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モンゴル国 青木雅浩『モンゴル近現代史研究 1921‐1924年-外モンゴルとソヴィエト、コミンテルン』早稲田大学出版部 生駒雅則『モンゴル民族の近現代史(ユーラシア・ブックレットNo.69)』(東洋書店、2004年) 薄っぺらい本だが新しい研究が反映されている。19世紀末から1940年代に入るまで、特に独立モンゴルが社会主義路線へと舵を切っていく時期の研究としてよくまとまっている。 磯野富士子『モンゴル革命』(中央公論社、1974年) 小貫雅男『モンゴル現代史』(山川出版社、1993年) 山川だけど、使ってる研究や資料が社会主義時代の頃のままで最早参考に出来ません。 木村毅『モンゴルの真実』(中西出版、2002年) 注)1921年の革命と1990年の民主化について書かれている入門書。 小長谷有紀『モンゴルの二十世紀』(中央公論新社、2004年) 歴史書じゃなくて、モンゴル国で社会主義を建設した著名人(作家、牧民、官僚など)のライフヒストリー集。 小松久男編『中央ユーラシア史』(山川出版社、2000年) 橘誠(2011)『ボグド・ハーン政権の研究―モンゴル建国史序説1911‐1921』、風間書房 田中克彦『草原の革命家たち―モンゴル独立への道』(中央公論社、1973年) 注)書かれたのは少し古いが未だに説得力を持つ、モンゴル独立の立役者達にスポットを当てた名著。 田中克彦(2009)『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』岩波書店(新書) これまで日本における「ノモンハン事件」を扱った本は、日本側の失策を問うものやソ連と日本を中心とした国際関係を論じたものだけだったが、戦争の当事者であるモンゴル人民共和国からの視点を大きく取り入れた画期的な書。色々な人にぜひ読んでほしいが、モンゴルの将校の記述について一箇所重要なな誤りがある。それについては二木博史(2009)「現代史が物語化されるとき―田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』の場合」(『日本とモンゴル 119』、日本モンゴル協会、pp.89-96)を参照のこと。 寺山恭輔(2009)『1930年代ソ連の対モンゴル政策-満洲事変からノモンハンへ-』東北大学東北アジア研究センター W.ハイシッヒ著/田中克彦訳『モンゴルの歴史と文化』(岩波書店、2000年) モンゴルの古典籍に関する記述が中心だが、モンゴルや内モンゴルの独立闘争に関しても書かれている。 萩原守「モンゴルの独立から現代まで」(小長谷有紀『アジア読本 モンゴル』河出書房新社、1997年) 矢野仁一『近代蒙古史研究』(弘文堂書房、1925年) O.ラティモア著/磯野富士子訳『モンゴル―遊牧民と人民委員』(岩波書店、1966年) ―モンゴル人民共和国で出版されたものの翻訳 Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳『モンゴル現代史』(明石書店、2002年) モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史ほか訳『モンゴル史(全2巻)』(恒文社、1988年) 注)社会主義時代の政府公認のモンゴル史。2巻本。 Kh.チョイバルサン;D.ダシジャムツ;L.バトオチル著/田中克彦訳『モンゴル革命史 附・スヘバートルの生涯』(未来社、1971年) Yu.ツェデンバル著/新井進之訳『社会主義モンゴル発展の歴史』(恒文社、1978年) 注)戦後チョイバルサンの後を受けて、自身の痴呆が始まるまでモンゴルの指導者であり続けたツェデンバルの論文集。当時の人民共和国の国内外の問題への公式見解が分かる。 Т.ナムジム著、村井宗行訳『モンゴルの過去と現在』上・下(日本・モンゴル民族博物館、1998年) Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳『モンゴル現代史』(明石書店、2002年) モンゴル人民革命党中央委員会付属党史研究所編纂/外務省アジア局中国課訳『モンゴル人民革命党略史』(外務省アジア局中国課、1972年) 注)1917~1966年までのモンゴル人民革命党(モンゴルの共産主義政党)の公式史。当時の党の立場が分かる。 (1972年)『モンゴル人民革命党略史』(日本モンゴル協会) 注)モンゴル人民革命党中央委員会所属党史研究所から1967年に出版した「モンゴル人民革命党略史」の訳。上記の外務省アジア局中国課のものと基本的に同じ。 <英語> C.R.Bawden/1989/"The Modern history of Mongolia"/London Kegan Paul International Onon, Urgungge/1976/ "Mongolian heroes of the twentieth century" /AMS Press Robert A. Rupen/1979/"How Mongolia is really ruled a political history of the Mongolian People s Republic, 1900-1978"/Hoover Institution Press, Stanford University Robrt A. Rupen/1964/"Mongols of the twentieth century"/Indiana University publications ; Uralic and Altaic series ; v. 37 Robert A. Rupen /1966/"The Mongolian People s Republic" /Hoover Institution on War, Revolution, and Peace, Stanford University Robert A. Rupen /1954/"Outer Mongolian nationalism, 1900-1919" /University Microfilms International 内モンゴルなど 加々美光行(2008)『中国の民族問題―危機の本質』、岩波書店 1947年の内モンゴル地自治政府成立の経緯などに章が割かれている。 鈴木仁麗(2012)『満洲国と内モンゴル―満蒙政策から興安省統治へ―』、明石書店 ドムチョクドンロプ/森久男訳(1994)『徳王自伝―モンゴル再興の夢と挫折』岩波書店 中尾正義、フフバートル、小長谷有紀編(2007)『中国辺境地域の50年 黒河流域の人びとから見た現代史』、東方書店 ボルジギン・フスレ(2011)『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策―1945~49年 民族主義運動と国家建設との相克』、風響社 森久男(2000)『徳王の研究』創土社 森久男(2009)『日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』講談社 楊海英編(2009)『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料〈1〉―滕海清将軍の講話を中心に (静岡大学人文学部研究叢書―内モンゴル自治区の文化大革命) 』、風響社 楊海英(2009)『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 上・下』、岩波書店 楊海英編(2010)『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 2 (静岡大学人文学部研究叢書 23 内モンゴル自治区の文化大革命 2) 』、風響社 楊海英(2011)『続 墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』、岩波書店 楊海英編(2011)『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料〈3〉打倒ウラーンフー(烏蘭夫) (内モンゴル自治区の文化大革命) 』、風響社 楊海英編(2012)『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 4 (静岡大学人文学部叢書 30 内モンゴル自治区の文化大革命 4) 』、風響社 戻る
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こちらのページでは概略を伝えさせていただきます。 詳しくは関連リンクを、少しづつでもいいですから是非ご覧ください。 南モンゴルは【人口侵略】が完成している! http //www.nicovideo.jp/watch/sm8385493 南モンゴルは一般的には内モンゴルと呼ばれています。 かつて日本の満州支配の延長線上にあった南モンゴル地域は、 満洲国官吏のモンゴル族が中心となり民族運動を展開。日中 戦争時は日本軍の支援で蒙古連合自治政府をつくり、徳王らに よる蒙古独立運動がありました。 日本降伏後、中国共産党の影響下で1947年、内モンゴル自治区 人民政府が成立。1949年中華人民共和国成立後初の自治区 (内蒙古自治区)に編入されました。 中国の支配開始からの半世紀、虐殺、破壊、同化政策、漢民族 移民政策により、少なくとも70万のモンゴル人が殺害され、迫害 を受けています。学生や平和運動家による活動は阻止され、 長期間刑務所に送られるなどの弾圧を受けています。 現在、南モンゴルでは漢民族が80%以上を占めモンゴル民族は 消滅の危機を迎えています。 南モンゴルの現状 - 【モンゴルは1635年から1911年の間、中国とチベットと共に満洲に支配されていた。 間違って「内モンゴル」として広く知られる南モンゴルは、1947年中国共産党により 占領された。それを除けば、モンゴルのいかなる領土も中国の一部であったことは なかったのである。過去半世紀に南モンゴルのモンゴル人は自治権を奪われただけ でなく基本的人権と自由を否定されてきた。多数の漢人入植者がこの地域に定住し、 モンゴル人を自らの土地にもかかわらず絶対少数にした。何十何万ものモンゴル人 がモンゴルであるというだけで迫害の対象となっている。】 (南モンゴル人権情報センターより) +... 人口問題 1990年の統計では内モンゴル自治区の総人口は2145.7万人。その中で 漢民族が1729.87万人、モンゴル民族の人口は337.5万人。モンゴル民族は 全自治区総人口の15.73%を占めるに過ぎない。 1949年以来、南モンゴルの人口は560万人から3200万人と6倍に急上昇し 同様に家畜の数も急増した。幾年にも渡る過熱した木々の伐採や放牧は毎年 386平方マイルの南モンゴルの草地を砂漠へと変えている。 環境問題 砂 漠 化 - 1950年代以降、中国政府は内モンゴル占領を既成事実にするため漢人を大量 に移住させた。ほとんどの漢人は農民だった。南モンゴルは土地の表土を剥がす 耕作には適していない。農業を始めて2、3年後には砂漠に変わる。 漢民族の開墾 と開発で南モンゴルの81%は砂漠化した。北京の政府高官は自分達が脅かされる まで、この問題を無視し続けてきた。 そして南モンゴルに対する政策の失敗をモンゴルの牧民とその家畜に責任転嫁した。 砂漠化をもたらしたのは遊牧民ではなく、農耕民である モンゴルなど北・中央アジアの遊牧民はウマ・ウシ・ラクダ・ヒツジ・ヤギの五畜を 放牧しその乳と肉を生活、生産資源としてきた。彼らは季節ごとに異なる放牧地を 有しその間の移動を繰り返す。元来、万里の長城以北の地域は降水量が少なく、 農耕に適さぬだけでなく、ある一カ所での長期間放牧にも耐えられない環境だった。 遊牧民の定期的な規則正しい移動は、厳しい自然環境を合理的に利用するために 発達してきた技術である。移動によって「過放牧」という破壊的な結末を避けることが 出来たのである。 有史以来オルドス地域は戦略的に重要な場所であったため、遊牧民と農耕民との 争奪の地であり続けた。漢族側が時々この地を占領すると、城池を築き屯田を勧め た。歴代王朝の屯田地の中心地だった古城の周囲はほとんど例外なく塩田化して いる。