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企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下の統制経済諸策を一本化・各省庁に実施させる機関となり、国家総動員法(昭和13年5月5日施行)制定以来その無謬性を強めていくこととなる。 特に素人の軍部よりも予算や法に通じ・駆使する専門家たる官僚の力が強まり、実際の主導権は官僚側にあったとされる。岸信介と、財界・財閥を代表する小林一三との対立は、小林により岸が商工次官を更迭され、昭和16年の企画院事件として和田博雄(農林省出身)らが共産主義者として検挙される事件にまでつながる東條内閣の誕生により岸は復権し、その後の商工省と企画院の統合によって昭和18年11月1日、軍需省が設立されると次官に収まった。昭和18年の「軍需会社法」により企業の利益追求が事実上否定され、昭和15年12月に閣議決定された「経済新体制確立要綱」中の「資本と経営の分離(所有と経営の分離)を推し進め、企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」とする政策の中心にいた商工省派遣・美濃部洋次、陸軍派遣・秋永月三(のち中将)らの念願は達成されたと、評論家・谷沢永一は書いている「官僚もういいかげんにせんかい」 谷沢永一 より抜粋 。 単なる法律立案運用解釈のコンサヴァティブ・エンジニアではなくクリエーティブ・エンジニアを目指していたと言われるが「ドキュメント 平成革新官僚 公僕たちの構造改革」 宮崎哲弥 + 小野展克 より抜粋、戦後、経済官僚は公職追放に対してもほぼ生き残り、戦前の強力な統制から一歩引き行政指導や許認可制度、予算手当てや優遇税制(政策減税)、補助金などを主たるパワーとして、大蔵省や通産省または経済企画庁経済安定本部から経済審議庁を経て設置を主たる拠点として戦後の国家を担うプロデューサー・エージェントとして稼動した政治社会学者・菊池信輝は、国家総動員体制以来良くも悪くもこの経済・産業体制は戦後も引き継がれたが、官が主体的に経済を切り回していたというより、むしろ産業界の意向に引きずり回され、本来の「公」がなすべきことが見失われていたという。 陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「革新官僚」として、日中戦争前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「統制経済」の牙城として、初期には、吉田茂、奥村喜和男、松井春生らが参画、その後は、初代総裁に後藤新平を頂いていた南満州鉄道傘下満鉄調査部を経由した官僚として、経済将校として鳴らした石原莞爾と組んだ宮崎正義、佐々木義武、満州国の経済体制造りに関わった者の中からは、岸信介(商工省)、椎名悦三郎(商工省)、美濃部洋次(商工省)、毛里英於菟(大蔵省)、星野直樹(大蔵省)らがいる。他に、迫水久常(大蔵省)、植村甲午郎(逓信省)、黒田鴻伍(商工省)、橋井真(商工省)、周東英雄(農林省)、竹本孫一(内閣)らが、民間からは企画院参与(勅任官)として高橋亀吉らがいた。更に東條英機、武藤章、鈴木貞一、板垣征四郎らの軍人の関わりも指摘されている。 1943年11月1日、軍需省へ一本化されたが、1944年11月1日、企画院と同様の機構構成で綜合計画局が立ち上げられ長官には植場鉄三、秋永月三、関東軍参謀副長・池田純久、最後には迫水久常、元商工次官・村瀬直養らが就いた綜合計画局長官は、内閣書記官長、情報局総裁、法制局長官と並ぶ「内閣四長官」と称された。その後、1945年9月1日に内閣調査局と改称され、内閣調査局も1945年11月24日に廃止された。 組織 総裁(親任官) 次長(勅任官) 総裁官房 総務室 - 基本的総合的事務 総務部→第一部 - 戦時的国家総動員関係一般事務 調査部→第二部 - 生産力拡充関係事務 内政部→第三部 - 人口政策及び人員動員計画事務 産業部→第四部 - 物資動員及び生活必需物資の需給統制事務 財務部→第五部 - 財務担当事務 交通部→第六部 - 交通動員計画事務 科学部→第七部 - 科学動員及び科学研究に関する事務 沿革 1937年10月 企画院発足に伴い、総裁・次長がそれまでの政治任用による兼務からそれぞれ親任官・勅任官となる。 1939年4月 第一次改組にて各部署は番号制に変更及び科学部設置。 1941年5月 第二次改組にて次長直轄の総裁官房総務室設置。 1942年1月 第七部は新制の技術院に移行。 1942年4月 第三次改組にて第四部を各庁統一事務にあて、第二部に生産力拡充及び物資動員計画事務をあてた。 1942年11月 第四次改正にて六部を五部制に及び減員。 1943年11月 業務を軍需省総動員局に吸収統合した。 人事 歴代総裁 代 氏名 在職年月日 退任後の主な公職・役職 1(企画庁総裁) 結城豊太郎(兼任) 1937年5月14日 - 1937年6月4日 日本銀行総裁 2(企画庁総裁) 広田弘毅(兼任) 1937年6月10日 - 1937年10月25日 3 瀧正雄 1937年10月25日 - 1939年1月11日 4 青木一男(1939年8月30日から兼任) 1939年1月11日 - 1940年1月16日 大東亜大臣、長野放送会長 5 武部六蔵(心得) 1940年1月16日 - 1940年1月17日 満州国国務院総務長官 6 竹内可吉 1940年1月17日 - 1940年7月22日 軍需次官 7 星野直樹(1940年12月6日から兼任) 1940年7月22日 - 1941年4月4日 内閣書記官長 8 鈴木貞一(兼任) 1941年4月4日 - 1943年10月8日 国務大臣、大日本産業報国会会長 9 安倍源基(心得) 1943年10月8日 - 1943年11月1日 内務大臣 歴代次長 代 氏名 在職年月日 退任後の主な公職・役職 1(企画庁次長) 井野碩哉 1937年5月14日 - 1937年9月1日 農林次官、農林大臣、法務大臣 2(企画庁次長) 中村敬之進(心得) 1937年9月1日 - 1937年10月25日 厚生次官 3 青木一男 1937年10月25日 - 1939年1月11日 大東亜大臣、長野放送会長 4 武部六蔵 1939年1月23日 - 1940年1月25日 満州国国務院総務長官 5 植村甲午郎 1940年1月25日 - 1940年8月13日 経済団体連合会会長、ニッポン放送会長、 /br 日本航空会長 6 小畑忠良 1940年8月13日 - 1941年4月7日 大政翼賛会事務総長 7 宮本武之輔 1941年4月7日 - 1941年12月24日 8 安倍源基 1941年12月27日 - 1943年11月1日 内務大臣 註 参考・関連書籍 「戦前期日本官僚制の制度・組織・人事」 戦前期官僚制研究会 編 東京大学出版会 「日本官僚制総合事典」 秦郁彦 編 東京大学出版会 「現代日本経済システムの源流」 岡崎哲二 + 奥野正寛 編 東京大学出版会 「1940年体制-さらば戦時経済」 野口悠紀雄 東洋経済新報社 「官僚もういいかげんにせんかい」 谷沢永一 講談社 「ドキュメント 平成革新官僚 公僕たちの構造改革」 宮崎哲弥 + 小野展克 中公新書 「民主主義の原価」 宮崎学 講談社 「財界とは何か」 菊池信輝 平凡社 関連項目 革新官僚 軍需省 国家総力戦 企画院事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月24日 (金) 16 05。
