約 2,587 件
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/30.html
出羽三山史 阿部正己 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)碑傳《ひで》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)五|山祗《ノヤマツミ》 [#]:入力者注 主に外字の説明 (数字は、JIS X 0213の面区点番号) (例)伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社 [#…]:返り点 (例)肆[#(ニ)]類[#(シ)][#二]于上帝[#(ヲ)][#一] 〈〉:割り注 /:割り注のなかの改行をあらわす記号 (例)〈丙/申〉 ※ 割り注のなかの改行をあらわす記号は、適宜使用しました。 ※ 目次および本文は、付属する正誤表にしたがって訂正しました。正誤表は上巻末尾に移動しました。 ※ 和暦年号のあとのカッコ書きは、底本どおり皇紀のままとしました。 (例)大化三年(皇紀一三〇七) 和銅元年(一三六八) ※ 表組・引用文・書簡などの字下げは、適宜変更しました。 ※ 本文中、祇と祗の混用が見られますが底本のままとしました。本来、文中のほとんどのばあいが「祇」のほうが正確な用字と思われます。また、(I. F)(S. W)の直後の句読点は、底本では横組になっています。 ※ 図版について——サイズは底本と異なります。底本(阿部久書店、1973(昭和48)年7月20日発行)よりも別版(名著出版、1974(昭和49)年6月発行)の図版のほうが鮮明のため、そちらを使用しました。 出羽三山史 目次 第一編 出羽國夷征時代 一、我國山嶽崇拜の根本思想 二、平形の出羽國府と月山神 三、月山神社大物忌神社を飽海郡吹浦に建てたる理由 四、伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社の考證 第二編 開山傳説時代 一、我國修驗道及び本地垂跡の起原と出羽國諸神の影響 二、出羽國夷征前の開山説 三、熊野派修驗の三山開山説 第三編 鎌倉時代 一、羽黒山衆徒地頭大泉氏平を鎌倉幕府に訴ふ 二、天臺宗を眞言宗に改宗す 三、北條氏の徳政と羽黒山衆徒の訴訟 四、建治二年の鐘 元徳四年の彌陀原無量壽佛 第四編 吉野朝時代 一、立谷澤城主安達時重と子長覺 二、太平記の羽黒修驗雲景未來記 三、文和元年の燈籠の棹 第五編 室町時代 一、羽黒山三所大權現の懸佛 二、吉田神道と羽黒山縁起 三、羽黒山本地佛と權現神 四、黄金堂 五、五重塔 六、道智と尊増 第六編 桃山時代 一、莊内頒主[#「領主」か]の更迭と羽黒探題の長吏法頭職 二、上杉氏の將直江兼續の麓橋造替と湯殿山立願寄進 三、酒田城主甘糟景繼の黄金堂改築 四、直江兼續の羽黒神領と湯殿山寄進 五、羽黒山の檀家地域 六、最上義光庄内併領後羽黒探題を置かず 七、羽黒修驗の不和と學頭尊量の切腹 八、最上義光月山羽黒山の諸堂塔を修築す 九、最上義光五重塔を修築す 附義光の慈恩寺三重塔新造 一〇、最上義光の社領寄進 一一、羽黒修驗道の組織 寺院坊宿 入峰と位階 要職と職掌 入峰と碑傳《ひで》 [#改ページ] 寫眞・圖版 最上義光文書 塔婆文笈 (重要美術品指定) 本地御正躰圖・御正躰之内額銘 吹越峰中堂碑傳(文祿五年九月五日) [#改ページ] 最上義光文書 [#図版(001.jpg)、最上義光文書] [#地から2字上げ]手向村正善院所藏 [#改ページ] 塔婆文笈 (重要美術品指定) [#図版(002.jpg)、塔婆文笈] 手向村芳賀七右衞門氏所藏 [#改ページ] 羽黒山鏡ケ池古鏡 (帝國博物館所藏) [#図版(003.jpg)、羽黒山鏡ケ池古鏡 藤原時代 鎌倉時代 室町時代] [#改ページ] 山形三山道者宿の景 [#図版(004.jpg)、山形三山道者宿の景] [#地から2字上げ](山形・朝倉吉之助氏所藏) [#改ページ] 第七編 江戸時代 第一期 元和元年より寛文八年に至る 一、最上氏改易後の莊内藩と羽黒との關係 二、別當天宥湯殿山四ケ寺を訴へて羽黒末と爲さんとして敗訴す 三、天宥羽黒を眞言宗より天台宗に改宗す 四、天宥の羽黒山繁榮策 松杉の植付 參道の石坂 寺院の整理 執行別當寺の移轉建築 五、羽黒末派修驗の斷罪は羽黒にて處分す 六、天宥莊内藩と増川山境界を爭ふ 七、羽黒社領朱印下附と莊内藩との軋轢 八、天宥再び眞言四ケ寺を訴へて敗れ湯殿山羽黒と分離す 九、智憲院等五人天宥を幕府に訴へ天宥大島に流罪に處さる 第二期 寛文九年より天明八年に至る 一、東叡山羽黒を改革す 天宥派十五人追放 二、湯殿山賽錢盜人の取締 三、峰中三十日を十五日に短縮す 南谷別當寺燒失 四、天宥の嶋文と遷化 五、別當胤海の羽黒整理 六、熊野派本山羽黒を訴ふ 羽黒派山伏は本山派支配となる 七、別當代和合院會覺と俳人芭蕉の三山參詣 八、松山藩祈願所修善寺と智憲院 九、三山雅集の刊行と其目的 一〇、五重塔柱替と修繕 一一、湯殿山賽錢盜人に關する眞言四ケ寺と羽黒の對立 一二、羽黒方再び増川山の所有を訴へて敗れ入牢流罪に處さる 一三、山内の靜謐 羽黒山檀家調 第三期 寛政元年より慶應三年に至る 一、湯殿山立札並に賽錢盜人番人小屋につき羽黒方にて眞言四ケ寺を訴ふ 二、別當莊嚴院覺諄の改革 三、羽黒三所大權現を出羽神社と改稱 正一位宣旨 蜂子皇子謚號を照見大菩薩と賜ふ 四、幕末の靜謐 第八編 明治時代 一、戊辰戰役と羽黒農兵の白石口出陣 二、神佛分離と三山神社 三、湯殿山の神山確立と注連寺大日坊の絶縁 第九編 餘録 一、手向村金剛樹院山の横穴式百穴 之は本縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第四輯に掲載したるにつき略す 二、羽黒山鏡ケ池發見の古鏡 三、三山參詣者の交通状態 [#改ページ] 寫眞・圖版 古鏡 三面 山形三山道者宿の景 増川山境界爭裁斷圖 天宥の佛畫 南谷別院庭園の石橋 芭蕉の天宥追悼文 湯殿山論爭繪圖 羽黒山々上繪圖 手向村繪圖 [#改ページ] 2010.7.28:更新 編集モードを変更、カウンタを設置。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/2033.html
出羽三山神社 出羽三山とは、羽黒山・月山・湯殿山の総称で、崇峻天皇の御子である蜂子皇子の開山である。 皇子は、蘇我氏の難を避け、海路を経て出羽の国に入られた。 そして三本足の霊烏の導くままに羽黒山に入り難行苦行の末、羽黒権現の御示現を拝し、羽黒山頂に羽黒山寂光寺を建立して権現に奉仕したという。 次いで皇子は、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧進して羽黒三所大権現と称した。 〈出羽三山神社公式サイトより引用〉 出羽三山神社 〒997−0292 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7番地 TEL:0235−62−2355(社務所) FAX:0235−62−2352(社務所) パンフレット ※画像をクリックするとパンフレットが開きます。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ホームページ http //www.dewasanzan.jp/ 〈ブログ〉 ひとり旅。 