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ウイグル問題を考える会 ウイグル問題を考える会は、日本におけるウイグル支援運動を、日本人が主体となって行なっていく団体です。世界ウイグル会議の日本での活動を支援、連帯しているメンバーで構成されています。 会の設立は2009年12月で、習近平氏来日に際し行われた抗議デモの実行委員会が前身となっています。ウイグル、台湾、モンゴル、チベットを支援する日本人有志が集まり立ち上げました。 お問合せはこちら
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中国の民主化と民族問題を考える勉強会 告知用チラシはこちら 陳破空氏についてはこちら 「独立中文筆会(独立中国ペンクラブ)」のメンバーの陳破空氏が来日されます。氏は天安門事件のときからの民主化活動家であり、ウイグル、チベットなどの中国の民族問題についても理解のある方です。 ウイグル問題を考える会として、陳氏や日本ウイグル協会のイリハム氏らを招き、中国の民主化と中国の民族問題を考える勉強会を行いたいと思います。 皆様のご参加お待ちしております。 ゲスト: 陳 破空氏 (独立中文筆会) イリハム マハムティ氏 (日本ウイグル協会会長) 三浦 小太郎氏 (北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会代表) 王 進忠氏(中国民主団結聨盟副主席、独立中文筆会・獄委会) 永山 英樹氏(台湾研究フォーラム代表) 小林 秀英氏(チベット問題を考える会代表) オルホノド ダイチン氏(モンゴル自由連盟党幹事長) 安東 幹氏(日本正義人権の会代表) ※ゲストの方は参加の確認が取れ次第追加していきます。 内容: ゲストの方からの簡単なスピーチの後に、質疑応答、参加者全員での意見交換などを行いたいと思います。 場所: 大久保地域センター3階 会議室A (新宿区大久保2-12-7) JR山手線 「新大久保」駅下車 徒歩 8分 地下鉄副都心線「東新宿」駅下車 徒歩 5分 都営大江戸線 「東新宿」駅下車 徒歩 8分 都営バス「大久保通り」下車 徒歩 1分 日時: 1月17日(日)17:45~20:30 参加費: 1000円 主催: ウイグル問題を考える会 ※「独立中文筆会(独立中国ペンクラブ)」の代表が、08憲章で現在監獄に入れられている劉暁波氏です。 公式サイト: http //www.penchinese.net/index.htm お問合せはこちら
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メニュー トップページ ウイグルについて ウイグルの歴史ウイグルと仏教について チベット仏教とモンゴル王朝、東トルキスタンのホジャについて 75ウルムチ事件について 異民族支配を正当化する「中華民族」論について 中国政府の人口抑制政策 中国共産党による宗教弾圧 東トルキスタンにおける不当な逮捕・拘禁・死刑 ウイグルの民族運動はテロなのか?ETIMに焦点をあてて 過去のアクション 2015年東トルキスタン共和国独立記念行事 拡大する中国のアジア侵略 2年前の聖火リレーを振り返って ハリー・ウー氏講演会 中国の「労働改造所」の実態 中国の民主化と民族問題を考える勉強会陳破空氏について 中国の民主化と民族問題を考える勉強会報告 12月19日カンボジア政府への要望緊急アクション 習近平来日に際してのアクション ウイグル問題を考える会について リンク World Uyghur Congress(世界ウイグル会議)(日本語) 日本ウイグル連盟 東トルキスタンに平和と自由を 日本ウイグル協会 RFUJ Radio Free Uyghur Japan - ラジオフリーウイグルジャパン 打倒中国共産党 (東トルキスタン編) ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 チベットハウス・ジャパン 南モンゴルクリルタイ 台湾は日本の生命線 Radio Free Asia Amnesty International Japan Human Righits Watch ここを編集
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習近平来日に際しての抗議デモ報告 ウルムチ事件で虐殺を行った張本人、習近平来日に際しての抗議デモを2009年12月12日に東京常盤橋公園~丸の内~銀座~日比谷公園で行いました。 デモに先立ち、以下の各氏よりスピーチが行われました。 日本ウイグル協会 イリハム マハムティ氏 台湾研究フォーラム 永山 英樹氏 モンゴル自由連盟党 オルホノド ダイチン氏 チベット問題を考える会 小林 秀英氏 中国民主団結聯盟 王 進忠氏 草莽全国地方議員の会、杉並区議 松浦芳子氏 国際政治学者 藤井 厳喜氏 株式会社日本文化チャンネル桜 水島 総氏 ちょうど前日に、習近平と天皇陛下が謁見するという発表があったこともあり、これまでウイグルやチベットなどのデモで見かける顔ぶれに更に新たな参加者を迎え、総勢約250名のデモを行うことができました。 ウイグル虐殺を行った習近平への責任を追及し、ウイグルに自由を求め、そして日本政府には中国政府への対応をきちんとするようアピールしました。 沿道の方々も、まずはデモ隊の青い旗に関心を持つ方が多く、それから日本を訪れる中国の国家副主席がどのような人物であるかを知ったのではないかと思います。 ニコニコ動画 約3kmの長いデモを行い、日比谷公園にて解散しました。 ウイグル問題を考える会主催のデモはここで終了しましたが、台湾研究フォーラムの永山氏が急遽企画した、民主党本部での抗議にも大勢の方が参加されたようです。 本日ご参加、ご協力くださった皆様、ありがとうございました。 本日のデモについては、チャンネル桜様が12月14日(月)「桜プロジェクト」(夜8時~9時28分) 前半のニュースコーナーにてご紹介下さるとのことです。 習近平の来日は14日からになります。ウイグル虐殺を行った彼への抗議アクションとしては最初に「ウイグル問題を考える会」主催でデモを行いましたが、この後に続くアクションにも是非ご参加ください。 12月14日 日本ウイグル協会主催 「習近平中国国家副主席来日に際しての記者会見 」 12月15日 チャンネル桜主催 「習近平中国副主席 訪日反対!天皇陛下会見強行反対!緊急街宣行動」 ※多くの寄付金をいただきました。ありがとうございます。 寄付金は 75,764円 頂きました。 必要経費(乾電池、レンタカー、横断幕) 16,079円 を差し引き、 残り 59,685円 を日本ウイグル協会に寄付いたしました。 お問合せはこちら
