約 2,297,115 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/433.html
目次 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 2.ユートピアを阻(はば)むもの 3.ユートピア出現のための公式 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 さて、以上で、現代日本のあり方を踏まえたユートピア像をお話しいたしましたが、これからほんとうにどういう世界が展開してくるのか、どういう世の中になってゆくのか。また、どうしたものに、値打ちがあるとされていくのか。このユートピア価値についての話をしてみたいと思います。 まず、最初にいっておかなければならないこととして、私たちは、神理価値という言葉をよく使っています。神理価値とユートピア価値は同じなのか、違うのか、このあたりについて、誤解・混乱もあることでしょう。さすれば、ここで説明をしておきたいと思うのですが、もちろん両者は重なる部分もあります。また、同じように使っていることもあります。しかし、違うところがあるのです。 神理価値とは、時代を超え、地域を超え、あらゆる場所において、環境において揺れることのない価値、すなわち神の正法神理そのものの値打ちのことをいいます。これは、いかなる時代が来ようとも変わることはありません。これを法価値と言い換えてもよいでしょう。正法神理、久遠の法は、その値打ちを滅ずることはありません。いつの時代も同じものが人類の歴史を貫いて流れています。 ユートピア価値も、たしかにこの流れのなかに現われてくるものですが、しかしながらユートピア価値のユートピア価値たる所以(ゆえん)は、その時代性と、地域性、また集まっている人のその集団としての性格に大きく影響されることがあるということなのです。これはどういうことかというと、神理価値というものが、本来は存在の価値、それ自体存在することが値打ちのあることであるという価値であるのに対して、ユートピア価値とは、存在価値ではなく、行為価値、行為をするその実践のなかに生ずる価値であるのだ、ということなのです。ここに違いがあるのです。 神理価値を存在価値というふうにもいいましたが、別な言い方をするならば、精神的価値というふうにいってもいいでしょう。精神の問題です。メンタリティーの問題です。これが神理価値です。もちろん、思いと行動とはつながっているものですから、両方とも共通したところはあります。基底にはありますが、ユートピア価値とは、実践に転じるところにおいて生じる行為の価値なのだということなのです。ここが、大きな違いです。 したがって、行為に転ずる、実践に転ずるというこの観点があるがために、時代性、地域性、あるいは集まった人たちのその群れの性格というものが影響することになります。そのような時代と地域と人という要素を抜きにした実践ということはないからです。かならず、真実の神理価値は同じであっても、その場所・時代・人、この三つの要素とその組み合わせによって現われ方は変わらなければならないのです。すなわち、本来の神のお心をいかなる姿で地上に現わすか、具現するか。その具現のしかたの過程において、生じる価値のことをユートピア価値といっているのです。このユートピア価値は、やはり、大きく考えるならば、そのなかにも、精神的なるものと、結果的なるものとがあると思います。 すなわち、ユートピア価値は、ふたつの要素から成り立っているのです。一つは、動機です。いま一つは結果です。動機としていかなる動機があったか、結果としていかなる結果が出たか。この両者を満たしたならば、ユートピア価値はあったといえるのです。動機のみ値打ちがあって、結果が生じなかった場合は、未完成品です。動機が違っていたが結果だけOKたった、まあこういうこともないとはいえません。 竹薮から二億円が出てきたが、それが実際、社会福祉のために、ほんとうに使われたというのなら、まあこういうこともいえるでしょう。そういうことも絶対にないとはいえないでしょうが、そのようなことを期待するだけでユートピアができるはずもありません。 このように、動機の部分と結果の部分、両方の完成をもってユートピア価値は成り立ちます。もちろん、さらに三分法で考える人であるならば、動機、過程、結果の三つでとらえることも可能でしょう。しかし、話を簡単にするために、動機と結果の二つに分けて話を進めてみたいと思います。 すなわち、これから提唱しようと思っている考え方は、みなさんの行動の価値基準の問題なのです。今までみなさんは、どのように行動してこられましたか。あるいは、生きてこられましたか。今日、一日というものをとりあげたときに、今日一日どのような意思決定をされましたか。そしてどう行動されましたか。どういう経路で、ここにたどりつかれましたか。 今日一日の思いと行動の連鎖はどうでしたでしょうか。あるいは、今日に至るための過去数十年の人生は、どうでしたでしょうか。そのときに、みなさん方の行動を支配していた考え、規律していた考え、それは何ですか。みなさんは、何に基づいて判断をし、そして行為を選び取りましたか。その結果、いかなる反応、あるいは成果が現われましたか。何をもって、みずからの行動のための、生きていくための実践基準とされましたか、私はこれを問うているのです。 みなさんが、たとえばある講演会に行かれたとします。そのとき、そこへ行くことを決めた動機は何ですか。そうして、その動機に基づいて、そこに来たという結果が出るわけですが、来てそれはどうなったのでしょうか。この二つが問われるわけです。まず、会場に来ようと思いたった動機のなかに、いったい何があったか。その動機のなかに、何かあったかを考えていただきたいのです。そのときに、「金曜の夜はひまだなあ。世の中の人びとは花金とかいって、どこかへ行くらしいが自分には誘いもない。お金もない。ここなら、まあお金もたいしてかからないし、飲み食いするわけでもないし、まあ何とかなるだろう。」などと時間潰(つぶ)しのために来た人もいるでしょうが、動機が不純です。だめです。動機のところでやはり問題があります。「行くところが無いので来た。」とか、「雨やどりに来た。」とか、このような理由もだめです。動機においてだめです。「何かいいことでもあるのではないかと思って来た。」このあたりもちょっと不透明です。まだ、ちょっと曇っています。そのようなところもあります。「会員になったから、一回ぐらい出ないと損をするから。」というのもちょっと動機不純です。だめです。その動機を考えていただきたいのです。「同じように会費を取られているのに、東京の会員のところにはたくさん行く機会はあるが、地方の会員のところにはめったにないので損をしている。だから取り返さねばならない。」このへんはやはり、あまり天国的な考え方ではないと思われるわけです。そのように、動機の部分を点検していただきたいのです。いろいろあると思います。 そのときに、やはりこのチャンスを生かして、自分を変えていこうとし、その変えた結果、向くべき方向として、何らか世の中に還元できるような、世の中に対してよき影響を与えるような自分になりたいなと思って来るのであれば、まあまあ合格圏内に入っているわけです。「講演者の顔つきを一回だけ見てから帰ろう。」など、これではだめです。こういうのは失格なのです。「連続セミナーの講義というので、珍しいから来てみよう。」とか、まあこのようなのもちょっとあぶない感じです。このあたりをよく考えていただきたいのです。 また逆に、気持ち、動機の面においては、たしかによい動機で来られた。「ヨシ、これで何かを勉強してつかんで、そして、職場に帰ってあるいは家庭でこれを実践に転化してがんばろう。」と思ったが、思ったに止まった。帰ってみると何を聞いたか忘れてしまった。まあこれはやはりだめです。結果のところでだめなのです。動機はよかったが結果までいっていない未完成品です。思いとしては、たしかに残ります。残りますが、これは点のようなもので、テンテンテンと点が続いているものです。あるいは、表現はよくないのですが、にわとりのフンみたいなもので、ポンポンポンポンと落ちているだけで、何の役にも立たないのです。通った跡だけはわかりますけれども、なんの役にも立たないのです。