http //blogs.yahoo.co.jp/shi_zuppe/5931242.html 自然深き修験道の聖地 〜 出羽三山神社 http //blogs.yahoo.co.jp/mako0763/26469500.html 山形 「奥の細道」漫遊記ー⑨ http //blogs.yahoo.co.jp/rhje63/20820421.html 語り尽くせぬ有難み「湯殿山御身体」 http //blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44222837.html 出羽三山の旅(NO4) http //blogs.yahoo.co.jp/reitoro101/37157923.html 出羽三山神社〜〜〜 http //blogs.yahoo.co.jp/ryjyc497/26837370.html 山形県・・・出羽三山に詣でました http //blogs.yahoo.co.jp/hodaka56/59834682.html 酒田から羽黒山へ http //blogs.yahoo.co.jp/racetrack0123/59843716.html 羽黒山に行って来ました(2) http //blogs.yahoo.co.jp/acsakai3/32861220.html 下山後、羽黒山神社に行きました http //blogs.yahoo.co.jp/tabinidete/16079298.html 羽黒山に行ってきました。 http //blogs.yahoo.co.jp/nkknw532/33097530.html 山形県 羽黒山 出羽三山神社の三神合祭殿は必見です! http //blogs.yahoo.co.jp/greenfinger20072000/33464358.html 松の勧進が始まりました http //blogs.yahoo.co.jp/kqkpc197/30872131.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 《周辺情報》 〈ブログ2〉 #blogsearch /
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/33.html
出羽三山史をウィキソースへアップ http //ja.wikisource.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1%E5%8F%B2 メモ ただし、Mac OS 9.2 からの初回アクセスの時間がやたらかかる。 OS X からのほうが時間がかからない。 メタ情報・目次などの諸形式に青空文庫と若干差異あり。 図版の移動 現代表記版・入力者校正結果
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/399.html
出羽三山神社 山形県鶴岡市に鎮座する出羽三山神社・三神合祭殿の御朱印です。 羽黒山・月山・湯殿山の三山を合わせ祭っています。 平成26年は「午歳御縁年」の印がいただけました。 蜂子神社が無人のときは、こちらで御朱印を拝受できます。 ★この神社には、オリジナル御朱印帳があります。 出羽三山神社の御朱印帳です。月山神社・湯殿山神社でも同じものを頒布しています。 ★住所 山形県鶴岡市羽黒町手向 -
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/29.html
[#図版(001.jpg)、最上義光文書] [#図版(002.jpg)、塔婆文笈] [#図版(003.jpg)、羽黒山鏡ケ池古鏡 藤原時代 鎌倉時代 室町時代] [#図版(004.jpg)、山形三山道者宿の景] [#図版(005.jpg)、本文は回り込み、本地御正躰圖 附畧縁起] [#図版(006.jpg)、本文は回り込み、御正躰之内額銘] [#図版(007.jpg)、本文は回り込み、内陣三十三觀音安置] [#図版(008.jpg)、吹越峰中堂前文祿四年碑傳] [#図版(009.jpg)、増川山境爭裁断圖] [#図版(010.jpg)、○に家綱] [#図版(011.jpg)、天宥彫刻板扉] [#図版(012.jpg)、南谷別院址庭園の石橋] [#図版(013.jpg)、芭蕉の天宥追悼文] [#図版(014.jpg)、湯殿山論爭繪圖] [#図版(015.jpg)、本文は回り込み、第一圖] [#図版(016.jpg)、本文は回り込み、第二圖 鏡ケ池々畔の鏡堂] [#図版(017.jpg)、本文は回り込み、第三圖 羽黒山鏡ケ池] [#図版(018.jpg)、羽黒山々上繪圖] [#図版(019.jpg)、手向村繪圖] 2010.7.31:更新 編集モードを変更、カウンタを設置。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/31.html
出羽三山史 [#地から1字上げ]委員 阿部正己 第一編 出羽國夷征時代 一 我國山嶽崇拜の根本思想 人智未だ開けざる時には、天地間の自然現象は不可解なる神靈の力であるとして信仰することは、洋の東西を問はず何れの人種でも一度びはこの道程にあつたことは當然である。即ち天地山川を始めとして萬有悉く神として祭つたので自然萬有崇拜である。この自然崇拜は人智開くるに隨つて漸次消滅しつゝあるが、猶後世に至つても殘存するものあつて、その顯著なるは我國及び支那に於ける山嶽に神又は佛を配祀して崇拜するもの之れである。 先史時代人種の自然崇拜は最も盛んであつて、今之を述ぶることは略すが、其後有史時代に至り各地方に英雄起りて、附近を征討して一國家を創設した。その國家創成に當りて國民を統制する一方法として舊來の信仰心を利用善導して人心を收攪した、之れが政教一致である。東洋の先進文化國は印度支那であつて、東洋諸國はその啓發を受け、我國は直接支那の文化によりて開發された、依て我國と支那との關係を述ぶるに先立つて、支那開創の信仰状態を見るに、支那開創の伏羲神農の時代は徴すべきもの無いが、堯舜禹の時代に至りて稍々明かになつて來た、その記録は即ち書經である。書經の舜典に天地間の萬象を崇拜して猶自然崇拜が盛んに行はれてゐる。 (書經舜典) [#ここから3字下げ] 肆[#(ニ)]類[#(シ)][#二]于上帝[#(ヲ)][#一] ※[#「示+煙のつくり」、上p2-4][#(シ)][#二]于六宗[#(ヲ)][#一] 望[#(ン)][#二]于山川[#(ヲ)][#一] 編[#(ス)][#二]于群神[#(ヲ)][#一] [#ここで字下げ終わり] この字義は肆は遂ぐる意、類※[#「示+煙のつくり」]望編は何れも祭ること、上帝は天、六宗は寒暑日月星水、山川は名山大川、群神は在地の諸神である。 以上の萬有崇拜の中で山嶽崇拜を最も重視し、國王は一ケ年中期月を定めて四方の山嶽を周りて祭祀を行ふのである。 (同書) [#ここから3字下げ] 歳二月東[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#二]于岱宗[#一]柴[#(シ)] 望[#二]秩[#(シ)]山川[#一](中略) 五月南[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#(リ)][#二]于南嶽[#(ニ)][#一] 如[#レ]岱禮[#(シ)] 八月西[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#(リ)]于西嶽[#(ニ)][#一]如[#(シ)][#レ]初[#(ノ)] 十有一月朔巡守[#(シ)] 至[#(リ)][#二]于北嶽[#(ニ)][#一]如[#レ]西禮[#(シ)] 歸[#二]格[#(シ)]于藝祖[#(ニ)][#一]用[#(フ)][#レ]特[#(ヲ)] [#ここで字下げ終わり] 岱山は山東省泰山、南嶽は湖南省衡山、西嶽は陜西省華山、北嶽は山西省恒山であつて、國王は一ケ年中月を定めて四方の山に詣りて柴を焚いて祭祀を行ひ、最後に都に還りて先祖の廟に報告し、牲牛を供へて祭典を行ふ。堯舜の時には四嶽の崇拜であるが、周代に至りては河南省の嵩山を加へて五嶽を崇拜した。嵩山は周の都洛陽の近くにありて四嶽の中央である。高山崇拜の理由を檢するに高山は天と關係ありとするよりできたことで、天は萬物を司どり、高山は天に最も近く天の廣大無邊の功徳を受け繼ぎて萬物の生育を司どると信じたのである。