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閑雲野鶴>メルマガ>バックナンバ>仮説・真理?>世襲 世襲 03/08/26 世襲が多い。 世襲が増えることは、その世界が発達成熟して安定期に入ったと見ることが出来る。しかし安定してしまってそれ以上の爆発的飛躍が出来なくなっていることも暗示している。当然例外もあり、例外を重ねて強調しつつ煙に巻くのも楽しいわけだが、楽しいばかりじゃつまらない。 世襲に関して親の言い分は大抵こうなる。「親を見て育ち同じ道を選んでくれたことは複雑だが嬉しい」大変謙虚でもっともらしく聞こえるが、つまりそれは親以外の大人と接触したことがなく、親の世界しか知らず、それより他に選ぶ道がなかったことの結果ではないか。子にあらゆる体験をさせ世界を拡げさせるという、親として当然果たすべき役割を果たしていないから「やりたいことが見つからない」という子に対して「現実はそんなに甘くない」と卑怯な逃げ方をして可能性の芽を潰す。 親として子をいつまでも支配下に置くことの出来る快感を子の人格よりも優先するから、縮小再生産を繰り返し、その世界は弾力性を失う。 世襲を当然とする、世襲でなければ成り手がない、世襲でないと治まりがつかない、など形はいくつかあるが、その中で営々たる歴史を汗を伝統を重ねていて子も世襲を誇りとする世界ならば構わないだろうが、世襲するべきではない世界で親の後を継いでそれを誇りとする馬鹿及び度外れた親馬鹿がいるから話はややこしくなる。 極端なまでに間抜けな例として「世襲議員による金正日批判」という実に涼しい話もあるわけだが、世襲するべきではない世界は政治だけに留まらないのは当然の話で、特にそれが個人の努力と実力が大きく反映される世界であればあるほど世襲は相応しくなく、しかし世襲そのものは絶対的な悪ではないながらも、ただ二世というだけで拝崇する行為が明らかに間違っているのだ。 ところが世の中は人脈によって動いているという、如何ともしがたい事実も一方にあって、しかしコネクションと情実によるその世界の特殊特権化を防ぐ為には、外部からの新しい血を積極的に導入することで解決出来るが、それを怠るとやがて畸形社会になってまう。 共に親離れ子離れ出来ない結果の世襲もある。一方滅ぶ寸前の伝統を継ぐ世襲もある。親が世襲を拒否して放蕩者を勘当した後乗っ取られて「こんなことになるならあいつに食い潰された方がまだ良かった」と後悔する場合もある。こうなると世襲そのものよりも、結局親の教育という根源的な問題に突き当たってしまうわけであり、それはもう迷宮どころの騒ぎではない。 地縁血縁のなかった新世界ではどうだったか。不思議なことに新世界に於ける世襲はごく当然のことであり、新世界であるからこそ世襲を拒否するのもまた当然の話であった。そこは世襲云々よりも「まず生きること」が先決であったから世襲などという馬鹿げた話などする暇はなかったのだろう。そして今の新世界ではその流れのままであるが、「実力で夢を掴むことが出来る世界」が売り物であったその国では今、人脈によってのみ動いている社会となり、元々個人主義を出発点に置いた筈のその国が、「生きることイコール人脈を作ること」になってしまったことは、古い伝統を拒否して建国した民の末裔が、伝統への強い憧れにより、この先極端な世襲社会への道を歩もうとしていることを示している。 「結局最後は人だ」という言葉、いい言葉なのか悪い言葉なのか、両面性があり過ぎ、言い交わされ過ぎて最早何も興らない。世襲が繰り返されるのは、親自身がそれ以上の成長を拒否するからである。 学ばない親の下で子は何を学べばいいのだろう。 TOTAL ACCESS - Today - Yesterday - LAST UPDATED 2021-12-03 06 22 07 (Fri)
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世襲をお気に入りに追加 世襲のリンク #bf Amazon.co.jp ウィジェット 世襲の報道 【戦国こぼれ話】若き織田信長は、とても天下を狙う余裕がなかった。3つの事件から真相を探る(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース スーチー氏有罪、国際社会が非難 カンボジアが仲介に動く事情 - 毎日新聞 - 毎日新聞 体調不良から復帰の桂ざこば 短く口上 ぜんそく、COPDで入院明け「大阪落語祭」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 「石原法」提出を求める!岸田縁故世襲内閣から民主主義を守れ! - SAKISIRU 20歳になった愛子さまの将来 中ぶらりんを続けた政治と国民の責任 - 朝日新聞デジタル 「鎌倉殿の13人」が問う合議制の難題(nippon.com) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 大倉忠義の弟が向井理のマネージャーだった!気になる「兄の面影」と「評判」(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【モンテーニュとの対話 「随蔵録」を読みながら】(115)文学が足りない! - 産経ニュース 「政府を信頼している人が多い国」ランキング 3位は「アゼルバイジャン」(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 立憲代表選4候補が討論会ー神奈川(全文4完)当たり前の感覚で当たり前が通る政治をやりたい(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE) - Yahoo!ニュース 米山隆一氏が“身を切る改革”に異論「煽っているのがお金に困らないほど蓄財したと思われる橋下氏」(東スポWeb) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【地球コラム】世襲のないドイツ、政治家の去り際:時事ドットコム - 時事通信 世襲とは 世襲の43%はツンデレで出来ています。世襲の34%は成功の鍵で出来ています。世襲の11%は媚びで出来ています。世襲の5%は苦労で出来ています。世襲の4%は気の迷いで出来ています。世襲の2%は知識で出来ています。世襲の1%は鉄の意志で出来ています。 世襲@ウィキペディア 世襲 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 世襲 このページについて このページは世襲のインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される世襲に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
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. 集ストは身分制度のように世襲されている 子供が集ストの加害行為していることは、ある程度は知られていますが、なかでも創価信者の子供となると4歳になるころにはすでに集スト加害に参加していることもあります。創価の加害者は、加害者としての役割を、すでに世襲している状況にあります。 被害者のなかにも子供のころから集スト被害にあっている人がいます。子供がいつ、どんなきっかけで集スト被害者になったのかというと、これといった特徴は見当たりません。共通点としては、おおむね、親が被害を受けているという点が確認されており、集スト被害も世襲してしまうことがある、というのが現状のようです。 加害者と被害者の立場が世襲してしまっている以上、これは実質的な身分制度となりつつあるといわざるをえません。社会問題として対処し、解決に向かうときは、この身分制度として世襲している点が、被害改善の強力な根拠のひとつとなることでしょう。(2015/12/24)
