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九州王朝と日本の古代―古代史の真実を求めて 田口 利明 内容(「MARC」データベースより) 邪馬台国の本質を正確に位置づけ、国号「日本」に到る九州と大和の長大な統一劇を描き出す。ヤマト王朝による一元支配という「幻想」を破砕し、「九州王朝説」を理論的・資料的に完遂する論考。 九州王朝ですよ、三一書房ですよ。 「『九州王朝説』を理論的・資料的に完遂」らしいので、目は通しておこうかと。 詳細 単行本 216ページ 出版社 三一書房 (2006/12) ISBN-10 4380062112 ISBN-13 978-4380062117
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書籍ライブラリ 日本古代史 神話と古事記 日本神話の英雄たち 林道義 出版社/著者からの内容紹介 神話は難しくない、「面白いお話」です!八俣大蛇を退治したスサノヲには四つの性格があった? 日本神話を物語として楽しみつつ、その英雄像をユング心理学で読み解く! 元学生運動、今保守派。子供たちに残す日本神話。 2008.1 目次 英雄神か穀物神か―スサノヲノミコト 誓約の謎を解く 海幸・山幸の争い エジプト神話と日本神話 オホクニヌシ トリックスター 詳細 出版:文藝春秋(文春新書)(2003/10/21) 参考リンク 林道義のホームページ wikipedia「林道義」 古事記 梅原猛(訳) 古代人が残した「古代史」の現代語訳 2007.1 梅原猛氏による「古事記」の現代語訳です(古事記についての論文ではありません)。古事記というのは日本一古い書物(本というにはちょっとアレなくらいです)の一つですが、製作時点ですでに古事、即ち「昔の話」だったというものすごく古い話が書いてあるわけです。 従って、原典は言葉も内容も大変古く、さすがの本居宣長でも意味が「分からない」とした処があるわけです。本書はそんな難解なところまで本邦初アイヌ語を参照して解決の意欲作。 単純に小説として面白いし、自国の神話を知って於くにも好い。古代史として読むなら訳者による解説がシャープな手掛かりを与えてくれます。 詳細 出版:学習研究社 (2001/01) 九州王朝と日本の古代―古代史の真実を求めて 田口 利明 内容(「MARC」データベースより) 邪馬台国の本質を正確に位置づけ、国号「日本」に到る九州と大和の長大な統一劇を描き出す。ヤマト王朝による一元支配という「幻想」を破砕し、「九州王朝説」を理論的・資料的に完遂する論考。 九州王朝ですよ、三一書房ですよ。 「『九州王朝説』を理論的・資料的に完遂」らしいので、目は通しておこうかと。 詳細 単行本 216ページ 出版社 三一書房 (2006/12) ISBN-10 4380062112 ISBN-13 978-4380062117 ご感想などお寄せ下さい。 お名前 コメント 日本神話の英雄たち 梅原猛古事記 九州王朝と日本の古代
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日本という国は、いつからどのようにしてできたのでしょうか? 九州王朝説 記紀の編纂
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未分類 新撰姓氏録によると、諸蕃のうち、大半が百済で、高句麗・任那、漢呉と続き新羅は1%程度 最後の古代年号(九州年号)の大長9(712=続日本紀の和銅5)年に、九州王朝滅亡と考えられる。 翌年4月、日向国を分け大隅国を置く。7月、隼賊討つ将軍士卒たち1280余人を授勲。(続日本紀※) ↓ このときは、元明女帝。 68 九州王朝畿内出張所は、九州王朝系の天武に滅ぼされました。 ※この授勲に対応すべき戦闘記事がない(←例によって九州王朝かくし)。前年で九州年号終了が傍証と考える。 古賀達也さんが 古代に真実を求めて第11集(2008)に書いている。(←好き嫌い関係なく読むべし) なお、こののちの熊襲の反乱は、後九州王朝の抵抗と見る。 例えば、大伴旅人の活躍(日本書紀成立720前後) ~ジョーダンないし軽蔑のつもりかも知れぬが、真実に近そうだ 大阪・百済寺跡 百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土 http //osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60411a.htm 壊した後に建立 125 のんびりひまじん [nagoya19nn@yahoo.co,jp] 2008/11/03(月) 13 30 09 ID Be 118 121 122 で(奇妙な仮説として)言うところは; ○百済王=日本天皇 ↑ ↓ 124 の資料の言うところは; ○百済王=日本の高級官僚 唐年号(を新羅が使った時期の)竜朔3(663)年8月、白村江勝利直後部分の新羅側記録。 (新羅の)大王[文武王]は、倭人に語って、 「考えてみると、われわれとお前の国とは、海をへだてて境界を分かち、いまだかつて交戦した ことがなかった。ただ、交誼を結び、和を講じて、訪問し交通してきた。それにもかかわらず、 どうして今、百済と悪事をともにして、わが国を欺こうとするのか。今、お前の兵士は、わが掌中に ある。これを殺すのに忍びない。お前は、国に帰ってお前の王に報告せよ。」と、言った。(そして) その思うままにさせた。(王は)軍隊を分けて(残る百済の)諸城を攻撃し、降伏させた。 ~三国史記 列伝 金ユ信 (岩波文庫 佐伯有清編訳 〔88〕P123) 日本列島と新羅の関係は上記のごとくであった(その後以上の双方の関係はこの基本路線・・・重要!)。 118 128 ←なんぞの妄想しているのでないかい? 注)わざわざ、ここまで引用したのは、ここに掲げる文武王のことばとして示される、 新羅の重臣:金ユ信の偉大な構想(=日本と朝鮮との相互不可侵)を伝えたかったから。 金ユ信こそは、(近代日本の伊藤博文と山県有朋を兼ね備えたほどの)古代極東の偉大な英雄! その後の1300年以上、現代に至る 日本列島と朝鮮半島との政治上の関係が、この 白村江の戦後処理で決まった。←金ユ信の構想 朝鮮式古代山城一覧 http //www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/yamziro.html 講談社学術文庫 古代朝鮮(井上秀雄)くらい読みなさい。三国史記のダイジェスト説明だ。 その当時の朝鮮半島事情を理解するためには、中央の貴族集団ばかり見ていてはダメと書いている。 660年、百済滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。 地方の在地豪族たち(=遺臣)が、百済から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。 663年、白村江で百済遺臣援助(さらに高句麗にも野心)の倭軍(と言っても貴族の私兵)大敗 668年、高句麗滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。 地方の在地豪族たち(=遺臣)が、高句麗から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。 百済や高句麗の在地豪族たちの、抵抗拠点となったのが、現在でも半島に百以上残る、山城。 倭国の場合、この建設が遅れたようだ。←608年使者が来た隋の記録は「城郭なし」(隋書 イ妥国伝) あわてて建設始めたらしいのが、斉明2(656)年の記事、狂心の溝、多武の峰 (日本書紀) 670年以降、唐 VS 新羅 戦争。 109 112 も参考。 668(天智7)年9月、新羅からの使者に金ユ信あてに船一艘(分のプレゼント)を 中臣鎌足が委託とある。 金ユ信と鎌足は、 129 の相互不可侵の精神で一致したと考える。