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大逆事件(たいぎゃくじけん) 1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。 特に一般には1910,1911年(明治42,43年)に社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。 thumb|280px|right|大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」([[和歌山県新宮市)]] 概要 政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、 1910年 - 幸徳事件 1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される) 1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる) 1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる) の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。 虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯で、幸徳事件と朴烈事件は、当時、計画段階で発覚したとされた。しかし、のちの研究によれば、実際は社会主義・アナキズムを恐れた政府が、運動を弾圧する口実として、でっちあげたもの(フレームアップ)である可能性がある。 参照条文 旧刑法第116条天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 1947年改正前の刑法第73条天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 四件の大逆事件 幸徳事件 Template Main? 1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっちあげ)したとされる事件。 信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した荻野富士夫『思想検事』岩波新書(2000年)p.11。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした荻野富士夫前掲書p.12。 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(菅野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。 赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村『寒村茶話』朝日選書(1979)所収「一月二十四日の謀殺」で事件を回想している。、堺利彦、山川均は事件の連座を免れたが、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。この事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件後ピョートル・クロポトキンの著作、公判記録を研究した。徳富蘆花は「謀反論」講演で死刑廃止論の立場を鮮明にした。また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」『石川啄木と幸徳秋水事件』(近藤典彦編・吉川弘文館、平成八年)所収。滝川政次郎「誰も知らない幸徳事件の裏面」『人物往来』昭和三十一年十二月号。また池島信平編「歴史よもやま話し」、花田清輝『室町小説集』講談社pp.10-11.も参照。。 敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。 虎ノ門事件 Template Main? 1923年12月27日、難波大助(なんば だいすけ)が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた侍従長が顔に負傷。1924年11月13日に大審院で死刑判決。15日に死刑執行。この事件により、山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎らが懲戒免官、難波の出身地である山口県の知事が2ヶ月間の減給となった。衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進は即日議員辞職し、山口県熊毛郡周防村(現・山口県光市)の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず餓死した。 朴烈事件 Template Main? 1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキスト・朴烈と愛人の金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴烈が、5月4日に文子が、それぞれ大逆罪にあたるとされた事件。 1926年3月25日に死刑判決。4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが、文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ獄内での待遇が数ヶ月政治問題化した。朴烈は敗戦後の1945年10月27日に出獄。いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが、朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動。 桜田門事件 Template Main? 朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が1932年1月8日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件。李奉昌事件、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は李奉昌不敬事件と呼んだ。時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9月30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932年10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日韓国・朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。 大逆事件を素材にした作品 瀬戸内晴美著『遠い声』新潮文庫(管野スガの伝記小説) 瀬戸内晴美著『余白の春』中公文庫(金子文子の伝記小説) 福田善之『魔女伝説』三一書房, 1969 コミックス『「坊っちゃん」の時代 第四部 明治流星雨(谷口ジロー作。双葉文庫) 平出修『計画』 脚注 参考文献 Template 参照方法? ノートにも参考文献あり 伊藤整『日本文壇史』(幸徳事件に関して概観) 原敬吾著『難波大助の生と死』国文社、1973年 近藤富枝著『快然と絞首台に散った「大逆事件」のヒロイン 管野すが』 瀬戸内晴美責任編集『反逆の女のロマン』(『人物近代女性史 女の一生』6)、講談社、1981年2月所収 瀬戸内晴美著『薄幸な生い立ちを充実した「生」に変えたアナーキストの恋 金子文子』 瀬戸内晴美責任編集『反逆の女のロマン』(『人物近代女性史 女の一生』6)、講談社、1981年2月所収 江刺昭子著『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』大月書店、1980年 神崎清『大逆事件-幸徳秋水と明治天皇』1 - 4、あゆみ出版、1976年12月 - 1977年5月(『革命伝説』の改題) 鈴木裕子編著『女性 反逆と革命と抵抗と』(『思想の海へ[解放と変革]』21)、社会評論社、1990年 中村文雄『大逆事件の全体像』、三一書房、1997年6月 絲屋寿雄『増補改訂大逆事件』 三一書房、1970年 野口存彌著『沖野岩三郎』(踏青社・1990年刊) 関連項目 アナキズム フレームアップ 国家 外部リンク 大逆事件と大石誠之助 真宗大谷派「高木顕明師の名誉回復に向けて」 大逆事件 大逆罪・爆発物取締罰則弾圧による国家テロリズム 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月21日 (日) 06 01。
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実説大逆事件三代記 元米国伯爵 山崎今朝弥 はしがき 大逆事件といふのは刑法第七十三条「天皇、太皇太后(天皇の祖母)皇太后(天皇の母)皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」の犯罪で、要するにこれは皇室に対する上は爆弾、銃剣による殺傷から下は投石、鉄拳制裁の暴行乃至その既遂未遂は勿論予備陰謀、相談、協議等いやしくも網にかかるもの人の想像に浮ぶものは一律一体すべてこれに死刑を言渡すといふ真に古今に照して侮いず中外に施して恥じない広大無慈悲の犯罪をいふのである。 現行刑法は明治四十年頃制定されたものだが、明治十三年頃制定された旧刑法にもこの皇室危害罪の規定があつて、その制定委員中には、皇国で皇室に危害を加へる者の出ることは到底想像できない。この規定を設けることはかへつて皇国の体面を損ずるといふ理由でその存置に反対した者があつたが、杞憂には相違ないが皇族に対する危害罪、神宮に対する不敬罪はどうしても設けねばならず、これを設けるとなれば法律の体裁からも皇室危害罪は存置すべきだといふ論が勝つて、ついに設置することになつたとの事である。とにかくその後三朝一系大逆連綿として短期間に続出三つに及んだ事は、その当時の委員連は勿論何人といへども当時夢にも予期しなかつたところであらう。 三つの大逆事件とは 幸徳事件 明治四十三年七月検挙開始、翌年一月十九日判決、同月二十四日(幸徳以下十二名)及び二十五日(管野スガ)死刑執行の幸徳秋水等二十六名(二名は有期懲役十一名は特赦で無期)に係る、明治及び大正天皇に対する第一次大逆予備陰謀罪。 朴烈事件 大正十一年中相談開始、同十二年九月大震災検束中に拾ひ上げ、同十五年三月二十五日死刑宣告の大正及び昭和天皇に対する朴烈及び金子文子の第二次大逆陰謀相談罪。世人稍もすると朝鮮独立運動社金社変の二重橋爆弾事件(私は偶然この事件の弁護人でもあつた)とこの朴烈事件をゴツチヤにしてゐるが、この二つは全く別々で何の関係もない、只金君は死にたい主義者でないばかりに、日本の反省を促すために二重橋に爆弾を叩き付けようとしたのだ、と言抜けて大逆罪にならなかつたのである。 虎の門事件 大正十二年十二月二十七日の虎の門事件で通用する。同日現行犯逮捕、翌大正十三年十一月一日公判、同月十三日判決、翌々十五日急遽死刑執行の難波大助に係る昭和天皇に対する大逆狙撃罪である。 私はこの三つの大逆事件の真相を書くに当つて、全然無駄の事ではないと思ふから、先づ私と大逆事件との因縁関係を書いてみる。 私と大逆事件との因縁 第一次との因縁 私は明治三十八、九年頃米国桑港で初めて幸徳を知つたのであるが、懇意になつたのは二人相前後して帰国後の明治四十年からであつた。比較的短期間の交際であつたにかかわらず、幸徳から手紙端書が沢山来てゐること、まだ日の浅いの単純の交友関係に過ぎないのにヨク平民新聞などに私の事を書いたこと、身から出たサビとはいへ、私が遂に米国伯爵を通称しなければならなかつた程米国伯爵の名声を籍甚ならしめてくれたこと、等から考へると、堺利彦君がさうであつたやうに、幸徳もまた元来の世話好きの他に、同志への獲得目的があつたのかも知れない。私の処女出版であり初原稿料稼ぎであつた「粗食養生論」の小著も、幸徳が当時白柳秀湖君、安成貞雄君等の居つた本屋(多分今の星島商相が後に社長になつたことのある隆文館と思ふ)に紹介してくれたのである。