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天上界門衛長:ハルダエル 天上界の有名ブランドなんてものも存在している? 泥酔して地上に落ちて死亡した天使もいる? 墜落事故 天上界に泥酔した天使が地上に落ちて死亡した。その事故でエントの枝に引っ掛かった遺品の品々 古い羽ブーツ 雲につまづいて転んだ天使が落とした靴である。天上界の有名ブランド靴のようだ
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天上界(てんじょうかい) 六道輪廻の最上の世界とされ、物の豊かな世界といわれている。この天上界は三十三天に別れ、その最上天を色究竟天(しきくきょうてん)といい、衣食住に関わるものは何一つとして欠けるものの無い世界。色究竟天は別名、有頂天と呼ぶ。
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天上界 概要 プロンテラ噴水左にいるNPC[リジェネ]から行くことが出来るダンジョン。 複数のMAPを移動しつつ狩ることとなるが、入れば戻ることが出来なくなるMAPもある(@loadを使うか前に進むしかない)。 大まかにMOBの構成が違うMAPを1つとして、全4F構成とする。 最奥には専用MVPBOSSモンスターが1匹、専用BOSS属性モンスターが1匹生息する。 目玉のドロップはピアメッテの落とすオーバーロードアークワンド。 モンスター構成 [1F] 執行する者,慰める者,保護する者,監視する者,スケゴルト,ネクロマンサー,フレームスカル [2F] ザクダム,深淵の騎士,ラギッドゾンビ,ピアメッテ,魔法の茨,ブラッディナイト [3F] 嫦娥,ヘルアポカリプス,ガーデンキーパー,ガーデンウォッチャー,ピアメッテ [4F] バンシーマスター,ガーデンキーパー,ガーデンウォッチャー,ピアメッテ モンスター
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天界文明。 アニバーサリーイズワールド それは、新世界誕生編にて、物語のカギを握る二つのうちの一つの文明。 詳細は新世界編にて話そう。 そして、この中にも、特別な種族を持つクリーチャー達がいた。それが新種族、テンカイ・モンスター 時空の神王アマテラス/創造の覚醒者アマテラス・オオミカミ ケンゲキオージャ~終焉運命~ 神羅ドラグ砲 電磁神官デッキ・ショック 雷盤の予言者デステニー・クルト 天界の門番コイシカル 超次元テンカイ・ホール 時空の皇姫シャイニング・バード/神王の覚醒者アマテラス 次元院のアマステラ・シャイン 1/3 レア度なくしました。だってめんどくs((( 作者 ペペロン
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天上界(てんじょうかい) +目次 登場作品イノセンス 関連リンク関連項目 類似項目 被リンクページ 登場作品 イノセンス はるか昔、天に存在した神々の住む地。 原始の巨人によって作られ、現在の世界の礎となった。 ▲ 関連リンク 関連項目 天上界の歴史 類似項目 天界 被リンクページ 設定:た行 設定:イノセンス 設定:センサス 設定:ラティオ 設定:人間 設定:創世力 設定:天上界の歴史 設定:天界 設定:天術 設定:教会 設定:死神 設定:無恵 設定:神 ▲
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魔神界文明。 アニバーサリーイズワールド それは、新世界誕生編にて、物語のカギを握る二つのうちのもう一つの文明。 詳細は新世界編にて話そう。 スーパーレア ""クリーチャー"" •時空の神王スサノオ・ミカド/破壊の覚醒者スサノオ・バルトライズ ベリーレア •未作成 レア ""呪文"" •超次元マカイ・ホール アンコモン •未作成 コモン •未作成 作者 ペペロン
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目次 1.帰天第一声 2.あの世の実感 3.死後の世界のガイダンス 4.反省と進路決定 5.魂の比重について 6.あの世の世界は波長の世界 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた 8.諸如来による祝福 9.地上での活躍を語る 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ (1986年10月27日の霊示) 1.帰天第一声 谷口雅春です。五十数年の長きにわたって、生長の家総裁として、我が日本の国で神理伝道にこれ務めてまいりましたが、昨年夏にようやく天寿を全うし、この世、すなわち地上に住んでおられるあなた方にとってはこの世ですね、この世を去って一年数カ月、今、こちらの世界で私の生活も落ち着き、どうやら考えもまとまってまいりました。 私は、生前は、そのことに気づきませんでしたが、今、現代の日本に、〇〇〇〇という光の指導霊が出ておって、こういった高級霊界からの、光の指導霊の言葉を受けとっているということを知った。そして、こちらの世界に来てからも、昨年の暮れごろからであったであろうか、他の高級諸霊たちが、〇〇〇〇を通じて、地上の人々にメッセージを送り、これを記録し、書物として出版している事実を知った。 私はもちろん、以前、生長の家という光明思想団体、まあ、宗教団体と言ってもよいが、それを持っており、その後継者も現在おる以上、このような形で、他の宗教活動にかかわるのは、あまりよろしくないのではないか、とずいぶん考えたのでありますが、生前、私の説いておった教えは、万教帰一、万教これ同根ということであります。人間すべて、これ神の子、キリスト教も仏教も、また我が日本神道も、すべては、同じ神から流れ出た教えであり、単に宗教にとどまらない。十八世紀、十九世紀と栄えたドイツ観念論哲学も、十九世紀から二十世紀にかけて、アメリカを中心に流行(はや)った光明思想、すなわちエマソンを始祖とするニューソートの流れも、また同じく神の教えを受けて、この地上に流れ出た思想であることは明らかであります。 このような世界的見地からも、神の教えの広がりというものを見たとき、私は単に生長の家の総裁であったというその事実に基づいて、生長の家以外に対しては、守護、指導をしないというような、そうした偏狭(へんきょう)な心の持ち方では相すまされないものと痛感したのであります。 生前、その存在は知らなかったが、今、〇〇〇〇を通じて、このようなことができるということを知った以上、私もまた光の指導霊として、地上の人々にメッセージを送りたいと思うのである。そしてこちらの世界の報告をすることによって、生前の私の考えと、帰天後の私の考えとの違いがあるや否や、あるいは地上において、未だに連綿(れんめん)として我が教えを学び続ける人に対して、さらに説き得ることあるや否や、これを明らかにしたいと思うのである。 まず、私は天上界に帰って、すでに一年三ヵ月か四ヵ月たったわけではありますが、地上の皆さん、生長の家の方々にもメッセージを送りたいと思う。それは、こちらに来てから一年余りの私の感想であります。それが本日の演題、「天上界に帰る」ということに関する私の話であります。 2.あの世の実感 まず、あの世へ帰った実感がいかなるものであるかということからお伝え申し上げたい。 あなた方は、様々な高級諸霊の霊言を収録しているようであるが、まだ私のように死後一年、というような新しい霊の通信は受けておらぬであろう。まあ最近は、高橋信次というGLAの主宰をしておった者が通信をしておるようであるが、それとても、もう死後十年がたっておるはずである。 そこで、死後一年余りでまだ初々しい九十二歳の谷口雅春が、まあ赤ん坊のように初々しく、こちらで体験したことを語ってみたいと思うのである。 まず、人間の死ということに関してであるが、まあ、たいていの人間は、死の瞬間、自分というものの意識が混乱に陥(おちい)っており、そして、自分がいざ肉体を離れるということにおいて大変な驚愕(きょうがく)をするものである。なぜならば、死後の世界というのは、まったくの未知の世界であり、誰からも教わったことがなく、また、ほとんどの人は書物においても、死後の世界をさほど学んでいないことが普通だからである。 たまには宗教心ありて、あの世のことどもを学んだとしても、あの世のことどもを語っておる宗教書はなにぶんにも古いものが多く、千年、二千年前の仏教書であったり、あるいは二千年前のイエスの教えから一歩も前進しておらぬキリスト教であったりするのだ。 たとえば、キリスト教徒であるのなら、二千年前のイエスの教えのままに、自分はイエスを信じてきたから永遠の生命を受けることができるのであるか、あるいは、炎の炉のなかに投げ込まれる野の草花の如く燃えつきて、その身、その命を失うものであるか、そうした審判というものを恐れて、わなないておる者もいる。 あるいは、仏教徒として死に、そして自分が野辺の送りとなり、坊主が来て読経する姿を見て、どうやら自分は死んだらしいということに、はじめて気づく者もおる。 だが死んだ者の一様に思うのは、自分が日蓮宗であろうが、あるいは浄土真宗であろうが、そうしたことに関わりなく、経文というものをあげられるのであるが、その意味がさっぱりと分からないということである。 お経をあげるということによって、自分が、すでにこの世の人間ではないということは、すべての人間が気づくのであるが、いかんせん経文をあげる本来の意味が失われている現今においては、坊主の一時間、二時間の経文は、彼らにとっての救いとはならんのである。 