道路のように舗装をきっちりとするならいいけれども、にわとりのフンでは何の役にも立ちません。 このように、大きく考えるならば、動機と結果の二つに分かれるのです。 2.ユートピアを阻(はば)むもの ①結局自分に返ってこないと満足しない心 ユートピア価値を成り立たせるものは、動機と結果の二つに分かれるが、このユートピア価値そのものがめざしているものは何なのか。ユートピア価値と反ユートピア価値というべきものがおそらくあるでしょう。ここを見分けるのはいったい何であるか。これについて話をしておきたいと思うのです。 これはユートピアを阻害するものといった考えにもなるかもしれません。ユートピアを阻むもの。こういう考えにも、おそらくなるでしょう。ユートピアを阻むものとはいったい何であるか。これを見抜いて、その反価値に対して、抵抗しなければならないわけです。 ユートピアの実現を阻むもの、それは、大きくいって二つあると思います。一つは、自分自身の問題です。自分自身の問題として、ともすれば、すべてが自分に返ってくることを願う気持ちがあります。何だかんだいい、「思いだ、行いだ」といっているが、けっきょくは自分に返ってこないと満足しないという思いがあります。抽象的にいうならば、そういうことです。自分に返ってこなければ、やった値打ちがないと思う心です。これが、やはり一つあると思うのです。 それは、たとえば、ほんのちょっとした違いだと思うのです。紙一重の違いだと思います。たとえば、私が何かの講演をするといたしましょう。これはスケジュールを組んであるからするといえばそれまでです。そして、講演会場に来ました。二時間の時間を頂戴したとしましょう。そこで、私が考えることは、私も毎週、毎週行事をやっているわけです。先週も地方へ行きました。今週も行きました。今月末もまた行きます。ちょっと出前のそばのようなものなのです。少し値打ちが落ちているのです。あまり行くものだから、出前そばのようなもので少し値打ちが落ちているのですけれども、そうするとどう考えるか。「まあ何回も講演するのだから、一回や二回手を抜いてもいいのじゃないか。」とまあ、気持ちはうずくこともあります。 しかしながら、せっかく時間を二時間いただくのだから、そういう自己保身に生きるより、手は抜くことは抜くが、抜き方にも問題があるだろう。やはり上手に抜きながら、やはりためになる話をするのが芸術的なやり方ではないのか。そのような妥協点を出すという考え方もあるわけです。 ですから、同じく二時間の講演をするのに、とにかくやればいいのだ、行事を消しこめば、消化すればいいのだという考えもあるでしょうが、せっかく来たのだから、集まられた大勢の方に何かつかんで欲しいなと思う気持ちがあるかどうか、これは神様が判断しているので、その評価は私にはわかりませんけれども、同じようにしてもそういう判断がやはりかならずあるわけなのです。そして、それが動機の部分なのです。 そして、結果においてはやはり二つに分かれるはずです。結果においては、講演会場に訪れたみなさんは「ああ、よかったな。」と思いつつ、帰る道にもう忘れてしまったという人が多いか、それとも何か種火のようなものを心のなかに残して帰れたか。やはり、結果は二通りあります。私の仕事においても、やはりそれは働いてくるわけです。自分だけに返ってくる心、すなわち講演に来て、みんなに「ああ、いい講演だった。」といわれたいというそのことのためだけに来ているかどうか。そういう気持ちで来ているか、受講料がいくらか知りませんが、「高かった。」といわれないためだけに来ているか、とかいろいろあるでしょうけれども、このへんは、やはりかならず何らかのリトマス試験紙にかかっているのです。かならす、はかられています。 一つひとつの行動に関する思いですが、全部これは毎日毎日、一日のなかでも一時間、一時間のすべてにほんとうはフィルターがあるのです。神様のリトマス試験紙が試験管のなかに、私のなかに入っているのです。赤くなったり青くなったりいろいろ変化しているのです。変色しているのです。かならずこれは、調べられていることなのです。みなさんも同じなのです。 ですから、まず、反ユートピア価値としては、自分自身にすべての結果を期する心がないかどうか。これが一つの点検です。 ②他人の不幸を喜ぶ心 もう一つは何であるか。これは、ひじょうに悲しい話ですが、自分以外の他人に対する思いとして、他人を現在より低く評価する、あるいは他人が失敗をする、何か他人のグレードが下がることによって喜びを覚えるような気持ち、これが出てくるかどうかということです。これが明らかに反ユートピア価値なのです。 すなわち、ユートピア価値のなかには、抽象的にいうならば、心の価値、心のなかのユートピアと、あるいは実際、具体的な実社会における活動、あるいはその結果としての共同体としてのユートピア、こういう内と外、私と公の両方があるわけですが、これを精神価値として話をするならば、自分に成果を帰する心、これがあるかどうかと、他人をおとしめる心があるかどうかの点検です。大きくいえば、この二つです。他人をおとしめる心は、これもまあけっきょく自分だけが残ることになりますが、このようなものは少なくとも社会において有用なるものを生み出すという力には絶対にならないということです。 他の人が下がっていく、不幸になっていく、こういうものを見て喜ぶ気持ちがもしあったなら、これは明らかにユートピアの価値として、よき理念によって、思いによって、理想によってよきものを、よき建造物をつくり出すという、この考え方に反しているのです。 ですから、きわめて消極的な判定かもしれませんが、まず自分自身に成果を帰する心がないかどうか、また、他人を害するか、他人の不幸を喜ぶ気持ちがなかったかどうか、これはぜひとも点検していただきたい項目なのです。これがあるうちは、ユートピア価値の名のもとに行動しているとはいえないのです。 この二番目のことについてさらにいうならば、逆にいって、他人が上がることによって、おもしろくないという気持ちがあります。破壊的になる気持ち、極端にいえば暴れてみたくなる気持ちとか、いろいろありますけれどもこういうところをいえば、これもやはりユートピア価値ではないのです。他の人が、すばらしい服をプレゼントされて、うれしそうに着ている姿を見て、「何だ、あんな服。」といわなければならない心は、明らかにユートピア建設の逆を行っているということです。それはすばらしいとやはり認めなければならない祝福の心が要りますよといっているわけです。 他の人が出世をしたのを見て、「きっとゴマを擂(す)ったに違いない。」といいふらさなければ気がすまない心は、これはすでにもうユートピアをつくる力はないということです。他の人が出世したのなら、喜んであげることです。そして、なぜ出世したのかをよく考えて、自分に足りないところがあれば学べばよいのです。自分もそのようになろうとする心がだいじです。祝福の心が大切です。これは何度もいっているとおりです。これもユートピアを創っていくための力なのです。 この二点を、ますチェックしてほしいのです。これがユートピアに反する価値なのです。この二点です。 3.ユートピア出現のための公式 そして、さらに積極的なユートピア価値として、私たちが目標とすべきものはいったい何であるのか、これをユートピア価値として掲げるべきであると考えるものは、何であるのか。それは私たちは、まず他人の喜びを自らの喜びとすることができる、そういう心境を確立するということかだいじであると思います。個人の目標としては、他人の喜びを自分の喜びとすることができる、この心境をぜひとも確立する必要があります。これは、積極的なユートピア価値です。他人の喜びを自らの喜びとする。そう公言してけっして恥ずかしくない気持ちになったとすれば、これは大きな力です。これはユートピア推進のための原動力なのです。他人の喜びを自分の喜びとする。こういう人で世の中が満ちなければ、ユートピアは絶対にできないのです。 一人が幸福になれば、他の人が不幸になるというような関係であれば、世の中はほんとうに幸福に満ちることはないのです。そういう、パイの取り合い、ゼロ・サムのゲームではけっしてないのです。他人の喜びを自分の喜びとして喜べる人が溢れてこそ、ユートピア世界はできるのです。そのときに理想世界はかならずできるのです。まず、これは第一点として、肝に銘じていただきたい。他人の喜びを我が喜びとする、その心境をぜひともつくる。