約 194,915 件
https://w.atwiki.jp/bkneko/pages/1745.html
キャラクター一覧|ALLキャラ進化表|デバフもち|クリティカルもち|小判&ドロップもち|キャラダメージ表 + ガチャキャラ一覧 ガチャ(レア)【体当たり(キャラ)|弓(キャラ)|魔法(キャラ)|ため(キャラ)|サポート(キャラ)】 ガチャ(激レア)【体当たり(キャラ)|弓(キャラ)|魔法(キャラ)|ため(キャラ)|サポート(キャラ)】 ガチャ(超激レア)【体当たり(キャラ)|弓(キャラ)|魔法(キャラ)|ため(キャラ)|サポート(キャラ)】 ※限界突破のステータスは上限解放が記載されていないものは未解放状態での値です ※限界突破のステータスは推測値ですので+-10ぐらい前後する場合があるかもしれません。(参考までに 坂本龍馬 キャラガチャ「剣豪伝」にて出現するキャラ。 坂本龍馬 海英の坂本龍馬 大海英の坂本龍馬 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (c_1842_1.png) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (c_1843_1.png) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (c_1844_1.png) キャラ名 タイプ 属性 レアリティ レベル 体力 CP 坂本龍馬 サポート 水 超激レア 20 4216 350 海英の坂本龍馬 サポート 水 超激レア 20 14478 790 大海英の坂本龍馬 サポート 水 超激レア 20 25353 790 限界突破 +10 35494 690 坂本龍馬 海英の坂本龍馬 大海英の坂本龍馬 マジックスキル坂本龍馬 海英の坂本龍馬 大海英の坂本龍馬 ノックバック時間10%短縮【サポート】(水)(5秒間)防御力+100魔法防御力+100射程+20攻撃間隔20%短縮(水)(バトル開始20秒以内)水属性攻撃30%増加【サポート】(水)(5秒間) ノックバック時間20%短縮【サポート】(水)(5秒間)防御力+500魔法防御力+2000射程+20攻撃間隔20%短縮(水)(バトル開始20秒以内)水属性攻撃50%増加【サポート】(水)(5秒間) ノックバック時間50%短縮【サポート】(水)(5秒間)防御力+1000魔法防御力+5000射程+20攻撃間隔100%短縮(水)(バトル開始20秒以内)水属性攻撃120%増加【サポート】(水)(5秒間) 進化素材表 坂本龍馬 神竜の紅玉1 水のオリハルコン5 降臨の書・真3 海英の坂本龍馬 聖獣の血2 神竜の紅玉2 水のオリハルコン15 大海英の坂本龍馬 説明 海軍の大艦隊の先頭に立つ、坂本龍馬。 深海帝国ウォータムガルドの王・ギロは陸の支配にも力を入れており、それに対抗するべく彼の国では海軍に力をいれている。 他国との連携も取り、武器の調達も万全な模様。 海の世界での情報はアンドロメダから仕入れている。 昔は剣術を極めていたが、今では海での戦闘に長けた銃を重宝する。 備考 動作確認用。 エフェクトの範囲はキャラのすぐ前方。
https://w.atwiki.jp/wthomeministry/pages/49.html
坂本龍馬 天保6年11月15日(1835年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日) 土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に非常に裕福な家庭に生まれる。 父・八平、母・幸の次男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。 身長は182cm。ただし諸説ある。龍馬大男説には異論もあり169cm62kgとする説もある。どちらにしろ当時としてはかなり大柄な男性だったようだ。 血液型はO型。2010年、京都国立博物館蔵の血痕のある屏風・掛け軸を調べて初めて判明。ただし、 「公式」 ←これを見るとまだ調べられてもいないという。 ひつじ年生まれ。 坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗(くみあわせかくにききょうもん)」 坂本龍馬に対する評価 「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」--陸奥宗光 「天下に有志に多くあった。だが、これほど度量の大きい龍馬に匹敵するものを未だかつて見たことがない。龍馬の度量や到底測るべからず」--西郷隆盛 「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせておいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという愛嬌家だった」--関義臣 「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」--住谷寅之介 「過激になることもない。声を荒げることもなく、大人しい人物なり。容貌を見ると豪気に見えても、万事温和に事を処理する人なり。ただし、胆力は極めて大なり」--三吉慎蔵 (わかりやすい、現代日本語に翻訳中です。専門分野な人がウチの会にいるので翻訳してもらってます)。 まとめると坂本龍馬は、見識、他人を説得する能力の高さ、度量があり、誠実である。といったところである。 また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない平等な考えを持った人である。 身長に関して。 残っている紋服などから以下のように推定されることもあるようだ。 身長=173cm 体重=約80kg 紋服の寸法。 着丈=149cm 肩巾=32cm 袖丈=50cm 袖巾=33.5cm 裄丈=65cm 前巾=26cm 後巾=30.5cm トリビア。 「厚情必ずしも人情にあらず、薄情の道忘るるなかれ」『英将秘訣』の中の話。龍馬は実際は言っていない。 