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こちらのページでは概略を伝えさせていただきます。 詳しくは関連リンクを、少しづつでもいいですから是非ご覧ください。 南モンゴルは【人口侵略】が完成している! http //www.nicovideo.jp/watch/sm8385493 南モンゴルは一般的には内モンゴルと呼ばれています。 かつて日本の満州支配の延長線上にあった南モンゴル地域は、 満洲国官吏のモンゴル族が中心となり民族運動を展開。日中 戦争時は日本軍の支援で蒙古連合自治政府をつくり、徳王らに よる蒙古独立運動がありました。 日本降伏後、中国共産党の影響下で1947年、内モンゴル自治区 人民政府が成立。1949年中華人民共和国成立後初の自治区 (内蒙古自治区)に編入されました。 中国の支配開始からの半世紀、虐殺、破壊、同化政策、漢民族 移民政策により、少なくとも70万のモンゴル人が殺害され、迫害 を受けています。学生や平和運動家による活動は阻止され、 長期間刑務所に送られるなどの弾圧を受けています。 現在、南モンゴルでは漢民族が80%以上を占めモンゴル民族は 消滅の危機を迎えています。 南モンゴルの現状 - 【モンゴルは1635年から1911年の間、中国とチベットと共に満洲に支配されていた。 間違って「内モンゴル」として広く知られる南モンゴルは、1947年中国共産党により 占領された。それを除けば、モンゴルのいかなる領土も中国の一部であったことは なかったのである。過去半世紀に南モンゴルのモンゴル人は自治権を奪われただけ でなく基本的人権と自由を否定されてきた。多数の漢人入植者がこの地域に定住し、 モンゴル人を自らの土地にもかかわらず絶対少数にした。何十何万ものモンゴル人 がモンゴルであるというだけで迫害の対象となっている。】 (南モンゴル人権情報センターより) +... 人口問題 1990年の統計では内モンゴル自治区の総人口は2145.7万人。その中で 漢民族が1729.87万人、モンゴル民族の人口は337.5万人。モンゴル民族は 全自治区総人口の15.73%を占めるに過ぎない。 1949年以来、南モンゴルの人口は560万人から3200万人と6倍に急上昇し 同様に家畜の数も急増した。幾年にも渡る過熱した木々の伐採や放牧は毎年 386平方マイルの南モンゴルの草地を砂漠へと変えている。 環境問題 砂 漠 化 - 1950年代以降、中国政府は内モンゴル占領を既成事実にするため漢人を大量 に移住させた。ほとんどの漢人は農民だった。南モンゴルは土地の表土を剥がす 耕作には適していない。農業を始めて2、3年後には砂漠に変わる。 漢民族の開墾 と開発で南モンゴルの81%は砂漠化した。北京の政府高官は自分達が脅かされる まで、この問題を無視し続けてきた。 そして南モンゴルに対する政策の失敗をモンゴルの牧民とその家畜に責任転嫁した。 砂漠化をもたらしたのは遊牧民ではなく、農耕民である モンゴルなど北・中央アジアの遊牧民はウマ・ウシ・ラクダ・ヒツジ・ヤギの五畜を 放牧しその乳と肉を生活、生産資源としてきた。彼らは季節ごとに異なる放牧地を 有しその間の移動を繰り返す。元来、万里の長城以北の地域は降水量が少なく、 農耕に適さぬだけでなく、ある一カ所での長期間放牧にも耐えられない環境だった。 遊牧民の定期的な規則正しい移動は、厳しい自然環境を合理的に利用するために 発達してきた技術である。移動によって「過放牧」という破壊的な結末を避けることが 出来たのである。 有史以来オルドス地域は戦略的に重要な場所であったため、遊牧民と農耕民との 争奪の地であり続けた。漢族側が時々この地を占領すると、城池を築き屯田を勧め た。歴代王朝の屯田地の中心地だった古城の周囲はほとんど例外なく塩田化して いる。灌漑により地中の塩分が上昇し結晶した塩がさらに草原に散って利用出来な くなっている。 モンゴル人は早くから乾燥地での開墾がもたらす環境破壊に気づいていた。 清朝末期に政府がオルドス地域へ大規模な入植と開墾を押しすすめた時、モンゴル 族は抵抗運動を展開した。そのとき農耕を受け入れられない理由のひとつに、開墾 による塩田化をあげていた。 砂漠化を引き起こしたのは農耕民であり、本来の住民である遊牧民はむしろ環境 に優しい生活を営んできた。水さえやれば作物や草が生長する、というシンプルな 発想は捨てなければならない。乾燥地での灌漑は塩田化にもなる。 沙漠化の原因 モンゴルのステップの表土は、大体30センチから40センチの多年草の根により構成 されている。大地の断面を見ると、一番上が黒い層で覆われている。その土には 多年草が生えており、毎年その根から新しい草が出て家畜達がそれを食べて生活が 出来ていた。開墾すると30センチぐらいの黒い表土が耕される。その結果多年草の根 もなくなる。黒い土はある程度栄養もあり、3~5年程は農業が出来る。2年目、3年目 まではいい収穫も出来るが、モンゴルは風が強い場所で5年程たつと風化する。 そして表土の下に砂状の土があり、それが出てきて沙漠化が起こる。 いったん開墾された土地の多年草の表土は二度と回復しない。数万年かけて 出来たモンゴル草原の表土は草原の保護層である。 砂漠化の主な原因(南モンゴルの被害) 1、開墾 乾燥した土壌や降雨量が少ない気候条件を無視した、森林伐採による農業開発。 2、国営農場の乱立 中華人民共和国成立後の建設兵団。中国内地から大勢の漢人を南モンゴルに移住 させ、国営農場を作る。 国営農場の行政権限は、旗の副旗長の行政権限と同じものとなる。地元の行政の 指導を受けない独立した権限を持ち、地方政府の制限を受けずに開墾する。 3、薬材採掘 漢方薬の材料となる薬材を根こそぎ掘る。その薬材は大体多年草の根なので、 南モンゴルの沙漠化の大きな原因の一つになっている。地元遊牧民と薬剤採取に 来た漢民族との激烈な対立の原因にもなった。 二〇世紀後半から顕著になった砂漠化 南モンゴルでは、1982年に家畜の分配が行なわれ、2年後の84年に牧草地の使用 権の分配が行われた。それまでの遊牧は一部の牧草地を休ませながら交替で使う 仕組みだったが、限られた牧草地を各個人に分け与えることにより、多くの地域では 囲いを作り家畜をその中に閉じ込める事になった。 この20年間の砂漠化のスピードは、かつての100年、200年の砂漠化をはるかに超え るものだった。 その元凶は中国政府の南モンゴルに対する開墾と牧畜政策の誤りにある。 内陸部に暮らす少数民族の多くは牧畜を生業とし、数千年にわたって営んできたが、 草原は砂漠化しなかった。彼らが遊牧民として移動しながら牧畜し、ぜい弱な土壌を 傷めずに持続可能な生活スタイルを取ってきたからだ。 環境保全移民(エコロジー移民) 強制移住 - 近年、南モンゴルにおいて「西部大開発」をスムーズに進展させるため自治区全域 で土地封鎖、強制移住、牧畜禁止、都市化を進める「生態移民」政策を実施して いる。同政策は単に人や動物の移動だけではなく、中国領土からできるだけすみ やかにモンゴル人を排除する目的で周到に考えられた民族圧殺のプロセスである。 2年前から始まった「エコロジー移民プロジェクト」では6年間におよそ65万人を 強制的に移住させる。深刻な環境問題をかかえる中国が打ち出した「生態移民」 だが、「移民」の対象のほとんどはマイノリティ・グループである。 中国からの正式発表では2000年以降「環境保全移民」政策により、すでに 16万ものモンゴル人が草原で続けてきた伝統的遊牧生活から強制的に漢民族が 密集している都市部に移動させられた。モンゴルの牧民は政府から何のサポート もなく家畜の売却を強要され、自らの牧地を離れ見知らぬ土地でなれない生活を 強制されている。 「環境保全移民」政策は土着のモンゴル人の文化破壊だけではなく、人権侵害 以外のなにものでもない。多数のモンゴル遊牧民は、この過酷な移動政策に よって住まい・家畜・土地を失っている。 発電所建設により先祖伝来の牧地を追われる牧民 2003年7月1日シリンゴル盟シロンフーホ旗の南に位置する500ヘクタールの草原 地帯で120万KWの石炭火力発電工場の建設作業が開始された。 シリンゴル盟は中央政府の「環境移民」「囲封転移」(囲んで、封鎖して、移動させる)、 「休牧・禁牧」、「都市化」の新政策を一早く取り込んだ地域である。2002年1月時点で 3430戸、14691名の牧民が移民になった。シロンフーホ旗でも火力発電実施のため 一ガチャ-(村)の牧民84戸380名を強制的に移動させた。 それは祖先の墓まで移動させる悲惨な命令だった。 2003年7月1日、火力発電所の建設着工を祝う式典が)行われた。 政府は、地元住民の怒りを懐柔するため補償を提示しているが、それには3パターン がある。 1、1万元(1,100米ドル)の補償が支払われるが、移住したモンゴル人は永久に 故地には戻れず、新天地探しも個人で責任を持たなければならない。 2、補償を選択しない場合政府が建てた5,000元(550米ドル)の土の家屋に住む。 ただし、家屋を所有した牧戸はオーストラリアから輸入した乳牛を購入する ため政府から5,000元の借金をすることになる。 3、家長が60歳以上の場合は政府から借金することができない。 発電所の完成により、一部の農墾漢民族がこの地域に入るきっかけとなり、純牧業 地域への土地占領の機会が広がる。土地の開発利用、新たな土地の分配、企業・ 工場の進出、文化的汚染、治安の悪化、婚姻関係の転化など従来の遊牧民文化 (ノマテイズム)自体の大混乱が予測される。 森から追われる最後の狩猟民達 2003年.8月ヤクート人達は、新しい村を建設のためモンゴルとシベリアに近い ヒャンガン・ダワー(大興安嶺)の中にある故地を離れた。ヤクートはエウェンキの 一部で中国が狩猟民と認める最後のエスニック・グループである。 新しい村でヤクートたちは狩猟を禁止されトナカイは小屋や家畜囲いの中で飼育 されることになる。 移住者は村を去る前に猟銃を引き渡さなければならない。 猟師らは約1000元(120米ドル)の年収と枝角やトナカイから作る製品を売って得る 平均4000元(480米ドル)の副収入を失うことになる。役所では、新アオシアン村に 加工工場と観光客誘致のためのマイノリティ・ビレッジの建設を計画している。 家畜放牧の完全禁止 2002年12月1日以降、トンリョー市では放牧の完全禁止策を実施している。トンリョー 市には4346畝(290ヘクタール)の牧草地があり、320万頭の家畜がいる。放牧完全 禁止により、同市における牧草地の3954畝(264ヘクタール)が保護され、保護地域 は牧草地全体の80パーセントに達する。 全市の138ソム(町)と2697ガチャー(村)に居住する43万8500世帯の牧民や農民は 今後集約的農牧業移行してゆくことになる。 森林警察が草原封鎖、放牧禁止を徹底 シリンゴル・アイマク(錫林郭勒盟)の全ホショー(旗)、ソム、ホト(市)の森林警察は、 放牧一時または全面禁止区域・休閑地・森林回復プロジェクト区域・沙漠化要因抑制 プロジェクト区域で放牧禁止を徹底するため警官を派遣している。 漢人農民の襲撃 2002年7月1日から22日にかけてアルタンツォク・ソムのアラク山及びアルタン・ テブシ山付近に宿営するモンゴル牧畜民らが甘粛省張掖地区の漢人農民グループ から何度も襲撃を受けた。農民らの目的は牧畜民の放牧地を耕作するため占有する 事である。少なくとも40人の牧畜民が暴行を受け、その多くは手足を骨折。牧畜民は 強奪と治療などのために何万元という被害を受けた。地元政府に事件の解決と助け を求めたが、アラシャー・アイマク及び張掖政府当局は事件を黙殺している。 牧畜民が受けた損害の補償はなく事件の犯人らに何の処分も下されていない。 過去においても隣接する省から漢人農民・移民達が放牧地占有の目的で牧畜民を 襲撃してきた。中国政府はこのような事件やモンゴル人らの抵抗運動を無視し、仮に 取りあげても漢人側に有利な紛争解決し続けてきた。 このような状況の繰り返しが結果としてモンゴル人が放牧地を放棄することになる ばかりでなく、伝統的なライフスタイルも捨てざるをえなくなっている。 巨額の損失、しかしそれは誰が作ったのか? 国連環境計画は中国全体の環境被害から毎年65億ドルの直接的な経済損失がある と見積もっている。これは幾年にも及ぶこの地域への中国政府の裁可を受けた漢民 族の移住の結果として起きた問題である。 羊飼いたちからの抵抗 2001年5月に東部のBagariin Bannerで地方警察と羊飼いたちの衝突があった。 100名近い警官と治安職員が素手の羊飼いたちと戦った。41匹の家畜が没収され、 警官が羊飼い達の家畜を没収しようとした時に4人が殴打され、重傷を負った。 幾つかの地域では移住計画が牛飼いたちからの強硬な抵抗に遭遇し、地方政府の 高官は羊飼い達を追い払うために警察に依存した。 彼らの大半には政府による適切な食糧・水・住宅・シェルター・医療サービスの 保障はない。 教育問題 南モンゴルのモンゴル族の中で実際にモンゴル語を母語としている人口は220万人。 モンゴル人総人口の88.36%である。その中でモンゴル語と漢語(中国語)が併用出来 る人口は11%、漢語がある程度理解できる人口は19%を占める。漢語がまったく理解 できず、モンゴル語のみでコミュニケーションを行う人口が58%である。 