この考えがだいじです。 第二点は、自分の一生をかけてのこのユートピアに向ける仕事量です。これを最大限にするということです。一生をかけての仕事量とは、自分の人生の長さがあります。人生の長さ、五十年の人も八十年の人もあります。この人生の長さに掛けるところのユートピアに対する能力係数というものがあります。ユートピア係数です。これはある意味でいえば霊格です。六次元から来た方、七次元から来た方、八次元から来た方、こういう霊格があります。 ですから、ユートピアのために使った絶対時間、五十年であれば五十年掛けるところの、ユートピア係数、たとえば八次元から来たならば、〇・八、七次元ならば〇・七、六次元なら〇・六、五次元であるなら〇・五、四次元はちょっと難しい、〇・四ないしはマイナスのどちらかですが、マイナスがつけばその他の項はプラスなので、残りの項のすべての積としてはマイナスになります。どちらかです。 すなわちユートピアのために使った絶対時間、この時間掛けるユートピアヘの能力係数なのです。そして、さらには掛けるところの情熱です、これが入るのです。情熱の量、この総量がこれにかかってきます。これが公式です。 ユートピア出現のための公式は、このユートピア建設のための仕事量、この総量を、各人における総量をもちろん増やすとともに、全体における総量である、このユートピア建設のための仕事量の総合量をどうしても増やす必要があります。 そうしてみますと、今の考え方、まず年数、これはもちろん寿命と考えれば各人決まっていますが、ユートピアの建設にめざめてから活動した時間と考えれば、それは伸び縮みはします。長くすることもできます。短くすることもできますが、いろいろあります。十年、二十年、三十年、それは人によって違います。ですから晩年になっている人、これはもう短いです。五年か十年しかない。若い人の場合はこれが長いという有利さが絶対にあります。若い人の場合、五十年ある。晩年なら五年か二年か一年しかないかもしれない。ここはひとつ公式の上にいれてください。この年数が入ります。 そして次にくるものは自分の心境です。まあ共鳴し学ばれている方であれば、いろいろ試験も受けられたり、人と話をされたりしてだいたい推定がつくかと思いますが、学んでおられるみなさんというのは、最低限六次元ぐらいの心境でありたいとは思っていますから、五次元であると自分を思っている人はあまりいないのです。みんな六次元、最低六次元の下段階ぐらいには入っているとたいてい思っているのです。そう思わなければ、学びには来ないのですから、たいていは思っているのです。一応そのぐらいに考えているでしょうから、そう思える場合は〇・六ぐらい掛けてけっこうです。六次元のなかほどにいると思えば、〇・六五でもけっこうですし、ほとんど七次元と思えば○・六九でもけっこうですけれど、まあそのぐらいだと思ってください。そして、あとは情熱の量です。 そうしますと、実際に出てくる仕事量という結果は霊格とかならずしも比例しないのです。どうですか。みなさん、霊格はいろいろあるのに仕事量が違うのが不思議に思うでしょう。それは、この公式によるのです。すなわち、かなり最後になってめざめた場合には仕事量としては減ります。年遅くしてめざめた場合には仕事量が滅ります。あるいは、霊格が高くとも年数が少ないか、あるいは情熱が少なければ仕事の総量は減ります。霊格的に能力係数は低くとも、年数が長く情熱が大きければ仕事量としては大きな仕事ができるのです。 ですから、この掛け算において最高の結果を出すようにがんばってほしい。さすれば、五次元の住人であろうが、六次元の住人であろうが如来、菩薩に匹敵するような仕事もできないわけではないのです。総量としては、それだけの貢献ができないわけではないわけです。この総量を増やすことこそが、実際はユートピア世界を建設するための大きな力になるのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/435.html
目次 1.カイザルの手から神のものを取り戻せ 2.透明感の深い情熱 3.限りなく知恵ある者となれ 4.発展のなかにおいて発展を超えよ 1.カイザルの手から神のものを取り戻せ 前章において未来型人間としてあるべき原点が明らかにされました。しかし、それだけがすべてでは、もちろんないでありましょう。さらにこの次なるものがあるはずです。それは、ある意味において、私たちが今まで宗数的には罪と決めてきたこと、そして罪を犯した結果、罰というものを受けるとされてきたことがらに対して挑戦していくということになります。 この自由の姿において、過去の文明や文化がつくってきたと十把(じっぱ)一からげにいえることだけではなく、神から出たと思われて、そして人間の間に堆積してきたこうした教えをも、勇気をもって突き破っていかねばならない。あの藁葺(わらぶ)き屋根を突き破る竹のように、勇気をもって、こうした罪の観念と戦わねばならぬ。なにゆえに、それが罪であったのか、なにゆえに……。まさしく、より高次な戦いがここにおいて始まります。 一般的にみなさんを縛っていたもの、そうした価値というだけではない、次には罪として、神の手のもとに、みなさんの額に刻まれたこの十字架を疑わねばならないときがくるのです。それはいったい何であろうか。それは、過去の聖人たちが生きていた過程において、誤った、たった一点のことがらにかかわっているのです。それは、正しくあらんとして弱かったこと。よく生きんとして消極的であったこと。こうした過去の偉人たち特有のこの弱さです。弱さとの闘いがある。 私たちが罪という名のもとに、一からげにして考えていたものは、ちょうどあのアマゾンの探検をみなさんが志したときに人びとはどういうか、その反応と同じであるのです。危険であるからやめておきなさいというでしょう。命がなくなるかもしれませんよというでしょう。それはごく一般的な考えであって、正論でもあるでしょう。しかし、それはアマゾンの奥地に分け入ろうとする私たちを、いつまでもとどめておくことができる口実ではないのです。 私たちは真実の勇気を持ったときに、そうした一般的に危険だという名の観念でもって押しとどめられていてはならないのです。勇気を持って力強く立ち上がり、過去の殼を撃ち破ってゆかねばならない。それは、いくつかの方面から考えられることでもあります。しかし、あえていうならば、私は「カイザルの手から神のものを取り戻せ」と言いたいのです。それは、神理の観点からみて、価値なきものにこの地上での勝利を収めさせてはならないということなのです。 罪という名で避けていた数々のことがら、あるいは戒律という名で避けていた数々のことがら、こうしたものに勇気を持って私たちはいま戦いを挑まねばならないのです。 私たちの目の見えるところ、また目に見えぬところに神の光が射していないところはないのです。さすれば、いかなる場所においても、いかなる空間においても、いかなる時代においても、いかなる人たちにおいても、宇宙のどの点においても神の存在を許さない、そうした空間はありえないのです。ましてや、この小さな地球の小さな地上世界のなかにおいて、そうした存在は許されるものではない。それは、ひじょうに厳しい言葉かもしれませんが、ある意味で、この三次元世界における革命であります。神理の尺度に照らして価値なきものを青竜刀でもって切って捨てるという荒作業であります。 今までどれだけ多くの人たちがそれに価値ありと評価をし、それを威厳あるものと認めていたとしても、神理の名のもとに壊さねばならぬものは、壊さねばならぬものとして、現われてくる。そういうことなのです。 それはいったい何でしょうか。これは結局において先ほどからお話ししているところの、真に自由なる人間が真に自由を発現する過程において、縛っていたものが、鎖が足かせが外されていく過程でもあります。私たちは、この地上において真の人間として生きる権利がある、いや生きる義務があるのです。私たちが真に自由なる人間として生きんとして、これを阻んでいるものに対しては、断固としてこれを破砕せねばなりません。これは徹底的にやらねばなりません。そのさいにおいて妥協はないのです。 地方での連続講演を第一回目は一九八九年二月に開催いたしました。そのときに、ある公的会場をお借りしましたが、そういうところでは、宗教には会場は貸さないということで、私の話をその会場の責任者が終始聞いて点検しているというありさまでありました。