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発表資料
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5月15日発表資料① 5月15日発表資料② ..
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発表用資料 CPLDの利用 CPLD(complex programmable logic device)の略で、論理回路をプログラムで組むこ とができる。これにより、PICとは比べられない速度が得られる。 利点としては、プログラムの書き換えができるため、デバッグが非常に楽であること があげられる。論理回路を手配線で組み、しかもデバッグまでするのでは、時間も コストもかなりかかると推測できる。この点から論理回路をプログラムで書き換えが 可能であることのメリットは非常に大きいことが分かる。 目的 CPLDの利用目的は、PICでは性能(主に速度)的に使用が厳しいデバイスとの接続の際の、 中間デバイスとして用いることである。これを利用した最終段階ではカラー液晶に利用した いと考えている。近い目標としてはSRAMの制御のために利用することにした、SRAMは、高 速に大容量を読み書きできるデバイスである。今回のCPLDの役割は、・PICだけでは通信不 可能な速度で通信すること・PICのpin数を補うこと。の二つが考えられる。 今回のCPLDの動き 今回はCPLDのプログラムをVHDLという言語を用いて書いた。通信テスト・動作テストを兼 ねて電子工の“Hello World!”であるLEDの点滅を試みた。短いプログラムなので、全部 載せることにした。アルゴリズムは、単純で、 数字を無限にインクリメントし続ける。 その数字を2進数で考え20番目が0ならledを点灯 20番目が1ならledを消灯させる。 20番目は2の20乗に1回変化するので、8MHZのクロックであるこのボード上では250ms に1回LEDが~点滅するはずである。 プログラムの説明 VHDL習得希望者はいないと思うので、軽い説明とする。上3行は、C言語でいうincludeと同 じである。この行がif, then, =, +, などの分岐の文や、計算の文を書くために必要である。 Portの()でくくられたなかに、CPLDの外部との接続を書く。この例ではclkは外部からデー タを受けている。逆にled_outは外部にデータを出力している。If文のところの意味はクロッ ク信号が変化して、かつその変化後の値が1の時counterを増やすというものである。 library ieee; use ieee.std_logic_1164.all; use ieee.std_logic_unsigned.all; entity test is port( clk in std_logic; led_out out std_logic); end test; architecture Behavioral of test is signal counter std_logic_vector(20 downto 0); begin process(clk) begin if clk event and clk= 1 then counter =counter+1; end if; end process; led_out =counter(20); end Behavioral; これらに興味があれば なお、PLDに興味を持ってもらえたならばFPGA,CPLD Quartus(アルテラ社のPLD書き込みソフト) Xilinx IDEにもそれぞれ対応したページが用意してあるので 一度ご覧ください。 CPLD-Xilinx-WebPack FPGA-Altera-Quartus とあるアドバイスを踏まえて 聴者に分かりにくい専門用語を事前にpick up 論理回路 AND素子OR素子を代表するデジタル回路の基礎。 信号をhighかlowかで入力値を演算する。 SRAM 高速で通信でき、かつ、比較的容量の大きいメモリ クロック周波数 論理回路系を使うときにつかう、順番に入出力を行うために 論理回路にhigh→low→high→lowを繰り返す信号を入力 する。これをクロックと呼びその速度を周波数であらわす。 PCのCPU性能に書かれている周波数もこれのこと インクリメント ある値に1を加えること。またはそれを繰り返すこと 難しい用語を使わない 中間デバイス あるデバイスとあるデバイス間で通信する際に、間に挟むデバイス。 今回は、速度の遅いデバイスから速度の速いデバイスに接続する際に 少しでも速度を上げるために間に中間デバイスをはさんでいる。 理解の努力を聴者に投げない 8MHzのクロックで2真数の20番目を利用すると250msになる 8MHzは一秒間に8000000回クロックを動かす。 2の20乗は 2097152でおよそある。 よって2097152/8000000がおよそ1/4つまり0.25秒つまり250msと なったわけである。
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ゼミ発表第3回 総合国際学研究科 博士前期課程 地域・国際専攻 地域研究コース 1年 花田勝暁 研究テーマ ブラジルの文化政策〜企業による文化支援を振興するRouanet法を中心に〜 Cultural Policy in Brazil〜the Law Rouanet Promot the Art Sponsorship〜 進捗状況: 前回発表時は、次回のテーマは『メセナの功罪』ということで、メセナを批判的な立場から論じている英語文献を読んで発表しようと思っていたが、文献を読むだけで精一杯になってしまうのではというアドバイスをいただき、今回は、もう一度自分の動機付けを確認する意味も含め、メセナとLei Rouanetについての理解を深め、残り1年の修論研方向づける機会としたい。 第1回発表:Lei Rouanet の紹介 第2回発表:文化政策とは何かのイントロダクション 第3回発表:ラテンアメリカにおける文化政策 ←今回はここ 第4回発表:メセナの概要、Lei Rouanet概要 第5回発表(2月):2月の現地調査へ向けて ●Lei Rouanetの独自性 ブラジルにおいて、民間から民間へのお金の流れを促す政策(Leis de Incentivo Fiscal)があることは、ブラジルの文化政策の方向性を決定づけているのではないだろうか。 