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企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)に波及し、検挙者は合計17名となった(「高等官グループ」事件)。 被告たちの検挙・起訴は充分な法的根拠を欠いており、判任官グループのうち、芝は「京浜グループ」と企画院内研究会の双方に関与していたことから1940年実刑判決が下されたが、それ以外の被告には執行猶予つきの有罪判決が下された。高等官グループは検挙後約3年間拘禁されたのち保釈、敗戦後の1945年9月、佐多を除き全員に無罪判決が下された。 また、高等官グループ(元職員)として満鉄調査部員の川崎巳三郎が検挙されたことから、弾圧は同調査部にも波及することになった(満鉄調査部事件)。 背景と意義 この事件の背景として、1940年第2次近衛内閣に提出された「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人、あるいは平沼騏一郎ら右翼勢力が「赤化思想の産物」と非難したことがあげられる。この結果原案は骨ぬきにされ、さらに平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が検挙されることとなった。 被検挙者の多く(特に高等官)はかつて左翼運動に参加し、治安維持法違反によって検挙された経験を持つ「思想的前歴者」であるとともに、近衛文麿のブレイン集団である昭和研究会のメンバーとも重なっていた。彼らの政策提言は陸軍省軍務局からも支持を得ており、平沼ら右翼はこうした動きを「国体と相容れないもの」として激しく排撃していた。 歴史的には、総力戦態勢構築をめぐる体制内抗争の中で、事実上の計画経済政策を主張した革新官僚グループ(あるいはその内部の左翼活動前歴者)に対して行われた弾圧と位置づけられている。 関連項目 企画院 - 革新官僚 満鉄調査部 - 満鉄調査部事件 ゾルゲ事件 横浜事件 大阪商大事件 平沼騏一郎 戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - 治安維持法 関連文献 奥平康弘 『治安維持法小史』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2006年。ISBN 40060001614。 外部リンク 法政大学大原社会問題研究所『日本労働年鑑特集版;太平洋戦争下の労働運動』第五編第二章「学問研究に対する弾圧」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月2日 (木) 09 57。
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革新官僚(かくしんかんりょう)とは、1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時経済統制の実現を図った官僚層。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった。 新々官僚(しんしんかんりょう)、略して新官僚(しんかんりょう)と称されることもあるが、そもそも「新官僚」は大正後半から昭和初期にかけて疑似右翼的な官僚層を指して使われた言葉で、のちに新々官僚が登場してきたときに紛らわしいので新々官僚を「革新官僚」とも呼ぶようになった。ちなみに、「新官僚」に該当する人物としては、内務省警保局の幹部に昇進し「天皇陛下の軍隊」に対抗して「天皇陛下の警察官」を自称した後藤文夫のほか、松本学、唐沢俊樹、吉田茂(内務省出身。のちの首相は同姓同名の異人)、平沼騏一郎などが挙げられる。 逓信省出身の奥村喜和男が電力国家管理案を実現してから注目されるようになった。星野直樹企画院総裁、岸信介商工次官ら満州で経済統制の実績を挙げていた高級官僚、および美濃部洋次、毛里英於菟(ひでおと)、迫水久常らの中堅官僚が知られる。モデルはソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した。それゆえに戦後には左翼とする論者Template 誰?もいる。革新的・社会主義的な立案を行ったため、「共産主義」として小林一三らの財界人や平沼騏一郎など右翼から強い反発を受け、1941年に企画院事件を生じた。 革新官僚に該当する人物としては、企画院の項目で挙げられた人名以外でも、 吉野信次(商工省) 田中長茂、藤井崇治、重政誠之(以上農林省) 藤井真信、山田竜雄、原口武夫(以上大蔵省) 松井春生、安井英二、高村坂彦、富田健治(以上内務省) 白鳥敏夫、栗原正、佐藤忠雄、重松宣雄(駐奉天領事など) 藤村信雄、仁宮武夫、高瀬侍郎、牛場信彦(以上外務省) 永田鉄山(国家総動員法の策定に関わった。軍部官僚) 花野吉平(在上海特務部・思想第一班嘱託。満州国官僚。尾崎秀実の進めで上海に渡っている。) などが挙げられる。 脚注 参考文献 橋川文三 「新官僚の政治思想」『近代日本政治思想の諸相』 未來社、1968年。 関連項目 選挙粛正運動 企画院事件 国家総動員法 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月12日 (水) 07 20。
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Template 日本の法令? 国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。 背景と影響 第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。 この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。概要は、企業に対し、国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制することで、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、また、国家が生産の円滑化に責任を持つことで企業の倒産を防ぐことを目的とした。 しかし、この法案は総動員体制の樹立を助けた一方で、社会主義的であり、ソ連の計画経済の影響を受けていた。のちに、この法案を成立させた第一次近衛内閣の後に首相となった平沼騏一郎を中心とした右翼・反共主義者の重鎮により、企画院において秘密裡にマルクス主義の研究がなされていたとして、企画院事件が引き起こされた。 また、戦後の産業政策に見られるように官僚が産業を統制する規制型経済構造を構築した契機となったことから、大政翼賛会の成立した年にちなんだ1940年体制という言葉も存在する。 Template 節stub? 内容 同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。 