子どものころの寝小便癖は後世の作り話であるという。実際は子どもの頃から頭がよく、繊細な子どもであったという。 坂本家の本家は龍馬の兄・権平のあとを継いだ直寛(養子)が北海道の開拓移民で明治31~32年にかけ一家で移住し北海道に移り住んだ。いまでも本家は北海道にあるという。 龍馬の生家の場所には現在、吉田茂元総理の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っている。 坂本龍馬の髪質は天然パーマではなくストレートであった。また、髪型は普段から整えておりオシャレにしていた。 龍馬の親戚 土佐勤王党の盟主、武市瑞山とは遠縁にあたる。 鳩山由紀夫・邦夫兄弟は(鳩山家)鳩山邦夫氏曰く「いとこの妻のいとこが龍馬の姉のひ孫」と、龍馬と親戚であることを公言している。 竜馬の姉・千鶴の子の坂本直寛はクリスチャンで牧師にまでなっている。 余談ですが・・・ 自分はチビなので身長は少し悲しくなるが、血液型は自分と一緒(笑)。 坂本龍馬は日本の国民的ヒーローであり、世界に誇れる日本の偉人でありますが、自分の中でも尊敬してやまない人物であります。 書き途中です。このページは隠しページです。常設ページにすることを薦められましたが、どうしようかな・・・ タグは入れてみました。 内部隠しページ 坂本龍馬関連記事 坂本龍馬 身長 坂本龍馬 血液型 坂本龍馬 ADHD 坂本龍馬 トリビア
https://w.atwiki.jp/saikyousyujinnkou3/pages/2554.html
【作品名】龍馬伝 【ジャンル】大河ドラマ 【名前】坂本龍馬 【属性】脱藩浪士 【大きさ】成人男性並み 【攻撃力】腰に日本刀を刺した剣の達人並み。北辰一刀流免許皆伝レベル。 懐に拳銃を持っている。10m位先の成人男性の手を狙って撃てる 【防御力】侍に手を切られても耐えて戦闘続行。 侍数名にめった切りにされても数分間は言葉を話せる(当たり前だが瀕死) 【素早さ】剣の達人並み 【特殊能力】話術 【長所】大政奉還の立役者 【短所】基本的にはエロオヤジ 【戦法】銃で撃って弱らせてから剣抜いて斬る vol.54 406 :格無しさん:2011/11/08(火) 18 19 40.75 ID nnBoy/aM 銃の壁近辺の考察があまりにテキトーなので一部再考察 坂本竜馬再考察 いくら銃が旧式とはいえただの銃持ちのガキに負けるとは思えない 警官とかよりは若干劣るから順位をつけるとすれば 透>アニー=橘なごみ>坂本龍馬>ラジヲマン=ロゼ=ジョン・コナー vol.49 488 :格無しさん:2011/01/15(土) 20 45 40 ID JoG8StzO 考察待ちの坂本龍馬考察 刀と銃を持った達人並なので達人の壁から 銃の壁上の朝倉純一まで勝ちを取れるがその後は負け分け続きなので ICE MAN>坂本龍馬>朝倉純一
https://w.atwiki.jp/jidai/pages/100.html
坂本龍馬の略歴は↓こちら 坂本龍馬 - wikipedia 作者名 発行日 作品名 シリーズ 時代 ジャンル 受賞歴 文庫化 映像化 電子書籍 安部龍太郎 1990/12/01 血の日本史 短編集 通史 歴史小説 ○ 司馬遼太郎 1963/07/10 竜馬がゆく 全5巻 幕末維新 歴史小説 ○ ○ ○ ○
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/536.html
Template Infobox 革命家? 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。 諱は直陰のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で使われたことや、「竜」が常用漢字に採用されたこともあり、慣用化されている。 むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・池田敬正「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『歴史評論』317、1976年)などが参考になる。。ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的平尾道雄『龍馬のすべて』(久保書店、1966年。高知新聞社、1985年)・平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』(白竜社、1968年。中公文庫、1976年)・池田敬正『坂本龍馬』(中公新書、1965年)・飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年)。。その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。 生涯 12歳、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳になり高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。 1846年、母・幸死す。 1853年(嘉永6年)に剣術修行のため江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。 1854年(安政元年)に土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。 1855年(安政2年)、父・八平が死去。 1856年(安政3年)に再び江戸・定吉道場に遊学。 1857年(安政4年)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。 1858年(安政5年)に剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。。 1861年(文久元年)、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる『維新土佐勤王史』「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年2月、久坂玄瑞と面談。 