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企業団体献金・世襲を禁止する 【政策目的】 ○政治不信を解消する。 ○多様な人材が政治家になれる環境を整備する。 【具体策】 ○政治資金規正法を改正し、その3年後から企業団体の献金及びパーティー券購入を禁止する。 ○当面の措置として、国や自治体と1件1億円以上の契約関係にある企業等の政治献金・パーティー券購入を禁止する。 ○個人献金を普及促進するための税制改革を実施する。 ○現職の国会議員の配偶者及び三親等以内の親族が、同一選挙区から連続して立候補することは、民主党のルールとして認めない。 ○政治資金を取り扱う団体を親族に引き継ぐことは、法律で禁止する。 ○誹謗中傷の抑制策、「なりすまし」への罰則などを講じつつ、インターネット選挙活動を解禁する。 不正献金問題 鳩山首相の「故人献金」問題 2か月たっても「説明ナシ」 http //s04.megalodon.jp/2009-0920-1106-57/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090917-00000002-jct-soci 西松建設献金事件:小沢氏秘書、30日に公判前手続き http //s01.megalodon.jp/2009-0920-1110-03/mainichi.jp/select/jiken/news/20090919ddm041040147000c.html 鳩山家資産の資料入手 東京地検、献金の原資解明へ http //s02.megalodon.jp/2009-1016-1026-47/www.asahi.com/national/update/1014/TKY200910140517.html 小沢氏団体の記載虚偽、2億円帳尻合わず http //s04.megalodon.jp/2009-1016-1028-47/news.biglobe.ne.jp/social/583/ym_091015_5834208112.html 代表、幹事長と党の2大巨頭が両方とも不正献金事件を抱えたまま政権与党となってしまった民主党。政治不信の解消の大前提として、自らの身辺で起こったこの事件にに関する総括を行う必要がある。 そもそも民主党には、これまで他党の不正献金疑惑を激しく糾弾してきた歴史がある。2007年の伊吹元文科大臣の事務所費問題の時、鳩山氏は「資金管理団体、政党支部の代表者は政治家本人」と自民党を激しく非難、また2003年の社民党の秘書給与不正流用に関しては「政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば『あれは秘書のやったこと』と嘯いて、自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。」とメールマガジンで自筆している。現在、鳩山氏は自身の不正献金事件に関しては「私がしたわけでない」などと説明しているが、これまでの自らの主張と矛盾するのは明らかである。一方、逮捕された元秘書は「首相に事情を話した上で、六幸商会から必要な資金を引き出していた」と、資金の管理にあたっては鳩山氏本人に確認を取った上で動いていたとの報道もある。 【選挙前】 衆議院議員鳩山由紀夫メールマガジン「はあとめーる」2003年第29号(通算第104号) http //s02.megalodon.jp/2009-1030-0802-57/archive.mag2.com/0000074979/20030723200000000.html それにしても不可解なのは、土井たか子社民党党首が辞めないことです。今回の件では社民党関係者が4名逮捕されています。その中心人物は土井党首の秘書の五島昌子で、彼女が辻元前議員を始め、新人議員の指南役で、秘書給与を流用するという詐欺行為も教えたとされています。私は政治家と秘書は同罪と考えます。政治家は金銭に絡む疑惑事件が発生すると、しばしば「あれは秘書のやったこと」と嘯いて、自らの責任を逃れようとしますが、とんでもないことです。政治家は基本的に金銭に関わる部分は秘書に任せており(そうでない政治家もいるようですが)、秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきなのです。 【鳩山氏元秘書の供述】 元秘書「匿名献金は首相資産」 虚偽記載問題 http //s03.megalodon.jp/2009-1030-0806-15/www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009102602000141.html 関係者によると、元秘書は、鳩山首相の政治資金を管理する立場にあり、「資金が足りなくなると、鳩山首相が管理していた資産を預かったり、首相に事情を話した上で、六幸商会から必要な資金を引き出していた」と説明。六幸商会から引き出した資金は「首相個人の資産で、親族分は含まれていない」と話しているという。 【選挙後の不正献金事件に関する説明】 首相、献金問題「私がしたわけでない」 http //s04.megalodon.jp/2009-1030-0808-14/www.nikkei.co.jp/news/seiji/20091026AT3S2600S26102009.html 鳩山由紀夫首相は26日、自身の資金管理団体をめぐる個人献金の虚偽記載問題で、匿名献金の大半が鳩山家の資産管理会社の管理資金だったとの一部報道について「私がしたわけではない。秘書がなぜこういうことを行ったのか必ずしも本心が見えていないところがある」と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。 また、この鳩山氏の事件よりも更に根が深いのが小沢氏の不正献金事件である。小沢氏の事件には、西松建設と公共工事を巡るより根が深い問題が絡んでいると言われているが、当の小沢氏自身はダンマリを決め込んでいる。 新たな疑惑 民主・下条議員、秘書給与を建設会社支払い http //s01.megalodon.jp/2009-0926-0456-38/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090926-00000044-yom-soci 新聞・雑誌記者「キャバクラ」接待 民主議員の「汚れた」政治活動費 http //s01.megalodon.jp/2009-1001-0659-06/www.j-cast.com/2009/09/30050635.html 民主党が政権をとってからも様々な不正献金疑惑などが表面化している。この種の問題にどのように対応するかが、今後の民主党の評価を分けるといってもよいだろう。
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<目次> 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.51以下 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族 第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎 ◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か (省略) ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 (省略) ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源 真に自由な社会とは、「君主制下のデモクラシーはどうあるべきか」を論じても、必ず「デモクラシー下の君主制はどうあるべきか」という転倒の思想を排除する。 なぜなら、君主制は保守し擁護すべき高級な憲法制度であるが、一方のデモクラシーは制限し抑制されるべき低級な政治制度の一つに過ぎない。 君主制は国民が生命にかけても積極的に守るべき「制度」だが、デモクラシーは消極的に容認されて存在が許される現実の政治に過ぎない。 この理由は明白であろう。 君主制は政治理念たる“美徳ある自由”の淵源の一つであるのに、デモクラシーは民衆(デモス)の要求する「平等」という、徳性を喪失した非道徳で反・自由な制度(クラシー)だからである。 こうも言ってよいだろう。 我々が空高く掲げるべき“自由”は価値であり、君主制こそはこの“自由”の芽を大樹に育てあげてくれる。 が、デモクラシーは、「平等」という土足で、この“自由”の畑を踏み荒らす。 現実にも、英国であれ日本であれ、君主のもつ尊厳と尊貴とが、国中に君主の威徳を満たして英国民や日本国民の“自由”に徳性を附与してきた。 “美徳ある自由”が、君主制と封建制度のある国に限定されて発展した理由の一つである。 が、一方のデモクラシーは(橋・道路を造ってくれ!、年金をもっと増やせ!・・・・・・の)下劣な欲望を背景とした投票に、政治家が議員になりたいばかりに屈服する政治制度である。 つまり、デモクラシーは民衆のそのような非道徳若しくは反道徳的な政治参加によって国中から美徳を破壊して、野卑を蔓延させる制度である。 この故に、君主制は憲法原理であるが、一方のデモクラシーは、「デモクラシーの暴走を抑制する(たがを嵌める)」ことのみが憲法原理となっても、デモクラシーそのものは反憲法となる。 米国は、君主制ではないが、その憲法を起草するとき、デモクラシーについてはこの通りに考え、「デモクラシーの制限」を憲法の柱の一つとした。 以上の事柄は、“自由”は憲法原理であるが、「平等」は「法の前の平等」を除いて反・憲法であるという、“自由”と「平等」の関係と酷似している。 