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乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。家紋は「市松四つ目結い」。幼名は無人(なきと)で、その後、源三と名を改め、頼時とも称した。 さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから源希典との署名もよく用いた。号としては、静堂、秀顕、石樵及び石林子を用いた。「乃木大将」または「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。 名前 コメント
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ホン乃木家とウソ乃木家 近来の癪事蓋し所謂乃木家冒認問題に如くはない、如何に大将を毛嫌し誹毀する者と雖も未だ曽て大将心事の高潔と誠忠と公明と正大とを疑ふた者はない、果して然らば之れに免じても大将の遺思を全ふせしむべきは世の道人の心常の態である、大将の遺思は「根も幹も枝も残らず朽ち果し楠の薫りの高くもあるかな」「いたづらに立ちしげりなば楠の木もいかで香りを世にとどむべき」の二首に尽きて敢て説明を要すべき理由がない、然るに何たる大べら棒ぞや、乃木大将一人が馬鹿に偉くなるを厭ひ又は其真似を為さざるを得ざる羽目に陥るを恐るるの徒二三輩が、寄つて集つて大ソレた悪戯を働くとは。 毛利元智氏は子爵毛利元雄氏の家族なれば今回の授爵に依り明治三十八年法律第六十二号第一条第一項の適用を受け一家を創立し第二項の適用により民法中分家に関する規定準用の結果、本家の毛利姓を冒さざる可からず、然るに新聞の伝ふる処に依れば氏は乃木と改姓せりと、我輩は此処に一大犯罪若しくは違法が伏在することを断言するを憚らぬ、毛利氏が乃木姓を名乗り得る唯一の方法は民法第九百八十五条第三項の規定に従ひ乃木家の親族会より裁判所の許可を経て大将の家督相続人に選定して貰ふに在り、雖然大将の血を分つ親族が全部大将の墓前で切腹したか又は莫大の金を貰ふたに相違ない迄は之れは絶対不可能である、或者は明治五年太政官布告第二百三十五号に因り元智氏は乃木と改苗したりと解す、併し同布告には「華族より平民に至る迄自今改苗字名並に屋号共改称不相成候事但同苗同名等無余儀差支有之候者は管轄庁へ改名可願事」とあり改名は格別改苗は絶対に出来ぬ、地獄の沙汰も金次第、併しあれは諺にして決して法律に非ず。 或は又乃木家は大将の遺言執行により又は華族令第十二条の明定に従ひ絶家したるものにして毛利氏は之を再興したる者と信ずる者あり、絶家の遺言は法律上何等の効力を生ぜず華族令第十三条は三年間家督相続人の届出なき時は爾後其爵を襲ぎ華族となる事を得ざる事を示したるに過ぎずして人間としての家名相続を禁じたるものにあらず、加之絶家再興には毛利氏に於て民法第七百六十二条に従ひ毛利伯爵家を廃業したる外第七百四十三条戸籍法第百五十五条等の解釈上乃木家と毛利家との間に親族関係ある事を要す、故に毛利氏は徹頭徹尾乃木家の再興者にあらず。 乃木家は民法第千五十一条以下所謂相続人の曠欠中に在り、其親族会は民法第九百八十五条第一項の規定に従ひ乃木大将の家督相続人を選定し得べく、今は是れ最も大将の意思に合致したる挙なり、蓋し大将の絶家主張は大将の後に乃木姓を冒す者なきを信じたればなり、既にウソにもせよ苟も乃木姓を冒し大将の明白なる意思に反し乃木の相続人面する人ありとせば、地下の大将豈合法真正の相続人の出ずるを希はざらんや、而して世人此乃木家を呼ぶにホン乃木家を以てし毛利の乃木を呼ぶにウソ乃木を以てせば真正天下痛快の一大教訓にあらずや、ホン乃木家は民法第九百八十七条の規定に依り系譜祭具及び墳墓の所有権を有し従つて大将を祭祀するの権を有す、ウソ乃木家は是れを有せず。 牧野所長答弁書 法律新聞第千四十二号弁護士法学博士 原告 岸清一 東京法律第十三号弁護士 原告 吉田三市郎 日本弁護士協会録事第二百一号記者 原告 時評子 法律新聞第千四十五号弁護士 原告 宮島次郎 東京地方裁判所長官吏 被告 牧野菊之助 右無権代理人弁護士米国伯爵 山崎今朝彌 右当事者間大正四年(の)大問題故乃木大将伯爵家冒認事件に付被告の答弁左の如し 一定の申立 原告の申立は相立たずと御判断相成度候 答弁の理由 原告の主張する請求の原因は縷々数千言普通人間の到底其職に堪へざる侮辱に該当すと雖も要するに左の二点に帰す以下少しく之を詳弁せん (一)は被告がやまと新聞並に法律新聞に発表したる本件係争の法律論は学者の体面を辱かしむるものなりと論ずるも (イ)被告は学者にあらず (ロ)学者と仮定するも学者に体面あることを認めず (ハ)学者に体面ありとすれば学者の体面とは皆んな恁んなものなり (二)は被告は真逆こんな議論を心からするものにあらず立身出世の為めに心裡留保をなし虚偽の意思を表示したるものにして曲学阿世なりと云ふに在るも (イ)目下実権存在の場所と法律元来の性質とに鑑み実際問題の提出さるる度に意見の異るは新刊雑誌の舶来する毎に法理の異ると同様固より其処にして変説は嘘付にあらず (ロ)智仁勇武は御世の御宝立身出世は官吏の玉条、被告が之を心懸けたりとて決して犯罪を構成するものにあらず (ハ)曲学阿世の事実は之れを認めず仮りに聊か其傾きありとするも被告は極力之れを否認す 大正五年四月一日 山崎今朝彌 大臣民全部 御中 <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
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【妄想属性】右翼 【作品名】明治天皇宇宙の旅 【名前】明治天皇 【属性】現人神 【大きさ】成人男性並み 蒸気機関が動力の小惑星並みの大きさの宇宙船に乗っている 【攻撃力】成人男性並み 乃木大将から拳銃を受け取っている 宇宙船は二十八糎砲を装備している 【防御力】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【素早さ】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【特殊能力】軍人並みの身体能力を持つ乃木大将他二名が明治天皇に味方している 【長所】明治天皇は、正に偉大なる帝王であらせられました 【短所】明治が終わって七十有余年、日本の国はこのように発展しましたが、 その歴史を振り返るに、果たしてそれが明治大帝の御心に添い奉っているのでしょうか 372 : ◆omTDoIF0bw :2016/06/23(木) 11 54 59.90 ID GMa7LcHZ 明治天皇 小惑星の大きさには厳密な定義がなく、 直径2000kmのものもあれば手の手のひらサイズのものもある 大きさ不明 追加情報待ち
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【妄想属性】右翼 【作品名】明治天皇宇宙の旅 【名前】明治天皇 【属性】現人神 【大きさ】成人男性並み 蒸気機関が動力の小惑星並みの大きさの宇宙船に乗っている 【攻撃力】成人男性並み 乃木大将から拳銃を受け取っている 宇宙船は二十八糎砲を装備している 【防御力】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【素早さ】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【特殊能力】軍人並みの身体能力を持つ乃木大将他二名が明治天皇に味方している 【長所】明治天皇は、正に偉大なる帝王であらせられました 【短所】明治が終わって七十有余年、日本の国はこのように発展しましたが、 その歴史を振り返るに、果たしてそれが明治大帝の御心に添い奉っているのでしょうか 372 : ◆omTDoIF0bw :2016/06/23(木) 11 54 59.90 ID GMa7LcHZ 明治天皇 小惑星の大きさには厳密な定義がなく、 直径2000kmのものもあれば手の手のひらサイズのものもある 大きさ不明 追加情報待ち
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658. ひゅうが 2011/12/03(土) 20 53 56 提督たちの憂鬱支援SS――「輜重」 ――1943年4月 日本帝国 「砲工歩機が体ならば 我らは血なり輜重兵 忘るな乃木大将の訓 全軍我らが支えけり」 歌詞は、まず日本語で、続いて英語に訳されて繰り返される。 ふむふむ。と、ダグラス・マッカーサーはペンを走らせた。 「その、ジェネラル・ノギの訓示というのは何なのかね?」 「はい。昔は輜重兵は『荷駄どもが兵ならば チョウチョやトンボも鳥のうち』と言われ、日露戦争の頃まではそういう風潮が強かったのですが、鴨緑江渡河の際に輜重兵たちを嘲っていた歩兵を見とがめた乃木大将がこう言ったのです。 『貴様らはこれまでたどってきた道を覚えているか?』と。 『土地は荒れ果てていましたし、道はぬかるみ野盗まで出る容易ならざる道でした』と兵たちが答えると乃木大将は『そうか、それに加えて精強なロシア兵と戦いながらの進軍を果たした諸君らはまさに精兵というに相応しいだろう』と言われました。 兵たちが胸を張ると、乃木大将は『だが』と言葉をつづけ、『諸君らには砲兵や歩兵、騎兵らの支援を受け斥候兵の情報をもって大勢でそれを乗り越えた。 