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政治改革・経済改革の挫折 ロッキード事件と三木おろし 76年選挙と福田内閣の誕生 福田内閣の事績 大福戦争 79年総選挙 40日間抗争 連合政権構想 大平の死と衆参同日選挙 コメント 政治改革・経済改革の挫折 74年12月9日発足した三木内閣は、典型的な派閥均衡内閣となった。福田は副総理兼経企庁長官、大平は蔵相。中曽根は幹事長となった。わずかに三木らしさを覗かせたのは、民間からの永井文相の登用であった。 三木は、金権政治打破のために総裁選挙改革・政治資金規正法改正・公職選挙法改正を、また狂乱物価に現われた大企業の横暴を抑制するために独占禁止法の抜本的改正を、政権発足当初の課題とした。 しかし、政治改革の方は党内の抵抗によってかなり骨抜きになってようやく成立、独禁法の方は、野党との修正合意までこぎ着けながら参院で審議未了、廃案となった。 三木は、改革に対する党内の抵抗を和らげ政権を維持するため、党内のタカ派との宥和策も図った。独禁法の再提出を諦めた。現職首相としてはじめて8月15日に靖国神社に参拝した。また、一時は賛成に傾いていた三公社五現業へのスト権付与を拒絶した。 また、三木政権時代に財政の重大な転換が行われた。75年12月の財政特例法の成立で、これまで禁止されてきた赤字国債の発行が解禁されたのだ。すでにその年の秋に、首相は物価抑制から景気浮揚へ経済政策の転換を表明していたが、そのために赤字国債の発行が必要となったのである。 ロッキード事件と三木おろし 76年2月4日、外電が、ロッキード社副社長コーチャンの米上院外交委員会多国籍企業小委員会での証言を報じた。ロッキード社の日本に対する航空機売り込みのための口利き料が、右翼大物児玉誉士夫と日本での同社の代理店丸紅に渡り、それぞれ小佐野賢治国際興業社主と日本政府関係者に支払われたというのである。 三木は、早速議会で真相究明の決意を表明し、アメリカ政府に、高官名を含む一切の資料の提供を要請した。 6月、丸紅と全日空の最高幹部が相次いで逮捕された。そして7月27日、田中前首相が5億円の収賄容疑で逮捕された。 この間、恐慌を来した自民党政治家の意を受け椎名副総裁は三木の退陣に動き、大平・福田はそれに同調した。さらに田中逮捕後は、田中・大平・福田の三派連合が「三木おろし」で一致、党両院議員の三分の二以上を集めた「挙党態勢確立協議会」が三木に退陣を迫った。 世論の援護を受けて三木は粘り、党は分裂状態のまま、12月、任期満了による衆院の総選挙に突入した。 76年選挙と福田内閣の誕生 12月5日投票の総選挙は、やはり自民党の敗北であった。自民党は260から249に議席を減らし、結党以来はじめて過半数を割った(のち、無所属候補を加えて過半数を確保)。自民党から分かれた新自由クラブが解散前6議席から17議席に。社会、公明、民社もそれぞれ議席を伸ばした(ただし衆院定数も20議席増の511になっていた) 三木は敗北の責任をとって退陣した。 すでに反三木派の間で「福田一本化」の話はまとまっていた。福田と大平は、2年後に大平に譲る、という「大福密約」を結んでいた。 12月24日、衆参とも1票差というきわどさで、福田が首班指名を受けた。大平幹事長も密約で決まっていた。 福田内閣の事績 党改革に執念を燃やしす三木を追い落とした自民党議員にも、参院選を控え、党改革なくしては自滅の道をたどるという認識はあった。福田総裁就任早々、自民党大会は、派閥の解消、総裁公選制の導入を決定した。 77年7月の参院選は、自民党の辛勝で、かろうじて与野党逆転は阻止された。 「経済の福田」を自認した福田であったが、77年に不況入りした日本経済は、数度の経済対策にもかかわらず、福田の任期中に浮揚することはなく、三木時代に始まった赤字国債への依存を続けざるを得なかった。 