1862年(文久2年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した脱藩理由は定かではないが、龍馬が吉田東洋暗殺を企てる武市瑞山の方針に反対だったからではないかとの指摘もある。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年)・石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)などを参照。。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる『維新土佐勤王史』「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる一説には勝を暗殺するために面会に行ったとされるが、これには色々と異説があり、正確な史実は確定していない。ただし、勝を殺そうとして、逆に諭されて勝の弟子になった人間がたくさんいるのは事実。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。。 1863年(文久3年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめるただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。 詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。 1864年(文久4年改元して元治元年)、神戸海軍操練所が創設されたしかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護されるこれには、薩摩藩側が龍馬らの航海技術に利用価値を感じた点も大きいと指摘されている(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。 1865年(元治2年改元して慶応元年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷隆盛に任されている佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。。 1866年(慶応2年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかるなお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正・三宅紹宣・宮地正人・高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。。直後の2月、寺田屋で幕吏に襲撃されたが一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援。 1867年(慶応3年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させたただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。 1871年(明治4年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。 墓所は京都市東山区の京都霊山護國神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。 暗殺 thumb|180px|坂本龍馬像(高知県の桂浜) br / [[第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。]] 龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが数日間は意識があり事件の証言を残した。慎太郎もまもなく死亡した。 京都見廻組実行説 大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である2006年に学習研究社から発売された『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』では、菊地明が「寺田屋事件の際に捕縛方一人を殺害したことで「お尋ね者」になっており、見廻組が逮捕のためにやってきた」という説を出しているが、この説に関しても今後精査が必要である。。 新選組犯行説 龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、数日前に暗殺された伊東甲子太郎の同志らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある。しかし現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。 薩摩藩陰謀説 大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。維新クーデターによる大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。また、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)・高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)・井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)などが参考になる。を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいる幕藩側に立って書かれた大河ドラマ『新選組!』やテレビ東京新春ワイド時代劇『竜馬が行く』ではこの説に則って龍馬の暗殺を描いている。