だが、この輜重兵たちはあのぬかるんだ荒れ地を一人1トン近い荷物を持ってわずかの人数でこれから何往復も歩くのだ。我々が戦えなくならぬように命がけで食糧武器弾薬を守って。聞くところによれば輜重兵たちは野盗や飢えた敵兵の弾丸から己の身体をもって輸送品を傷つけぬように守っているということだ。 だのに荷駄が遅れれば罵詈雑言を浴び、挙句の果てには同じわが軍の兵とも認められない。 兵の中でこれほど健気なものを私は知らぬ』と静かに言われたということです。 兵たちは恥じ入り、輜重兵たちは奮い立った――これが『乃木大将の輜重訓示』です。」 なるほど。とマッカーサーは通訳を兼ねる彼の従卒 金田少佐に何度も頷いた。 先ほどまで彼は、日本陸軍の軍歌について原稿を書いていたのだった。 その中で気になった一節や日本軍の気質について、この金田少佐は快く説明してくれていた。 彼が捕虜収容所に入ってもう数カ月あまり。 移動に関して若干の制限はあるが、彼は比較的自由に過ごしていた。 悪化していく戦況に心を痛めてはいたが、マッカーサーは日本で長期にわたる余暇時間ができたことを利用して回顧録や軍の運用方法、そして日本人についてと様々な書き物をしていたのだった。 「確かに補給は大事だからな。それを周知させるために皆が歌う軍歌の最初の方に輜重兵を歌い上げて意識を喚起しているわけか――」 「実のところ、改訂に際しては上の方でお偉方が相当もめたらしいです。精神力さえあればと言うような人たちと、欧州大戦の参戦組との間ですったもんだがあったとか。」 「はは。前線に出なかった連中はたいていがそうなるものだ。あのフランスのフォシュ元帥のようにな。」 マッカーサーは、新調したコーンパイプに火をつけた。 なるほど日本軍は面白い。 軍歌といえば我々の中では勇猛果敢な兵たちが好まれるが、この国のものはまるで反戦歌のようなものが好んで歌われている。 メロディーは・・・そう、スコットランド民謡から曲をとった「ジョニーが凱旋するとき」のようなものが多い。 そんな中で景気のいいこの歌については考察から外していたが、そんなこの曲の中にも興味深いことは多いようだ。 あの「海ゆかば」だけで日本人の精神性を推し量るのは早計ということか。 「そうだ。閣下、頼まれていたものをもってきましたよ。」 金田少佐が思いだしたように書類カバンから英語の本を持ってきた。 「おお!待っていた。」 「閣下が小泉八雲を読まれると聞いた時は驚きましたよ。それに『葉隠』や『五輪書』まで。」 「いやなに。祖国に帰るときに、日本人の話ができないでは笑われるからな。」 マッカーサーは笑った。 彼は、ふとしたきっかけで柳田邦夫という民俗学者の著書「遠野物語」の英訳版を読み、すっかり興味をそそられていたのだった。 外出が自由ではないマッカーサーにかわり、金田少佐は出勤途中の丸善でいろいろと本を買い込んで来てくれる。 祖国に帰れる日が来たら、ぜひとも彼を招待したいとマッカーサーは思っていた。 「さて。早く読んでみよう。おお、そうだ。昼食を食べていくかね?話の続きも聞きたい。」 「喜んで。」 なんだかんだでマッカーサーは結構日本滞在を満喫していたのだった。 659. ひゅうが 2011/12/03(土) 20 55 57 【あとがき】――補給の話が話題になっていたので以前投稿したネタを敷衍して一本書きました。 マックに関しては、史実で海ゆかばを味気ない訳にされた意趣返し――なんてことはこれっぽっちも考えてませんからね!(汗)
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461. yukikaze 2010/09/06(月) 18 57 22 艦船が採用されたので御礼をば 支援SS 全てはこの時の為に 1905年3月5日。 満州におけるロシア最後の根拠地であるハルピンを遠くに臨みながら、 砲音を背に聞きつつ、二人の初老の男は感慨深げに呟いていた。 「とうとうここまで来たね」 「ええ。長いと見るべきか短いと見るべきか難しい所ですけど」 そう言葉を交わす二人の脳裏には、ここに来るまでの間の出来事が走馬燈のように駆けめぐっていた。 「私にとっては、あっという間だったよ。この世界に来て、最初はこの世界で生きるために必死になって 勉強して、気がついてみたらこうなっていたからね」 「僕にとっては、ようやくという気分ですね。僕らの過去の世界よりも少しでもマシなものにしようと動いてあがいて」 そう言いながら、男はふっと笑みを浮かべた。 「しかしびっくりしましたよ。僕のような境遇の者がいるなんて予想すらしていませんでしたから。 正直、閣下のこともお会いするまでは馬鹿にしていたくらいですから」 「それは私も同じだよ。