(この小著時節柄見たいと思ふが多年絶版で手元に一冊もない。誰か御所持の方に譲渡又は借覧を願ひたい。尚賀川豊彦君が余り面白い本だから無断一萬部を印刷して方々へ配つたと私に語られたが、この分でも結構)ズツト後の事ではあるが、平民社の遺産分けをした時、堺君が「平民社で幸徳秋水が愛用し大算盤也」と箱書してそれを贈られた程に私と幸徳の間柄はなつてゐた。 私のメリケン友達の一人に「嗚呼わが祖国」の秘密出版一書を置土産に日本を脱走米国に出奔した厳穴赤羽一といふ新聞記者があり、この人も幸徳と前後して帰国した。思想的には当時の所謂直接行動派テロ傾向のアナキストで、往来する交友関係は自然幸徳派の者が多かつたが、失敗ばかりしてゐて余り貧乏だつたのか、幸徳が病身で営養静休を必要とし、又相当の友人が多くてその静休営養が出来た事が諒解出来なかつたのか、或は性格的であつたのか、幸徳とは合はず幸徳の生活を贅沢だと不平をツブヤキ続け余り寄り付かなかつた。赤羽は後に「農民の福音」を秘密出版し、出版法違反で捉へられ公判廷では日本革命萬歳三唱の皮切りをして入獄牢死したが、生きてる間は貧乏のし通しで、私の「疳作集弁護士大安売」の自伝中にある「明治四十年二月勢ひに乗じて錦衣帰朝、一躍直に天下の平弁護士となる・・・・・・即ち業を東京に興し」て赤坂に法律事務所を設けた時も「忽ち田舎に逃亡し」して生地信州諏訪に事務所を持った時も、永い間私の事務所にゴロゴロしてゐた。 新村忠雄が紀州大石誠之助の処からの帰りに、私の諏訪の事務所に二三泊して明科に帰つたのは、赤羽が諏訪の事務所にゴロゴロしてゐる時だつた。赤羽も新村も信州の人である。この時の新村、赤羽は諏訪境村の小池青陽といふ小百姓の主義者を呼び寄せ何かと相談した。この小池はその後間もなく秋水等の大逆事件検挙直後、「信州共産党秘密結社」で検挙され出獄後北海道に入植中百姓となり二三年前に死んだとのことだが、日本で共産党結社の走りだと云はれる近藤栄蔵君、高津正道君等大正十一年の暁民共産党より十二三年前の走りであつた。 却説新村が帰つた後の赤羽の口裏やその時の新村の話し振りから判断想像すると当時新村の逆謀はすでに成り新村は赤羽の参加を勧誘に来たが、赤羽はその企図には反対しないが参加は厭だと拒絶し、新村は仕方なく明科へ帰り宮下太吉と爆弾製造に取掛かつたものの如くであつた。幸徳事件直後に書いた前記私の自伝に「明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや君之れに応じて直ちに信州諏訪に生る明科を距る僅かに八里」と木に竹を接いだように逆賊や明科が飛出たのも亦所以ある哉だ。 私は当時甲府市遊郭大門前化物屋敷に事務所があつて明治四十三年中に甲州人の宮下太吉は二度私を訪問したが二度共生憎留守で私は幸ひ会へなかつた。 私が「転戦三年甲信を徇へ各地を荒し再び東京に凱旋し爾来頻りに振はず」になつたのはその年すなはち明治四十三年の秋頃、東京銀座大通りの真ん中の裏小路に小さい巣を構へたが、引越し前すでに隣家へ私の交番所が出来てゐたには聊か驚かされる。甲信中も警察の警戒は非常識に厳重だつたし、甲府検事局での信州共産党、新村忠雄、赤羽一、宮下太吉等との関係の取調べも随分執拗だつたが、懲りたことのない私には少しも響かずかへつて物足らぬ位のものであつた。しかし専属交番は近所の手前もあり不便のこともあり少し大袈裟すぎて余り気持ちよいものではなかつた。でも初めの中は大逆者少くとも幸徳と新村の弁護は進んでヤル積りヤルべきだと思つてゐたが、若しも新村が間違つた申立でもしたら?刑法七十三条は幸徳事件の判決文にもある通り「逆謀を告げらるるに会ふも敢て之れを拒まなかつた」と認定されれば成立することに想到する。官僚裁判の危険を絶対全面的に信用する私だけに、杞憂を生み大逆事件の世論評判と共に益々拡大強化したので、私は遂に来て頼む者も咎める者もないのと、天下第一最高峰の花井、今村両弁護士が弁護するのを好い事にして元気なく弁護する事を止め、何かとオヂケて傍聴にも行かなかつた。そして予期した死刑の判決をきいた時は左程でもなかつたが、死刑執行の号外を見た時はゾツとして、思はず知らずイツか掌が首に廻つてゐた。後日私が危険を犯して幸徳秋水全集六巻を私の解放社から無届出版したのは私の卑怯に対する聊かの罪亡しでもあつた。 第二次との因縁 大逆陰謀で死刑を宣告され、特赦で無期懲役となり昨秋マ司令部の指令で秋田刑務所から釈放された朴烈君から、本年一月二十五日「拝啓、厳多の候益々御清祥の段慶賀仕り候、却説過去二十四年前法廷闘争に於て誠意御尽力下され候、今尚感銘致し居候、就ては来る廿六日午後四時左記場所に於てお挨拶申上可く御招待申上候御多忙中甚だ御迷惑に御座候へ共萬障御繰合せの上何卒御来駕下され度く御願申上候、場所東京杉並区高円寺一ノ一富士料亭」との速達が届いた。明日では到底間に合ひ兼ねるので私は折返し「イカンフサン キンガシンセイトウジト フミコサントヲシノビ カンムリヨウ ダンコケントウイノル」と至急電した。 朴烈君はその昔、弁護面会の時、二三度訪問して私を知つてるといつたが私は不逞社「太い鮮人」の他朴君個人に就ては記憶がなかつた。で朴君とは弁護したので初めて関係ができたのだといへる。その弁護も妻君の金子文子さんを弁護する序でに弁護するようになつたのだ。文子さんは本郷追分町の堀新印刷所でも麹町有楽町の、おでん岩崎でも私を識つてゐると云つたが、私はおでん岩崎での他は記憶してゐない。 おでんの岩崎善右衛門君が文子さんの弁護を頼みに来た時は、荒井要太郎君と田坂貞雄君が既に官選弁護士に選任されて居り、私が兄弟の如くしてゐる親交の田坂君から、共犯二人は虚無主義者で、死刑を免がれたり弁護士を付けたりする事は望んで居らぬ、と聞いてゐたのだが、本人の希望であるから是非にと岩崎がいふので、本人の意思を確めるため兎に角と三四度面会に行きその都度朴烈君にも会ひ、協議の結果二人の弁護をする事になつたのだ。その時私の希望で、も一人弁護士を附けることにして、私は私の近くの若くて元気がよく、腰の軽い刑事々件得意の上村進君を相棒に推し官選と共に四人で弁護した。これは大正十四年末頃か十五年の正月頃のことであるが、上村君は大正十二年七月八日の高尾平兵衛社会葬に事務所を借りて以来其筋から当時の所謂赤弁護士、左傾弁護士に編入されてゐたのである。 社会葬に上村君の事務所を借りたのは、私の芝新桜田の事務所と上村君の麹町内幸町の事務所とはドブ一つの距離であるが、私の方は芝署上村君の方は丸の内署の管轄であつたから、日本最初の社会葬に対する警察の不法弾圧に備へ私方を秘密事務所、まだ注意人物でない上村君方を公表事務所として置く戦術を採つたのだ。で上村君には私の事務所は平民大学と自由法曹団と機械労働組合(総連合の前身)と対露非干渉同盟の事務所になって居り(当時日本社会主義同盟は大正十年五月二十七日付で禁止解散となり、日本フエビアン協会「大正十三年二月十七日創立」はマダ創立されず、その機関誌『社会主義研究』も『解放』もマダ発行されてゐなかつた。山川均主筆岩佐作太郎主幹平民大学発行の『社会主義研究』社会主義同盟機関誌『社会主義』は当時既に廃刊、狭くて困るから集会だけさせてくれと、ホントウのことは言はずに頼んだ。 社会主義同盟や社会葬の事を出したのは、朴烈君も文子さんも大正十年五月九日神田青年会館の社会主義同盟全国大会にも同十二年七月八日青山斎場の高尾社会葬にも参加し、大会ではいたく当局の横暴弾圧に憤慨し社会葬では非常に死に対する感激を深くし、特に文子さんは以前より高尾を識り之れに敬服してゐたとの因縁からであるが、この高尾君及び吉田一君と組み戦線同盟を代表して大正十二年六月十六日早暁、私の友人赤化防止団長米村弁護士を襲撃し目的を達したはよいが、帰途高尾を打たれ死骸を残してそのまま二人で私方へ駆け込み、相談の結果は隠れて秘かに決死の覚悟で、社会葬の準備とその日を大成功させた。長山直厚中尉だつたか、又は平岩巌君だつたか忘れた(実は平岩君と思ひ込んだ。書き終つて後訂正したので此項一貫して変んなところがある)が、その後戦線同盟の平岩君が何かで検挙されて予審中面会に行つた私に、係りの立松判事の面前で立松判事が特別に良くしてくれると感謝して語つたのに、出獄後立松判事の撮影した朴烈君文子君の写真を手にいれ(地方裁判所に於ける朴烈君等の係予審判事も立松君)内閣倒壊運動の政争用具に供したは何の因縁か。 立松君は責を負ふて辞職弁護士開業後、平岩君の事業顧問をして儲けさせて貰つとると語つたが、朴烈君は出て来て今は働きも出来ず大に貧乏してるらしい。平岩君のことだ、もし元通りの景気なら、あの写真でアラレもないデマまで飛びだした罪亡しに何か罪亡しがあるだらう。 文子さんは大正十五年七月二十六日暁方二十三歳を一期として、「私が生きて居れば朴烈にこの世に未練が残り思想に動揺を来たすから特赦を拒否して自殺する」との遺書を残し、宇都宮刑務所栃木支所で自ら縊れたとのことである。 第三次との因縁 私が昭和四年頃から数年間毎年私の解放社から発行してきた「年鑑日記」には、難波大助の虎の門事件を第二次、朴烈事件を第三次大逆事件としてあるが、これは判決又は世間公知となつた日の前後からで事柄からすれば、朴烈文子事件は大正十一年十月頃からゆへ大正十二年十二月の虎の門が第三次となる。 却説私と虎の門とは難波の友人に難波の弁護を頼まれそれを松谷与二郎弁護士に復頼みしたといふ極く稀薄の関係にすぎないが、大助大逆の動機を掘下げて見ると相当因縁の深いものがある。 月日は判然しないが大正十三年の春か夏の頃難波大助の署名で大助の弁護を相談してきた鉛筆の端書が届いた。テツキリ其筋の悪戯乃至挑発と信じた私は歯牙にもかけず屑籠に投入した。一ケ月とは経たぬ中無署名の手紙がきて、葉書より短文で私は難波大助の縁故者だが近い中に御伺するから弁護のことに就て御義侠を御願したいとの意味が書いてあつた。半信半疑の私は取りあへずその手紙を破つて屑籠に入れた。数日後に若い男が難波の友人と名乗つて来て新に大助の弁護を依頼し、尚大助は先生を知つてゐるから先生の弁護を希望してるだらうと附け加へた。結局考へて置くで別れたが、双方、私は態と、前の手紙、彼れの居所、大助との関係などには触れなかつた。 私の彼れに対する不安はまだ消へなかつたが、幸徳事件の卑怯を自己批判自己後悔してる際ではあり、難波とこそ微塵の関係もなくその点は大胆に安心だつたから、仮令彼が何者であらふと危惧することなく大逆者の弁護をしてやらうと秘かに決心した。で恰度その頃来訪した堺利彦君と橋浦時雄君に相談すると、二人は当時例の第一次共産党事件で謹慎中であつたせいか又は幸徳事件後の主義者弾圧を慮つてか、共産党事件と関係ある私が共産主義者の大逆事件を弁護する事を好まず「我々の運動と全然関係のない弁護士に弁護して貰つたらどうか」と提案した。その時は暑くて障子を明放して話したことを記憶してるから夏であつたであらう。又五色温泉の第一次共産党の検挙開始は大正十二年六月五日だつたから二人の来訪は翌十三年の保釈中だつたらう。然るに幸徳、難波両事件の弁護士だつた今村力三郎氏の写本著述「芻言」には同氏が大助の弁護士に官選されたは大正十三年二月廿二日とあり、松谷君の著述には同君が私から頼まれて難波の弁護をする事を大審院に届出てあるにかかわらず、大審院は松谷君には何の知らせもなく不意に今村、花井、岩田(前法相)の三氏のみを官選し公表したから即時大審院長に抗議したとある。夏だといふのは私の記憶違ひか或は又二月官選の公表が夏になつたのか、私が「月日は判然しない」といつたのはコレだ。 却説、社会運動に関係なくて大逆事件の弁護を喜んで引受けてくれそうな弁護士は、当時自由法曹団の松谷君か上村君の他には見当らなかつた。自由法曹団は大正十年八月十一日神戸三菱の大争議で警官に惨殺された争議団員常山俊一の団葬の際、無抵抗示威行列の指導者賀川豊彦君等数百名が検挙され、東京の弁護士数十名がその調査応援に赴いた時、海員ホームで私と故鈴木文治君と宮崎龍介君とが社会運動犠牲者救援の弁護士団を作らうと相談し、帰京後調査応援に行つた弁護士その他に呼びかけ、其月二十日、日比谷公園の松本楼に約百名が集合して喧々怒号の末、牧野充安君、宮崎龍介君の自由法曹団と命名説が勝つて誕生したものだが、当時はマダ一般帝国臣民の人権擁護が専門で労働者の味方、社会運動の支持団体には頗る遠いものであつた。 