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天主堂(教会) 教会 韓国語 ? 中国語 天主堂 分類 建物 シンとチェギョンが本当の結婚式を挙げた教会は、マカオ、コロアン島の『聖フランシスコ・ザビエル教会(路環聖方済各聖堂=Chapel of St. Francis Xavier)』。 聖フランシスコ・ザビエルはイエズス会の宣教師で、日本にもにキリスト教を伝えたことで有名。 登場 第24話 シンとチェギョンが結婚式を挙げ、チェギョンが謎のつわりを起こしていた。
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大浦天主堂 おおうらてんしゅどう 長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂。 西坂の丘で殉教した26聖人に捧げるため、フランス人プチジャン神父によって建てられた。 天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味。 正式名称は日本二十六聖人殉教聖堂。 日本最古の木造ゴシック様式の教会堂。 日本初の国宝に指定された洋風建築。 所在地 長崎県長崎市南山手町5-3 料金 300円 時間 8:00~18:00 地図 竣工:1864年(元治元年) 構造:木造 平面:五廊式 屋根材:桟瓦葺 様式:ゴシック建築 1864年完成の堂を明治8年に改造。 外国人宣教師の指導のもと、大工棟梁がてがけた。 ヴォールト天井や尖頭式アーチを持つ本格的な洋風建築。 関連項目 2005年3月23日 歴史的建造物一覧 近代建築 タグ 2005年3月23日 国宝 教会建築 歴史 歴史的建造物 長崎市 長崎県
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大江天主堂 (おおえてんしゅどう) [住 所] 熊本県天草市天草町大江1782 [電 話] (0969)22-2243 (天草宝島観光協会) [時 間] ~17 00 [閉館日] 月曜日 [料 金] 無料 [備 考] 建立年 経緯 関連事項 [Google 検索結果] http //www.google.co.jp/search?hl=ja q=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82 lr=lang_ja
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12月28日 行程 長崎原爆資料館 平和公園 浦上天主堂 如己堂 崇福寺 新地中華街 大浦天主堂 日本二十六聖人殉教地 カステラ屋さん 茂木港 富岡港 本渡市 原爆資料館・平和公園 朝。ものすごく眠かったので,浦上天主堂の朝のお勤め参加は見送った。そもそも一般でも参加可かどうか分からないし。異界会としては朝寝坊で活動開始(今思えば道成寺や那智の旅が信じられない)。駅のロッカーに荷物を預け,浦上方面へ朝ごはんの食べられるところを探しながら歩き始める。ところが店は見つからず断念して,路面電車で松山町まで乗ることに。人生において好機をつかむのは大事なことで,一度機を逃すと朝食をとるのさえなかなかできなくなってしまうものだ。こんなことから人生の歯車が狂うというのもあり得ないことではないのかもしれない…。己が身の決断力のなさを呪いつつ,仕方なく原爆資料館近くのホテルのレストランで,やや高めのブレックファスト。 レシートにパンだか卵料理だかの代金が入っていないと言って,レストランに不足分を自己申告しに行く燈籠大臣の背を見ながら「馬鹿正直な人だ」と思いつつ,これまでの自分の罪深さを知る。 長崎巡りの一ヶ所目は原爆資料館。「我ながら修学旅行生みたいにマジメだね」と言いつつ,その日で仕事納めの原爆資料館へ。 資料館・常設展示室は3つのコーナーに分かれている。 ①1945年8月9日 被爆前の長崎/永遠の11時2分 11時02分で止まったままの時計によって,我々は<その時>に引き戻され,いよいよ一瞬にして破壊された長崎の街へと足を踏み入れる。 ②原爆による被害の実相 原子野と化した長崎の街/浦上天主堂の惨状/長崎原爆投下までの経緯/被爆した長崎の街/熱線による被害/爆風による被害/放射線による被害/救援・救護活動/被爆者の訴え/永井隆博士 まず目に入ったのが<浦上天主堂の惨状>。被爆した天主堂側壁(再現)や形の崩れた天使像・ロザリオなどの展示がある。爆心地から500mの近さにあった浦上天主堂は,原爆によって殆どが倒壊・消失した。 