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以下は、青山松任『大垣まつり』(昭和9年(1934年)・縦観荘出版部)の本文を電子化したものである。 ※青山松任氏は昭和10年(1935年)ご逝去のため、著作権保護期間は既に満了している。 本電子化テキストは、個人・ご町内ではご自由にご利用ください。ただし、刊行物(商用・非商用問わず)に掲載する場合や、他サイトに転載する場合には、事前に管理者までご連絡ください。また、本史料の詳細や実物画像がご入用の場合も、可能な範囲でご対応致しますのでご連絡ください。 凡例 電子化にあたっては、誤植や仮名遣いはそのまま再現したが、漢字は通行の字体に直した(「辨」「藝」「臺」「餘」「燈」を除く)。 ページの区切りは水平線で示し、ページ番号が付されている場合には【一】などとして示した。 字下げなどの字配りや文字の大きさについては、必ずしも正確に再現していない。 蔵書印(見返しに「多可屋文庫/1096/62.4」とある)や巻頭写真(掲載箇所を【写真】で示す)、巻末の広告(18ページ分)は省略した。 大垣まつり ―目次― 表紙……大熊秀斎先生 口絵……大垣祭り写真 県社八幡さん……一 神楽山車……六 大黒山車……九 恵比須山車……一一 高砂山車=本町……一四 布袋山車=中町……一六 天神山車=新町……一八 鯰山車=魚屋町……二一 榊山車=竹島町……二三 浦島山車=俵町……二六 玉井山車=船町……二八 辨財天山車=伝馬町……三一 愛宕山車=岐阜町……三二 猩々山車=宮町……三四 山車の濫觴……三六 昔の神輿は黒塗鉄張り(故鈴木徹翁の話)……四二 諸侯と雖通行させぬ(故一柳元吉翁の話)……四四 憶ひ起す川祭りの壮観(故浅田治郎七翁の話)……四五 (八幡社頭の山車)【写真】 (大垣祭りの神輿)【写真】 (神楽山車)【写真】 (大黒山車)【写真】 (恵比須山車)【写真】 本町(高砂山車)【写真】 中町(布袋山車)【写真】 魚屋町(鯰山車)【写真】 新町(天神山車)【写真】 竹島町(榊山車)【写真】 俵町(浦島山車)【写真】 船町(玉の井山車)【写真】 伝馬町(辨天山車)【写真】 岐阜町(愛宕山車)【写真】 宮町(猩々山車)【写真】 【一】 大垣まつり 藤原夢之介 県社八幡さん 天気良ければ大垣さまの 城の太鼓の音のよさ その大垣城下に、髷郎兵衛、下駄八と云ふ二人の剽軽者があつた。大のお祭り好きで、元気のよい神輿の声、優長な山車の囃子を聞いては、モウ立つてもゐても堪らないで、手を携へて八幡さんへ八幡さんへと突進した。 こゝで少しばかり、五万市民の氏神として崇敬浅からぬ八幡さんの由緒に就て述べて見たい。鎮座の地は大垣市外側町で、祭神は尚武の神として名高い応神天皇、神功皇后、比咩大神の三柱。何でも 【二】 天平勝宝元年宇佐八幡宮から南都梨原宮に勧請したもので、当時は東大寺の鎮守であつたと云ふことだ。それを元弘、建武のころ、東大寺領大井荘十八郷の百姓等が南都より大井荘に勧請し、最初は藤 江村莢(さいかち)の森に鎮座あつたのを、後宮村(現今の地)に奉遷したのだと伝へられる。この地にはもと稲荷さんがあつたのを、八幡宮を遷座して本社とし、左に稲荷さんを配祀し、右に天神さんを造営して三社となし、別に寺を建てゝ神宮寺とした。これが維新の頃まで存在した光明院である。 宝徳三年六月社殿を再興した。その時遮那院乘濟が遷宮の事を修したと云ふことで、爾来遮那院は累代八幡宮の別当職となり、大垣及び近郷十八郷――南ヶ輪(南頬)南寺内、東前、樋口新田、江渡(江崎)東高橋、西高橋、三塚、藤江、林本郷(林町)、林東村、林中村、貝曽根、高屋、宮、室、牛屋(西崎)、切石、以上東大寺領大井荘十八郷――の総社として奉祀したのである。 天正十六年十一月、斎藤山城守道三が大垣城主織田播磨守を攻めた時、社殿兵燹にかゝり、神宝記録等悉く烏有に帰した。慶長五年関ケ原合戦の際には、当社の神宝粟田口吉光の刀が紛失したのを、足軽左平太といふものが霊夢に感じて赤坂の飯沼某方に赴き、これを取り戻して奉納したと伝へられる。然るに同十一年大垣城主石川長門守が、徳川家康の歓心を買はんがため、この名刀を幕府に献上 【三】 したので、忽ち神罰にかゝつていろ〳〵の災殃に遭ひ、驚いて政俊の刀を奉納して罪を謝したけれども、猶神の怒り解けず、遂に乱心して死んでしまつたと云つたやうな、あらたかな話を伝つてゐる。 寛永十二年戸田左門氏鉄公入城後は、世の中も静謐に帰し、祭式も厳粛に行はれ、正保四年氏信公の命によつて先づ鳥居が建ち、同五年には御父氏鉄公の命によつて神祠再建、本社、舞楽殿の上葺を改め、拝殿、幣殿も改築せられる等、こゝに全く面目を一新した。こゝにおいて十八郷の氏子等は、歓喜のあまり三社の神輿と寄進し、城下十町は十輌の山車渡物を製したとある。 承応元年四月始めて祭礼の日を改めて十五日と定められた。初めは流鏑馬(やぶさめ)の式もあつたが、万治元年から廃止となつた。寛文九年、古の神事の如く、祭日を四月中卯日とし、神輿を渡されることになつたが、越えて宝暦元年城下十町再び改めて山車陸船十輌を造つた。こゝにおいて藩侯は新に棚車三輌、祭器数種を作つて納められ、以て明治維新に及んだ。 明治六年一月岐阜県から郷社に指定せられ、十二年五月二十三日には県社に加列せられた。現在の社殿は本殿、幣殿、舞殿、同庇、拝殿、神楽殿、神輿殿、饌殿、神厩、祭器庫、盥嗽所、社務所、同社務所等で、境内社には稲荷さんを始め、北野さん、広瀬、竜田の両神並に出雲霊蛇神社がある。広 【四】 瀬、竜田の両神は云ふまでもなく雨の神、風の神で、霊蛇神は火災消防の神である。 髷郎兵衛、下駄八の両人は、神前にぬかづき、武者溜から流るゝ山車の囃の音に血を湧かせつゝ何事か祈願してゐたが、やがて下駄八が首をもたげると、猶も髷郎兵衛は大地に額を埋めて一心に祈念を罩めてゐる。 下「おい髷さん、お詣りは大抵にしておかないかえ。もうそろ〳〵山車が動き出すよ。」 髷「いや、今は国家の非常時じや。昔亀山天皇は、元寇の襲来に際して、この国難を排除せんがため、玉体親しく八幡宮に祈誓を籠めさせられたと云ふことじや。国民の尚武と八幡武神の関係は、影の形に随ふが如く、離るべかざるのが我が国風の神秘じや。祈れ〳〵。切に神明の照鑑冥加を請ふて、来るべき三五、六年の国難を突破し、併せて邦家の曲事を一掃せやうじやないか。」 下「成るほど。苟も尚武の神風に浴する吾々氏子は、心を一にして、神感を得るまで至誠を献げよう。」 両人は賽銭を投げては拍手し、拍手しては額づくこと、まさに幾十度。 下「特に髷さん、お前は物識りじやが、この八幡さんが、昔奈良の都から大垣へ飛行機に乗つて飛 【五】 んでござらつしやつたと云ふ話を知つてるかい。」 髷「知つてるよ。或る夜南都東大寺の八幡さんが、社殿動揺して、御神体が紛失したと云ふ騒ぎがあつた。社人や社僧は大いに驚いて、種々協議の結果、兎に角全国的に之を捜索する事となり、御神体の形を絹地に模写したのを二十一枚作り、一々三尺の錦布に包んで之を二十一人の社僧に持たせて国々へ派遣したのだつた。其中の一人は巡り巡つて美濃へ出て安八郡へ入つて其日は室村の某家に宿泊したが、何だが気が変になつて眠りに落ちることが出来ず、身を悶えてる中に夢か現か目の前に自分の探し求めてゐる八幡神があらはれ給ひ『この土地後々吉事多く、我はこの地に永住するによつて其方は早々南都に帰り皆々にさう告げ申せ』との有難い託宣だつた。社僧は翌朝目覚めて奇異な思ひに満されつゝ東の方藤江村のあたりを眺め渡すと、不思議にも大いなる瑞光あらはれ、我を招くかの如くであるので、光を辿つて急いできてみると、皁莢(さいかち)の木の下で紛ふ方なき八幡の御神体に会い奉つたのである。社僧は大いに喜んで、模写の絹画と引くらべてその事実なるを確め、模写を捨て、三尺の錦布に之を包み、背に負ふて勇み南都をさして帰らうとしたが、不思議にも目がくらみ足立たず。其処へ打倒れてしばらくは人事不省であつた。をりしも其処を通り掛つた牛屋山の阿闍梨に発見され 【六】 阿闍梨の取扱ひで八幡の信託を徳とし、大井荘十八郷の鎮守の神をしたといふのが其大体じや。其時用ゐられた三尺の錦布は今でも八幡神社の御神体を奉安する櫃の中にあるといひ伝へられてゐるのじや。」 下「こいつア眉唾物語じやナ。」 髷「だが梶川山心の撰んだ八幡宮縁起にレツキと記されてゐる。荒唐無稽などと言つたら神罰があたるぞ。」 二人は、減らず口を叩きながら、御宝前を拝辞し、社頭において十三輌の山車の奉藝を拝観するのであつた。 神楽山車 髷「どうじや下駄八、斯うして社前から武者溜へズラリとならんだところは立派じやないか。」 下「本当に豪気じやなア。あの一番先頭の神楽山車にお祀りしてある祠は何んじやナ。」 【七】 髷「恐れ多くも天照皇大神宮様じや。その前に赤いたけなが(﹅﹅﹅﹅)をつけて島田 に結つたのが天鈿女命、赧ら顔の鼻の高いのが猿田彦命だ。一番前に青装束で鈴と扇とを振つて神楽を舞ふ少女と、白装束で注連の竹を振りながらチヤン〳〵チキ の囃子につれて湯の花をあげる山武士がゐるだらう。」 下「これは一体何をかたどつたものだらう。一般に天の岩戸だと伝へられてゐるが、岩戸へ天照大神がかくれました時としたら、天鈿女命が舞はねばならぬ筈だし、又猿田彦命もゐない筈じやがこりやどうじや。」 髷「偉い、よく気がついた。これはおそらく天孫瓊々杵命が天祖の御神勅を奉じて、豊葦原瑞穂国へ御降臨ましましたところじやよ。国神である猿田彦命が統治者に対する服従の意を表すべく奉迎せられたところに違ひない。古事記にも、 瓊々杵命が、今正に天降らうとし給ふ時、天の八衢にゐて上は高天原を照し、下は葦原の中国を照らす大神あり、これ即ち天照大神で、大神は葦原の中国の一角に当つて怪しきものあるを発見し、天鈿女命に詔して往きて問はしめ給ふに、怪しきもの答へて曰く『我は国神で名は猿田彦といひ、天神の御子天降りたまふにより、御前に仕へ奉らんとお待ち申してゐるのである。』 【八】 と、いふ意味の一節がある。」 下「成アるほど、猿田彦命は天孫のご案内を申したお方じやから、この山車の行列にも先頭に立つて案内せられるのじやナ。ところでこの神は天鈿女命と御夫婦におなりなされたと云ふじやないか。」 髷「さうじや、天上一の勇婦天鈿女命と、国中第一の勇神猿田彦命との間に出来た御系統は定めて忠勇無双剛気なる神々であつたらう。殊に天鈿女命は鼻の低いオカメさんの本家、猿田彦命は鼻の高い天狗の本元だから、丁度その仲のお子達は、高からず低からず中を得たものに違ひないことは、生理生物学的見地から保証して置く。」 下「生理学上の事なんかどうでもいゝが、この山車を『いちやま』と云ふのは、一番先頭と云ふ意味か、それとも他に理由があるのかい。」 髷「有りとも大有りじや。昔社司中川左門に市子といふ容貌うるはしき娘があつて、お祭り毎に社前で神楽を舞つたので、城下および近郷の住民にもてはやされ、やがては神楽を舞ふことを俗に『いち』と云ふやうになり、ツイ山車にさへこの名前を用ゐるやうになつたと云ふ事じや………序ながらこの山車は、明治二十年の吉岡座火事に焼失したのを、組合町協議の上直に新調してそ 【九】 の年の祭に間に合せたのじやよ。」 大黒山車 大黒さんは福の神だ。あのいつもにこ〳〵とした顔、誰のためにも振ることを惜まない、右手に持つた宝槌、左の肩にした福袋、それは誰しも懐しみを感ずる福の神の象徴であるが、山車に飾られた大きな大黒さんが大勢の子供達によつて引きまはされてゐるのを見ると何とも言へぬ好い感じを抱かせる。髷郎兵衛は得意になり、行儀の悪い団子鼻をうごめかしてお祭通を発揮するのであつた。 髷「何でも明治の初め、神仏混淆を厳禁せられた時分には、一時この大黒さんも槌の代りに剣を持たされたことがあつたさうじや。」 下「大黒さんまでが剣を振り廻しては、軍部あたりじやア大歓迎じやらうが、第一鼠が怖けて寄りつけまい。」 髷「元来大黒さんは大黒天と称して仏教の守護神である所から、剣を持たせても支障のない理由も 【一〇】 あつたのじや。詳しく説明すると大黒天は梵語で摩訶迦羅といひ、訳して大黒又は大闇夜とし、初めは闘戦の神であつたが、その後幾多の変遷を経て、福神として崇拝せらるゝに到つたもので、大自在天の化身ともいひ、又は堅牢地神の化身であるともいふ。この大黒天が我が国に伝来したのはいつ頃であらうか、年代は確と分らぬけれど、恐らくは平安朝の初期において、密教と共に渡来したのじやらう。そして神仏同体を論ぜられるに当つて、わが国の大国主命と訛伝するに到つたのじや。古事記に徴してみても『大国主命(一名大己貴命)稲羽の気多前に到り給へる時袋を負ひ給へり』とあつて大国の音が大黒に通じ、大己貴の音が亦大黒に近いのでこれと混同したものじやらう。現今日本では七福神の一にかぞへて崇拝し、殊に恵比須さんと相ならべて戸毎に祀り、福徳円満を祈願してゐるが、その形像は頭巾を冠り、狩衣及び袴を着けて足下に米俵を踏み、槌と袋をもつてゐるのが例である。」と、髷さんまるで大黒さんの申し子のやうな事を言つて、ふんぞり返る。 下「むかしは、大黒山車を引き受けた町内は一切鼠を殺さぬと云ふ習慣があつたさうじや。」 髷「それは恐らく古事記に出てゐる大国主命の事蹟によつて鼠は命の使獣であるとの見解からいひだされたものじやらう。又以前は大黒さんの腰が三年に一度づゝぬけるといつて、魚屋町が大黒山車 【一一】 を引受ける番になつて、子供がないのと、費用に困窮する為に、町内に飾つておくだけで、引き出さぬのを悪口いつたものじやが、近年になつてからは三輌山車に元気がなうては大垣の名折れになるとて、殊に皆が骨折るやうになつたのじや。」 大黒山車 斎藤百竹 現来市井作銭神。天上豈無応化身。 世間僭窃君名字。漫称僧房枕席人。 恵比須山車 下「大黒さんは塗りを施して美しい顔してござるが、恵比須さんはナゼ塗りの剥げたむさくるしいお顔なのかい。」 髷「それについて面白い話がある。両神とも左甚五郎の作と云ふことで、塗師が手をふれやうとすると、大黒さんは水を吹き、恵比須さんは火を吹くので、火を吹いた恵比須さんには恐れをいだいてそ 【一二】 のまゝ現在に及んでゐるのだといふが、真偽は保証の限りじやない 。」 