この自由法曹団の上村君とは大正初年の東京法律事務所以来別懇の間柄であつて、私として松谷君よりも頼み易いのだが、上村君は前述の通り高尾社会葬以来少くともその筋では注意弁護士になつてゐたので、堺君等の意思に副ふべく当時の小山検事総長横田大審院長及び弁護士界の大御所原嘉道博士等と特別の関係ある松谷与二郎君を頼んだ。尤も松谷君は弁護士界切つての押し切り屋であるかわりに又有名無類のヤカマシ屋であつたから、私は松谷君に『難波の友人が大助の弁護を是非松谷弁護士に頼んでくれと云つて来た、それは私にも何も聴いてくれるな、松谷弁護士にもさう頼んでくれと云つて帰つた』と話し松谷君は早速快諾してくれた。もし私の記憶に誤りがないなら私が「花井、今村、岩田の三氏が弁護士に定まり、大審院の肚は他に弁護士を附けたくないのだから、君の弁護を妨害せずに認めるかは甚だ疑問だ」とアヂリ、松谷君が必らず成功してみせると軽く引受けたのは矢張り此の時だつたと思ふ。今考へてみても、あの時あの場合、種々諸々の困難を克服して強引に弁護士となれたのは松谷君なればこそで、誰にも真似の出来る芸当ではなかつた。 難波に面会したり記録を調べたりした後の事、松谷君は「大助はおれや君を知つてるし、おれの演説を聞いた事もあるし、君の事務所も知つてるといつたが、多分自由法曹団の演説会だらう、君の事務所を知つてるのは、当日新橋駅から裏伝いに虎の門へ行つた時見たのだらう。」と語つた。しかし私はそれは違ふと思ふ。 私の判断では、難波の思想が左傾して社会主義的になつたのが大正九年九月四谷鮫ケ橋貧民館に間借生活した頃から、テロリストの出てくるを当然と考へたのが大正十年三月「改造」の河上博士断片を読んでから、自分が大逆者たらんと決心したのが大正十年四月幸徳等大逆事件の判決文を読んでから、となつて居り大正九年五月総選挙の父の立候補に憤慨して上京、大正十二年九月大震災直後まで東京市内で苦学苦労し、その間唯一可能の趣味娯楽は遠近を問はず政談演説会、思想講演会その他の集会をテクリ廻る事で、当時社会主義同盟は大正九年初夏から平民大学事払の事務所を根城に発企され党員獲得解散予防の戦術上イツでも創立準備会で進む事とし、(ところが、所謂大衆の要望に押され、結社の即時解散を承知の上で同年十二月十日創立大会を神田基督教青年会館に持たねばならなくなつた。その創立大会も開会前に集会解散になるは必定の形勢だつたので岩佐作太郎君の機智で、前夜九日の大会準備相談会を緊急創立大会として創立し同時に翌十日の大会を創立報告大会とする決議をし、その会もその決議と共に中止解散となつた。十日の大会が前夜から会場へ潜入工作してゐた高津正道君の大赤旗翩飜と開会宣言と中止、解散とが三位一体同刻同時であつたは勿論だつた。検束者は大杉栄、赤松克麿、岩佐、近藤君等数十名で、残つた十数名が監房で暴れ、警視庁破壊罪で処罰されたはこの時である。大学を開放して連日座談、討論、講演、演説等の会合を持ち、誰でもが自由に出入が出来(この会合が常に解散されたことは勿論だが)又平民大学は大正十年から十二月卅一日に「恒例平民大学徹夜放談除夜会」を開始し、入り替り毎年数百の人が元旦まで自由に出入でき(時の人今の徳田球一君も元労働農民党書記長細迫兼光君もイツからイツまでか判然覚へて居ないが当時私の事務所にゐて、徳田君はひととせこの放談会を司会してアヂリ、何かの雑誌へ、次年の運動傾向はこの放談会で予測できると書いた事を覚へてる。)だから、難波は興味を持つてこれらの会合に出席自然私の事務所を知つたものだらう。 問題の葉書と手紙及び自称友人は今以て私の疑問だが、松谷君はその自称友人は梅田与一で手紙は与一の書いたものだと判断した。梅田は難波の性格と思想を熟知する唯一の親友、彼れが杖銃を携へて上京するのを見て当事を予知危惧し難波の後を追つて兇行の翌日新橋到着、新聞で犯罪詳細を読んで驚愕所在を晦まし遂に共犯嫌疑で一時留置取調を受けた者、もし自称友人も手紙の書き主も梅田なら私にも梅田を共犯と疑へる説が沢山ある。葉書と手紙には大助の弁護を私に頼むとはハツキリ書いてなかつたから、私は投蔵して置いた屑籠から拾ひ出してこれを松谷君に渡したのである。 大杉栄虐殺のこと 難波の大逆動機には色々あるが、社会主義同盟に対する圧迫、幸徳一派の大逆判決の過酷、大震災ドサクサ紛れの労働者、主義者、朝鮮人に対する支配階級の残忍極まる大量虐殺が重なる動機の一つであり、大助は之れに激憤蹶起その復讐と意久地なき主義者達を覚醒するためと、反省なき支配階級最上乗の見せしめとして国際検事団に魁けして(圏点は筆者の註<「国際検事団に魁けして」に傍点>)最高責任者を狙つたのだと壮言豪語してゐる。この三つは何れも私と相当深い因縁関係があり前の二つは既にその概要を或は長過ぎるほど書いたから、私は最後の一つのドサクサ大虐殺に就て少し書いてみる。 難波は大正十二年九月一日大震災当時のドサクサ虐殺の例として平澤計七君、河合義虎君等八名の所謂亀井戸事件、甘粕正彦大尉、森慶次郎伍長、鴨志田利一上等兵等憲兵隊本部の大杉栄外二名虐殺の所謂憲兵隊古井戸事件、軍隊警察及びその指導保護下にあった暴力団の朝鮮人に対する日本人的暴虐即ち朝鮮人大虐殺事件を挙げてゐる。 亀井戸事件は一日の地震を待ってゐたかの如くその日より警視庁は社会運動者、主義者、朝鮮人達一切無差別至極公平に検束し東京ではその数何萬、一時は生屍室に充ち頭の上に立たせて漸く収容したと云はれたものだつた。亀井戸署には約千とかで平澤君は二日かに夜警当番中を河合君は三日かに老母看病中を検束され、四日、戒厳中の軍隊によつて暴動を起すの虞れがあつたとの口実で虐殺されたが、銃殺か刺殺か砲殺かは未だ不明だ。先死者の高尾社会葬に後れて大正十三年二月十七日漸く労働組合葬が青山斎場で挙行された。憲兵隊事件の大杉君も妻の伊藤野枝さんと大杉君の妹の橘あやめサンの子米国生れの米国人宗一(当時七歳)と三人で自警昼警中を、一寸来て下さいでダマされ、憲兵隊本部に連行され、九月十六日夜、大杉、伊藤の二人共不意に後ろから甘粕に首を締められ、宗一は伍長上等兵二人掛りで首を締められ、屍体は三人一緒に隊内平親王ゆかりの古井戸奥深く埋められた。これが十九日にバレて三人共軍事裁判に付せられたが、甘粕は酌情の余地なき三人残虐謀殺で十年、大杉、伊藤二人殺しの共犯部下森は、三年の懲役、二人がかりの宗一地蔵殺しは上官の命令なればとて無罪でケリ、大杉君の葬式はその年十二月は覚へてるが日に記憶はない。しかし骨を盗まれたはその日の朝だつた。 朝鮮人の虐殺されたのは社会主義者と共謀して大震災を起したのだといふ流言から、井戸に投毒した、火を放けた、暴動を起した、朝鮮軍が東京近く押寄せた、の蜚語まで飛んだため、日本人古来の酔風美俗が曝露されたものであるが、その数に至つては今以て私には不明だ。当時の朝鮮総督は確実の処合計二人、司法当局は取あへず、南葛を除いてザツト千人と発表し、南葛は千人とも二千人ともいはれた。慰霊祭に鄭然圭君は弔文で三千人と読み戒厳令下鮮人取締に来た習志野から帰隊した人は優に五千と告げ、生命からがら上海に逃げ帰つた人は確かに萬を越へてると云つたさうだ。兎に角当時を追想すると、血の気の多い情熱の純真な若者だつたら、難波大助君たらずとも誰でもが卑怯者でない限り正気の沙汰で狂気の行動に出でないのが不思議の位であつた。現に五十近くの老境に達し、血も熱も失せた上人一倍卑怯であつた私ですら、痛憤止み難く、当時の情勢上随分遠慮はしたが、色々の策動をしたり新聞雑誌の注文や問合せに対して雑多の小論を文したり葉書返答を出したりした。その小文が大正十三年九月十日発行の「地震憲兵火事巡査」(サブタイトル又は鉢巻タイトルは「甘粕は三人殺して仮出獄?久さん未遂で無期の懲役」)の小著に集録されてるから、私は之れをところどころ引抄してこの項の因縁記に代へる。 朝鮮人事件 地震流言火事暴徒 (前略)今度の地震は朝鮮人と主義者とが組んだ陰謀だといふ風説はこの頃地震博士等が漸く震源地は却て他にあり大島と相州との間、海底陥落の地辺ならんと発表して以来全くその跡を絶つた形跡がある。併し火事に付ては尚諸説紛々で流言蜚語が盛んにとんでる。しかし、全国の内鮮人が地震を合図に一斉蜂起し、火を放ち毒を投じ人を殺し財を掠め日本を乗取らんと企んだのだ、主義者は予め図て之を煽動したのだ、といふ点は一致してゐる。この流言蜚語当然の結果(中略)戒厳令は布かれる軍隊は出る銃丸はとぶ伝令は走る演説はやる掲示は貼る内訓は出る公報も出る自警団もできれば義勇団もできる。在郷軍人も青年団員も兇徒も暴徒も皆一斉に武器を執つた。そこで朝鮮人の大虐殺となり中国人の中虐殺となり半米人(二重国籍者宗一幼年)の小虐殺となり主義者運動者のタダの虐殺となつた。(中略)到る処巡査兵卒仲間同志の手柄話を立聴くがよい。今でも血に飢へた彼等は憚る処なく当時の猛烈なる武勇とその役得とを自慢するではないか。(中略)実に当時の戒厳令は火に油を注いだものであつた。(中略)全く軍隊や警察が、人夫、車掌、配達夫の萬分の一でも役に立つてくれたなら、騒ぎも起らず秩序も紊れず市民はどんなにか幸福であつたら、然るに(中略)輿論が頻りに戒厳令を賛美渇仰し功績を独り軍隊にのみ帰せんとするは抑も何故であるか。(中略)中には長い物には巻かれ、なく子と地頭には勝たれなかつた者も頗る多かつた。故に間もなく正気の沙汰となり軍閥に対し一斉射撃を開始する日も遠くはあるまい。(中略)僕のこの憤慨は無理だらうか、間違つてるだらうか、僕が動揺常なき確乎不動の感情に拠る正直の凡人であるから、そう思ふは当然だといふなら、朝鮮人問題に対する日本及日本人の態度をみた世界の人々が全部僕のような考へになるのも当然である。(中略)今度こそ愈々愛想もこそ尽き果て低能でバカで意久地のない日本人と主義者と国士と朝鮮人と大和魂とが、手に糞のはいた程厭になり嫌ひになつた。(中略)鮮人問題解決唯一の方法は早く個人には充分損害を払ひ、民族には直に自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意低頭平心慰謝謝罪の意を表する以外はない。(大正一二・一二・一四日) 朝鮮問題問答集 (三)過般の震火災に際し行はれた鮮人に関する流言蜚語に就ては、実に日本人と云ふ人種はドコの成下りか知らないが、実にバカで臆病で人でなしで爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思ひました。その後の事は切歯痛憤身震ひがします。(中略)小供が鮮人ゴツコをする度に死ぬ程ヒツパタイてやります。小供がこの次には朝鮮人になつて日本人を鏖殺しにしますからと泣いて陳謝れば許してやります。 (五)(イ)朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、即時独立を許すこと、然らざれば日鮮親和は到底見込なし、(ロ)憲兵隊司令官本部平親王井戸辺に宗一地蔵を建立し、幼児の冥福を祈ると共に軍部の無智無謀と残虐とを記念すること、外国の悪感情は総て之れに基因すればなり。(ハ)毎年その日にセツテンデー若くは亀井戸労働祭を挙行記念し、亀戸警察で軍隊の手に殺された多くの労働者の魂を猛烈に祭ること、噴火口を密閉したのみで安泰だと思つてるはバカの骨頂だ、イツか奮然として爆発するは当然で思ひ知ること近きにあるべし。(大正一三・八・一〇)後略。 亀戸事件 平沼司法大臣への公開状 (前略)此書は眇たる天下の一小問題亀戸虐殺事件に司法権の発動を求むるに過ぎません。が、其延て波及し影響する処は断じて軽視すべきでなく、貴下としては後日自責遂に自決消失せざるを得ざるかも知れず、私としては人間と性質と信念が激変するかも知れません。(中略)私が急に思立つたは一昨十五日文壇関係諸氏の平澤計七君追悼会で其思ひ出を新にした処へ、昨夜は筆にするに忍びない残虐を極めた平澤君等の惨殺死体、首と胴との実物写真を届けてくれた特志家があり、今日は又全く期待に反した貴下の横山勝太郎君の質問に対する答弁を読まされたからです。(実は私から其の写真を提供して横山君に質問して貰つたのだ)(中略)吾々自由法曹団の調書の一部として検事正に提出した私の始末書中の「此調書を読んで泣かない者は日本人でない人間でない・・・・・・国賊である悪党である」との一節は今も尚之を維持します。(中略)彼等犠牲者は皆別別に、就床中夜警中を抜刀士足の正服私服の憲兵巡査に襲はれたのです。(中略)殊に親思ひ兄弟思ひの川合君は、麻布より飛んで家に戻る帰途倒壊家屋中から瀕死の二幼女を救ひ出し、老母の身を案じつつ一昼夜之れを看護し漸く其幼女を隣家に渡して帰宅、一日老病母を看護したる処を急襲されたのです。