民族語を失い、言語的に漢化された人々 19世紀以来この地域に大量の漢民族の移民が入植したことにより、この土地の元来 の住民であるモンゴル人の伝統的な生活に著しい文化的変化をもたらした。それは 入植者であった漢民族の人口が土地の住民の人口を大きく上回ったことと深い関係 がある。その結果彼らが代々使ってきたモンゴル語を完全に失った人口は全自治区 内には29万人に達し、自治区総人口のモンゴル族の11.64%となった。 1990年代以降、市場経済の原理が社会全体に導入されたことにより、モンゴル民族 の民族教育の状況が激変し、危険的状況を迎えようとしている。 経費不足 毎年国家予算から経費を支出、民族学校を援助することがあっても毎年増える生徒 に対してその金額はほとんど変わっていない。物価が上昇する中、民族教育に使わ れる金額の比率は減少している。 民族学校の経費不足のため国や自治区政府からの資金の大部分は給料などに使 われ、学校の建設などに使われたものは少ない。教室の中の机やイスなどの設備も 不十分な状態が続いている。地方の多くの所では教室や寄宿舎が不足している。 多くの生徒たちが危険な校舎のなかで勉強している。 近年になり子供達を漢民族の学校に行かせるモンゴル人が増えている。問題は 南モンゴル全体ではモンゴル語を使われる場所が年々減っていることである。 モンゴル語を習っても就職の時は漢民族と中国語を使って競争しなければならない ため有利にならず、むしろ競争力が失われ、敬遠される状態にある。 1991年度の子供の年間にかかる教育費は小学生500―600元、中高生4000元、 大学生8000元が実際費用である。近年はさらに費用がかかるようになった。 生活に占める大きさは年間の牧民平均世帯収入3354.,71元(シリンゴール盟)と 比較すれば極めて大きい。 学費と生徒の学校中退 ここ数年、南モンゴルの田舎では学校を中退する生徒が急増している。その主な 原因は学費の問題である。これまで国から提供されてきた地方や少数民族地域の 学校を援助するための資金も最近は減少される一方で、完全停止する場合すらある。 基礎教育、すなわちこれまでは義務教育だったはずの学費のすべてを個人が負担 しなければならなくなっている。 現在、中学生の一年間の学費が1500元に上昇し、小学生も年間1000元以上の 学費を払わなければならなくなっている。 内モンゴル自治区では一人当りの年間平均収入が3―4百元にも満たない貧困 家庭が数多く生まれている。学費は貧困家庭の数人分の年間収入に匹敵する。 モンゴル民族教育の危機 モンゴル語の場合、都市では幼稚園から大学までモンゴル語で勉強できる完全な 教育制度が設けられていない。 そのため、民族のことばや文字を自由かつ自然に 習うことは大変難しい問題で、やむをえず漢語を第一言語として習得する人々が増 えている。 1982年に内モンゴル自治区ではモンゴル語で勉強する小、中学生は全モンゴル人 学生の73%を占めていたのに対し、1995年は50%を切るようになった。 都市部、あるいは言語的にほとんど漢化している地域ではその数はさらに減少し、 10%まで落ちている。 「生態移民」によってコミュニティーから切り離され、漢民族が圧倒的に多い都市 部へ移住させられた結果、教育システムが崩壊の危機にひんしている。 貧困層の増大 近年の改革開放政策において、内陸部は原材料供給地、第一次産業の基地として 位置付けられた結果、地域全体が経済的な自立性を失いつつあり、少数民族の伝統 的な生活と文化が消失し、深刻な貧困層の増大が現れてきた。 1979年から始まる改革開放に伴い、牧民生産請負(うけおい)制がスタートし、遊牧 草地は世帯ごとに配分された。余裕な草地がないため配分された土地だけで永年に わたってきた遊牧生活を行うことが困難になり、一時的貧困層が増えた。 農民にとってはこの政策が有利になり草地を開墾しはじめた。これが農家の生産意欲 を飛躍的に向上させ、開墾、入植により自然環境は一層悪化し、砂漠化が進行した。 牧民の収入は、畜産品市場価格変動と自然環境に大きく関わる。電気、電話などの 通信設備と道路の不備などにより、移動の自由と草地を奪われ、牧民地域の貧困が 一段と厳しくなってきた。シリンゴール盟では、羊などの家畜の個体が小さくなってい るというが生産量全体の低下にはなっていないという説明もある。つまり、個体の小 型化にもかかわらずトータルとして羊毛生産や肉生産に停滞は起きていないとすれ ば、飼育頭数の増加によってこの問題をカバーしようとしていることになる。草地の劣 化はこうした悪循環の結果として引き起こされていくものと推測される。 医療保健制度の導入が都市部と牧区部では大きな差が現れている。内モンゴル 自治区では基本医療保険制度を実施以来、自治区2284万人に対し151万人が当 保険制度に加入し、加入率がわずか6.6%にすぎない。 牧民にとって現段階では牧畜税、草原税、人税、土地利用税等などに加え牧畜業 専業の牧民にとって保険料と医療負担は増加している。 南モンゴル東部地域のモンゴル人は牧畜を放棄させられ一般的な乾燥地域の 農業も出来なくなった。現在はビニールシートを敷いて、その上に土を置いて米を 作っている。現在南モンゴル東部地域のモンゴル人社会は、中国の中でも最も貧困 地域の一つである。沿海地域との所得の格差は10倍以上になっている。 民族地域自治法の改正 西部大開発の実施と軌を一にして民族区域自治法(1984年、制定)が2001年3月 の全人代で改正された。民族自治政策は、統一国家の維持という至上命題を前提 にし、少数民族あるいは民族自治地方の国家からの分離・独立を否定してきた。 チベット、新疆ウイグルさらに内蒙古などの各民族自治区で起こった「独立」騒動は 軍隊・警察を動員して武力鎮圧した。また江沢民など中国共産党指導者は中央アジア 各国、モンゴル、インドなど近隣国家への積極的な友好外交を展開し、中国国内の 少数民族の「後方支援基地」を遮断、分離・独立の芽を摘んできた。 政治面で少数民族の遠心分離傾向を抑圧し、統一国家へ少数民族を求心しようと する中国の方針が成功するためには国内の漢族先進地域と少数民族後進地域の 間に存在する国内の南北問題の克服である。 中国の経済発展と所得水準の向上が、少数民族と民族自治地方にも成されなければ 少数民族を統一国家に吸引・包含する理屈づけは難しい。情報化が進展するなか、 中国の東部沿海地域と他のアジア諸国の経済状況と水準を知るようになった少数 民族は、南北問題を従来より強く自覚するようになったのである。 伝統文化の破壊 1980年からの文化革命では3000に及ぶ寺院が破壊された。 チンギス・ハン チンギス・ハンは、中国史上最大の国土を誇った元朝の始祖であり、領内最大の 少数民族の一つであるモンゴル民族の祖先でもあるという理由で「中華民族の英 雄」と称えられている。中国に暮らす各民族が皆「中華民族」の一員であるという 「多元一体」の民族理論によるものだが、この「中華民族の英雄」というバッジを付 けない限り、少数民族出身の英雄は中国の表舞台に登場できない。 撤盟設市・アイマクの消滅 南モンゴルには歴史的に9つのアイマク(盟)があり、アイマクはいくつかのホショー (旗)で構成される。伝統的な行政システムは、南モンゴルの自治のメカニズムと して数世紀にわたって維持され、中国共産党による占領後もモンゴル・アイデン ティティの象徴的な意味において重要な役割を担ってきた。しかし1980年代以降、 中国政府は移民と同化を加速し正当化するため、アイマクを市に改編し始めた。 1983年 ジョーオダ(昭烏達)・アイマク → 「赤峰市」に改編。 内モンゴル東部のは最も伝統的なアイマク。現地住民との協議なしで改編。 この後、当局は多くのホショーを「県」に改編。 1999年 ジリム(哲里木)・アイマク → 「通遼市」に改編。 内モンゴル9アイマク中もっとも多くのモンゴル人口をかかえる。 現地のモンゴル人の強い反対を無視して改編。 2001年 イヒジョー(伊克昭)・アイマク → 鄂爾多斯(オルドス)市」に改編。 チンギス・ハーン廟の存在により最も神聖で典型的なアイマク。 漢民族政権に反旗を翻した歴史をもつ。 2002年4月 フルンボイル(呼倫貝爾)・アイマク → 市への改編を正式発表。 モンゴル民族発祥の地。 バヤンノール、オラーンチャブ2つを含め、9つのアイマクのうち6つが市に改編された。 近隣地域からの無学な農民及び沿海地域からの無節操な商人などを含む漢民族 による「都市化と近代化」が急速に進むと予想される。 現存するシリンゴル(錫林郭勒)、アラシャン(阿拉善)、ヒャンガン(興安)3つのアイマク ではすでに伝統的な遊牧が禁止され次のターゲットとなっている。 80年代頃から始まった市場化の流れの中で、発展のチャンスに恵まれないまま 資源が失われてしまい、貧困化も目立ってきた。農業中心の内陸部の「地区」を「市」 と呼び換え、農民や遊牧民を「市民」にするという行政改革、「撤地設市」の動きは 少数民族自治区でも画一的に進んでいる。通遼市になったジリーム盟のように、 モンゴル語の地名が捨てられて少数民族の自治地域かどうか見分けられなくなった 所もある。 参照:南モンゴル人権情報センター 内モンゴル自治政府成立を振り返る南モンゴル人デモ 今から 62年前(1947年5月1日)に成立した内モンゴル自治政府 は 1949年に中華人民共和国に参加するという誤った選択 をしたためにその後は 実質的な植民地として容赦の無い弾圧と虐殺 を加えられる結果となった。 漢民族の大量入殖・人口侵略によってモンゴル人は自治区内でも少数派となってしまい(自治区内の人口の約13%に転落)、土壌に合わない農耕・牧畜により緑豊かな大牧草原は次々と砂漠化してしまった。これは春先に日本に飛来する黄砂の元凶となっている。 更には 学校でのモンゴル語も禁止・資源の強奪などモンゴル人の人権、文化は消滅の危機 に瀕している。 このような悲惨な歴史を振り返り、南モンゴルにおけるモンゴル人の人権・政治犯の釈放・民族自決・文化・大自然を取り戻すための決意を表明するためのデモが行われた。 呼びかけ人はモンゴル自由連盟党・幹事長オルホノド・ダイチン氏。協賛:南モンゴル応援クリルタイ党首ルービン氏の祝辞と独立宣言が読み上げられた。 この他チベット、ウイグル(東トルキスタン)、台湾の代表も応援に加わり「3民族+台湾・日本」の連帯デモとして盛り上がった。 関連リンク モンゴル自由連盟党 http //www.lupm.org/japanese/ 南モンゴル http //uygur.fc2web.com/south_mongolia.html 南モンゴル人権情報センター 南モンゴルの基本的人権・先住権・少数民族の権利・市民権・国政参与権を めざして活動する団体です。南モンゴルの人権と民主主義の促進。民主的な 政治システムの確立をめざしています。(日本語あり) http //www.smhric.org/Japanese%20SMW-table.htm 南モンゴル応援クリルタイ http //smdhyh.blog20.fc2.com/ モンゴル人ジェノサイド 実録 『週刊新潮』’08年6月19日号 櫻井よしこ 日本ルネッサンス 第317回 http //yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/ Yet Another Mongolia 芦村 京氏のサイト。言語状況を通して内モンゴルの現状を伝えています。 http 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モンゴルの国歌 Монгол Улсын Төрийн Дуулал (詞:Ts.ダムディンスレン(1908-1986)、曲:B.ダムディンスレン・L.ムルドルジ共作) モンゴルの国歌の歴史について見てみたい。 まず、ボグド・ハーン政権下の1914年にロシア人の手による国歌が新設の軍楽隊により演奏されたという記録がある。これはロシアの作曲家でありマリイーンスキー劇場でヴァイオリン奏者も務めていたカドレツ・サンがペテルブルグ大学東洋学部に所蔵されていたモンゴル民謡の旋律を元に作曲したもの。 次いでモンゴル人民共和国成立当初の1924年から1950年迄は「モンゴル・インターナショナル」(1922-23)というソノムバルジリーン・ボヤンネメフ(С. Буяннэмэх;1902年 - 1937年粛清)が作詞した歌が国歌の代わりとして歌われていた(これは社会主義運動の中でよく歌われた「インターナショナル」とは別物。モンゴル語版「インターナショナル」の方は1921年革命で重要な役割を果たしたブリヤート・モンゴル人エルベクドルジ・リンチノが訳詞を行った。)。 1943年のコミンテルン解散を受け「インターナショナル」が国歌だったソ連では新国歌が制定されるが、モンゴルでは「モンゴル・インターナショナル」が1950年の新国歌制定までそのまま国歌の地位にあった。ただ、同曲を放送開始と放送終了の音楽として用いていたモンゴル国営ラジオでは、同年早々に別の歌に差し替えている(この決定には高名な文学者で当時ラジオ局の責任者であったCh.ロドイダムバが関わっているという)。なぜ新国歌制定がソ連より遅れたのかは不明。1943年と言う時期はソ連から音楽教師が派遣され、自国の作曲家が育ちつつあった時期である。 その後1950年に上記の作者たちによる現在の国歌の原型が正式に制定された(これによりTs.ダムディンスレンは翌年、三度目の国家賞を受賞)が、その後も歌詞の変更があり、1961年、1961年から1991年のものに変遷。