仮に歴史通り進んだ場合、君をどのように取り扱うべきか悩んでいたんだから」 お互いの評価を聞いて、男達は呵々大笑する。 遠くからその姿を見ていた将兵達は、帝国陸軍の中でも屈指の猛将の呼び声高い二人の余裕の表れだとして、 従来から抱いていた敬意を益々強いものとする。 もっとも、そんな周囲の心情を知ることなく、二人の会話は続く。 「ところで、君は何故自分がこの世界に呼ばれたのか、考えたことはないかい?」 男の問いに、彼は間髪入れずに答える。 「勿論考えましたよ。と、言うより考えたことのない人いるんでしょうかねぇ」 「で・・・答えは?」 その問いに、男ははにかみながら答える。 「色々考えましたけど、結局でませんでした。まあ「日々の仕事が忙しいから」 ということでごまかしていましたですけどね」 で・・・閣下は? と言う問いに、男は重々しい口調で答える。 「私はね。無念の感情が引き寄せたのではと思っている」 「無念・・・ですか?」 オウム返しに答えるその声に、男はゆっくりと頷く。 「そう。無念だ。君も私も、私達のいた時代では、どのように評価されている? 私は彼らが、もっとマシな未来を選べなかったかと、 無念の感情を抱いていたのではと思ったんだ。そして我々もまた、本来よりもマシな過去を求めていた。この強い感情が結びついたことで、 我々は過去に逆行し、いまこの場にいると考えているよ」 その推論を、男は否定できなかった。 確かに、様々な理由があるが、彼らの同志達の多くにあるのが「あの時ああだったら」という、 無念というか願望と言った感情だからだ。 無論、そう言った感情が自分自身にも多々含まれていることは、自分自身がよく知っていた。 「そうなると・・・彼らは今満足しているのでしょうか?」 「それは、この戦いの結果次第だろうね」 男はそう言って身を翻すと、彼らの後ろで固唾を飲んで命令を待っていた将官達に、命令を下す。 「第三軍全軍に指令。これより予てからの作戦指示の元、攻勢に打って出る。我らの目的は敵右翼軍を撃砕し、 ハルピン後方にまで進撃。ロシア全軍を包囲殲滅する役目である。この会戦でロシア軍にとどめを刺すぞ」 老人とは思えない大音声の声に、命令を受けた将官達は一瞬身を震わせ、そして敬愛する司令官に負けないくらいの 大声で復唱すると、脱兎の勢いで自分達の任務に取りかかる。 「では・・・後方は頼むよ。伊集院参謀長」 「お任せを。砲兵の尻を叩いて、閣下の進軍を防ごうとする者達を片っ端から吹き飛ばして見せますよ。御武運を。乃木大将閣下」 見事なまでの敬礼をする伊集院に、乃木はこれもまた見事なまでの答礼をすると、何人かの護衛を引き連れ、前線へと駒を進める。 「全てはこの時のために!!」 後に、ハルピン会戦の勝利を決定づけたとされる、乃木第三軍の攻勢は、彼のこの雄叫びを表すかの如く 激烈なものであり、ロシアの猛将リネウィチが恐怖のあまり顔面蒼白となり、 「やつらは死ぬのが怖くないのか」と絶叫したといわれている。 直、この時の雄叫びは、西南戦争時に軍旗を奪われながらも生き恥をさらし続けた事への感情の表れ ととる史家が殆どであるが、長きに渡って彼の友人として過ごした伊集院元帥は、後に夢幻会の同志達に 「あれは、彼をこの地に呼んだ乃木大将が言わせた言葉かもしれないなぁ」と述懐したという。 465. yukikaze 2010/09/06(月) 21 31 19 以前、大火力信奉者の乃木大将のSSがあったわけですけど、一度古武士的な 乃木大将を書いてみたいなぁと思って書いてみました。 実はこれ、最初は伊集院参謀長との出会いとか、児玉大将との交流とか、 旅順戦での智将ぶりとかもネタに合ったんですけど、本編30話での、 「逆行者はどういうプロセスで来たのだろうか?」という問いかけに対して、 自分なりに考えた答えを乃木大将に言わせるのはどうかなと考えて、 本編日露戦争での陸上での最終決戦であるハルピン会戦中のひとコマという シチュエーション思いついたわけです。 ちなみに、最後の「全てはこの時の為に」というフレーズは、三国志大戦の 劉備の計略が発動した時の台詞です。(実際やったことはないんですけど)
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2ちゃんねる / 2chギネスブック ■ いがらしゆみこさんと悪徳商法 最古スレ? 2000/01/14(金) 05 53~ ■ 五十嵐優美子の被害に遭った会社 真の最古スレ? 2000/01/14(金) 10 31~ 2009.2.3現在の保護ログ ■ 乃木大将 次最古スレ? 2000/03/29(水) 15 54~ ■ 1000に達するとものすごい勢いで直江状を書くスレ 02/04/09 05 37~ .