死んだばかりの霊たちは、そうした経文に一生懸命耳を傾けておるのであるが、それによって悟りを開くこともなく、それによって救われることもない。 やがて自らの肉体が焼かれ、骨壷に納まり、墓に納まり、線香をたてられ、写真を飾られ、鐘を鳴らされる。人々が水とかお茶とか、あるいは御飯とかをまつっている、その姿を見て途方に暮れるのである。自分は死んだばかりであって、食べ物をまつってくれても、それを食べることができない。山のように果物を積んでくれても、それをどうすることもできない。死んだことは分かったけれど、死後の方針がたたないというのが大体の事実なのである。 3.死後の世界のガイダンス そうして地上を、たいていの人間はまあ四十九日というが、実際は二十日乃至(ないし)三十日であって、そのくらいはただよっておるのです。そうして初七日が終わったあと、まだ悲しみにくれている遺族とともに、まだ家のなかにとどまっては、共に生活をしているようなつもりでいることが多いのである。 しかしその二十日、三十日の間に、彼らは徐々に霊としての自覚を持つようになる。そして、自分が今や飲まず食わずとも、生きていかれることを当然のこととして感じるようになる。 そしてまた、地上の人々にいくら話しかけようとしてもその声は聞こえず、いくら肩に手をかけても、その手が肩を通り抜けて、彼らを驚かすこともできなければ、彼らに気づかすこともできないということを悟るのである。たいていの霊は、もうこれ以上この地上にとどまっても自分は生活を送れないということに気がついてくる。そのころを見計らって、本人の守護霊というものが迎えにくるのである。 そしてその死の自覚を十分にさせるために、本人の父親なり母親なり、姉なり兄なり、叔父なり、叔母なり、すでに身内の者であってこの地上を去っているものを共につれてきて、その者をして死後の世界を語らしめることがほとんどである。それからあの世への門下生としての初歩を教えるのである。 それはちょうど、小学校にあがる前の子供たちの姿に似ている。この春、三月、桜が咲かんとしているときに、親たちにランドセルや教科書を買ってもらう、学校にあがる前の子供たちの姿にも似ていようか。この地上でいかに偉大なる人物としていばっておった者であっても、死ねば、あの世では赤子同然だ。あるいは小学生の最下級生にも及ばぬような霊知識しか持っておらぬ。 問題は、この地上にいたときに驕(おご)りたかぶっていた人たちである。彼らは自分が社長であったとか、一国の大臣であったとか、役所の偉い人間であったとか、警視総監であったとか、あるいは学校の校長であったとかいう人たちだ。つまり、この世的には、昇りつめたということで、人に対して訓辞を垂れ、教えることのみを当然としていた人であるわけだが、他界して後、小学生の最下級生になることに、戸惑いをおぼえ、狼狽(ろうばい)するのである。 イエスは言った、「心清き人は幸いである。汝等は神を見るであろう。」そういうことを言った。有名な山上の垂訓(すいくん)でいくつかのお教えをイエスは言った。この世で小さき者は、あの世で大きくなり、この世で大きな者は、あの世で小さくなるとも言った。己れを低くする者は高くされ、己れを高こうする者は低うされるとも言った。 それはまず、この最初の死の関門において、その言葉は実現するのである。すなわち、この地上において己れを大きな者と思っておった者が、あの世で自分の小ささに気がつき狼狽する。しかし、この世において、謙虚に自分を見つめ生きてきた者は、あの世に帰りて、その謙虚さ故に学習が進んでいくのである。 自分の小ささを知っている者は幸いである。彼らは大きくなるであろう。自分の小ささを知らない者は災いである。彼等は他界して後、大いなる辛酸(しんさん)をなめる。こうして死後十日の間に、自らの守護霊、そして縁者の者たちの話を聞きながら、人々は徐々に死後の世界のガイダンスを受けるのである。 4.反省と進路決定 二十日、あるいは三十日たち、時期が来たときに、人によって違うが、指導霊がやがて訪れて来るのである。守護霊というのは大体、本人の霊格と同じレベルの魂であるが、これとは別に一段と霊格の高い霊が、その者を守っておるのである。これが指導霊であるが、この指導霊というのが迎えにくる。そして守護霊と共にその死んだばかりの魂を、まず、あの世の収容所へとつれていくのである。 これはいわゆる四次元といわれている世界、幽界(ゆうかい)といわれている世界である。まだこの世界では、この世的色彩がずいぶん強く、人々は地上的な生活を営んでおる。そして、まだ家族単位で生きているような者もおる。 この地上にある物はほとんど、その幽界世界にもある。そしてその生活のなかで、少しずつ自分の魂を見つめるようになっていくのである。やがてその幽界世界に帰って、早い者ではほぼ三日、遅い者では、まあ九十日くらいであろうか、その間に必ず自分が人間として生きていたときに心のなかに去来したことども一つ一つを、反省することとなっておる。 この反省の仕方は、その人の思想、心情、あるいは宗教において多少異なった色彩を帯びておるが、その人が仏教的な人であるならば、仏教関係の僧侶という者がやってきて、仏教的に反省の功徳というのを諭(さと)し、やがて本人を反省に導いていくのである。 その魂がキリスト教的な魂であるならば、教会の牧師がやって来て、その者に懺悔(ざんげ)を勧めるのである。あるいは、生きているときに宗教というものに無縁であった人に対しては、教育者のような者が出て来て、その人を道徳的に諭していく。このようにして、自分の生きてきた六十年、七十年の生涯というものを、反省させていくのであります。 その際、人によっては、あなた方が知っているように、過去を照らす鏡というものによって、自分の全生涯を見せられる場合もある。ただ、これは幼稚な段階であって、そういうことをする必要がある人に対してなされるのであり、霊的自覚が進んでいる者に対しては、そうしたことは、もやは、なされない。 そして、この幽界のなかで三日から九十日間の反省が終わったならば、それぞれの人間は、自分の行くべきところを定めるのである。これは決して閻魔(えんま)大王のような者がいて、行き先を指定するわけではない。ただその反省の期間において、自分の本質というものをたいていの人間はつかむのである。そして自分の守護霊、あるいは指導霊に対して、今後の身の振り方を相談することになっておるのである。 やがて地獄に行けば、その反省のときのことを忘れているのであるが、少なくともその段階においては自分が天国に行くべき霊か、地獄に行くべき霊かということは、自分自身で判断できるようになっているのである。 どうやら自分が地獄に行くべきだということが分かったときに、守護、指導霊と相談の上で、どうしたことが自分のいちばんの誤りであるかということをはっきりさせる。そして、自分の誤ったことを修正するのに、いちばんふさわしい地獄へと赴(おもむ)いていくのである。これは、あくまでも自分の判断で赴いていくのである。ただたまには例外がある。 私は、今、一般的な人間の場合を言ったのであるが、本当の悪人は、本来はそうした者はないのであるが、霊的な眼で見て、生きていたときに多数の悪霊たちにとり憑(つ)かれ、そして本人も生きている悪霊さながらの生活を送った者は、そうした者に憑(つ)かれたまま、四人、五人、六人の悪霊に憑かれたままに、まっさかさまに地獄に堕(お)ちるという現象があることも事実である。 5.魂の比重について あの世の世界というものは、あなた方が知っているように、様々な霊層に別れておる。その霊層というものは、決して人間をランクづけしようとしてあるのではないのである。それは物理学的な法則に基づいて、物理学的なる法則に随順(ずいじゅん)して、そのような住み分けが行なわれるのである。つまり、これは魂の比重の問題として話すことができると思う。 たとえて言うならば、上澄み液のようなものである。水のなかに灰なら灰を混ぜてかき混ぜると、しばらくすると灰は下の方へと沈んでいく。いちばん底には黒い物が溜まるであろう。そしてだんだんに色が薄くなってきて、最上層では澄みきった水があるであろう。 しかしその段階をよく見るならば、澄みきった水から真黒な灰まで幾層か分かれている。なぜそのようになっているかと言うと、重いものが下に沈んでおるからである。重いものとはなんであるか。それは、この地上的なる、物質的なる思いを魂につけたる者は、比重がこの世的なものであって重いということだ。そうしたものが下に沈んでいく。 これに反して、この世的なものの少ない者、あの世的なる魂は比重が軽いために、上へ上へと浮いていく。したがって、魂というものは、意志決定という面で見れば、自己の判断によって赴くべき処を変えるのであるが、物理学的に見るならば、その魂の比重に合わさった処へと赴いていくのである。 また別のたとえをするならば、人間の魂というものはエネルギー体であり、一つの電磁波であり、一つの波動であるのだ。そしてその波動は、きわめて荒い波動を体現したるエネルギー体たる魂は、そうした世界にその波動が通じてしまう。また、精妙な波動を体現したる魂は、精妙なる世界へとその波長が合っていくのである。 6.あの世の世界は波長の世界 あの世の世界は、いわば波長の世界なのである。あなた方はともすれば、目に見えない地獄というものがあり、目に見えない天国があり、そうした国が厳然とあって、そこで人間が居住するかのように思っておるであろう。しかしそれは、人間的感覚によって分かるような比喩(ひゆ)であり、物体であるのだ。本来の世界は波動の世界であり、その波の世界なのである。 荒い波動の世界、つまりこの世界に生きている者は、たとえば、テレビという受信装置を使ってその映像を受信するならば、地獄という映像がテレビに映るのである。