※ ※三国史記 新羅本紀では、このとき、高句麗ピョンヤン落城寸前なのだが、若い文武王が指揮、 老人の金ユ信は新羅の首都(慶州)で留守を守った(なんと日本書紀と対応)。日本列島へ状況を伝えて、 (高句麗戦後の新羅は、唐と対立見込みにつき)協力 ないし せめて中立を依頼しておかしくない。 このために5年前、恩を売った(=日本列島の兵を捕虜としなかった。) (まとめ) 日本列島に残っている朝鮮式山城は白村江以前に建設された。 文献の筑紫都督府なるものは機能しなかった。唐と新羅は戦争する。日本列島に手出しどころでない。 新羅と日本列島の政府はその後も相互交通を続けた。唐は結局677年朝鮮半島から撤退。 670年代、唐VS新羅 の戦争は、派手なことはない。新羅の中央貴族の私兵は何度も負ける。 それでいながら全体として新羅は勝ってゆく。 歴史は、中央貴族たちが書くので、記録されることのない地方の在地豪族の活躍であろうと井上秀雄さんは書く。 なお、古田武彦さんは白村江のとき、近畿の天智は、母・斉明の死を口実に九州王朝を裏切って 動員した兵を朝鮮へ送らなかったと書く。そうだとしたら、日本列島には残存兵力があったので、 占領されるなどは考えられないはずなのだが、今度は占領されたなどと言い出す。 (マッカーサー世代の人らしい恐外国軍病から抜け出せない。) (この異常さを見なされ!) 531年、安蔵王死。<梁書に526年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀) ↑ 531(辛亥)年、高麗その王安を殺す、また 日本天皇太子皇子ともに死。(日本書紀に引用の百済本紀) ↓ こういう外国の記録があるので、(おそらく日本国内の)別の書物では、534年とあるが、531年に継体は死んだことにする。(日本書紀⑰ 継体紀) ↑ (有名な3年のズレ:2年の空位) ↓ 534年、継体天皇が死んで、即日、安閑天皇が即位。(日本書紀⑱ 安閑紀) 日本書紀の記事の異常のはなはだしさを、高句麗の記録ぶりと比較認識すべし。 140 日本書紀の記事の異常さを認識できますか? 成立年は 梁書 629年 日本書紀 720年 三国史記1145年 (異常さ認識のため、もう一例) 545年、安原王死。<梁書に548年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀) ↑ 545(欽明6)年、高麗大乱、国香岡上の王死。546(欽明7)年、高麗大乱、およそ戦いて死ぬる者二千余。(日本書紀 欽明紀) 外国(高句麗)の対外極秘事項を知っていることを暴露している。 現代のきむじょんいる戦国時代の武田信玄など生死安否の情報が極秘となることがある。 他国の極秘事項を知っていることまでもが極秘のはず。(上記で中国側に誤伝したことも極秘を示す) その一方で 自分の国の天皇の死を変てこな年代記事にしている。 140 6世紀時代の自国の一番基本のこと(天皇の生死年)ですら、 かくし事をしていることミエミエの日本書紀。 このような異常な書物・日本書紀には、五王の倭、卑弥呼壱與の邪馬台国、金印の倭奴国もすべて 真実を隠したと読めないのかい? 日本書紀:不思議な隠し方です。 おんな であることは おんな じですが 卑弥呼(独身)・壱與(独・婦不詳)の二人 と 神功(亭主持ち)一人 が同じ年代と言うだけ。 ↓ 別国の別人と読めなかったらどうかしてる。→本居宣長のクマソ女酋説も(差別語を抜けば)説得性あり。 (稲荷山鉄剣という金石文) 杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。 佐治・・・・魏志倭人伝にあり。 ↓ 辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ) ↓ さては 90 裏切り集団共謀のウソ歴史書・日本書紀。有名な卑弥呼壱與の邪馬台国は神功同時代と示しつつ、 真相知ったうえで、とぼけて隠したに相違ない。(一方で 高句麗機密に暴露能力 140 141 ) ~日本書紀の中途半端な隠し事ぶりと執筆者たちの能力をテーマしたいところ・・・ 隅田八幡鏡銘文の作者が明確に書かず、日十大王(=武烈天皇)と など、他で聞いたこともないような大王名になってるのは、天皇が 人間虐待をやってると直接書けば作者が殺されてしまう。そういう 利害があって分からないように真相を書いているわけ。 148 ローガン [] 2008/11/06(木) 16 42 14 ID Be 145 > (稲荷山鉄剣という金石文) > ・杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。 > ・佐治・・・・魏志倭人伝にあり。 > ↓ > 辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ) 「杖刀立直」蜀志馬超伝裴松之注引用山陽公載記ですね? 裴松之没が451年かな? えらい速く日本の関東迄来たものですな。 こういう年号はどうなんだ?? 賢接とか鏡當とか勝照、瑞政、従貴、煩転とか、こいうのはどこの国 (妻をいも妹と読ぶことを不思議だという不思議) 雄略天皇が皇后(中帯姫の皇女)に 「吾妹(わぎも)・・・」と語りかける。(雄略紀即位前期)ここに、 「妻を称えて妹とするはけだし古の俗か」という注釈が付いている。 (中学生以下という不思議) 親しい男性を背(せ) 親しい女性を妹(いも) って高校一年くらい、古文常識の最初に教わる。 この注釈については、森博達さんが、ここの箇所の分担執筆者が中国人一世で日本語常識を 持たないために書かれたものと解明なさった。(日本書紀の謎を解く) その解明にもかかわらず、不思議に思う。 日本書紀には、 トビトビに 建元(はじめて年号を立てる表現)でなく、改元(既存年号を改める表現)で、改元理由も乏しく 大化 白雉 朱鳥 の三年号が出現する。何も説明なしに廃止される。←これを異常と感じない鈍感ならハンシになりません 続日本紀には、 大宝 年号が建元 として出現(理由も付記・対馬で金)。その後は、改元 表現。(以後 平成に続く) ここで変なことに、聖武天皇は、白鳳 朱雀 の二年号の存在を勅語中に出現。 百済には、武寧王墓の金石文があった。 7世紀に大寺院が林立していた都 ↑ なぜ、7世紀という 遅さ なのか説明する仮説を進呈する。 618(九州年号の倭京元)年、首都・倭京を大宰府に建設 649(九州年号の常色3)年、副都・難波の建設開始※(九州王朝が半分東遷)・・・>のち九州王朝関西派 652(九州年号の白雉元)年、副都完成(記念に改元) 661 に改元:九州年号の白鳳元年(この年・辛酉) ↑ このころ、副都を中心に、九州から続々寺院が移転<・・・これが7世紀の関西に寺院が林立した理由。また、 白鳳年号は23年も続き、白鳳年間の寺院創建伝承は多すぎて消しがたく白鳳文化というコトバだけ残った。 ※この副都建設の詔は、日本書紀 天武12(683・九州年号の白鳳23)年に変形記載されたと考える。 まず金印の漢倭奴国王名がある。これは畿内の国王ではない。これ は57年当時九州に国王がいたということだな。まだ王朝までには 至っていないが、その50年後の帥升もそのへんか将軍クラスか だろう。これも九州だ。帥升当時、畿内には孝昭天皇が統治して るし、九州だな。ついで卑弥呼の女王国。これも推古の世まで畿内 に女王国はない。男王たる天皇ばかりだ。天皇を差し置いて記紀にも 独立して載って卑弥呼のことがか書かれてはいない。つまりこれも 九州だ。そして倭の五王、これも天皇ではないし、九州の将軍級 だということだ。さらに倭人伝にも多数の小国があった記述が あるし、それを掌握したのが女王卑弥呼だということだ。このように 九州には王クラス、準王クラスが当時うんといたわけだ。 なると戦国大名の中から徳川政権が出て270年ばかり朝廷と幕府の 2極での日本の歴史があるように、卑弥呼の時代からも九州に王朝の 始めたる女王国があってその後身が数百年、畿内の朝廷とともに 2極の状態だったということだ。