(中略)亀戸署が急に遺骨発掘を拒んだは実は死体何個の実数曝露を感付いたからです。私共が全部の遺骨を受取つてもよいと申出たは、実は死体が何千あつたか、其人種別の割合、生焼半焼全焼けの比率、鉄砲か大砲か刀剣か、首があるかないか其割合は、を知りたかつたからです。(中略)然るに一昨日の新聞警察種は遺族が引取らぬから警察で埋葬すると報導し、飽くまで其の非を遂げんとします。(後略)(一二・一二・一八) 平澤計七君を憶ひて 平澤君が殺されたのは九月四日の真夜中、僕の同君を知つたは前年同月同日の真昼間、変んな因縁だ。僅か一年だが其間平澤君一家は僕の家に同居し平澤君は一家で僕の労働週報を編集し僕と共に種々の陰謀も企て、僕の看板で、「労働者法律相談所」もやつたから、短い割合には深い間柄だとも云へる。(中略)僕が労働週報を創みた時その道の玄人は皆一家で週刊の編集ができつこないと保証してくれた。しかし平澤君は編集から事務発送まで一人でヤリ遂げた。しかも後の評判では労働新聞としては週報前に週報なく週報後に週報なしとの事であつた。(中略)平澤君は熱と力と気と押と、根と理と柔とで大山公、二條公、古河、川崎、和田、大倉、浅野、大橋等大資本家大会社に対する数多の労働法律事件を見事上手に解決し死後今に至るまで未知の労働者からさへ感謝感憤の礼状を貰つてる。(中略)平澤君がこれ等大中小の芝居を味方友達仲間同志に打つことが評判を悪くし誤解を招いたらしい。しかし友愛会時代に弾劾排斥された事は全く一派の誤解若しくは陰謀で平澤君に過失はなかつたとは現総同盟主事の加藤勘十君と当時の弾劾の急先鋒高田和逸君とが僕に語つた処である。(中略)平澤君は元鍛冶屋で七等俳優で、講談もやり芝居もやり文学者もやつた人である。(中略)でも平澤君は可なり仕事もして生甲斐のあつた仲間であり其の最後も華々しく言伝へられ死甲斐もあつたから諦らめも出来ようが、なすべき多くの仕事を持つたまま同じ運命に落ちた南葛労働会の若い諸君及その氏名も知れずに終つた多くの人々の事を思ひ出すと、イクラ僕でも独り粛然として恨骨髄に徹し只血涙限りなく流るるのみで、もう冗談一つ書けなくなつた。(大正一三・五・二一日) (これは菊池寛君、下中彌三郎君の尽力で刊行された平澤君の遺署序文だ。平澤君の遺妻よしサンは私の紹介で野中誠之君と結婚、遺女和嘉子サンも私の媒酌で元警視庁の新潟県人佐藤君(入籍手続困難で和嘉子サン家に入り松本姓)と結婚一男二女を儲けた。佐藤君出征後野中松本両家終戦直前大森を疎開、佐藤君は終戦直後復員其処へ落ち着く、両家の疎開先又は現在地知りたし、私は長野県諏訪郡川岸村蛇ノ洞) ○ 憲兵隊事件 外二名及大杉君の思出 大杉君の逸話又は思出を十枚計りといふ注文に、この表題で一度原稿を書き終つたは十月七日の夜であつた。その原稿では先づ大杉君の系図を掲げ、当局があくまでかくさんとする外二名は野枝さんと半米人の幼児橘宗一であること及び陸軍が触れられては困る、大杉君が山田保永中将とは三親等前憲兵司令官現京都師団長山田良之輔中将とは四親等の血族であることを曝露せんと試みた。・・・・・・が大杉君には詳細の自叙伝もあり、長い間その日その日の生活は新聞雑誌の種になり又は大杉君の飯の足しにもなつた・・・・・・で永年深い間柄であつたのを楯に珍味新鮮の処を盛沢山に・・・・・・大杉君は確かに殺されたに相違ないがイクラ考へても本当に死んだとは思へない、宮内省の坂本といふ大杉君の柔道の先生は、大杉の腕ならイクラ欺し討でも手を縛られて居らない限り、三人や四人では到底首を締めきれるものでないと、杉浦重剛翁に話したさうだ・・・・・・大杉君と最後に別れたのは八月末・・・・・・例の三人でやつて来た時である・・・・・・妻が下へ降りると洋行の用向、秘くして行つたわけ、旅費調達の苦心、今後の運動方法などを語り出した。その間マコと堅公とは歌つたり踊つたり泣いたり笑つたり喧嘩したりバカにハシヤギ廻つてゐた。堅公は僕の独り子でもし僕と共に之れを殺しでもした者があれば僕はキツトその下手人は申すに及ばずの少しでもの関係者(殊にその上の方の関係者)は本人は勿論その九族までを皆殺しにして復讐してみせる。・・・・・・先日朝日で志賀重昻翁が、恰度百年前の九月十六日に、モルモン宗の始祖が同じく軍人に親子三人で殺された。そのためモルモン教は大成した。後世日本に赤化思想が蔓延したら、それは無智なる軍人の功績である。と諷刺したが、百年前、九月十六日、軍人に三人で・・・・・・何の因縁か・・・・・・(大正一二・一〇・一三日) ○ 一つにつき公平に二つ宛とし、も一つは甘粕事件軍法会議の判決批評も抜書する積りだつたが、これは難波の大逆動機とアヤカリも因縁付けも余りに縁遠いから止める。難波は朝鮮人および亀戸署の虐殺には大憤慨をしてるが、憲兵隊事件には余り憤慨しなかつたようで、私の書いたものも亦それに似てるが、それは当時堺君等多数の者が共産党事件で留守中、その他の同志も多数が震災で散逸中の人手不足ではじめは、私が近藤憲二君と、あやめサン相手に自由法曹団にうつたへたりして事件暴露に専念していそがしく、後には村木、和田、古田君等の復讐事件弁護の必要上、自身あまり復讐主義強調はつつしまねばならなかつたからで、大杉とは格別親しく、あやめサンの愁歎場と大杉等三人の発掘惨殺屍体とを現実にみた私としては、朝鮮人や南葛労働者虐殺と同様に、大杉等の虐殺を憤慨したのは当然である。 難波君は又幸徳や大杉の一派同士が復讐をしないことを意久地なしとして憤死したが、大杉の同志に関する限り之れは当らなかつた。村木源次郎は君よりも一層生ツ粋のテロリスト、久さん事件和田久太郎君は害悪に対しては乞食にでも生命を捧げタンクにでもタンをヒン投げるといふ徹底した君よりも純真な感激家、果して二人は君の憤慨し初めた頃から復讐を計画してゐた。一周年忌には少し早かつたが十三年八月十四日には未遂ながら当時の最高責任者福田大将一家の爆殺を謀り、記念の九月一日には大将を狙撃した。村木は松岡洋右に先例を残し、幸徳の命日を期し大正十四年一月二十四日巣鴨監獄を出て無罪で病死した。久さんは大正十四年九月十日無期懲役、特赦で有期となり秋田へ移されてから同志との約束に反し、好んで獄死した。久さんで今でも私の気にかかることは、久さんがイツモのニコニコで無雑作に、甘粕の最高責任者は誰かとの問にウツカリ、時の司令官福田大将と答へたこと、「獄窓から」の久太漫評に岩佐作太郎君の書いた、大杉の葬式を終へた直後某氏方に立ち寄ると、某氏は頗る緊張して「大杉のかたきを誰が打つだらう、かたきを取るものがないやうでは、アナキストもへちまもあるものか」と、僕を詰るやうに言つた。僕もこれには少なからず面喰つた。とある。某氏とは誰の事か、私か服部かと迷ふことである。 ○ 猫の尻尾で何の役にも立たなかつたかも知れないが、私が九月震災ドサクサ虐殺を、よくもこう長々と山鳥の尾式にかいたのは、要するに、相当思慮ある注意深い慎重居士五十男の私も、血気盛んで感激感受性多い、気違ひじみた二十五男の難波も、それに就ての気分心持は怖しいほど同じで、私が難波と共謀して書いたか、難波が私と相談して裁判陳述をしたかと疑はれるくらゐであり、全然無縁の衆生ではない、といふ事を云ひたかつたのだ。 大逆罪と天皇制 前にも書き後にも書くであらう如く、三つの大逆事件には一つの共通したものがある。それは卑俗低級無哲理のものではあらうが、復讐しなければならない。どうせ死ぬのだから、一ばん華々しい人の目に著き口の端に上る最高責任者を狙へといふ至極簡単明瞭の無鉄砲である。幸徳事件が赤旗事件の復讐である事は天下に隠れのない事実、虎の門事件又前来長過ぎる記述通り、朴烈文子事件は死滅と最高責任者強調に忙しくて、復讐の理由は軽く述べてゐるだけだが、もし九月の震災ドサクサを見た後だつたら、全く難波と同じで或は朝鮮人虐殺に付ては其れ以上であつたに相違ない。 私はなんでも民主々義第一の今日、今更圧制専制弾圧とその結果の恐怖などに就て説く愚を敢へてしないが、最後に天皇制に就て一言してみたいと思ふ。 ○ 大逆罪が最高責任者を狙ふものである限り天皇制を廃止すれば大逆罪は直になくなるが、政治上の最高地位を天皇とする天皇制の存する限り如何に刑法を改正しても、如何に憲法を粉飾しても大逆罪の発起は免れない。しかし私は老年者共通の保守消極温健同情平穏を愛好し、今急に茲で此際天皇制を廃止することは、却て混乱無秩序を来たし、何もかも制度の悪い昔の事で今は忘れて何の恨みもなく、自分に関係なく他人がヤツてくれるにしても面倒臭く、有るものを捨てるやうで惜しくもあり、天皇に気の毒のやうにも感じ、すべて私の好みに反するから賛成できない、のみならず私は故郷へ帰れば墓参りをし線香を立て茶を啜つて茶話をするため、生家に立寄るを楽しむやうに、東京へ出たら一寸寄つて会つたり拝んだり、花や庭をみたり散歩したり、を楽しみに宮城や皇室を保存したいとさへ思つてる。 こうするには天皇が最高にも最低にも責任者であつてはダメだ。それは実質上は勿論だが形式上にも責任者であつてはならない。多数バカ者の中には形式をみて実質と誤解する者多数ないとは保証できない。怖しい事だ。で真に天皇制の存続と皇室の安泰とを希ふ者こそ、天皇と政治干与とを切離し、改正憲法の所謂天皇の儀礼的大権をも極度に縮小し、使用文字で誤解を招かぬやうよく注意し、未来永劫大逆罪の原因除去を望むべきである。象徴認証ですらどうかと思へるに、これを元首裁可に変へるなど寧ろ発起奨励で、危険千萬とんでもないことである。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『雑誌真相復刻版(第1巻)』(三一書房、1980年)、底本の親本は、『真相』(人民社)第6号(1946年11月)3頁>
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金子文紀 演出:特急田中3号
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大逆罪(たいぎゃくざい)とは、日本において1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された現行刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加える事を指した罪名。日本以外の君主制国家では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。 近代国家としての日本の統治機構の根幹として皇室制度(天皇制)を重視した大日本帝国憲法体制下の刑法典においては大逆罪を最も重大な罪の一つとした。 条文 旧刑法第116条天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 1947年改正前の刑法第73条天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 概要 1880年に公布され、2年後に施行された(旧)刑法において導入されたが、その刑罰は他の刑法上の刑罰規定と比較しても異質なものであった。その特徴として、 天皇・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・皇太子(新刑法では皇太孫が追加)に対する既遂は勿論の事、未遂や更に予備(準備)や陰謀などの計画段階、それどころかその意思を抱いた事が明らかになっただけでも既遂犯と同じ処罰対象とみなされた。 適用される刑罰が死刑のみであった。尊属殺人罪や内乱罪のような重大犯罪でも無期懲役刑が適用される可能性があったが、大逆罪にはそれがなかった。 三審制が適用されず、大審院での一審のみでの裁判で刑罰が確定した。 の以上3点が挙げられる。 大逆罪が適用されるいわゆる「大逆事件」の適用例はわずか4件であり、うち既遂はなく未遂は2件、予備・陰謀が2件であり予備・陰謀事件の中には無実の者が含まれていたとされている。特に最初の適用例であり、最も著名な例である幸徳事件は26名の被告のうち実際に陰謀を計画したのは数名であったにも拘らず、24名に死刑判決が下された上に天皇の「仁慈」によってうち12名が無期懲役に減刑されるという一定の流れを形成することになる。 即ち、 大逆罪の発動が政府の政治的意図に基づいて反政府派の抹殺に用いうる事実を示した事。 天皇に対して刃を向ける者への断罪を社会に対して強烈に印象付ける事で、皇室制度及び国家体制の秩序維持に大きな効果を発揮した事。 天皇の恩赦によって死刑を免れさせる事で天皇の慈悲・恩恵を社会に対して強烈に印象付ける事で、国民の皇室制度及び国家体制への忠誠を深めさせる意図であった と考えるものもいる。 大逆罪の廃止 第二次世界大戦後、日本国憲法の制定とともに関連法制の改正が行われた際に大逆罪などの「皇室に関する罪」の改正は当初予定されてはいなかった。なぜならば、新憲法でも天皇は国家及び国民統合の「象徴」であり、それを守るための特別の刑罰は許されると解釈されていたためである。これに対して、GHQは大逆罪などの存続は国民主権の理念に反するとの観点からこれを許容しなかった。当時の内閣総理大臣吉田茂自らがGHQの説得に当たったものの拒絶され、遂に政府も大逆罪以下皇室に対する罪の廃止に同意せざるを得なくなった。 関連項目 皇室に対する罪-不敬罪 大逆事件 幸徳事件 虎ノ門事件 朴烈事件 桜田門事件 大津事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 05 01。