また精妙なる波動を放送している、その電磁波に同調している魂というものは、たとえばテレビで受信するならば、非常に美しい世界を映し出す。天国的な映像を映し出す。こういうものであって、あなた方の身のまわりにももちろん、目に見える電波、目に見えない電波というものが行きかっておるのであるが、普段、その存在には気がつかぬであろう。 しかし、これをラジオ装置なりテレビ装置なりを設けるならば、その像を受信することができ、その声を聞くことができる。その電磁波をラジオに収録し、その波長に合わせたならば、それはあるときは地獄のうめき声となり、あるときは天使のコーラスとなる。またあるときは、地獄的な地獄絵図がテレビに展開され、あるときは、牧歌的な天国の姿が映るのである。 あの世の世界はこういうものであって、物理的なる国としての天国、地獄があると思ってはいけないのである。あくまでも波動の世界であり、波長の世界であるということだ。それを人間的にとらえるがために解釈し直して、天国、地獄という人間的なる者が住んでいる世界として表現をしているのである。これを誤解してはならない。 このようにあの世の世界というものは、この波長の世界、波動の世界が非常に精妙に区別されており、波長の合わない者同士は同通しないことになっている。すなわち個人の織りなす人生の波長によって、個人の魂が響かせる人生の調べによって、音楽によっていくべき世界が異なってくるのである。これ、あるときは如来界、これ、あるときは菩薩界という。これ、あるときは神界と言う。あるときは霊界、幽界というのである。これも、そういった世界があるというよりは、そのような波長の、波動の世界があるということだ。 したがって、この世を遙かに去った世界があるというよりは、この世界をいろいろな電磁波が飛びかっておるように、そうした世界が混在してこの三次元のなかにあるということだ。四次元の世界は三次元のなかにあり、四次元のなかに五次元があり、五次元のなかに六次元がある、このような多重構造の世界となっているということだ。これを間違ってはならぬ。一時代前のように西方浄土に阿弥陀如来(あみだにょらい)が住んでいて、念仏をとなえたる者が、その西方浄土にて、阿弥陀仏と一緒に生活できるわけではないのである。 このように地上の人間のまず考えるべきことは、その人間の五十年、六十年、七十年の生涯において、 その人間が一生を通じて織りなしたハーモニー、波長、曲奏、そうしたものが、あの世に反映されるということだ。これには、例外はない。 この地上であらゆる限りの悪をつくして生きて、あの世で天国に楽しんでいることもなければ、この世で本当に天使のように生きて、あの世で地獄の底にのたうちまわることもないのである。そうしたことはありえない。 ただ、この世で天使のような顔をして教えを説きながら、その内面は非常に地獄界を展開していたがために、人からは聖人と言われながら、地獄でのたうちまわっている宗教家たちは数多い。また、この世においては自らを悪人だと思っていたにもかかわらず、あの世において聖人と列せられている人も数多くいる。 たとえば親鸞(しんらん)だが、親鸞は生きていたときに、自分の悪業、悪人としての性格というものを徹底的に見つめたであろう。晩年の彼は地獄に堕ちるのではないかと恐れていたはずである。家人たちもまた、それを恐れていた。しかし彼は、地獄へは堕ちなかった。彼は天上界で今、やはり光の天使として生きている。立派に生きている。 このように本人の自覚とは別に、ちゃんとした法則があって、それに基づいて、高級なる波長と低級なる波長というのが分けられるのである。まず、それを考えておかねばならない。それは本人が自分が高しと思っても高くないのと同様、低しと思っても低くないのもまた、神理である。 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた さて、今、一般的な人間の死後の世界について話をしたが、では私、谷口雅春はどうなったかということを、あなた方にお伝えしておこうと思う。 このように話している以上、谷口雅春が地獄で苦しんでいるわけではないことは、まあ万人が認めるであろう。また、生長の家の弟子たちにとっても、まさか谷口雅春が地獄に堕ちたとは思っておらんであろう。そのとおり、我が教えに誤りなし、我は思いし通りの世界、如来界という世界であるが、今、来ておる。仏数的には、ここは金剛界とも言っておる。 私かいるような最奥の如来界においては、これはある意味では、胎蔵界(たいぞうかい)とも言われている。奥の奥という意味である。 さて私は、この地上を去ってからどうなったか。まあ焼き場へいって、肉体が焼かれるのを惜しんだわけではない。この地上を去るときが来たことは十分自覚しておったし、私も五十数年間、法を説いてきた。したがって、もうこの世に思い残すことは何もなかった。 執着のない霊にとって、この地上界に留まる必要など何もないということだ。私は自分の死を悟ってから、いち早く肉体を抜け出し、その日のうちに天上界へと帰ったのである。私は、先ほど言ったような四次元幽界などに、立ち止まったりしている暇はない。そういうことはしない。生きているうちに悟りを開いて天上界のことも、この世のことも悟っている人間にとっては、途中の休憩所にいって、一服している暇はないのである。 目に見えるように説明するならば、まあ、幾たりかの天使が私を迎えにきて、その天使たちの手に支えられながら、天上界へと昇っていったという形となろう。その間様々なる世界を眼下に見た。 これはもちろん、人間的なる私の感覚に訴える映像ではあろうが、私にはだんだん地上に日本が小さく見えるのが見えた。大きな海原(うなばら)が見えた。これは太平洋でもあったろう。海原のなかに日本という島国が見えた。九州が見えた。四国が見えた。中国地方が見えた。関東が見えた。東北が見えた。北海道が見えた。 そうして大海原が次第に遠ざかっていき、そして地球という大きな丸い球体が見えてきた。あそこにアフリカがある。ここにアジア大陸がある。オーストラリアがある。あそこにアメリカ大陸がある。そういう大きな地球儀でも見るように、地球というものが見えてきた。 そして私は非常に速い速度で上昇していった。やがて幽界を通りすぎ、霊界を通りすぎ、菩薩界を通りすぎ、如来界へと入り、如来界の下段階を通りすぎ、中段階を通りすぎ、最上段階へと着いた。 8.諸如来による祝福 私が着いたところは、あなた方に分かるように言うとするならば、昔からよく言われているような、のどかな風景のあるところである。そこはなだらかで、ゆるやかな傾斜のある丘陵であり、そこには色とりどりの美しい色の家が建ち並んでいた。そして私が帰った処には、私の家の玄関には、ちゃんと谷口雅春の名札がぶらさがっていたのである。 その名札は桧(ひのき)で作られたばかりの真新しいものであったが、その名札の下を見ると、私の過去世の名をちゃんと書いてあったのである。 最近作ったばかりの私の名札を取り除くと、その下に出てきたのは、プロティノスという名前であった。これはローマ時代の哲学者の名前である。新プラトン派の哲学者であり、プラトンの残した哲学を、さらに発展させた哲学者として、私は一度生まれている。そしてこのプロティノスという名札を取り除いたならば、下から出てきたのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)である。ただ命(みこと)とは書いていない。伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と書いてある。 ただ私は、心性として日本を好むがために、その家は非常に日本的なる色調のある家である。そうした、なだらかな天国を思わせる山の丘陵のなかに私のその日本式の庭園と日本式の家屋が建っており、私はそこに帰っていったのである。 そうして、まあ光の天使たちにつれられて、そこにいったん居を落ち着けて、何人かと歓談したあと、私は広場へと導いてゆかれた。そこの広場には、様々な如来と言われる方々が集まっていた。 まあ如来の数は大変多いがヽ私を迎えに来た如来たちを言えば、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、あるいは天常立之神(あめとこたちのかみ)、国常立之神(くにとこたちのかみ)、あるいは倭建之命(やまとたけるのみこと)、また女神の世界からは、天照大神(あまてらすおおみかみ)も急きょ、駆けつけてきてくれた。主として日本神道系の方々であったが、それ以外の方々も、私のもとへ訪ねてきた。 たとえば哲学者のカントであり、アメリカの思想家エマソンであり、たとえばプラトン自身であり、またソクラテス自身であったり。こうぃう哲学者たちも私のもとに馳(は)せ参じてくれた。日本神道系の神々、また、かつての哲学者たちが主として私のまわりに集まってきて、私の帰天を祝福してくれたのである。そしてやがて、他の仏教界の方々も私のもとを訪ねてきた。イエス・キリストしかり、これはキリスト教系の霊である。仏教系からは大日如来と言われる方がやって来た。阿閃如来(あしゅくにょらい)と言われる方もやってきた。 また、私より一足早くこの日本の国を去っていた高橋信次と言われる方も、私のもとに訪ねてきた。私は生前まあそれほど高く買っておらなかった人ではあったが、あの世へ帰って、どうやら同じ仲間だということを知った。決して憎しみも何もあるわけではないが、そういう霊もいたということを知った。 9.地上での活躍を語る こうした方々を迎えて、私は、帰天第一声をあげ、数十人の人々を相手に地上での活躍を語ったのである。そして、私の説いてきた五十数年間、また生誕以来ならば、九十余年説いてきた教えの間違っていなかったことを、そのときに確認したのである。 