福田政権は、78年8月、懸案であった日中平和友好条約の締結にこぎ着けることができた。 72年の田中内閣による国交回復後も、日本の政界では親台湾派を力が強く、また、反ソを意味する「覇権反対」に中国が同意を求めていることが障害となっていた。調印された条約では、「覇権反対」は明記されたが、「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」との文言が加えられた。 78年7月、統幕議長・栗栖弘臣が記者会見で「緊急時の法律のないわが国では、有事の際、自衛隊が超法規的に行動することもありえる」と述べたことで、伯仲国会は大騒ぎとなった。金丸防衛庁長官は、文民統制を破るものとして栗栖を解任し矛先を避けたが、福田は有事立法についての研究を防衛庁に指示した。 大福戦争 大平は密約通り福田の禅譲を待ったが、福田は言を左右にして譲らなかった。 78年末の自民党総裁選では、党員・党友全員の投票による予備選挙がはじめて導入された。「あなたの一票で総理大臣を」という宣伝文句で、党員がかき集められ、その数は党員150万人、党友は17万人と、それまでの三倍にふくれあがった。しかし、この党員たちの大部分が、各議員の後援者や後援企業の従業員たちで、結局、党員は派閥に系列化することになった。 立候補したのは、福田、大平、中曽根、河本の4人。実質は大福の争いであった。党員集めを積極的に行った田中派が推す大平が、福田有利の大方の予想を覆して予備選で圧勝した。福田は、「天の声にも変な声もある」という言葉を残して、本選挙を待たずに辞任した。 78年12月に発足した大平内閣は、田中派の影響が強かったため「角影内閣」といわれた。 大平内閣は、発足後、いきなり、ダグラス・グラマン疑惑に揺れた。自衛隊の早期警戒機E2Cの売り込みで日商岩井と政治家に不正があったという事件である。松野頼三元防衛庁長官が5億円を政治献金として受け取ったが、機種選定には無関係であるとして不起訴となり、ほかの政治家にも累は及ばなかった。 79年総選挙 79年4月、東京都知事選で自公民推薦の鈴木俊一が社共の太田薫を破って、12年間の革新都政に終止符を打ち、大阪府知事選では自社公民推薦の岸昌が共産推薦の現職・黒田了一を破った。 意気上がる自民党は、与野伯仲状態から抜け出すために、解散総選挙に打って出た(投票日10月7日)。ところが、期待に反して結果は自民党の前回につづく大敗で、選挙後無所属の10人を入党させてようやく過半数を確保することになった。大平首相は公約として掲げた「財政再建=一般消費税導入」を選挙途中から否定し、それが有権者の不信を買ったのである。 しかし、深刻なのはむしろ社会党であった。 社会党内では76年2月に江田副委員長が公明党書記長・矢野じゅんや、民社党書記長・佐々木良作と「新しい日本の会」をつくり、社公民連合の足場がためをはじめた。社会党内左派の社会主義協会などがこれに反発、77年2月の党大会では江田を解任した。江田は離党したが、党内の左右対立は収まらず、続いて田英夫らが離党した。成田委員長・石橋書記長は参院選敗北の責任をとって辞任、次の党大会では、ついに隠れたエース、横浜市長の飛鳥田一雄を口説いて委員長に据えて、崖っぷちの再起を期してこの選挙に臨んだのであった。しかし、社会党は、124議席から17減の107議席であった。 公明・民社は選挙協力で議席を伸ばし、共産は消費税批判で、議席を17から39に伸ばす大躍進であった。また、江田(離党後急死した)の残した社会市民連合が2議席を得た。ブームの去った新自由クラブは4議席に縮んでしまった。 40日間抗争 福田・三木・中曽根の三派は、選挙敗北を責任を問うて大平に退陣を迫ったが、大平は受け付けなかった。田中が強力に大平をバックアップしていた。