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西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清の咸豊帝妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺。 中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。 紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。 生涯 西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。 1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に妃号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。 西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば, 西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。 最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。 いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。 などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。 1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。 政権掌握 thumb|right||250px|[[頤和園にて。西太后]] アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだ東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。 1874年同治帝は大婚皇帝や天皇の結婚を意味する。を機に親政を行おうとしたが若くして崩御、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、現代日本では天然痘によるものであるとされている。 同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。 1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。 東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。 日清戦争以後 光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、海軍予算を西太后肝いりの頤和園再建へ流用していた事が主要因の1つといわれる。 日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意。改革に好意的と見られていた袁世凱が一部で進めていた西太后幽閉計画を密告した事により変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを戊戌六君子という。。わずか3ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。 2004年出版の台湾雷家聖著『力挽狂瀾:戊戌政變新探』によれば、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう次から次へと要望を上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下は拱手の礼をして人に譲るようなものだ」と西太后に進言した。このような烈しい主張は、西太后をして9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入らせ、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。ところが、伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。それを受けて、変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝に上奏し、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。・・・・・・皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城に戻った後、20-21日この話を知り、事態の重大さを悟ったため、即断しクーデターを起こして自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。 西太后は権力の座に返り咲いた。さらに将来光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。 義和団の乱 1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初から好意的だった事もあり義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。 義和団事件の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。 義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に諸所の配慮を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始したが、立憲君主制を忌避する西太后が権勢を手放す筈も無く、根幹部分に手を付けない新政では辛亥革命への流れを堰き止めることはできなかった。 1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も74歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。 なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺したとする説がある(2007年調査では光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出された)。 後世の評価 権力欲と人を巧みに操る感覚は並外れたものを持っていたが、人材登用や施政の第一義を自らの権威確立としていたため、統治後半に政権中枢を与った高官の質は総じて低く、清朝崩壊の要因になった感は否めない。このような人民を顧みない政治を行い続けたことは、当時の中国人にとって、とりわけ不幸以外の何物でもなかった。 また諸外国との対立に際して、しばしば洋務担当者等の慎重論を軽視し、主戦論へ引きずられた見通しの甘い開戦を決断、戦後処理の際も安易な妥協や講和をし続けた。 人物・政治見識の無さから清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまったことについて、後世の歴史家達から批判されている。 注 関連項目 京劇 東陵事件 保慶帝 参考文献 濱久雄『西太后』ニュートンプレス、1984、ISBN 4315403482 ジョン・O.P. ブランド、エドマンド・トリローニー バックハウス共著・藤岡喜久男訳『西太后治下の中国―中国マキアベリズムの極致』光風社出版、1991、ISBN 4875190204 スターリング・シーグレーブ『ドラゴン・レディ』上・下、サイマル出版会、1994 徳齢著・井関唯史訳『西太后汽車に乗る』東方書店、1997、ISBN 4497975266 加藤徹『西太后』中公新書、2005年、ISBN 4121018125 雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月1日 (日) 12 21。