これが正解だぜ。 さらにこれは確定というわけにはまだまだだが、神武以前に九州には ウガヤ朝数十代の記述が古史古伝にもある。これもまた九州だ。 「白鳳以来、朱雀以前」とは聖武天皇のことば(続日本紀 神亀元(724)年10月) 日本書紀 と違って、続日本紀 には天皇のことばにウソや間違いは見当たらぬ。(と先回りして断っておく。) つい4年前 :養老4(720)年に成立した 日本書紀 に、 白鳳 朱雀 という二つの年号がない! 日本書紀の異常さ、不調和乱雑 と何度も繰り返してきたことはこうゆう矛盾をいうのじゃ。 奈良時代の当時の官人たちの歴史書への関心は、自分の氏族の先祖偽装にあった。 下書きとして古事記が作られ、(ひょっとすると回覧して)内容を利害関係者へ 確認して、内容補正した(正式の)日本書紀完成後廃棄するはずだったものが 執筆者:太安万イ呂が持ち帰っておって後に世に出てしまったと思います。 少しの時期差で、先行した古事記が、残ったので日本書紀のウソの解明に役立つ。 古事記・日本書紀ともに、ウソだらけ。(古事記のウソのほうが困った性質) ↓ つくり話(造作)なので、辛酉年に革命的事件があったということにした。 初代神武は辛酉年に即位(ハツクニシラスA)。それから10運600年後は 第10代崇神38年に相当したのでハツクニシラスBらしくなる話を作った。 A=創業;武力で関西(~全国)を制圧 B=守成:文治で全国を教化 ここで、A,Bともに天武が持っている(と造作した)人物像を二人にコピーしたのです。 次の10運600年後は、欽明2年でこの治世中、準革命的事件=任那喪失が欽明23(562)年(これは事実)。 辛酉革命説:辛酉の年に革命が起きるという思想(革命が起きたか検証などしない時代) ↓ 辛酉の年に革命が起きると考えて、それに対応する思想、よって 対応①辛酉の年(を治世した天皇の御世)に革命的事件を造作した。←歴史造作が可能だった 対応②辛酉の年には、改元。 (例題) 欽明13(552)年:仏教伝来受容の対立 ↑ (13年つながりで、①天皇②蘇我③物部:①~③それぞれ親子、難波堀江、百済仏像・・・という共通) ↓ 敏達13~14(584~585)年:仏教伝来受容の対立 崇神10~12(BC88~86)・・・崇神紀に珍しく記事が多い(混んでる) ↑ ↑共通する説話:四人の臣下を各地へ派遣、戸口調査・公平課税、外国使が祝福、百姓平穏・・・ ↑ 天武10~12(681~683) ※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に 天武を指している。 262壬午(神功62)年、任那=加羅王の妹 http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207340005/191- ↑ ↑この間5運=300年(関連記事。変形がある:例えば大伴狭手彦→葛城ソツヒコ) ↑ 562壬午(欽明23)年、新羅が任那の官家を滅ぼす(これは重要事実。が周辺記述少ない) 563癸未(欽明24)年、まったく記事がない(ここで反撃して新羅を降伏させ復旧したい・・・執筆者の空想) ↓ ↓この間、1運=60年・・・よく読むとわかるのだが、空想願望が記事になってゆく ↓ 623癸未(推古31)年、記述したかった60年前の願望が記事に変形。 (兄弟の相続争い・譲り合い) BC50辛未(崇神48)年、兄と弟の相続の説話・・・・前後に記事ない。(何故この年か説明しよう) ↑ ↑この間12運=720年(下の有名な場面に取材した造作) ↑ 671辛未(天智10)年、天智病気、弟の大海皇子に位を譲ろうとする・・・有名な説話 672壬申(天武元)年、有名な壬申の乱 ↓ ↓6運=360年(こちらにも有名場面をヒントにした) ↓ 312壬申(応神41)年、ここでは兄と弟が相続譲り合い説話 ※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に 天武を指しているという論拠の二番目。 (朝鮮半島へ出兵直前に挫折中止) 600庚申(推古8)~603癸亥(推古11)朝鮮半島(任那回復目的)出兵。(新羅降伏までは 241そっくり。) ↑ (再度の遠征のため)兵25000、指揮官来目皇子死。後任当麻皇子の妻死。挫折→遠征中止。 ↑ ↑この間1運=60年(変形 転写 を疑いましょう) ↑ 660庚申(斉明6)~663癸亥(天智2)朝鮮半島(百済回復目的)出兵。←有名な白村江の敗戦(その裏面) 遠征軍27000。伊勢の王死。中大兄の母(斉明)死。→これを口実に遠征取りやめ(備中風土記※) ※日本書紀には記述がないが、遠征中止で助かった人びとの記録。 同一干支60年を隔てて、経過がそっくりの事件があったと記述。 朝鮮半島への出兵(任那 VS百済) 皇子の死 (来目皇子 VS伊勢の王) 皇子親族女性の死(当間皇子妻VS中大兄母) どちらも遠征中止 241 と合わせて、6世紀はじめ推古朝の「任那復興企図」はマボロシとしか見えません。 日本書紀に たった二回だけの記録が ①欽明13年(親の天皇の13年) と ②敏達13年(子の天皇の13年) という13年つながりの同じ年紀に ①では(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方親) ②でも(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方子) ①②どちらも百済からの仏像が来て ①②どちらも天皇の命で蘇我が仏教を受容しようとして ①②どちらも諸国に疫病が流行して ①②どちらも物部が仏像を難波の堀江に投げ捨てた。 いくら将棋の記録が似るといっても たった二回だけの記録が、基本的にほとんど同じ棋譜で 246 欽明13年、立会い:欽明天皇、対局者:先手蘇我親VS物部親 →物部親が投げた 248 敏達13年、立会い:敏達天皇、対局者:先手蘇我子VS物部子 →物部子が投げた 454 「法興」は、 兄王の年号 「倭京」系列は、弟王の年号 と九州王朝説者の多くが理解し始めている。 のんびりひまじんさんは、いつも的を得たことを書いているのに、 これは逆だよ。 兄王は夜の王、すなわち伝統的宗教の最高地位にいるものである。 弟王は昼の王、仏法を以て統治する実務政治の最高地位にいるものである。 「法興」は「法を興す」で、弟王にピッタリの年号だ。 法興を兄王の年号とすると、兄王は伝統的宗教と仏法のダブル統治をすることになる。 これは兄弟王の2王政治がなかったことを意味する。 ところが、隋書俀國伝には、夜の兄王(天王)と昼の弟王(日王)の2王が役割分担をしているとあり、隋皇帝は「此太無義理」あると書かれている。 多利思北孤は隋と外交をしているので昼の弟王(日王)である。 私年号でしょう。養老律令第十八儀制令公文条に「皆用年号」と見えますね。 (養老令は大宝律令を継承したものだとして)それ以前のものは使っても使わなくても構わない…つまり私年号というくくりで良いと思います。 延喜式(907年~)については、今のところ読む気もないのだが、ただ一点村上節太郎という人が、 延喜式の諸国貢進果実のうち柑橘類の献上を調べたところ、 相模、駿河、遠江、加賀、若狭、近江、伊勢、山城、大和、摂津、河内、因幡、讃岐、阿波 という14カ国があっただけという。(中島洋 埋もれた古代史 1978 圭文社 P139) 岡山県愛媛県山口県とか九州がまったく出てこないそうだ。 中国・朝鮮から見て倭人伝を編纂するとして、絶対に無視できない場所だろ。 しかも日本でおそらく一番古代の中国系移民が多い。俺は宮崎か大分南部が 怪しいと思ってるんで、阿蘇は邪馬台国ではないと思うけど。このへんが モヤモヤしてわかんねw 701 日本@名無史さん [] 2009/02/14(土) 01 57 34 ID Be >些末な違いはあるとはいえ これが問題なんだな。例えば隋書の「二百余騎」と「飾馬七十五匹」。