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Template Infobox 軍人? 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日(嘉永2年11月11日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。 乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過した。 また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。 山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。 年譜 1849年(嘉永2年) - 現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。現在六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地。幼少期に事故により左目を失明。 1858年(安政5年)- 長府に帰郷 1865年(慶応元年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊に合流し幕府軍と戦う 1871年(明治4年) - 陸軍少佐に任官 1877年(明治10年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。連隊旗を薩摩軍に奪われた。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる(軍人が旗を奪われることが意味することは軍旗を参照)。 1886年(明治19年) - 川上操六らとともにドイツに留学 1894年(明治27年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった 1895年(明治28年) - 第2師団長(陸軍中将)として台湾征討に参加。 1896年(明治29年) - 台湾総督に就任 1898年(明治31年) - 台湾統治失敗の責任をとって台湾総督辞職 1899年(明治32年) - 第11師団の初代師団長(中将)に親補せられる 1904年(明治37年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典、保典が戦死する。 1907年(明治40年) - 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。 1912年(大正元年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園 1916年(大正5年) - 裕仁親王の立太子礼に際して、正二位を追贈される。 評価 秋月の乱・萩の乱、西南戦争 乃木は陸軍入隊後、少佐、連隊長として秋月の乱・萩の乱、つづいて西南戦争に従軍した。秋月・萩の乱では精鋭ぞろいの第一連隊を率いて士族軍をすみやかに鎮定した乃木であったが、当時最強の野戦軍とみられていた薩軍が優勢を誇る熊本戦線に送り込まれた西南戦争では、しばしば包囲されるなど苦戦をつづけた。ある時、退却の際、軍旗を持たせた兵が討たれ、軍旗が士族軍に奪われるという事件が起こった。乃木は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蛮戦をくりかえし、負傷して野戦病院に入院してすらも、たびたび脱走しては戦地に赴こうとした。退院してからも常に最前線に身を置こうとし、これを自殺願望とみた盟友・兒玉源太郎が、常に乃木を側に置き、監視するようになった。 ある日、乃木は兒玉の目を盗んで切腹を計ったが、すんでの所で取り押さえられた。説得する兒玉に対し、乃木は「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない。兒玉もついに折れ「わかった。しかし切腹するときは必ず自分に知らせよ」と誓わせた。 この騒動と前後して、乃木は官軍の総指揮官であった山県有朋に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問となり、どころか栄達の遠因にすらなった。 後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大将にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。それまで単なる目印・マークでしかなかった軍旗を神聖視する傾向は、この時より定着したといわれる。 一連の士族争乱は乃木にとって実に辛い戦争であった。軍旗を失うという恥辱もさることながら、秋月・萩の乱の緒戦で実弟・玉木正誼が敵対する士族軍について戦死(正誼は兄・希典に士族軍に付くよう何度も説得しており、乃木の部下の何人かが寝返ったほどであった)。さらには、師であり、青年期以降の養父的な存在でもあった玉木文之進が、士族軍に思想的な影響を与えたと追い込まれ切腹。この後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、たびたび暴力まで振るうようになったことから、西南戦争が乃木の精神に与えた傷がいかに深かったかが知れる。