下「この恵比須さんを山車に祀るについて、藩主氏鉄公が摂州へ御祈願の使ひを出されたと云ふことだが………。」 髷「それは摂津の広田神社に併置されてゐる夷子神社じやアあるまいか。廣田神社内には夷子神社を祀つた宮が二社あつて、一は西の宮といひ、別に夷宮又は西宮夷等と称し、祭神は蛭子神、一は南の宮又は奥夷の宮といひ、祭神は夷三郎と称してゐる。中世以降夷子神を福徳の神と称へ、諸人に財福を与へ給ふ神として世の尊敬厚く、殊に商家は何れも大黒神と並び祀つてゐる。一説に夷子神とは蛭子尊であると云ふことじや。日本書紀に『伊弉諾尊伊弉冊尊夫婦となり、蛭児生る。既に三才になるといへども脚猶立たず、故にこれを天の磐橡樟船に載せ風にまかせて放棄す』とあり。此船が西宮の社下蛭子浦に止り、この浦に謫居して漁夫となり、里人は尊を夷子三郎と呼び、その何処か常人と異り気品福徳あるを慕つて、神として祠に祀つたので、祭神を夷子三郎といふのじやとも云ふ。」 下「恵比須さんは大国主命の御子事代主命だとも云ふではないか。」 髷「左様、事代主命は出雲国三穂崎に遊び、日々釣魚を娯しまれた。大国主命も日本最 【一三】 初の国神で福徳の神であるから、一は大国といひ、一は恵比須と称して諸人これを祭り、福神とするのじや。いづれにしても、戸田家においては深く恵比須神を崇敬せられ、藩祖氏鉄公が尼崎城主時代にも、西宮恵比須神社へ年々米三十石宛を寄進せられたと云ふ事だから、三輌山車に恵比須さんを祀られたのに不思議はない。」 下「何かこの山車をうたつた詩や歌はないかナ。」 髷「あるとも。幕末の詩人斎藤百竹は『僅かに竹竿並びに竹籃を得て、皇宮を遁れ去り釣魚に耽る、嘗て撹乱せず蒼生の意、風致誰か知らん瞿曇に勝るを』との詩を賦してゐる。」 下「藩主が神楽山車にこの二福神を加へられたのは、城下の庶民に福祉を増進すべく、善政を布くの意を遇したものだらうナ。」 髷「勿論じや。」 下「それにしても笛と太鼓と鉦と、あの囃しの賑やかさは意気じやなア。」 髷「あれは松づくしと云ふのじや。このほか水づくし、伊勢詣り、車返し、岡崎、道行き等の囃しがあるが、いづれも賑やかな興国的気分に充ち満ちたものじやよ。」 【一四】 高砂山車=本町 下「本町山車を相生といふのはどうした訳じや。」 髷「謡曲高砂を用ゐてあるからじや。だから見送りなども、高砂にかたどつて、老松に翁媼二人を織り出してある。その技術においても色彩においても先づ十ケ町中の尤たるものと思ふ。」 髷郎兵衛が得意の薀蓄を傾けて説明するところは斯うだ。 高砂は古今集の序にある如く、高砂住吉の松の精があらはれ、松の謂れを述べ、和歌の道を語り、遂に住吉明神出現して神人和合し、君を祝ひ、国を祝ふ目出度い祝言の曲である。山車には三層の勾欄を設け、第一層には幔亭があり、正面に一樹の老松が象徴的に装置されて、その樹の下には翁媼が箕箒を持つて立ち、第二層には衣冠束帯して笏を持つた住吉大神が起舞し、第三層には烏帽緑袍の阿蘇の祝官友成があり。祝官は即ち変じて一楼船となり、帆を張つて上下し、波濤の状をする仕掛けになつてゐる。即ち始めは、 【一五】 今をはじめの旅衣々々、日もゆくすえぞ久しき。そも〳〵是は九州肥後の国阿蘇の宮の神主友成とは我がことなり。我いまだ都を見ず思ふほどに、この度おもひたち都に上り候。又よき次なれば播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。 と友成が九州からはるばると播州へやつて来た所である。而して摂津の国住吉の老翁と、播州高砂の媼とからなつてゐるといふ不思議な夫婦に会い、色々の物語りをしてゐる中に、時が来て老翁が海人の小舟で住吉へ帰る所を、祝官を楼船に変ぜしめて現はしたもので、 『高砂や、此浦船に帆をあげて〳〵、月もろともに出でしをの、波の淡路の島陰や…………』 下「オイ〳〵変な声を出しなさんな。お前だナ、先年大水の中で暴風のあつた時『これは時津風じや』と云つて舞つてゐたのは………」 髷「アノ時は家臺骨が動揺して、随分怖かつたなア。動揺と云へば、あの山車を御覧、謡曲につれて山車の上に揺れ動く楼船の微妙な感じは何とも云えぬじやないか。」 下「この山車にも唐人の囈語がつくられてるのかい。」 髷「やはり斎藤百竹の詩がある。『整ひ成す烏帽緑藍の衫、晋笏の容顔自ら凡ならす、何物の仙官ぞ 【一六】 腹海の如し、浮び来る楼船忽ちに帆を張る。』とネ。」 下「水引は?幕は?見送りは?」 髷「水引は狩野某の下絵とかで、前は花鳥、両側は南画の縫潰し、其構図は昔京都の公卿九条家に伝わる有名な屏風から得た精巧なものじや。幕は紅羅紗に十二支の刺繍がしてあるんだ。見送りも亦昔京都で製作したと云ふ事じや。 布袋山車=中町 下「次は布袋さんじやナ。」 髷「これは布袋山車又は旭山車と云ひ、むかしは役行者山車とも称したさうじや。車上には三層の勾欄を設け、第一層には危亭を置き、中に布袋和尚の塑像を据ゑ、二層の下には加茂明神、室明神の神職、神女、侍女等を飾つてゐるが、老人の話によると、もとまではこんな飾りでなかつたげな。」 髷郎兵衛得意になつて、斎藤百竹の詩を引き、昔は第二層に唐船の女子が扇を握つて榻に登り、身 【一七】 をさかさまにして峙立し、或は戯れ、或は舞ひ、第三層には紅装束の少女が頭に金扇を戴き、しば〳〵舞ふて宛転し、その様は非常に一般から興がられたといふ昔話に一しきり花を咲かせた。 一体布袋さんは七福神の一つであること勿論だが、布袋和尚は支那梁代の散聖で弥勒の化身であり十六の群童之に附随するといふ故事から、前記の戯児を持つて来たもので、祭りが一の散事である所から、散聖を奉安した布袋山車は十輌の山車中重きをなして第二位を占めたのであらう。然し明治維新当時神仏混淆が禁止せられたので、一時僧形の布袋を廃して玉串榊となし、その後なほ布袋に随つてゐた童児も亦加茂明神及び随臣祝官に改作し、名を旭山車と改めたのであると云ふ。 髷「斯くの如く、一時布袋を廃して旭山車としたものゝ、これじやアこの山車の生命がないといふ所から、明治二十四年の大震災で烏有に帰したのを機会に、明治三十五年再び新調、以前の如く布袋を危亭に安置することゝなり、大山人形も以前の如く唐子が身をさかさまにして舞ふものとなつた。何んといふても、山車創建以来本町山車と並び称されたもので、以前は水引(蛮錦に桃源図を繍つたもの)を始めとして、黒羅紗に怪巌蹲虎の図を刺繍した見送り、後山車に厳然と峙立の形にあつた龍頭の彫刻等は頗る見事なものじやつたが、震災で焼失後之に模して総てを飾つてはあるけれど、迚 【一八】 も昔の比ではない。たゞ昭和八年見送りを新調し、高木美石画伯によつて猛虎の図が揮毫せられ、それが例の龍頭の彫刻と相対して、竜攘虎搏の壮観を呈するに至つたのは、面目を一新したものと云へよう。」 下「謡曲は加茂だナ。」 髷「昔は謡ひの声のよいのと、山車の設備が立派じやつたので鳴らしてゐたのじやよ。」 布袋山車 斎藤百竹 弥勒今生一布囊。禅房出得踞胡床。 風狂亦復為何事。只此嬰児戯百場。 天神山車=新町 髷「どうだい、この見送りのあでやかさは、天下一品とはまさにこれじやよ。」 下「成るほど、これは大橋翠石画伯の猛虎じや。こんなのこそやがては国宝になるのじやらう。」 【一九】 髷「それに水引も翠石画伯じや。新町からは偉い巨匠を出された。翠石画伯その人もまさに国宝的存在じやよ。」 両人は、山車をソツチのけにして、しきりに翠石画伯を賞賛してゐる。 同町の氏神が天満宮であるところから、第一層には同社の御霊を祀り、第二層には唐子一人、第三層に採振りを装置し、第二層の唐子は手習の意味で文字を書く藝当をして観衆を慰めてゐる。扁額の東郷元帥の書「菅公の詩」も、呼び物の一つである。 髷郎兵衛と下駄八が、しきりに現代の名将や名匠の筆を褒めてゐるのを耳にした新町の一老人は、両人の肩を叩き、 老「この山車は近年でき上つたのだが、濃尾大震災で烏有に帰した小舟山車は実に素晴しいものでしたよ。」 と、真顔で語る昔の小舟山車の結構……… 「嵐の山の花ざかり、竜頭鷁首の船に乗り、詩歌管絃の宴に侍りしことも………」 と太平記にあるがこの竜頭鷁首の宴船を山車に模した新町の小舟山車は、大垣の祭りにおける一の誇りであつた。小舟 【二〇】 山車とはいへ、船首から船尾まで約五間の長さを有し、名工の手になる竜頭厳めしく船首に飾られ、舞台があり、屋形があり、勾欄が設けられ、赤羅紗の幕には蝦蟇、鉄拐両仙人を刺繍し、その中に垂れ下る縦三尺横九尺の水引きには、勤王の詩人梁川星巖翁が蝦蟇仙人を賦した『宝鏡新たに開いて丹桂香ばし、蝦蟇意を得て正に跳梁す、一条の霊気天地を串き、散じて金華万道の光となる。』 の詩及び鉄拐仙人を賦したところの『般精運気化して神となる、身外身あり千億の身、鉄拐の木瓢皆て幼相にして、知らず孰れか是れ本来の真。』 といふ二つの詩を隷書で書き、見送りには雌雄二頭の麝香猫を織り出し、眼は宝玉を用ゐて色彩華麗に、飾弓彩籏華々しく立て並べられ、三つの車輪を用ひて曳き歩く度毎に、船が波に漂ふ如く揺れ動くも面白く、浄瑠璃によつて種々なる舞踏が演ぜられたもので、斎藤百竹も『雲白く風は薫りて霽色開く、四街混々として黄埃漲る、木蘭船上西施出で、匹似ず呉王の暑を避けて来るに。』と歌つて、その舞台に舞ひ出た舞妓の美を説いたものである。だがしかし、星巌翁の鉄拐仙人の詩に代ふるに、鉄拐山麓に彩管を揮ふ翠石画伯の大作を以てしたのも奇と謂ふべきではないか。 【二一】 鯰山車=魚屋町 ハアーハアー、押へたか、チカラカチン〳〵。 下「やア鯰じや鯰じや。大垣祭りの圧巻は何と云つてもこの鯰じや。」 髷「昔は竹島町の朝鮮人山車と共に、奇抜の二幅対と云はれたものじや。」 仰ぎ見ればこの山車は、車上に三層の勾欄を設けて中に幔亭を置き、前に大きな板床を突き出して一人の老翁が金色燦然たる大瓢を両手に振りかざし『ハアー〳〵押へたか』と面白い囃しに伴れて眼前の鯰を押へるのに腐心してゐる。子供達は矢鱈に嬉しがつて、騒ぎ立てる。実に威勢のよい山車だ。 下「一体アノ鯰瓢箪の老人は何者だい。緋縮緬の頭巾を冠つたおどけ者じやないか。」 髷「道外坊と云ふのじや。だからこの山車を道外坊山車とも云ふ。智仁勇を表現したものと云ふことで、一説には北条時頼に重用せられた剛直清廉の聞え高い青砥左衛門藤綱をかたどつたもので、時勢の変遷と共に従来の如く重箱主義のやり方から脱して臨機応変たらんことを遇意し、暗に因習的 【二二】 な藩庁の役人を嘲弄したしたのであるともいふが、真疑のほどは知らぬ。」 下「そんな事を言ふと、昔なら笠の臺がケシ飛んでしまうぞ。」 髷「いづれにしても、当年のこの町の魚商人が、如何に覇気があつたかを偲ばれて痛快じや。祭典における届にしても、他の町内が各夫々謡曲の題名や、院曲の題名を几帳面に届け出でるに引かへ、魚屋町はただ、 町は御世も豊かに親父鯰を押へ申し候。月日。魚屋町年行事。寺社奉行御中。 と破格な届を年々継続して知らぬ顔をしてゐたものじやさうな。」 下「豪気じなやア。時に山車の装飾について聞かせてくれ。」 髷「屋形峰前後には雲に日月を彫刻し、種は鯨の網屋根に紗を張り、破風に千成瓢箪を透し刻としてある。屋形左右の袖には亀甲、前後には榊に幣の縫模様。水引には蛮錦に蛟竜十二章を刺繍したのを用ゐてあつたが、惜しくも大震災の際焼失した。幕には紅羅紗に水雲双竜を繍ひ、見送りは白羅紗に金幣を刺繍してある。例の百竹は『魚を打つに何ぞ必ず精神を損せん、撚断す霜髭自ら養真、只酒瓢を愛することよく絶大にして、風流甚だ似たり直鈎の人。』と誦み、この老翁を直鈎を垂れた太公望 【二三】 に擬してゐる。 下「一説には鹿島神社の祭神だとも云はれてるんじやないかい。」 髷「左用、武甕槌神とも云はれてゐるが、この説はチト怪しい。いづれにしても山車のすべての意匠が御即位大礼の神事に御使物の御物を引出して製作したところに先人の苦心が存するのじや。」 榊山車=竹島町 下「榊山車が朝鮮山車であつた昔話を聞きたいなア。」 髷「待つてゐました。」 とばかり、髷さん例のお祭通をふりかざして説明するところ頗る詳細を極めた。 朝鮮山車は、何と云つても大垣祭りの大いなる矜りでにあつた。閻魔大王の様な大将冠、悪鬼の様な『ゴツカ』の顔、賑やかな彼の囃し、勇ましいあの行列、懐ひ起すだに血湧き肉躍るの感がある。抑もこれは今を距る百有餘年前朝鮮国王から幕府への使者の道中の行列に模したもので、町の代表が自らそ 【二四】 の行列に加はり、衣装万端から打囃しまでも研究調査を遂げて帰町し、以来祭礼毎にこの行列に模した山車を曳き出すことゝとなつたので、その行列は先頭に『清道』の二字を大書した二旒の幟を立て、次に割竹二人、大笛二人、中笛二人、羯鼓一人、大太鼓二人、小太鼓二人、小笛二人、胡弓一人打続き次に朝鮮国使に準へたる大将冠は、万事朝鮮風に仕組まれたる山車の上に座し、竜を描いた大旛をがざし、手には軍配扇をもつて威風凛然と構へ、この山車際には稚児髷に結つて軍扇を持つた小姓が三人附随して殿りをしてゐる。なほ山車の末払として跟随する恐ろしい仮面を被つた『ゴツカ』が蕨の杖を打振り打振り立寄る子供を追ひ散らし、子供達亦之に砂礫を投じてゴツカ〳〵と騒ぎまはるのであつた。 以上の行列は何れも揃ひの艶麗なる朝鮮服に木綿の靴を穿ち、且つ行列に連なる一人毎に笠鋒をさしかけたると、床几を持ちたる二人のお供が随従することであるから、行列は蜒蜿として長蛇の如く而かも朝鮮式の囃しは『干』『中干』及び『ながちやう』の三つに分れて、極めて勇壮活発なものであつたといふ。 朝鮮山車は一名唐人行、或は朝鮮王山車、朝鮮人山車などといひ、その行列は頗る盛なものであつ 【二五】 た。百竹は『大唐王帝満清旗、伍列三韓伶士の姿、童衣上下訳司に似たり、恍として見る豊公盛時の時。』と豊臣秀吉全盛当時の来朝使を思ひ浮べてゐるが、この華美を極めた朝鮮山車も、明治維新になつて遂に廃止せらるゝことゝとなり、其かはりに榊山車を造つたのである。 下「榊山車とは、岩戸神楽の昔をかたどつたのじやナ。」 髷「さうじや。この山車は車上三層の勾欄を設けて、第一層に幔亭をおき、中に白幣を立て、第二層には天鈿女命、第三層には祝官を飾り附け、曲藝には神楽を用ゐてゐる。