灌漑により地中の塩分が上昇し結晶した塩がさらに草原に散って利用出来な くなっている。 モンゴル人は早くから乾燥地での開墾がもたらす環境破壊に気づいていた。 清朝末期に政府がオルドス地域へ大規模な入植と開墾を押しすすめた時、モンゴル 族は抵抗運動を展開した。そのとき農耕を受け入れられない理由のひとつに、開墾 による塩田化をあげていた。 砂漠化を引き起こしたのは農耕民であり、本来の住民である遊牧民はむしろ環境 に優しい生活を営んできた。水さえやれば作物や草が生長する、というシンプルな 発想は捨てなければならない。乾燥地での灌漑は塩田化にもなる。 沙漠化の原因 モンゴルのステップの表土は、大体30センチから40センチの多年草の根により構成 されている。大地の断面を見ると、一番上が黒い層で覆われている。その土には 多年草が生えており、毎年その根から新しい草が出て家畜達がそれを食べて生活が 出来ていた。開墾すると30センチぐらいの黒い表土が耕される。その結果多年草の根 もなくなる。黒い土はある程度栄養もあり、3~5年程は農業が出来る。2年目、3年目 まではいい収穫も出来るが、モンゴルは風が強い場所で5年程たつと風化する。 そして表土の下に砂状の土があり、それが出てきて沙漠化が起こる。 いったん開墾された土地の多年草の表土は二度と回復しない。数万年かけて 出来たモンゴル草原の表土は草原の保護層である。 砂漠化の主な原因(南モンゴルの被害) 1、開墾 乾燥した土壌や降雨量が少ない気候条件を無視した、森林伐採による農業開発。 2、国営農場の乱立 中華人民共和国成立後の建設兵団。中国内地から大勢の漢人を南モンゴルに移住 させ、国営農場を作る。 国営農場の行政権限は、旗の副旗長の行政権限と同じものとなる。地元の行政の 指導を受けない独立した権限を持ち、地方政府の制限を受けずに開墾する。 3、薬材採掘 漢方薬の材料となる薬材を根こそぎ掘る。その薬材は大体多年草の根なので、 南モンゴルの沙漠化の大きな原因の一つになっている。地元遊牧民と薬剤採取に 来た漢民族との激烈な対立の原因にもなった。 二〇世紀後半から顕著になった砂漠化 南モンゴルでは、1982年に家畜の分配が行なわれ、2年後の84年に牧草地の使用 権の分配が行われた。それまでの遊牧は一部の牧草地を休ませながら交替で使う 仕組みだったが、限られた牧草地を各個人に分け与えることにより、多くの地域では 囲いを作り家畜をその中に閉じ込める事になった。 この20年間の砂漠化のスピードは、かつての100年、200年の砂漠化をはるかに超え るものだった。 その元凶は中国政府の南モンゴルに対する開墾と牧畜政策の誤りにある。 内陸部に暮らす少数民族の多くは牧畜を生業とし、数千年にわたって営んできたが、 草原は砂漠化しなかった。彼らが遊牧民として移動しながら牧畜し、ぜい弱な土壌を 傷めずに持続可能な生活スタイルを取ってきたからだ。 環境保全移民(エコロジー移民) 強制移住 - 近年、南モンゴルにおいて「西部大開発」をスムーズに進展させるため自治区全域 で土地封鎖、強制移住、牧畜禁止、都市化を進める「生態移民」政策を実施して いる。同政策は単に人や動物の移動だけではなく、中国領土からできるだけすみ やかにモンゴル人を排除する目的で周到に考えられた民族圧殺のプロセスである。 2年前から始まった「エコロジー移民プロジェクト」では6年間におよそ65万人を 強制的に移住させる。深刻な環境問題をかかえる中国が打ち出した「生態移民」 だが、「移民」の対象のほとんどはマイノリティ・グループである。 中国からの正式発表では2000年以降「環境保全移民」政策により、すでに 16万ものモンゴル人が草原で続けてきた伝統的遊牧生活から強制的に漢民族が 密集している都市部に移動させられた。モンゴルの牧民は政府から何のサポート もなく家畜の売却を強要され、自らの牧地を離れ見知らぬ土地でなれない生活を 強制されている。 「環境保全移民」政策は土着のモンゴル人の文化破壊だけではなく、人権侵害 以外のなにものでもない。多数のモンゴル遊牧民は、この過酷な移動政策に よって住まい・家畜・土地を失っている。 発電所建設により先祖伝来の牧地を追われる牧民 2003年7月1日シリンゴル盟シロンフーホ旗の南に位置する500ヘクタールの草原 地帯で120万KWの石炭火力発電工場の建設作業が開始された。 シリンゴル盟は中央政府の「環境移民」「囲封転移」(囲んで、封鎖して、移動させる)、 「休牧・禁牧」、「都市化」の新政策を一早く取り込んだ地域である。2002年1月時点で 3430戸、14691名の牧民が移民になった。シロンフーホ旗でも火力発電実施のため 一ガチャ-(村)の牧民84戸380名を強制的に移動させた。 それは祖先の墓まで移動させる悲惨な命令だった。 2003年7月1日、火力発電所の建設着工を祝う式典が)行われた。 政府は、地元住民の怒りを懐柔するため補償を提示しているが、それには3パターン がある。 1、1万元(1,100米ドル)の補償が支払われるが、移住したモンゴル人は永久に 故地には戻れず、新天地探しも個人で責任を持たなければならない。 2、補償を選択しない場合政府が建てた5,000元(550米ドル)の土の家屋に住む。 ただし、家屋を所有した牧戸はオーストラリアから輸入した乳牛を購入する ため政府から5,000元の借金をすることになる。 3、家長が60歳以上の場合は政府から借金することができない。 発電所の完成により、一部の農墾漢民族がこの地域に入るきっかけとなり、純牧業 地域への土地占領の機会が広がる。土地の開発利用、新たな土地の分配、企業・ 工場の進出、文化的汚染、治安の悪化、婚姻関係の転化など従来の遊牧民文化 (ノマテイズム)自体の大混乱が予測される。 森から追われる最後の狩猟民達 2003年.8月ヤクート人達は、新しい村を建設のためモンゴルとシベリアに近い ヒャンガン・ダワー(大興安嶺)の中にある故地を離れた。ヤクートはエウェンキの 一部で中国が狩猟民と認める最後のエスニック・グループである。 新しい村でヤクートたちは狩猟を禁止されトナカイは小屋や家畜囲いの中で飼育 されることになる。 移住者は村を去る前に猟銃を引き渡さなければならない。 猟師らは約1000元(120米ドル)の年収と枝角やトナカイから作る製品を売って得る 平均4000元(480米ドル)の副収入を失うことになる。役所では、新アオシアン村に 加工工場と観光客誘致のためのマイノリティ・ビレッジの建設を計画している。 家畜放牧の完全禁止 2002年12月1日以降、トンリョー市では放牧の完全禁止策を実施している。トンリョー 市には4346畝(290ヘクタール)の牧草地があり、320万頭の家畜がいる。放牧完全 禁止により、同市における牧草地の3954畝(264ヘクタール)が保護され、保護地域 は牧草地全体の80パーセントに達する。 全市の138ソム(町)と2697ガチャー(村)に居住する43万8500世帯の牧民や農民は 今後集約的農牧業移行してゆくことになる。 森林警察が草原封鎖、放牧禁止を徹底 シリンゴル・アイマク(錫林郭勒盟)の全ホショー(旗)、ソム、ホト(市)の森林警察は、 放牧一時または全面禁止区域・休閑地・森林回復プロジェクト区域・沙漠化要因抑制 プロジェクト区域で放牧禁止を徹底するため警官を派遣している。 漢人農民の襲撃 2002年7月1日から22日にかけてアルタンツォク・ソムのアラク山及びアルタン・ テブシ山付近に宿営するモンゴル牧畜民らが甘粛省張掖地区の漢人農民グループ から何度も襲撃を受けた。農民らの目的は牧畜民の放牧地を耕作するため占有する 事である。少なくとも40人の牧畜民が暴行を受け、その多くは手足を骨折。牧畜民は 強奪と治療などのために何万元という被害を受けた。地元政府に事件の解決と助け を求めたが、アラシャー・アイマク及び張掖政府当局は事件を黙殺している。 牧畜民が受けた損害の補償はなく事件の犯人らに何の処分も下されていない。 過去においても隣接する省から漢人農民・移民達が放牧地占有の目的で牧畜民を 襲撃してきた。中国政府はこのような事件やモンゴル人らの抵抗運動を無視し、仮に 取りあげても漢人側に有利な紛争解決し続けてきた。 このような状況の繰り返しが結果としてモンゴル人が放牧地を放棄することになる ばかりでなく、伝統的なライフスタイルも捨てざるをえなくなっている。 巨額の損失、しかしそれは誰が作ったのか? 国連環境計画は中国全体の環境被害から毎年65億ドルの直接的な経済損失がある と見積もっている。これは幾年にも及ぶこの地域への中国政府の裁可を受けた漢民 族の移住の結果として起きた問題である。 羊飼いたちからの抵抗 2001年5月に東部のBagariin Bannerで地方警察と羊飼いたちの衝突があった。 100名近い警官と治安職員が素手の羊飼いたちと戦った。41匹の家畜が没収され、 警官が羊飼い達の家畜を没収しようとした時に4人が殴打され、重傷を負った。 幾つかの地域では移住計画が牛飼いたちからの強硬な抵抗に遭遇し、地方政府の 高官は羊飼い達を追い払うために警察に依存した。 彼らの大半には政府による適切な食糧・水・住宅・シェルター・医療サービスの 保障はない。 教育問題 南モンゴルのモンゴル族の中で実際にモンゴル語を母語としている人口は220万人。 モンゴル人総人口の88.36%である。その中でモンゴル語と漢語(中国語)が併用出来 る人口は11%、漢語がある程度理解できる人口は19%を占める。漢語がまったく理解 できず、モンゴル語のみでコミュニケーションを行う人口が58%である。 民族語を失い、言語的に漢化された人々 19世紀以来この地域に大量の漢民族の移民が入植したことにより、この土地の元来 の住民であるモンゴル人の伝統的な生活に著しい文化的変化をもたらした。それは 入植者であった漢民族の人口が土地の住民の人口を大きく上回ったことと深い関係 がある。その結果彼らが代々使ってきたモンゴル語を完全に失った人口は全自治区 内には29万人に達し、自治区総人口のモンゴル族の11.64%となった。 1990年代以降、市場経済の原理が社会全体に導入されたことにより、モンゴル民族 の民族教育の状況が激変し、危険的状況を迎えようとしている。 経費不足 毎年国家予算から経費を支出、民族学校を援助することがあっても毎年増える生徒 に対してその金額はほとんど変わっていない。物価が上昇する中、民族教育に使わ れる金額の比率は減少している。 民族学校の経費不足のため国や自治区政府からの資金の大部分は給料などに使 われ、学校の建設などに使われたものは少ない。教室の中の机やイスなどの設備も 不十分な状態が続いている。地方の多くの所では教室や寄宿舎が不足している。 多くの生徒たちが危険な校舎のなかで勉強している。 近年になり子供達を漢民族の学校に行かせるモンゴル人が増えている。問題は 南モンゴル全体ではモンゴル語を使われる場所が年々減っていることである。 モンゴル語を習っても就職の時は漢民族と中国語を使って競争しなければならない ため有利にならず、むしろ競争力が失われ、敬遠される状態にある。 1991年度の子供の年間にかかる教育費は小学生500―600元、中高生4000元、 大学生8000元が実際費用である。近年はさらに費用がかかるようになった。 生活に占める大きさは年間の牧民平均世帯収入3354.,71元(シリンゴール盟)と 比較すれば極めて大きい。 学費と生徒の学校中退 ここ数年、南モンゴルの田舎では学校を中退する生徒が急増している。その主な 原因は学費の問題である。これまで国から提供されてきた地方や少数民族地域の 学校を援助するための資金も最近は減少される一方で、完全停止する場合すらある。 基礎教育、すなわちこれまでは義務教育だったはずの学費のすべてを個人が負担 しなければならなくなっている。 現在、中学生の一年間の学費が1500元に上昇し、小学生も年間1000元以上の 学費を払わなければならなくなっている。 内モンゴル自治区では一人当りの年間平均収入が3―4百元にも満たない貧困 家庭が数多く生まれている。学費は貧困家庭の数人分の年間収入に匹敵する。 モンゴル民族教育の危機 モンゴル語の場合、都市では幼稚園から大学までモンゴル語で勉強できる完全な 教育制度が設けられていない。 そのため、民族のことばや文字を自由かつ自然に 習うことは大変難しい問題で、やむをえず漢語を第一言語として習得する人々が増 えている。 