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{ 「習近平来日に際しての抗議デモ」告知動画 フミエイツ「ウルムチ」 } 2009年12月12日(土)、日本人ウイグル支援者が中心となって中国政府に 7.5ウルムチ事件とウイグルの人権問題を訴える抗議デモを行います。場所は東京千代田区の常盤橋公園、13時半集合14時デモ隊が出発します。デモについて詳しくはウイグル問題を考える会のサイトをご覧下さい。※BGMはRFUJレギュラー、フミエイツのオリジナル曲「ウルムチ」です。 「習近平来日に際しての抗議デモ」ウイグル問題を考える会 http //www20.atwiki.jp/uyghurissue/ Youtube http //www.youtube.com/watch?v=y-N9J1vYVFU ニコニコ動画 http //www.nicovideo.jp/watch/sm9051068 RFUJ http //rfuj.net/ お問合せはこちら
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ウイグルの歴史 現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきた。トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けら、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれる。 中国の歴代王朝で、本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満人の征服王朝である清のときからであると言って良い。それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみである。中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けたかのように喧伝しているが、これは事実と異なる。そもそも中国歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたのである。 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域に最初に住み始めたのは、イラン系・インド系のアーリア人であったが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴が、ついで柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配した。 そしてこの地域をテュルク系民族の住む地域「トルキスタン」としていく主体となったのは2つのウイグル王国、天山ウイグル王国とカラハン朝である。両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国であった。 天山ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、ついで仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していった。 カラハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク民族としては初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開していった。このときにカラハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになった。なお首都であったカシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄した。このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジブの「クタドグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」である。 その後ウイグル人は、世界的な大帝国を築いたモンゴル帝国の前に、あえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選んだ。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでモグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配した。彼ら支配層も、もともとはモンゴル系遊牧民とはいえ次第に定住化せざるを得なくなり、更に言語的にテュルク化、宗教的にもイスラム化していった。なお、このモグーリスタン・ハン国のときに、タリム盆地全域のイスラム化が完成した。 