水引は雲雀の縫つぶし、下絵は戸田氏貞氏、脇水引は百花百鳥の図にして京都西陣特製のつゞれ錦、幕は紅羅紗にして、見送りには洋絹に王仁と阿直岐の像を写し、その上に なにはづにさくやこのはなふゆごもり いまをはるべとさくやこのはな の和歌を書いてゐる。この見送りの下絵は武光某、詩は江馬細香女史の姪黄雨楼主人江馬金粟(元齢)先生で、前山後山に彫刻されてゐる十二支は、伝馬町に住してゐた彫師馬山の作で、可なり精巧なものじやと聞いてゐる。」 【二六】 浦島山車=俵町 浦島山車は謡曲『浦島』によつてこしらへられたもので、現在は幾分俗化した傾向があるが、昔は第一層に大将冠として浦島太郎を置き、中段に乙姫、第三層に竜神、而して竜神が珊瑚の樹を持ち、歌曲につれて舞ひ出す頃の古の仕組みは、何ともいへぬ優雅なものであつた。然し此古いしきたりもいつしか廃れて、現在竜神と乙姫と亀とが第二層に静置せられ、第三層には竜神竜女をかたどつた唐子があり、 九重出づる旅衣々々、八重の汐路に急がん―――― と謡ひ出る頃から、色々のしぐさをなして観衆の目を楽しませ、 ――――竜神みぎはの浪に座して、折柄を守護し、又は神風に雲霧を払つて、あたりも輝く玉の手箱を彼の旅人の稀なる故に、夢中に顕はしみせ給ふ、夢ばし覚ますな客人よ、夢ばし覚ますな客人よ。夜はまだ明けじ玉手箱、早くも治る君が代の、勅使を慰めの夜遊ぞかし、海竜王も心せよ、今この 【二七】 君の御政徳、猶も客人に奇特を見せんと、木綿四手の神心、竜神も心を一つに成相の、松風も吹きよせよ、さす汐もよせよと、互ひによる潮の上に、蓬萊山を浮べ浮ぶれば、草木もゆるぎ合ひ五色の亀も、いさみ〳〵て―――― といふあたり、玉手箱を脊にした亀は恍然と車上の波濤に浮び出で、右往左往する中に、玉手箱はぱつと開いて中よりは蓬萊山が現はれ、讃歎すべき趣考である。尚亀が口中から慣習にピンポンを吐き投げる様になつたが、これは餘り俗な趣味であると云ふものもある。しかしこれはピンポンでなくて水玉であり、 むかし〳〵浦島は 子供のなぶる亀を見て と、小学校の唱歌でお馴染の浦島さんの事だから、よし子供へのお土産にピンポンを投げても、それは現代的であるかも知れない。 此山車は、水引に紺色の文錦を用ひ、構図は正面が対ひ竜、両側が貝づくしで、尚特に短い水引様のものに波浪を描いたのをその上に設け、幕には紅羅紗に大波濤を繍ひ、他の山車の無地幕に比し、特に異彩を放つてゐる。別に白幕があつて試楽専用となつてゐる。見送りはなしで、浦島の脊の虎の 【二八】 皮及びその後に立てられてゐる祭旗が其かはりをしてゐる。明治七年の大改造には、町内の骨董商平尾屋が献身的努力をなし、濃尾大震災後の仮修理についで、大正六年にも大修理を施し、屋形の動揺の調子を取つたり、全部を青貝塗りにしたりしたので全く面目を一新した。 下「この山車に見送りのないのは、昔殿様の上覧の場所であ落したからだと云ふが本当かナ。」 髷「その見送りが松濤寺の打敷に直して寄進してあるとも云はれてゐるが、どうやらそれは嘘らしい。元来この山車は頗る風変りに出来てゐて、屋形といひ勾欄といひ、塗といひ、総て他の山車に追従してゐないところを見ると、見送りも始めから着けなんだものだと思ふがどうかナ。」 下「謡曲の海青楽といふのは、俵町でこしらへた独特のものじやさうだの。」 髷「さうじや。このほかに弓八幡、大社、竹生島、春日明神、嵐山、六浦等、竜神に関するものを用ゐてゐるさうじや。」 玉井山車=船町 【二九】 これは善美を尽した踊り山車。下駄八は先づ奉藝の少女の美しさに眩惑して、 下「とても美しいなア。」 と、目尻を下げた。舞臺のバツクには金の唐紙に三蓋松を描き、少女の姿を一入引き立てる。 髷郎兵衛は、頓着せず、例の団子鼻をうごめかして、 髷「この山車は今でこそ優美な踊り山車となつてゐるが、最初は石曳山車と云つて極めて野卑なものじやつた。」 と、見て来たやうな説明をなすこと、斯の如し。 それは昔大垣城が築かれる際、石材を運搬するに人夫のの勢をつけるために使はれた馬鹿囃子をそのまゝ山車に応用したのだといふ。その後宝暦年間各町内の山車新造に際し、船町も謡曲『玉井』により彦火々出見命が御兄火闌降命の釣針を魚にとられ、これを求めんとして竜宮に至り、豊玉姫を娶つて失つた鉤及び潮干の宝玉を得て帰るの様を擬して、命の塑像を始め竜神、豊玉姫、玉依姫、天女等を飾り、 潮満潮干二つの玉を〳〵、釣針に取添へ捧げ申し、舞楽を奏し豊姫玉依、神を返して舞ひ給ふ―― 【三〇】 と、車上の女性が舞ひ出づるいと風雅なものであつたから、竜神山車ともいはれてゐた。然るに文化十二年所謂亥年の大洪水に、山車付属の人形楽器等を流失し、独り彦火々出見命の像のみ残すに到つてから、今までの装置を変更して舞臺を設け、命を第一層の危亭内に静置し、謡曲の替りに浄瑠瑙を用ゐ、専ら踊り山車となつたものである。明治維新の頃までは男児を以て演藝せしめたが、その後あどけない少女をして演ぜしめる事となつた。水引には邯鄲の文織繍を用ゐ、幕は紅羅紗で、見送は竹光一六筆能楽玉の井を下絵としたる綴錦だ。なほ危亭の背後には槍旗と玉旗とを立て、その他掛臺輪及び舞臺前柱の後の金物は名古屋善次郎美国、舞臺下臺輪の飛竜、破風の雲竜の金物は藤次郎定信、舞臺正面の松に鷹、幕押への四君子の金物は江州膳所の住人某の作であり、いづれも頗るこつたものである。 玉井山車 斎藤百竹 皇孫何意娉蛇神。今日音容又写真。 甲媛嬌歌乙姫舞。一時瞞殺満街人。 【三一】 辨財天山車=伝馬町 伝馬町は、辨財天山車又は松竹山車といつて、もとは謡曲竹生島によつてつくられたものである。車上三層の勾欄を設け、第一層には幔亭を置き、中に天女(辨財天)の尊像を安置し、第二層には仕女第三層には祝官が白幣を持つて楽に応じて舞ふ仕掛になつてゐるが、今は竜女変じて白兎となり、餅舂の所作事をして、見物に餅を投げると云ふので有名だ。水引は蛮錦に高橋杏村の近江八景を繍ひ、貫名海屋の八景の詩を添繍し、房は撚糸にて組み上げ、金物は金の『すりはがし』で頗る優美なもの、幕には紅羅紗、見送りは蜀錦繍を用ゐてある。 髷「この山車の水引のいはれを聞かさう。むかし、同町の年寄塩屋鍋田が藩侯の大奥様から金襴の帯を拝領に及んだが、餘りに結構じやつたから、私するも勿体ないと、山車の水引に寄付した所、普通の山車としては少し短かつたので、山を縮めたといふ由緒がある。故にこの山車は細長くて恰好甚だ不均衡であると云ふことじや。其後町内の豪家天宗と云ふ人が、名古屋の伊藤(松坂屋)から豊太閤 【三二】 時代の錦を求めて水引に仕立てたが、これも少々短かゝつたので、それに合はせて山車を改造したとも伝へられる。この水引は古代金襴の茶地に牡丹の花模様を織出し、花間に鶴を配した所より二重鶴と称し、非常に高価のものだつたが、惜しくも震災で焼失した。とにかく昔は掛け替まで持つてゐて、藩公上覧前には掛け替を行つたと云ふ程豪気なものだつたげな。百竹の詩にも、『淡海の仙区世上に知らる、貪り聴く絃索意将に馳せんとす、街頭用ゐず方舟の梶、併せて得たり妙音天女の姿。』とあるのじや。」 下「一時鏡を以て辨財天に代へられた時代があつたじやないか。」 髷「それは明治維新の頃、天女及び仕女の塑像を廃し、更ゆるに神鏡司索命巫女等を以てしたのじやが、又々もとの天女(辨財天)に復し、前山車の御幣振りが兎の餅つきに変つたのじや。」 愛宕山車=岐阜町 一路薫風吹彩旗。朱欄屈曲比丹墀。 【三三】 繁弦急管忽然起。恰是皇軍奏凱時。 これは斎藤百竹が岐阜町山車を歌つた詩である。この非常時日本にふさしはい愛宕山車は、謡曲弓八幡によつて、神功皇后の三韓征伐をあらはしたもので、車上三層の勾欄を設け、第一層には危亭を置き、中に神功皇后の塑像を安置し、第二層には武内宿禰、第三層には蜑女あり、亭後には二旒の彩旗並び立てられ、弓八幡の謡曲がゆるやかに謡ひ始められると同時に、蜑女は立つて踊り、謡ひ半過ぐれば、武内宿禰の舞ひになるのである。宿禰の像は、もとは皇子を抱いてゐたさうであるが、いつの頃からか廃せられてしまつた。 髷「岐阜町は、もと伝馬町に属して独立した町でなく、北伝馬町と称へたが、山車は同町の豪家藤島某と云ふ人が、自分の趣味から私財を抛つて造つたもので、一名藤島山車ともいひ、頗る善美を極め、中町の布袋山車と並び称せられてゐたと云ふ。布袋山車が地震で焼かれてからは、独り岐阜町のみ優美を称せらるゝに至つたのじや。」 下「水引の杏村の鳩についての逸話を聞きたいなア。」 髷「この水引は、蜀錦に高橋杏村が群鳩を描いたのであつた。その後杏村が名古屋の建長寺で鳩の 【三四】 遊んでゐるのを見て、岐阜町山車のために自分が描いた鳩の形に相違あるを発見し、後から書足しをしたので、鳩に班色があるといひ伝へられてゐる。又見送りは白羅紗に仙客竜に乗つて玉児を抱くの図を繍ひ、これも杏村の下絵で、この山車の両袖にその賛がある。 何知忽遇非常用。不把分誠独登夫。 好蔵莫便令人見。恐有癡人似末顛。 下「伝馬町の分家と云ふから、この山車も新しいのじやナ。」 髷「どうして、山車の柱には正徳二年四月新調とあるから、今から二百二十三年前のものじや。」 猩々山車=宮町 宮町山車は、猩々を以て有名である。山車が小さくて後山車がなく、一名重箱山車の譏があるとはいへ、その技藝は他の山車の何れにもおとらないであらうと旧藩時代には盛に謳歌されたさうな。現今は立派に後山車もつき、車上に幔亭を置き、その前に大板床を突出し、その上に大酒壺を置き、猩 【三五】 々はしば〳〵舞ひ、しば〳〵歩んで壺の傍に到り、酒を口にし鯨飲して紅顔に変じ、続いて壺は壊れて牡丹となり、猩々は変じて獅子となり、獅子は咲き誇る牡丹に戯れ、あたりを狂舞しまはる仕掛になつてゐる。 下「飴の中から金太が飛んで出るとは聞いたが、壺の中から獅子が飛び出すとはコリヤ不思議じや。」 髷「桃の中から桃太郎が出るから、壺の中から出たのを獅子太郎とはどうじやい。」 両人は相変らず減らず口をたゝいてゐる。以前は謡曲を使つてゐたやうであるが、現今は歌曲のみで、楽器も以前までは三味線も入つたさうだが、現に使用しつゝあるものは鐘、太鼓、笛等である。 髷「この水引をシツカリ見てくれ。これは弘化四年森寿彦の下絵になる扇面四君子の縫ひ潰しじやぞ。幕には紅羅紗、見送りには黄羅紗に白沢怪を避くるの図を繍つたのを用ゐ、その上に『五言古風短篇』と題して『黄帝東巡の国、白沢克く玄論、賢君俊徳を明らかにし、天祥子孫に降る。』と繍つてある。」 下「白沢とは何じやい。」 髷「わからぬ奴じや。黄帝内伝にいふ神獣の名じやがな。」 【三六】 下「千疋猿といふのはどこにゐるかナ。」 髷「山車の両袖に彫刻してあるのじや。これが実に傑出したものと云ふことじや。」 山車の濫觴 髷郎兵衛、下駄八の両人は、やがて神輿の渡御に供奉しつゝ、市中を浮かれ廻つた。 髷「下駄さん、お前は年若じやから、この機会に大垣まつりの濫觴について語り聞かさうか。」 下「おゝ話しておくれ。」 正保五年、大垣藩主戸田氏鉄公が八幡宮神殿再建のみぎり、十八郷の氏子三社の神輿を寄進し、城下十町は十輌の山車を製して奉曳した。これが今日の大垣祭りの濫觴である。この年始めて祭礼に神輿を渡し奉つたのだ。渡御の道筋は、清水門より七本柳に入り、竹橋から切石、馬場町を経て久瀬川に出で、船町、俵町、竹島、本町を経て高橋侍町を過ぎ、新町天神を御旅所とし、中町から再び名古 【三七】 屋口門に至り、北の冠木門を出で、外側町を経て還御となるので、爾来年々祭礼毎に近国遠近から貴賤老少群をなして来観したものである。当時の行列は、 (一)神楽山―本町―(三)恵比須山―中町―(三)道外山―魚屋町―(四)朝鮮人山―竹島―(五)大黒山―俵町―(六)石曳山―船町―(七)猩々山―伝馬町―(八)吉野山―岐阜町―(九)小船山―新町―(十)三上山―宮町―(十一)神主―騎馬―(十二)神号札一枚(十三)矛二振(十四)表的一双(十五)歩行武者─具足、冑、弓矢、太刀を帯す―一人(十六)両股竹一本(十七)大刀二口(十八)裸馬一匹(十九)鞍馬二匹(二十)獅子首一頭(二十一)具足櫃一荷(二十二)三社神輿―一社毎に三十人にて奉舁す―(二十三)楽器―太鼓二、笛六―八人 十輌の山車は、いづれも曳くもの、操るもの倶に数十人、往来路次舞ひつ歌ひつ囃子頗る賑かだつた。神輿を奉舁するもの及び神器を奉持するものは、いづれも東大寺領十八郷の氏子を以てこれに当てられたこと勿論である。 宝暦元年、城下十町改めて再び山車十輌を製し、藩侯より棚車三輌を奉納せらるゝに当り、更めて行列の序次を定められた。 (一)持簓者三人(二)三道具―鉄扒、長脚鑽、狼牙棒―(三)青柳村長(四)足軽横目三人(五)歩行横目二人(六)神楽山車―本町、中町、新町―(七)相生山車―本町―(八)布袋山車―中町―(九)船山車―新町―(十)大黒山車― 【三八】 魚屋町、竹島町、俵町―(十一)鯰山車―魚屋町―(十二)唐人行山車―竹島―(十三)浦島山車―俵町―(十四)蛭子山車―船町、伝馬町、岐阜町、宮町―(十五)玉井山車―船町―(十六)松竹山車―伝馬町―(十七)愛宕山車―岐阜町―(十八)猩々山車―宮町―(十九)剣鉾(二十)長刀鉾(二十一)榊(二十二)足軽二人(二十三)板的二枚(二十四)鎧武者(二十五)祝官中川氏(二十六)具足櫃(二十七)双生竹(二十八)太刀二口(二十九)賽銭箱(三十)天狗仮面(三十一)木獅子頭(三十二)神馬(三十三)神輿三基(三十四)藤江氏及び十八村長(三十五)十町長(三十六)長鎗二本(三十七)三道具(三十八)歩行横目(三十九)足軽横目(四十)足軽十二人(四十一)持簓者 この行列は、実に明治の初めにまで及んだのである。宝暦年間につくられた山車は、実に各町競つて意匠をこらし、趣向をしらべて、金具、彫刻から水引、幕、見送り等の絵画、刺繍に至るまで、天下の名匠名工に依嘱し、数年或は数十年にして完成したもので、殊に水引、幕、見送りの支那織物に人物花鳥を浮織にしたものなどは、華麗を極め、高尚優雅にして、その結構美妙なることは近国にその比がないと称せられ、祭りの当日は山車の見送りや水引を見るためにわざ〳〵近郷近在から多数の人出があつたのである。尚戸田家七代の明君氏教公は、従来民衆娯楽として一般に優雅な能楽を鼓吹してをられた関係上、山車の囃子には大抵能楽が用ひられてゐて趣味がある所から、四方の人民を誘致し、祭りはこれからだん〳〵と隆盛に向つたと云ふことである。 