時空警察 PART4でもこの説に基づいて龍馬暗殺犯を解説するなど、テレビ・小説などではこの説を採用することが多く、一般ではこの説を信じている人が多い傾向が見られる。ものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情薩摩藩陰謀説が成り立たないことを政治史的な観点から論証したものに、桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)がある。である。 死後の評判 前述の通り、坂本龍馬はむしろ生前よりも死後に有名になった人物である。 その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が掲載され、大評判となった事である。 次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。 坂崎はもちろん、田中も土佐出身の人物である。当時明治政府を牛耳っていた薩長閥に対し、土佐出身者が挽回を図るべく、土佐出身の維新の功労者として、坂本龍馬を持ち上げたのである。勝海舟も坂本龍馬を持ち上げたひとりであるが、旧幕臣という立場で薩長閥に対する反発があったのは、想像に難く無い。 その他 京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。 『竜馬がゆく』でも描かれているように、剣術の腕は相当なものだったと暗殺された時の状況から推測できる。龍馬は刺客からの「不意」をつかれた「突然」の攻撃から、二の太刀目で身をひねって刀に手を伸ばし、三の太刀目には鞘で受け止めるまで防御の体制を取っている。 逸話 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある継母伊興の家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。。 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで逸話であって史実ではない。逸話の起源は、定かではない。 寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。これを指して、日本で初めての新婚旅行とされる。 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS Wモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺時も携帯していたが発砲することなく殺害されている。 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。 身長6尺(約182cm。近年の研究では174cmや169㎝というものもあり)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。 背中に黒毛が生えていた。 少年時は寝小便タレで、泣き虫。勉強についていけず塾を退塾になった。 武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。 姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。 西郷に対し「わしは世界の海援隊をやります」と語り、その様子を同席していた陸奥宗光がことあるごとに回想して語ったとされている。しかしこれは後世の創作らしい。 同時代の龍馬評 住谷寅之助「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後) 平井収二郎「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後) 武市半平太「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)、「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で) 東久世通禧「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前) 勝海舟「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後) 西郷隆盛「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」 土方久元「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」 三吉慎蔵「過激なることは豪も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」 家系・家族 清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智氏の末裔を称する。坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)などが詳しい。。家紋は組み合わせ角に桔梗。 坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。 天正16年(1588年)才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎない。 どうやら3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。4代目守之、5代目正禎は才谷村の字の一つである「大浜」を家名としてなのりはじめる。 寛文6年(1666年)3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。 享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。 明和7年(1770年)6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。 次男直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子としてはいった。直足の次男が直陰(坂本龍馬)である。 土佐藩郷士・坂本八平の次男。 母は幸。 兄は権平 姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)。 妻はおりょう(楢崎龍) 婚約者・千葉さな子もいたとされる。 後半は坂本龍馬-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月27日 (木) 16 12。