出迎えの 騎数など普通は記録に残すことではない。隋書が書いているのが珍しければ、同 じく日本書紀が書いているのも珍しい話だ。となれば、これは日本書紀が隋書の 「二百余騎」を見てわざと「七十五匹」と書いたということだな。一見、同じこ とを書いているように見えるが、数を違えることで「実はちがうんだ」と明示し ている。そこを読み取らんとアホだな。 新羅についての記述は次のようになっています。 新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海,西接百濟, 北鄰高麗。東西千里,南北二千里。 南が海というのですから、朝鮮半島の南端まで新羅国であったことはまちがいあ りません。そして、北は高麗、西には百済です。当然のことながら、新羅は縦長 の国です。あなたの読み方では、朝鮮半島の形と合致しないと思いますが? 712 老眼 [] 2009/02/15(日) 23 51 36 ID Be 711 『新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海, 西接百濟,北鄰高麗。東西千里,南北二千里。 』 上記は、隋書からの引用ではありませんね。 上記は、何の文献ら引用されたものでしょうか? 上記は7世紀初頭の半島情勢ではありません。 6世紀までの、強力化期新羅以前、弱小化百濟以前の半島情勢の様に読めます。 532年(新羅金官伽耶占領)以降6世紀中頃までの半島南部情勢を表現しています。 当然のことながら、新羅は縦長の国です。 あなたの勘違いです。 新羅が縦長の国になったのは、新羅が551年ソウルを支配下に入れてからです。 713 532年百濟新羅連合軍がソウルの高句麗を北に押し返し、 新羅がソウル近辺を一時的に支配地としたが、 その後、ソウル近辺は又高句麗の占領地に戻っています。(高句麗対新羅・百濟の紛争地化) この時から百濟東方の半島中央部の山地の東側は新羅の占領地です。 百濟の北が旧百濟領の高句麗占領地(紛争地)、百濟の東の山地の東は新羅領、百濟の南は新羅領。 以上が6世紀初頭の半島南部情勢です。 旧唐書『北鄰高麗 東西千里 南北二千里』は、 紛争地を考慮し、「北接高麗」としないで「北鄰高麗」としていますね。 隋も唐も高句麗と紛争中でしたから、両国はこのソウル近辺の紛争地を楽浪郡とし、 新羅王を楽浪郡公としています。 又、旧唐書東夷伝は、隋書東夷伝の短里表示に対して、長里表示に変っています。 隋代の新羅は、北は漢江流域上流中流部から南は半島西南部まで領土としていたので、 南部を西に張り出した、縦長の領域です。 漢江下流部は、高句麗と新羅の紛争地域になります。 辞書を編纂した先人の学者先生方はそれに気がつかなかったのでしょう。 もしくは、それを指摘すると学者生命上都合が悪かったのでしょうね。 7世紀まで(唐代初期まで)の漢籍では、東西の境線の長さを示し、 8世紀頃以降(唐代後期)の漢籍では、東西の境間の長さを示しています。 唐代に中国語が変わったようです。 済州島は中央に火山がある。南北といったところで、直線に歩けるわけではない。 大きく迂回することになるんだ。出発点とコース、終点の取り方では南北の方が長く 感じたとしても不自然ではないんだよ。 百濟から海行三月の距離を船で済州島に行っていますから、 船で済州島を一周すれば、南北に短く東西に長い楕円の島であると認識できます。 7世紀の初めの史書らしいのですが百済について「東西四百五十里南北九百餘里…」とあると聞いています。 聞くところによると、これが書かれた史書の責任者は、どうも隋書と同じらしいのです。とすれば上記の百済についての記述は貴説に従うと、隋書と同様に… 「国の東と西にある国境線の長さが450里。南と北にある国境線の長さが900余里」と読まなければならない訳ですね。 現実の地形とそぐわないような気がするのですが。単なる気のせいでしょうか…? www 734 日本@名無史さん [] 2009/02/19(木) 11 11 59 ID Be 733 そうです。 百濟は横長で900里×450里(70km×35km)の国です。 隋代には錦江中下流域だけの小国に縮小しています。 魏書東夷伝風に表現すれば方可六百餘里というところでしょうか。 ∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ ∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵ 『 随書の半島世界 』 ∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ ∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~ ┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~ ~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~ ~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里 ~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~ ~~~~~~~~~~┃∵∵∵∵∵││∵∵┃~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~┣┓∵∵∵∵│↓∵∵┗┓~~~~~~~~~~~~ 『 随書の半島世界 』 ~│┗━┳──┴┴┐∵∵┃~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~├←1000里→┤∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地 ~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┃∵旧百濟領│∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~ ~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里 ~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~ ~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~ 其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~ 有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~ 羅國~~~~│~~┏┛∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~ ~~~~三月行~~┗┓∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~│~竹島○┓∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~ ~~~~~~│~~~~┗━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~ ~~~~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~ 735の地図の楽浪郡が、其の文献では高句麗領となっています。 上記地図の百濟領北東部に熊津城(公州)があります。 (居抜城の位置については議論があります) その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。 「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か? 周書です。 