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アニメ スタッフ-か行 名前:金子 文雄 よみ:かねこ ふみお アニメーションプロデューサー 2012 TV - モーレツ宇宙海賊 アニメ スタッフ-か行
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映画「朴烈 DVD(パク・ヨル)」(監督:イ・ジュンイク) が公開初週に81万人の観客を集め、興行1位をキープした。 映画館入場券統合ネットワークの集計によると「朴烈」は、先月30日から2日まで、全国81万7704人を動員して興行首位を獲得した。累計観客数は118万134人。ジャスティス・リーグ DVD公開5日で100万人の観客を突破した。 「朴烈 DVD」は、1923年に東京で起こった6000人の朝鮮人虐殺を隠蔽しようとする日本に立ち向かった朝鮮一の不良青年・朴烈(イ・ジェフン) と、彼の同志であり恋人である金子文子(チェ・ヒソ) の信じ難い実話を描いた作品だ。イ・ジュンイク監督が時代劇で披露した感情が、この作品でもそのまま表れているという評価だ。 ハリウッド大作映画「トランスフォーマー/最後の騎士王」が35万3987人を動員して、クン DVD累計観客数241万7780人を記録し、2位にランクインした。 また「リアル」が16万5013人を集めて3位となった。累計観客数は37万3578人。「オクジャ」は8万2866人を追加し、累計観客数11万1052人で4位を獲得した。
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編集中… ここを編集 ■BORUTO -ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS 動画チェック ■BLEACH 千年血戦篇 動画検査 ■BLEACH 千年血戦篇 (訣別譚) 動画検査 動画検査協力 ■関連タイトル BLEACH 千年血戦篇 Blu-ray BOX I 完全生産限定版 rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Switch ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom Switch 世界樹の迷宮Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ HD REMASTER Switch ピクミン 4 大友克洋 Animation AKIRA Layouts Key Frames 2 小説 機動戦士ガンダム 水星の魔女 1 ONE PIECE FILM REDデラックス・リミテッド・エディション 4K ULTRA HD Blu-ray Blu-ray 劇場版 ソードアート・オンライン -プログレッシブ- 冥き夕闇のスケルツォ 完全生産限定版 Blu-ray 映画『ゆるキャン△』 Blu-ray 【コレクターズ版】 Blu-ray ウマ娘 プリティーダービー 4th EVENT SPECIAL DREAMERS!! Blu-ray 天地無用!GXP パラダイス始動編 Blu-ray第1巻 特装版 天地無用!魎皇鬼 第伍期 Blu-ray SET 「GS美神」全話いっき見ブルーレイ Blu-ray ソードアート・オンライン -フルダイブ- メーカー特典:「イベントビジュアル使用A3クリアポスター」付 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 5th Live! 虹が咲く場所 Blu-ray Memorial BOX 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち Blu-ray BOX 特装限定版 地球へ… Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 神風怪盗ジャンヌ Complete Blu-ray BOX HUNTER×HUNTER ハンター試験編・ゾルディック家編Blu-ray BOX BLEACH Blu-ray Disc BOX 破面篇セレクション1+過去篇 完全生産限定版 MAZINGER THE MOVIE 1973-1976 4Kリマスター版 アニメ・ゲームのロゴデザイン シン・仮面ライダー 音楽集 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー 完全版 EPISODE No.1~No.98 MOVIE リスアニ!Vol.50.5 ぼっち・ざ・ろっく!号デラックスエディション ヤマノススメ Next Summit アニメガイド おもいでビヨリ アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック 『超時空要塞マクロス』パッケージアート集 CLAMP PREMIUM COLLECTION X 1 トーマの心臓 プレミアムエディション パズル ドラゴンズ 10th Anniversary Art Works はんざわかおり こみっくがーるず画集 ~あばばーさりー!~ あすぱら画集 すいみゃ Art Works trim polka-トリムポルカ- つぐもも裏 超!限界突破イラスト&激!すじ供養漫画集 開田裕治ウルトラマンシリーズ画集 井澤詩織1st写真集 mascotte 鬼頭明里写真集 my pace 内田真礼 1st photobook 「まあやドキ」 進藤あまね1st写真集 翠~Midori~ 声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ 三石琴乃 ことのは 亀田祥倫アートワークス 100% 庵野秀明責任編集 仮面ライダー 資料写真集 1971-1973 金子雄司アニメーション背景美術画集 タローマン・クロニクル ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津~Aqoursのいる風景~ 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版] 梅津泰臣 KISS AND CRY 資料集 安彦良和 マイ・バック・ページズ 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』編 氷川竜介 日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析 Blu-ray THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 10th Anniversary Celebration Animation ETERNITY MEMORIES Blu-ray おいら宇宙の探鉱夫 ブルーレイ版 Blu-ray 映画 バクテン!! 完全生産限定版 アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~ Blu-ray BOX 初回生産限定版 はたらく細胞 Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 Blu-ray 長靴をはいた猫 3作品収録 Blu-ray わんぱく王子の大蛇退治 Blu-ray 魔道祖師 完結編 完全生産限定版 魔道祖師Q Blu-ray Disc BOX 完全生産限定盤 にじよん あにめーしょん Blu-ray BOX 【特装限定版】 Blu-ray 鋼の錬金術師 完結編 プレミアム・エディション Blu-ray付き やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。完 限定版【同梱物】オリジナルアニメ Blu-ray「だから、思春期は終わらずに、青春は続いていく。」
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編集中… ここを編集 ■風都探偵 アニメーション制作統括 ■関連タイトル 風都探偵 Blu-ray BOX 上巻 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Blu-ray 魔女見習いをさがして Blu-ray「どうにかなる日々」Blu-ray Happy-Go-Lucky Edition 初回限定生産 Blu-rayDisc付き 『ラブライブ! スーパースター!!』「始まりは君の空」【みんなで叶える物語盤】 BEM~BECOME HUMAN~豪華版Blu-ray Blu-ray 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 10th Anniversary Compact Collection Blu-ray ぐらぶるっ! Blu-ray 映画クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者 Blu-ray CHRONO CROSS 20th Anniversary Live Tour 2019 RADICAL DREAMERS Yasunori Mitsuda Millennial Fair FINAL at NAKANO SUNPLAZA 2020 ゴブリンスレイヤー Blu-ray BOX 初回生産限定 グリザイア ファントムトリガー THE ANIMATION 03[Blu-ray] 特装版 ラブライブ! サンシャイン!! Saint Snow 1st GIG 〜Welcome to Dazzling White Town〜 Blu-ray Memorial BOX ゾンビランドサガ Blu-ray BOX 初回生産限定盤 Blu-ray 思い、思われ、ふり、ふられ 完全生産限定版 Blu-ray Fate/Grand Carnival 1st Season 完全生産限定版 Blu-ray Fate/Grand Carnival 2nd Season 完全生産限定版 Blu-ray ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかIII OVA Blu-ray 映画プリキュアミラクルリープ みんなとの不思議な1日 BD特装版 Blu-ray アズールレーン 三笠大先輩と学ぶ世界の艦船 ぶるーれい Blu-ray 水瀬いのり Inori Minase 5th ANNIVERSARY LIVE Starry Wishes かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 22 OVA同梱版 呪術廻戦 公式ファンブック よつばと! 15 監修 庵野秀明・樋口真嗣など 夢のかけら 東宝特撮映画篇 パラレルパラダイス 13 特装版 アイドルマスター ミリオンライブ! Blooming Clover 9 オリジナルCD付き限定版 美樹本晴彦マクロス画集 軌 わだち― 夜ノみつき 10th EUSHULLY WORKS しらこ画集 ILLUSTRATION MAKING VISUAL BOOK カズアキ画集 Kazuaki game artworks ライザのアトリエ2 ~失われた伝承と秘密の妖精~ 公式ビジュアルコレクション ぼくたちは勉強ができない 第21巻 音声ドラマ ミニ画集付き同梱版 あいきょう 荻pote作品集 ヒョーゴノスケ流 イラストの描き方 TVアニメ『くまクマ熊ベアー』オフィシャルファンブック 押井守原作・総監督 西村純二監督作品 『ぶらどらぶ』 解体新書公式コンプリートガイド OCTOPATH TRAVELER Design Works THE ART OF OCTOPATH 2016-2020 おそ松さん 3rd season SPECIAL BOOK 描きたい!!