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登録日:2012/02/11(土) 23 10 05 更新日:2023/11/18 Sat 18 56 14NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 ジャイアニズム ヒステリックババア プロパガンダの被害者 世界史 中国 中国三大悪女 中国史 傾国の美女 再評価? 女帝 暴君 清帝国 清王朝 狂人 皇后 蒼穹の昴 西太后 西太后とは中国・清朝九代皇帝、咸豊帝の皇后だった人物。1835年~1908年。 ●目次 【人生】■垂簾政治 ■混乱の中で ■贅沢三昧の日々 【余談】■再評価?功績 失政 海軍経費流用について 【人生】 彼女が皇后になる前の経歴は鮮明では無いが中流家庭の出身であったと言われている。 彼女が后選定制度である「選秀女」を通過した事から始まる皇后生活は、ただでさえ混乱していた清王朝を更に掻き乱す事となった…。 ■垂簾政治 彼女は十人いた側室の第三皇后であったが、彼女が咸豊帝の長子・載淳(のちの同治帝)を出産した事から次第に発言力を高めていく。 元々、読み書きも出来、教養も高かった彼女は咸豊帝の秘書官を勤めるなど政治にも積極的に介入していた。 何より、恐ろしいまでの権力欲を秘めていた。 まず、咸豊帝の臨終にてその床の傍らで、 「皇帝様!お世継ぎは誰!?…え、やっぱり私の子ね!?そうに決まってるわね!?(咸豊帝何も言わずポックリ)」ってな感じで、 わが子を皇帝に仕立てまんまと皇帝の母、「太后」となる。 そして、かつて咸豊帝によって失脚させられた弟・恭親王や同じく側室であった東太后と組んで邪魔な役人を罷免、逮捕し、処刑する事にも成功(辛酉事変)。 東太后は元々政治に興味が無く、更に同治帝は幼少であったので邪魔になった恭親王を宮廷から追い出し(苛め抜いて政治意欲を無くさせた)、 まんまと清国の実質的な頂点に君臨した。 そして、側近を見せしめに失脚させて周囲に脅迫するなどして、ヒステリックな女性のご機嫌を伺う政治体制が整ってしまったのだった。 我が子・同治帝が世継ぎを残さずに死んでしまった際も、慌てて妹の子・光緒帝を強引に即位させ自らの地位を安定させた。 この時、息子の后であった阿魯斗氏の事ももはや邪魔なだけの存在だとネチネチと苛め、自殺に追いやった。 しかも、彼女のお腹には子供が宿っていたらしい。 なお、東太后も後に急死しているが、当時から西太后による毒殺説が囁かれた。 ■混乱の中で そんな日々の中で彼女は自らの権力を思う様に奮い、毎日悠々自適な贅沢三昧の日々を楽しんでいた。 そしてそれは、日清戦争の最中にさえ続けられた。 西洋に良いようにされている清国に対し明治維新以降、着々と力をつける日本。 西太后は勝ち目など無いと言うが「反日愛国」を掲げ、降伏などあり得ないと言う光緒帝は開戦に向かう。 その結果はご承知の通り、清の敗北であった。 西太后はこれに激怒し光緒帝と対立。手を回して彼を幽閉させてしまった。 何故そんなに怒ったのかと言えば、この敗戦で自分の還暦祝いの規模が相当縮小されてしまったかららしい。 かなり力を入れて準備していた彼女には我慢ならなかったのだ。 その後、義和団の乱で日本・イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリアの連合が北京を陥落させた際、 彼女は光緒帝を連れて逃亡(この時光緒帝が連れていた珍妃と言う女性は邪魔だったので自害を命じた)。 西安に逃げ込んだ彼女は税金を西安に集中させ、再び贅沢三昧を楽しんだと言う。 その後、光緒帝が息を引き取ると(その後に即位するのは清朝最後の皇帝・宣統帝)、その翌日、74歳で他界した。 彼女は同治帝を皇帝にしてから死ぬ間際まで、その権力をただの一時も失う事無く実に満足そうに、安らかに息を引き取ったそうである。 ■贅沢三昧の日々 権力を欲しいままにした彼女は実に贅沢三昧な日々を送っていた。 姪が皇后となり自らが隠居した後には、北京郊外の湖に贅の限りを尽くした建物(現在この美しい庭園は世界遺産にすらなっている)を造っている。 その造営費には何故か海軍の軍事費が充てられた(表向きには湖で訓練させるための施設とされた)。 この建物のせいで海軍は十年ほど兵器を更新出来ず、国にはかなり痛手となった。 更に西安逃亡後も日清戦争で国がガタガタになる最中、血税をたっぷり使い来る日も来る日も大好きな京劇を楽しみ、 食事は毎日100品余り用意して一口ずつしか食べないなどの贅の限りを尽くしていた。 日清戦争のせいで縮小された還暦祝いのウサを払うように、 67歳の誕生日祝いには北京へ返り咲いた祝いを兼ねて15億円(当時の日本の国家予算の15〜20倍ほど)もの費用を投じる始末。 また、国を混乱させた西洋の文化もすっかり気に入ってしまい、西洋風のパーティーすら開いていたと言う。 そんな彼女の遺言は、「以後、絶対に婦人を政治に関わらせるな。清の家法に背く行為である」 …国費で贅沢三昧に振る舞った彼女だったがその生涯、誰一人として彼女を止められた者はいなかった。 真に恐ろしい女性である。 【余談】 ■再評価? …いや真に恐ろしい女性であると語られて来たと言った方がいいだろう。 というのも、前述された西太后の悪事とされてきたことの多くが、 彼女(保守派)と対立した変法派(改革派)が流したプロパガンダや、海外の新聞で取り上げられたものが、 あたかも史実のように取り扱われてきた根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており、 むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている。 これは史料の問題から永らく分からないことが多かった為、これらのプロパガンダばかりが取り上げられてきたが、 80年代以降の原文書(档案史料)の公開により、中国の学会でも、政治的に許された範囲とはいえ西太后の再評価が行われている。 ここからはその再評価を元に、西太后の功罪について簡単にピックアップしてみよう。 功績 19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し、アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功 国内勢力の調停者として内政を安定させつつ、技術的近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった。 従来、政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功。 義和団戦争後、遅まきながら抜本的近代化政策である「光緒新政」を実施、これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった。ただしこうした抜本的な近代化は、清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった、とはいえ「光緒新政」により、中央への権力回収はかなりのレベルまで進展する。しかし皮肉なことに、地方政府の力を弱めるという改革の成功のため、地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまい結果として、20世紀初めに実施された「光緒新政」は、ソ連のペレストロイカと同じく政権の屋台骨を崩してしまう、一方で彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたという指摘もある。 失政 バランサーであるがゆえになかなか抜本的な改革が出来ず、清朝の旧態依然とした構造を保持することとなり、後に宮廷内で排外勢力が台頭した際、義和団事件にて八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる。 皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと、そのため政治系統が複雑化し死後の混迷の原因をつくった。 根本的には西太后は保守派であり、義和団を当初は支持するなど彼女のやろうとしたことには時代錯誤な面も多々あった。(但し、純粋に清朝としての史観から見るとそうとも言い切れない) そもそも、「光緒新政」はその名の通り、失脚前の光緒帝が変法派と行おうとした「清国版明治維新政策」をほぼ流用したものであったが、元々の政策を西太后は保守派の求めに応じて戊戌の政変で潰している。…もっとも変法派は伊藤博文を顧問として招聘する計画を進めており、伊藤の提案した「日中米英の合邦」という青写真を丸のみしようとしていた。これは清国の国家主権という意味では解釈によっては危うい事態に追い込まれていると西太后が考えても無理はなく、それに基づいて変法派を粛清したという説が最近有力になってきている。 贅沢三昧は事実、しかしながらその大浪費のお陰で、今日の中国に宮廷の食生活、歌劇や刺繍といった文化が民衆の中に浸透したという説もある 海軍経費流用について 西太后の悪徳で最も大きく取り上げられることの多い北洋海軍経費流用についても、再検討がなされている。 流用自体は事実であるものの、従来は西太后の個人的欲望という史料的裏づけが乏しく無理のある要因に帰結させていたためである。 現在としては流用理由として以下の様な新説や考察がなされている。 西太后は対外的には平和外交を指向する性格であり、海軍力をあまりに強くすることで国内の主戦派の強硬論が強くなるのを、抑える意図があった。(これは史料的裏づけがまだ弱い論です) 清朝の軍隊は統一的編成になっておらず、各部隊を統括する官庁、地方官にゆだねられ、軍事力が各派の政治権力にも繋がっており李鴻章の北洋海軍だけを特別に強化することは出来なかった。 海軍の艦艇を購入することは、貴重な銀を国外に流出させることであり、国内の庭園修築に使用するという内需拡大政策であり、同時に政権の安定を国民に印象付ける政策でもあった(首都の庭園が丸焼けのままでは政権の権威に関わる)また、流用予算は庭園費だけでなく、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍や広東水師(海軍)の増強の方に充てた可能性も指摘されている。 清国の構造的問題として当時の清朝の財政は国税と地方税、各省庁間の税収の区分があまり無く、もともと各役人の権限の及ぶ所からの流用が構造上存在した。ついでに言うと北洋海軍の最大の後援者であったのは西太后であり、彼女の後援が無ければ北洋海軍自体が作られなかったりする。 結局のところ、「西太后」と言うのは清国崩壊の負の要因をすべて背負わされた反英雄のような偶像なのかもしれない… 西太后の新事実判明の際には同志諸君によって 追記・修正が政治的に許された範囲で行われることを我が党は望んでいます。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 最後の言葉ェ… -- 名無しさん (2013-09-27 07 04 44) レディーファーストだな(錯乱) -- 名無しさん (2013-09-27 07 29 18) 悪女のイメージだったけど、これを読んでさらに悪女だなと思った。タグの被害者ってなに? -- 名無しさん (2013-09-27 08 55 04) これは滅亡不可避ですわ -- 名無しさん (2013-09-27 09 55 44) 中国史は時々こういうものすごいバケモノが出てくるから面白い -- 名無しさん (2013-09-27 12 29 56) ヒェ~www -- 名無し (2013-09-27 12 42 19) こいつと袁世凱がいなければ中国はまともだったろうな。 -- 名無しさん (2013-09-27 13 31 55) 遺言www -- 名無しさん (2013-09-28 01 04 48) 日清戦争勝利の20%くらいこいつのお陰かも -- 名無しさん (2013-09-28 08 32 12) 何と言う悪運… -- 名無しさん (2013-09-28 10 03 59) やはりついたか吐き気を催す邪悪タグ -- 名無しさん (2013-09-30 00 09 47) 日本人は感謝しよう。日清戦争はこいつのお陰で勝てたのかもしれない -- 名無しさん (2013-11-17 07 41 30) それでもコイツの所業は胸糞悪くなるわ。 -- 名無しさん (2013-11-17 09 12 00) テラ悪運w -- 名無しさん (2013-11-24 23 29 50) 悪行の限りを尽くしたのに、最後はベッドの上で安らかにってのが何とも・・・しかもこの手の独裁者の死後にありがちな一族の粛清も無かった。・・・まあ正直それどころでは無かっただろうし、そもそも彼女の一族がどうこうしたという記録も無いが -- 名無しさん (2013-11-25 00 32 23) 更に笑えないのが今の中国が着実にこの時と同じような状況に向かっていると言う事…… -- 名無しさん (2013-11-25 01 29 54) やりたい放題だったけど、最期の言葉からして内省はできたみたいだね・・ -- 名無しさん (2013-11-25 07 44 40) 残酷な拷問とかが話題になるから、小中学生にも地味に有名だな -- 名無しさん (2013-11-28 12 12 11) 清は暗君なしとあるが、こいつそのものは暗君どころか暴君だな。 -- 名無しさん (2013-12-18 22 00 08) 彼女の一回の食事は最低でも現在で800万はしたそうだ -- 名無しさん (2014-02-19 23 01 48) このなりふり構わない贅沢はヨーロッパに対して「自分達は先進国と遜色ない!」って言いたかったからという説を聞いた。まあ良いものではないけどね -- 名無しさん (2014-02-26 02 51 22) 清を滅ぼしたのは彼女? -- 閲覧者 (2014-02-26 03 33 19) 今の中国が腐っとるんはこのくそババアのせいじゃ -- 名無しさん (2014-04-29 23 42 49) マジでこのババアムカつくわ死ぬぐらいじゃ償いとは言えんわ -- 名無しさん (2014-04-29 23 47 55) ドラクエ5にも一文字違いの「ニセたいこう」がいたがまさか元ネタなのだろうか -- 名無しさん (2014-04-30 00 03 30) 加藤徹「西太后」読むと評価変わるよ 贅沢する事で国民や役人にカネ廻していた側面あるから(兵器輸入したらその分銀が流出する) -- 名無しさん (2014-05-10 23 34 23) ↑???