確かに天上界は、光一元の世界であり、私たちの信ずる世界は光しかなかったということである。私は、自らの考えというものをもう一度振り返ってみたが、そこに一点の誤りもないことを認めた。だから、自信を持って私の生長の家総裁の五十五年であろうか、その歩みを語ったのである。戦前のまず活動から、そして戦争時代に日本が突入し、その暗い時代に、如何にして光明を掲げるために苦心したかを。さらに戦後、レッド・パージによって、私もまた、文書を書くということを許されなかった時代のつらかったことを。また戦後、雨後の竹の子の如く、様々な新興宗教が興って、我が生長の家もそのような新興宗教の一派と思われ迷惑したことも語った。 戦前においては、生長の家は本当に新しい啓蒙(けいもう)団体であり、人々の心をゆさぶるような新しい教えであり、導きの光でもあったにもかかわらず、戦後という時代に様々な新興宗教が興きて、その一派と間違われはじめたことは私の深く悲しむところでありました。 しかし、私の光明思想、世を照らしていこうという思想自体は、決して誤ってはいなかった。私は、その光明の思想によって世を照らしたことで、多くの如来たちから賞讃を受けた。 ただ惜しむらくは、その啓蒙思想運動が生長の家という宗教の一派と思われたこと、そして、宗教に属さない他の方々にとっては、それを一つの線をひいたものとして、線引きをしたものとしてとらえられたということである。これを宗教としてではなく、思想としてもっと大きく広げていったならば、もっと多くの人々を救うことができたのにという感想を抱いたということは否めない。それは、私も感じたところである。 ただこれは、我が反省すべきところではない。すなわち、戦後、新興宗教ということでレッテルを貼り、新興宗教そのものを悪しきものとした、新聞をはじめとするマスコミや言論家たちの誤りだったと思う。 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった さて私は、その五十数年間の伝道の歴史を語り、人々と共に語り合った。生きていたときには知らなかったのだが、私を主として指導していたのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)であった。また、日本神道系の他の神々であった。時には、他の哲学者たちもインスピレーションを与えてくれたことがあった。そうした方々と手を取りあって私は話し合い、あなた方の力によって私はここまでこられたのだということを感謝した。 このように、地上の人間一人の力によっては、何事も成せるものではない。あくまでも地上に下りたる宗教家は、それはスピーカーであって、神のラッパであるのだ。これを忘れてはならぬ。それは、あなた方においても同じだ。 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ さて、そういうことで私の帰国ということは終わったわけだが、今日の最後の話として、締めくくるとするならば、高橋信次すでに亡く、谷口雅春亡き後、日本の国を中心として、新たな教えを説いていくのはやはり、あなた方であろう。 今後は私も指導霊として天上界から様々なアドバイスをするつもりであるが、どうか明るい世界を築くために、万教は帰一であり、同根であり、一つであることを、それを高らかに謳(うた)い上げ、たんに日本の教えとして留まることなく、全世界の人々を救うために、勇ましく立ち上がっていただきたいと思うのである。 谷口雅春は、生長の家をあなた方が超えていくことをむしろ嬉しく思う。私の五十数年間の活動を、凌駕(りょうが)していくことをこそ嬉しく思う。それでこそ、私たちの後に出てきたあなた方ではないだろうか。どうか大きなものとして成っていってほしい。 仏教もキリスト教をも、神道をも儒教をも回教をも、ユダヤ教をも、哲学をも、文学をも、芸術をも、超えていくようなあなた方であれ。そうした勇ましい活躍であれ。今後数十年にわたってそれを続けていけ。 世界は今、闇に沈もうとしている。このときに、大きな神理の太陽が昇る必要があるのだ。大きな光が、明るい光が必要なのだ。人々に対する光明が必要なのだ。それを忘れるな。光明となれ。自らのことを考えるな。勇ましく人々の心を照らしてゆけ。世を照らしてゆけ。それが、あなた方の使命である。 以上が私の本日の話、「天上界に帰る」である。
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天上界の歴史(てんじょうかいのれきし) +目次 登場作品イノセンス 関連リンク関連項目 類似項目 登場作品 イノセンス 天の始まり 原始の巨人が天上界の基盤を生みだした。 その頭から神が生まれ、天上界を支える命の起源となった。 その体から大地が生まれ、天上界を形作った。 その心から創世力が生まれた。 ゆえに創世力は巨人の意志そのものであり、どんな願いもかなえる力を持つ。 天上界の秩序 天上界が繁栄していくにつれ、天上の維持のための秩序が構築された。 その仕組みは以下の通り。これらは長く神々に支持された。 罪を犯した神を地上に追放する(→後の人間となった) 人間が神にささげた祈りが天上を維持するためのエネルギーとなった。 祈りのエネルギーを得続けるため、天は地上に幾許かの恩恵と力を与える。 また、さらなる力を得るため、人間の魂そのものをエネルギーとして搾取することもあった。 天上の分裂 やがて天上界は思想の違いにより2つの派閥に分かれることとなった。 すなわち、ラティオとセンサスである。 2つの派閥の違いは、特に地上の人間に対する考え方に顕著に表れた。 ラティオは「罪を犯した人間はすでに神ではなく、搾取の対象」と主張。 対してセンサスは「元は同じ神であるのだから、共存できるはずだ」と唱えた。 両者の対立はやがて激化していった。 ラティオとセンサスの戦い センサスは元来社会的な結びつきが薄く、かつてはラティオの敵ではなかった。 だが形勢は軍神アスラの台頭によって大きく変わる。 彼は多くの賛同者を集め、反対勢力を駆逐し、センサスは天上界を統一することとなる。 天上統一、崩壊 天上界の覇権を握ったセンサスの王、魔王。 彼はかねてからの悲願であった「天地の融合による世界の繁栄」を創世力に願う。 だが、その結果は繁栄ではなく、天上の崩壊であった。 創世力が発動した瞬間、天上界はその大地の多くを失い、ほぼすべての神々が命を落とし、滅びた。 そして、天上が失われた影響は、徐々に地上にも及ぶこととなる。 +ネタバレ:崩壊の理由 これは魔王(=アスラ)とイナンナの願いが同時にかなえられたためである。 魔王(=アスラ)は「天地の融合」を、イナンナは「融合への拒否」を強く願い、創世力の前で相手を刺した。 この時、創世力の発動条件が満たされてしまい、相反する2つの願いが複雑に絡み合い、天は歪んだ状態で地上と交じり合うことになったのである。 ▲ 関連リンク 関連項目 創世力 天上界 ▲ 類似項目 ▲
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目次 1.念の力 2.天上界の構成と魂の兄弟 3.知力と霊の進化 4.霊界の時間 5.精霊界の風景 6.霊界の風景 7.疲労と霊的活力源 8.憎しみと怒り 9.男の霊と女の霊 1.念の力(1986年4月14日の霊訓) さて、昨夜に引き続き、今夜も、私の通信を送らせていただけますことを神様に感謝いたします。 すでに予告いたしましたとおり、今夜は、「念の力」ということに関してお話ししたいと思います。地上界では「念」といっても、「超念力」とか、いわゆる異常な力のことを主として意味しておりますが、こちらの世界ではそうではありません。 「念」とは、今様にいうなら、方向性をもったエネルギー波動と呼ぷことも可能ですが、こちらの世界、つまり、物質のない私たちの世界では、「念(おも)うこと」はすなわち、「行なうこと」なのです。つまり、「念の力」というのは、あなたの世界では「行動力」といっているのと同じなのです。善い念を持つことは、善い行ないをすることとまったく同価値なのです。 なぜだかおわかりですか。それは、私たちの世界では、念(おも)ったことはすぐさま現象化するからなのです。ここが地上界との最大の差です。地上界では心で念っても、さまざまな外部的要因や他人の思惑が入って実現しないことが多いのです。 けれどもこちらの世界では、一〇〇パーセント自己実現が可能、言い換えれば、環境は心の影、すなわち、三界(さんがい)は唯心(ゆいしん)の所現(しょげん)という言葉そのものなのです。思ったとおりになる世界なのです。これが霊的な世界なのです。 他の宗教家たちも、光明思想などを説いているなかに、「運命はその人の心のままである」ということを言っている人がいると思いますが、これは実在界においては、まさしくそのとおりです。ただ、現象界では、その念ったことが実現するまでにさまざまのフィルターを通すために、異なった結果が現われることもあるのです。 実在界ではその人の心のままの世界が現われるというのは地獄でも天国でも同じです。 地獄界では、女を抱きたいと思えば、いつでも女を抱くことができるし、人を殺したいと思えばいつでも殺せる(ただし、その人にとっては、そのように思えるだけなのですが)、また、戦争をやりたいと思えば、いつのまにやら戦場にかり出されているといった現象が眼前に展開されます。 一方、天上界においても、ある人に会いたいと念えば、すぐその人に会えるし、美しい草花を見たいと念えば、すぐ眼前に、お花畑が広がっているといった具合です。 より厳格にいうなら、その次元にあるもの、いる人なら、「念の力」によって、呼び寄せられないものは何もないのです。 次元を超えた場合に多少の例外が出るのです。