【三九】 昔、三輌山車だけは八幡社境内に山庫があつて、毎年三月三日の桃の節句には、山庫を開いて三輌山車を番町へ曳き出し、その日から各町内共打囃子や謡曲舞踊の稽古を始めたものである。而して四月九日には『場ならし』といつて、その稽古場へ長い竹の先に白紙の御幣を括りつけた梵天竹と称するものを建て、各山車に飾るべきものを前にすへて神聖なる本稽古をするのである。かうして本稽古がすめば、翌十日は『山車飾り』で、この日山車曳きの人夫が集つて山車を仕組み、同時に各町山庫を開いて、夜中はそれへ引入れるのであるが、魚屋町などは狭い街の中央につくるので全く往来止めの形であつたといふ。十二日には各町夫々山車掛り附添ひ、山車を八幡社へ曳いて神符を受け、山車の屋形に安置してのち各町を廻り、これを普通『町渡し』と称へてゐた。十四日は試楽で、町年寄が山車の支配を司り、各山車整列して先づ本町札の辻前に設けられてゐる町会所へ曳き行き、総年寄の検分を受けて、済めば郭内の町奉行所に至つて更に検分を受け、こゝに明日の晴れの本楽を待つのであるがこれよりさき三輌山の囃しに対しては、特に場ならしの際、町奉行から検分役が出張して、藩主の御前奏楽をなすものに限り、一人々々実地にその腕を検査する例になつてゐたので、此際検査に合格して愈々藩主の御前奏楽をなし得るとなれば、その子の家庭では大いにこれを名誉として前祝ひをやる 【四十】 位だつた。 愈々十五日の本楽となれば、係りの年寄衆は未明から提灯に火をつけ、山車と共に八幡社東の武者溜りに寄り、山車は鳥居前で奉藝して順次清水橋御門に向ふのである。藩主は当日南西の角櫓(現在の鈴木彰氏邸の倉庫の位置)に出張、先づ八幡宮を遥拝して櫓の窓から奉藝を上覧されるので、この時は藩主と雖も容を整へて観覧せられたと云ふから、町人百姓等が敬意を表したことは勿論である。神輿、山車が清水橋を渡つて大垣藩百官の武士に迎へられ乍ら悠々と清水橋御門を入ると、八幡社の境内に安置されてある『武運長久の鐘』がゴーン……とおごそかに鳴り響く。それはお祭りが渡つた知らせで、この鐘が鳴つてからは如何に雨が降らうが雪が降らうが、祭りは延びることはなかつた。だから天候の怪しい時などは容易に門内に曳き入れなかつたのである。又清水橋を入つてからの山車の位置は頗る厳格なもので。川島屋敷前に一輌、御上覧場所一輌、御厩前一輌、柳橋一輌にて、五輌は一定の場所に並列し、藝がすむと順次に竹橋御門へと下つてゆくのであつた。かくて掛藝を畢れば、逐次前記の順路を経て、再び八幡社前へ曳き返すのである。 八幡社東の侍溜に至れば、十三輌の山車が一斉に点燈し『引附け』と称へて各山車神前に曳つけ、 【四一】 各々奉藝して帰途につく。この時神楽、大黒、蛭の三輌山車は、八幡社内の山庫に引入れるため、神前にひき行き、人形の首を明年の番町へ持つて行くのである。 各町曳つけ済となり、各その町に着けば、町内一巡して山庫に入るに先立ち、老松と称する一短曲を奏して名残としたのであつた。 明治五年のことだ。宮町の中島又兵衛と云ふ人が山車の順位改正を企てた。『吾々の山車はナゼ毎年最後に列しなければならぬのか。そんなことを誰が定めたのだ。総ては大垣に存在する平等の山車ではないか』と言つた筆法で猛烈な反対論を吹きかけ、過半数これに和して激論して以来大いに変更されて番町を交代制にし、番町の山車が必ず神楽山車の次に立つことゝなり、祭りの山車に関する総ての事務を毎年番町が交代で取扱ふことになつたのである。この制度が、昭和の今日まで履行せられてゐるのだ。 髷郎兵衛の長談義の終つたころには、各町の山車も大凡曳き別れた。両人は顔見合せ、 「ではこれから家へ帰つて、ゆつくり飲むことにしよう。」 【四二】 昔の神輿は黒塗鉄張り 旧藩時代のお祭りと昭和現代のお祭りとは全く隔世の感がある。十三日には家老の検分を受けることになつてゐたので、この日は未の刻(午後二時)一家老戸田縫殿の為に竹島町の本陣飯沼武右衛門方へ、大高金右衛門、戸田治部左衛門さんの為には本町脇本陣上田九右衛門方へ山車を曳きつけたものである。十四日の試楽には町奉行の検分が行はれ、これより八幡社前で奉藝、武者溜で全部点燈し、夜宮と称し、市中を曳廻る。これにも西廻りと東廻りとあつて、今日の如き簡単なものではなかつた。十五日の本楽には早朝から全部八幡社へ曳きつける。そして鳶口、刺扠(さすまた)、鍵、棙等(もぢり)の七ツ道具を同心がもつて、先駆を承はり、神楽山車を先頭に十三輌の山車が順序正しく清水門から進入して掛藝を藩主の御覧に供したものである。この間町奉行は槍を立てゝ全部出仕、お厩前には馬掛りが出場、町内の重なる人々は礼服(かみしも)で藝の済むまで大地に頭をすりつけて控へてゐたものである。 神輿は元東大寺領だつた十八郷から輿丁が出で、警固の人も十八郷の有力者ものであつた。藩から 【四三】 は同心が出て警衛すること、今日の警察官と変りはない。 昔の神輿は黒塗り鉄張りのお粗末にして頑丈なものだつたが、明治八年に至り今日の金色燦然たるものとなつた。製作所は京都で、主としてこの事に骨折つたのは十八郷中一色の後藤庄兵衛、藤江の藤江半之亟の両人で、自分は当時戸長、第五大区権区長の職にあつて、いさゝか尽力したことを記憶してゐる。神輿の頂きにある鳳凰には、渡御にあたり稲の穂をくはへさせたものだ。この大役を勤めたのが藤江半之亟と定つてゐたが、維新後は神職の手に移つた。藤江氏の遠祖は有名な藤江民部で、藤江町を開拓した豪族だから、八幡社を奈良から勧請について深い関係があつたのである。 神輿の渡御に際し、町家の戸主はその通過の後まで店頭に平伏してゐたものである。平素暴利を貪るやうな悪商人の前では必ず神輿が荒れて、店頭を破壊せられるやうなことが屢々あつた。 そのころ、本楽の日には、何れの家でも臺の上に酒をのせ、何人も飲み放題にしてあつた。平素餘り懇意でない人までが、この日に限つて無礼講で飲み廻つたのだ。尤も当日の御馳走は素麺、金柑、蓴菜の(じゅんさい)三品に限り、皁莢(さいかち)の宮では掛りの人達へ青梅の馳走をするならはしだつた。いづれにしても昔の御馳走は今日と比較にならぬ質素なものであつた。(故鈴木徹翁の話) 【四四】 諸侯と雖通行させぬ 昔の山車の行列は、荘厳を極めたもので、藩主より出された三頭の馬には、各六人の馬丁が揃ひの服装で附添ひ、これが大名行列に用ゐる立傘、臺笠を押し立て、大の馬柄杓をふりかざし『大阪天満のマン中で、傘枕で………』と節面白く歌ひつ舞ひつ先頭に立つて行く。ついで十三輌の山車が曳き出され、最後に神輿の渡御となるのであつた。 本楽の当日は、往還に竹矢来を結び、『替へ道』と称して、仮令諸侯と雖も、脇道を通行せしめる習慣だつた。彼の御三家の一たる紀州侯さへ、祭典当日は通行を許さず。遂に赤坂から墨俣へぬけて通られた事実がある。或時越前侯は、参覲交代のため江戸に向はるゝ途中、この通行止めに逢ひ、疳癪玉を破裂させて、遂に公儀へ持ち出し、為に藩主のお呼び出しとまでなつたが、公儀においては『是非なくお通し申す。』と答へながら、その実決して通行を許さなかつた。 昔から子供達に人気のあるのは魚屋町の鯰山車であつた。だからお祭り近くなると玩具として売出 【四五】 され、大垣祭りを代表したやうな顔をしてゐた。往年藩主が桟敷で上覧の際『鯰は何時押へるか』との御下問があつたので、人形係は突嗟の気転で人形の腰を曲げ、とう〳〵鯰を押へさせてしまつたとの逸話もある。 このほか十箇町の山車と十八郷の神輿とが互に啀み合つた喧嘩の話なども伝はつてゐるが、お祭りに喧嘩でもあるまいからやめて置かう。(故一柳元吉翁の話) 憶ひ起す川祭りの壮観 昔の船町山車は、竜神山車だつたが、文化十二乙亥年の大洪水で、竜神をはじめ、すべての物が流失したとの理由で、今日の如く改まつた。その頃は山車の人形の変更さへも藩主の許可を要したのでそれには何かの理由がなくてはならぬと考へた末、亥年の水で流失したと申立て、遂に変更の許可をうけたものだが、何ぞ知らん流失した筈の竜神は今日でも私方に保管してある。 何と云つても山車の装飾は、今日の金には見積れぬほど善美を尽したもので、殊に彫刻の巧妙に至 【四六】 つては、到底現代美術の及ぶところではないと思ふ。去る明治二十九年の大洪水後、山庫へ泥棒が忍び込んで亀の彫刻を盗み去つたことがあつた。当時巨費を投じて名古屋第一の彫刻師の命じ、これを新しく刻ませたが、到底昔のものとは比較にならぬお粗末さである。先年名古屋『まんも』の主人も、舌を捲いて船町山車の塗りのよいのに驚いた程だつた。 これは五月のお祭りではないが、六月十四五日(七月二十三日に変更されたのは明治二十年頃)住吉さんと愛宕さんとの夏祭りに、船町で盛んな川祭りをやつたことも、忘れ得ぬ思ひ出の一つである。この日船町では水門川の両岸に連串せる提灯を点じ、川山といつて三艘の船山を川に泛べた。これは横町(亀屋町)及び西組、中組において、各意匠を凝らしたもので、西組は猩々、中組は鯰、横町は神楽を出した。愛宕さんの社前にはお物見櫓があつて、戸田伯爵の先々代氏正公夫人善親院さまも特にこゝに出張せられ、多くの侍女にかしづかれて川祭りを御覧になつたのであつた。善親院は有名な薩摩の太守島津重豪公(栄翁)の御息女だつた。 川山には前山と後山とあつて、鯰山は前山で掛藝をなし、その他の山は前山で大人が獅子舞をなし多くの子供がその獅子を捕へ廻ると云ふ珍趣向だつた。その囃しが又頗る面白いものであつた。 【四七】 この川祭りは、明治十年ころから全廃されたが、横町の川山のみは今も住吉さんに保管されてゐる。(故浅田治郎七翁の話) 昭和九年三月廿七日印刷 昭和九年四月三日発行〔非売品〕 著作兼発行者 岐阜県安八郡安井村禾森一八一五ノ一 青山松任 印刷者 岐阜県大垣市郭町一五三番戸 河田貞次郎 印刷所 岐阜県大垣市郭町一五三番戸 西濃印刷株式会社 ―――― 発行所 大垣市外禾森一八一五ノ一(青山松任内) 縦観荘出版部 電話大垣七七五番
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以下は、青山松任『大垣まつりの記』の本文を電子化したものである。 底本としては、美濃民俗文化の会による複製版(昭和42年(1967年)刊)を用いた。なお、その複製版の跋文にある通り、本書は、戦前(昭和9年(1934年)頃か)に青山松任氏が美濃大正新聞上に連載していた文章が、昭和28年(1953年)に小森嘉兵衛氏の筆と川地寿山氏の絵によって集録浄書されたものである。 ※青山松任氏は昭和10年(1935年)ご逝去のため、著作権保護期間は既に満了している。 凡例 電子化にあたっては、誤字脱字や仮名遣い・句読点はそのまま再現したが、変体仮名および漢字は通行の字体に直した(「燈」「臺」「餘」「藝」「辨」を除く)。ただし、促音や拗音を表すのに用いる「っ」「ゃ」等の仮名は、大書きのものも散見するが、ここでは小書きに統一した。また、リーダは点の数や長さが一定しないが、原則として「……」に統一し、特に短いもののみ「…」とした。 本書には美濃民俗文化の会による正誤表が付属する。該当箇所の《 》内には、これに示されている修正後の形を示した。また、この正誤表で指摘されていないものの誤写と考えられる箇所に関しては、必要に応じて【 】内に青山松任氏の原文にあったと推定される形を示した。なお、誤写によって存在しない文字が書かれている場合、これを「〓」とした。 ページの区切りは水平線で示し、底本(袋綴装)に丁番号が付されている場合、これに「表」または「裏」を加えてページごとに【一表】などと示した。なお、挿絵のある丁(挿絵は表面に書かれ、裏側は白紙)など、丁番号のない丁も一部ある。 割注は〈 〉内に示し、割注内の改行は全角スラッシュ(「/」)で示す。 字下げなどの字配りや文字の大きさについては、必ずしも正確に再現していない。 複製版刊行に際する印(扉に「此書複写百五十部/第五拾号」「美濃民俗文化之会印」の押印あり)や挿絵(掲載箇所を【挿絵】で示す)は省略した。 大垣祭りの記 【一表】 大垣祭り はしがき 段々と大垣の五月祭が近よって来た、私は祭りが好きである。 元気な神輿を思ひ、裕長な山車を思ひほの〴〵ともへあがるあこがれの燈籠の火を思ふと、私の若い心はたまらなくなって来る、 祭りは民衆的である山車といひ神輿といひ、厳格なる階級制度の中にあって間歇的に迸り出た平民の自由平等観の表象ではなからうか。神輿は僧侶の政権獲得運動に其の端を発し、山車は祭りを我物にせん 【一裏】 との目識から土分に虐伝《士分に虐待》された城下の平民の間に発達したものである。大垣においても東大寺の寺領であった昔から殊に華美を極めた徳川時代を経て今日に至るまでの長い道程において、氏神八幡神社を中心にした大垣祭りは順次に発展して来た 私は今この伝統的な大垣の祭りを愛する心からいさゝか私が趣味を以て研究した八幡神社や山車の歴史について思ひ浮ぶまゝ、又聞いたまゝを書きつらねてみたいと思ふ。 【二表】 大垣祭り 八幡神社 大垣市の氏神として市民の尊崇深い大垣八幡神社の祭神は応仁天皇でその御神体は天平十五年(紀元一四〇三)東大寺の建立された時宇佐から迎へ奉った八幡を正慶《元弘》(一九九一)建武(一九九六)の年間即ち南北朝時代にこの地へ御移祀したものであるといふ。当時この地は大井庄《大井荘(以下同)》といって東大寺の寺領であった大垣城主歴代記によると、美濃国安八郡大井庄鎮守八幡宮は初は南藤江村の犀角子(サイカチ)の森に奉安し、次で宝徳三年(二一一一)に宮村地内に遷しこの八幡宮を中央に稲荷社を東の社に天神社を西の社として 【二裏】 祀り奉り、別当は牛屋山大日寺遮那院、社家は中川円宮(現社司中川五月氏の先社【先祖】)御朱印十石三斗としるされてゐるが、これ実に足利義政よりの朱印である。この八幡が大井庄へ遷座されたのに就ては種々なる説があるが、伝説によると、昔奈良の東大寺に奉安してあった八幡の御身体《御神体(以下同)》が紛失したことがあった。