特別国会での首班指名に、反主流三派は福田を推すことを決め、党執行部が開こうとする議員総会の会場を占拠した。そこに主流派の浜田幸一が殴り込みをかけバリケードを蹴散らし、主流派だけで総会を開き、大平を首相候補に選出。自民党は分裂したまま衆院本会議になだれ込んだ。決選投票では、大平138票で福田125票を下し、首相に選ばれた。野党各党は自党の党首に票を投じた。 大平は人事権を使ってこの抗争を収拾した。幹事長に中曽根派の桜内、政調会長に福田派の安倍を一本釣りして反主流派を浮き足立たせたのだ。結局、大平・田中・福田派から各4名、中曽根派3名、三木派2名という派閥均衡の第2次大平内閣ができあがった。 連合政権構想 79年の総選挙で自信を深めた公明党と民社党は、同年12月、「中道連合政権構想」の合意に達した。一方、選挙に破れた社会党も公明党とのあいだで政権協議を進めたが、「全野党共闘」すなわち共産党を含めた野党の共闘路線を捨てることを公明党に迫られた、ついに翌80年1月、共産党を排除する形の「社公連合政権構想」に合意した。公明党を扇の要にして、三党は国会対策で共闘し、次の参議院選挙での選挙協力協議を進めていった。 大平の死と衆参同日選挙 40日抗争後も自民党反主流派は党執行部と対立したままだった。そこに、社会党が、臨時国会の会期延長問題から内閣不信任案を持ち出した。反主流派議員の大量欠席によって、不信任案は、社会党もまさかの成立。大平はただちに衆院を解散した。初の衆参同日選挙となった。主流・反主流は、選挙休戦して自民党として戦うことになった。対する野党は、社公・公民のブリッジ共闘であった。 5月30日参議院選公示の日、大平が狭心症で入院、12日に死去した。自民党は「弔い合戦」と意気上がったが、野党は、他党批判をエスカレートさせ、連合構想の実現至難を思わせた。 結果は、自民党の圧勝であった。有権者の大平への同情票であったのか、投票率が大幅に上がった分は自民の得票増に回り、衆院では前回より36議席増の284議席。社会党は前回と同じ107議席で、公明党は24議席減の33、民社党は3議席減の32、共産党は10議席減の29であった。 参考文献 升味準之輔 日本政治史4 占領政策、自民党支配 【超われわれ史】 目次へ コメント 名前 コメント ↑ご自由にコメントをお書き下さい。
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人物 田中角栄〔Wikipedia〕 田中角栄の真実〔Youtube〕 【書籍】田中角栄データ集《復刻》 「DATA HOUSE」より 「自由民主党なんて潰れたって構わない。日本が潰れなければいいんだ。」これだけのことをこれだけの気迫を持って言える政治家がいたことを胸に刻んで行動したい。 今年も「田中角栄研究会」を続けます。 https //t.co/mVYpJiXujl — 原口 一博 (@kharaguchi) January 9, 2024 【昭和天皇】 ■ 『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』を推す(1/3) 「新・心に青雲(2012.4.4)」より ・{「田中角栄をどうしても逮捕して欲しい。彼は私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ。」 この発言は昭和天皇であった。} 田中角栄が首相を辞任して、これからロッキード事件が本格化する前、昭和天皇は三木武夫首相を呼びつけてこう言ったのだ。 三木武夫は「どうすればいいでしょうか」と天皇に尋ねると、天皇は「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」と答えた。 こうして角栄を失脚させるためにロッキード事件が起こされるのである。