1991年には1950年のものから、レーニンやスターリン、スフバートル、チョイバルサンを讃えた歌詞を排したものが採用され、その後、2006年7月6日、更に一部を変更した歌詞を議会が承認した。 モンゴル国歌を視聴する "1991年から2006年”版の歌詞 1番 Дархан манай хувьсгалт улс Даяар монголын ариун голомт Дайсны хөлд хэзээ ч орохгүй Дандаа энхжин үүрд мөнжинө コーラス Хамаг дэлхийн шударга улстай Хамтран нэгдсэн эгнээг бэхжүүлж Хатан зориг бүхий чадлаараа Хайрт Монгол орноо мандуулъя 2番 Зоригт Монголын золтой ардууд Зовлонг тонилгож, жаргалыг эдлэв Жаргалын түлхүүр, хөгжлийн тулгуур Жавхлант манай орон мандтугай (コーラス) 参考 Д.Цэдэв(1999)”Олноо өргөгдсөн хаант монгол улс, түүний сүлд дууны тухай.” Монголын соёл урлаг судлал , Mongolian University of Culture and Arts, Улаанбаатар, pp.15-45)[ツェデブ(1999)「共戴ハーン制(ボグド・ハーン制)モンゴル国とその国歌」(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所『モンゴル文化芸術研究Ⅰ-Ⅱ』、ウランバートル)] D.ツェデブ(1996)「『モンゴル・インターナショナル』の背景」(『東京外国語大学論集第52号』東京外国語大学) Kara,G(1991)’A Forgotten Anthem’(“Mongolian Studies Vol.14”,The Mongola Society, pp.145-154) 田中克彦(2003)『言語の思想』、岩波書店
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/33.html
まだモンゴルの音楽について全然分かっていなかったころに書いたものです。 西洋音楽の受容と全体主義体制化での芸術音楽~モンゴルにおける近代音楽史研究の可能性~ 私は日本のクラシック音楽の歴史、つまり日本におけるシンフォニー・オーケストラ、軍楽隊(吹奏楽)、西洋的な音楽語法の歌曲、オペラ等の歴史に興味を持ち、先行研究を中心に調べている。日本でも音楽の伝統を有しているが、そこにどうやって西洋音楽そのもの、または西洋的な音楽の要素が入ってきたのか、それからもう一つ、日中戦争、太平洋戦争に代表されるようなファシズムが国を覆っていた時代、音楽と音楽家がどのような状況にあったのかに特に興味がある。 モンゴルももちろん素晴らしい音楽の伝統を持っているが、主に社会主義革命後、ソ連を通じて西洋的な音楽を受容してきた。現在でもポップミュージックは盛んであるし、オペラも日常的に興行を続けているという。西洋音楽は十分に浸透しているのであろう。受容史を調べることは無駄ではないように思える。 そして私が最も知りたいのは社会主義時代のモンゴルで、国家がどのように音楽を扱い、社会主義時代、作家達は作家同盟の元で非常な活動の制限を受けたが、音楽の面でも作家同盟と似たようなことが、またソ連や日本のファシズムの下での音楽への制限と近いものがあったのではないか、と私は考えている。加えて日本での研究を見ると、日本の全体主義体制下の西洋音楽の状況は、西洋音楽の受容のあり方とも関係がある。モンゴルでも、西洋音楽が近代になって入ってきた国として、類似性がなかったとは言えないだろう。 そこで、日本やロシア、その他アジアの西洋音楽を受容した国の音楽史の先行研究を、また日本、ソ連、ドイツなど国家権力から音楽家への制限があった事例の先行研究を参考にしながら、モンゴルにおける上に掲げた歴史を調べることを目下自分の目標としている。私のこれからの研究姿勢とどのような論文を書きたいかを、本ノートを通じてより具体的に示したい。 現時点での研究姿勢の大枠を以下に示す。 日本ではモンゴルのこの種の研究に関しては先行研究、資料ともに不足しているし、また私の調べも現時点で不十分であるので、まずロシア、日本、中国における西洋音楽受容史の先行研究にまず触れて、モンゴルでの受容史にも当て嵌まる可能性の高い事柄を挙げていき、似たような研究アプローチができないか、その可能性を提示する。これを将来の論文に備えて第1章とする。 次に、ソ連、ドイツ、日本で全体主義体制下での音楽の先行研究を概観し、共通する事柄を挙げ、モンゴルでも類似した事柄があるかどうかの可能性について考える。そこからこれから自分が行う調査の方向性を明らかにする。これを上と同じく将来書く論文に備えて第2章とする。 もちろん、この形は暫定的なものであって、モンゴルで、西洋音楽受容や音楽政策、社会主義体制下での音楽家の活動について、もっと資料が得られれば変更するかもしれない。 第1章西洋音楽の受容 国家の西洋的近代化が始まると、政治、産業だけではない様々な局面においても西洋的な意味での近代化が始まる。音楽も例外ではない。ヨーロッパで発達した音楽語法、楽器、演奏のあり方、芸術のあり方が輸入される。そしてそれ以前に育ってきた音楽文化と結びつき、新しい発展を見る。現在は西洋的な音楽のあり方は日本でも中国でもモンゴルでもあらゆるところに浸透している。民族音楽と呼ばれるような伝統音楽の分野にさえもその影響は大きい。ではその西洋音楽導入の先駆けとなったものは何であったのか、どのような状況で入ってきたのかをまず確かめたい。できれば将来的に、西洋音楽の受容とそのあり方がその後の歴史にどのような影響を及ぼしたかまで考察を深められたら、と考えている。 第1節 ソヴィエト・ロシアでの受容 ロシアは現在でこそ西洋的な意味での音楽文化の重要な発信国であるが、ロシアもまたアジア諸国とは事情は少々異なるけれども「西洋音楽」を後から受容したのだ。この歴史は伊藤恵子(2002)『革命と音楽』(音楽之友社)によると以下のようである。ロシアは長い間西ヨーロッパとは異なる音楽文化を有していた。ロシアの民族音楽と、ビザンツ帝国からの宗教音楽である。しかしそこにまずカトリック様式の宗教音楽が、そしてロシア皇帝の権威の強大化と西欧化に伴い、貴族のサロン文化の一環として娯楽としての西洋音楽が入ってきたのである。また、移民もこの受容と普及に大きな役割を果たした。そしてロシアにも資本主義が興ってくるにつれ、貴族お抱え以外にも音楽家が活躍の場を広げ、常設の劇場など民衆との接点も増えていった。この時期、文学などその他の芸術と並び、音楽にも、国民楽派と呼ばれる、ロシアの伝統文化、民衆の文化と強く関わりを持つ現在進行形の芸術作品を生み出すようになるまで発展していったのである。その流れは20世紀初頭のロシアン・アヴァンギャルドの下地となる。 第2節 日本、中国などでの受容 日本の国家レベルでの西洋音楽の導入は明治維新(1868年)と共に始まったが、ロシアの貴族サロン文化としての受容とは大きく異なり、国家を統治する為の西洋音楽受容であった。まず塚原康子(2001)「軍楽隊と戦前の大衆音楽」(『ブラスバンドの社会史』青弓社 p.83-124)によると、まず軍隊の近代化に伴い、軍楽隊が創設され、その軍楽隊が西洋式軍制の実用的役割のみならず、公共での演奏活動による西洋音楽の普及媒体としての役割、管楽器奏者を中心とした音楽家の養成機関としての役割も同時に果たした。国家レベルではもう一つ、公教育における学校唱歌が、これも児童への教育の実用的な目的を持っていた(田中耕治他(2005)『新しい時代の教育課程』有斐閣アルマを参照)が結果的に西洋的な意味での音楽普及(つまり伝統音楽以外の外来の音楽という意味で)の一翼を担うことになった。それからもう一つ、キリスト教の音楽が入ってきたこと(ここはロシアと共通である)も、聖歌などに魅了されて音楽家を志す者も多かったことから、重要である。日本以外の国を見てみると、例えば中国でも清朝時代末期に、日本から帰ってきた留学生を通じてというルートもあったものの、主に西洋式軍楽隊、学校唱歌、キリスト教のミッションスクールから西洋音楽が入ってきている(石田一志(2005)『モダニズム変奏曲 東アジアの近現代音楽史』朔北社、p198-206を参照)し、韓国でも同様である(石田一志(2005)『同上』p346-357を参照)。また許常惠(1995)「台湾の音楽」(櫻井哲男編『二〇世紀の音』ドメス出版)によると台湾でも、軍楽隊については述べられていないものの、西洋音楽導入におけるキリスト教と学校教育の役割に言及している。 第3節モンゴルでの受容 ではモンゴルの場合はどうか。上記の日本、中国などの例をみると、宗教(キリスト教)、軍隊、学校教育を中心に西洋音楽が導入されている。モンゴルはというと、1914年にボグド・ハーン宮の側で軍隊の吹奏楽団が結成されており((1999)”Mongoliin soyoliin tu ukh”,p218)、社会主義革命時の有名な歌《Shvee Hyagt》はモンゴルにおける最初の西洋的な技法を用いた作曲と位置づけられている((1981)”BNMAU-iin soyoliin tuukh”1,p276)。教育においても1928年の教育計画を見ると、唱歌が教科に入っているのが分かる(参照:神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版)。ただキリスト教に関しては未確認である。西洋音楽導入のあり方は日本や中国などと似通っていた可能性が高い。それに加えて、西洋音楽の「普及」には、主に国家政策や社会主義思想を宣伝するための、地方への巡業音楽会が大きな役割を果たしたと思われる。モンゴルにおける西洋音楽導入に関して、未確認の宗教が果たした役割があったのかどうかを含めて、誰が、あるいはどの機関が、どのような過程でモンゴルに西洋音楽を導入したのか、それにはどのような目的があったのか、をさらに詳しく調べていきたい。 第2章 音楽政策―国家、政治が音楽をどう扱ったか 第2章では全体主義の国家が音楽、特に西洋音楽をどのように扱ったかを、音楽家の組織化に注目しながら見ていく。全体主義国家がどのような音楽政策を行い、そのことで音楽界と社会にどのような影響を及ぼしたかを考える。ソ連、そして第二次大戦中のドイツと日本の研究が詳しいのでそれぞれ第1から3節でその先行研究について触れる。それらをふまえた上でモンゴルについて第4節で言及する。 第1節 ロシア(ソヴィエト連邦)の音楽政策 ソヴィエトでの音楽は「音楽は大衆を一つにするための手段」というレーニンの言葉どおり扱われた。国家が芸術家を統制し、社会主義リアリズムの思想にそぐわないものは排斥した。ただレーニンはこうも述べていた。「芸術を自由に理解し、作品の形式や内容は自由であれ」、「検閲からの解放は皇帝からの解放だから、民衆もその恩恵を受けるべき」この言葉は革命初期においては真実味を持っていた。現に20世紀初頭ではほかの芸術界全体にロシアン・アヴァンギャルドと呼ぶべき新しい芸術運動が興り、音楽においても今までにない様々な試みがなされた。神秘主義、原始主義、12音技法、微分音、電子音、機械文明と音楽の融合などである。しかしそれもスターリニズムの下では抑圧の対象となった。「プロレタリア音楽家同盟」のもたらした混乱(進歩的な音楽家を攻撃し、極端なプレタリア音楽観を押し付けようとした。)の後、国家による音楽家の統制、管理が行われた(ローレル・フェイ/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社,p9-30)。反体制的な音楽、実験的で大衆に分かりにくいとされる音楽は、抹殺されるか無視された(具体的には発禁や演奏禁止)。抑圧された音楽は、国内で作られたものはもちろん、海外から入ってくる音楽にも制限がかけられていた。欧米からのジャズや前衛音楽などは資本主義的、ブルジョア的退廃として退けられた。この状況に異を唱える者は亡命するか、作品を通じて密かな抵抗をするしかなかった。ペレストロイカまでこの閉塞状態は続くことになる。ただ、ここで政治における民族主義が抑圧された一方で、民族音楽、民族的な語法による作品が歓迎されたと言う事実は興味深い。とにかく芸術の新しい展開よりも、分かりやすい音楽、社会主義政策に沿う「健康的な」音楽を国家が求めていたのだ。 第2節 ドイツ(第三帝国)の事例 エリック・リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』(名古屋大学出版会)に沿って話を進めると、ナチス政権下のドイツでは、ナチスがドイツの純粋性を主張し、文化もそれにふさわしいものになるよう制限を加え、あるいはドイツ文化の優秀性の宣伝広報につとめた。このプロセス、方法は共にソ連と似通っている部分が多い。ただここでいう制限の目的はドイツ音楽界の純粋性を守り、ユダヤ人、共産主義者を追放することが目的であった。そのため、ユダヤ人社会の中のみの音楽家組織を作るなど特徴があった。