その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。 え~と出来たのは、貞観2年(628)だったと記憶してます。(違ったらごめんなさい)百済滅亡は確か餘豊2年…唐高宗の龍朔3年(663) 「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か? 隋書成立の8年前、隋書と同じ総監房玄齢。 その縦長の地形をさして「東西四百五十里南北九百餘里」と隋書とほぼ同時期の史書に書いてあるという事です。 よって隋書倭国伝の「東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が五ヶ月で南北は三ヶ月…と普通に読めばいいのです。簡単な事ですね。 743 九州王朝大好き [] 2009/02/20(金) 20 05 57 ID Be 742 結論を急がないで。 「北周書」についてもっと検討しなければなりません。 隋書百濟國伝の「其南海行三月有tam[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里」もありますから。 同一史書の読法に従えば「其境東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が三ヶ月で南北は五ヶ月…と普通に読めますよ。簡単な事ですよ。 同一史書間の方が信頼性が高いと思いますが。 ∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ 『 随書の半島世界 』 ∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵ ∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ ∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~ ┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~ ~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~ ~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里 ~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~ ~~~~~~~~~┏┛←1000里→┤↓∵∵┃~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~┠──────┴─┐∵┗┓~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~┗━━┓∵∵∵∵∵│∵∵┃~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┗┓∵∵∵∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~ 786 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y [] 2009/03/20(金) 15 58 12 ID Be 『 随書の半島世界 』 ~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地 ~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┃(旧百濟領) │∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~ ~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里 ~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~ ~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~ 其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~ 有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~ 羅國~~~~│~~~┃∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~ ~~~~~三月行~~┃∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~ ~~貊國●~│~竹島┃∴∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~ ~~~●~~│~~●┗━━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~ 貊國●~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國=耽牟羅國(発音同一)~~~~ ~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~ 日本古代の研究を一番阻害しているのは「日本書紀」ではないでしょうか。私は九州王朝説を信じる者ですが、では近畿の状勢はと言えば九州を上回っていたことは考古学からも歴然としている。 そんな中、九州王朝が東遷できる状況があったとは思えません。日本書紀の信用性が全くなければ頼るのは外国の史書になります。 もう一つ、朝鮮半島の南部に倭国があったこと、邪馬台国は朝鮮半島何から九州北部の海峡国家であったと思われる。諸先生方、自説を通そうと色々のこじつけを卒業して、白紙に帰り議論しましょう。 補足 東夷の7ヶ国の冒頭記事 1.「夫余伝」 省略 2.「高句麗伝」 省略 3.「沃沮(よくそ)伝」 省略 4.「挹婁(ゆうろう)伝」 省略 5.「濊貊(わいはく)伝」 省略 6.「韓伝」 韓は、帯方の南に在り。東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。 三種有り。 ①馬韓 ②辰韓 ③弁韓 其の瀆廬(とくろ)國、倭と境を接す。 ※茫曄(はんよう)撰の『後漢書』(「韓伝」)には次のように記されている。 韓には、三種有り。1を馬韓と曰い、2を辰韓と曰い、3を弁韓と曰う。 馬韓は、西に在り。54国有り。其の北は楽浪と、南は、倭と接す。 辰韓は、東に在り。十有二国(十二国)有り。その北は、濊貊と接す。 弁韓は、辰韓の南に在り。亦、十有二国。其の南は、亦、倭と接す。 ※なお辰韓の項に 「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆従いて之を執る。」 定説では「したがいて」と約されていたが、どうしても意味の通じる文章になっておらず、 疑問視されていた。 漢和辞典を読めば ①したがう ②ほしいまま。きまま。 ③はなつ。ほしいままにさせる。 ④まかせる。ゆるす。 ⑤たて(縦)と同意語 「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆ほしいままに之を執る」倭は狗邪韓国にて製鉄していたと思われる。 「國出鐵 韓濊倭皆從取之」 国では鉄を出す。韓濊倭の皆が鉄を取ることに従事している。 倭人も製鉄の技術を持っていたのだよ。 なおこの鉄原料はリモナイト(褐鉄鉱・沼鉄鉱・ベンガラ原料)です。 赤鉄鉱や磁鉄鉱(砂鉄)が製鉄の原料ではありません。 対馬海峡の南北に居住する女王國連合倭は弁辰に鉄を求め、 卑彌呼に敵対する九州中部の狗奴國連合倭は阿蘇に鉄を求めた。 周書の記載内容には信頼性に欠けるところがあります。 周書は唐・宋の時期及び北宋代に散逸し、後世に北史などによって補っています。 