之をお守りしてゐた社人や社僧は大いに驚いて種々協議の結果兎に角全国的に之を捜索する事となり御身体の形を絹地に模写したのを二十一枚作り一々三尺の錦布に包んで之を二十一人の社僧に持たせて国々へ派遣したのであった其の中の一人は巡り巡って美濃へ出で安八郡に入って其日に室村の某家に宿泊 【三表】 したが、何だか気が変になって眠に落ちることが出来す身悶(ミモダ)へてゐる中に夢か現か目の前に自分の探し求めてゐる八幡神があらはれ給ひ「この土地後々吉事多く、余はこの地に永住するによって其方は早々南都に帰り皆々にさう告げ申せ」との有難い託宣(タクセン)があった社僧は翌朝目覚めて奇異(キイ)な思ひに満たされつゝ東の方藤江村のあたりを眺め渡すと不思議にも大いなる瑞光(ズイコウ)あらはれ我を招くかの如くであるので光を辿(タド)って急いできてみると犀角子の木の下で紛(マガ)ふ方なき八幡の御身体に会ひ奉ったのである、社僧は大いに喜んで、模写の絹画と引くらべてその事実なるを確め模写を捨て三尺の錦布に之を 【三裏】 包んで脊に負ふて勇み南都を差して帰らうとしたが不思議にも目がくらみ足が立たず其処へ打倒れて暫くは人事不省であった。折りしも其処を通り掛った大日寺の和尚に発見され和尚の取扱ひで其の八幡の神託を徳とし、大井庄十八郷の鎮守の神としたといふのが其大体であって、此時用ひられて《用ひられた》三尺の錦布は今でも八幡神社の御身体を奉安する櫃の中にあるといひ伝へられてゐる。 また一説には当時南北朝時代で管轄充分でなかったのを幸に東大寺の寺僧がひそかに大井庄大日寺の和尚に諸式諸共若干の金を以て譲り渡し 【四表】 たものであるといひ昔聖武天皇が宇佐から此の御身体を迎ひに遣はせられた勅使衆のの本造《木造》の彫刻などもその頃共にこの地へ渡されたもので今も尚其の幾つかが現存する筈であると伝へられるが何れにもせよ 南ヶ輪村(後の南頬) 南寺内(後の寺内) 南東前樋口新田(後の福田新田) 江渡(後の江崎) 東高橋、西高橋、三塚、藤江、林本郷、林東村、林中村、貝曽根、高屋、宮牛、室《宮、室、牛屋》(後の西崎)、切石、 等十八ヶ村の多郷から成ってゐる大井庄を統一し、人心を収攬(シウラン)するにはどうしても日本の国体上から神を基準とすべく、神社を建立するに若かすといふ、大日寺の和尚の卓見を持って東大寺に祀ってあった八幡を 【四裏】 御移祀したものであることは確からしい。大井庄はその後 東前枝郷田中、林中村枝郷西村、 室技郷《室枝郷》入方、三塚枝郷入方、 の四ヶ村を加へて二十二郷に膨張し戸数人口の増加と共にだん〳〵説備《設備》もとゝのひ、祭にも《祭も》徐々に盛になって来たものらしいが、慶長五年には関ヶ原戦争で境内を荒され慶長十一年には時の城主石川長門守が、家康の歓心を買はんとして同社に伝はる粟田口吉光の宝刀を江戸へ献上し其他の宝物を私腹に収めるなど一時疲弊(ヒヘイ)の極に対したが、寛永十二年戸田左門氏鉄公着封後は世の中も平和に秩序だって祭式も行はれ、藩主より鳥居、本社、舞殿等 【五表】 を立派に改築さるなど、たちまちにして面目を一新し慶安元年徳川家光将軍よりは改めて御朱印十石を拝領し、明治の御代には県社に指定され以て今日に至ったのである。 現今大垣八幡神社の敷地は約三千坪あり、其中に本殿、幣殿、舞殿、拝殿、神饌殿等型の通り配置され、社頭に聳ゆる高さ約二丈の石の大鳥居には大納言藤原行成郷に《行成卿の》筆になるといふ額を掲げ二の鳥居は木造で高さ二丈巾一丈七尺、拝殿に通ずるに一間巾の石畳を設け拝殿に入らんとする所に石の高麗狗(コマイヌ)二基(ツイ)あり 【五裏】 其前に金森吉次郎氏の奉納になる鉄製の篝火台一対あり、この他に稲荷神社、北野神社両摂社及び旧藩時代特に五穀穣風両《風雨》穏順を祈念する為に迎へた広瀬竜田神社あり、建物としてはお馬屋二棟、神輿庫、社務所等あり県社としてその設備のとゝのってゐることは西濃有数である以上の如く神社の歴史が頗る古く、従ってこゝに縛はる《伝はる》宝物等も立派なものが数限りなくあった筈であるが数度の兵乱兵火で散逸して現存する宝物の主なるものは △縁起書一巻 寛文年間 梶川英盛撰 △大鏡一面 延宝年間 戸田氏鉄公奉納 【六表】 △神号幅一軕【軸】 後陽成天皇御宸筆 △刀 一口 藤原友常作 二尺三寸 △刀 一口 田代兼元作 一尺四寸 △刀大小二口 寛文年間戸田九郎右衛門奉納〈大二尺八寸/小九寸五分〉 △刀 一口 兼光 二尺二寸 △刀 一口 寿命 二尺三寸 濃州清水住 △剣 一口 藤原盛道作 △刀 一口 政俊作 二尺四寸 △刀 一口 吉次作 龍刻む 一尺五寸 △剣 一口 宗次作 八寸五分 明応七年 △鎗 一口 兼房作 一尺 △鎗 一口 長船祐定作 【六裏】 △鎗 一口 藤原貴次作 一尺八寸 △居合刀 一口 勝直作 二尺七寸 △刀 一口 広道作 二尺三寸 △刀 一口 永貞作 二尺三寸 濃州住 △刀 一口 関兼次作 二尺三寸 △剣 一口 奥和泉守秀興作 二尺三寸 薩州 △剣 一口 兼元作 一尺六寸五分 △剣 一口 正直作 二尺二寸 備州住 △大刀作 一口 長船祐之作 △戸田淡路守氏房筆の和歌 等でこの外無名の刀剣数十口甲冑弓等多数あり、古の祭りの餘興に使用せられたといふ大獅師《大獅子》頭及び馬面、馬冑等 【七表】 があるがいづれもその年代や由緒は確かでない而して現今の社司は中川五月氏である。 昭和二十年七月二十 日【二十九日】明方、東亜大戦争の為、米軍の空襲により、全焼せり、終戦後健築【建築】に掛る現在 【七裏】 【八表】 幕末迄の変遷 「武者屯(タマリ)の頭(ホト)り金鐸(キンタク)響き、御弓(オユミ)巷口(コウ〳〵)の石泉は清らかに殿宇翼然として是れ何れの処か松杉高く聳へ《聳え》、鵓鳩(ボツキウ)は鳴く」と詩に歌はれる頃の八幡神社は総てが極く整備したもので神輿もあり祭例【祭礼】また華美をつくしたものであらうが藤江の犀角子の森から宮村へ御移祀した頃の祭りはこのころの小さな村の祭にみるやうな極めて簡単なもので、その祭りの月も卯月の中卯月【中卯日】に行ふことになってゐたといふ。而して当時は鎌倉時代の餘習をうけて流(ヤリ)《流(ヤブ)》鏑馬(サメ)などか《などが》しきりに行はれた、その後卯月十四日十五日両日が祭典日に決定され八幡、稲荷、北野 【八裏】 三社の神輿を仮造して十八郷の氏子が其れを舁(カツ)き《舁ぎ》、獅子を舞ひ本楽の日には大将に扮し甲冑に身を固めた武者に続いて打物、神器、宝物等を捧持した数十人が麻上下帯刀で扈従(コジ)《従(ジュウ)》し村々を行列して練り廻ったそうであるが、戸田氏鉄公が大垣へ入国されてからは市街も整頓し正保五年(二三〇八)には三社の神輿が新調され延宝七年(二三三九)には藩主から神楽、大黒、恵比須の三輌軕を大垣十町に下賜され十町又夫々種々なる屋形車、渡り物を作り列をして清水門(現今の清水橋東)から七本柳(現今大橋別邸の南)に入り竹橋から切石馬場の町を久瀬川に出で船町俵町竹島町本町を経て伝馬町より高橋町(今の東長町)を通り新町天神を御旅所(昼の休憩所) 【九表】 として中町より再び名古屋口御門(現今柳原内田水車前)に至り北の冠門(赤坂口で外側町の東端)を出て八幡へ還るので延宝年中における或年の記録によるとその順序は 神楽軕(本町) 恵比須軕(中町) 道外坊《道外軕》(魚屋町) 朝鮮人軕(竹島町) 大黒軕(俵町) 石曳軕(船町) 猩々軕(伝馬町) 吉野軕(岐阜町) 小船軕(新町) 三上軕(宮町) 右の如く何れも綱引くもの操(アヤツ)るもの、歌をうたふもの舞をまふもの等数十人宛あり、続いて 騎馬の神主三方(御供各札一枚に神号を書記して持つ) 予《矛》二振(何れも吹貫附して枠の台に立て十人宛して各別に荷ふ) 【九裏】 板的二枚(二人して別に持つ) 歩行武者一人(具足冑弓矢太刀刀を帯す) 二股竹(一人して持つ) 御太刀二腰(二人して別に持つ) 裸馬一匹鞍置馬二匹(御城より出る) 獅子一頭(五人してあやつる) 具足櫃一荷(二人して舁ぐ) 三社神輿(一社に三十人合せて九十人各別に舁ぐ) 楽人(八人中太鼓二人笛六人) 等で、これが現在行はれてゐる祭りの儀式のもとなし《もとをなし》てゐるのである。 其後幾年かを経て藩主氏教公が御老中を勤め 【十表】 てゐたころである。流石は名君であった、祭りを盛んならしめることは庶民を喜ばせることだ而して庶民をして大垣の藩政を謳歌(オウカ)させるには第一番に庶民の最も熱中する祭りに大いに威厳をもたせるがよからうといふ見地から、神輿に数千の足軽をつけ、神馬に馬具足をつけ警備として町同心を山車の行列の先頭に立たせ、本楽当日は政務を廃すると同時に各町に布令して諸大名の宿泊伝馬継立を禁ずることゝなったので、町民の喜びは如何ばかりであったであらうか十町内は此年総町寄りの大会を開いて、各々永久的の山車を造ることを申合せて藩主に之を上申し、藩主又喜んでこれを許可して此処に各町は競ふて意匠をこ 【十裏】 らし、趣向を調べて、金具、木等の彫刻、水引、幕見送り等の絵画、刺繍等を天下の名手名工に依頼し数年或は数十年にして出来上ったものが 本町 相生山車、中町 布袋山車 新町 船山車《小船山車》、魚屋町 鯰山車 竹島町 朝鮮王山車、俵町 浦島山車 船町 玉井山車、伝馬町 松竹山車 岐阜町 愛宕山車、宮町 猩々山車 等で、殊に水引や、幕や、見送りの支那織物に人物花鳥を浮織りにしたものなどは華麗なもので、就中山車の見送りなどは最も高尚優雅を極め、その結構の美妙なることは近国にその比がないと称せられ、 【十一表】 祭りの当日は山車山車の見送りや水引を見るためにわざ〳〵近郷近在から多数の人出があり尚氏教公が従来民衆娯楽として一般に優雅な能楽を鼓吹してをられた関係上山車の曲藝には大抵能楽が用ひられてゐる趣味がある所から、四方の人民を誘致して祭りはこれからだん〳〵と隆盛に向ったのである。 新緑鵑声(けんせう)乾坤を詩化するといふが。実際八幡社の祭典はいゝものである、音曲がくずれ、儀式か《儀式が》すたれたといはれる今日でさへ、吾々はしかくもゆかしさ懐かしさを感ずるのであるが、その最も華美荘厳を極めたといふ幕末の祭典の具合はどうであっただらうか、昔し三輌山だけは八幡社の境内に山車庫があって、三月三日の 【十一裏】 桃の節句には山車庫を開いて三輌山を当番町へ曳き出し、その日から各町内共打囃子や謡曲舞踊の稽古を始めたものである、而して四月九日には場ならしといって、その稽古場へ長い竹の先に白紙の御幣を括りつけた梵天竹と称するものを建て、各山車に飾るべきものを前にすへて神聖なる本稽古をするのである、かうして本稽古がすめば、翌十日は山車飾りで、この日軕曳きの人夫が集って山車を仕組み、同時に各町山車庫を臨設し、夜中はそれへ引入れるのであるが、老人の話によると魚屋町などは狭い街道の中央につくるので全く往来止めの形であったといふ十二日には各町夫々山車掛り附添ひ山車を八幡社へ曳いて神符を受け、山車 【十二表】 の屋形に安置してのち各町を廻り、これを普通町渡しと称へてゐる十四日は試楽とて町年寄りが山車の支配を司り各山車整列して先づ本町札の辻前に設けられてゐる町会所へ曳き行き、総年寄りの検分を受けて済めば郭内の町奉行所に至って更に検分を受け、こゝに明日の晴れの本楽を待つのであるが、これよりさき三輌山の囃しに対しては特に場ならしの際、町奉行から検分役が出張して、藩主の御前奏楽をなすものに限り一人々々実地にその腕を検査する例になってゐるが、この際検査に通過して愈々藩主の御前奏楽をなし得るとなればその子の家庭では大いにこれを名誉なりとして前祝いをやる位であるといふ。 【十二裏】 愈々祭典当日となれば山車係りの年寄り衆は未明から山車と共に八幡社東の武者溜りに寄り山車は鳥居前で奉藝して順次清水橋御門に向ふのである。 藩主は当日南西の角櫓(現在の鈴木彰氏邸の倉庫の位置)に出張先づ八幡宮を遥拝して櫓の窓から掛け藝を上覧されるので、この時は藩主と雖も容を整へて観覧せられたとかいふから町人百姓が敬意を払ったのは無理もないことである、神楽山《神楽山車(以下準ズ)》が清水橋を渡って大垣藩百官の武士に迎へられながらしず〳〵と清水御門を入ると、八幡社の境内に安置されてある「武運長久の鐘」がゴーン……とおごそかに鳴り響くそれはお祭りが渡ったしらせで、この鐘が鳴ってからは如何に雨が降ら 【十三表】 うが、雪が降らうが、祭りは延びることはないとされてゐる。清水橋から七本柳へ入る川島屋敷前には総年寄りが差扣へ、御鳥屋敷南には町奉行、御厩屋(ウマヤ)前には御馬奉行がいかめしく警固してゐる藩主は濠越(ホリコシ)しに山車の懸藝を上覧されるのであるが、その濠の中には目標として笹竹が建てられてゐるので夫れに依つて山車の位置を定めるので藩主の御前における山車の行動に【行動は】総て役人が扇子を持ってする指揮に従うものであって、殿の御前で懸藝をしてゐる間その山車附添の山車係り数十人は山車の前に土下座《中腰遵居》して藝の済むまで平伏叩頭(タトウ)【叩頭(コウトウ)】する例になってゐて山車が御前を下る時は山車を前に傾けて勢よく三度廻転して走り曳きする又清水橋を入ってからの 【十三裏】 山車の位置は頗る厳格なもので川島屋敷前に一輌御鳥屋敷前に一輌、御上覧場所一輌、御厩前一輌、柳橋一輌にて五輌は一定の場所に並列(ヘイレツ)し藝がすむと順次に竹橋御門へと下ってゆく、尚この荘厳を極めた幕末における祭礼の儀式に就て詳しく調べてみると、神楽山に先立って藩主からの命で先払ひの任に当るべく横目一文字笠を戴いて黒紋附の羽織袴で二人の武士が五色の布を巻いた竹の技《竹の杖》をついて前駆し、彫《簓》を持つ二人、突捧【突棒】の二人指俣と柱(モノリ)《指扠と捩》【刺股と捩(モヂリ)】の二人之に次ぎ九等四番席格の御役人が二人、引手十七人宛二組列をなして前衛を警固し、神楽山車に続いてその他の山車型の如くつらなり、最後の猩々山車の後には御先払として 【十四表】 九等四番席格の御役人が一人、御行列の御神馬二頭(裸馬)二人の仲間に口取られて続き、その傍に立大笠を押(オ)し立て大きな馬柄(イ)《柄(ヒ)》杓(シャク)を振り翳(カザ)した仲間あり、その次には飾り頬面即ち蛇の面を冠(カブ)った仲間が口取った殿様の御馬一匹(鞍置)が続き 御先払の御役人が一人、続いて馬一匹、銀予【矛】、長刀、御榊 歩行武者、御具足櫃一荷、御獅子頭御先払、役人一人 而して神輿は十八郷の村民名主等之を守護して勇ましく舁(カツ)ぎまわり、不破郡青柳町(今の南杭瀬村青柳)からは奉楽員を出し、又十ヶ町・山車に供奉してきらびやかに町中を練りまわるのであるが、藩主の御前では殊に御神馬の前に立った仲間が、馬柄杓を振り翳しつゝ 【十四裏】 足で自分の尻をびた〳〵と打ちながら、声明らかに「大阪天満の真ん中で傘枕で……」と馬柄杓歌を唄ひながら面白く舞踊するがその様は実に面白いもので、馬柄杓歌には尚もう一つ「姉さんよ 原【吉原】はへたかへはへたもはへたも……」といふのがある、 而して此馬柄杓取りは当時東田町と西田町にあった大部屋の仲間が勤めることになってゐて祭礼の二十日程前から盛んに稽古したものであるといふ。 