また黒人が劣等人種であるという理由からジャズが攻撃されたり、ユダヤ人攻撃によってロマン派の大作曲家メンデルスゾーンの楽譜が焼かれたりした。ユダヤ文化批判者であったワーグナーの音楽は逆に盛んに持ち上げられた。 もちろんドイツ人の全芸術家を統括する帝国芸術院の下で音楽家も管理された。加えて、ナチスの実力者はきわめて個人的に、自分の権威を示す道具として、特定の劇場を支援することもあった。この点では組織の国家的一元化は、ソ連と違い失敗しているように思える。こうしてナチスが音楽政策に盛んに乗り出したのは、ソ連と同様の20世紀初頭の新しい芸術運動の勃興に、ナチスの主な支持母体であった保守層が伝統的ドイツ文化崩壊の危機感を抱き、攻撃していたからであった。 第3節 戦前、戦時中の日本の音楽政策 日本はドイツを模範として、特に1940年から1945年の敗戦までは国内での音楽家の組織化、統制が行われた。また、1930年代から満州国、中国の占領地での文化工作も音楽を含めて進められていたが、それについては別に機会を設けて述べたい。国内では1934年の「プロレタリア音楽同盟」への弾圧が初期の国家の圧力であろう。その後、愛国精神を高揚させるような歌のコンテストの開催、日中戦争開始に伴う経済統制により楽器などの輸入が制限を受けたこと、同じ時期、演奏活動を警察に届け出なくてはならなくなったことへと、国家の音楽政策は次第に強まる(戸ノ下達也(1993)「戦時体制化の音楽界」参照)。秋山邦晴(2003)『昭和の作曲家たち』(みすず書房)によると、この時期、音楽家たちの多くは自分達の音楽のレベルアップ(演奏技術、公演の質、作曲技法等)に関心が偏っていて、世情への理解が浅かったといってもよく、目だった抵抗運動はなかった。むしろ、紀元2600年記念行事(注)に参加したり、戦時体制下で文化をなおざりにする風潮から音楽家の立場を守るべく、国家により文学者を統制し国策に協力させる団体である会「文学報国会」に近い性格をもつ「音楽文化連盟」を組織したりと、国策に対して疑問を呈するようなことはしなかった。またソ連と違って作品による密かな抵抗というのもほとんどなかった。結果として安易な民族的作品、愛国的な作品が生まれ、またソ連ドイツと同じように、実験的な音楽の流れは断ち切られ、退廃的な音楽とされたジャズなどが禁止された。 (注:伝説上の天皇・神武天皇の即位年を元年とした暦で1940年がその2600年にあたる。当時の皇国主義の下で盛んに使われた。そのため、1940年には記念すべき年としてオリンピックや万博が企画されたが、日中戦争の泥沼化で開催できず、代わりの様々な行事が行われた。) 第4節 モンゴル人民共和国の音楽政策 モンゴルの音楽政策に関しては、まだ私はあまり研究を進められていない。しかし、上のソ連、ドイツ、日本の例をみると、全体主義の下では音楽家の職能別組織化、退廃的と国家が烙印を押した音楽の排除が行われ、作品の問題としては、分かりやすい、愛国的な、特に民族的な作品が歓迎された。モンゴルはソ連に指導、影響を受けている。1933年にはモスクワの音楽コンテストにモンゴルの音楽家が参加している。ソ連でのものと同じような政治的な力がモンゴルの音楽家にも働いた可能性が高い。また日本と同じように、西洋音楽受容と、国家の近代化が同時にしかも短期間に行われた。党に捧げる音楽以外では、民族オペラや民族バレエ、そして草原や馬頭琴など民族楽器を扱った作品が目立つ(モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社)。また革命初期の有名曲《Shvee hyagt》は民謡を基に作られている(モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』)。日本と同じように国家の政策と共に音楽も民族的になっていく傾向があったのではないかと推察される。さらに、モンゴルが中国、ロシア白軍の抑圧から独立して間もなかった事も、音楽においても民族主義を高揚させることになったかもしれない。もう一つには、ソ連の手法、つまりより親しみやすく、民衆に社会主義思想を伝えやすくする音楽には民謡など民族的音楽語法を利用した方が、国民に受け入れられやすい、と言う方法がソ連により指導されたかもしれないし、モンゴルが自発的にその手法を取り入れたかもしれない。 音楽家の組織化の問題としては、1930年代、M.Dugarjavが、論文で音楽家の組織の必要性を説いている(Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所,p280)。また劇場、歌舞団の設立や、地方を巡業する社会主義思想普及のための音楽会も数多く開かれているという。社会主義時代には国家が積極的に音楽に関与していったのであろう。そこで、1:国家が音楽に対してどのような思想を持っていたか(社会主義リアリズム、ソ連からの影響)、2:その思想をどのような形で実行したか(ソ連の文化面での指導、モンゴルの音楽政策、音楽家養成、音楽家の統制組織、演奏団体の組織、巡回音楽会の活動内容など)、3:そのような状況下で音楽家たちがどのような活動をしたのか(演奏の内容、演奏レパートリー、作曲された作品、反体制音楽家やそれに近い活動をした音楽家がいなかったか、などの問題)、4:その結果どのような影響が社会にあったか(音楽と民族主義、音楽と思想、他の芸術分野との協力、どのような音楽が歓迎されたか、などの問題)を具体的に調べたい。 終わりに 今後の方針と目標 私は近現代モンゴルにおける文化、歴史と音楽の関わりを深く理解したい。具体的には国家が音楽をどのように利用したか、音楽家たちをどのように扱ったか、そしてその社会の中で音楽家たちがどのような活動を行ったのか、である。これらを可能な限り詳しく論じられるよう調べを進める。上に書いたソ連、ドイツ、日本で行われている様な研究をモンゴルで行いたいのである。 論文を書いた先には、最終的にモンゴルの近代音楽の歴史を総括し、それを日本語あるいは英語で発信できるようにしたい。それをできるだけ多く人たちに読んでもらい、民族オペラや歌、オーケストラ、軍楽隊、民族音楽を含む近代モンゴル音楽史の紹介を広くできるようになりたいと願っている。 参考文献: モンゴル Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』モンゴル国立出版所 Ts.バトバヤル著/芦村京、田中克彦訳(2002)『モンゴル現代史』明石書店 生駒雅則(2004)『モンゴル民族の近現代史』(ユーラシア・ブックレットNo.69)東洋書店 小貫雅男(1993)『モンゴル現代史』山川出版社 神沢有三(1981)『モンゴルの教育・亀跌・異音畳語』長崎出版 上村明(2000)『喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策』国立民族学博物館 上村明(2000) 「国民芸能としての英雄叙事詩」『日本モンゴル学会紀要』No.30日本モンゴル学会 上村明(2001)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」『口承文芸研究』24, 日本口承文芸学会 上村明(1995)「アルタイ・オリアンハイの宴の歌」『日本モンゴル学会紀要』No.26, pp.1-15,日本モンゴル学会 芝山豊(1987)『近代化と文学』アルド出版 モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著/二木博史他訳(1988)『モンゴル史』恒文社 モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999)『Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)』 ソヴィエト・ロシア 伊藤恵子(2002)『革命と音楽』音楽之友社 竹内正実(2000)『テルミン』岳陽社 桑野隆(1996)『夢みる権利』東京大学出版会 デトレフ・ゴヨヴィ/安原雅之訳(1997)「ロシアと東ヨーロッパ:1945-70年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社 ニコライ・カレートニコフ著/杉里直人訳(1996)『モスクワの前衛音楽家』新評論 ローレル・フェイ/安原雅之訳(1997)「ソヴィエト連邦:1918-45年」Robert・P・Morgan編/長木誠司訳『世界音楽の時代』音楽之友社 ドイツ エリック・リーヴィー著/望田幸男監訳(2000)『第三帝国の音楽』名古屋大学出版会 日本 秋山邦晴(2003)『昭和の作曲家たち』みすず書房 秋山龍英(1966)『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966年 井田敏(1999)『まぼろしの五線譜 江文也という《日本人》』白水社 岩野裕一(1999)『王道楽土の交響楽』音楽之友社 高橋巌夫(2002)『昭和激動の音楽物語』葦書房 田中耕治他(2005)『新しい時代の教育課程』有斐閣アルマ 塚原康子(2001)「軍楽隊と戦前の大衆音楽」『ブラスバンドの社会史』青弓社 戸ノ下達也(1993)「戦時体制化の音楽界」赤澤史朗他編『文化とファシズム』日本経済評論社 沼野雄司(2004)「現音小史」『日本現代音楽協会会報 NEW COMPOSER』 2004 Vol.5、日本現代音楽協会 古川隆久(1990)「《紀元2600年奉祝》と対外文化交流」近代日本研究会編『近代日本と情報』山川出版社 堀内敬三(1991)『音楽五十年史』大空社 アジア 石田一志(2005)『モダニズム変奏曲 東アジアの近現代音楽史』朔北社 CDその他 「これが頽廃音楽だ~ヒトラーによって、禁じられ、失われた音楽」ポリグラム株式会社、1996年 「黒船以来 日本の吹奏楽150年の歩み」キングレコード、2003年 ホームページ 櫻本富雄:空席通信 On The Net 利用日2005年11月5日 http //www.sakuramo.to/index.html 小関康幸のホームページ 利用日2005年11月6日 http //www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/index.html
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仮のものです。 ボグド・ハーン政権のモンゴル国の歴史 1911年から1920年までのモンゴルの全般的な歴史の概略を、田中克彦 、萩原守 、Ts.バトバヤル 、小貫雅男 らの著作を中心に示す。 1691年以降清朝の支配下に入っていた外モンゴル地域は1911年、ボグド・ハーン制モンゴルとして独立した。国家元首にはボグド・ジェブツンダンバ・ホトクト8世というチベット人活仏 が聖俗界の両方のトップとして諸侯により推戴された。首都はフレー(現在のウランバートル)に置かれ、近代化をある程度志向しつつも(ロシアに軍隊、軍楽隊、電信敷設の援助を要請した)実態は清朝の行政システムをかなり踏襲した専制君主国家だった。これは、清朝がその末期に、辺境防備とロシアとの国境策定を有利に進める必要から辺境地域に漢人を積極的に入植する政策を実施したのに対し、モンゴル人側は遊牧社会存続への危機感、漢人商人、入植農民のやり方への反感、漢人への同化への恐れなどから、特に漢人の激しい進出に脅かされていた内モンゴルにおいて反漢ナショナリズムが高揚し、内モンゴルのハイシャン、外モンゴルで危機感を持っていたツェレンチミドらのハルハ諸王侯への説得工作が実を結び、辛亥革命の混乱に乗じて独立に至ったものである 。しかし独立に際し帝政ロシアに援助を求めた。ロシアは結果として1915年の露蒙中で行われたキャフタ条約で、露中間の思惑により中国の宗主権下の自治に格下げされ、モンゴル軍が解放した内モンゴル諸地域を放棄させられた。しかし外交権以外の実質的な主権は保った。その後モンゴルはロシア革命でのロシア弱体化に乗じて侵入した中国の軍事的圧力による1919年の「外蒙自治取り消し」やロシア白軍残党ウンゲルン らの侵入などで辛酸をなめた。外からの圧力と社会的矛盾は1921年の人民革命へとつながっていく。 「外蒙自治取り消し」の1919年まで、モンゴルでは内閣の組織、第2次遣露使節 を送り、招聘したロシア軍将校に学んだ近代的正規軍の整備、首都の学校の設置、印刷所の設立、新聞、雑誌の発行、議会と基本法の整備などが行われた 。また1860年代以降、漢人商人とともにロシア人もモンゴルに商館を構えるようになっていた 。一方、封建的身分秩序は清朝時代と変わらず維持されており、封建諸侯はバランスを欠いた財政により増える借金を国家の公民の負担に転嫁していった 。 概してこの時代のモンゴルは、対外的にはロシアを頼って中国からの内モンゴルなども含めた独立、ナショナリズムが叫ばれるようになった激動の時代でもあり、モンゴル内部の問題としては、一部には近代的な政策もとられ、外国人と西洋近代文化の流入も見られ、モンゴルの近代化の胎動は始まっていた。しかし「全体として見れば、ボグド・ハーンのモンゴル国は、清帝国の統治構造の『西北の弦月』を部分的に受け継いだ封建国家だった。そして、そこでの権威の根拠は、ボグド・ハーンの発する宗教的な威光だった 」というような状態だった。 人民革命期、ダムバドルジ政権時代の歴史 この時代の歴史を生駒雅則 とTs.