それが宗教にあたるかあたらないかを判断する権限があって、もし宗教にあたるとそこで講演はやめてもらって出てもらうという話でありました。そういう条件のもとで、私は、みなさんの前でお話をしたことがあります。 しかし、こうしたことは、いつまでも許されるべき屈辱ではない。そのようなことを、そんな間違った判断をさせてはならない。本来的に値打ちのある、本来すばらしきものを、それをごく当然に花咲かせる過程において、この花が咲くことを阻害する動きは断固として破砕せねばなりません。竹の子が屋根に当たればこの屋根を突き破るまで、そうせねばならないのです。 すなわち、今、ユートピア価値革命へと向かっていく私たちにとって、これを単なる精神的活動として押さえている時期は、もう終わりが近づいてきているということを、私は明言せんとしているのです。私たちの運動は、地上的なるいかなる定義を付すことも許さない、そう私は思います。これは宗教でもない、思想でもない、信条でもない、経済でもない、政治でもない、教育でもない、科学でもない、こうした一切のものではなく、また一切のものである、それが私たちの動きです。 2.透明感の深い情熱 それは、個人個人の単位を取ったならば、本来自由なる人間が立ち上がっていく、そうしたプロセスでありましょうが、もっと大きな目で見るならば、この三次元世界というのは、神様の、神の花園であったが、番人がいないということをいいことにして、この神の花園を荒らし続けてきた、そうした人びとの、あるいは人とはいえないものたち、すでに地上を去った者たちの暴挙は、これ以上はもう許さない。今、神の使命を帯びて、その番人が出てきた以上、もはやこの花園をこれ以上荒らすことは許さない。 私たちの運動は、個人個人の小さなユートピア化運動を超えて、大きな神の体が三次元世界において、その眠れる巨体を起こしていく過程にも似ているといえましょうか。本来、すべてを所有している人のもとにすべてを返す。この世でもあの世でも本来、主であった人のもとにすべてを返す。そうした運動です。 本来あったものを、本来の姿として現わすこと、それこそが自由にほかならないのです。私たちはこうした大きな自由という理念のもとに、いま新たな活動をしてゆかねばなりません。立ち向かうべき敵があるとはいいません。しかしながら、手枷(てかせ)、足枷があるならば、これは振りほどくまで、切り裂くまで。これだけの決意はいると思います。 私はこれより後、特定の方向にのみ導くをもってよしとは考えません。可能なかぎりあらゆる領域において、あらゆる世界に対して、あらゆる人びとに対してアプローチを開始していきたいと考えます。そのさいに必要な心がけはいったい何であるか。それをみなさんもともに学んでいただきたいと思うのです。 それはまず第一点において、みずからの情熱に私心がないかどうか、"わたくしごころ" がないかどうかこれをよくよく考えていただきたい。いくら情熱が燃え上がったところで、"わたくしごころ" があったら、この情熱は大火事になるだけです。そうであってはならない。この情熱を限りなく透明感の深いものとせよ。透明感の深い情熱とせよ。限りなく無私となれ。無私となるということは、燃え立とうとせずに、自然に燃え上がる炎のようになれといっているのです。 私のいっていることの意味がわかるでしょうか。自分のための火とするな。人生を私物化するな。私有化するな。自分個人のものだと思うな。そこに尽きているのであります。みなさんは、手もあり足もあり、目もあり鼻もありロもあると思っているかもしれませんが、みなさんは神の目から見れば一個の固形燃料です。燃料の固まりなのです。これに火をつけて炎を燃やす、それが人間の使命なのです。燃え尽きるまで燃やす。そこにおいて、はからいごとがあってはならないのです。いいですか。まず、情熱において私心を去れ、"わたくしごころ" を去れ、人生を私有化するという、個人の所有にしようとする思いを去れ。そのなかにおいて情熱を高めよ、燃やせよ。炎を透明とせよ。透明なる炎こそ、高温を保つことができるということを知れ。そういうことです。 3.限りなく知恵ある者となれ 第二に必要なことは、私心なき情熱のあとをうけて、限りなく知恵ある者となれということです。頭が一個あるぐらいでは足りない。みなさんは頭を四個も五個もくっつけているぐらいの、そういう知恵ある者となっていただきたい。そんな一個の頭、二十年ぐらいの学校教育を受けて、そのあといくばくかの社会経験を得たぐらいのそんな頭では通用しない。これから必要とする頭は、みなさんの四倍も五倍も十倍もそれだけの容量を備えていかなければいけない。 この知恵はどこから出るか、それはもちろん地上的な努力のなかからも出てくるでありましょう。しかし、それ以外からも出てくる。それは内在する自分の本来の力に気づけということでもあります。みなさんは、自分に魂の兄弟というのがあるということを、私たちの本で学んでいるはずです。それはあるということを活字で見ただけであって、自分のものとなっていないでしょう。魂の兄弟がいるということはどういうことですか。肉体に入っていない自分自身があるということでしょう。その自分自身は使っていないということでしょう。違いますか。手が十本あるのに二本しか使っていない、頭が六個あるのに一個しか使っていないことと同じではないですか。 なぜ、本来の自分がもっているすべての知恵を使おうとしないか。すべての知恵を使うのは難しいことではないのです。それはごくごく簡単なことであるのです。先ほどから何回もいっておりますように、この三次元に生きながら三次元特有のもの、魂を縛っているもの、この鎖を切ったときに彼らは活動を開始するのです。三次元にいて三次元を超えよ。この世にいてこの世の人となるな。この世にいてすでにその身、霊人となれ。こういっているのです。それを私は鎖を切れとか、魂を透明にせよとかいろいろなことをいっておりますが、三次元的な縛りをとらないかぎり絶対にみなさんの本来の知恵が出てこないのです。そのために何の必要があるか。釈迦がかつて執着を断てといいました。執着という言葉で表わしましたが、それは何かというと、毎日いろいろな立脚点のもとにいろいろな条件のもとに生きている、そういうみなさんでありましょう。 人間であるということは、条件づけられた存在であると考えているでしょう。肉体的条件、また食糧や金銭や空間などといういろいろなものの条件によって、自分が現在あると思っているでしょう。しかし、この世的には、たしかに人間というのは条件づけられた存在ではあるが、この条件づけられた存在であるということに満足してはならない。この条件づけられた世界のなかにおいて、条件づけのない人間となれ。すなわち時空間を超越せよ。この世界にいて、この世界を超えよ。人間生活をしておりながら人間生活を超えよ。そうしたものに縛られない本来の自分自身に気づけ。その姿を取り戻せ。 そのときに、内在せるみなさんの叡智はかならず働きはじめます。何度もいっておきます。みなさんの一個の頭では足りない。頭を四個も五個も取り出してほしい。そういう知恵がなければ、これからの時代を変えていくことができない。この頭脳、こんなものは諦めなさい。こんなものではだめだ、通用しない。もっともっと四個、五個と出してきてください。五個も六個も出してください。そして、そうした力を使ってほしい。そうでなければ、ユートピア価値革命などはできやしない、絶対に。もっともっと、この世だけではない、すべてのものを総動員しなければいけません。これが二番目です。 4.発展のなかにおいて発展を超えよ そして三番目にいうことは、「発展のなかにあって発展から外れるな。」ということです。発展していく過程に私たちの心のなかに甘い誘惑が忍び込んできます。それは怠惰という名の誘惑です。怠け心という名の誘惑です。現状のままでいいのではないかという、そういう誘惑です。こんな誘惑に負けてはならない。断じて発展から目をそらしてはならない。発展のなかにあって、発展についていくのみならず、発展のなかにおいて、発展を超えることによって、自らの心に余裕が生まれるということを知っていただきたい。 これから大きな力が起きていくでありましょう。そのさいに、目の前に展開されていくドラマに、ともすればついていけなく思うこともあるでしょう。それは、発展のなかにおいて発展に遅れているからです。