周書のこの部分は、 『故其地界東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 東西四百五十里 南北九百餘里』又、 北史のこの部分は、 『其國東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 處小海南 東西四百五十里 南北九百餘里』 とあります。 上記はこの部分も周書の散逸部分で、周書は北史をほぼコピーしたもの、と見られます。 周代においては百濟南側の内陸部は既に新羅領となっているのに、 上記では百濟の南は大海となっているからです。 磐井の乱で倭が弱体化し、新羅は倭人の地を占領するだけでなく、 新羅が百濟南部の内陸部に進出していたのです。 百濟の旧百濟領の新羅への反攻もありましたが、一時的なものです。 よって周書は隋書と異なる新しい文法(表現方法のルール)で書かれたものとなります。 周書:「東西四百五十里」は東西方向の距離が450里。「南北九百餘里」は南北方向の距離が900餘里。 隋書:「東西四百五十里」は南北方向の距離が450里。「南北九百餘里」は東西方向の距離が900餘里。 となります。 上記「表現方法のルール」は 周書:長里 隋書:短里 そのような500年以上にわたる文物を全て証拠隠滅する事が果たして可能なのか?っちゅう話や ↑ 708(慶雲5→和銅元)年正月11日、改元大赦の詔中、「禁書」というコトバがある。(続日本紀) その禁止文書が何であった推測できる記事もある。 769(神護景運3)年10月10日、大宰府が「五経あるが三史ない。列代歴史を欲しい」と言上。 →詔(=称徳天皇の許可)により、「史記、漢書、後漢書、三国志、晋書」各一部を賜う。 ☆このような基礎的な歴史書まで禁止しておいて、 日本書紀という公式歴史書が創作されたに違いない。 九州王朝は、7世紀なかば、副都:難波宮を建設し東遷を始めたという最新仮説に 有力な展開があったようです。 http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月) 「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、 北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」 九州王朝たって、畿内に覇をとなえていたニギハヤヒの王朝にくらべれば どうみても弱小王朝だよね。なぜかどっちの王朝もアマツカミの子孫である 証拠をもっていたというんで、九州王朝も畿内王朝も正当性においては甲乙 つけがたい、ということになってしまうのだが、記の記述からすると。 新撰姓氏録の研究報告では http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html 仁徳(第16代)~武列(第25代)の10名の天皇の子孫という氏族がありません。 架空の天皇と知っている有力氏族たちが先祖と主張する対象外とすると納得ですが、 相当に深刻な指摘でして、 のんびりと、倭の五王と比定などしている場合ではなさそうです。 これら10名の天皇全員が架空なのではありませんか? それとも、武列が横暴だったので皆殺されたとでも言うのでしょうか? そもそも、九州王朝説は、古事記日本書紀のほとんど全部を架空とする 前提をしています。 たまたま、当該10代は余りにもひどい内情を、近畿王朝内でも共有 していた ことが判明しただけでしょう。 動機については、 九州王朝を抹殺し、これに負けない伝統があったことに捏造した 近畿王朝の歴史書全体の動機に帰属しましょう。 太国氏の言ってる年号は奇妙な年号だ。慶事・祝い事という感じがしない。 遊牧民の五胡の年号ではないか。特に前燕、後燕、西燕、南燕、北燕が怪しい。
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郡評論争 大化の改新の詔の矛盾 日本書紀の大化の改新(645)から「郡」制を開始のはずが、各地出土木簡は「評」こおりである7世紀後半7世紀末まで「評」こほり、8世紀から「郡」こおり 奈良県藤原宮の木簡「評」 静岡県浜松市の伊場の木簡「評」 地方行政単位の変遷国縣制「国主(クニヌシ)」- 国(クニ)「縣主(アガタヌシ)」- 縣(アガタ)「稲置(イナキ)」- 県(コホリ) 大化以降 国は廃止- 世襲の祭祀職として存続、国造の人員は、「評」の役人となる「評造」「評督」「助督」 律令導入大宝まで 国評里制「国」の設置、下部組織としての「評」、50戸を単位とする「里」 大宝以降 国郡制 「評」の代わりに「郡」を設置し、「評造」「評督」「助督」から「郡司」に任命される 養老以降 郷里制- 里の代わりに「郷」を置き、「郷」の下に「里」を置く 天平期に里を廃止 国郡は近代まで存続 「評」は南朝の制度で、南朝皇帝が都督を任命。都督の下が「評督」 「郡」は北朝の制度。日本書紀では神功紀39年が初出 北朝である魏- 北魏- 西晋- 隋- 唐は一貫して「郡」を使用 日本書紀の記述は、唐への遠慮ではないか日本書紀よりも成立がはやい北魏書では、西晋武帝との関係を特筆している 日本書紀も同様 中皇命と天皇 万葉集における中皇命は、天皇との関係が不明 万葉集巻1 3番やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い倚り立たしし 御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり 反歌「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」 同9-12番( 九番)君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな (一〇番)我が背子は仮廬作らす草なくば小松が下の草を刈らさね (十一番)我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ 或は頭に云く (十二番)我が欲りし子島は見しを(底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ) 同 249-251番玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ 一本云 処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りすわれは 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す 『万葉集』の巻一の44番と『日本書紀』下持統紀、持統6年これは広瀬王を留守の官にして出かけようとした。すると大三輪朝臣高市麻呂が反対した。しかも官位をなげうつという思い切った行動で「止(や)めて下さい。」と言った。 繰り返すと天皇が出かけようとして、三月三日高市麻呂が反対した。天皇はそれに従わず、振り切って三月六日に遂に伊勢に行った。そして五月六日に三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いた。 三月六日に出発して五月六日に三重県の英虞(あご)湾に到着した。 中皇命は、ナ国の天子である 筑紫には、太宰府、紫宸殿、大(内)裏跡、大(内)裏丘、朱雀門がある「我が大王の仕え奉る帝(みかど)には」という意味、「我が大王」と言ったのは舒明天皇。 我が舒明天皇のお仕えする中皇命は夫婦合和して仲睦まじくおられる 九州太宰府と考えると、「内野」「大野」「馬敷ましき」そして「那珂なか」と全部地名が並んでいる 「紀温泉」というのは和歌山の白浜温泉だろう。これはよい。次の十番目の歌の「磐代」は、白浜からちょっと西よりに寄ったところに有馬皇子が作った有名な歌に出てくる「磐代」がある。九番・十一番には尊敬の助動詞がない。