労働問題一般 - 国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消 物資統制 - 物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動 金融・資本統制 - 会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用 カルテル - 協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入 価格一般 - 商品価格、運賃、賃貸料、保険料率 言論出版 - 新聞・出版物の掲載制限 法律上には上記統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス・ドイツによる授権法(1933年)の日本版になぞらえる説もある。 審議 大財閥を中心とした経済界はこの法案に対して、法律によらない私権の制限であり社会主義的であるとの批判をもっていた。経済界に近い立場の民政党・政友会など既成政党も、政府に対する広範な授権は大日本帝国憲法において帝国議会に保障された立法協賛権の剥奪につながる恐れがあり憲法違反であるとして反対の空気が強かったが、議会審議においては政府や陸軍に押し切られる形で可決成立をみた。これについて、通説では陸軍の圧力によるところが大きいとされているが、近年ではこの時期の陸軍は「事変」中における議会との全面対決には消極的であり、むしろ有馬頼寧ら近衛文麿首相側近の間で、国民の支持が高い近衛の元に革新派を結集させて「近衛新党」を旗揚げして、解散総選挙に打って出る動きがあったために、既成政党側がこれを恐れて妥協に転じたとする説もある。 なおこの審議中には、既成政党の無力ぶりを示す以下2つのエピソードがあった。 「黙れ」事件 1938年3月3日、陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐は委員会審議中、政府側説明員として長時間にわたり法案の趣旨説明を行った。そのあまりの長広舌に対して議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ際、佐藤は「黙れ!」と恫喝した。議場は騒然とし、事態収拾のため杉山元陸軍大臣が陳謝したものの佐藤本人に懲罰はなかった。 ただし、質問者であった宮脇長吉議員は元陸軍軍人で佐藤の陸軍士官学校時代の教官であったことから、佐藤と宮脇の個人的な確執が発言につながったとする説もある。また、当時陸軍大臣が直ちに謝罪する例は珍しく、法案審議に際しての軍部の低姿勢ぶりが際立っているとする見方もある。 西尾除名事件 社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。3月16日、同党議員の西尾末広は法案賛成の演説を本会議で行ったが、近衛首相を激励する一節「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」の「スターリン」の部分が民政・政友両党により問題化した。西尾は発言を取り消した(このため議事録よりも削除)ものの、懲罰委員会に付せられ、結局議員除名となった(なお、既成政党と政府が全面的に対決していた9日の段階で西尾が全く同一の発言をしているにもかかわらず、その時には問題にすらされていなかった)。 既成政党勢力にとっては、政府・陸軍に押し切られる一方の議院運営の鬱憤を社会大衆党に対して晴らす格好になった。 参考文献 古川隆久 『昭和戦中期の議会と行政』 吉川弘文館、2005年。ISBN 4642037713。 関連項目 Template Wikisource? 政策及び思想 国家総力戦 国家社会主義 混合経済 統制経済 ケインズ経済学 中央集権 集産主義 新体制 国民精神総動員 政党・団体 統制派 革新官僚 企画院 企画院事件 日本発送電 船舶運営会 政治家・思想家 星野直樹 和田博雄 岸信介 美濃部洋次 鮎川義介 西尾末広 江田三郎 三木清 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 09 00。
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Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。1931年の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。 1934年、新聞班長となる。 1936年の二・二六事件の際には、山下奉文と共に青年将校の説得に当たった。 1938年4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日興亜院政務部長に就任(~昭和16年4月)。1940年8月1日、中将に昇進。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任。1941年4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、イギリスのインド植民省を真似て大東亜省を設立し、外務省のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には青木一男が任命され、失敗に終わっている。 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦直前の1941年10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦し、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。 また、戦後の鈴木へのインタビューによれば、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、支那事変(日中戦争)が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。 1942年2月、大東亜建設審議会幹事長に就任。1943年10月8日、貴族院議員に就任し、内閣顧問、大日本産業報国会会長を務める。 戦後 終戦後の1945年12月3日、A級戦犯に指定された。極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている(陸軍中将ではなく、企画院総裁という文官としての立場で起訴された)。終身禁固の判決を受け服役する。1955年9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放され、1958年に赦免された。 赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否し、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にしていたと言われている。 その後は、1973年に東京都世田谷区から千葉県山武郡芝山町にある生家に居住し、静かな余生を送った。ちなみに、近所の住民からは「閣下」と呼ばれていたという。 平成元年、100歳で没した。A級戦犯としては、唯一平成まで存命した最後の生き残りであった。葬儀は東京都杉並区の福相寺で営まれ、葬儀委員長は福田赳夫が務めた。 逸話 前述の通り、元々は満洲の森林開発に携わる仕事に就くことを希望しており、そのことから東京大学農学部を志望していたが、直前に予行演習のつもりで受けた陸軍士官学校に合格したので、そのまま軍人になった。 人格円満で社交術に長け、周囲に対しても非常に気立てが良いことで知られており、新聞班長に任命されたのもそのような性格に起因したものだったと言われている。 長年、朝になると発声による健康管理を行っていた。