発展のなかにおいて、発展と同速度に動く人は、それは現状のままのようにも見えるでしょう。しかし、願うのは、私が乞い願うのは、発展の流れのなかにおいて、発展を超えよ。それは、今年に生きておりながら、みなさん心はもう来年に生きてほしい。三年後に生きてほしい。十年後に生きてほしい。五十年後に、百年後に千年後に生きてほしいということであります。 すなわち、現在自分が立っているところの、この座標、時間の座標、空間の座標、人の座標、こうした一点にある自分を、これを当然だと思うな。今、自分の肉体の影はそこに映っているかもしれないが、みなさんの理想とすべきは発展の先にある姿である。もっと先にある自分を、時間の軸のなかにおいて、もっともっと先にある自分というものを確実に知っていただきたい。そこから現在の自分をたぐりよせるのです。まちがってはならない。 現在自分が山の麓(ふもと)にいて、これから山を登ると思ってはいけない。先を行く自分を見よ。八号目を登る自分を、頂上に登った自分を見て、そのもう一つの自分が、今、山の裾野にある自分をたぐり寄せるようでなければ、発展のなかにおいて心の調和を保ちつつ生きていくことはできない。よいですか、遅れてはならない。発展のなかにおいて発展を超えよ。時間の系列のなかにおいて、現在を超えよ。それが、私がいいたいことです。 以上、三つの点をあげました。ユートピア価値革命はあくまでも現実社会における実践の力として現われてくるべきでありますが、それは出発点においては、やはり個々人に始まる。個々人に始まって個々人を超え、そして神の巨大な体の動きのように、その動きは統一され止揚されてゆかねばなりません。そのために私たちの活動がある。この原点を知っていただきたいと思います。 共にユートピア価値を目ざしてがんばりましょう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/436.html
目次 1.発展の基礎としての貨幣経済 2.ユートピア創りのなかに需要を喚起する 3.価値選択性の強調 4.ユートピア価値を考慮した金利・税制システム 1.発展の基礎としての貨幣経済 本章ではユートピアと経済について、とくにテーマを設けて解説を進めてみたいと思います。 従来、ユートピアというものを精神的なるもののみにとらえる向きがありました。その考え方に対して、本書ではユートピアをこの地上生活の生き方、地上世界とのかかわりにおいて考え直してみるという試みを提示しております。 そこで、この地上にユートピア世界を建設するために、現代、きわめて大きな力を持っている経済の問題をどう考えるのか、それを検討してみる必要があると思います。すなわち、この経済はユートピアに真に貢献することができるのか。また、ユートピア創りのなかには、経済をどのように織り込まねばならないのか、ということであります。この金銭に対する考え方は、伝統的宗教の流れにおいては、どちらかというと否定的に取り扱われてきました。それは、執着を呼ぶもの、この世的なるものという形で、ユートピアの埓外(らちがい)におかれたことが多かったと考えられるのです。 しかし、現代の社会というものをもう一度見回して見るときに、ここにあるのは発展の姿であり、発展の基礎としての貨幣経済である、ということがいえると思うのです。すなわち、貨幣経済は発展をつくっていくための血液の役割を果たしているように思えるのです。この貨幣というものに対して、文化は新たな定義を与えているということを人びとは知らなければなりません。昔の貨幣というものは、貨幣そのものは、金であったり、銀であったり、銅であったりという高価な金属でできていて、それそのものが存在的な値打ちを表わしているものでした。 ところが現在はどうかというと、もちろん貨幣のなかには金属を使ったものがありますが、大多数のものはいわゆるペーパーマネー、紙幣であります。それは、まったくの紙屑同然というのが、その材質そのものの値打ちであります。しかし、その紙屑同然のものが値打ちあるものとして使われている。それは、紙幣というもの、そのものが値打ちがあるのではなくて、紙幣というものは、これはじつは簡単な契約書であるということを知らなければなりません。それに千円という値打ちをつければ、これでもって千円という価値を表わすものだという取り決めがあり、それを授受するときにその千円の価値を認めるという契約が成り立っているのです。一万円札も同様であります。 すなわち、現在では、このお金の値打ちというのは、お金そのものの値打ちではなくて、お金が表わしているところの値打ち感覚を信ずるという契約が、その紙幣を媒介として成立する、と考えてよいでしょう。したがって、私たちがともすれば執着の権化として軽蔑しがちであった金銭、および金銭に代わるものとしての小切手、手形、その他のものは、すべて信用とまた信用に裏打ちされた経済単位を表わしている、そういう契約書なのである、と考えてよいと思います。 そして、貨幣経済そのものは発展の形式をより円滑にするためにつくられているものだ、というふうに考えていけばよいと思います。そうすると結局はどう考えればよいかということですが、貨幣経済そのものは、ユートピア増進の方向に使われる分にはまったく問題がない、というふうに考えてもよいですし、ある意味においては、ユートピア構築のために是が非とも必要なものであるといってもよいでしょう。 宗教の全般が嫌われる理由のひとつとしては、お布施とか献金とかいう形で多くの富を吸い上げて自分たちの大殿堂をつくるという点があげられるでしょう。ただ、これは現代的に考えるならば、何らかの貨幣経済的基礎をつくらねば、この世において確固とした基盤・土台はつくることができない、というのが真実であります。こうした神理の世界においても、何らかの経済的活動が必要とされているのが現実です。したがって、ユートピア創りといっても、その理念のなかに、きわめて合理的で建設的な経済の考え方が入っていってよい。私はそのように思います。 2.ユートピア創りのなかに需要を喚起する そうすると、ユートピアと経済に関して新たに考え直すべき柱というものが出てまいります。その柱とは何であるか、私はこの柱を三本に集約して考えてみたいと思います。 第一の柱、これはユートピア創りというもののなかに、需要を喚起させることであると思います。経済は需要あるところに動いていくことになっています。したがって、今後ユートピアと経済のテーマを考える際には、ユートピア創りというものに需要そのものを喚起させる必要があります。そうしたものを起こしていく必要があると思います。 ではなにゆえに、ユートピア創りが需要を引き起こすのか、これを考えてみましょう。そうしてみると、そこには人間の根源的な欲求があるというふうに考えられるでしょう。人間の根源的欲求とは何であるのか――それは幸福になりたいという欲求です。この幸福になりたいという欲求をかなえるためには、人間はあらゆる活動を開始せざるをえなくなってゆきます。さすれば、ユートピア創りをすることによって、いかに幸福な日々が手に入るか、幸福な生活が手に入るか、幸福な仕事をすることができるか、これを考える必要がありましょう。 こうしてみると、ユートピアのその悦びとして提供できる内容、これが明らかにされる必要があるのではないでしょうか。ユートピアを実現したときに、いったいどういう状態になり、それがどのように各人の幸福感にはね返ってくるのか。それが明らかにされる必要があると思うのです。これをまず、第一の柱として考えたいと思います。 3.価値選択性の強調 第二の柱、それは経済原則のなかで価値選択性というものを、もっともっと強調する必要があるということです。この価値選択性ということは、わかりにくいかもしれませんが、現在の価格システムそのものの改良ということになります。それは、価格決定のメカニズムそのものでもあります。もう一度、どのようなメカニズムによって価格が設定されているのか、それを再検討してみる必要があります。 すなわち、価格の決定において、どういう要素が入っているかというと、たとえば製造のコスト、流通のコスト、あとは売れ行き、こういうものでしょう。これによって基本的なコストが定まっています。しかし、これでひじょうに困ることは、価格による差別化現象というものが少ないことです。 