「でもそれって根本的な解決にはなりませんよね?」 -- 名無しさん (2014-05-10 23 37 50) ↑根本的解決、って要は清朝って時代遅れのシステムの消滅だから しゃーない 日本も幕府倒せたからこそ明治維新が出来たし -- 名無しさん (2014-05-10 23 44 03) ちなみにこのおばちゃん 死後はしっかり国民党関係者に墓荒らしにあっている(東陵事件) フギが日本に手を貸したのもこの復讐って言われている -- 名無しさん (2014-05-10 23 48 11) 誤解のないように言うと 1口しかつけない食事の余りはキッチリ家来や召使達が食べている ていうかそれが役得状態だった フランスなんかだと王様の残飯を家来が市場で売っていた(実話) -- 名無しさん (2014-05-11 00 03 35) 彼女は清を興したヌルハチに対して女真族の中で最後まで反抗したイェヘナラ部の出身。太平天国の乱後、曽国藩が湘軍を解散するときに職を失った兵士が盗賊化しないか心配したりしている。 -- 名無しさん (2014-05-11 00 46 20) おかしなことを言い出したときは事実上の宰相李鴻章が同僚たちと示し合わせて命令を無視したり、政治はなんとかなっていた。清の転落は運命としか言えない。日本が日清戦争でやっつけたのは李鴻章の淮軍で、あれでも改革で生まれた新式軍隊だった。 -- 名無しさん (2014-05-11 00 52 59) 義和団事件でも率先して宣戦布告したんだっけ?マジ何考えてたんだろ。日本だけで勝てないのに他の列強敵に回すなんて -- 名無しさん (2014-05-14 23 46 26) 遺言とかを見るに、自分の行いの罪深さを理解した上でやっていたんだろうと思うと -- 名無しさん (2014-05-30 07 01 02) 海軍軍事費で作られた庭園にあるデッカい石舟は「清海軍最大の生き残り」と揶揄られているとか… -- 名無しさん (2014-05-30 08 25 42) こんなのが権力を握っちゃう辺りが、滅亡不可避の証明な気がする。 -- 名無しさん (2014-05-30 08 54 43) 中国人が日本嫌いなんはこのアバズレの悪霊が中国人にとりついてんじゃないか? -- 名無しさん (2014-06-30 19 58 23) ↑? -- 名無しさん (2014-07-01 01 46 08) きっと特亜の国民達に悪霊となってとりついて日本に嫌がらせしているんだ!! -- 名無しさん (2014-07-03 00 38 35) 再建もクソもすぐ滅んでいるじゃないですかw -- 名無しさん (2014-07-29 18 37 36) ↑3思想教育を悪霊と比喩すればそうかもな -- 名無しさん (2014-08-17 09 33 08) ↑2だから、再建がなかったらもっと早かったと言われてる訳で -- 名無しさん (2014-09-06 10 33 01) 悪い噂しか知らんかったがプロパガンダだったのかよ -- 名無しさん (2015-03-31 12 43 45) ↑とはいえ、何の根拠もなくここまで言われるとは到底思えないわけで、誇張はされていても相当好き勝手したことは間違いないだろうな。 -- 名無しさん (2015-06-16 23 29 46) ↑「ここまで言われるのは根拠があるに違いない」ってプロパガンダに扇動される愚民の発想そのものやん。火のない所に煙立たせるからプロパガンダなのに。 -- 名無しさん (2016-06-12 04 31 07) 総合すると浪費家で保守的気味ではあったけどそこそこには有能だったって感じ? -- 名無しさん (2016-06-12 05 43 45) 再評価の動きが示す通り、完全なる無能ではなかったのがタチ悪い。まあ悪女と呼ばれるくらい強かなのだから当然か -- 名無しさん (2016-07-31 17 38 51) 遺言を知ったとき心の底から叫びたくなったわ「オマエガナー!!」 -- 名無しさん (2016-07-31 17 54 10) 何故か中国3大悪女でもダントツ有名な人 -- 名無しさん (2016-07-31 17 57 41) 罪がでかすぎる -- 名無しさん (2016-07-31 17 59 32) 良いこともしたのかもしれんけど権力集中のあたりのフォローには全くなってないな…でもここで悪女だと断じてしまったらプロパガンダを信じるだけだから調べてみよっと -- 名無しさん (2016-10-04 15 27 48) 実は三大悪女のうち二人は民衆にとって善政だったんですよね -- 名無しさん (2016-10-04 17 20 13) ↑2 逆に言えばそれだけ地方各地に権力が分散してたって事だろうさ。ただでさえ日本や西欧列強の対外圧力がきつくなってるのに、中央が弱くなったのを見て地方が蜂起し始めたら目も当てられんだろうからな -- 名無しさん (2016-10-04 17 39 13) 浅田次郎の本を読むと西太后へのイメージが変わった -- 名無しさん (2017-09-15 06 40 49) サーヴァントになったら絶対無辜の怪物が付属されてる奴 -- 名無しさん (2018-06-26 20 38 34) 権力争いには強いが政治家としては凡庸ってとこかね -- 名無しさん (2019-09-25 12 44 52) 蒼穹の昴だといいキャラしてたな。まあ基本的に滅亡する寸前の権力者ってぼろくそに言われがちだよね。実際はそれ以前に原因あるんだけど、どうしても悪く見られちゃうというか -- 名無しさん (2019-11-08 01 44 08) 西太后も一応傾国の美女って呼んでいいのかな? -- 名無しさん (2020-01-04 08 55 20) ここ米ガキばかりだな。西太后なんてまだ有能な君主18世紀の東アジアなんて乗り切れるなんて並みの人間じゃない -- 名無しさん (2020-07-01 09 56 31) 18世紀じゃなくて19世紀だよ。まあ君 -- 名無しさん (2020-07-22 22 34 23) 18世紀じゃなくて19世紀では。並の人間では無いと思うけど。 -- 名無しさん (2020-07-22 22 35 01) ガキの頃、この人を題材にした映画を観て色々トラウマになったなあ・・・・・・ダルマにされた女性とか。 -- 名無しさん (2021-02-16 22 21 15) ふっるいラノベだけど『フリッカー・エンジェルズ』だと人に寄生して支配する翡翠が暴虐の限りを尽くしたって設定だったな -- 名無しさん (2021-02-16 23 08 27) 呂后に比べたらまだマシな部類だよな。中国は広大だから、纏めたり変えたりするのは中途半端な有能では収まらない。良くも悪くも1000年に一度の人材じゃないと変えられない。彼女は頑張ってその年一番の人材でしょう。 -- 名無しさん (2021-08-31 16 27 29) 三大悪女とされる呂后と武則天の場合は政権内は血なまぐさいが民衆政治は安定してたから再評価兆候もそれなりに感じるが、この人場合その辺がボロボロかつ滅亡まで行ったから中々難しいものがあるな -- 名無しさん (2022-05-21 21 06 41) ↑12 あの小説だと「西太后は清の正義であり良心であり歴史的にみてもイエス・キリストを超える存在」とまで評されてるからな。しかもこれを言うのが日本人という -- 名無しさん (2022-06-09 22 09 19) 武則天は普通に才覚ある優良皇帝。