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「 歴史が隠蔽されたままでは、過ちは繰り返されるでしょう。 」 ~ ある技術者 <目次> ■はじめに ■右翼・左翼の源流:見取り図 ■西郷隆盛と攘夷論「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す ■日本の右翼運動の歴史 ■日本の左翼運動の歴史 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 ◆参考2:近衛上奏文 ■はじめに 右翼・左翼という言葉が、フランス大革命(1789-99)の時の国民議会で、王党派が議場の右側を占め、共和派が左側を占めた事に起源を持つことは、よく知られています。 では、近代日本における右翼・左翼の源流、そして、その歩みは、どうだったのでしょうか。 ■右翼・左翼の源流:見取り図 明治維新第一世代 明治維新第二世代 明治維新第三世代 大正期以降 体制派(政府)(開明派=親英米派) 大久保利通 伊藤博文・山県有朋 桂太郎※西園寺公望はフランス留学後にリベラル化 ⇒日本の保守の源流(*5) ‡征韓論で対立(*1) ‡対大陸方針を巡り対立(*2) 反体制派(在野)(攘夷派=親大陸派) 西郷隆盛 頭山満(玄洋社、戦前の在野右翼の巨頭、アジア主義) 内田良平(黒龍会、大陸浪人) ⇒日本の右翼の源流 ∥不平等条約改正問題で共闘(*3) ‡日露戦争への対応を巡り対立(*4) 中江兆民(ルソー『民約論』紹介者、『平民の目覚まし』) 幸徳秋水(平民新聞、のち大逆事件で刑死) ⇒日本の左翼の源流 (*1) 征韓論は、本来は同じアジアの隣邦である朝鮮・支那と結んで欧米列強に対抗することを目指した政論(=後のアジア主義(大アジア主義)であり、「朝鮮がそれに同意せず日本の足手まといになってしまう場合は、已む無く討つ」とするものだったが、戦後の教育では「朝鮮を討つ」とする部分だけを切り取って「明治維新政府の朝鮮侵略の野望」と一方的に歪曲して記述されている。 (*2) 伊藤博文ら政府側は、清朝の明治維新を手本とする改革(立憲君主制の樹立)を支援。一方、頭山・内田ら在野右翼は、孫文らの中華革命派を全面的に支援して対立した。⇒頭山・内田や孫文らの日本政府の制止を振り切っての革命運動が一時的に実って、辛亥革命が起こり清朝が滅亡したが、その後の大陸情勢は混迷を極め、日本が大東亜戦争敗戦に至るまで大陸に深く関わらざるを得ない事態を招いた(「同種同文」幻想に基づく「アジア主義」が失敗の元凶⇒詳しくは 辛亥革命~中国近代化運動の実際へ) (*3) 頭山満・中江兆民は共に西郷隆盛を政治の師と仰ぐ盟友であり、明治22年(1889)の黒田清隆首相・大隈重信外相の不平等条約改正案に強固に反対しこれを頓挫させた。 (*4) 頭山の弟子筋の内田良平は日露主戦論を唱え、中江の直弟子の幸徳秋水は非戦論を唱えて、反体制派どうしで対立し、ここに日本の右翼・左翼の対立構図が出現。 (*5) なお、日本のリベラル(自由主義)の源流は板垣退助(自由党)・大隈重信(立憲改進党)で、彼らは時宜に応じて伊藤・山県が中核を占める明治政府に参画・離脱を繰り返した。このほかフランス留学後の西園寺公望もリベラル。 (要点) 日本の右翼・左翼の源流は、共に西郷隆盛の 征韓論 にあり、支那・朝鮮などのアジア隣邦と結んで欧米列強を排除しようとする拡大された攘夷論(のちの「アジア主義」)がその思想の根底にあった。 ⇒現在でも右翼・左翼とも、こうした排欧米的な主張を基本姿勢として根強く保持していることに注意。 小林よしのり・西部邁ら「反米保守」と呼ばれる右派言論人にこうした傾向が顕著であり、「つくる会」の藤岡信勝氏にもこの傾向が見える(もともと左翼で、途中で右側に思想を変えた人に多い=親大陸派)。 これに対して、元から保守派だった人は親英米派(親米保守)で一貫している人が多い。 以上の議論は、詳しくは 政治の基礎知識 外交の基礎知識 を参照して下さい。 ■西郷隆盛と攘夷論 「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す 参考リンク:「征韓論」とリアリズム (青木直人氏ブログ) ■日本の右翼運動の歴史 日本の右翼運動 を取り込み表示 ■日本の左翼運動の歴史 日本の左翼運動 を取り込み表示 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ | 日本の右翼・左翼の歴史を振り返れば、両方とも、まさかここまで? と思うほど戦前も戦後も外国の勢力にいいように利用されていることが分かります。 団体・組織 事例 参考ページ ① 頭山満・内田良平の在野右翼 ⇒ 孫文の辛亥革命の最大の貢献者だったが、革命後に孫文にあっさり満州割譲の約束を反故にされる。 辛亥革命~中国近代化運動の実際 ② 近衛首相のブレイン(尾崎秀実・革新官僚) ⇒ 尾崎はコミンテルン工作員確定、革新官僚も怪しい人物多し。 当ページ下部参照 ③ 戦後のエセ右翼 ⇒ そのまんま外国人(約3割)。現在も日本を貶める活動に従事。 エセ右翼の正体 ④ 日本共産党 ⇒ 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。 日本共産党の正体 ⑤ 日本社会党(現、社会民主党) ⇒ 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。 旧社会党の正体 ⑥ 民主党 ⇒ 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。 民主党の正体 笑っている場合ではありません。外国勢力の浸透により、日本は実際に一度、破滅に追いやられています(下記参照)。しかも「全て日本が悪い」と決め付けられ、学校でもそう教え込まれて信じ込む者が後を絶ちません。右翼でも左翼でも普通に愛国心があれば別に良いですが、これ以上騙されたままでいるのは止めましょう。 ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 コミンテルン並に日本共産党に対する認識について コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及十月の両革命を期としロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て一九一九年三月モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが大正十二年夏所謂第一次日本共産党事件として検挙せられ次いで大正十五年十二月福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により所謂第二次日本共産党の組織が確立されましたが之亦昭和三年所謂三・一五事件として検挙され其後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され茲数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。日本共産党はコミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。其の理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。其の後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。(以下省略) ◆参考2:近衛上奏文 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。①「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、②一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、③「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、④米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものも出てきていること、以上から近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている、と結論づけている。 近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命 ※近衛上奏文の傍証1:日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也中将 ※近衛上奏文の傍証2:一億玉砕を唱えた陸軍将校:種村佐孝大佐(戦後に共産党入党) 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。 国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。 GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。 現代版近衛上奏文 (反日ワクチン様) 【関連】 左翼は右翼 政治の基礎知識 外交の基礎知識 辛亥革命~中国近代化運動の実際 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 日本の右翼・左翼についての情報、ご意見 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 名前 コメント
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「 歴史が隠蔽されたままでは、過ちは繰り返されるでしょう。 」 ~ ある技術者 <目次> ■1.はじめに ■2.右翼・左翼の源流:見取り図 ■3.西郷隆盛と攘夷論「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す ■4.日本の右翼運動の歴史 ■5.日本の左翼運動の歴史 ■6.まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 ◆参考2:近衛上奏文 ■7.ご意見、情報提供 ■1.はじめに 右翼・左翼という言葉が、フランス大革命(1789-99)の時の国民議会で、王党派が議場の右側を占め、共和派が左側を占めた事に起源を持つことは、よく知られています。 では、近代日本における右翼・左翼の源流、そして、その歩みは、どうだったのでしょうか。 ■2.右翼・左翼の源流:見取り図 明治維新第一世代 明治維新第二世代 明治維新第三世代 大正期以降 体制派(政府)(開明派=親英米派) 大久保利通 伊藤博文・山県有朋 桂太郎※西園寺公望はフランス留学後にリベラル化 ⇒日本の保守の源流(*5) ‡征韓論で対立(*1) ‡対大陸方針を巡り対立(*2) 反体制派(在野)(攘夷派=親大陸派) 西郷隆盛 頭山満(玄洋社、戦前の在野右翼の巨頭、アジア主義) 内田良平(黒龍会、大陸浪人) ⇒日本の右翼の源流 ∥不平等条約改正問題で共闘(*3) ‡日露戦争への対応を巡り対立(*4) 中江兆民(ルソー『民約論』紹介者、『平民の目覚まし』) 幸徳秋水(平民新聞、のち大逆事件で刑死) ⇒日本の左翼の源流 (*1) 征韓論は、本来は同じアジアの隣邦である朝鮮・支那と結んで欧米列強に対抗することを目指した政論(=後のアジア主義(大アジア主義)であり、「朝鮮がそれに同意せず日本の足手まといになってしまう場合は、已む無く討つ」とするものだったが、戦後の教育では「朝鮮を討つ」とする部分だけを切り取って「明治維新政府の朝鮮侵略の野望」と一方的に歪曲して記述されている。 (*2) 伊藤博文ら政府側は、清朝の明治維新を手本とする改革(立憲君主制の樹立)を支援。一方、頭山・内田ら在野右翼は、孫文らの中華革命派を全面的に支援して対立した。⇒頭山・内田や孫文らの日本政府の制止を振り切っての革命運動が一時的に実って、辛亥革命が起こり清朝が滅亡したが、その後の大陸情勢は混迷を極め、日本が大東亜戦争敗戦に至るまで大陸に深く関わらざるを得ない事態を招いた(「同種同文」幻想に基づく「アジア主義」が失敗の元凶⇒詳しくは 辛亥革命~中国近代化運動の実際へ) (*3) 頭山満・中江兆民は共に西郷隆盛を政治の師と仰ぐ盟友であり、明治22年(1889)の黒田清隆首相・大隈重信外相の不平等条約改正案に強固に反対しこれを頓挫させた。 (*4) 頭山の弟子筋の内田良平は日露主戦論を唱え、中江の直弟子の幸徳秋水は非戦論を唱えて、反体制派どうしで対立し、ここに日本の右翼・左翼の対立構図が出現。 (*5) なお、日本のリベラル(自由主義)の源流は板垣退助(自由党)・大隈重信(立憲改進党)で、彼らは時宜に応じて伊藤・山県が中核を占める明治政府に参画・離脱を繰り返した。このほかフランス留学後の西園寺公望もリベラル。 (要点) 日本の右翼・左翼の源流は、共に西郷隆盛の 征韓論 にあり、支那・朝鮮などのアジア隣邦と結んで欧米列強を排除しようとする拡大された攘夷論(のちの「アジア主義」)がその思想の根底にあった。 ⇒現在でも右翼・左翼とも、こうした排欧米的な主張を基本姿勢として根強く保持していることに注意。 小林よしのり・西部邁ら「反米保守」と呼ばれる右派言論人にこうした傾向が顕著であり、「つくる会」の藤岡信勝氏にもこの傾向が見える(もともと左翼で、途中で右側に思想を変えた人に多い=親大陸派)。 これに対して、元から保守派だった人は親英米派(親米保守)で一貫している人が多い。 以上の議論は、詳しくは 政治の基礎知識 外交の基礎知識 を参照して下さい。 ■3.西郷隆盛と攘夷論 「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す 参考リンク:「征韓論」とリアリズム (青木直人氏ブログ) ■4.日本の右翼運動の歴史 1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満 (1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平 (1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明 (1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝 (1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召 (日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学 (日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智 (浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され 、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件 (1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣 (1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会 結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院 ・昭和研究会 ~革新官僚 の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏 (1899-1990)と大日本愛国党 (1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体 の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系 (左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風 と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動 が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼 日本の右翼運動 を取り込み表示 ■5.日本の左翼運動の歴史 1. 左翼思想の日本への紹介 (1) 中江兆民 (1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。 (2) 幸徳秋水 (1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。 2. 無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932) (1) 堺利彦 (1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。 (2) 安部磯雄 (1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。 (3) 杉山元治郎 と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家) の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。 3. コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次) (1) 片山潜 (1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。 (2) コミンテルン22年テーゼ (方針書)と日本共産党 結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。 (3) 日本共産党第二次結党(1926)とコミンテルン27年テーゼ (1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って山川均 (山川イズム:大衆運動を重視)と福本和夫 (福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。 (4) 労農党浸透工作と3.15事件 (1928)、4.16事件 (1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。 4. コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争 (1) コミンテルン32年テーゼ (1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制 をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や羽仁五郎 (マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた歴史学研究会 (歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒高森アイズ また戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い丸山眞男 の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。 (2) 講座派 (日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 (3) 労農派 (社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 5. 左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向 (1) 赤松克麿 と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。 (2) 佐野学 ・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。 (3) 講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32名を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。 (4) 労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権) に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した(人民戦線事件 )。これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。 6. 敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで (1) GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。 (2) 日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。 (3) 日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の片山哲 が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。 (4) 2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。 (5) GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党所感派 の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には血のメーデー事件 を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「国際派 」という。なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために破壊活動防止法(破防法) が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に宮本顕治 が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。 (6) 安保闘争 と新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。 日本の左翼運動 を取り込み表示 ■6.まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ | 日本の右翼・左翼の歴史を振り返れば、両方とも、まさかここまで? と思うほど戦前も戦後も外国の勢力にいいように利用されていることが分かります。 団体・組織 事例 参考ページ ① 頭山満・内田良平の在野右翼 ⇒ 孫文の辛亥革命の最大の貢献者だったが、革命後に孫文にあっさり満州割譲の約束を反故にされる。 辛亥革命~中国近代化運動の実際 ② 近衛首相のブレイン(尾崎秀実・革新官僚) ⇒ 尾崎はコミンテルン工作員確定、革新官僚も怪しい人物多し。 当ページ下部参照 ③ 戦後のエセ右翼 ⇒ そのまんま外国人(約3割)。現在も日本を貶める活動に従事。 エセ右翼の正体 ④ 日本共産党 ⇒ 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。 日本共産党の正体 ⑤ 日本社会党(現、社会民主党) ⇒ 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。 旧社会党の正体 ⑥ 民主党 ⇒ 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。 民主党の正体 笑っている場合ではありません。外国勢力の浸透により、日本は実際に一度、破滅に追いやられています(下記参照)。しかも「全て日本が悪い」と決め付けられ、学校でもそう教え込まれて信じ込む者が後を絶ちません。右翼でも左翼でも普通に愛国心があれば別に良いですが、これ以上騙されたままでいるのは止めましょう。 ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 コミンテルン並に日本共産党に対する認識について コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及十月の両革命を期としロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て一九一九年三月モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが大正十二年夏所謂第一次日本共産党事件として検挙せられ次いで大正十五年十二月福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により所謂第二次日本共産党の組織が確立されましたが之亦昭和三年所謂三・一五事件として検挙され其後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され茲数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。日本共産党はコミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。其の理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。其の後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。