魚にも値段がありますが、少ない魚は高い値段がつき、よく獲れる魚は安くなるという現象がありますが、もしこの魚に、たとえば信仰的なものを加えたとしたらどうなりましょうか。この信仰的なものというのはわかりにくいかもしれませんが、たとえば、魚のなかで、鯵(あじ)なら鯵という魚を取り出して、これはひじょうに霊的にも優れた魚であって、この魚を食べることによって健康になるというふうなイメージが、もし一般に浸透したらどういうふうになるかということですが、この鯵そのものに付加価値が加わり、そして高級感が出てくるようになるでしょう。 違ったかたちでは鰻(うなぎ)というものがありましょう。鰻は蒲焼きという、あのような食べ方を発明されたことによって、高級魚の仲間入りをし、高級感が出てまいりましたが、もともとはそんなに値打ちがあると思われていた魚ではありませんでした。それはドジョウの親戚であり、蛇の親戚であるというような、そうした気持ちの悪いものであると思われていた鰻が、夏バテにひじょうに効く高カロリーの健康食品であると考えられることによって、高度付加価値を生んで高級感をもってきたのです。 そして、その高級感そのものは、人びとに負担感を強いるものであるかといえば、かならずしもそうとはいえない。高級感があるが、それを食べることによって健康になると信じることによって鰻に値打ちが出てくる、鰻は一匹一円、二円であって、毎日食卓で食べられるものであれば、それだけのありがたみがない。しかしながら高級感があるがゆえに、いつもいつもは食べられない。それゆえに食べたときには元気になるような気がする。そういう意味合いがあります。 こういうことが、それ以外のところでもありうるということです。たとえば、現在、書店に並べられている本では、同じ形をして、同じ厚さであり、活字の量がほぼ同じであれば、本の値段はだいたい同じになっています。そして、その中身の善し悪し等についての判定は、本の売れ行き、その売れる部数そのものだけで判定される、というふうになっています。しかし、これは考えてみれば、まことにおかしい話であります。どのような著者が書いた本であっても、二百ページそこそこの内容であれば、すべて一律千円付近の値段がついていますが、これは考えてみれば、商品としての値打ちがなんら提示されていないということになりはしないでしょうか。まさしく、そうであるというふうに思えるのです。 どれが高級な本で、どれが高級でない本なのか、定価だけを見たらまったく差別がありません。また、売れ行きで判定するという考えもありますが、売れ行きそのものがその本が名著であるかどうかを表わしているかといえば、かならずしもそうではないと思えます。いわゆる俗受けをする本ほど、よく売れていることもある。 こうしたことにおいて、出版業界は一つの良識ある考え方を展開せねばならないのではないでしょうか。すなわち、定価を決定するさいに、その本の値打ちというものが表わされる必要があるというふうに思います。この値打ちを織り込むことによって、その定価の意味が出てきて、定価に差があったとしても、それに大いなるありがたみというものが加わってくることになります。 低俗本を安くするということは、それをほんとうにより多く売りたいということになるだろうか、より多く売れるということになるだろうかといえば、そうではないということになるように思います。本一冊の提供するところの、幸福感をどう見るかという考えです。すなわち、いままでは単価がだいたい千円程度でおさまる本であったとしても、ユートピア建設に役に立つ本であれば、千百円の定価を設定することもできる。そして平均程度であれば千円の値打ちを提示することもできる。しかし、ユートピアにやや反するような本であれば、九百円の定価を付することもできる。あるいは九百円以上で売ることはできない、こういうふうになるということがあります。 定価を低くするということによって、よく売れるという考えもあるでしょうが、高級志向が、いま中心になってきている現代経済のなかにおいては、かならずしもそういうふうになるとは私は思いません。安ければ売れるというものではないはずです。それは、化粧品業界、あるいはファッション業界、こういう業界を見てもまったく同じです。人びとは高級感とそのブランド感、あるいはその斬新なイメージというものに値段を見出しているのであって、安ければいい、安いものを着ればいいというものではないはずです。 こうした価格設定のメカニズムがもっともっと働くべきです。このメカニズムは本という一般的なメディアだけではなく、新聞にも雑誌にも、また映画、演劇、あるいは絵画、ビデオ、テープ、そうしたものにも働きかけるべきであります。まったく同じというのはおかしい。映画などでも、どの映画も同じ値段でやるというのはおかしい。私はそのように思います。 4.ユートピア価値を考慮した金利・税制システム ユートピアと経済を考える際に、三番目に気をつけておきたいこと、それは何であるか。この三番目の桂について申し上げます。それは、金利と税制の問題です。この金利と税制の問題は、どうしてもくぐり抜けなければならない現代経済の関門であると、私は思います。 たとえば、ある資金が必要なときに、金融機関からの資金の調達というものがあります。金融機関のほうから見れば、資金を貸し出すということになります。この貸し出しの金利そのものは、どういうふうになっているかということですが、相手方の信用度そのものに基づいています。この相手方の信用度とは何かというと、経済的信用度、すなわちどれだけ借用金を返す能力があるか、また経済を大きくしていく能力があるかということを見て、その信用感が弱いところは金利が高くなります。また、いわゆる一流企業、超一流企業ほど安い金利で資金が調達できるようになっています。こうするとどうなるかというと、持てる者はさらに持ち、奪われる者はさらに奪われるという経済原則が働くようになっています。小さなものはますます小さくなり、大きなものはますます大きくなるようにできあがっているのです。 それはそれで大きな役割はありましたし、自然淘汰の原則が働いたでありましょう。現に力のあるものは大きくなり、力のないものは淘汰されるということになって、強者を残していくという、そういう競争の原理が働いたことは事実でしょう。しかし、ここでもう一つ、企業の論理というものを、あるいは企業倫理というものを考え直すべきではないでしょうか。いったいいかなる目的のために活動しているものであるのか、ということを考える必要があります。 たしかに、零細企業や個人向けの金融というような制度もあることは事実ですが、その活動の内容によって金利が違うということは、私はまだ聞いたことがあまりありません。もちろん、福祉とか老人向けの預金金利などで、差別があるということは聞いたことがありますが、実際の貸し出しにおいて、そうはなっていないように思います。 というものも、神理価値、あるいはユートピアに奉仕せんとする人たちの事業活動というものは、どうしても裏目に出ることが多い。すなわち、金銭的にそれを十分軌道に乗せることができないでいる人が多い。いわゆる宗教家的な資質を持っているがゆえに、経済的・経営的手腕が弱い人が多いのです。それゆえに信用に不安があり、結局お金の貸し出しができない。したがって、その善なる仕事に資金を注ぎ込むことができない。これゆえ、発展ができなくなっていく。そういうメカニズムになっていると思います。 私は、現在の金融機関全体を見渡してみて、あまりにも利益を上げすぎている。という感じが否(いな)めません。日銀からの貸し出しと、一般個人から、あるいは企業からの預金というものを元手として、それを貸付け、そしてその利息を回収して利益を上げているわけですが、その利益の上がり方があまりにも大きすぎる。お金のやりとりという単純な行為に比して利益の上がり方が、あまりにも大きすぎる。そういうふうに思います。これは金融機関が公的な使命を十分に、はたしていないという感じがするのです。それだけお金のやりとりだけで莫大な利益をはたして上げてよいものかどうか、それだけではなくて、もっとさらに二次的、三次的な仕事をしてゆかねばならないのではないか、私はそう思います。 金融機関はその体力的な余力の部分、上がった利益の幅の大きさの部分を一部、社会に還元してゆくべきであります。その還元の部分を何に使うか、ユートピア建設のための資金として使ってゆくべきである、私はそう思います。