特に巣鴨プリズン収監中は、鈴木の声が獄中の目覚まし代わりになっていたという。 NHKドキュメンタリー『スガモ・プリズン解体』(1971年放送)出演時のインタビューでは、東京裁判について「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と語っていた。 NHK特集『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』(1979年2月26日放送)に出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。この取材および録音内容については、番組のプロデューサーだった中田整一の著書『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋、2007年)に記されている。 前述の通り、福田赳夫と懇意にしていたことから、1972年の自民党総裁選で、福田が田中角栄に敗れた際には、孫に「やることがなくなってしまった。政治が金で買えるようになったらお仕舞いだ」と語った。 実家は日蓮宗の信徒であったことから、毎日「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを欠かさなかった。 臨終間際に孫達が「お祖父さん!」と呼びかけても反応しなかったにもかかわらず、その場に居合わせた看護婦の提案により「閣下!」と呼んだところ、目を開いたという。 年譜 1910年(明治43年)5月 - 陸軍士官学校卒業(22期)。 12月 - 少尉に昇進。歩兵第18連隊附。 1913年(大正2年)12月 - 中尉に昇進。 1917年(大正6年)11月 - 陸軍大学校卒業(29期)。 1918年(大正7年)7月 - 参謀本部附勤務。 1919年(大正8年)1月 - 大蔵省派遣(~10月)。 1920年(大正9年)4月 - 大尉に昇進。参謀本部員(支那斑)。 11月 - 参謀本部附(上海駐在)。 1922年(大正11年)2月 - 参謀本部員(作戦課)。 1923年(大正12年)8月 - 参謀本部附(北京駐在)。 1925年(大正14年)12月 - 少佐に昇進。歩兵第48連隊附。 1926年(大正15年)8月 - 歩兵第48連隊大隊長。 12月 - 支那出張(~1927年5月)。 1927年(昭和2年)5月 - 参謀本部員(作戦課)。 1929年(昭和4年)2月 - イギリス出張(~10月)。 12月 - 支那公使館付武官補佐官(北京駐在)。 1930年(昭和5年)3月 - 中佐に昇進。 1931年(昭和6年)1月 - 軍務局附。 8月1日 - 軍務局課員(支那班長)。 1933年(昭和8年)8月1日 - 新聞班長。 12月20日 - 大佐に昇進。 1934年(昭和9年)3月5日 - 陸軍大学校教官。 1935年(昭和10年)5月25日 - 内閣調査局調査官。 1936年(昭和11年)8月1日 - 歩兵第14連隊長。 1937年(昭和12年)11月1日 - 少将に昇進。第16師団司令部附(内閣企画院調査官)。 1938年(昭和13年)4月14日 - 第3軍参謀長。 12月16日 - 興亜院政務部長。 1940年(昭和15年)8月1日 - 中将に昇進。 12月23日 - 興亜院総務長官心得。 1941年(昭和16年)4月4日 - 予備役編入。企画院総裁。 1943年(昭和18年)10月 - 貴族院議員(~1945年12月)。 11月 - 内閣顧問(~1944年10月)。 1944年(昭和19年)9月 - 大日本産業報国会会長(~1945年8月)。 参考文献 木戸日記研究会 『鈴木貞一氏談話速記録』上下、日本近代史料研究会、1974年。 平塚柾緒、太平洋戦争研究会 『図説 東京裁判』 河出書房新社、2002年。 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』 新人物往来社、2005年。 小林よしのり 『いわゆるA級戦犯』 幻冬舎、2006年。 太平洋戦争研究会 『秘録東京裁判の100人』 ビジネス社、2007年。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 13 40。
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昭和デモクラシーの挫折(入力途中) 第一部 満州事変前後 第二部 軍部・革新派官僚の日本共産化プラン 殖田俊吉 第一部 私は昭和八年九月に役人をやめました。しかし私自身の軍に対する不信はもうよほど前からありました。昭和二、三、四年頃ですが私は田中義一内閣のときに総理大臣秘書官をしておりました。それで軍人に接する機会が多かったのです。そのころは白川義則と[#「白川義則と」は底本では「白河義則と」]いう人が陸軍大臣で、阿部信行が軍務局長、梅津美治郎が軍事課長でした。昭和三年に張作霖の爆死事件があったのですが、張作霖の爆死事件というのは、初めは陸軍から、南方の蒋介石の方の回し者がやったんだというふうに報告をうけ、たぶんそんなことだろうと思っておったんです。ところがしばらくして、参謀総長の鈴木荘六がやってきて、じつは関東軍がやったんだという報告をしてきたわけです。それから田中さんもびっくりされ、だんだん調べてみますと、間違いないことがわかってきた。ところがそれは田中さんの当時とっておった政策とまるで逆なんです。蒋介石が昭和二年九月に日本に亡命してきました。そのおり、蒋介石の歓迎会なんかやりましたが、(今その歓迎会に出た人で残っているのはたぶん私一人だろうと思います。この間まで鳩山さんがおられましたけれどもなくなりました……。)ちょうど日本の県会議員選挙のときなので、閣僚などは、ほとんど地方に遊説に行っており、蒋介石に、今ちょうど選挙なものだから忙しくて全部出られないとたしかわびたと思いますが、蒋介石が、「お国はうらやましい、私どもも政争をこういうふうに選挙の形でやるようにしたいと思う、今政争のために亡命してきているんですからね」というような話をしておった。その翌昭和三年の初めに、まだ寒かったですが、蒋介石のそのときの秘書官だったんでしょう、張群が参りまして――蒋介石は昭和二年の秋には帰り、帰るとすぐにまた大総統になったんです。――私は帝国ホテルに迎えに行きまして、田中さんの腰越の別邸に連れて参りました。張群という人はりゅうちょうではありませんけれども日本語ができるものですから、田中さんと二人でだれも交えないで、昼から夜八時ごろまでいろいろ打合せをしました。――つまり蒋介石が北京へ行く、北伐をする。北京に張作霖がいるわけです。それでその張作霖をどうしてもう一ぺん奉天の方へ帰すかというような話をしました。つまり田中さんの了解を求めにきたわけです。それで了解をして、そのかわりに奉天に行けば張作霖を追い打ちはしない。そうすれば満州は大体日本が委任統治のような形で、日本の事実上の政権を認めるというような[#「ような」は底本では「よな」]話をした。そのかわり張作霖を北京から追い出すときが非常にむずかしいわけです。日本もいろいろ手を使い、張作霖に思い切って北京を引き上げて奉天へ帰る決心をさせたわけです。そして帰ろうとするところを――満州へ来て、満鉄の、北京から奉天へくる鉄道が満鉄の線路と交差するところで列車を爆破してしまった。 あれは陸軍の連中が計画したもので、大へん大規模な計画ですが、どうも白川さんは[#「白川さんは」は底本では「白河さんは」]知らなかったようです。