚,又作太庚,姓子名辯,是中國商朝的一位君王。大庚是太甲之子,沃丁之弟,在沃丁死後繼位。大庚死後由其子小甲繼位。
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【元ネタ】古代中国、容成氏、竹書紀年 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】伊尹 【性別】男性 【身長・体重】156cm・73kg 【属性】秩序・悪 【ステータス】筋力D 耐久D 敏捷B 魔力A 幸運D 宝具B 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 単独行動:A マスター不在でも行動できる。 ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。 【固有スキル】 魔術:B 水神権能を利用した仙術寄りの魔術技能。 ありとあらゆる水の自在操作を可能とする。 神性:C 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 洪水神の子とされている。 水避けの加護:B 洪水神から与えられた水難避けの加護。 水属性の攻撃によるダメージを大幅に削減する。 信賞必罰(真):B 法に則り賞罰を厳格に行う性質。 私を棄て、秩序に殉じる法の番人としての気骨なので、時に融通がきかない。 【宝具】 『悪浄の矢雨(ティーパン・フォンシュエ)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:10~40 最大捕捉:1000人 天子の象徴である宝弓に、不浄を洗い流す水神権能を装填して放つ溺罪撃矢。 天に向けて放つことで不浄を流す雨の矢として無数に降り注ぎ、心に不浄を持つ者だけを撃ち貫く。 また、この宝具によって放たれる矢には“浸透”の概念がしみ込んでおり、 撃ち貫いた対象の魂魄に浸透して、その人物の不浄の量に応じた応報のダメージを毎ターン与え続ける。 【Weapon】 『無銘・弓』 金色の鉞と並ぶ商帝国の帝権象徴の宝物。 一部の文献では帝権簒奪者として描写されることがあるために獲得している装備。 【解説】 商(以下、広く知れ渡っている名称である「殷」とする)帝国最初の宰相。 殷の初代王の湯王に仕え、「衡(はかり)に次ぐ公正さ」という意味で阿衡と称される。 その出生は半ば伝説的であり、洪水神の息子とされることがある。 出生国の伊の邑を洪水が襲った時、赤ん坊の伊尹は、桑の木に乗って助かり、 摯と名付けられ、夏王朝に仕える下僕として育てられた。 湯王が東方を巡っている最中にスカウトされ、「三顧の礼」の末に 夏の暴君桀の暴虐から逃れるために湯王に仕えることとなる。 湯王に仕えることとなると、伊尹は湯王を補佐し、鳴条の戦いにて桀を破り、殷の成立に貢献。 自身は湯王の死後も殷に仕え、五代目の帝・沃丁の代まで仕えた。 “竹書紀年”に於いては四代目の帝である太甲を追放して一時的に帝を名乗った簒奪者として描写されるが、 他の史書には太甲が暴虐であったために厳格な法の番人である伊尹によって追放され、 後に和解したと記されており、簒奪などの記述はない。