1982年に内モンゴル自治区ではモンゴル語で勉強する小、中学生は全モンゴル人 学生の73%を占めていたのに対し、1995年は50%を切るようになった。 都市部、あるいは言語的にほとんど漢化している地域ではその数はさらに減少し、 10%まで落ちている。 「生態移民」によってコミュニティーから切り離され、漢民族が圧倒的に多い都市 部へ移住させられた結果、教育システムが崩壊の危機にひんしている。 貧困層の増大 近年の改革開放政策において、内陸部は原材料供給地、第一次産業の基地として 位置付けられた結果、地域全体が経済的な自立性を失いつつあり、少数民族の伝統 的な生活と文化が消失し、深刻な貧困層の増大が現れてきた。 1979年から始まる改革開放に伴い、牧民生産請負(うけおい)制がスタートし、遊牧 草地は世帯ごとに配分された。余裕な草地がないため配分された土地だけで永年に わたってきた遊牧生活を行うことが困難になり、一時的貧困層が増えた。 農民にとってはこの政策が有利になり草地を開墾しはじめた。これが農家の生産意欲 を飛躍的に向上させ、開墾、入植により自然環境は一層悪化し、砂漠化が進行した。 牧民の収入は、畜産品市場価格変動と自然環境に大きく関わる。電気、電話などの 通信設備と道路の不備などにより、移動の自由と草地を奪われ、牧民地域の貧困が 一段と厳しくなってきた。シリンゴール盟では、羊などの家畜の個体が小さくなってい るというが生産量全体の低下にはなっていないという説明もある。つまり、個体の小 型化にもかかわらずトータルとして羊毛生産や肉生産に停滞は起きていないとすれ ば、飼育頭数の増加によってこの問題をカバーしようとしていることになる。草地の劣 化はこうした悪循環の結果として引き起こされていくものと推測される。 医療保健制度の導入が都市部と牧区部では大きな差が現れている。内モンゴル 自治区では基本医療保険制度を実施以来、自治区2284万人に対し151万人が当 保険制度に加入し、加入率がわずか6.6%にすぎない。 牧民にとって現段階では牧畜税、草原税、人税、土地利用税等などに加え牧畜業 専業の牧民にとって保険料と医療負担は増加している。 南モンゴル東部地域のモンゴル人は牧畜を放棄させられ一般的な乾燥地域の 農業も出来なくなった。現在はビニールシートを敷いて、その上に土を置いて米を 作っている。現在南モンゴル東部地域のモンゴル人社会は、中国の中でも最も貧困 地域の一つである。沿海地域との所得の格差は10倍以上になっている。 民族地域自治法の改正 西部大開発の実施と軌を一にして民族区域自治法(1984年、制定)が2001年3月 の全人代で改正された。民族自治政策は、統一国家の維持という至上命題を前提 にし、少数民族あるいは民族自治地方の国家からの分離・独立を否定してきた。 チベット、新疆ウイグルさらに内蒙古などの各民族自治区で起こった「独立」騒動は 軍隊・警察を動員して武力鎮圧した。また江沢民など中国共産党指導者は中央アジア 各国、モンゴル、インドなど近隣国家への積極的な友好外交を展開し、中国国内の 少数民族の「後方支援基地」を遮断、分離・独立の芽を摘んできた。 政治面で少数民族の遠心分離傾向を抑圧し、統一国家へ少数民族を求心しようと する中国の方針が成功するためには国内の漢族先進地域と少数民族後進地域の 間に存在する国内の南北問題の克服である。 中国の経済発展と所得水準の向上が、少数民族と民族自治地方にも成されなければ 少数民族を統一国家に吸引・包含する理屈づけは難しい。情報化が進展するなか、 中国の東部沿海地域と他のアジア諸国の経済状況と水準を知るようになった少数 民族は、南北問題を従来より強く自覚するようになったのである。 伝統文化の破壊 1980年からの文化革命では3000に及ぶ寺院が破壊された。 チンギス・ハン チンギス・ハンは、中国史上最大の国土を誇った元朝の始祖であり、領内最大の 少数民族の一つであるモンゴル民族の祖先でもあるという理由で「中華民族の英 雄」と称えられている。中国に暮らす各民族が皆「中華民族」の一員であるという 「多元一体」の民族理論によるものだが、この「中華民族の英雄」というバッジを付 けない限り、少数民族出身の英雄は中国の表舞台に登場できない。 撤盟設市・アイマクの消滅 南モンゴルには歴史的に9つのアイマク(盟)があり、アイマクはいくつかのホショー (旗)で構成される。伝統的な行政システムは、南モンゴルの自治のメカニズムと して数世紀にわたって維持され、中国共産党による占領後もモンゴル・アイデン ティティの象徴的な意味において重要な役割を担ってきた。しかし1980年代以降、 中国政府は移民と同化を加速し正当化するため、アイマクを市に改編し始めた。 1983年 ジョーオダ(昭烏達)・アイマク → 「赤峰市」に改編。 内モンゴル東部のは最も伝統的なアイマク。現地住民との協議なしで改編。 この後、当局は多くのホショーを「県」に改編。 1999年 ジリム(哲里木)・アイマク → 「通遼市」に改編。 内モンゴル9アイマク中もっとも多くのモンゴル人口をかかえる。 現地のモンゴル人の強い反対を無視して改編。 2001年 イヒジョー(伊克昭)・アイマク → 鄂爾多斯(オルドス)市」に改編。 チンギス・ハーン廟の存在により最も神聖で典型的なアイマク。 漢民族政権に反旗を翻した歴史をもつ。 2002年4月 フルンボイル(呼倫貝爾)・アイマク → 市への改編を正式発表。 モンゴル民族発祥の地。 バヤンノール、オラーンチャブ2つを含め、9つのアイマクのうち6つが市に改編された。 近隣地域からの無学な農民及び沿海地域からの無節操な商人などを含む漢民族 による「都市化と近代化」が急速に進むと予想される。 現存するシリンゴル(錫林郭勒)、アラシャン(阿拉善)、ヒャンガン(興安)3つのアイマク ではすでに伝統的な遊牧が禁止され次のターゲットとなっている。 80年代頃から始まった市場化の流れの中で、発展のチャンスに恵まれないまま 資源が失われてしまい、貧困化も目立ってきた。農業中心の内陸部の「地区」を「市」 と呼び換え、農民や遊牧民を「市民」にするという行政改革、「撤地設市」の動きは 少数民族自治区でも画一的に進んでいる。通遼市になったジリーム盟のように、 モンゴル語の地名が捨てられて少数民族の自治地域かどうか見分けられなくなった 所もある。 参照:南モンゴル人権情報センター 内モンゴル自治政府成立を振り返る南モンゴル人デモ 今から 62年前(1947年5月1日)に成立した内モンゴル自治政府 は 1949年に中華人民共和国に参加するという誤った選択 をしたためにその後は 実質的な植民地として容赦の無い弾圧と虐殺 を加えられる結果となった。 漢民族の大量入殖・人口侵略によってモンゴル人は自治区内でも少数派となってしまい(自治区内の人口の約13%に転落)、土壌に合わない農耕・牧畜により緑豊かな大牧草原は次々と砂漠化してしまった。これは春先に日本に飛来する黄砂の元凶となっている。 更には 学校でのモンゴル語も禁止・資源の強奪などモンゴル人の人権、文化は消滅の危機 に瀕している。 このような悲惨な歴史を振り返り、南モンゴルにおけるモンゴル人の人権・政治犯の釈放・民族自決・文化・大自然を取り戻すための決意を表明するためのデモが行われた。 呼びかけ人はモンゴル自由連盟党・幹事長オルホノド・ダイチン氏。協賛:南モンゴル応援クリルタイ党首ルービン氏の祝辞と独立宣言が読み上げられた。 この他チベット、ウイグル(東トルキスタン)、台湾の代表も応援に加わり「3民族+台湾・日本」の連帯デモとして盛り上がった。 関連リンク モンゴル自由連盟党 http //www.lupm.org/japanese/ 南モンゴル http //uygur.fc2web.com/south_mongolia.html 南モンゴル人権情報センター 南モンゴルの基本的人権・先住権・少数民族の権利・市民権・国政参与権を めざして活動する団体です。南モンゴルの人権と民主主義の促進。民主的な 政治システムの確立をめざしています。(日本語あり) http //www.smhric.org/Japanese%20SMW-table.htm 南モンゴル応援クリルタイ http //smdhyh.blog20.fc2.com/ モンゴル人ジェノサイド 実録 『週刊新潮』’08年6月19日号 櫻井よしこ 日本ルネッサンス 第317回 http //yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/ Yet Another Mongolia 芦村 京氏のサイト。言語状況を通して内モンゴルの現状を伝えています。 http //homepage1.nifty.com/asimura/index.html youtubeを南モンゴルで検索 ニコニコ動画を南モンゴルで検索 関連したコメントはこちらへ #モンゴル http //mongolkhun.ning.com/ #モンゴル語 http //mongolkhun.ning.com/ #モンゴル人 http //mongolkhun.ning.com/ #モンゴル旅行 http //mongolkhun.ning.com/ #モンゴル音楽 http //mongolkhun.ning.com/ #モンゴル http //mongolkhun.ning.com/ -- (mongol) 2009-10-28 01 10 59 逝ってよし(*´ω`)♂ http //jn.l7i7.com/ -- (俺だ) 2012-01-31 23 34 31 名前 コメント すべてのコメントを見る (↓自動検索による関連Newsリスト。国内主要新聞の報道の少なさが顕著です) 藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン | ガジェット通信 GetNews - ガジェット通信 軍国の記憶:太平洋戦争開戦80年/中 思い出の「古里」旧満州 「良しあし簡単に言えぬ」 /福岡 - 毎日新聞 名古屋グランパスから3選手が日本代表に選出 1月のウズベキスタン戦 稲垣祥は3月のモンゴル戦以来【サッカー】(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 朝青龍、引退から10年以上過ぎた現在の姿に「ここまでスリムになっているとは!」 - grape <きらっとカンパニー> 豊田「空飛ぶ羊」 モンゴル製品 - 中日新聞 【時視各角】米中間の一本綱渡りの危うさ=韓国(中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 「アジア内の影響力、米-中-日…韓国は7位」(中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース <ミス日本>ファイナリスト相馬あすかさん 京都外大・仏語学科3年 モンゴルでのホームステイからツアーコンダクターを志望(毎日キレイ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 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https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/47.html