白川と[#「白川と」は底本では「白河と」]いう人はどっちかというと正直者で、唐変木のような人でした。ほんとうの指揮官ですから……いわゆる参謀タイプの人ではない。 つまり満州事変というのがあとでありましたが、あの満州事変の予行演習ではなく、あれで満州事変をやるつもりだったのです。ところが田中さんに押えられてできなかった。それでもう一ぺん満州事変をやったのです。 なぜ陸軍が張作霖を殺してしまったかというと、張が日本の権益をいろいろ妨害したのです。もともと張作霖というのは馬賊で、日露戦争のときに日本軍につかまったのですが、田中さんが参謀で、つかまって死刑にされるところだったのを、おもしろそうなやつだ、助けておこうというわけで助けたのです。だから、張作霖というのは全然日本で養成した人なんです。それであいつは忘恩のやつだ、日本の権益をいろいろ妨害するというのが一般の陸軍の人たちの頭だったのでしょうけれども、田中さんに言わせれば、奉天におる張作霖ならば日本のいうことを聞くだろうけれども、あれが大総統となってとにかく北京に乗り込んでおれば支那国民の御機嫌をとり、日本の権益を妨害し日本に抵抗しないと、どうも北京における地位が保てないのではないだろうか、だから張作霖にも同情すべきものがある、これを奉天へ連れて帰れば、張作霖も目先がきくやつだからそんなばかなこともしないだろう、こういう考えが田中さんの頭の中にあったのでしょう。だいたい張作霖が北京へ行って大総統というのは無理だ。こうしたところから当時、日本側から吉田茂さんが支那総領事で北京にいたのですから説得工作に動いたと思います。 それから、当時外務政務次官だった森恪は田中内閣のもとで――河本大作や松岡洋右(当時の満鉄の副社長)と一緒になって、田中さんをつまり裏切ったわけなんですが――東方会議と[#「東方会議と」は底本では「東邦会議と」]いうのをやりましたが、東方会議と[#前同]いうのは、対支政策、大陸政策を論じたんです。それは森恪の発案です。 森恪には支那浪人特有の対支政策があるわけなんです。三井物産の人で、支那におって仕事をしている人は、一種の大陸政策はみんな持っているわけなんです。それで何でもかんでも日本が力でもって支那を支配していく。こういうことなんですね。もう日本はやれる、だから日本に反抗するやつはみんなけしからぬというわけなんです。それで森恪がそういう大陸政策、対支政策をきめようというわけで、外務省に大勢集めて会議を開いたわけなんです。ところが大した結論が出るわけもないものですから[#「ものですから」は底本では「ものでから」]、結局かけ声だけは大きかったけれども、対した実質ある成果は上げられなかった、それが森には非常に不満だったのでしょう。また彼は大連へ行き、自身で小さい東方会議を[#「東方会議を」は底本では「東邦会議を」]開いています。これには吉田茂さんも参加しています。 森恪という人は非常にシャープな人で、三井物産で育てられた人で、学校は神田橋のところにあった商工中学の出身なんです。それで物産の練習生みたいにして向こうへ入って、今でいえば愚連隊の親分みたいな男でした。非常に若くて、三井物産では大へんに出世が早かったわけです。帝国主義者であるし、それからすぐ全体主義者になりますし、共産主義なんかほんとに理解はしてはいなかったんですが、共産主義でも全体主義の方をベトーネンすれば、みんな賛成しちゃうんですからね。日本人はみんなそうですよ。だから東洋赤化の任をおびて支那にきたボロージンと会っても、深いあれはなかったろうと思います。 それから森恪の伝記がありますが、あれは非常に誇張してあります。森恪というのはそんな偉い人じゃなかったのです。あれは山浦貫一君が書いたもので、山浦君は森恪の子がいの人ですから、それはそのとおり受け取れません。そんな力もなかったのです。それで先にのべたように、張作霖爆死の真相はあとでわかったのですが、森恪、それから松岡洋右もみんなこれを承認をしておった。それでいいことだと思っておったらしいです。それが田中さんの意図にも合するんだというふうにいったらしいのです。田中さんは非常に群を抜いて見識のある人でしたから…… 田中さんという方はお若いときや、軍務局長なんかの時分にずいぶん支那でいろいろなことをなさっていますが、そのときと政友会総裁になられて、首相になられた時分ではその政策というものはずっと変わっております。 私が袁世凱を殺した話をしたら、あんなばかなことをしたから、こんなことになったのじゃないか。あのときはばかだった、若いからな、といわれたのを憶えています。 それから田中さんと支那浪人との関係ですが、支那浪人というのは、銭が要るものですが、田中さんが支那浪人に金をやったのはまだ大臣になる前のことで、軍務局長から参謀次長くらいのときでしょう。だから支那浪人が、田中のところに行けば、いわゆる彼らの希望する対支政策が得られると思って皆やってきましたけれどもそれは幣原さんとは違いました。幣原さんにはそういうことはちっともないんですから、田中さんの方がよかったのでしょうけれども、しかし昔の田中ではなかったです。 また田中さんはあのころ「おらが大将」、でたらめな、頭の雑なはったり屋のように新聞は一つのイメージを書いておりましたが、そうじゃありませんでした。私は一緒におりましたけれども、実に偉い人でした。私たち若い者は先輩が偉いなんてちっとも思わないけれども、田中さんはときどき偉い人だなと思いました。これはわれわれにそれだけのことを思わせる人はよっぽど偉い人だと思います。それであの人は日露戦争前ですが、大尉のときにロシアに行って、ロシヤはよく研究しております。ロシヤ語も上手でした。ロシアの軍隊に入って、現場で修業したのはあの人が初めてでしょう。そのために酒をよく飲んだ。ロシアの人と一緒に交歓するためには、酒を飲まなきゃいかぬそうです。それで酒を覚えたんだ、からだに悪いとはいっていましたが、それで酒を飲む、博奕を打つ、ダンスをやる、それは一生懸命やったらしいです。ダンスなども正式に教わってきたんだそうです。そうしないとロシアの軍隊ではとても一緒にいかれない。ロシアの軍隊では現場の将校と中央の将校とまるで性質が違うように、つまり参謀と現場と違うんです。それから兵隊と将校とがまるで別れている。あんな軍隊じゃいくさができないと思ったというのです。それでロシアに何年かおりまして、帰ってきて非常に長い報告書を書いております。実にりっぱな報告書です。それが日露戦争を始める一つの大きな基盤になった、と、そんなおもしろい話をしておりましたが、実に頭の鋭い、それはものをよく見ております。 英語はできませんでしたが、ロシヤ語のほかにフランス語は多少できました。やっぱり統率力の非常にある人でした。田中さんが生きているときでしたか、田中さんが中尉のときに書いた陸軍の論文があるんです。――昔は若い将校に問題を与えるか何かして論文を書かせることがあったのです。それを書いた論文が一つ見つかりまして、その論文に点がつけてあるのです。大隊長は八十点つけたのです。連隊長が八十五点か九十点、当時、乃木さんが旅団長でしたが、旅団長の点は百点ついていました。そういう将たる人でした。 旅団長が見ればまことにりっぱな論文なんです。大隊長じゃその人の真価はわからなかった。これはおもしろい点のつけ方だなと思った。読んでみるとなるほどそうだろうなと思われました。ばかな格好と粗暴のような格好をする人じゃありません。とても頭は鋭いし、綿密なんです。あるとき話を聞いておりまして、私が産業組合の話か何かをしました。当時の産業組合、今の協同組合です。