(以下省略) ◆参考2:近衛上奏文 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。①「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、②一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、③「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、④米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものも出てきていること、以上から近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている、と結論づけている。 近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命 ※近衛上奏文の傍証1:日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也中将 ※近衛上奏文の傍証2:一億玉砕を唱えた陸軍将校:種村佐孝大佐(戦後に共産党入党) 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。 国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。 GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。 現代版近衛上奏文 (反日ワクチン様) 【関連】 左翼は右翼 政治の基礎知識 外交の基礎知識 辛亥革命~中国近代化運動の実際 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 ■7.ご意見、情報提供 ページ内容向上のためのご意見・情報提供を歓迎します。 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 元ページ右翼・左翼の歴史 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評 は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 社会主義者はそう簡単に転向しやしないどこかでまた破綻した社会主義の復活をやろうと狙っている -- 名無しさん (2014-09-06 14 13 19) 親大陸派=社会主義者と見れば、恐らく左右どちらのイデオロギーにいても同じです。つまり転向は繰り返しても海洋派にはなれません -- 名無しさん (2014-12-24 21 03 48) 鈴木貫太郎がコミンテルンの手先だとおっしゃるなら、ソースはもちろん貼れますよね?むしろ鈴木貫太郎は日本が敗戦に向かう中国益を守る方向での終戦に持っていくように努力しています(wikipedia参照)。それをヒトラーにすればその文章はまったく持って正しくなりますが。 -- 名無しさん (2014-12-24 21 06 59) 過去の共産主義を批判しても仕方ないゾ -- 名無しさん (2015-11-13 23 57 11) 明石元二郎陸軍大佐の後継者を育成しなかったのが、日本にとって最もたる致命的ミスでした。 -- 愛国烈士 (2015-12-08 15 01 45) そのモ◯ホー恨島工作員は 「てきとう」 というサイトでコテハン 「原土地SDF」 などとぬかしながらも今度は 「アンチ嫌韓馬鹿の漁師」 などとぬかしながら今度は 「ネトウヨ連呼厨撲滅運動」 などとぬかしながら今度は 「回避趣味者」 などとぬかしながら 今度は 「モ◯ホー〇慰隊」 などとぬかしながら 今度は 「共和主義者」 などとぬかしながら 今度は 「ホモは日本の伝統文化」 などとぬかし ホントは 「姦コレ趣味者」 の 性懲りもなく知的障害で自衛隊が務まらなかったヨン様好きの40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジバレバレ丸出しでついには他の者からもバレバレ丸出しになり特定されてフルボッコになって泣きべそかきまくりで低能変態ホモシャブ戦隊を露呈し、荒らしでついには有名なモ◯ホー恨島工作員としてリストにいれられている大阪府堺市に巣食うセルフ肛門であるというコトを拡散されている阪南の慰安父なのですよ(大爆笑) - 大阪府堺市に巣食うIQ70★姦コレで〆るコトが趣味の自衛隊クビになった軟弱者(爆) 2016-05-09 19 45 20 >いいから、さっさとドキチガイ病棟にこもってろ、黄色い救急車が駆けつけてくる前によw ソリャ、コイツは大阪府堺市に巣食うIQ70しかない知的障害で自衛隊クビになった軟弱者のキモオタアニメ同好会の40代後半のキムチオヤジは福祉施設で就労移行の為に職業訓練をしていたが施設から脱走して今度はパチンカスでもあり、ソノ儲けをワザワザ自らの肛門に突っ込ませる為にテポドン開発の為に捧げ、ついには自らのア〇ル開発の為に将軍様にア〇ルを捧げる施設に連れ戻して拘束して徹底的にア〇ル開発するしかないバリバリの阪南の慰安父だからなのですよ(大爆笑) ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害★施設から脱走肛門開発(爆) 2016-05-10 17 53 39 やはり大阪府堺市在住の阪南の慰安父のモ◯ホー恨島工作員は姦コレで〆かよ寒流ドラマ(笑)の冬のソナタ好きのリアルゲイで兵役逃れのケ◯の穴(大爆笑) の40代後半のキムチオヤジキモオタ変態精神障害患者wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70★姦コレで〆るコトが趣味のホモは日本の伝統文化(爆) 2016-05-15 21 26 46 ソリャ、オマエは大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害で自衛隊で次から次へと隊員のケツの穴を掘り第ホモ精神科下半身連隊にまで出世したが組織の風紀を乱し、生まれつき下のオツムも発達障害のお粗末短小下銃手9㎝で短小下銃手とキムチ食班でわずか3年でクビになり、性懲りもなくアイドルマスターベーション好きの夢原響とキモオタアニメ同好会の40代後半のキムチオヤジで日々姦コレで〆る真正のキチガイチョウセンヒトモドキだからな(大爆笑) ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るホモシャブ戦隊(爆) 2016-05-16 21 53 44 >105 ※102-103 あんたもその大阪府堺市のIQ70野郎を攻撃するのはいくらでも構わんが、てきとうのコメント欄を荒らすのだけはそろそろやめような。 関係ない人にまで迷惑がかかってしまうからな。 俺はあんたのためを思って言ってるんだぞ。 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 自演バレバレ丸出しリアルゲイで兵役逃れのケツの穴のモーホー恨島工作員ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ヘタレビビリまくりであちらこちらに晒されるコトに怯えまくりの大阪府堺市に巣食うIQ70しかない知的障害で自衛隊クビになった軟弱者のキモオタアニメ同好会の40代後半のキムチオヤジwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 関係の無い者ってオマエがココに湧いてんだろお約束の 「愛国者の元陸上自衛官@切込隊長」 などと性懲りもなく知的障害で自衛隊が務まらなかったヨン様好きの40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww オマエの為を思って言ってやる 大人しく阪南の慰安父は掘られて死ね(大爆笑) - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆る兵役逃れのケツの穴(爆) 2016-05-18 20 55 28 早くアナルガバガバ9㎝からトンスル吹いてみやがれ大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るインポ早漏野郎wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww クサスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るインポ早漏野郎(爆) 2016-05-30 19 38 34 >通称「土抹」って誰 ? ホレホレ誰だよソイツ ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 性懲りもなく 「姦コレで〆るコトが趣味」 で 自衛隊クビになった軟弱者の40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジのモーホー恨島工作員wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害★ヘタレビビリウンコ垂れ流し(爆) 2016-06-06 15 55 59 ぼくゎ大阪罠國土人でふぐすま恨民族並みに何も証拠を提示出来ずに嘘と捏造で人騙して窃盗稼業を日課とする遺伝子レベルの窃盗民族で何も根拠無しに「長州ガー」連呼厨の低能変態オツム晒して何も反論出来ずに話逸らして負け犬の遠吠えを繰り返して赤っ恥晒してる下等生物のモーホー恨島工作員なのれす許してくらさい肛門発狂ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう - 大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害で自衛隊クビ★負け犬の遠吠えモーホー恨島工作員(爆) 2016-06-23 16 14 42 以下は最新コメント表示 元ページ右翼・左翼の歴史 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評 は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 社会主義者はそう簡単に転向しやしないどこかでまた破綻した社会主義の復活をやろうと狙っている -- 名無しさん (2014-09-06 14 13 19) 親大陸派=社会主義者と見れば、恐らく左右どちらのイデオロギーにいても同じです。つまり転向は繰り返しても海洋派にはなれません -- 名無しさん (2014-12-24 21 03 48) 鈴木貫太郎がコミンテルンの手先だとおっしゃるなら、ソースはもちろん貼れますよね?むしろ鈴木貫太郎は日本が敗戦に向かう中国益を守る方向での終戦に持っていくように努力しています(wikipedia参照)。それをヒトラーにすればその文章はまったく持って正しくなりますが。 -- 名無しさん (2014-12-24 21 06 59) 過去の共産主義を批判しても仕方ないゾ -- 名無しさん (2015-11-13 23 57 11) 明石元二郎陸軍大佐の後継者を育成しなかったのが、日本にとって最もたる致命的ミスでした。 -- 愛国烈士 (2015-12-08 15 01 45) そのモ◯ホー恨島工作員は 「てきとう」 というサイトでコテハン 「原土地SDF」 などとぬかしながらも今度は 「アンチ嫌韓馬鹿の漁師」 などとぬかしながら今度は 「ネトウヨ連呼厨撲滅運動」 などとぬかしながら今度は 「回避趣味者」 などとぬかしながら 今度は 「モ◯ホー〇慰隊」 などとぬかしながら 今度は 「共和主義者」 などとぬかしながら 今度は 「ホモは日本の伝統文化」 などとぬかし ホントは 「姦コレ趣味者」 の 性懲りもなく知的障害で自衛隊が務まらなかったヨン様好きの40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジバレバレ丸出しでついには他の者からもバレバレ丸出しになり特定されてフルボッコになって泣きべそかきまくりで低能変態ホモシャブ戦隊を露呈し、荒らしでついには有名なモ◯ホー恨島工作員としてリストにいれられている大阪府堺市に巣食うセルフ肛門であるというコトを拡散されている阪南の慰安父なのですよ(大爆笑) - 大阪府堺市に巣食うIQ70★姦コレで〆るコトが趣味の自衛隊クビになった軟弱者(爆) 2016-05-09 19 45 20 >いいから、さっさとドキチガイ病棟にこもってろ、黄色い救急車が駆けつけてくる前によw 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ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るホモシャブ戦隊(爆) 2016-05-16 21 53 44 >105 ※102-103 あんたもその大阪府堺市のIQ70野郎を攻撃するのはいくらでも構わんが、てきとうのコメント欄を荒らすのだけはそろそろやめような。 