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殷 又號商、外紀云、盤庚以後方始號殷、 殷王成湯子姓名は履(り)。其の先を契(せつ)と曰う。帝嚳の子なり。中略 契、唐虞の司徒と為り、商に封(ほう)ぜられて姓を賜う。十四世の後、天乙 (てんいつ)湯と為る。 〔殷王成湯〕子姓、名履、其先曰契、帝嚳子也、母簡狄、有娀氏女、見玄鳥墮卵呑之、生契、爲唐虞司徒、封於商賜姓、【成湯】王號也、或曰諡、蔡氏曰、武功成、故曰成湯、【契】音薛、【娀】音嵩、【玄鳥】燕也、【卵】欒上聲、【司徒】官掌邦敎、敷五典擾兆民、【商】州屬陝西、【賜姓】賜子姓也、傳昭明、相士、昌若、曹圉、曰冥、曰振、曰微、曰報丁、報乙、報丙、主壬、主癸、主癸子天乙、是爲湯、始居亳、從先王居、【昭明】契子、【相士】昭明子、相去聲、【昌若】相士子、【曹圉】昌若子、圉音語、【冥】曹圉子、【振】冥子、【微】振子、【報丁】微子、【報乙】報丁子、【報丙】報乙子、【主壬】報丙子、【主癸】主壬子、【亳】音薄、蔡氏曰、亳在宋州穀熟縣、今歸德府是也、案全書、相士嘗都於此、故曰從先王居、 人をして幣を以て伊尹を莘(しん)に聘(へい)せしめ、之を夏桀に進む。用いず。尹復た湯に帰す。桀、諌者(かんしゃ)関龍逢を殺す。湯、人をして之を哭せしむ。桀怒り湯を召して、夏台に囚う。已(すで)にして釈(ゆる)さるるを得たり。 伊尹、湯に相として桀を伐ち、之を南巣に放つ。諸侯、湯を尊んで天子と為す。 使人以幣聘伊尹于莘、進之夏桀、不用、【伊尹】伊姓、尹字、名摯、【莘】音瑟平聲、國名、史記注、在汴州陳畱縣東、趙氏曰、在同州郃陽縣、未詳孰是、尹復歸湯、桀殺諫者關龍逢、湯使人哭之、桀怒召湯、囚夏臺、已而得釋、【復歸】說見孟子、【逢】音龐、【夏臺】獄名、疏云、周曰圜土、殷曰羑里、夏曰釣臺、秦曰囹圄、一也、【釋】解也、湯出、見有張網四面而祝之、曰從天降、從地出、從四方來者、皆罹吾網、湯曰、嘻盡之矣、乃解其三面、改祝曰、欲左左、欲右右、不用命者、入吾網、諸侯聞之曰、湯德至矣、及禽獸、【罹】音離、遭也、【至】極也、伊尹相湯伐桀、放之南巢、諸侯尊湯爲天子、【南巢】蔡氏曰、廬江六縣有居巢城、今無爲州巢縣也、桀奔於此、因以放之、【尊湯爲天子】通鑒、湯旣革夏命、乃以建丑月爲正月、色尙白、牲用白、以白爲徽號、服冔冠而縞衣、 契 堯の異母兄にあたる 唐虞の司徒 唐は堯、虞は舜、司徒は文部大臣 幣 進物 莘 地名 聘せしめ 招聘し 相 宰相 南巣に放つ 南巣(地名)に追放した 大旱七年。太史之を占うて曰く、当に人を以て祷(いの)るべし、と。湯曰く、吾が為に請う所の者は民なり。若し必ず人を以て祷れとならば、吾請う自ら当らん、と。遂に斎戒し、中略 桑林の野(や)に祷る。