中でも、縛りの少ないLei Rouanetは中心的な役割を担っていると考える。 ブラジル Lei Rouanetブラジル Lei do Audiovisual日本フランスアメリカイギリス 決められた基準を満たすと政府機関が認定したプロジェクトに対する援助で所得税の控除が生じる。政府を挟んで、援助が欲しいプロジェクト側も主体となり、企業からの援助が受けられるのが、他の国の政策と異なっている。1991年発効、以降数回の改正。 国内の映像産業の振興のための寄付は、所得税の優遇の対象となる。フランスの政策に似ている。1993年発効。2023年まで有効。企業がメセナ活動をすることに対する、税制面での有効な優遇政策はない。自治体、民間任せ。 国家主導。 国内映画保護のために財団があり、財団への寄付は所得税の免税がある。 企業の慈善活動に対する税制優遇がある。時代、州によって違うと思うのでもっと調査が必要。 自治体主導。メセナを促進するようなプログラムはあるが、税制優遇はない。 2007年においては、国の全文化予算の70%を、企業の税制優遇に関連した文化投資が占めていた。 *補足資料、2008年の投資上位企業。 ●メセナ活動によって文化を活性化する意義 政府と文化団体と企業という3者のアクターが重要な役割を果たしているブラジルのLei Rouanetによる文化支援の仕組みは、ブラジルの文化政策の特色の1つと言える。 この仕組みの問題点を洗い出しながらも、Leis de Incentivo Fiscalがブラジル文化の振興に対してどのような役割を果たしているのかを解明し、日本のメセナの現状に対して、何らかの政策提言することを修士論文の目的にしたい。 viva a busca de um caminho para o socialismo, alternativo, mais palatável. A maioria dos que se engajaram na NOVA ESQUERDA, nos anos 60 e 70, aderiram às idéias da Escolade Frankfurt. (A Revolução Cultural Brasileira [pdf]por Jorge Baptista Ribeiro )
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総合国際学研究科 博士前期課程 地域・国際専攻 地域研究コース 2年 花田勝暁 2010年5月12日(水) 研究テーマ →ブラジルの文化政策〜企業による文化支援を振興するRouanet法を中心に〜 Cultural Policy in Brazil〜the Law Rouanet Promot the Art Sponsorship〜 進捗状況、近況 春休みにブラジルに1ヶ月滞在し、文献収集とインタビュー調査を行った。修論の概要を想定しながら、現在文献を読み進め(重要な文献は全体を逐語訳しながら)ているところ。 ■ブラジルでの調査 ◆インタビュー ●MANOEL MARCONDES NETO氏:UERJ教授、ブラジルの文化政策の専門家 Doutor em Ciências da Comunicação pela USP, professor da UERJ, autor do livro "Marketing Cultural das práticas à teoria" (Ciência Moderna) e editor do site www.marketing-e-cultura.com.br na Internet. ●文化省の職員(録音拒否) ●Alvaro Magalhães:大学教員、元広告代理店勤務 Atuou em grandes agências de Propaganda e RP, com premiações nacionais e internacionais. Foi coordenador de PP na UGF. É professor na Faculdade Salesiana e consultor da MBO/Escritório de Negócios. Mestre em Psicologia Social (UGF), especialista em Marketing (ESPM) e graduado em PP e RP (UFRJ, 1979). ●Marcos André リオ州政府 文化局のコーディネーター Coordenadoria de Economia Criativa ●Mariana Maia 音楽プロデューサー:*実際の審査通過プロジェクトの申し込み書類一式を預かった ●Maria Braga 音楽プロデューサー:*実際の審査通過プロジェクトの申し込み書類一式をメールで送ってもらう ●Juliana Lima Universidade Federal Fluminenseで文化政策を学ぶ学生 ※ペトロブラスの文化担当の連絡先はわかったが、時間がとれなかったので、後日メールでインタビューする予定。 ※コンタクトを予定している人 Julio Augusto:プロジェクト申請に関する民間講座の講師、企画を通す専門家 Lu Araújo da Lumearte:同じく企画を書く専門家 ※その他数人の音楽プロデューサーとのコンタクトも入手 ◆文献収集 ●リオの国会図書館、UERJで、文献探し ●USPで、インターネット上にない論文のコピー、文献探し ●リオ、サンパウロの書店・古本屋での文献探し 入手文献(ごく一部、現在部分的に翻訳中のもの) "ECONOMIA DA CULTURA" Isabela Cribari (Org.) Editora Massangana "CULTURA E DEMOCRACIA ──CADERNOS DO NOSSO TEMPO NOVA SÉRIE Vol.1" Editora FUNAC "GUIA DO INCENTIVO À CULTURA" Fábio de Sá Cesnik,Editora Manole ○取材(ラパ地区の近年の文化的な急激な振興についてのレポート(7000字)[ラティーナ5月号に掲載] :ミュージシャン3人にインタビュー ───────────────────────────────────────────────────────────── ■修論の輪郭 ○ブラジルの公的文化機関の歴史 *現在翻訳中 ○ブラジルの文化支援優遇政策の歴史(ブラジルが参考にした国との比較を交えて) *現在翻訳中 →ブラジルは文化をどういう目的でどう扱ってきたのか 中間まとめ ブラジルの文化支援の長所短所 ○Lei Rouanetの仕組みについて詳しく ○もし申し込もうとしたらどういう手続きが必要なのか、その実際 ペトロブラスの申し込み要件全訳 実際の審査通過プロジェクトの申し込み書類一式 ○Lei Rouanetに基づく支援の実体、問題点 ○改正の議論、存続の議論 Em 2010 a Lei Rouanet deve sofrer mudanças. O projeto já foi enviado ao Congresso pelo Governo. Dentre as principais mudanças está a criação de um fundo de R$ 800 milhões gerido pelo Minc, e também uma contrapartida de pelo menos 20% de recursos próprios das empresas nos projetos (atualmente a lei isenta totalmente os investimentos). ○ブラジルの描く理想を達成するにはどうすればいいのか? ブラジルの文化支援から学ぶべき点 ───────────────────────────────────────────────────────────── ■ブラジルの文化支援優遇政策の歴史 1810年に、ジョアン6世が国立図書館を設立 20世紀の中頃に、エリートは支援の必要性を唱えたが、公的な大きな動きにはならなかった。 1990年代の終わりになって、文化支援の公的政策が生まれた。 以前のアメリカの政策を手本にしている。アメリカでは、1917年に税の控除による文化支援政策を開始し、70年間実行した。86年に廃止した。このモデルはヨーロッパと大きく違う、ヨーロッパでは今日まで国による巨大な投資がある。 アメリカが、当時分かを支援したのは、ヨーロッパの財産をアメリカに持ち込むためだった。この政策のおかげで、アメリカは、文化を輸出する国になった。 ブラジル:1940〜50年に、2人の起業家によって、サンパウロにMAMやTBC、CInemateca Brasileira、MAC等が作られる。 少し遅れて、MASPが作られたが、これは新聞社のオーナーが新聞広告と交換条件に寄付を募った。 同じような課程で、リオにMACが作られた。ShellやBanco do Brasilもこの時期に文化支援に乗り出した。 が、政策的な支援はなく、この流れは消えていく。エリートが上流階級社会における個人の威信において文化を支援していたこの流れは、政策によって資源面での仕組みを確立させる必要があった。 1986年に、税制優遇による文化支援法であるサルネイ法が施行される。90年まで続いたが、システムに大きな問題があり、汚職の温床となった。 90年発足のCollor政権によって、文化省が廃止され、文化に関する財源が全くなくなった。 同年、サンパウロ市において、文化関係者が中心となり、メンドンサ法ができる。サンパウロにおける税制優遇による文化支援法。 91年、共和国の文化局の最高長官だったルアネーは、ルアネー法の施行を達成させる。これが、今日までのブラジルにおける文化優遇政策のベースとなっている。行政と予算審査の透明化、プロジェクトの登録又内容の分析、決算報告における厳格化。 92〜94年までは、あまり有効には機能しなかった。広報不足が原因で、システムが浸透しなかった。 95年にFHC政権になり、Francisco Correa Weffortが文化大臣に。文化省に、文化支援局を設置。大統領や、通信大臣通信大臣の後押し。 プロジェクトの申請や資金の調達を専門にする人が増える。 州知事や市町も刺激を受け、文化支援の意識が広がる。当時においては、バイーア州における支援が目立っている。 01年には、AVの分野で、ANCINEが設立される。 03年に、ルーラ政権に代わり、ジルベルト・ジルが文化大臣になってからも、修正の必要性を尊重しながらもルアネー法の基本路線は維持。
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CPLD-SRAM やること CPLDを使ってSRAMを制御する。 PICからCPLDにデータを送りCPLDからSRAMにアクセス PICにデータを返すという形にする。つまりCPLDは PICからSRAMにアクセスするための中間デバイスとして扱う。 実装に当たって PIC・CPLDの使用PIN数を減らす工夫をする。 IO_PINを半分(4bit)にしてクロックを利用し 2回に分けて8bitのデータを送る。 また、アドレスの指定はすべてCPLDに自動で させる。初期アドレスからデータが来るたびに アドレスをインクリメントする。 この仕様では、PICからのデータは連続データ しか扱えないが、データロガーとして使う場合 さほど問題にならないと判断した。 実際の接続 図のような接続を考えている。 PIC-CPLD I/O 4bit2回に分けて8ビット分のデータを送る clk 1bit4bitデータを送るごとにクロック信号を出す.CPLDは奇数クロックのときは上位4bit偶数クロックの時は下位4bitと判断する。 R/W 1bithigh readlow write PIN数上記の接続の場合の使用PIN数についてPIC 6pinCPLD 32pinCPLDがぎりぎりになるの少々不安 使用するIC 上記をふまえ使用するICを選択する。 PIN数は44pinのIC XC9536-PC44ではピンに使用するマクロセルが34あり 一見足りているようだが、総マクロセルが36でピンに割り当てる とほぼ使い切ってしまう。内部で14bit分のアドレス保持など マクロセルを使うのでpin数は同じだが72マクロセルを持つ XC9572-15P44C(E先生より)を使うこととする。 点滅回路にてピンはLEDとCLKの2ピン。内部のマクロセルを20使っています。 まだまだ、マクロセルあまってます。これならぎりぎりSRAMもいけるはず