つまり、君主制は憲法上の至高の制度であるが、デモクラシーは憲法とは無関係か、仮に憲法的に考慮するとすれば「デモクラシーを否定的に制限すること」のみが憲法原理となる。 このようなことは、「米国憲法の父」で米国を建国したアレグザンダ・ハミルトンや、ハミルトンと共にジョージ・ワシントンに仕えた初代副大統領(第二代大統領)ジョン・アダムズらにとっては常識であった。 米国憲法(起草1787年、施行1788年)が、「平等」を完全に拒絶し、デモクラシーを可能な限り抑制することを根本思想として制定された理由は、これで分かってもらえるだろう。 とくに、「建国の父たち」の絶対多数意見は、新生アメリカがアナーキーな政治状態に転落することを防ぐことと、古代ギリシャに始まりそれ以降の全てのデモクラシー国が政治を腐敗させ自壊的に亡国した歴史を繰り返してはいけないという反デモクラシーの思想に立脚すること、の二つで一致していた。 米国憲法が起草・制定されていくその間、当時のアメリカにも存在していたデモクラシー支持の少数派は、その巨頭トマス・ジェファーソンが、在仏公使としてパリに「追放」されていた。 アメリカにいなかったのである。 ジェファーソンは「アメリカ13邦の独立の父」の一人であるが、1789年3月に誕生した「米国の建国の父」ではない。 ◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 国民の“自由”は、デモクラシー(民衆政治参加制度)とは何の関係もない。 むしろ、デモクラシーは“自由”を侵害する危険をはらむ。 また“国民の自由”と表現しても、決して「人間の自由」と表現され得ないのは、“自由”はそれぞれの国家・民族に固有な“ナショナル(national)”なものだからである。 現実にも世界190ヶ国の各国でその“自由”は千差万別で、“自由”は人類に普遍的なものではない。 “自由”はあくまでもオリンピックの出場権と同じく、国家単位である。 今日のアフリカには、全体主義ではないのに、10歳ほどでゲリラに拉致されそのまま殺戮専門のゲリラになるのを強要される、人間として陰惨をきわめて全く自由がない国がかなりある。 “自由”は“自由”の伝統がない国では棲息できない。 “自由”とは、人間の知力や制度の移植で簡単に創造することの出来ないものである。 なぜなら“自由”とは、祖先から“相続”したものだからである。 そして、それをたまたま享受できた、ある特定の国の国民だけが、この“相続した自由”を育んでいる伝統的な諸「制度」を一生懸命に保守する義務を果したときだけ、この自由が満天の星空の如く光を放つ。 “自由”を擁護する伝統的な諸「制度」には主要なものが三つある。 ① 「世襲(相続)の原理」が機能していること、 ② 「法の支配」が守られていること、 ③ 「中間組織」が繁茂していること、 である。 世界の近代史を見ても、“自由”と不可分の関係にある、生命と財産が擁護されているのがヨーロッパ諸国と日本だけに限られていたのは、その双方のみが君主制と封建体制(貴族/武士階級)の二つの政治制度を共通に持っていたからであった。 君主制が主として①の「世襲の原理」を、封建体制が③の階級や家族という「中間組織」を、発達させたからであった。 ②の「法の支配」は、“古き良き法”と考え、“法”を神よりも王よりも上位にあるとし、いわんや議会での立法による「法律(legislation)」は、この“法という支配者に従う下僕の身分を弁(わきま)えよ”と考える中世ゲルマンの法思想が、近代ヨーロッパの中で一ヶ国だけ残っていた英国において発展した。 この「法の支配」は、17世紀のアメリカの英国人植民地人によって米国にも継承されていき、「法の支配」が米国の憲法原理として不動のものになった。 日本にも、この英国に発祥した「法の支配」に類似な思想が、英国の法思想的な表現ではないが、存在していた。 皇室(天皇)が連綿として守り続ける「祖宗の遺訓」がそれである。 明治憲法の告文は、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし・・・・・・」「皇祖皇宗の後裔に胎したまへる統治の洪範を紹述する・・・・・・」としているから、記録や記憶を超えての「皇祖皇宗の遺訓」こそが“法”で、憲法とはこの“法”を文字で以って条文とした最高の法律だと考えていることになる。 このためであろう、明治憲法には、英米的な「法の支配」が香水の香りのように爽やかに漂っている。 立法に当たって、この立法を道徳その他の上位の規範に従って拘束し無制限な立法を禁じる思想が存在しなければ、立法権力は必ず暴走する。 革命フランス、レーニンのソ連、ヒットラーのドイツでは立法に制限がないから、恣意的に大量殺人の法律が平然と立法され、この法律に従い行政と司法はあらん限りの悪を実行したのである。 ナチスの法治主義は、その法律の内容の是非を問わなかった。 レーニン、スターリンは自分たちを「人民の代表」という“無謬の神”と信じていたし、その個人的な単なる恣意は「神の法」だと狂信していた。 オウム真理教の教祖・麻原彰晃をスケール的に大きくしたものがレーニンやヒットラーであった。 日本は、偶然にも英国と似て、自由の三つの淵源 - ①「世襲の原理」、②「法の支配」、③「(階級などの)中間組織」 - を、成長させていたことになる。 日英の相違は、英国では主としてコークが②「法の支配」と“自由”の関係を、主としてバークが①「世襲の原理」③「中間組織」と“自由”の関係を明らかにしたのに、日本にはそのような理論的作業が全くなかったという点であろう。 ただ、明治憲法の起草者である井上毅の法思想には「旧慣」という概念(※注1:「旧慣の尊重」、坂井雄吉『井上毅と明治国家』、東京大学出版会、1983年、111~22頁)など、エドワード・コークやエドマンド・バークを思い起こさせるものがあるが、井上は例外的であった。 この①「世襲の原理」や②「法の支配」については、拙著『保守主義の哲学』のそれぞれ第三章/第二章において詳述している。 以下①「世襲の原理」について、少しばかり説明しておこう。 1688年の名誉革命によって英国はオランダよりウィリアム国王・メアリ女王を奉戴したとき、翌年サマーズ卿が起草した「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」(「権利章典(Bill of Rights)」)を制定したが、これを例として説明する。 この権利章典とは、「英国臣民の権利/自由」は「古来より相続した」「家産である」が故に、国王陛下に対してそれらを尊重して頂きたいと奏上する形式になっている。 フランス人権宣言のように、オレは人間だから人間の権利をもっているぞ!と、アフリカのジャングルで吼えている形式のものではない。 つまり、国民の享受する自由や諸権利は、 ① 英国の国王(女王)陛下の臣民であること、 ② 祖先から「家産として相続したこと」、 の二つを法的根拠にして国家より尊重されるものだとする論理である。 これが、マグナ・カルタ(1215年)から権利請願(1628年)を経て英国を貫く「世襲(相続)の権利」という憲法原理である。 バークの、次のような簡素な説明は、美事にその核心を表現している。 「われわれ(英国民)の自由を主張し要求するに当たって、それを、祖先から発してわれわれに至り、更には子孫にまで伝えられるべき限嗣相続財産とすること、またこの王国の民衆にだけ特別に帰属する財産として、何にせよそれ以外のより一般的権利(=人間の権利)や先行の権利(=自然権)などとは決して結びつけないこと、これこそマグナ・カルタに始まって権利章典に至るわが国体(=憲法)の不易の方針であった」(※注2:エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、43頁)(カッコ内中川)。 だから、この自由の権利の要求には、“臣民の義務”として国王への忠誠が発生するのである。 “臣民の義務を果さずして、自由なし”こそ永遠の真理である。 権利章典には、両陛下への忠誠の宣誓文まで明記されている。 「私、何某は、ウィリアム国王陛下およびメアリ女王陛下に、忠実であり、真実なる忠誠をつくすことを、誠意をもって約束し、宣誓します。神かけて」(※注3:『人権宣言集』、岩波文庫、84頁) 臣民が国王の王座(世襲)を守る、代りに国王は臣民の自由(世襲)を守る、という、このような自由擁護の構造は、名誉革命よりさらに450年以上も昔のマグナ・カルタを踏襲したのである。 マグナ・カルタは次のように定めていた。 「朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の臣民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に彼ら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申し付ける」(※注4:同右、53~4頁)(傍点中川) もう一度いおう。 “自由”とは、国王の王位が“世襲(相続)”であるが故に正統性をもつように、父祖から“世襲(相続)”したが故に国家権力から最大限に保障されるという原理である。 日本に当て嵌めれば、“世襲(相続)”である天皇に“世襲(相続)の義務”として忠誠を尽くすが故に、陛下の臣民である日本国民は“自由”を“世襲(相続)”として享受できる、というのである。 一言でいえば、天皇制廃止の運動をするものに対して自由は保障されない、保障しなくてもよいのである。 英国が共産主義者の団体を「非合法」としているのは、その憲法原理からも自明の、極めて正しい立法というべきだろう。 なお、ロックはその『統治論』で、この1688年の名誉革命を、「国民の信託と同意に基づく」などと、さも国民が良き国王に変更したかのような歴史の捏造をしている(※注5:ジョン・ロック『統治論』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、334~8頁) ヒュームは、この狡猾さ故にロックを侮蔑するし、その『道徳・政治・文芸論集』第Ⅲ巻(1748年)に収録されている論文の「原始契約について」で、ロックを非難している。 「名誉革命で・・・・・・変革されたのは王位継承だけであり、・・・・・・。しかも、1,000万人近い人民に対してこのような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」、と(※注6:ヒューム『原始契約について』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、542頁)。 英国には、国王の地位は“正統な継承”において正当化される、という思想しかない。 「国民が国王を選択する」などという、ロックのような発想は荒唐無稽にも度が過ぎる。 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 君主制擁護論として、18世紀のバークに続く影響ある著作は何と言ってもバークから約100年後のバジョット著『英国憲政(国体)論』(1867年)であろう。 バジョットはまず、国家の政治機構を三権分立ではなく、“威厳ある部分(the dignified parts)”と“機能する部分(the efficient parts)”からなるとし、この“威厳ある部分”が、とくにその演劇的要素が被治者大衆を動かし忠誠や信頼を獲得し、一方“機能する部分”はこれを利用して統治を行っていると考えた(※注7:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、「世界の名著」第72巻、中央公論社、71~2頁)。 つまり、「立憲君主制」こそ理想の統治が可能となる、強権を発動する抑圧を不要とする、正しい統治が体現し得るという。 また、国民を(ソフトな政治参加の前提たる)統治機構に関心をもたせ得る働きをするという。 この“威厳ある部分”が存在すれば、国家権力は国民に対して、秩序や法への従順や遵守に強権をもって強制する度合は格段に少なくて済むから、その分国民の自由への抑圧が大幅に減ることになる。 君主制の(あるいは君主制の遺制がある)国に自由社会が誕生したのは、君主のもつこの働きによる。 バジョットとほぼ同時代の、福澤諭吉はその『帝室論』(1882年)で、政治権力をソフトにする天皇の機能について、「万年の春」「甘きこと飴のごとし」と次のように述べている。 これこそ、自由の精華であろう。 「帝室(皇室)はひとり万年の春にして、人民これを仰げば悠然と和気を催ふすべし」「国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水のごとく、その情の薄きこと紙のごとくなりといえども、帝室(皇室)の恩徳はその甘きこと飴のごとくして、人民これを仰げばもつてそのいかりを解くべし」(※注8:福澤諭吉『帝室論』、『福澤諭吉全集』第5巻、岩波書店、265頁) さて、日本の問題は、今日、日本国民一人ひとりが皇室の尊貴性と聖性を守る“世襲の義務”を果しているかである。 また日本は憲法上の制度として、皇室の尊貴性と聖性を守る“制度”をつくっているかである。 いずれも否である。 例えば、東大法学部ですら、世界の古典であるバークの『フランス革命の省察』も、バジョットの『英国憲政(国体)論』も教えていない。 いや国会議員ですら読んでもいない。 君主制に関する日本国民の無教養は目を覆うレベルにある。 また、福澤の『帝室論』を読んでいない政治家も増えてきた。 さらに、日本では君主制論の入門書といえば、すぐ福澤諭吉の『帝室論』をあげる人が多いのに、そして岩波文庫はあれほど福澤の作品を出版しているのに、この『帝室論』のみ文庫に決してしない。 岩波書店は『帝室論』を焚書にしている、と非難しても過言ではないだろう。 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか (省略)
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<目次> 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.51以下 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族 第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎 ◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か (省略) ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 (省略) ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源 真に自由な社会とは、「君主制下のデモクラシーはどうあるべきか」を論じても、必ず「デモクラシー下の君主制はどうあるべきか」という転倒の思想を排除する。 なぜなら、君主制は保守し擁護すべき高級な憲法制度であるが、一方のデモクラシーは制限し抑制されるべき低級な政治制度の一つに過ぎない。 君主制は国民が生命にかけても積極的に守るべき「制度」だが、デモクラシーは消極的に容認されて存在が許される現実の政治に過ぎない。 この理由は明白であろう。 君主制は政治理念たる“美徳ある自由”の淵源の一つであるのに、デモクラシーは民衆(デモス)の要求する「平等」という、徳性を喪失した非道徳で反・自由な制度(クラシー)だからである。 こうも言ってよいだろう。 我々が空高く掲げるべき“自由”は価値であり、君主制こそはこの“自由”の芽を大樹に育てあげてくれる。 が、デモクラシーは、「平等」という土足で、この“自由”の畑を踏み荒らす。 現実にも、英国であれ日本であれ、君主のもつ尊厳と尊貴とが、国中に君主の威徳を満たして英国民や日本国民の“自由”に徳性を附与してきた。 “美徳ある自由”が、君主制と封建制度のある国に限定されて発展した理由の一つである。 が、一方のデモクラシーは(橋・道路を造ってくれ!、年金をもっと増やせ!・・・・・・の)下劣な欲望を背景とした投票に、政治家が議員になりたいばかりに屈服する政治制度である。 つまり、デモクラシーは民衆のそのような非道徳若しくは反道徳的な政治参加によって国中から美徳を破壊して、野卑を蔓延させる制度である。 この故に、君主制は憲法原理であるが、一方のデモクラシーは、「デモクラシーの暴走を抑制する(たがを嵌める)」ことのみが憲法原理となっても、デモクラシーそのものは反憲法となる。 米国は、君主制ではないが、その憲法を起草するとき、デモクラシーについてはこの通りに考え、「デモクラシーの制限」を憲法の柱の一つとした。 以上の事柄は、“自由”は憲法原理であるが、「平等」は「法の前の平等」を除いて反・憲法であるという、“自由”と「平等」の関係と酷似している。 つまり、君主制は憲法上の至高の制度であるが、デモクラシーは憲法とは無関係か、仮に憲法的に考慮するとすれば「デモクラシーを否定的に制限すること」のみが憲法原理となる。 このようなことは、「米国憲法の父」で米国を建国したアレグザンダ・ハミルトンや、ハミルトンと共にジョージ・ワシントンに仕えた初代副大統領(第二代大統領)ジョン・アダムズらにとっては常識であった。 米国憲法(起草1787年、施行1788年)が、「平等」を完全に拒絶し、デモクラシーを可能な限り抑制することを根本思想として制定された理由は、これで分かってもらえるだろう。 