https://w.atwiki.jp/dhero/pages/53.html
■キャラクター名:坂本龍馬 ■モチーフとした英雄名:坂本龍馬 ■性別:男 ■学年:その他 ■所持武器:火刀・銃 ■ステータス(合計30) 攻撃力:0 防御力:19 体力:6 精神力:0 FS「先見の明」: 5 ■特殊能力名『銃撃』 ■能力内容 範囲:同マス ■能力原理 非公開 ■キャラクターの説明 日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。 ■アピールポイント なし ■初心者か?(はいorいいえ):いいえ
https://w.atwiki.jp/digdig2/pages/194.html
坂本龍馬 SR/人間/男/武士 わが征くは星の大海ぜよ(坂本龍馬) 契約による強化(個人技によるバフ効果を含める) 契約レベル 先攻 防御 回避 王者 戦力アップ、付加効果 +1 0 1 0 0 戦力+5% +5 1 2 5 0 戦力+25% +7 3 3 6 1 戦力+40%連撃が可能になり、連撃確率10%アップ。 宝具による強化(宝具:星のサングラス) 宝具鍛造レベル 先攻 防御 回避 王者 +1 1 0 0 0 +3 4 0 0 1 +4 6 0 0 2 宝具強化レベル 戦力アップ 付加効果 +1 +6% +5 +30% 防御+2 +7 +48% スキル「星の征服者」発動後敵の防御を3下げる 所持スキル 星の征服者(個人技) 効果 発動条件 20%の確率で発動し、攻撃後敵現戦力の12%を回復する。
https://w.atwiki.jp/smoksang2/pages/410.html
坂本龍馬
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/8099.html
登録日:2010/04/09(金) 00 03 57 更新日:2024/04/12 Fri 16 10 50NEW! 所要時間:約 7 分で読めるぜよ ▽タグ一覧 Fateサーヴァントネタ元項目 S&W アホ毛 ピストル 人物 仮面ライダーゴースト 内野聖陽 加藤泰平 司馬遼太郎←この人のおかげ 土佐 坂本龍馬 大河ドラマ主人公項目 幕末 新婚旅行 日本史 暗殺 武田鉄矢 歴史 死の商人 海援隊 目覚めよ!日本!夜明けゼヨ!! 神格化 福山雅治 維新志士 高知県 龍馬伝 坂本龍馬とは土佐出身の武士で、貿易会社『亀山社中(後の海援隊)』の結成などで有名な幕末の人物。 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』など幕末をモチーフにした創作でも取り上げられ、イメージとしてはブーツの着用や護身用の拳銃の携帯など、和洋折衷な着こなしが有名。 土佐藩の郷士と呼ばれる下級武士の家に生まれた龍馬は、生活は家が商家であることから裕福ではあったが、身分が低いうえに惰弱な性分もあっていじめられっ子だった。 また、最愛の母を亡くしたことでより一層気がふさぎ、何事にも意欲がわかなくなっていたが、姉の乙女の教育によって矯正したのは有名な話。 剣術の腕は光るものがあり、小栗流皆伝目録北辰一刀流長刀(*1)兵法目録を伝授されている。 土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件の直前に脱藩した事で東洋暗殺の濡れ衣を着せられ、越前藩の庇護下に入る。 越前藩のエージェントとして開国論者の幕臣・勝海舟の弟子となり、神戸海軍操練所の塾頭となって操船術を学んだ。 後に禁門の変が原因で勝が軍艦奉行を辞めさせられ操練所は閉鎖、塾生は薩摩藩に庇護されることになる。 塾生らの航海術に目をつけた薩摩藩は彼らに出資して貿易会社『亀山社中』を結成させ、亀山社中は後に外郭団体的な組織化がされて『海援隊』となる。 慶応2年の1月23日(1866年3月9日)、宿屋である京都の伏見寺田屋にて伏見奉行所の役人に捕縛目的の襲撃を受けるが、護衛の長府藩士(長州藩の支藩)・三吉慎蔵と脱出し一命をとりとめる。 寺田屋遭難と呼ばれたこの事件で龍馬は左手に大怪我を負い、事件で異変を知らせたおりょうと共に怪我の療養のための温泉旅行へ行く。 慶応3年の6月9日、山内容堂らの参加する四侯会議の関係で、京都に呼ばれていた後藤象二郎と共に長崎から兵庫に向かう藩船「夕顔丸」に乗船していた龍馬は、後の明治政府の政治綱領の原本となる「船中八策」を書き上げる。 その中の八項目の一つに、朝廷への幕府の統治権返上「大政奉還」があり、それに影響された後藤によって促進され、後に実現することになる。 ※ただし、龍馬直筆による船中八策は現存せず、その名前自体も大正時代以前にはなかった(それ以前は様々な名前で紹介されていた)事から、後世の創作という声が大きい。 内容が共通している「新政府綱領八策」という文書は龍馬直筆のものも残っているのだが、本人が考案したのか、それとも他の人物の案を書き写しただけなのか等について議論されている。 11月15日、京都近江屋にて、盟友であり陸援隊隊長でもある中岡慎太郎と共に何者かの襲撃に遭い、 刀を取って応戦しようとしたが、刀を抜くことも叶わぬまま何度か斬りつけられて昏倒。 一度は意識を取り戻したものの、二度斬りつけられた額の刀傷が致命傷となり、医者を呼ぶよう言った後再び昏倒し、そのまま死亡した。 