そうしなければいけない、真にユートピアを創るための事業、企業に対して実際の一般貸し出しの半額、三分の一の金利で貸し出しをしてゆけばどうなるか。そうするとユートピアのための活動というのは活発化します。当然のことです。当然ながら活発化してゆきますし、今まで反ユートピア的な仕事をしていた企業であっても、この経済原則の流れのなかで、このままではいけないということになって、ユートピア価値を取り入れていこうとします。そして、少しでも経済活動が楽になる方向に行こうとします。こうすることによって、社会全体の企業をユートピアの方向に引っ張ってゆくことが可能になってくるはずです。こうした力があるにもかかわらず、それをしないということはまことに情けないことであると、私は思います。 もう一点、別の面からいえば税制の問題です。この税制はやはり、悪平等になりすぎているという感覚が否めません。どういう内容で収入を上げたとしても、その内容にかかわりなく、一律に税金が課されるようになっています。しかし、ほんとうはこれは、私は公平ではないと思います。賭博とか、そうしたあまり人びとのユートピアを前進させない方面で収益を上げたとしても、また、ひじょうに世の中のためになる活動をして収益を上げたとしても、その額に対しては一定の税率がかかってまいります。これが悪平等でなくて、いったい何でしょうか。 仕事の内容において、ひじょうに人びとを害する内容をやっていても税金は同じ、益する内容をやっていても同じ。そうであれば、人びとを益する行動をしている人たちは、さらに発展していくことができなくなってきます。その発展度が弱まっていきます。やはり、私はこれは勇気をもって、その税制のシステムを変えてゆく必要があると思います。企業なり、個人なりの社会的ユートピア建設への貢献度を、ある程度判定すべきだと思います。 そして、ユートピア建設に貢献している人に対しては、優遇税制を敷くべきです。そして、それを資金としてさらに活動できる方向へと誘導してゆくべきであります。こうしたことを公的機関がやらなければならない。そうしなければ、社会全体が悪くなっていく、そういうふうに思えるのです。 毎年毎年の、企業なら企業の活動というものに対して、このユートピア価値からの判定が必要です。そしてユートピア価値の判定から見て、税率も変わっていくということでよいと思います。もし、社会的利益に反する行為を企業が犯したとするならば、それは単に社会的制裁を加えるということのみならず、税率でも変化が起きるようにしておけばよいと思います。むしろそちらのほうが、企業の論理からいくと怖いはずです。社会的利益、大きなユートピア価値から見て、それに反する行動をとった企業は税率が重くなる。しかし、ユートピア貢献度の高い企業は、税率が安くなる。こうしておけば、がめつく自分の利益だけを追求するのではなく、常に世の人びとの役に立つ仕事をすれば、経済的にも楽になるという方針が確立されていくと思うのです。私はこれであってよい、いやこのようでなくてはならない、そういうふうに思います。 ユートピアと経済について、以上いくつか話をしてまいりましたが、これは個人のレベルだけでは、どうしても発想が十分ではありません。もっと大きなレベルから、国、公共団体、あるいは企業の団体、こうした大きな観点からの改造がぜひとも望まれる。そのように思えるのです。そうした大きなマクロの観点からこの改造をやっていかねば、けっしてユートピアの建設はできません。 もちろんユートピア建設は、各人の心から出発いたしますが、制度的な面からも改良を加えてゆかなければ、より大きな、高次な力を発揮することはできない。私はそのように思います。 以上、貨幣経済とユートピアに関する考えを述べてまいりましたが、結論は一つです。経済とはユートピア増進のために奉仕すべきものである。これを妨げるために働いてはならない。これが私の考えですし、この方向においてのみ貨幣経済の進展は許されるものである。そして、ますますの繁栄をみてよいのである。そのように考えます。
https://w.atwiki.jp/akatonbowiki/pages/7783.html
このページはこちらに移転しました ユートピア 作詞/魔理沙っち ユートピアここはホントに理想なの? 規則正しい。それが理想なの? 平等でも平和でも 楽しくなけりゃ意味がない VIPの中にユートピア 理想郷ならここにある 平等でも平和でも 個性ありがとうなけりゃつまらない ※ユートピア in the VIP僕の ユートピア in the VIPお前の ユートピア in the VIPみんなの ただのユートピアとは違う 楽しい場所(僕のすみか) ここのこと ※繰り返し。2回目は()内をうってね☆
https://w.atwiki.jp/tapirkoushiki/pages/63.html
表記揺れ:UTOPIA 主なあだ名:うとぴあ、うとぱー 主な実績 Tapirファミリー4代目リーダー 主な活動 Tapir入隊からリーダーになるまで ユートピアは第3期Tapirファミリー終盤の2011年9月下旬ごろにTapirに入隊した。他のメンバーだとリュカの入隊と近い時期になる。 その後、10月前半のうちに前任者のオカに指名される形でTapirファミリーのリーダーとなった。盗賊ファミリーに所属したことがない人物がリーダーとなったのはこれが初めてである。 なお、オカは当初リーダー変更の理由を「分裂を恐れた」ということしか公表しなかった。 リーダー時代の活動 リーダーとしては新たな地位である「サブリーダー補佐」の設置や、比較的高頻度でのお知らせスレの投稿などを行っていた。しかし裏では、自分の思い通りにTapirを動かしたいオカと、突如としてリーダーを押し付けた(ように見えた)オカを快く思わずユートピアを補佐したいと考えたトモユキとの間で板挟みといえる状況に陥っていたとされる。ユートピアの元にはオカからの指示とトモユキからのアドバイスの両方が届いていたことになるが、実際の行動はトモユキのアドバイスに従うか、自分の意思で決定することが多かった。こうして第3期から不穏な空気が漂っていたTapirの立て直しに貢献した。 しかし、当時の雑カテ有名人でもあるけすみぽーの入隊後は状況が変化した。けすみぽーが加わったことが嬉しかったのか、それまでとは異なり暴走気味の行動が見られるようになった。お知らせスレとは別に「Tapirファミリーのチーム力!」というタイトルの質問を投稿し、メンバーが統一した内容で回答するというチームワークなのか荒らしなのかわからないような活動をしていたのが一例である。「Tapirファミリーのトムヤムクンなら大好きです!」という迷言はこの時生まれた。 また、けすみぽーが生み出した「ちぱふぁみま」という言葉を率先して使うこともあった。 Tapir脱退 10月22日に、当時サブリーダーだったトモユキにリーダーを譲った。その後、受験を理由にTapirファミリーを脱退した。脱退からほどなくしてTapirファミリーに復帰したが、この時は特に目立った活動をすることはなく再びTapirから離れていった。12月にはSpeedファミリーに入隊している。本人のモチベーションの低さ(後述)を踏まえると、オカなどの手引きがあった可能性がある。 Speedファミリーにおいて 暗夢、オカと共にTapirファミリーのリーダー経験者であるが、こちらでは特に高い地位には就いていない。真冬のXmas大戦争時には既にファミリー活動への熱意はなかったらしく、チャットでは「この戦争が終わったら辞めます」「ファミリーにはもう入らないので」という発言の記録が残っている。また、立場を明確にしておきたかったトモユキに「うとぴあはspeedファミリーのメンバーなのか?」と尋ねられた時には「違います。speedファミリーには入ってません」と返答している。 ファミリーにはもう入らないという宣言通り、Speedファミリー消滅後の活動は確認されていない。 人物像 ユートピアをリーダーに選んだオカは「人当たりが良い」ことを選出理由として挙げている。またリーダーとしての活動も、けすみぽーが入隊するまではまともであったことから、真面目な人物であると評価されている。 同窓会時代においては、ケロッキーやトモユキから「当時のオカとトモユキの確執に巻き込まれてしまった人物」と認識されている。 名前に関しては時期や資料によってカタカナ表記の「ユートピア」とアルファベット表記の「UTOPIA」が混在しているが、当wikiでは個別ページのタイトルを決める都合からカタカナ表記の「ユートピア」を採用している。 本人も特に表記を統一していなかった節があるが、トモユキは自身がリーダーになった後Tapir公式としてはカタカナ表記に統一している。 関連人物 オカ 前任のリーダーであり、ユートピアをリーダーに指名した人物。突如リーダーの座を譲ったが、実はユートピアを表向きのリーダーにして、組織運営自体はオカ自身が裏から指示する摂政のような方式を目論んでいた。詳しくは個別項目を参照。 トモユキ 後任のリーダー。突然ユートピアをリーダーにしたオカに「無責任」と憤り、自身の経験や考えに基づいてユートピアを補佐した。 ユートピアの活動自体は高く評価しており、Tapir解散後は当時の内情を知らないケロッキーに情報を提供している。 けすみぽー 当時の雑カテの有名人であり、ユートピアがリーダーの時にTapirに入隊した。彼の入隊後、ユートピアは(特に外部に対して)暴走気味の行動を取ることが多くなった。 Tapir人物集に戻る