仮のものです。 ボグド・ハーン政権のモンゴル国の歴史 1911年から1920年までのモンゴルの全般的な歴史の概略を、田中克彦 、萩原守 、Ts.バトバヤル 、小貫雅男 らの著作を中心に示す。 1691年以降清朝の支配下に入っていた外モンゴル地域は1911年、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立した。国家元首にはボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト8世というチベット人活仏 が聖俗界の両方のトップとして諸侯により推戴された。首都はフレー(現在のウランバートル)に置かれ、近代化をある程度志向しつつも(ロシアに軍隊、軍楽隊、電信敷設の援助を要請した)実態は清朝の行政システムをかなり踏襲した専制君主国家だった。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感、漢人への同化への恐れなどから、特に漢人の激しい進出に脅かされていた内モンゴルにおいて反漢ナショナリズムが高揚し、内モンゴルのハイシャン、外モンゴルで危機感を持っていたツェレンチミドらのハルハ諸王侯への説得工作が実を結び、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである 。しかし独立に際し帝政ロシアに援助を求めた。ロシアは結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられた。しかし外交権以外の実質的な主権は保った。その後モンゴルはロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国の軍事的圧力による1919年の「外蒙自治取り消し」やロシア白軍残党ウンゲルン らの侵入などで辛酸をなめた。外からの圧力と社会的矛盾は1921年の人民革命へとつながっていく。 「外蒙自治取り消し」の1919年まで、モンゴルでは内閣の組織、第2次遣露使節 を送り、招聘したロシア軍将校に学んだ近代的正規軍の整備、首都の学校の設置、印刷所の設立、新聞、雑誌の発行、議会と基本法の整備などが行われた 。また1860年代以降、漢人商人とともにロシア人もモンゴルに商館を構えるようになっていた 。一方、封建的身分秩序は清朝時代と変わらず維持されており、封建諸侯はバランスを欠いた財政により増える借金を国家の公民の負担に転嫁していった 。 概してこの時代のモンゴルは、対外的にはロシアを頼って中国からの内モンゴルなども含めた独立、ナショナリズムが叫ばれるようになった激動の時代でもあり、モンゴル内部の問題としては、一部には近代的な政策もとられ、外国人と西洋近代文化の流入も見られ、モンゴルの近代化の胎動は始まっていた。しかし「全体として見れば、ボグド・ハーンのモンゴル国は、清帝国の統治構造の『西北の弦月』を部分的に受け継いだ封建国家だった。そして、そこでの権威の根拠は、ボグド・ハーンの発する宗教的な威光だった 」というような状態だった。 人民革命期、ダムバドルジ政権時代の歴史 この時代の歴史を生駒雅則 とTs.バトバヤル の著書を中心にまとめてみよう。時期として2つに分けられる。すなわちボグド・ハーンを制限君主とする1924年までの立憲君主制とも言える時代と、ボグド・ハーンが他界し、人民革命党委員長ダムバドルジがソ連一辺倒ではない開明的な政策を進めた1928年までである。ただ一貫してあったことは、モンゴル国内の指導者たちは内モンゴルとの一体化を望んでいたのに対し、モンゴルを指導する立場にあったコミンテルンは内モンゴルを領有し続けたい中国との関係悪化を恐れ、モンゴル国の内モンゴルに対する立場を認めず、この対立は1928年の「極左政策」への転換まで続いた。また、ソ連領内にとどまらざるを得なかったブリヤートのモンゴル人たちもモンゴル人の国家作りに大きく貢献したことは記しておこう。 1920年、モンゴル人による初の革命組織、モンゴル人民党が誕生した。革命組織とはいえ彼らは自分たちが「宗教と民族」のために戦うと規定し、モンゴルの貧困と外国からの支配に終止符を打つことが目的の、「民族統一戦線」的性格の党であった。1921年、人民党は苦労してソ連、コミンテルンの協力を取り付け、募兵を行い、中国軍、ウンゲルン白軍を破りフレーを解放した。モンゴルは独立を取り戻し、人民党とボグド・ハーンとの誓約により制限君主国となった。しかし、ロシア人革命家の指導下に組織され共産主義思想の普及を目指したモンゴル革命青年同盟と、民族主義者、ラマ僧から社会主義者までが在籍する雑多な組織であり1921年革命の主役であったモンゴル人民党とが激しく対立し、国内は混乱した。この混乱により人民党の設立の中心にあったボドー やダンザン が粛清されるという事態になり、この対立は青年革命同盟が人民党の下部組織になることで収束したが、結果的にコミンテルン の介入が激しくなることとなった。 1924年、ボグド・ハーンが他界し、党政府は以後この活仏の転生者は出さず、国名をモンゴル人民共和国と定めた。第1回国民大会議が招集され、首都クーロンは「ウランバートル(赤い英雄)」と改称された。ダムバドルジ率いる党政府は、この時期、国内の経済基盤を整備し社会主義建設への準備を整え、海外に広く門戸を開くよう努めた。具体的には、独自通貨トゥグルクの流通開始、中国の高利貸資本による経済独占の解消、初歩的な協同組合運動の育成、学校の整備、外国人の経済活動の自由化、独仏露への留学生派遣である。またラマ教寺院の特権廃止と課税も行われたが、一方で寺院との融和協力も試みられていた。 ダムバドルジ政権時代は後に「右翼偏向」とされ、28年以降はソ連の介入が強まり「左翼偏向」の政策をとっていくことになる。 なお1921年革命の際、軍事面で活躍し、人民党設立にかかわったスフバートルは病死したといわれ、粛清を免れたことから、モンゴル人民共和国成立の英雄として称揚されていくこととなる。 1928年から40年代の歴史 この時期の歴史を生駒雅則 、Ts.バトバヤル 、M.アリウンサイハン の著書からまとめると以下のようである。1928年モンゴルは前年のコミンテルンの対中国政策失敗、ソ連国内でのスターリンによる独裁権確立のための「保守派」「右派」追い落としの影響を強く蒙った。すなわち、スターリン寄りのモンゴル人を使って、スターリンが「穏健派」として攻撃したコミンテルンのブハーリン に影響を受けたダムバドルジら「右派」を排斥したのである。結果、「左派」ゲンデンらが政権を担当し、私有財産制廃止、家畜所有が多い者への攻撃、牧畜業集団化、定住化、寺院経営の家畜の徴発、以上を強制的に実行した。その結果、1932年、各地で不満を抱くラマ僧と民衆の大反乱を招いた。しかし1931年、満州事変が勃発すると、スターリンはモンゴル問題を放置できなくなった。モンゴルではコミンテルンとロシア共産党の合同決議を受けて、ゲンデン以外の左派は追放され、ダムバドルジ時代とさして変わらない「新転換政策」が実施された。残されたゲンデンは自らの誤りに気付き、「新転換政策」推進に努力したが、1934年にスターリンより指示されたラマの一掃に反対し、ソ連の強引なやり方を批判した。またソ連は日本の脅威に対抗しモンゴルへの軍隊駐留を求めたが、ゲンデンらはそれが逆に日本との全面的な戦争を招くと考え、満州国との和解を模索した。結局ゲンデンは1936年からクリミアで家族と過ごした後、「日本のスパイ」として1937年チョイバルサンにより逮捕、処刑された。1936年に内務大臣となったチョイバルサンはソ連の策定した計画に沿いながら、これを自らの独裁確立に利用し、党、政府の指導者たち、軍将校、上級ラマ僧を次々に粛清していき、1940年の「第一〇回党大会までに、彼とともに革命当初から闘ってきた同志はすべて姿を消してしまうのである 」。そして日本との衝突は1939年のハルハ河会戦(=ノモンハン事件)として現実のものとなる。 政治のみならず文化にもソ連の介入が行われた。代表的なのは政治と関連の深い言語政策である。1940年頃よりソ連邦内ではそれまでの少数民族語のラテン文字化の政策を翻し、キリル文字化の政策に転換する。これは田中克彦によればスターリンのロシア中心主義によるものだという 。モンゴル国内でもこの時期、モンゴル語の公用文字をめぐって旧来のモンゴル文字、ラテン文字、キリル文字の三者が検討され、どれも学習効果に差異はほとんどない、という結論が出されていたが、1941年キリル文字に急遽決定した。これにはソ連の指示があった可能性が高いという 。 第2次大戦の終結からモンゴル版「ペレストロイカ」までの歴史 この時代の歴史を、Ts.バトバヤルの著書 をもとに、まとめていきたい。この時期にもいくつか転機があった。それは1956年のチョイバルサン批判、1962年の「雪解け」とそれに対する弾圧、中ソ関係の悪化、ツェデンバル指導体制の確立である。 1939年首相となったチョイバルサンは戦時中を通じてソ連に忠実に、またソ連を支援した。対ドイツ戦に支援物資を送り、対日参戦にも足並みを揃えた。その結果スターリンの後押しと、モンゴル国内の国民投票でモンゴル独立にほぼ100パーセントの支持を得たことを受け、中国国民党からモンゴル独立の承認を得た。中華人民共和国からも「中ソ協力同盟関係での重要な緩衝国 」として、モンゴル独立の承認を得た。しかし一方でチョイバルサンはスターリンと同様、個人崇拝を強めていった。 1956年にフルシチョフがスターリン批判の秘密報告を行った直後、Dダンバにより1951年に没していたチョイバルサンへの批判演説が不徹底ながら行われた。これを機会に粛清された人々の名誉回復が進んでいくことになる。またその演説で行われた個人崇拝批判を機に、知識人に国家の発展のための自由な意見の提出を求めたが、彼らのうち何人かは、「人民を『知的な混乱』に巻き込ん 」だとして党によって地方に追放された。この事件の知識人たちの「黒幕」として告発されたD.ダンバはツェデンバルによって失脚している。またこの50年代は中国との関係が良好であり、中国から経済援助、労働力の派遣などが行われていた。 1960年にモンゴルは新憲法を採択し、その中で「人民革命党を社会の『唯一の指導勢力』とし、社会主義の資産を国家唯一の経済基盤であると規定した 」。また翌年の人民革命党第14回大会では国家が社会主義への移行を達成し、新しい時代に入ったことを宣言した。60年代に入るとスターリン批判以降悪化していた中ソ関係はさらに険悪になっていった。モンゴルは一貫してソ連を支持することによって、多大なる経済援助をソ連から引き出した。この頃のソ連はフルシチョフ体制による、いわゆる「雪解け」の時代だった。1962年にはモンゴルでもこの空気の中、1962年、チンギス・ハーン生誕800周年記念祝賀を、科学アカデミー歴史研究所を中心に、党中央委員会のD.トゥムルオチルらが音頭をとって行うことになっていた。しかしこの祝賀はソ連の圧力によって危険な民族主義だとして中止された。ソ連と対立を深めていた中国では、逆にチンギス・ハーンを中国史上の英雄として称揚し、内モンゴル人統合の手段としていた 。ツェデンバルはこの機会を利用し、自分に批判的だったトゥムルオチルら、そして自分に対する忠誠心の疑わしい幹部を次々と失脚させ、自らへの権力集中を進めていった。ツェデンバルはソ連から得た多大な経済援助、経済協力をもとにモンゴルの工業化、農業化を推し進めていった。1970年代末には工業農業国に移行するつもりだったという。様々な工場が建てられ、機械化農業の導入が進み、テレビ放送が1967年に開始された。ソ連との科学、文化に関する協力協定も調印され実行された。一方、対中国防衛のため、ソ連のモンゴルの戦略的価値は上がり、モンゴルへの駐留軍を増大させた。無理な農業は土地の風食作用を引き起こした。ソ連、コメコン各国への依存が強まり、ツェデンバル独裁体制や、官僚主義の弊害、ソ連への批判は封じ込められた。