たとえば、小桜姫が日蓮聖人にお会いしたいと願っても、すぐさま日蓮聖人が来てくださるわけではありません。 日蓮聖人様は、小桜のもとに、最近三回足をお運びになられましたが、そのいずれのときも、ご活動に関して、小桜にご相談があられたときだけです。たとえば、この度の小桜よりの自動書記についても、他の霊言シリーズがかなり好評ではあるが、内容の程度が少々高すぎるので、一般の方々にもよりわかりやすい霊界通信も一集出したいとご相談を受けたのです。もとよりそれは、小桜では任に耐えないような大役ではありますが、日蓮聖人のような方が、霊界の凡百の人びとの生活様式だの、地獄霊の日々の過ごし方など霊言で語るのも、後世の人びとに申しわけないし、神霊世界の日常茶飯事については、この小桜が報告をお引き受けすることにしたのです。 そういうことで話はずれましたが、小桜が日蓮聖人に会いたいと念(おも)っても、むこう様にその気がなければ会えないのです。だからこそ、念の力を超えた祈りの力が必要なのです。 高級神霊との交流は、祈りの力によってのみ行なうことが可能なのです。単に「念う」だけではだめなのです。 また、地獄界についてもそうです。私の守護・指導霊たちの許可を得れば、地獄界を自由に見聞することもできますが、平常のままではできません。これは病院や、監獄などを見学するのに、許可が要(い)るのに似ています。 これに比べて、前者の高級霊に会おうと念ってもなかなか会えないのは、有名人になかなか会えないのと同じです。 読者から何百通とお手紙をいただいても返事を出しかねているでしょう。その理由は、相手の数が多くて手がまわらないのと、他にも重要な仕事があって忙しいからです。高級神霊に対する私たちの祈りも同様です。 以上に、念は行為であり、同一次元の世界においては自由自在であることを述べましたが、この自由自在ということのなかには、創造の自由も含まれていることを忘れてはなりません。具体的に申し上げると、粘土を用いていろいろなものを造り上げるのと同じなのです。上手、下手があるでしょう。 同じように、念の力のコントロールのしかたを学ぶということが、霊界における最大の勉強、学問の対象となっているのです。思いどおりになる念ならば、それをどのような正しい目的に向け、どのような実現を図るかということが、霊人にとっての最大の課題なのです。 たとえば、自分の衣装を思いどおりの色彩、デザインに変えるのを得意とする霊人もいますが、自分の衣装には無頓着な霊もいて、そういう霊人は、自分の衣服を思いどおりの色彩に染めるのは上手ではないのです。 またある霊人は、音楽を創作するのは得意なのですが、念の力で住居を造るのは得意ではありません。 またある霊人は、霊界ニュースを発行するために、自己の念力を最大限に発揮して、霊界の隅から隅までの情報を収集する力を得ておりますが、この霊人は、ゲームや、勝負事はからっきしだめです。 他方、互いに念力を使いあって、賭博に専念している霊人もいます。 つまり、ありとあらゆる方向に念の力は利用できるのですが、その霊人がどういった方向に念力を伸ばしてゆくかが、その霊人の学習でもあり、また、その霊人の私たちの世界での今後の進路を決めるものでもあるのです。こういった点、まったくこの地上界と同じだなあと思われたことと思います。 念の力においても個性と目的性が大切だということです。 では「念の力」についてはこのくらいにして、次回は、「天上界の構成と魂の兄弟」についてお話ししたいと思います。では近いうちにもう一度お会いしましょう。 2.天上界の構成と魂の兄弟(1986年4月15日の霊訓) さて、この通信も回を重ね、だんだんと佳境に入ってきたようです。この小桜姫の通信もやがて書物になって公表されることを前提にしていますので、内容は小桜のおしゃべりであっても、全体の骨組みそのものは、小桜が考えているのではなくて、他の上級霊の方々がお考えになって、私をご指導くださっているとおりにしているのです。 ところで今日は、「天上界の構成と魂の兄弟」ということを演題にして、一時間ほどおしゃべりをしてみたいと思います。 魂の兄弟があるということは、さまざまな霊人の方々からお聞きになっていると思いますが、なかなかその考えにはなじめないでいらっしゃるように思います。 確かにこの考え方は難しいので、霊人たちのなかにも、よく知らない人びとが多いのです。 この魂の兄弟については、そもそもどのようにして魂たちが出来たのかということからお話ししなければならないと思います。 いま地球系霊団には、いったい何人ぐらいの霊たちがいるとお思いでしょうか。もちろん、人間としての霊に限ります。 こちらの世界にも、総理府の統計局のようなお役所があって、時々霊人ロ調査をやっていますので、必要があれば問い合わせればすぐ教えてくれます。正解は、約五百二十億人です。地上に生まれている人が四十~五十偉人ぐらいのようですから、その十倍ちょっとといったくらいでしょうか。 この五百二十億人を分類すると、約三十億人が現在地獄で苦しんでいます。約六パーセントくらいですね。次に地獄を除いた幽界の人口は約百五十悟入くらいです。約二十九パーセントです。この両者をあわせると、四次元の人口は約百八十億人、三十五パーセントくらいになります。 次に五次元の霊界ですが、ここの人口が最も多く、約二百六十億人おります。ちょうど五十パーセントですね。ですから、四次元と五次元だけで、約四百四十億人、八十五パーセントの人びとがいるわけです。 この次が、六次元神界です。この六次元神界でも上段界の、諸天善神ともいわれる光の天使たちの人口は、約二億人で、他の七十数億人が、高級霊と呼ばれる方々です。ですから八十億人近い方々が、この六次元におられるわけで、その比率は、十五パーセント弱です。 ですから、霊団の構成自体をみれば、約六人に一人が高級霊ということになります。ただし、これは霊天上界の話であって、地上界の人びとの六人に一人が高級霊というわけではありません。幽界の人びとのほうが地上に生まれ代ってくる回数は多いため、実際に、六次元以上の高級霊は、百人に一人ぐらいということになります。ですから、日本のように約一億人の人口がいれば、このうち百万人ぐらいの方々が、六次元以上の高級霊で、こういった人びとが、日本の国の、政治、経済、学問、科学技術、宗教などの各分野で活躍していることになります。 さて、七次元の菩薩界になりますと、数はぐっと減ってきます。菩薩の数は、約二万人といわれています。このうち約千人が、常時交代で地上に降りて、各国の各分野で、時代を進化させるために活躍しているといわれています。現在日本にも、数十名からの菩薩たちが生まれています。彼らのうちの大部分は経営者であったり、学者であったり、医者であったり、高級官僚であったり、芸術家や文学者であったりしますが、やはり数でいうと、新しき時代の宗教家たるべく生まれている人たちが多いようです。 七次元と八次元の間には、梵天界(ぼんてんかい)というところがあって、ここでは如来の卵たちが修行にはげんでいます。この梵天、バフラマンの数は、約七十名といわれています。(注・八次元存在の梵天を入れるともう少し数は多いようである。)天台智覬(ちぎ)様、大国主之命(みこと)様、キリスト教系では、ペテロ様、マタイ様、などがここにおられます。 八次元になると、数はさらに少なくなってきます。約五百名弱といわれる如来様方がおられるところです。残念ながら、女性の如来様は一人もおりません。すべて男性です。(注・ただし、如来と同一視されている八次元存在の女性の梵天―バフラマンはいる。)どんな方がいられるかは、私が述べることではなくて、他の高級霊の方々がおっしゃることでしょう。 九次元にいらっしやるのは、私が日蓮様に教えていただいたかぎりでは、約十名ぐらいだとのことです。イエス様や、モーゼ様、お釈迦様、エル・ランテイ様、孔子様、マヌ様、ゼウス様、等々、そうそうたる人びとがおられるようです。この九次元と八次元の境が、七大天使様らのいらっしゃるところだそうです。 こういった高次元の世界については、また別の方にお聴きになればよいと思いますが、ここで小桜が言っておきたいことは、わが地球霊団には、構成比にして約六分の一高級霊がいるということなのです。ここまでいえば、もうお気づきになられたと思います。 つまり、一般に魂の兄弟といわれて、本体と五人の分身ということが言われていますが、正確にいうと、一人の高級霊を頭として、他の五人の霊が一組を作っているということなのです。つまり、六次元神界にあたる高級霊が霊格が高いので、本体と呼ばれ、その他の霊と一組となっているのです。ですから、五人の霊人のうち一人が、地上生活を送る場合、この本体が守護神をつとめ、他の分身の一人が、守護霊を務めるのです。これが、通常の霊の組織単位なのです。 しかし、この本体分身の理論は、七次元菩薩界以上の方々には通用しないようです。彼らは、神様に近い高級神霊ですから、自由自在に、応身(おうしん)・分身を創り出してしまうので、その数が特定できなくなるのです。 ですから例外のない規則はないと言いますが、本体・分身の理論も、結局普通の霊たちの場合なのです。責任者を一人おいて、何人かの転生輪廻の面倒を見させたほうが便利だと神様がお考えになったのです。まあ、本体というのが課長さんで、分身が課員というところでしょうか。もちろんいずれの霊も、創造の初めより縁があったといえなくはないですが、魂の創造については難しいので、また別の機会を持ちたいと思います。とりあえず今日は、「天上界の構成と魂の兄弟」についてお話をしました。 この次には、「知力と霊の進化」というテーマでお話ししたいと思います。では今夜はこれでお休みください。 3.知力と霊の進化(1986年4月16日の霊訓) さてさて、あなたは今日は、小桜と話するのを嫌がられたのか、お飽きになられたのか、天之御中主様をお呼びしようとされておられましたが、そうはまいりません。