(ただし高橋五郎氏は、田中角栄が天皇のいわゆる「M資金」、アジア各地から略奪してきた金・銀、財宝に手を出したから、天皇がロッキード事件を仕掛けたと『天皇の金塊』で書いている。) このエピソードは鬼塚英昭氏の新著『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(成甲書房)にあったものだ。つまり、ロッキード事件はヒロヒトが角栄を追い落とすために仕掛けたのである。 ※ ■ 田中角栄は無実。アメリカに依存しない自主外交で資源ルート開発に奔走し国益を追求し、成果を上げていった。→アメリカ激怒でロッキード事件捏造。 「ふじふじのフィルター(2012.2.28)」より ・田中角栄は、アメリカに依存しない国益を追求した自主外交を目指し、資源ルート開発に奔走する。そして、成果を上げていった。日本を属国として依存させて意のままに操ろうとしていたアメリカは田中の自主的外交に激怒し、失脚させようとロッキード事件を捏造する。このアメリカの陰謀には、三木武夫首相(当時)と省庁が加担した。 しかし、田中角栄は、首相を退いても裏で実権を握っていた。田中を追い詰めるために、アメリカは仲間の竹下昇を拷問にかけて裏切らせたものと思われる。仲間の裏切りが決定的なものとなり、田中角栄は失意のうちに亡くなることになる。 ※ ■ 田中角栄の遺言 「世界平和への旅(2012.2.25)」より ・戦後、田中角栄だけが唯一のデモクラシー政治家だった。立憲政治の必要条件は、議会のおける討論を通じて国策が決定され、議会によって法律が作られることだ。議会政治とは、代議士が自分の独立した意志で国民の欲することを自由に発言することだ。226事件以来息を潜めてしまった日本の議会政治を、田中角栄が復活させようとした。 ・田中角栄は33の議員立法を行った。日本では役人が作る政府立法がほとんどなのに、田中角栄は役人を自由自在に操り、議員立法を積極的に行った。新たな法律ができると、役人にとっては権限の拡大になるので、政治家が大方針を示してくれれば、役人は喜んで法律を作る。意思決定と責任は政治家、細かな知識と実務は役人、という役割分担を田中角栄は実行し、外交面でも日中国交回復という離れ業をやってのけた。 ※ ■ 孫崎享氏による田中角栄の失脚に関するまとめ 「togetter by kakki330」より (※ ばらばらなツイートを繋げ、行変え編集。) 田中角栄元首相はロッキード事件で政治的に葬られました。今、戦後史を見直している中、小沢裁判とロッキード事件は類似しています.何か (1)米国が特定政治家を好ましくないと判断する、 (2)その時、検察がこの特定政治家を政治的抹殺のために裁判を利用する (3)司法に持ち込む過程で、過去採用されなかった異常な訴追手法を採用する、 (4)マスコミが訴追を全面的に正しいという世論を構成するです。 田中排除を少し見たいと思います。先ず、中曽根康弘(元首相)の『大地有情』の記述を見ます。「司法処理も法治国家という点からみて疑問が残る裁判でした」「ロッキード問題に、幾つかの疑問を持つ。米国証券取引委員会から会計事務所に書類が議会に誤送されそれで公聴会に。そんなバカなことがあるかと思いましたよ。これは誰かの政略だなと、まず感じましたね。」「最高裁が違法と批判される行為を認めた。コーチャンの尋問で免責付与は日本の刑事訴訟法にはない。 弁護士を立ち会わせ、反対尋問をさせなかった。時代の空気に、つまりジャーナリズムつくった雰囲気に法の番人までが冒されたことは、司法にも、戦後日本にも大変な恥辱だった」。中曽根氏はロッキード事件を米国が意図的作成の事件とみている。 「キッシンジャーは私が首相辞任後 “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。