タリム盆地を支配していたモンゴル人王朝の名目的な支配者はモグーリスタン・ハン家であったが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族であった。 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配を伸ばしてきた。ジュンガル帝国3代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げた。彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ5世の下で過ごしていた。ダライ・ラマ5世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げた。その後東モンゴル族のハルハ部も破ったが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになった。 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成された。この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなった。次いで1759年にタリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、後に失地回復のための聖戦を繰り返すことになる。このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリムイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けた。 清朝の支配は、将軍や大臣の下の各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものであった。これはチベットでも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット、ウイグル人を味方にするための優遇措置であったと考えられる。このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われる。 19世紀中ごろから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発していた。このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクがカシュガル・ハン国を建てた。 これにより東トルキスタンは再びテュルク人によるイスラム政権を樹立することができたのである。対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていた。 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠に侵略され、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなった。1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなった。 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは英露両国の勢力争いの場となっていた。また両国をはじめとしたヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされた。 また、ロシアの圧迫に反発し、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中から近代的改革の動きが生まれた。彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動という。これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きた。 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要である。それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになった。当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力を払った。有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいる。彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになった。ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいる。 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立した。このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国になり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。そしてそれに遅れること約20年、ついに東トルキスタンでも侵略者を追い出し自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきた。 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。清末期から続いていた東トルキスタンへの漢民族の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間に不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていた。 そして、1931年3月にハミで起きた蜂起は東トルキスタン各地に飛び火した。