この私の霊界通信が完成するまでは、とにかく小桜姫優先でやっていただかないと困ります。 あなたも、今後あと二~三か月もするとたいへんお忙しい身体となられますので、それまでの残り少ない自由な時間をどうかこの小桜にください。あなたのお時間を毎夜頂戴いたすのは、小桜にとっても心苦しいことでございますが、この小桜にとって、今なせることはといえば、あなたのお時間を頂戴して、地上の人びとに訴えかけるだけです。 さきほど来、私は、読者のお手紙の束を読んでため息をついておられるお姿を見ておりました。一人ひとりの読者にいちいち返事することもできず、さりとて神法流布も進展せずといったところで、お苦しいようですね。 でも、正月に日蓮様も言っておられたように、耐える苦しみ、待つ悩みというものも、今年の前半で終わり、後半は、ひじょうにエネルギッシュに毎日を過ごさなければならなくなるでしょう。何万人もの読者は、あなた方を放っておいてくれません。おそらく大きな気運が、ここ一~二か月のうちに盛り上がってくるでしょう。そのときに、ああ、もう少し準備をしておけばよかったと思うあなたでないように小桜は祈るばかりです。 さて、では今日のテーマは「知力と霊の進化」ということで、お話ししたいと思います。 まず、根本的な問題として、知力というものは、霊の進化に役立つかという問題があると思います。答えはイエスです。 霊としての人間が、永遠の転生輪廻を繰り返している理由は、時代環境に応じた、経験と知識を獲得するためなのです。 ではなぜさまざまな経験と知識を得る必要があるのでしょうか。それは結局人間が自分自身を知り、他人を知り、それらのことを通して神ご自身のことを知るためなのです。神ご自身から分かたれて、人間霊となった理由を知るためなのです。 神様は、いわば、難しい言葉を使わせていただくならば、帰納法(きのうほう)と申しますか、個別、具体的な経験、知識を通して、人間に神様のことを学習させようとしておられるのだと思います。でも何でまた、そんなまわりくどい、無駄なことを、とあなたはおっしゃるかもしれません。 でも考えてもごらんなさい。学校の先生は生徒に教えるということを通じて、自分もいろいろなことを勉強できるんじゃないですか。 女性は、妻となり母となることによって、子供を育てるということを通じて、人間としても大きく成長していくのではないですか。 男性にしても、父親としての、子供を養育する経験が、人間的な完成へとその人を導くものではないのですか。 私が思いますのに、神様といわれる方は、完全無欠な方でいらっしゃると同時に、絶えず向上と発展を希(ねが)われている方ではないでしょうか。つまり、先生は先生として完璧であるとしても、子弟の教育をするという経験を通して、みずからも向上しようとする、快い向上心がそこにあるように思うのです。 ですから、小桜の話はあまり筋立ってはいませんが、とにかく、「知る」ということはたいせつなことだということです。時には間違った知識や偏った知識によって、心をゆがめることもありますが、でも、たといそういったものであっても、永い転生輪廻の過程を通してみれば、必ずどこかで役に立っているのです。 「知力と霊の進化」ということに対して、さほどのことはまだ言っていないのですが、「知」については、また述べる機会もあろうと思いますので、今回はこのへんで。 4.霊界の時間(1986年4月17日の霊訓) 昨夜に引き続き、今夜も通信を送れますことを神様に感謝いたします。 さて、今日は、多少の時間もあるようですので、趣向を変えて、「霊界の時間」ということについてお話ししてみたいと思います。 あなた様方、地上の人間界におられる方々で、神仏へ近づく縁となりやすいのが、未来に対する不安だと思います。 人間はともすれば、まだ目に見えぬ未来のことを心配し、あれこれと悩みわずらうのです。 キリスト様のように、「一日の苦労は一日にて足れり」として、昨日のことや、明日のことを考えないで、一日一生の思いで生きていけとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうけれども、それですまないのが、私たち凡人の悲しさなのです。 梅が咲いたら、桜はまだかと心配になり、桜が咲いたら、夜半に嵐が吹くのではないかと心配するのが、人間のつねなのです。そして、先のことをあれこれと取越し苦労する理由は、結局のところ自分自身の弱さ、自分自身の自信のなさに起因しているのです。 ですから未来を知りたいという気持ちは、同時に、神仏に頼りたいとする気持ちと表裏をなしているのです。 一日先のことさえわからない盲目の人間。だからこそ、努力があり、日々の精進もあるのですが、その「わからない」という不安ゆえに、心を空しくして神仏に祈願する姿もまたあるのです。不安は単に、不安のための不安ではなくて、神に至るための道標でもあるのです。このこともつくづくと考えるにつけ、ああ、神様は至るところで救いの手を差し述べておられるのだなあと感嘆してしまいます。 さて、そうそう今日は、「霊界の時間」ということで、お話ししようと考えておりました。 人間が未来のことを神仏に頼ったり、あるいは霊能者に頼って、自分の将来のことを知りたがる背後には、霊的世界の時間の概念は、この地上的時間の概念とは、様子を異にしているということを、本能的に知っているからだともいえます。確かにそれは正しいことで、むしろ本能的というよりも、かすかなる過去世の記憶とでも言ってよいかもしれません。 では、霊界にある時間とはいったいどんなものなのでしょうか。 地上の方々は、時間というと何か直線的で、矢のごとくに飛び去るように考えています。でも、私たちの世界では、そうではありません。時間というものは、真空の透明な箱のなかに投げ込まれたゴムまりのようなものです。 ちょうど、選挙の投票箱のようなものを、考えていただくとよいと思います。上のほうにちょうど人間の手が入るぐらいの小さな穴があいており、神様がその穴からゴムまりを投げ込まれ、その後ピシヤッと穴に蓋(ふた)をされたのです。 箱のなかは真空ですから、空気の抵抗もなくゴムまりは、永遠に運動を続けるのです。この、永遠に運動を続けるということが、永遠の時間ということと同じ意味なのです。しかも、箱は透明ですから、私たち霊人は手にとるようにゴムまりの動きが目に見えるのです。 この比喩は、箱が透明というよりも、霊人であるから箱がすき透って見えるのであり、地上人には箱のなかがさっぱり見えないのと同じです。 このことが、肉を持っている人間には未来が見えず、霊人には未来がわかるということと同じことなのです。 さて、その未来はどのように見えるのでしょうか。もとはといえば、箱のなかに落とされたゴムまりですから、その方向性は、壁に当たって跳ね返るのみです。立体の壁は六面しかありませんから、この六つの内壁の間を、ゴムまりは行ったり来たりしているだけなのです。ですから、外からよく観察していると一つの壁にぶつかったあと、ゴムまりがどちらの壁のほうに向けて跳ね返るかは、一目瞭然なのです。さらに先のことを見抜く人であるならば、次の壁に当ったあとどこへ行くか、さらにその次にどこへ動くかということを、まるで、ビリヤードか何かでもするようにわかってしまうのです。 このことから、地上界の方々は、二つのことにお気づきになられると思うのです。 その一つは、たとえば霊人たちに将来のことを聞いても、ある程度は当たるが、どうしてもはずれることがあったり、時間的なズレが生じたりする理由です。それは、ゴムまりがどの方向に跳ね返ってゆくかは、一つの予想であって、結果ではないからなのです。六つの内壁を次々と跳ねているゴムまりですから、次の運動の方向は、ある程度は予測はできても、必ずしも万全ということはありえないのです。 もう一つのことは、ビリヤードの例で話しましたが、人によって、先を見抜く目があれば、次々にゴムまりが動いていく方向が、ある程度のことまでわかるということなのです。これが、その霊人の予知能力ともからむのです。ガラス張りの箱のなかを見ているという状況は、すべての霊人にとって同じなのですが、先々の動きをどこまで見通すことができるかは、個々人の能力によって違うのです。 ですから、大予言者になると将棋の名人と同じで、何十手、何百手も先まで読んでしまうのです。 ここまでお話しすると、では透明の箱がいったい何かおわかりでしょう。この箱こそ、三次元世界そのものです。三次元世界は、四次元以降の多次元世界から見れば、ガラス張りのようにお見通しなのです。霊人たちはみんな、水槽のなかの金魚でも見ているかのように、地上界の人びとを見ている事実を忘れてはなりません。ですから、地上界の金魚のみなさんは、決して悪いことなどできないですね。 金魚の話となったところで、今日はこのへんで話を終えることといたしましょう。 この次は、「精霊界の風景」についてお話しいたしますので、ではまた、そのときまで。 5.精霊界の風景(1986年4月20日の霊訓) さて、今朝はお約束どおり、「精霊界の風景」についてお話ししたいと思います。 その前にちょっと、「精霊界」という言葉について触れておいたほうがよいですね。精霊界はいわゆる四次元世界のなかにあります。四次元世界をひと言で「幽界」とも称んでおりますが、細かく見ると、この世界も幾層にも分れています。四次元の「幽界」を大まかに分類すると、下層が「地獄界」、中層が「狭義の幽界」、上層が「精霊界」となっています。 地獄界は、もうご存じですので、残り二つについてお話ししようと思います。 「狭義の幽界」というのは、人間が死後すぐに来る世界です。よっぽどの悪人は、死後よくいわれるように「まっ逆様」に地獄に堕(お)ちます。