六事を以て自ら責めて曰く、 政(まつりごと)、節あらざるか、民、職を失えるか、宮室崇(たか)きか、女謁(じょえつ)盛んなるか、苞苴(ほうしょ)行わるるか、讒夫(ざんぷ)昌んなるか、と。言未だ已(や)まざるに、大いに雨ふること方数千里。 大旱七年、太史占之曰、當以人禱、湯曰、吾所爲請者民也、若必以人禱、吾請自當、遂齋戒剪爪斷髮、素車白馬、身嬰白茆、以身爲犧牲、禱于桑林之野、以六事自責曰、政不節歟、民失職歟、宮室崇歟、女謁盛歟、苞苴行歟、讒夫昌歟、言未已、大雨數千里、【太史】官、掌羲和之職、卽今之欽天監官也、【占】音瞻、【以人禱】殺人以祭、【爲請】之爲、去聲、言湯爲民請雨、【齋戒】洗心曰齋、防患曰戒、【爪】側巧切、【斷】音端上聲、【嬰】纏也、【女謁】婦女請謁、【苞苴】饋遺也、苞如今合子、苴子魚切、其藉也、 太史 天文官 人を以て祷る 人をいけにえにして雨乞いをする 六事 政治に節度があるか、失職者がいないか、住まいが立派すぎないか、女官の 内緒の頼みごとがないか、賄賂が横行していないか、讒言する者がいないか。 苞苴 つと、わら 物を贈るとき、つとに包み、わらを敷いたから 賄賂。 <書き下し文 作成中> 湯崩、太子〔太丁〕早卒、次子〔外丙〕立、二年崩、弟〔仲壬〕立、四年崩、太丁之子〔太甲〕立、不明、伊尹放之桐宮、居憂三年、悔過自責、尹乃奉歸亳修德、諸侯歸之、【卒】音遵入聲、曲禮、大夫死曰卒、太丁未立而死、故亦稱卒、【不明】不明厥德、孟子曰、太甲顚覆湯之典刑、【桐宮】桐湯墓所在、伊尹營宮、放置太甲於此、【三年】太甲爲仲壬、後、故爲居憂三年、自太甲、歷〔沃丁〕〔太庚〕〔小甲〕〔雍己〕至〔太戊〕亳有祥、桑穀共生于朝、一日暮大拱、伊陟曰、妖不勝德、君其修德、太戊修先王之政、二日而祥桑枯死、殷道復興、號稱中宗、【沃丁】太甲子、【太庚】沃丁弟、【小甲】太庚子、【雍己】小甲弟、己音紀、【大戊】雍己弟、戊音茂、後皆倣此、【朝】音潮、【祥】孔安國曰、祥妖怪也、二木合生、不恭之罰、【拱】兩手所圍曰拱、通鑒作七日大拱、【伊陟】伊尹子、【中宗】號太戊爲中宗、自太戊、歷〔仲丁〕〔外壬〕至〔河亶甲〕避水患遷于相、【仲丁】太戊子、通鑒、是時亳都有河決之患、乃遷都于囂、【外壬】仲丁弟、【河亶甲】亶音丹上聲、外壬之弟、【水患】河決之患、【相】去聲、州屬河東、今彰德府、至〔祖乙〕居耿、又圮于耿、【祖乙】河亶甲子、【耿】鄒氏曰、在河中府龍門縣、有故耿城、通鑒云、相都又有河決之害、復遷于耿、【圮】音皮上聲、河水所毀曰圮、歷〔祖辛〕〔沃甲〕〔祖丁〕〔南庚〕〔陽甲〕至〔盤庚〕自耿復遷于亳、殷道復興、【祖辛】祖乙子、【沃甲】祖辛子、【祖丁】沃甲子、【南庚】沃甲子、【陽甲】南庚弟、【盤庚】陽甲弟、自盤庚、歷〔小辛〕〔小乙〕至〔武丁〕夢得良弻、曰說、說爲胥靡、築于傅巖、求得之、立爲相、武丁祭湯、有飛雉、升鼎而雊、武丁懼而反己、殷道復興、號稱高宗、【小辛】盤庚弟、【小乙】小辛弟、【武丁】小乙子、【弻】輔也、【說】音悅、下同、臣名、姓傅、【爲胥】之爲去聲、【傅巖】案、傅巖在陝州虞虢之界、嘗有㵎水壞道、使胥靡刑人築之、說賢而隱、代築以供食、高宗使人求說、至此而得之、