を信じる 少年ジャンプがどうしても伝えたいマンガの描き方 YMO1978-2043 「小冊子・YMO全トラックリスト2021 Amazon限定表紙版」付き To LOVEる -とらぶる- ダークネス FIGURE PHOTOGRAPHY COLLECTION 斉藤朱夏 CALENDAR 2021.4-2022.3 ラブライブ! サンシャイン!! Aqours DOME TOUR COMIC ILLUSTRATION BOOK ラブライブ! サンシャイン!! Aqours COMIC ILLUSTRATION BOOK 2020 Winter イジらないで、長瀞さん 10 特装版 「はたらく細胞」公式アニメ完全ガイド リスアニ! Vol.43.2「アイドルマスター」音楽大全 永久保存版VII アイドルマスター シャイニーカラーズ 3 CD付き特装版 ウルトラマンマックス 15年目の証言録 ウルトラマンZ特写写真集 じじぃ 人生は深いな 冴えない彼女の育てかた 深崎暮人画集 上 Flat. ぷよぷよ アートワークコレクション 古谷静佳1st写真集 re START THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS STARLIGHT MASTER COLLABORATION! Great Journey ウルトラマンゼロ Blu-ray BOX クロスアンジュ 天使と竜の輪舞 Blu-ray BOX 初回生産限定版 小林さんちのメイドラゴンBlu-ray BOX ゆゆ式Blu-ray BOX スペシャルプライス版 とーとつにエジプト神 Blu-ray 直球表題ロボットアニメ 全話いっき見ブルーレイ 未来ロボ ダルタニアス 一挙見Blu-ray VOL.1 シュヴァルツェスマーケン 全話見Blu-ray ワールドトリガー一挙見Blu‐ray VOL.1 異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術 魔王プレイボックス 初回生産限定 トータル・イクリプス 全話見Blu-ray Blu-ray Cutie Honey Universe Complete Edition 夜ノヤッターマン 全話いっき見ブルーレイ こみっくがーるず Blu-ray BOX 初回生産限定 Blu-ray 幼女社長 むじなカンパニーセット 初回生産限定 ログ・ホライズン 円卓崩壊 Blu-ray BOX 七つの大罪 憤怒の審判 Blu-ray BOX I Blu-ray 水樹奈々 NANA ACOUSTIC ONLINE 『Dr.STONE』2nd SEASON Blu-ray BOX【初回生産限定版】 魔術士オーフェンはぐれ旅 キムラック編 Blu‐ray BOX 今井麻美 Winter Live「Flow of time」 - 2019.12.26 at EX THEATER ROPPONGI - Blu-ray盤 Blu-ray 仮面ライダーゼロワン ショートアニメ EVERYONE'S DAILY LIFE 仮面ライダー一挙見Blu-ray 1号 2号・V3編 仮面ライダー一挙見Blu-ray X・アマゾン・ストロンガー編 スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1975-1981 スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1982-1986 半妖の夜叉姫 Blu-ray Disc BOX 1 完全生産限定版 裏世界ピクニック Blu-ray BOX上巻 初回生産限定 Levius レビウス Blu-ray BOX【期間限定版】 スーパー戦隊 学研の図鑑 江口寿史美人画集 彼女 アニメディスクガイド80's レコード針の音が聴こえる necomi画集 PHONOGRAPHIC フルーツバスケット アニメ2nd season 高屋奈月 Illustrations 2 彼女、お借りします TVアニメ第1期 公式設定資料集 ドラゴンボール 超戦士シールウエハースZ 超シールガイド ガンダムアーカイヴス『ガンダムビルドシリーズ』編 Angel Beats! 天使画集 Angel Diary PANZER FRAULEIN 野上武志画集 【陸編】 Angel's cage るび様画集 Sweet Dream はすね画集 画集 制服Girl's▼コレクション もりょ作品集 異世界ファンタジーのキャラクターコレクション 劇場版「美少女戦士セーラームーンEternal」公式ビジュアルBOOK アイドルマスター シャイニーカラーズ イラストレーション ワークス VOL.2 Blu-rayDisc付き 八十亀ちゃんかんさつにっき 10 特装版 あんさんぶるスターズ! Ready For Star 2巻 缶バッジ付 Switch エーペックスレジェンズ チャンピオンエディション New ポケモンスナップ -Switch 【PS4】BIOHAZARD VILLAGE PLAMAX 聖戦士ダンバイン サーバイン ノンスケール PS製 組み立て式プラスチックモデル スーパーミニプラ 無敵ロボ トライダーG7 3個入りBOX 魔道祖師 前塵編 完全生産限定版 HGUC 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ Ξガンダム MG 機動戦士ガンダムSEED モビルジン 1/100スケール カンチ 青 ノンスケール ABS&ダイキャスト製 塗装済み完成品 ☆赤ver 魔女の旅々17 ドラマCD付き特装版 クリストファー・ノーランの世界 メイキング・オブ・インターステラー BEYOND TIME AND SPACE 時空を超えて るるぶアズールレーン からかい上手の高木さん15からかいカレンダーカード付き特別版 「武装神姫」原案イラスト集 ALLSTARS 機動戦士ガンダム サンダーボルト 17 キャラクターブック付き限定版 とある科学の超電磁砲T OFFICIAL VISUAL BOOK Aqours 5周年記念アニメーションPV付きシングル「smile smile ship Start!」【BD付】
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信濃川朝鮮人虐殺事件(しなのがわ ちょうせんじん ぎゃくさつじけん)は、大正11年(1922年)7月に信濃川発電所工事所(「北越の地獄谷」と呼ばれた)で大倉組の朝鮮人労働者数10人が虐殺された事件。 信濃川朝鮮人虐殺事件発生まで 大正11年(1922年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流である中津川にて中津川第一発電所ほか水力発電所の建設を始めた。工事は大倉組が担当した。集められた土工は1,000余人で、そのうち600余人は朝鮮人だった。工事は「タコ部屋労働」と呼ばれる低劣狭隘な共同住居に労働者を拘束する形で、低賃金での人海戦術がとられた。また、大倉組の監督者らは、「勤務態度が怠惰だ」などとして、土工たちに暴力を振るった。 信濃川朝鮮人虐殺事件 同月、逃亡を試みた数10人の朝鮮人労働者たちが、信濃川発電所工事所で、大倉組の監督者らに、射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれた。 信濃川の上流から、朝鮮人の死体が、工事開始以来連日流れてきたため、事件が発覚した。新潟県内流域などで大騒ぎとなった。 同年7月29日、東京の読売新聞が、信濃川朝鮮人虐殺事件を報道した。 その後、在日本朝鮮労働者状況調査会が結成され、在日朝鮮人の労働状態が調査された。 同年11月、在日本朝鮮労働者状況調査会を推進した人々が中心となり、東京朝鮮労働同盟が結成された。 同年12月、大阪で大阪朝鮮人労働者同盟が結成された。 脚注 関連項目 金子文子 朴烈事件 高野山ダム 参考文献 宮崎学『不逞者』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-734-5 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月3日 (月) 11 50。
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幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける」秋季逆謀と認定されたが、大審院が有罪とした幸徳中心の全体計画なるものは信憑性が問われている。元老山縣有朋、首相桂太郎の藩軍閥政府による無政府主義者、社会主義者圧殺の政策のもと弾圧が拡大し、無政府主義者、社会主義者だけではなく被告とされた家族、友人たちにも捜索押収、取調べが行われた。またその過程で不敬罪弾圧、出版物への取締が強化された。 この事件は社会主義者だけではなく文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は無政府主義と被告たちへのシンパシーをもちピョートル・クロポトキンの著作、大審院公判記録を研究、作品にも結実させた。徳富蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。大逆事件後を「社会主義運動の冬の時代」と言うケースが多いが、しかし赤旗事件から大逆事件に至る時期、大審院公判中まで徹底した無政府主義、社会主義運動への弾圧が続き実際の「冬の時代」であった。1911年、同志が処刑された後、残された堺利彦は月に一回の「茶話会」から再起を始めた。大杉栄、荒畑寒村はいちはやく運動の再構築を図り、1912年『近代思想』を刊行した。 非戦論と直接行動派 20世紀始め、日露戦争前の1903年、堺利彦、幸徳秋水らを中心に平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめた。明治政府は、社会主義運動の更なる拡大を恐れ、帝国主義諸国に伍して東アジアへの進出に向け国内体制を防衛しようとし、社会主義運動に対し機関紙発行、演説会、結社への取り締まりを強化した。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を検挙した。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。 アナキズムの影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという主張を基にした『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事件では無罪を勝ち取った管野須賀子(管野スガ)と『自由思想』を創刊し公然運動を盛上げようとした。 しかし出版法違反で続けての刊行ができず、管野も一時拘引され、裁判では罰金刑が確定し活動が行き詰まった。菅野や長野県出身の活動家で一時平民社に住込んでいた新村忠雄は合法活動が圧殺された状況を打破しようと模索し、政府に対する闘争心が強い古河力作や爆裂弾を使い天皇を倒したいという社会主義者で機械技工労働者の宮下と連絡を取り始めていた。 宮下は爆裂弾を一度完成させ試爆させていた。幸徳自身は1910年になり、最後の拠点「平民社」を解散し、活動と生活立直しのため湯河原で執筆に専念することを決意、管野は罰金を払わず収監、100日間の労役場留置の策を選択せざるを得ず5月18日に東京監獄に入る。 弾圧開始 そのような状況下、長野の明科製材所で働いていた宮下の元へ新村が度々訪れた件、またブリキ缶と薬品を分散して所持していたことが察知され、5月25日爆裂弾の材料にあたるとして爆発物取締罰則違反で逮捕された。