【十五表】 大垣祭り 山車の順序 高砂に始まって猩々に終る大垣祭りの山車の古の順序はよく考った【考へた】ものであった神聖にして犯すべからざる皇祖天照大神を祀った神楽軕を先頭に謡曲高砂を用ひる本町の相生山車、謡曲加茂を用ひる中町の布袋山車、院曲で種々なる舞踊をなす新町の小船山車、老翁が面白い囃しにつれて鯰押へに腐心する魚屋町の道外坊勇壮な韓人の行列に模した竹島の朝鮮王山車、謡曲浦島にかたどった俵町の浦島山車、謡曲玉の井に飾付をした船町の玉の井山車、謡曲竹生島によった伝馬町の松竹山車、謡曲弓八幡を用ひたる岐阜町の 【十五裏】 愛宕山車、最后に目出度い謡曲猩々を歌ふ宮町の猩々山車、等の順序で大黒山車と恵比寿山車は之を引受けた番町の本山車の先に立つのが例であった、その町分けは大黒山車は俵町、竹島町、魚屋町の三ヶ町、恵比寿山車は岐阜町、伝馬町、宮町、船町の四ヶ町である、神楽山車は中町、本町、新町が交代で之を引受けるが、其の引受けた町の如何にかゝわらず真先に立つ例になってゐて現在尚実行されつゝあるのであるがその他の順序は明治五、六年ころの或る総町寄りの時に何故吾々の山車は年百年中、最后に列せなければならぬのかそんなことを誰が定めたのだ総ては大垣に存在する平等の山車でないかなどゝ宮町側から従来の 【十六表】 山車の順序に対する猛烈な反対が出て各町内これに和して激論して以来大いに変更されて番町を交代制にし番町の山車が必ず神楽山の次に立つことゝなり、祭りの山車に関する総ての事務を毎年番町が交代で取扱ふことになったのである 【挿絵】 神楽山車 【十七表】 神楽山車 「白布の𥘼【衫】児あいしばしば袚【祓】除し、貂蠑(セウエイ)【貂蝉(テウセン)】冠女(カンジョ)交互に舞ふ、忽ち忘る四月清和の日、呼びなす開昏天地の初め」これは旧藩主戸田氏鉄公が摂州尼ヶ崎から大垣へ御移封される時に彼の地から大垣十ヶ町へ土産に下しおかれた三輌山車の一つである神楽山車を歌った幕末の詩人斎藤百竹の詩であるが神楽山車は一名、市山車ともいひ山上天照大神の祠(ハラ)【祠(ホコラ)】を安置しその前に赤い丈長をつけ島田髷に結(ユ)った天の鈿女命と赮(アカ)ら顔の馬鹿(バカ)に鼻の高い猿田彦命を静置し、一番前には青装束で鈴と扇とを振って神楽を舞ふ少女と白装束で七五三の竹を振りながら…チャンチャンチキ……の囃子(ハヤシ)につれて湯の花をあげる 【十七裏】 山武士とが飾られてる【飾られてゐる】神楽山車は一般に天の岩戸をかたどったものだと伝へられてゐるが、天の岩戸へ天照大神がかくれましましたときだとすると天の鈿女命が舞はねばならぬ筈だし、又猿田彦の命もゐない筈だから。これは蓋し孫(ソ)【孫(マゴ)】瓊々杵尊(ニヽギノミコト)が天祖の御神勅を奉じて豊葦原瑞穂国(トヨアシハラミツホノクニ)へ御降臨ましまさんとするとき国神である猿田彦の命がこれを待ち奉ってゐる所で即ち統治者に対する服従の意義を現はしたもので、 古事記にも 瓊々杵の尊が今、正に天降らうとし給ふ時天の八衢にゐて上は高天原タカマガハラを照し下は葦原の中国を照す大神ありこれ即ち天照大神で大神は葦 【十八表】 原の中国の一角に当って怪しきものあるを発見し天の鈿女の命に詔して往きて問はしめ給ふに、怪しきもの答へて曰く「我は国神で名は猿田彦といひ天神の御子天降りたまふにより御前に仕へ奉らんとお待ち申してゐるのである」といふ 意味の一節があり、多分之によったもので一面猿田彦の命は天孫の御案内役を仕った命であるからこの山車行列の案内として先頭に立つことゝなってゐるのであらうとも解釈せられる、又この山車を別名市山車といわれだしたのはずっと以前のことで社司中川左門氏に市子さんといふ容貌の頗る美しい娘さんがあって、祭典毎に八幡社で神楽を舞ったので城下及び近郷の住民にもてはやされ「神楽を舞ふ」こと 【十八裏】 を通称「市を舞ふ」といわれるやうになり、神前ばかりでなく神楽山車にさへこの名称が用ひられるに至ったのであるといふ。 大黒山車 【挿絵】 昭和十七年八月一日 大東亜戦争勃発し 昭和二十七(十)年八月十五日 終戦の勅語下る(敗戦) 昭和二十年七月二十九日払暁(三時頃) 米空軍の空襲により名残惜しや焼失す 其後昭和二十四五年頃新調す 【十九表】 大黒山車 大黒さんは福の神である。あのいつもにこ〳〵とした顔、誰のためにも振ることを惜しまないといふ様なあんばいで右手に持った宝槌左の肩にした福袋、それは誰しもなつかしみを感ずる福の神の象徴であるが、殊にお祭りうち山車に飾られた大きな大黒さんが大勢の子供達によって引きまはされてゐるのをみると故もなくクリスマスのサンタクロウスと比較して見るなどして何ともいへぬ好い感じを抱(イダ)かせられる。明治の初年神仏混淆のやかましくいはれた時分、一時大黒の槌の更りに剣を持たされたことがある。 それは大黒さんが元来大黒天と称して仏教の守護神である所からで剣を持たせても支障ない理由もあった、詳しく説明すると大黒天は梵 【十九裏】 語で摩訶迦羅(マカカラ)といひ、訳して大黒又は大闇夜(エンヤ)【闇夜(アンヤ)】とし初めは闘戦の神であったが、その後幾多の変遷を経て主福神として崇拝せらるゝに到ったもので、大自在天の化身ともいひ又は堅牢(カンロウ)【堅牢(ケンロウ)】地神の化身であるともいふ。この大黒天が我が国に伝来したのはいつ頃であらうか、年代は確りとは分らぬけれども、恐らくは平安朝の初期において密教と共に渡来したのであらう。而して神仏同体を論せられるに当ってわが国の大国主命の訛伝(ケデン)【訛伝(カデン)】するに至ったのである。 古事記に徴してみても大国主の命(一名大己貴の命)稲羽の気多前に到り給へる時袋を負ひ給へり、とあって大国の音が大黒に通じ大己貴の音亦大黒に近いのでこれを混同したものであらう。 【二十表】 現今日本では七福神の一にかぞへこれを崇拝し、殊に恵比須さんと相並んで戸毎に祀り福徳円満を祈願してゐるがその形像は頭巾を冠り、狩衣及び袴を着けて足下に米俵を踏み槌と袋をもってゐるのが例である。老人の口碑によると昔の大黒山車を引受けた町は一切鼠を殺生せぬといふ。習慣があったさうであるが、それは恐らく古事記に出てゐる大国主命の事跡によって鼠は命の使獣であるとの見解からいひだされたものであらう又以前までは大黒さんの腰が三年に一度づゝぬけるといって魚屋町が大黒山車を引受ける番になって子供がないのと費用に困窮する為に町内に飾っておくだけでよう曳(ヒ)き出さぬのを悪口いったものだが、近年になってからは三輌山車に元気がなうては大垣の名折れになるとて、殊に皆が骨折るやうに 【二十裏】 なった。 百竹の狂詩に面白いのがある。 現れ来る市井作遷【作銭】の神 天井豈に応化の身なからんや、 世間僭窃す君の名字、漫りに称す僧房枕席の人… … 而して現在囃には笛・太鼓・鐘等を用ひ、その歌には「なたね」「たんだ」「えすえす」「やまと」「大黒」「帰り山車」「おかゞりこぼし」「おわかれ」等があるがその歌詞の完全に伝ってゐることの極めて少いのは遺憾である。 大黒山車 追加之部 恵比寿軕 【挿絵】 【二十一表】 恵比須山車 恵比須さんが大黒さんと共に福の神であることはいふまでもない。然し祭りに引出す山車の上で大黒さんは塗りほどこして綺麗な顔をしてござるにも不枹【不拘】、恵比須さんの、はげ〴〵【はげ〳〵】であるのはどうして【どうした】訳であらうか。口碑(コウヒ)によると、両者とも左甚五郎の作で塗師が手を触れやうとすると大黒さんは水を吹き恵比須さんは火を吹くので火を吹いた恵比須さんには恐れをいだいてそのまゝ現在に及んでゐるのだといふが真偽の程はわからない。又この恵比須さんを山車に祀るに就て藩主が摂津へ御祈願の使を出されたといふ古い話が残ってゐるがそれは摂津の広田神社に併置されてゐる夷子神社ではあるまいか広田神社内には夷子神社を祀って宮が二社あって一は西宮 【二十一裏】 といひ別に夷宮又は西宮夷等と称し祭神は蛭子神(ヒルコジン)、一は南の宮又は奥夷の宮といひ祭神は夷三郎と称してゐる中世以降夷子神を福徳の神と称へ諸人に財福を与へ給ふ神として世の尊敬厚くことに商家は何れも大黒神と並びまつるのはどうした由縁(ユエン)であらうか一説に夷子神とは蛭子命である日本書紀に「伊弉諸尊(イザナキノミコト)【伊弉諾尊(イザナギノミコト)】伊弉冊(イザナキミノ)【伊弉冊(イザナミノ)】尊夫婦となり蛭児生る、既に三才になるといへども脚(アシ)、猶立たず、故にこれを天の磐橡樟(イハクイネ)船【磐櫲樟船(イハクスフネ)】に載せ風にまかせて放棄す」とあり此船が西宮の社下蛭子浦に止りこの浦に謫居(テキキョ)【謫居(タクキョ)】して漁夫となり、里人は尊を夷三郎と呼びその何処か常人と異【異なり】貴品【気品】福徳あるを慕って尊没後神として祠に祀ったので祭神を夷子三郎といふのであるとか。又一説に福神としての恵比須は大国主尊の子 【二十二表】 事代主命であって尊は出雲の国三穂崎に遊び日々海浜に出で釣魚を楽しみにしておられた大国主命及事代主尊は日本最初の国神で福徳の神であるから一は大国といひ一は恵比須と称して諸人これを祭り、福徳神とするのであらうと。蓋し藩主が神楽山車にこの二福神を加へたのは城下の市民に対してその服従を迫ると同時に庶民の福利を増進する善政を敷くの意を遇したものであらう「ゑびす」は「ゑみす」に通じ容顔莞爾(カンジ)として常に笑をふくんでゐるの意である。といって次の様な詩を賦してゐる。 「両脚伸びす三歳の童、孤島に謫居して漁翁となる、釣って紅 (コウソウ)【紅鬃(コウソウ)】を得てより、誤って落つ市喧塵綱【塵網】の中」「僅かに竹竿並びに竹籃を得て、皇宮を遁れ去り釣真【釣魚】に耽(フケ)る嘗て 【二十二裏】 攪乱(カクラン)せず蒼生の意、風致誰か知らん瞿曇(グドン)に勝るを……」山上容顔寛爾(カンジ)【莞爾(カンジ)】たる一翁は左手に紅い鯛をかゝへ右手に釣竿を持ち岩の前に腰かけてゐる。囃には笛、太鼓、鐘等を用ひ、歌には「松づくし」「花づくし」「水づくし」「伊勢まいり」「車かへし」「岡崎」「道行き」等がある。 【挿絵】 相生山車 本町 【二十三表】 相生山車 本町 本町山車は謡曲「高砂」を用ひてあるので一名「相生山車」ともいふ高砂は古今集の序(ジョ)に「高砂住の江の松も相生のやうに覚え」とあるのに基いて、高砂住吉の松の精が現れ、松の謂(ユワ)れを述べ、和歌の道を語り、遂に住吉明神出現して神人和合し、君を祝ひ、国を祝ふ目出度い祝言の曲である。山上には三層の勾欄(コウラン)を設けて、第一層には幔亭(マンテイ)があり正面に樹の老松が象徴的に装置されてその樹の下には翁媼(オウ〳〵)が箕箒(キシュ)【箕箒(キシウ)】を持って立ち第二層には唐冠(トウカン)束帯(ソクタイ)して笏(シャク)を持した住吉大神が起舞し第三層には鳥帽(チョウボウ)【烏帽(ウボウ)】緑袍(リョクホウ)の阿蘇(アソ)の祝官友成があり、祝官は即ち変じて一楼船となり、帆を張って上下し波濤の状 【二十三裏】 をする仕掛けになってゐる即ち始めは 「今を始めの旅衣〳〵日もゆくすえぞ久しき。そも〳〵是れは九州肥後の国阿蘇アソの宮の神主友成とは我がことなり我末だ《我未だ》都を見ず思ふほどに、この度おもひたち都に上り候、又よき次なれば播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候」…… と友成が九州からはるばると播州へやって来た所である。而して摂津の国住吉の老翁と、播州高砂の老媼からなってゐるといふ不思議な夫婦に会い色々の物語りをしてゐる中に時が来て老翁が海人(アマ)の小舟で住吉へ替える所を祝官を楼船に変ぜしめて現はしたもので、 「高砂や此浦船に帆をあげて〳〵、月もろともに出でしをの波の淡路アワジの島陰や」……と歌ふ謡曲につれて山上に揺れ 【二十四表】 動く楼船の微妙(ビメウ)な感じはなんともいへぬよいものである。百竹の詩にも「整(トヽノ)ひ成す烏帽(エボウ)【烏帽(ウボウ)】緑藍(リョククヮン)【緑藍(リョクラン)】の衫(キン)【衫(サン)】、晋笏(シンコツ)容顔自ら凡(ボン)ならす何物の仙官ぞ腹(ハラ)海(ウミ)の如し、浮び来る楼艦忽ちに帆を張る」「一片の蒲帆(ボハン)両客艘(リョウキャクソウ)、月光州影蓬窓(ホウソウ)に入る、遙々(ヨウ〳〵)海路須臾(スユ)の事風は春潮を趁(オ)ふて墨江に到る」。此の山車の水引は蜀江錦(ショクコウキン)に西園雅集(セイエンガシウ)の図を刺繍(シシュウ)したもので其構図は古京都の公卿(クゲ)九条家に伝はる有名な屏風から得た精巧なもので、幕には紅羅紗に十二支を繍したのを用ひ、見送りは「高砂」にかたどって老松(ロウショウ)に翁媼一人を織り出し其技術においてその色彩において十ヶ町中最も優れたものといはれてゐる。 【二十四裏】 旭山車 中町 【挿絵】 【二十五表】 旭山車又は布袋山車 中町 中町山車は「布袋山車」又は「旭山車」といひ古来謡曲「加茂」によった山車として謡ひの声のよいことゝともに山車の設備も可なり立派なものであったが三十四年《二十四年》の濃尾の大地震の折に焼失してその後町内一致共力してその再調に腐心し 《明治卅五》年漸くその塗りを完備したのであるから、その用材に於て細工に於て、其他一般他に勝るといふところのないことは止むを得ないことで車上《軕上》には三層の勾欄を設け、第一層には加茂明神、室明神の神職、神女侍女等を飾ってゐるが老人の話によるともとまではこんな飾りではなかったといふ百竹の詩にも「弥勒(ミロク)今(イマ)布嚢(フノウ)に生れ、禅房を出で得(エ)で【得(エ)て】 【二十五裏】 胡床(コセウ)に踞(キョ)す風狂(フウキョウ)亦復(マタマタ)何事をか成す、只これ嬰児(エイジ)百戯場(ギジョウ)とあって第二層には唐服の女子が扇を握って榻(トス)【榻(トウ)】に登り身をさかさまにして峙立(ジリツ)し或は戯れ、或は舞ひ、第三層には紅装束の少女が頭に金扇を載き《戴き》しば〳〵舞ふて宛転しその様は非常に一般から興がられたといふ。