孟子曰、傅說擧於版築之閒、是也、【相】去聲、【雉】野雞、【雊】音構、嗚也、【反己】思道、猶孟子所謂反其仁之類、己音紀、自武丁、歷〔祖庚〕〔祖甲〕〔廩辛〕〔庚丁〕至〔武乙〕無道、爲偶人、謂之天神、與之博、令人爲行、天神不勝、乃僇辱之、爲革囊盛血、仰射之、命曰射天、出獵、爲暴雷震死、【祖庚】高宗子、【祖甲】祖庚弟、【廩辛】祖甲子、【庚丁】祖甲次子、【武乙】庚丁子、【偶人】以土木爲人曰偶人、【博】局戲曰博、【爲行】之爲、【爲暴】之爲、竝去聲、【行】代行博釆、【革囊】革皮、囊袋也、【盛】音成、下同、【射】音石、下同、釋音云、凡泛而言射、則音麝、指物而射、則音石、【震死】以其非命、故不稱崩、 帝辛、名は受、号して紂と為す。資 弁捷疾、猛獣を手挌す。智は以て諌を拒(こばむ)に足り、言は以て非を飾るに足る。始めて象箸を為(つく)る。箕子嘆じて曰く、彼、象箸を為る。必ず盛るに土簋(どき)を以てせじ。将に玉杯を為らんとす。玉杯象箸、必ず藜藿(れいかく)を羹(あつもの)にし、短褐(かつ)を衣(き)て茆茨の下に舎(やど)らじ。則ち錦衣九重、高台広室、此に稱(かの)うて以て求めば、天下も足らじ、と。 歷〔太丁〕〔帝乙〕至〔帝辛〕名受、號爲紂、【太丁】武乙子、【帝乙】太丁子、【帝辛】帝乙子、【受】通鑒作受德、【紂】諡法、殘義損善曰紂、資辯捷疾、手挌猛獸、智足以拒諫、言足以飾非、始爲象箸、箕子歎曰、彼爲象箸、必不盛以土簋、將爲玉杯、玉杯象箸、必不羹藜藿、衣短褐、而舍茆茨之下、則錦衣九重、高臺廣室、稱此以求、天下不足矣、【挌】音格、擊也、【象箸】象牙箸也、象獸名、長鼻長牙、生南越、其牙可作器、箸音除去聲、【箕子】箕國、子爵、紂諸父也、【土簋】簋內圓外方、以盛黍稷、土簋瓦器、【將】音漿、【藜藿】藜野菜、藿豆葉、【衣】去聲、著也、【褐】毛布曰褐、【九重】謂宮闕深也、重平聲、【臺】築土爲臺、【稱】去聲、 手挌 手でうつ 箕子 紂の庶兄 土簋 粗末な器 藜藿 あかざと豆の葉 短褐 丈の短い着物 茆茨 かやぶき 紂、有蘇氏を伐つ。有蘇、妲己を以て女(めあ)わす。寵有り。其の言皆従う。賦税を厚うして、以て鹿台の財を実(み)て、鉅橋の粟を盈つ。沙丘の苑台を広め、酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、長夜の飲を為す。百姓(せい)怨望(えんぼう)し、諸侯畔(そむ)く者有り。紂乃(すなわ)ち刑辟(へき)を重くす。銅柱を為り、膏(あぶら)を以て之に塗り、炭火の上に加え、罪有る者をして之に縁(よ)らしむ。足滑らかにして跌いて火中に墜つ。妲己と之を観て大いに楽しむ。名づけて炮烙の刑と曰う。淫虐甚だし。庶兄微子数々(しばしば)諌むれども従わず。之を去る。比干(ひかん)諌めて三日去らず。紂、怒(いか)って曰く、吾れ聞く、聖人の心(むね)には、七竅有り、と。剖(さ)いて其の心を観る。箕子。佯狂して奴と為る。紂之を囚(とら)う。殷の大師、其の楽器祭器を持して周に奔(はし)る。 