同日、長野の屋代に戻っていた新村忠雄と薬調合のための薬研を調達しただけの兄新村善兵衛も逮捕される。続けて平民社に出入りし、宮下が明科で保管していた薬品包みの連絡先として記されていた東京の古河も5月28日に連行され29日、松本署において爆発物取締罰則違反で逮捕。宮下は29日に至り明治天皇が馬車で通行時に爆裂弾を投げつけると謀議していたことを供述、検事聴取に新村、管野、古河の名を出す。これを契機に刑法73条の該当事件として検事総長に書類送致される。ブリキ缶を依頼され作り自室に薬研を預かっていた宮下の職場の同僚、新田融も帰郷先の秋田から連行され、松本で6月4日逮捕された。31日にはその5人に加え、湯河原滞在の幸徳秋水と東京監獄在監中の管野に対し大審院に予審請求されることが決定した。幸徳は6月1日湯河原を離れようとした時、管野は6月2日に監獄内において逮捕される。 拡大 当初はこの7人の「陰謀」事件として報道されていることからも官憲の一部には7人だけで「事件」を収束させる判断もあったようだが、大審院直轄になった検事たちが、平民社に出入りしていた社会主義者や供述で名を出された社会主義者を各地の当該警察署に拘引、直接の取調べ、捜索押収の過程で刑法73条該当事案として最終的には19人を加えた幸徳以下26人を逮捕した。 更なる拡大 官憲側の史料である『社会主義者沿革第三』によると 「予審中、被告の外、1908年11月前後、<無政府共産主義者>にて大石、内山と会合し幸徳を平民社に訪問、寄宿しその説を聴き<本件陰謀熟知>せりと認められる者は東京、横浜、群馬、愛知、京都、大阪、神戸、岩手等の各地に散在」 と記述されている。 残された公判記録にはその「各地」の社会主義者の証人「調書」が数十人分残されている。この場合「無政府共産主義」という官憲の認識は1906年以来の直接行動派としての幸徳に同調していた者が含まれている。 家宅捜索や取調べで、幸徳たちに関連づけられなくても、実刑弾圧を受けた社会主義者は多かった。前出の官憲史料に記録されているだけでも9月から12月にかけ「不敬罪」での判決が10件あり、1名が懲役4年、9名が懲役5年の投獄攻撃を受けている。 かつて幸徳、新村と「気脈を通じた」とされた諏訪郡境村を中心とした農村運動のグループも治安警察法違反で14人が検事局に送検、1名が禁錮8ヶ月、10名が禁錮6ヶ月(内執行猶予5名)の判決を受けた。 大審院予審 大審院検事局の公訴事実を、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記録している。その立会い検事平沼騏一郎(後の大審院院長・内閣総理大臣)の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、 第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、 第二 大石(誠之助)の紀州陰謀、 第三 松尾(卯一太)の九州、 第四 内山(愚童)の遊説(大阪・神戸) と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。 この構成には三つの「大逆罪」が含まれている。 天皇への爆裂弾投擲 暴動を起こし二重橋(宮城)へ逼る 皇太子に危害を加える 大審院による幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。 「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり……」 「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」 1884年の太政官布告による爆発物取締罰則も治安維持を目的とし前文は実行行為のみではなく、思想や考えを含めて裁くことを本質としている。大逆罪もまた同様である。11月謀議は、幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したことが、予審で問題とされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことが有罪判決への糸口となった。そして内山愚童に関しては、内山の発言より皇太子「暗殺」の意図あり、とされている。全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の人脈へと繋げた。熊本で刊行されていた『熊本評論』は1908年の「赤旗事件」の頃は幸徳の影響を受け実質的な直接行動派の機関紙になりつつあった。松尾は無政府共産主義に傾いていた。神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした。判決理由でことさら<赤旗事件の連累者を待ち>と記しているのも、堺、大杉たちを牽制する目的があると思われる。和歌山の大石は7月6日、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎は7月8日、成石平四郎は7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている(7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪で拘引、数日後に拘束)。 さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」という発言)から2つめの「大逆罪」を認定、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した(内山は出版法、爆発物取締罰則違反で東京監獄にて服役中であった)。判決では 「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」 とされている。 6月28日に拘引された奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない。このような動きと立場の違いが一部では政府のスパイ説を生み出した)。 11月1日、検事総長は全員有罪の意見書を大審院に提出し、9日、予審終結、公判開始決定となった。11月10日、被告たちの接見、通信禁止は解除された。幸徳は20日か21日に『基督抹殺論』を脱稿している。 予審訊問調書 「本体」といわれる東京(平民社の一部)での天皇への攻撃相談と、信州・明科の宮下の爆裂弾関連を予審訊問から整理すると次のようになる。 宮下太吉が爆裂弾を一度完成させ試爆をしたこと。本人の供述による。 宮下、管野、新村、古河が天皇に爆裂弾を投げつけるという謀議。 (相互の供述)通過の際の投擲順番を籤引きで決めた。そのための爆裂弾は完成されていない。 いつ何処で決行するかは未決定。 ただし後に古河は「参加する振りをしていたが抜ける時期を模索していた。」と語る。 (大審院審理終結後の獄中での執筆文書)。管野は収監され、曖昧な「計画」になっていた。 幸徳を管野たちは相談・計画に引込もうとしなかった。 幸徳は、相談・計画の中味は詳細には聞いてはいないが、爆裂弾使用の計画が一時期あったのは認識していた。 幸徳は爆裂弾の製法<薬品の配合>を奥宮に問合せていた。 幸徳は管野を「計画」から引き離そうとしていた。平民社を解散させた。相談の有無に関しては記憶が無いと供述。 大審院公判 弁護人は予審時選任できず、公判に付されることが決定してからようやく選任が可能となった。平出修弁護士を始め奮闘したが短期での活動では限界があった。第一回公判開廷後、一般傍聴人を入廷させておきながら傍聴禁止とし排除したが政府関係者は多数傍聴し、選任されてはいない弁護士も傍聴できた。判決公判だけ一般傍聴をさせたが官憲が入廷者を検問し社会主義者はほとんど排除された。 12月10日 特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述。 12日 管野・古河・新村善兵衛・幸徳の意見陳述。 13日 幸徳・森近・奥宮・大石・高木・峯尾・崎久保・成石兄弟の意見陳述。 14日 松尾・新見・飛松・佐々木・坂本の意見陳述。 15日 内山・武田の意見陳述。 16日 岡本・三浦・岡林・小松の意見陳述と連日の集中審理であった。 幸徳は公判の合間、休廷日の17・18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。 19日 幸徳らの意見陳述。 20日 幸徳らの意見陳述。 22日 幸徳らの意見陳述、補充審問を終え 23日 弁護人の証拠調べ、 24日 弁護人の証拠書類閲覧、鶴丈一郎裁判長は弁護側の証人申請を却下した。 25日 検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。 27–29日 弁論。 28日に幸徳の母は中村にて病死するという悲報も入る(一部で自殺と誤報される)。 判決と処刑 1911年1月15日、大審院の七判事、判決文に署名。 18日 24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。 19日 遅い時間に12名の特赦決定。 19日 日本国内発行の英字紙『ジャパン・クロニクル』『ジャパン・アドバタイザー』は非公開裁判を批判。減刑者の移送が始まる。 1月20日 新村・新田、千葉監獄に移送、 21日 峯尾、千葉監獄に移送、21日、12人への減刑が新聞報道される。 22日 高木・崎久保・飛松・坂本、秋田刑務所に移送、 22日 森近、獄中手記として「自叙伝」を書き始める。(24日の死刑執行寸前まで)「実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思うて居た」、 22日 徳富蘆花、兄蘇峰へ「減刑されなかった12名の死刑阻止に向け、桂首相に伝わるよう」手紙を送る。 23日 成石、岡本、岡林、小松、武田、三浦、長崎監獄に移送。 24日 東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分、新美卯一郎 午前8時55分、奥宮健之 午前9時42分、成石平四郎 午前10時34分、内山愚童 午前11時23分、宮下太吉 12時16分、森近運平 午後1時45分、大石誠之助 午後2時23分、新村忠雄 午後2時50分、松尾卯一太 午後3時28分、古河力作 午後3時58分、処刑。宮下太吉は執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。 25日 管野須賀子絞首。 アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。 国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。 弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。ようやく1945年の敗戦後に一部の手記が廃棄される寸前に持ち出された。 刑死者の遺体引取りと埋葬 1月25日 幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。 25日 徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す(執筆時、処刑報道は伝わっていなかった)。 26日 管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。 26日 『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。 27日 荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬 28日 古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。 28日 徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。 