関係ない人にまで迷惑がかかってしまうからな。 俺はあんたのためを思って言ってるんだぞ。 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 自演バレバレ丸出しリアルゲイで兵役逃れのケツの穴のモーホー恨島工作員ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ヘタレビビリまくりであちらこちらに晒されるコトに怯えまくりの大阪府堺市に巣食うIQ70しかない知的障害で自衛隊クビになった軟弱者のキモオタアニメ同好会の40代後半のキムチオヤジwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 関係の無い者ってオマエがココに湧いてんだろお約束の 「愛国者の元陸上自衛官@切込隊長」 などと性懲りもなく知的障害で自衛隊が務まらなかったヨン様好きの40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww オマエの為を思って言ってやる 大人しく阪南の慰安父は掘られて死ね(大爆笑) - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆る兵役逃れのケツの穴(爆) 2016-05-18 20 55 28 早くアナルガバガバ9㎝からトンスル吹いてみやがれ大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るインポ早漏野郎wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww クサスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70発達障害患者★姦コレで〆るインポ早漏野郎(爆) 2016-05-30 19 38 34 >通称「土抹」って誰 ? ホレホレ誰だよソイツ ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 性懲りもなく 「姦コレで〆るコトが趣味」 で 自衛隊クビになった軟弱者の40代後半のキモオタアニメ同好会オヤジのモーホー恨島工作員wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww - 大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害★ヘタレビビリウンコ垂れ流し(爆) 2016-06-06 15 55 59 ぼくゎ大阪罠國土人でふぐすま恨民族並みに何も証拠を提示出来ずに嘘と捏造で人騙して窃盗稼業を日課とする遺伝子レベルの窃盗民族で何も根拠無しに「長州ガー」連呼厨の低能変態オツム晒して何も反論出来ずに話逸らして負け犬の遠吠えを繰り返して赤っ恥晒してる下等生物のモーホー恨島工作員なのれす許してくらさい肛門発狂ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう - 大阪府堺市に巣食うIQ70知的障害で自衛隊クビ★負け犬の遠吠えモーホー恨島工作員(爆) 2016-06-23 16 14 42 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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執筆者 森園祐一(F9 糞虫小僧 オケラ 住所 荒らし なんJ 身バレ レミング ヒロシ スレ 特定 ) 54歳生活保護無職 神奈川県座間市相武台4-16-12 コーポ信和Ⅱ103号室 「 歴史が隠蔽されたままでは、過ちは繰り返されるでしょう。 」 ~ ある技術者 <目次> 執筆者 森園祐一(F9 糞虫小僧 オケラ 住所 荒らし なんJ 身バレ レミング ヒロシ スレ 特定 ) 54歳生活保護無職 神奈川県座間市相武台4-16-12 コーポ信和Ⅱ103号室 ■はじめに ■右翼・左翼の源流:見取り図 ■西郷隆盛と攘夷論「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す ■日本の右翼運動の歴史 ■日本の左翼運動の歴史 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 ◆参考2:近衛上奏文 ■ご意見、情報提供 ■はじめに 右翼・左翼という言葉が、フランス大革命(1789-99)の時の国民議会で、王党派が議場の右側を占め、共和派が左側を占めた事に起源を持つことは、よく知られています。 では、近代日本における右翼・左翼の源流、そして、その歩みは、どうだったのでしょうか。 ■右翼・左翼の源流:見取り図 明治維新第一世代 明治維新第二世代 明治維新第三世代 大正期以降 体制派(政府)(開明派=親英米派) 大久保利通 伊藤博文・山県有朋 桂太郎※西園寺公望はフランス留学後にリベラル化 ⇒日本の保守の源流(*5) ‡征韓論で対立(*1) ‡対大陸方針を巡り対立(*2) 反体制派(在野)(攘夷派=親大陸派) 西郷隆盛 頭山満(玄洋社、戦前の在野右翼の巨頭、アジア主義) 内田良平(黒龍会、大陸浪人) ⇒日本の右翼の源流 ∥不平等条約改正問題で共闘(*3) ‡日露戦争への対応を巡り対立(*4) 中江兆民(ルソー『民約論』紹介者、『平民の目覚まし』) 幸徳秋水(平民新聞、のち大逆事件で刑死) ⇒日本の左翼の源流 (*1) 征韓論は、本来は同じアジアの隣邦である朝鮮・支那と結んで欧米列強に対抗することを目指した政論(=後のアジア主義(大アジア主義)であり、「朝鮮がそれに同意せず日本の足手まといになってしまう場合は、已む無く討つ」とするものだったが、戦後の教育では「朝鮮を討つ」とする部分だけを切り取って「明治維新政府の朝鮮侵略の野望」と一方的に歪曲して記述されている。 (*2) 伊藤博文ら政府側は、清朝の明治維新を手本とする改革(立憲君主制の樹立)を支援。一方、頭山・内田ら在野右翼は、孫文らの中華革命派を全面的に支援して対立した。⇒頭山・内田や孫文らの日本政府の制止を振り切っての革命運動が一時的に実って、辛亥革命が起こり清朝が滅亡したが、その後の大陸情勢は混迷を極め、日本が大東亜戦争敗戦に至るまで大陸に深く関わらざるを得ない事態を招いた(「同種同文」幻想に基づく「アジア主義」が失敗の元凶⇒詳しくは 辛亥革命~中国近代化運動の実際へ) (*3) 頭山満・中江兆民は共に西郷隆盛を政治の師と仰ぐ盟友であり、明治22年(1889)の黒田清隆首相・大隈重信外相の不平等条約改正案に強固に反対しこれを頓挫させた。 (*4) 頭山の弟子筋の内田良平は日露主戦論を唱え、中江の直弟子の幸徳秋水は非戦論を唱えて、反体制派どうしで対立し、ここに日本の右翼・左翼の対立構図が出現。 (*5) なお、日本のリベラル(自由主義)の源流は板垣退助(自由党)・大隈重信(立憲改進党)で、彼らは時宜に応じて伊藤・山県が中核を占める明治政府に参画・離脱を繰り返した。このほかフランス留学後の西園寺公望もリベラル。 (要点) 日本の右翼・左翼の源流は、共に西郷隆盛の 征韓論 にあり、支那・朝鮮などのアジア隣邦と結んで欧米列強を排除しようとする拡大された攘夷論(のちの「アジア主義」)がその思想の根底にあった。 ⇒現在でも右翼・左翼とも、こうした排欧米的な主張を基本姿勢として根強く保持していることに注意。 小林よしのり・西部邁ら「反米保守」と呼ばれる右派言論人にこうした傾向が顕著であり、「つくる会」の藤岡信勝氏にもこの傾向が見える(もともと左翼で、途中で右側に思想を変えた人に多い=親大陸派)。 これに対して、元から保守派だった人は親英米派(親米保守)で一貫している人が多い。 以上の議論は、詳しくは 政治の基礎知識 外交の基礎知識 を参照して下さい。 ■西郷隆盛と攘夷論 「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す 参考リンク:「征韓論」とリアリズム (青木直人氏ブログ) ■日本の右翼運動の歴史 日本の右翼運動 を取り込み表示 ■日本の左翼運動の歴史 日本の左翼運動 を取り込み表示 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ | 日本の右翼・左翼の歴史を振り返れば、両方とも、まさかここまで? と思うほど戦前も戦後も外国の勢力にいいように利用されていることが分かります。 団体・組織 事例 参考ページ ① 頭山満・内田良平の在野右翼 ⇒ 孫文の辛亥革命の最大の貢献者だったが、革命後に孫文にあっさり満州割譲の約束を反故にされる。 辛亥革命~中国近代化運動の実際 ② 近衛首相のブレイン(尾崎秀実・革新官僚) ⇒ 尾崎はコミンテルン工作員確定、革新官僚も怪しい人物多し。 当ページ下部参照 ③ 戦後のエセ右翼 ⇒ そのまんま外国人(約3割)。現在も日本を貶める活動に従事。 エセ右翼の正体 ④ 日本共産党 ⇒ 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。 日本共産党の正体 ⑤ 日本社会党(現、社会民主党) ⇒ 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。 旧社会党の正体 ⑥ 民主党 ⇒ 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。 民主党の正体 笑っている場合ではありません。外国勢力の浸透により、日本は実際に一度、破滅に追いやられています(下記参照)。しかも「全て日本が悪い」と決め付けられ、学校でもそう教え込まれて信じ込む者が後を絶ちません。右翼でも左翼でも普通に愛国心があれば別に良いですが、これ以上騙されたままでいるのは止めましょう。 ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 コミンテルン並に日本共産党に対する認識について コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及十月の両革命を期としロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て一九一九年三月モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが大正十二年夏所謂第一次日本共産党事件として検挙せられ次いで大正十五年十二月福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により所謂第二次日本共産党の組織が確立されましたが之亦昭和三年所謂三・一五事件として検挙され其後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され茲数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。日本共産党はコミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。其の理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。其の後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。(以下省略) ◆参考2:近衛上奏文 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。①「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、②一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、③「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、④米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものも出てきていること、以上から近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている、と結論づけている。 近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命 ※近衛上奏文の傍証1:日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也中将 ※近衛上奏文の傍証2:一億玉砕を唱えた陸軍将校:種村佐孝大佐(戦後に共産党入党) 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。 国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。 GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。 現代版近衛上奏文 (反日ワクチン様) 【関連】 左翼は右翼 政治の基礎知識 外交の基礎知識 辛亥革命~中国近代化運動の実際 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 ■ご意見、情報提供 国民が知らない~wiki避難所