五嶽の中でも泰山は東方に在りて萬物の始まり、陰陽の交代、人間の生命の長短を司どり、最も能く天徳を發揮するによりて、一名天孫と唱へ五嶽の長であるとした。 (周禮春官) [#ここから3字下げ] 大宗伯以[#二]血祭[#一]祭[#二]社稷[#一] 五祀《タヒ》[#二]五嶽[#一] [#ここで字下げ終わり] (説苑) [#ここから3字下げ] 五嶽者何謂也 泰山東嶽也 霍山[#(ハ)]南嶽也 華山[#(ハ)]西嶽也 常山[#(ハ)]北嶽也 嵩高山[#(ハ)]中嶽也 五嶽何以視[#二]三公[#一] 能[#(ク)]大[#(ニ)]布[#二]雲雨[#一]焉 能[#(ク)]大[#(ニ)]歛雲雨[#一]焉 雲觸[#レ]石而出 膚寸而合 不[#二]崇朝[#一]而雨[#二]天下[#一] 施徳博大 故視[#(タクラブル)][#二]三公[#一]也 [#ここで字下げ終わり] (風俗通) [#ここから3字下げ] 東方泰山 詩云泰山巖巖魯邦所[#二]瞻尊[#一] 曰[#二]岱宗[#一] 岱者長也 萬物之始 陰陽交代 雲觸[#レ]石而出 膚寸而合 不[#二]崇朝[#一]而※[#「彳+扁」、第3水準1-84-34][#(ク)]雨[#二]天下[#一] 其惟泰山乎 故爲[#二]五嶽之長[#一] [#ここで字下げ終わり] (博物志) [#ここから3字下げ] 泰山一曰[#二]天孫[#一] 言爲[#二]天帝孫[#一]也 主召[#二]人魂魄[#一] 東方萬物始成[#(ル)] 知[#二]人生命之長短[#一] [#ここで字下げ終わり] 以上は支那の山嶽崇拜の根本思想であつて、爾後社會の復雜[#「複雜」か]なるに伴つて崇拜觀念も多少の變化を見るだけである。 我國は古くより支那及び朝鮮と密接なる關係を結び、大陸人種の移住は有史後にも屡々見る所である。之等の人種移動は支那文化を齎らして我國の啓蒙に資し、我國の天孫降臨の古傳説の如きは、支那の天並に高山崇拜に起因するものと思ふ。朝鮮は最も天日崇拜にして人類萬物は皆其所生でありとする。三國の開創を皆天日と關係を結んでゐるのは其根本思想に共通する所あるに依ることである。 支那古代の山嶽崇拜は自然の山を崇拜したのであつて、山を人格化したもので無い、山靈即ち山ノ神を尊んだのである。我國開創の古傳説として最も尊重されてゐる天孫降臨、即ち天照大神が天孫瓊瓊杵尊を高天原より日向の高千穗峯に降臨せしめられたのは、支那の泰山天孫説の一段の進化にして、天孫と瓊瓊杵等と高千穗峯との天神地の融合である。又日本書紀異本に、伊弉諾尊は軻遇突智命を斬りて五段と爲し、此れ各々化して五|山祗《ノヤマツミ》と成る、首は大山祗、身は中山祗、手は麓山祗《ハヤマツミ》、腰は正勝山祗《マサカツヤマツミ》、足は※[#「酋+隹」、上p4-3]山祗《シキヤマツミ》と爲るとあり、祗《ツミ》とは山ノ神である。之れは天分れて五嶽と爲り、各天の功徳を分け備えたことを暗示したものである。日本書紀は後世に編纂されたのであれば、支那傳來の思想によりて説述されたこと多いと思ふ。 二 平形の出羽國府と月山神 出羽國の蝦夷征討に二途ありて、一は置賜村山最上の三郡より雄勝仙北平鹿秋田の四郡に至る仙道筋、他の一は越後より、田川郡、飽海郡、由利郡に至る海道※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]である。前者の仙道筋は夷征は陸奧と共に行はれて其起源經過は古くして記紀に見えて居ない、後者の海道筋の夷征は大化年間以後に開始せられ、その經過は記紀に記されてあるから略々明かである。 越後信濃川以北の夷征は、孝徳天皇大化革新の翌大化三年(皇紀一三〇七)より行はれ、同年十二月渟足柵、同四年磐舟柵を修築して北進した、然るに未だ出羽に進入しない前に當りて、齋明天皇の肅愼遠征の爲めに五十年間出羽の夷征は遷延した。文武天皇二年十二月復たび磐舟柵を修理し、同四年(一三六〇)二月三度び同柵に修理を加へて出羽方面の夷征に着手した。その後八ケ年間は國史に出羽進撃の記事を缺いてあつて、和銅元年(一三六八)九月始めて出羽郡を置いたとあれば、前八年間に王師は磐舟郡より出羽に進撃し柵を立てゝ蝦夷を征し、然る後に出羽郡を置いたのである。同五年九月越後の出羽郡と陸奧國の置賜郡、最上郡(村山郡を含む)とを合せて出羽國と爲し、始めて國守以下の赴任あつた。この最初の出羽郡衙の位置は田川郡古郡で、國府は同郡渡前村平形である。斯くの如く王師は出羽の南端に進入し夷征に着手するに當りて、最初に眼に映じた山嶽は月山であらう。鳥海山も見えたが未だ蝦夷地であれば、敵地の山を崇敬する理は無い。先づ月山を崇拜したことゝ思ふが、記紀には月山の記事は未だ見えぬ。 記紀所載の各國の山嶽其他の諸神を見るに、多くは何々神とありて宮又は社とあるものは甚だ少ない。されど又所々に七道諸社とあれば單に何々神とあつても神社を有するものもあつたに相違無い。出羽國の記紀所載の神は悉く何々神であつて、何々神社又は何々宮とあるものは全く無い、之について少しく左に私見を述ぶ。 慶雲和銅年間に始めて出羽郡の蝦夷地に進撃した時に當りて、出羽郡山野は原生林を以て覆はれ道路無く田畠も無く、毛人蝦夷が河湖の岸に集團を爲して住居するのみで、實に荒寥たるものであつた。王師は之等の蝦夷を征討し柵を建て農民を移し、斯くして漸次北進したのである、此時に當りて先づ蝦夷の降伏を祈つたのは月山を外にして他に無いであらう。斯る山嶽崇拜は前に述べた如く上古の支那日本に於ける通有の信仰思想である。この山嶽崇拜は自然崇拜であつて、山靈を神として崇拜した。そこで國守以下月山を月山神として尊崇したことであつて、時々夷狄降伏の祈願祭典を行つたらしいが、月山の山頂に登つて祭典を行つたものとは思はれない。續日本後紀天平元年(一三八九)八月諸國天神地祇者宜[#下]令[#中二]長官[#一]致[#上レ]祭、若有[#二]限外應[#レ]祭山川[#一]者聽[#レ]祭 とありて、月山神も天神地祗の一つであつて長官即ち國守の主祭である。殊に出羽の如く蝦夷降伏を月山神に祈願するに當りては國守の主祭たるべきは當然である。國守が天神地祗を祭るに如何にして祭つたかといふに、國府の郊外に祭壇を設けて國内の山川を神として祭つた、月山神を祭るも同じであつて、山が神であれば神像も御靈代も無く、隨つて社殿も無かつた、遙かに月山に向つて祈願を爲したのである。記紀に載つてゐる出羽國の諸神は何々神とありて神社とあるものは一つも無いのを見るに、悉く天神地祗であつて人格の神では無いから神像を安置する社殿は無いので、隨つて神社と云はなかつたであらう。 我が國で神社を建つることゝなつた所以を考ふるに、天神地祗を祭る自然崇拜には社殿の必要は無いと思はるゝが、神器の八咫鏡を奉安した倭笠縫又伊勢神宮は社殿の必要がある。又我國神代の諸神を祭るにも御靈代を安置する神社を建てた。然るに出羽國の初期の神々は神代の神は一切無く、悉く名山大川温泉などで自然崇拜である。自然の山或は川などを神体としたのであれば之に向つて崇拜すれば能いので、靈代の必要なく社殿の必要も無いことである。記紀に見ゆる出羽國の神は月山神・大物忌神・白磐神・酢川温泉神・矢向神は皆山川温泉であり高泉神は瀧である。又城輪神は出羽柵の柵を神としたらしい。 次に延喜式所載の神名を見るも、以上の外に小物忌神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・波宇志別神社は山で、由豆佐賣神社・鹽湯産神社は温泉、副川神社は川、遠賀神社は明かで無いが山らしい。延喜式に神社となつたことについては後に述ふるが、最初は皆神とありて神社は無かつたものである。 和銅五年始めて國府を平形に置かれた後ち、同七年(一三七四)閏六月戊寅詔曰頃者陰陽殊謬氣序乖違、南畝方興膏澤未[#レ]降、百姓田囿徃損傷、宜[#下]以[#二]幣帛[#一]奉[#二]諸社[#一]祈[#中レ]雨于名山大川[#上]、庶致嘉※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]勿[#レ]虧[#二]農桑[#一]とあり、又靈龜元年(一三七五)六月癸亥詔遣[#レ]使奉[#二]幣帛于諸社祈[#二レ]兩于名山大川[#一]、於[#レ]是未[#レ]經[#二]數日[#一]※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]兩滂沱、時人以爲[#二]聖徳感通所[#一レ]致焉とあり、之が出羽國府創設後の詔に據る諸社名山大川の奉幣奠祭の初めである。