キは、ロッキード事件の真相をかなり知っていたのではないでしょうか」 中曽根康弘氏はキッシンジャー氏のロッキード事件関与を認めている。 日本の首相を政治的に葬った事件にもしキッシンジャー氏不関与なのに、関与というなら、大変な名誉毀損です。 田中角栄事件は明確に米国の意図で動き、それに検察が協力したのです。私達は今小沢事件を抱えている。マスコミの反小沢像で行ってならない裁判をしているのでないか、司法の恥辱の要素がないか考える時。 米国が失脚を謀った代表的日本の首相が田中角栄。失脚に、米国と日本の新聞社と財界と見事な連携がある。一つのパターン。歴史は今を考えるためにあります。 1974年10月立花隆氏が「文芸春秋11月号」で「田中角栄研究ーその金脈と人脈」を発表。 これが田中首相降ろしの始まり。田中首相の財産形成過程を記述。しかし、論文掲載直後、田中政権がぐらつくという状況は出ない。主要子分格が危機管理。主要新聞報じてない。 立花論評は不発。ここで、10月22日田中首相が外国記者クラブで講演。米国記者を中心に徹底的に田中金脈追求。 不可思議な動き。何故なら、外国人記者には他に質問すべき項目が山のようにあった。11月フォード大統領が、戦後、米国大統領として初めて訪問予定。田中首相の訪中の問題もある。この時期、日米間ではラロック証言という重大な発言。 米退役海軍少将のラロック氏が米議会で「核兵器搭載可能な艦船は日本に寄港する際、核兵器を降ろすことはしない」と証言、核疑惑が一挙に表面化。 10月18日朝日新聞は「田中角栄、非核三原則堅持を言明」「米国が持ち込み求めても事前協議で拒否」と報道。外国人記者の大多数は日本語を読めません。日本の新聞のどこも取り上げていない論評を、5名程度の記者が次々質問するのは異常。 実はここで終われば、何でもない。しかし、朝日新聞と読売新聞は翌日、10月23日一面トップで大々的に報道。「“田中金脈”追求へ動き急。政局に重大影響必至」が朝日新聞の見出し。 読売も同様。朝日新聞と読売新聞が火つけ。 国会議員が同調。経済界も川木田東電社長が「このままで蓋をすべきではない」、中山素平が「暫定政権でいくしかない」田中首相は12月9日首相を辞任。米国・新聞・財界の見事な連携。しかし田中の力衰えず。 ここから次のロッキード事件が作られる。 何故アメリカは田中角栄首相を政治的に葬りたかったのでしょうか。私は日中国交回復が米国を怒らしたのだと思っています。佐藤昭子(田中首相に最も近い人物)は著書で「田中は“気が進まない。行きたくない”といいながらも外人記者クラブで講演すべく出かける。 外人記者クラブでは、金脈問題に火をつけたとか。日中国交回復のつけが回ってきたのか」。キッシンジャーにとり、人生最大の業績は1972年ニクソン訪中。キは隠密外交を展開しニクソン訪中を実現。 日本に事前通知をしないということで、岸首相に繊維問題の報復。米国議会は米中国交回復には反対。米中国交樹立は79年まで実現できません。 ところが、報復した国の新しい首相、角栄が72年9月日中国交正常化を実現。結果としてニクソン訪中の実を横取り。キは1972年8月の日米首脳ハワイ会談の直前にバンカー駐南越大使と会談し、ここで日本に対する怒りを爆発。 「裏切り者共の中で、よりによって日本人野郎がケーキを横取りした」キが、日頃、馬鹿にしている日本人に馬鹿にされたことに。 キの怒り凄いもの。「キはハワイ会談直前訪日し、田中総理との会談を要請。田中総理は、「俺が何で補佐官と会わなきゃならないんだ」と会うのを蹴る。間に人が入り、キは軽井沢へ。キは「日中国交正常化を延期して欲しい」と頼んだが、田中総理は一蹴。 キは日米首脳会談でハワイ飛行場に降りた田中総理を凄い形相で睨みつけ。田中首相は米側反対押し切って国交回復。その後、米国不在の中、日本企業は中国に進出。日本が中国に先越して進出することには米国極度に警戒。東アジア共同体に協力に反対。 .