これは、地上的悪の想念が、魂にまとわりついて比重が重くなりすぎているからです。これと反対に、悟った方々、光の天使の方々は、たいてい真一文字に高級霊界へと還っていかれます。このどちらのケースでもない通常の霊人たちは、一様に、この狭義の幽界へと引越してくるのです。ですから大戦争があったり、天変地異があったときなど、幽界の人口が一挙に増えて、世話役の高級霊たちは、てんてこまいです。 ですからこの狭義の幽界は〈控えの間〉ですね。ここでしばらく、自分自身の人生を反省して、みずからの判断で、修行のため地獄へ降りてゆく人、あるいは、地上生活をよくよく反省し、人間が肉体ではなく、霊的存在であることを悟って精霊界へと昇ってゆく人とがいるのです。 狭義の幽界でとどまる期間は、せいぜい長くて百年で、通常は二、三年、早い人なら三日間ぐらいです。その後、地獄界なり精霊界なりに居所を定めて、じっくりと魂の修行に励むことになります。 では本題の「精霊界の風景」へと話を進めていきましょう。 精霊界の住人となる条件は、「自分が霊的存在であることを悟っている」ということです。ですからこの世界の人びとは、霊的な目で世界を見るようになってきます。ですからその霊人の霊性が高まるほど、世界が光輝いて見えてくるのです。 しかし、この精霊界では、まだ地上生活の習慣が抜け切らず、かつて家族であった者どうしとか、親しかった者どうしがいっしょに暮らしています。この世界では、まだ三度の食事もあれば、地上生活の真似事のようなことをたくさんやっております。お互いに好きあって、愛をささやきあうといった光景も当然あります。ですから夫婦や男女の性行為もまだ当然行なわれています。 性的行為自体は、背徳的なものでも何でもなく、お互いに幸せを与えあうものであるならば、神の祝福を受けます。ですから、この精霊界でのセックスは、地上界と比べてたとえようもないぐらい甘美なものとなってゆきます。ただ、ここでひと言いっておきますと、その甘美さに溺(おぼ)れていると、さらに上の世界への進化はありえないということなのです。 神様は、愛にもいくつかの段階を創られました。そのいちばん下にあるのが、本能に基づく男女の愛です。その上に隣人愛があり、同胞愛があり、神への愛があるのです。ですから次第に愛も高まって、肉体的な愛から、霊的な愛へと進んでいかねばならないということです。 さて、この精霊界の風景ですが、どちらかというとあまり都会的ではありません。よくて都市の近郊住宅街、場合によっては農村地帯とか、山間の集落のような感じです。特徴的なことは、草花がずいふん色とりどりに咲き乱れており、鳥や虫たちもさえずっていることです。どこかで昔話にきいたような天国的なイメージがこの世界には確かにあります。 もう一つ特徴的なことは、人間以外の精霊たちがこの世界にはいるということです。 花の精とか本の精とかいうのを物語で読まれた方もいらっしゃるでしょうが、まさしくそういった者たちが、小人のような、人間の姿をとって実在しているのです。あるいはコロボックルというのですか、伝説の小人たちが確かにおります。 また羽根がはえて、天空を飛びまわれる無数の妖精たちが、ほんとうにいるのです。ですから最初、この精霊界に来た人たちは、こういった人間以外の精霊がいることに驚嘆するのですが、やがて馴れてしまって友だちになってしまうのです。ですからしばらくすると、お花畑に花の精がいるのは当然のことになってしまうのです。 ここまで読まれた読者の方は、ハタと気がつかれたと思います。つまり、この精霊界というのは、とてもメルヘン的で、民話的な世界なのです。風景が都会的でないのもそうですし、人間以外の精霊が住んでいる点でもそうです。 ですから神様は、霊的な世界に十分馴れさせようと思って、こういった世界を創られたということですね。 この精霊界で満足して、何百年も生活しているうちに、高級霊から「おまえは、いまのままでは進歩がない。もう一度地上界に戻って修行をしなさい。」と言われる場合もあるし、他方では、だんだんにこの精霊界に飽きて、もっと自分の魂が修行できる世界を望みはじめる霊もいます。この場合はちょうど、学生生活の怠惰な毎日に飽きて、ひとつ実社会でもまれてみたいという気持ちにも似ています。 そういった場合、その霊人に関係のある高級霊が迎えにきて、新たな世界へと導いてゆくのです。つまり霊天上界は、永遠の人生学校だということですね。次は「霊界の風景」へと話を進めます。 6.霊界の風景(1986年4月21日の霊訓) さて、昨日は精霊界の風景についてお話ししましたが、少し、伝説の話のようで信じがたかったかもしれません。ところで今日は、「霊界の風景」へと話を進めていこうと思っています。 この五次元霊界というのは、以前にも述べましたように、人間霊の大多数が行くところでもありますので、ある意味では、みなさん遠い記憶のなかには、おなじみの風景なのです。 この五次元霊界で、地上界といちばん違うのは何かといいますと、まず第一の特徴は、人びとが善良であるということです。第二の特徴は、人びとの信仰心が篤(あつ)いということです。 この世界の住人は、一見して善人だとわかる人ばかりです。地上界にいるようなヤクザや不良はおりません。ひと言でいえば善良な人たちです。もちろん、人間として生きていたときに、善事ばかりして、悪事をまったく働かなかったわけではありません。善事と悪事を比較してみると善事が多かったのはもちろんのことですが、自分がなした悪事についても、一応の反省が終わっている人びとなのです。 また、彼らの大部分は、神仏への信仰は教養人としての当然の資質であり、人間にとって不可欠のものだと思っています。あまり熱心ではなくとも、神や仏に対する畏敬の念は持っています。この点、四次元精霊界が、人間が霊的存在であることをある程度悟った人びとの世界であったのに対し、神仏の存在というものを、人びとが認めている点、一歩進んでいるといえます。 こうしてみると、地上の人にとっては、宗教を持つかどうかは個々人の自由になっていますが、こちらの世界はそうではなく、信仰ということは、魂が進歩するためにぜひとも通り抜けなければならない関門だということです。少なくとも、この五次元霊界には、無神論者や唯物論者はいません。生前もしそうであったとしても、こちらの世界にきてからは霊的に目覚めた人たちばかりです。 今日は簡単に、霊界の風景のなかで、特に小桜の心に残った一つの光景だけを語って、筆をおきたいと思います。 その、小桜の心をとらえた風景というのは、こういうものでした。 あるところに、老人が一人住んでおりまして、だれもその老人の世話をする人とてなかったのです。その老人は、つつましい草庵に住み、猫の額ばかりの土地を耕して毎日を過ごしておりました。 ところがある日のこと、天上から天人の大軍勢が、笛や太鼓の音とともに、ドッと、その老人の家の庭に舞い降りて来たのです。彼らの大部分の姿は、そう、正月の七福神の姿のようだと想像していただければけっこうです。そしてその老人を上座に着かせて、天人の舞いとでもいいますか、一つのお祭りのような騒ぎとなったのです。 ですから、遠く離れていて、その老人を見向きもしなかった村人が、いったい何事かとみな集まってきて、天人の歌や踊りをワイワイガヤガヤと見ておったのです。 そのときです。お祭りがピタッと止(や)んで、いちばん偉そうな、大黒天のような人が、前に進み出て人びとに言ったのです。 「あなたがたは、こうして変わった催し事があれば、仕事の手を休めて、他のことを放り出してでも駆けつけてくるではないか。それなのに、ふだん暇なときにさえ、この孤独な老人を訪(おとな)わず、だれ一人として声をかけようとしないのは何事であるか。」 諄々(じゅんじゅん)とさとす大黒天の言葉に、まわりの集まった村人たち、数十人も一同にシュンとして首をうなだれてしまい、反省をし始めました。そして彼らは、大黒天たちの前で、これからは毎日、彼らのうちの一人が必ず老人を訪ねて、話しかけることを約束しあいました。 このような他愛もないエピソードのなかにも、どのような方便を便って天便たちが、霊人たちを導いているかがわかるでしょう。一事が万事でして、この五次元霊界でも毎日どこかで変わった事件が起こり、そのことが人びとの心の肥やしになっているのです。 では今日はこのへんで。 7.疲労と霊的活力源(1986年4月24日の霊訓) さて、三日ほど休んでしまいましたね。こうした通信を毎日受けるのは、やはりおつらいですか。けっこう根気がいるものだとはかねがね思ってはおりましたが、しかし、考えても見てくださいませ。小桜にしても、平穏無事に神界で暮らしておればよいものを、何の因果が、霊人の比率でいうなれば、一億人に一人もやらない仕事をいまやっているのですから、そのこともわかっていただきたいと思います。 まったく、こういった霊界通信の仕事は、徒労に終わることが多くて、実りは少ないのです。でも、少ない実りでもかまいません。徒労でもかまいません。小桜もいけるところまで行ってみようと思います。そのことを、あなた様もきっと、最後には喜んでくださることと思います。この小桜の微力が、いつかは多勢の人びとの心の糧となることを信じて疑いません。 本来ならば、今日は「神界の風景」についてお話しするところでしたが、それはすなわち、小桜の住んでいる世界の話でもありますので、別に語るべき機会があると思います。 そこで今日のテーマは、「疲労と霊的活力源」ということでお話ししたいと思います。 人間というのは、毎日、一日二十四時間を生きてゆくのですが、いつもいつも元気いっぱい、やる気満々というわけにはいきません。 たいへん愉快で楽しい日々というものは、とても短く感じられて、つらい、鉛をのみこんだような日々が永遠に続くかのような錯覚に陥ることさえあります。