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モンゴルの国歌 Монгол Улсын Төрийн Дуулал (詞:Ts.ダムディンスレン(1908-1986)、曲:B.ダムディンスレン・L.ムルドルジ共作) モンゴルの国歌の歴史について見てみたい。 まず、ボグド・ハーン政権下の1914年にロシア人の手による国歌が新設の軍楽隊により演奏されたという記録がある。これはロシアの作曲家でありマリイーンスキー劇場でヴァイオリン奏者も務めていたカドレツ・サンがペテルブルグ大学東洋学部に所蔵されていたモンゴル民謡の旋律を元に作曲したもの。 次いでモンゴル人民共和国成立当初の1924年から1950年迄は「モンゴル・インターナショナル」(1922-23)というソノムバルジリーン・ボヤンネメフ(С. Буяннэмэх;1902年 - 1937年粛清)が作詞した歌が国歌の代わりとして歌われていた(これは社会主義運動の中でよく歌われた「インターナショナル」とは別物。モンゴル語版「インターナショナル」の方は1921年革命で重要な役割を果たしたブリヤート・モンゴル人エルベクドルジ・リンチノが訳詞を行った。)。 1943年のコミンテルン解散を受け「インターナショナル」が国歌だったソ連では新国歌が制定されるが、モンゴルでは「モンゴル・インターナショナル」が1950年の新国歌制定までそのまま国歌の地位にあった。ただ、同曲を放送開始と放送終了の音楽として用いていたモンゴル国営ラジオでは、同年早々に別の歌に差し替えている(この決定には高名な文学者で当時ラジオ局の責任者であったCh.ロドイダムバが関わっているという)。なぜ新国歌制定がソ連より遅れたのかは不明。1943年と言う時期はソ連から音楽教師が派遣され、自国の作曲家が育ちつつあった時期である。 その後1950年に上記の作者たちによる現在の国歌の原型が正式に制定された(これによりTs.ダムディンスレンは翌年、三度目の国家賞を受賞)が、その後も歌詞の変更があり、1961年、1961年から1991年のものに変遷。1991年には1950年のものから、レーニンやスターリン、スフバートル、チョイバルサンを讃えた歌詞を排したものが採用され、その後、2006年7月6日、更に一部を変更した歌詞を議会が承認した。 モンゴル国歌を視聴する "1991年から2006年”版の歌詞 1番 Дархан манай хувьсгалт улс Даяар монголын ариун голомт Дайсны хөлд хэзээ ч орохгүй Дандаа энхжин үүрд мөнжинө コーラス Хамаг дэлхийн шударга улстай Хамтран нэгдсэн эгнээг бэхжүүлж Хатан зориг бүхий чадлаараа Хайрт Монгол орноо мандуулъя 2番 Зоригт Монголын золтой ардууд Зовлонг тонилгож, жаргалыг эдлэв Жаргалын түлхүүр, хөгжлийн тулгуур Жавхлант манай орон мандтугай (コーラス) 参考 Д.Цэдэв(1999)”Олноо өргөгдсөн хаант монгол улс, түүний сүлд дууны тухай.” Монголын соёл урлаг судлал , Mongolian University of Culture and Arts, Улаанбаатар, pp.15-45)[ツェデブ(1999)「共戴ハーン制(ボグド・ハーン制)モンゴル国とその国歌」(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所『モンゴル文化芸術研究Ⅰ-Ⅱ』、ウランバートル)] D.ツェデブ(1996)「『モンゴル・インターナショナル』の背景」(『東京外国語大学論集第52号』東京外国語大学) Kara,G(1991)’A Forgotten Anthem’(“Mongolian Studies Vol.14”,The Mongola Society, pp.145-154) 田中克彦(2003)『言語の思想』、岩波書店
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20世紀外モンゴル地域における音楽史研究 私の大学での専攻はモンゴル語とその文化である。モンゴル人の居住する地域は、モンゴル国に加えて中国の内蒙古自治区、ロシア連邦内のブリヤート共和国、カルムイク共和国などがあるが、それぞれ異なった歴史的経緯を持つため、ここではモンゴル人の所有する国家であるモンゴル国に限定して話を進める。さてこの現在のモンゴル国には、もちろん素晴らしい音楽の伝統がある一方、主に社会主義革命以降、ソ連・ロシアを通じての近代化と共に西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けている。西洋音楽は十分に浸透していて、その状況は非常に興味深い。一方でモンゴルは特異な歴史を持つ。この歴史と先の音楽状況を重ね合わせると、モンゴルの音楽状況においての興味深く、また難しい問題が浮かび上がる。そのうち私は2つの点に注目したい。 一つはモンゴルにおける近代化と西洋音楽受容の問題である。そしてもう一つは全体主義のもとでの音楽の状況である。 以前私はモンゴル音楽のこの二つの問題において、日本における研究、資料の収集不足のため、ソ連や戦前の日本のこの種の問題との比較でそれを補おうとしていた。しかし国内での資料探索を進め、更に今年5月、2週間モンゴルに滞在する機会を得、そこでモンゴル人の幾人かの音楽家、音楽研究者と会って話を聞き、また当地で出版された音楽に関する書籍を入手することができた。これにより、ある程度、モンゴルの音楽状況を通時的にまとめることができよう。 同時に上記二つの問題についても考察を進められる、と考えている。最終的に私の目標は上記二つの問題を軸にし、近現代モンゴルの音楽状況を、現在日本に流布しているような、おぼろげな、草原と遊牧の伝統的世界観に偏ったイメージよらず、より現実に即した形で紹介できれば、と考えている。 ところでモンゴル国のその特異な歴史について少し述べてみよう。1691年以降清朝の支配下に入った外モンゴル地域は1911年にボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト(ボグド・ゲゲーン)というチベット人活仏を国家元首に、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立する。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感からナショナリズムが高揚し、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである。この時モンゴルはそれまでの主に代わって、帝政ロシアに援助を求めた。結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられるということはあったにせよ、実質的な主権は保った。1919年ロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国軍による「外蒙自治取り消し」、ロシア白軍残党の侵入など苦難の後、それに対し1921年、ソ連、コミンテルンの支援を取り付けたモンゴル人民党による義勇軍が首都他外モンゴル各地を解放、近代化に端緒をつけたとはいえ伝統的な遊牧社会を保ち、封建制であったボグド・ハーン制モンゴルに代わって人民政府を発足させる。そしてモンゴル人民党は人民革命党となり1924年第3回党大会で「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定し、同年第1回国民大会議で「モンゴル人民共和国」を宣言する。その後は国家の近代化が進む一方、ソ連の影響力の増大、急激な牧畜集団化に対する暴動や粛清、親ソ派でモンゴルのミニ・スターリンと言われたKh.チョイバルサンによる独裁、引き続きYu.ツェデンバルを中心とする人民革命党の長い一党独裁時代を経て1990年代に複数正当性に移行、民主化されて現在に至る。 つづいて、この歴史状況と重なり合う部分にある、音楽における事象について、現在調査している分だけ述べる。 まず近代化に関してであるが、ボグド・ハーン制国家の下で行われた西洋式近代化への第一歩、その中で音楽に関係する事象には、まず西洋式軍楽隊の設置が挙げられる。これは同政権下で1913年に首相サインノヨン=ハン・ナムナンスレンを中心とする第2次遣露使節が、現在はロシア連邦ブリヤート共和国の首都となっているウラン・ウデを訪れた際、ロシア側から軍楽隊による歓迎を受け、それに感銘を受けたことによる(R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil”)。サンクト・ペテルブルグに着いた一行は早速軍楽隊の楽器を買い求めるが、それに対してロシア側が援助を申し出、ロシア人の指導も入ったようだが、1914年、ボグド・ゲゲーンの宮殿脇に西洋式軍楽隊設置された(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』)。この時期の音楽近代化としてはロシア人やアメリカ人貿易商がマンドリンやアコーディオンを持ち込み、広めたことも言及すべきだろう。 革命後は更に国家が積極的に先導して経済、産業など様々な分野の近代化に携わる。音楽も例外ではなかった。国家は劇場(ただし、モンゴルで「劇場」という場合、それは建物のみならず、専属の出演者や演奏家、演出関係全般の人員も含めた全体を指す)、オペラハウス、またアマチュアからプロ養成までの芸術活動の拠点であったクラブの建設というハード面での近代化を進めた。そしてソフト面では1930年代の中央劇場付属スタジオや1950年代以降の専門学校における音楽家の養成、交響楽団、民族歌舞団の設置、演奏会の機会の拡大、地方への巡業(これはしばしば党の集会などとむすびつけられたが)を行った。音楽家養成に関しては1924~28年に文部大臣を務めたエルデネ・バトハーン(1890-1937粛清?)が先駆的な役割も果たしていて(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)、彼についての論文はThe Mongolia Society,Inc.の冊子に掲載されているとのことだが、目下探索中である。これらのみならず、新しい合唱音楽の創造や多分に宗教儀式的な側面もあった英雄叙事詩など伝統芸能を「国民芸能」へ発展させることにも関わっているという(上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」)。また革命記念の作品を委嘱することもこのうちに入るであろう。この例としてはN.ツェグメデ(指揮者、作曲家1927-1987)の革命50周年委嘱作品《草原の祭り》がそうである。 ソ連の影響も見逃してはならない。モンゴル近代音楽の祖とされるM.ドガルジャブが西洋の記譜、作曲法を学んだのはロシア人からであるし、彼はまたソヴィエトでモンゴル人として初の商業用レコード録音もしている。1940~45年、B.F.スミルノフがソヴィエトから音楽技術指導に派遣されている。在任中彼はB.ダムディンスレンとの共作でモンゴル初の本格的創作オペラ《悲しみの三つの丘》を完成させ、またモンゴル音楽の研究にも貢献した(D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」)。彼の派遣された時期はソヴィエトの大ロシア主義の時代、すなわちあらゆる少数民族へロシア的な影響が行使された時期なのであるが、それは後にも述べる。1943年にはF.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行っている。また多くの優秀な音楽家はチャイコフスキー名称モスクワ音楽院を中心にソ連圏へ留学をした。これは特にモンゴルのオペラの分野の発展に関して多大なる影響を及ぼしている。他にも、戦後にモンゴル政府が主催したアマチュア芸能オリンピアードなどはソ連のそれを参考にしたものであろう。1957年設立の作曲家同盟もそうかもしれない。 こうした近代化と発展の一方で、社会主義体制の下で、音楽活動に制限が加えられたり、宣伝に利用されるということはあった。 音楽のイデオロギー的利用に関しては革命初期の段階から、義勇軍には楽器をもった叙事詩の語り手が付いて行き、行く先々で皆を鼓舞する歌や、革命の意義を説く歌を即興で歌ったという(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。ちなみにそのような中から生まれたのが、モンゴル近代歌曲の先駆け《Shivee hyagt(キャフタの丘)》である。民謡を元にしていながらそのように扱われたのは行進曲調のリズムもさることながら、革命歌であるという思想的な面が大きいのであろう。1930年代からすでに行われていた歌曲コンテストや地方巡業音楽会、戦後の芸能コンテストなどでも革命的、社会主義的な内容が賛美され、これも社会主義宣伝の一翼を担ったのであろう。 音楽の制限の問題に移ろう。例えばモンゴルではソヴィエト初期におけるような、音楽の表現上の自由と社会主義文化の求める音楽像との葛藤のようなものはほとんど見られない。作曲されたものは民族的な雰囲気で、民謡、民俗音楽からの直接的な影響と、西洋の伝統的な作曲技法が平明に組み合わされたものが多い。題材は、自然が多く、他に生活、愛などである。