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パレード事件 パレード事件とは、1999年に発生した一連の事件の総称である。 当時の東都道路公社(現:東都インフラ整備株式会社)の労組側が幹線道路上でのスト行進「パレード」を計画したことを発端に、労組三役や、パレードに向かう組合員などが相次いで失踪した。 事件には不可解な点が多く、労組未解決事件[未作成]の一つとして、今も陰謀論が多く囁かれている。[誰が?] 概要 1999年11月、東都道路公社は労使交渉の決裂を原因として、公社ではあるもののスト権の行使をすることを決断。年末に最も混雑する国道A1号線を封鎖して、スト行進「パレード」を行うと発表した。 しかし、同年12月7日の決起大会において、演説を終えた労組三役が会場から忽然と姿を消した。 大混乱にも関わらず、残された組合員はパレードの断行を決心。 パレード当日の朝、組合員は整備工場から2台のバスに分乗し、国道A1号線の起点に向かって出発した。 しかし、1台はエンジンの始動とともに爆発炎上、もう1台はそのまま整備工場を後にしたが、目的地に到着することはなく、バスごと行方不明となった。 かくしてパレードは実行されず、帰省ラッシュに影響が出ることはなかった。 事件の終結 パレードに向かう途中で行方不明になったバスは、隣県の山中で発見された。しかし、バスは無人の状態で発見され、乗っていた組合員の消息は依然として不明のままである。 また、労組三役とされる遺体は、2015年の国道A号線の拡張工事の際に、地中から発見された。しかし、身元の確認がとれるものは、同時に発見された持ち物しかなく、依然として断定には至っていない。 同社は民営化に伴い、東都インフラ整備株式会社に再編された。同社では2019年現在、労働組合は組織されていない。 事件の影響 (この項目は、書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。) 陰謀説 同社の雇った用心棒がスト破りをした 労組三役が海外に高跳びするために、自作自演をおこなった ストを阻止するために国が関係者を抹消した 労基署が保有すると言われている特殊部隊が暗躍した
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★1975年 から ★1977年 へ ロッキード事件と三木おろし 76年選挙と福田内閣の誕生 ロッキード事件と三木おろし 76年2月4日、外電が、ロッキード社副社長コーチャンの米上院外交委員会多国籍企業小委員会での証言を報じた。ロッキード社の日本に対する航空機売り込みのための口利き料が、右翼大物児玉誉士夫と日本での同社の代理店丸紅に渡り、それぞれ小佐野賢治国際興業社主と日本政府関係者に支払われたというのである。 三木は、早速議会で真相究明の決意を表明し、アメリカ政府に、高官名を含む一切の資料の提供を要請した。 6月、丸紅と全日空の最高幹部が相次いで逮捕された。そして7月27日、田中前首相が5億円の収賄容疑で逮捕された。 この間、恐慌を来した自民党政治家の意を受け椎名副総裁は三木の退陣に動き、大平・福田はそれに同調した。さらに田中逮捕後は、田中・大平・福田の三派連合が「三木おろし」で一致、党両院議員の三分の二以上を集めた「挙党態勢確立協議会」が三木に退陣を迫った。 世論の援護を受けて三木は粘り、党は分裂状態のまま、12月、任期満了による衆院の総選挙に突入した。 76年選挙と福田内閣の誕生 12月5日投票の総選挙は、やはり自民党の敗北であった。自民党は260から249に議席を減らし、結党以来はじめて過半数を割った(のち、無所属候補を加えて過半数を確保)。自民党から分かれた新自由クラブが解散前6議席から17議席に。社会、公明、民社もそれぞれ議席を伸ばした(ただし衆院定数も20議席増の511になっていた) 三木は敗北の責任をとって退陣した。 すでに反三木派の間で「福田一本化」の話はまとまっていた。福田と大平は、2年後に大平に譲る、という「大福密約」を結んでいた。 12月24日、衆参とも1票差というきわどさで、福田が首班指名を受けた。大平幹事長も密約で決まっていた。
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憲法B班 5/2(水):テーマ選択中「旭川学テ訴訟」「ロッキード事件」「尊属殺重罰規定違憲訴訟」