バトバヤル の著書を中心にまとめてみよう。時期として2つに分けられる。すなわちボグド・ハーンを制限君主とする1924年までの立憲君主制とも言える時代と、ボグド・ハーンが他界し、人民革命党委員長ダムバドルジがソ連一辺倒ではない開明的な政策を進めた1928年までである。ただ一貫してあったことは、モンゴル国内の指導者たちは内モンゴルとの一体化を望んでいたのに対し、モンゴルを指導する立場にあったコミンテルンは内モンゴルを領有し続けたい中国との関係悪化を恐れ、モンゴル国の内モンゴルに対する立場を認めず、この対立は1928年の「極左政策」への転換まで続いた。また、ソ連領内にとどまらざるを得なかったブリヤートのモンゴル人たちもモンゴル人の国家作りに大きく貢献したことは記しておこう。 1920年、モンゴル人による初の革命組織、モンゴル人民党が誕生した。革命組織とはいえ彼らは自分たちが「宗教と民族」のために戦うと規定し、モンゴルの貧困と外国からの支配に終止符を打つことが目的の、「民族統一戦線」的性格の党であった。1921年、人民党は苦労してソ連、コミンテルンの協力を取り付け、募兵を行い、中国軍、ウンゲルン白軍を破りフレーを解放した。モンゴルは独立を取り戻し、人民党とボグド・ハーンとの誓約により制限君主国となった。しかし、ロシア人革命家の指導下に組織され共産主義思想の普及を目指したモンゴル革命青年同盟と、民族主義者、ラマ僧から社会主義者までが在籍する雑多な組織であり1921年革命の主役であったモンゴル人民党とが激しく対立し、国内は混乱した。この混乱により人民党の設立の中心にあったボドー やダンザン が粛清されるという事態になり、この対立は青年革命同盟が人民党の下部組織になることで収束したが、結果的にコミンテルン の介入が激しくなることとなった。 1924年、ボグド・ハーンが他界し、党政府は以後この活仏の転生者は出さず、国名をモンゴル人民共和国と定めた。第1回国民大会議が招集され、首都クーロンは「ウランバートル(赤い英雄)」と改称された。ダムバドルジ率いる党政府は、この時期、国内の経済基盤を整備し社会主義建設への準備を整え、海外に広く門戸を開くよう努めた。具体的には、独自通貨トゥグルクの流通開始、中国の高利貸資本による経済独占の解消、初歩的な協同組合運動の育成、学校の整備、外国人の経済活動の自由化、独仏露への留学生派遣である。またラマ教寺院の特権廃止と課税も行われたが、一方で寺院との融和協力も試みられていた。 ダムバドルジ政権時代は後に「右翼偏向」とされ、28年以降はソ連の介入が強まり「左翼偏向」の政策をとっていくことになる。 なお1921年革命の際、軍事面で活躍し、人民党設立にかかわったスフバートルは病死したといわれ、粛清を免れたことから、モンゴル人民共和国成立の英雄として称揚されていくこととなる。 1928年から40年代の歴史 この時期の歴史を生駒雅則 、Ts.バトバヤル 、M.アリウンサイハン の著書からまとめると以下のようである。1928年モンゴルは前年のコミンテルンの対中国政策失敗、ソ連国内でのスターリンによる独裁権確立のための「保守派」「右派」追い落としの影響を強く蒙った。すなわち、スターリン寄りのモンゴル人を使って、スターリンが「穏健派」として攻撃したコミンテルンのブハーリン に影響を受けたダムバドルジら「右派」を排斥したのである。結果、「左派」ゲンデンらが政権を担当し、私有財産制廃止、家畜所有が多い者への攻撃、牧畜業集団化、定住化、寺院経営の家畜の徴発、以上を強制的に実行した。その結果、1932年、各地で不満を抱くラマ僧と民衆の大反乱を招いた。しかし1931年、満州事変が勃発すると、スターリンはモンゴル問題を放置できなくなった。モンゴルではコミンテルンとロシア共産党の合同決議を受けて、ゲンデン以外の左派は追放され、ダムバドルジ時代とさして変わらない「新転換政策」が実施された。残されたゲンデンは自らの誤りに気付き、「新転換政策」推進に努力したが、1934年にスターリンより指示されたラマの一掃に反対し、ソ連の強引なやり方を批判した。またソ連は日本の脅威に対抗しモンゴルへの軍隊駐留を求めたが、ゲンデンらはそれが逆に日本との全面的な戦争を招くと考え、満州国との和解を模索した。結局ゲンデンは1936年からクリミアで家族と過ごした後、「日本のスパイ」として1937年チョイバルサンにより逮捕、処刑された。1936年に内務大臣となったチョイバルサンはソ連の策定した計画に沿いながら、これを自らの独裁確立に利用し、党、政府の指導者たち、軍将校、上級ラマ僧を次々に粛清していき、1940年の「第一〇回党大会までに、彼とともに革命当初から闘ってきた同志はすべて姿を消してしまうのである 」。そして日本との衝突は1939年のハルハ河会戦(=ノモンハン事件)として現実のものとなる。 政治のみならず文化にもソ連の介入が行われた。代表的なのは政治と関連の深い言語政策である。1940年頃よりソ連邦内ではそれまでの少数民族語のラテン文字化の政策を翻し、キリル文字化の政策に転換する。これは田中克彦によればスターリンのロシア中心主義によるものだという 。モンゴル国内でもこの時期、モンゴル語の公用文字をめぐって旧来のモンゴル文字、ラテン文字、キリル文字の三者が検討され、どれも学習効果に差異はほとんどない、という結論が出されていたが、1941年キリル文字に急遽決定した。これにはソ連の指示があった可能性が高いという 。 第2次大戦の終結からモンゴル版「ペレストロイカ」までの歴史 この時代の歴史を、Ts.バトバヤルの著書 をもとに、まとめていきたい。この時期にもいくつか転機があった。それは1956年のチョイバルサン批判、1962年の「雪解け」とそれに対する弾圧、中ソ関係の悪化、ツェデンバル指導体制の確立である。 1939年首相となったチョイバルサンは戦時中を通じてソ連に忠実に、またソ連を支援した。対ドイツ戦に支援物資を送り、対日参戦にも足並みを揃えた。その結果スターリンの後押しと、モンゴル国内の国民投票でモンゴル独立にほぼ100パーセントの支持を得たことを受け、中国国民党からモンゴル独立の承認を得た。中華人民共和国からも「中ソ協力同盟関係での重要な緩衝国 」として、モンゴル独立の承認を得た。しかし一方でチョイバルサンはスターリンと同様、個人崇拝を強めていった。 1956年にフルシチョフがスターリン批判の秘密報告を行った直後、Dダンバにより1951年に没していたチョイバルサンへの批判演説が不徹底ながら行われた。これを機会に粛清された人々の名誉回復が進んでいくことになる。またその演説で行われた個人崇拝批判を機に、知識人に国家の発展のための自由な意見の提出を求めたが、彼らのうち何人かは、「人民を『知的な混乱』に巻き込ん 」だとして党によって地方に追放された。この事件の知識人たちの「黒幕」として告発されたD.ダンバはツェデンバルによって失脚している。またこの50年代は中国との関係が良好であり、中国から経済援助、労働力の派遣などが行われていた。 1960年にモンゴルは新憲法を採択し、その中で「人民革命党を社会の『唯一の指導勢力』とし、社会主義の資産を国家唯一の経済基盤であると規定した 」。また翌年の人民革命党第14回大会では国家が社会主義への移行を達成し、新しい時代に入ったことを宣言した。60年代に入るとスターリン批判以降悪化していた中ソ関係はさらに険悪になっていった。モンゴルは一貫してソ連を支持することによって、多大なる経済援助をソ連から引き出した。この頃のソ連はフルシチョフ体制による、いわゆる「雪解け」の時代だった。1962年にはモンゴルでもこの空気の中、1962年、チンギス・ハーン生誕800周年記念祝賀を、科学アカデミー歴史研究所を中心に、党中央委員会のD.トゥムルオチルらが音頭をとって行うことになっていた。しかしこの祝賀はソ連の圧力によって危険な民族主義だとして中止された。ソ連と対立を深めていた中国では、逆にチンギス・ハーンを中国史上の英雄として称揚し、内モンゴル人統合の手段としていた 。ツェデンバルはこの機会を利用し、自分に批判的だったトゥムルオチルら、そして自分に対する忠誠心の疑わしい幹部を次々と失脚させ、自らへの権力集中を進めていった。ツェデンバルはソ連から得た多大な経済援助、経済協力をもとにモンゴルの工業化、農業化を推し進めていった。1970年代末には工業農業国に移行するつもりだったという。様々な工場が建てられ、機械化農業の導入が進み、テレビ放送が1967年に開始された。ソ連との科学、文化に関する協力協定も調印され実行された。一方、対中国防衛のため、ソ連のモンゴルの戦略的価値は上がり、モンゴルへの駐留軍を増大させた。無理な農業は土地の風食作用を引き起こした。ソ連、コメコン各国への依存が強まり、ツェデンバル独裁体制や、官僚主義の弊害、ソ連への批判は封じ込められた。
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Axis powers ヘタリア』(アクシス パワーズ ヘタリア)は、日丸屋秀和作の漫画作品。 作者が自身のWebサイトに掲載しているウェブコミック作品であり、現在はバーズにて連載、単行本は4巻まで発売されている。
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モンゴル語(キリル文字) Ш.Адьшаа, Галдан Бошигт, Улаанбаатар, 2006.[アディシャー『ガルダン・ボシグト』] Анна Акулова, Монгол улс ОХУ-ын Кемерово мужийн хамтын ажиллагаа,Улаанбаатар, 2009.[アンナ・アクロヴァ『モンゴル国とロシア連邦ケメロヴォ県の共同事業』モンゴル国立大学](著者に献呈していただきました!) 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モンゴルの音楽家たち モンゴル国の作曲家 モンゴル国の演奏家 モンゴル国の歌手 モンゴル国の指揮者 モンゴル国の音楽学者 モンゴルで活躍したロシア人音楽家 モンゴル音楽史を知るデータベース
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モンゴル音楽研究事始(大学のレポート) 青木隆紘 はじめに モンゴル音楽はすっかり日本人にとって身近なものになりつつある。ユニクロのCMのBGMにフーミーが使われたし、NHK大河ドラマ《北条時宗》でも劇判音楽録音にオルティン・ドー歌手のノロブバンザドが参加し、それらは一般家庭のお茶の間に流れた。演奏旅行で日本を訪れるモンゴル人音楽家は多く、日本に在住するモンゴル人音楽家の中にはもはや馬頭琴奏者だけではなくリムベ(横笛)奏者やフーミーの歌い手もいる。日本人がモンゴル音楽を研究した最初は、1907年の鳥居龍蔵、鳥居きみ子の探検時のものである。それ以来100年たつがいまだに日本人によるモンゴル音楽の体系的な研究はほとんど試みられていないし、一般的なモンゴル音楽への理解はステレオタイプ的なモンゴルイメージを助長するもの、という範疇を出ていない。芝山によれば、このモンゴルに対するオリエンタリズムは、モンゴル人の生活世界の実態を無視した日本の自民族中心主義的な自己同一化を伴い、戦前から戦後に生き残って現在に至るという(芝山2008)。モンゴル音楽に対する言説も、音楽的類似を生活世界の文脈を無視して日本との同祖論に結び付ける傾向がある。その理由を考えるにあたって、この論考でモンゴル音楽の研究、紹介が戦前、戦時中の日本でどのように行われてきたか、背景にある社会の状況を含め見ていきたい。 「蒙古謡」との出会い 日本のモンゴル研究は1907年に出版された『元朝秘史』の那珂通世注訳書『成吉汗実録』から始まったとされる。この翻訳は日本が自らを中心とする帝国をアジアに打ち立てるにあたって、「西洋史」に対抗しうる「東洋史」成立の必要性が唱えられた中から生まれたといってよい(芝山2008)。日露戦争後、満洲の権益確保が最重要課題となったこの時期産声をあげたモンゴル研究は、国策との結び付きなしには語り得ない。このような時期、1907年に鳥居龍蔵、鳥居きみ子夫妻はモンゴル踏査を敢行する。まず1906年3月にハラチン王府のグンセンノロブが設立した女子学堂の教師としてきみ子が招かれて行き、1ヵ月後同じく男子学堂の教師として龍蔵もモンゴル入りしている。この後内モンゴル東部から当時の外蒙古東端までを踏破して考古学、民俗学的調査を行っている。龍蔵の主たる関心は遼時代の遺跡調査だったようだが、きみ子はモンゴル人の生活、習慣に関わる様々な記録を残しており、その中には音楽についても詳しく述べられている。幾つかの民謡の採譜と音階、また民謡の歌詞の訳と特徴、使われている楽器についてなどが主である。実はきみ子は東京音楽学校(現東京藝術大学)で学んだ経歴を持ち、王府でオルガンを弾きながら音楽教育も行ったという(服部1975 p.199)。音楽は非常に興味を引くテーマだったに違いない。服部龍太郎によればきみ子の採譜した曲は漢人音楽の影響を強く受けたものであった可能性があるというが、これは単純化した採譜であるため歌い方のニュアンスまで知ることができず、はっきりとしたことはわからない。この他、20世紀中盤にはほとんど見られなくなった楽器や、ハルハでは社会主義化の際に淘汰されてしまった王府の楽人たちの様子が描かれているのが興味深い。