此頃出羽には神社は無いのであれば、名山大川に對して祭祀を行つたであらう。蝦夷地の名山大川を祭る理無ければ河南の田川郡内に限られたと思はれるが、國守は月山其他の山に登ることはできないことで、國府郡府附近の外は道路も無く蝦夷野獸は近地に横行して居つたであらう。依て國守は國府の郊外に祭壇を設けて主として月山に向つて奉幣奠祭を行つた、此郊祭を行つた所が即ち渡前村上藤嶋六所神社の地である。此地は平形國府址より十一二町の南々東方にて藤嶋川の西岸に在り、月山を名山とし藤嶋川を大川と爲して、其岸に祭壇を築き祈雨の祭りを行つたらしい。恰かも此六所神社の地は平形國府址と月山々頂とが一直線上にあることは最も注意を要する所である。現在の六所神社は南向きに立つてゐるが後世の建立であり、其位置も川缺の爲めに多少異動した。徃時の祭壇と六所神社の關係は後に述ぶることゝする。神武紀に天皇は大和の丹生川の上りに天神地祗を祭り多くの平瓮嚴瓮を造つて之に供物を入れて供へ、又嚴瓮を丹生川に沈めたとあり、朝廷ではこの神武紀の故事に倣つて諸國をして名山大川を祭らしめたものである。上藤嶋の六所神社に先年藤嶋川缺壞の時に地中より出た祝瓮の小壺を所藏してある。之は徃時の祭器であらう。神武天皇の丹生川の上りにて天神地祗を祭つたのは、社殿を建てたもので無いので祭場を設けた郊祭であつたに相違無い。之れが後に丹生川上神社となり祭神も後ちに定められた。 上藤嶋の名山大川を祭つた祭壇又祭場は其後に至りて祈雨又は夷敵攘伏の祗祭を詔によりて行ひ、河北の蝦夷討伐も追々北進して由利秋田に移れば、大物忌神を始めとして其他の名山、大川をも合せて此祭壇にて祭ることゝなつたであらう。斯くの如く長い間に屡々同一祭壇にて祭事を行ふことゝなれば祭壇の上に屋蓋の必要ができ、後ちには社殿の建立となつた。之が總社又は六所神社の起原である。然るに總社又六所の名稱のできたのは何時であるかは頗る明かでないのである。記紀には之等の名稱が無ければ此頃には此名稱は無いのであり、又總社とか六所神社は國守主祭の重大なる神社であるならば、延喜式に載せられる筈であるに、之にも無い、依て案ずるに祭壇に社殿を建てたのは國府時代であらうが、之に祭神を安置して神社としたのは藤原期であらう。總社或は六所社の名稱は加賀の白山記東鑑に載つてゐるのが最古である。 平形國府は天平中に詔によりて國分寺を建てた、其位置は下平形の南郊である。國府とは下平形部落を挾んで五六町を隔てゝゐる。國分寺は國守主管の祈祷所で華美を盡くした壯麗なる建築で、之に本尊佛を始めとして諸佛像を安置し、之に對して夷狄降伏を始めとして盛大に祈祷を行ふことゝなつた。又秋田の出羽柵にも四天王寺を建てた。之に伴つて所々に寺院の建立を見たことであらう。然るに此國の神は悉く名山大川であつて神社は無く單に祭壇を設けて郊祭を行ふに過ぎなかつた。其神は名山大川であれば神像も無く靈代も無く簡素なものであつた。そこで國分寺其他の佛寺に刺戟を受けて郊祭の祭壇に社殿が無くしては權衡が取れぬことゝなつたであらう。國守主祭の祈願に佛寺では壯麗なる寺院にて行ひ、神祭には野外の屋蓋も無い所で行ふに當りては、風雨などの恐れもありて、權衡を失ふことは當然である。依て郊祭にも社殿を造ることゝなり、又國内平定し漸次移民増加するに及びて各地の名山大川の神にも社殿を建立することゝなつたであらう。されど月山神とか大物忌神とかの高山では山上に登ることは勿論山頂に神社を建てることもできない。又國守は各神各社を廻ることできないから、藤嶋川の上りの祭場にて各神の奠祭を行つた。斯く國内各地の神を祭ることゝなれば、各神に代るべき靈代の如きものを安置して、之に對して祭事を行ふことも必然に起つたであらう。 我國天平中に至りて諸國の神社並に佛寺は漸く整備したものゝ如く、朝延[#「朝廷」か]にて祈雨其他の祈祷は七道諸社又は國分寺などに行はしめ、天神地祗又は名山大川に祈祭を行はしめたことが天平の初め頃より記紀に見え無いことになつた。天平九年五月詔して疫旱行はるに付山川を祈祷し神祗を奠祭せしめたのが最後で無いかと思ふ。其後は多く七道諸社に行はしめてゐる。斯く各國では七道諸社に祭事を行はしむるに當りても、出羽國守は藤嶋川の上《ホト》りの祭場にて行つたので、寶龜六年の遷府まで續いたであらう。 國府が河北に移轉後の藤嶋川岸の祭場は如何になつたかを檢討するに、此祭場は平形國府六十餘年間の國守主祭の靈場であつて、最初には河南の山川即ち月山神其他を祭り、次第に河北の大物忌神其他の神をも合せて祭つた。然るに此二郡内の國史所載の神と延喜式所載の神社を合すれば八神となる。其中にて六神が延喜式神名帳に載せられてあれば、神名帳に載つてゐる神社は官社と云ふべきものであらう。藤嶋川上の祭場に後世神社を建てゝ六所神社と云つてゐる。其祭神は社記によるに二説ありて、一は國常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞嗚尊・大已貴命・事代主神の神代六神、二は大物忌神社・遠賀神社・由豆佐賣神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・月山神社の六社とした。二説の六社は延喜式所載出羽國九社の内田川・飽海二郡以外の神社を除いたものである。六所神社の創建は何處とも年代不明であつて、皆國府の附近に國分寺と共に必ず鎭座し、之を總社とも云つてゐる。各國の六所神社の祭神も神代六神もあり、又國内六神又は數神の所もある。此總社及び六所社は記紀又は延喜式には一切見えぬ神社であれば、其後に甞て天神地祗又は國内諸神を祭つた祭場跡に神社を建てゝ總社又は六所神社と唱へたもので、各國一樣に總社又六所神社と唱ふるを見るに藤原期に朝廷にて唱へしめたものであらう。常陸小田系圖及び寛永日記に「嵯峨天皇之時代ヨリ於諸國五月五日敕國司等天神地祗六神ノ祭禮アリ (中略) 中古以來ハ於國々ハ天神地祗六神ヲソノ國ノ府中ニ一所ニ勸請申號總社并八幡宮ヲ勸請シテ號府ノ八幡今猶國々ニ總社アリ八幡アリ」とあり、藤嶋川上の六所神社々記には同社の創建を延暦十三年又は同十八年としてゐるのは、出羽國府の遷つてからで、小田系圖寛永日記の記事と年代を同じくするのである。然れども著者の私見では國守司祭の神社を記紀又は延喜式に載せないことは不合理であつて、延喜以後にできた神社であらうと思ふのである。 藤嶋川上の六所神社は總社とは云つてゐない、出羽風土略記には六所權現とあつて「藤嶋の村はづれ橋をわたりて西にあり、或人の云、大物忌・月山・小物忌・遠賀・由豆佐比※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の六所也といふ。又一説に鹽釜六所は陸奧鹽竈神社であつて、古くは六所大明神と呼び陸奧國府の六所社であるとのことである。其祭神は神代の武甕槌神經津主神である。藤嶋川上の六所神社を總社であると判定したのは鶴岡國學者照井長柄にして、其著五百津※[#「金+且」、第3水準1-93-12]安政六年に和訓栞の古者國府必建[#二]總社[#一]有[#レ]事[#二]于國内官社[#一]則國司率[#二]僚屬[#一]先修[#二]典禮於此[#一]其儀如[#二]京師神祗官[#一] とあるを引用して總社であるとし、國府は藤嶋なる可しと思ふと述べてゐる。藤嶋を國府とするは誤りであつて其對岸の平形が國府である。藤嶋は南北朝の時に吉野朝方の國府であつた。羽黒山の末社に六所神社ありて諸神集合の靈場としてゐるのは後ちの建造で同一視すべきもので無い。 三 月山神社大物忌神社を飽海郡吹浦に建つ 平形國府は寶龜六年(一四三五)河北に移つた、其位置は飽海郡上田村中吉田字井口である。依て平形に國府の在つた期間は六十三年である。