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた。 日露戦争・旅順攻略戦 旅順攻略戦後にロシア側のステッセルとの間で水師営の会見が行われた。そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。乃木はステッセルらロシア軍幕僚にも帯剣を許し、従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。 乃木の姿勢は世界中から賞賛され、日本の国際的地位すら向上させたことから、やがて乃木は「旅順の凡将」から、東郷平八郎とならぶ日露戦争の英雄となり、その後、長く軍人精神の具現者と見なされるようになった。 日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史好きの人たちの間でも度々議論になっている。乃木無能論は日露戦争当時からあったが、これが一般的になったのは、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』によってであろう。乃木について厳しい評価をした司馬の『坂の上の雲』発表後すぐに、乃木擁護論が発表されるなど大きな議論ともなった。 第二次世界大戦以前、乃木は彼自身の名声と軍部の情報操作もあって、軍神となったある種の信仰の対象であり、『坂の上の雲』発表当時もまだ乃木に対する評価は高かった。一方、より多くの部下を戦死させたほうが、活躍した将軍であるという偏屈な視点を、明治の日本人に植えつけたとも評され、現在も議論は続いているが平行線となっている。乃木の評価の大部分は人格的功績や軍人精神などにあり、必ずしも軍事的才能ではない事なども要因である。近年では、旅順攻囲戦の勝利や、奉天会戦での活躍など、乃木の軍事的な才能も再評価されている。 日露戦争後の乃木 戦時中は一般国民にまで戦下手と罵られた乃木であったが、水師営の会見をはじめとする、多々の徳行、高潔なふるまいにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。諸外国メディアは乃木を日本軍人の典型として紹介し、明治日本人の地位を大きく押し上げることに一役買った。 戦後の乃木は、旅順や奉天で戦死・戦傷した部下や遺族の窮状を聞くと、密かに訪れて見舞金を渡したり、従者を送ったりした。やがてこのことはメディアの知るところになり、乃木はさらに神格化された。また、上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木あてに届き、乃木が感涙にむせいだという逸話も新聞にも取り上げられ、庶民の「乃木将軍」はますます大きくなり、英雄・偉人というだけでなく、ある種の信仰対象といえるまでになった。例えば、子供が好き嫌いをすると、母親が「乃木将軍が子供の頃は、嫌いなものを残すと、食べるまで何度も嫌いなものが出されたのよ」などと、乃木を引き合いに出して叱責するといった具合であった。 少年時代の石原莞爾が、興味本位で紹介状もなくいきなり乃木を訪ねた時も、乃木は喜んで家に招き入れた(石原も『乃木閣下ならば紹介状がなくても必ず会ってくれる』と確信しての訪問だから、やはり策士だろう)。日露戦争の補給線などにかかわる質問にも、地図を持ち出して丁寧に答え、暇乞いをしようとする石原に夕飯を食べてゆくよう勧めた。石原は白米の飯を出されたが「閣下と同じ物を食べたいのです」と懇願し、乃木が日露戦争時から食べていたという稗飯をせがんだ。あまりの味気なさに閉口したが、それでも完食し、乃木を感心させた。 また、乃木は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられる。幼親王も乃木を慕い、乃木も聡明な親王に陽明学を勧めた。殉死の前日、乃木は親王に自ら写本した山鹿素行の「中朝事実」と「中興鑑言」を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。若干10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。 殉死とその影響 乃木は、1912年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり という辞世を詠んでいる。 この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的にうけとめられ、結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。事件に対する態度は主として、 天皇に忠誠を誓う武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛するうけとめかた 封建制の遺風による野蛮で時代遅れの行為として皮肉にとらえるうけとめかた 作戦失敗を繰り返し、多くの部下を無為に死傷させた、当然の結果といううけとめかた 古武士のような徹底した清廉な生き方を称賛するうけとめかた の4種類に区分できる。生前から(4)の受け止め方は国民の間で主流であった。事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社会全体が右傾化してゆく風潮のなかで(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、(4)を支持する意見がある。 (1)の立場としては夏目漱石の『こころ』におけるうけとめかたがその典型である。 (2)については森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』などを挙げることが可能だろう(鴎外は乃木の殉死に衝撃を受けてこの作品を執筆した)。 (3)については京都帝国大学教授谷本富(とめり)、信濃毎日新聞主筆桐生悠々などが、事件直後に新聞紙上で殉死批判を展開した結果物議を醸すこととなった。 (4)については乃木夫妻の殉死後、日本各地に乃木神社が建てられたのが、代表的な例として挙げられる。 このほか、彼を題材にした文学作品に櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などがある。 また、第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大将と日本人(原題『Nogi』)』を著し故人を讃えた。 乃木伯爵家は成人した息子は二人とも日露戦争で戦死、長女と三男は夭折した。息子の戦死後、乃木家の戸籍に入っていた実弟集作を他家に養子として出したため嗣子がおらず、山縣有朋や寺内正毅らは養子を立てて相続させようと画策したが、乃木の遺言により廃絶している。しかし乃木夫妻の死からちょうど3年後にあたる1915年9月13日、乃木家の旧主にあたる長府藩主の後裔、毛利子爵家の次男元智が伯爵に叙爵され、姓も乃木に改めた上で新乃木伯爵家を創設したが批判の声が強く、元智は1934年に爵位を返上、姓も毛利に戻した。 漢詩 乃木希典は静堂の号を持ち漢詩をよくした。 thumb|rigtht|150px|[[唱歌に詠われた水師営の棗の木(乃木邸内)]] 金州城外の作 山川草木転(うた)た荒涼 十里風腥(なまぐさ)し新戦場 征馬前(すす)まず人語らず 金州城外斜陽に立つ 中國語: 山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽 爾霊山 爾霊山(にれいさん)は203高地の当字で、乃木のこの詩によって有名になった。 爾霊山険なれども豈に攀(よ)ぢがたからんや 男子功名克艱を期す 鉄血山を覆て山形改む 万人斉しく仰ぐ爾霊山 中國語: 爾靈山險豈難攀 男子功名期克艱 鐵血覆山山形改 萬人齊仰爾靈山 富岳を詠ず 漢詩人としての乃木の代表作。 崚曾たる富岳千秋に聳え 赫灼たる朝揮八洲を照す 説くを休めよ区区たる風物の美を 地霊人傑是れ神州 中國語: 崚曾富嶽聳千秋 赫灼朝暉照八州 休説區區風物美 地靈人傑是神州 無題 中國語: 肥馬大刀無所酬 皇恩空沿幾春秋 斗瓢傾盡醉余夢 踏破支那四百州 その他 詠梅 凱旋 富嶽 陣中の作 肉声 1910年1月31日に、九段偕行社で加藤清正300年祭に関する相談会があり、その際に乃木を含めた出席者一同が蓄音機に肉声を吹き込むという余興が行われた。その最初に吹き込まれたのが乃木の「私が乃木希典であります」という声である。1930年12月に小笠原長生の解説(相談会の出席者でもあった)を付して「乃木将軍の肉声と其憶出(乃木将軍の肉声)」として発売された。現在では昭和館で聞くことができるほか、ビクターエンタテインメントが発売している「戦中歌年鑑(1)昭和4~12年」にも収録されている。 栄典 1895年(明治28年)8月20日 男爵 1897年(明治30年)6月26日 勲一等瑞宝章 1904年(明治37年)9月21日 伯爵 1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日桐花大綬章 1912年(大正元年):イギリス・バス勲章 家族 妻:乃木静子(湯地お七) 子供 長男:乃木勝典 次男:乃木保典 長女:乃木恒子 三男:乃木直典 孫 子供は4人とも子を持たないまま亡くなっている為、孫はいない。 養子 元智 (参考文献:乃木希典日記) 愛馬 轟号・・・スタンダードブレッド雑種。1901年、馬匹改良のため高知県に寄贈される。種牡馬として非常に優秀な成績を収め、高知県生産馬の品質向上に貢献した。 殿号 壽号・・・旅順陥落の際ステッセル将軍より贈られた。 璞号 轟号 英号 雷号 演じた俳優 林寛 - 「明治天皇と日露大戦争」・「天皇・皇后と日清戦争」・「明治大帝と乃木将軍」 笠智衆 - 「日本海大海戦」 仲代達矢 - 「二百三高地」 参考文献 松下芳男著 『乃木希典』 新装版(吉川弘文館、1985年) 日本博学倶楽部『日露戦争・あの人の「その後」』(PHP文庫、2004年) 関連項目 Template Wikiquote? Template Commons? 宇多源氏流佐々木氏 - 乃木氏の本姓とされている。乃木家は雲州・尼子家の旧臣であり、現在の松江市浜乃木一帯が本貫の地であったとされる。 沙沙貴神社 だるまさんがころんだ - 横浜市等、「乃木さんは偉い人」と数える地区がある 外部リンク 乃木希典肖像 乃木神社 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 宇多源氏【7】 《野木氏》系譜 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月9日 (水) 16 12。