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年度 26年度 27年度 28年度 29年度 30年度 月 4月 4月 4月 4月 4月 5月 5月 5月 5月 5月 6月 6月 6月 6月 6月 7月 7月 7月 7月 7月 8月 8月 8月 8月 8月 9月 9月 9月 9月 9月 10月 10月 10月 10月 10月 11月 11月 11月 11月 11月 12月 12月 12月 12月 12月 1月 1月 1月 1月 1月 2月 2月 2月 2月 2月 3月 3月 3月 3月 3月
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ゼミ発表第3回 総合国際学研究科 博士前期課程 地域・国際専攻 地域研究コース 1年 花田勝暁 研究テーマ ブラジルの文化政策〜企業による文化支援を振興するRouanet法を中心に〜 Cultural Policy in Brazil〜the Law Rouanet Promot the Art Sponsorship〜 進捗状況: 前回の発表時に、文化政策に関する日本語で読める基本文献を参照したが、ラテンアメリカに関する話題がほとんどなかったので、次回の発表時までに、他言語でブラジル及びラテンアメリカの文化政策に関する基本文献を読み、同地域の文化政策の大枠を掴むことを課題とした。 読むべき文献も増えてきたが、まずは『Cultural policy(witten by Toby Miller and George Yudice)』と『Cultural Politics in Latin America(edited by Anny Brooksbank Jones and Ronaldo Munck )』の2冊を上記の目的に相応しい文献として選択し参照した。2冊ともカルチュラル・スタディーズを標榜している研究者の著書・編書であったが、私自身が今後文化政策をテーマに修論に取り組んでいく姿勢として、文化政策学/文化経済学/カルチュラル・スタディーズ等の、文化振興政策を議論する複数の切り口の中で、特にどういった切り口で研究を進めていきたいのかを考えなければいけないと思った。しかし、当初の目的であるラテンアメリカの文化政策を歴史的にしっかり捉えるという目的には、2冊ともあまり適切ではなかった。特に後者は、全体に内容が左傾化していた。 夏期休暇中に、ラテンアメリカの文化政策に繋がる問題として「ラテンアメリカにおける国民国家の成立」について思索したので、その内容も交えて今回の発表としたい。 第1回発表:Lei Rouanet の紹介 第2回発表:文化政策とは何かのイントロダクション 第3回発表:ラテンアメリカにおける文化政策 ←今回はここ 第4回発表(12月16日):メセナの功罪 第5回発表(1月):2月の現地調査へ向けて ●ラテンアメリカにおけるナショナリズムの目覚め(*別資料も参照) 1920 年代を通じてメキシコ革命は、国民統合に向けた民族主義運動を強力に推進した。バスコンセロス文部大臣の下で現代メキシ コの国民意識形成に大きく貢献した壁画運動が、リベラ、オロスコ、シケイロスのような現代メキシコが世界に誇る画家たちを中心 に展開された。この壁画運動は公共建造物の壁に描いたメキシコの歴史や風物を通じてメキシコ民族意識を国民に植えつける役割を 果たすと同時に、ヨーロッパ文化から脱却したメキシコ絵画の創造でもあった。メキシコ民族主義の台頭は、メキシコ革命が農民・ 労働者・軍部などの各勢力を政治力として統合するにあたり大きな力となった。[『概説ラテンアメリカ史』国本伊予 p198] メキシコ以外の多くのラテンアメリカ各国でも、政治はポピュリズムの時代になり、ラテンアメリカ各国の支配層が国民統合をめ ざす時代になる。 ポピュリストは、経済的ナショナリズムと並んで、独自の文化価値の見直しをめざす文化的ナショナリズムの傾向を示した。これ は寡頭支配層がフランス、イギリス、アメリカといった先進国の文化を進歩的ととらえ、混血や先住民やアフリカ人の文化を遅れた ものとしたことへの反動でもあった。ナショナルな独自文化の主張は、雑多な階級を統合する機能も果たした。ただしポピュリスト がめざしたのは、個々の民族集団の文化伝統の尊重と共存を謳う文化的多元主義ではなく、先住民的要素やアフリカ的要素を含んだ 混血文化の称揚であった。先住民系住民やアフリカ系住民に対しては、教育による「国民化」、「同化」がめざされたのであった。[『比 較政治──中南米』恒川惠市 p47] ポピュリズムの時代になって、ブラジルにおいても国民意識が追求されるようになった。 ブラジルの国民統合を意識的に追求したのもヴァルガスだった。1934 年には移民制限が導入されたほか、地下資源開発、船舶の所 有と運行、電源開発などの経済活動がブラジル人に限られることになった。 ブラジルの中央集権的統合を強化することを狙うヴァルガスは、1935 年になって共産党とファシズム団体による暴力事件を口実に 戒厳令を施行、37 年には大統領制を中止し、国会を解散、全権を掌握した。この年のヴァルガスが作らせた憲法は、大統領の権限を 大幅に強化するものだった。 1937 年から45 年にかけてのヴァルガス政権は「新国家体制」と呼ばれ、国家主導の工業化と内陸開発、労働者保護による国家へ の統合、そしてブラジル・ナショナリズムの称揚によって特徴づけられる。ヴァルガス政権が中南米のポピュリスト政権の1つに数 えられるのは、そのためである。ヴァルガスは関税や為替レートを操作することで工業部門を保護すると同時に、基幹産業の確立の ために国家資金をつぎこんだ。典型的な例がヴォルタ・レドンダ国営製鉄所の建設である。ヴァルガス政権はまた、内陸部へ向けて 道路や鉄道の建設を進めた。労働者のための年金・失業保険などの制度を整え、労使紛争を調停する労働裁判所を整備し、労働省の 指導下で垂直的な労働組合ネットワークを作り上げたのもヴァルガスである。