とくに、「建国の父たち」の絶対多数意見は、新生アメリカがアナーキーな政治状態に転落することを防ぐことと、古代ギリシャに始まりそれ以降の全てのデモクラシー国が政治を腐敗させ自壊的に亡国した歴史を繰り返してはいけないという反デモクラシーの思想に立脚すること、の二つで一致していた。 米国憲法が起草・制定されていくその間、当時のアメリカにも存在していたデモクラシー支持の少数派は、その巨頭トマス・ジェファーソンが、在仏公使としてパリに「追放」されていた。 アメリカにいなかったのである。 ジェファーソンは「アメリカ13邦の独立の父」の一人であるが、1789年3月に誕生した「米国の建国の父」ではない。 ◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 国民の“自由”は、デモクラシー(民衆政治参加制度)とは何の関係もない。 むしろ、デモクラシーは“自由”を侵害する危険をはらむ。 また“国民の自由”と表現しても、決して「人間の自由」と表現され得ないのは、“自由”はそれぞれの国家・民族に固有な“ナショナル(national)”なものだからである。 現実にも世界190ヶ国の各国でその“自由”は千差万別で、“自由”は人類に普遍的なものではない。 “自由”はあくまでもオリンピックの出場権と同じく、国家単位である。 今日のアフリカには、全体主義ではないのに、10歳ほどでゲリラに拉致されそのまま殺戮専門のゲリラになるのを強要される、人間として陰惨をきわめて全く自由がない国がかなりある。 “自由”は“自由”の伝統がない国では棲息できない。 “自由”とは、人間の知力や制度の移植で簡単に創造することの出来ないものである。 なぜなら“自由”とは、祖先から“相続”したものだからである。 そして、それをたまたま享受できた、ある特定の国の国民だけが、この“相続した自由”を育んでいる伝統的な諸「制度」を一生懸命に保守する義務を果したときだけ、この自由が満天の星空の如く光を放つ。 “自由”を擁護する伝統的な諸「制度」には主要なものが三つある。 ① 「世襲(相続)の原理」が機能していること、 ② 「法の支配」が守られていること、 ③ 「中間組織」が繁茂していること、 である。 世界の近代史を見ても、“自由”と不可分の関係にある、生命と財産が擁護されているのがヨーロッパ諸国と日本だけに限られていたのは、その双方のみが君主制と封建体制(貴族/武士階級)の二つの政治制度を共通に持っていたからであった。 君主制が主として①の「世襲の原理」を、封建体制が③の階級や家族という「中間組織」を、発達させたからであった。 ②の「法の支配」は、“古き良き法”と考え、“法”を神よりも王よりも上位にあるとし、いわんや議会での立法による「法律(legislation)」は、この“法という支配者に従う下僕の身分を弁(わきま)えよ”と考える中世ゲルマンの法思想が、近代ヨーロッパの中で一ヶ国だけ残っていた英国において発展した。 この「法の支配」は、17世紀のアメリカの英国人植民地人によって米国にも継承されていき、「法の支配」が米国の憲法原理として不動のものになった。 日本にも、この英国に発祥した「法の支配」に類似な思想が、英国の法思想的な表現ではないが、存在していた。 皇室(天皇)が連綿として守り続ける「祖宗の遺訓」がそれである。 明治憲法の告文は、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし・・・・・・」「皇祖皇宗の後裔に胎したまへる統治の洪範を紹述する・・・・・・」としているから、記録や記憶を超えての「皇祖皇宗の遺訓」こそが“法”で、憲法とはこの“法”を文字で以って条文とした最高の法律だと考えていることになる。 このためであろう、明治憲法には、英米的な「法の支配」が香水の香りのように爽やかに漂っている。 立法に当たって、この立法を道徳その他の上位の規範に従って拘束し無制限な立法を禁じる思想が存在しなければ、立法権力は必ず暴走する。 革命フランス、レーニンのソ連、ヒットラーのドイツでは立法に制限がないから、恣意的に大量殺人の法律が平然と立法され、この法律に従い行政と司法はあらん限りの悪を実行したのである。 ナチスの法治主義は、その法律の内容の是非を問わなかった。 レーニン、スターリンは自分たちを「人民の代表」という“無謬の神”と信じていたし、その個人的な単なる恣意は「神の法」だと狂信していた。 オウム真理教の教祖・麻原彰晃をスケール的に大きくしたものがレーニンやヒットラーであった。 日本は、偶然にも英国と似て、自由の三つの淵源 - ①「世襲の原理」、②「法の支配」、③「(階級などの)中間組織」 - を、成長させていたことになる。 日英の相違は、英国では主としてコークが②「法の支配」と“自由”の関係を、主としてバークが①「世襲の原理」③「中間組織」と“自由”の関係を明らかにしたのに、日本にはそのような理論的作業が全くなかったという点であろう。 ただ、明治憲法の起草者である井上毅の法思想には「旧慣」という概念(※注1:「旧慣の尊重」、坂井雄吉『井上毅と明治国家』、東京大学出版会、1983年、111~22頁)など、エドワード・コークやエドマンド・バークを思い起こさせるものがあるが、井上は例外的であった。 この①「世襲の原理」や②「法の支配」については、拙著『保守主義の哲学』のそれぞれ第三章/第二章において詳述している。 以下①「世襲の原理」について、少しばかり説明しておこう。 1688年の名誉革命によって英国はオランダよりウィリアム国王・メアリ女王を奉戴したとき、翌年サマーズ卿が起草した「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」(「権利章典(Bill of Rights)」)を制定したが、これを例として説明する。 この権利章典とは、「英国臣民の権利/自由」は「古来より相続した」「家産である」が故に、国王陛下に対してそれらを尊重して頂きたいと奏上する形式になっている。 フランス人権宣言のように、オレは人間だから人間の権利をもっているぞ!と、アフリカのジャングルで吼えている形式のものではない。 つまり、国民の享受する自由や諸権利は、 ① 英国の国王(女王)陛下の臣民であること、 ② 祖先から「家産として相続したこと」、 の二つを法的根拠にして国家より尊重されるものだとする論理である。 これが、マグナ・カルタ(1215年)から権利請願(1628年)を経て英国を貫く「世襲(相続)の権利」という憲法原理である。 バークの、次のような簡素な説明は、美事にその核心を表現している。 「われわれ(英国民)の自由を主張し要求するに当たって、それを、祖先から発してわれわれに至り、更には子孫にまで伝えられるべき限嗣相続財産とすること、またこの王国の民衆にだけ特別に帰属する財産として、何にせよそれ以外のより一般的権利(=人間の権利)や先行の権利(=自然権)などとは決して結びつけないこと、これこそマグナ・カルタに始まって権利章典に至るわが国体(=憲法)の不易の方針であった」(※注2:エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、43頁)(カッコ内中川)。 だから、この自由の権利の要求には、“臣民の義務”として国王への忠誠が発生するのである。 “臣民の義務を果さずして、自由なし”こそ永遠の真理である。 権利章典には、両陛下への忠誠の宣誓文まで明記されている。 「私、何某は、ウィリアム国王陛下およびメアリ女王陛下に、忠実であり、真実なる忠誠をつくすことを、誠意をもって約束し、宣誓します。神かけて」(※注3:『人権宣言集』、岩波文庫、84頁) 臣民が国王の王座(世襲)を守る、代りに国王は臣民の自由(世襲)を守る、という、このような自由擁護の構造は、名誉革命よりさらに450年以上も昔のマグナ・カルタを踏襲したのである。 マグナ・カルタは次のように定めていた。 「朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の臣民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に彼ら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申し付ける」(※注4:同右、53~4頁)(傍点中川) もう一度いおう。 “自由”とは、国王の王位が“世襲(相続)”であるが故に正統性をもつように、父祖から“世襲(相続)”したが故に国家権力から最大限に保障されるという原理である。 日本に当て嵌めれば、“世襲(相続)”である天皇に“世襲(相続)の義務”として忠誠を尽くすが故に、陛下の臣民である日本国民は“自由”を“世襲(相続)”として享受できる、というのである。 一言でいえば、天皇制廃止の運動をするものに対して自由は保障されない、保障しなくてもよいのである。 英国が共産主義者の団体を「非合法」としているのは、その憲法原理からも自明の、極めて正しい立法というべきだろう。 