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吉田茂の慨嘆「GHQと歴史教育」 GHQ焚書図書開封第4巻 発売開始 GHQ焚書図書開封第1/2/3巻 GHQ焚書を行なった日本人 GHQに没収された著者 されなかった著者 GHQによってどのような本が没収されたのか GHQは何を隠蔽しようとしたのか? imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (吉田茂の遺言.JPG) 加瀬俊一『吉田茂の遺書』(昭和四十二年)より GHQは修身・歴史・地理の教科を禁止した。民主化ブログラムの一環として、取られた措置である。日本の歴史研究は相当に高い水準にあった。 他のアジア諸国には、歴史研究と呼ぷべきほどのものはなかった。誇るべき歴史がないからである。歴史のない民族は、履歴書のない人間のようなものであって、語るに足らない。だから、GHQの命令は、由々しい意味をもっていた。 この結果、日本歴史は、占領軍の意向にそうように、改変され、ここに、驚くべき歴史教育の偏向が始まったのである。 歴史という科目は、社会科のなかに埋没してしまい、しかも、一九四五年八月十五日すなわち日本帝国が無条件降伏をした日をゼロ起点として、新たに発足する形となった。 従って、明治維新からしてが、悪業の始まりであり、その後の歴史は、すべて、人民に対する圧政の記録として扱うという、恐るべき歴史観が流行した。そういう、いわぱ被虐的な日本歴史を書いたり、ひろめたりして、得意になっていた日本人がいるのだからあさましい限りである。 「そんなものは歴史の名に値しない。紙屑よりも始末におえませんね。 それにしても、東郷元帥も乃木大将も知らぬような日本人を作っては困る。好戦的な立場で書かれた歴史は、無論、きれいさっぱり、廃棄しなくてはならぬが、さりとて、日清戦争や日露戦争までも侵略戦争であるかのように非難するのは、明らかに史実を無視するものだ。この両戦争が自衡の戦争だったことは、一点の疑いもない。諸外国で出版された歴史書を一見すれば、わかるではありませんか。 それよりも、日本の学者が虚構の歴史を書いたことに、私は強い不満を感じますよ。 恐らく、マルクス史観とかいうものに毒されている連中でしょうが、民族の過去を否定るのは、民族の将来を否認するにひとしいことに、気がつかんのですかね」 と吉田さんは慨嘆するのだった。 「このような偏向教育が続けば、国家意識は衰微し、やがて消滅するだろう。
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■第三次桂太郎内閣 内閣総理大臣: 桂太郎 内務大臣: 大浦兼武 外務大臣: 桂太郎 大蔵大臣: 若槻礼次郎 司法大臣: 松室 致 文部大臣: 柴田家門 農商務大臣: 仲小路 廉 逓信大臣: 後藤新平 陸軍大臣: 木越安綱 海軍大臣: 斎藤 実 内閣書記官長: 江木 翼 法制局長官: 一木喜徳郎 ○明治天皇崩御と大正の幕開け 1912年7月20日に宮内省が天皇重篤と発表、30日に天皇崩御の報が東京に号外として駆け巡った。近代国家の君主として明治天皇の崩御は多くの人々に影響を与えた。乃木大将は妻とともに葬儀後に自殺、夏目漱石は明治の時代を追想した作品を発表。そして大正天皇が即位した。 天皇が変わっても政治は依然として日露戦争後の戦後運営に苦しんでいた。第二次西園寺内閣は累積した戦債を解消するために行財政整理に取り組んでいたが、陸軍がロシア軍の北満州方面での戦力拡充を理由に当時の田中義一軍務局長(後に首相)が練った「6個師団増設10ヵ年計画」を提出、しかし西園寺は財政を理由につっぱねた。しかし上原勇作陸相は「2個師団増設」を要求、議論は平行線をたどり、上原は帷幄上奏権で単独で辞職、陸相を新たに迎え入れることができず、西園寺内閣は辞職となった。陸軍が自らの力で倒閣に始めて成功したのである。市民は激しく憤った。この中で長州・陸軍閥の桂太郎に再び大命降下が下ったのであった。 ○第一次護憲運動の高揚 第30帝国議会は1912年12月24日に召集、27日に開会した。運動の始まりは桂が政友会との連携をしなかったところから始まった。そして前首相:西園寺公望も桂からの協力要請を一蹴。政友会と国民党が結び、桂内閣倒閣を強く打ち出した。一方桂は政局の運営のために新党結成を企図したが議場の外に埋め尽くされた民衆、そして激昂する議員たちは白薔薇をつけ議会で激しく桂内閣を攻撃、尾崎行雄は「彼等は玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか」と弾劾した。耐えかねた桂は議会を停止、議会を解散しようとしたが衆議院議長の大岡育造が辞職を桂に迫った、桂自身も胃がんに侵されており桂は内閣と投擲、事態収拾は次の内閣にゆだねられた。議会では所得税法改正案(減税)が審議され、営業法税改正案は不成立となった。 ■第一次山本権兵衛内閣 内閣総理大臣: 山本権兵衛 内務大臣: 原 敬 外務大臣: 牧野伸顕 大蔵大臣: 高橋是清 司法大臣: 松田正久⇒奥田義人 文部大臣: 奥田義人⇒大岡育造 農商務大臣: 山本達雄 逓信大臣: 元田 肇 陸軍大臣: 木越安綱⇒楠瀬幸彦 海軍大臣: 斎藤 実 内閣書記官長: 山之内一次 法制局長官: 岡野敬次郎⇒倉富勇三郎 桂内閣の辞職を受けて、後継首班推薦のために元老達が召集された。山縣有朋、松方正義、桂太郎、そして山縣に呼ばれた西園寺公望である。当初山縣は西園寺に後継首班を依頼したが西園寺はこれを固辞した。結局、客観的な第三者として西園寺が後継首班を推薦することになり、薩摩派の山本権兵衛が首相となった。 ○シーメンス事件