また「ムリントロガイヌホーレ」の名で馬頭琴を記録しているが、この「馬頭琴」という訳語を最初に考案したのは漢人ではなく鳥居きみ子であった可能性がある。これらは『土俗学上より観たる蒙古』に掲載されているが、これ以前にも音楽誌上で講演録や記事のかたちで発表されていた。この時代、海外、特に日本の勢力圏で行われた学術調査には、学問的な理由だけではなく、植民地統治に必要な現地人の社会構造を把握するという目的があった。しかし、鳥居竜蔵ときみ子の場合はこれに完全には当てはまらない。きみ子の植民地政策に対する意識は記述からは読み取れないし、龍蔵は保守的な政治思想の持ち主であったものの、学問を植民地政策実施に結び付けるような活動をすることよりも、日本の軍事行動拡大を最大限利用してでも自己の学問的営みを達成させるという、楽観的な一種の学問至上主義が彼の行動原理であったという(山路2006)。ただ時代の背景は日本の拡大主義と学問が結び付いていく傾向にあった。鳥居きみ子はモンゴルの古い部類の民謡(オルティン・ドーのこと)の緩慢な節回しと日本の追分のそれが似ていることを「発見」する(鳥居1927 p.1138)。きみ子はこの「事実」を指摘するだけに終わったが、これは後に戦後にも古代において日本とモンゴルが何らかのつながりを持っていた可能性を示す証拠として語られることになる。 東京に鳴り響くモンゴルの調べ 1930年代からモンゴル音楽について書かれたものが増え、一般にも認知される機会ももたれるようになる。1938年2月、読売新聞社主催のもと東京日本橋三越にてモンゴルおよび中国の展覧会が催されたが、この展覧会と連動して会期中の1ヶ月間、三越のホールでモンゴル人音楽家が一日二回の公演を行った(瀧1938b p.71)。彼らは総勢10名でスニットおよびアバガの王府の宮廷楽人だった。来日の経緯に関して詳しくは分からないが、日本でのモンゴル文化の周知を望む蒙彊自治政府の意図が働いていたようだ。等々力2005によれば三越以外でも各地でコンサートを行い、鳥居きみ子の著書とあいまって日本でもモンゴル音楽が認知されるようになってきたという。そういえば1940年に発表された東海林太郎ら作詞の歌謡曲《蒙古の町》には「馬頭琴」の言葉が登場する。この演奏会の記事を書いた瀧遼一は中国古典音楽の研究者だったのだが『蒙古学』誌上に「蒙古の音楽について」と題する記事を書いている。これが日本におけるモンゴル音楽の初めてのまとまった論考で、彼はこの他モンゴル関係では『史学雑誌』誌上に匈奴の軍楽について「匈奴の音楽としての鼓吹楽」などを書いている(当時元代の音楽と楽器についても発表する、としているが見つからない。結局発表しなかったのだろうか)。瀧はモンゴル音楽の古い時代資料をモンゴル人がほとんど残してこなかったことから、現在ある音楽文化の分析から歴史を研究する必要を説いた。瀧もそうだがモンゴル音楽の発展の重要な要素として漢人音楽文化以外に元朝時代に受けた西アジア、イスラム圏の音楽の要素が強調されていた、という点がこの時期の研究の特徴である。中国音楽研究者だった瀧がモンゴル音楽研究も行った動機は定かでないが、このような研究がどんな場で行われたのかは注目に値する。瀧の「蒙古の音楽について」、少しなりともモンゴル音楽に関係するものでいうと、ウラディミールツォフのモンゴル口承文芸論の翻訳やポッペの記事の翻訳、印南高一のツァムの記事、ブリヤート音楽についてソ連で出たものの翻訳など多くの記事が善隣協会の出版物に発表された。善隣協会は1934年設立の財団法人で、陸軍大将林銑十郎の肝煎りで財閥からの財政支援のもと生まれ、敗戦による解消まで「蒙彊」で活動した典型的な国策機関であった(原山2005 p.371)。善隣協会は『善隣協会調査月報』、『蒙古』、『蒙古学』などの定期刊行物、そのほかいくつかのモンゴル関係の著作物を出版していた。もちろん音楽研究の面からもアジア音楽研究の要請があったわけだが、出版界が「プロパガンダもの」の出版ラッシュであったこの時代(吉見2002 p.94)、モンゴル文化に関する研究の背後にも国策の影響が見え隠れするのである。 研究以外で、株式会社満洲弘報協会から『蒙古の民謡と伝説』という小冊子も発売されている。これはそれ以前に鳥居きみ子らが書いたものに基づいて、民謡の訳詞、楽譜や民話が載せられ、それに満洲で取材した写真や編者の解説などをつけたもので、観光案内書の一種のようなものであった。満州国の正当性、そこでの日本の貢献度をアピールするために「観光楽土」として旅行宣伝が盛んになされた時代の産物である。 大東亜の音楽文化 大東亜共栄圏はアジアを欧米列強の植民地から解放するという目標を掲げながらも、実態を見ると、独立は口約束に終わったか日本に都合のよい人事の政権の樹立しかなされず、日本のための収奪的経済ブロックとなっただけで、旧宗主国のより少しはましという程度のものだった。このような中で、政治と芸術という問題をみてみるならば、前衛的な技法が抑圧されていった絵画や、言論統制、思想統制の標的となった文学がある一方で、音楽創作に関しては政治の側は「ほとんどの音楽様式を排除せず、「帝国」を気どった無限抱擁以上のヴィジョンもなく、ただ雰囲気としては、日本的なもの・東洋的なもの・アジア的なものへ向かおうとしているうちに敗戦を迎え」たという(日本戦後音楽史研究会2007 p.59)。一方でプロレタリア音楽団体は弾圧の対象となり、ジャズ音楽が禁止され、占領地域懐柔のための「音楽工作」が行われた。中でも民族音楽研究は、音楽工作と分かちがたく結びついていたといってよい。 アジアへの興味の高まりの中で最も活躍した音楽学者の一人に田辺尚雄がいる。彼は東洋音楽学学会の設立者の一人である。彼の編纂したSPレコード『東亜の音楽』およびその解説をもとに彼が執筆した著書『大東亜の音楽』(文部省教学局の叢書の一冊として刊行)、東洋音楽学会編のSPレコード『大東亜音楽集成』にはモンゴル音楽が取り上げられている。これ著書『大東亜の音楽』などでは田辺独自の考察というものはほとんど見られず、上述の瀧の論考を踏襲した内容だっただが、モンゴル人民共和国における社会主義政権下で伝統音楽が欧風化と衰退していくことを推測・批判しつつ、内モンゴル音楽文化の日本の指導下での繁栄を主張している。そしてモンゴル音楽が大東亜文化建設の中で重要な役割を演じるよう期待している(田辺2003 pp.116-117)。田辺は音楽科学を打ち立てることで、日本の音楽学研究に大きな足跡を残した。しかし彼は戦時中の研究において、アジアの諸民族の音楽が太古において起源を一にすると主張しアジア内の紐帯を強調しつつ、また西洋の音楽を技術だけの音楽に堕したものとし、東洋の音楽を精神的豊かさを保った西洋音楽に優越するものだとした。一方でアジアの様々な音楽を吸収、日本固有の音楽と融合することで発展した雅楽を擁する日本音楽を、「一面に於ては東亜音楽の集大成であり、一面に於ては世界音楽の集成」(田辺1997)と位置づけた。田辺の「日本音楽の源泉をアジアに結びつけながらも、同時代のアジアと同等になろうとせず、アジアの代弁者たろうとした態度」は「屈折したオリエンタリズム」と指摘できるという(鈴木2005 p.47)。田辺のこの態度はしかし一定の支持を得ていた。コロムビアのレコード『東亜の音楽』は彼に共感した大政翼賛会、軍部の協力なしには刊行できなかった。 この時代アジア進出の時流に乗っかったかたちで作曲家たちが「アジア」を主題とした作品を数多く書いたが、この中にはモンゴルを主題とするものが含まれている。内田2008によれば、モンゴルをテーマにした歌謡曲が1933年ごろより増え始めるという。これは歌詞に現れる異国的なモチーフを除けば、歌詞全体の構造も旋律も日本的な叙情歌、あるいは旅情歌の系譜に属するもので、所謂「大陸メロディ」(古茂田ほか1995)と呼ばれる歌謡曲の一部である。これらの歌により「ゴビの砂漠」、「隊商」、「ラマ塔」などのモンゴルを想像させる、今聴くと《月の砂漠》的なオリエンタリズムに満ちたモチーフがレコード、ラジオなどで多くの人に聴かれた。その流れは所謂「クラシック音楽」の範疇にも及び深井史郎の《ビルマ祝典曲》や伊福部昭の《フィリッピン国民に贈る管弦楽序曲》のように、日本の支援の下の「独立」の祝賀行事のため内閣情報局が委嘱した作品から、西洋に比肩しうる東洋音楽をつくるという問題意識と、日本のアジア進出の時流への迎合が結び付いた早坂文雄の《讃頌祝典之樂》や台湾出身の江文也による《故都素描》のような作品まで様々ではあったが、モンゴルに関係する作品もいくつかある。1940年の紀元2600年奉祝行事は音楽界では、西洋の超克としての民族主義的な新しい音楽作品を広く発表する格好の機会と捉えられ、アジア・日本を主題とする力作が数多く生まれたが、その中には山田耕筰の音詩《神風》という蒙古襲来を描いた管弦楽作品をもあった。自らの意思で民族主義的な作品を模索していた多くの作曲家たちと、漫然とアジア主義を目指す国策が合致したのだった。特に新京音楽院は1944年から「闘ふ満洲」という統一テーマのもと満洲の国民主義的音楽作品の創作を作曲家たち、特に内地の作曲家に依頼した。満洲の首都新京の楽団を統制し、満州国の国策を音楽面から実現させる組織として設立し、途中から協和会も一枚かんでいて理事長は甘粕正彦だった。これら委嘱作品はただ作品を依頼しただけではなく、作曲家を実際に満洲に招いて視察旅行をさせた上で作品を書いてもらおうというものだった。諸作品のうち、モンゴルをテーマにしたものは大中寅二《成吉思汗廟に捧げる曲》、《蒙古青少年に贈る小組曲》、大木正夫《蒙古》、早坂文雄《民族絵巻(第2楽章が“蒙古の草原”、他に“娘々廟会”、“ラオスの子守歌”といった楽章をもつ「大東亜共栄圏」の音によるパノラマを意図した作品)》がある。さらに満州国がらみでは、日本における軽音楽の第一人者紙恭輔が自ら音楽を担当した満洲映画協会の文化映画《逞しき草原》の音楽を交響詩に仕立て直した《ホロンバイル》がある。また大連に住んでいた経験を持つ作曲家呉泰次郎は自らの交響曲第6番《亜細亜》の第3楽章を“蒙古の成吉思汗”とした。 そもそも満州国では、「闘ふ満洲」前段階として満州国各地の諸民族の音楽の蒐集を行っていた。ようするに「闘ふ満洲」の事業は日本本土でNHKが日本各地の民謡を蒐集し、そのアーカイブを作る一方で、作曲家に蒐集した民謡を素材とした日本国民のための管弦楽曲「国民詩曲」を作らせたことの満州国版であったわけだ。満州国の民謡蒐集事業には「今の金にして数億という予算」(岩野1999 p.274)がついたそうで、モンゴル系諸族のものも集められた。その成果として、新京で建国10周年を記念して行われた「建國十周年慶祝藝文祭」上で15の民族の芸能が披露された。これは「大東亜音楽確立のための重大な役割を持つ」(村松1943 p.42)とされ、調査の成果も採譜、レコード化の上、解説をつけて世界各国の音楽団体や放送局に寄贈する計画があったが、戦争の激化により中断、ソ連軍侵攻の際、レコードの原盤は放送局の庭に穴を掘って埋められてそれっきりだという(岩野1999 p.275)。 そのレコードを聴いた黒田清がモンゴルの民謡と日本の追分の類似性について、『音楽之友』誌上の「南方共栄圏の音楽工作」と題した座談会で、「大東亜共栄圏」内の音楽の普遍性を探るべき、という文脈の中で語っている(石井ほか1942)。田辺も上記の書の中で当然このことに触れている。このような音楽の類似性をアジア内の文化的結びつきにひきつけて語ることは、この時代大きな意味を持つようになっていた。ジャワ島にエス・リリンという民謡がある。この民謡は旋律の骨格だけで見れば日本民謡とそっくりである。もちろん歌い方や音の装飾がまったく違うので、田辺尚雄らは日本民謡とジャワ民謡の関係を否定した。しかしこの「事実」は雑誌などで一部の話題になり、しばしば日本・ジャワの古代の人種的結びつきにまで言及され、日本のインドネシアに対する影響力行使を正当化する言説のひとつとなったという(片山2005)。音楽の類似から同祖論、そして侵略の正当化の言説、という流れが起こりうる時代であった。 おわりに 戦後しばらくはモンゴルへの興味そのものへの低下から、モンゴル研究に戦前、戦時中のような隆盛は見られなくなった。モンゴル音楽について単発的にいくつかの著作物が出ている。東北民謡の研究者であり復興者であった武田忠一郎は内モンゴルからの留学生に民謡を歌ってもらい、それを採譜した。彼もまたオルティン・ドーと追分の類似性の「発見」に驚いている。服部龍太郎は『モンゴルの民謡』を著す際ハスルントらの蒐集、研究の成果に多くをよっていたが、彼自身父親が満洲の日本人貿易商で、幼少時代からその地で過ごしていた。戦後の民族音楽学のスターとなった小泉文夫もシルクロード音楽舞踊考察団団長としてモンゴル音楽の調査も行い、またノロブバンザドらモンゴル人音楽家の招聘も行い、モンゴル音楽を(もちろんそれだけではなくあらゆる民族音楽を、だが)広く日本に紹介した。しかし彼もまたオルティン・ドーと追分の類似性に着目し、それに江上波夫の「騎馬民族国家」論によって根拠を与えようとした。彼は日本民謡のうち明確な拍節を持たず母音を引き伸ばす歌唱法の追分節のような民謡を「追分様式」と名づけ(小泉1994)、この類似が中央アジアにもあるとして、馬文化の伝来と馬子唄であるこの民謡形式の起源を結び付けようとしていた。彼の研究はそのあまりの多忙さ(これは小泉が研究だけでなく諸民族の音楽を広く一般に紹介する役割をも担ったからだが)と早世さゆえ未完成で講演録などのかたちでしか残されていないものも多い。