醜聞的なのも他の賢明とされる人物だって存在するのに比べれば抜けたもんでもない。 -- 名無しさん (2022-08-23 16 54 47) この人清国のトリューニヒトじゃね -- 名無しさん (2022-10-28 16 09 06) 戊戌の変法の新説を調べてみたけどちょっと信じがたい。伊藤を顧問にするのはあり得る話ではあるけど、日中米英の合邦はないでしょ。そもそも伊藤がそういう志向を持ってたことが初耳なんだけど -- 名無しさん (2022-12-14 21 07 07) 太平天国の乱を鎮圧したのは間違いなく功績と言える。規模から言うとこの反乱で清朝が滅亡してもおかしくなかったし結果的に清朝の寿命は半世紀延びた。 -- 名無しさん (2023-01-22 06 01 09) イメージだけで「悪女だったんだろうなー」って語ってるやつ見ると、プロパガンダってめちゃくちゃ効果あるんだなってなるわ -- 名無しさん (2023-10-10 13 07 24) 通説と違うと(ように見える)説を吹き込んで「これで貴方は歪められたイメージに騙されない賢い人ですね」と自尊心をくすぐって都合の良いことを信じさせるのもプロパガンダに限らずよくあるパターンなので、そういう意味では「新しい見方」「歪められていた真実」みたいなのは一旦距離を置いて考えてみることも必要 -- 名無しさん (2023-11-09 21 10 03) wikiによると丁戌奇荒という大飢饉で何の対策もしなかったらしい。あと宮中で贅沢三昧するのと庶民へ文化が浸透するのがどうつながるのかよくわからん。宮中文化が解き放たれたのは辛亥革命からの結果じゃないの? -- 名無しさん (2023-11-18 18 56 14) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/217.html
253.ふたりの太后が並び称される 文宗(李昂)が即位したとき、敬宗(李湛)の母の王太后はまだ生存していたので、文宗は自らの母を蕭太后とし、敬宗の母を号して宝暦太后といった。またふたりの太后は区別が難しかったので、詔により宮名でこれを区別した。宝暦太后は義安宮に住んでいたので、義安太后と称した。のちに武宗(李炎)が即位すると、文宗の母の蕭太后はまだ生存していたので、積慶殿に移り住まわせ、積慶太后と称した。 253.兩太后並稱 文宗即位時,敬宗母王太后尚在,而文宗自有母蕭太后,乃號敬宗母曰寶暦太后。又以兩太后難於分別,乃詔以宮名別之。寶暦太后居義安宮,稱義安太后。後武宗即位,文宗母蕭太后尚在,徙居積慶殿,乃稱積慶太后。
https://w.atwiki.jp/regnumtria/pages/385.html
董太后 rank2/弓兵 固有:教導慈育 威力: 効果:味方の知力・防御を上げる lv 1 16 30 36 45 [兵力] 15 37 58 67 81 [武力] 4 11 16 20 23 [知力] 10 29 46 54 65 [防御] 9 23 38 44 53 [命中] 7 21 34 40 48 [素早] 7 21 34 40 48 [詳細] 霊帝の生母で、幼い劉協(のちの献帝)を養育した人物。霊帝が亡くなった際には宦官の十常侍と結託し、劉協を立て権力を握るが、対立する何皇后、何進の手により宮廷から追放されてしまった。その後は何皇后の手により毒殺されたと言われている。 戦闘「あの子が泣いている気がするの、早く道を開けて」 仲間「本当はみんないい子だって・・・私はそう信じてるわ」 お勧めの編成法・成長法・対処法など ご苦労様。LV1兵15武4知10防9命7早7。LV30兵58武16知46防38命34早34。LV36兵67武20知54防44命40早40。編集出来る方よろしく (2011-02-28 20 49 46) 固有・教導慈育(味方の知防を上げる)。アイテムは彫花櫛のみでオッケーです(*´∀`*) (2011-02-28 21 27 31) 情報ありがとうございます(^-^)b (2011-03-01 02 59 03) ステ、固有いいね (2011-03-01 23 05 55) 麋氏っぽいな (2011-03-01 23 17 33) 固くなった曹植ってイメージ (2011-03-01 23 20 59) 編集感謝。またLV上がったらくる (2011-03-02 07 18 57) LV42兵76武22知62防50命46早46、LV45兵81武23知65防53命48早48。初期値と成長が同じパラを他武将から引用してるから間違いないと思う (2011-03-02 20 59 38) 強いなぁ。兵防極知でガチガチでもいいし、PTによっちゃ素に振って調整しちゃったりか (2011-03-03 08 49 42) 関羽にいいかもね (2011-04-02 01 26 40) 強い (2011-04-02 02 12 23) 堅い (2011-07-02 00 47 52) 蒋エンと合わせたら強い? (2012-02-03 16 50 41) 422はキツいかな (2012-02-26 11 59 19) 442で打ち消し知陰なら使えることも (2012-02-26 12 44 05) 総戯なら蒋エン、董大后、と誰がいいかな?蜀じゃ無理か (2012-02-26 13 03 49) 関羽、張嶷、董大后 (2012-02-26 14 58 40) 関羽落ちたら終了ー (2012-02-26 17 30 32) コメント
https://w.atwiki.jp/dq_dictionary_2han/pages/777.html
DQⅤ ラインハット王の後妻。 実の息子の【デール】を溺愛しており、デールを次期王の座に就かせる為裏で手を引く。 【ヘンリー】誘拐事件の首謀者であり、主人公 ヘンリーが10年以上奴隷にされる原因になった人物であり、 主人公の父パパスが殺される原因を作った悪党。 天罰が下ったのか、後に自分の偽者【ニセたいこう】に城を乗っ取られ、自身は地下牢へ。 それに懲りたのか、主人公達が再び城に来た時には改心しており、普通のいい人になっている。 そしてイベントクリア後、特にお咎めもなく、さも当然のように再び太后として城に居座る。 小説版ではペシュマレンドラという名前で、もとは踊り子だった。 地下牢へ閉じ込められた際に、ヘンリーの前で罪を負って自害しようとするが、ヘンリーその人によって止められる。
https://w.atwiki.jp/nostradamus/pages/1001.html