一体布袋さんは七福神の一つであることは勿論であるが布袋和尚は支那梁代(レウダイ)の散聖(サンセイ)で弥勒(ミロク)の化身であり、十六の群童之に付随するといふ故事から、前記の戯児を持って来たもので、祭りが一の散事である所から散聖を奉安した布袋山車は十輌の山車中主き【重き】をなして第二位を占めたのであらう。然し明治維新当時神仏混滑《混淆》が宜しくとがめらるゝやうになったので一時僧形である布袋を廃して玉串榊その後なほ布袋に随ってゐた童子も亦加茂明神及び随臣祝官 【二十六表】 に改作し名を旭山車と改めたもので之を歌った狂詩に面白いのがある、「教主何の心ぞ兜率(カソツ)【兜率(トソツ)】に回(カヘ)りて僅かに留む遊戯(ユウギ)の両嬌児(リョウキョウジ)恨殺(コンサツ)す膨淳(ボウコウ)【膨脝(ボウコウ)】一皮袋、充(ミ)たす今世(コンセイ)ほとんど寒飢(カンキ)す」…かくの如く一時布袋を廃して旭山車としたものゝこれではこの山車の生命がないといふ所から以前の如く布袋を危亭に安置することゝなって現在に及んだのである山車創建以来本町山車と並び称せられた中町山車の水引…蛮錦に桃源(トウゲン)図を繍ったもの…を始めをして、黒羅紗に怪巌蹲虎の図を刺繍した見送り、後山車に厳然と峙立の形にあった竜頭の彫刻等は頗る見事なものであったが三十四年《二十四年》の大火災に焼失したのは惜しいことで現在之に模して総てを飾りつゝあるが軽薄な感じが与へないので同町内では山車の塗りを終ると同時にこの方面 【二十六裏】 にも着手せねばならぬといはれてゐる。 天神山車 新町 【挿絵】 【二十七表】 天神山車 新町 嵐の山の花ざかり、竜頭蠲首【鷁首】の船に乗り、詩歌、管絃の宴たけなはなり、と太平記にもあるが、京における公卿殿上人の専用の如くにして、諸大名さへ遠慮して餘り使はなかった竜頭の宴船を山車に模した新町の小船山車は大垣の祭りに於ける一の誇りであった小船山車とはいへ、船首(トモ)から船尾(ヘサキ)まで約五間の長さを有し、名工の手になる竜頭厳めしく船首に飾られ、舞台があり屋形があり、勾欄が設けられ、紅羅紗の幕には蝦蟇(ガマ)、鉄拐(テッカイ)両仙人を刺繍し、その中に垂れ下る縦二尺、横九尺の水引には梁川星巌が蝦蟇仙人を賦した「宝鏡新たに開 【二十七裏】 いて丹桂(タンケイ)香(カン)ばし、蝦蟇意を得て正に跳梁し一条の霊気天地を串き散じて金華万道の光となる…」の詩及び鉄拐仙人を賦したところの「般精(ハンセイ)運気(ウンキ)化(カ)して神となる身外身あり千億(オク)の身、鉄拐の木瓢(モクヘウ)皆(スベ)て幼用【幻相】にして知らず孰れか是れ本来の真」… といふ二つの詩を隷書(レイショ)で書き、見送りには雌雄二匹の麝香猫(ジャコウネコ)を織り出し目は宝玉を用ひて色彩華麗に、飾弓彩旗等華々しく立て並べられ三つの車輪を用ひて曳(ヒ)き歩く度毎に船が浪に漂ふ如く揺(ユ)れ動くも面白く、浄瑠璃によって種々なる舞踊が演ぜられたもので、百竹は 雲白く風は薫りて霽色開く、四街混コン々として黄塵漲る、 木蘭船上西施出で匹似す呉王ゴオウの暑を避けて来たるに… 【二十八表】 と歌ってその舞台に舞い出た舞妓の美を設き【説き】、又 楼船を製造ツクるの様又奇にして、蝦蟇鉄拐を紅惟【紅帷】に繍子【繍ふ】、 市人ただ〳〵形容の美を説き、梁翁二首の詩を道エ【道イ】はず… とて其船山車の奇観を賞讃してゐる、然し、かく賞讃された小船山車も明治二十四年の大地震及火災にかゝって烏有(ウユウ)に期(キ)【帰(キ)】してからは其の影だに見る由なく、現今は菅原山車と称し、同町の氏神が天神さんである所から第一層には同社の御霊を祀り、第二層には唐人(トウジン)一人、第三層には採振(サイフリ)【采振(ザイフリ)】を装置し、第二層の唐子は手習の意味で文字を書く芸当をして観衆を慰めてゐる。水引は白地に龍の天上する図で戸田氏貞氏の下絵なるもの幕には紅羅紗を用ひ、見送りは大橋翠石氏の墨絵になる虎であるが、町内の一部には山車の名に因(チナ)んで有 【二十八表】 名な菅原道真公の歌である『東(ア)《東(コ)》風(チ)吹(フ)かば香(ニホヒ)よ《香お》こせよ梅の花主(アルジ)なきとも《なしとも》春を忘れな《春な忘れそ》』に改めれば興味深いものになるといふ者もあるが面白い意見である。 鯰山車 魚屋町 【挿絵】 【二十九表】 鯰山車 魚屋町 「大垣祭りに奇抜なるものが二つある。一は魚屋の鯰山車に一は竹島の朝鮮山車」と旧藩時代から市民を始め近郷近在の人々にもてはやされた鯰山車は山上《軕上》 層【一層】の勾欄を設けて中に幔亭を置き、前に大きな板床を出し床上一人の老翁が金色燦然たる大瓢を両手に振りかざし「ハアーハアー押へたかチガタカチン」といふ面白い囃しに連れて目前の鯰を押へるのに腐心する仕組みになってゐてまことに奇抜なものに相違ない、聞く所によればこの鯰を押へんと努力する老人(一名道外坊)は彼の北条時頼に用ひられて引衆《引付衆》となった剛直清簾《清廉》の聞へ 【二十九裏】 高い青砥(アホト)藤綱(アヂツナ)【藤綱(フヂツナ)】をかたどったもので時勢の変遷と共に従来の如く重箱主義のやり方から脱して臨機応変たらんことを遇意【寓意】し暗に因習的な藩庁の役人を嘲弄(チョウロウ)したのであるといふが、実際当時魚屋町の魚商人が如何に覇気(ハキ)があったがしのばれて痛快である、又祭典における届けにおいても、他の町内が各夫々謡曲の題名や、院曲の題を几帳面(キチョウメン)に届け出でるに引かへ魚屋町はたゞ (町は御代も豊かに親父オヤジ鯰を押へ申し候。魚屋町年行事。寺社奉行御中。) と破格な届を年々経続《継続》して知らぬ顔をしてゐたものだそうな、水引には蛮錦に有虞十二章(日、月、星、山、龍、雉(キジ)、虎、藻、火、粉、米、斧(オノ)等つ【)】を刺繍したのを用ひ、幕には紅羅 【三十表】 紗に水雲双竜を繍ひ、見送りは白羅紗に金幣を刺繍したもので、現在使用してゐる見送りは「明治二十年頃金森吉次郎氏の寄進になる物であるといふ。」 百竹は「魚を打つに何ぞ必ず精神を損せん、撚断す霜髭自ら養真、只酒瓢を愛することよく絶大にして、風流甚だ似たり直釣《直鉤》の人……と誦(ヨ)み、或ひは、此叟何ぞ曽て許由に学ぶ紅巾翠袴風流を儘(マヽ)にす、安危を抛却して瓢を取って去り、未だ功名を釣らずして已に白頭……と歌って鯰山車の老翁を直鉤を垂れた太公望や堯帝のお召しに耳を洗った許由等の聖人に比較してゐるが、又説には老翁は鹿島神社の祭神である武甕槌(タケミカツチ)の命であるともいはれてゐて、何れ為政家と解釈して見る方が正しかろう、而してこの山車の玩具がこの地方に 【三十裏】 おいてのみ五月祭りの当時行はれることは人のよく知る通りである。 竹島町 榊山車 【挿絵】 【三十一表】 榊山車以前朝鮮山車 竹島町(上) 現在竹島は榊山車であるが、これは明治 年【二年】新造されたものである。もとまでは朝鮮山車で、之が何れ程大垣の誇りであったらうか。焰魔(エンマ)大王の様な大将官の冠、悪鬼の様な「ゴッカ」の顔、賑やかの彼の囃、勇しいあの行列、懐(オモ)ひ起すだに血湧き肉躍るの感がある古老達は語ってゐる。 抑もこれは今を去る百有餘年前朝鮮国王から幕府への使者の道中の行列に模したもので、現今同町に在住する大黒屋の祖先が自らその行列に加はり、衣装万端から打囃しまでも研究調査を遂げて 【三十一裏】 帰町し、以来祭礼毎にこの行列を組織した山車を引き出すこゝと【ことゝ】なったので、その行列は先づ、先頭に「清道」の二字を大書した二旒の幟を立て、次に割竹二人、大笛一人《大笛二人》、中笛二人、羯鼓一人、大太鼓二人、小太鼓二人、小笛二人、胡弓二人《胡弓一人》打続き次に朝鮮国使に準へたる大将冠は万事朝鮮風に仕組まれたる山車の上に座し竜を描いた大旛をがざし、手には軍配扇をもって威風凛然(リンゼン)と構へこの山車際には稚児髷に結(ユ)って軍扇を持った小姓が三人付随して殿りをしてゐる。尚山車の末払として跟従(コジュウ)【跟従(コンジュウ)】する恐ろしい仮面を被った「ゴッカ」が蕨の杖を打振り打振り立寄る子供を追ひ散らし、子供達亦之に砂礫(シャレキ)を投じて「ゴッカ」〳〵と 【三十二表】 騒ぎまはるのであった、以上の行列は何れも揃ひの艶麗なる朝鮮服に木綿の靴を穿(ウガ)ち、且つ行列に連なる一人毎に笠鋒をさしかけると床几(セウギ)を持ちたる二人のお供が随従することであるから行列は蜒蜿(エン〳〵)として長蛇の如く、而かも朝鮮式の囃は「干」「中干」及び「ながちゃう」の三に分れて極めて勇壮活発なものであった。 竹島町(下) 朝鮮山車は一名唐人行列、或は朝鮮王山車、朝鮮人山車などゝいひ、その行列は頗る盛なものであったらしい。百竹もその行列を称して、 【三十二裏】 鑾車𨌑被【輾破】す九街ガ【街ガイ】の塵ジン、千古の衣冠イカン日に映じて新なり、笙鼓セウコ都て成す太平の象ショウ、誰か知らん支那人を来聘ライヘイせんとは…… と支那人に擬し 羯鼓カッコ鶯黄ならびに鳳笙ホウセウ、一斉に吹き過ぐ錦衣郎、何人か比例する当年のこと、呼びなす玄宗洛陽に帰る… と歌って玄宗皇帝帰洛の盛況にに準(ナゾラ)へ、 大唐王帝満清旗、伍列三韓伶士の姿、童衣ドウギ【童衣ドウイ】上下訳司ヤクシに似たり、恍として見る豊公盛時の時……と豊臣 秀吉全盛当時の来朝使を思ひ浮べるなどしてゐるが、この華美を極めて《極めた》朝鮮山車も明治維新になって遂に廃止せらるゝことゝなり。其かはりに榊山車を造ったのである 【三十三表】 榊山車は車上三層の勾欄を設けて、第一層に幔亭(マンテイ)をおき中に白幣を立て第二層には天鈿女の命第三層には祝官を飾附け、曲藝には神楽を用ひてゐる水引には雲錦を用ひ、幕は紅羅紗で、見送りには洋絹に王仁(ワニ)の像を写し、その上に「なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまをはるべとさくやこのはな」の和歌を書いてゐる。而してこの見送りの下絵は江馬源齢《元齢》であるといひ、水引の上に彫刻されてゐる十二支は伝馬町に在住してゐた彫師馬山の作で可なり精巧なものであるといふ。 唐人を把って神木に換へてより、山棚サンボウ地ヂ【地チ】を抜いて屋よりも高し、帷繍漫【謾】に署ショすこの花の歌、誤って王仁ワニの図一幅を作る…… 【三十三裏】 浦島山車 俵町 【挿絵】 【三十四表】 浦島山車 俵町 「明てたに何にかはせん水の江の浦島か子を思ひやりつゝ」といふ小歌がある。私は今この歌を思ひながら彼の、華麗な装飾に富んだ俵町の浦島山車をまのあたりに浮かべてゐる。 浦島山車は謡曲「浦島」によってこしらへられたもので現在は幾分俗化した傾向があるが第一層の危亭に浦島太郎を置き、第二層に乙姫、第三層に竜神而して竜神が珊瑚の樹を持し歌曲につれて舞ひ出す頃の古の仕組みは、何ともいへぬ優雅なものであった。然し此古いしきたりもいつしか廃れて現在竜神と竜女とは第二層に静置せられ、第三層には 【三十四裏】 竜神竜女をかたどった唐子があり 九重出づる旅衣、〳〵、八重の汐路に急がん…… と謡ひ出る頃から色々のしぐさをなして観衆の目を楽ませ ……竜神みぎはの浪に座して、折柄を守護し、又は神風に雲霧を払ってあたりも輝く玉の手籍《手箱》を、彼の旅人の稀なる故に、夢中に顕はしみせ給ふ、夢ばし覚ますな客人よ、夢ばし覚ますな客人よ、 夜はまだ開けじ玉手箱、早くも治る君が代の、勅使を慰めの夜遊ぞかし、海竜王も心せよ、今この君の御政徳、猶も客人に奇特を見せんと、木綿四手の神心、竜神も心を一つに成相の、松風も吹きよせよ、さす汐もよせよと、互による潮の上に蓬莱山を浮べ浮ぶれば、草木もゆるぎ 【三十五表】 合ひ五色の亀も、いさみ〳〵て…… といふあたり、玉手箱を脊にした、亀は恍然と山上《軕上》の波濤に浮び出で、右往左往する中に玉手箱はぱっと開いて中よりは珊瑚その他の宝が出で、尚餘興として亀が口中から観衆にピンポンを吐投げる様になったが、これは餘り俗な趣味であると思ふ。此山車は水引に紺色の文錦を用ひ構図は正面が対ひ竜両側が貝づくしで尚特に短い水引様のものに波浪を描いたのをその上に設け幕には紅羅紗に六波濤《大波濤》を縫ひ、見送りはなしで、浦島の脊の虎の皮及びその後に立てられてゐる彩旗が其のかはりをしてゐる。一説に見送りを殿様の御上覧の場所で落したからないのだとか、その見送りが松濤寺へ打敷に直して寄進してあるとか云はれてゐて 【三十五裏】 私も或程度まで信じてゐたが調査の結果それはどうやら否定されるらしい。元来この山車は頗る風変りに出来てゐて屋形といひ、勾欄といひ塗といひ総て他の山車に追従してゐないところを見ると、見送りも始めから着けなかったものだといふ同町内年寄り連の説も首肯される。 未だ知らず俗諺これ琉球と、握手歓生満眼マンガン想【愁】ふ、一時信ぜず開筐の戒め、忽ち紅顔をして白頭に変ぜしむ… 釣魚の船を浮べて帰らず、恰も漁父と同じく桃源に入る花紅酒碧春海の如し、隔絶【隔断】す家郷七世の孫……。 玉の井山車 船町 【挿絵】 【三十六表】 玉の井山車 船町 船町の山車は今は優美な踊り山車として有名であるが最初は石曳山車といって極めて野卑なものであったさうな、 それは昔大垣城が築かるゝ際、石材を運搬するに人夫の勢をつけるために使はれた馬鹿囃子をそのまゝ山車に応用したのだといふ。その後氏教公時代行はれた各町内の山車新造に際し、船町も謡曲「玉井」により彦火々出〓命(ヒコホコデミノミコト)【彦火々出見命(ヒコホヽデミノミコト)】が御兄火闌降命(ホノスソリノミコト)の釣針を魚にとられこれを求めんとして、竜宮に至り、豊玉姫(トヨタマヒメ)を娶(アト)【娶(メト)】って失った釣及び潮干(シホヒ)の宝玉を得て帰るの様を擬して、尊の塑像を始め竜神、豊玉姫、玉依姫、天女等を飾り 潮満シホミチ潮干シホヒ二つの玉を〳〵釣針に取り添へ捧げ申し舞 【三十六裏】 楽を奏し豊姫玉依、神【袖】を返して舞ひ給ふ と山上《軕上》の女性が舞ひ出づるのは次の言葉の いづれも妙ヒヘ【妙タヘ】なる舞ふ神【舞の袖】。