https://w.atwiki.jp/occultfantasy/pages/1303.html
架空の天地 ユートピアは、トマス・モア(1478年2月7日 ~ 1535年7月6日)がその作品の中ででっち上げた、南アメリカのどこぞにあることになっている、理想郷である。 現代人からするとその様はびっくりするほどディストピアである。 ユートピア は「どこにもない島」の意であるが、尤もらしく「ユートプス王」が南米にあるアブラクサ半島を切り離して建国したと設定される。 中には、一応の首都アモ―ロート(英語で「Dark」)と同じ計画で建設された54の都市がある。国民には服(既製品で皮製)、奴隷が提供される。家畜は牛のみで馬は忌避され、屠畜は専門家が行う。狩猟は下賤なものとして行われない。 病気に罹った人は国を挙げての医療体制の限りが尽くされ治療されるが、症状が酷くなった場合、自死が奨励される。 他には、近隣にある、版図を広げようと思ったら、大変なことになった国アコーラ(*1)、ギリシアの東方にある警報が独特なポリレロス(*2)、王の義務としての税制が独特なマカリア(*3)などが登場する。 軍事の訓練を男女ともに受けるユートピアで、戦争は、抗争が行われるAB間の内、義のある方へ付いて行われる。ユートピアは同盟国の何人かを軍の指揮官クラスに立て、自身らは敵の一番偉い人の首を獲るのに専念し、戦闘要員に近所の勇猛すぎる戦闘民族を当てる。 このザポレット(*4)は、かの地の東方500マイルにあり、土地は峻厳な山々と森林に囲まれ、人民は耕作をせず、牧畜くらいしかいいところがない。戦争がない時は狩猟か泥棒をやるこの一族は、金払いがよっぽどよくないと扱えない或いは敵が、雇われ方より高いお賃金を提示すると寝返るのが普通なので、金銭関係に執着がないユートピア人のみが良く彼らを扱えるという。 主な参考文献 『世界文学に見る架空地名大事典』 トマス・モア『ユートピア』岩波文庫ワイド版 山北篤監修『幻想地名事典』
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/18021.html
【登録タグ 曖昧さ回避】 曖昧さ回避のためのページ KEIの曲ユートピア/KEI muuの曲ユートピア/muu 青屋夏生の曲ユートピア/青屋夏生 ふらくの曲ユートピア/ふらく 曖昧さ回避について 曖昧さ回避は、同名のページが複数存在してしまう場合にのみ行います。同名のページは同時に存在できないため、当該名は「曖昧さ回避」という入口にして個々のページはページ名を少し変えて両立させることになります。 【既存のページ】は「ページ名の変更」で移動してください。曖昧さ回避を【既存のページ】に上書きするのはやめてください。「〇〇」という曲のページを「〇〇/作り手」等に移動する場合にコピペはしないでください。 曖昧さ回避作成時は「曖昧さ回避の追加の仕方」を参照してください。 曖昧さ回避依頼はこちら→修正依頼/曖昧さ回避追加依頼
https://w.atwiki.jp/nijiame/pages/306.html
概要 人工島 サイクロップスがX-クラブに命じてサンフランシスコ沖に作らせた人工島上に建設されたミュータント国家。これはかつて海中に沈んだアステロイドMを引き上げ、島として利用したもの。 海上に安定して設置する事が難しかったため、ネイモアとアトランティスの協力を得て基部を強化した。 飲料水、生活用水の多くはアイスマンの能力によって賄われていた。 ほぼ全てのX-MENメンバーを含む、二百数十名のミュータントと人間がこの島で生活していた。 かつてX-MENの敵であったデンジャーが地下牢の番人として機能しており、地下牢にはヘルファイヤークラブの面々らが囚われている。 建国直後から、様々な敵から立て続けに攻撃を受け続けた。 サンフランシスコで反ミュータント派と親ミュータント派による衝突が発生した際には、オズボーンの陰謀によりアメリカの敵として扱われた。ダークX-MEN&ダークアベンジャーズの攻撃を受けるが、サイクロップスの指揮の下、見事に撃退。オズボーンに侵攻を諦めさせた。 シージ戦後のセカンドカミング事件では、バスチオンによって一部サンフランシスコごと破壊不能の結界に包まれ、外部からの支援を一切受けられない状況での戦いを余儀なくされた。未来から送り込まれたニムロッド軍団の総攻撃を受け、ナイトクローラーを含む何人かの犠牲を出した。 この際、結界の解除に乗り出したのが、シージ後新体制でのアベンジャーズの初出動(連載時期的に)だったが、FFも合流したにもかかわらず成果は上げられなかった。 スキズム事件にてウルヴァリンがユートピアを離脱し、ジーングレイ学園を建校。多くのメンバーが共にユートピアを離脱した。 アベンジャーズとの戦いでメインメンバーが敗れ、若手メンバーがアベンジャーズアカデミーに収容される等、崩壊状態に陥る。 天空島 AvsX展開中、月面でのフェニックスパワーの獲得によりフェニックスファイブとして覚醒したサイクロップスらが新たに再建したユートピア。空中浮遊都市となった。 フェニックスファイブが暴走し、ダークフェニックス化したサイロップスとの戦いには残るほぼ全てのX-MENが参戦。ついにユートピア体制は終わりを迎える。 再建 その後、一部のミュータントが平和に生きるためにユートピア跡地でチームを組んで暮らそうと試みる。面々は、ブンブン、ランダム、マスク、エリクサー、カルマ、マディソンジェフリーズ。 S.H.I.E.L.D.からX-MENに保護要請があったが、衝突の後、X-MENは彼らを見逃す事を選択。サイクの生徒達の発案により、ユートピア残党組はカナダのウェポンX基地跡(新エグゼビア学院跡)で暮らす事になった。 所属チーム X-MEN X-FORCE(三期) ニューミュータンツ(三期) X-クラブ 等々 外部協力 アトランティスミュータントであるネイモアがユートピアに参加しており、アトランティス兵も時として戦いに協力している。 囚人 セバスチャン・ショウ ドナルド・ピアース
https://w.atwiki.jp/miitopianorekishi/pages/2.html
ミートピアの地域別 サイショーの国 トナリーノ砂漠 エルフの森 火山の洞窟 雪山の国 フシギの国 旅人の町 雲の国 超摩天楼 ガラパス島 ネオンシティ
https://w.atwiki.jp/studentx/pages/401.html
ユートピア(Utopia) (用語、地名、マーベル) 初出:Dark Avengers #8(2009年10月) (Dark Avengers #8,2009年10月) 浮上したユートピア。右下は裏をかかれて悔しいノーマン・オズボーン。 概要 サイクロップスが建設したミュータントの独立国家。 サンフランシスコ沖1.2マイルに位置する。 ベースとなっているのは且つてマグニートーが本拠地にしていたアステロイドM。クロスオーバー"Utopia"のストーリー中で、サイクロップスの指示により、X-クラブのメンバーが海中から引き上げさせた。 現在はアトランティス人が建てた柱によって支えられている。 この地はミュータントたちにとって、ついに辿り着いた安住の地となるはずだったが、幾度と無く致命的な攻撃を受けている。