『王太后への書簡』は、ノストラダムスが当時の王太后(国王の母)カトリーヌ・ド・メディシスにあてた書簡である。1566年にブノワ・リゴーが出版した。 【画像】『王太后への書簡』の扉(*1) 正式名 LETRE DE MAISTRE MICHEL NOSTRADAMVS, de Salon de Craux en Prouence, A la Royne mere du Roy.A LYON, Par Benoist Rigaud, 1566. Auec permission. プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡リヨンにて、ブノワ・リゴーによる。1566年。 認可済み。 本文の冒頭に掲げられているタイトルに比べると、「医学博士」という肩書きが脱落している。文字の配置などの観点から意図的にしたのか、単なる誤植なのかは分からない。 木版画の王冠に大書された K は、シャルル9世(Karolus)のことだという(*2)。 内容 八つ折版で8ページからなる。ただし、うち1ページは扉、2ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。 その内容について、詳しくは以下の全訳を見ていただくとして、大まかにまとめておくと2つのテーマに分けることができる。 ひとつは近く開かれる会議についての予言で、休会を挟んだあとに良い方向に転がる見通しが語られている。 もうひとつは国王(シャルル9世)が17歳になる年におこる幸運な出来事の予言のために、星位図を送って欲しいという依頼である。ピエール・ブランダムールはこれについて1566年6月27日の国王誕生日を見据えたものだとした(シャルルは1550年生まれなので、数え年で考えているものと思われる)。 この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は19世紀にまとめて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである(*3)。 また、ノストラダムスがシャルル9世の誕生日に合わせて何らかの星位図を献上したという話もない。1566年6月17日にはノストラダムスは遺言書を口述している。その時点で自力で執筆することが困難になっていたらしいことがうかがえるため、6月27日にあわせて星位図をまとめられる状態ではなかったのだろう。 さて、ノストラダムスが助言をした会議についてだが、具体的にいつの会議なのかは特定されていない。とはいえ、当時はちょうど第一次ユグノー戦争(1562年 - 1563年)が終わったあとの小康状態に当たっていたので、宗教上の融和を目指した会議の一つだったのだろう。 しかし、1566年に何らかの重要な合意が成立したということはなかった。それどころか、1567年には第二次ユグノー戦争が勃発し、翌年春にはカトリーヌは宰相(大法官)ミシェル・ド・ロピタルを解任し、融和政策を放棄した。こうした史実と対照すれば、ノストラダムスの見通しが当たったというには程遠い。 なお、アンリ2世が死に、長男フランソワ2世が死に、宗教上の対立がくすぶり続けていた1565年末の時点でさえ、これほどまでの希望的観測を伝えていたという事実は、しばしば信奉者が主張するような「ノストラダムスはカトリーヌにヴァロワ家の悲観的な未来を伝えていた」といった類の根拠のない話を否定するのに十分だろう。 日付 奥付には1565年12月22日とあり、現存する範囲では最後から2番目の書簡にあたる(暦書の献辞を除く)。この直前に当たる書簡は、1565年12月13日のハンス・ロベット宛の私信である。その書簡では、ノストラダムスはリューマチがひどく手から右膝、さらには足への痛みのせいで21日も寝ていないと述べている(*4)。 ミシェル・ショマラは、その9日後にカトリーヌ宛の書簡が書かれていることから、若干症状が快方に向かったのだろうと推測している(*5)。 出版業者 ブノワ・リゴーが出版した。 誰が出版したのかどころか実在したのかさえ定かではない1558年版『予言集』を別にすれば、ブノワ・リゴーが手がけた最古のノストラダムス作品である。 ノストラダムスの生前にブノワ・リゴーとの接点があったことを示す重要な根拠とも見なせることから、『予言集』第二部の真贋論争においても引き合いに出される。例えば、ミシェル・ショマラは、ブノワ・リゴーが速報性を重視する業者であったことをもとに、このときに接点が出来ていたのなら、それから2年もの間出版されなかったのは不自然だと指摘している(*6)。 所蔵先 ポール・アルボー博物館に唯一所蔵されている。 かつてアンリ・ボードリエがエクトール・リゴーからの情報に基づいてこれに言及していたことから、ロベール・ブナズラはリゴーの手元にも1部存在していたとした(*7)。しかし、ミシェル・ショマラはアルボーとリゴーの往復書簡の内容からそれを否定し、リゴー自身は持っていなかったはずと指摘した(*8)。 復刻と紹介 上で見たように最初の言及はボードリエの書誌である。その後、ショマラの書誌とブナズラの書誌で相次いで取り上げられ、ピエール・ブランダムールも簡潔に紹介した(*9)。 1996年にはミシェル・ショマラによって『カトリーヌ・ド・メディシスへの書簡』として影印版が出版された(*10)。 日本ではピーター・ラメジャラー『ノストラダムス百科全書』の中で簡潔な紹介を見ることができる。公刊された文献で全訳を載せたものは見当たらないが、インターネット上では「ノストラダムスサロン」が「皇太后への書簡」として公開した。正確な公開日は不明だが最終更新日が2005年1月30日となっていることから(*11)、それ以前に公開されたものと思われる。 原文と翻訳 以下は全文とその翻訳である。この作品に固有の用語や言い回しについては、あとに語注をつけている。便宜上、当「大事典」の判断でいくつかの節に区切ったが、一般的なものでないことをお断りしておく。 原文 Letre de maistre Michel Nostradamus, docteur en Medecine, de Salon de Craux en Prouence, A La Royne mere du Roy. (1)Madame, ayant entendu que s approchoyent Comitia1 de vostre Royaume, bien que vostre Maiesté par quelques autres en puisse estre aduertie, toutesfois selon le scauoir que Dieu m a donné, (2) faisant mon deuoir pour mon Roy, comme seruiteur tresobeissant suiect, iouste la charge de mon estat, que votre maiesté me donna, Que si par les Astres se pouuoit scauoir entendre le futur, i en aduertisse vostre Maiesté. (3)Et pource, par aucunes figures celestes, erigees en cest endroit, ie treuue quelque briefue prorogation de temps de lieu, le tout estre en paix, amour, vnion concorde, sans dissimulation, ne simultés combien2 qu il y aura de grandes contradictions differens. Mais à la parfin vn chascun s en retournera content de bouche de coeur ceux mesmes, à qui le retour dependra de vuyder. Mais au reste, ceste assemblee sera cause d vne grande paix, contentement, par tout vostre Royaume.(4)I en ay fait vn petit discours, que ie ne3 me suis voulu auenturer de l enuoyer à vostre Maiesté, iusques à ce, que ie aye entendu le vouloir plus ample d icelle. Ce que vostre Maiesté dira fera, sera promptement dit, fait executé.