〳〵、玉のかんざし柱【桂】の黛ホユズミ【黛マユズミ】も照り添ふ花の姿雪を廻らす袂かな… のやうに、いと風雅なものであった竜神山車ともいはれてゐた。然し文化四年の大洪水に、山車附属の人形楽器等を流失し、独り彦火々出見の命の像のみ残すに到ってからは今までの装置を変更して舞台を設け、尊を第一層の危亭内に静置し謡曲の変りに浄瑠璃を用ひあどけない少女をして舞踊を演ぜしめるに到ったもので百竹は成年の祭りの藝題に対し左の如く歌ってゐる。 皇孫何の意ぞ蛇神を聘【娉】す今日音容亦真を写す、甲 【三十七表】 媛嬌顔《嬌歌》し乙姫舞ふ、一時瞞殺す満街の人…… 三絃弾出す一歌たくみなり、京華院曲の中より来り、四万八千経巻のみ、野人満口円通を説く―― 而して水引には邯鄲(カンタン)の交織繍【文織繍】を用ひ幕は紅羅紗で見送は竜神を繡刺したものであるといふ、なほ危亭の脊後には槍旗と玉旗とを立て此山車の彫刻その他頗るこったもので舞台の脊景には金の唐紙に三階松を描いてゐる。 【三十七裏】 辨天山車 伝馬町 【挿絵】 【三十八表】 辨天山車 伝馬町 伝馬町は松竹山車又は辨天山車といってもとは謡曲「竹生島」によってつくられたもので車上三層の勾欄を設け第一層には幔亭を置き中に天女(辨財天)の尊像を安置し、第二層には仕女第三層には祝官が白幣を持って楽に応じて舞ふ仕掛になってゐて水引は蛮錦に杏村の近江八景を縫ひ、房は撚糸にて組み上げ、金物は金の「スリハガシ」で頗る優美なもの、幕には紅羅紗、見送りは蜀錦繍を用ひ殊に水引はこの山車を造る頃同年の年寄塩屋某が大奥様から金欄【金襴】の帯を拝領したが餘りに結構な品であるから私しするも勿体ないと山車の水引に寄附したが普通の山車としては少し短かゝったので、山を縮めたといふ由緒あるもの、 【三十八裏】 故にこの山車は細長くて恰好甚だ不均衡であると称へられてゐる。然し山車の飾附から水引、見送りの模様に到るまでよく統一されたもので百竹の詩に曰く。 淡海タンカイの仙区世上に知らる貪り聴く絃宗ゲンソウ意イ将マサに馳せんとす、街頭用ひず方舟の梶カジ、併せて得たり妙音天女の姿 ……又曰く 他車の猩幕シウマク【猩幕セウマク】に同じからず繍ひ来る絶景倩人を縫ふ瀬田の夕照石山の月、八走バシ【走バセ】の帰帆三井の鐘…… 其後明治維新になって一時天女及び仕女の塑像を廃し、更(カ)ゆるに神鐘【神鏡】司索命巫女等を以てし近時又天女(辨財天)に復旧し前山車の御幣振りが兎(ウサギ)の餅つきに変ぜしめらるゝに至ったのである。 【三十九表】 伝馬町 【三十九裏】 愛宕山車 岐阜町 【挿絵】 【四十表】 愛宕山車 岐阜町 岐阜町はもと伝馬町に属してゐて一個の独立した町ではなかったが、山車は同町の豪家藤島某が自分の趣味から私財を抛って造ったもので、一名藤島山車ともいひ頗る善美を極め中町の布袋山車と並び称されてゐたが、布袋山車が地震で焼失してからは独り岐阜町のみ優美を称せらるゝに至ったのである。 一路黄風【薫風】彩旗を吹く朱欄屈曲して丹塀タンチ《丹墀タンチ》に比す、繁弦急管忽然として起る恰もこれ皇軍奉凱《奏凱》の時…… と歌はれてゐる様に、この愛宕山車は謡曲弓八幡によって神功皇后の三韓征伐後をあらはしたもので、車上三層の勾 【四十裏】 欄を設け第一層には危亭を置き中に神功皇后の塑像を安置し、第二層には武内宿弥【武内宿禰】、第三層には蜑女(アマ)あり、亭後には二流の彩旗並び立てられ、弓八幡の謡曲がゆるやかに謡ひ始められると同時に蜑女は立って踊り、謡ひ半過ぎれば武内宿弥【武内宿禰】の舞ひになるのである、武内宿弥【武内宿禰】の像はもとは皇子を抱いてゐたそうであるがいつの頃から廃せられてしまった。 三百餘齢ヨレイ補佐の臣姓名赫々として古今に薫る、一たび海潮の乾満を測ってより、収捨【収拾】す鶏林八道の雲…… 水引は蜀錦に群鳩を描き、その画工は杏村であったが杏村は一度名古屋の建長寺に遊んで鳩の遊べるを見て岐阜町山車のために自分が描いた鳩の形に相違あるを発見し、後から書足しを《をヲトル》たので、鳩に班色があるといひ伝へられてゐる、又見送りは白羅 【四十一表】 紗に仙客竜に乗って玉児を抱(イダ)くの図を縫ひ、之又杏村の下絵で、この山車の両袖にその賛がある、 何知忽遇非常用 不把分誠独登夫 好蔵莫便令人見 恐有痴人似末顛 尚車上の神功皇后を歌った百竹の詩がある。 装束ソウゾク繊腰センヨウ忽ち男に化す、 英威美麗また能く兼ね錦帆波濤を衝き破り去り、 一柳眉幾虎髯を擒トリコにす……。 【四十一裏】 【挿絵】 猩々山車 宮町 【四十二表】 猩々山車 宮町 江風陣々として月妍妍たり、吹き起る笛声蘆萩のあたり酔舞酣顔飽アくを知らず、海中の仙酒中の仙を学ぶ…… と百竹は歌った、げに宮町の山車は猩々を以て有名である山車は猩々を以て有名である《山車は猩々を以て有名であるヲ削ル》山車が小さくて後山車がなく、一名重箱山車の譏があるとはいへその技藝は他の山車の何れにもおとらないであらうと旧藩時代には盛に謳歌されたそうな、現今では立派に後山車もつき車上に幔亭を置きその前に大板床を突出し、その上に大酒壱《壷》を置き、猩々はしばしば舞ひ、しば〳〵歩んで壱《壷》の傍に到り酒を口にし鯨飲 【四十二裏】 して紅顔に変じ続いて壱《壷》は壊れて牡丹となり猩々は変じて獅子となり、獅子は咲き誇る牡丹に戯れあたりを狂舞しまはる仕掛になってゐてもとまでは謡曲を使ってゐたやうであるが現今は歌曲のみで、楽器も以前は三味線も入ったそうだが、現に使用しつゝあるものは鐘、太鼓、笛等である、 水引は弘化三年《四年》森寿彦の下絵になる扇面四君子の縫ひ潰しで紅羅紗、見送りには黄羅紗に白沢怪を避くるの図を繍ったのを用ひその上に「五言古風短篇」と題して 黄帝コウテイ東巡の国、白沢克く玄論、賢君俊徳を明らかにし、天祥子孫に降る…… の文字が繍ってある、白沢とは黄帝内伝にいふ神獣の名である。 【四十三表】 壷は牡丹に変じ、猩々は獅子に変ず一時の遊戯充分なり、年に枉費する機関の線只郭鮑老に知チあり……。 なほ此山車の両袖に彫刻してある千匹猿は頗る傑出したものである。 【四十三裏】 軕の画 川地寿山氏 昭和二十八年十月吉日複写す 自筆 小森嘉兵衛 大垣まつり(完)
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青山松任『大垣まつり』(昭和9年(1934年)・縦観荘出版部)の巻頭には、計15枚の写真が8ページに渡って掲載されている。以下は、その各ページのスキャン画像である。 なお、この写真群は、昭和8年(1933年)5月に撮影されたものと推定される(恵比須軕の当番町が宮町で、最後尾の本町が前年の番町であるため)。 本ページの画像は、個人・ご町内ではご自由にご利用ください。ただし、刊行物(商用・非商用問わず)に掲載する場合や、他サイトに転載する場合には、事前に管理者までご連絡ください。また、より高画質の画像・汚れの少ない画像がご入用の場合も、可能な範囲でご対応致しますのでご連絡ください。 ※左から相生軕→猩々軕→恵比須軕→愛宕軕→松竹軕→玉の井軕。
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大垣 豊富な地下水に恵まれた"水の都"。鉄道ファンなら青春18きっぷの定番「大垣夜行」を思い浮かべるはず 物件駅 登場作:桃太郎電鉄CHUBU 元ネタガイド 最寄り駅:大垣駅(JR東海道本線)
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大垣市 天然温泉コロナの湯 大垣店 最寄駅:大垣駅(JR東海道本線・樽見鉄道・養老鉄道) 最寄駅から…:南口から徒歩15分 営業時間:9 00~25 00 定休日:なし 料金:平日:650円 休日:700円 住所:岐阜県大垣市三塚町字西沼523-1 連絡先:0584-75-5741 地図:http //yahoo.jp/QVxkqX アドレス:(PC用)http //www.korona.co.jp/Onsen/ogk/index.asp (携帯用)http //www.korona.co.jp/ 設置アメニティ:シャンプー・ボディソープ類他 タオル・バスタオルレンタル150円 温泉?:天然温泉 都湯 最寄駅:大垣駅(JR東海道本線・樽見鉄道・養老鉄道) 最寄駅から…:南口から徒歩3分 営業時間:17 30~22 00 定休日:土曜 料金:330円 住所:岐阜県大垣市錦町48 連絡先:0584-78-2278 地図:http //yj.pn/xUYo3M 設置アメニティ:特になし。恐らく販売のみ 温泉?:沸かし湯 湯の花湯 最寄駅:大垣駅(JR東海道本線・樽見鉄道・養老鉄道) 最寄駅から…:南口から徒歩7分 営業時間:15 00~22 30 定休日:金曜 料金:330円 住所:岐阜県大垣市桐ヶ崎町28 連絡先:0584-78-8421 地図:http //yj.pn/dUeO3Q 設置アメニティ:特になし。恐らく販売のみ 温泉?:沸かし湯 岐阜市 松乃湯 最寄駅:岐阜駅(JR東海道本線・JR高山線) 最寄駅から…:南口から徒歩20分 営業時間:14 00~22 30 定休日:月曜 料金:400円 住所:岐阜県岐阜市加納城南通2丁目2 連絡先:058-273-7322 地図:http //yj.pn/3RW3X9 設置アメニティ:特になし。恐らく販売のみ 温泉?:沸かし湯 飛騨市 ゆぅわ~くはうす 最寄駅:JR高山線角川駅 最寄駅から…:徒歩15分 営業時間:11 00~21 00 定休日:木曜 料金:500円 住所:岐阜県飛騨市河合町角川350-1 連絡先:0577-65-2180 地図:http //yj.pn/4Kl7d7 アドレス:(PC用)http //www.netkawai.co.jp/oyutop.html 設置アメニティ:不明 温泉?:沸かし湯
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おおがき【大垣】 概要 岐阜県の地名。
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おおがき 東海旅客鉄道/樽見鉄道/養老鉄道 岐阜県大垣市高屋町一丁目 JR東海道本線(岐阜~美濃赤坂・米原)(上り本線・垂井線) 穂積← 垂井 JR東海道本線(岐阜~美濃赤坂・米原)(下り本線) 穂積 →関ヶ原 JR東海道本線(岐阜~美濃赤坂・米原)(美濃赤坂支線) (穂積)←→荒尾 樽見鉄道 始発←→東大垣 養老鉄道養老線 西大垣←→室
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日本空手協会(松濤館流) 岐阜県 大垣支部 大垣市武道館(map) 曜日 時間 水・金 少年部、一般・19 00~21 00 土 少年団、少年部・9 30~11 00 剛柔会(剛柔流) 糸東会(糸東流) 和道会(和道流) 名空会 岐阜県本部道場(map) 曜日 時間 月 少年部・17 00~21 00 火 一般部・19 30~21 00 木 少年部・17 00~20 30一般部・19 30~21 00 金 少年部・16 30~21 00 大垣支部西道場 赤坂中学校武道場(map) 曜日 時間 火 少年部・19 00~20 30 緑ケ丘会館(map) 曜日 時間 水 少年部・18 30~20 30 大垣支部神戸教室 下宮小学校体育館(map) 曜日 時間 木 少年部・18 30~20 00
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【店舗名】 フェイズ大垣店(旧サンダーボルト) 【住所】 岐阜県大垣市三塚町鶴舞1123-6 【電話番号】 0584-81-1845 【アクセス】 大垣駅から歩いて10分程度 【店休日】 無し 【店内の様子】 やや狭い 【海外版】 少しあり 稀に入荷するときが狙い目 【値段】 普通 【シングルの品揃え】 ほぼそろっている 【ノーマルカードの販売方法】 ファイルから選び紙に記入 記入後レジに提出 【買い取り】 有 【委託販売】 無 【デュエルスペース】 30席 【大会】 月2のペース 【HP】 無し 【その他】マナーの悪い高校生が土日になると増えるが気にするほどでもない。
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(2011/04/23) 「ダーナの会 大垣」の活動報告 20日から22日にかけて有志5人が被災地入り。 今回は、行政支援の手薄な小規模避難所や在宅者のボランティアと物資のニーズを確認することが目的。 仙台市から東松島市、石巻市、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市を回り、陸前高田市では、東京教区の有志らが炊き出しをされていた大谷派寺院を訪問した。 ここは50人ほどが避難されているほか、地域の在宅の方々からも頼りにされているということで、ご住職、坊守さんから支援活動への要望や課題などを聞かせていただいた。 短時間ながらいろいろ状況を聞かせていただくことができた。 今後、復興支援センターやV委員会などと連携をとりながら活動していくことを確認した。 (2011/04/20) 「ダーナの会 大垣」の会議を18日に大垣教務所で開催。 被災地支援バザーとして、5月1日に大垣駅前通りで開催される商店街の歩行者天国イベントに、不用品バザーのブースを出すことを決めた。 また、大垣別院春の法要においても他団体が催す支援バザー(5月13日)に協力する。 ほか、15~17日に石巻市で避難所の清掃活動ボランティアに参加した有志3人から、避難所の環境、生活の様子、救援物資の必要状況、ボランティアニーズなどについて報告を聞いた。 (2011/04/06) ダーナの会大垣の会議を5日、大垣教務所で行いました。 今月11日14時から大垣別院本堂にて開催する 東日本大震災被災者支援のつどい「悲しみを共にする」 のスケジュールなどを確認しました。 当日、救援用白米を募ることを決めました。 また、今後の支援活動費の調達方法や後方支援活動のあり方などについて 意見交換しました。