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トラップカード事件 概要:2009年学祭本番でウォンド演者がトラップカードを踏むという事件が発生 出来事 2009年学祭の本番、ウォンド演者が意気揚々とステージの中央に向かい、ふと地面を眺めるとそこには黒い物体が。 そのウォンド演者は極度の緊張のため気にせず、その物体を踏む。その時 「トゥル♪」 なんと滑りやがるのです。 なんとか動揺を隠しつつ演技するもその凄惨たるは目も向けられない。 実際何が落ちて、ウォンド演者がどう酷かったのか気になる人は、 チャプター分けされたという本番の映像を 「チェケラ!!」
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ソウルフード事件とはとあるネトウヨがTwitter上でクソリプを送った事件。 概要 2014年にとあるTwitterユーザーがラーメンの画像とともに「ソウルフード」と投稿した。 するとケムリン@日韓断交@k_fuck01というユーザーが「ラーメンは日本の食文化です勝手に韓国料理にしないで下さい。貴方は在日朝鮮人ですか?盗人猛々しいにも程があります!」というクソリプを送った。 ソウルフードとは民族・地域・郷土・社会集団に特有の料理のことである。つまりソウルフードのソウルを韓国の首都と勘違いしていたのである。「ウルトラソウル」とか「ソウルイーター」にも噛みついてそうだなコイツ…。 当然その後バカウヨ・ケムリンは批判されまくって勘違いに気付き(うわっ恥ずかし)、謝罪する。クソリプを送られたユーザーもその謝罪を受け入れ解決したのだが… この馬鹿の発言にTwitterユーザーたちは大ウケ。謝罪後には逆に馬鹿にクソリプが送られるという事態に。馬鹿は最終的にTwitterアカウントを削除した。 馬鹿の問題行動 そもそもソウルフードを知らない。 知らないのに調べない。 勝手に思い込みクソリプを送る。 いきなり在日認定。
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Lockheed Martinロッキード・マーティン 本社所在地 アメリカ合衆国メリーランド州ベセスダ 説明 世界最大級の航空宇宙企業。特に航空宇宙関連の軍需産業に強い。かつては民間航空機も製造していたが、業績不振によりロッキード L-1011 トライスターを最後に撤退した。 関連する施設 + 目次を開く 目次 旅客機 軍用機 旅客機 軍用機
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たなかかくえい 自作 顕著な学歴を持たずに首相になったことから「今太閤」、 ロッキード事件の後も発言力を保ちつづけたことから「闇将軍」などと呼ばれた、 後に「三角大福」と呼ばれる四人の政治家の「角」を表す元内閣総理大臣は誰でしょう? (2009年4月6日 『さいあんせいあん』「 4位 」) 所得倍増計画を策定した昭和の総理大臣は池田勇人ですが、 日本列島改造論を主張した昭和の総理大臣は誰でしょう? タグ:内閣総理大臣 雑学・その他 Quizwiki 索引 さ~と
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戦闘機。完璧なまでのつるぺた幼女。 創価学会編では最後にある程度活躍していた。ある程度はね・・・・・。 現在テンプレ キャラ名:ラプター・ロッキード 二つ名:ラプたん 能力:空を素早く飛ぶ程度の能力 武装、人格:↓参照。 http //ja.uncyclopedia.info/wiki/F-22 外観:画像(ページ最下部)参照。 攻撃: ガトリング銃(掃射。800発撃つとリロードするよ!) サイドワインダー(ミサイルということである。) 中距離空対空ミサイル(その名の通り。) INS誘導爆弾(空対地爆弾。) 補助: ステルス迷彩(服が。・・・・じゃなくて、本当にステルスです。) 超音速巡航(スーパークルーズとも読む。 すっごいはやいよ!) 超機動飛行(おにゃのことは思えない変態飛行。うわぁ・・・。) データリンク(地理、敵情報を解析。) 特殊能力: 飛行(着陸する時に武装をリロードするようです。) コブラ飛行(詳しくはググレ。) クルビット飛行(詳しくはググレ。) 画像とは。 http //www.nalry.com/lib/view.php?id=iA54fyRr9pc_276 ext=jpg w=500 h=673