彼のモンゴル音楽に関する論考もその類であるので一般の日本人へのアピール度を上げるためかもれないが、小泉の論考もまた日本音楽のアイデンティティの探求、つまり日本音楽の起源を説明するためにアジアの音楽を研究するという枠内を出なかった。 繰り返されたオルティン・ドーと追分の類似性は結局ほとんどの研究においてモンゴル音楽は、特に民謡の旋律に関しては、日本音楽との音楽的類似性がその生活文化の文脈から理解するよりも重要視されて語られ続けた。そしてそれはしばしばモンゴル人と日本人の同祖論的言説に結び付けられた。その系譜は戦前のモンゴル音楽の研究から戦後まで長く続いたのである。 参考文献 G.Arkhincheev/小川信吉訳(1941)「ブリヤート蒙古演劇音楽学校」(『蒙古111』、善隣協会、pp.99-104) 石井文雄/笠間杲雄/枡源次郎/黒田清/箕輪三郎/堀内敬三(1942)「南方共栄圏の音楽工作 <座談会>」(『音楽之友 第2巻第4号』、pp.20-37) ルイク・イシドール/高橋勝之訳(1941)「ブリヤート蒙古の民族楽器」(『蒙古114』、善隣協会、pp.59-62) 印南高一(1940)「喇嘛舞踊見聞記」(『蒙古97』、善隣協会、pp.101-114) 岩野裕一(1999)『王道楽土の交響楽 満洲―知られざる音楽史』、音楽之友社 内田孝(2008)「戦前・戦中期におけるモンゴルを題材とした流行歌謡―日本人のモンゴル・イメージを探る―」(2008年度秋季日本モンゴル文学会研究発表会口頭発表) ベ・ウラヂミルツオフ著/宮崎眞道訳(1938)「蒙古・オイラート英雄詩史・序(1)-(3)」(『善隣協会調査月報69-71』、善隣協会) 岡田真紀(1995)『世界を聴いた男 小泉文夫と民族音楽』、平凡社 岸辺成雄(1943)「回教音楽東漸史考-元朝の回教楽器」(『回教圏7 4』、回教圏研究所、pp.31-46) 小泉文夫(1994)『日本の音 世界のなかの日本音楽』、平凡社 小島美子(1985)「モンゴル民謡は江差追分のルーツか?」(文化庁文化財保護部 監修『月刊文化財』、第一法規出版、pp.29-32) 古茂田信男他編著(1995)『新版 日本流行歌史 中=1938~1959』、社会思想社 子安宣邦(2003)『「アジア」はどう語られてきたか―近代日本のオリエンタリズム』、藤原書店 芝山豊(2008)「《蒼き狼》とオリエンタリズム」(清泉女学院大学人間学部研究紀要編集委員会『清泉女学院大学人間学部研究紀要(5)』、pp.29-41) 鈴木聖子(2005)「近代における雅楽概念の形成過程」(文化資源学会『文化資源学 第4号』、pp.41-49) 瀧遼一(1937)「匈奴の音楽としての鼓吹楽」(史学会『史学雑誌48 7』、pp.136-137) 瀧遼一(1938a)「蒙古の音楽について」(『蒙古学3』、善隣協会、pp.17-54) 瀧遼一(1938b)「蒙古音楽と其楽器」(『東洋音楽研究1 2』、東洋音楽学会、pp.71-75) 武田忠一郎(1951)「蒙古の唄--曲譜と解説」(『東洋音楽研究』東洋音楽学会、pp.147-154) 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片山杜秀解説(2005)『深井史郎・パロディ的な四楽章・ジャワの唄声他(日本作曲家選輯)』、Naxos/アイヴィ
https://w.atwiki.jp/mongolhugjim/pages/203.html
下の年表は《青木隆紘(2008)「《モンゴル音楽》の20世紀小史―モンゴル国音楽文化研究に向けて」(『日本とモンゴル 116』、日本モンゴル協会、pp.77-99)》の年表を大幅に改訂したものです。 モンゴル音楽関連簡易年表 年代 出来事 BC400~93年頃 匈奴がモンゴル高原を支配。匈奴軍は鼓吹楽という軍楽隊のようなものを持っていた。またモンゴル国中央県アルタンボラグ郡からは匈奴時代の骨製口琴が出土。 2~3世紀頃 蔡琰(蔡文姬、177?-239?)が自身の運命を綴った詩『胡笳十八拍』(後世の創作説あり)で南匈奴のツォールと思われる管楽器について歌う。 554~559年 この期間に成立した『魏書』「高車伝」によると、紀元前3世紀頃からモンゴル高原に居住していたテュルク系の高車が狼の吠声のように「好んで声を引いて長く歌」っていたとの記述がある。 6世紀~11世紀 柔然、突厥、ウイグル、契丹、遼の音楽文化については断片的な情報しかない。 7世紀 ホブド県マンハン郡の突厥時代の洞窟墓より小型のサウン・ガウのような弦楽器が出土。 12世紀 チンギス・ハーンに仕えた楽士の逸話が『アルタン・トブチ(黄金史)』に出てくるとするモンゴル国の文献があるが、これは楽士ではなく弓使いの誤読である。 1271~1368年 『元史』によると、元朝(大元ウルス)においてモンゴル王家の祖先を祀る歌が祭祀で歌われたという。またこの時代にモンゴル王家が宮廷楽団を有した。モンゴル帝国時代オゴタイ・ハーンの頃から金国、宋の宮廷楽士を接収するなどして生まれ、元朝のフビライの時代には唐時代以来の宮廷楽部を受け継ぎ楽器の種類をそれまでの王朝にないほど拡大し、400~500人の伶人を抱えるまでになった。一部がリグデン・ハーンにまで受け継がれたという説もある。 1644年~20世紀 清朝時代、有力なモンゴル王侯は「年班」という制度により北京に定期的に赴き駐在し、北京の宮廷文化を持ち込んだ。モンゴル王侯貴族は楽人を有し、式典や宴の際に演奏させた。歌謡の伴奏の他に「アサル」と呼ばれる歌のない楽器のみによる器楽合奏を行っていた。チベット仏教寺院でのツァム(チャム)上演が広まる。 18世紀 高僧ロブサンノロブシャラブ(1701-1768)が、サイン・ノヨン・ハン部のガロートと、内モンゴルのオルドスの寺院に合唱の学校を設立、仏教音楽やオルティン・ドーを教授。 19世紀 東部モンゴルの王公トグトホトゥル(1797-1868)、歌踊音曲の塾設立。領内から才能ある子供を選出し教育。 1831年頃 北ゴビの第5代ノヨン・ホトクト(活仏)・ダンザンラブジャーがチベットの仏教文学の翻訳『月郭公の伝説』 を戯曲化、音楽、曲芸付の劇として上演。 19世紀末~20世紀初頭 清朝の辺境への漢人入植政策進む。外国人貿易商らがマンドリン、アコーディオンなど西洋楽器を持ち込み、一部のモンゴル人に伝わり始める。イフ・フレー(現ウランバートル)では伝統音楽の演奏家たちはアムガランバートル(漢人居住区)に多く居住し、漢人劇の伴奏などをしていた。 1911年 12月、モンゴル清朝より独立、ボグド・ハーン制モンゴル国独立宣言 1912年 クーロンに初の国民学校設立。ボグド・ハーン政府、軍楽隊の導入を決定、帝政ロシア政府からも支援を受ける。 1914年 ボグド・ハーン宮殿直属の西洋式軍楽隊が設置され、ロシア人A.S.コリツォフの指導の下、隊員は楽譜を習得しロシア人A.V.カドレツの作曲したモンゴル国歌を演奏。 1915年 5月キャフタ会議により外モンゴルは中華民国が宗主権を持つ「自治」に変更。 1917年 10月ロシア革命。 1919年 11月軍閥が外モンゴル侵入、中華民国に対し「自治返上」を決定させられる。 1920年 春、モンゴル人民党結成。10月ウンゲルン軍侵入。 1921年 3月のキャフタ解放の際、キャフタを根拠地とする革命軍の間でモンゴル初の近代歌曲とされる《キャフタの砦》が歌われるようになる。7月革命軍・ソヴィエト軍フレー解放、人民主権の立憲君主制政府成立。8月ロシア人革命家の指導下に「青年革命同盟」結成。 1922年 A.S.コリツォフに依頼し人民軍の軍楽隊員の教育始まる。 1923年 2月D.スフバートル死去。7月人民革命党第2回大会において、各部署協力して、映画、劇、舞踊、音楽を活用して人民に世界情勢、科学などについての教育を行うことを決議。地理学者、音楽学者S.A.コンドラーチェフ(1896-1970)、モンゴルで民謡調査を行う(~1924年)。 1924年 5月ボグド・ジェブツンダムバ活仏死去。第3回党大会でS.ダンザンら処刑とダムバドルジ執行部選出、「非資本主義的発展の道」による社会主義国家建設を決定。コミンテルン代表ルイスクロフ着任。11月第1回国民大会議で人民共和国宣言、憲法批准。12月スフバートル名称中央クラブ設立。 1926年 移動音楽演劇部隊活動開始。ロシア科学アカデミーの決定によりS.A.コンドラーチェフ、再度モンゴルで、今度は録音機を持込んで調査。 1927年 10月人民娯楽場(緑のドーム)建設。この建物では劇などの他、国会も開催された。 1928年 人民革命党第7回党大会にて、モンゴル人民革命党第7回党大会にてダムバドルジ執行部「右翼偏向」として失脚、代わってゲンデン執行部組織。同時に全戯曲の検閲、音楽および演劇サークル改組、その活動の政治的文化的な向上、不適切な内容の劇の全面禁止等が決議される。 1929年 革命作家グループ結成。11月ソ連より指揮者V.A.リャリンを招聘し人民軍軍楽隊を正式に組織。 1930年 叙事詩の語り手O .ロブサン、音楽と口承文芸の記録のためウランウデ文化専門学校に招聘される。 1931年 8月演劇スタジオ(演劇サークル)をプロ化し、国立中央劇場として組織(音楽家を含む)。モンゴル・ラジオ設立。9月満州事変勃発。 1932年 急激な農牧業集団化に対しラマ、牧民らの大暴動。6月新転換政策発表。12月人民軍歌舞団設立。 1933年 政治家、歌手、作曲家のM.ドガルジャブ(1893-1946)、リムベ奏者L.ツェレンドルジ(1908-1990)らモスクワの芸術オリンピアードに出場、スターリンの前で歌い、更にモンゴル人として初のレコード録音も行う。P.M.ベルリンスキー(1900-1976)著『モンゴルの音楽家ロブサン・ホールチ』モスクワで出版。 1934年 モンゴル初の民族歌劇《悲しみの三つの丘》(D.ナツァグドルジ作)上演(ただし旋律は流行歌を流用)。M.ドガルジャブ、雑誌『モンゴル民族文化の道』に「民族音楽をどう発展させるかについて」という記事執筆。モンゴル初の大規模工業施設である工業コンビナートの建設始まる。9月モンゴルラジオ放送開始。10月芸術監督局設置。12月人民軍歌舞団が軍中央劇場に名称変更。 1935年 M.ドガルジャブら楽譜『モンゴルの歌選集』を出版。満州里会議開催。最初のネグデル設立。5月人民教育省管轄下に俳優・監督・歌手・音楽家臨時学校設立。 1936年 3月ソ連モンゴル相互援助協定調印。12月ソ連でスターリン憲法制定。1936年~ スターリン大粛清。モンゴル国初の映画『モンゴルの息子』封切。 1937年 秋より「ゲンデン=デミド反革命陰謀事件」を契機に、チョイバルサンら親ソ派による大粛清が行われる。人民教育省管轄下に芸能学校設立。ズーン・フレー寺で戦前最後のツァムが執り行われる(フィルムに記録)。 1938年 1月モンゴル初の鉄道がウランバートル―ナライハ炭鉱間に開通。同月ハルハ廟事件。当時国立中央劇場長だったL.ツェレンドルジ逮捕(1940年釈放)。2月東京日本橋三越等で読売新聞社主催で行われたモンゴル展に際し、スニットとアバガの王府の楽人を招聘、レコード録音も行う(1942年日本国内で発売)。 1939年 5月/7月ハルハ河戦争(ノモンハン事件)。 1940年 第二次モンゴル憲法採択。ソ連でラテン文字化推進からキリル文字化への政策転換。ツェデンバル、党第一書記に就任。3月モンゴル人民革命党第10回大会にてチョイバルサンが音楽を含む各種芸能の国立学校を設置する計画を報告。8月サーカス学校設立。作曲家、音楽学者B.F.スミルノフ(1912-1971)、ソ連より着任、西洋音楽理論や、民族楽器奏者に西洋楽器を教えるなど音楽指導を行う(~1946年)。 1941年 3月モンゴルでもキリル文字採用を決定。M.ドガルジャブ、トヴァ人民共和国大使から帰任直後に逮捕、投獄。7月国立サーカス設立(そこでモンゴル初のジャズ・バンドが演奏)。 1942年 作曲家B.ダムディンスレン(1919-1992)、B.F.スミルノフと共作で民族オペラ《悲しみの三つの丘》を新たに作曲(初の本格創作オペラ、Ts.ダムディンスレンにより結末を変更)。内務大臣令により辺境・内務省歌舞アンサンブル設立。 1943年 F.I.クレシコがソ連より派遣され声楽指導を行う(~1946年)。 1944年 7月アメリカ副大統領ウォーレスがモンゴルを訪問。トゥバ人民共和国、ソ連へ併合。 1945年 ヤルタ協定で「モンゴルの現状維持」規定。第二次世界大戦終結。1月雑誌『アマチュア芸能者への手助け』発刊。4月閣議により国立エストラーダ設立。5月人民革命党中央委員会書記協議会にてアマチュア芸能オリンピアードを中央と全国で行うことを決定。11月映画《ツォクト・タイジ》封切(音楽担当B.F.スミルノフ)。 1946年 中国国民党、モンゴル人民共和国独立を承認。2月M.ドガルジャブ獄中で死去。7月革命25周年全国アマチュア芸能コンテスト開催。 1947年 人民革命党第11回大会において第1次国家経済文化発展5ヶ年計画を承認。国立中央劇場を音楽ドラマ劇場に改組。B.ダムディンスレン、劇《こんな一人のハーンがいた》の音楽によりチョイバルサン国家賞受賞。プラハで開催の第1回世界青年学生祭典にモンゴル国の俳優、音楽家が参加。 1948年 国立エストラーダにジャズ・バンド組織。作曲家L.