その混乱のさ中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。 これら1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わったが、この頃の新疆情勢について日本政府は強い関心を持ち注視していた。国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対して日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていた。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいた。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようであるが、日本政府が新疆に対しての関心を失ってしまったため実現しなかった。 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族らによる民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言した。主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫ったが、突然進軍を停止した。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためである。 武力による独立闘争に代わり、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年ウルムチの国民党政府と和平協定を締結するに至った。お互いの閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言した。 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に開催される会議に参加するため政治的指導者たちは北京に向かったが、行方を絶つことになった。一説にはその途上ソ連に連れ去られ殺害されたとも言われている。 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。1955年、新疆省は新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。 お問合せはこちら
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ウイグルについて 現在の新疆ウイグル自治区も含め、一般的に認識されているところの中央アジアは、「テュルク系の民族が住む土地」という意味の「トルキスタン」とも呼ばれる。日本人にはシルクロードの舞台として知られ、仏教東漸の舞台でもあり、多くの仏教遺跡が眠る。現在の住民の大多数はイスラム教を信仰している。 トルキスタンはパミール高原によって東西に分けられている。西トルキスタンは90年代に独立したが、東トルキスタンは中国の圧政下に苦しんでいる。 テュルク系民族は現在のモンゴル高原で生まれたが、その後東トルキスタンに移住、定住し、カラ・ハン朝とウイグル王国とを作った。更に西へ進み、現在のトルコまでがテュルク系の人々が住む地となった。全世界のテュルク系民族の人口は1億3千万人といわれている。 テュルク系の民族の中でウイグル人の人口は1千万とも2千万とも言われ、そのほとんどが東トルキスタンに住んでいる。もともとこの地域に住んでいる民族のうち、ウイグル人が8割ほどを占めていたが、中国の支配が始まってから大量の漢人の移住が行われ、現在では4割強を占める程度になっている。 ウイグル語はアルタイ語に属し、文法的には日本語と近い。生活習慣にも似たところがいくつかある。 歴史上、東トルキスタンが本格的に中国の支配下に入ったのは清朝以降であり、それまではテュルク系、モンゴル系の王朝が続いていた。清朝の時代であっても、各地域はウイグル人の宗教貴族や、土俗の有力者によって統治されていた。1933年と1944年は2度の東トルキスタン共和国が誕生したが短命に終わっている。 面積は日本の5倍で、典型的な内陸性気候。タリム盆地の中央部にはタクラマカン砂漠があり、その周縁にオアシス都市が栄えた。 東トルキスタンは石油、石炭、天然ガスなどをはじめとした鉱物資源、農産物、畜産物に恵まれた土地である。東トルキスタンの石油、石炭、天然ガスの確認埋蔵量が、中国全土の確認埋蔵量に占める割合は、1/4、 1/3、1/3にもなる。しかしこれらの資源はパイプラインによって中国沿岸部に運ばれ、地元の人々には還元されていない。 お問合せはこちら
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ハリー・ウー氏講演会 中国の「労働改造所」の実態 無事終了しました。 中国のラオガイについて、貴重な講演を頂きました。 講演内容は以下の動画をご覧ください。 その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 質疑応答 その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 中国の強制労働収容所である労働改造所(労改:ラオガイ)についての講演会を行います。 無賃で、劣悪な環境下で強制労働を課せられている人々は、中国全土で数百万人いると言われ、国家に莫大な利益をもたらしています。 ご自身も19年間投獄された、アメリカ在住の人権活動家のハリー・ウー氏(呉弘達氏)にご講演頂きます。氏が創設された「労改基金会」の働きにより、欧米各国では「ラオガイ(laogai)」の単語とともに、その実態が広く知られるようになりました。 皆様のご参加お待ちしております。 