ソ連ではそのような作品は社会主義リアリズムの観点から歓迎されていた。モンゴルではショスタコーヴィチとジダーノフの攻防のようなことは起こらなかったようだ。しかし圧迫はあった。それをいくつか見ていこう。 1923年の党大会決定では、音楽他の芸術文化は「世界の国々をよく知るため」に必要である、と非常に外へ開かれた内容である。しかし1928年には全戯曲を検閲し、「音楽および演劇サークルを再構成しその活動を政治的文化的により向上させること」が決定されている。狭量な社会主義政策にとらわれない開明的政策を打ち出していたダムバドルジ執行部解任前後の決定である。またソ連から正式の音楽の技術指導が入ったのは、スターリン体制の完成期でありソヴィエト政府がロシア的な文化をソヴィエトの各少数民族にまで拡大させた時期である。この時期はモンゴルでも公用文字のキリル文字化がモンゴル政府を飛び越して、ソ連の意向により決定された(荒井幸康(2006)『言語の統合と分離』)時期でもあった。このような出来事の中で最も衝撃的なのは後に人民芸術家として顕彰されるリンベ笛(モンゴルの伝統的横笛)演奏家L.ツェレンドルジと、歌手で作曲もし、官僚だったM.ドガルジャブの逮捕であろう。これは独裁者チョイバルサンの粛清の嵐吹き荒れる頃の出来事であった。L.ツェレンドルジは1938年、中央劇場長の任に就いていた時、罪状は今のところ不明だが、2年間投獄された。M.ドガルジャブは1941年在トヴァ人民共和国大使であったところを急に呼び戻され、そのまま逮捕、1946年に獄中で痴呆性精神病により死亡している(田中克彦(1973)『草原の革命家たち』)。トヴァ人民共和国は元々モンゴルが領有権を主張し、自らもモンゴルへの帰属を望みながら、1921年に7万たらずの国家としていきなりの独立、1944年には「トヴァ人民の切望により」ロシア共和国の一自治州となったいわくつきの土地である。トヴァについて知りすぎた、或いは何か正論を発してしまったがためにの逮捕であり、その死も薬によるものである可能性も否定できない。なんにしろドガルジャブは中央劇場の専属歌手も務めたこともあり、今でも知る人が多い。若くして革命に身を投じ、モンゴル初の楽譜集出版や、西洋の技法を取り入れた革命歌曲の作曲、雑誌論文で音楽家の組織の必要性を説く(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』)など、まさに八面六臂の活躍をした人気音楽家を、政府は人民から奪ってしまったのである。 最後に、社会主義時代の音楽の制限に関して、合唱、歌や各種付随音楽の分野を中心に活躍する、労働英雄にまでなった作曲家D.ロブサンシャラフ氏(1926-)にインタビューする機会があったのでこれを紹介したい。氏によると、作曲に関する制限はなかったが、歌の歌詞に関する制限は党から出されていたとのことである。封建時代のもの、チンギス・ハーンを称えるもの、生活の苦しみを歌ったものなどは制限され、社会主義の中庸な生活ぶりをうたったものが歓迎されたのだという。これをわざと破ろうとするような反体制的音楽家はいなかったし、もし、密かに旋律や構造に政府批判を込めようとしたところで、党指導部の人間は音楽のことはよく分からず、気づかなかっただろうとのことだった。また海外の音楽はほぼ全てがソ連経由で入ってくるために、ソ連で禁止になったものは自動的に入ってこなかったという。現代的な表現技法についてはそれほど興味はなく、常に聴衆に聴いてもらうことを意識しているとのことだった。そして社会主義時代の社会や音楽全般の発展そのものは非常に肯定的に捉えておられた。この肯定的な意見は他の音楽家や音楽研究家からも聞いた。 こうした時代を乗り越え、今モンゴルの音楽界は民主化後もそれまでに発達した分野に加えヒップホップの隆盛もあり、厳しい経済状況の中、奮闘している。こんな今でもロブサンシャラフ氏のように、特に社会主義時代に嫌悪感を表すことがない音楽家が他にもいるのは、ロシアのように帝政末期からソ連時代初期にかけて、芸術の爆発的な発展をみたのとは違い、O.ラティモアの指摘するように「『社会主義リアリズム』は模倣されはしたが、モンゴルの文芸復興、創造性と知的活力の途方もない爆発に従属させられたように見える。モンゴル人にとっての真の問題は往々にして、あることをブルジョワ的なやり方ですべきか社会主義的なやり方ですべきかではなく、それが一体モンゴル人の手でやれるか否かであった」のであり、モンゴル人にしてみれば、社会的に硬直はしていても、希望に満ち、近代の芸術を貪欲に取り込む時期だったのかもしれない。また自然を歌った、平明な音楽にしてみても、それはすぐ数十年前には伝統的な自然への賛歌や脈々と受け継がれている民謡の中で生活していた人々が急激な近代化を経験し、しかし生活のかなりの部分が農牧業で、首都の周りはすぐ草原であることを考えれば、聴衆にとっても作曲家にとってもそのような創作は当然かもしれないのである。 終わりに 今後の方針と目標 私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には、上記の報告の中でも、党政府と音楽の関わり、つまり党政府がモンゴル音楽の発展にどのように寄与し、どのような制限を加えたか、を中心にもっと深く研究をしたいのである。更に細分化するなら1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を調べたい。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献 J.Badraa/2005/ "IKH DUUCHNII YARIA (Mongol ulsiin aldart gaviyaat duuchin Jigzaviin Dorjdagviin yarianii soronzon bichlegiin tsomog)", Erkhlen niitlesen Natsagiin Jantsannorov,Ulaanbaatar D.Bat-suren/J.Enebish /1971/ “Duunaas duuri hursen zam” J.エネビシ(1989)「M.ドガルジャブの生涯と作品」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) D.バトスレン(1989)「B.スミルノフの遺産、研究の功績に関して」(N.Jantsannorov /1989/ “Mongoliin hugjmiin sudlal”) Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所 R.Oyunbat /2005/ “Huree duu hugjmiin uusel, hugjil” U.Zagdsuren /1967/ “MAHN-aas urlag utga zohioliin talaar gargasa togtool shiidveruud(1921-1966)” 青木信治;橋本勝編著(1992)「入門・モンゴル国」より“音楽―国際化する伝統音楽” (平原社) 荒井幸康(2006)『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』(三元社) M.アリウンサイハン(2001)「モンゴルにおける大粛清の真相とその背景 ソ連の対モンゴル政策の変化とチョイバルサン元帥の役割に着目して」(『一橋論叢』第126巻第2号、2001年8月号) 生駒雅則(2004)『モンゴル民族の近現代史』(ユーラシア・ブックレットNo.69)東洋書店 磯野富士子(1974)『モンゴル革命』(中央公論社) 小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』山川出版社 神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版 上村明(2000)『喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策』国立民族学博物館 上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」『日本モンゴル学会紀要』No.30日本モンゴル学会 上村明(2001)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」『口承文芸研究』24, 日本口承文芸学会 小長谷有紀(1995)『モンゴル草原にひびく音―音の概念 草原の音環境 二〇世紀の普遍性』(櫻井哲男編「二〇世紀の音(二〇世紀における諸民族文化の伝統と変容1)」ドメス出版、P159-174) 芝山豊(1987)『近代化と文学』アルド出版 田中克彦(1973)『草原の革命家たち―モンゴル独立への道』(中央公論社) Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』明石書店 メンヒェン=ヘルフェン著/田中克彦訳(1996)『トゥバ紀行』(岩波書店) モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社 モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』 O.ラティモア著/磯野富士子訳(1996)『モンゴル―遊牧民と人民委員』(岩波書店)
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モンゴルの音楽家たち モンゴル国の作曲家 モンゴル国の演奏家 モンゴル国の歌手 モンゴル国の指揮者 モンゴル国の音楽学者 モンゴルで活躍したロシア人音楽家 モンゴル音楽史を知るデータベース
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総論 ユ・ヒョヂョン、ボルジギン・ブレンサイン編著(2009)『境界に生きるモンゴル世界 20世紀における民族と国家』、八月書館 中華人民共和国領内のモンゴル系諸族(チャハル、バルガ、ダグール、オルドス、オイラート、青海、ほか) 塚田誠之編(2010)『中国国境地域の移動と交流 近現代中国の南と北』、有志舎 モンゴル帝国期におけるアス人の移動について、「民族分裂主義者」と「中華民族」—「中国人」とされたモンゴル人の現代史、など ブリヤート 池田秀實(1935)『ブリヤート・モンゴル共和國ニ於ケルブリアート族ノ研究』、蒙古事情研究會 宇山智彦編(2008)『地域認識論 多民族空間の構造と表象』、講談社 「カルムイク人とブリヤート人の民族意識—「モンゴル」認識と「独自の道」)」所収 クドリヤフツエフ/蒙古研究所譯(1943)『ブリヤート蒙古民族史』、紀元社 黒田悦子編(2002)『民族の運動と指導者たち 歴史のなかの人びと』、山川出版社 「国家なくして民族は生き残れるか—ブリヤート=モンゴルの知識人たち」所収 島村一平(2012)『増殖するシャーマン―モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ』、春風社 善隣協会調査部編(1935)『ブリャート蒙古の全貌』、日本公論社 南満州鉄道株式会社編(1936)『ブリャート民族の研究(ソ聯研究資料 ; 第20号)』、南満州鉄道経済調査会 渡邊日日(2010)『社会の探究としての民族誌 ポスト・ソヴィエト社会主義期南シベリア, セレンガ・ブリヤート人に於ける集団範疇と民族的知識の記述と解析, 準拠概念に向けての試論』、三元社 オイラート、カルムイク 宇山智彦編(2008)『地域認識論 多民族空間の構造と表象』、講談社 「カルムイク人とブリヤート人の民族意識—「モンゴル」認識と「独自の道」)」所収 臼杵陽監修(2009)『ディアスポラから世界を読む』、明石書店 「「三度目で最後の大陸」にいたるまで―カルムイク・ディアスポラの四〇〇年」所収 トゥバ人(タンヌ・オリアンハイ) 等々力政彦『シベリアをわたる風―トゥバ共和国、喉歌の世界へ』、長征社、1999年 鴨川和子(1990)『トゥワー民族』、晩声社(注:トゥワー=トゥバ) メンヒェン=ヘルフェン/田中克彦訳(1996)『トゥバ紀行』岩波書店 カザフ人 (モンゴル系とは言えないが、モンゴル国内にカザフ人がかなりの数居住していることから、ここではモンゴル国内のカザフ人問題に関わるものを挙げる) 国立民族学博物館友の会(2000)『季刊民族学』91号 「モンゴル国のカザフ人」チョナイ・クランダ・小長谷有紀・ イチンホローギーン・ルハグヴァスレン・田中克彦・大塚知則 その他 梅棹忠夫(1956)『モゴール族探検記』岩波書店 モンゴルのブックリスト