九番「知るや」「結びてな」、十一番「見せつ」「拾はぬ」には敬語がない 十一番には二回も敬語を使っているのに、その前後では敬語の使用を忘れてしまったとなる 十一番は地名がない 「野島」はすごいところだったというが、そんな名所旧跡でもない 「阿胡根あごね」という地名がない 出発点は太宰府博多湾。有明海かも知れませんが、一応博多湾。到着点は三重県の英虞(あご)湾。こうなってきますと、所在地不明といわずに地名関係は非常にスムースに理解できる。進行関係も非常にスムースに理解できる数ある有名な「子島」の中で最も有名なのは「吉備の児島こじま」である。そこにすぐ近いところに吉備津神社や吉備の大宰(たいさい)が居る。中皇命は吉備の大宰に会いたかった 「野島」というのは明石海峡の淡路島の北端である その次は白浜へ行きます。磐代へ行ったりしている。そのあと「阿胡根の浦」というのは三重県の英虞(あご)湾に行きます 大和飛鳥から三重県英虞湾まで二カ月も掛かるのか出発点を筑紫太宰府と考え、二カ月かかって三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いたとします その間吉備の大宰に会ったように表面は観光旅行のように見えて政治的な目的を持った旅行 太宰府の九州王朝となりますと、時期はもちろん白村江の以前で、白村江六百六十三年以前の記事を切り取って『日本書紀』に、はめ込んでいる 初めは同じですが持統天皇と関係の深い二人「直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張」をプラスしている そして留守の官となる。次は『(朱鳥)日本紀』と同じ凄い諌言が続き、最後に「伊勢に幸す。」と書いて、「阿児の仮宮」をカットしている これなら二カ月も掛からなくて良い つまり九州王朝の史料をはめ込んで『日本書紀』を作っている 持統天皇の吉野行幸記事は、九州王朝天子の佐賀県吉野行きであるまず桜の季節がほとんどない。吉野と言えば桜と思っていますが、桜のシーズンは年によって違いますが、四月中旬から下旬まで ところが三十一回の中で、三月に行っているのは二回しかない。後の行幸は桜のない季節に行っている さらにおかしいのは、その中で七回、帰りが書いていない 不明となっていますが、持統三年一回、四年四回。八年二回。これも変です。常識的には、行きだけが書いてあって帰りが書いてないと言うことは、その日に行って還ってきたということ 巻一の三十九番の記事、文章からは『(朱鳥)日本紀』の記事とは直接には年号が書いていないから分かりません けれども直前にあるのが朱鳥二年の記事であり、後に朱鳥六年の記事がある ですからこの三・四年の記事も一応『(朱鳥)日本紀』この記事と考えても良いと考える この巻一の三十九番の記事も『(朱鳥)日本紀』の記事である そうすると、この記事は「○月吉野宮に幸す」と六回ばかり書いてあり、『日本書紀』三十一回のごく一部である。これは『(朱鳥)日本紀』の吉野行幸の記事である 先ほどの史料批判で朱鳥六年の『(朱鳥)日本紀』は、九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいた そうすると持統の吉野行きも九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいたのではないか 丁亥に天皇、吉野宮より至します。」とある。ところが困ったことに、この年の持統八年の四月という年に「丁亥」という干支はない 防(ぼう)は、防人の立てこもる拠点、烽(ほう)は狼煙(のろし)を挙げる所。この記事は全くインチキな記録であり、おかしな記事であるそれが白村江の戦いで明らかに大敗して、唐の占領軍か進駐軍が筑紫に来ている その占領軍が来た後に、唐や新羅を仮想敵国にする軍事要塞を作るという馬鹿なことが出来ますか 『日本書紀』の神護石や水城の記事は、本来から白村江以前に持ち上げなければ成り立ち得ない記事である あれを白村江以後に、はめ込んでいることこそ大きな嘘だった。この記事を見ても天智紀が嘘であることは、この問題一つ取っても疑い得ないのではないでしょうか。それが最近の年輪年代測定や放射能測定で、科学的裏付けを得てきた 天武が行ったという吉野は、はたして奈良県吉野かどうか(万葉集巻1 25-27番)吉野の耳我の峰に、つまり佐賀県吉野である。天武は壬申の乱直前佐賀県吉野 水沼の筑後君の犬と言っているが肥前の峰(みね)県主の犬。その犬が献上してきた鳥を喰い殺した。それで明らかに「嶺の県主」は肥前の峰(みね) 私は唐の郭務宗*に会いに行ったと考える 古文の常識で身分の高い人を「淑(よ)き人」と言う。しかもこれは天武が作っている。これは天武より身分の高い人を指している。そういう事は、これは郭務宗*である つまり郭務宗*が天武の提案に対してOKを出した。良い返事をくれた 大友皇子側が吉備に行って、天武達が反乱を起こしても味方をしないでくれ すると彼が聞かなかったので、直ぐに吉備の大宰を切り殺した 同じことを筑紫の太宰府の栗隈王のところへ行って同じ事を言った。ところが栗隈王は断った さらに言いますと、天武が吉野へ隠れた後、大友皇子が宇治から倭京まで軍勢を張り巡らした。 そのように書かれている。この倭京のことを、岩波古典大系では「飛鳥の地をさす。」と注釈がついてある。 しかしおかしいですよ。なぜなら壬申の乱前夜ですので、浄御原宮も出来てはいない。 持統天皇が詔勅を太宰府に下して言った。郭務宗*が天智天皇の冥福を祈るために作ったという阿弥陀仏の仏像がある。それをこちらに寄こせという詔勅このような仏像を寄こせと言うだけの詔勅も珍しいが、それがある 郭務宗*がもし壬申の乱の時、帰っていたら作るはずがない。このような阿弥陀仏の仏像が二・三カ月で出来るはずがない。 天武が、まだ天智が生きているときに「仏道を修行する為に吉野へ行こうと思う。」と言います私などは、仏道を修行する為には、山の中の吉野が便利な所だ。そう今まで思っていたしかし考えてみると仏道を修行する為に山の中へはいるという考え方はもっと後世の話である 当時の仏教七・八世紀の仏教は都会のど真ん中で修行する。奈良や京都はお寺だらけだ 奈良や京都は山の中ではない。都仏教です ところが筑紫の方へ仏道修行に行くと言うのなら、中国から仏教が最初に入ってきたのは当然筑紫である。筑紫の方へ仏道修行に行く。佐賀県吉野の方へ行くというならば、こういう話は意味がある
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古事記序文中の「帝紀・旧辞暗誦」詔勅は、天武ではなく文武の発布 古事記序文の非合理性事実「削偽定実」のために、天武から稗田阿礼へ帝紀・旧辞暗誦の詔勅より元明から太安麻呂へ撰録を命じるまで25年 神武・仁徳・天武を称揚するも直系祖先の継体は見えず 構造詔勅中の酉年二月に清原の大宮で天位に就いたのは、従来、癸酉年即位で飛鳥浄御原宮で執政した、天武天皇とみなされてきた 帝紀・旧辞暗誦の詔勅は従来天武と考えられたが、文武である主張文武は丁酉年697年即位 従来、文武天皇即位前の694年に藤原京に遷都しており、697年の即位は当然藤原宮とみなされてきたが、十年後の慶雲元年(704)十一月二十日条に「始めて藤原宮の地を定む」とある したがって、704年まで藤原宮の前宮、飛鳥浄御原宮にいたともみなせる 適用詔勅拝命時28歳だった稗田阿礼は、撰録時の元明天皇和銅4年(711)時には42歳以下 また、序文には神武・仁徳・天武は全て、神武辛酉・仁徳癸酉・天武癸酉の即位である さらに、文武の即位年は、丁酉にあたる 考察墓記を上進記事との整合性持統5年(691)8月十三日条、十八氏からその先祖の墓記を上進記事 持統8年(694)藤原京へ遷都 文武元年697(丁酉)8月、即位 この間に帝紀・旧辞暗誦の詔勅(、同じ時期、他にも改新の詔で郡制を開始) 大宝元年(701)2月、文武初めて清原の大宮で天位に昇る 大宝元年(701)3月大宝へ改元。大宝律令発布 持統天皇が藤原京を用意した背景文武2度目の即位は、九州王朝倭国からの禅譲か? 藤原京への遷都は倭王のためか?