その暗殺の詳細についてはしばらく謎として扱われ、龍馬を殺す理由がある藩や人物が多かったこともあって様々な説が唱えられたが、 近年の研究で元京都見廻組に所属していた今井信郎(いまい のぶお)という人物が龍馬暗殺を自白しており、 彼以外にも元見廻組隊士の一人が自白していることから、実行犯については京都見廻組という説が現在は有力視されている。 しかし、彼らの背後にいた黒幕については今もなお謎に包まれており、京都見廻組に龍馬の暗殺を指令したのは会津藩主兼京都守護職・松平容保であったという説が根強いが、あくまでも推測である(大河ドラマ「龍馬伝」ではこの説を採用)。 余談 ◆龍馬の彼女 最終的には「おりょう(楢崎龍)」で確定しているが、北辰一刀流を学んでいた頃道場主の娘で長刀道の先輩「千葉さな子(佐奈、佐那)」と仲良くなり、まんざらでもなさそうな感じの手紙を残している。 さな子のその後は「独りで余生を過ごし、晩年出来た友人に龍馬の思い出を語りこの世を去った」(ゆえに墓に「坂本龍馬室」と刻まれた)とされるが、近年「実は友人に会う前に結婚していた」という可能性が出てきている。 また「おりょう」の後半生もぱっとせず、乙女と喧嘩して坂本家にいられなくなったり(実際は乙女との仲はむしろ良好で、兄の権平ならびにその妻と対立して追い出されたという話もある)、「西村ツル」と改名して再婚するもやはり龍馬のことが忘れられず、その悲しみを紛らわすため酒に逃げるなど、互いに生活が荒み離婚したりとついてない話が目立っている。 そうした中で、かつての龍馬の師・勝海舟や同志の西郷隆盛がおりょうにいくばくかの生活費を援助した。おりょうは晩年自身の後半生を「みんな嫌な奴ばっかりだったけど、勝さんと西郷さんは心から優しくしてくださった」と回顧している。 ◆写真 外国に興味津々だった龍馬は様々な外国の技術に親しんでおり、当時日本にはなかったカメラも試したのか、坂本龍馬らしき人が写った写真が現存している。 ちなみに、当時の写真はネガフィルムが存在せず「写真の写真を撮る」という方法でしか増やすことができなかったため、複写回数を経るごとに細部がぼやけてくる。 龍馬の写真はアホ毛がどのくらいくっきり写っているかで、最初に撮られた写真にどれだけ近いかが推し量れるという。 ◆陸奥守吉行 龍馬の佩刀として知られるこの刀、小説『竜馬がゆく』では脱藩時に劇的な展開で手に入れているが、実際は亀山社中結成後兄に頼んで薩摩藩経由で入手した刀だったらしい。 死後は行方不明になっていたが、2015年に「諸事情で作りは変わったがこれが龍馬の吉行だ」と坂本家所蔵の刀で確定した。 RPGなどで刀武器として登場していたりするが、実態は田舎武士の家宝程度のものであり、当時は全国レベルで名のある刀匠ではなかった。 ◆姉想い 姉の坂本乙女に性格矯正されたのは前述したが、そのためか龍馬は大変な姉想いだったと言われており、龍馬から乙女に宛てた手紙が現存している。手紙の内容自体は著作権の切れた作家(夏目漱石や太宰治など)の小説や詩を収集した「青空文庫」というサイトで読むことができる。 ちなみにその乙女さん、かなりの男勝りで身体も大きく、美人ではなかったそうな。彼女が娘とともに撮った写真が現存しているため、そのご尊顔を伺うことができる。 ◆桂浜の海 高知県桂浜には有名な巨大龍馬像があり、観光地として龍馬ゆかりの地という見方がされがちだが、龍馬の足取りから考えるとそれ程縁のある地だとは言えない。 そもそもこの像は昭和初頭の坂本龍馬ブームに建てられたものであり、戦意高揚の意味が強いとされる。 ◆剣術の腕前 創作ではほぼ確実に剣の達人で、北辰一刀流免許皆伝ということが強調されるが、龍馬が持っていた北辰一刀流の免許は長刀術のものしか残っていない。 これは同流派の中では最も易しいものであり、この事から剣の達人説には異論が唱えられていた。 しかし2015年の10月、明治43年に龍馬の実家が「坂本龍馬記念館」に遺品を寄贈した際の目録が発見された。 その中に、長刀の皆伝書と一緒に「北辰一刀流兵法皆伝」の文字があり、実物が発見されたわけではないが、龍馬が皆伝を受けていた可能性はある。 ◆好物 龍馬の好物はシャモの肉をかつおだしのスープで煮た軍鶏鍋で、暗殺される直前にもシャモの肉を買いに行かせていた。 ◆武田鉄矢 大学入試時に高知大学を受験したり(結局大学は落ちたが)、バンド名を「海援隊」にしたり、彼が演じた金八先生のフルネームの「坂本金八」の元ネタが坂本龍馬で金八先生の娘が「乙女」だったり、 自らSPドラマと映画で龍馬役を演じたり、漫画『お~い!龍馬』の原作を担当したり、『龍馬伝』で勝海舟を演じたり、「龍馬がくる」でタイムスリップしてきた龍馬本人に出会う「坂本龍馬役」の武田鉄矢(本人名義)として出演したりなど、坂本龍馬マニアのエピソードが多々ある。 ◆創作のイメージ 創作では煮え切らない交渉相手に対して大声で啖呵を切るシーンが定番で、坂本龍馬を描写する際の一つのテンプレとなっている。 しかし実際の龍馬は、あくまで淡々と冷静に相手を説得するタイプだったようだ。 また進取性に富んだイメージがあるが、徳川家を存続させようとしていたなど、いわゆる「幕末の志士」の中では比較的保守的だったと言われることも多い。 土佐藩の志士と思われがちであるが、実際には暗殺容疑者と勘違いされた後に越前藩に保護されて以降は越前藩のエージェントとして活動しており、勝海舟や薩摩藩との連絡役を任されていた。 由利公正や横井小楠(元々熊本藩士だが、仲間同士での諍いで誤って仲間を殺してしまった際にお尋ね者となり、福井に潜伏していたところを松平春嶽に拾われ、家臣となっていた)等と協力して動いている他、神戸海軍操練所の塾頭になったのもパトロンの越前藩を説得して大金の援助を引き出しているという理由が大きい。 また、先述の暗殺容疑を晴らされたのも、前越前藩主の松平春嶽の弁護が大きかったので、外様ながらもかなり信頼されていた事が窺える。 徳川家の存続も越前藩の戦略だったので、越前藩のエージェントである龍馬がその方向で軟着陸させようとするのも当然と言うえば当然である。 尤も、晩年には後藤象二郎と手を組んだり、板垣退助や谷干城(この両名は元々龍馬ら郷士とは親交が深く、特に谷は龍馬を自分の師匠と仰いでおり、晩年まで龍馬の暗殺犯を探し続けた)のような土佐藩の新進将校と親交を結んでいるので土佐藩との関係はかなり改善されている。 