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演奏団体、劇場 国立歌劇場(Монгол Улсын Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр) 公式HP http //opera-ballet.mn/ 1924年設立のスフバートル記念クラブの芸能サークルが1927年建設の人民娯楽場(“緑ドーム”の愛称で呼ばれた)に移ったのが前身。同じ建物内で1931年国立中央劇場(劇団)が組織され1949年同建物が家事で消失するまでそこで活動。1943年には専属のオーケストラを設立(それまでは伝統楽器で劇の伴奏をしていた)。1951年に開場した現在の国立歌劇場の建物で活動再開。1963年に演劇部が分離、国立ドラマ劇場に本拠地を移し、オペラ、バレエ中心の国立歌劇場として再スタート。名称を変えながら現在に至る。510人収容。現在の正式名称はモンゴル国立オペラ・バレエ・アカデミック劇場。総合芸術監督B.ジャミヤンダグワ(バレエマイスター)、首席指揮者N.トーライフー、常任指揮者J.ブレンベフ、エルデネバートル。 ちなみに「オペラ・バレエ・アカデミック劇場」という名称はいかにも不自然であるが、モンゴル語の"Дуурь Бүжгийн Эрдэмийн Театр"のうち、他の劇場・楽団名にも登場する"Эрдэмийн"の語はロシア語の"Академический"の翻訳語である。このロシア語の意味は「(プロフェッショナルの舞台)芸術」というほどの意味の形容詞であり、日本語には訳しづらい。中国の「ナントカ芸術団」などの名称のうちの「芸術」もおそらくこの"Академический"の翻訳からきていると推測できる。 国立民族歌舞芸術団(Монгол Улсын Үндэсний Дуу Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 公式HP http //www.mongolianensemble.com/index.php 1945年に設立された国立エストラーダ・コンサート局が前身。当時は楽器6人、歌手5人、ダンサー6人、曲芸2人、朗読1人というメンバーだった。その後1950年に国立人民歌舞アンサンブルに改称して陣容を拡大、1961年には民族楽器の大オーケストラも設立された。2002年に国立民族歌舞団に改称され現在に至る。最初は総合的な大衆娯楽を見せており、歌謡曲やジャズ、人形劇などのステージも行っていて、一時はソヨル・エルデネというロック・バンドも抱えたが、後に伝統芸能的なステージに特化。1980年代には民俗音楽や民俗舞踊に基づいた新しい音楽劇の創出なども盛んに行われる。現在は伝統芸能に基づいてステージ・ショー化された短めの舞踊や音楽の組み合わせで公演を行っている。スフバートル広場南側の国立ドラマ・アカデミック劇場内に居を構える。 国立人形劇場(Монгол Улсын Хүүхэлдэйн Театр) 国立フィルハーモニー(Ц.Намсрайжавын нэрэмжит Монгол Улсын Филармони)所属団体 1972年閣議決定により国立フィルハーモニー協会を設立。交響楽団、ジャズバンドの“バヤン・モンゴル”、老舗ロックバンドの“ソヨル・エルデネ”の3つの運営からスタートした。1992年に長年音楽監督を務めていた功労者Ts.ナムスライジャブの名を冠した。正式名称は「人民芸術家・国家賞受賞Ts.ナムスライジャブ記念モンゴル国立フィルハーモニー」。 公式HP http //philharmonic.mn/ 国立フィルハーモニー交響楽団(Монгол Улсын Филармоний Симфони найрал хөгжим) 1957年、国立放送交響楽団として設立されたものがその前身。1972年に現在の名称・所属に変更。人民芸術家の指揮者・作曲家Ts.ナムスライジャブが長年音楽監督を務めた。1990年より息子のN.ブテンバヤルが芸術監督・首席指揮者。他にB.ルハグワスレン、B.バトバータルが常任指揮者。2003年にアジアオーケストラウィークの一環として来日し、ブテンバヤル、山下一史の指揮により、ワーグナーのオペラの抜粋からB.シャラフの馬頭琴との協奏曲まで幅広いプログラムを披露した。社会主義時代は80数名の陣容を誇り(1980年代)、毎月定期公演を行っていたようだが、現在は不定期にしか公演を行っていない。2008年現在の団員数は51名だが、大統領令の古典芸術発展プログラムにより82名まで再び編成拡大する計画がある。 “バヤン・モンゴル”ジャズ・オーケストラ(Баян Монгол Чуулга) 前身は1969年、ポーランドでの研修を生かし、国立放送局付属として設立された軽音楽楽団。その際国立民俗歌舞団やラジオ局で作編曲、合唱指揮をしていたT.チミッドドルジが中心となった。1972年に現在の名前になり、フィルハーモニー付属のコンサートを専ら行う団体となった。モンゴル国のポピュラー・ミュージックの牽引役となってきた。 国立馬頭琴楽団(Морин хуурын чуулга) モンゴルを代表する馬頭琴奏者G.ジャミヤンが馬頭琴によるオーケストラを提案、1992年に大統領令により設立された。ツェンディーン・バトチョローンが団長、芸術監督、指揮者を兼任する。国内でのコンサート、劇伴音楽の活動のみならず海外へのツアーも積極的に行い、何度も来日もしている。編成は標準の馬頭琴(モリン・ホール)、中音用のチェロ型馬頭琴(ドンド・ホール)、低音用の大型馬頭琴(イフ・ホール)、大小のヤタグ(琴)、ヨーチン(楊琴)、フルート、ピアノ、打楽器。楽器奏者だけでなく人民芸術家Sh.チメッドツェイェーらの歌手も抱える。 モンゴル国軍所属団体 全軍歌舞芸術団(Бүх Цэргийн Дуу, Бүжгийн Эрдэмийн Чуулга) 1932年に軍中央クラブ付属団体として「演劇音楽芸能隊」の名で設立。1934年国軍中央劇団に改組。現在は防衛省の付属団体。設立当初は伝統音楽の歌手や演奏者が所属し、催しでは革命歌や組体操が演じられた。1934年より軍楽隊指揮者V.A.リャリンが指導し、楽譜の習得を開始。1940年にソ連より派遣されたR.I.レシェントニャクの指導によりドンブラのアンサンブルを結成し、その後しばらくこのアンサンブルが劇団の中心となり、1955~56年には中国、北朝鮮、ヨーロッパへ演奏旅行も敢行。1958年には民族楽器と西洋管楽器による混成オーケストラが中心に据えられて以降80年代まではその路線で陣容を拡大していった。しかし1997年に大幅な改組が行われ、現在は舞踊団、合唱団、専属歌手、民族楽器の小アンサンブル、ビッグバンドとストリングスの「シンフォ-ジャズ・オーケストラ」からなる。 国軍参謀本部付属模範軍楽隊(Зэвсэгт Хүчний Жанжин Штабын Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим) モンゴル国軍の中央軍楽隊(吹奏楽団)。1914年、ボグド・ハーン制モンゴル時代に設立された軍楽隊の指導者A.S.コリツォフを迎え、1922年ごろ結成された人民軍軍楽隊が前身。現在の形で正式に設立されたのは1950年で、作曲家G.ビルワーが音楽監督として中心になった。社会主義時代の正式名称はモンゴル人民軍模範軍楽隊(Монгол Ардын Армийн Үлгэр Жишээ Үлээвэр Найрал Хөгжим)。スフバートル広場での公式儀礼や国賓の来モ時、ナーダムの開会式などには必ず登場。モンゴル帝国時代の鎧を模したユニフォームが特徴。 国境警備隊歌舞団(Хилийн Цэргийн Дуу, Бүжгийн Чуулга) 国境警備庁公式HP内楽団紹介ページ http //bpo.gov.mn/suborgan/1206270001 1942年内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブルとして設立。1953年人民革命軍アンサンブルに統合。1960年代後半からの国境地帯の緊張に伴う国境警備隊の増強の一環として1971年に再度設置され、現在に至る。 警察庁所属団体 モンゴル国警察庁HP http //www.police.gov.mn 警察庁音楽隊「スルデ」(Цагдаагийн "Сүлд" чуулга) 吹奏楽団も所属している。 警察音楽隊「ソヨンボ」(Цагдаагийн "Соёмбо" чуулга) その他私営団体 ウランバートル鉄道公社歌舞団(УБТЗ Дуу бvжгийн чуулга Салбар) モンゴルを南北に縦断する鉄道に所属する。 鉄道公社HP http //www.ubtz.mn/ ツキ・ハウス(月の石アンサンブル) ウランバートル市の国立サーカスの西側にある。主に外国人観光客向けに民族歌舞を演じる小劇場。シルクロード音楽やロックの要素、工夫された照明演出とショーアップされた派手な演出が売り。 トゥメン・エフ民族歌舞団(Түмэн Эх Үндэсний Дуу Бүжгийн Чуулга) 1989年設立。ウランバートル市のナイラムダル公園内に本拠地を置く。2006年3月に独立採算に。モンゴルの伝統楽器のアンサンブル、民族舞踊、仏教舞踊「ツァム」などを演じ、海外からの観光客にも比較的よく知られる。日本にもトゥメン・エフ所属のメンバーはよく訪れる。2006年5月にはデンバー、ニューヨーク、ワシントンなどを周る大規模なアメリカツアーも行った。 (参考:インターネット版「モンゴリン・メデー」紙) 公式HP http //tumenekh.wordpress.com/ その他地方劇場など
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下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 モンゴル音楽関連簡易年表 年代 出来事 BC400~93年頃 匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。 2~3世紀頃 蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。 554~559年 この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。 6世紀~11世紀 柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。 7世紀 ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。 12世紀 チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。 1271~1368年 『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。 1644年~20世紀 清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。 18世紀 高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。 19世紀 東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。 1831年頃 北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。 19世紀末~20世紀初頭 清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。 1911年 12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言 1912年 クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。 