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書名 秘密結社の日本史 書誌情報 出版社(叢書・シリーズ名)平凡社(平凡社新書389) 発行年月日2007年9月10日 版型 造本データ ページ数新書判 並製 226ページ 定価780円 装丁菊地信義 目次 プロローグ――日本に秘密結社はあるか? 7秘密結社とは 秘密結社の分類 日本に秘密結社はあるか? 岡正雄の秘密結社論 血縁・地縁・社縁 第一章 古代――神話の中の秘密結社 17死と再生の密議 折口信夫の〈まれびと〉論 金属神の結社 仏教伝来と聖徳太子の結社 密教と道教 第二章 中世――遊行する神々と新仏教 39私度僧と行基集団 役小角と修験道 観学会と二十五三昧会 源信の迎講と釈迦講 人神と秘密結社 法然の浄土宗の禁止 親鸞の結社 日蓮とアポカリプス 時衆阿弥教団 第三章 近世――異形者・職人・芸能民 83南北朝大陰謀時代 邪教立川流 職人と芸能民の結社 穢れと差別 立川流と「ぼろぼろ」 一向一揆 蓮如と本願寺教団 〈講〉と〈組〉 加賀から三河、近畿へ 鑓講とワタリ職人 秘事法門 日蓮宗の異端、不受不施派 茶道と秘伝 第四章 江戸――巨大なアンダーワールド 129男伊達の世界 天草四郎の伝説 由井正雪の慶安事件 赤穂浪士の結社 兵法伝授という秘密 安藤昌益と転真敬会 〈かくれ〉と〈かくし〉 大塩平八郎の乱 蛮社の獄 大原幽学の先祖株組合 水戸天狗党 幕末の結社 第五章 近代――天皇制と近代化の呪縛 183近代日本の結社 神風連 秩父困民党 右翼の源流――玄洋社と黒龍会 大逆事件 アナキズムの結社――ギロチン社 大本教事件 血盟団 死なう団 芸術の結社 相対会 超古代史の秘密結社 ゾルゲ事件 ヤクザの組 三島由紀夫と盾の会 連合赤軍 エピローグ 221 主要参考文献 224 主な初出 書き下ろし
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喜怒哀楽の源流 No.9166 喜怒哀楽の源流 イベントカード 使用:戦闘 条件:こいし こころ 呪力3 覚醒:呪力2 以下の4つの効果のうち1つを選択する。 このイベントが覚醒状態の場合、以下の4つの効果のうち2つを選択する。 1.フェイズ終了時まで、自分のリーダーは「回避+2」を得る。 2.フェイズ終了時まで、スペル1枚は「防壁(2)」を得る。 3.フェイズ終了時まで、スペル1枚は「命中+2」を得る。 4.フェイズ終了時まで、スペル1枚は相手のイベント・特殊能力の目標にならない。 イラスト:やまのらのえ 考察 コスト消費次第で色々追加するイベント。 回避・防壁・命中のいずれかの強化、またはスペルへの耐性を与える。 大抵は回避を上げる事が多いだろうが、状況次第で防壁を上げて打点を抑えたり、単純な命中補正としても使用出来る。 覚醒させれば適用出来る効果も増えるが、呪力5という数値は決して軽くはないので、適用させる効果は慎重に選びたいところ。
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「 歴史が隠蔽されたままでは、過ちは繰り返されるでしょう。 」 ~ ある技術者 <目次> ■はじめに ■右翼・左翼の源流:見取り図 ■西郷隆盛と攘夷論「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す ■日本の右翼運動の歴史 ■日本の左翼運動の歴史 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 ◆参考2:近衛上奏文 ■はじめに 右翼・左翼という言葉が、フランス大革命(1789-99)の時の国民議会で、王党派が議場の右側を占め、共和派が左側を占めた事に起源を持つことは、よく知られています。 では、近代日本における右翼・左翼の源流、そして、その歩みは、どうだったのでしょうか。 ■右翼・左翼の源流:見取り図 明治維新第一世代 明治維新第二世代 明治維新第三世代 大正期以降 体制派(政府)(開明派=親英米派) 大久保利通 伊藤博文・山県有朋 桂太郎※西園寺公望はフランス留学後にリベラル化 ⇒日本の保守の源流(*5) ‡征韓論で対立(*1) ‡対大陸方針を巡り対立(*2) 反体制派(在野)(攘夷派=親大陸派) 西郷隆盛 頭山満(玄洋社、戦前の在野右翼の巨頭、アジア主義) 内田良平(黒龍会、大陸浪人) ⇒日本の右翼の源流 ∥不平等条約改正問題で共闘(*3) ‡日露戦争への対応を巡り対立(*4) 中江兆民(ルソー『民約論』紹介者、『平民の目覚まし』) 幸徳秋水(平民新聞、のち大逆事件で刑死) ⇒日本の左翼の源流 (*1) 征韓論は、本来は同じアジアの隣邦である朝鮮・支那と結んで欧米列強に対抗することを目指した政論(=後のアジア主義(大アジア主義)であり、「朝鮮がそれに同意せず日本の足手まといになってしまう場合は、已む無く討つ」とするものだったが、戦後の教育では「朝鮮を討つ」とする部分だけを切り取って「明治維新政府の朝鮮侵略の野望」と一方的に歪曲して記述されている。 (*2) 伊藤博文ら政府側は、清朝の明治維新を手本とする改革(立憲君主制の樹立)を支援。一方、頭山・内田ら在野右翼は、孫文らの中華革命派を全面的に支援して対立した。⇒頭山・内田や孫文らの日本政府の制止を振り切っての革命運動が一時的に実って、辛亥革命が起こり清朝が滅亡したが、その後の大陸情勢は混迷を極め、日本が大東亜戦争敗戦に至るまで大陸に深く関わらざるを得ない事態を招いた(「同種同文」幻想に基づく「アジア主義」が失敗の元凶⇒詳しくは 辛亥革命~中国近代化運動の実際へ) (*3) 頭山満・中江兆民は共に西郷隆盛を政治の師と仰ぐ盟友であり、明治22年(1889)の黒田清隆首相・大隈重信外相の不平等条約改正案に強固に反対しこれを頓挫させた。 (*4) 頭山の弟子筋の内田良平は日露主戦論を唱え、中江の直弟子の幸徳秋水は非戦論を唱えて、反体制派どうしで対立し、ここに日本の右翼・左翼の対立構図が出現。 (*5) なお、日本のリベラル(自由主義)の源流は板垣退助(自由党)・大隈重信(立憲改進党)で、彼らは時宜に応じて伊藤・山県が中核を占める明治政府に参画・離脱を繰り返した。このほかフランス留学後の西園寺公望もリベラル。 (要点) 日本の右翼・左翼の源流は、共に西郷隆盛の 征韓論 にあり、支那・朝鮮などのアジア隣邦と結んで欧米列強を排除しようとする拡大された攘夷論(のちの「アジア主義」)がその思想の根底にあった。 ⇒現在でも右翼・左翼とも、こうした排欧米的な主張を基本姿勢として根強く保持していることに注意。 小林よしのり・西部邁ら「反米保守」と呼ばれる右派言論人にこうした傾向が顕著であり、「つくる会」の藤岡信勝氏にもこの傾向が見える(もともと左翼で、途中で右側に思想を変えた人に多い=親大陸派)。 これに対して、元から保守派だった人は親英米派(親米保守)で一貫している人が多い。 以上の議論は、詳しくは 政治の基礎知識 外交の基礎知識 を参照して下さい。 ■西郷隆盛と攘夷論 「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す 参考リンク: 「征韓論」とリアリズム (青木直人氏ブログ) ■日本の右翼運動の歴史 1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満 (1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平 (1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明 (1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝 (1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召 (日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学 (日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智 (浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、 欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され 、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件 (1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣 (1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会 結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院 ・ 昭和研究会 ~ 革新官僚 の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏 (1899-1990)と 大日本愛国党 (1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体 の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、 右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系 (左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風 と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年 「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動 が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク: 日本の右翼 日本の右翼運動 を取り込み表示 ■日本の左翼運動の歴史 1. 左翼思想の日本への紹介 (1) 中江兆民 (1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。 (2) 幸徳秋水 (1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。 2. 無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932) (1) 堺利彦 (1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。 (2) 安部磯雄 (1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。 (3) 杉山元治郎 と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。 賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家) の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。 3. コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次) (1) 片山潜 (1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。 (2) コミンテルン22年テーゼ (方針書)と 日本共産党 結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。 (3) 日本共産党第二次結党(1926)と コミンテルン27年テーゼ (1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って 山川均 (山川イズム:大衆運動を重視)と 福本和夫 (福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。 (4) 労農党浸透工作と 3.15事件 (1928)、 4.16事件 (1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。 4. コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争 (1) コミンテルン32年テーゼ (1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として 天皇制 をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や 羽仁五郎 (マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた 歴史学研究会 (歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒ 高森アイズ また戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い 丸山眞男 の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。 (2) 講座派 (日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 (3) 労農派 (社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 5. 左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向 (1) 赤松克麿 と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。 (2) 佐野学 ・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。 (3) 講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32名を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。 (4) 労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した 人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権) に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した( 人民戦線事件 )。これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。 6. 敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで (1) GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。 (2) 日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。 (3) 日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の 片山哲 が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。 (4) 2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。 (5) GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党 所感派 の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には 血のメーデー事件 を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「 国際派 」という。なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために 破壊活動防止法(破防法) が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に 宮本顕治 が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。 (6) 安保闘争 と 新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。 日本の左翼運動 を取り込み表示 ■まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ | 日本の右翼・左翼の歴史を振り返れば、両方とも、まさかここまで? と思うほど戦前も戦後も外国の勢力にいいように利用されていることが分かります。 団体・組織 事例 参考ページ ① 頭山満・内田良平の在野右翼 ⇒ 孫文の辛亥革命の最大の貢献者だったが、革命後に孫文にあっさり満州割譲の約束を反故にされる。 辛亥革命~中国近代化運動の実際 ② 近衛首相のブレイン(尾崎秀実・革新官僚) ⇒ 尾崎はコミンテルン工作員確定、革新官僚も怪しい人物多し。 当ページ下部参照 ③ 戦後のエセ右翼 ⇒ そのまんま外国人(約3割)。現在も日本を貶める活動に従事。 エセ右翼の正体 ④ 日本共産党 ⇒ 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。 日本共産党の正体 ⑤ 日本社会党(現、社会民主党) ⇒ 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。 旧社会党の正体 ⑥ 民主党 ⇒ 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。 民主党の正体 笑っている場合ではありません。外国勢力の浸透により、日本は実際に一度、破滅に追いやられています(下記参照)。しかも「全て日本が悪い」と決め付けられ、学校でもそう教え込まれて信じ込む者が後を絶ちません。右翼でも左翼でも普通に愛国心があれば別に良いですが、これ以上騙されたままでいるのは止めましょう。 ◆参考1: 尾崎秀実獄中手記 コミンテルン並に日本共産党に対する認識について コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及十月の両革命を期としロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て一九一九年三月モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが大正十二年夏所謂第一次日本共産党事件として検挙せられ次いで大正十五年十二月福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により所謂第二次日本共産党の組織が確立されましたが之亦昭和三年所謂三・一五事件として検挙され其後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され茲数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。日本共産党はコミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。其の理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。其の後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。(以下省略) ◆参考2: 近衛上奏文 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。①「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、②一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、③「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、④米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものも出てきていること、以上から近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている、と結論づけている。 近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命 ※近衛上奏文の傍証1: 日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也中将 ※近衛上奏文の傍証2: 一億玉砕を唱えた陸軍将校:種村佐孝大佐(戦後に共産党入党) 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。 国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。 GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。 現代版近衛上奏文 (反日ワクチン様) 【関連】 左翼は右翼 政治の基礎知識 外交の基礎知識 辛亥革命~中国近代化運動の実際 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 日本の右翼・左翼についての情報、ご意見 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。 産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評 は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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【右翼の笑う躍輪】 読み方 パンプキン・デビウィザークリーチャー/UCコスト 4 パワー 3000 🌊🌱種族 ウィング/ワイルド・べジーズ/躍輪屋 <キルクルステップ>[🌊🌱 ②]水または自然のクリーチャーを2体、持ち主の手札に戻し、[🌊🌱 ②]支払って、このクリーチャーを自分のマナゾーンから召喚してもよい。■自分のシールドが3つ以下なら、このクリーチャーは召喚酔いしない。 [FT]夢と現実が曖昧になり、躍輪屋の華麗なステップで肉体と意識があやふやになった2人のオーバーマスター。手下たちの支援虚しく、ハナガタとエンジョイ ジョイは沈黙してしまった。 DMKP-03にて登場した、ウィング/ワイルド・べジーズ/躍輪屋。 自分のシールドが3つ以下の時、召喚酔いが無くなる革命のような効果を持つ。キルクルステップにより奇襲を掛けることもできるだろう。 ウィングは、とあるオリカ師によるオリジナル種族。 サイクル DMKP-03にて登場した自分のシールドが3つ以下なら召喚酔いしなくなる能力を持つアンコモンサイクル。 後半5チームが持ち、夢奏家だけが存在しない。 【右翼の笑う躍輪】 【魔セ蟲 だルディオン】 【日照らし ワイバラルディ】 【ポップる詐欺師】
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右翼の真実 はじめに 右翼が在日であると云うの誤った認識を持っている人が多く見受けられるようになってきた為真実を記します。 右翼の定義 日本国において、『国家』『民族』主義を幹として、社会構造の不(合理・公平・公正)を正す運動主体を右翼と呼ぶ。 日本国家・民族主義とは? 日本は、過去より単一民族国家であり、「国家=民族」の概念が存在していた。 また、伝統文化や政治の中心に天皇が存在しており、古事記・日本書紀に準じ、天皇が神の系統を持つという認識もある。 これにより、日本国家・民族主義とは古来からの歴史や伝統文化及び国軆を護持する思想や行動と為り、これらの運動主体が右翼(団体)である。 何故『天皇』=神となるのか? 古事記・日本書紀等の日本神話は、其の当時の日本人の生活に沿った宗教・哲学・文学・歴史・神典的な書である。 古事記に於いては、日本以外の思想の影響が無く、純粋に当時の日本人の民族精神を記し後世に伝えたものである。 古事記について 古事記には天地の創造から国土の発生が記され、神々の出現が述べられている。 天皇を「血統」「神の継承」「司祭」「統治」の本質と据え至上の存在であると位置付けている。 神と日本人は、祖先と子孫の関係であり一体関係であるとしている。 国土は天皇を中心とした国民の共有物である。 神・国土・天皇・国民はそれぞれ「目的」を達成する為に存在するものである。 神の使命は、世界を結び一つにする事(八紘一宇)である。 話し合いが無駄になる場合は実力行使を認め、武力によって相手を制圧しても良い。 日本国家・民族主義は天皇を中心とした国家を基盤として、緊急時に暴力の使用(維新)を認めるものである。 大化の改新(維新)の目的 尊皇を利用した維新である。 公地公民制と律令制により、中央への権力集中化を目的とした。 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: -