最後にヴァルガスは、ブラジリダーヂ(ブラジル的精 神)を掲げて、初等・中等教育における外国語教育を禁止したり、外国語での新聞発行を制限したりもした。[『比較政治──中南米』 恒川惠市 p107] メキシコやブラジル以外の、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ボリビアといった国でも20 世紀初頭〜前半にポピュリスト政権 が力をもちはじめた。ポピュリスト政権は、寡頭支配層による統治によって特徴づけられた19 世紀的秩序から、大衆民主主義と工 業化経済への転換を図ったが、一般大衆を政治に引き込んだという意味で、新しい時代の政治形態だった。この新しい時代になって 「国民の一体性」を社会のより広い層が感じるようになったというのは、納得できる。 ●ナショナリズムと文化政策 国が国民意識を育てようとした結果として誕生したラテンアメリカにおけるナショナリズムと、現在の国による文化政策は、相似形であるように映る。 果たして、Lei Rouanetのように、そこに企業の自由裁量の余地が介入することで、一体どんな効果があるのか? 次回の発表までには、メセナの功罪について理解を深めることで、その点に自分なりの答えをみつけたい。 ●ラテンアメリカにおける文化政策(冒頭の2冊からの引用) It might be said that the first major state-sponsored audiovisual industrial policy for Latin America actually came from the US. As we saw in Chapter 1,the State Department and the OCIAA courted Latin America`s entry into WWⅡ on the side of the Allies by re-engineering how Americans portrayed Latins . ("Cultural Policy"P.99) Unlike the Mexican or Argentine industries, which could export their films throughout the continent and to Spain, the Portugues lamguage limited Brazilian producers to the domestic market. Indeed, no attempt was made to create a policy for a Lusophone market extending to other Portugues-speaking countries until the 1970 s , and that never amounted to much (Farias). The chanchadas of the 1930 s, combinations of music, dance and comedy, continues to be popular in the 1940s. Altântida , the premier producer of chunchadas , was financially successful, and increased its market share when it became part of the vertically integrated media empire of Luiz Severiano Ribeiro in 1947.This success was enhanced by domestic quota requirements imposed by the Vargas regime that year(Johnson and Stam 29). ("Cultural Policy"P.100) The 1960s saw the politicization of cinema in most Latin American countries, both within and outside the state. The Cuban Revolution of 1959 was a powerful stimulus to leftist and anti-dependista thinking throughout the regoin ; that also tapped into deep-rooted national-popular movements in most Latin American countries. As these movements played a role in the hegemonic process, their perspectives were relatively mainstreamed , to the point where social-science institutes, state agencies and independent productions all espoused popular culture . ("Cultural Policy"P.100) This term means something quite different from its connotations in Anglodominated nations, where the term popular usually refers to tha mass reception of commodified products of the culture induetries. In contrast, Latin Americans strove to instill their work with the perspective of the people , an endeavor that was not without its shortcomings, particularly with respect to questions of reprensentation and the actual experience of viewing. In