「ははん、産業組合、産業組合っていうのはいろんな他方面の経営をやるんか、ははん産業組合だね」といっておりましたが、産業組合方式で村の経営ができないかなといっておりました。これは人民公社です。そういうことをひょいと考える人なんです。私はそのときに、ははあ、これはヨーロッパのステーツマンのような人だなと思いました。とても日本式じゃないのです。死ぬまでそういうふうに綿密な人で、世間で思われているような国権主義者じゃなかった。 張作霖の爆死事件で一番憤慨したのは田中さんなんです。つまり自分は張作霖をつれてきて、奉天で[#「奉天で」は底本では「奉夫で」]張作霖を援護しつつ、張作霖の政権を建てて日本の権益を伸ばそうと思っているのに、張作霖を殺したものですから、それがだめになってしまいました。しかし張作霖をつれて来るときは、満鉄総裁の山本条太郎さんがわざわざ北京に行きました。 その二億をアメリカから持ってきたわけです。それで、そういうなにで[#「なにで」は「なかで」カ]構想を作ってくれという、当時これだけの株主を集めるのは大へんでございますから、その株主の名前をひとつ書きあげてきてくれというから私は株主を、大蔵省へ行きまして、所得税の多いメンバーから抜き出して作りました。そのときに、保険会社は金を持っておるはずだから、保険会社に株を持たしたらどうだろう。戦争を始めたのだから、政府が公債の対象にする、民間の会社はとても買えないから、民間は別に民間の株を持たなければだめだという話をしたわけなんです。そうして株主になる人を東京に集めて、近衛さんからあいさつをしてもらって、進めてもらうんだ、その演説の原稿を作ってくれというから、そんなものを作りました。それで、それをやるんだと思っておったところが、九月の末にとつぜん新聞に、日産が満州に行くという記事が出たので、私はちっとも知らないことですから、びっくりしました。それで鮎川と仲違いになったのですけれども、鮎川は私をだましたんです。十二年の暮れになってから、またぜひ会いたいというから、仕方がない会いに行った。そうしたら私に、君は満州に行かぬかというから、僕は行かない、君は多分そういうだろうと思ったけれども、行けば地位はこしらえてあるといいますから、いや、私は行かない。まるで違うじゃないか、日本でコントロールするという会社が満州へ行って、今度は逆に日本をコントロールする、そうすると日産コンツェルンというものは、非常にそのときじゃまになってくる、満州の会社から命令がくれば、内地のいろんな、日本鉱業でも日本水産でも、満州の小役人の命令を聞かなければならないようになる、そんなばかなことはないじゃないか、それをするには早く子会社に[#「子会社に」は底本では「小会社を」]増資をして、株の比率を変えなければとんでもないことになる。いや、もちろんそれはそうするんだと彼はいっていました。十二月の初めにその案をやるときに、鮎川のところで案についていろいろ相談をしておりました、そのときも私が鮎川の家に夜行ったのですが、玄関には拍車のついた靴と普通のゴム靴とありまして、しばらく待ってくれというわけです。飯を食っているからというのです。そして出て来ましたのが宮崎正義と片倉衷でした。そのとき宮崎を初めて見たのです。名刺をくれましたから見ましたら、日満財政経済研究会東京支部幹事と肩書きが書いてあるのです。満鉄の社員ですから、満鉄の肩書きがいろいろ書いてありました。そしてそのときは、片倉の話をよく聞いておりますと、大蔵省がどうしたとか、いや外務省がどうだとか、商工省はどうだとかいう話をいろいろしているのです。それはみな課長級の人の名前をあげて、大蔵省ではだれが賛成したといっているんです。今の彼らは課長だけで政治をしているのだなという感じを受けたんです。 そのとき片倉は少佐でした。これから満州の経済課長とかなんとかになって行くんだといっておりました。あるいはなっておって、名刺に書いてあったのかもしれませんが、そこであいさつに来たというようなことでした。それからおかしいことがあるものだな、下剋上というのがあると聞いておったけれども、これは大臣はみんなでくの坊で、この連中が組を作っておるのだなと思って帰りました。それで翌日鮎川のところへ行きまして、あの宮崎というのは何だ、君は宮崎君を知らないのか、知らぬよ、あれは偉いのだ、いま日本の政治をやっているのは宮崎だ、石原莞爾がそういって紹介したそうです。石原は軍政は私がやる、政治、経済は[#「政治、経済は」は底本では「政治、経済に」]宮崎がやる、ほんとうにそう思っているんです。そのころの人たちは、実際宮崎天皇だったでしょう。それは急激で大へんな変わり方になったものだなと私は思いました。 それから私は、宮崎正義は何者だということで研究したんですが、妙なことに、私が拓務省におるとき使ってもう死にました人ですが、それが満鉄の社員だったのです。そして宮崎は自分が使ったんだ、宮崎という人は石川県人で、明治四十二、三年ごろ、ロシヤと非常に仲直りの気分になっておりましたときに、石川県で(七尾を持っているからでしょう)対露貿易をこれから大いにやらなければならぬ、日本は貿易をやらなければならぬということで、石川県で奨学資金を出して、留学生をロシヤへ送ったのです。そのときに二人送ったらしいのですが、そのときの学生の一人なんです。彼は中学を出たばかりでした。それで多分モスクワへやられまして、モスクワの学校、すぐ大学じゃないでしょうが、あすこで勉強さしたそのうちの一人です。そしてモスクワで勉強が終わって日本に帰ってきた。そのときは対露貿易の方も少し下火になっていまして、使い道がなかったのですが、ロシヤ語を知っていたものですから、満鉄に就職した。―私のところにいた、もと満鉄におった男がそのときに、自分が調査課長の時、彼を自分の部下に使ったというんです。ごく鈍重な一向さえた男ではない。―それから大正三年だかに満鉄へ帰ってきて、満鉄ではほんとうの勉強をさせるために再びモスクワへやった。そして革命になってまた満鉄へ帰ってきた。だからロシヤに相当長くおった人です。これはロシヤ語はもちろんですけれども、英語もドイツ語もフランス語もできるようでした。そして彼は満州事変が始まってからすぐ石原と組んで、石原のブレーンでやっておったようです。それでどうもこの人はメンシェビキじゃないかと私は思うんです。実際それは大へんな権威を持っておった。私はそんなものとはつき合おうとは思いませんでしたけれども、たまたま今アメリカ大使館になっております満鉄のあすこへ行きまして、めしを食っているときにそこへ偶然でしたけれども、宮崎が入ってきました。そうしたらめしを食っている連中がハハーッとおじぎをするんです。それで大したやつがいるものだと思いましたが、その宮崎君が財政経済研究会を幹事で作り、そこで生産力拡充計画ができたということがわかりました。 話は前後しますけれども、日支事変が始まったばかりの十二年の八月でしたか、私の[#「私の」は底本では「私と」]ところへ[#「ところへ」は底本では「のころへ」]私の遠い親類のまた親類で、一ツ橋大学を出た男なんです。三菱かどこかへ勤めておったんですが、実業はいやだというんで、やめて文官試験は通っているから、役人になりたいということで、私のところにきておった。私ももう役人をやめておったんですから、どうもしようがないから、あとで津島寿一君に頼んで企画院に入れてもらったんですけれども、そのちょうど企画院に入る前です、浪人をしているとき、私のところに日満財政経済研究会というところへしばらく研究員で月給をもらうことになりましたからというわけなんです。そしてそこでこういうものができましたからといって持ってきました。