29日 新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬 29日 ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。 30日 堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。 31日 新村遺骨、染井墓地に埋葬。 2月1日 幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。 1日 徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。 2日 大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。 5日 堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。 6日 政府寄りの「大逆事件講演会」國學院大學で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。 7日 幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。 12日 サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。 17日 宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。 同志による遺族と家族への慰問 同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。 大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。 処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。 24日 古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。 堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。 11日 エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。 11日 堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐<旧『熊本評論』社同人>と対談、 22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、 28日には兵庫県小松留守宅訪問、 29日 武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。 5月3日 和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。 5日 三重の崎久保遺族を慰問。 7日に帰京、同志への報告会を開く。 12日 堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。 7月 官憲の記録には<堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」>とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。 1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜] 1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。 大杉は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する> 海外での抗議活動 1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。 11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに抗議文を送る、これを機に全米、ヨーロッパのアナキストによる抗議行動が広がる。 11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日 ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。 12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。 12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。 12月 報告<コウトク事件>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 1月 報告<日本における正義>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 2月 報告<アナーキー万歳!>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。 「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年1月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげたのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。……」 2月 報告<コウトクデモ>『マザー・アース』掲載。 2月11日 報告<親愛なるホール様>エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。 2月15日 「ロンドンタイムス」記事 イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。 12名、投獄後の状況 1914年6月24日 高木、秋田監獄で縊死 1914年9月30日 坂本、法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出 1915年7月24日 新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄 1916年5月18日 三浦、長崎監獄で自殺 1916年7月15日 佐々木、千葉監獄で獄死 1916年10月10日 新田、千葉監獄より仮出獄 1917年7月27日 岡本、長崎監獄で病死 1919年3月6日 峰尾、千葉監獄で病死 1919年4月2日 新村善兵衛、大阪で死去 1925年5月10日 飛松、秋田刑務所より仮出獄 1929年4月29日 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄 1931年4月29日 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄 1931年1月3日 成石、死亡 1931年10月1日 坂本、秋田より高知刑務所へ移送 1932年11月29日 武田、自動車事故で死亡 1934年11月3日 坂本、仮出獄 1937年3月20日 新田、東京で死亡 1945年10月4日 小松、困窮の中で死亡 1946年2月24日 坂本・岡林、刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」 1948年6月26日 崎久保・飛松「復権」 1948年9月1日 岡林、高知で死去 1952年10月 坂本「逆徒といわれて 在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表 1953年9月10日 飛松、山鹿町で死去、65歳 1955年10月30日 崎久保、市木村で死去 1975年1月15日 坂本死去、89歳 1975年1月24日 中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足 再審闘争 1960年2月23日 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足 1961年1月18日 坂本清馬・森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人 1963年9月13・14日 坂本出廷陳述 1963年11月29日 荒畑寒村証言 1963年12月20日 荒畑寒村証言 1964年1月13・14日 森近栄子他証言、岡山にて 1964年3月11日 築比地仲助証言 1964年5月8日 崎谷一郎証言 1964年7月15日 日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」 1964年9月25日 神崎清証言 1964年12月28日 意見書 1965年1月29日 弁護人意見陳述 1965年12月1日 再審請求棄却 (註:公表10日) 1965年12月14日 特別抗告 1966年9月20日 最高裁審理決定 1967年7月5日 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却 「大逆事件の真実をあきらかにする会」は継続して開かれている。 毎年1月24日前後の土曜日に管野須賀子の墓碑がある渋谷区内の正春寺を会場としている。 会に合わせ年一回の『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』を発行。 1996年 和歌山県新宮市の浄泉寺(浄土真宗)が大逆事件を見直し、獄中で自殺した高木顕明を復権 2001年8月 和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成される 参考文献 絲屋寿雄 『増補改訂大逆事件』(『三一選書』) 三一書房、1970年4月。 塩田庄兵衛、渡辺順三編 『秘録大逆事件』(上巻、下巻) 春秋社、1959年。 大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件訴訟記録・証拠物写』第4、5、8巻、近代日本史料研究、1960年(謄写刷)。 神崎清編 『新編獄中手記』 世界文庫、1971年。 大逆事件記録刊行会編 『証拠物写』(上巻、下巻) 世界文庫、1972年。 坂本清馬著、大逆事件の真実をあきらかにする会編 『大逆事件を生きる 坂本清馬自伝』 新人物往来社、1976年。 はしもと・よしはる訳 『「大地」誌に発表された幸徳事件』 バルカン社、1971年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 山本博雄、佐藤清賢編 『橋浦時雄日記第一巻 冬の時代から 1908-1918』 雁思社、1983年。 荒畑寒村著、森長英三郎編 『大逆事件への証言』 新泉社、1975年。 自由思想の会編集 『自由思想4』大逆事件特集号、自由思想社、1961年。 秋山清 『啄木と私』 たいまつ社、1977年。 吉田孤羊 『石川啄木と大逆事件』 明治書院、1967年。 神崎清 『革命伝説』(全4巻) 芳賀書店、1968-69年。註:巻末年譜は誤記を散見、他の一次資料との照合必要。 森長英三郎 『内山愚童』 論創社、1984年。 柏木隆法 『大逆事件と内山愚童』 JCA出版、1979年。 他に徳富蘆花全集、蘆花集、日記も参考 幸徳事件を扱った作品 コミックス『「坊っちゃん」の時代 第四部 明治流星雨(谷口ジロー作。双葉文庫) 関連人物 幸徳秋水 新見卯一郎 奥宮健之 成石平四郎 内山愚童 高木顕明 宮下太吉 森近運平 大石誠之助 新村忠雄 松尾卯一太 古河力作 管野須賀子(管野スガ) 今村力三郎 平出修 平沼騏一郎 関連項目 関連文献 冤罪 外部リンク 平出修 『計画』 http //www.aozora.gr.jp/cards/000080/files/4144_10205.html 幸徳秋水事件で弁護人を務めた平出修が事件後、幸徳秋水と管野スガをモデルにして描いた小説。1912年9月4日初出。青空文庫 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月30日 (日) 05 09。