(5)Plaise aussi à vostre Maiesté me faire enuoyer la figure celeste, Astronomique, de l an xvij. du Roy treschrestien, vostre fils, pour faire l explication bien au point pour ce que ie trouue en icelle annee, quelque grande tresfelice fortune de paix longue, en son Royaume. Mais4 qu elle soit exactement calculee, pour la conferer auec la mienne ie me parforceray5 de faire ce que ie suis tenu, pour mon Roy, mon souuerain seigneur maistre (6)apres que i auray prié le Createur de tout le monde, vous donner, Madame, vie longue, en santé, toute constante prosperité, accompagnee de l entier accomplissement des Royaux desirs de vostre Maiesté. (7)De vostre ville de Salon de Craux, en Prouence, ce xxij. iour de Decembre 1565. Auec la souscription en ces mots Vostre treshumble tresobeissant seruiteur suiet, Michel Nostradamus. Et au dessus d icelle A la Royne, nostre souueraine dame maistresse. 語注 1. Comitia はラテン語で「民会」を意味する。ここでは、後出の assemblee と同じ意味で使われている(*12)。 2. combien que は現代フランス語の bien que (~ではあるが)と同じ。 3. ミシェル・ショマラの現代語訳を見る限りでは、ここでの ne は虚辞のようである(*13)。 4. mais que は pourvu que(~しさえすれば)、quand(~のときに)、à condition que (~という条件で)などを意味する中期フランス語の成句(*14) 5. se parforcer は『仏和大辞典』、DMF などには見当たらないが、ショマラの現代語訳を見る限りでは、古フランス語の se parforcier (努力する)(*15)と同じようである。 対訳 プロヴァンス州サロン・ド・クローの医学博士ミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡 (1)王太后陛下1、御身のしろしめす王国の議会が近く開かれることを知りました。それは陛下なら他のなんぴとかを通じてお聞き及びになられる事柄でしょうが、私は神から与えられた知識に基づいて知ったのです。 (2)そして、非常に忠実な従僕としての、また臣民としての義務を、私は国王に対して負っていますし、陛下から賜った地位2に課せられた仕事でもありますから、星辰によって未来が知覚されれば、私はそれを陛下にお知らせする次第です。 (3)それに関して、私がいる場所で確立されているいくつかの天の表徴を通じて、私は時期的にも空間的にも多少の短い間隔(休会)と、全てが隠し事もわだかまりもなく平和、愛、統一、調和に至ることを見出します。もちろん、大きな異論、反論はあるでしょうが、最後には誰もが言葉の上でも心の内でも満足する方へと帰着するでしょう。それらへと帰着することが、解決することに繋がるのです。いずれにしましても、その会議は御身のしろしめす王国にあまねく行き渡る大きな平和と満足の根源となるでしょう。 (4)以上、陛下に思い切って奏上したいと思った事柄を、陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で3、少しばかり語ってまいりました。陛下がおっしゃるであろうこと、なさるであろうことは、即座に布告され、行われ、執行されることでしょう。 (5)ところで、御身のご令息にして敬虔なキリスト教徒たる国王が17歳になられるときの星位図を、周到に解釈させていただきたいので、私めにお送りいただけないでしょうか。それといいますのは、その年に御身のしろしめす王国で長きにわたる平和のための何か大きな、そして恩寵溢れる幸運があると私には思えるからです。私が作成した星位図と対照できるように、お送りいただく星位図が正確に算定されてさえいれば、私は至高の支配者にして主人たる国王のために義務を果たすことに努めます。 (6)王太后陛下、それはもちろん、長寿、健康、そして陛下がお望みになる王者の欲求の成就を余すところなく伴う恒常的な繁栄そのものが、御身に与えられますようにと、全世界の創造主に祈った後でのことになるでしょう。 (7)1565年12月22日、御身のしろしめすプロヴァンス州サロン・ド・クローの町から。 この署名とともに 「御身の非常に賤しく、非常に忠実な従僕にして臣下、ミシェル・ノストラダムス」 そしてこの結語の上に 「我らが至高の貴婦人にして女主人であらせられる王太后へ」。 訳について 1. この訳では royne mere du roy を「王太后」、madame を「王太后陛下」、vostre Majesté を「陛下」、それ以外の vostre... を「御身の・・・」で統一している。 2. ノストラダムスは1564年に「王附常任侍医 兼 顧問」に任命されている。 3. 「陛下ならここまで述べてもお許しくださると思った範囲で」の直訳は「私が陛下のより豊かな善意を理解したところまで」。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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編集 霊思何皇后は、後漢後期の霊帝の二人目の皇后。少帝劉弁の世に皇太后となったため、何太后と呼ばれることも多い。董卓によって弑され、皇太后としての喪葬は取り行われなかった。 情報 霊思何皇后 姓氏 何 諱 (不詳) 字 (不詳) 本貫地 南陽郡宛県 家柄 宛県何氏 父 舞陽君 興 母 何真 位歴 貴人 皇后 皇太后 評 性は強忌、後宮は震懾せぬはなし。 死去 九月丙子の日(3日)、董卓に酖毒を進められて弑される。 諡号 思皇后 陵墓 霊帝文昭陵 死後評 子 劉弁(少帝・弘農王) 事跡 身長七尺一寸(約164センチ)。 何家は、もとは屠殺を生業としていた。本来、掖庭(いわゆる後宮)には良家の女しか入る資格を持たないが、何氏の家は戸籍を管轄する官吏に金帛を賄賂してその資格を得たのだという。 熹平二年(173年)、霊帝の皇子劉弁(後の少帝・弘農王)を生んだ。霊帝の子はこれまで成長せずに早世していたため、皇子は道人の史子眇の家で養われることになり、敢えて名を正さず(劉氏の姓名で呼ばなかったという意味か)、号して「史侯」と呼び慣わされた。生母たる何氏は貴人の位を拜して、厚い寵幸を得たが、強忌(執拗で猜疑心が強い)な性格のために後宮で震懾しない者はなかった。 