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メモとして ■ 本当の反米を知らないか? 「虚空と君のあいだに」より ☆ 記事コメントから いやいや、在日米軍が戦略的に日本の統治を考えているのではなくて、戦前どころか、大化の改新に遡る「奥の院」が関わっているんですよ。 平和憲法というのは、律令国家以来の勢力の、彼らの悪足掻きなんですね。 だから、アテルイの末裔たる小沢氏が今、攻撃されている、ということ。 私が言いたいのは、たとえ国外の問題であっても、この国では勢力争いの具にされてしまう、ということなのです。 ■ 安倍内閣支持率が危険水域らしい 「」より 記事引用 麻生さんは日中関係についてこう言っています。いつも核心をつく発言をしてくれる麻生さん。 「『大化の改新』にさかのぼる昔から、超緊密だった時代はない。これ(懸案がある状態)が普通だと思っていい」「日中共益が目的で、日中友好はその手段だ」 ■ 大連でも反日デモ?!その4 「中国大連掲示板(livedoor したらば)」より 4 :名無しさん:2007/06/16(土) 01 22 35 HOST 60.20.241.108 「日中共益が目的で、日中友好はその手段」、「『大化の改新』にさかのぼる昔から、超緊密だった時代はない」 =麻生外相インタビュー 麻生太郎外相は15日、時事通信のインタビューに応じ、マカオの金融機関バンコ・デルタ・アジア(BDA)に凍結されていた北朝鮮関連資金の送金問題について「(北朝鮮は)送金ができたら次は経済制裁解除だと言うと思う。(北朝鮮の要求は)しばらく終わらないのではないか」と述べた。 外相の発言は、送金が完了した場合でも北朝鮮が国際金融システムへの完全復帰などを求め、6カ国協議で合意した初期段階措置の履行に応じない可能性があるとの見方を示したものだ。外相は、「送金したと言っているのはマカオだけで、米国もロシアもやったとは言っていない。怪しいのでは、と考えなければ」と語り、北朝鮮の出方を慎重に見極める考えを示した。 また、東シナ海のガス田開発問題などを抱える日中関係に関しては「『大化の改新』にさかのぼる昔から、超緊密だった時代はない。これ(懸案がある状態)が普通だと思っていい」と指摘。「日中共益が目的で、日中友好はその手段だ」と語った。 ■ たろうのひめくり(キャッシュ)より 「たろうのひめくり」より / 記事保全 ■ 大化の改新は無かった 「九州王朝「倭国」」より ■ 『天皇の金塊』に対する異論(?)『地球一切を救うビジョン』なる著書について・白峰(忍者?)(トンデモ論??) 「阿修羅♪」より 記事引用
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論文飯田武郷 今泉定介 古賀達也 中村幸雄 西村秀己 正木裕 古田武彦 図書通史 紀事 天文 逸年号史料 金石文 論文 飯田武郷 飯田武郷.``倭と日本は昔二国たり 卑弥呼は神功皇后に非す . 日本史学新説 広池千九郎編. 1892(明治25年), pp.10-12. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー全国書誌番号 40012659. 今泉定介 今泉定介.``昔九州は独立国にて年号あり . 日本史学新説 広池千九郎編. 1892(明治25年), pp.6-10. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー全国書誌番号40012659. [部分編集] 古賀達也 古賀達也. “百済武寧王陵碑「改刻説」補論”. 古田史学会報. 1999, 31号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou31/koga31.html . 古賀達也. “木簡に九州年号の痕跡「三壬子年」木簡の史料批判”. 古田史学会報. 2006, 74号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou74/kai07406.html . 古賀達也. “白雉改元の史料批判 盗用された改元記事”. 古田史学会報. 2006, 76号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou76/kai07602.html . 古賀達也. “天下立評”. 古田史学会報. 2007, 82号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai08206.html . [部分編集] 中村幸雄 中村幸雄. ``誤読されていた日本書紀 天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.9-27, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur2.html . 中村幸雄. ``万葉集「ヤマト」考 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.28-51, http //www.furutasigaku.jp/jpdf/nakamura112.pdf . 中村幸雄. ``既知歴史史料の再検討の必要性を論ず 懐風藻の序文の意味するもの . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.52-55, http //www.furutasigaku.jp/jpdf/nakamura112.pdf . 中村幸雄. ``百人一首と古代日本史 藤原定家の歴史観 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.56-57, http //www.furutasigaku.jp/jpdf/nakamura112.pdf . 中村幸雄. ``「辛酉革命説」私設 白村江の戦い年代の謎を解く . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.58-61, http //www.furutasigaku.jp/jpdf/nakamura112.pdf . 中村幸雄. ``九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立 朝鮮半島記事の取扱いについて . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.78-95, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html . 中村幸雄. ``「日本書紀」に存在する九州王朝証明記事 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.96-98, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html . 中村幸雄. ``天武五年「外国人登用令」から十三年「八色の姓」へ . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.99-101, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html . 中村幸雄. ``宇治橋に関する考察 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.102-121, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html . 中村幸雄. ``〔紙上論争〕二中歴年代歴 . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.122-129, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html . 中村幸雄. ``新「大化改新」論争の提唱 『日本書紀』の年代造作について . 中村幸雄論集. 林研心編. 多元史観による古代史論考, 横田幸男, 2004, pp.151-174, http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur4.html . 西村秀己 西村秀己. “削偽定実の真相 古事記序文の史料批判”. 古田史学会報. 2005, 68号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou68/kai06802.html . [部分編集] 正木裕 正木裕. “日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について”. 古田史学会報. 2006, 77号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou77/kai07701.html . 正木裕. “朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)”. 古田史学会報, 2007, 78号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou78/kai07805.html . 正木裕. “日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)”. 古田史学会報. 2007, 79号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou79/kai07903.html . 正木裕. “九州年号で見直す斉明紀 安倍比羅夫の蝦夷討伐と有間皇子の謀反事件”. 古田史学会報. 2007, 80号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou80/kai08002.html . 正木裕. “白雉年間の難波副都建設と評制の創設について”. 古田史学会報. 2007, 82号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai08205.html . 正木裕. “明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点”. 古田史学会報. 2008, 84号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou84/kai08402.html . 正木裕. “常色の宗教改革”. 古田史学会報. 2008, 85号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou85/kai08503.html . 正木裕. “伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点”. 古田史学会報. 2008, 86号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou86/kai08604.html . 正木裕. “「藤原宮」と大化の改新について I 移された藤原宮記事”. 古田史学会報. 2008, 87号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou87/kai08704.html . 古田武彦 壬申の乱の大道. 大阪市北市民教養ルーム, 2000-01-22/1, 古田史学の会. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen5/jinsin.html . 図書 通史 六国史舎人親王, 藤原不比等撰. 日本書紀. 720.荒山慶一. 増補 六国史. 朝日新聞社本, 1940. J-TEXTS 日本文学電子図書館 日本書紀. 伊予温湯碑文. 伊予国風土記逸文. 釈日本紀所引. 紀事 谷口雅一「大化の改新」隠された真相2008ダイヤモンド社 天文 大谷光男 古代の暦日 昭和51年 雄山閣 逸年号史料 二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考. 鶴峯戊申,1820(文政三). 国立国会図書館 憲政資料 松方正義関係文書(預託). 茅窓漫録 金石文 法隆寺釈迦三尊像光背銘文. 法隆寺釈迦三尊像. [607?] 野中寺弥勒菩薩半跏思惟像台座下框銘文. 野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像. 那須国造碑文. [700]