國分寺も間も無く河北に移され、藤嶋川上の祭場も河北に別に設置されたのであらうが明かでない。國府の河北移轉後約三十年を經て井口に永久的の國府廳舍を建て、秋田城を移して秋田郡府としたのは延暦二十三年であって。[#「。」は「、」か]此頃には蝦夷は秋田の北端に至るまで平定した。隨つて出羽國の民治の見るべきものあるは之れからであつて、神佛に關する記事の見へたのも延暦以降である。佛教では天長七年(一四九〇)一月秋田四天王寺地震の爲め大破したのが初見であり。[#「。」は「、」か]神道では承和五年(一四九八)六月大物忌神が正五位下を授けられたのが初見で、月山神は之より二十六年後の貞觀六年(一五二四)二月從三位を授けられたのが初見である。其後は神佛に關する記事が多く見へた。國分寺は城輪の出羽柵跡に遷され圓柱古瓦を出してゐる所は其跡である。其東方一里の一條村八幡神社は其祭禮日記を見るに總社のやうな行事を行つてゐる。同八幡社の末社に六所神社ありて神代六神を祭神としてゐる。 左に陸奧出羽二國の山嶽神の授位を掲く、 [#ここから3字下げ、折り返して5字下げ] 承和五年六月丁卯奉[#レ]授[#二]出羽國從五位上勳五等大物忌神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (續日本後紀) 同 七年七月巳亥奉[#レ]授[#二]出羽國飽海郡正五位下勳五等大物忌神從四位下[#一]餘如[#レ]故兼宛[#二]神封二戸[#一] (同上) 同 十一年八月丁酉奉授陸奧國無位勳九等刈田嶺神無位鼻節神並從五位下縁[#レ]有靈驗也 (同上) 嘉祥元年五月辛未奉[#レ]授[#二]陸奧國從五位下勳九等刈田嶺名神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (同上) 貞觀四年十一月乙丑奏詔以[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神[#一]預[#二]之官社[#一] (三代實録) 同 六年二月五日壬戌授[#二]出羽國正四位上勳六等月山神從三位 正四位下勳五等大物忌神正四位上[#一] (同上) 同 年十一月五日壬子授[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神從三位[#一] (同上) 同 十三年五月十六日辛酉先[#レ]是出羽國司言從三位勳五等大物忌神社在[#二]飽海郡山上[#一]巖石壁立人跡稀致夏冬戴雪禿無草木去四月八日山上有火燒土石又有聲如雷自山所出之河泥水溢其色青黒臭氣充滿人不堪聞 (下略)(同上) 同 十五年四月五日巳卯授[#二]出羽國從三位勳五等大物忌神正三位[#一] (同上) 同 十八年八月二日丙午授[#二]出羽國從三位勳六等月山神正三位[#一] (同上) 元慶二年七月十日癸卯出羽國正三位勳五等大物忌神正三位勳六等月山神並益封各二戸與[#レ]本并各四戸毎[#レ]發[#二]軍使[#一]國司祈祷故有[#二]此加増[#一]也 (同上) 元慶二年八月四日丁卯 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等正三位勳六等月山神四等從五位下勳九等小物忌神七等 同 四年二月廿七日辛亥出羽國正三位勳四等月山神正三位勳三等大物忌神並授從二位從五位下勳七等小物忌神城輪神並從五位上 [#ここで字下げ終わり] 以上は記紀四十三年間に於ける山嶽神の位階陛進にして、最初の承和五年六月には從五位上勳五等大物忌神を正五位下に陛せ餘は故の如しとあるを見るに、大物忌神は之より先きに授位あつたのであるが、記紀に漏れたものである。次に餘如故は大物忌神以外の山嶽其の他の神は位階元の如くであるといふ義にして、其他の神々も前に位階を授けられたが、記録に漏れた。其他の神々は何んであるかといふに、月山神は其一である。元慶二年七月大物忌神・月山神に二戸の神領を寄進し、前の二戸と合せて四戸となつた。大物忌神の始めて二戸を寄進されたのは承和七年七月にして、月山神の初封は記紀に漏れた。四戸とは百姓四戸と田であるが、大寶令によれば一戸の課田は其家族の數と老幼によりて差あれば、四戸の神領の高は明かで無い。然るに天平十九年五月の太政官奏によれば、一戸は正丁五六人中男一人を以て率と爲し男一人は二段、中男は其半分位であるらしい。仁和元年には正丁四段、中男二段とあり、之によれば一戸の班田は二町半位であつて四戸の神領は約十町位で神領は不輸租である。神戸《かんべ》は年貢を納むる外に社殿の修造其他の雜事に封丁を出した。次に元慶四年二月從五位下勳七等小物忌神・同城輪神を從五位に陛せたのを見るに之より前に授位あつたのである。此地方の夷征は最初に越後より田川郡に行はれたのであれば、月山神は最も早く授位あつたことゝ思ふ。或は國府が田川郡平形に置いた後に數次の授位あつたかも知れぬ。次に月山神の始めて記紀に見えたのは貞觀六年であつて、正四位上勳六等月山神を從三位に、正四位下勳五等大物忌神を正四位上に陛せた。此時には月山神は大物忌神より一級の上位であつた。之れは夷征が南方より行はれて最初に月山神の授位あつた證據であつて、大物忌神の授位は月山神より後ちであることは當然であらう。然るに大物忌神は飽海郡の北邊に聳へ且つ時々噴火鳴動する。この噴火鳴動は山の神が世の變亂を豫め知りて憤りを發するものであると國人は信じた。恰かも蝦夷は北方に於て屡々叛亂を爲すので、國守は屡々大物忌神に祭祀を行つて夷亂の鎭靜を祈願し、又位階の陛進を朝廷に奏請したことは記紀に見える。月山は噴火してゐないが始めて王師が田川郡の平野に進撃した時には、屡々蝦夷平定の祈願を爲して奇驗あつたことは、三代實録元慶二年八月四日の條に明かである。其原文は後に抄録する。依て月山神は出羽國夷征の始めより尊崇授位されたものであるが、記紀に漏れて記事が無いのであらう。 國府は南より北に移つたのが、其舊新國府の距離は五里以内であつて、國府を挾んで南に月ノ山、北に大物忌の山聳え、月の山は平和の神であり大物忌神は荒らぶる神で、殊に大物忌神は蝦夷地の方向にあれば漸次位階の昇つた所以である。延喜式に出羽國九社の中大物忌神社と月山神社を大社とした理由も自ら分明するであらう。 元慶仁和の頃に至りて月山神を飽海郡に移した。之れは三代實録並に延喜式に記載されてあるので明かである。其事實は後に述ぶることゝして、先づ何故に何時頃田川郡月山神を飽海郡に移したかを檢討するに、記紀には田川郡月山神とは無くして單に出羽國月山神とあるばかりであるが、月山は田川郡であることは疑ふ餘地の無いことである。元慶二年の秋田蝦夷の叛亂は陸奧出羽に於ける最後の大反亂にして、同年三月秋田城郡衙民家等悉く燒き拂はれ、城司以下は御物川を渡りて辛うじて遁れた。是に於て陸奧出羽の兵を發して討伐せんとしたるも賊勢盛んにして當ることできない。朝廷では小野春風を陸奧鎭守將軍に任して赴援せしめたが、官軍畏懦逃亡した。この報朝廷に達したれば六月二十八日詔して大元帥法阿闍梨傳燈大法師位寵壽を出羽國に遣はし、七僧を率ひて降賊法を修せしめた。この降賊法は保護國家の大修法であつて、國分寺か或は吹浦兩所神宮寺にて盛大に行つたであらう。次に七月十日正三位勳五等大物忌神・正三位勳六等月山神に各封二戸を増加し、各四戸となつたことは前に述べた。そこで大物忌神・月山神は同國内の諸神中の大神であつて、同年三月來の大夷亂には國守は二神に降賊の祈願を屡々行ひ、軍使を發する毎に國司祈祷を行ふが故に此の加増あつたのである。八月四日正三位勳五等大物忌神を勳三等、正二位勳六等月山神を勳四等、從五位下勳九等小物忌神を勳七等に進め、大物忌神月山神は古より征戰に方り奇驗を表はした。 (三代實録) [#ここから3字下げ] 元慶二年八月四日 (中略) 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等 正二位勳六等月山神四等 從五位下勳九等小物忌神七等 先是右中辨兼權守藤原朝臣保則奏言此二神自[#二]上古時[#一]方有[#二]征戰[#一]標[#二]奇驗[#一] 去五月賊徒襲來挑[#二]戰官軍[#一] 當[#二]此之時[#一]雲霧晦合對坐不[#二]相見[#一] 營中擾亂官軍敗績 求[#二レ]之耆龜[#一]神氣歸[#レ]賊 我祈無[#レ]感 増[#二]其爵級必有靈應[#一] 國宰齋戒祈請慇懃望請加進位階將[#二]答神聖[#一] 仍増[#二]此等級[#一] [#ここで字下げ終わり] 之によれば月山神は大物忌神と共に出羽國夷征の初めより降賊を祈願したことを知るに足るものであつて、隨つて之迄屡々授位あつたことも推知される。