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「 歴史が隠蔽されたままでは、過ちは繰り返されるでしょう。 」 ~ ある技術者 <目次> ■1.はじめに ■2.右翼・左翼の源流:見取り図 ■3.西郷隆盛と攘夷論「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す ■4.日本の右翼運動の歴史 ■5.日本の左翼運動の歴史 ■6.まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 ◆参考2:近衛上奏文 ■7.ご意見、情報提供 ■1.はじめに 右翼・左翼という言葉が、フランス大革命(1789-99)の時の国民議会で、王党派が議場の右側を占め、共和派が左側を占めた事に起源を持つことは、よく知られています。 では、近代日本における右翼・左翼の源流、そして、その歩みは、どうだったのでしょうか。 ■2.右翼・左翼の源流:見取り図 明治維新第一世代 明治維新第二世代 明治維新第三世代 大正期以降 体制派(政府)(開明派=親英米派) 大久保利通 伊藤博文・山県有朋 桂太郎※西園寺公望はフランス留学後にリベラル化 ⇒日本の保守の源流(*5) ‡征韓論で対立(*1) ‡対大陸方針を巡り対立(*2) 反体制派(在野)(攘夷派=親大陸派) 西郷隆盛 頭山満(玄洋社、戦前の在野右翼の巨頭、アジア主義) 内田良平(黒龍会、大陸浪人) ⇒日本の右翼の源流 ∥不平等条約改正問題で共闘(*3) ‡日露戦争への対応を巡り対立(*4) 中江兆民(ルソー『民約論』紹介者、『平民の目覚まし』) 幸徳秋水(平民新聞、のち大逆事件で刑死) ⇒日本の左翼の源流 (*1) 征韓論は、本来は同じアジアの隣邦である朝鮮・支那と結んで欧米列強に対抗することを目指した政論(=後のアジア主義(大アジア主義)であり、「朝鮮がそれに同意せず日本の足手まといになってしまう場合は、已む無く討つ」とするものだったが、戦後の教育では「朝鮮を討つ」とする部分だけを切り取って「明治維新政府の朝鮮侵略の野望」と一方的に歪曲して記述されている。 (*2) 伊藤博文ら政府側は、清朝の明治維新を手本とする改革(立憲君主制の樹立)を支援。一方、頭山・内田ら在野右翼は、孫文らの中華革命派を全面的に支援して対立した。⇒頭山・内田や孫文らの日本政府の制止を振り切っての革命運動が一時的に実って、辛亥革命が起こり清朝が滅亡したが、その後の大陸情勢は混迷を極め、日本が大東亜戦争敗戦に至るまで大陸に深く関わらざるを得ない事態を招いた(「同種同文」幻想に基づく「アジア主義」が失敗の元凶⇒詳しくは 辛亥革命~中国近代化運動の実際へ) (*3) 頭山満・中江兆民は共に西郷隆盛を政治の師と仰ぐ盟友であり、明治22年(1889)の黒田清隆首相・大隈重信外相の不平等条約改正案に強固に反対しこれを頓挫させた。 (*4) 頭山の弟子筋の内田良平は日露主戦論を唱え、中江の直弟子の幸徳秋水は非戦論を唱えて、反体制派どうしで対立し、ここに日本の右翼・左翼の対立構図が出現。 (*5) なお、日本のリベラル(自由主義)の源流は板垣退助(自由党)・大隈重信(立憲改進党)で、彼らは時宜に応じて伊藤・山県が中核を占める明治政府に参画・離脱を繰り返した。このほかフランス留学後の西園寺公望もリベラル。 (要点) 日本の右翼・左翼の源流は、共に西郷隆盛の 征韓論 にあり、支那・朝鮮などのアジア隣邦と結んで欧米列強を排除しようとする拡大された攘夷論(のちの「アジア主義」)がその思想の根底にあった。 ⇒現在でも右翼・左翼とも、こうした排欧米的な主張を基本姿勢として根強く保持していることに注意。 小林よしのり・西部邁ら「反米保守」と呼ばれる右派言論人にこうした傾向が顕著であり、「つくる会」の藤岡信勝氏にもこの傾向が見える(もともと左翼で、途中で右側に思想を変えた人に多い=親大陸派)。 これに対して、元から保守派だった人は親英米派(親米保守)で一貫している人が多い。 以上の議論は、詳しくは 政治の基礎知識 外交の基礎知識 を参照して下さい。 ■3.西郷隆盛と攘夷論 「征韓論」とは何か~朝鮮侵略史観の誤りを糺す 参考リンク:「征韓論」とリアリズム (青木直人氏ブログ) ■4.日本の右翼運動の歴史 1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満(1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平(1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明(1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝(1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召(日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学(日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智(浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件(1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣(1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院・昭和研究会~革新官僚の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏(1899-1990)と大日本愛国党(1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系(左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼 日本の右翼運動 を取り込み表示 ■5.日本の左翼運動の歴史 1. 左翼思想の日本への紹介 (1) 中江兆民(1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。 (2) 幸徳秋水(1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。 2. 無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932) (1) 堺利彦(1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。 (2) 安部磯雄(1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。 (3) 杉山元治郎と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家)の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。 3. コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次) (1) 片山潜(1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。 (2) コミンテルン22年テーゼ(方針書)と日本共産党結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。 (3) 日本共産党第二次結党(1926)とコミンテルン27年テーゼ(1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って山川均(山川イズム:大衆運動を重視)と福本和夫(福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。 (4) 労農党浸透工作と3.15事件(1928)、4.16事件(1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。 4. コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争 (1) コミンテルン32年テーゼ(1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた歴史学研究会(歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒高森アイズまた戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い丸山眞男の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。 (2) 講座派(日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 (3) 労農派(社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 5. 左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向 (1) 赤松克麿と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。 (2) 佐野学・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。 (3) 講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32名を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。 (4) 労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権)に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した(人民戦線事件)。これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。 6. 敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで (1) GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。 (2) 日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。 (3) 日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の片山哲が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。 (4) 2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。 (5) GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党所感派の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には血のメーデー事件を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「国際派」という。なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために破壊活動防止法(破防法)が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に宮本顕治が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。 (6) 安保闘争と新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。 日本の左翼運動 を取り込み表示 ■6.まとめ:右翼・左翼とも外国に利用されるのはダメ | 日本の右翼・左翼の歴史を振り返れば、両方とも、まさかここまで? と思うほど戦前も戦後も外国の勢力にいいように利用されていることが分かります。 団体・組織 事例 参考ページ ① 頭山満・内田良平の在野右翼 ⇒ 孫文の辛亥革命の最大の貢献者だったが、革命後に孫文にあっさり満州割譲の約束を反故にされる。 辛亥革命~中国近代化運動の実際 ② 近衛首相のブレイン(尾崎秀実・革新官僚) ⇒ 尾崎はコミンテルン工作員確定、革新官僚も怪しい人物多し。 当ページ下部参照 ③ 戦後のエセ右翼 ⇒ そのまんま外国人(約3割)。現在も日本を貶める活動に従事。 