ついでに言えば、よく創作の龍馬が口にする「ぜよ」という語尾は高知県西部の方言(幡多弁)であり、現在の高知市(高知県中部)民では使う人はほぼいない上、高知県中部出身の龍馬が本当に日常的に使っていたかもかなり疑問である。 ◆現在の研究 幕末明治の研究者のうち、龍馬を研究したいという人は多いが、比較的最近の時代の人間であるため史料が多く残っており、ほぼ1日毎の足取りも正確に判明しているほど分析されているので、余程新しい知見か革新的な史料が見つからない限り、これ以上研究しても成果にはほとんど期待できないとされている。 追記・修正を頼むぜよ △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 高知県副知事の手紙だと 坂本龍馬暗殺を命じたのは、会津みたいね -- 松永さん (2013-11-07 01 34 02) ↑龍馬暗殺の罪で処刑されたのは近藤勇だね あと名を汚した大馬鹿者が出たから嫌になる -- 名無しさん (2013-12-07 18 33 31) 明治になってからも龍馬暗殺の件で新選組の大石が処刑されてるね。直接の理由は伊藤斬殺と言われてるけど、龍馬の件で詰問はされてる。 でもこれは言いがかりだと思う。 龍馬がどっちかと言うと公武合体派だった件とか考えると長州か岩倉具視辺りが怪しいと思う -- 名無しさん (2013-12-07 18 46 03) ↑嫌 岩倉はすでに 手を打ったよ 閣僚名簿から 龍馬の名前削ったし 大政奉還自体 岩倉は賛成だし 長州が岩倉の命令無視するとも思えない 少なくとも 実行犯は見回り組なのは間違いないから もし会津が無関係なら 会津と長州が結託したことになるし -- 名無しさん (2013-12-07 19 04 09) 坂本龍馬捕まったってよ -- 名無しさん (2013-12-07 20 14 25) 薩長ではないな そもそも京都占領してたのは 容保で 家老が見回り組の佐々木に抹殺命令したって証言もあるし -- パキスタン (2013-12-10 23 12 51) 龍馬はクラバーの走狗にしか過ぎないって言われ方もするけどどうなんだろうね 結局イギリスの思ったような政体には日本は進まなかったようだが -- 名無しさん (2013-12-10 23 28 57) ↑実は龍馬のスポンサーは岩倉具視卿だったみたいね グラバーたち英国も最初は日本を占領するつもりだったが 龍馬や岩倉の話で 日本の国情が幕府朝廷並列な「民主」的な社会とみなして 支援に切り替えたらしい -- 名無しさん (2013-12-10 23 47 48) 手代木直右衛門勝任って人 坂本龍馬のライバルキャラなのに 何か 空気の薄さが尋常でない -- 名無しさん (2014-01-13 09 08 26) ただ、龍馬も自身の身元を保証するために、公儀若年寄格・永井尚志を通して会津松平家に接触して、身分を保証してもらっている。ただ、孝明天皇の正義に強いこだわりを持っている会津松平家家臣団からすれば、天皇の正義に逆らって逆賊・長州と薩摩をつなげて徳川社会を覆そうとするテロリストに見えるのだろうね。 -- 名無しさん (2014-04-06 13 57 12) ↑妙な勤皇思想の高まり、会津は幕府・朝廷の正義をなしているといった事情もあればそりゃ下級武士たちも調子に乗るわ…… -- 名無しさん (2014-06-11 08 23 18) 竜馬は何故か一度しか人を斬って無いと聞いた。 -- 名無しさん (2014-09-06 14 00 48) 案外無名の攘夷志士のテロだったりしてな。師匠も助かったとはいえ襲われたことあるし貿易やる龍馬たちは攘夷志士にしてみりゃ敵に魂売った卑劣漢に見えただろうし -- 名無しさん (2015-02-01 09 10 49) 暗殺の黒幕は会津藩公用人手代木直衛門と弟の佐々木って確定なんだな -- 名無しさん (2015-02-02 12 15 35) 桃鉄だとかなりの強キャラ。海路にいると行動前に港まで送ってくれるし相手の物件をタダで乗っ取る。 -- 名無しさん (2015-02-02 12 29 02) 薩長黒幕説はネット上だけの都市伝説 -- 名無しさん (2015-03-23 14 44 26) ↑送信ミスです 薩長黒幕説はネット上だけの都市伝説で何十年も前に否定され学会で相手にされてない。今井信郎への西郷からの恩赦→公務として行ったことは無罪なので無くても助かる、そもそもただの伝説 今井の証言を谷干城が否定→新聞記者が今井の話盛りまくってただけ 武力討伐反対で邪魔に→実は土佐藩で数少ない倒幕賛成派でした -- 名無しさん (2015-03-23 14 58 57) うちの地元は龍馬の脱藩といろは丸事件の一件(どこかわかりそうだが)から四国だが龍馬のことが基本的に大嫌い -- (2016-01-09 23 38 02) 漫画「お〜い!竜馬」に描写されてたことはどこまで史実通りか不明だが、1度目の脱藩時のいきさつが本当だった場合、あの時点で以蔵を一緒に連れて行けば・・・。 -- 名無しさん (2016-08-14 16 10 10) 有名人だから新婚旅行の第一人者みたいに宣伝されているがただの湯治で、竜馬以前にもっと”らしい”新婚旅行してる人がいる。 -- 名無しさん (2016-09-07 12 02 43) この人は勿論評価されるべきなんだろうけど、この人以上に中岡慎太郎も評価されるべきなんだよなぁ… -- 名無しさん (2016-09-07 14 37 53) やったことは確かに凄いことだし偉人にふさわしいと思うけどやたらめったらに持ち上げすぎてやだわこの人 -- 名無しさん (2016-09-13 00 47 26) 昔ドラマでやってた浜ちゃんが演じてた龍馬が今でも印象に残ってるな -- 名無しさん (2017-09-11 18 31 17) ↑2 田舎の町おこしみたいなもんですよ… -- 名無しさん (2017-11-28 09 26 10) どうでもいいけど龍馬ファンで千葉佐那よりおりょうの方が好きという人を一人も見たことがない -- 名無しさん (2018-03-12 22 43 57) そりゃあ性格悪いとかDQN行為とか回顧録に「自分スゲー!」