addition to these questions, the often brutal backflash of conservative forces resulted in the eventual demise of popular and revolutionary initiatives in politics and culture as early as 1964 in Brazil, 1973 in Chile, 1976 in Argentina and so on.The model of the strong cultural state was notable in fascist Latin American military dictatorships of the 1960s to the 1980s, albeit in varied ways. The Argentine military kept control of TV during the 1970s and 1980s, but the Brazilian authoritarians of the 1964-85 period favored a state-run infrastructure with privately-held media companies as part of their modernization project, with task of modernization(Waisbord 55;Elizabeth Fox 193).Latin American cinema in the 1960s and since cannot be understood apart from the concern with a revolutionary remaking of society, and the pivotal of the popular in such endevors. This is especially complicated with the democratization of the 1990s, where social-movement activism and clientelism and crucially intricated and conflictual, in ways that are unfathomable to Eurocentric discourses of Weberian public-service normativity(Krischke 111). ("Cultural Policy"P.100) The construction of a national-popular will in Latin American societies faced similar challenges to those outlined by Gramsci(see our Introduction).Juan Carlos Portantiero, for example, considered gramsci s analysis of Caesarism and Bonapartism applicable to Latin American nationalist populism, particularly Varguismo in Brazil, Cardenismo in Mexico, Peronismo in Argentina and Aprismo in Peru. ("Cultural Policy"P.101) Throughout the 1960s and early 1970s, a number of factors contributed to the radicalization of Latin American intelectuals the increasingly peremptory incursions of international capitalism, for example, the Cuban revolution, debate around the work of dependency theorists (discussed in this volume by Hernan Vidal), and the rising profile of critical sociology in Latin American universities. Amid a growing sense of developoing North American political , economic and (increasingly) cultural imperialism in the region, sociologists and progressive intellectuals were at the vanguard of attempts to theorize Latin America s relationship with it s Northen or Western , First World or developed other(Morse 1996). Conceptions of culture, politics and their interrelations changed rapidly during this period. The discourse (and sometime the priorities) of the revolutionary left were increasingly extended to cultural criticism and (to a lesser extent) cultural production (Halperin Donghi 1981). Some sociologists of the period did not hesitate to denounce cultural products which they saw as reflecting or expressing dependency , or