それは「戦争指導計画書」というんです。謄写版刷りのものでした。十二年の八月五日です。八月五日に第三読会を終了したと書いてある、その第三読会の決議書です。いくさが始まってまだ一カ月になっていないんです。それはもうりっぱなもので財政金融それから商業、農業、工業、労働などというものが皆ずっとチャプターごとにあり詳しく書いてあるんです。それは大へんよくできていました。その後ずつと見てみますと、戦争中それをトラの巻にしてずっとやっていたようです。 第三読会というんですから、その前から作成していたんです。その中には戦争の相手をA、B、C、D、と四カ国書いてあります。それが私にはふに落ちないのは、A、B、C、Dは、英、米、ソ、支なんです。Dをオランダというけれども、そうではありません。オランダなんか相手に考えていません。どうしてソビエトだけはあとでやめたかわからない。戦争指導計画書を作ったときの委員会の委員長は石原莞爾なんです。それはどこで作ったかというと、今の野村証券の三階で作った。津島寿一なんかもその委員をやっておりました。私は津島さんに会ったことはありませんけれども。泉山三六もそのメンバーなんです。土方成美君も[#「土方成美君も」は底本では「土方成二君も」]一委員でした。日満財政経済研究会は二十人ばかり研究員がおった。その半数以上の人は転向者だったそうです。ほんとうの転向者なんておるものではありませんから、おそらく右の人だったでしょう。その中にすべて各種別の委員会がありまして、委員会で管理するわけです。それで産業国営を考えておるものですから、その中にある発送電会社のことをずっとこまかくちゃんとその中にうたってあるんです。それから例の産業報国会というのがありましたね。あれも全部あります。組織もあれば、あのときの宣言書なども皆あります。それから農地改革も皆あります。それでそれと生産力拡充計画だけ私は見ておりましたが、それから企画院ができたのが、たしか十二年の三月か四月ではなかったかと思いますけれども、企画院ができまして、企画院で生産力拡充計画を研究して、そして案ができたといって発表になりました。発表になりました案を見ますと、私が初めに見た生産力拡充の計画がずっと並んでいるんです。ですから企画院が企画する案でなしに、種本は日満財政経済研究会でできて、それを企画院にやれば、企画院が[#「企画院が」は底本では「企院が」]自分の案として発表するんです。ですから電力国営でも、ちゃんと陸軍案があるんです。あるいはその陸軍案を作るときに、小畑なんかも参加しておったのかもしれませんけれども、それを私は見ておりまして、変なことがあるものだなと思っておりました。そこへ今の日満財政経済研究会に[#「日満財政経済研究会に」は底本では「日満財政経済に」]行っている男が持ってきたのです。それが政治行政機構改造案というものです。そのときには名前はありませんでしたけれども、あとで名前を池田さんのところで発見したんです。それは大へんなものでした。それは十二年のうちに持ってきたように思いますけれども、私はひよいと見ますと、新聞紙大の大きな白い用紙に石版印刷してあるんです。十七、八枚ありました。 リーフになっておりまして、それを全部つづり合わしてはおりませんでしたけれども、ケースみたいなものに入っておりました。むろん折ってあるんです。そしてそれを見ておりますと、大へんなものなんです。それを全部写して持っておったのです。憲兵に調べられたとき、とられたかしらと思いましたけれども、憲兵のやつ気がつかずに持っていかなかったのです。それでそれを抜粋したものを高松宮に差し上げたことがあるのです。 底本・初出:「自由」第11~12号、自由社、1960(昭和35)年10~11月
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1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満(1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平(1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明(1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝(1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召(日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学(日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智(浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件(1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣(1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院・昭和研究会~革新官僚の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏(1899-1990)と大日本愛国党(1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系(左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/226.html
1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満 (1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平 (1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明 (1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝 (1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召 (日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学 (日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智 (浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、 欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され 、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件 (1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣 (1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会 結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院 ・ 昭和研究会 ~ 革新官僚 の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏 (1899-1990)と 大日本愛国党 (1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体 の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、 右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系 (左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風 と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年 「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動 が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク: 日本の右翼