ムルドルジ(1919-1996)、歌曲《パルチザン・チョイバルサン》作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。朝鮮民主主義人民共和国と国交樹立。ドルノド県に国立音楽ドラマ劇場設立。 1949年 1月国立音楽ドラマ劇場(旧人民娯楽場、緑のドーム)火事で焼失。 1950年 国歌制定(Ts.ダムディンスレン作詞、B.ダムディンスレン/L.ムルドルジ共作)。東欧各国と国交樹立。音楽舞踊中学校を劇場音楽中学校に改組。5月人民軍模範軍楽隊がG.ビルワー中心に結成される。12月国立エストラーダ演奏部門を民族歌舞団に改組。この頃よりソ連、東欧圏、中国、北朝鮮などへ留学する音楽家が増え始める。 1951年 国立劇場(現オペラ・バレエ劇場の建物)完成(日本人抑留者も建設に携わる)。B.ダムディンスレン、L.ムルドルジ、国歌作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。 1952年 1月チョイバルサン死去。5月ツェデンバル首相就任。 1953年 辺境・内務省歌舞アンサンブルを人民革命軍アンサンブルに統廃合。 1954年 作曲家・合唱指揮者D.ロブサンシャラフ(1926- )、ホブド県芸能旬間でホーミーを使った合唱曲《アルタイ・ハン讃詞》発表。第2次5ヵ年計画承認。 1955年 7月初等教育の完全義務化。シェークスピアの『オセロ』、モンゴル初演。 1956年 2月ソ連でフルシチョフ、スターリン批判の秘密報告。4月モンゴル人民革命党中央委員会第4回総会でチョイバルサン批判。人民革命党政治局が民族音楽の研究、刷新、振興を決議。12月バヤン・ウルギー県に音楽ドラマ劇場設立。 1957年 「知識人の迷妄」事件発生。12月20日モンゴル作曲家同盟(~現在)結成(初代委員長・作曲家S.ゴンチグソムラー(1915-1991))。モンゴル国立放送交響楽団(現国立フィルハーモニック交響楽団)設立。モンゴル初の本格的バレエ上演が行われる(作品はB.V.アサフィエフ作曲《バフチサライの泉》(1933-1934))。劇場音楽中学校を音楽舞踊中学校に改組。科学委員会が科学・高等教育委員会に改組。ソ連でフルシチョフ派勝利。 1958年 L.ツェレンドルジ名誉回復。ネグデル組合員制度制定。 1959年 9月第1回国際モンゴル学者大会開催。G.リンチェンサムボー著『モンゴル民謡の種類』出版。 1960年 科学・高等教育委員会よりB.ソドノム(1908-1979)『モンゴルの歌の歴史より』、G.バドラハ(1894-1938)『モンゴルの音楽の歴史より』出版。バヤンウルギー出身の音楽家J.ヒバトドルダ(1921-1993)にカザフ民族オーケストラ設立時の功績等により人民芸術家の称号授与。S.ゴンチグソムラーが国立ラジオに勤務し、西洋クラシック音楽の紹介番組を始める。第三次モンゴル人民共和国憲法批准、社会主義国家であると明記。農牧業集団化完成、コメコン加盟。この頃よりラジオが全国的に普及、また70年代にかけて都市化進む。 1961年 S.ゴンチグソムラー、バレエ《ガンホヤグ》の作曲によりチョイバルサン国家賞受賞。5月モンゴル科学アカデミー設立。7月民族歌舞団付属民族大オーケストラが革命40周年記念演奏会で演奏を初披露。10月ソ連でスターリン再批判。同月モンゴル人民共和国、国連加盟。 1962年 1月人民革命党中央委員会第2回総会でチョイバルサン再批判。5月科学アカデミー主催チンギス・ハーン生誕800周年記念大会開催。9月党中央委がこの記念大会に関わった政治局員D.トゥムルオチルを解任。M.ドガルジャブ名誉回復。 1963年 人民革命党が中国を公式に批判。1月第1回全国イデオロギー宣伝員会議開催。国立ドラマ劇場を建設、音楽ドラマ劇場は国立ドラマ劇場(演劇)と国立オペラ・バレエ劇場に分離改組。オペラ・バレエ劇場杮落としの演目はP.I.チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》。D.ロブサンシャラフ、歌《ヘルレン川》、讃歌《母国、揺るがぬ地》作曲により国家賞受賞。B.スミルノフ著『モンゴルの音楽文化』モスクワで出版。 1964年 11月25-26日、第1回モンゴル作曲家大会開催。民族歌舞団付属民族楽器工房設立。ソ連でブレジネフが第一書記就任。 1966年 馬頭琴奏者G.ジャミヤン(1919-2008)、内外の作品の演奏により国家賞受賞。作曲家・指揮者J.チョローン(1928-1996)、内外の作品を指揮したことにより国家賞受賞。10月第1回指導的文化活動家全国会議開催。12月ポーランドで研修を受けたメンバーにより国立ラジオ委員会付属国立放送電子音楽団(後の国立フィルハーモニー付属バンド「バヤン・モンゴル」)結成。ゴビ・アルタイ県で「アルタイ歌舞団」結成。 1967年 首都でテレビ放送開始。ソ連より派遣されたヴァイオリン職人のD.V.ヤローヴォイが馬頭琴の大掛かりな改良を行う。 1969年 B.ダムディンスレン、オペラ歌手Ts.プレブドルジ(1929- )、民謡歌手N.ノロブバンザド(1931-2002)に人民芸術家の称号授与。6月詩人R.チョイノム逮捕。 1970年 9月第2回国際モンゴル学者会議開催。S.A.コンドラーチェフ著『モンゴル英雄叙事詩と歌謡の音楽』モスクワで出版。 1971年 作曲家・指揮者Ts.ナムスライジャブ(1927-1987)、歌《熱き身内のわが故郷》作曲により国家賞受賞。S.ゴンチグソムラー、指揮者・作曲家J.チョローンに人民芸術家の称号授与。国境警備隊歌舞団設立。D.バトスレン、J.エネビシ(1937- )共著『歌謡よりオペラに至りし道』出版。B.F.スミルノフ著『モンゴルの民族音楽』モスクワで出版。 1972年 7月20日国立フィルハーモニー設立、ジャズバンド「バヤン・モンゴル」や国立交響楽団が所属。12月7-8日、モンゴル作曲家同盟第2回大会開催。オブス県に音楽ドラマ劇場設立。L.ムルドルジに人民芸術家の称号授与。日本・モンゴル国交樹立。 1973年 カザフ共和国で開催の第3回アジア音楽シンポジウム席上でJ.チョローンの作品が入選。 1975年 作曲家G.ツェレンドルジ(1927-1974)、舞踊音楽の作曲により国家賞受賞。 1976年 第3回国際モンゴル学者会議開催。ダルハン市立音楽ドラマ劇場設立。フブスグル県に音楽ドラマ劇場設立。 1977年 12月15-16日、モンゴル作曲家同盟第3回大会開催、同同盟ユネスコ国際作曲家会議に加盟。バヤンホンゴル県に音楽ドラマ劇場設立。ロック・バンド「ソヨル・エルデネ」結成(~現在)。オペラ歌手G.ハイタフ(1926- )に人民芸術家の称号授与。モンゴル労働組合定期大会開催。 1979年 馬頭琴奏者G.ジャミヤンに人民芸術家の称号授与。 1981年 3月モンゴル初の宇宙飛行士グルラグチャーが人工衛星に乗り、モンゴル・ソ連共同飛行を行う。7月4日国立オペラ・バレエ劇場を国立オペラ・バレエアカデミック劇場と改称。モンゴル全人民大芸術祭開催。Ts.ナムスライジャブに人民芸術家の称号授与。 1982年 1月20日セレンゲ県で民族歌舞団「セレンゲの波」設立。「金色の秋」音楽祭開催(以降毎年新作発表の場として機能)。12月第1回「全国伝統芸術祭」開催(以後5年おきに伝統芸能「発掘」の機会として行われる)。教育法改正。第4回国際モンゴル学者会議開催。 1983年 12月6日党中央委員会政府決定および閣議決定により「国家一級芸術家」の称号を設定。ウリヤスタイ市に音楽ドラマ劇場設立。ヘンティー県で民族歌舞団「ハン・ヘンティー」設立。科学アカデミーから『モンゴル口承文芸選集』シリーズ刊行開始。 1984年 5月モンゴル作曲家同盟第3回大会開催。ダランザドガド市に音楽ドラマ劇場設立。N.ノロブバンザド国家賞受賞。Yu.ツェデンバル書記長解任。馬頭琴四重奏団が初めて結成される。 1985年 「民族音楽の祭典」開催。第7回アジア音楽連合をウランバートルで開催。ソ連でゴルバチョフが書記長就任。 1986年 人民革命党第19回大会にて初めて社会主義的中央集権経済制度の欠陥を指摘、経済改革、情報公開始まる。作曲家E.チョイドグ(1926-1988)、序曲《友好》、ドキュメンタリー映画《モンゴルの美しき国》等の音楽作曲により国家賞受賞。 1989年 作曲家D.バダルチ(1928- )、歌《ヘルレンの美しき地》、《子守唄》などの作曲で国家賞受賞。作曲家N.ジャンツァンノロブ(1948- )、映画《マンドハイ賢妃》の音楽作曲により国家賞受賞。N.ジャンツァンノロブ、R.エンフバザルら編『モンゴル音楽研究』出版。楽器職人D.インドゥレー、エヴェル・ブレー、大太鼓、各種ビシグールの製作により国家賞受賞。オペラ歌手Ts.プレブドルジに労働英雄の称号授与。10月第1回馬頭琴フェスティバル開催。12月10日初の民主化要求の集会が開かれ、そこに参加したロックバンド「ホンホ(鐘)」の《鐘の音》がデモ・集会等で盛んに歌われ始める。 1990年 3月民主化を求めるデモ・集会の結果、複数政党制へ移行。モンゴル初の音楽専門大学が開学。作曲家Z.ハンガル(1948-1996)、《弦楽四重奏曲》、《ヴァイオリン協奏曲》等の作曲により国家賞受賞。第1回ダムディンスレン記念 歌劇《悲しみの三つの丘》配役コンクール開催。 1991年 文化教育専門学校を文化専科大学に改組。J.エネビシ著『音楽の伝統の革新の諸問題』出版。12月ソ連崩壊。 1992年 1月国号を「モンゴル国」とする新憲法制定、第1回総選挙で人民革命党圧勝。7月政府命令によりモンゴル国立馬頭琴交響楽団設立。モンゴル国立文化芸術大学開学。作曲家B.シャラフ(1952- )、《第2交響曲》等作曲により国家賞受賞。 1993年 作曲家Ts.ナツァグドルジ(1951- )、歌劇《雲の運命》等作曲により国家賞受賞。 1994年 国立オペラ・バレエアカデミック劇場が国立古典芸術劇場と改称。民族歌舞団を全軍歌舞アンサンブルに改組。国立文化芸術大学創設。 1995年 音楽舞踊中学校のカリキュラムを刷新し、ゴンチグソムラー記念音楽舞踊カレッジに改組。 1996年 N.ノロブバンザドに労働英雄の称号授与。作曲家Ts.チンゾリグ《夢のゴビ》他の歌謡曲やオペラ、オラトリオの作曲で国家賞受賞。第1回ゴンチグソムラー記念全国ピアノ弦楽器コンクール開催。第1回セウジド記念民族舞踊コンクール開催。第1回プレブドルジ記念声楽コンクール開催。 1998年 作曲家G.ビルワー(1916-2006)、大衆歌、映画音楽の作曲により国家賞受賞。J.バドラー(1926-1993)著『モンゴル民俗音楽』出版。 1999年 J.バドラー作詞、Ts.ナムスライジャブ作曲《熱き身内のわが故郷》が「世紀をリードした歌」に選ばれる。ガンダン寺で形式のみツァムを復元上演。第1回ツォグゾルマー記念ボギン・ドーコンクール開催。 2000年 作曲家Kh.ビレグジャルガル(1954-2008)、歌劇《お坊さまの涙》などの作曲により国家賞受賞。D.ロブサンシャラフに労働英雄の称号授与。 2002年 N.バガバンディ大統領により馬頭琴を尊重し振興する大統領令発令(各公的機関に馬頭琴を置く、など)。9月アマルバヤスガラント寺院でジャハル・ツァム復興上演。 2003年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルの馬頭琴が傑作の宣言を受ける。ホブド県にて第1回モンゴルホーミー歌手フェスティバル開催。9月ダシチョイリン寺にてフレー・ツァム復興上演。 2005年 ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」においてモンゴルと中国のモンゴル民謡の一形式オルティン・ドーが傑作の宣言を受ける。バガバンディ大統領により民族楽器大オーケストラを復元、拡張させる大統領令発令。作曲家N.ジャンツァンノロブに人民芸術家の称号授与。 2006年 大モンゴル建国800年を記念し、各種行事開催。作曲家S.ソロンゾンボルド《天の歌声》や交響曲などの作曲により国家賞受賞。3月ホブド県にてアルタイ英雄叙事詩ホーミー祭開催。第1回ロブサンシャラフ記念青少年合唱コンクール開催。 2007年 モンゴル作曲家同盟設立50周年記念大会開催。 2008年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」のリストに馬頭琴とオルティン・ドーが登録される。第1回ムルドルジ記念全国民族楽器コンクール開催。第1回国際馬頭琴フェスティバル開催。 2009年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にビー・ビエルゲー(西部の伝統舞踊)、ツォール(西部のホーミーと似た発声法の縦笛)と英雄叙事詩が登録される。作曲家B.ムンフボルド《箏協奏曲》などの作曲により国家賞受賞。 2011年 ユネスコの「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」に横笛のリムベが登録される。第1回「騎馬民族の万馬の先駆け」オルティン・ドーコンクール開催。 2012年 11月第1回B.シャラフ記念声楽民族楽器演奏コンクール開催。 2014年 4月2008年にホブド県で出土した7世紀突厥の楽器を元に「アルタイ・ヤトガ」を復元、国立歴史博物館で展示。 モンゴル音楽史を知るデータベース
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