domination(Garcia Canclini 1995a). For others , more influenced by Louis Althusser, culture was an epipphenomenon of the economic base and , as a result, its producers were credited with little autonomy. (Cultural Politics in Latin America,p4) Cultural policy in Spanish America and Brazil has been marked by conquest and colonization, from the biginning of the fifteenth century to the first decades of the twentieth , a full century after independence. Some would argue that the colonialist legacy -- especially the subordination of indigenious , African , and mixed-race peoples popular culture, and non-European religious forms -- has endures to this day . On the other hand, the salience of state support for certain popular forms and practices since the early twentieth century -- Mexican muralism, Brazilian samba, Cuban son, magical realism and testimonial narratives -- bears witness to unique transculturated(Renato Ortiz) or hybrid cultures(Garcia Canclini) whose significance cannot be adequately captured by the double bind of Eurocentrism and postcolonial nativism. (Cultural Policy,p118) By the 1980s, 〜〜. Many national cultural policies were reengineered to take account of and foster what were now perceived to be, or projecter as , multicultural societies. At each step of this history , culture or its imputed absence has provided a model of human worth to legitimize or to contest the status quo. (Cultural Policy,p119) 読んでみて、グラムシやカンクーニといった人物がよく引用されていたので、この2人についての理解を深めたい。 また、Lei Rouanetはフランクフルト学派の影響があることがわかったので、フランクフルト学派についても、調べたい。 Lei de “incentivo” à cultura, promulgada no Governo Collor que tomou o nome do seu inspirador, o embaixador Sérgio Rouanet, então ministro da Cultura, considerado um adepto do pensamento crítico da Escola de Frankfurt. Sua esposa Bárbara Fritag, de nacionalidade alemã, teve decisiva influência na adesão de Rouanet às idéias dessa corrente de fundo marxista e a sua difusão no Brasil. Os teóricos da Escola de Frankfurt, valendo-se de variados conceitos da psicanálise, estudaram a maneira pela qual a sociedade forma o indivíduo produzindo a diversidade de caracteres sociais. Caracteriza-se o pensamento frankfurtiano, por concluir que a cultura capitalista do povo alemão gerou todos os sofrimentos por que passou a Alemanha. Os teóricos da Escola de Frankfurt, embora hostis ao capitalismo, adotavam um posicionamento contrário ao bolchevismo Procuravam manter viva a busca de um caminho para o socialismo, alternativo, mais palatável. A maioria dos que se engajaram na NOVA ESQUERDA, nos anos 60 e 70, aderiram às idéias da Escolade Frankfurt. (A Revolução Cultural Brasileira [pdf]por Jorge Baptista Ribeiro )
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2012春学期 4/17