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/869.html
1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満 (1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平 (1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明 (1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝 (1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召 (日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学 (日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智 (浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され 、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件 (1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣 (1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会 結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院 ・昭和研究会 ~革新官僚 の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏 (1899-1990)と大日本愛国党 (1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体 の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系 (左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風 と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動 が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼
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大東亜省(だいとうあしょう)は、大日本帝国の委任統治領であった地域及び同国が第二次世界大戦(大東亜戦争)に於いて占領した地域を統治するために置かれた省である。 概説 東條英機内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)によって、昭和17年(1942年)11月1日に設置される。拓務省が他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化され、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成される。いわゆる大東亜共栄圏諸国を他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させて、日本の対アジア・太平洋地域政策の中心に据える構想であった。イギリスにおけるインド植民省をモデルとしていた。 が、当時の外務大臣東郷茂徳はこれは「二元外交」を招くもので、アジア諸国や敵国(連合国)に日本がこれらの地域の植民地支配を画策していると言う誤ったメッセージとして受け取られかねないとして設置に抗議して辞任している。だが、実際には専任の大東亜大臣となったのは初代の青木一男のみであって、以後は外務大臣が兼務して務めている。更に戦況の不利も加わって存在意義は当初の理想とはかけ離れたものとなった。敗戦後の昭和20年(1945年)8月26日に消滅した。 大東亜大臣一覧 辞令のある再任は代として数え、辞令のない留任は数えない。 臨時代理は空位の場合のみ記載し、海外出張等の一時不在代理は記載しない。 大東亜大臣(大東亜省) 1青木一男東條内閣1942年11月1日-1944年7月22日 大東亜大臣(大東亜省)・外務大臣 2重光葵小磯内閣1944年7月22日-1945年4月7日 3鈴木貫太郎鈴木内閣1945年4月7日-1945年4月9日 4東郷茂徳鈴木内閣1945年4月9日-1945年8月17日 5重光葵東久邇内閣1945年8月17日-1945年8月25日 設置当初の幹部人事 ※カッコ内は前職 大東亜次官:田尻愛義 顧問:安岡正篤 大臣官房文書課長:川本邦雄(拓務省官房課長) 大臣官房人事課長:山中徳二(拓務省官房課長) 大臣官房会計課長:草山親義(興亜院官房書記官) 大臣官房電信課長:結城司郎次(外務省通商局第3課長) 参事官:松村 (興亜院文化部長) 参事官:三浦七郎(興亜院技術部長) 参事官:森重干夫(拓務省拓南局長) 参事官:中野勝次(拓務省管理局長) 参事官:岡崎嘉平太 (華興商業銀行理事) 参事官:杉原荒太 総務局長 竹内新平(対満事務局次長)→杉原荒太 総務課長:杉原荒太(外務省調査部第1課長) 経済課長:愛知揆一(大蔵省外事課長) 調査課長:塩見友之助 錬成課長:島津久大 考査課長: 満洲事務局長 今吉敏雄(拓務省拓北局長) 支那事務局長 宇佐美珍彦(興亜院部長) 南方事務局長 水野伊太郎(外務省南洋局長) 北京駐在公使 代 氏名 任命 免職 備考 1 塩沢清宣 昭和17年11月1日 昭和19年10月14日 陸軍少将・陸士26期 2 楠本実隆 昭和19年10月14日 陸軍中将・陸士24期 張家口駐在公使 代 氏名 任命 免職 備考 1 岩崎民男 昭和17年11月1日 昭和19年7月14日 陸軍少将・陸士27期 2 楠本実隆 昭和19年8月1日 陸軍少将・陸士31期 関連項目 大東亜会議 八紘一宇 外部リンク 国立国会図書館議会官庁資料室:大東亜省設置ニ関スル件 国立国会図書館議会官庁資料室:大東亜省官制要綱 中野文庫:大東亜省官制(昭和17年勅令第707号) 中野文庫:大東亜省連絡委員会設置制(昭和17年勅令第710号) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月10日 (月) 22 34。