紂伐有蘇氏、有蘇以妲己女焉、有寵、其言皆從、厚賦稅、以實鹿臺之財、盈鉅橋之粟、廣沙丘苑臺、以酒爲池、懸肉爲林、爲長夜之飮、百姓怨望、諸侯有畔者、紂乃重刑辟、爲銅柱以膏塗之、加於炭火之上、使有罪者緣之、足滑跌墜火中、與妲己觀之大樂、名曰炮烙之刑、淫虐甚、庶兄微子數諫、不從、去之、比干諫、三日不去、紂怒曰、吾聞聖人之心有七竅、剖而觀其心、箕子佯狂爲奴、紂囚之、殷大師、持其樂器祭器奔周、【妲】丹入聲、【己】音紀、【女】去聲、【縣】懸同、【畔】叛同、背也、【辟】音平入聲、法也、【膏】油也、【跌】音迭、【樂】音洛、【炮烙】音庖洛、炮炙、烙燒也、【庶兄】妾母所生曰庶、【微子】微國、子爵、名啓、【數】音朔、【比干】紂諸父、王子也、【竅】苦弔切、孔也、【剖】普口切、刳也、【箕手佯狂爲奴】古人奴婢、皆以罪人爲之、箕子因諫得罪而遭囚、故爲奴、○愚案、微子去之、欲存宗祀、比干死爭、欲悟君心、箕子佯狂、意猶規諫、跡雖不同、爲仁一也、【大師】微子、【周】文王所封之國、○鄒氏曰、案論語言、微子去之、是不仕於王朝而遯耳、初不言其歸周也、夫以商主同父之兄、而自歸於周、是忘君辱身、而先亡其宗國矣、微子其肯爲之乎、 鹿台鉅橋 財宝や穀類を貯蔵する場所 怨望 望もうらむ 刑辟 辟は罰 庶兄 妾腹の兄 比干 紂の諸父 七竅 七つのあな 佯狂 狂人を装う 大師 音楽を司る長官 周公昌及び九侯、鄂侯は、紂の三公たり。紂、九侯を殺す。鄂侯争う。并(あわ)せて之を脯(ほ)にす。昌聞いて嘆息す。紂、昌を羑里(ゆうり)に囚(とら)う。昌の臣散宜生、美女珍宝を求めて進む。紂大いに悦び、乃ち昌を釋(ゆる)す。昌退いて徳を修む。諸侯多く紂に叛いて之に帰す。昌卒す。子發立つ。諸侯を率いて紂を伐つ。紂牧野に敗れ、宝玉を衣(き)て自ら焚死(ふんし)す。殷亡ぶ。 周侯昌、及九侯、鄂侯、爲紂三公、紂殺九侯、鄂侯爭、幷脯之、昌聞而歎息、紂囚昌羑里、昌之臣散宜生、求美女珍寶進、紂大悅、乃釋昌、昌退而修德、諸侯多叛紂歸之、昌卒、子發立、率諸侯伐紂、紂敗于牧野、衣寶玉自焚死、殷亡、【昌】文王、【三公】太師太傅太保曰三公、漢襲秦以丞相御史太尉爲三公、後以大司馬大司徒大司空爲三公、復置師傅保、在三公上、光武二十七年詔、司徒司空竝去大字、改大司馬爲大尉、一也、【爭】諍同、諫止也、【脯】焟乾其肉、【羑】音酉、【散宜生】散氏、宜生名、【牧野】在紂都朝歌之南、【衣】去聲、箕子後朝周、過故殷墟、傷宮室毀壞生禾黍、欲哭不可、欲泣則爲近婦人、乃作麥秀之歌曰、麥秀漸漸兮、禾黍油油兮、彼狡童兮、不與我好兮、殷民聞之皆流涕、【朝周】案史記、武王旣克殷、乃封箕子於朝鮮、而不臣、今曰朝周、猶左氏所謂於周爲客者也、【墟】去聲、【禾黍】禾五穀總名、黍苗似蘆穗黑色、實圓重、俗謂曰糯粟、【欲泣云云】泣者淚下而不敢發聲、近婦人所爲、【漸漸】漸當作𦾶、麥秀貌、【油油】盛貌、【狡童】史記云、紂也、【好】如字、善也、殷爲天子三十一世、六百二十九年、九、通鑒作八、案、紀年、殷有天下、實六百四十五年、 脯 干し肉
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