1914年 ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。 1915年 5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。 1917年 10月ロシア革命。 1919年 11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。 1920年 春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。 1921年 3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。 1922年 A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。 1923年 2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。 1924年 5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。 1926年 移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。 1927年 10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。 1928年 人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。 1929年 革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。 1930年 叙事詩の語り手O .ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。 1931年 8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。 1932年 急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。 1933年 政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。 1934年 モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。 1935年 M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。 1936年 3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。 1937年 秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。 1938年 1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。 1939年 5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。 1940年 第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。 1941年 3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。 1942年 作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。 1943年 F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。 1944年 7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。 1945年 ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。 1946年 中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。 1947年 人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。 1948年 国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。 1949年 1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。 1950年 国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。 1951年 国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。 1952年 1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。 1953年 辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。 1954年 作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。 1955年 7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。 1956年 2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。 1957年 「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。 1958年 L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。 1959年 9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。 1960年 科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。 1961年 S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。 1962年 1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。 1963年 人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。 1964年 11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。 1966年 馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。 1967年 首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。 1969年 B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。 1970年 9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。 1971年 作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。 1972年 7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。 1973年 カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。 1975年 作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。 1976年 第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。 1977年 12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。 1979年 馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。 1981年 3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。 1982年 1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。 1983年 12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。 1984年 5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。 1985年 「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。 1986年 人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。 1989年 作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。 1990年 3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。 1991年 文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。 1992年 1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。 1993年 作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。 1994年 国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。 1995年 音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。 1996年 N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。 1998年 作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。 1999年 J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。 2000年 作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。 2002年 N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。 2003年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。 2005年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。作曲家N.ジャンツァンノロブに人民芸術家の称号授与。 2006年 大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。 2007年 モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。 2008年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。 2009年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。 2011年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。 2012年 11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。 2014年 4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。 モンゴル音楽史を知るデータベース