そういえば浦上天主堂には,頭部だけ焼け残った<被爆マリア像>があり(資料館にあるのではないが),昨年の8月9日のミサか(演奏会か)なにかで,信者の人が抱えていたのをTVで見たのを思い出した。 長崎の人々とともに<受難>し,崩れ落ちた天主堂や聖像は,繰り返される人間の苦しみ・悲しみ・愚かさを我々の眼前につきつけてくる。 話は変わるが,バーミヤンの石仏が破壊された時,イランの映画監督モフセン・マフマルバフは次のように言った: 「私は,あの仏像は誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知の恥からだ。仏像の偉大さなど何の足しにもならないと知って倒れたのだ」 [『現代思想』2001年10月・臨時増刊号「これは戦争か」(青土社)から] マフマルバフは,バーミヤンの石仏が破壊されたことには世界は大騒ぎするのに,アフガニスタンで進行している悲劇には無関心であることを批判している。「仏は貧困と,無知と,抑圧と,そして大量死を世界に伝えるために崩れ落ちたのだ」。 長崎の場合は少し事情が違うけれども,やはりこの聖像も崩れてなお,繰り返される人類の苦患を忘れないよう永遠に示しつづけているのであろう。 熱線や爆風の被害を展示するコーナーでは,熱線や爆風で異様なまでに歪んだ品々が並ぶ。「原爆瓦」や熱で溶けたガラス瓶などは手で触れられるようになっている。瓦はチクチクして地獄の針山のようであり,被爆した人々の地獄のような苦しみをこれらのモノが代わりに伝えている。 ③核兵器のない世界をめざして 日中戦争と太平洋戦争/原爆投下への道/核兵器の時代/現代の核兵器/核兵器開発・実験の被害者たち/長崎から世界へ 【写真】原爆の投下された空。60年経った今,穏やかな青色が心を打つ(原爆落下中心地から上を見上げて) 【リンク】長崎平和宣言・長崎原爆資料館 浦上天主堂 時間を見計らって,昼前には浦上天主堂へ向かう。正午には鐘が鳴ると聞いたからである。私は鐘が大好きだ(口で言ったら,「金が大好き」だと思われて誤解を招いた)。教会の鐘でも,寺の鐘でも,なぜ鐘の音は心を打つのだろうか。 ここにも崩れ落ちた聖人像が。誰かが言っていたが,聖像は崩れ落ちた方が聖性を増すという。その通りだと思う。摩滅して顔が分からなくなった道端の地蔵なんてたまらない。 浦上天主堂の隣には,キリスト教を禁じた人の名を冠した焼鳥屋が!因果なもんだ… 崇福寺 昼食をとるため再び路面電車に乗り南下する。中華街からちょっとのところにある崇福寺は,長崎唐三福寺の一つで,赤塗りの山門があることから,「赤門さん」と呼ばれている。創建は1629(寛永6)年で,長崎に在留していた福州人たちが,故郷から超然という僧を迎えて,寺を建てたのが始まり。燈籠大臣によればなんでも黄檗宗の寺は日本に数えるほどしかなく,ここがその一つというが,詳しい解説は燈籠大臣に譲ることにしよう。 猫が石段によく似合う。 お昼ごはんは新地中華街で食べることに。例のごとく(上野の焼肉屋も横浜中華街もそうだった)燈籠大臣のチョイスによって,古ぼけた冴えない外観の店に入った。どうやら彼はそういう店の方が,豪華できれいな感じの店より味がいいと信じているらしい。根拠は恐らくない。彼はチャンポン,僕は皿うどんを注文。ちょっと甘みが強かったけど美味しゅうございました。 その後,徒歩で大浦天主堂へ。途中,道を歩いていると記念碑によく出会った。「わが国鉄道発祥の地」「我が国最初の気球飛揚の地」「わが国ボウリング発祥の地」「国際電信発祥の地」…。国内で最初のものを記念するのは,国際都市の面目躍如たるものがあるが,そんなにたくさん碑を建てなくても…。 大浦天主堂は,1864(天治元)年にフランス人プチジャン神父の協力によって建てられた日本最古の天主堂(国宝)。 天主堂へ向かう参道も,堂内も,なんだか観光化されていて,ちょっとがっかりだった。 いい時間になってきたので,路面電車で長崎駅前に戻る 次の日のレポートを読む 前の日のレポートに戻る トシドンへの道に戻る