なお、ロックはその『統治論』で、この1688年の名誉革命を、「国民の信託と同意に基づく」などと、さも国民が良き国王に変更したかのような歴史の捏造をしている(※注5:ジョン・ロック『統治論』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、334~8頁) ヒュームは、この狡猾さ故にロックを侮蔑するし、その『道徳・政治・文芸論集』第Ⅲ巻(1748年)に収録されている論文の「原始契約について」で、ロックを非難している。 「名誉革命で・・・・・・変革されたのは王位継承だけであり、・・・・・・。しかも、1,000万人近い人民に対してこのような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」、と(※注6:ヒューム『原始契約について』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、542頁)。 英国には、国王の地位は“正統な継承”において正当化される、という思想しかない。 「国民が国王を選択する」などという、ロックのような発想は荒唐無稽にも度が過ぎる。 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 君主制擁護論として、18世紀のバークに続く影響ある著作は何と言ってもバークから約100年後のバジョット著『英国憲政(国体)論』(1867年)であろう。 バジョットはまず、国家の政治機構を三権分立ではなく、“威厳ある部分(the dignified parts)”と“機能する部分(the efficient parts)”からなるとし、この“威厳ある部分”が、とくにその演劇的要素が被治者大衆を動かし忠誠や信頼を獲得し、一方“機能する部分”はこれを利用して統治を行っていると考えた(※注7:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、「世界の名著」第72巻、中央公論社、71~2頁)。 つまり、「立憲君主制」こそ理想の統治が可能となる、強権を発動する抑圧を不要とする、正しい統治が体現し得るという。 また、国民を(ソフトな政治参加の前提たる)統治機構に関心をもたせ得る働きをするという。 この“威厳ある部分”が存在すれば、国家権力は国民に対して、秩序や法への従順や遵守に強権をもって強制する度合は格段に少なくて済むから、その分国民の自由への抑圧が大幅に減ることになる。 君主制の(あるいは君主制の遺制がある)国に自由社会が誕生したのは、君主のもつこの働きによる。 バジョットとほぼ同時代の、福澤諭吉はその『帝室論』(1882年)で、政治権力をソフトにする天皇の機能について、「万年の春」「甘きこと飴のごとし」と次のように述べている。 これこそ、自由の精華であろう。 「帝室(皇室)はひとり万年の春にして、人民これを仰げば悠然と和気を催ふすべし」「国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水のごとく、その情の薄きこと紙のごとくなりといえども、帝室(皇室)の恩徳はその甘きこと飴のごとくして、人民これを仰げばもつてそのいかりを解くべし」(※注8:福澤諭吉『帝室論』、『福澤諭吉全集』第5巻、岩波書店、265頁) さて、日本の問題は、今日、日本国民一人ひとりが皇室の尊貴性と聖性を守る“世襲の義務”を果しているかである。 また日本は憲法上の制度として、皇室の尊貴性と聖性を守る“制度”をつくっているかである。 いずれも否である。 例えば、東大法学部ですら、世界の古典であるバークの『フランス革命の省察』も、バジョットの『英国憲政(国体)論』も教えていない。 いや国会議員ですら読んでもいない。 君主制に関する日本国民の無教養は目を覆うレベルにある。 また、福澤の『帝室論』を読んでいない政治家も増えてきた。 さらに、日本では君主制論の入門書といえば、すぐ福澤諭吉の『帝室論』をあげる人が多いのに、そして岩波文庫はあれほど福澤の作品を出版しているのに、この『帝室論』のみ文庫に決してしない。 岩波書店は『帝室論』を焚書にしている、と非難しても過言ではないだろう。 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか (省略)
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<目次> 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.51以下 第ニ部 「国民の憲法」の絶対三条件 - 皇室、国防軍、家族 第一章 「世襲の共同体」日本の皇統 - 天皇への敬愛は悠久の日本の礎 ◆第一節 「女系の天皇」か、旧11宮家の皇族復帰か (省略) ◆第ニ節 「開かれた皇室」論 - 生きているコミンテルン「32年テーゼ」 (省略) ◆第三節 皇位の世襲こそ、「国民の自由」の淵源 真に自由な社会とは、「君主制下のデモクラシーはどうあるべきか」を論じても、必ず「デモクラシー下の君主制はどうあるべきか」という転倒の思想を排除する。 なぜなら、君主制は保守し擁護すべき高級な憲法制度であるが、一方のデモクラシーは制限し抑制されるべき低級な政治制度の一つに過ぎない。 君主制は国民が生命にかけても積極的に守るべき「制度」だが、デモクラシーは消極的に容認されて存在が許される現実の政治に過ぎない。 この理由は明白であろう。 君主制は政治理念たる“美徳ある自由”の淵源の一つであるのに、デモクラシーは民衆(デモス)の要求する「平等」という、徳性を喪失した非道徳で反・自由な制度(クラシー)だからである。 こうも言ってよいだろう。 我々が空高く掲げるべき“自由”は価値であり、君主制こそはこの“自由”の芽を大樹に育てあげてくれる。 が、デモクラシーは、「平等」という土足で、この“自由”の畑を踏み荒らす。 現実にも、英国であれ日本であれ、君主のもつ尊厳と尊貴とが、国中に君主の威徳を満たして英国民や日本国民の“自由”に徳性を附与してきた。 “美徳ある自由”が、君主制と封建制度のある国に限定されて発展した理由の一つである。 が、一方のデモクラシーは(橋・道路を造ってくれ!、年金をもっと増やせ!・・・・・・の)下劣な欲望を背景とした投票に、政治家が議員になりたいばかりに屈服する政治制度である。 つまり、デモクラシーは民衆のそのような非道徳若しくは反道徳的な政治参加によって国中から美徳を破壊して、野卑を蔓延させる制度である。 この故に、君主制は憲法原理であるが、一方のデモクラシーは、「デモクラシーの暴走を抑制する(たがを嵌める)」ことのみが憲法原理となっても、デモクラシーそのものは反憲法となる。 米国は、君主制ではないが、その憲法を起草するとき、デモクラシーについてはこの通りに考え、「デモクラシーの制限」を憲法の柱の一つとした。 以上の事柄は、“自由”は憲法原理であるが、「平等」は「法の前の平等」を除いて反・憲法であるという、“自由”と「平等」の関係と酷似している。 つまり、君主制は憲法上の至高の制度であるが、デモクラシーは憲法とは無関係か、仮に憲法的に考慮するとすれば「デモクラシーを否定的に制限すること」のみが憲法原理となる。 このようなことは、「米国憲法の父」で米国を建国したアレグザンダ・ハミルトンや、ハミルトンと共にジョージ・ワシントンに仕えた初代副大統領(第二代大統領)ジョン・アダムズらにとっては常識であった。 米国憲法(起草1787年、施行1788年)が、「平等」を完全に拒絶し、デモクラシーを可能な限り抑制することを根本思想として制定された理由は、これで分かってもらえるだろう。 とくに、「建国の父たち」の絶対多数意見は、新生アメリカがアナーキーな政治状態に転落することを防ぐことと、古代ギリシャに始まりそれ以降の全てのデモクラシー国が政治を腐敗させ自壊的に亡国した歴史を繰り返してはいけないという反デモクラシーの思想に立脚すること、の二つで一致していた。 米国憲法が起草・制定されていくその間、当時のアメリカにも存在していたデモクラシー支持の少数派は、その巨頭トマス・ジェファーソンが、在仏公使としてパリに「追放」されていた。 アメリカにいなかったのである。 ジェファーソンは「アメリカ13邦の独立の父」の一人であるが、1789年3月に誕生した「米国の建国の父」ではない。 ◇一 イギリスの「権利章典」 - 憲法原理の神髄 国民の“自由”は、デモクラシー(民衆政治参加制度)とは何の関係もない。 むしろ、デモクラシーは“自由”を侵害する危険をはらむ。 また“国民の自由”と表現しても、決して「人間の自由」と表現され得ないのは、“自由”はそれぞれの国家・民族に固有な“ナショナル(national)”なものだからである。 現実にも世界190ヶ国の各国でその“自由”は千差万別で、“自由”は人類に普遍的なものではない。 “自由”はあくまでもオリンピックの出場権と同じく、国家単位である。 今日のアフリカには、全体主義ではないのに、10歳ほどでゲリラに拉致されそのまま殺戮専門のゲリラになるのを強要される、人間として陰惨をきわめて全く自由がない国がかなりある。 “自由”は“自由”の伝統がない国では棲息できない。 “自由”とは、人間の知力や制度の移植で簡単に創造することの出来ないものである。 なぜなら“自由”とは、祖先から“相続”したものだからである。 そして、それをたまたま享受できた、ある特定の国の国民だけが、この“相続した自由”を育んでいる伝統的な諸「制度」を一生懸命に保守する義務を果したときだけ、この自由が満天の星空の如く光を放つ。 “自由”を擁護する伝統的な諸「制度」には主要なものが三つある。 ① 「世襲(相続)の原理」が機能していること、 ② 「法の支配」が守られていること、 ③ 「中間組織」が繁茂していること、 である。 世界の近代史を見ても、“自由”と不可分の関係にある、生命と財産が擁護されているのがヨーロッパ諸国と日本だけに限られていたのは、その双方のみが君主制と封建体制(貴族/武士階級)の二つの政治制度を共通に持っていたからであった。 君主制が主として①の「世襲の原理」を、封建体制が③の階級や家族という「中間組織」を、発達させたからであった。 ②の「法の支配」は、“古き良き法”と考え、“法”を神よりも王よりも上位にあるとし、いわんや議会での立法による「法律(legislation)」は、この“法という支配者に従う下僕の身分を弁(わきま)えよ”と考える中世ゲルマンの法思想が、近代ヨーロッパの中で一ヶ国だけ残っていた英国において発展した。 この「法の支配」は、17世紀のアメリカの英国人植民地人によって米国にも継承されていき、「法の支配」が米国の憲法原理として不動のものになった。 日本にも、この英国に発祥した「法の支配」に類似な思想が、英国の法思想的な表現ではないが、存在していた。 皇室(天皇)が連綿として守り続ける「祖宗の遺訓」がそれである。 明治憲法の告文は、「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし・・・・・・」「皇祖皇宗の後裔に胎したまへる統治の洪範を紹述する・・・・・・」としているから、記録や記憶を超えての「皇祖皇宗の遺訓」こそが“法”で、憲法とはこの“法”を文字で以って条文とした最高の法律だと考えていることになる。 このためであろう、明治憲法には、英米的な「法の支配」が香水の香りのように爽やかに漂っている。 立法に当たって、この立法を道徳その他の上位の規範に従って拘束し無制限な立法を禁じる思想が存在しなければ、立法権力は必ず暴走する。 革命フランス、レーニンのソ連、ヒットラーのドイツでは立法に制限がないから、恣意的に大量殺人の法律が平然と立法され、この法律に従い行政と司法はあらん限りの悪を実行したのである。 ナチスの法治主義は、その法律の内容の是非を問わなかった。 レーニン、スターリンは自分たちを「人民の代表」という“無謬の神”と信じていたし、その個人的な単なる恣意は「神の法」だと狂信していた。 オウム真理教の教祖・麻原彰晃をスケール的に大きくしたものがレーニンやヒットラーであった。 日本は、偶然にも英国と似て、自由の三つの淵源 - ①「世襲の原理」、②「法の支配」、③「(階級などの)中間組織」 - を、成長させていたことになる。 日英の相違は、英国では主としてコークが②「法の支配」と“自由”の関係を、主としてバークが①「世襲の原理」③「中間組織」と“自由”の関係を明らかにしたのに、日本にはそのような理論的作業が全くなかったという点であろう。 ただ、明治憲法の起草者である井上毅の法思想には「旧慣」という概念(※注1:「旧慣の尊重」、坂井雄吉『井上毅と明治国家』、東京大学出版会、1983年、111~22頁)など、エドワード・コークやエドマンド・バークを思い起こさせるものがあるが、井上は例外的であった。 この①「世襲の原理」や②「法の支配」については、拙著『保守主義の哲学』のそれぞれ第三章/第二章において詳述している。 以下①「世襲の原理」について、少しばかり説明しておこう。 1688年の名誉革命によって英国はオランダよりウィリアム国王・メアリ女王を奉戴したとき、翌年サマーズ卿が起草した「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」(「権利章典(Bill of Rights)」)を制定したが、これを例として説明する。 この権利章典とは、「英国臣民の権利/自由」は「古来より相続した」「家産である」が故に、国王陛下に対してそれらを尊重して頂きたいと奏上する形式になっている。 フランス人権宣言のように、オレは人間だから人間の権利をもっているぞ!と、アフリカのジャングルで吼えている形式のものではない。 つまり、国民の享受する自由や諸権利は、 ① 英国の国王(女王)陛下の臣民であること、 ② 祖先から「家産として相続したこと」、 の二つを法的根拠にして国家より尊重されるものだとする論理である。 これが、マグナ・カルタ(1215年)から権利請願(1628年)を経て英国を貫く「世襲(相続)の権利」という憲法原理である。 バークの、次のような簡素な説明は、美事にその核心を表現している。 「われわれ(英国民)の自由を主張し要求するに当たって、それを、祖先から発してわれわれに至り、更には子孫にまで伝えられるべき限嗣相続財産とすること、またこの王国の民衆にだけ特別に帰属する財産として、何にせよそれ以外のより一般的権利(=人間の権利)や先行の権利(=自然権)などとは決して結びつけないこと、これこそマグナ・カルタに始まって権利章典に至るわが国体(=憲法)の不易の方針であった」(※注2:エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、43頁)(カッコ内中川)。 だから、この自由の権利の要求には、“臣民の義務”として国王への忠誠が発生するのである。 “臣民の義務を果さずして、自由なし”こそ永遠の真理である。 権利章典には、両陛下への忠誠の宣誓文まで明記されている。 「私、何某は、ウィリアム国王陛下およびメアリ女王陛下に、忠実であり、真実なる忠誠をつくすことを、誠意をもって約束し、宣誓します。神かけて」(※注3:『人権宣言集』、岩波文庫、84頁) 臣民が国王の王座(世襲)を守る、代りに国王は臣民の自由(世襲)を守る、という、このような自由擁護の構造は、名誉革命よりさらに450年以上も昔のマグナ・カルタを踏襲したのである。 マグナ・カルタは次のように定めていた。 「朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の臣民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平穏に、かつ完全に彼ら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申し付ける」(※注4:同右、53~4頁)(傍点中川) もう一度いおう。 “自由”とは、国王の王位が“世襲(相続)”であるが故に正統性をもつように、父祖から“世襲(相続)”したが故に国家権力から最大限に保障されるという原理である。 日本に当て嵌めれば、“世襲(相続)”である天皇に“世襲(相続)の義務”として忠誠を尽くすが故に、陛下の臣民である日本国民は“自由”を“世襲(相続)”として享受できる、というのである。 一言でいえば、天皇制廃止の運動をするものに対して自由は保障されない、保障しなくてもよいのである。 英国が共産主義者の団体を「非合法」としているのは、その憲法原理からも自明の、極めて正しい立法というべきだろう。 なお、ロックはその『統治論』で、この1688年の名誉革命を、「国民の信託と同意に基づく」などと、さも国民が良き国王に変更したかのような歴史の捏造をしている(※注5:ジョン・ロック『統治論』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、334~8頁) ヒュームは、この狡猾さ故にロックを侮蔑するし、その『道徳・政治・文芸論集』第Ⅲ巻(1748年)に収録されている論文の「原始契約について」で、ロックを非難している。 「名誉革命で・・・・・・変革されたのは王位継承だけであり、・・・・・・。しかも、1,000万人近い人民に対してこのような変革を決定したのは、多数といってもたった700人に過ぎなかった」、と(※注6:ヒューム『原始契約について』、「世界の名著」第32巻、中央公論社、542頁)。 英国には、国王の地位は“正統な継承”において正当化される、という思想しかない。 「国民が国王を選択する」などという、ロックのような発想は荒唐無稽にも度が過ぎる。 ◇ニ ウォルター・バジョットの『英国憲政論』と福沢諭吉の『帝室論』 君主制擁護論として、18世紀のバークに続く影響ある著作は何と言ってもバークから約100年後のバジョット著『英国憲政(国体)論』(1867年)であろう。 バジョットはまず、国家の政治機構を三権分立ではなく、“威厳ある部分(the dignified parts)”と“機能する部分(the efficient parts)”からなるとし、この“威厳ある部分”が、とくにその演劇的要素が被治者大衆を動かし忠誠や信頼を獲得し、一方“機能する部分”はこれを利用して統治を行っていると考えた(※注7:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、「世界の名著」第72巻、中央公論社、71~2頁)。 つまり、「立憲君主制」こそ理想の統治が可能となる、強権を発動する抑圧を不要とする、正しい統治が体現し得るという。 また、国民を(ソフトな政治参加の前提たる)統治機構に関心をもたせ得る働きをするという。 この“威厳ある部分”が存在すれば、国家権力は国民に対して、秩序や法への従順や遵守に強権をもって強制する度合は格段に少なくて済むから、その分国民の自由への抑圧が大幅に減ることになる。 君主制の(あるいは君主制の遺制がある)国に自由社会が誕生したのは、君主のもつこの働きによる。 バジョットとほぼ同時代の、福澤諭吉はその『帝室論』(1882年)で、政治権力をソフトにする天皇の機能について、「万年の春」「甘きこと飴のごとし」と次のように述べている。 これこそ、自由の精華であろう。 「帝室(皇室)はひとり万年の春にして、人民これを仰げば悠然と和気を催ふすべし」「国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水のごとく、その情の薄きこと紙のごとくなりといえども、帝室(皇室)の恩徳はその甘きこと飴のごとくして、人民これを仰げばもつてそのいかりを解くべし」(※注8:福澤諭吉『帝室論』、『福澤諭吉全集』第5巻、岩波書店、265頁) さて、日本の問題は、今日、日本国民一人ひとりが皇室の尊貴性と聖性を守る“世襲の義務”を果しているかである。 また日本は憲法上の制度として、皇室の尊貴性と聖性を守る“制度”をつくっているかである。 いずれも否である。 例えば、東大法学部ですら、世界の古典であるバークの『フランス革命の省察』も、バジョットの『英国憲政(国体)論』も教えていない。 いや国会議員ですら読んでもいない。 君主制に関する日本国民の無教養は目を覆うレベルにある。 また、福澤の『帝室論』を読んでいない政治家も増えてきた。 さらに、日本では君主制論の入門書といえば、すぐ福澤諭吉の『帝室論』をあげる人が多いのに、そして岩波文庫はあれほど福澤の作品を出版しているのに、この『帝室論』のみ文庫に決してしない。 岩波書店は『帝室論』を焚書にしている、と非難しても過言ではないだろう。 ◆第四節 皇室の藩屏をどう再建するか (省略)
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737 :YVH:2012/02/25(土) 22 10 08 帝国政府が内外で活発に動き出した頃、新無憂宮の一角では日本に行く事を表明した皇帝フリードリヒ四世の 今後の処遇に付いての話し合いが持たれた。 参加者は当の本人、フリードリヒ四世、譲位宣言後に摂政皇太子となったルードヴィッヒ大公 四公爵たち、国務尚書リヒテンラーデ侯、財務尚書代理ゲルラッハ子爵、宮内尚書ノイケルン伯爵 典礼尚書アイゼンフート伯爵(と補佐役の次官スピエルドルフ男爵)。 すでに皇帝からは、退位後にジッキンゲン=ゴールデンバウム大公を名乗る事が内示されてはいるが この称号を一時的なものにするか、世襲の大公家として遇するかが問題となった。 過去の歴史において、今回の事例に一番近いのはグスタフ帝から異母弟マクシミリアン=ヨーゼフへの譲位ではあったが こちらは、譲位後間もなくグスタフ帝が崩御した為、後の処遇は考慮される事は無かった。 だが、今回は健常な状態での譲位であり且つ、相手国との折衝、および駐在大使にまで役目が波及する事も考えられ 一時的な地位とすると、任免問題が度々発生すると考えられる等、問題(主に格式上の)もある為に、この話し合いは持たれた。 議論は色々と出たが、リヒテンラーデ侯がフェザーンに居るレムシャイド伯爵経由で手に入れた日本に関する資料の中から 参考になりそうな事例を紹介した。 それは地球時代、日本がエドジダイと言われていた時期に、ある特定に寺院に時のミカドの近親者をお迎えしていたという物であった。 僧侶という概念は帝国では絶えて久しかった為、問題にはされなかったが、形態的にまるで人質みたいではないかという意見が 一部から出たが、万が一の時の血統保持には有用ではないかという四公爵からの意見で存続させる方向で話は進められた。 相続に付いては、帝位継承権は一応は保持するが、基本的には世襲の駐在大使として遇し、フリードリヒ四世に子が生まれれば 基本的にはその系統をもって代々受け継がせる。もし、系統が絶えた場合は時の皇帝の皇子の一人を養子として送り込む。 帝国内の地位的には大公家は四公爵家の上座とされた。 領地に付いては、旧ジッキンゲン男爵領を大公領として宛がう事とした。 これは四公爵家との兼ね合いで、地位的には上だが経済的には四公爵家の下位とすることで、バランスをとったとも言える。 738 :YVH:2012/02/25(土) 22 10 44 皇帝フリードリヒ四世の処遇が決まった後、政府要人は日本に追い着くには、如何すれば良いかが話し合われた。 いくつか意見が挙がったが、どれも言葉は違えど、言っている事は現状の改革しかないと言う意見が大半を占めた。 ここでルードヴィッヒ大公から、リヒテンラーデ侯に対し、こんな発言があった。 「爺。日本の故事の中に、何かよい物は無いのか?」 その言葉に国務尚書は手元の資料を覗こうとした。そんな時、秘書官のワイツが硬い表情で入室してきて 侯になにやら耳打ちした後、退室して行った。 「如何したのですかな閣下?お顔の色が優れませぬが・・・」 秘書官の報告を聞いてから顔色の悪くなった侯を心配して、ゲルラッハ子爵が声をかけた。 そんな腹心の言葉に侯は‘安ずるな‘と手で示し、列席者に向かって硬い声で秘書官からの 報告内容を話し始めた。 「・・・軍務省からの緊急報告ですじゃ。正面のスクリーンを」 そう言って侯は手元の端末を操作し、軍務省からの報告をスクリーンに映し出した。 軍務省からの報告は、大日本帝国の新規建艦計画に関するもので、その凡その概要とそれに付いての 四元帥の見解で構成されていた。 そこに記されていた各艦の大きさたるや、悉くがイゼルローン級かそれ以上、 クラーゼン元帥から報告のあった「長門級」「伊勢級」は戦艦ですらなく、種別的には「戦闘艦」。 正式には長門級戦艦改め「坂東級戦闘艦」、伊勢級戦艦改め「星風級戦闘艦」・・・ 大日本帝国との接触後、関係各所との連絡を取り易くする為と称して、政治区画の南苑は軍事施設を参考に 通信設備等が改修されており、上記の報告が軍務省からダイレクトに伝えられるようになった。 『・・・以上の事と先の「サジタリアス回廊会戦」の件を鑑みまして、真に遺憾ではありますが 我が軍の対処能力を超えているという結論に達しざろうえませぬ』 概要の説明が終わった後、四人を代表して軍務尚書が見解を述べて報告は終わった。 「・・・やれやれ・・・なんと言う常識外れの国か・・ あの阿呆め、危うく帝国を・・・」 報告を聞き終わって、ブラウンシュヴァイク公が呟いた。もっとも、最後までは外聞があるので言わなかったが・・・ その後も会議は続き、一応、以下の事が決まった。 一:政治機構を、大日本帝国を参考にして改編する。 二:諸侯のうち、財政的に行き詰まっている者を中心に領地を買い上げて、年金貴族化する。 三:妻子は帝都住まいとし、無役諸侯は隔年で帝都と領地を往復させる。 最終的に一を取りあえずの完成形とし、当面は二と三の完遂を目指す。 「・・・前途は遠いな・・・反対も多かろうて・・・」 条項を見ながら、リッテンハイム侯が呟いた。 「なに、そ奴らには贄になって貰うまでよ」 侯の呟きが聞こえたのか、ルドルフィン公が嘯いた。 「帝国の養分になるのじゃ。貴族として誉れであろうよ・・・ ・・差し詰め反対しそうな大物は、カストロプ公、ドリンゲン侯、ミッターハウス伯 辺りかのう・・・くっくっく・・」 数人の諸侯の名を上げ、暗く哂うルドルフィン公。 「しかし、叔父上。それらを一々潰していては面倒では?」 ノイエ=ザーリアー公が疑問を叔父に呈する。 「ヨーゼフの疑問は尤もじゃ。じゃが、先の改革案が実行されれば、 勝手に徒党を組んで騒ぎ出すわ。そこを討てば良い」 叔父の返答に首肯するノイエ=ザーリアー公。 こうして、会議は続いていった。 【あとがき】 難産でした・・・orz