依て元慶二年の大夷亂には特に此二神に降賊を祈願した所以である。然るに月山神は國府の南方に聳へ、大物忌神の北方は即ち秋田の夷亂強盛であれば、月山神社・大物忌神社を飽海郡吹浦に建立して國守の戰勝祈願に便にした、之が兩神の神社を建てた最初であらう。此兩社は大物忌神即ち鳥海山の西麓には相違ないが、鳥海山を背景としたもので無い、兩社は月山の西麓に正しく南向きに建てられ、鳥海山は兩社の東側方に聳へてゐる。之を見るに兩社は秋田夷狄の方向に建てゝ、國守は之に向つて夷狄降伏を祈つたものである。十月に至りて秋田蝦夷は平定し津輕及び渡嶋蝦夷までも來降した。隨つて兩神社の崇敬は益々盛んとなつたであらう。 斯くの如く吹浦大物忌神社は秋田夷狄の方向に建てられたものであるが、若しも大物忌神即ち鳥海山を祭神として、之に對して建てられたものとせば、恰かも大和の三輪神社の如く樹木繁れる山を祭神とし其前に拜殿を建てたのと同し形式でなければならぬ。之とは全然形式を異にして月山神社と共に秋田の方向に對して建てられたのである。然る時は兩神社には祭神は何を安置したか、又吹浦に神宮寺を建立したのも此頃にして、延喜式に神宮寺科一千束とあれば國守の祈祷所であつて、主として兩神社と共に秋田夷狄の降伏を祈つたらしい。そこで神宮寺には大物忌・月山兩神社の本地佛を安置して之に向つて祈祷を行つたので、大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀である。依て兩神社でも何かを安置して靈代としたであらう。或は佛寺に傚つて神像を安置したかといふに、天然の山が祭神であれば神像あるべき理けが無い。又後世の如く勸請とか分靈とかいふ名稱は無いと思ふが、兩山の神靈を兩神社に遷したもので無いかと思ふ。或は又本地佛を安置したでは無いかの疑も濃厚に存在することである。 以上は田川郡の月山神社を飽海郡に建てた年代や其理由について私見を述べたのであるが、記紀には仁和元年(一五四五)十一月の條に飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神とあるのが最初である。 (三代實録) [#ここから3字下げ] 仁和元年十一月廿一日辛丑去六月二十一日出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西濱雨石[#二]鏃[#一] 陰陽寮言當有[#二]凶狄陰謀兵亂之事[#一] 神砥官[#「神祇官」か]言 彼國飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神倶成[#二]此怪[#一] 崇在[#二]不敬[#一] 敕令[#下]國宰恭[#二]祀諸神[#一]兼愼警[#上] [#ここで字下げ終わり] この時には既に月山神社は飽海郡に建てられてあれば、その建立した時期は之より前元慶二年の大夷亂の時であらう。石鏃は先住民の使用した利器であつて、先住民の住居跡に發見せらる。その住居した所は多く平野又河川に臨んだ丘陵の上であつて、後世神社は多く此地に建てられた。吹浦の大物忌神月山神の社殿のあつた所にも石鏃を出した。兩社の位置は山上でないことは之れを見ても明かである。次に飽海郡神宮寺の西濱にも石鏃を雨ふらしたとあるは、吹浦村の東部の臺地を神宮寺山と唱へ、その西濱とは飽海郡の海濱であつて、石鏃を後世にも多く出した所である。この神宮寺は神佛習合の結果佛教を以て神に奉仕する爲めにできた寺院であつて、吹浦の神宮寺は同地の大物忌神・月山神の佛寺で、之も元慶二年の大夷亂に建てられたらしいことは前にも述べた。此頃に至つては本地垂跡の盛んな時であれば、神宮寺では大物忌神並に月山神の本地佛を安置して、秋田夷亂の鎭定を最初に祈つたであらう。猶出羽國に於ける兩部習合については後編に述ぶ。 記紀の月山神に關する記事は、前記の三代實録仁和元年(一五四五)十一月を以て最終とする。次に正史に見えたのは延長五年(一五八七)十二月完成した延喜式である。 (延喜式) [#ここから3字下げ、地から1字上げ] 神祗 第三 大物忌神社一座 月山神社一座 己上出羽國 神名帳下 出羽國九社 〈大二座/小七座〉 飽海郡三座 〈大二座/小一座〉 大物忌神社 〈名神/大〉 小物忌神社 月山神社 〈名神/大〉 田川郡三座 〈並/小〉 遠賀神社 由豆佐賣神社 伊弖波神社 平鹿郡一座 〈並/小〉 鹽湯彦神社 波宇志別神社 山本郡 副川神社 主税 上 [#ここから5字下げ、地から1字上げ] 出羽國正税 廿萬束 公廨 卅四萬束 月山大物忌神祭料 二千束 文殊會料 二千束 四天王修法僧供養并法服料 二千六百八十束 神宮寺料 一千束 五大尊常燈節供料 五千三百束 (以下略) [#ここで字下げ終わり] 之を見るに、大物忌神社月山神社は飽海郡に在つて、主税式の祭料二千束は兩社を合併してあるのを見るも、同一地に在ることが明瞭である。九社の中兩社は大社二座であつて、他の神社は小社である。大社には神領四戸づつあつて更に祭料二千束とあれば、主として國守の祈願する所で、同一地で且つ國府に近い所にあるを便とした。吹浦兩所宮は井口國府を距る北方二里に在り、次に神宮寺も吹浦に在つて、延喜式に神宮寺料一千束とあれば、兩神社と同じく國守の兩山神に對する祈祷寺である。神宮寺の位置は吹浦東方臺地上で直に大物忌神山の麓で、南方には月山を望み、寺内に本地佛即ち大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀を安置し、この本地佛に祈祷を行つたもので、兩神社とは別に行はれたと思ふ。 延喜式の諸社は中世亂れて、延喜の制度は廢頽したれば、後世には其所在位置も不明のもの多い。出羽國の神社を見るに、大物忌神社と月山神社だけは明かであるが、其他七社は皆異論がある。 2010.7.31:更新 編集モードを変更、カウンタを設置。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/35.html
『出羽三山史』登場キャラ一覧(没年順) 継体天皇450-531(※日本書紀) 崇峻天皇?-592(?- .11.3) 聖徳太子574-622(敏達天皇3.-推古天皇30.2.22) 蘇我馬子?-626(?-推古天皇34.5.20) 推古天皇554-628( - .3.7) 蜂子皇子562-641(欽明天皇23-舒明天皇13) 舒明天皇?-641(?-舒明天皇13.10.9) 孝徳天皇?-654(?-白雉5.10.10) 皇極天皇594-661(推古天皇2-大化7.7.24) 文武天皇683-707(天武12-慶雲4.6.15) 元明天皇661-721(斉明天皇7-養老5.12.7) 玄Μ?-746(?-正平勝宝17.11.) 聖武天皇701-756(大宝元-〓.5.2) 黒珍741-810(天平13-弘仁元) 最澄767-822(神護景雲元-弘仁13.6.4) 義真781-833(天応元-天長10.7.4) 空海774-835(宝亀5-承和2.3.21) 円仁(慈覚)794-864(延暦13-貞観6.1.14) 安慧794-868( -貞観6.4.3) 光孝天皇830-887(天長7-仁和3.8.26) 円珍814-891(弘仁5.3.15-寛平3.10.29)2月15日生まれ説あり 聖宝(理源大師)832-909(天長9-延喜9.7.6) 宇多天皇867-931(貞観9.5.5-承平元.7.19) 源基平1026-1064(万寿3-康平7.5.15) 増誉1032-1116(長元5-永久4.1.29) 行尊1055-1135(天喜3-保延元.2.5) 崇徳天皇1119-1164(元永2.5.28-長寛2.8.26) 源為朝1139-1170(保延5-嘉応2)異説あり 源義経1159-1189(平治元-文治5) 源頼朝1147-1199(久安3-正治元.1.13) 源頼家1182-1204(寿永元-元久元.7.18) 源実朝1192-1219(建久3.8.9-承久元.1.27) 北条義時1163-1224(長寛元-貞応3.6.13) 御鳥羽院1180-1239(治承4.7.14-延応元.2.22) 道範1178-1252(治承2-建長4.5.22) 善慶1197-1258(建久8-正嘉2) 北条時頼1227-1263(安貞元.5.14-弘長3.11.22) 平頼綱?