光和三年(180年)、皇后に立てられた。翌四年(181年)、亡父の何真が車騎将軍の追号を受け、舞陽宣徳侯の諡号を賜った。これによって母の興が舞陽君に封じられた。 しかしこの頃、妃妾の一人である王美人が任娠した。王氏は何皇后を畏れ、を堕胎しようと服薬までするが、果たせず、同年(180年)に皇子劉協(後の漢孝献皇帝)を生むこととなった。何皇后は遂に王美人を鴆毒で殺した。霊帝は大怒し、皇后を廃位しようとしたが、諸宦官が固く請うたので止めることができた。皇子劉協は実の祖母の董太后(孝仁董皇后)が自ら養うことになり、号して董侯と呼ばれた。 この経緯から董太后は劉協を皇太子にしようとたびたび霊帝に勧めたため、何皇后は董太后を恨んだ。 中平六年(189年)四月、皇太子が決まらないまま霊帝が崩御し、劉弁が皇帝に即位した。何皇后は皇太后となり臨朝して政事を聴き、太傅の袁隗と異母兄の大将軍何進が録尚書事として輔政することになった。 何太后は太后として立てられた当時、二祖(高祖と光武帝)の廟に謁しようと齋(ものいみ、清め)をしようとしたが、その度に変事が有ってついに謁を果たせなかった。時の有識の士は口に出さずにこれを怪しんでいたが、後に何氏に因って漢の祚は傾没したのだった。 董太后が兄の子の驃騎将軍董重と共に政事に参与しようとし、何太后・何進はそれを妨害した。董太后は憤懣やる方なく何太后を罵ったため、何太后は経緯を何進に告げた。 五月、何進、異父兄弟の車騎将軍何苗、及び三公は董太后を本国へ還すことを請うて上奏し、臨朝する何太后が当然これを可と詔した。何進は詔を得て兵を挙げ、驃騎将軍府を囲み、董重を収監した。董重は免官され自殺した。董太后は憂い怖れ、疾病して暴崩(にわかに崩御)した。 何進は普段から世論が中官(禁中で公私に渡って皇帝に側近する官。後漢の制では宦人が占有する)を憎むことを知っており、士人を厚く遇し、宦人の有力者の蹇碩や彼らと繋がりの深かった董太后を排除した。次いで袁紹の進言を容れて、権力を掌握する中官全体を誅しその地位を士人に取って代わらせようと何太后に告げた。しかし、中官には省闥(禁中の門内)に数十年も起居して桓帝・霊帝に寵遇され、侯に封じられて重きを為す宦人もあり、何太后自身も彼らを頼みにしていた。言うには、 「中官が禁省を統領するのは、古より今に及ぶまで、漢家の故事であり、廃すべきではありません。かつ、先帝が新たに天下を棄て(身罷られ)たばかりなのに、我がなぜ楚楚として(鮮やかなさまで)士人と共に事に対することができるのでしょうか?」 何苗や何太后の母の舞陽君もしばしば諸宦官から賄賂を受けており、その擁護に回ったので何進も躊躇した。こうして時が過ぎ、策謀は漏洩し、逆に中官の張讓らに反撃を決意させることになってしまった。 八月戊辰の日(25日)、何進は何太后の説得のために無防備に長楽宮に入り、その帰りに何太后の詔が出たと偽って引き止められ、張讓、段珪、畢嵐らの率いる兵に斬られた。 何進が殺されたと知り、その部曲将の呉匡や張璋、袁紹と行動を共にしていた袁術らは決起して宮殿を攻め破った。張讓、段珪らは何太后と皇帝劉弁、陳留王劉協を連れて逃れたが、尚書の盧植が戈を執って威圧したために、何太后は釈放された。この間に舞陽君が乱兵に殺されることとなった。 しかし、皇帝と陳留王は洛陽城外へ逃れ、駆け付けた董卓に保護されることになる。 九月甲戌(1日)、董卓は皇帝兄弟を擁し、陳留王劉協が聡明で、かつて董太后の養育を受けたことから、皇帝劉弁を廃立して劉協を立てる計画を抱いた。羣僚を崇德前殿に集め、何太后を脅して言うには「皇帝は喪に在りながら、人の子の心が無く、威儀は人君に類するものではない。今、廃して弘農王と為す」 こうして陳留王を立てた。これが献帝となる。董卓は弘農王を扶えて殿を下ろし、北面して臣と称させた。太后は鯁涕(嗚咽、流涕)し、羣臣は悲しみを含んで敢えて言葉もなかった。 直後、董卓は何太后が永楽太后(董太后)を憂死させたのは婦姑(嫁と姑)の礼に逆らい孝順の節の無いものだとして、太后の宮である長楽宮から永安宮へ遷し、九月丙子の日(3日)、遂に酖毒を進めて弑した。何太后は崩御した。何進の死から八日後、劉弁の廃立から二日後のことだった。 在位十年。董卓は献帝を奉常亭に出して哀を挙げさせ、公卿は皆白衣で会した。喪の期間は無かった。十月、霊帝の文昭陵に合葬された。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 位 皇后 位 皇太后 位 貴人 出身 南陽郡 出身 宛県 宛県何氏 諡 思 関連項目・人物 「霊思何皇后」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
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分岐 名前 Rank 切断 破砕 貫通 非物理 強化時[合成時]付加スキル ◇│ 獣鎌 太后 7 342 0 0 火◎ トゥザルミナスⅡ【E】[コンボマスターLv10 生存本能Lv10] 合成 9700fc 禁鳥翼x2 禁鳥骨x2 禁鳥紅蓮爪x1 禁鳥冠x1 禁鳥剣x1 |◇│ 獣鎌 太后 改 8 387 0 0 火◎ トゥザルミナスⅢ【E】[コンボマスターLv10 生存本能Lv10 近接特殊攻撃威力Lv10] 強化 8800fc 禁鳥翼x2 禁鳥骨x2 禁鳥紅蓮爪x2 禁鳥冠x2 禁鳥剣x1 |◇│ 獣鎌 太后 新 10 492 0 0 火◎ トゥザルミナスⅣ【E】[コンボマスターLv10 生存本能Lv10 無我の境地Lv10 近接特殊攻撃威力Lv10] 強化 13600fc 禁鳥紅蓮爪x3 禁鳥翼x2 鳥神空腱x2 禁鳥骨x1 禁鳥剣x2 |◇│ 獣鎌 天后 11 512 0 0 火◎ ブレイクバックⅠ【E】[剣の達人Lv10] 強化 16000fc 禁鳥紅蓮爪x3 禁鳥翼x3 鳥神空腱x2 禁鳥骨x2 禁鳥剣x2 |◇│ 獣鎌 天后 改 13 562 0 0 火◎ ブレイクバックⅡ【E】[剣の達人Lv10 生存本能全開Lv10] 強化 52000fc 炎鳥紅蓮爪x3 禁鳥翼x2 軽神丹x1 禁鳥骨x2 禁鳥紅蓮剣x2 |◇ 獣鎌 天后 極 14 581 0 0 火◎ ブレイクバックⅢ【E】[全力攻撃Lv10 剣の達人Lv10 生存本能全開Lv10] 強化 96000fc 汎用複合コアx1
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627 :無名草子さん:2009/02/20(金) 15 58 02 加藤徹『西太后』と君塚直隆『ヴィクトリア女王』はどちらもベストに推したい。 両書とも19世紀後半に活躍した人物を通して、その時代史を描き出している。 『西太后』は洋務運動や戊戌の政変など、清末のわかりにくいあたりを。 『ヴィクトリア女王』は保守党と自由党の政権交代や大英帝国の極大期(衰退の始まり)を。 同時代の女性ということで、読み比べてみるのも一興。 ⇒アマゾンリンク
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せいたいごう 自作 当時は吉兆があるごとに名前に漢字二文字を加えたため最終的な諡は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后」であった、 世継ぎを産めなかった孝貞顕皇后に代わり咸豊帝の側室となり同治帝を産んだ女性摂政は誰? (2016年9月1日 2016年8月のQui2投稿問題まとめ。 ) タグ:歴史 Quizwiki 索引 さ~と 則天武后