日時:4月22日(木)19:00 - 21 00 基調講演:ハリー・ウー氏(中国語表記:呉弘達氏 在米人権活動家 米国「労改基金会」創設者) コメント・質疑応答 資料代:1000円 場所:新宿区落合第一地域センター 3F 第一集会室 東京都新宿区下落合4丁目6-7 03-3954-1611 主催: ウイグル問題を考える会 協力:日本ウイグル協会、アジアと中国の民主主義を考える会 配布用チラシはこちら 英語版はこちら 当日配布した資料は、http //laogai.org/our_work/laogai を日本語訳したものです。 こちらをご覧ください。 中国の独裁政権は、強権と恐怖によって維持されている。中国共産党政府に異議を唱える者には不当に逮捕、拘禁、死刑などが行われてきたが、その中でも「労働改造」制度が果たした役割は大きい。 「労働を通して更生する」という刑事罰により送られるところが「労働改造所(労改・ラオガイ)」であり、60年間に5千万人もの人々が拘禁され強制労働を課せられてきたと見られている。現在でも千箇所、数百万人の人々が苦しんでいると推定されている。 労働改造所では、収容者はほとんど無賃で、劣悪な環境下で、収容所内の農場や工場などで働かされている。現在は「監獄」と名を変えているが、実態に変化は無い。普通の国の刑務所などと異なり、労働改造所での強制労働は中国政府にとっては「儲かるビジネス」となっている。 また労働改造所は、一般企業のような企業名を持ってビジネスをするため、我々日本人も気付かぬままに強制労働によってつくられた商品が輸入されて、市場に出回っているのである。 今回の講演会は、労働改造所に19年間収容され、その後アメリカに亡命されたハリー・ウー(呉弘達)氏に、その実態について語って頂く。 ウー氏は「百花斉放百家争鳴運動」で中国共産党を批判したため、1960年に23歳で投獄され、鉱山や農場などでの強制労働を強いられた。1985年に渡米、教職に就いた後、人権活動家として活動を始め、何度も中国に潜入し、調査を続けている。1992年に「労改基金会」を設立し、中国の強制労働や、中国で行われている広範な人権侵害についての情報を集約し、発信している。 ソ連の「グラーグ(強制労働収容所)」やナチス・ドイツの「KZ(強制収容所)」などについては、国際社会は人道的な観点から非難をしてきた。ウー氏の働きにより、中国の「労改(laogai)」も次第に浸透し、英語など各国語の辞書に載るようになってきている。 日本に於いても「労働改造所」の名称と共に、強制労働の実態が広く周知されることを望む。 労改基金会(Laogai Research Foundation)のHP http //laogai.org/ お問合せはこちら
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ウイグルと仏教について 7世紀、西遊記のモデルである玄奘三蔵は経典を求め、シルクロードを経由して天竺に向けて旅をした。このシルクロードの舞台となるのが、現在の東トルキスタン(新彊ウイグル自治区)である。玄奘の旅は「大唐西域記」として残されており、そこにはシルクロードの諸都市では非常に仏教が盛んであると記されている。 玄奘から1000年以上経った現在では、東トルキスタンの住人であるウイグル人の大半はイスラム教徒となっている。しかし、今も東トルキスタンの各地に残る多くの仏教遺跡からも分かるように、かつては仏教が信仰され、華麗な仏教文化が花開いていた。 シルクロードは東西の交通や貿易の主要な幹線であり、東西文化の交流という点でも大きな役割を果たした。西方の宗教であるマニ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教などは、いずれもシルクロードを経由して東方に伝えられた。そして特に、日本を含む東アジアに大きな影響を与えたものが仏教である。 インドで始まった仏教は紀元1世紀以降に現在の東トルキスタンに広がり、それが中国に伝わって、その後6世紀に日本へと伝わってきた。大乗仏教や主要な仏典、仏像などの仏教美術が成立した北西インドおよび、東トルキスタンも含む中央アジアで発展した仏教文化が、現在の日本の我々にとっても身近な仏教となっている。 仏像は1世紀にクシャーン朝があった北インドのガンダーラ、サーンチーで作られるようになったと言われ、これはギリシャ彫刻などに見られるようなヘレニズム文化の影響が大きかったためと考えられている。 同様に、多様な文化の重なりにあった東トルキスタンでも、盛んに仏像や仏画などの仏教美術が作られた。現在のアフガニスタンには大仏像で有名なバーミヤン遺跡があるが、これに比較しても東トルキスタンの諸都市では更に多くの大仏が作られていたと言われている。 東トルキスタンの仏教遺跡や美術は今も各地に残されており、特に千仏洞にシルクロード仏教美術の絵画などが保存状態の良いままに残されている。千仏洞とは山の斜面に多くの洞窟を掘り、そこを仏像や仏画で飾ったものである。 仏教は、釈迦入滅後に弟子の間で大乗仏教と上座部仏教とに分裂したが、いずれも東トルキスタンへと伝わり、それぞれの地で信者を獲得していった。 タクラマカン砂漠を挟んで北側には先に上座部仏教と後に大乗仏教が、南側には大乗仏教が伝わった。 タクラマカン砂漠の北側、現在のクチャは上座部仏教、特に説一切有部の中心地であったと言われ、多くの経典が発見されている。またクチャのキジル千仏洞などには自己の悟りを得るために禅定が重視されていたことを伺わせる禅室跡や、釈迦の生涯を描いた仏伝図、釈迦の前世の物語を描いた本生図などが多く残されている。しかし、同時期のクチャには大乗仏教の寺院があったことも玄奘三蔵によって記録されており、さまざまな文化や民族によって成り立つこの地域の多文化性、寛容性が伺われる。タクラマカン砂漠の北側は上座部仏教の教勢が大きかったものの、次第に大乗仏教が盛んになったと考えられている。 