エセ右翼の正体 ④ 日本共産党 ⇒ 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。 日本共産党の正体 ⑤ 日本社会党(現、社会民主党) ⇒ 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。 旧社会党の正体 ⑥ 民主党 ⇒ 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。 民主党の正体 笑っている場合ではありません。外国勢力の浸透により、日本は実際に一度、破滅に追いやられています(下記参照)。しかも「全て日本が悪い」と決め付けられ、学校でもそう教え込まれて信じ込む者が後を絶ちません。右翼でも左翼でも普通に愛国心があれば別に良いですが、これ以上騙されたままでいるのは止めましょう。 ◆参考1:尾崎秀実獄中手記 コミンテルン並に日本共産党に対する認識について コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、ロシアに於ける一九一七年の二月及十月の両革命を期としロシア共産党が政権を獲得するに及んで革命の指導者たるレーニンは第二インターナショナルとは全く別個に世界各国の共産主義者の参加を得て一九一九年三月モスコーに於て第三インターナショナルを結成したのであって之が現在のコミンテルンであり其の本部をモスコーに置き、各国の共産党を支部として傘下に収めて居ります。コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする共産主義者の国際的組織であります。即ちコミンテルンは世界各国の無産階級運動の指導部、参謀本部として多数の労働者農民を糾合し革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界各国にプロレタリアートの独裁政権を樹立し全世界のプロレタア独裁国家の結合を創設し階級を徹底的に打破し以て共産主義社会の第一段階である社会主義社会を実現せんことを目的とした国際的結社であります。コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制しているのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等、其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。従ってコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。 コミンテルンの日本支部たる日本共産党は大正十一年佐野学、堺利彦、荒畑勝三等に依り結成せられましたが大正十二年夏所謂第一次日本共産党事件として検挙せられ次いで大正十五年十二月福本和夫、渡邊政之輔、三田村四郎等により所謂第二次日本共産党の組織が確立されましたが之亦昭和三年所謂三・一五事件として検挙され其後度々再建に次ぐに検挙が繰り返されて組織を破壊され茲数年来は国内に於ける党の活動は全く無力無活動の状況に在ると考えられます。日本共産党はコミンテルンの支部として其の指揮統制下にコミンテルンの目的とする世界共産主義社会の実現の為日本に於て革命を遂行し我国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて我国に共産主義社会を実現せんとする結社であります。ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について 吾々の諜報活動はゾルゲを中心とした一団の活動でありますが、私の上海以来の経験判断からすれば此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である事は明瞭でありました。其の理由は上海に於けるスメドレー女史の交渉から此のグループに参加するに至った事、鬼頭銀一事件の調書を入手して読んで見ると同人がコミンテンルンの命に依り活動した旨が明になっている事、吾々のグループの各人の国籍が雑多である事、米国共産党員なる宮城(与徳)が参加して居た事等から斯様に判断したのであります。其の後日本に於けるゾルゲとの永い交際の結果、屡々狭義のソ連防衛の意味の諜報が要求されて居るのを知りましたので私達の蒐集した情報はソ連政府にも直接利用せられて居るのではないかとも感じて居りました。(以下省略) ◆参考2:近衛上奏文 近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。①「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、②一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、③「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、④米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものも出てきていること、以上から近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている、と結論づけている。 近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命 ※近衛上奏文の傍証1:日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也中将 ※近衛上奏文の傍証2:一億玉砕を唱えた陸軍将校:種村佐孝大佐(戦後に共産党入党) 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。 国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。 GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。 現代版近衛上奏文 (反日ワクチン様) 【関連】 左翼は右翼 政治の基礎知識 外交の基礎知識 辛亥革命~中国近代化運動の実際 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 ■7.ご意見、情報提供 ページ内容向上のためのご意見・情報提供を歓迎します。 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 元ページ右翼・左翼の歴史 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 社会主義者はそう簡単に転向しやしないどこかでまた破綻した社会主義の復活をやろうと狙っている -- 名無しさん (2014-09-06 14 13 19) 親大陸派=社会主義者と見れば、恐らく左右どちらのイデオロギーにいても同じです。つまり転向は繰り返しても海洋派にはなれません -- 名無しさん (2014-12-24 21 03 48) 鈴木貫太郎がコミンテルンの手先だとおっしゃるなら、ソースはもちろん貼れますよね?むしろ鈴木貫太郎は日本が敗戦に向かう中国益を守る方向での終戦に持っていくように努力しています(wikipedia参照)。それをヒトラーにすればその文章はまったく持って正しくなりますが。 -- 名無しさん (2014-12-24 21 06 59) 過去の共産主義を批判しても仕方ないゾ -- 名無しさん (2015-11-13 23 57 11) 明石元二郎陸軍大佐の後継者を育成しなかったのが、日本にとって最もたる致命的ミスでした。 -- 愛国烈士 (2015-12-08 15 01 45) 以下は最新コメント表示 元ページ右翼・左翼の歴史 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。(もちろん荒らし以外の建設的な意見でお願いします) -- 名無しさん (2009-08-21 00 32 12) 近衛文麿は共産主義者という意見が最近出てきましたが、管理人様は近衛は共産主義者だったとお考えですか? -- 日本男児 (2009-09-23 11 20 19) 近衛は、共産主義者ではないが、明らかな共産主義シンパ、あるいは共産主義者に対して非常に脇が甘かった、とは言えるでしょう。なぜ近衛文麿のような名門貴族が共産主義シンパになったのか、ハッキリとは分かりませんが、京大で『貧乏物語』を書いたマルクス主義経済学者の河上肇に学んだ影響との説が有力です。当時の浅薄な学生・知識人は皆マルクス主義にかぶれた様で、要するに流行に踊らされる薄っぺらなインテリゲンチャだったのでしょうね。大ブルジョワの鳩山由紀夫が「リベラル友愛革命」を唱えているのと、近衛の唱えた「新体制運動」とが妙にダブります。なお、近衛文麿の孫の細川護熙(元首相)も元自民党田中派で、日本新党を立ち上げ、小沢一郎に担がれて1993年8月に首相になっていますね。細川氏も「改革」が口癖で、自民党の河野洋平(当時、自民党総裁)と合意して今の小選挙区比例代表並立制を導入しています。近衛も細川も、そして現首相の鳩山も、出身がいかにも保守派受けするので、それほど危ないことはしないだろう、という勘違いの安心感を情報弱者に与えてしまい、日本の針路に禍根を残すことになってしまったのでしょうね。 -- 名無しさん (2009-09-25 16 54 03) 甘い外交感覚、近衛文麿と似ている鳩山現首相。産経阿比瑠記者ブログより -- 名無しさん (2009-12-20 21 07 31) たいへん勉強になりました。しかし、西部邁氏は親大陸派でしょうか。反米ではあってもチェスタトンやバークに共感し、時に日本人を見下しているんじゃないかと思えるほどに西欧的合理主義やキリスト教を高く評価しているような気がしますが。 -- 名無しさん (2009-12-22 17 49 18) レスが大変遅くなって済みません。西部邁氏については、元々全学連で反安保闘争のリーダーだったこと・非常に反米的な論調が多いことから、今では保守の大御所として活躍しているとはいえ信用できない印象を持っていたのですが、ご指摘を受けて西部氏の著書『大衆への反逆』を読んだところ、1970年代の滞英経験、そして1980年頃に全体主義体制下の東欧を旅行した経験などから、本当に芯から左翼から保守に宗旨変えした(らしい)ことが読み取れました。英国流の保守思想の最高の理解者の一人ということは確かなようですね。勉強になりました。これからも有益なご意見を宜しくお願い致します。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 23 55) 本日の産経新聞【正論】の西部邁氏の論評は、非常に的確だと思いました。ただ一点、西部氏は戦後の日本に真の保守が全く存在しなかったかの様に書いているが、それには同意しない。西部氏が1980年頃まで左翼だったために日本の真の保守思想を知る機会がなかったための誤認識でしょう。 -- 名無しさん (2010-03-16 21 56 51) 「保守とは、①自由のための秩序を国家の「歴史的」な規範に求め、②平等の限界を国民の「歴史的」な公正感に見いだし、③友愛に伴う偽善を国民の「歴史的」な節度によって防止する、という姿勢のことであろう。」(上記の西部邁氏の論評)つまり、洋の東西を問わず、保守主義とは歴史主義である。 -- 名無しさん (2010-03-16 22 02 03) 大川と北を結ばせ猶存社を結成し、三尊と称された大物満川亀太郎も載せたほうが良いのではと思います。 -- 名無しさん (2011-01-12 20 18 09) 鈴木貫太郎はコミンテルンの手先の反日売国奴。 -- 名無しさん (2012-06-20 13 14 09) 社会主義者はそう簡単に転向しやしないどこかでまた破綻した社会主義の復活をやろうと狙っている -- 名無しさん (2014-09-06 14 13 19) 親大陸派=社会主義者と見れば、恐らく左右どちらのイデオロギーにいても同じです。つまり転向は繰り返しても海洋派にはなれません -- 名無しさん (2014-12-24 21 03 48) 鈴木貫太郎がコミンテルンの手先だとおっしゃるなら、ソースはもちろん貼れますよね?むしろ鈴木貫太郎は日本が敗戦に向かう中国益を守る方向での終戦に持っていくように努力しています(wikipedia参照)。それをヒトラーにすればその文章はまったく持って正しくなりますが。 -- 名無しさん (2014-12-24 21 06 59) 過去の共産主義を批判しても仕方ないゾ -- 名無しさん (2015-11-13 23 57 11) 明石元二郎陸軍大佐の後継者を育成しなかったのが、日本にとって最もたる致命的ミスでした。 -- 愛国烈士 (2015-12-08 15 01 45) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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