-1293(?-永仁元.4.22) 北条貞時1271-1311(文永8-応長元.10.26) 北条高時1303-1333(嘉元元.-元弘3.5.22) 護良親王?-1335(?-建武2.7.23) 尊良親王?-1337(?-建武4、延元2.3.6) 北畠顕家1318-1338(文保2-延元3.北朝暦応元.5.22) 後醍醐天皇1288-1339(正応元.11.2-延元4、北朝暦応2.8.16) 高師直?-1351 足利直義1306-1352(徳治元-文和元.2.26) 北畠親房1293-1354(永仁元.1.-正平9、北朝文和3.4.17)異説あり 足利尊氏1305-1358(嘉元3-延文3.4.30) 後村上天皇1328-1368(嘉暦3-延元23、北朝応安元.3.11) 宥快1345-1416(貞和元-応永23.7.17) 長覚1346-1416(正平元-応永23) 道智?-1427(?-応永34.11.24) 足利義教1394-1441(応永元.6.13-嘉吉元.6.24) 細川持之1400-1442(応永7-嘉吉2.8.4) 尊増1413-1474(応永20-文明6.4.21) 一条兼良1402-1481(応永9.5.27-文明13.4.2) 吉田兼倶1435-1511(永享7−永正8.2.19) 武藤義増?-1581(?-天正9.8.1) 武藤義氏1551-1583(天文20-天正11.3.6) 伊達輝宗1544-1585(天文13.9.-天正13.10.8) 丸岡義興?-1587(?-天正15.10.) 東禅寺筑前守?-1588(?-天正16.8.7) 豊臣秀吉1537-1598(天文6-慶長3.8.18) 前田利家1538-1599(天文7-慶長4.閏3.3) 石田三成1560-1600(永禄3-慶長5.10.1) 下次右衛門?-1609(?-慶長14) 甘糟景継?-1611(?-慶長16) 志村伊豆守光安?-1611(?-慶長16.8.7)※慶長14.3.7没説あり 本庄繁長1539-1613(天文8-慶長18.12.20) 最上義光1546-1614(天文15-慶長19.1.18) 進藤但馬(但馬守)?-1614(?-慶長19.6.1) 尊量?-1614(?-慶長19.4.15) 豊臣秀頼1593-1615(文禄2.8.3-元和元.5.8) 徳川家康1542-1616(天文11.12.26-元和2.4.17) 宥源1550-1617(天文19-元和3.7.28) 直江兼続1560-1619(永禄3-元和5.12.19) 真田清鏡?-1620(?-元和6.2.3) 上杉景勝1555-1623(弘治元.11.27-元和9.3.20) 武藤義勝1573-1623(天正元-元和9.8.18) 高力但馬1587-1629(天正15-寛永6.8.2) 石原平右衛門?-1631(?-寛永8.6.5) 志駄義秀1561-1632(永禄4-寛永9.8.16) 徳川秀忠1579-1632(天正7.4.7-寛永9.1.24) 石原平右衛門?-1632(?-寛永9.2.24) 天海?-1643(?-寛永20.10.2) 鮭延秀綱1562-1646(永禄5-正保3.6.21) 酒井忠勝1594-1647(文禄3.2.-正保4.10.17) 戸沢政盛1585-1648(天正13-慶安元) 清順1576-1650(天正4-慶安3) 川上四郎右衛門?-1655(?-明暦元.1.4) 長谷川権左衛門?-1658(?-万治元.9.13) 酒井忠当1617-1660(元和3.8.5-万治3.2.9) 宥俊1580-1661(天正8-寛文元) 松平信綱1596-1662(慶長元.10.30-寛文2.3.16) 酒井忠重1598-1666(慶長3-寛文6.9.24) 保科正之1611-1672(慶長16.5.7-寛文12.12.18) 天宥?-1674(?-延宝2) 酒井忠恒1639-1675(寛永16.8.8-延宝3.8.6) 永井尚庸?-1677(?-延宝5.3.27) 実胤?-1677(?-延宝5.8.6) 小笠原長矩1624-1678(寛永元-延宝6.2.8) 守澄法親王1634-1680(寛永11.閏7.11-延宝元.5.20) 酒井忠義1644-1681(寛永21.7.5-天和元.11.7) 高力忠兵衞1616-1683(元和2-天和3) 胤海?-1689(?-元禄2.4.7) 天真法親王1664-1690(寛文4.7.28-元禄3.3.1) 図司佐吉(呂丸)?-1693(?-元禄6.2.2) 圭海1632-1694(寛永9-元禄7.1.23) 松尾芭蕉1644-1694(正保元-元禄7.10.12) 公海1607-1695(慶長12.12.20-元禄8.10.16) 良λ?-1702(?-元禄15.3.15) 会覚?-1707(?-宝永4.12.30) 義天?-1707(?-宝永4.10.6) 長山重行?-1707(?-宝永4.12.24) 河合曽良1649-1710(慶安2-宝永7.5.22) 円海?-1719(?-享保4.11.10) 酒井忠真1671-1731(寛文11.4.14-享保16.8.28) 酒井忠予1657-1735(明暦3.8.15-享保20.12.16) 中村政栄?-1746(?-延享3.10.16)(享保18(1733)1.23没説あり) 知周?-1747(?-寛保3.9.21) 呂笳1663-1751(寛文3-宝暦元.12.30) 小寺信正1682-1754(天和2-宝暦4.1.7) 亮天?-1760(?-宝暦10.8.4) 酒井忠寄1704-1766(宝永元.8.11-明和3.3.27) 進藤重記1709-1769(宝永6.2.-明和6.4.10) 植村政勝1695-1777(元禄8-安永6.1.8) 亮豊?-1778(?-安永7.11.19) 朝岡助九郎1729-1801(享保14-享和元.1.23) 松平康定1747-1807(延享4-文化4.3.11) 杉山宜袁1741-1811(寛保元-文化8.6.21) 亮明?-1826(?-文政9.11.15) 覚音?-1842(?-天保13.9.9) 覚諄1762-1847(宝暦12-弘化4.8.11) 水野忠邦1794-1851(寛政6.6.23-嘉永4.2.10) 池田玄斎1775-1852(安永4.10.5-嘉永5.閏2.17) 山海?-1854(?-嘉永7.閏7.5) 大滝光憲1799-1862(?-文久2.12.9) 鈴木重胤1812-1863(文化9.5.5-文久3.8.15) 澄海?-1864(?-元治元.8.10) 石川寛海1801-1871(享和元-明治4.7.16) 清海1796-1872(寛政8-明治5.2.5) 官田?-1872(?-明治5.2.5) 三衣霊源?-1873(?-明治6) 広瀬厳雄1815-1874(文化12-明治7.12.23) 大原重実1833-1877(天保4.9.12-明治10.9.6) 水野忠精1832-1884(天保3-明治17.5.8) 西山磐根1834-1885(天保5-明治18.1.18) 常世長胤?-1886(?-明治19.3.19) 照井長柄1819-1889(文政2.10.15-明治22.5.30) 星川清晃1830-1894(天保元.2.18-明治27.11.11) 栗田寛1835-1899(天保6.9.14-明治32.1.25) 近藤仏海1828-1903(文政11.5.