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そろそろ今日の寺院紹介をしますねっ! 今日ご紹介するのは、日本に戻りまして長崎県長崎市にある「大浦天主堂」ですっ!1865年に建設され、日本に現存する最古のカトリック教会ということでキリスト教の教会ながらも国宝に指定されている大変珍しい建造物ですっ! 御存知の通り日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ=ザビエルですね。1549年以降西日本を中心にキリスト教は広まっていきました。しかし天下統一を目指す豊臣秀吉は伴天連追放令を出し多くのキリシタン大名などを処刑し、キリスト教の排除を行いました。(続く) キリスト教との対立は島原の乱を引き起こし、秀吉軍はキリシタンを殲滅の後鎖国を完成させ、完全にキリスト教を排除した。かに見えました……。その後ペリー来航により日本は開国。長崎に再び外国人宣教師が降り立ち1865年、大浦天主堂が建設されました。(続く) 大浦天主堂が完成すると、そこには数十人の日本人が集まり神父に信仰を告白したのです。1637年のから200年以上も経った1865年まで、日本の地下でキリスト教は受け継がれていたのです。この出来事は当時の世界中のキリスト教徒に大きな衝撃と感動を伝え、奇跡と呼ばれました。(続く) さて、この大浦天主堂だけでなく開国にともなって建てられた教会は西洋の建築技術と日本人大工の建設技術が合わさり、また内装も日本風であったり、聖母マリアの像の服装も少し日本っぽくなっていたりします。こういった長崎のキリスト教会群を世界遺産にしようという活動があります(続く)。 そういった活動に後押しされ、長崎のキリスト教会群は現在、世界遺産候補リストに挙げられているそうです!すごいですねっ!今日ご紹介した大浦天主堂は日本に残る最古のカトリック教会ですが、日本最古のプロテスタント教会は兵庫県の神戸市にあるそうです!そしてキリスト教で兵庫県といえば……! 神戸に降り立ったシスター、クラリスさんですね!今日8月26日はクラリスさんのお誕生日ですっ!おめでとうございますっ!いつか開眼する時が来るのかな……?そんなわけで、今日の寺院紹介はおしまいですっ!
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ゲ ー ム の 主 人 公 だ け が 旅 を し て な い か。 予 約 は 簡 単 楽 天 ト ラ ベ ル 楽 天 ト ラ ベ ル 【二輪で行こう! 五島列島の旅】 第4話)隠れキリシタンのマドレーヌ販売機 《五島列島|下五島|奈留島|久賀島|福江島》 午前中に久賀島(ひさかじま)の五輪教会を訪れた後、そのまま福江港には戻らず、同じ福江島の奥浦港に向かう14 35発のフェリーに乗って戻ることにした。 久賀島・田ノ浦港から福江島・奥浦港に戻り、堂崎天主堂に立ち寄る 奥浦港は福江港より8kmほど北にあり、その近くには有名な堂崎天主堂があるのでそこに立ち寄ってから福江の町に戻るルートを組んだ。 久賀島の田ノ浦港は桟橋以外何もない港であったが、同じく奥浦港も備わっている設備は桟橋だけであった。1日2〜3回しか船が立ち寄らない港というのはこんなものなのであろう。 桟橋以外何もない奥浦港 再び積んで来た電動アシスト自転車を漕いで3km程北上し、堂崎天主堂に到着。有形文化財の教会はレンガ造りの優美な姿を誇っていた。 堂崎天主堂-レンガ造りの優美な姿を誇っている 久賀島の五輪教会は辺境とも呼べる場所にあり、周りには観光地らしい土産物屋など一切なかったが、さすがに福江の市街地から近いこの堂崎教会には周りにカフェ等があり、観光地らしさを醸し出していた。 そして教会土産といえば修道士たちが作るお菓子が定番だ。ここ堂崎教会の名物は近くの菓子工房が造るマドレーヌであった。 一通り教会見物を終えた後、天主堂の隣にあるカフェで優雅にマドレーヌをいただきながらティータイムを過ごそうと思って、カフェの前に行ってみる。すると CLOSE まさかゴールデンウィークの真っ只中で営業していないとは思わなかったが、今日は定休日だったのでどうすることもできない。 堂崎天主堂の隣にあるカフェは定休日だった オイラはとぼとぼと教会から駐車場まで歩いて戻る。するとそこに不思議な物体を発見した。 「堂崎マドレーヌの店」 と書かれた自販機である。その外壁は天主堂を模したレンガ調だが、「マドレーヌ」と書かれてはいるものの、その自販機の姿は普通のジュースのそれだ。何か変だ。 堂崎マドレーヌの自販機 だが近づいて見ると3列あるボタンの一番下の並びだけマドレーヌが売られていた!! なるほど!! これならカフェがクローズでも名物が楽しめるぞ。 ただ飲料用自販機の中に無理やり製品を入れているため「マドレーヌは冷蔵のため固くなっていますので、常温にお戻しになり召し上がってください」と注意書きが記されていた。 そしてオイラは思った。ジュースの自動販売機のふりをしてマドレーヌを売る。つまりこれは隠れマドレーヌ販売機。その着想は仏教徒のふりをしながら密かにキリスト教を信仰した隠れキリシタンの伝統が根底にあるのではないかと。 - イヤ、そんなことないか - (続く) もどる < 4 > つぎへ なんちゃって世界旅行-海外旅行記|中東|アフリカ|中南米|アジア|タイ|欧州|沖縄|離島 なんちゃって世界旅行ブログ-新着情報&雑談