人間が救いを求めているときは、まさしくこのようなときで、宗教の門もこのようなときに叩かれることが多いのでしょう。 毎日が楽しい人びとであるなら、このような霊界通信も何の救いももたらさないし、何の意味ももたらさないでしょう。 けれども、人生に涙しながら生きている人びとにとっては、私の霊界通信も、ひとときの憩いであり、オアシスでありえるのではないでしょうか。人生にどのように疲れた人びとであるにせよ、神の大きな御手が、その人びとを育んでくださっているということに気がついたならば、人間は赤子のように、安らかに眠れるのではないでしょうか。 まず私は疲労ということについて考えてみたいと思います。疲労にはいうまでもなく、肉体的疲労と、精神的疲労があります。この両者は、もちろん相互に影響しあうこともありますが、一応別々に切り離して考えてもよいでしょう。 肉体的疲労には、睡眠に、栄養、適度な運動といったことが、大切でしょう。これは、医者なり薬剤師なり、健康の専門家に相談するという方法があるでしょう。 しかし、精神的疲労には、これといった即効法がないのが現状です。精神的疲労を即時に回復させる方法が見つかったならば、まさしくノーベル賞ものですね。 宗教という分野は、まさしくこの意味において、精神的疲労から回復するための手だてを考えてゆく必要があると思います。それは別に一般的なことではなく、あなたがた人間の一人ひとりにとって大切なことです。 小桜が思いますのに、精神的疲労から回復するための霊的活力源として、次の五つがあげられると思います。 第一は、反省です。反省によって心のくもりを取り除き、神の光を浴びることによって、マイナスの霊気、邪気を追い払う方法です。 第二は、希望です。精神的疲労から立ち直るためには、希望の灯を心にともすことが大切です。希望はまさしく、闇夜を照らす灯台の光です。希望があるかぎり、人間は何とかやり抜く力が湧いてくるものです。お金がなくとも、愛する人がいなくとも、人間は生命あるかぎり、希望を心に抱くことはできるはずです。 第三は、祈りです。精神的に疲労しているときというのは、霊的エネルギーパワーが減少しているときなのです。すなわち、霊的な充電が必要だということです。祈りという行為は、この地上界の人間と、天上界の高級霊との間を架橋する働きをするのです。つまり祈りという名の橋が架けられて初めて、高級霊の光のエネルギーが流れ込んでくるのです。他力による光明パワーの充電がとても大切なのです。 第四は、不動心です。しっかりした重心を魂の奥底に持つということです。人間の心が、単なる振子のように揺れているのでは困ります。あの起き上がりこぼしのように、どんなことがあっても起き上がるためには、しっかりとした重心が必要です。その重心こそ神に対する深い信仰といえるかもしれません。何であれその人にとっての重心を持つということが肝要なのです。 第五は、精進です。霧というものはじっとしていても、晴れるものではありません。霧というものは、前進これ前進に努めるとき、やがてうそのように晴れてゆくものです。すなわち、つねに前向きに努力精進してゆくということです。精進はどのような停滞をも打ち破るパワーです。精進に勝てる悪魔なし、精進に勝てるスランプなしです。ですから、どのような精神的疲労を感ずるときにも、コツコツと精進することです。 以上五つが、小桜の考えた、精神的疲労から回復するための霊的活力源です。どうか参考にしてくださることを望みます。この五つさえあれば、どのようなスランプが来たって必ず乗り越えられます。私はそう信じています。 では今夜はこのへんで。
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天界 勢力一覧TOPへ 天界という勢力について 概要 天の帝を長に据え、枢機卿を加えた枢密院から組織される組織 ※天使などは主にディーヴァやその下部に属する大天使等に遵って行動しています。 設定が曖昧になってしまい、申し訳ありません…追々、協議してイメージを固めていこうと思っています。 天界における種族一覧 ■神属:神に属別される存在。または神そのもの、同等の存在。 ■天使属(族):翼と優雅さを併せ持つ天界で最も美しい存在。神に従い、その行いを助ける 事が使命。天界の代名詞的なキャラクターでもある。基本的に両性具有。 ■神族:各界の神を頂点として生きる種族。人間種、エルフ種、ドワーフ種、精霊種、 獣人種などが代表的。元々神が生み出したものなので天上人とは分け隔てられる。 天上人とは違い、格の違いを強調しがちである。また、互いの神族同士争いを起こすことも… ■天上人(天界人):かつて、神々が地上に楽園を築いていた頃、一人の熱心な奉仕者が 天界への道を開き、そこへ地上の人々を導いたとある。 そのとき天界へ渡り、天界で独自の文化を築き上げた人々の子孫が今の天界人たちである。 天使や神族と違って、地上人の血を受け継いではいるが、その能力や寿命は 現地上人とは比べ物にならない。それは、天界で神々の洗礼を受けたからだとも云われている。 また、天界においても数多く、独自の政治大系も創り上げている。 !注意! ~神属と神族は違う!?~ 元々の神に属する(または同等の存在)であるものを神属という。 一方、神族は神々が育ててきた種族やその部類を指す。人間種やエルフ、精霊、 ドワーフ、獣人、聖獣等がある。 すべて天界で生まれたもので、その頂点に君臨する神がいる。 神・天使 至上神:ディーヴァ“管理者” 天界及び神界における最高神。“管理者”と言われ、あらゆる神族や天使の頂点に有る存在。 その権威は絶対であり、天界の創造主たる存在でもある。 天使らの中には世界=ディーヴァと考えるものも少なくない。 しかし、その存在は謎に包まれており、最上級に位置する一部の神族や天使にしかその 存在を把握されていないという・・・ (仮設定段階です。今後、天界での設定も進める予定です) 天使王:メタトロン 天使族を統べる天界においても最高位の権威と力を持つ大天使。その威光は 管理者ディーヴァに次ぐとさえ言われるほど凄まじい。別名も多く、"神の代理人" "王座にはべるもの"等がある。 シンボルは『王冠』と『炎の柱』。 四大天使 名前(性別) エレメンタル 方角 シンボル 二つ名 ミカエル(♂) 【火】 【東】 【鞘と剣と天秤】 【美と正義の天使】 ガブリエル(♀) 【水】 【北】 【百合の花】 【慈悲と復活の天使】 ラファエル(♂) 【風】 【西】 【炎の剣】 【栄光と知識の天使】 ウリエル(♂) 【土】 【南】 【剣と楯】 【審判と義の天使】 ガーディアンエンジェルス 【特徴】 メタトロン直属の精鋭部隊。常に天界から地上の様子を窺い、有事の際には秘密裏に 活動する。言わば天界の“CIA”である。 【幹部天使】 ラツィエル:天界の秘密を守る書簡役。天界の全ての秘密を知るといわれる。 大統領補佐官のような天使。 ラグエル:内務監査官。天使の常日頃の行いを監視する、要は警察で言う監察官。 悪の道に染まって、堕天使化するような天使を上層部に報告する役割。 サリエル:人間の魂を管理する。人の悪行を見出す“邪視”の能力を持つ。 その能力ゆえ、堕天使ではないかと疑われた事がある。 レミエル:“幻影”を司る雷の天使。悪に染まった魂を打ち砕く“雷衝”の 能力(ちから)を持つ。治安部隊のような役割を担う。 天使軍団 【上級三隊】 【中級三隊】 【下級三隊】 熾天使(セラフィム) 主天使(ドミニオンズ) 権天使(プリンシパリティーズ) 智天使(ケルビム) 力天使(ヴァーチューズ) 大天使(アークエンジェルス) 座天使(オファニム) 能天使(パワーズ) 天使(エンジェルス) 天使軍団内の階級と特徴 ①熾天使<セラフィム> (天使王・メタトロンが君臨する最高位の天使軍隊。所属する司令官は 全て六枚翼の大天使) ②智天使<ケルビム> ③座天使<オファニム>(別名・トロウンズ、ガルガリン(炎の車輪)等) ④主天使<ドミニオンズ>(別名・主権者たち(ロードシップ)等) ⑤力天使<ヴァーチューズ>(“高潔”を意味する軍隊) ⑥能天使<パワーズ>(“デュナミス”と呼ばれる最前線で陣取る軍隊) ⑦権天使<プリンシパリティーズ> ⑧大天使<アークエンジェルス> (四大天使の所属する軍隊。下位に属する階級軍だが、その実力と権威は全軍の 中でも最高で、実質的には全天使軍団を統括する“参謀本部”そのものである!) ⑨天使<エンジェルス> 天上人・その他の神族 行政 枢密院の構成員は、貴族が多い。 また枢密院を中心にさまざまな機関が集まっている。 特に地上への関心は高くそれに特化した機関がある。 その機関のひとつに地上監察局があり、教会の職員に紛れて地上の動きを 監視、一部の介入などを行っている。 軍 魔界との戦いのために組織された。枢密院の指揮下にある。 階級は 将軍>万闘士>千闘士>百闘士 の順になっている。 また特殊な技法を習得した天師という役職が存在し、前戦での参謀などを勤めることがある。 家柄 以下の順となる 選帝侯>公>伯>子爵 現状 魔王軍が各地で騒乱を巻き起こす現状を鑑み、地上監察局が重い腰を上げた。 今のところ教会内部に潜み情報を収集している。 序章・9幕においてガーディアンの森消滅への流れの中、監察局の 長官ブラッドレイが森の住民の森の外へ逃がすため魔王軍と数千年ぶりの交戦を行う。 カームの港町にはこびる邪教徒、その裏で暗躍する魔王軍(?)により 予想を上回る被害が出た為に天使軍団の一部を地上に派遣し始めた。 所属キャラクター一覧(△) キング・ブラッドレイ ドラゴン紫龍 天馬星座の星矢 プリニー バトルノート 復讐天使ザタエル シェゾ・ウィグィィ 魔人だいそうじょう 魔人ペイルライダー 魔人ブラックライダー 魔人ホワイトライダー 魔人レッドライダー セセリ