って話がちょこちょこあるとか竜馬の同僚から嫌われてたとか色々あるし… -- 名無しさん (2018-04-13 15 58 01) 修羅の刻での陸奥のセリフ、『龍さんは斬れなかったんじゃない……斬らなかっただけだっ!!』は、まさに彼を表す名言だと思う。それと、まさか彼が鯖になるとはだれが予想したであろうかっ!? おまけにおりょうさん憑きでw -- 名無しさん (2018-06-21 09 07 04) ドラマ『サムライせんせい』では、なんとラスボスに・・・。 -- 名無しさん (2018-07-17 01 35 10) あと、同じく修羅の刻での『龍さんは死んだんじゃない。役目を終えたから、天に帰っていっただけだ……』は名言だと思う。 -- 名無しさん (2019-06-24 19 25 55) 既に無声映画時代に阪東妻三郎主演で「坂本龍馬」という映画が作られているぐらいだから、司馬センセ以前も決して無名ではなかったと思うが、その間どういう需要のされ方をしていたんだろう? -- 名無しさん (2020-11-07 21 53 23) 殺害指令出した手代木は日露戦争まで忘れたみたいだが -- 名無しさん (2021-10-25 18 44 49) 相談所に報告のあった違反コメントを削除しました。 -- 名無しさん (2022-03-14 21 08 03) 同時代人の偉人達からの評でも抜群に凄い。薩長同盟で長州なんか薩摩に疑念あるからと龍馬に裏書で保証書いてもらって安心してるし、幕府信奉者からも幕府が消失した元凶扱いで憎んで狙われてた(こいつらが暗殺犯だろう)。浪人なんだから当時の世間一般レベルで知られてないのは別におかしくない訳で、だから大したことなかったとか司馬の虚構とか反動で貶しまくるような風潮も逆張りすぎておかしい。 -- 名無しさん (2022-03-15 00 06 10) 後世の名声に準じる能力はあるのは間違いないだろうけど。後世で語られる好青年めいた人格は無かったろうなとは思う。詐欺めいた「いろは丸沈没の賠償」を見るにな…… -- 名無しさん (2022-03-15 00 18 05) 暗殺黒幕の詮索よりも、幕府最大規模の会津桑名が守護職の公用人に支配されていたのが謎 -- 名無しさん (2022-05-13 09 52 54) 幕末といえば榎本武揚とか勝海舟とか徳川慶喜とか松平容保とか話題にできる人は他にもいるのに、 -- 名無しさん (2022-06-18 17 39 42) 道半ばで暗殺っていう劇的な最期が注目される理由かなあ。暗殺犯について詳しく分かってないのも同様 -- 名無しさん (2022-08-01 04 33 09) 見回り組を動かせる組織が会津公用方以外に存在してんのか? -- 名無しさん (2022-08-01 09 26 13) 90年代の政治改革ブーム(しょせんは一過性のブーム)の際には『平成の竜馬』を称するのが石川賢の武蔵伝並にウジャウジャ居たなw -- 名無しさん (2023-09-14 23 01 56) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/vermili/pages/1487.html
「ワシは、この“賭け”に必ず勝ってみせるぜよ。誰のためでもなか、ただこのワシの……坂本龍馬ただ一人の勝負がしたいがためじゃ。世界の全てを向こうに回した、の」 『双血の墓碑銘』の登場人物。 かつては西方雄藩連合にあって、立役者と呼ばれた元土佐藩士であり、物語開始の数か月前、京の商家近江屋にて襲撃され死んだはずの男。 英国グラバー商会によって永きにわたり“鍵”として幽閉されていた柩に接触…… スミスアンドウェッソン・モデルⅡアーミーを手渡し、“お前はどこにでも行けるし何にでもなれる”という言葉を与え脱走させた張本人。 己自身が世界に仕掛ける一つの勝負として、柩に秘められた力を切札に欧米血族による支配が刻一刻と迫る日本の苦境を打開せんと暗躍する。 柩やその眷族となった隼人に対しては、旧知の仲である勝海舟や、連絡役のジョン万次郎といった協力者を通じてその行動を支えるが、 最初に託した言葉通り、龍馬自身は積極的に鍵となる柩の行動に干渉・助力することはなく、 あえて追っ手や不測の事態が尽きぬ苦境に彼女達を曝し続け、そこから生まれる柩の人としての感情――《心》が育まれる過程を重視している。 彼自身、そうした“流れに任せる”ような己の手法は策士というよりは、“博打打ち”と呼ぶのが相応だろうと語っているがその選択決断の全ては“己がこの勝負に勝つ”という強い覚悟に裏打ちされている。 そして同時に己が定めた“博打”に勝つためならば、他者の心を駒として切り捨てることを躊躇わない恐るべき合理性も坂本龍馬という人物の特徴と言える。 薩摩や長州、グラバー商会といった組織の中で歓心を買いながらも、最終的にはそれらを裏切り、そこから生じた悪意・殺意さえ自らが表舞台から姿を消す為の工作の材料にする…… 障害となった同郷の岡田以蔵が、自分に何を求めているのかを的確に見抜き、それを餌として与えてやる事で軽々とその抹殺を果たす…… そして生き残った柩と隼人の関係が深まった頃合いを図っての、箱根での一連の行動など…… 人の心の機微に誰よりも通じていながらも、どんなに近しい者の《心》も道具として使い潰す事も厭わない底知れぬ冷徹さは周囲の人物にとって脅威であり、彼の最大の武器なのであろう。 そうした大いなる“博打”の果てに時代が移り変わる中、幕末の亡霊・坂本龍馬が辿る道とは――― 糞眼鏡と戦神館の盲打ちを合体させたみたいなキングオブ傍迷惑 -- 名無しさん (2021-12-07 18 45 47) 天運が無くなり見事に落ちぶれたのって真祖の力を手にした二人からの制裁?それとも役割を果たしたから世界から天運を取り上げられたのどっち? -- 名無しさん (2021-12-07 23 21 08) ↑そもそも真祖の力にそんなことできる効果はないでしょ -- 名無しさん (2021-12-08 14 43 35) 名前 コメント