-明治36.3.20) 朝比奈泰吉1832-1904(天保3.12.26-明治37.4.11) 西川須賀雄1838-1906(天保9.閏4.-明治39.1.25) 坊城俊章1847-1906(弘化4-明治39.6.24) 華岡安記(花岡安記)?-1906(?-明治39) 足立正声1841-1907(天保12.9.20-明治40.4.19) 西岡周碩1838-1912(天保9-大正元.12.) 松平親懐1838-1914(天保9.4.27-大正3.9.30) 酒井忠篤1853-1915(嘉永6.2.13-大正4.6.8)※安藤は4月生 薄井龍之1832-1916(天保3.4.-大正5.11.29) 清水広田1840-1918(天保11.6.7-大正7) 芳賀七右衛門1856-1919(安政3.12.20-大正8.1.29) 松平甚三郎1845-1921(弘化2.4.4-大正10.4.2) 物集高見1847-1928(弘化4.5.28-昭和3.6.23) 宮沢春文1874-1934(明治7.9.12-昭和9.11.13) 鷲尾順敬1868-1941(慶応4.3.18-昭和16.1.13) 遠山正雄1877-1941(明治10.1.1-昭和16.8.2) 阿部正己1879-1946(明治12.3.23-昭和21.3.15) 宥海1645-?(正保2-?) 実円?- (?-弘化3.1.9) 安達時重生没年不詳 雲景生没年不詳 関甚兵衛生没年不詳 忌部正通生没年不詳 義覚生没年不詳 宮崎晴海生没年不詳 慶俊生没年不詳 原美濃生没年不詳 弘俊生没年不詳 児玉高光生没年不詳 小野春風生没年不詳 信弁生没年不詳(寛永・明暦頃の人) 菅原長祢生没年不詳 石丸八郎生没年不詳 川村彦左衛門生没年不詳 大滝光賢生没年不詳 波多野春麿生没年不詳 武藤政氏生没年不詳 妙達生没年不詳 役小角生没年不詳 立岩喜兵衛生没年不詳 留守長秀生没年不詳 土肥実平生没年不詳(12世紀後半か) 吉良貞家生没年不詳(14世紀ごろか) 北畠顕信生没年不詳(14世紀ごろか) 北楯利長生没年不詳(17世紀前半か) 允恭天皇生没年不詳(5世紀前半か) I. F S. W 2010.7.23:更新 カウンタを設置。編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - Wikipedia 各ページにリンク。 -- しだ (2010-07-23 21 55 25) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/2047.html
宮下坊 日本海に面する山形県の庄内地方、羽黒派古修験道の聖地でもある出羽三山の里の羽黒町手向(とうげ)にある宿坊です。 出羽三山に参拝される講中のお客さまは勿論のことですが、一般のお客さまにも広くご利用戴いております。また、近年は出羽三山の主峰である月山へ登拝(月山登山)されるお客さまにも大変なご好評を戴いており、当方でも充分な体制を整えております。 〈宮下坊公式サイトより引用〉 宮下坊 〒997−0211 山形県鶴岡市羽黒町手向223番地 TEL:0235−62−2371 FAX: パンフレット ※画像をクリックするとパンフレットが開きます。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ホームページ http //www.syukubou.jp/index.htm 〈ブログ〉 出羽三山 研修旅行 http //blogs.yahoo.co.jp/sendai_ono7/60141753.html ☆月山・夏山登山(1)八合目レストハウス→弥陀ヶ原 http //blogs.yahoo.co.jp/kenta_o26/60087638.html 1200年の歴史街道・出羽の古道『六十里越街道』 http //blogs.yahoo.co.jp/cyaucyau31/32411636.html 「出羽三山参り」 http //blogs.yahoo.co.jp/hirohdxlh883/50743897.html 庄内観光 〜出羽三山〜 http //blogs.yahoo.co.jp/qmwtn275/29969259.html 羽黒山正善院黄金堂と出羽三山...。 http //blogs.yahoo.co.jp/taidouboutakashi/21481782.html 羽黒山・五重の塔は迫力があります!! http //blogs.yahoo.co.jp/dewa55t/1357369.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 《周辺情報》 〈ブログ2〉 #blogsearch /
https://w.atwiki.jp/trebor/pages/110.html
都道府県 市区郡・区町村 神社名(未拝受は薄字) 拝受数 山形県 寒河江市 寒河江八幡宮 寒河江八幡宮 高良新山両所神社 2 酒田市 一条八幡宮 1 新庄市 戸澤神社 鳥越八幡宮 2 鶴岡市 伊勢両宮 金峯神社 荘内神社 荘内神社 御城稲荷神社 荘内神社 鶴岡護国神社 12 鶴岡天満宮 出羽三山神社 三神合祭殿 出羽三山神社 天宥社 出羽三山神社 羽黒山東照社 出羽三山神社 羽黒山五重塔 出羽三山神社 蜂子神社 湯殿山神社 天童市 北畠神社 1 長井市 大河原稲荷神社 1 南陽市 熊野大社 諏訪神社 梨郷神社 3 山形市 歌懸稲荷神社 熊野神社 山王日枝神社 諏訪神社 鳥海月山両所宮 10 豊烈神社 六椹八幡宮 山形県護国神社 湯殿山神社 湯殿山神社 市神神社 米沢市 上杉神社 上杉神社 松岬神社 白子神社 成島八幡宮 4 飽海郡 遊佐町 鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮 鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮 2 西村山郡 河北町 谷地八幡宮 2 西川町 岩根沢三山神社 東置賜郡 川西町 諏訪神社 1 41
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/2056.html
いでは文化記念館 久の時空を超えて息づく山岳信仰。 出羽三山文化と修験の世界を学び、体験し、未来へ伝える拠点。 ■出羽三山文化を見て楽しむ常設展示場 千四百年にわたる出羽三山の歴史と文化遺産の数々を展示し、目で見て楽しみながら出羽三山の世界を学ぶことができる施設です。 〈鶴岡市観光連盟・いでは文化記念館サイトより引用〉 いでは文化記念館 〒997−0211 山形県鶴岡市羽黒町手向字院主南72 TEL:0235−62−4727(代) FAX:0235−62−4729 パンフレット ※画像をクリックするとパンフレットが開きます。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ホームページ 鶴岡市観光連盟・いでは文化記念館 http //www.tsuruokakanko.com/haguro/kankou/ideha.html 〈ブログ〉 羽黒山にも行ってみた! http //blogs.yahoo.co.jp/seki777poplar/20297702.html 羽黒山 http //blogs.yahoo.co.jp/machan921/18845159.html 出羽の風を歩く(1日目) http //blogs.yahoo.co.jp/iyotomi2007/40074602.html 羽黒山(神社)観光・・・その1 http //blogs.yahoo.co.jp/okusan2005/41203003.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 《周辺情報》 〈ブログ2〉 #blogsearch /