タクラマカン砂漠の南側、現在のホータン(于闐国)は、この地域で最初に仏教が伝わってきたところであり、世界的にも大乗仏教の中心地の一つであり、多くの大乗経典が発掘されている。ストゥーパ(仏塔)を中心に配し、その周囲を回廊が囲む大掛かりな仏教寺院が建設された。華厳経など現在でも重用な大乗経典の多くがこの地で編纂され、中国へと伝わっていった。中国の多くの求法僧らも、この于闐に来て学び、教えと経文とを持ち帰った。 仏僧たちはインドの仏典を現地語に翻訳し、仏教の学習と布教に努めた。彼らの多くは2世紀中期以降、仏典を携えて中国に入り、中国の仏教の確立に多大な貢献をした。中国で普遍的に広まった後に、仏教は朝鮮半島、日本へと伝えられた。 5世紀初頭にクマラジーヴァ(鳩摩羅什)という現在のクチャ(亀茲国)出身の人が、サンスクリットの大乗仏教経典を漢語訳した。彼の訳経を用いて、聖徳太子は日本に積極的に仏教を取り入れた。彼の翻訳した経典は今でも「羅什訳」と呼ばれ重用されている。 また玄奘三蔵は唐の長安を出発しインドへと経典を求め旅をしたが、その際に現在のトルファン(高昌国)やクチャ(屈支国)など東トルキスタンの諸都市を経由しており、それぞれの地で仏教が非常に隆盛であったと記している。 この地域への仏教の伝播には3つの大きな波があり、1.インドから直接伝わってきたもの、2.一旦中国に伝わって現地で発展しそれが逆流してきたもの、3.チベットで発展したチベット仏教、の順に伝わってきた。しかし、以上で観てきたように、仏教の発展史として見るときに重要となるのは、インドから伝わって来てこの地で発展し、中国、日本へと伝わって行った「北伝仏教」の流れになる。 東トルキスタンのタリム盆地に存在していた国家は、砂漠の周縁に存在するオアシスを拠点とした都市国家が集まってできたものであり、また北方から来るテュルク系・モンゴル系の遊牧騎馬民族の支配を受けたこともあった。 「トルキスタン」とはペルシャ語でテュルク系の民族が住む土地という意味であり、この地域が言語・文化的にテュルク化するのに大きな役割を担ったのがウイグル人である。 現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国が崩壊した9世紀に、ウイグル人が大量に移住してきて、天山ウイグル王国やカラハン朝を形成した。彼らもまた仏教を信仰しており、それまであった仏教文化を一層発展させていった。 この亡命してきたウイグル人が土地の先住民らと混血し、その子孫が今のウイグル人となる。 シルクロードを経由して伝わってきた西方の宗教で、現在の東トルキスタンの住民のほとんどが信仰しているのがイスラム教である。10世紀頃より入って来たイスラム教を、まずはカラハン朝が受容し、それから東トルキスタンのイスラム化が始まった。東トルキスタンの西部は早くからイスラム教圏となっていったが、東部はしばらくの間は仏教圏のままであり、最終的に全域がイスラム化したのは15~17世紀のことと言われている。 つまり仏教が伝わった2世紀から12~13世紀までの1000年間は、東トルキスタンは仏教文化が支配的な地域であったのである。 イスラム教の浸透により、シルクロード仏教美術の仏像や仏画の目が消されるなどの部分的な破壊もあったが、これは深刻なレベルのものではなかった。 20世紀初頭にはヨーロッパや日本など多くの探検隊がこの地を訪れ、大量のシルクロード仏教美術品を持ち帰った。このことに対して中国政府は、探検隊が中国の美術品を盗んでいったと非難している。しかしシルクロード仏教美術はウイグル人の先祖が形成したものである。 そしてシルクロード仏教美術の徹底的な破壊は、1960年代の文化大革命のときに、新彊ウイグル自治区に入ってきた紅衛兵によって行われた。 現存する仏教遺跡の代表的なものは、トルファンのベゼクリク千仏洞、トユク千仏洞、クチャのキジル千仏洞、クズルガハ千仏洞などがあり、日本人が好んで訪れる観光スポットとなっている。それと共に、既にイスラム教徒となったウイグル人も、日本人と同様に仏教遺跡に観光に訪れている。 現在、中国政府の圧力により民族独自の文化を奪われようとしているウイグル人にとって、彼らの先祖が開花させた偉大なシルクロード仏教美術は、民族の誇りとなっているのである。 お問合せはこちら
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習近平来日に際しての抗議デモ 2009年7月5日に首府ウルムチにてウイグル人による政府への改善要求のデモが行われました。 これはそれに先立つ6月26日に起きた広東省の玩具工場でのウイグル人虐殺事件に対して、適切に処置するよう求める平和的なデモでした。 しかし現地政府はこの平和的なデモを武力によって鎮圧し、多数の犠牲者を出しました。 中国政府はこの「75ウルムチ事件」への対策チームを結成しましたが、その総責任者であったのが習近平です。 12月14日~17日に日本を訪れる予定の彼が、ウルムチ事件における虐殺を行った張本人であると言えるでしょう。 習近平を迎えるにあたり、ウルムチの虐殺を忘れないぞ!との強いメッセージを訴えたいと思います。 日時: 12月12日(土) 13時半 集合、 14時 デモ隊出発 会場: 常盤橋公園 デモコース: 常盤橋公園→外堀通り→日航ホテル前右折→日比谷公園 主催団体: ウイグル問題を考える会 協賛団体: 日本ウイグル協会、台湾研究フォーラム、南モンゴル応援クリルタイ、チベット問題を考える会、モンゴル自由連盟党、チベット青年会議日本支援委員会、日本チベット友好協会、中国民主団結連盟 シュプレヒコール一覧 配布用チラシはこちら ※このデモの趣旨は、第一にはウイグル虐殺を行った習近平への責任追及です。この趣旨に賛同して頂けるなら、あらゆる立場の個人参加を歓迎します。ただし周囲を威圧するような服装は控えてください。 ※写真、ビデオの撮影をしますので、支障のある方はマスクで顔を隠すなど対策をとられるよう、よろしくお願いします。 お問合せはこちら