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【スポット例】みや グラバー園 みや行きたい度…★★★★★ 大浦天主堂 みや行きたい度…★★★★★ (路面電車) オランダ坂 みや行きたい度…★★★☆☆ 稲佐山(夜景) みや行きたい度…★★★★☆ 浦上天主堂 みや行きたい度…★★★★★ 長崎原爆資料館 みや行きたい度…★★★☆☆ 平和公園 みや行きたい度…★★★★★ 【めし】みや ちゃんぽん みや食べたい度…★★★★★ 【希望】みや 今んとこ丸一日。
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教会の造りは木造・煉瓦造り・石造り等があり、現在では鉄筋コンクリート造りへと変わってきています。 煉瓦の積み方は フランス積み(同じ層に長手面と小口面を交互に並べて積む。見た目が華麗になる。) アメリカ積み(長手面5~6層ごとに1層の小口面を積み上げる) イギリス積み(小口面と長手面の層を交互に積み上げる。丈夫な構造。) 等の10種類ほどがありますが、上五島の教会では標準的なイギリス積みが多く、青砂ヶ浦・福見・大曽・ 旧鯛ノ浦教会があります。 煉瓦造りの教会は全国に17箇所あり、そのうち16箇所が長崎県に存在しております。 天井については大体二通りに分けられます。 リブ・ヴォールト天井・・・別名コウモリ天井とも言われ、コウモリが羽を広げたような形をしています。 (青砂ヶ浦・大曽・旧鯛ノ浦教会等) 折上げ天井・・・・・・・・天井の中央部を一段高くして空間に広がりをもたせたもので、別名舟底天井 とも言われます。(中ノ浦・福見教会) その他、頭ヶ島教会だけに見られる構造で、列柱を使用せず、二重に折上げられた天井(ハンマービーム天井) もあります。 その他内部構造としては ○宗教的な儀式を行うときに聖体を安置したり、供え物を捧げたりするための祭壇 ○ご聖体(キリストの体と血を意味するパンとぶどう酒)を安置する櫃(聖櫃) ○色硝子を組み合わせていろいろな模様・画像などを硝子板に描き出したステンドグラス ○列柱の頭部部分で意匠(装飾上の工夫)の彫刻が施された柱頭 などがあります。 ステンドグラスの色にはそれぞれ意味があり、黄色が大地、赤が太陽、青が天、緑が草木を表して おります。 また、教会の両側壁面には、キリストの受難を14場面に分けた絵が必ず両側側面に掲げられており、 十字架の道行と呼ばれています。 ※天主堂・・・天主堂とは、神・デウスの訳語「天主」に由来するもので、長崎の教会では正面上部に 「天主堂」の銘文を掲げるものが多く、ラテン語の神の漢訳で、最初は中国で用いられて いたそうです。 天主堂には神の御堂・聖堂の意味がありますが、現在ではデウスの訳語が「神」に統一 されたため、「教会堂」と呼ぶのが一般的です。
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桐教会は、明治14年(1881年)に最初の教会堂が建てられ、その後、昭和33年(1958年)に 現在の教会堂に改築をされております。 上五島のカトリック信者は、今から200年ほど前の1797年に五島藩の要請により、農地開拓 の為、長崎の外海地方から信仰の自由と安住の地を求めて移り住んだ人々が祖先であり、 この地区も例外ではないと思われます。 白壁に赤い屋根が特徴の桐教会は、若松瀬戸を往来する船舶の安全を祈り、信仰の歴史を 刻み続けています。 この教会境内には信仰先達者顕彰碑として昭和46年(1971年)に桐出身のガスパル与作が 建立されております。 このガスパル与作は、浦上の信者が長崎の大浦天主堂で発見された慶応元年(1865年)の 五島で最初の信者表明者であり、父のペトロ善七(下村善七)の許しを乞い、大浦天主堂で 教理を学び、慶応3年(1867年)、伝道師として桐に帰り、父とともにカトリックの指導者として 今日の五島のキリスト教の基礎を築いたとされております。 ※信徒発見・・・慶応元年(1865年)3月、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂にサンタマリア様 がいるとのことで、信者10余名が見物に出向いたが、その時の神父・プチジャン神父 はその一行がただの好奇心で来たものではないと感じ、門を開けたところ、一人の 信者が神父に近づき、信者である旨を表明したもので、以来、神父と信者が一体と なり、キリスト教の活動が始まったとされている出来事です。